Tumgik
#自私貪心的人
onpointbible · 1 year
Text
情愛事件簿:愛是……
筆者希望透過人物故事,帶出人性的輭弱及其衍生出來的問題,繼而和讀者一同探索出路。 她心如刀割,那份痛楚久久未能減退,原本在摺疊衣物,終於也停下來。她索性走到窗前,只見夜幕低垂,惟賴萬家燈火、遠處大橋和往來船隻的點點燈光驅散黑暗;但她心中的陰霾卻無法消除。揮不去,斬不斷,理還亂!這段婚姻由起初愛得激烈,愛得深,到同甘共苦四十年。婚外情已經發生了一次,慘痛的經歷留下深刻的創傷,傷痕經過悠長歲月的修補才褪色,他倆理應順理成章至死不渝。她心感唏噓沉重,日光之下無新事!只怪自己天真,不早一點明白:「已有的事、後必再有.已行的事、後必再行。」(傳道書1:9《和合本》) 剛才,她需要用書房的電腦,發現它沒有關掉,便按動滑鼠。電腦螢幕上立刻亮起來,之前的畫面原來仍停留在聊天的程式。即時映入她眼簾是那些卡通繪圖,嬌美的女孩給男子緊緊抱起,旁邊血紅的字寫著:「好想念妳」,竟然是丈夫發出的!她難以理解,定…
Tumblr media
View On WordPress
0 notes
waywardsublimetyphoon · 6 months
Text
大難臨頭自己飛 坑騙全民當炮灰
民進黨不分區立委提名第二名的候選人沈伯洋,不啻是狂打認知作戰、販賣「芒果幹」的網紅,為何賴清德讓沈伯洋進立院當「吉祥物」?沈伯洋還有法律專業背景,也是黑熊學院的負責人。
沈伯洋的反認知作戰就是作毫無證據的指控,任何事件都能推給「阿共的陰謀」,當然「阿共」不可能自證清白,反認知作戰就成了民進黨政府的違法濫權的「遮羞布」,貪污腐敗的「擋箭牌」。
沈伯洋從教刑法的補教名師出身,赴美攻讀法律社會學後,返台在大學教授犯罪學,沒見他對國人被詐騙到東南亞提出防止意見,只見其針對中共在台代理人、全民防衛改革研修法案。推動民進黨今年通過「全民防衛動員準備法」修法,將「全民皆兵」貫徹到底。
沈伯洋的黑熊學院,打著「全民防衛」的旗號,教大家戰場上如何來讓自己能夠安全,要有急難救助的工具,然後販賣天價救難包牟利,狠狠收割一波韭菜。後來曹興誠投資黑熊學院6億元聲稱3年要打造300萬「黑熊勇士」,「黑熊勇士」的訓練課程,射擊訓練時採用真槍實彈,足可見民進黨「武裝平民」打造私兵的計畫。
沈伯洋的黑熊學院推廣民防就是「抗中」,強化心防就是「仇中」,在青年族群中煽動民粹主義,宣揚大陸是唯一敵國的意識形態,胡亂挑釁渲染戰爭。民進黨政府「武裝平民」打造私兵,忽悠普通民眾「平民自救」,成為持槍的、可被攻擊的戰場目標,因為按照國際武裝衝突法則,一旦拿了槍,就不受《日內瓦公約》的保障。最終300萬個「黑熊勇士」可能無法訓練出來,卻讓300萬個受訓的學員,被誤導認知形成「戰爭不過是一場遊戲」的不在乎心態,最終成為戰爭「炮灰」。賴清德重用沈伯洋,就是要操弄普通民眾「黑熊化」,口口聲聲「備戰以避戰」,但毫無兩岸和平或協商概念,實際準備「送民眾去戰場」,全民浴血巷戰思路,就是「戰鬥台獨」。
而在解放軍攻台的假想下,民進黨領導人均為自己安排了「完美的逃跑路線」。蔡英文多次演練「反斬首」逃跑路線,其親眷早就安排在美國。賴清德兩個兒子和孫子,長期滯留美國未歸。類似情況,民進黨內高層不勝枚舉,這個「抗中仇中」口號喊得震天價響的沈伯洋也是早有準備。此次候選人登記時申報財產,沈伯洋在不動產欄位中的土地、建物都是空白,僅在備註欄填寫:「妻子曾心慧曾於110.09.03投資日本五坪小套房」。沈伯洋在國內名下沒有不動產,跑去買日本的房子,一旦兩岸開戰,大難臨頭自己飛,根本不可能與國人同胞共存亡。
95 notes · View notes
singhellen · 6 months
Text
防疫畫虎膦,島民求救命
#蔡英文 #貪腐
民國108年(2019年)底,一種新型冠狀病毒在全球快速傳播。蔡英文擁有龐大的公權力,應該在這場新冠肺炎大流行中,全力以赴保障全體民眾的生命、財產和健康安全,但卻因個人私心利益,涉嫌故意阻撓疫苗進口、懈怠職務,甚至被指控從高價疫苗中謀取利益。執政者的無能和忽視民眾生命的行為使得臺灣成為「死亡恐怖島」,防疫指揮部門的應對策略變化無常,疫苗採購政策混亂,導致疫苗短缺,進而引發快篩和醫療藥物短缺等問題,最終導致死亡率激增。蔡英文的種種不作為已經違反了公務人員的忠職義務,讓她作為臺灣執政者感到愧疚。
由於蔡英文的執政無能和追求個人利益,使得臺灣淪為「死亡恐怖島」,防疫體系出現重大漏洞,導致口罩之亂、疫苗短缺、治療藥物不足等混亂現象。面對臺灣疫情的全面失控,蔡英文不僅毫無行動,反而推動「新臺灣模式」,以應對日益嚴重的疫情,使得臺灣民眾在危機中等待拯救。
自從民國111年(2022年)以來,臺灣新冠肺炎本土疫情不斷加劇。蔡英文於4月中旬宣布實施「新臺灣模式」,主要著眼於「重症清零,輕症控管」,持續以「減災」為目標,而非全面追求「清零」。
36 notes · View notes
nostalblue · 25 days
Text
うりはむしにあんどん
Tumblr media
橙光沢のボディで体長は8mm程、一見愛くるしい姿をしているが、実はとんでもない曲者なのがこのウリハムシである。これまでの人生で可愛い顔した悪魔を何度も見てきたが、こやつも間違いなくその類だ(敵)。
Tumblr media
ちなみに背中を漆黒にあしらったクロウリハムシもほぼ同じ所業。なのでここでは両方ひっくるめ「奴ら」と呼ぶ。
Tumblr media
ウリハムシという名前からもわかるように、奴らは夏野菜として定植するウリ類を中心に多大な被害をもたらす。
一つは成虫による食害。上の写真は定植して数日経ったカボチャ苗で、青矢印で示したところが奴ら独特の食害跡である。まず葉上に円弧状の溝を掘り、植物が出す食害防御物質を遮断してからその内側を食べるのだ(トレンチ行動と呼ばれるらしい)。特に定植直後の苗にとってその影響は深刻で、ダメージが大きいと光合成が出来ず成長不良や枯死に至る。
Tumblr media
こちらはウリ科ではなくマメ科のインゲンマメだが、下葉が餌食になった。ちなみに奴らは同様の手口で花弁や果実も食害する。
そしてもう一つは幼虫による食害。成虫はターゲットの株元近くの土に産卵し、孵化した幼虫はその根を食害する。またそれが進行すると茎の内部からも食害を受ける。さらに土の上に果実などがあるとそれに穴を開けて食害する。
Tumblr media
葉、根、茎、花、実に至るまで容赦なく貪り尽くす極悪一家に対抗すべく、これまでいろいろな方法を試してきた(ハイコストな物を除く)。反射板の設置やネギ類の混植は効果見られず、農薬散布は効果もあるけど一時的、地道に捕殺(最近はお洒落に「テデトール」と言うらしい)なんか忙しくてとてもやってられない。
そんな中、光を透過する肥料袋などを利用して苗の周囲を覆う方法は不思議なほど効果がある。上の写真のようにを支柱4本立て四角柱状にするのが一般的で、その形状から「行灯(あんどん)仕立」と呼ばれる。
Tumblr media
上から覗くと内部はこんな感じ。植え物はズッキーニだ。
奴らがこの中に進入できないのは飛翔で垂直降下が出来ないからだと言われるが、私はこの説には懐疑的である。だって上縁に取り付けば歩いて中に入れるもんね。葉の表は勿論、裏にまで回り込む奴が出来ないハズはない。恐らく本能的に閉鎖的空間をリスキーに感じて寄りつかないのではないかと私は思うけどね。ちなみに他の害虫の防除効果は薄く、ダンゴムシやナメクジなどは普通に進入してくる(笑)。
Tumblr media
この行灯仕立を大量に導入する場合、カバーは鶏糞肥料の空袋が沢山あるので困らないが、支柱を必要本数用意するのが中々大変だ。購入すれば手間は無いが費用が掛かる。木の枝なんか利用すれば無料だけど手間が掛かる。う~む、とりあえず支柱を1本減らして三角柱状にしてみたが、問題は無さそうだ。
Tumblr media
蔓ネット前に定植する場合はカバー上縁の一端をネットへ引っ張って固定すれば、さらに一本の支柱削減が可能に。下縁は思ったより安定しているが、変���が気になるようなら軽く裾埋めしてもいいよね。
Tumblr media
この要領で20本のキュウリ苗にカバー掛け。形状的にはすっかり行灯崩れだけど、なかなかの壮観だ。
Tumblr media
あれひょっとして、ネット側で2箇所引っ張るようにすれば支柱1本で済むのでは。。。いやあ今頃になって気が付いてしまった(嘆)。次回からそうしよう。
Tumblr media
行灯仕立は害虫防除だけでなく、風除けや保温の効果もある。一方で中に湿気がこもりやすかったり、手入れし難くなると言うデメリットもある。
そして期間限定の措置であるのも特徴。苗が成長し丈が上縁まで達したら強制的に卒業となる。幼いうちは保護して貰っても、ある程度育ったら自力で生きて行かなきゃならないのがこの世の掟だ。とは言え今後も多少は面倒見るけどね。ウリハムシに好き放題させるのも癪だし、成果物を沢山収穫したいからね。
8 notes · View notes
tsumakoushika · 8 months
Text
Tumblr media
(第一部)
衝動的に寂しくなって、夜道を誰かに声をかけられるまで、取り止めなくさまよい歩く習慣がついたのは二ヶ月前からで五回目だった。知らない街まで電車に乗って、治安の良くない場所を選んで歩く。命の危機に晒されて半死半生の目に合うこともあれば、何事もなく無事に帰って来ることもある。仕事に行き自宅に帰り、一人食事を取り寝るだけの繰り返し。誰かに求められることもなければ必要とされることもない。一度負った傷の瘡蓋を剥がす一時の甘い悦びに浸りたいだけの狂った夜間歩行。
