#歩行者天国始まる
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shunya-wisteria · 5 months ago
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Silent @ Tokyo
多くの人が行きかい、常に賑わっているかのように見える東京の街。でもタイミング次第では静かな一面も。静寂な空気に包まれた朝の街を散歩してみた。
@ Ginza
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高級ブランドの旗艦店が立ち並ぶ都内有数のおしゃれ繁華街。日中は人であふれ歩行者天国も実施されるこの一帯も、早朝の時間帯はどこかゆっくり、寒々しさすら覚える空気が広がる。行きかう車はタクシーと業者のトラックくらい。日中は人の流れに押し流され��っくり眺めることが難しかった街の風景、デザインを競うような特徴あふれる外観が楽しい。
@ Nihonbashi - South Side
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重要文化財 日本橋高島屋本館。時代を感じさせる重厚感ある扉に閉ざされた正面玄関を拝めるのもこの時間ならでは。
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最近めっきり見る機会が減ってしまった電話BOXとからめて前景はレトロな雰囲気を。一方で背景にはそびえたつ超高層ビル。新旧融合したカオスな世界。
@ Nihonbashi - North Side
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こちらも日本橋高島屋と負けず劣らず歴史を感じさせる重要文化財 三越日本橋本店とレトロな雰囲気を引き継いでいる新館。 石造りの外観と赤い日よけ、朝の光に照らされた生まれた陰影、コントラストの美しさが際立っている、ような気がする。
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終わりに
この酷暑の中、とても日中 外を出歩く気になれず、まだ耐えられるかなと思って始めた早朝散歩。その中で日中とは違った街の側面が楽しめることを知り、休日はもっぱら朝散歩をenjoyしています。 ちなみに、散歩後に適当なところでモーニングを食べるところまではワンルーティン。
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kennak · 5 months ago
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その事件は私が1歳の時に起きました。覚えていることはありません。 中国人の父と母は、大きくなってからも私に語ろうとはしませんでした。 中国政府は事件の死者数を319人としていますが、それよりもはるかに多いという指摘もあります。 あれから35年。真相は今も、明らかにされていません。 あの時、私のもう1つの祖国で、何が起きたのか。 (中国総局 高島浩) 日本人の祖母と中国人の両親 私の祖母は日本人です。満蒙開拓団として旧満州に渡りました。 戦後、帰国できずに大陸に残った「中国残留婦人」で、養子に出されていた中国人の男の子を引き取り、育てました。のちの私の父です。 父は中国人の母と結婚。1988年に中国東北部・黒竜江省で私が生まれました。そして6歳の時、国��援護事業のもと家族4人で帰国し、私と両親は日本国籍を取得しました。 私が生まれた翌年に起きた「天安門事件」 1989年6月4日。中国の首都・北京で、あの事件は起きました。 天安門広場に集まった民主化を求める学生や市民たちを、当時の共産党指導部が軍を出動させて武力で鎮圧した「天安門事件」です。 軍による発砲などで多くの犠牲者が出ました。中国政府は死者数を319人としています。 しかし当時、北京に駐在していた各国の外交官の報告などから、犠牲者の数はそれよりもはるかに多いという指摘が根強くあります。 中国政府はこの事件を、政治的な「騒ぎ」で「すでに結論が出ている」という説明を繰り返しています。 「知る必要はない」父のひと言 戦車の前に立ちふさがった市民の姿。民主化の動きを武力で制圧した事件。 天安門事件の前の年に生まれた私は、日本の教育で学ぶまで、こうした事件の表面的な情報でさえ、知りませんでした。真相を公表せず、事件を人々の記憶から消し去ろうと腐心してきた中国政府からみれば、もくろみどおりに育った、ある意味で“優秀な中国国民”だったでしょう。 中学生の時、一度だけ父に事件について尋ねたことがあります。そのときの父のことばが記憶に残っています。 「よく知らないし、知る必要はないよ」 記者になって、父と私のもう1つの祖国でもある中国のことを話すことが増えました。父は自分が共産党員だったことを明かしてくれました。共産党の実態を知っているからこそ、私に忠告したのです。 「天安門事件に関心を持つことで、いつか中国に赴任した時、どのような理不尽な目に遭うかわからない」 遺族取材の担当に もう逃げない 4年前の2020年、希望がかなって中国南部の広州駐在の記者となりました。 当局の厳しい監視下に置かれた人権派弁護士の家族などを取材。私自身も当局者に連行され、警察署に留め置かれる経験をしました。 国家の安全を最優先する習近平指導部は言論統制を一段と強め、外国メディアの取材環境はますます厳しくなっていることを身をもって感じてきました。 天安門事件は、そうした中国社会の中でも最もタブー視されていて、深く取材すればどんな目に遭うのか。恐怖すら感じていました。 私と同じように中国の若い世代は事件を知りません。私がおおまかな概要を話すと、「うそを創作するのが上手ですね」と、まるで信じようともしません。今の中国社会の現実です。 事件がまた1つの節目を迎えたことし、北京に赴任、遺族取材の担当��なりました。 そして、誓いました。事件を深く知ろうともしてこなかった過去から逃げず、まっさらな気持ちで取材しようと。 集会を断念した遺族グループ 6月4日に向けて取材を始めたところ、ある情報が入ってきました。 これまで5年ごとの節目に、遺族グループが開いていた追悼集会が断念に追い込まれたというのです。原因は当局による厳しい監視のためでした。政府が例年以上に神経をとがらせていることが感じられました。 遺族グループの名は「天安門の母」。グループは集会の代わりに先月(5月)、海外の動画投稿サイトに声明を公開しました。 「私たちには軍隊が銃撃に及んだ真相を知る権利がある」 「政府は社会に謝罪し、私たちに公正と正義を返しなさい」 事実を隠ぺいし、遺族の日常生活への干渉を続ける政府を強く非難する内容でした。 そして、いまなお分からない犠牲者の正確な数や名前の公表、犠牲者と遺族への賠償、責任者への法的な追及を求めました。 厳しい監視、通信遮断の面会 声明が公開される少し前、グループの中心メンバーの遺族を訪ねました。今の気持ちを伝えたいと、当局の監視をかいくぐって取材に応じてくれた張先玲さん(86)。 遺族に直接、話を聞くのはこれが初めてです。心臓がバクバクと打つ胸を必死でおさえました。 張先玲さん 呼び鈴を鳴らすと、張さんがやや固い表情で出迎えてくれました。周囲をうかがうように招き入れてくれたあと、すぐに携帯などの電源を切るよう伝えてきました。当局の盗聴を警戒していたのです。 自身も自宅の通信設備の電源をすべて切っていて、奥の部屋に移るまで、会話もしないよう身振り手振りで伝えてきました。 記者を志した息子の死 張さんは、事件で当時19歳だった息子の王楠さんを亡くしました。 記者を志していた王楠さん。天安門広場で起きている歴史的なできごとを記録に残したいと、事件前日の3日深夜、カメラを持って自転車で現場に向かったそうです。 張さんの息子 王楠さん そして4日午前1時すぎ、人民大会堂の北門の向かいで軍の銃撃を頭部に受けました。地面に倒れた王楠さんを現場にいた人たちが助けようとしましたが、軍の部隊が近づくことさえ許さなかったといいます。兵士たちはひざまずいて助けさせてくれという人たちの懇願に対し、「あいつは暴徒だ」と聞き入れなかったそうです。 のちに現場で目撃した人から聞くなどしてわかった当時の状況です。張さんは、中国政府がひた隠しにする、あの事件の真相の1つだと信じています。 なぜあの時… 消えぬ後悔 張さんの自宅のリビングの��には笑顔の王楠さんの遺影がかけられ��いました。毎日のようにその写真に手をあわせながら、張さんは胸にある後悔を拭いきれずにいます。 なぜ、あの時、息子を送り出してしまったのか… 張先玲さん 「天安門広場に向かう前、息子が私に聞いてきました。『まさか軍が発砲することはないよね』と。私は『まさか、ありえないよ』と答えてしまったのです。今もずっとあの言葉を後悔しています。生きていれば、今ごろは父親になって家庭を持っていたでしょう。私の脳裏にある息子は、永遠にあの日の、あの晩の、19歳の時でとどまったままです」 黙り続けることは許されない 王楠さんの遺体はほかの犠牲者とともに天安門の西側にあった中学校前の草むらに埋められていました。雨で遺体は地表から露出し、3日後、衛生当局などによって発見されたそうです。変わり果てた姿の息子。 張さんの脳裏から焼きついて離れず、毎年6月4日が近づくにつれて、張さんは体調を崩しています。 息子はなぜ死ななければならなかったのか。この日も体の調子が悪く、取材に応じてくれた時間は10分余り。それでも張さんは気力を振り絞るように、遺族の声を広く伝えてほしいと、1人の母親としての怒りを伝えてきました。 張さん 「国家が進歩していく上で、この事件が解決されないのは正常なことではない。『人民のために奉仕する』という中国政府が、人民の尊い命を奪っておきながら、なんの説明もなく、30年以上も知らないふりをして黙り続けるのは到底許されない」 「ごめん、生きてくれ…」最後のことば 今、遺族グループの活動の中心は犠牲者の親たちから、そのパートナーや兄弟に移っています。その中の1人に会うことができました。 尤維潔さん 尤(ゆう)維潔さん(70)。事件で当時42歳だった夫の楊明湖さんを奪われました。 政府系の経済団体の職員だった楊さんは、当日の深夜、銃声を聞き、広場に集まった学生たちを心配して現場に向かったといいます。そこで、下腹部に銃弾を受けました。倒れた楊さんをその場にいた人たちがリアカーで病院に運びました。撃たれた骨盤は粉々に砕けていたといいます。 病院に駆けつけた尤さんに、手術室から出てきた楊さんはこう漏らしたそうです。 尤さんの夫 楊明湖さん 「ごめん、しっかりと生きてくれ」 2人が交わした最後の会話となりました。2日後、楊さんは息を引き取りました。わずか6年の結婚生活。国によって突然、終止符を打たれました。 尤さん 「35年がたっても、あのときの記憶は少しも消えていません。一瞬一瞬が頭の中に残っています。夫を見守った2日間で涙は流��尽くしてしまい、今はもう出ません。遺族は皆、この世を去らないかぎり、暗い記憶の中を生き続けるのです」 若者たちはなぜ立ち上がったのか 天安門事件とは結局、何だったのか。その疑問を持ちづけていた私に、尤さん��「若者たちが立ち上がったのは、社会に対する責任感だった」そう説明してくれました。 天安門事件は、1980年代に共産党トップの総書記を務め、言論の自由化など政治改革にも前向きだった胡耀邦氏が4月15日に突然、死去したことに端を発しているとされています。 胡氏は、学生の民主化運動に理解を示したなどと保守派に批判され、失脚していました。 学生や市民による胡氏の追悼集会は、民主化を求めるデモに変わり、各地に拡大。5月には10万人が参加する大規模な集会に発展していきました。訴えは汚職の撲滅や言論の自由などを求める社会的なうねりとなっていったのです。 天安門広場に集まった市民や学生たち 尤維潔さん 「当時、北京の市民は皆、天安門広場にいた学生たちをとても心配していました。特に印象深いのは、戒厳令が最初に出された日です。市民たちが天安門広場に軍隊を行かせてはいけないと、路上にバスを止めて道路をふさぎました。多くの人たちが、ハンガーストライキを続ける学生たちに食料や水を届けていました。すべてが自発的な行動だったのです。その光景に私はとても感動しました。政府はなぜこうした状況を理解できなかったのか、思い出すと、今でもとても腹立たしい」 “隠ぺい”と“沈黙”の35年… さらに大事なことを話してくれました。 当時、軍によって制圧された天安門広場やそれに続く大通りなどあちらこちらには死体の山があったそうです。連絡が取れない人も多く、尤さんの夫とともに病院に運ばれ、その後死亡した男性も身元が分かっていなかったといいます。 しかし、中国政府は事件発生から犠牲者や行方不明者についてほとんど説明を行ってきませんでした。それどころか、事件から1年余りの間、政府は「天安門広場に行ったのか」や「デモに参加したのか」など多くの人に聞き取りを行うなど徹底的に調査していました。 尤さんはこうした政府の心理的な圧力が、今の中国社会につながっていると語気を強めて訴えました。 尤さん 「政府の圧力によって、市民は自分たちの家庭で何が起きたのか、言い出すことを恐れていきました。時間の経過とともに真相を語る人を探し出すことはいっそう難しくなっています。今では多くの人が事件についてよく知りません。35年がたち、若い世代は天安門事件に関心すらない状況です。これはこの間、政府が隠ぺいと沈黙を続けてきたからだと思います」 メッセージアプリに突然、使用制限 今、中国政府は、事件を国民の記憶から消し去ろうとする動きをさらに強めています。 遺族グループの今の活動の中心メンバーとなっている尤さんに対する監視は、6月4日が近づくにつれて厳しさを増していました。 尤さんのメッセージアプリ「ウィーチャット」は、4月ごろから機能が突然、制限され、ほかの遺族とのグループでのやりとりが一切できなくなりました。 ウィーチャットは中国国内では、使っていない人はいないほど、最もポピュラーなSNSです。“遺族どうしがつながることを阻みたい”、35年という節目に当局が神経をとがらせている様子がうかがえました。 尤さんが所在不明に 警告、そして尾行 尤さんに話を聞いてから、およそ1か月半たった先月(5月)31日。私は再び彼女の自宅を訪れました。もう一度話を聞きたい、そう思ったからです。 しかし、不在でした。