#サッカーのある週末
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日本でイギリスのサッカーのプレミアーリーグを見られている方はなぜマンチェスターみたいな人口50万ぐらいの都市でマンチェスター・ユナイテッドとマンチェスター・シティーの二大クラブが共存しているのかと疑問におもうかもしれません。あれはシティーは地元のプロテスタント系、ユナイテッドはアイルランド等の新来移民系のチームという対立構造があったからです。ちなみにマンチェスター・ユナイテッドが世界的に有名な理由は��だイギリスのクラブサッカーが地元のアマチュア選手の週末にやる地方対抗戦に近かった時も、アイルランドや他のヨーロッパの選手を多く採用しており、当時イギリスのチームが見向きもしなかったヨーロッパの大会に遠征するなど元々非常にインターナショナルなチームだったからです。名前がUnitedなのもそこからです。他にもアーセナルは地元に黒人が多く住んでいたので昔は殆どスカウトされなかった黒人系の選手を早く採用してからアフリカからのファンが多いとかトッテナム・ホットスパーはホームがロンドンのユダヤ人地区だったのでこのチームのサポーターは実際にユダヤ人であるかは関係なしに俗称・自称・蔑称がYids(日本人をJapという感じ)。狭い国日本では同じ街でスペースを共有していると感じるので一緒の町の人間が宗教的あるいは民族的に対立して喧嘩までするとなると社会が成り立たないと考えられます。イギリスだと離れて住めばいいじゃんと考えます。
(206) 同じ島国なのに日本と英国はなぜこんなにも違うのですか? - Quora
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オリンピックよりも、日本にも地域色のあるスポーツチームや企業スポーツが増えました。 例えば、サッカーだけでなくてバレーボール、バスケボール、ラグビーもプロリーグが創設されました。 各都道府県にも、なんらかのプロチームが増えました。インターネットも発達してスマートフォンから週末には何か観戦することは容易くなりました。 テレビ放映中心のオリンピックに、そこまで注力することもなくなってきたのかも知れません。
五輪最高位スポンサー、日本企業3社全て撤退 ブリヂストンも表明(朝日新聞デジタル)のコメント一覧 - Yahoo!ニュース
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るんぺんパリ 【RunPenParis】
【自己紹介 2024年8月3日追記 4335文字】 三重県伊賀市(旧名:上野市)出身 伊賀市(旧名:上野市)に 1976年(3歳)から 1996年(23歳)6月まで住んでいた 1976年以前の記憶と出生は不明 津市にある施設にいたと聞いた覚えがある お兄さんいるらしいがあった事は一度もない 30代の頃に一度だけ電話で話をした
伊賀市でそこそこ有名なのが 伊賀流忍者で忍者屋敷は今も昔も変わらない内容で 営業している 伊賀牛は金谷のすき焼きが有名で 森辻が新しい様相なってから焼肉を食べた 個人的には伊藤の牛丼が好きだ 上野天神祭の鬼行列も有名かな ひょろつき鬼が子供の頃は本気で怖かった 銀座通りが歩行者天国になり 的屋がならぶ 高校生の頃はリング焼きが100円ぐらいで 何個も買って食べた 松尾芭蕉は俳句で有名で伊賀出身で 小学生の頃はがっつりと俳句を作らされる 俳句はいやいや作らされたので 俳句番組は見ない 俳聖殿の中には過去の優秀な俳句が収められていたかな 上野城のお堀の高さ日本2位? 中学生の頃は上野城で体育の授業があったり クロスカントリーレースで走らされたり 高校生のデートも上野城が定番だったのか それらしき男女がイチャついていた 夜のライトアップは不気味なお城に見えた 一応、桜の名所なのかな 伊賀の街には銀座通りとか丸の内とか 東京で聞くような名称が多く使われている 地元のうわさでは東京が伊賀の真似をして 街を作ったとの話がよく出てくるから 誰か本気でテレビとかで調べてほしい気もする 2004年(平成16年)11月1日に 伊賀市に変わってから 上野市駅が忍者市駅になり 近鉄の電車だったのが伊賀鉄道になり 電車がコスプレになった 駅前には銀河鉄道999のメーテルと哲郎の銅像があり 産業会館がハイトピア伊賀になった 産業会館だった時にマルキンのパン屋が近くにあった そこのシナモンパンが子供の頃から大好きで 今はもう手に入らない もう一度、あのシナモンパンが食べてみたい 新天地もなんかおしゃれなサビれかたで 「新天地Otonari」となった 街は高校生の頃の面影は薄くなったけど 何となく残っている上野市街は今でも魅力的だ 最近は実家で一人暮らしのおかんの様子を見に よく帰省するようになったけど 若い頃は年一回も帰省しなかった 最近の伊賀でよく立ち寄るのが 「菓匠 桔梗屋織居」と 「HANAMORI COFFEE STAND」と 「岡森書店白鳳店」で 岡森書店は、Kマーホの名で出版した 「トイレの閃き」が背表紙の色が抜けた状態で 25年以上も本棚に置いてくれている これを見ると初心に戻れて まだまた創作していこうとがんばれる
市部という地区だったと思う 依那古第一保育所に5歳から6歳の2年間通った おかんは自分の送り向かいのために 自転車を乗る練習して そのおかんが運転する自転車の後ろに乗って 途中の田んぼに二人で落ちて 泥だらけになった 小学校までは上野市依那具にある 市営の城ケ丘住宅で過ごした この市営住宅はもう40年以上も その雰囲気を変えずに今でも残っている ここは伊賀市の文化遺産にしていいほどの時間が止まった場所だ いまだに汲み取り式の便所の換気の煙突が立ち並んでいる このカオスな感じは小学生の頃の不便な生活を思い出させる あの生活で暮らしたから今があるのは確かだ 小学校の通学路にある 垂園森でよく遊んだ 現在も存在しているが オバケが出そうな森 この森は当時通っていた依那古小学校の校歌の歌詞にも出て来る イメージ的には幽霊が出そうな森だけど 何か不思議な生き物が住んで居そうな森に見えた きつねも出そうだし おばけも幽霊も心霊も もしかするとタイムスリップして 小学生の頃��戻れそうな気もする森だと変��懐かしさを感じる 近くには無人駅の市部駅とにらめっこしている森 中学校から市街の上野城の 城下町で過ごした 当時はカオスな市営城ケ丘住宅から出れる事が本当にうれしかった 小学校までの友達とも飽きてしまっていたので寂しくはなかった 当時から色々な物にすぐに飽きては新しい物が好きだったので そっちのワクワク感で本当にうれしかった そして築20年以上の中古の一軒家で2階建て 自分の部屋がありトイレは汲み取り式だけど洋式で あこがれの上野の街で住める事もあって本当にうれしかった
そして近くの崇廣中学校に通う事に 中学校の3年間は 転校生という立場と 中一で足の骨折 中二で腕の骨折 どちらも遊んでいての骨折2回 中三の高校受験で いい想い出は無い
高校2年生で 小学校の時にサッカーで出会った 旧友とバンドを組んだ RCサクセションのコピーで 「雨上がりの夜空に」「トランジスタラジオ」 「ベイベー逃げるんだ」「サマーツアー」 「サントワマミー」「いけないルージュマジック」 「いいことばかりはありゃしない」 旧友が作ったオリジナル曲「ガレージの上のR&Rバンド」 一番のモテ期だった気がする ただバンドをやっている自分を見て 好意を寄せられても違うなと思った バンドをしていない時はただのバイトに明け暮れた 高校生だったから だからそういう人には興味がなかったから 冷たい感じだったかも 本当にこの時期がこれまでで一番楽しかった。
1993年 一人暮らしを始める やっと自由になった気がした 2年間ぐらいは金が無くて 通帳の残高は毎月マイナス50万 カツカツ生活 1996年7月から 2003年7月の 7年間は茨城県と千葉県の県境 利根川の近くに住んでいた この界隈を走るタクシー運転手の 態度は本当にムカつくから こっちも態度悪く乗ると 気分の悪さはお互いさまになる 関東平野は景色が無く ここでの生活は落ち着かなかった 食文化も人も気候も水も 肌に合わなかった 特にうどんの汁が濃いだけのシンプルな味は げんなりさせてもらった ただ寺原駅近くの「ふる川」はよく通った とくにカレーめちゃくちゃ美味かった
1997年から パソコンをミドリ電化で38万で購入して 作詞やネットに興味を持つ まどみちお詩集を読みだす 作詞に近い詩を書き始める 「Kマーホ」という名で 詩を書き始める 目標を300篇と決めて 詩を思いついたら メモをつけるようになる 週末は家に引きこもり 一日中、音楽を聴きながら パソコンがあるのに まだワープロで詩を清書していた
1998年から2002年まで 「Kマーホ」の名で 詩に団体に参加したり 詩の賞に応募したり 詩集を自費出版したり この当時参加していた詩の団体には もうドロドロとした 詩を書く人や あまりにも読み解けない詩や 暴力的な人や いい人もいたけど 自分とは全然目指している方向が 違うので2年目ぐらいで辞めた それからは詩の団体に興味は無くなった それから 自費出版した詩集を 全国の小中学校や 全国の図書館へ寄贈して 活動を休止 理由は2000年に結婚してから 集中して詩を書く時間が無くなってきたから 2002年に2つの詩集を出版して 詩の事は全部段ボール箱へ入れた