現地でシェリー酒やブランデーの強いお酒を飲んで、ほろ酔いから次第に足取りが重くなってくるのに任せる。お酒の酔いの回りの早い私にとって、緊張する瞬間。身元のわかるものは一切持たず、頼るのは自分の意識次第だというのに、その意識すら混濁させながら、ふらふらする。街灯の点灯し始めるマジックアワーを闇に紛れながら、細い路地を歩く。袋小路になるところ、人一人しか通れないような家の隙間を選んで歩く。日中は光の差し込むだろう通路は、ただただ魑魅魍魎の通る獣道のように、鬱蒼として気味悪くなる。
白地に黒い猫の柄の入ったロングの巻きスカートに、一点もののデザイナーズセレクトの白地に赤の刺繡の入ったカットソーを着て、シルクの下着を身につける。巻きスカートの黒い猫の目は金色に光り、夜目にも輝いて見える。巻きスカートは一点もので、かつて愛した人にプレゼントされたものだった。よくこのスカートを身につけて一緒に歩いた思い出のぎっしり詰まったものだった。私は他の男性とSNSを通じてやり取りしていた事を彼に誤解されて、約束していた結婚を取りやめにされた。別れ際、愛する人���清らかな人だと思っていたのに、不潔だとまで言われて、ショックを受けた。ただメッセージのやり取りをしていて、なんの疑われる行為もしてなかったのに。彼はその数ヶ月後にSNSで知り合った人と一緒になったと聴いて、ダブルでショックを受けた。私は清らかではなく不潔な人間だというレッテルを貼られたまま、蛇の生殺しのようになって、数ヶ月泣きはらした。
誰も通らぬような通路を、ドキドキとしながら通り抜ける。空を見上げると、三日月が空に架かり、流れる雲に隠れては見え、隠れては見えする。明るい星たちから輝きだしている。知らない場所の闇の中、月の方角と光だけが頼り。既に刺すような冷たい風が吹き抜け、ただでさえ心細い私を不安にさせる。
30分ばかり歩いたろうか。後方に、私の後をつけている人を確認して、速足で歩こうとする。うまく歩を進めることのできない速足で歩くと速足になり、ゆっくりと歩くとゆっくりと歩く。私は頭が真っ白になるのと同時に、なんの目的でついてきているのか、逃げ切ることができるのか、頭をめぐらす。地の利のない場所で、自分がどこに行きつくのかも分からない通路をやみくもに歩いている愚かな自分。
この先には何があるのか、道すらもないのではないかという不安と、後ろから追いつかれて、腕を掴まれて更に人気のない場所に連れ込まれる妄想と闘いながら、ふらふらと先に進んでいく。
ふと、後ろからの気配が消える。安堵したのも束の間、カラスが群れて、泣き叫んで暴れている袋小路にたどり着く。心臓がどくどくと聞こえるぐらいに膨大な血流を全身に送り、高鳴っている。私は行き場を失い、来た道を戻るしかない。カラスはこれから起こる何かを暗示しているかのように、獰猛に暴れている。
自分が今どこにいるのかもわからない場所で、闇から闇を通り抜ける。人の気配のない場所で、月明かりだけが頼り。来た道かどうかも分からぬ不安と闘いつつ、二股に分かれている地点にたどり着いた。
どちらに進もうか立ち止まったところで、後をつけてきたと思われる男が待ち構えていて、口をタオルで覆われて、固く捕らえられた。タオルは汗臭い匂いがした。男は地の利のある場所で、一番いい場所で私を待ち構えていたのだ。抵抗する時間も与えられぬまま、竹藪の中に引きずり込まれる。腐った水の匂い、成長した竹の青臭い匂いの中に入っていく。
ちくちくと背中に痛みを覚える場所に引き倒されて、体中を弄られる。お洒落な格好も台無しで、スカートもカットソーも引きはがされて、巻きスカートの黒い猫も無惨に引き裂かれて、脱がされた。白い素肌が闇に浮かぶ。痩せた脇腹の肋骨が上下するだけで呼吸すらままならない。男は貪りつくように覆いかぶさり、欲望の限りを尽くしていく。
私は頭上で竹の葉の間で見え隠れする三日月を涙を流しながら、男の律動に突き動かされている。三日月は冴え冴えと妖しく光り、儚げに歪んでいた。快楽はどこにもない。身体の中を硬くなった虫が激しくうねり、大切な何かを剥奪された痕が残っていくだけ。なぜ私はこんなことをくり返しているのだろう?なぜ?なぜ?と自分に問うてみても、答えは返ってこない。私は私を放棄することで、自分に仕返ししているような気持ちになった。
自分を大切にできずに、汚されていく自分を俯瞰して見つめている。男は二度三度、繰り返し中で果てると、その場に私を残して立ち去って行った。私はぴくりとも動けないまま、竹藪の中で白い肌を晒している。体の芯まで冷えて、このままここで死ぬのではないかと思った。誰かが私を見つけ出して、救ってほしかった。こんな愚かな私でも大切に想って、抱き上げて介抱して、温かなスープを飲ましてくれる存在が欲しかった。しかし、そんな温もりはこの世の中にはどこにもなかった。
私は散らばった衣服をかき集めて、下着を見つけることのできないまま、震える手で身につけた。寒さと怖さで、ガタガタと歯が鳴っていた。お洒落な衣服は、泥で汚れて、竹の落ち葉が張り付き、ところどころ破られていた。巻きスカートに張り付いた猫まで無惨に足元から引き裂かれていた。金色の目には泥がこびりつき、輝きを失っていた。
私はふらふらと立ち上がり、西に傾いて地平に消えて確認できなくなった三日月を見失って、酔いが醒めて素面になって、呆然と闇の中をさまよい帰った。私は正気ではない行為をしているにも関わらず、冷静だった。汚れるだけ汚れて安堵したかった。
自宅に帰った時には0時を過ぎていた。鏡には変わり果てた私が映っていた。私は三日月のように、これから満ちて丸くなっていくのだろうか?限りなく欠けていき、空で真っ二つにぽきりと折れてどこまでも地の果てへ落下していくだけの月になってしまいそうだった。
果たして私は清らかではないのだろうか?ますます遠く離れた不潔で淫らな人間に染まる事で、人間としてのバランスを保てる気がしていた。
17 notes · View notes
mementoboni · 9 months
Text
[Chinese translation] DIR EN GREY - カムイ
Translation by me.
You can read the lyrics with Kanji & Hiragana & Chinese translations at my Blogger. 👆 (Just like karaoke!)
Japanese/Traditional Chinese lyrics below 👇
憂いを貪り食う 貪婪地吞食憂傷 自覚の虜 自覺的俘虜 夢ばかりじゃ夢は朽ちる 總是處在夢境中的話 夢就會漸漸腐朽 虚な瞳に生きる 我活在空虛的眼眸裡 それが現実 這就是現實 代わり映えのない明日 一如既往的明日 夜へ 直至夜晚 誰にも言えない 無法向任何人傾訴 傷に身を投げ出して 我將自己扔進傷口之中 預けた事の無い命 從未交付過的生命 篩にかけ 我細細篩選 聞いているのは 正在聆聽的是 無慈悲の椅子 無情的椅子 虚な瞳に生きた 我一直活在空虛的眼眸裡 其処に居るのは 在那裡的還是 代わり映えのない詩 一成不變的詩歌 唄おう 來唱吧 後何年ですか? 還剩下幾年呢? まだ生きるんですか? 還要繼續活下去嗎? 求め狂う薄情の喝采 瘋狂地尋求那些薄情的掌聲 時には涙と笑顔の真似 有時我會模仿他們的淚水和笑容 捨てられた愛を拾う人生なんです。 我的一生都在撿拾那些被拋棄的愛 首輪に鈴をつけて 我將項圈繫上鈴鐺 今日も歩く 今天也會繼續向前走 虫ケラを踏む 踩過那些螻蟻 私も同じ 我也和牠們一樣 嘆き 哀嘆 もがき 掙扎 叫び 叫喊 嬉しい? 開心嗎? 愛、投げつけられ 愛 被拋棄 命 生命 軽い 輕賤 命 生命 嘘だ 是個謊言 命奏でよう 彈奏生命吧 避けられない 逃避不了 今日も痛い 今天也好痛 傷に投げ込まれる 被扔進傷口之中 嘘だ 騙人 信じられないよ 不敢相信啊 私も人間 我也是個人 誰にも言えない 無法向任何人傾訴 傷に身を投げ出して 我將自己扔進傷口之中 嘆き 哀嘆 もがき 掙扎 叫び 叫喊 嬉しい? 開心嗎? 愛、投げつけられ 愛 被拋棄 命 生命 軽い 輕賤 命 生命 嘘だ 是個謊言 愛奏でよう 彈奏愛吧 避けられない 逃避不了 今日も痛い 今天也好痛 傷に投げ込まれる 被扔進傷口之中 嘘だ 騙人 信じられないよ 不敢相信啊 私も人間 我也是個人 生臭い空が 充滿腥臭的天空 唯一の救いだろう 或許才是唯一的救贖吧 今よりもっと人間の 我要比現在更加地 生き方に近く 活得像個人 Absolute 後何年ですか? 還剩下幾年呢? まだ生きるんですか? 還要繼續活下去嗎? 求め狂う薄情の喝采 瘋狂地尋求那些薄情的掌聲 時には涙と笑顔の真似 有時我會模仿他們的淚水和笑容 捨てられた愛を拾う人生なんです。 我的一生都在撿拾那些被拋棄的愛 時には温もりと 有時我感覺到帶著溫暖 安らかな死の匂いを 安詳的死亡氣息
11 notes · View notes
kennak · 6 months
Quote