連絡すらつかず、所在がわからなくなっていました。 自宅から立ち去ろうとした時、突然、警備員に呼び止められ、「何をしに来た。2度と来るな」そう警告されました。さらに、私服警察官とみられる2、3人の男たちが、私のあとを追うようについてきました。尾行は、私たちが車に乗り込むまで続きました。 尤さんとようやく連絡がついたのはその4日後、6月4日の午後でした。電話口の声は重く、監視役としてそばにいるとみられる当局者らしき女性の声が聞こえました。 「しばらく自宅にいることができない。近況も話しづらい。ごめんなさい」 短く状況を伝えてくれました。身に危険はないか心配する私に、彼女は「大丈夫」そう返し、電話は切れました。 男たちに囲まれて警告、墓地に近づけず あの日が近づくにつれて、天安門を東西に突き抜ける大通り「長安街」は異様な雰囲気に包まれていきました。前日3日午後、同僚のカメラマンが、多くの犠牲者が見つかった木※せい地という場所に向かいました。(※木へんに「犀」) 今は地下鉄の駅があり、隣には警察の派出所が設けられています。撮影機器が入ったリュックサックを開けようとした瞬間、十数人の男たちに取り囲まれ、立ち去るよう警告されました。 厳しい警備の共同墓地 6月4日の様子 そして4日当日。犠牲者が埋葬されている北京郊外の共同墓地には、多くの警察官が配置され、厳戒態勢が敷かれていました。近づくことすら許されず、命日の墓参りに訪れる遺族への取材はできませんでした。 天安門の叫び、今も 「天安門事件は、中国共産党による『国民の虐殺』にほかならない」 遺族たちのこうした訴えは「人民のために奉仕する」という共産党の正当性を、根幹から揺るがすことになりかねない、そう政府は考えているのかもしれません。だからこそ、政府は沈黙を貫き、時がたち人々が事件を忘れ去るのをじっと待っているように感じます。 かつて、私に「知る必要はないよ」と語った父と同じように、多くの国民が知らされずにきた35年。 それでも中国国民のなかには、天安門広場で民主化を叫んだ若者たちと同じように、一党支配への不満や、社会への責任感を持つ人がいます。 北京での白紙運動(2022年11月) おととし、中国政府のゼロコロナ政策への不満を背景に起きた抗議活動「白紙運動」。 そして去年、李克強前首相の急死後に各地で広がった追悼の動きと現指導部を暗に批判する追悼のことば。 私は、もう1つの祖国で今、事件とどう向き合うのか。 取材に応じてくれた張さんと尤さんの2人のことばを反芻しています。 「生きている間��事件の解決は見ないかもしれないが、それでもかまわない。 息絶えるその瞬間まで、生きているかぎり、訴え続ける。あなたも、この声を多くの人に届けてほしい」 (6月4日 ニュース7などで放送)
中国の習近平政権下で強まる抑圧と監視 天安門事件35年 記者にも尾行が?遺族が訴え続ける意味とは? | NHK | WEB特集 | 中国
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cctrain0722 · 12 days ago
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憧れの山「トムラウシ山」縦走登山へ!~後編~
化雲岳のシンボル?な大きな岩の脇にはエゾルリソウが風に揺れていました。 ここから五色岳分岐まではお花畑の天国… 雪解け具合によってチングルマの花と綿毛が混在し、クモマユキノシタやツガザクラちゃん達の群落で心も身体も癒されっぱなし。最高じゃないか…と思ったのもつかの間、3日間担ぎ続けたことによる疲労がなかなかのものであると実感せざるを得ませんでした。
写真を撮るたびに30kg担いでスクワットをしているようなもの。自分の体力ステータスを知ることができたいい機会になりました。
くたくたになりながら忠別岳避難小屋へと歩みを進めます。 道中ちょっかいをかけてくるようなハイマツに脚や腕が持っていかれながらも、なんとかお昼過ぎには到着。 ついてまずやることは雪渓でビールを冷やすことです(笑) …にしても雪渓が小さいとのこと。このままではヘタしたら8月、9月にはなくなっているんではないか…という量。 それでもキンキンに冷えた雪渓の水は火照った身体をいい感じに冷やして気分爽快!
翌日は強風と雨予報という事もあり、人生初の山小屋泊となりました。かわいい三角屋根がとても好み。 他の登山者も少なく、静かな山小屋。すぐ近くの水場にはエゾコザクラの群落もあり、ロケーションも環境も非常にいいじゃないか…と感心しました。ちょっと隙間風があったりしますが何のその。
ここでなんとお師匠のお友達が登場!かつての大雪山や登山道のこと、雪渓や生き物のことなど話に花が咲きます。 人とのつながりが山での思い出をより一層濃いものにさせていきますね。幸せな気持ちで寝袋に入りました。 夕方からなんだか嫌な風が吹き始め、夜遅くには小屋に響き渡るほどの暴風雨になりました。
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翌朝は一瞬雨が止むタイミングがあるものの、雨風強し。他のパーティは停滞を決めたようです。 我々は来た道を戻って帰るだけ。ギリギリ拾えた電波では下界は天気はいいみたい。 覚悟を決めて雨天行動装備で山小屋を出発します。
朝一の雪渓は固く滑ることは知っていましたが、登山靴単体では本当に歯が立たないこともあることがわかりました。 雪渓を回避し稜線に出たら、おそらく20m/s近くはあるんじゃないかという横風に叩きつけられます… こんなときにハイマツ帯はありがたい!昨日まで厄介だと思っていたハイマツが天国に感じました。
写真を撮ることもなく淡々と下山していきますが、行きで通った”とんでもない木道”に風雨が合わさり、非常にカオスな環境になっていました。 疲労も重なり、人生でこんなに大変な道は歩いたことはないなと再度思い知らされることとなりました。
やっとの思いで沼の原にたどり着くと雨はやみ、昨日歩いたトムラウシ山がちらっとだけ姿を見せてくれました。 ここからのトムラウシ山全容はまたの機会に、と次回への宿題を噛み締めて無事怪我無く下山しました。
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初めての3泊4日縦走登山、初めてのトムラウシ山、初めての岩場-荒廃木道攻略。 この旅で得られた経験値と知識、そして雪渓そうめんやお酒のうまさはかけがえのないものとなりました。
こうして登山にのめり込んでいく…そんな気しかしません(笑) 私の見ていた大雪山はほんのわずかで、また違う時季には別の花畑や風景が広がっています。
私の大好きな写真家星野道夫の言葉。
『人間にとって、きっと二つの大切な自然があるのだろう。一つは日々の暮らしの中で関わる身近な自然である。そして、もう一つは日々の暮らしと関わらない、遙か遠い自然である。が、そこにあると思え���だけで心が豊かになる自然である。それは生きていく上で、一つの力になるような気がするのだ』
今回の山行はその「遠い自然」を感じ、今後のアクティビティに大きな影響を与えると確信しました。
…今年もあとわずか。 今年は無積雪期にバイクで東北へ2度行ったり、MTBで離島を走り回ったりしましたが、一番大きく印象に残っているのはこの山行で間違いありません。 この山行だけは今年のうちに振り返っておきたい!感じたことを言葉で残しておきたい!と思い、いつもより長文な投稿となりました。
結局このあと別の山に登ることになるのですが、それはまた後日。 いつも見てくださりありがとうございます。
----- ・CT 3日目:南沼(0637)-天沼(0857)-化雲岳(1104)-五色岳(1247)-忠別岳避難小屋(1345) 4日目:忠別岳避難小屋(0548)-沼の原(1015)-クチャンベツ登山口(1209) 合計行動距離:56km 獲得標高:2636m (トムラウシ山3泊4日縦走、おわり)
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megane-yarou · 1 year ago
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起業を考える人に対してNISAとiDecoを使って「経営者の条件」を話したいと思う。「将来起業したいが、今何をすべきか?」と、日常的に質問を受けるようになってきて、僕は「持ち場で突き抜けた結果を出す」事と伝えてきた。 だけど、話していくうちに、投資を全くやっていない人が多い事に気がついた。 結論から言うと、起業したい若者は、新NISAとiDecoぐらいは今直ぐ始めよう。 投資の達人が多いXの住人には笑われるかも知れないが、起業のアドバイスを求める人は、何の投資もやってない人が殆どだ。 恐らく、みんなが憧れる起業家は派手な人が多く、地味な投資の話をしている人が少ないからだろう。一部の天才の、派手な事業にばかりに目が向いてしまっている。 地味な投資信託に興味が向かないのは無理もない。 だけど、こんなに投資効率が良いものを面倒がるような、行動力のない人に起業は難しい。更に言うと、こんな勝率の高いものに怯える人は、勇気と知識が足りていない。 これらを短期投資のギャンブルと勘違いしてる人も、会社を長期運用する適正がないだろう。会社員かフリーランスで生きていくのが合っている。 事業は投資の連続だ。 全てにおいて、あらゆるリスクが付きまとう。建物への投資や、採用も広告も全て投資だ。銀行から借入した資金をどこに投資するか、常にリスクとリターンを天秤にかけて決定する。 日常的に投資判断を繰り返し、全責任を一人で背負い、決定を正解にする為に、行動し、ダメなら損切りしてピポッドだ。 NISAもiDecoもその練習台として、若いうちから始めるには丁度��い。難易度で言うと、���ームのeasyモードより優しい、チュートリアルぐらいだ。国が推奨して税控除のバックアップ付き。事業で容赦なく取られる税金が、ここでは逆鞘のチート状態なんだ。他ではあり得ない優遇だ。 それに、投資は自ら知識を付けて、勉強し続ける必要なんかない。僕の場合は、専門家の意見を採用して、その通り実行してるだけ。自分の脳は「人選び」にだけ使い、あとは様子を見てるだけだ。他人の脳を使うのも、組織運営で重要なスキルだ。 何でも自分でやりたがり、人に任せられない人の組織は伸びない。 ここまでくどくどと書いたが、伝えたい本質は「リスクを取る行動をしろ」だ。 本を読む、NewsPicksを見る、講演会に行く、は全て有効だけれど、リスクへの慣れと投資の感覚は、やった人間にしか絶対に分からない。 将来何者かになりたい人や、現状の課題を解決したい人にとって「起業」は最も有効な選択肢だ。成し遂げた人が、決まって言う「リスクを取れ」「行動しろ」を直ぐに実践するところから始めよう。 この2つが「経営者の条件」だ。 人生は自ら作っていくものだ。願ったり、語ってるだけでは、何も変わらない。行動する事で、初めて人生は作っていける。 2024年が、あなたの人生を変える一歩目となる事を、祈ってます。
Xユーザーの中野優作|新車を作らず、愛車を作ろう。さん
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chisasarasa · 7 months ago
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240225
朝、これまでどおりにドローイングから始める。 いつもとちがう質感がうまれる。りんかくがたっている。 最近、マンネリ化を感じていて何か変えようか、と思っていたけれど、何か変えようとしなくても、変わっていくものらしい。
一日中家にいたら、滞ったのか、気持ち悪くなってきたから、外を歩く。 当たり前に雪がある。 北海道に引っ越してから、ずっと車でしか移動していなかったから、自分の居場所が感覚として、一致していなかったのかもしれない。 雪を踏む。 雪と氷はちがう。
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240226
朝、せかいから取り残されたみたいな気がする。 月曜日になっても、わたしは仕事にいかない。 窓の外では雪が降っている。予報通り。 寒さの質が関東とはちがう、と思う。 数字で示されて受け取るしかない寒さ。
昨日からクッキーが食べたくて、でも外には出たくなったから、つくった。 時間があるって、すごい。なんでもできるんだ。 アイスボックスクッキーをつくった。 全卵にしたからか、硬くなってしまったけれど、それもよくて、ガシガシと食べた。
夜、雪は積もり積もって、道なんてなくなっていた。
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240227
朝、身体の頭の方、窓の方から音がする。 ごりごりといっている。 何の音かと思えば、誰かが雪かきをしている音だった。
駐車場のどの車も小さな雪山になっている。 雪はあれからさらに降ったらしい。 赤いスコップで、わたしも少しだけ雪かきをしてみる。 長靴と防水手袋を買おう、と思った。
前に2人で暮らしていた部屋は収納が多かった。 今、また2人で暮らし始めた部屋は収納が少ない。 ダンボールの中身を片付けようにもしまうところがなくなってしまった。 無印良品とニトリに行く。 商業施設に入っているわけではない店舗はのっぺりと広く、静か。 ゴミ箱とストッカーと、こまごまとした収納用品を買う。 部屋を選ぶって難しい。 収納が少ないだけで、収納を買うお金が必要になってしまった。 広くはない部屋なのに。
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240228
朝、気持ちが悪い。 二度寝して、ねすぎてしまった。 りんご、バナナ、パイナップル、キウイ、グレープフルーツ。 冷凍庫はフルーツでぱんぱん。 ひとり暮らしになっていた彼はスムージーをつくることにはまっていたらしい。 朝ごはんにつくってもらった。おいしい。
散歩にいく。 道路の全面が雪で白く覆われているから、白線もオレンジの線も、止まれもなくて、どこを歩いてもいいような気がした。 歩行者天国。 公園のベンチは埋もれていて、背もたれだけがふたつ並んでいる。 屋根のひさしとか、木の枝とか、ありとあらゆるものから、透明なつららが垂れている。 木には緑の葉があって、落葉樹ではないってこういうことか、と思った。深い緑とまぶしいくらいの白のコントラストが美しい。 絵本の中のクリスマスツリーみたいだった。 みるものすべてが新鮮で、よちよちと歩いた。