2003年から2019年まで 育児に重点を置いて生活をする この時期は友達とも連絡を 切っていたので のちに死亡説や宗教説が出ていたらしい 2003年7月から 現在は静岡県在住 もう20年以上住んでいる
2019年 るんぺんパリ【RunPenParis】の名で 詩を書き始める SNSでの詩の発信を始める るんぺんパリ【RunPenParis】とは フランスはパリの街を ぺんを持って 走るという意味から 【RunPenParis】ができた 1973年8月1日生まれ(もう51歳) しし座 O型 右利き 詩・詩集・ことばをデザイン アート・写真・小説・ペン画 松尾芭蕉の生家がある伊賀市で 十代までを過ごし 俳句が幼少期から 身近に存在していた 二十代から詩を書き始めて 「Kマーホ」名で活動(1999-2002) 詩集6冊を出版して活動休止
その後 松尾芭蕉の俳句のような シンプルな言葉遊びを 詩で出来ないかと考えていた中で 令和元年(2019)に 「るんぺんパリ【RunPenParis】」の名で 活動を再開 SNSに140文字に 言葉をデザインした詩 「140文字詩」を 毎日投稿する活動を始める 2023年9月に140文字詩が 1200作品に到達した事で 「140文字詩」を全国へ さらに世界へと 俳句のように広く知られる 存在になって欲しい ◆るんぺんパリ【RunPenParis】作品一覧 【2023年】Amazonで販売 2023/12/27第2フォト集「ほちきす それでは あかんで」 2023/12/2 第1フォト集「とめても ええか ほちきすで」 2023/11/23 第16詩集「もあいの ねごとを よみとる」 2023/9/16 第15詩集「さんもじ もしくは よんもじ」 2023/9/9 第14詩集「のこりの あぶらは わるもの」 2023/9/2 第13詩集「あそびも しごとも たいふう」 2023/8/26 第12詩集「かいてきな しつどに おぼれる」 【2022年】Amazonで販売 2022/12/6 第11詩集「やくそくは よなかの おひるに」 2022/11/3 第10詩集「みさんがの ともだちの たまんご」 2022/10/7 第9詩集「くうきと さんその かつさんど」 2022/9/3 第8詩集「さついを こめた いもけんぴ」 2022/8/7 アート作品集「やさいに つめる にくえらび」 2022/2/14 アート作品集「よなかに ひかる かみぶくろ」 2022/1/1 第7詩集「みかんの むくちな きもち」 【2021年】Amazonで販売 2021/9/8 第6詩集「そんな ことばは さよなら」 2021/8/3 第5詩集「あさに おくれた なんて」 2021/6/5 第4詩集「すいかの たねの ちょうこく」 2021/5/31 第3詩集「たんぽぽの たまご ひとつで」 【2020年】Amazonで販売 2020/7/27 第2詩集「こよい こよりの そらから」 2020/3/2 詩小説「すきから あいへ おやすみ」 【2019年】Amazonで販売 2019/7/21 第1 詩集「ところで あした あいてる」 ◆Kマーホ 作品一覧(1999-2002) 【2002年】 2002/4/30 第6詩集「眠立体(ねむりったい)」 2002/4/4 第5詩集「コールサック」 【2000年】 2000/7/31 第4詩集「マガサス星人」 2000/1/31 第3詩集「おしりとサドルが あいますか」 【1999年】 1999/8/1 第2詩集「テレビジョン」 1999/5/1 第1詩集「トイレの閃き(ひらめき)」 【受賞】 2001年 詩「眠立体(ねむりったい)」第6回トワイライト文学賞 2000年 詩「永遠の親友」信越郵政局長賞 1999年 詩「トイレの閃き(ひらめき)」第1回万有賞 1998年 作詞「地球のウラハラ」第31回日本作詞大賞新人賞候補ノミネート
#runpenparis#art#paris#artist#artistreet#詩#vogue japan#るんぺんパリ#詩集#japan#140文字詩#アート#ペン画#伊賀出身#伊賀市#写真#自己紹介#三重県#詩小説#伊賀
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2023/12/18〜
12月18日 来週の大阪旅行へ向けて心も身体も整えたいところ。 それでもやってきてしまった寒気に、朝はもうだめかも、と出勤して、してしまったら何とかなったり、何なら職場の方に他愛無い会話を持ちかけてしまったり、少し残ってお仕事をしてしまったりして、傘のかかった三日月をみてカメラを持ってくれば良かったと後悔をする余裕みたいなのを感じながら帰宅している。 でも本当のところの気持ちは(身体も?)全く余裕はない!
ニコンF100をカメラの修理に出したいのに、梱包材や緩衝材の準備が整わずに玄関に置きっぱなしになっている。
昨日のなんかもやもやが募ってTOEICの参考書関係を全部捨てた。 思ったよりすっきりした。
12月19日 お仕事をしている時も生活をしている時も写真やインターネットのことをしている時も、自分の人生は他のところにあって、人生の内訳にそれらがないことに気がついて、今日は心ここに在らずで心地よく過ごした気がする。多分年末マジックです。
とにかく体調に気をつけたい。
久しぶりにカメラレンタルをすることにした。 受け取るために明日は1時間早く早退しないと思っている。 できると良いな。
12月20日 カメラは近くのコンビニの受け取りボックスに納めてもらえることになって、でも色々するべき生活がありすぎて1時間早く帰っている。 半分の月が出ていて、今月の27日の、今年最後の満月に向けて準備中。
今日も瞬く間にめまぐるしくお仕事をして時間が過ぎていった。
通勤中にゴールデンウィークに奈良のホテルを2泊とってみた。半年早くても観光地はちゃんと繁忙期価格で、それでももう既に予約で埋まっている日もあって、ちゃんと生活の鬼(日々に追われるのでなく追う側)をしている人達もいるんですね。
年賀状20枚宛名書きを終えて残り10枚。 まだ、���行だけれど足りるかな?
この機会にとクリーニングを出しに行くとお店のネオンサインだけ光ってシャッターが閉まっていた。初めて行くクリーニング屋さんだったけれど、クリーニング屋さんって水曜休みが多い気がする。
帰宅すると共用部の掃除が完了していて、濡れた廊下にamazonの置き配されていた。段ボールの底がしみしみでなんか最悪(しかも中身がお薬だったのでなんかちょっともっと最悪)。 うーん、と玄関に置いていた捨てられないガラクタ達(いただきものもあったり)を心を鬼にして捨ててみて少し諸々のやり切れなさに落とし所をつけてみた。こうゆう時の自分について傾向と対策を探し中。
スーパーに行くといつも走る息子を叱りながら買い物している男性が、セルフレジで14円のキティちゃんチョコマシュマロだけを買っていた。今日は1人だった。
12月21日 年末年始はどこにも行けなさそうで、それなら生活に足りていないものや更新したいものを整えようかと日用品の上位互換を見定めてみる。 でもこれらが配達されると思うと、今はそれを受け取る余裕すらなく途方に暮れてしまっている。
お昼休みに昨日のクリーニングリベンジを果たそうとしたら、なんと水曜日に加えて第三木曜日も定休日だった!
昨日受けとったレンタルのコンパクトフィルムカメラをカバンに入れて出勤。物理的事情が写真を撮る楽しさを思い出させてくれている感じ。 帰り道に写真を撮ってみたら楽しくて、ちゃんと機材を使いこなせている自信はないけれどきっと何かしら写っているものを見る日が今は楽しみ。
でも楽しんでいたらレンズキャップを落としてしまっていて、少しUターンして発見。
そのまま歩いて駅へ向かい、折り返���の電車に乗ると既にぐっすり眠っているサッカー少年がいて、彼はこのまま折り返して絶望しちゃう感じなのか、それとも到着した電車に乗って即爆睡しているのか、発車する前に起こすべきだったかなと、少し気にしつつこれを書いています。
昨日ふと、学生時代に出会った不特定多数の女の子達を思い出して、女の子をまとめた写真集作りもまた続けたいと思った。 今のこのご時世で“女の子”を括ることは難しいし危険なことなのかもしれないけれど、わたしが感じた写真の中の愛おしい存在は、はっきりと“女の子”だったので、そして当時女の子だった彼女達が今は女の子ではなくなっていて撮れなくなっているのも事実だったりするので、その残酷さにも素直に、だからこそ写真の彼女たちが大好きであることを作品にできないかな、と思っている。そして彼女たちに、もしも後から「私たちは“女の子”ではなくて本当は“男の子”だったんです」と、カミングアウトされた時、私は絶望して悲しくてこの写真を嫌いになってしまうのか、それともただ“女の子”という記号が入れ替わっただけでそれでも大好きが続くのか、そんなことを考えている。
年賀状を10枚買い足した。どうか色々治りますように。
12月22日 今日が冬至ということをぎりぎり思い出せてよかった。 夢に昔好きだった人が出てきて、お仕事や家庭に忙しい風貌にすっかり変わっていてもう全然好きじゃなかった。「まだ相対性理論聴いてるんだね」と笑われた。
寒くて慢性的な体調不良の兆しがあり、今日はロキソニンを飲んでしまった。
産業医の先生との面談があり、離れたキャンパスまで良くしていただいている職員さんに車で送ってもらう。車内で今日はホルモンを食べに行く、と教えてもらう。先週、一緒に写真展へ行った友人もクリスマスはホルモンを食べに行く、と言っていた。クリスマスホルモンが流行っている?
