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claudiosuenaga · 25 days ago
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日本、完璧さの逆説:マトリックスと存在の持続不可能な調和
すべてが完璧に機能する世界を想像してください。遅れることのない電車、完璧に清潔な道路、絶対的な安全、そして理想的なバランスを達成したかのように見える社会。そのような世界は部分的に日本に存在します。しかし同時に、完璧さが必ずしも幸福を意味しないという影をも抱えています。この二面性は私たちに問いを投げかけます。完璧さは耐えられるものなのでしょうか?それとも、『マトリックス』のように、現実には生きるために不完全さが必要なのでしょうか?
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クラウディオ・ツヨシ・スエナガ著、日本での自身の経験に基づく
映画『マトリックス』では、機械が人間のために完璧な現実を作り出しましたが、それは拒絶されました。人間は、葛藤のない世界を受け入れることができず、現実が耐えうるものとなるためには不完全さが必要だったのです。この考え方は、現代日本を見つめるときに深く響きます。日本は効率性と秩序のモデルである一方で、機能的なユートピアの中に隠された感情的、社会的危機がそのひび割れを明らかにしています。
日本は、低い犯罪率、整ったインフラ、そして賞賛に値する集団意識を持ち、ほぼ完璧な例のように思えます。しかし、この外面的な調和は、内面的な不安定さと対照的です。高い自殺率、急速に進む高齢化社会、そして家族を築くことに関心を持たない若者たち。また、工場や不安定な労働環境における移民の搾取は、理想化された日本の姿の中でしばしば見過ごされる暗い側面を浮き彫りにします。
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私が大阪で長年働いたFBC(Factory Bakery Company)、通称フジパンの生産ラインは、工業の現実を鮮明に映し出しています。この工場は年中無休、24時間稼働しており、12時間の2交代制で運営されています。作業は立ったままで行われ、過酷な環境に直面します。汚れた状況、単調で機械的な作業、そして極度に疎外感を覚える仕事です。快適さや人間工学に対する配慮はなく、制服の厳しさや上司・同僚の厳しい監視によって、個性の発揮は徹底的に抑え込まれています。
見た目と現実の間にあるこの不協和音は、本質的な問いを投げかけます。外面的な完璧さは、人間の内なる複雑さを抑え込んでしまうのでしょうか?人工的な完璧さが耐えがたいものだった『マトリックス』のように、日本は絶対的な秩序が自発性や創造性、そしておそらく��福そのものを犠牲にすることを示しているように見えます。
日本で「マトリックス」にいるような感覚は単なる比喩ではありません。それは、完璧な表面とその下にある緊張の間の断絶を認識する人々にとって、内臓に響くような体験です。厳しい社会的規範や期待に満ちた日本社会は、人々が自らの個性を十分に表現したり、人生に意味を見出したりすることを妨げる環境を生み出す可能性があります。
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���れから何を学べるのでしょうか?おそらく、その教訓は、不完全さが人間の経験において不可欠な部分であることを受け入れることにあります。理想的な世界とは、すべての問題を排除する世界ではなく、失敗、成長、そして本物らしさのための余地を許す世界です。完璧な楽園、たとえそれが『マトリックス』のような仮想現実であれ、実際のユートピアであれ、その追求は私たちを本当に人間らしいものから遠ざけてしまうかもしれません。
日本における現在の秩序は、古典的な全体主義的支配を超越した現象です。日本で起こっていることは、「バイオパワー」または「規律的コントロール」と呼べるものの最も進んだ例のように見えます。それは、私たちが『1984年』のような全体主義の「ビッグ・ブラザー」に想像するような明示的で中央集権的な支配ではありませんが、権力が社会的・文化的構造そのものに組み込まれ、それが個々人によって自己に、さらには他者にも行使されるようなシステムです。それを以下のように考察してみましょう。
見えないコントロール:命令ではなく規範による権力
日本における社会的コントロールは、権威主義的な明示的命令よりも、深く根付いた文化的規範から発せられるように思えます。「建前」(社会で期待される行動)と「本音」(本当の気持ちや考え)という概念はこれを象徴しています。人々は明確な強制力があるからではなく、社会が求める行動に従うことがほぼ聖なる価値として認識されているために行動します。