夜、線で絵を描いて、少しストレッチをして、ねた。
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esoterics-posts · 6 days ago
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キリストの身体
この世に生を受けたこの身体ほど真我に近いものはない。日頃、食べ、飲み、息をして、風呂に入り、生活し起きている間は誰も否定できない。瞑想や死や寝ている間は『精神世界』の霊的個性の自己同一性が重要である。真我は死を超越するエネルギーであり認識を通して帰還の道となるー。
神の下では、誰しもが平等に大切である。誰もが救われたいと望み、貧しさや生活の困窮の中で日々の生活の困難に直面する。問��は生きるための権利と義務が煩雑で複雑である事である。簡素で、素朴で、然し、安定した生活が大切であり、其れが保証されるべき『共同体』国家と国民の義務であるー。
属性
職業の適性が何よりも優先される。得意ではないことは其れが何れ程、力を注いでも、見返りの見込みのないものである。其れほど適性は大切である。『ケセラセラ』我々が望むものや、なりたいものは単なる願望にすぎず、あるがままに、無条件にそう在る事ではない。国家に望むことは生活であるー。
型と色
①カロリー、②たんぱく質、③ビタミン、④糖質、⑤ミネラル、⑥脂質、⑦カルシウム
素粒子は霊(要素ーエレメンタル)であり、大切であるが、食事の偏りと過食は、万病の基である。
❶肥満、❷老化病、❸癌、❹糖尿、❺疫病、❻痛風、❼身体障害
①力②瞑想③分食⑤栄養学⑥睡眠⑦ゲノム
AIマッチング
就労や職業選択、受験の際に、お見合いに、使うべきものである。ぼくは非凡であれど秀才ではないので、霊的教師と音楽家、そして魔法特に超能力にも興味があるが危険である。低位心霊能力の開発は避けるべきである。絶え間ないエネルギーの伝導瞑想と霊能力と精神集注と奉仕を推奨する。
念力からメンタル界へ
スープン曲げとは理性の崩壊を誘発する。ぼくはメンタル極化により此れが不可能になった。ところで、相手に自分の理想を押し付けることは賢明ではないが、芸能人のゴシップネタの様な落ち着きのない猿のような忙しない心を落ち着ける為に音楽による精神の安定が有効であるー。
日本人改造宣言
一箇所に留まっていてはいけない型を打ち破り、昨日を越えて行け!『在るがまま』を生きることの大切さと周囲の無理解という困難を越えて生きる事は囚われない創造主として大事な私的視点を加味する事になる。ぼくの心はいつも昔に同一性されて🇮🇹や🇪🇸や🇮🇳
🇹🇷や🇯🇵や🇨🇳etc.『舌の記憶』
カタストロフ
創造物(型あるもの)は崩壊現象。死と共に私達の精神や知性や機械でさえ構造物は全て壊れ、軈て失われる。だから、DATAの引き継ぎは大切である。音楽では楽譜、ランドスケープ、ピアノ演奏、イラスト、習字、タイピストの手や論理性は死んでも残された情報の痕跡であるー。『儚い夢の跡』
R覚者ー原因と結果の法則
❸→❶
父と母ーカルマ(業)の法則ー❶→④→❸
ゴータマ仏陀ー再生誕の法則❶→④→❼→⑧∞
自由意思ー
∞(情報のソース)→❶
エドガーのコイントス
ー確率ー
②→❶
神の意志ー
❼→④→❶
プトレマイオスとベンジャミンそして全てのイニシエートに敬意と感謝ー。
意(マナス)
#DK覚者 (チベット・ロッジ)のレベルの情報は難解である。#アリス・ベイリー によって与えられた『秘教科学』は緻密に宇宙の構造と神秘についての洞察に富んでいる。心理学の深淵さと覚者方の厳しさと忍耐には頭が上がらない。双方向のメンタル・テレパシー(思念伝達)は稀有であるからー。
既知と未知
❼機械論的・科学的マインド(聖霊)の状態である②④⑥頭脳の❸識別力は『分神霊』であり神経の中にある器官であるナディに合成された精妙な❺ガス(気体)状でできている。⑥パイシス(双魚宮)と❼アクエリアス(宝瓶宮)の宇宙にある霊的な❶『統合のエネルギー』が働いている。②『伝導瞑想』
(不)信仰
キリスト教の原理主義者が唯一の「イエスは神でなくてはならない」とか、(唯物論的)科学者が「ダーウィンの進化論が真である」、「宗教の殆どが偽りである」とか「哲学は何もなしていない」などと言う事は無知に満ちている。『意識の進化』を信じているなら『幻惑』や『錯覚』に注意し給え!
主義
私は云々であるというとき、我々は我々の間に対立を生む恐れがある。在りと凡ゆる物事の嫌悪や善悪に対して、我々は我々の社会を異なる価値観で分断してしまうだろう。必要なのは社会の『調和』であり、『平和』であり、『非暴力』である。観念自体は象徴であり、対立を生む人工物に過ぎないー。
❺記憶自体
コロナウィルスの顕現は人類に対する避けがたい受難でした。これからの④芸術科学(素粒子の霊性)と❺化学医学(構造の形相)の重要性は言い過ぎる事はないです。全ては崇高な魂(全ての霊的な本源へ戻る旅路)の為の犠牲に違いない。無力は承知の上で皆様に御願いしますー。『人類科学の進歩』
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与え与えられ
日々与えられた物事に感謝して、生きていきます。
霊(言葉と絵)を尽くして、自我である個性体(パーソナリティー)を神である真我((宇宙)意識体)である魂の供物に捧げます。ごちそうさまでしたー。神に感謝して、命に感謝して、親に感謝して、先生に感謝して、食べ物に感謝してー。m(_ _)m
安定
人間の生き方に自由などはない。せいぜい
自分の自我の領域の中で我が儘な意思のもとに約束事とサービスの間で比較的自由な裁量があるだけである。
10割 Android
百分率で言えば100%
太陽系 9段階
人間レベル99が限界
100以上は死ねない
~255 霊界 
1000(1T)
16次元 宇宙全体
聖なる科学
霊の数学と哲学と美学としての音楽と美術を尽くして神的存在に触れる魂である自我の拡大と、霊である真我に帰絨する瞑想の帰還の道。真に純粋な理想的なイデアの想像力の究極的に完全な世界(実��)の上からは、太陽系が16個あり、太陽系外地球の兄弟の惑星も16個あるー。
解釈学
循環する霊と宇宙について
#インテリジェント・デザイン(知的創造論)からの『秘教数秘術的』なコンセプト(意匠性)ー2進法、10進法、60進法ー『カバラ数秘術』、『秘教哲学』、『七光線心理学』『神智学』、『素粒子物理学』、『情報工学』、『陰秘学』『数学』、『強迫性』、『偏執狂』
外部と真理
②主観と❸客観について私達が認識できるものは❺記憶であり、④イメージであり、❸認識性であり、②デジタル信号であり、❶霊である。❼存在を創るもの、⑥在ったと信じるもの、❺在ること、④在るかもしれないもの、❸これから在ること、②視えるもの、❶霊(的精神)性。『真我認識』
形式と存在
『モナド』ライプニッツ
『素粒子』精霊主義
『クオリア』アストラル体
『考える葦』パスカル メンタル体
『精神と物質』デカルト 物心論
『宇宙四次元』アインシュタイン
『時間と空間』ニュートン
『物自体』カント
『質料』プラトン
『弁証法』ソクラテス
『形相』アリストテレス
ライヒ『オルゴンエネルギー』
シュタイナー『エーテル体』光子
ユング『集合的無意識ー幻型』
フロイト『リビドーと超自我』
アドラー『目的論』
ニーチェ『永劫回帰』
ハイデッカー『存在と時間』
サルトル『存在と無』
ラカン『想像界・象徴界・現実界』
キリスト『三位一体』
盤古『陰陽』
ヴント『内観』
プロティヌス『一者』
エンペドクレス『風・火・地・水』
デモクリトス『原子』
チェリオ『量子色力学』
ジョブズ『Apple製品』
ダリ『心理学から科学へ』
モーツァルト『曖昧な調和』
小室哲哉『宇宙の美化』
坂本龍一『現実』
小林武史『夢と魔法』
宇多田ヒカル『宝瓶宮の水』
植松伸夫『劇場音楽』
天野喜孝『ファイナル・ファンタジー』
楠瀬誠志郎『シリウス』
すぎやまこういち『ドラゴンクエスト』
鳥山明『ドラゴンボール』
高橋留美子『めぞん一刻』『犬夜叉』
桂正和『DNA』『シャドウ・レディー』
貞本義行『エヴァンゲリオン』
宮崎駿『ロマン派』
久石譲『映画音楽』
スピノザ『心身一元論』
クリシュナムルティ『私は何も信じない』
キリスト・マイトレーヤ『分かち合って世界を救いなさい』
ベンジャミン・クレーム『始まりは近い』
江原啓之『オーラの泉』
大槻教授『プラズマ』
韮澤さん『たま出版』
イエス覚者『救世主』
仏陀『真我』
プレマ・サイ『超心理学』
フェルメール『レースを編む女』
3ー7ー4ー2ー7(2.4)
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宇宙
針仕事の周りを描く『フェルメール』の絵の中に宇宙が回っている事を、夢と現実の間を行ったり来たりするシュールで、冗談好きの地獄ではないまでも煉獄に居る『ダリ』は知っていた。如何なる小さな物事でも、大切な人の存在は守りたい。大切な命に寄り添い生きていきたいものである。
『来世』
サルバドール・ダリ『レース編みの娘』
6ー4ー6ー4ー7(1.6)
(フェルメール・ファン・デルフトの絵の模写)
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「ダリ全画集」の『レースを編む女』
ダリに心の底から同情します。イニシエートの低さには右利きで頭の精神の線が細いスマートと云う理由と、光線構造が非常に高いのには、人類の輪廻転生を担保したいのと、神であるサルバドール(救世主)でありたいと言う野心と、謙遜と、拘りがあるから���すー。
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芸術家と科学者
『ピカソ』は拘りのない自由な心の境地でどんな画家のスタイルも直ぐにマスターして、同じ場所に留まらずにどんどん変化する秀才。純粋無垢な子どもが描いた様な平気で、破壊的な創造で醜悪さをも描く。『ダリ』は古典的な描き方で言語性の強い鬼才。神に見いだされた犠牲者ですー。
ダリでもピカソ
二人ともきら星のような才能があるので何回輪廻しても本物の神になるべきです。業の深さは恐ろしくダンテの言葉を借りれば「まるで生きていることが呪われている様でこの地上以外に如何に『地獄』と呼ぶ事ができようか?」と言う程、人生を生きるのは大変です。才能の有無に関わらず。
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パブロ・ピカソ(2.4)
7ー4ー1ー6ー3
『サルタンバンカの一家』
パブロ・ピカソ『パイプを持つ少年』
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アンリ・マチス(2.4)
3ー6ー1ー4ー7
『ブルーヌード』
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myonbl · 9 days ago
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2024年12月17日(火)
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朝一で下京区役所に用事があったので、バス停へとやって来た。すると、交差点にもバス停にも<全国高校駅伝>の告知があるではないか。京都の冬の風物詩としてすっかり定着しているのだが、ここしばらくの私の生活はそんなことに気づく余裕がなくなっていたらしい。いかんなぁ、どんなときでも周りが見えなくなっているのは危険だ。気持ちをリセットし、余裕を持って残り2週間を乗り切ろう。
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5時30分起床。
ツレアイもすぐに起きたので、早速洗濯開始。
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朝食を頂く。
洗濯物を干す。
珈琲を入れる。
可燃ゴミ、今日は多い、30L*1&45L*4。
ヤクルトさんから、野菜ジュースを購入する。
彼女は午前中に訪問1件、9時30分出勤とのことで、先に私が下京区役所へ出向く。使わなくなったテプラを処分するためだ。
帰路のバスで西大路花屋町、セントラルスクエアだココの療養食を購入する。
南側のセブンイレブンで、2/15(土)の天満天神繁昌亭汗席のチケット発行、加えて大型ゴミチケットを1枚(400円)購入する。
コレモ七条店、豚肉の特売でブロック2パックを購入する。
帰宅して、豚肉を塩豚に仕込む。
タマネギ鯖を仕込む。
<浅井牛乳>に電話、12/20(金)の配達を最後にしてあとは止めるように依頼する。
彼女が仕事から帰宅する。
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ランチ、息子たちにはサッポロ一番味噌ラーメン、私たちは残りもののカレー仕立て。
録画番組視聴、日本の話芸から
桂文之助 落語「軒付け」
初回放送日:2024年12月15日 桂文之助さんの落語「軒付け」をお送りします(令和6年11月7日(木)NHK大阪ホールで収録)【あらすじ】最近「浄瑠璃」に凝りはじめたという男が、知り合いの家へ遊びに行った。どれくらい腕を上げたのかと聞かれた男は、浄瑠璃の会に出たが緊張でしくじったと話す。すると、修業としてよその家の軒下に立って浄瑠璃を語る「軒付け」に連れていってもらえ、と勧められた。さっそく軒付けの仲間に入ることになったのだが…。
刑事コロンボから、
第64話「死を呼ぶジグソー」/ Undercoverシーズン 1, エピソード 64 ある夜、アパートに忍び込んだ男と住人が相打ちで死に、侵入犯から住人の男が持っていたと思われる写真の一片が発見された。次の日、コロンボの元を保険調査員のアーヴィングが訪れ、同様の一片を見せると、その謂われを語った。
私は午睡。
彼女は買物、その後歯医者へ。
夕飯準備、鶏ムネ肉に塩と大蒜を塗って寝かす。
彼女が帰宅、早速三男とココに点滴。
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オーブンを使わないローストチキンの試作品・炊き合わせ・レタスとトマトのサラダ・リンゴ・スパークリングワイン。
録画番組視聴、
秋・豊肥本線、南阿蘇鉄道を呑む!