面談では主治医の無責任な対応(と、その時は感じた)に戸惑い怒っていることや満身創痍すぎて今月はお休みをとりつつ出勤したことを報告した。 「ちゃんと体調に対応できるように、助けを求められるようになってよかったですね」と言われ「今どうしたいかがわからないままでも別に良いと思いますよ」とアドバイスをいただく。 そのアドバイスにも、この場を穏便に済ませるためだけに言われている気持ちになって不憫な気持ち。
一期下の方から下瀬美術館のお土産をいただく。 下関の唐戸市場や門司港はとても若者で賑わっていて、海岸向きのベンチは満席だったとのこと。父の実家が下関なのでかつて毎年夏に訪れていた場所だったけれど、そんなに賑わっていた記憶が全くない。
ロキソニンのおかげか、帰りながらこれからのやるべきタスク(年賀状、お掃除、日記の更新、ものを捨てる等!)を思い浮かべても特段焦ることができずぼやっとしてしまっている。
お昼休みに久しぶりに音声放送を聴いたら、セルフレジについて話していて、昨日コンビニのセルフレジで買ったフリーズドライスープを、その後行ったスーパーのセルフレジに誤って通してしまい、なぜかちゃんと商品がカウントされてしまって(スーパーでは取り扱いのない商品のはず)、でも取り消しして店員さんに説明するのがうまくいかない気がして、そのままスーパーでもスープを買ってしまったことを思い出し、今日は気をつけようと思った。 無いものを買ってしまって、昨日のスーパーのレジ計上はどうなっているんだろう。
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社会人になって10年目だから、ぜんぶリセットしたいなと冬に思って、そっから仕事の頑張り度を半分くらいにして、有給休暇も使いまくって、ニューヨーク行って、カンヌ行って、大阪行って、京都行って、とか、残業や飲み会も拒否って、プールやフットサルの予定は死守して、好きな料理もしまくって、好きなサッカーの試合もスタジアムに見に行って、仕事で尊敬してるけどあまり交流がない人にアポ取って飲みに行って、この10年振り返って感謝してる人にも連絡して久しぶりにご飯食べに行って、好きな作家の講演会とかはぜんぶ予約して、って感じで生活してたら、どういうわけかわからんけど、仕事もうまくいって、賞とかもたくさん取れた。
今はそんなにいらないんだけど、評価。
でも、やりたいことに素直になると、周りもなんかあいつ元気だなってなって、評価上がるのかも。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。
無欲。
いや、ちがうな。
自分の欲望には忠実なんだけど、他の人からの評価は、無欲。
身軽。
これは少し合ってる。
自分勝手。
半分合ってるけど、他の人に迷惑かけてるつもりもないから、ニュアンス違う。
自由。
うーん。
集中。
けっこう、感覚に近い。いらないものを削って、本当に欲しいものに真っ直ぐである。
素直。
これも、まあ近い。
仕事は、サボれるようになってからが一人前。って、新入社員の頃に先輩に言われて、無茶苦茶言ってんなこの人、って当時は思ったけど、なんかわかる。
◇
昨日も今日もプールに行きました。
今週末は富士山登ってきます。
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自己紹介
初めまして、自称JAPA(ジャパ)こと藤田です。ポルトガルの首都リスボンに暮らす34歳(独身)です。
埼玉県で生まれ育ち、私立の男子校で6年間ぬるま湯に浸かり、そこで海外と海外サッカーにかぶれ、浪人の末に合格した東京外国語大学でポルトガル語を専攻し(2009年入学)、2度リスボンに留学、そこで人生を狂わすあるものに出逢ってしまいます。
それは何か?
SPORT LISBOA E BENFICA (SLベンフィカ)というポルトガルが世界に誇る総合スポーツクラブです。
インテルミラノの青と黒のユニフォームに憧れていた藤田少年��リスボンで人生一度目の改宗を果たします…でも、理由はちゃんとあります。自分と同じ誕生日11月3日で、憧れのパブロ・アイマールさんが10番のユニフォームを着てベンフィカでプレーしてたのです。
2010年に初めて海外で見た試合がCLとリスボンダービー、これでサッカーにハマらないのは不可能な程のカードを観てしまった藤田少年。案の上ベンフィカにのめり込み、翌年の長期留学を決意します。
2011年9月〜2012年3月までの半年間、ベンフィカに全て?を注ぐ生活が始まります。サッカー好きの方のために補足をすると、アイマール以外にはガイタン、ヴィツェル、ノリート、ロドリゴを擁しCLでマンチェスターUと同組ながら、バーゼルと共にグループステージを突破したシーズンです。
人生二度目のリスボンダービーを見るためにソシオとなっていた私は、阪大から同じく留学をしていた日本人と共にスタジアムツアーに行くと、そこでベンフィカの広報スタッフより、日本人のソシオは珍しいのでインタビューをしたいという話をされます。一つ返事でOKをした私たちは、スタッフの方々とスタジアムを周り、最後にインタビューは行われます。拙いポルトガル語で恥ずかしいのでリンク等は載せませんが、今も探せば関連記事はでてきます。
動画は翌日の2011年12月1日にクラブの公式サイト、FB等のトップに掲載されました…当時はベンフィカがアジアを意識したプロモーション戦略をとっていたのもありますが(私たちの前の少し前に中国人の夫妻が同じようにインタビューをされ、同じように掲載されていた経緯もありました)。そこで承認欲求の塊wとなった藤田少年は20代の全てをベンフィカに注ぎます。
毎年一度はリスボンに旅行で行き、旅行の間は毎日のようにベンフィカの練習場に足を運び、日本で収集したベンフィカグッズをカバンいっぱいに詰め込み、サインや写真をお願いする日々を過ごしました。その間にはモラトリアムの延長のために大学院に進学したり、就職をして予備校で英語の講師兼テキスト編集の仕事をしたりと人生のイベントはありましたが(昔から教えるのが好きで天職だと思ってます。本当はポルトガル語講師だけで食べていきたいです)、思い出を書き連ねてもキリがないので割愛します。
最終的には、ベンフィカの公式TVの一時間の討論番組に出演させてもらい、私のファンとしての活動は休止期間を迎えます。最終的な人生の目標はポルトガルで家庭を持つこととベンフィカに就職することと決めている私ですが、30歳までにサッカー界に入れなかったり、ポルトガル語を使う仕事に就けなかった場合には、日本でヒッソリと暮らすという決意をしていました。
ベンフィカTVに出ても何もなかった私は、30歳という年齢を無事に迎え、自分の身の振り方を考えていた矢先に、お世話になっていた方からの紹介で、ポルトガルのサッカー界で働くという話が浮上します。チーム名は伏せられていましたが、すぐに返事をしたのは覚えています(誰にも相談せずw)。
紆余曲折経て、入団?が決まったUDオリヴェイレンセSAD(現在は三浦知良が所属)では約3年半お世話になり、『秘書』という名目で特に専門性も強みもなかったので、何でも屋でした笑。翻訳・通訳(通訳としてはポンコツです)…、外国人担当、クラブ公式カメラマン、SNS担当、日本人選手へのポルトガル語の授業、経理業務etc…。自分がクラブの貢献出来たことを挙げるとすれば、ファンとの関係の構築だけかと思います。3部で戦っていたシーズンはコロナ禍も落ち着き、ファンもスタジアムへと足を運べるようになってきたので、ここぞとばかりにファンの写真をバシバシ撮影し、クラブ公式SNSで使用をしてもらったり、ファンに直接配ったりしてました。私の中では「ファンがあってこそフットボール」という信念は大事にしております。3部から2部への昇格が決まったアウェイの試合で、遠くから訪れたオリヴェイレンセサポーターが歌ってくれた私のチャントは今でも一生の思い出です。個人的には、降格への責任も感じていたので、喜びも一入でした。また、カメラマンは自分の写真が残らないので、それも含めて最高の瞬間でした。
個人的には思い入れの強いクラブですし、街を歩けば、皆にフジータと声をかけてもらえる、最高の環境でしたが、プライベートの問題でオリヴェイレンセを退団し、今はリスボンの企業で英語と日本語を使った仕事をしております。また、完全週休2日制のオフィスワークを望んでいたのもありますが。
仕事が8時〜16時で残業もなさそうなので、これからは、封印してきたベンフィカ、ポルトガル代表の追っかけ活動と、副業として観光ガイドや写真撮影、ポルトガル語のオンラインや対面でのレッスンや、生活が落ち着いてきたら、YouTubeも始めたいと思ってます。
「ベンフィカ」と言えば「藤田」、「ポルトガル語講師」と言えば「藤田」と皆さんに認知してもらえるようにこれから頑張ります。長くなりましたが、今後ともどうぞ宜しくお願いします。駄文をタラタラと連ねすぎたので、自己紹介の簡易版も用意します笑。ではでは、Até já
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20230425
雑記(植物、映画)
諸般の事情で年明けから忙しかった。
少し落ち着いたところでサボテンやら観葉植物の植え替えをした。気分転換というより苦役という感じで一週間ほどかかって疲れたが終わってみれば精神的に元気になった気がする。
禅に『十牛図』なるものがあって牧童が牛(自己の象徴のようなもの)を探し求める10の段階を示した図の内、画面から誰もいなくなり円だけが描かれた図を『人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)』と呼ぶ。『人牛倶忘』とは、「牛を捉まえようとした理由を忘れ、捉まえた牛を忘れ、捉まえたことも忘れる。忘れるということもなくなる世界」(wiki)だという。
植物を相手に作業していると知らぬ間に完全に「無」になっている時があり、その状態が結構続く。ふいに「これでいいのか?」と底の方から泡粒のように思考が湧いてきて過去や未来とあれこれ考え出す。まるでその瞬間に私という人格や意識が無から再び生成されるように。