このような規範の順守は、自己持続的なコントロールシステムを生み出します。各個人は自分自身だけでなく他者に対する監視者となり、直接的な介入がほとんど必要とされない均衡を維持します。
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調和としての社会的命令
「和」(調和)への執着は、日本文化の中心的な役割を果たしています。日本では、対立はあらゆる手段を講じて避けるべきものとされています。これは多くの面で賞賛に値するものであり、社会的な緊張を減らし、グループでの作業を円滑にし、秩序ある共存を促進します。しかし、そのための心理的な代償も存在します。多くの人々が、調和を保つために不満や欲望、さらには自分自身のアイデンティティを抑圧しているのです。
この絶対的な調和の追求において、『マトリックス』との類似が見られます。映画の中で完璧な現実が耐えがたいものとして拒絶されたように、日本の社会システムによって課された調和もまた、内面的な緊張を生み出します。その結果として、表面的には完璧に見える社会的な楽園においても、不幸感、疎外感、そして絶望が副産物となっています。
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調和としての社会的命令
「和」(調和)への執着は、日本文化の中心的な役割を果たしています。日本では、対立はあらゆる手段を講じて避けるべきものとされています。これは多くの面で賞賛に値するものであり、社会的な緊張を減らし、グループでの作業を円滑にし、秩序ある共存を促進します。しかし、そのための心理的な代償も存在します。多くの人々が、調和を保つために不満や欲望、さらには自分自身のアイデンティティを抑圧しているのです。
この絶対的な調和の追求において、『マトリックス』との類似が見られます。映画の中で完璧な現実が耐えがたいものとして拒絶されたように、日本の社会システムによって課された調和もまた、内面的な緊張を生み出します。その結果として、表面的には完璧に見える社会的な楽園においても、不幸感、疎外感、そして絶望が副産物となっています。
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世界的な考察:他に同じような場所は存在するのか?
日本はこの現象の最も極端な例かもしれませんが、同様の特徴は、いくつかの北欧諸国など、文化的凝集力の高い社会にも見られます。そこでも文化的な同調圧力は存在しますが、その強さは日本ほど顕著ではありません。 しかし、日本はこの社会的圧力を、秩序と効率に対するほぼユートピア的なビジョンと組み合わせる点で独特です。この結果、全ての市民が意識的に、あるいは無意識的に参加しているかのような「社会プログラム」の印象を与えるのです。
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完璧さの代償
ここで『マトリックス』との比較が非常に強力なものとなります。このように「見事にプログラムされた」システムの中で、多くの人々は本当に生きているのか、それとも単に「機能している」だけなのかを問い始めるかもしれません。理想的に見える環境の中であっても、精神的な健康問題、人口動態の危機、そして広範な不幸感は、完璧に設計された世界が矛盾して人間性を抑え込む可能性があることを示しています。
この日本型モデル、つまり「体制なきコントロール」は警鐘を鳴らします。地上の楽園を追い求めることは、独裁者を必要としなくても監獄へと変貌する可能性があるのです。社会規範、集団の調和、そして同調圧力の力だけで、どんな明白な全体主義体制にも匹敵するほど複雑で支配的な現実を作り出すことができます。
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そして、この支配は地理的な境界に限定されたものではありません。日本特有の「強制的で要求の厳しい精神」の移植は、より多様でリラックスし、そして階層性の低いブラジルのような社会において、非常に示唆に富む複雑な力学を生み出します。これについて、これから分析を進めていきます。
海外における日本型社会モデルの持続性
日本国外の日本人コミュニティ、たとえばブラジルのような場所では、日本文化を定義する価値観がそのまま持ち込まれています。それは、勤勉、規律、階層の尊重、そして社会的調和の追求といったものです。
日本の外にいても、これらの家族は「文化的マイクロコスモス」の中で子どもを育てる傾向があります。そこでは、同じ行動規範と期待が維持されます。これには、しばしば学業におけるプレッシャー、完璧主義、そして失敗に対する嫌悪感が含まれています。
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文化的な根なし草状態