初回放送日:2024年12月12日 俳優・六角精児が「酒」と「鉄道」という偏った視点で旅する▽秋の九州、JR豊肥本線と南阿蘇鉄道の旅▽大分から熊本にかけて、名水が生み出す美酒との出会い▽語り・壇蜜 ▽自分で作った米で昔ながらの日本酒造り▽圧巻、幅120mの滝!▽熊本名物「あか牛」に舌鼓▽バスで阿蘇山中岳の火口へ。見えたものは…▽城下町・竹田市の居酒屋で元洋食の料理人が作る絶品料理▽麦焼酎をあえて米こうじで造る理由とは?▽高低差188mを克服する豊肥本線のスイッチバックを堪能▽熊本地震被害から7年ぶりに全線開通した南阿蘇鉄道で阿蘇カルデラ内部の絶景旅▽震災に負けない熊本最古の酒蔵の自慢の日本酒
刑事コロンボから
第65話「奇妙な助っ人」/ Strange Bedfellowsシーズン 1, エピソード 65 サラブレッドの牧場を経営するグラハムは借金の返済に困る弟テディに頼まれ、レースの八百長を約束する。貸主でマフェィアとも関係があると噂されるブルーノに儲けさせ、借金を帳消しにする計画だった。しかし、彼は薬を使い、勝つべき馬を負けさせてしまう。
片付け、入浴、体重は1,250g増。
ハーパーのハイボール舐めながら、日誌書く。
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やはり1万歩超えると気持ちが良い。
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runpenparis · 2 months ago
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るんぺんパリ【RunPenParis】
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自己紹介 2024年11月4日追記 6116文字】 三重県伊賀市(旧名:上野市)出身 伊賀市(旧名:上野市)に 1976年(3歳)から 1996年(23歳)6月まで住んでいた 1976年以前の記憶と出生は不明 津市にある施設にいたと聞いた覚えがある 三重県亀山市に二つか三つ年上のお兄さんいるらしいが あった事は一度もない 30代の頃に一度だけ電話で話をした 父方に引き取られたお兄さんに 母親の事を聞いた 母親は別の人と再婚し離婚して 娘さんと一緒に暮らしているらしい 父親は再婚して自分と同じぐらい娘さんがいるらしい お兄さんはおじいさんの事を尊敬していて 中国語を勉強してるらしい あとは色々と聞いたけど 覚えているのはそれぐらいの内容で もう二度と話す事はないだろうと その時に思ったけど お兄さんの顔がどんな顔なのかは 見てみたい気持ちは少しある
伊賀市でそこそこ有名なのが 伊賀流忍者で忍者屋敷は今も昔も変わらない内容で 営業している それは去年に末っ子を連れていったから確認済 外観はただの古い家だけど 中に入ると意外と見応えはある 観光施設って感じ 伊賀牛は金谷のすき焼きが有名で 森辻が新しい様相なってから焼肉を食べた 個人的には伊藤の牛丼が好きだ 油が多い感じのお肉だから 100gも食べれば満足感がある 上野天神祭の鬼行列も有名かな ひょろつき鬼が子供の頃は本気で怖かった 銀座通りが歩行者天国になり 的屋がならぶ 高校生の頃はリング焼きが100円ぐらいで 何個も買って食べた 今年は10月18・19・20(金土日) 19(土)は久しぶりに一人で一日中お祭りを楽しむ予定だったけど 昼前から雨が降ってきて鬼行列は中止 午前中は親戚を3件回って、おみやげを渡した 午後に実家によって車を駐車して 歩いて上野天神祭へと向かった いつも泊まる「伊賀上野シティホテル」は1泊10000円以上も高い 16800円だった。この日は駐車場も使えなかった 夜の19時から同級生のお店「クワトロNo.4」に初めていった 30年ぶりにちゃんと会ったガキさんは すぐに気がついてくれた 居心地がよかったので閉店の1時までカクテルを8杯ぐらい呑んだかな 意外と安くて8200円だった 次の20(日)は上野天神祭に参加している同級生のオデに会って 鬼行列の準備風景を写真に撮って 上野天神さんの近く紅梅屋でおみやげを結構買って 桔梗屋で上生菓子とお茶を飲んで 静岡へ帰った 松尾芭蕉は俳句で有名で伊賀出身で 小学生の頃はがっつりと俳句を作らされる 俳句はいやいや作らされたので 俳句番組は見ない 俳聖殿の中には過去の優秀な俳句が収められていたかな 普段はこれといって何もないけど 俳聖殿のたたずまいは何か「The Haiku」という感じ 上野城のお堀の高さ日本2位? 一時期は日本1位説もあった 中学生の頃は上野城で体育の授業があったり クロスカントリーレースで走らされたり 高校生のデートも上野城が定番だったのか それらしき男女がイチャついていた 夜のライトアップは不気味なお城に見えた 一応、桜の名所なのかな 高校生の頃に一つ年下の子とつきあっていた頃は よく上野城をさんぽした 帰りはその子の家の近くまで送っていった この子はとても純粋な子で 自分にはもったいない子だった 半年もつきあっていないが 今でも純粋で幸せになっているかなと思��出す事もある もう向こうは忘れているだろうけど 伊賀の街には銀座通りとか丸の内とか 東京で聞くような名称が多く使われている 地元のうわさでは東京が伊賀の真似をして 街を作ったとの話がよく出てくるから 誰か本気でテレビとかで調べてほしい気もする いまだに東京が伊賀のマネをした説を 親戚がまじめな顔でいいだす時があるから 本当に真実が知りたいけど 自分が調べるほどは興味がない 2004年(平成16年)11月1日に 伊賀市に変わってから 上野市駅が忍者市駅になり 近鉄の電車だったのが伊賀鉄道になり 電車がコスプレになった 駅前には銀河鉄道999のメーテルと哲郎の銅像があり 産業会館がハイトピア伊賀になった 産業会館だった時にマルキンのパン屋が近くにあった そこのシナモンパンが子供の頃から大好きで 今はもう手に入らない もう一度、あのシナモンパンが食べてみたい あと小さなパチンコ店「マルト」があった 「フルーツパンチ」という機種で勝った覚えがある あと「麻雀物語」もあったかな 「海物語」という機種が記憶の最終機かな 上野で住んでいた時期に一日で20万近く負けて それからパチンコは完全に辞めた じつはその後もたまにしたが 本当に気晴らし程度で その内にきっぱりとやめた スロットが主流になったら なおさら興味すらなくなった 新天地もなんかおしゃれなサビれかたで 「新天地Otonari」となった 街は高校生の頃の面影は薄くなったけど 何となく残っている上野市街は今でも魅力的だ 新天地には映画館もあった気がする 当時は賑やかな商店街だった 当時からあった「喫茶店フランセ」は今もある 大きな化粧品店は更地になっていた 高校の時の知り合いが「クワトロNo.4」という バーを経営しているが、まだ入った事はない いつか行ってみたい気持ちはある ただダーツバーらしく 常連っぽい人たちのたまり場っぽいイメージで 気楽入れなさそうな雰囲気はある 一度だけ朝方にお店の扉までいったけど バーの扉って感じで雰囲気はあった 最近は実家で一人暮らしのおかんの様子を見に よく帰省するようになったけど 若い頃は年一回も帰省しなかった 最近の伊賀でよく立ち寄るのが 「菓匠 桔梗屋織居」と 「HANAMORI COFFEE STAND」と 「岡森書店白鳳店」で 岡森書店は、Kマーホの名で出版した 「トイレの閃き」が背表紙の色が抜けた状態で 25年以上も本棚に置いてくれている これを見ると初心に戻れて まだまた創作していこうとがんばれる この岡森書店の店長さんは従姉の同級生で 小学校の先輩の同級生でもあり この店長の妹さんは自分と同年代で それにしても伊賀は狭いなと感じる
市部という地区だったと思う 近くに市部駅という無人駅があり���の近くの 依那古第一保育所に5歳から6歳の2年間通った おかんは自分の送り向かいのために 自転車を乗る練習して そのおかんが運転する自転車の後ろに乗って 途中の田んぼに二人で落ちて 泥だらけになった おかんは去年の年末まで 81歳でまだ自転車に乗って 小田町の坂を下っていたらしい いまは親戚から危ないからと 召し上げられた 小学校6年卒業までは上野市依那具にある 市営の城ケ丘住宅で過ごした この市営住宅はもう40年以上も その雰囲気を変えずに今でも残っている ここは伊賀市の文化遺産にしていいほどの時間が止まった場所だ いまだに汲み取り式の便所の換気の煙突が立ち並んでいる このカオスな感じは小学生の頃の不便な生活を思い出させる あの生活で暮らしたから今があるのは確かだ 小学校の通学路にある 垂園森でよく遊んだ 現在も存在しているが オバケが出そうな森 この森は当時通っていた依那古小学校の校歌の歌詞にも出て来る イメージ的には幽霊が出そうな森だけど 何か不思議な生き物が住んで居そうな森に見えた きつねも出そうだし おばけも幽霊も心霊も もしかするとタイムスリップして 小学生の頃に戻れそうな気もする森だと変な懐かしさを感じる 近くには無人駅の市部駅とにらめっこしている森 中学校から市街の上野城の 城下町で過ごした 当時はカオスな市営城ケ丘住宅から出れる事が本当にうれしかった 小学校までの友達とも飽きてしまっていたので寂しくはなかった 当時から色々な物にすぐに飽きては新しい物が好きだったので そっちのワクワク感で本当にうれしかった そして築20年以上の中古の一軒家で2階建て 自分の部屋がありトイレは汲み取り式だけど洋式で あこがれの上野の街で住める事もあって本当にうれしかった
そして近くの崇廣中学校に通う事に 中学校の3年間は 転校生という立場と 中一で足の骨折 バスケ部の試合で名張の体育館で遊んでいて 二階から飛び降りたら右足のかかとがにヒビが入った その夏にはバスケ部をクビになり陶芸部に入った 中二で腕の骨折 どちらも遊んでいての骨折2回 中三の高校受験で いい想い出は無い
高校2年生で 小学校の時にサッカーで出会った 旧友とバンドを組んだ RCサクセションのコピーで 「雨上がりの夜空に」「トランジスタラジオ」 「ベイベー逃げるんだ」「サマーツアー」 「サントワマミー」「いけないルージュマジック」 「いいことばかりはありゃしない」 「どかどかうるさいR&Rバンド」 旧友が作ったオリジナル曲「ガレージの上のR&Rバンド」 一番のモテ期だった気がする ただバンドをやっている自分を見て 好意を寄せられても違うなと思った バンドをしていない時はただのバイトに明け暮れた 高校生だったから バンドマン目線のそういう女子には興味がなかったから 冷たい感じだったかも 本当にこの時期がこれまでで一番楽しかった。 高校生の頃はたくさん恋をしたが 自分が不器用だったので自分が好きだった人からは つきあえてもすぐにフラれた 人を好きになることに迷走し始めて 最終的に好きになる事はやめて なんとなくという感情で奥手に過ごしていった そのせいか、他校の女子からゲイだとウワサされる事もあった なぜそうなるか不思議だったけど 当時は楽しければなんでもよかった
1993年 一人暮らしを始める やっと自由になった気がした 2年間ぐらいは金が無くて 通帳の残高は毎月マイナス50万 カツカツ生活 家賃と車のローンがきつかった 1996年7月から 2003年7月の 7年間は茨城県と千葉県の県境 利根川の近くに住んでいた この界隈を走るタクシー運転手の 態度は本当にムカつくから こっちも態度悪く乗ると 気分の悪さはお互いさまになる 関東平野は景色が無く ここでの生活は落ち着かなかった 食文化も人も気候も水も 肌に合わなかった 特にうどんの汁が濃いだけのシンプルな味は げんなりさせてもらった ただ寺原駅近くの「ふる川」はよく通った とくにカレーめちゃくちゃ美味かった この「ふる川」は今もやっている 当時はお店の小学生の女の子が手伝っていた 夫婦だけでやっていて 週3回ぐらい夕飯でお世話になった 「さば定食」もよく食べた気がする