『人牛倶忘』。植物に意識があるとしたらこんな感じなのではないだろうか。ただ「在る」という世界。植物に触れている内に想念が同期して植物の意識のその奥を垣間見たような気がした。
種から育ててるサボテンの名札の日付を見ると植えてからもう4〜5年くらい経っていて知らん間に時間が過ぎたんだなとしみじみ思った。サボテンの成長の遅さ、変化のない草姿、それに加えてこの感染症禍も実感をあやふやにしているのかも知れない。
こんな感じでまた平気で10年ぐらい一気に過ぎて50歳のおっちゃんになっちゃうのかあ。
まあそん時はそん時の自分が何か思うだろう。
ビフルカツム
着生植物のビカクシダ(コウモリラン)。よくわからん異様な魅力というか魔力がある。「よく見ろ、ただの葉っぱだぞ。」この警句を便所のドアにでも貼って定期的に思い出さないと非常に危険だ。
思い出したとこで新たにビーチー種の板付の苗を買うなど。
パキポディウム(デンシカウレ)
チタノタ
アレキサンデリー
猩々丸
アロエ(不夜城)
誰が名前つけとんのやろか。謎。
太平丸
花王丸と同じく四年経ってやっと新しい棘が生えてきた。
個にして全、全にして個というやつです。
しまどじ��
ミナミヌマエビ
映画
アマプラビデオに加入して仕事と作業の合間に時間見つけて映画を比較的によく見る。
初見も見直しも含めざっと書き出してみると『ネバーエンディング・ストーリー』(30年ぐらいぶり)、『パラサイト 半地下の家族』『殺人の追憶』、『ドライブ・マイ・カー』、ジョーダン・ピール監督作品の『Get Out』『Us』『NOPE』、ハンガリーの映画『心と体と』、『コーダ あいのうた』『閃光のハサウェイ』『ミッドサマー』『キル・ユア・ダーリン』『ブレードランナー2049』『オブリビオン』など。
ジョーダン・ピールの去年公開された最新作『NOPE』は映像にクリストファー・ノーラン味あるなと思ってたらノーラン作品の撮影監督のホイテ・ヴァン・ホイテマなる人物が担当なのだという。ライラ・ミラ・ライラみたいな語感。ジョーダン・ピールという天才の出現をちっとも知らんかった。
読書録
マリー・D・ジョーンズ『11:11 時間ピッタリ現象』
プラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』
その他
・お灸にはまる。せんねん灸。一ヶ月ほど続けてるが正直効果はわからん。ただ風呂に似た気持ち良さがある。体を押して痛いとこ探す癖がつく。
・タバコやめて8年と2ヶ月、お酒やめて5年と10ヶ月が経った。
・サッカー。毎週末Abemaでブライトン、DAZNでレアル・ソシエダとヴァンフォーレ甲府の試合を見る。DAZNは値上げしつつコンテンツひっそり減らすくせにインディアン・プレミアリーグなるインドのクリケットの試合の放送始めた。誰得なのか。
日本代表、森保さんで8年という日本サッカー暗黒時代の到来に慄く。学習性無力感。
・Sonyのワイヤレスヘッドホン買う。
・マクロレンズ買うか迷って3000円ぐらいの中古のコンバーターレンズ買う。
・作陶と釉薬の実験を繰り返す。
もう五月だ。
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後期講義の最終回-03
信じられないほど安価に売られているリンゴ。とても美味しい。
学科会議でスタート。変えるべき点が幾つか議論された。次の改組での課題になりそうだ。
Dゼミの打合わせは比較的長いが、今日は特に。これからの半年が大切な期間となる。
TAがコロナ感染のため、図面の受取りを代行。思いの外、模型を頑張っていて嬉しく感じた。
須坂市蔵の街並みキャンパス事業は産官学の関わり合いが地道に18年ほど保たれている。微力ながら一員としての活動継続を心掛ける。
担当講義の後期最終回。前回、寒くて具合の悪くなった学生が居たので教室を変更したところ、プロジェクタに問題が...。
共同研究者に応じてTeamsを再導入。次年度は、学部生対応に利用してみるか。
雪が舞う中、少年サッカーへ。子どもは風の子ととは良く言ったもの。風のように動き回れる選手になってもらいたい。
嵐の前の静けさであろうか。週末の天気は穏やか。
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2022年12月2日(金)
12月に入った途端、例年通り各地からのお心遣いが届く。みかん・柿・酒・新そば、いやぁありがたい。盆暮れの挨拶を虚礼と捉えるなら無用のことだが、私にとっては親戚・友人との互いの生存証明だ。年賀状はずいぶん前に止めたのだが、それでも<喪中挨拶>がチラホラ届く。コロナ以前は<師走>の文字の如くバタバタと忙しい日々を過ごしていたのだが、今の私は週に2回の在宅ワークの日々。亡くなった方に思いを馳せ、元気な友人の顔を思い出す穏やかな一日であった。
5時30分起床。
日誌書く。
朝食は、うどん+ヨーグルト+豆乳。
洗濯1回。
2男のおにぎりはツレアイ担当、私は彼女の弁当と珈琲を用意して職場まで送る。
昨晩届いたリモコンの動作がおかしいのだが、改めて添付の説明書を読むと、私がテレビメーカーの設定を忘れていただけのことだった。これで安心、午後からのスペイン戦を予約する。
次週の「共生社会と人権(人権論)」の資料作成、Classroomにアップする。
MQJ(メモリアル・キルト・ジャパン)のニュースレターの編集、日曜日に印刷作業をするつもりだが、封筒と宛名ラベルが見つからない。とりあえず、ラベルはアマゾンに発注、封筒はあるはずなのであちこち捜索する。
新開地・喜楽館の年末興行<忠臣蔵ウィーク>に露の新治さん登場、タニマチ割引で予約を取る。
ランチ、3男には月見うどん、私は残り物カレーを頂く。
サッカー・日本vsスペイン戦の録画を観戦、後半の攻めは素晴らしかった。
軽く午睡。
セントラルスクエア花屋町店で買物、猫砂・朝食用ナッツ・今夜の鍋の具材。
寒さが厳しくなってきたので、早くから鍋に決定、酒が美味しい。
録画番組視聴。名探偵ポワロ
(26)「二重の手がかり」
世界が愛した名探偵、エルキュール・ポワロ。アガサ・クリスティー原作の人気ドラマシリーズ。貴族をねらった宝石盗難事件。ポワロのほろ苦いロマンスが事件を解決する?
貴族の屋敷で連続して起きた宝石盗難事件。ジャップ警部は解決の糸口がつかめず落ちこむ。その後、ある宝石コレクターの館で行われたパーティーの最中に、またも宝石が盗まれる。現場には男物の手袋とシガレットケースが残されていた。調査を始めるポワロだったが、事件現場で出会った伯爵夫人にすっかり夢中!ヘイスティングスとミス・レモンが事件解決に乗り出すことに…
片付け、入浴、体重は700g増、うちに居てよく食べたからなぁ。
辛うじて10,000歩クリア、水分は1,400ml。
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フィギュアスケートNHK杯に行ったときに、私の座っていたジャッジ裏の側はなんというか関西のほうのことば使ってる人が多くて、東京…ひいては関東ってそんなにフィギュアスケート人気じゃないかもしれない、ほかに選択肢もあるし、親がよほど好きとかじゃないと続かないスポーツかもと思った。小さな子どももそんなに見にきているように見えなかったのがすごく気になった。入場料の問題があるにせよ(だから義務教育までは半額とかにしてやってよ。そうしてたのかなあ?)。
自分の子どもが小さいころ、毎年、区の支援で神宮リンクが3回コースぐらいで早朝に区の小学生向けに貸切してくれたのと(休憩時間に当時上手な中学生のデモンストレーション演技とかもあった)、あと夏も子ども会関係で申し込むと滑れる機会を設けてくれたのだけど、うちも含めてそこから先がなかなか続かない。
都下のほうは事情が違うかもしれないし、車産業が中心の地域に住んでる人はわからないかもしれないけど、私が社会人になって結婚したころ、90年代末の金融危機のころかな、私は一度夫の海外転勤についていって仕事辞めてから定職についてなくバイト状態だった。ふとテレビをつければ節約番組で「車を持つのはムダ。経費がかかりすぎ。まずそれを手放しなさい」と相談する家庭は言われるてるわけ。特に都心住まいだと。郊外もそうだったかも。
そして東京育ちの夫と婚家もそういう持論だった。駐車場代がムダ。毎日乗らなくても生活できるところに住んでいるのにムダ。いざとなればタクシー使ったほうが維持費より安い。そのお金でさっさとローン返しちゃいなさい(実際、子どもが生まれる前も、かなり節約生活強いられてたし、すぐに返済できるように狭い家を買ったから、生まれたころには家のローンの返済はなかった。だから結構、子どもには不自由はさせなかったと思う)。
息子が園児だったころ、親御さん双方とも大手の会社勤めていても車なかったご家庭それなりに多かったように思うし、もっと成功した個人経営主か…外資のとんでもない高給なところとか、あるいはご両親自身地元が2人とも東京でしかも2人とも超大手に勤めてる人とかじゃないと車を持ってなかったように思う。みんな電チャリ。
それでも美容師さんから世間話聞くと「最近だと」スポーツをさせたい!レベルじゃなく「極めさせたい!」という「熱心な親御さん」はやっぱりサッカー場とか朝早く行くのに必要だからそのために車を買って、20年ぶりに運転始めたとかいう話はよくあるらしい。
90年代末の「車なんていらない。その分を節約してローンさっさと返しちゃいなさい」は、実はすごく短期的なものの見方で間違ってたと私は思う。
子どもにはスポーツをあまり熱心にさせなかったけど、まあ、他の道もあるし、そちらのほうが向いていて、楽しんでるから、それで今のところは済んでる。昨日もそして明日も行くつもりだけど大学の文化祭も楽しい。
ちなみに東京で一番子どもの習い事にお金をかけたくなかったら、勉強させることよ。結局それが特段の才能も関係なく、ある意味ただの力業で成果が上がっちゃう部分もあるから一番コスパがいい。だから塾産業も流行るんじゃない?