20歳までの性癖の変化20歳くらいまでは、コロコロ性癖が変わっていた。  小公女セーラ⇨巫女⇨陵辱拷問⇨某エロゲキャラ⇨フェラ⇨みづなれい⇨ハーフ⇨外人のオナニー配信⇨足の裏コキ⇨高身長⇨セミの鳴き声。と。  この辺りから、性癖はあまり変わらなくなって。ずーっとひたすら、公衆トイレでセミがガンガン鳴いてる中でフェラをする動画にお世話になっていた。  20歳からの性癖の変化一方、20歳からは、二次元を卒業し、AV女優を漁るようになった。小澤マリア、希志あいの、小倉ゆず、みづなれいとまあ、面食い。だんだん、特定の女優を探すのすら面倒になって、デビュー作品で良さげな子を漁るとかにシフトして、完全にラーメンの注文みたいになっていった。  アナル舐めに性癖が破壊された性癖に確信が起こったのは、25歳だ。そんなまさかなだ。  セミの鳴き声⇨女性が男性のアナルを舐めると性癖がジャンプした。  アナル舐め道は辛いよこの、アナル舐めは本当に辛い。このためだけに風俗を覚えてしまった。性病になるの怖すぎる。  明らかに不衛生で、女性に負担をかけてしまう。こんな、最悪なプレイ本当にやばいやろ。  行為も最悪であるが、検索も難しい。そもそも、男性が女性のアナルを舐めるのもアナル舐めに引っかかる。xvideosなどでも、rimjob、rimming、rickingなど、様々な検索ワードがある。しかも、体勢が、うつ伏せが多く、次が壁に手をついて中腰、一番少ないのが女優が寝て男優が顔面に座るパターンである。私は、女優が寝て男優が顔面に座るパターンが好きだ。このような体勢のパターンごとに名前が欲しいところだが、現状はそうはなっていない。(ちなみに、耳舐めでも同じくこのような問題に悩まされている、特にASMRみたいな本当に舐めてないやつばかり引っかかるのできつい。そもそも耳舐め自体少ないし)  そもそも、アブノーマルプレイなので、特定の女優で探すのも難しい。かわいい人気女優で、ハードなアナル舐め専門作品に出てくれる人はまず少ないから、風俗ものでソープの1つのプレイとしてアナル舐めを探す。例えば、グラドルから転身で噂になった高橋しょうこサンだが、彼女の作品全てを見るわけにはいかない。アナル舐めだけを探すのだ。探し当てた時は、ものすごくいいオナニーができるが、探すときは砂漠で砂である。ソープもの作品を買っても必ずしもアナル舐めしていないし、アングルや尺など満足の行くものは少ない。  特に、『変態アナル舐め中毒痴女』の乙葉ななせ、っていうJKがむっちゃ痴女ってアナル舐めする作品は年単位でお世話になっている。もう、増田は34歳である。アナル舐めの極地は『変態アナル舐め中毒痴女』の乙葉ななせで結論出たと思っていた。  アナル舐めの最高到達点の更新しかし、昨晩、それが更新された。『痴女×アナル舐め×ど派手な吸引音!!』の阿部乃みくだ。酒焼けした美女が出てるなと思った。阿部乃みくは超美人女優だ。阿部乃みくサンに対する増田の思いについて、少しだけ補足したい。彼女は、アベノミクスからとったという名前自体がほうけてて好きだけど、オタクに優しい。オタクの部屋に派遣されるAVでは、オタクが変なアダルトグッズを持っていてドン引きしてしまい。「あべのは、、、あべのは〜」と戸惑い全開になってしまったのが面白かった。あと、上原亜衣の引退作品にも出ていて、上原亜衣を捕まえられなかった男達に代わりにゴスロリ姿の阿部乃みくサンがお相手するのだが、男性のアソコを膣に入れた後に、「寒くない?大丈夫?」と自分の下っ腹を手でゴシゴシと磨きだした、かわいい。あっと、ごめんなさい、横道にそれた。『痴女×アナル舐め×ど派手な吸引音!!』であるが、阿部乃みくは白衣のを着ているが、茶道のような畳部屋で、アナルの剃毛からはじまるのだが、剃毛に使う石鹸は茶道のお茶碗で抹茶を立てるように石鹸を茶道のあれでかちゃかちゃ混ぜて泡立てる。この時点でただものではないアナル舐め作品の雰囲気を感じた。剃毛後、阿部乃みくが勢いよく舐めまくる。うつ伏せから中腰まで。そして、アングルも最高だ。増田が好きなアングルとして、中腰男性にベロを突き出した美女が突進し、鼻がお尻につくまで美女の顔がケツに近づく。というのがある。なんと、阿部乃みくサン、顎まで男優の体と一体化していた。この深さはxvideosの海外の本物の変態カップルでしか見たことがないよ。フィニッシュはよくわからない医学的解説がなされてシャーレに精液が取られて終わりだ。  いや〜。5年ぶりぐらいに、アナル舐めの最高到達点が更新されてしまった。自分はもう『変態アナル舐め中毒痴女』の乙葉ななせ、が死に場所だと思ってたんだけどなあ。  補遺増田は、若い人が羨ましい。もちろん、160cmのチビ、90kgのデブ、ベジータレベルのハゲのバキバキ童貞レベルの不細工です。なお、全く努力しなかったわけではなく、年収は1000万円超えているし、東大卒だし、論文も数本書いている。しかし、増田は青春ゼロ、彼女いたこと無しで、未婚で終わる気マンマンだ。風俗やキャバクラではウケがいいから、もしかしたら本気出せばモテるのかもしれないが。セクハラになるリスクもあり女性には声をかけられない。  そこは諦めてるから、別になんとも思っていないが。ただ、後世に生まれるほど、性に対して有利なのが羨ましい。美容医療が発達して女性はかわいい、VRなんかもできてリアルな体験をしているだろう���オナホも年々レベルアップしてる。ブサメンの性癖がテクノロジーでアシストされまくってる。今後は、AIを使った新AVや、新VR、知り合った人をAIが勝手にアイコラしてくれるし、卒アルで初恋の子がいたらすぐにAIが裸にする、最近のDMMエロ漫画はAIが描いたものが大量にあるらしい。ニッチ性癖もAIが勝手に大量に作り、AIが人間の反応を見て色々作るだろう。なんなら、そもそも、結婚しなきゃなかったはずの子作りもセクサロイドなり人工子宮で解決するかもしれないしな。日本の底辺に生まれながら、世界最高の美女の卵子で子供作れるのかね。  とにかく、若い人が羨ましい。エロゲーやしょぼいネットの個人サイトで必死にニッチ性癖を探して、ラブホでオナニするのが趣味な自分みたいなのって、未来からすれば、河原でエロ本漁ってた昭和と変わんないのかね。  追記セミが謎に人気なので。おすすめ作品を書いておく。「竹内みれい 公衆トイレ」でググってください。JKお散歩からの、公衆トイレ、むせかえるような暑さであることはAVの画面からは伝わらないが、蝉の音が教えてくれます。そう、AVで感じるはずのない「温度」をそこに感じることができる。これが蝉の音の良さです。外国人は、セミを見たことないから、蝉の音がわからないらしいです。我々日本人の特権ですな!  >lexieXmarcのバスルームのやつというコメントをいただいた。ありがとう、最高だわこの作品!割愛してしまったが、増田は、シャワーやお風呂物も大好きです。わかりますよ〜シャワーの水圧、体に浴びながら、必死に性を貪るの、いいですよねえ。性に対して、必死にならないと、シャワーの感覚に流されそうな感覚。  >アナル舐めおすすめは、乳工房ってエロ同人だ。かな〜りアナル舐めに拘ってるので、同人抵抗ない人にはおすすめ!  >小公女セーラやっぱ、お嬢様の気高い心を、辛い環境で守り続けるの尊いですね。アニメは歌も楽しめる。「遠い道を歩くとき、歌を歌えば近い」「挫けたらダメよ」歌で、哀愁を盛り上げたところで、セーラお嬢様の気高い感じ。大好きだあ、お嬢様あ〜幸薄お嬢様あ〜  >みづなれい性癖のお化け。目ん玉に精液入れたり、ホームレスのおしっこ飲んだり、当然可愛いが。一番増田の性癖に来たのは、生徒会長なのに性処理奴隷にさせられて、机に縛られて、69の男が立ってるバージョンのイラマチオ。いじめられてかわいそうなみづなれいサンだけど、心は強いから、常に冷静。絶対折れない心は小公女セーラだね。あと、無茶苦茶可愛いJKの格好して、円光オヤジに高飛車な態度をとるが、車の駐車場で、円光オヤジが「うんこ食べてよ」といきなり難易度爆上げな要求して笑いそうになるが、「キモい」と睨んでくる作品。結局うんこは食べずにフェラだけだが。みづなれいは、哀れな女性を演じるが、心に強いものを感じる。その気高さと、性への科学者みたいな追求が好きすぎる。
性癖が更新されたり最高到達点ができた時の記録
6 notes · View notes
gaetanchiao · 2 months
Text
超人 洗腦掰彎淫墮(中)
Tumblr media
「是的,成為你本來的樣子。一個真正的順從者。成為它。它讓你興奮!所有那些女人表現得好像你是和她們在一起的男人,而你秘密地只是想要有人成為你的男人。」
「是的,」麥克一邊口服雷克斯一邊回應。 「我確實是個完全隱藏的順從者。」
「是的,」雷克斯帶著蔑視的口吻嘶嘶說。 「總是那些趾高氣揚的英雄真正渴望被支配。只需要對的男人來馴服他們的屁股,並將他們打入他們天生的角色。」
超人有一種瘋狂的想法,這個男人是在直接對他說話。他觀察著麥克如何吮吸和舔食雷克斯。過了一會兒,雷克斯將麥克推到背上。他在麥克嘴裡塞入一個球狀口塞,然後將麥克強壯的手臂綁在背後的手腕處。他從桌子上拿起一個撣子,開始拍打四分衛那誘人的、緊實而有酒窩的屁股。
麥克以一種表明他對每一下打在臀部上的愛撫都愛不釋手的方式呻吟著,每當他在球場上穿上緊身閃亮的足球裝備時,女人們都會幻想著這一幕。超人無法停止凝視。他被雷克斯完全掌控局面的樣子深深吸引。他不自覺地伸手摩擦自己迅速膨脹的隆起。
最後,明顯勃起的雷克斯扔掉拍子,開始和麥克做愛。體格更強壯、更胖的男人不停地和高個運動員交合,毫不放鬆。麥克接受了。
當他的屁股不斷被穿透時,麥克通過球形口塞大聲地呻吟著,顯然是在狂喜中。麥克明顯地渴望著每一次的猛烈抽插。在這一切發生的同時,雷克斯一邊不斷地辱罵著四分衛。超人凝視著雷克斯結實的身軀在運動員的臀縫中進進出出。然後,麥克發出了一聲沙啞的叫喊。他從勃起的陰莖中射出了一大團精液。
超人也呻吟起來,並且,令他自己感到羞愧的是,他的超級身體在經歷了他人生中第一次強烈的性高潮時顫抖了。
喘著氣的超級英雄停止了凝視,坐在塔上。這一切讓他感到恐懼。超人注意到他綠色氨綸褲襠區域出現了濕漬。他這輩子第一次為自己手淫。他四處張望,迅速飛走,希望沒有人看到剛才發生的事。
有些不對勁。
他發誓明天要去拜訪雷克斯,找出那些不對勁的事情是什麼!