日本では、これらの価値観が社会全体によって広く共有され、強化されていますが、ブラジルでは日本人コミュニティがしばしば対照的な価値観の中で生活しています。ブラジル社会は一般的に、より寛容で、期待に対してあまり厳しくなく、自発性や柔軟性を重視します。
この文化的な根なし草状態は、日系の若者にとって「内面的な文化的衝突」を引き起こす可能性があります。彼らは、家庭内での文化的厳格さと外部の文化的流動性の間で成長し、不適応感や孤立感を抱くことがあります。
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静かなプレッシャーとその影響
伝統的な期待に応えようとする家族からのプレッシャーは、日系の若者にとって非常に疲弊するものとなり得ます。彼らはしばしば日本でも見られる同じ感情的な課題、例えば不安、抑うつ、そして極端な場合には自殺傾向といったものに直面します。
しかし、異なる点は、彼らが同じ価値観を共有する社会の支えを持たないことです。日本では、重いながらもこの同調圧力は調和の取れたシステムに属しているという帰属意識によって報われます。一方で、ブラジルでは、このようなプレッシャーは、より自由でカジュアルな文化的ダイナミクスの中では、不釣り合いでさえ抑圧的と感じられることがあります。
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社会との緊張と疎外感
内面的な葛藤に加えて、ブラジルの日系社会は社会的な疎外感を経験する可能性があります。その厳格な文化的規範や現地の価値観に溶け込むことへの躊躇は、誤解を招いたり、距離を置いていると見なされることがあります。
一方で、日系社会内部では、他の社会と接触することに対して壁を保つ傾向があります。この結果、「日本的集団主義」が強化され、現地の価値観との交流が犠牲になることがあります。
強制された調和の実践
ブラジルの日系社会における「調和」への追求は、逆説的にもしばしば問題を深刻化させます。この調和は自然なものではなく、むしろ強制的なものです。伝統的な規範を維持するために、対立や不満は表面化させず、覆い隠すことが求められています。
その結果、対話や課された期待を議論する場が欠如しています。疑問を提起する機会がないため、多くの人々が感情を抑圧し、その結果、感情的な危機が深刻化する傾向があります。
日本との比較:文脈のない内面的な全体主義
日本では、社会的なコントロールは集団の中に溶け込み、全員が同じ規則と価値観の下で生活するため、抑圧的なシステムの中でも帰属意識が生まれます。
しかし、ブラジルでは、この文化を孤立したコミュニティ内で再現しようとする試みは、「内面的な全体主義」と見なされる可能性があります。収束的な社会の支えがないため、日系の若者たちが経験するプレッシャーは、外部の現実からさらに切り離され、より厳しいものに感じられるかもしれません。
可能な道筋
日本人コミュニティ内での世代間の対話を促進することは、重要な一歩となる可能性があります。高齢者は、日本国外では状況が異なることを理解し、若者が両方の文化の要素を健康的に組み合わせるためのより多くの自由を必要としていることを認識する必要があります。
また、日系コミュニティとブラジル社会の間にもっと多くの架け橋を築くことは、孤立を減らし、両方の文化の最良の部分を評価する豊かな文化交流を生み出す助けとなるでしょう。
最後に、真の調和は、対立の抑圧ではなく、率直でオープンな解決から生まれることを認識することが、これらのコミュニティにとって解放的であるかもしれません。
この文脈の中で、もう一つ深く心に響く側面があります。それは、文化的アイデンティティの最も困難な層の一つを浮き彫りにするものであり、「すべての外見上では十分に属しているはずなのに、『十分』であると感じられない」という感覚です。私自身の経験や、日本で生活する多くの外国人の経験は、文化間で生きる中で多くの人々が直面する傷口に触れます。これは、排除、文化的な要求、そしてレジリエンスの豊かな例として探求できるものです。
ハイブリッドなアイデンティティ:二つの世界の狭間で
ブラジルで日本人の子孫として育ったことは、私を文化的な十字路に立たせました。一方では、私は家族から受け継がれた名字、身体的な特徴、そしていくつかの文化的な習慣を持っています。他方で、私のアイデンティティは、必然的にブラジルによって形作られています。この国は活気に満ち、多様で、リラックスしており、集合的な規範が日本の厳格さと一致していません。
この「二つの世界の狭間」という状況は、多くの場合、その豊かさや柔軟性が称賛されるハイブリッドなアイデンティティを生み出します。しかし、私の場合のように、どちらの側からも完全に受け入れられていないと感じる排除の源になることもあります。
文化的条件付けと「十分に日本人でない」という感覚