うちの子は魔法にかからない子どもだったから、勉強だろうとなんだろうと親の主導で、みたいなものは一切通用しなかった。大した主義でもないのに、自分の基準でしか動かない。あれなんだったんだろう。3歳の頃、保育園で「赤信号はわたってはいけません」という話が出た時に、息子はごく自然に「でもクルマが通ってなかったら渡ってもいいんだよ」と言ったらしい。そんな教育は断じて夫も私もしていなかったのに。
私はルール違反を平気でするようになる(というかなんでも自分の都合のいいように解釈するようになる)と困ると恐れ、夫は「多様な見方ができる融通のきく賢い子だ」とそこまで息子には注意しなかった。
閑話休題。それた話を戻そう。
問題は介護よ。親が歩きづらいのに車で運んでやれないからそれが厳しい。ローンのために車なんて不必要!と豪語した義母は90歳過ぎても自分のことをできるピンピンとした体力が売りだったが、ついに一人では外出できなくなった。家の中なら杖をつけばなんとからしいが、いわゆるヘルパーさんがやるような家事を夫が勤務先行く途中と帰る途中、そして呼び出されたらすぐに行ってやっている。昼間に私が呼び出されないところを見ると、私には頼れないのか、まだ、そこまではなんとかできてる前向きな証拠なのかもしれない。
一方私の横浜の実家では、出戻ってる弟がついに弟が血液系の病気の母の病院送迎のために車を買った。彼が車を同様の理由で当時の妻から(今も籍入ったままかもだけど)車を手放すよう求められ、持たなかった20年近くの間でも、暇があると自分でレンタカー借りて運転してたし、運転のスキルは維持してたけど、東京の婚家は今、夫が義母をどこに連れていくのも杖のようになって一緒に歩いている。あれはすごい。なお、亡くなった義理の父のときもそうだった。義母は家事はしたけどそれが精一杯で(年齢と性格を考えればそうだろう)、介護的なことはほぼ一切やらなかったので。
私は時々(毎回じゃないのが話をややこしくしてるのだけど)原因不明のもう死にそうになる程の顎の痛みに2〜3時間襲われることがあって(たいてい何か食べようとするとトリガーになって食べるどころじゃなくなる。昨日は大学の出店でもそれが出て、でも出先だし頑張って平気な顔してゆっくり食べ終えたけど)それイブプロフェン程度じゃすぐおさまらない。私の肝臓と必ずしも相性の良くないロキソニンでようやく。あの効き目はある意味怖い。
昨日は夕食のときもそれで激痛に苦しめられたから、しばらく横になってたけど、でも生活しなきゃいけないしと、とうとうロキソニン飲んで効いてきたころ、夫が洗い物をしようとしたので、さすがに止めた。定職についてて(幸い残業になることはあまりない職種だけど、それも彼が、私がいうのもなんだけど、とても優秀だから)、外には一人で歩けなくなったおばあちゃんの介護…手足の役割を実質自分ですべてやってて、疲れ果ててるから。だから趣味の音楽の演奏をしに週末の夜でかけても私は賛成だし、家にいるときはおそろしいことにテレビに差したFire Stick のストリーミングで延々と海外ドラマを見てる。それも7シーズン分見たあとまた初めから見始めたあたりから、私は口には出せなかったけど、本当に彼の精神状態が心配になった。そうでもしなければやってられないのだろう。だから夕方以降、同じ部屋にある私の仕事机で頭を使う何かするのはなかなか厳しい。すぐ真横で爆発音か銃声がひっきりなしに鳴ってるわけで。せいぜいイアホンしてフィギュアスケートの配信(あるいはアーカイブ)を見るのが精一杯。それ以上頭を使う作業…つまり私の場合手元にあるなら翻訳だけど、それは彼が寝てからじゃないと無理。
おばあちゃんのことなら、私も手伝うよとは言うけど「どうにかならなくなったら頼るから今は大丈夫だ」と言われる。
とにかく昨夜はうちのほうの皿洗いまでしようとするから(婚家のほうは彼がやってるのだろう)もう顎はおさまってきて大丈夫だし私ができるから休んでて、と言って起き上がって私が始めた(しかもうちには食洗機もある。でも夫は使おうとしないのがわかるから余計に)。夫か私か車があって運転するのに慣れていれば、おそらく夫はそこまでしんどくないはずなのに。
もう、今の世代どころか私の世代でさえ車が運転できないのが東京の現状だとしたら、あと20年後が怖い。車のない家に育った子は車を運転する意味とか常識がわからない。息子なんてチャイルドシートに座ったこと両手の指でおさまるほどの回数しかないはず。そして車の免許を取れといっても「困った経験��ないから」取ろうとしない。車のある意味がわからないまま育ったのだから、ある程度仕方がない。
弟は「それこそおばあちゃんのために、と言えよ!」と私に言ったけど、そんな理由を20歳そこそこの孫に持ち出すなんて、プライドの高い夫も義母も激怒するからそれも言えない。そもそも息子は関係ないことだし。
生活の豊かさってなんだろう。私はお金よりも教養だと思ってた。少なくとも婚家もそう。でも、もはやそう言い切れない自分がいる。
https://rkmatsunaga.hatenadiary.com/entry/2024/11/23/121752
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驚愕。
週末からの宿だけ取って。飛行機取れてないって今気付いたよな。計画性0すぎて笑うしかなくて、ブレスケア噛みまくって笑ってる。
そもそも論、繁忙期に動くもんちゃう��よな。11/2にサッカー誘われてあー、ええやんって思ったけど。そっち行こっかな。真昼間から酒飲んでサッカー見てる方に傾いてる。
#口の中スースーしてんねんけど
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9/29(日)U-10能登川FC リブラ五個荘FC さん主催のトレーニングマッチに参加しました⚽️ 主力がU-12の決定戦に向けたトレーニングマッチで不在の中、3年生の力も加えてチャレンジしました! 対戦いただきましたチームの皆様、 ありがとうございました! 自分たちでも十分できること、逆に不足していることを体感できたと思います。 感じただけで終わらず、自分の未来のために、今日からの行動を変える。 出来なかったことができるようになるように チャレンジしてみる。 分からなかったらコーチに聞いてみる。 恥ずかしがって、質問できなかったり、意見を言えなかったりするのは勿体無い(^^) この恥ずかしがり屋は世界でも珍しい日本で育った人の特徴なのでこれが普通じゃないですからね。 Oコーチが復活しました。 監督としては嬉しいけど、、、、 大丈夫か、週末サッカーばっかりして。 大丈夫なら良いけど。 U-10選手権予選突破に向けて、力を貸してもらうよ。 Cコーチとともに選手たちを頼みます👍
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妻を殺害した疑いがかけられている元長野県議会議員の丸山大輔被告(50)の初公判が10月16日に行われた。裁判の冒頭、丸山被告は「妻を殺害したのは私ではありません」と容疑を否認し、妻の実家への借金などを理由に殺害したという検察の主張と真っ向から対立している。 真相究明の一助となるため、丸山被告の人柄や経歴、夫婦関係について追った当時の記事を再公開する。(初出:「週刊文春」2022年12月15日号。年齢、肩書等は当時のまま) ◇◇◇ 「地元のために汗を流します。貢献したいんです」 2022年10月22日、長野県塩尻市の会館には300人を超える後援者が一堂に会していた。この日行われたのは、来年の統一地方選の決起集会。地元選出の後藤茂之経済再生担当相や百瀬敬塩尻市長が控える中、自民党の丸山大輔長野県議(48)はマイクを握り、飄々とした表情で挨拶をした。 だが、約1カ月後の11月28日、丸山は妻・希美さん(享年47)に対する殺人容疑で逮捕されたのだ。 「昨年9月29日の未明から早朝にかけ、塩尻市の自宅兼事務所で希美さんを窒息死させた疑いが持たれている。希美さんの首には絞められた跡や抵抗した際に付いたと見られるすり傷があり、喉の骨の一部が折れていた」(社会部記者) 事件前日の晩、丸山は同僚議員と飲食し、「その後は長野市の議員会館にいた」と全面否認を続けている。 県議の傍ら、約140年続く酒造会社「笑亀(しょうき)酒造」の四代目当主を兼務していた丸山だが、自らが杜氏となって世に出した酒は「深みがなく、まるで水のように軽かった」(同業他社)と酷評されている。周辺取材で浮かび上がったのは、まさに「笑亀」のような半生だった――。 地元の名門校から一浪して慶応大へ 1974年、丸山は塩尻市内で2人きょうだいの長男として生まれた。中学時代の同級生が振り返る。 「中学時代は吹奏楽でチューバを演奏していた。言われたことをちゃんとこなすタイプで、リーダーシップをとる感じではなかった」 中学卒業後、丸山は地元一の名門校である県立松本深志高校に進学。 「D(丸山のあだ名)はチャラくて陽気な男で、高2の頃には美人の同級生と付き合っていた」(高校の同級生) 「あの同窓生と1回だけヤッた」 一浪を経て、慶応大学経済学部に合格。すると、次第に“欲望の刃”を周囲に向けるようになる。 松本市内の宴会場で催された高校の同窓会に参加した丸山は、勢い良く酒を呷ると、同級生の女性に“性的サービス”を要求。その場には白けた空気が漂った。 「彼は友人に『あの同窓生と1回だけヤッた』と吹聴するなど、異性関係をひけらかすようになっていきました。