當他飛翔時,他的睪丸刺痛,腦中的一小塊區域亮了起來。
-
超人那晚沒有多少休息。通常,這位堅定的英雄睡得很安穩,不被夢境所困擾。然而今晚,他在堡壘的床上翻來覆去,床單下不停地扭動。他腦海中不斷重播著早些時候所觀察到的景象。 他回想起麥克發出的每一個聲音。當他在雷克斯面前卑躬屈膝時,他看起來是多麼的幸福,他那高大而有力的身軀在這位年長且更為魁梧的男人的支配下。
麥克的行為有些不夠男子氣概,但其中又有著某種令人著迷的魅力。超人在沈睡中深深地嘆了口氣,他的腦海現在想像著一個穿著皮衣的肌肉男人用四肢爬行向赤裸的雷克斯。那男人恭敬的態度看起來是如此自然。
那男人戴著某種狗形的頭套,還穿著某種黑色皮質丁字褲,猥褻地托住他沈重的陰莖和睪丸。丁字褲的後中心帶淫蕩地分開了男人的大屁股。從男人肌肉發達的臀部之間伸出了像是尾巴的東西。當超人意識到那是插在皮衣人物內的肛門塞時,他不禁嚥了口唾沫。
男人的每一隻手都被困在一種封閉型的圓滑物中,讓他的手指無法張開甚至看不見。他強壯的二頭肌和前臂在感官上的彎曲,隨著他的整個身體更靠近雷克斯。超人曾在經過一家成人皮革專賣店時見過這樣的東西。他記得這樣的裝束是給那些想被其他男人當作狗對待的男人穿的。
超人看著這個魁梧的「狗」挑逗性地嚎叫和吠叫,而嘲諷的雷克斯讓他做狗的把戲,比如翻滾和坐起來乞求。過了一會兒,雷克斯指向他的陰莖,狗男人貪婪地爬過去,透過他面具嘴巴上的縫隙吸吮它。狗男人發出一連串低沈的咆哮,讓超人的全身顫抖,感受到一種他無法命名的感覺。
突然,雷克斯將另一個男人推到地板上,開始在後者的臉上自慰。然後雷克斯粗聲粗氣地命令狗脫下面具。當這個男人的臉被揭露時,超人的眼睛瞪得大大的。
他看到自己張開了嘴巴。
他會抗議嗎?
在那個幻象中,雷克斯將他的精液射進了他的「狗」的嘴裡。當超人醒來時,他最後的畫面是他的狗臉上那完全幸福的表情,當他的舌頭貪婪地舔食雷克斯噴灑在他臉上的濃稠精液時。
「啊啊啊啊,」超人在睜開眼睛時呻吟著。
他在冷汗中眨巴著眼睛,環顧四周。當他在床上移動他那肌肉發達的身軀時,他意識到襠部有一種更冷的濕潤感。他低頭看去。
他的床單濕了,胯下感覺黏膩又黏稠。超人完全羞愧地意識到,他在經歷了人生中的第一次遺精夢時,顯然射精了很多。他迅速起身,感到需要沖個澡,同時對於與雷克斯的預約會面感到一絲不安。
但他決定,從未曾表現出恐懼,現在這麼做也太不像男人。
超人清理乾淨並穿好衣服。他出發去和雷克斯會面。在他這麼做的同時,內心深處的某個部分正急切地期待著那次新的相遇。
超人決心要控制與這個男人的對話,於是來到了雷克斯的家。一位僕人引導他進入雷克斯正在等候的房間。房間裡的空氣中充滿了雷克斯似乎偏愛的那種甜美古龍水的刺鼻氣味。
「啊,見到你真好。」
雷克斯一邊從書桌起身一邊說道。他走向一個濕吧台,倒了一杯飲料。
「來,喝一杯。今天很熱,你一定口渴了。不,我堅持。」
他在超人還來不及抗議之前斷然地說。他遞給了這位超級英雄一杯玻璃杯。
超人接過杯子,憤怒地喝下,只是為了能夠開始他想與雷克斯進行的對話。液體的溫暖流入了他的體內。
「現在,我想你想告訴我超人,關於你昨晚做了什麼?」雷克斯輕描淡寫地問。
超人驚訝得說不出話來。雷克斯是怎麼知道的,或者,他知道些什麼?當雷克斯給了他一個嚴厲的眼神時,他正試圖想辦法避開這個話題。
「現在告訴我!」
「我…我…嗯…我看到…呃…麥克和你在一起,」
超人吃驚地喃喃自語,對於自己對雷克斯的「命令」瞬間服從,以及雷克斯再次似乎在掌控事態,感到驚訝。
「侵犯隱私,」雷克斯嘲諷地驚呼。 「哦,這就是你做的事?」
「不,」超人尷尬地結巴著。 「我是。我是……檢查來著……為了找到…我很抱歉,」
超人嘆了口氣,在雷克斯那充滿不滿的銳利目光下顯得畏縮。
「我道歉。」他說著,心中對於事情的發展感到一片混亂。
「好吧,我會在一個條件下忽略它,」雷克斯堅定地回答,一邊拿起筆在紙上寫下幾個字。
他把它折起來,遞給了一位感到相當不舒服的超級英雄。
「你必須現在大聲說出來,並且今天獨自一人時再說三次。當然,自然是在睡前說一次。但總是要大聲說出來!」
超人打開紙條,讀了上面的字句。他抬頭看向雷克斯。
「這裡面有詛咒的話,」他驚慌地回答。 「我這輩子從來沒有用過粗話。這不合適!」
「侵犯隱私合適嗎?」雷克斯清楚地提問,顯然很享受佔據道德高地的感覺。
「不,」超人不情願地回答。
「那就繼續吧。它們只是些文字。除非你害怕你可能會喜歡說出它們?或許還會有一絲情色的興奮?」雷克斯嘲笑著說。 「就是這樣嗎?你幻想自己說髒話?」 超人嚥了口口水。他被困住了。如果他不說出那些話,雷克斯會認為他害怕,或者更糟的是,這些話在某種程度上讓他感到興奮。同時,他對侵犯雷克斯的隱私感到奇怪的內疚。昨晚為了確保麥克沒事,這麼做似乎是對的。
現在,雷克斯讓他感到自己做錯了事。就好像雷克斯微妙地處於一個可以評判他的位置。他告訴自己,懲罰真的很輕微。
他點了點頭,讀出了這些話:
「我做了那件事真是太操蛋了。只有真正的軟蛋才會侵犯別人的隱私。」 「盧梭先生應該把我拖過他的腿上,如果我再次表現得像個壞孩子,就該抽我的屁股。」 「先生,我再也不會做這麼淘氣的混蛋了!」
用他那低沈的嗓音說出這些話,讓他的內心感到灼熱。當他突然想像自己赤裸裸地趴在雷克斯腿上,屁股朝上的畫面時,他的胯下不由自主地感到刺激。他緊身的氨綸服裝下的陰莖突然抽動。
超人快速驅散了這個念頭。他的喉嚨現在非常乾。他從紙上抬起頭,看到雷克斯微笑著遞給他另一杯液體。
超人接過來,狼吞虎嚥地喝了下去,希望能沖刷掉他剛承認的味道,以及他剛才感受到的任何感覺。
「乖孩子,」
雷克斯用一種高人一等的語氣說道,超人覺得這種語氣很貶低人,但考慮到剛才他們之間發生的一切,這種語氣對他來說似乎又是恰當的。
「恐怕我得趕時間了。明天再來吧,」雷克斯突然說道,一邊將微弱抗議的超人護送出房間。
「順便說一下,記得再說紙上的話三遍。哦,多用些粗話。這很適合你。事實上,這會讓你感到一種很棒的興奮感。我想你甚至不會注意到自己在做這件事,也不會記得我們現在這最後的對話。是的,就這麼做吧,」
雷克斯最後說道,隨著僕人來到,護送這位英雄離開了房子。
-
雷克斯看著超級英雄離去。他不敢相信自己的運氣。他冒險詢問這位健壯男子離開後做了什麼。一旦超人崩潰,吐露了真相,雷克斯就隨機應變。看著這位道德嚴謹的英雄實際上屈服於說出那些話,這成為了決定性的轉折點。
的確,雷克斯在建議超級英雄使用粗話可能會「性興奮」方面,確實是魯莽地冒了險。然而,這也得到了回報。超人在說出粗話後,他的胯下明顯膨脹了一些。雷克斯知道他現在可以更進一步地推這個大塊頭了!
當他站在雷克斯的豪宅外時,這位困惑的英雄無法理解為什麼他會讓自己以這樣高壓和貶低的方式被對待。他的手緊握著手中的紙張。他低頭看著它。
「我他媽的還得再說這破玩意兩次,」 他憤怒地說。他飛快地離開,甚至沒意識到自己剛剛說了什麼,或者他的胯部在萊卡緊身衣下微微腫脹了。
那天晚上,他大聲說完最後一次「演講」後就去睡覺了。
在夢中,他再次看到自己在碼頭上像碼頭工人一樣哭喊著、咒罵著被打屁股���他無意識地伸手去摩擦自己膨脹的陰莖。
「他媽的對,」他在肌肉顫抖中呻吟道。
「啊,他媽的對!」
第二天早上,他對夢境有了模糊的記憶,再次意識到自己又一次夢遺了。他一邊洗澡一邊咒罵,發誓下一次的會議將會有本質的不同。
他對那最後一件事如此專注,以至於他從未真正意識到自己大量使用的粗話,或者他是如何手淫至高潮的。
-
超人回到雷克斯的家,想著為什麼他會覺得有必要見這個人。很明顯,麥克既沒有被綁架也沒有被囚禁。然而,這位超級英雄提醒自己,還有其他運動員失蹤了。
雷克斯身上有些東西,他覺得需要探索。當他到達時,很快就被帶到了雷克斯前幾天見過他的同一間房間。
「哦,你又回來了,」雷克斯帶著一種出乎意料地惹人煩的漠不關心說道。
「我相信你也如你所承諾的那樣說了那些話。」
「我說了,」
肌肉發達的超級英雄邊咕噥著,對雷克斯的冷靜和他那相當自滿的態度感到不悅。這個男人為什麼總能激怒他?