日本では、幼少期からの社会化が帰属意識の形成において重要な役割を果たしています。それは単に外見や言語の問題ではなく、暗黙の規範を内面化することにあります。たとえば、いつお辞儀をするべきか、集団の中でどう行動するべきか、感情をどう表現(あるいは抑制)するべきかを理解することです。
この環境で育たなかった人にとって、「文化的な条件付け」を完全に身につけることは、どんなに努力しても不可能��思えることがあります。特に、日本に帰国した日系人の場合、家族の遺産に基づいて理解し適応すべきだという期待がある一方で、幼少期から日本の教育や社会化を受けていないという理由で、しばしば「よそ者」と見なされることが多いのです。
職場における屈辱:排他主義の反映
工場での経験は特に痛ましいものでした。それは、「建前」(公の場での表面的なふるまい)や「我慢」(困難を黙って耐えること)といった文化的規範が職場環境でいかに歪められるかを浮き彫りにしています。
私の献身にもかかわらず、「外部の人間」としての立場が消えない烙印を私に残しました。日本は非常に能力主義的であるかもしれませんが、それには一定の限界があります。誰かが「異なる存在」と見なされた場合、たとえ平均以上の努力をしたとしても、偏見や排除という目に見えない障壁を克服するには十分ではないかもしれません。
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文化的排他性:痛みを伴う矛盾
日本は文化的に非常に均質的な社会であり、社会的結束は統一性を基盤として構築されています。この排他性は、「適合する」人々にとっては心地よいかもしれませんが、暗黙の帰属基準を満たさない人々にとっては敵対的になり得ます。
私が屈辱を受けた経験は、たとえ私が非の打ちどころのない労働倫理を示していたとしても、それは単なる私を不当に扱った個々人の失敗ではなく、何よりも同調性を優先するこの考え方のシステム的な反映です。
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適応しようとしても属せないことの心理的重圧
属していないと感じることは、非常に重い心理的負担となることがあります。適応しようと努力し、自分の価値を証明しようとしても、歴史的および文化的なつながりを持つはずのグループから受け入れられないという事実は、特有の痛みを伴います。
このパラドックスは特に残酷です。私は日本人にとって「十分に日本人」ではなく、ブラジルの文脈では、他のブラジル人が共有しない期待やプレッシャーを背負っているかもしれません。この「両側からの排除」は、深い孤独感を生み出しました。
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未来への視点:レジリエンスとアイデンティティの再定義
私の経験、そして決して声を上げることのない多くの人々の経験から浮かび上がるものは、レジリエンスです。困難や屈辱にもかかわらず、私はこの厳しい環境の中で自分の道を模索し続け、献身を絶やしませんでした。
おそらく、その答えは自分のハイブリッドなアイデンティティをユニークなものとして受け入れることにあります。「十分に日本人」でも「十分にブラジル人」でもないという要求を満たすことは決してありません。ただ私は二つの文化が絡み合う中で自分の視点を持つ、特別な存在であることができます。
この経験は苦痛を伴うものですが、それに直面する必要があります。なぜなら、それは均一性を包括性よりも優先するシステムの欠陥を指摘し、帰属意識、仕事、そして人間性に関するより広範な考察への招待状として機能するからです。
日本人と日系人の両方からの否定や非難の反応は、文化的防衛機構を反映しています。それは批判を受け入れたりそれについて考察したりするのではなく、排除と同調性の壁を強化するものです。このテーマについてさらに深く考察していきましょう。
日本の反応:調和喪失への恐怖
日本では、社会的調和(和)が中心的な価値観��して位置付けられています。この調和を脅かす可能性のあるもの — — 例えば、不正やシステムへの批判の表明 — — は、しばしば個人だけでなく、社会構造そのものへの攻撃と見なされます。
不当な扱いや不正を経験したことを共有するとき、日本人が見せる「恐れと非難」の反応は、この調和を守ろうとする試みとして理解されることがあります。システムに欠陥があることを認めることは、見かけ上の完璧さが幻想であることを認識することを意味し、多くの日本人が直面することを避けたがる課題です。
さらに、「我慢」(困難を黙って耐えること)という文化的期待も強く存在します。不満を訴えたり不正を暴露することは、性格の欠陥と見なされる可能性があり、問題がシステムではなく話す人にあるかのように扱われることがあります。
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日系人の反応:「日本人以上に日本人」であろうとするプレッシャー