当時、父親が東京の信濃町にマンションを持っており、そこで1人暮らしをしていましたね」(友人) 大学卒業後、丸山は公認会計士を目指す。ところが、2002年に父が事務所内で倒れ、急逝。丸山は27歳で家業を継ぐことを決意し、帰郷する。杜氏の修業を積む一方、塩尻青年会議所に積極的に出入りし、理事長を務めた。 「父親の死後、昔からの杜氏が辞めてしまった。丸山は杜氏の真似事をして奮闘していたが、所詮は素人。濁ってるし、腐ってるしで飲めたもんじゃなく、得意先の飲食店はどぶに流して捨てていたほど」(後援者) 教育熱心だった希美さん そんな苦境を陰で支えたのが、糟糠の妻だった。 1974年、希美さんは400年以上続く木曽漆器で知られる町に生まれた。実家は約100店舗ある木曽漆器店のうち3本の指に入る名店。都内の大学を卒業した彼女は一時、実家で経理業務を担当していたという。 「希美さんと丸山は青年会議所を通じて知り合い、意気投合。結婚後に2人の子宝に恵まれた。長男が産まれたとき、旦那さんは酒蔵にちなんだ名前をつけて、『この名前、どうですかね』と嬉しそうに話していました」(希美さんの知人) 一方、琴を嗜む希美さんは長男にピアノやサッカーを習わせ、教育熱心な母の顔を周囲に見せていた。 「酒屋では食えない」と政治の道へ だが、家業は茨の道が続いた。夫婦の奮闘虚しく酒造りは軌道に乗らず、丸山は「酒屋では食えない」と周囲に吐露。別の道を模索して地元企業グループの御曹司だった高校の同級生に相談したところ、政治への道が拓けたのだ。 当時の市長の全面支援を得た丸山は、2015年の統一地方選でトップ当選。晴れて県議としての人生をスタートさせた。ところが――。 松本城を望むホテルに約60人のメンバーが集まったのは、2018年1月のこと。同窓会が催されたその日、会場を見渡した丸山は「今日は随分少ないじゃ��えか」と悪態をついた。学校関係者が振り返る。 「丸山は自分が話したい女性と話すために『どけ!』という態度で周りの同級生を恫喝し、割って入ったりしていた。泥酔し、終始ぞんざいな態度でしたね」 表に出始めた“卑猥”な性癖 地元有力者に担がれているという慢心と共に表に出始めたのが“卑猥”な性癖だった。2020年1月15日深夜、丸山の姿は塩尻市内のバーにあった。ウルフルズの曲「ええねん」がかかると、おもむろにマイクを握り、替え歌を披露する。 「ちんこ出したらええねん~♪」 同店関係者が明かす。 「その日は青年会議所OBの飲み会でした。近藤真彦の『ギンギラギンにさりげなく』の替え歌で『ギンギラギンで縦振りだぁ!』と叫び、連れてきた30代の女性をカウンターの前に立たせ、ひたすら股間をすり当てていました。常連のフィリピンパブで下半身を露出し、“ちんちん踊り”をする様も頻繁に目撃されていましたね」 そんな丸山が、密かに熱い視線を送る女性がいた。 長野県庁議会棟2階にある自民党県議団。会派室の職員として20年にわたり仕事をこなしてきた地元出身のA子さん(41)だ。 「2人は不倫している」と囁かれるように 彼女を知る県議会議員が仕事ぶりを評する。 「県議団が雇っている職員で、字が上手いもんだから重宝されていた。御礼状など『一筆書いて』と頼むと、きちんと仕上げてくれる。議員の体調を心配するなど気遣いもできる子で、年配の女性が多い中、自民県議のアイドル的な存在です」 5、6年前に離婚し、今は独り身のA子さんに、丸山は急接近していく。 「半年ほど前から複数の県庁職員が長野市内でディナーをする2人の姿を目撃するようになり、『2人は不倫している』とまことしやかに囁かれるようになった」(県庁関係者) 妻の実家に多額の資金援助を… 他方、丸山は酒造会社の経営を巡り、妻と意見が対立するようになっていく。 「経営難に喘いだ末、希美さんの実家に助けを求め、多額の資金援助をしてもらったのです。“担保”として12年2月、会社の建物のうち1棟を希美さんに贈与。一帯の物件には1億円の根抵当権も付けられています」(漆器店関係者) 丸山が希美さんを連れ、行きつけの寿司店に顔を出したのは昨年夏のこと。座敷で出迎えたのは、10人前後の後援会関係者だった。 「支援者が『奥さんにも食わせてあげてほしい』と言って2人を招いたんです。帰り際には支援者の畑でとれた野菜を渡されていました。彼女は3歩下がって付いていく人。それが最後に見た姿だった」(店主) それから約1カ月後、酒に酔った丸山は自家用車のハンドルを握り、議員宿舎から自宅へと向かった――。 県警は“重要参考人”として、A子さんを複数回にわたり聴取している。 「A子さんの存在を巡り、夫婦関係が悪化したことが殺害動機の1つになっていると見て、裏付け捜査が進んでいる」(前出・社会部記者) 希美さんの遺体の第一発見者は、当時小学1年生の次男だった。両親を失った2人の息子は、東京に住む希美さんの親族宅に預けられているという。
〈初公判で無罪主張〉妻の実家に借金も…妻殺害で起訴の丸山大輔元県議(50) 長野県警が聴取していた不倫相手は“自民党のアイドル”だった(文春オンライン) - Yahoo!ニュース
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るんぺんパリ 【RunPenParis】
【自己紹介 2024年5月3日】 三重県伊賀市出身 旧名の上野市に 1976年から 1996年6月まで住んでいた
伊賀市で有名なのが 伊賀流忍者 伊賀牛 松尾芭蕉 俳句 上野城 小学校までは依那具にある 市営の城ケ丘住宅で過ごし 小学校の通学路にある 垂園森でよく遊んだ 現在も存在しているが オバケが出そうな森 中学校から市街の上野城の 城下町で過ごした 中学校の3年間は 転校生という立場と 中一で足の骨折 中二で腕の骨折 どちらも遊んでいての骨折2回 中三の高校受験で いい想い出は無い
高校2年生で 小学校の時にサッカーで出会った 旧友とバンドを組んだ その時が一番楽しかった。
1993年 一人暮らしを始める やっと自由になった気がした 2年間ぐらいは金が無くて 通帳の残高は毎月マイナス50万 スレスレ生活 1996年7月から 2003年7月の 7年間は茨城県と千葉県の県境 利根川の近くに住んでいた この界隈を走るタクシー運転手の 態度は本当にムカつくから こっちも態度悪く乗ると 気分の悪さはお互いさまになる 関東平野は景色が無く ここでの生活は落ち着かなかった 食文化も人も気候も水も 肌に合わなかった
1997年から パソコンを38万で購入して 作詞やネットに興味を持つ まどみちお詩集を読みだす 作詞に近い詩を書き始める 「Kマーホ」という名で 詩を書き始める 目標を300篇と決めて 詩を思いついたら メモをつけるようになる 週末は家に引きこもり 一日中、音楽を聴きながら パソコンがあるのに まだワープロで詩を清書していた
1998年から2002年まで 「Kマーホ」の名で 詩に団体に参加したり 詩の賞に応募したり 詩集を自費出版したり この当時参加していた詩の団体には もうドロドロとした 詩を書く人や あまりにも読み解けない詩や 暴力的な人や いい人もいたけど 自分とは全然目指している方向が 違うので2年目ぐらいで辞めた それからは詩の団体に興味は無くなった それから 自費出版した詩集を 全国の小中学校や 全国の図書館へ寄贈して 活動を休止 理由は2000年に結婚してから 集中して詩を書く時間が無くなってきたから 2002年に2つの詩集を出版して 詩の事は全部段ボール箱へ入れた
2003年から2019年まで 育児に重点を置いて生活をする この時期は友達とも連絡を 切っていたので のちに死亡説が出ていた 2003年7月から 現在は静岡県在住 もう20年以上住んでいる
2019年 るんぺんパリ【RunPenParis】の名で 詩を書き始める SNSでの詩の発信を始める るんぺんパリ【RunPenParis】とは フランスはパリの街を ぺんを持って 走るという意味から 【RunPenParis】ができた 1973年8月1日生まれ しし座 O型 右利き 詩・詩集・ことばをデザイン アート・写真・小説・ペン画 松尾芭蕉の生家がある伊賀市で 十代までを過ごし 俳句が幼少期から 身近に存在していた 二十代から詩を書き始めて 「Kマーホ」名で活動(1999-2002) 詩集6冊を出版して活動休止