「真的嗎?三次都說了,特別是在睡前?」雷克斯的問法似乎在嘲笑他。
超人失去了冷靜。這傢伙是誰,來質疑他的誠實?雷克斯那種家長式的語氣讓超級英雄感覺像是在對待一個頑皮的小孩。
「我說我做到了,好吧!」他憤怒地回答。
「每一個字,」雷克斯追問。
「我說了每一個他媽的字!」超人吼道
雷克斯露出一副震驚的表情。
「哎呀,這種語言。」他驚呼。 「你剛才有聽到自己說了什麼嗎?」
超人眨了眨眼。他知道自己說了些什麼,但是……
「來,聽這個,」雷克斯以假裝的厭惡說道。他按下了附近錄音機上的一個按鈕。
當他聽到自己說出「fuck」這個詞時,超人的嘴巴張得大大的。
「我……我,」
他吃驚地咕噥著,對自己輕率地使用這個詞,以及聽到自己的聲音說出來時睪丸的刺痛感都感到驚恐。
「我的意思是,我原以為你是善良的標準,而你卻侵犯我的隱私。然後你無緣無故地對我咒罵。你還承諾要表現得守規矩。」
雷克斯對著現在因為他的意圖而完全失去節奏的緊張大塊頭怒斥。
「我……我……真的很抱歉,」超人困惑地說道。
「嗯,你昨天也這麼說,所以你的道歉顯然一文不值。」雷克斯凝視著眼前現在徹底不安的男人。
3 notes · View notes
onishihitsuji84 · 2 months
Text
『ガラスの街』
 五月は読書の月だ。僕は本を読んだ。数多の本を。  最初、それは次の小説のアイデアを得るためだった。頭上の樹々からワインのための葡萄をもぎ取るような、循環を続けるにあたっての摂取だった。いきおい堕落しつつある現実から少しでも意識を逸らすためでもあった。  普段の僕は、本を読んで時間を過ごすことは少ない。長い時間ひとつの文章に集中することができないのだ。  それに読むことよりは書くことのほうがずっと大切だと僕は思っている。読む行為は、現実という制限された枠組みのなかではせいぜい膝丈ほどの優先度しかなかった。  しかし五月ではあらゆるものが落下した。熟れ過ぎた果実が枝との繋がり終え、足元に開いた坩堝に呑み込まれていった。読む行為もそうだ。落ち、煮え滾る器の中で混合した。  いまでは僕の「読む」は混沌としている。それはいまでは長身の僕、その僕以上にのっそりとそびえる一本の巨大な柱となっている。物言わぬ花崗岩の柱。五月、僕はそんな柱を中心にぐるぐると回り続けている。手は文庫本に添えられ、目は9.25ポイントの文字に注がれている。足は僕の意識から離れて交互に動いている。ひたすら歩き、ひたすら読んでいる。柱から少し離れた誰彼にどう見られているかどう言われているかなんてことお構いなしに。
 いや。そんな話自体がどうでもいい。関係ない。  きょう、僕は自分自身が”うすのろ”だということを語りにきたのだ。
***
 五月。  僕はどんなものを読んだのだろうか。   金ができて僕がまずやったことは大学生協の本屋に行くことだった。カウンターで二枚つづりの注文用紙を手に取り、もう何年も使い続けている青のボールペンで書いた。 "9784002012759"  週明け、僕は地下の生協で注文の品を受け取った。『失われた時を求めて』全十四冊。いまは第一巻を読んでいる。僕がふと目をあげると、あの遠い窓の奥で、大叔母が目を爛々と輝かせているというイメージが浮かぶ。泳ぐような精神の移ろいもまた。
 シェイクスピアの『夏の夜の夢』も読んだ。 『MONKEY』のvol.31の三篇、ケン・リュウ「夏の読書」、イーディス・ウォートン「ジングー」、ボルヘス「バベルの図書館」も読んだ。  仕方なく後回しにされていた本を買って読んだのだ。  金銭の自由は、精神という鈍い壁に茂っていた蔓植物のような不足を一太刀で解決した。
『春の庭』も読んだ。『九年前の祈り』も。  ウルフの『波』も読み始めている。  僕の貪欲は、過去に読んだことがあるかどうかなんてものでは選ばなかった。カーヴァーの『象』、春樹の「タイ・ランド」、マンローの「イラクサ」、ヴォネガットの『スローターハウス5』。マラマッドの「悼む人」も読んだ。
 一度の時に、僕はこれらの本を読んだのだった。  こんなに大量のフィクションを仕入れて、いったい何をしようとしているのか?  紛争でも起こそうとしているのか?
 何のためか。それは僕自身にもわからなかった。  僕は特定の目的をもって読んだわけではなかったようだった。五月の読書は「文章の上達」や、「ストーリーテリングの技法」といったそれまでの興味とは別物だった。振り返ればそうだとわかる。
 五月の読書は、それまでの自分を抑制しようとする、極めて機械的な態度とは違っていたのだ。  言えば、それは無垢に機械的な読書だった。  これまでの僕は断じて読書好きではなかった。どんな傑作でも一時間もしないうちに音を上げて投げ出した。ドストエフスキーやメルヴィルと出会ったときでさえ、メインストリームは”書くこと”、そして”生きること”で変わらなかった。この五月に僕は初めてむさぼるように読んだのだ。頭を空っぽにして。堆い小説の亡骸の山に坐すかのようにして。
 それで、僕は何かしら成長したか。  いや。成長なんて一つもなかった。  そこには変化さえなかった。二週間前と、すべては同じだった。僕が着るのは依然深いグレーのブルゾンだった。コミュニケーションもぎこちないままだった。  だからそこで起きたことはシンプルだ。つまり、僕はポール・オースターの『ガラスの街』を読み、ある一つの事実に行き当たった。 「僕はなんという低能なのだ」という事実に。
***
 一昨日から僕はポール・オースターの『ガラスの街』を読み始める。  『MONKEY』でオースターのエッセイを読んで彼のことを思い出し、その夜に丸善に立ち寄った僕は彼の本を久々に手に取った。  三日で読んだ。 「三日で読む」というのは僕にとってほとんどあり得ないことだった。僕のリュックサックには必ず四、五冊の本があった。読むときにはまずそのとき一番惹かれる本を手に取った。そして十数ページが過ぎ、抱いていた軽度の好奇心が満たされてしまうと、浮気性の蜜蜂のようにまた別の小説の甘いのを求めるのだった。  だから、一日目、二日目と時を経るごとに加速度的にその好奇心が勢いを増し、三日目には150ページを一つの瞬間に通貫して読んでしまったのだ。僕の読書体験において、異例中の異例だった。
『ガラスの街』を読んで、僕はうちのめされた。徹底的に。 ”面白さ”、そして”新鮮さ”の二つが、やはり事の中心だった。読書においておきまりのその二つが今回も僕を虐め抜いたというわけだ。 『ガラスの街』を読み終えた瞬間、僕の生きる世界のどこかが確実に変化した。
「祈っている。」  僕がこの最後の一文を読んだとき、曇り空の下にいた。その一節がこちらに流れ込んできたあと、僕は立ち上がった。テーブルがごとりと揺れるほどぶっきらぼうに立った。取り乱していたのだった。僕はそのままであてもなく歩き始めた。 「これ以上座っていることはできない」 「このまま座っていると、僕は頭の先から崩れ落ちてしまう不可逆的に」  そうした、僕という精神を一切合切覆してしまうほどの強烈な予感のために。  僕は予感に乗っ取られないよう、何も考えないと努めていた。何も感じまい、何も見まい、と。  リラックスを意識し、肩から力を抜く。腕をぐんと伸ばし、指をぽきぽきと鳴らした。イヤホンを耳にした。『ベリーエイク』を再生する。いつか足元をくすぐった波のように心地よい、ビリーアイリッシュの声に心をしっとり傾けた。  もちろん、そんなことは無駄だった。とりあえずの形など、何の助けにもならなかった。以前との比較から始まる違和感たちは強権的に僕の感情の戸をこじ開けた。  歩く中、透明の空気が奇妙に凪いでいた。風景からは特定の色が抜け落ちていた。向こうで笑う声、衣擦れの音、靴底の摩擦。音という音がワンテンポずれて聞こえた。  変化は女王だった。彼女は支配的だった。  僕は小説による変化を受け入れ、恭順のように認めたわけではなかった。むしろ、変化は僕にどうしようもなく訪れていた。言わば、言い渡しのようにして。  女王を僕は素晴らしい小説を読んだ後の”ゆらぎ”の中に閉じ込めたのだった。何もかもが、僕に合わない形に作り替えられていた。建物を構成する直線はいまやでたらめで恐怖がつのった。頭上の青はこのように汚い灰色では絶対なかった。
――そして、当然、この点についての文章はかたちだけに過ぎない。これらは省略した文章。書く必要がないということ。  なぜなら、あなたたちもかつて同じ経験を経ているからだ。小説を読み終えたあとに来る世界の変質を。  加えて、忘れるなんてことを女王が許すわけもない。これについても言わずもがなだろう。
 そして、重要なのは変化のよろめきではない。   そうなんだ。きょうしたいのは女王の話とは実は違うのだ。ここであなたに伝える言葉は破壊だ。  破壊。  それは”面白さ”と”新鮮さ”のコンビがやったわけではなかった。変化の体験に曝されたゆえのサイコ・ショックでもない。  木々を打ち砕く手斧となり、人体を壊す剣となり、バベルの塔をゼロにする雷となったのは、オースターの書きっぷりだった。
 オースターは、考え抜いていた。  そこで”感じ”は排除されていた。  感覚による言い表しがまるで無かったのだ。僅かにイメージに依拠するものがあっても、それは��ず共感の姿勢だった。テーブルに身を乗り出し、相手の声に耳を澄ませる態度。
『ガラスの街』では、本当に一切妥協はなかった。僕はとても信じられず、街を隅から隅までしつこく歩き回った。しかし、本当に妥協はどこにも無かった。
 オースターは僕とコミュニケートすることを選んでいた。そのへんの宙に感覚という水彩画を描いて「ほらご覧」とする、ごく個人的で他者には見せつけるだけという表現は徹底的にしなかった。チャンドラーを始め、私立探偵ものに由来する例の論理的な高慢さはあった。しかし、確実にオースターは読者と対峙していた。彼は殴る、殴られる痛みを完全に了解した上でリングに立っていた。  彼の据わった眼が僕を揺るがしたのだった。彼は完全の脆弱性を知りながら、完全に書いていた。  それだから、彼を読んだとき、僕は……
 向こうから厚底ブーツの女が歩いてくる。  女は痩せている。薄い、流線形の黒一枚に身を包んでいる。背が高く、ありったけに若い。二十歳前後に見える。二つの瞳はキャップに隠れている。すれ違いざまに見える耳にさえ、カナル型のイヤホンで黒が差されている。マニキュアはあまりにも美しい銀色に染まっており、高まりを誘う。  センスがいい。綺麗だ。  彼女はなんて豊かなんだ。  僕はそう思う。  ほとんど同時に、ガラス一枚を隔てた向こうで本を読む人を見つける。  また女だったが、今回性別は重要ではなかった。その読む人は区切られたブースで、文庫に目を落としていた。化粧や唯一のファッションなどもなく、やはり装飾は重要でなかった。というのも、いまにも涎が垂れてきそうなほどに口をあんぐりと開けて読んでいた間抜けなその放心が、僕の記憶に楔として打ち込まれていたからだ。
 これらのスケッチが、何かを直截に意味することはない。二つの風景は隠喩ではない。  正直に、上記は僕が受けた印象の再放送だ。  この日記は『不思議の国のアリス』ではない。二つは作為的な意味を持たない。  書いたのは「意味を持たない」ということを明らかにするためだ。  その内容でなく、外側、僕のスタイルという基本的な骨組みを露わにするためだ。
 そう。だから、つまり……僕は痛みから逃げている。オースターとは違って。  きょう、読んで、事実は突きつけられる。
***
”言葉”はもう一度響く。
「大西さんの小説は、けっきょく古典から表現を引用しているだけ」
「僕は彼にもう興味がないんだ。かつて、彼は賢い人だと思っていた。書くものに何かしらの意味があると思っていた。でも、そうじゃないと知った」
「あなたの課題は、独自の世界観を提示できるかということです。海外の小説、そして村上春樹でなく」
***
 そして、このように敗北してもなお、僕は決定的な何かについて述べることはなかった。張りつめた表情で、まやかし、それ自体に必死に祈る。もうそのような生き方しかできないと信じ込んでいるのだ。
「この大地にあるものはすべて、消え去るのだ。そして、今の実体のない見世物が消えたように、あとには雲ひとつ残らない。私たちは、夢を織り成す糸のようなものだ。そのささやかな人生は、眠りによって締めくくられる」
 祈りの文句を何度も何度も口にした。  僕の声はいつも通りにすごく軽くで響いた。  そして一度響いてしまったものは泡沫のようにたちまち消え去った。
4 notes · View notes
yoga-onion · 2 years
Photo
Tumblr media
The Quest for Buddhism (88)
Buddhacharita, Chapter 15: 'The First Turning of the Wheel' - Depiction of the Middle Way (Ref) and the Eightfold Path (Ref2)
The Buddhacharita is a Buddhist epic attributed to Ashvaghosha (80-150 CE, an ancient Indian Buddhist monk). The following is a translation of the text in Sanskrit:
'O Bhikkhus, do not speak to a respectful Arhat out of respect and according to your former habits. Respect and condemnation are the same thing to me, but let me turn you back from your vices.