1997年から パソコンをミドリ電化で38万で購入して 作詞やネットに興味を持つ まどみちお詩集を読みだす 作詞に近い詩を書き始める 「Kマーホ」という名で 詩を書き始める 目標を300篇と決めて 詩を思いついたら メモをつけるようになる 週末は家に引きこもり 一日中、音楽を聴きながら パソコンがあるのに まだワープロで詩を清書していた
1998年から2002年まで 「Kマーホ」の名で 詩に団体に参加したり 詩の賞に応募したり 詩集を自費出版したり この当時参加していた詩の団体には もうドロドロとした 詩を書く人や あまりにも読み解けない詩や 暴力的な人や いい人もいたけど 自分とは全然目指している方向が 違うので2年目ぐらいで辞めた それからは詩の団体に興味は無くなった それから 自費出版した詩集を 全国の小中学校や 全国の図書館へ寄贈して 活動を休止 理由は2000年に結婚してから 集中して詩を書く時間が無くなってきたから 2002年に2つの詩集を出版して 詩の事は全部段ボール箱へ入れた
2003年から2019年まで 育児に重点を置いて生活をする この時期は友達とも連絡を 切っていたので のちに死亡説や宗教説が出ていたらしい 2003年7月から 現在は静岡県在住 もう20年以上住んでい���
2019年 るんぺんパリ【RunPenParis】の名で 詩を書き始める SNSでの詩の発信を始める るんぺんパリ【RunPenParis】とは フランスはパリの街を ぺんを持って 走るという意味から 【RunPenParis】ができた 1973年8月1日生まれ(もう51歳) しし座 O型 右利き 詩・詩集・ことばをデザイン アート・写真・小説・ペン画 松尾芭蕉の生家がある伊賀市で 十代までを過ごし 俳句が幼少期から 身近に存在していた 二十代から詩を書き始めて 「Kマーホ」名で活動(1999-2002) 詩集6冊を出版して活動休止
その後 松尾芭蕉の俳句のような シンプルな言葉遊びを 詩で出来ないかと考えていた中で 令和元年(2019)に 「るんぺんパリ【RunPenParis】」の名で 活動を再開 SNSに140文字に 言葉をデザインした詩 「140文字詩」を 毎日投稿する活動を始める 2023年9月に140文字詩が 1200作品に到達した事で 「140文字詩」を全国へ さらに世界へと 俳句のように広く知られる 存在になって欲しい ◆るんぺんパリ【RunPenParis】作品一覧 【2023年】Amazonで販売 2023/12/27第2フォト集「ほちきす それでは あかんで」 2023/12/2 第1フォト集「とめても ええか ほちきすで」 2023/11/23 第16詩集「もあいの ねごとを よみとる」 2023/9/16 第15詩集「さんもじ もしくは よんもじ」 2023/9/9 第14詩集「のこりの あぶらは わるもの」 2023/9/2 第13詩集「あそびも しごとも たいふう」 2023/8/26 第12詩集「かいてきな しつどに おぼれる」 【2022年】Amazonで販売 2022/12/6 第11詩集「やくそくは よなかの おひるに」 2022/11/3 第10詩集「みさんがの ともだちの たまんご」 2022/10/7 第9詩集「くうきと さんその かつさんど」 2022/9/3 第8詩集「さついを こめた いもけんぴ」 2022/8/7 アート作品集「やさいに つめる にくえらび」 2022/2/14 アート作品集「よなかに ひかる かみぶくろ」 2022/1/1 第7詩集「みかんの むくちな きもち」 【2021年】Amazonで販売 2021/9/8 第6詩集「そんな ことばは さよなら」 2021/8/3 第5詩集「あさに おくれた なんて」 2021/6/5 第4詩集「すいかの たねの ちょうこく」 2021/5/31 第3詩集「たんぽぽの たまご ひとつで」 【2020年】Amazonで販売 2020/7/27 第2詩集「こよい こよりの そらから」 2020/3/2 詩小説「すきから あいへ おやすみ」 【2019年】Amazonで販売 2019/7/21 第1 詩集「ところで あした あいてる」 ◆Kマーホ 作品一覧(1999-2002) 【2002年】 2002/4/30 第6詩集「眠立体(ねむりったい)」 2002/4/4 第5詩集「コールサック」 【2000年】 2000/7/31 第4詩集「マガサス星人」 2000/1/31 第3詩集「おしりとサドルが あいますか」 【1999年】 1999/8/1 第2詩集「テレビジョン」 1999/5/1 第1詩集「トイレの閃き(ひらめき)」 【受賞】 2001年 詩「眠立体(ねむりったい)」第6回トワイライト文学賞 2000年 詩「永遠の親友」信越郵政局長賞 1999年 詩「トイレの閃き(ひらめき)」第1回万有賞 1998年 作詞「地球のウラハラ」第31回日本作詞大賞新人賞候補ノミネート
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tamanine · 2 months ago
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2024.10.13
映画『HAPPYEND』を見る。父の時代の学生運動のような雰囲気と、街の風景のクールな切り取り、存在感があり重厚な音楽の使い方から愛しいものとしてのテクノの使い方まで大変気に入り、今度会う人に渡そうと映画のパンフレットを2冊買う。その人と行った歌舞伎町時代のLIQUIDROOM、どんどん登らされた階段。小中学生の時に自分がした差別、あの分かっていなさ、別れた友人、まだ近くにいる人たち。
2024.10.14
銀座エルメスで内藤礼『生まれておいで 生きておいで』、ガラスの建築に細いテグスや色のついた毛糸が映える。日が落ちて小さなビーズが空間に溶けていくような時間に見るのも素敵だと思う。檜の「座」で鏡の前にいる小さな人を眺める。「世界に秘密を送り返す」を見つけるのは楽しい。黒目と同じだけの鏡、私の秘密と世界の秘密。今年の展示は上野・銀座ともに少し賑やかな雰囲気、外にいる小さい人たちや色とりどりの光の色を網膜に写してきたような展示。でも相変わらず目が慣れるまで何も見えてこない。銀座にはBillie Eilishもあったので嬉しくなる。
GINZA SIXのヤノベケンジ・スペースキャットと、ポーラアネックスでマティスを見てから歩行者天国で夜になっていく空を眺めた。小さい頃は銀座の初売りに家族で来ていたので、郷愁がある。地元に帰るよりも少しあたたかい気持ち、昔の銀座は磯部焼きのお餅を売っていたりしました。東京の楽しいところ。
2024.10.18
荷造り、指のネイル塗り。足は昨日塗り済み。年始の青森旅行時、2泊3日の持ち物リストを作成し、機内持ち込み可サイズのキャリーに入れ参照可能にしたところ、旅行のめんどくさい気持ちが軽減された。コンタクトや基礎化粧品・メイク用品のリスト、常備薬、安心できる着替えの量。持ち物が少ない人間にはなれそうにない。日常から多い。部屋に「読んでいない本」が多いと落ち着くような人間は持ち物少ない人になれない。
2024.10.19
早起きして羽田空港。8:30くらいに着いたらまだ眺めのいいカフェが開いておらず、とりあえず飛行機が見える屋上に行く。このあと雨が降るはずの曇り空からいきなり太陽が照り出して暑くなり、自販機でマカダミアのセブンティーンアイスを買い、食べる。突然の早朝外アイス。飛行機が整列し、飛び立つところをぼんやりと眺める。飛行機は綺麗。昨夜寝る前にKindleで『マイ・シスター、シリアルキラー』を買って「空港ではミステリー小説だろう」と浮かれて眠ったのに、100分de名著のサルトルを読み進める。実存主義を何も分かっていないことをこっそりとカバーしたい。すみませんでした。
10:15飛行機離陸。サンドイッチをぱくぱく食べたあとKindleを手に持ったまま眠ってしまい、11:55宇部空港着。
宇部空港、国内線のロビーは小さく、友人にすぐ会う。トンネルを抜ける時、窓が曇り、���緑色の空間に虹色の天井のライトと車のライトがたくさん向かって来て流れる。動画を撮影しながら「綺麗くない?」と言うと「綺麗だけど本当は危ない」と言われる。かけるべきワイパーをしないで待っていてくれたんだと思う。
友人のソウルフードであるうどんの「どんどん」で天ぷら肉うどん、わかめのおにぎりを食べる。うどんは柔らかく、つゆが甘い。ネギが盛り放題。東京でパッと食べるうどんははなまる系になるので四国的であり、うどんのコシにもつゆにも違いがある。美味しい。
私は山口市のYCAMのことしか調べずに行ったので連れて行ってもらう。三宅唱監督の『ワイルドツアー』で見た場所だ。『ワイルドツアー』のポスターで見た正面玄関を見に芝生を横切ったが、芝生は雨でぐずぐずだった。でも全部楽しい。
広くて静かで素敵な図書館があり、心の底から羨ましい。小さな映画館もあり、途中入場できるか聞いたおじいちゃんが、「途中からだからタダにならない?」と言っていたがタダにはなっていなかった。一応言ってみた感が可愛らしい範囲。
YCAM内にあるのかと思っていたら違う倉庫にスペースのあった大友良英さんらの「without records」を見に行く。レコードの外された古いポータブルレコードプレーヤーのスピーカーから何がしかのノイズ音が鳴る。可愛い音のもの、大きく響く音のもの。木製や黄ばんだプラスチックの、もう存在しない電機メーカーの、それぞれのプレーヤーの回転を眺めて耳を澄ませてしばらくいると、たくさんのプレーヤーが大きな音で共鳴を始める。ずっと大きい音だと聞いていられないけれど、じっと待ってから大きな音が始まると嬉しくなる。プログラムの偶然でも、「盛り上がりだ」と思う。
山口県の道路はとても綺麗で(政治力)、道路の横は森がずっと続く。もとは農地だっただろう場所にも緑がどんどん増えている。私が映画で見るロードムービーはアメリカのものが多く、あちらで人の手が入っていない土地は平らな荒野で、日本の(少なくとも山口県の)土は放っておくとすぐに「森」になるのだ、ということを初めて実感する。本当の森の中にひらけた視界は無く、車でどんどん行けるような場所には絶対にならない。私がよく散歩をする所ですら、有料のグラウンドやイベント用の芝生でない場所には細い道を覆い隠す雑草がモコモコと飛び出して道がなくなってゆく。そして唐突に刈られて草の匂いだけを残す。私が「刈られたな」と思っているところも、誰かが何らかのス���ジュールで刈ってくれているのだ。
山口県の日本海側の街では中原昌也と金子みすゞがそこかしこにドンとある。
災害から直っていないために路線が短くなっているローカルの汽車(電車じゃない、電車じゃないのか!)に乗って夜ご飯へ。終電が18:04。霧雨、暴風。一瞬傘をさすも無意味。
焼き鳥に挟まっているネギはタマネギで、つきだしは「けんちょう」という煮物だった。美味しい。砂肝、普段全然好きじゃないのに美味しかった。少し街の端っこへ行くとたまに道に鹿がいるらしく、夜見ると突然道路に木が生えているのかと思ったら鹿の角、ということになり怖いらしい。『悪は存在しない』のことを思う。
2024.10.20
雨は止んでいてよかった。海と山。暴風。人が入れるように少しだけ整えられた森に入り、キノコを眺める。