その後 松尾芭蕉の俳句のような シンプルな言葉遊びを 詩で出来ないかと考えていた中で 令和元年(2019)に 「るんぺんパリ【RunPenParis】」の名で 活動を再開 SNSに140文字に 言葉をデザインした詩 「140文字詩」を 毎日投稿する活動を始める 2023年9月に140文字詩が 1200作品に到達した事で 「140文字詩」を全国へ さらに世界へと 俳句のように広く知られる 存在になって欲しい ◆るんぺんパリ【RunPenParis】作品一覧 【2023年】Amazonで販売 2023/12/27第2フォト集「ほちきす それでは あかんで」 2023/12/2 第1フォト集「とめても ええか ほちきすで」 2023/11/23 第16詩集「もあいの ねごとを よみとる」 2023/9/16 第15詩集「さんもじ もしくは よんもじ」 2023/9/9 第14詩集「のこりの あぶらは わるもの」 2023/9/2 第13詩集「あそびも しごとも たいふう」 2023/8/26 第12詩集「かいてきな しつどに おぼれる」 【2022年】Amazonで販売 2022/12/6 第11詩集「やくそくは よなかの おひるに」 2022/11/3 第10詩集「みさんがの ともだちの たまんご」 2022/10/7 第9詩集「くうきと さんその かつさんど」 2022/9/3 第8詩集「さついを こめた いもけんぴ」 2022/8/7 アート作品集「やさいに つめる にくえらび」 2022/2/14 アート作品集「よなかに ひかる かみぶくろ」 2022/1/1 第7詩集「みかんの むくちな きもち」 【2021年】Amazonで販売 2021/9/8 第6詩集「そんな ことばは さよなら」 2021/8/3 第5詩集「あさに おくれた なんて」 2021/6/5 第4詩集「すいかの たねの ちょうこく」 2021/5/31 第3詩集「たんぽぽの たまご ひとつで」 【2020年】Amazonで販売 2020/7/27 第2詩集「こよい こよりの そらから」 2020/3/2 詩小説「すきから あいへ ��やすみ」 【2019年】Amazonで販売 2019/7/21 第1 詩集「ところで あした あいてる」 ◆Kマーホ 作品一覧(1999-2002) 【2002年】 2002/4/30 第6詩集「眠立体(ねむりったい)」 2002/4/4 第5詩集「コールサック」 【2000年】 2000/7/31 第4詩集「マガサス星人」 2000/1/31 第3詩集「おしりとサドルが あいますか」 【1999年】 1999/8/1 第2詩集「テレビジョン」 1999/5/1 第1詩集「トイレの閃き(ひらめき)」 【受賞】 2001年 詩「眠立体(ねむりったい)」第6回トワイライト文学賞 2000年 詩「永遠の親友」信越郵政局長賞 1999年 詩「トイレの閃き(ひらめき)」第1回万有賞 1998年 作詞「地球のウラハラ」第31回日本作詞大賞新人賞候補ノミネート
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2023/4/28〜
4月28日 今日もお部屋の正解が分からず、掃除をしながらベッドを窓際に配置してみる。外の気候の影響を受けやすそうでベッドを外側に置くことに抵抗があったけれどやってみよう。
移動中に上司とした会話の内容ややりとりの仕方を振り返ってもやもやしてしまい、ノートにも日記を書くことにした。やっぱり社会の中での会話は、ディズニーランドとシー、どっちが好き?で十分です。
藤まつりはあまり藤が見頃に達していなくて、平日の昼過ぎにしては人が多かったけれど、みんな「あ〜〜…まだだったな〜〜」という感じで、猿の回し芸(猿も苦手だし動物の芸も苦手なのでみるに耐えなかった)や、なぜか北海道チーズケーキを売っている出店、お祭りちっくな唐揚げをあげたっきり店主さんが寝ている出店などもあったけれど、盛り上がりに欠けていた。 “天神様とお茶”もなかった。 でも藤を見ながら「これが満開だったら船橋屋(?)も入れなかっただろうし、人もすごいだろうからちょうどよかったね〜」と言っている女性がいた。
体重が100g増えていて、えらいので、今日はたくさん食べてよく寝ようと思う。
4月29日 多摩川を確かめた日。 腰と足の痛みが怖くてロキソニンを飲んで多摩川駅へ向かう。 電車には味の素スタジアムで開催されるサッカーの試合へ向かう観戦客がたくさんいた。 毎朝通勤の時に同じバスに乗る方のリュックについた缶バッジとキーホルダーと同じ配色のアイテムを身につけている人達を見て、あの方はFC東京の選手のファンだと知る。 調布駅で乗り換えた先の電車内に亀の子束子の手拭いが落ちていた。
友人2人と合流して2時間くらい多摩川沿いを歩いた。 大島さんやのらねこちゃんの作品に出てくる川と風景なのかな、と思って、遠くに見える不思議な観覧車が良かった。 2人とずっとたくさん、見えるものや最近のことや登山の話などをして、もうここに1人で書くこともなく、砂風と太陽にさらされた運動会後の疲労感で、大満足で帰宅している。 帰りの電車でうとうとしすぎて手すりにたくさん頭をぶつけた。
こういうふうに、週末に散歩をしてふらふらさせてくれる関係を、ずっと相手してくれる人がいてほしい。 今週、こんな週末を送れると思えば、私はもっと生きた心地で生活できたはずなのに。
500円の遠足のおやつの話、“流れ”を見つけたこと、地球くん、and wanderで登山ガチ勢を仮面したこと。もっと来週も続きを聞きたい。
WBCのフラッシュバックの話をしたらプルーストのことを教えてくれた。マドレーヌに紅茶を浸すと蘇る記憶の話らしい。
明日は雨らしいので今日はレスタミンでも飲んで無理矢理にでも眠ろう思います。
4月30日 アポロおじさんの誕生日!なのでメッセージを送る。4月に入ると月末にお祝いしよう!と毎年毎年4月中はなんとなくアポロおじさんの誕生日をうっすら感じながら生活している。転職するかも、とのことでびっくり。
今日はひどく低気圧でだめだめを予感していたけれど、意外と日中は雨も止んでいたので、レスタミンでぐるぐる眠気を引きずった体がもったいなかったかも。
昨日、友人がダイエットのために踊っていたというジャンボリミッキー(?)の動画を見る。面白すぎる。 プルーストのマドレーヌと紅茶ごっこをしたい気持ち。
多摩川散歩を1人思い返して、何か演出されたかのように自然に面白出来事的日常が繰り広げられていたな〜と、誰かと一緒に見ることができて良かったものばかりだった気がする(練習中のサックスでハナミズキを吹くおじさん、気にロープを繋いで綱渡りエクササイズをするおじさん、遊具で筋トレをするおじさん)。
今住んでいる町に最近やってきた人が「ここはいい町。人が暖かい。」と言っていた。私の部屋の前にある餃子屋さんが美味しいと言っていた。 この町で知り合いもいないし、何かしようと思えなかったので楽しそうでいいな、と思った。 昨日会った友人は、今日マチ子の展示が始まった本屋さんの隣に住んでいて、もっといいな、と思った。
夕方の少し明るい曇りの時間に外に出たら少し元気になり、信号待ち手前“ちゅうとはんぱはやめて”を聴きながら “雨の休日のこのくらいの時間にとっても元気になる瞬間がある” とツイートして、信号が変わったので歩き始めた時に、隣の男性が誰にでも物言いおじさんだったらしく「歩きスマホは危ないっ!」と真正面を向いたまま大きな声で突然言い始めて、一瞬で元気がなくなった。
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2024年9月11日
加藤陸次樹選手/もう絶対に負けたくない
加藤●過密日程はわかっている中で、今日の試合を迎えた。僕たちは最高の準備をしてきたけど、勝てなかった。それは事実です。それが今の広島の力だと思う。まだまだなんてすよ。だけど、まだリーグとACL2が残っていますし、タイトルをとるためにここから頑張っていきたい。
……ゴールシーンを振り返って。
加藤●ボールを持った瞬間、シュートしか考えていなかった。ゴールも見ず、ボールだけ見て、芯を捉えるように意識して、思い切り打ちましたね。
……ストライカーの不思議なところは、ドフリーでも決められない時もあり、今日のように前に立たれても、決められる。
加藤●まあ、運もあるとは思うんですが、決める選手は全部は決めてしまう。確率をあげるためらは、何度も何度もシュートを打つしかないです。練習から特に。
……中2日で、120分の激闘の後だったから、なおさら厳しい。
加藤●正直、めちゃくちゃ身体は重かった。それは最初からわかっていたけれど、想定以上の重さだった。週末、もう1試合あるので、そこをどうやって臨むか。とにかく勝って、リーグ戦制覇に向けてやっていくしかない。
本当にもう、負けたくない。とにかく、いい準備をして、全ての時間において身体にいいことをやっていきたい。
塩谷司選手/ここから自分たちがどれだけ這い上がっていけるか
……中2日とは思えない、エキサイティングな試合でした。
塩谷●試合日程が厳しい中でもね……、これが今の自分たちの実力。勝ち切れなかった弱さ、甘さは認めないといけない。
……ゴールシーンを振り返って。
塩谷●点を取りきるところで取る。しっかりと守って失点しない。当たり前かもしれないけれど、サッカーの本質は結局、そこにあるから。
……でも、みんな走っていたし、戦っていた。
塩谷●勝たないと意味がないって思うタイプ。どれほど走って戦っても、勝たないといけない。勝ちきる強さが足りない。
ただ、ルヴァンカップや天皇杯の敗退も、もう決まってしまったし、全ては終わったこと。それはもう、仕方がないから。今、僕らができることは、1秒でも早く切り替えて次の試合に向かうこと。もうACL2とリーグ戦しかないから、そこに向けてどれだけ準備できるか。またみんなでやっていければいい。ここでチームがバラバラにならないように、みんなで1からやっていかなきゃなって思います。
……チームの雰囲気は、いかがでしょうか。
塩谷●やっぱり二つのタイトルを落としたから、重い空気にはなる。それは仕方がない。もう一度、みんなでいい雰囲気をつくっていきたい。ここからどれだけ、自分たちが這い上がっていけるかだと思います。
ゴンサロ パシエンシア選手/次がすぐにくる
……難しい結果に終わってしまいました。
ゴンサロ●正直、良くなかったと思います。でも、サッカーには勝つチームも負けるチームもあるし、仕方がない。ルヴァンカップも天皇杯も敗退してしまいましたが、それもサッカー。Jリーグに向けて頑張りたいです。
……ただ公式戦に連続して出たことで、コンディションについては上がってきているのでは?