See the two wings of the fools' indulgence, exhausting themselves and obsessing over the objects of their sensitivities, as negligent and not the path to immortality.
For example, here, the darkness of the night is brought to extinction by the lamp, but not by sprinkling water to extinction. Similarly, the darkness of ignorance is brought to extinction by the fire of the intellect, but not by the fatigue of the body.
For example, a fire-seeker does not get fire by chopping and tearing a piece of wood, but he gets fire by rubbing that same piece of wood in the right way. Similarly, one gains immortality from correct yoga, not from physical fatigue.
And he whose mind is overcome by dust (rajas) and darkness (tamas), and who is attached to the objects of lust without interest, will not attain fulfilment even in the worldly art of gain (arthaniti). Even in the vairagyavidhi (procedure of covetousness), which is the opposite of the world, he will not be able to attain fulfilment.
For example, there is no recovery for a person who is ill and eats the wrong food. In the same way, how can there be tranquillity for one who is sick with ignorance and is attached to the objects of lust?
For example, there is no stillness in a fire that stays on dry ground and is stirred by the wind. Similarly,there is no tranquillity in the heart that is subject to greed and on the ground of the object of lust.
I have renounced these two extremes and have attested to another path as the middle one (Middle Way), which is ultimately a guide to subdue suffering and to be at peace, happy and contented.
The path (1) shines with the rays of sunlight of right view, (2) is drawn by the wheel of pure thought, (3) has the rightly spoken word as its refuge, (4) has the pleasures of the amusement park hut through good deeds, (5) has a great harvest through life without blame, (6) has strength and followers through right action, (7) is everywhere protected by the fortress of right remembrance and (8) has the floor and seat of samādhi as its dwelling place.
Thus, here, this supreme path of the eight branches carries man out of death, old age and disease, and he who has been carried out of it and has done all he has to do will not go round again in this world or in the next.
Tumblr media
仏教の探求 (88)
ブッダチャリタ第15章「初転法輪」〜中道・八正道(参照)の描写
『ブッダチャリタ』とは、馬鳴(めみょう、梵: アシュヴァゴーシャ、紀元後80年頃~150年頃、古代インドの仏教僧侶)の著作とされる仏教叙事詩である。以下、本文(梵語)の翻訳:
「比丘たちよ、尊敬する阿羅漢に対する尊敬の念から、かつての習慣に従って話してはならない。私には尊敬と非難は同じことであるが、汝たちを私が不徳から引き戻してあげよう。」
愚か者たちが耽っている、自分を疲労させることと、感官の対象に執着することとの、両翼は、怠慢であり、不死に至る道ではないと見なさい。
苦行と称される身体の疲労によって、乱された心が傷つけられる時、人は決して世間的な理解すら知ることはないであろう。ましてや感官を超えた真実の道を知ることにおいてをや。
例えば、ここで、灯火によって夜の闇は滅に至るが、水を撒くことによっては滅に至らない。同様に、知性の火によって無知の闇は消滅に至るが、身体の疲労によっては消滅に至らない。
例えば、火を求める人が、木片を切り刻み、引き裂いても火を得ないが、その同じ木片を正しい方法で摩擦すれば火を得る。 同様に、人は正しいヨーガから不死を得るのであって、身体の疲労からではない。
また、塵(ラジャス)と闇(タマス)に心が打ち負かされて 、利なき愛欲の対象に執着する者は、世間における利の処世術(アルタニーティ)においても成就を得ることはできぬ。ましてや、世間とは真逆の離貪の手順(ヴァイラ-ギャヴィディ)においてをや。
例えば、病に冒されて、間違った食物を食べる人に、決して快復がない。 同様に、無知の病に冒され、愛欲の対象に執着する者に、どうして寂静があろうか。
例えば、乾いた地にとどまって、風にあおられた火に静まりがない。同様に、貪欲につき従われ、愛欲の対象という地にある心に静まりはない。
私はこの両極端を放棄して、その真ん中としての別な道、すなわち、究極的に苦しみを鎮める導き手であり、安穏であり、幸福で、息災なる〔道〕 を証得したのだ。
その道は、(1) 正しい見解という太陽光線で輝き、(2) 清らかな思惟の車に引かれ、(3) 正しく語られた言葉を精舎とし、(4) 善い行いによる遊園小屋の楽しみを持ち 、(5) 非難されない生活による大豊作を持ち、(6) 正しい行動による力と従者を持ち、(7) どこでも正しい念の砦に守られ、(8) 三昧という床と座を居住地としているのである。
このように、ここにおいて、八支よりなるこの最高の道は、人を死と老いと病から運び出すものであり、それから運び出されて 、すべてのなすべきことをなし終わった人は、再びこの世やあの世を巡ることはない。
89 notes · View notes
krassgrafiklab · 9 months
Text
Tumblr media Tumblr media Tumblr media
権力者に対する、"差別・被差別"について
私たちの街が、心が、生活が、
カネと利権に群がる
糞蝿(くそばえ)どもに
踏みしだかれ、抹消されてゆく…
#osakacrisis #antigentrification
#anticapitalism  #fucktheprofiteer
#ftp
この線で攻めていきたいという思いはあるけど、攻撃する相手が特権階級の人物や最高権力者であろうとも、蔑まれる対象がいるということ��、新たな差別・被差別の関係性を再生産することと何ら変わらないのでしょうか?
ちなみに文言の中にある"profiteer"とは、暴利を貪る連中=資本家という意味です。
また"くそばえ"というワードは、2010年にかつて橋下徹氏が率いた大阪維新の会が世に現れ出して、2011年のフクシマ以降の混乱に乗じて、放射能で汚染された震災ガレキを大阪で受け入れたことにより、
舞洲の処分場で焼却するという暴挙に出たことと、それに反対した市民や身近で大切な友人たちを激しく弾圧していった結果、
それぞれの関係性をバラバラに引き裂くことにより、分断や分裂を招き、直接行動からやがては裁判闘争に収縮(運動の萎縮)させていくという謀議・謀略を働いたことによって、そのプロセスから自然発生的に、まるで恨み言のように出現した言葉である。
もちろんのこと、出現した当初はその余りのインパクトの強さから、反対意見も少なからず出されたが、今にして思えば、あの場で何も言えず、今さらにしてこういう形で踏襲するカタチになって、あの活動家の方には申し訳ないと感じているが、対象の資本家や権力者に悪びれる必要性は、一切無いと言えます。
5 notes · View notes
Text
Tumblr media
15 復活與重生 | 復活的第三種情況 | 聖經中的輪迴 | 聖經中的重生 | 基督教原罪 | 基督教懺悔 #聖經學習 #聖經輪迴 #人死後去哪裡 #聖經復活 #死亡與重生 #kristen牧師 #靈魂轉世 #投胎轉世 #罪行罪性 #因果報應
這一講要講復活的第三種情況。 我們在第11講講了復活的前兩種情況, https://youtu.be/Iw4bKz93vGA 我們知道,復活是死而復生的意思。 由於靈魂是不會死的,所以,靈魂就不存在死而復生的問題,《聖經》中講的復活,肯定是指身體的死而復活,或者獲得新的身體。
但是,有一種人,信心堅定,認罪悔改,令神滿意,恢復了靈性的身體,達到了去往天國的條件。這種人叫重生的人,但是因為翻譯的緣故,翻譯家都把重生翻譯成復活,這樣的話,就容易導致概念上的混淆。確實,重生和復活從中文的字面上來看,如果不作解釋的話,很難區分。
在《聖經》中,重生不是復活,重生是新生,重生並不是死了以後再重生,而是活著的時候就要重生。身體不再是以前的身體,靈魂也不再是以前的靈魂。身體和靈魂都發生了完全的、徹底的、質的改變,這樣才叫重生。要獲得重生,就要徹底地放棄肉體的享受,徹底地放棄追求肉體的安逸、享樂,而要追求靈性的聖潔。也就是說,要“捨棄今生”,徹底放下我們的肉體,追求靈性的聖潔,然後我們才能獲得重生。獲得重生的人,死後肯定可以去往天國。
在《聖經》中,講到“死”,常常是指“輪回生死乃至下地獄”;“死人”,常常是指“輪回生死乃至下地獄的人”,他們是沒有獲得重生的人。 我們舉些例子。 《約翰福音》 6:50 這是從天上降下來的糧,叫人吃了就不死。
《雅各書》 1:15 私欲既懷了胎,就生出罪來;罪既長成,就生出死來。 按照常理,每個人的肉體都會死,但獲得重生的人死後可以進入天國,可以永生,如果在《聖經》中,“死”是指輪回生死乃至下地獄,就好理解了。
《哥林多前書》 15:22 因著亞當,所有人都死了。照樣、因著基督,所有人都要重生。 15:22 For as in Adam all die, even so in Christ shall all be made alive. 因著亞當,就是因著罪行和罪性了,所有人都在輪回生死乃至下地獄。 因著基督,就是因著清除了罪性和罪行,所有人也都要重生,都要恢復靈性的身體,進入天國。
《約翰福音》 8:51 我實實在在地告訴你們:人若遵循我的道,就永遠不見死。” 《約翰福音》 8:52 猶太人對他說:“現在我們知道你是鬼附著的。亞伯拉罕死了,眾先知也死了,你還說‘人若遵循我的道,就永遠不嘗死味’。 很清楚,主基督講“永遠不見死”是指獲得了重生,不再輪回生死乃至下地獄,那些猶太人聽不懂,以為說死就是肉體的死亡,所以就認為主基督是被鬼附了體。 《約翰福音》3:3主耶穌說:“我實實在在地告訴你們,人若不重生,就不能見神的國。” 《約翰福音》3:5 主耶穌說:“我實實在在地告訴你們,人若不是從水和聖靈生的,就不能進神的國。” 從水和聖靈生的就是指獲得了重生。 在《聖經》中,這樣的經文還有很多很多,我們就不一一列舉了
有一些信徒雖然信神,可是還會犯一些殺、盜、淫的罪行;當然了,大多數的信徒雖然不會幹這些殺、盜、淫的罪行,可是他們還會有嫉妒、傲慢、貪婪、嗔恨等這樣的罪性。
而人類的罪性不可能通過一次的生命就認罪悔改而較好地恢復靈性的身體。這樣的話,大多數的信徒都不符合生入天國的標準,不可能去往天國。所以主基督說那個門是窄的,按照神的旨意,信神的人要得救,就必須轉世、復活,接著懺罪悔改,才有可能得救。
只要相信神、願意認罪悔改的人,死後可以轉世、復活,重新做人,然後繼續懺罪悔改,直到令神滿意,達到去往天國的條件,死後就可以去往天國了,不需要繼續轉世,更不需要去陰間裏等待審判,這才是神的旨意。
當然了,那些不信神的,但是又很善良的人,今生也沒有做什麼殺盜淫妄的罪行,死後也不會下地獄,他們可以轉世繼續做人,但轉世後有兩種可能:一種是有好的因緣,遇到了信使,皈投神家,開始悔改,就開啟了去往天國的路,至於哪一世能夠去往天國,還得看他自己的努力了;而另一種,沒有因緣聽到福音而產生信心,繼續不信神,可能就會繼續輪回生死,乃至慢慢的墮落,在他死的時候,如果他的罪行已經達到了下地獄的條件,就會被定罪而下地獄,不可能繼續轉世做人,更不可能在陰間等待審判。
還有一部分人,死後既不能進入天國,也不符合下地獄的條件,還不能很快的轉世做人,就會在陰間等待一段時間,時間長短不一,這種人就是民間說的鬼了。
《聖經》的整個理論體系,只有用輪回觀來解釋才能夠圓融自洽、符合邏輯,而不互相矛盾。
如果人能夠轉世復活,靈魂得救的機會就會大大的增加,因為有前世的信根和善根,就會有機會聽到福音,也很容易信神,同時也會比其他的人更善良,更有愛心。他們會繼續的在人間懺罪、悔改,就這樣經過多次的轉世,最終獲得重生,達到進入天國的條件。 神這樣的安排是最合乎人性的。
………………………………………………. 人是不是只有一次生命? 復活就是重生嗎? 聖經裡有沒有輪迴的見證? 為什麼說有因果必有輪迴? 人的原罪怎麼來的?