元乃隅神社、123基の鳥居をくぐり階段を降りて海の近くへ。暴風でiPhoneを構えてもぶれて、波は岩場を越え海の水を浴びる。鳥居の上にある賽銭箱に小銭を投げたけれど届くわけもない。車に戻ると唇がしょっぱかった。
山と海を眺めてとても素敵なギャラリー&カフェに。古い建物の改装で残された立派な梁、屋根の上部から太陽光が取り込まれるようになっていて素晴らしい建築。葉っぱに乗せられたおにぎりと金木犀のゼリーを食べる。美味しい。
更に山と海を眺めて角島へ。長い長い橋を通って島。古い灯台、暴風の神社。曇天の荒れた海も美しいと思う、恐ろしい風や崖を体感としてしっかりと知らない。構えたカメラも風でぶれるし、油断すると足元もふらつく風、窓につく塩の結晶。
山と海を眺めて香月泰男美術館へ。友人が見て良い展示だったからもう一度来て見せてくれたのだ。
全然知らなかったけれど、本当に素晴らしい絵だった。油彩なのだけど、質感が岩絵具のようで、フレームの内側に茶色のあやふやな四角が残っているのがとても良い。
フレーミングする、バチッと切り取ってしまう乱暴さから離れて、両手の人差し指と親指で四角を作って取り出したようなまなざしになる。
山口県の日本海側の山と畑と空の景色、荒い波、夜の静けさや月と雲、霧の色を見てから美術館へ連れて来てもらえたから色と色の境目の奥行きを知る。柿はずっしりと重く、花は鮮やかだ。香月泰男やシベリア抑留から帰ってきた画家で、この前読んだ『夜と霧』の暗さと冷たさを思い返した。絵の具箱を枕にして日本へ帰る画家が抱えていた希望、そのあとの色彩。 
夕飯は友人の知り合いのハンバーガー屋さんへ。衝撃のうまさ。高校生の時に初めて食べたバーガーキングの玉ねぎの旨さ以来の衝撃、20年ぶりだ。そんなことがあるのか。
2024.10.21
晴天。海は穏やかで、深い青、テート美術館展で見たあの大きな横長の絵みたい。初めて見た海の光。
海と山を眺めて秋吉台へ。洞窟は時間がかかるので丘を散策、最高。
風光明媚な場所にしっかりとした情熱が無かったけれど、「好きな場所だから」と連れていってもらえる美しい場所は、友人が何度も見るたびに「好きだなぁ」と思っただろう何かが分かり、それは私が毎日毎日夕陽を眺めて「まだ飽きない」と思っている気持ちととても近く、感激する。
今までの観光旅行で一番素敵だった。
道々で「このあと窓を見て」と教えてもらい、味わう。
ススキが風に揺れて、黄色い花がずっとある。山が光で色を変え、岩に質感がある。
山口市、常栄寺、坂本龍一さんのインスタレーション。お寺の庭園が見られる場所の天井にスピーカーが吊るされ、シンセサイザーの音を演奏しているのは色々な都市の木の生体信号だ。鳥の声や風の音と展示の音は区別されない。砂利を踏む音、遠くから聞こえる今日の予定。豊かなグラデーションの苔に赤い葉っぱが落ちる。
宇部空港はエヴァの激推しだった。庵野さん、私も劇場で見届けましたよ。
行きの飛行機は揺れたけれど、帰りは穏やかに到着、家までの交通路がギリギリだったため爆走、滑り込む。
東京の車の1時間と山口の1時間は違う。
何人かの山口出身の友人が通った空と道と海と山の色を知ることができてとても嬉しい。
「好きな場所」「好きな風景」ってどういうものなんだろう。
私が通う場所、好きな建築、好きな季節と夕陽。あの人が大切にしている場所に吹く風、日が落ちる時刻が少し違う、友人のいる場所。
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kennak · 3 months ago
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1966年に静岡県で一家4人が殺害された「袴田事件」は、戦後最大の冤罪の一つと言われ、死刑判決が確定していた袴田巌さん(87)のやり直し裁判が近く静岡地裁で始まる。死刑確定事件の再審では戦後5例目だが、この事件の前にはいくつもの冤罪事件が同じ静岡県で起きていることをご存じだろうか。その一つ、「二俣事件」では、拷問によって無実の少年に一家4人惨殺を“自白”させたばかりか、拷問の事実を告発した刑事を偽証罪で逮捕した揚げ句、精神疾患に仕立て上げるという警察・検察の報復があった。家族もろとも偏見の目にさらされた刑事の妻・山崎まさは今も存命だ。今月27日、106歳になるまさは「当時の苦しみは言葉にできない」と涙ながらに振り返った。(文・写真:秦融/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部/文中敬称略) まさが住む愛知県みよし市は、名古屋市と豊田市に挟まれた位置にある。市街地から少し離れた一軒家で呼び鈴を押すと、次女の天野功子(のりこ、76)が出迎えてくれた。 まさの夫であり、功子の父である山崎兵八(ひょうはち)は静岡県の警察官だった。 昭和の冤罪・二俣事件は1950年1月、同県二俣町(現・浜松市天竜区)で発生した。就寝中の夫妻が刃物で刺されて死亡、2歳の長女が首を絞められ、11カ月の次女が母親の下敷きになり窒息死した。事件後、近所に住む18歳の少年が強盗殺人罪などで起訴され、一審、二審で死刑判決。その後に逆転無罪となった。 兵八は、現職の警察官ながら警察組織を敵に回し、拷問による取り調べがあったと告発、少年の刑事裁判で証言台に立った人物だ。告発は審理の終盤。巡査だった兵八は読売新聞社と弁護人に宛てて手紙を書き、「(少年は)犯人ではない。新憲法下今なお人権を無視した拷問により罪をなすりつけられたものだ」「江口捜査課長と紅林主任は少年に会った時の第一印象で“彼は犯人だ”と判定、証拠集めの指令を発した」などと記した。 告発前、妻のまさは「そこまでしなくても」と夫の行動に反対だった。夫は「(少年が)自分の子どもだったらどうする?」と妻に問い、固い決意を伝えた。 当時を振り返るまさの受け答えは、とても100歳過ぎとは思えないほど明瞭だ。 「はい、そう言われました。『もしか、この子が私らの子どもだったらどうするかね?』と。間違いないです」 兵八は、弱い人や苦しんでいる人を放っておけない性格だったらしい。夫について、まさはこう語った。 「お父さんにはものすごく、そういうところがあった。きっと、生まれるときからそういう性格を授かってきたんだよね。私も、人を陥れるようなことは絶対にしたくないと思ってね。困っている人には、ねんごろ(親切)にしてね。人が難儀してると『ああ、かわいそうだなあ』って、すぐ思っちゃうんだよね」 しかし、告発は一直線には実を結ばなかった。 二俣警察署の捜査本部で捜査に関わっていた兵八は法廷で「拷問による自白」と証言したにもかかわらず、一審の静岡地裁浜松支部は死刑判決を下す。それどころか、判決の日、兵八は偽証罪で逮捕された。 「正義」の代償は、それにとどまらず、家族もろとも路頭に迷わせる“仕打ち”へと進んでいく。 逮捕後、兵八は名古屋大学医学部の教授による精神鑑定で「妄想性痴呆症」と診断された。裁判では、証人出廷した警察署長が「変人」などと兵八の人格を否定。一審で少年に死刑判決が下ったことから「警察の捜査は正しかった」ということになり、判決に異を唱える兵八は異常者とされたのだ。 辞表を出すと、兵八は精神疾患という診断を理由に、運転免許証をはく奪された。警察を辞めた後は、家族を養うため、トラックの運転手になるつもりだったが、免許なしではそれもできず、他の仕事も簡単に見つからない。逮捕・投獄された兵八は世間の偏見の目にさらされた。 当時10代だった長女・児玉澄子(故人)の手記によると、家族は耐え難い苦しみを味わうことになった。 「父は職も地位も奪われて、仕事を探し、失敗し、書を読み、そして苦しみの多い日は母や私達に当たり散らした」「父母を助けなくては。新聞配達を始めた(のは)五年生の冬でした。学校を休んで早引きをして手伝った畑仕事」「冷たい近所の人たちの目、 幼い弟はいつもいじめられ泣いて帰ってきた。『ボクのおとうちゃんどうしてブタ箱にいるの?』 と…」「母の土方の荒れた手とあかぎれの足のひびわれ」(手記から) 苦難はさらに続く。 1961年3月には自宅が全焼した。報道では「火の不始末が原因」などと伝えられたが、当時中学生だった次女の功子は、火災の数日前、自宅の前で見知らぬ男から「山崎さんのお宅はここか」と尋ねられたことを覚えている。また、功子の弟は「火が出る前に半長靴の男が家から出ていくのを見た」と家族に話し、警察にも伝えた。ところが、警察では「半長靴の男」の目撃証言が、弟自身の火遊びをごまかすためだったのではないかと疑われてしまう。 当時を思い起こし、功子は言った。 「最後は、母の火の不始末にされてしまいました。弟に傷がつくよりはまし、ということで母が全てをかぶったんです……父は名誉を回復するため裁判に訴えることも考え、二俣事件の資料を集めていました。“放火”はその資料を灰にすることが目的だったとしか思えません」 火災の真相は今や確かめようもないが、兵八が裁判を起こせば、警察側は捜査の正当性を主張しただろう。兵八を「変人扱い」した者たちの「偽証」も問われかねない。そのようなタイミングで火災が起きたことは事実だった。 「ようやく、ほっかむりが取れた」 山崎まささん(右)、天野功子さん 二俣事件の上告審で最高裁は、死刑を言い渡した静岡地裁の原判決を破棄し、1958年1月に少年の無罪が確定した。 無罪への転機は、東京高裁が控訴を棄却(1951年9月)した後、らつ腕の弁護士、清瀬一郎(1884‐1967年)が弁護人に就いたことだった。清瀬は衆議院議長などを歴任した大物政治家。戦勝国による極東軍事裁判(東京裁判)では東条英機の弁護人を務めた。 清瀬の無罪主張を受け、最高裁は2年余に及ぶ審理を経て「事実誤認の疑いがある」と原判決を破棄。その後の差し戻し審では、拷問によって警察の筋書き通りに自白させた供述の信用性が否定され、地裁、高裁とも無罪判決となった。筋書きと事実との矛盾が次々に明らかになり、検察は上告を断念、少年(逮捕当時)の冤罪は事件から8年を経てようやく晴れた。少年を犯人と決めつけ、筋書きに合う捜査しかしていない警察が再捜査に動くことはなかった。 傍らに座る母・まさを見やりながら、天野功子が言う。 「少年の無罪判決が出たときに、母は『これでようやく“ほっかむり”が取れた』と言ったんです。ね、そうだよね? お父さんの疑いが晴れた時に言ったよね? それまでお母さんはずっとほっかむりして生きとったんだよね」 顔を隠す頬かむりをせず、堂々と外を歩けるようになったという意味だ。当時を思い出したように、まさが涙ぐむ。 「お父さん(兵八)が逮捕され、自分一人で子どもたちを守らなくてはいけなくなったときの不安や苦しさは、言うに言えません。本当につらい思いをしました」 兵八は2001年、87歳で他界した。 その4年前には『現場刑事の告発 二俣事件の真相』を自費出版している。告発に至る経緯については、次のように記されている。 「心の片隅で『お前は正義の味方ではないのか。警察は国民の生命財産を守るのが使命ではないか。立ち上がるのだ』と叫ぶ声が聞こえてくるのだった。片一方の隅では、『黙っていて見過ごすのだ。あと五年経てばお前には恩給もつくのだ。恩給だけで暮らしてゆけるのだ。何も正義ぶりをする事はない。寄らば大樹の陰。大きな(長い)物には巻かれろ、ではないか』と叫ぶ声が五体に響いてくるのだった」 島田事件対策協議会で、無実の男性救済を話し合う兵八(正面左から2人目)ら(鈴木昂さん提供) 兵八によると、二俣事件の取り調べで少年に拷問していることを薄々知っていた警察官は他にもおり、「少年は無実」と思っていた署員もいた。しかし、誰もが「見ざる聞かざる言わざる」となり、法廷では「捜査は正しかった」と偽証を繰り返した。 