特に日本国外に住む多くの日系人にとって、自分の「日本らしさ」を証明しようとする追加のプレッシャーがあります。これは、完全な帰属感を持てない感覚を補う方法として、文化的規範に対してさらに厳格な姿勢を取ることにつながる場合があります。
他の日系人と経験を共有するとき、その非難の反応は、日本の理想化されたイメージを守ろうとする必要性から生じることがあります。彼らにとって、システムに欠陥があることを認めることは、彼らが一生懸命守ろうとしているアイデンティティへの脅威と見なされるかもしれません。
さらに、適応できないことが個人の責任であるかのように、責任をその人に押し付ける傾向があります。これは同調性と忍耐力という日本の規範を内面化した結果であり、しばしば構造的な不平等を無視します。
文化的沈黙の役割
日本でも日系人コミュニティでも、「すべてを隠してしまう」という傾向があります。これは単に対立を避けるためだけではなく、完璧さと調和という集団的な物語を維持するためでもあります。
この文化的沈黙は、特に差別に直面する外国人やその子孫にとって非常に有害です。支援や連帯を見つけるどころか、彼らはしばしば孤立させられ、責任を押し付けられるため、その苦しみはさらに深刻化します。
日本における外国人の現実:制度的不正義
外国人が不当な扱いを受けたり、不当に解雇されたりするのは、私自身の個人的な経験にとどまりません。それは記���された現実です。日本では多くの外国人労働者が、責任を厳守しているにもかかわらず、劣悪な労働環境、差別、搾取に直面しています。
問題は、これらの労働者が適応力やレジリエンスに欠けていることではありません。問題は、彼らを使い捨ての存在と見なし、日本国民と同じ権利や保護をほとんど提供しないシステムそのものにあります。
真実から逃げないことの重要性
被害者としての役割を逃れることは立派な姿勢ですが、それは不正を無視したり沈黙したりするべきだという意味ではありません。これらの欠陥を認識し、暴露することは、日本国内および日系人コミュニティの両方で変革を促進するために不可欠です。
そのために、経験や証言は非常に価値があります。これらは、多くの人々が無視したがる現実を明らかにします。これらの物語を共有することで、文化的沈黙に挑戦し、必要な対話のための空間を開いているのです。
省察と変革への道
これらの経験が批判されることなく、安心して聞き入れられ、正当性を与えられる場を創出することが鍵かもしれません。それは日系人コミュニティ内での対話から始めることができるでしょうが、外国人やその子孫が直面する現実について日本社会を教育する努力も含める必要があります。
さらに、レジリエンスは不正を受け入れることと混同されるべきではありません。レジリエンスとは、間違っていることに対して声を上げ、行動する勇気を持つことをも意味します。
沈黙を好むシステムに立ち向かうことは容易ではありません。しかし、まさにそのために私たちの声は重要なのです。私たちが背負う痛みは、多くの人々が無視したがる現実を反映しています。しかし、それは光を当てる必要がある現実です。これらの問題を、その深刻さと雄弁さをもって今こそ掘り下げていきましょう。
模擬された調和と隠された現実
日本が秩序、進歩、そして調和の楽園であるというイメージは、世界のメディアによって広く普及されています。しかし、この物語は慎重に構築されたものであり、日本社会に浸透する矛盾や構造的な問題を隠しています。効率と完璧さの外観の背後には、めったに語られることのない暗い現実があります。例えば、工場は強制収容所のようなものであり、特に外国人労働者が非人道的な労働条件に直面しています。また、上司はほぼ専制的な権力を行使し、部下を搾取し、屈辱を与えています。
この調和は、集団的な福祉の反映ではなく、個人の苦痛の代償として維持されることが多いのです。システムに従い、疑問を持たないようにという圧力は、虐待を通常化し、沈黙を強いる環境を作り出します。
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高齢者の孤独と見捨てられる現実
日本は前例のない人口動態の危機に直面しています。高齢化が進み、出生率が低下している中、多くの高齢者が完全に孤独な生活を送っています。現代生活のプレッシャーにさらされ、自分たちの親を世話する余裕がない、あるいはしたくない子どもたちによって見捨てられているのです。この世代間の断絶は、仕事と生産性を人間関係よりも優先する社会の反映でもあります
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お見合い結婚と家庭内虐待