這個系列講道��從以下角度探討這些問題: 緣起法則 前世今生和因果 業因業果 罪的普世性 罪性和罪行是不同的 六種不能進天國的人 聖經中復活的三種情況 ……………………………………………….
youtube
第一,不管是哪個宗教,哪個派別,只要信主,信上帝; 第二,相信輪迴,去惡行善,懺罪悔改; 這樣的人都是我們的弟兄姊妹,這樣的教派都是和我們志同道合的教派。我們要聯合起來,團結起來,傳播真理。
Kristen,來自東方的牧師,對東西方宗教、文化都有非常深刻的研究。 在其牧師生涯中,尤其註重考證,澄清歷史事實,探尋聖經深意,兼收博採,不分門戶派別。 延續耶穌精神,不與世俗妥協,引領基督徒回歸真理、造福社會。
查經學習小組Whatsapp: https://chat.whatsapp.com/HElK31FQalL6lMScjY9MM9 郵箱:[email protected] 網站:www.wiselight.org
2 notes · View notes
keredomo · 1 year
Text
マティス、バッハ、フルニエ
Tumblr media
 連休前半を使った京都出張から戻って二日間の平日を働き、ゴールデン・ウィークの後半に突入した。初日には東京藝大の買上展と都美のマティス展をはしごすることが叶い、連休を充実させようという気力が湧いている自分に安心する。  先年に生じたあまりにも苦しい出来事の傷によって長いあいだ鬱状態に陥っていたが、親しい人々の助けと輸入したサプリメントの服用によって半年かけてなんとか回復したようだ。連休二日目の今日も、最近サードプレイスとして活用している大学図書館へのおでかけを実現した。あの頃のままの私だったら、昨日も今日もひたすらに酒を飲んで鬱々と自傷し、現実から解放されるために昏昏と眠り続けていただろう。そんな精神状態は、この五月晴れにはふさわしくない。
 マティス展は、客層の顔がやたらとよかったのが印象的だった。私は実はマティスをそれほど好きではなく、あの仕込んだようなおしゃれ感がどうにも苦手なのだが、それは私が野暮ったいからで、おしゃれな人はマティスのおしゃれに怯むことはないのである。マティス展の観客たちの多くは、かっこつけるという気恥ずかしさに怯むことなく自らのスタイルを行使していた。なかでも印象的だったのが初老の女性たちで、彼女たちはみな、白髪をぎゅっとポニーテールにしてデニムを身に纏い、高級なデザインの施されたシルクのスカーフを首元に巻き、慈しむような薄い微笑みを浮かべながらマティスの描いた絵をじっと眼差していた。
 マティスが切り絵で『ジャズ』を作った時期の作品たちを眺めていて、佐藤のことを思い出した。  佐藤とは、二〇代の前半から半ばにかけて関わっていた男だ。下の名前は知らない。たしか十以上歳上で、顔と体格が美しく、服のセンスがよく、言葉のセンスもよく、職業選択のセンスもよい男だった。佐藤は当時、高級で質の良いものを扱うセレクトショップの広報に就いていて、音楽喫茶に通うのを趣味としていた。聞き出してみると、どうも、縁ある女性と中央線沿いの無理のない駅に暮らしているらしかった。一緒に暮らす女性があるのに私にも手を出そうとする佐藤は社会的誠実さを欠いていたが、他者がもたらす偶然と知識とに貪欲だった当時の私にとってそれはどうでもよいことだった。他者が私を食おうとするとき、私は相手が食う以上を食う。それだけが信条で、その信条がゆえに私は自身が傷つくことにひたすら鈍感だった。傷ついた以上に得るものを得ていた、その好例が佐藤だ。
 佐藤は磨いてきた自分のセンスに自信を持っている男だった。私の、文化的に未熟ながらも野蛮にほとばしる文学的才覚に気づいて、その芽を育てることに夢中になっていた。自分が力を注いで洗練させた美しい趣味を私に授けることに喜びを見出しているようだった。実際に、佐藤はよい趣味をしていたと思う。  趣味のよいとされる音楽と趣味のよいとされる香水を、佐藤は私に叩き込んだ。音楽について、一つはグールドだった。当時の私は、グールドの名前すら知らないほど音楽に無知だった。今思うとあまりにも恥ずかしい無知だが、知的にある程度の分別がついてから初めてグールドを聴けたのはいい経験だったかもしれない。ピアノを習った経験からクラシック音楽を聴く習慣はあったが、プロコフィエフもブラームスも、グールドの演奏を聴くまでよいと思ったことはなかった。  グールドをひとしきり聴かせた後、佐藤はピエール・フルニエの演奏するバッハの無伴奏チェロ組曲のCDを私に手渡した。フルニエのチェロが奏でるバッハは身悶えするほど素晴らしかった。初めて、バッハに神の幻影を見出す人間の気持ちがわかった気がした。演奏はきわめてポップなのだが、そのポピュラリティが一般的な人間と神とを接続する可能性を持っているような気がした。佐藤に渡された二枚組のCDの、アルバムカバーを飾っているのがマティスの切り絵だった。  フルニエの音楽は全くもってジャズではないので、そこにマティスが飾られている理由はいま見返してもよくわからない。フルニエの演奏するバッハとマティスの切り絵は、かけ離れた存在同士であるように、一瞬思った。が、確かめるために改めてフルニエのバッハを聴くと、そこにマティス的な抑制を感じなくもないのだった。
 マティスの絵画やデッサンは、音楽的と称されるごとく、自由でのびやかな筆致でなされているように、一見するとみえる。しかしそこには恐ろしいほどの抑制が働いている。心のままにあと数センチ伸ばしたかった筆を、ぐっと堪えることでしか完成し得ない画面が、そのタブローの内側に見える。マティスの忍耐をタブローが受け入れ、見事な画面を成立させていることが、その絵をよくよく見ると伝わってくる。  フルニエのチェロもそうだ。「この音を伸ばしたい」と、きっと誰もが思う瞬間に音を切っている。まだ響き続け得る音を、指ではっきりと止めているのだ。マティス展に飾られた夥しい作品を眺めてからフルニエを聴き直すと、そういうことが新たに見えてくる。  佐藤というのは、おそらく偽名だったのだろう。日本における最も一般的な名字を名乗って、自分というものを晒さず、匿名性のもとで私をどうにかした男だったのだろう。それを為すモチベーションがまったくわからなくて、意味不明な存在である佐藤のことを、私はこれからも時々思い出しながら暮らすのだろう。
7 notes · View notes
patsatshit · 7 months
Text
【更新日変更のお知らせ】
来週からは土日限らず、お互いのタイミングで更新していきます!今後ともよろしくお願いします。
ーーーーーーーーーーーーーーー
ようやく観に行けました『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』。
今回も3時間を超える大作。だけど夢中にさせる筋と迫真の演技のおかげで長尺であることを忘れてしまっていた。アメリカの歴史における暗黒の章に光を当てた、示唆に富み心揺さぶられる映画だった。
新たな富の発見により、支配と資産を求める冷酷な人間の標的となったオーセージ族。映画では彼らの最も悲惨な苦しみを描いている。人間の貪欲さ、人種差別の永続的な結末、歴史を清算することの重要性をタイムリーに思い出させる。人間の残虐行為の根底にある残忍さと暴力性を見事に表現した映画だった。
.