この“拷問”に関わった刑事の一人が、捜査チーム主任の紅林麻雄警部補だったとされる。紅林は二俣事件だけでなく、同じ静岡県で起きた1948年の幸浦事件(被告は死刑判決、後に無罪)、1950年の小島事件(無期懲役判決、後に無罪)の捜査に関わり、多くの冤罪を生んだ。1966年の袴田事件では、拷問まがいの取り調べで自白を引き出し、警察が犯行の手口を考え出し、それに合う証拠や証言をつくって自白を裏付ける、という同じ手法が使われた。 二俣事件など同時期に続発した冤罪事件が「袴田事件の源流」と呼ばれる理由はそこにある。 同じ時期に起きた島田事件(1954年、死刑確定後の89年に再審無罪)の支援活動に奔走した元高校教師、鈴木昂は「山崎兵八さんには支援集会で講演をお願いし、熱意にあふれる話に引き込まれた。袴田事件の支援要請にも応じておられ、尽力を惜しまない人だった」と話す。 兵八・まさの夫婦は3男2女をもうけ、それとは別に2人の子どもを養っていた。そのうちの1人は勤務先の警察署で補導された、身寄りのない男児だった。まさによると、兵八が「面倒をみてやってほしい」と連れてきたという。 「放っておくのがつらかったらしくてね。(警察官という)職業柄もそうしてやらないかんと思ってだろうね」 まさの話によると、兵八の人柄をしのぶエピソードは他にもある。 「お百姓さんが、あるとき『これを食べてくれ』と駐在所に麦を2袋持ってきてね。お父さんは『絶対に手をつけるな』と言って。腐るかどうかという寸前で、やっと村の人と分けて食べた。それくらいの人でした」 弱い人、苦しんでいる人を助け、不正には手を染めない。まさが語る「警察官・山崎兵八」からは、組織内での孤立を恐れて自己保身に走るのではなく、人の心を大切にし、正しいと信じる道を貫くという人物像が浮かび上がる。 兵八の「正義」を押しつぶした警察・検察、さらには捜査側に寄った裁判所の不当な判決は、昭和から平成へと続き、真実や人権よりもメンツを重んじて自己検証を拒絶する姿勢は、令和の時代にも地続きのように受け継がれている。 96歳の原口アヤ子さんが無実を訴え続ける大崎事件の弁護人で、日本弁護士連合会の再審法改正実現本部・本部長代行を務める鴨志田祐美弁護士は「一刻も早く再審法を改正しなければ悲劇が繰り返される」と危機感をにじませ、改正の要点を次のように指摘する。 「一つは証拠開示の問題です。大崎事件の第2次再審では高裁の裁判長の積極的な訴訟指揮で、それまで検察官が『ない、ない』と言い続けてきた証拠が213点出てきました。さらに第3次再審になると新たに18点出た。なぜ、こんなことが起きるのか。証拠開示を定めたルールがないからです。大崎事件だけでなく、布川事件、東電女性社員事件、松橋事件などは、再審を求める中で重要な証拠が開示され、再審開始決定の��め手になった。規定がないために、検察は隠し通そうとし、開示が個々の裁判官の“やる気”に左右されるのです」 二つ目は検察官の抗告(不服申し立て)の問題だという。 「再審開始決定が出ても、検察官が抗告し、いつまでも再審公判が開かれない。再審は本来、無実の人を救済する制度で、検察官といえども立場は同じはず。ドイツでは検察官の抗告は禁止されている。袴田事件では最初の開始決定から9年、大崎事件は21年、名張毒ぶどう酒事件では奥西勝・元死刑囚の命が尽きてしまった。抗告の弊害による悲劇をなくさなければいけない」 二俣事件の関係者がほとんど他界した中で、まさは穏やかな日々を生きている。 「天寿をいただいているんだよね。まだこれだけ元気でね、みんなのエネルギーをもらっている。人を見放しておくよりも助けてやりたい、という気持ちで生きてきて本当に良かった、と。そう思ってね。やっぱり人に意地悪はするもんじゃないな、ってね。人を助ければ助けてもらえるな、って思うよね。毎日そう思いながらこうしていますよ」 秦融(はた・とおる)1961年、愛知県生まれ。ジャーナリスト。フロントラインプレス所属。元中日新聞編集委員。滋賀・呼吸器事件の調査報道を描いた著書『冤罪をほどく……“供述弱者”とは誰か』(風媒社)で、2022年の講談社本田靖春ノンフィクション賞を受賞。至学館大学コミュニケーション研究所客員研究員。 「#昭和98年」は、Yahoo!ニュースがユーザーと考えたい社会課題「ホットイシュー」の一つです。仮に昭和が続いていれば、今年で昭和98年。令和になり5年が経ちますが、文化や価値観など現在にも「昭和」「平成」の面影は残っているのではないでしょうか。3つの元号を通して見える違いや残していきたい伝統を振り返り、「今」に活かしたい教訓や、楽しめる情報を発信します。
「拷問」を告発した警察官の夫は逮捕され、異常者扱い――105歳が語る「冤罪」の長い苦しみ #昭和98年(Yahoo!ニュース オリジナル 特集)
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kijitora3 · 3 months ago
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放射能、福島風評被害と同じ構造
いい加減な奴がいい加減なことをいい、それが不安を呼んで、まるで科学的でない対応が横行する
天災、疫病を全て怨霊、悪霊の影響として、加持祈祷で調伏しようとする中世以前のアタマの中身と同じ
科学は進歩する しかし、人類は進歩するとは限らない
何百年たっても法の支配、自由と民主主義が維持されている国家が未だ少数派である世界の現状と同じ
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ari0921 · 9 months ago
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桜林美佐の「美佐日記」(252)
「地震予知」から建築物・インフラの強靭化へ
桜林美佐(防衛問題研究家)
──────────────────
おはようございます。桜林です。「男もすなる日記
といふものを、女もしてみむとてするなり」の『土
佐日記』ならぬ『美佐日記』、252回目となりま
す。
前回、お休みし、時間が空きましたが、柳澤真一さ
んについてご感想を頂戴しました。「柳澤さんは、
陰徳を励行する方だったのですね。人は、よいこと
をすると、ついつい、言いふらしたくなりますが、
それではよいことをしたことにはならないと、私も
考えています。私も、引き続き、柳澤さんをお手本
にして、できる限り、陰徳を積んでいきたいと思い
ます」  
同感です。ありがとうございました。
 先週は台湾で大地震が発生し、沖縄にも津波警報
が発令されました。自衛隊ではまだ能登半島地震の
災害派遣が続いており、恐れているのは、このよう
に複合的に災害が発生する事態です。
 もはや現在進行中の災害派遣は報じられなくなっ
てしまっていますが、ファストイン・ファストアウ
トが鉄則のはずの自衛隊をここまで長期間にわたり
使うというのは、やはり問題があると思います。水
道などインフラのダメージが大きいことは承知して
いますが、派遣が長期間に及ばないよう国や自治体
は全力で努力してもらいたいです。
そうした中、地震学者である島村英紀さんと対談す
る機会がありました。内容は私にとっては目から鱗
が落ちる話ばかりでした。
 島村先生は東大理学部物理学科で博士課程を修了
し、北海道大学教授、国立極地研究所所長も務めた
方で、海底地震観測を世界中で実施し、研究のため
の海外渡航歴は76回、船上で地球12周を過ごしたと
いう、まさに地震研究のエキスパートと言っていい
方。
 その先生から出た日本の地震研究に関する言葉は
衝撃的でした。結論から言うと「地震は予測できな
い」というのです。
震度7を記録した能登半島地震は、政府機関である
地震調査研究推進本部では「能登半島が今後30年
間で震度6以上の揺れに見舞われる確率」は、わず
か「0.1%未満」だったといいます。
 なぜ、こんなに大ハズシをしたのか?を問うと
「地震予測はできない」とひと言。そもそも「マグ
ニチュード」という言葉を考案した地震学者のチャ
ールズ・リヒター氏もこんな言葉を残しています。
「地震を予知できるのは、愚か者とウソつきとイカ
サマ師だけである」と。
それなのに、日本では「地震予知は可能」という前
提で、1978年に「大規模地震対策特別措置法」
(大震法)が制定されました。予測の信頼性がない
ことから「見直すべき」との声が上がっているもの
の、依然としてこれが有効になっていることに先生
は警鐘を鳴らしています。
 これには、地震学会に属する3000人の会員の
抵抗があるようです。国費で維持されている地震研
究だけに、これを止めてもらっては困るというわけ
です。
 しかし、数々の地震予測をあざ笑うかのように、
悉くノーマークの場所で大地震が発生してきたとい
います。
 2016年の熊本地震の時は、発生前に「今後30
年以内の地震発生確率はほぼ0%から0.9%」と評
価されたそうで、これが安心情報になったことが、
油断を招き、被害を大きくした可能性も指摘されて
います。
 では、緊急地震速報は何なのか、と思いますが、
これは地震予知ではないので誤解してはいけないと
いいます。
 この原理は単純で、全国に設置されている地震計
のいずれかで揺れを感じたら震源を計算して、まだ
揺れが届いていない場所に警報を送るという仕組み
で、直下地震には対応困難なのだそうです。
 
 地震予知研究は始まって以来、1兆円近い国費と
数百人の公務員が増員され、それも大学だけではな
く、気象庁や国土地理院をはじめとする数々の省庁
に資金が投入されてきたといいます。
 これだけの巨額な投資が容認されてきたのは、私
たち日本人にとって、難しいとは分かっていても地
震予測は悲願だったからでしょう。
 天気予報が可能なのは、大気の運動方程式がすで
に分かっているからだそうです。しかし、地震や火
山の噴火は同じような方程式がまだ分かっていない
のです。
 余震などの前兆を観測していれば何らかの規則性
が見いだせるのではないかという期待に基づき研究
は進められてきたものの、残念ながら、前兆に規則
性や共通性はなく、前兆のない大地震も数多く起き
ているといいます。
 世界には地震の起きない国もあるようですが、4
つのプレートがせめぎ合う日本では、現在言われて
いる南海トラフや首都直下などだけでなく、いつで
もどこでも「起こり得る」というのが答えのようで
す。
 一体、どうすればいいのか、と思いますが、島村
先生は何より建築物の強靭化や木造住宅密集の解消
など「あらゆる地域で」インフラを強くすることを
優先すべきだと説きます。
 問題はそこに国費を注ぐと、地震研究に充てる資
金が減りかねず反発が起こるという、大いなる矛盾
です。
 また「地震が起きない地域」を謳って企業誘致を
したり、逆に地震の可能性のあるなしで不動産価格
も左右するなど、影響は他にもあることでしょう。
しかし「ここでは地震が起きない」という安心情報
によって被害を広げているとしたら、これは見過ご
せません。
 私たちは今、宇宙への進出やAIなどの先進技術
を目の当たりにし、科学の進歩を実感しているとこ
ろです。しかし、地震研究も長くて千年単位のデー
タでしかなく、何万年のスパンでの調査はできてい
ません。海底調査も数キロの範囲で、宇宙に進出す
るよりも困難です。AIといっても、存在する情報
を使用しているにすぎません。
 結局、まだまだ人間の力ではどうにもできないこ
とがあるようです。
今日も最後まで読んで頂きありがとうございました。
どうぞ良い1週間をお過ごし下さい!