ゴンサロ●そうですね。少しずつ、あがってきていると思います。前回のルヴァンカップの時よりは、ずっとよくなりました。少し、走れるようにもなりましたね。
……最後は、ゴンサロ選手とドウグラス ヴィエイラ選手のツインタワーに、クロスを徹底的に入れていました。
ゴンサロ●こういうやり方は、チームにとっては初めてだったと思います。高さのある選手を二人、前線に並べるパワープレーはね。まあ、今日はうまくいかなかったですが、うまくいく時もある。とにかく顔をあげて。次の試合もすぐにくる。そこに集中したい。
……ルヴァンカップでは素晴らしいボレーがあり、今回は中野就斗選手のクロスに合わせた。チャンスもつくっています。
ゴンサロ●得点については、大きな心配はしていない。試合に出ていれば自然とチャンスはくるし、それを自分が決める。それは自然なことです。大切なのは、ゲームの中にいること。そこに向けて、コンディションをあげ、日々のトレーニングを積み重ねて、チャンスをつかみたい。
……今日も暑かった。
ゴンサロ●そうですね。でも1試合目はもっと暑かった。ちょっとずつ、慣れてきているのかなって思います。
茶島雄介選手/結果を出さないといけない
……突然の先発チャンスだったけれど、プレー内容はよかった。
茶島●でも結果として負けてしまった。今までずっと出ている選手もいる中で、60分で足がつって交代しないといけなくなったのは、情けない。
……先発を聞いたのは?
茶島●前日練習の時ですね。いつもチャンスは突然くる。だから常にいい準備をして、出た時にはいいプレーができるようにしようと思っていました。
……チャンスはつくっていましたね。
茶島●いつもどおりにやれたと思うけれど、もっとゴール前のシュートやアシストのところに関わりたかった。全体的に最後のクオリティが足りなかったですね。
……越道草太選手には、何か声をかけましたか。
茶島●いや、特にはないです。まあ、本人もわかっていることですしね。まわりの人たちやサポーターも声をかけてくれたし、結局は本人がやるしかない。僕自身は、常にいい準備をしてやっていく、その姿を見せればいい。
……すぐ、鹿島戦です。
茶島●最後は結果で評価される。今日の試合で自分が何かを残せたかといえば、そうではない。いいプレーをしながら、結果をつかまないといけない。
中野就斗選手/もっとクオリティをあげないと勝利に貢献できない
……勝ちたい気持ちは見えました。
中野●中2日は言い訳にしたくない。たくさんの方からの応援を今日も頂いた中で、準決勝に進出したいという気持ちは当然、ありました。悔しいです。
……今日は左ストッパー
中野●連携でも周りに助けられながら、やっていました。自分の良さも攻撃のところで良さは出せたのかなとは思います。でも、もっとクオリティをあげないと、チームを助けることはできないし、勝利に導くこともできない。そこは反省したい。
……2失点目のシーンについて。
中野●ウェルトン選手を警戒しすぎて、後ろに重心がかかってしまった。思い切った寄せができず、スペースをつかれてしまった。もっと引き締めないといけなかった。
……失点の時間帯は、ちょっと寄せが甘くなり、ミスも増えていました。
中野●セカンドボールが拾えなくなり、押しこまれた。90分通してコンパクトにしないといけない。
……素晴らしい突破からのクロスがありました。決めてほしかったですね。
中野●自分も決めないといけなかったシーンはありましたし、もっと個人としてレベルアップしていきたい。
……絶対に勝つという思いは、サポーターにも伝わっていると思います。
中野●残っているタイトルは、JリーグとACL2だけ。サポーターのみなさんへの感謝の想いを伝えるには、タイトルをとるしかない。この敗戦で学ぶことができたと言えるように、Jリーグで優勝して、感謝を伝えたい。
ドウグラス ヴィエイラ選手/ホームのサポーターの前で負けてしまった
……チャンスはあっただけに。
ドグ●特に後半アディショナルタイムのところですが、常にアラートにしていないといけなかった。相手が前にいて「触るんじゃないか」と思ってしまった。そこに自分の隙ができた���そして、このハードスケジュールの中であっても、全体を見て反省しないといけないことはたくさんある。あのシーンだけでなく、他のところでも修正が必要。ただ、すぐに鹿島戦もあるし、とにかく切り替えないといけない。今は正直、本当に悔しいし、気持ちが難しい。でも、やらないといけない。そういう気持ちを持たないと、上り詰めることは厳しいと思います。
……この短い期間で二つの大会の敗退が決まってしまった。
ドグ●パンチを食らったような気持ちです。でも、すぐに次の試合もある。鹿島はずっと試合もなくいい状態で準備をしている。本当に頭をあげて、切り替えて臨むしかない。
……ドウグラス ヴィエイラ選手のゴールで勝ってほしい。
ドグ●今は本当に悲しい。頭をあげるしかない。ゴールも決めたい。次が本当に大切だし、チームのみんなと勝ちたい。辛いのは、ホームのサポーターの前で負けてしまったこと。
トルガイ アルスラン選手/我々が劣っていたわけではない
……中2日でコンディションも厳しかった。
トルガイ●スケジュールは厳しい。だけど、言い訳にはできない。G大阪が我々よりも勝っていたとは思わないし、内容的には1-1が妥当。
……失点のところは1点目も2点目も、同じような感じ。詰めるには一歩、重かった。
トルガイ●あのポイントに入った時、(ボランチの)自分がついていくのか、それともCBが出てくるのか、難しい。18m〜20m、ゴールまでの距離があるところは、判断が難しい。G大阪の素晴らしいゴールだったと思います。
……二つの大会で負けた。チームに足りないものは。
トルガイ●1週間でカップ戦の敗退が二つ、決まってしまった。ノックアウト形式の場合、いいチームが勝つとは限らず、運の部分が大きく作用する。広島が名古屋やG大阪に劣っているとは、全く思わない。ケガ人も多い中、ACL2とリーグに全集中して戦っていく必要があります。全力を尽くしてリーグを戦いたい。
ミヒャエル スキッベ監督/厳しい日程
スキッベ監督●まず、G大阪とポヤトス監督には勝利の祝福を申しあげたい。
そして今日の試合は、非常に厳しい日程でした。これまでインターナショナルマッチデーではルヴァンカップが行われていましたが、それに加えて天皇杯ということになると、本当に難しくなる。さらに、週末にはJリーグも行われ、日曜日ではなく土曜日の開催。サッカー界では常にフェアプレーということをうたわれていますが、フェアな日程をどうつくっていくか、そこはよく考えないといけない問題だと思います。
……ケガで途中交代となった中島洋太朗選手の状況を教えてください。
スキッベ監督●大腿部の強い打撲です。どれほどのケガなのか、そこはまだわかりません。
……中2日とは感じさせないチームは躍動したと思いますが、相手の3枚替えから流れを失ったのではないかと見ていますが、監督はどうお考えでしょうか。
スキッベ監督●G大阪のプレーは素晴らしかったし、勝利を祝福したいですが、そもそもコンディションの差が大きくて、広島は最初から難しい状況でした。
【天皇杯】広島・スキッベ監督が過密日程に不満爆発「協会側は一番いい条件でサッカーできるようにしてくれた」皮肉連発(スポーツ報知)2024年9月11日
大会最多72回目の出場を誇る広島はホームでG大阪に敗戦。スキッベ監督は試合後、過密日程に対し、怒りを爆発させた。
8日のルヴァン杯準々決勝第2戦・名古屋戦に敗れ、中2日での天皇杯・G大阪戦も敗戦。そして、中2日の14日にリーグ戦・鹿島戦を控える。全て中2日で迎える日程に「協会側は一番いい条件でサッカーをできるようにしてくれた。今まで代表週間にルヴァン杯はあったけど、天皇杯があるのは説明がつかない」とこの日に準々決勝が入ったことに皮肉を連発した。
さらには「それから、Jリーグに感謝しないといけない。いつもは日曜日に開かれるのに、次は中2日の土曜日に開催される。フェアプレー、リスペクトといつも言ってます。協会からはそれと真逆の回答が来たと思っています」と怒りをぶつけずにはいられなかった。
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