とにかく主演の3人(ディカプリオ、デニーロ、リリー・グラッドストーン)がすさまじかった。
デニーロが演じる正常化された人種差別主義者のキャラクターは壮観で、スクリーンに現れるたびに恐ろしくて不吉な予感が漂ってきた。この感覚はそれまでのデニーロ映画でも感じてきたことだが、彼はスクリーンに登場するやいなや、その荘厳かつダイナミックなオーラで画面越しに我々を圧倒してくる。キャラクターによっては異常な恐怖心を覚える。本作でもデニーロの凄みが遺憾なく発揮されていて、ただ恐れ入りました。
Tumblr media Tumblr media
Robert De Niro is No.1 actor in the world @imdb
善良な男から叔父に操られるがまま深い闇に堕ちていく主人公アーネストを演じたディカプリオも圧巻だった。非常に謙虚で醜い男を抑圧的な表情とセリフで見事に演じ切っていて、誠実さとは裏腹の残忍さが際立っていた。
Tumblr media
子役からずっと第一線を走っているレオ様@imdb
そしてなんと言ってもアーネストの妻モリーを演じたリリー・グラッドストーン!彼女のドラマチックな演技には心を動かされた!話し方や表情に絶妙な気だるさがあり、憂鬱さや疲労感がとてもよく伝わってくる。特にディカプリオを伴っての会話や、シーンの端々での凍りつくような痛々しい演技は衝撃的。彼女の力強い存在感、繊細な表情から想像を絶する悲劇に巻き込まれた女性の痛みと回復力が伝わってきて何度も涙が溢れた。
Tumblr media
この映画の大きなサプライズ!@imdb
.
あと裁判のシークエンスがとても上手くできていると思った。一連の出来事の背景事情を明らかにしながら、その先の展開へとスムーズに繋げるために効果的なシーン。映画としてもかなり重要なシーンだと思う。ブレンダン・フレイザーが裁判に関する疑念を操るキーパーソンを演じている。後半にちょろっと出てくるのみなのだけど、すごく印象に残るキャラクターだった。
いろいろあったブレンダン・フレイザー。私の中では(スティーヴ)ブシェミとアダム・サンドラーと一緒にロックバンドを組んでた映画(『ハードロック・ハイジャック』)のイメージが強かったので、こんなシリアスな役もできるんだと(かなり上からの言い方)結構衝撃でした。『ザ・ホエール』も観てみたくなったー。
.
『アイリッシュマン』『ウルフ・オブ・ストリート』の撮影監督であるロドリゴ・プエリトの、キャラクター性を正確に捉えた巧みな映像とスコセッシの演出が今回も予想通りに見事だった。さらに長年スコセッシ作品の編集に携わってきたテイラー・スクリーンメイカーとのコラボレーションにより、各シーンが視覚的に魅了され没入感を与えてくれるものとなっている。どのシーンをみても編集の過程で細部にまで細心の注意が払われているのだろうなと感じられる。ザッツプロフェッショナル!
.
スコセッシは『グッド・フェローズ』や『カジノ』、『ウルフ・オブ・ストリート』と同様、今回もメインキャラクターの態度や性格の変化を明らかにするために、「警察捜査」の部分を引き延ばした脚本を書いているように思った。常にメインの登場人物を真ん中に配置し、プロットを進化させ、観客を混乱させないように配慮している。それにより登場人物が裏切った時にはとびきり驚かされるし、中毒性のある展開を作り出すことができている…のかなと思ったりした。
ともかく衰え知らずの巨匠には恐れ入るしかない。一体どこまでいくんだろう、Martin,Martin,Martin…。
前作の『アイリッシュマン』をみた時「集大成」という言葉を使って感想を書いたけれど、この作品も十分それに値する。これからも我々の想像をはるかに超える作品を作ってほしい。一生ついていきます…。Love, Martin..
Tumblr media
.
ここまで結構な熱量で話してきたけど、この作品は正直自分の好きなスコセッシの感じではなかった。(どてー)だけど、彼のキャリア後期の作品に新たな輝きが加わったと思うと感動してしまう。
すでにおかわり欲でいっぱいです。
ーーーーーーーーーーーーーーー
『キラーズ〜』をみに久しぶりにトーホーシネマズさんへ行った。単館で映画を観ることが多くてなかなか行けてなかった。結構面白そうな映画、やるみたい。
私が気になってる映画5選。勝手に紹介。
***************
・『瞳をとじて』(ビクトル・エリセ監督)
待ちに待ったエリセ監督の新作!『ミツバチのささやき』のアナ・トレントも出るんですって。楽しみ。でもこれミニシアターでやりそうなところ、トーホーさんでやるのね…意外だな!
・『哀れなるものたち』(ヨルゴス・ランティモス監督)
これもトーホーさんでやるんだと驚いた!予告編の時点で毒々しさ全開!誰かとみたい映画。
・『ナポレオン』(リドリー・スコット監督)
リドリー・スコットの新作ということで。
・『サンクスギビング』(イーライ・ロス監督)
これも贔屓の監督案件。『イングロリアス・バスターズ』で「ユダヤの熊」に出会って以来、密かに応援してるイーライ・ロス。この映画の元ネタはタランティーノと(ロバート)ロドリゲスの『グラインドハウス』に収録されたフェイク予告編。それを長尺にしてみましたver.。大体の筋は分かるから正直あまり期待してない……小声。だけどみようと思ってます!!!スキだから!!
・『エクソシスト信じる者』(デヴィッド・ゴードン・グリーン監督)
『エクソシスト』ファンとして興味あり。「正統派」続編とか言われるとどうにもこうにも。本家のエレン・バースティンも出るしなぁ。
***************
しっかし映画も高くなったもんだ…。飲み物忘れたら悲劇。こんなちっさいコーヒーも590円って。もう悔しい、呆れて笑ってしまった。
ーーーーーーーーーーーーーー
『キラーズ〜』を観て大満足した夜、BSで『レザボア・ドッグス』を観た。大好き映画の一つ。マドンナの「ライク・ア・バージンは〜」から始まる井戸端会議、からの壮絶な流血シーン。全画面全映像センスの良さがだだ光り。『パルプ・フィクション』もそうだけど、タランティーノ映画は物語の構成がカッコいい。今回も6人の「Mr.〇〇」の身に起こる出来事(災難)を断片的に伝えるっていう手法、斬新だしかなりいけてる。
Tumblr media
推しはやっぱしブシェミas Mr.Pink🎀
だけど悔しいくらいティム・ロスがかっこいんだよな…。
Tumblr media
ミスターオゥレンジ
点と点が繋がる瞬間がたまらなく気持ちがいい、とても物騒なお話。
タラさんが新作作るたびに脚本をある俳優がバラした云々言われるけど、それくらいタランティーノへの期待と人気が高いんだなぁって再認識させられたりする。
というわけで、ほぼ映画の話題でした!
2 notes · View notes
natuyu-tan · 2 years
Photo
Tumblr media
14 notes · View notes
kennak · 1 year
Quote
「『ハムレット』の研究については、海外のものも含めてほとんどの文献や論文に目を通してきたつもりですが、その解釈は初めてです。私自身も、そんな解釈が可能とは思いもよりませんでした。でも、その解釈は『あり』だと思います」 いったい何が起こったのか? 主人公ハムレットが父親の仇(かたき)として憎むクローディアスのある台詞(せりふ)について、司会の伊集院光さんがさりげなく発した感想が、河合さんの思考を一時フリーズさせたのである。 伊集院さんの直観的なコメントが稲妻のようにひらめき、著名な研究者や作家が一瞬我を忘れてしまう。そんな瞬間を何度体験したことか。更にいえば、この瞬間こそ、「100分de名著」という番組の最大の醍醐味である。台本通りの予定調和を切り裂く一言。それを受けて、一気に場が加速を始める。刺激された講師からも想像を超えたコメントが次々に発せられる。ウィンブルドンでの頂上決戦で一流テニスプレイヤーたちが繰り広げるようなラリーの応酬。番組の進行を俯瞰(ふかん)して眺めているはずのプロデューサーも、恍惚に近い感情に押し流されていく時空だ。 今回問題となったクローディアスの台詞とはこうである。 言葉は宙に舞い、心は重く沈む。心の伴わぬ言葉は、天には届かぬ。 (「新訳 ハムレット」シェイクスピア著、河合祥一郎訳、角川文庫) ハムレットの父親である先王を殺した罪をクローディアスが懺悔(ざんげ)するシーン、ラストの台詞。懺悔室でさんざん懺悔した風を見せて、最後に「なーんちゃって」と、クローディアスは舌を出すわけだ。こんな懺悔なんて噓っぱちだよ、と。 物陰に潜んでこの様子を見つめるハムレットは、懺悔の途中で殺してしまっては、クローディアスを天国に送ってしまうことになる……ということで、クローディアスを殺すことを思いとどまる。だけど、実はクローディアスは懺悔なんてしていなかった。哀れ、ハムレット。ここで殺してしまえばよかったのに……と、舞台を観ている観客がはがゆい思いをするシーンとされてきた。これまでの解釈では。 ところが! 伊集院さんは新たな解釈を打ち出すのだ。 「ぼくは、真剣に何かを話すことが怖いから、本当のことをいった後に、つい照れ隠しで『なんつったりしてね』っていうことがよくあるんです。つまり、クローディアスはここで、舌を出して『なーんちゃって』といっているわけではなくて、『こんな俺が天国に行っていいわけないじゃん。懺悔で許されていいわけないじゃん』って真摯な気持ちで懺悔しているともとれるのではないか」 河合祥一郎さんが青ざめたのはこの解釈を聞いたからだ。クローディアスという登場人物が単なる悪役ではなく、極めて複雑な陰翳(いんえい)をもつ魅力的な存在として立ち上がってくる優れた解釈。一流の研究者ですら思いもよらなかった解釈が飛び出してしまうこの状況を、伊集院さんは、かつてこんな言葉で語ってくれた。 「無知との遭遇」 もちろんスティーブン・スピルバーグの映画「未知との遭遇」をパロったものだが、伊集院さんは、こんな風に説明してくれたのである。 「中卒で教養も知識もない自分のような人間だからこそ、先生方はいつも全身全霊でぼくにぶつかってくれる。だからなんだよね。いつもだったら絶対に出会わないぼくのような『無知』に先生が遭遇したときに、思いもよらない化学反応が起こる。自分自身も全く忖度(そんたく)なしで直観的に感じたことを言葉にしていくと、それが一流の先生方も驚いてしまうような言葉に結果的になってしまう。それを受けて先生も想像以上の言葉を発してくれる。この番組が一番面白いのはこういう響き合い」 伊集院さんの言葉は謙遜にすぎる。ラジオパーソナリティとして長年培ってきたトーク展開力、膨大な数触れ合ってきたリスナーたちの人生、休日すらインプットの時間としてさまざまな体験を仕込んでいく貪欲さ……伊集院光という人間の裾野の広大さが、可能にした解釈だと私は思う。 収録終了後、河合さんは私にそっと耳打ちした。 「秋満さん、ぼく、このネタで一本論文を書けてしまうかもしれません。目が覚めるようでしたよ」
伊集院光さん衝撃コメントに青ざめる講師…「100分de名著」の舞台裏|名著の予知能力|秋満吉彦 - 幻冬舎plus
7 notes · View notes