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100nyeon-housenka · 5 months ago
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関東大震災101周年 韓国・朝鮮人犠牲者追悼式
2024年9月7日(土)15:00から [会場]荒川河川敷 木根川橋下手(京成押上線八広駅下車徒歩7分)
〈スケジュール〉 14:30― 「追悼の花束」をみんなで作りましょう 15:00 追悼式開会―挨拶 追悼の歌:李政美・竹田裕美子(Kybd) 「百年」から 遺族から 16:00 終了予定(お花の持ち帰りにご協力ください) プンムル(風物) *トッケビほか各地からプンムルぺが集います
〈追悼式に先立ち〉 13:00より、関東大震災朝鮮人虐殺関連映像(昨年、大阪でTV放映された映像など)上映。 [会場]八広地域プラザ「吾嬬の里」(墨田区八広4-35-17)1階多目的ホール。 終了後、追悼式に歩いて向かいます。
〈雨天などで河川敷が使えない時〉 15:00から、追悼式を「吾嬬の里」で行います(追悼の花束作りは14:30から)。 9月7日、当日10:00に、会場変更の有無を「housenka1923の日記」ブログ・FB慎民子・「百年」インスタグラム 等で、お知らせします。ご確認ください。 「吾嬬の里」多目的ホールは定員120名のため、先着順で締め切らせていただきます。 プンムルは行いません。
〈今年も、どうぞよろしくお願いいたします〉 力仕事準備は12:30から。受付・給茶などのボランティアさんも13:30に打ち合わせ開始。いずれも、河川敷・木根川橋下にお集まりください(雨天等で会場が八広地域プラザ・吾嬬の里になる時は、力仕事などが不要になります)。
〈追悼式のお願い〉
熱中症の対策���お願いします。冷たい飲み物を用意し、お医者さまにも協力いただきますが、ご無理ありませんように。
河川敷には許可車両しか入れません。電車などをご利用ください。
車いすなどで手助けが必要な方は、事前にご連絡ください。
UDトーク、準備します。
河川敷にトイレはありません。駅などでお済ませください。
追悼碑の存続には、近隣の方のご理解が不可欠です。追悼碑前の道路をふさぐ、会話、長居がないようお願いいたします。
どなたも、一般参加者の顔は撮影しないでください。
取材・撮影の方は、説明がありますので事前にご連絡下さい(090-6563-1923〈西崎〉)。当日は腕章を持参のうえ、受付の取材ブースで、再度確認をお受けください。
〈主催〉
関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会
一般社団法人 ほうせんか [電話]090-6563-1923 https://housenka1923.hatenablog.com/
100周年追悼式 実行委員会 「百年」 「百年」 公式ホームページ https://100nyeon-housenka.tumblr.com/ 「百年」 公式インスタグラム @100.nyeon
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chiyoha1488 · 5 months ago
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ちよ旅オカルト編2024夏④
崇徳天皇御陵(香川県坂出市)
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ここが今回ちよ旅の一番の目的であり、
人生で一度は必ずお参りしておきたいとこでした
この御陵に眠る崇徳院は所謂「怨霊」です
現代では祟りが恐ろしい平将門や天神様としての地位を確立した菅原道真の方がメジャーですが、
元天皇が島流しに遭ったという前代未聞のことで、当時の人々にはかなりのインパクトでむかえられ、正直言って崇徳院はレベルが違う怨霊として扱われ、「日本最大の大魔縁」とまで呼ばれました
色々とその怨念の深さを想像させるエピソードが伝わっていますが有名なのでこれらは割愛させてもらって、
チヨハ的には怨霊を創るのは怨念なんかじゃなく、その人物の生前から偲ばれる「執念」と遺された人々の「罪悪感」だと思ってます
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上田秋成による江戸時代の怪奇小説集「雨月物語」の「白峰」の段で、この崇徳院の怨霊の話が語られます
この話にはその怨霊観がよく現れてると言えます
白峰の段では京での暮らしと政治への執念を捨てきれなく、生きとし生けるものの不幸を願い嗤う、恐ろしくも浅ましい魔王としての崇徳院の姿があります
そんな崇徳院の魂を鎮めるのが西行法師です
生前の崇徳院とも親交があった彼は、
崇徳院の崩御から数年経ってもその御陵で手を合わせることが出来ていないことに後ろめたさを感じており、ついには遠く讃岐の地まで旅に出ます
天皇を勤めた方の終の住処とも思えないほど荒れ果てた陵墓を前に夜通しの供養を行っていると、怨霊と成り果てた崇徳院が現れ、問答を始めます
西行法師の必死の説得を受け、ついには自らの王道を思い出し穏やかさを取り戻して夜明けと共に崇徳院は消えていくのです
西行法師は元々は武士、つまり相当な家柄を持つ家系に生まれ、文武共に優れていたのですが、そうしたものを全て捨てて仏門に入った人物です
執着を全て捨てた者だからこそこの世のあらゆる欲にとらわれながら苦しんでいた霊魂を救えたということですね
崇徳天皇御陵の側には白峰寺という崇徳院を供養する寺があり、そこには西行法師の石仏と、西行法師が歩んだであろう「西行の道」が整備されています
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さて、日本最大の大魔縁となった崇徳院は天狗を眷属として従えたそうです
雨月物語にも「化鳥」として「相模」という天狗が現れます
そんなワケで崇徳院を供養する白峰寺にも天狗がたくさんいます
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烏天狗みくじもありました
かわいいですね
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天狗のモチーフは山伏だとする説があります
山伏とは山岳信仰の行者です
この白峰寺も山寺なのですが、そもそも四国自体が空海を中心に山岳信仰の気が濃く、そういう文化も混じり、崇徳院と天狗が融合したのかもしれませんね
物語上では色々語られ、これらは脚色にしろ、でもきっと本心でも京都へ帰ることを切に望んでいた崇徳院が京都に帰った、つまり御霊が京都に移されたのは、実は明治になってからなのです
この時、やっとはじめて、人々の胸にずっとあり、崇徳院の怨霊の姿で取り憑いていた罪悪感が払拭されたのではないでしょうか
さて一方西行法師ですが、
「願はくは花の下にて春死なむ」
(どうせ死ぬなら花の季節に死にてえな)
という有名な詩を残して、その通り春に亡くなりました
その死に様に心打たれて多くの人を羨まがらせたと言います
幸せに生きて死ぬためには
足るを知る、ということが大切なのかもしれませんね
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myonbl · 1 month ago
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2024年11月17日(日)
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ココ(同居猫)は18歳2ヶ月、人間で言えば立派な後期高齢者だ。近頃はめっきり足腰が弱くなったので、これまで使ってきたトイレが使いづらく、床にシーツを敷いて用を足すようにした。トイレの砂をゴミ袋に入れて本体を水洗い、来週にでも大型ゴミに出すことにしよう。しかし、いつものスーパーで売っているペットシーツは犬のパッケージばかり、愛猫家からクレームはないのだろうか?
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5時起床。
日誌書く。
5時30分、シャワー。
ツレアイの起床を待って洗濯開始。
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朝食を頂く。
洗濯物を干す。
珈琲を入れる。
ココのトイレを撤去、和室の隅っこを20年以上占領してきた空間が空くと、4畳半がずいぶん広く感じられる。
セブンイレブンで12/21(土)の<月刊笑福亭たま>のチケットを発券する。
セントラルスクエア花屋町店でココの療養食、いつもは<まぐろ>と<かつお>味を買うのだが、<かつお>が品切れ故、<まぐろ>を10食分購入する。
彼女が買い物に出ている間に、昨晩の刑事コロンボ「死者の身代金」を見直す。
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ランチ、息子たちには日清ラ王・豚骨しょうゆ味、我々は冷凍のカレーを処理する。
録画番組視聴、土曜は寅さんから
第7作 男はつらいよ 奮闘篇 公開日:昭和46年4月28日 / 上映時間:91分
寅さんの母・お菊(ミヤコ蝶々)が、久しぶりに柴又を訪れる。そこへ寅さんが帰郷し、さくらと共に、お菊の宿泊先の帝国ホテルに向かうが、子供のように愚行を重ねる寅さんに、お菊は愛想を尽かす。旅に出た寅さんは、三島で東北なまりの少女、太田花子(榊原るみ)と出会い、知的障害を持つその身を案じるが・・・  天使のように純粋は花子と寅さんの楽しい日々。青森県の岩木山の自然に抱かれて育った少女・花子に榊原るみ。これまでの大人の女性や、若い女性のマドンナとは違う少女への、寅さんをはじめとする、柴又の人々の暖かい目線。花子の身元引受人の朴訥な教師を田中邦衛が好演。山田監督が落語を提供したこともある、柳家小さんが、ラーメン屋店主で出演。その話芸が堪能できる。
彼女は買い物へ、私は午睡。
夕飯前、いつも通りココに点滴。
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みなで夕飯、豚バラ肉のすき焼き風・蓬莱のジャンボ焼売・キュウリのぬか漬け・トマトとレタス・冷や奴、スパークリングワイン。
録画番組視聴、日本の話芸から
桂米團治 落語「質屋芝居」
初回放送日:2024年11月17日
桂米團治さんの落語「質屋芝居」をお送りします(令和6年10月3日(木)NHK大阪ホールで収録)【あらすじ】大阪・船場の質屋へかみしもを入れた客が、質札を持って受け出しに来た。定吉が蔵へ取りに行くと、隣の稽古屋から三味線の音がする。これを聞いた定吉は「仮名手本忠臣蔵」三段目の芝居のまねを始めてしまう。定吉の帰りが遅いので番頭が呼びに行ったが、定吉に誘われるがまま、二人で芝居のまねをはじめてしまった。
この手の噺はこの人にはよくハマル。
Оh!SAMMY DAY 柚木沙弥郎101年の旅
初回放送日:2024年11月17日
型染に魅せられ工芸の道を歩むこと75年。年を重ねるほどに版画、切り絵、絵本など工芸の枠をこえて自由にその世界を広げていった柚木沙弥郎。「ワクワクする気持ちがずーっと広がっていけばいいと思うんだ」という言葉通りワクワクと手を動かし続け、色とりどりの切り絵をこしらえ天国へと旅立った。100歳をこえて出会ったワクワクの魂でつながる友だちに語りかけたメッセージ。それはいまを生きるすべての人への贈り物だ。
同僚・H姉の先生、番組中の少年との交流は素晴らしい。これは、永久保存版。
片付け、入浴、体重は2日で650g増。
焼酎ロック舐めながら、日誌を書く。
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いかん、いかん。
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moja-co · 1 year ago
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「御即位式」  大正天皇の御即位式が行われたのは、青島陥落の翌年、大正四年十一月十日だった。御即位式のことを、一般に御大典といったが、明治天皇の御大葬が、日本が文明開化の代になってから初めての出来事であったと同じように、御即位式もここ数十年の間かつてなかったことではあるし、欧州戦線のあおりを受けて、丁度日本が好景気のさなかだったので、全国民挙げてお祝い申し上げたのであった。その時僕は、五年生になってゐた。  その日は、学校で祝賀式があって、新しい天皇陛下の御真影を拝み、「君が代」を斉唱し、教育勅語の拝読のあと、校長先生から色々のお話があって、天皇陛下万歳を三唱して、その日の授業はお休みになった。  明治天皇の御真影はどうなったか知らないが、新しい天皇陛下の御真影を頂く行事があったことを覚えている。尤も、それが何年の何月だったか忘れたが、御即位式よりも前だったことは確かである。  多分、神戸の県庁で、校長先生が頂いて帰られたのだらうと思う。何時何分に御真影が姫路駅にお着きになり、何時何分に学校にお着きになる、と時刻予定がきまって、全校生徒は、校門の前にズラっと両側に整列して、お迎えした。その時刻の少し前から、学校前の道路は一般の通行禁止になって、警官が警戒に立ってゐた。  待つほどに、京口橋の方から、人力車がボツボツ来るのが見えて、「気をつけ!!」の号令がかかった。見てゐると、警官が一人、車の前をテクテク歩いて、人力車の上には、校長先生が白手袋の両手で、大きな紫色の風呂敷包みを、おもそうに捧げて居られる。それがやっと見えた頃に「最敬礼!!」の号令がかかった。しばらくすると、警官の足と、車夫の足と人力車の車輪、その後にもう一人の足が、目の前を通って行った。  その日しばらくしてから、講堂で、御真影奉戴式があった。明治天皇が崩御になってから、三大節にも、講堂の御真影の棚は開かなかったが、新しい天皇陛下の御真影を頂いてから、前通に、御真影奉拝の最敬礼が、よみがえったのであった。  御即位祝賀式のときには、校長先生から、御即位式について色々お話があった。万世一系の日本では、一日一刻も天皇陛下のない時があってはならぬので、明治天皇がなくなった時、すぐに、当時の皇太子殿下が三種の神器をお受けになって、天皇の位につかれた。それを践祚(せんそ)といったが、天皇陛下がその位におつきになったことを、天照大神その他の御先祖に報告されなければならぬし、国民一般に又外国にも、そのことをハッキリ知らせなければならないので、先帝陛下の喪が明けてから、その儀式を行われるのである。この御即位式は、大昔から続いてゐる儀式だから、昔からの仕来り通りに、元の皇居である京都御所の、紫宸殿という第一の御殿で、古式通り厳かに行われるのである、というようなお話であった。  御即位式の日取りがきまると、その儀式のことや日程が、次々に新聞で細かく解説予告されてゐたが、いよいよ式が始まると、天皇陛下が東京を出て、京都に向かわれる鹵簿((注)ろぼ=天子の行列のこと)や、関連の色々な写真が、その記事と共に、次々に掲載された。新聞もここ数年の間に非常に発達して、写真版などもきれいになってゐた。  又、前年の青島陥落のときと同じように、全市を挙げての祝賀行事が催され、我々小学生は、日の本の小旗をかざして、町々を旗行列をし、夜は夜で、色んな団体の提灯行列が、いくつもいくつも、「祝えや祝え!!」と歌いながら、又、それぞれで万歳万歳!!と、市内を行進して、大変な賑やかさだった。  御即位式のときに、国家社会に功労があって勲章を頂いてゐる人に、天皇陛下からごちそうを下される、ということがあった。特別立派な勲章を貰ってゐる人は、東京に召されるのだが、勲五等だった父には、神戸の県庁でごちそうを賜るというので、菊の御紋章のついた御召状が届けられた。  父は以前に、広島や大阪に勤めて、軍需品の納入その他のことで、功績があったのだそうで、勲大等の旭日勲章を頂いたが、僕がごく幼い頃、専売局に勤めてゐた時に、一段進んで、勲五等になり、瑞宝章を頂いてゐた。だから、今では民間の塩田業者であったが、御即位式の御馳走に召されたので、大変の喜び方で、あちらやこちらで、大自慢にしてゐたが、いよいよその日には、朝早くからフロックコートを着て、これが勲五等の瑞宝章だ、これが勲大等の旭日章である。旭日章は本当に手柄がなければ頂けないので、一段下ではあるがこの方が立派なのだ。これが日清戦争の従軍章、これは北清事変(明治三十三年)の従軍章、これが日露戦役の従軍章だと、一つ一つ、僕に説明しながら、それを胸にズラッと吊り並べて、シルクハットをかぶって、意気揚々と停車場に向かった。  その日、もう日が暮れてから、父は、胸いっぱいに勲章を飾ったまま、人力車から自分独りで降りるのが危ないほど酒に酔って、それでも白い風呂敷包みだけは、大切に持って、帰ってきた。その風呂敷包みには、その日の御馳走が入ってゐたのである。素木の足のないお膳と、素焼きのお皿や瓶子(へいし)のようなものと、銀色のボンボニールとかいうものを取り出して、これには何が入ってゐた、これに何がと、一つ一つ説明してくれたが、どれも空だったことを記憶してゐる。
大正天皇の即位式の日のことが、大伯父(祖母の兄)の遺した回顧録に記されてました。 従兄弟が見つけて、文字起こしまでしてくれた! けっこう貴重な資料だと思う。
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