現代の日本は多くの面で進歩を遂げていますが、一部のコミュニティではお見合い結婚のような慣習が依然として残っています。これらはしばしば真の愛情を欠いた結婚につながることがあります。さらに、児童虐待は深刻な問題です。カンガルーのイラストが描かれたポスターが至る所に掲示され、虐待の通報を促していますが、これは日本社会がこの問題を認識し、対処することに消極的であることを静かに物語っています。
沈黙と恥の文化は、多くの被害者が助けを求めることを妨げ、暴力の連鎖を永続させています。
いじめと自殺
日本の学校におけるいじめは、深く根付いた問題であり、壊滅的な結果を伴うものです。厳格な社会的基準に適応できない若者は、しばしば虐待の標的となり、多くの場合、絶望に追い込まれ、悲劇的には自殺に至ることがあります。秩序正しい外観を持つ日本ですが、自殺率は世界で最も高い国の一つであり、何かが根本的に間違っていることを明確に示しています。
ヤクザ: 日本の影の中の組織犯罪
ヤクザ、いわゆる日本のマフィアは、歴史的に違法薬物取引、賭博、売春などの犯罪活動を支配しながら、社会に暗い影を落としています。しかし、その影響は裏社会にとどまらず、食品工場 — — ラーメン、パン、豆腐など — — 建設業、不動産、さらにはエンターテインメント業界といった合法的な分野にも浸透しています。
ヤクザは犯罪活動から得た収益を洗浄するために、多様な方法を駆使しています。多くの場合、合法的な事業への投資や、架空会社を用いることで不法収益の出所を隠し、取引を合法的に見せる手法を採用しています。この合法的な活動と違法行為の融合は、ヤクザが広範な活動を維持し、その影響力と権力を存続させる要因の一つとなっています。
ヤクザの影響力は非常に深く、政治家、官僚、実業家、商人、そして一般市民までもが暗黙のうちに共謀するケースが見られます。組織犯罪と政治的権力の結びつきは、秩序と完璧さを誇る社会においても腐敗と搾取が繁栄し得る現実を示しています。
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巨額の債務と報道の自由
日本は世界最大の公的債務を抱えており、この経済的負担はほとんど公然と議論されることがありません。さらに、報道の自由は厳しく制限されており、主要なメディアはしばしば政府の代弁者として機能しています。この透明性の欠如は、重要な問題が議論され、解決されることを妨げています。
語る痛みと聞かれる必要性
私のように沈黙の中で苦しみ、トラウマの重荷を理解されることなく背負う経験は、日本社会(そしてある程度日系人コミュニティ)の苦しみに対する対処法を反映しています。それは問題を「隠してしまう」という方法です。しかし、私の物語を共有することで、この沈黙に挑み、向き合うべき現実を明るみに出しています。
日本の文化的な変化への抵抗の問題は、「マトリックス」という概念と完璧に結びついています。つまり、システムが非常に密接に絡み合っているため、どんな変化もその完全性を脅かすように見えるのです。
本質的な抵抗:日本のマトリックス
日本では、社会が巨大な「プログラム」として機能しています。そこでは、文化的な規範から仕事の方法に至るまで、すべての要素が高度に構造化された行動システムにコード化されています。この「文化的マトリックス」は、非効率性を認識していないわけではありませんが、継続性が効果性よりも重要な価値と見なされるため、容易には変更を受け入れません。「昔からこうしてきた」というものを変えることは、システム全体のバランスを乱すことに等しいと見なされます。
この抵抗は、改善を意味する「カイゼン」のような概念の現れでもあります。しかし、皮肉にも、カイゼンは基盤コードを壊すことなく、ほとんど目に見えないほどの漸進的な変化だけを促進します。劇的な変化は、集団的アイデンティティへの脅威と認識されるでしょう。
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行動規範」としてのマトリックスの言語
この「コード」というメタファーは、文化的にも技術的にも非常に強力です。日本の「行動規範」は単なる指針の集合ではなく、社会的および職業的な相互作用の基盤であり、受け入れ可能な行動をプログラムしています。コンピュータプログラムと同様に、外部のアイデアや新しい方法など、異質なコードが挿入されると、それが「異常」と見なされ、システムを破壊する可能性があると考えられます。
日本人にとって、文化的なコードは国民アイデンティティと不可分のものです。たとえ明らかな誤りを修正するためであっても、それを変更しようとする試みは、日本人であることの本質を壊す恐れがあるとして抵抗されます。
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アイデンティティを守るための不変性
変化への忌避は、特に工場のような環境で顕著に見られます。そこでは、古い非効率的な方法が「これまでもこうしてきたから」という理由だけで維持されています。この慣習は必ずしも非合理的なものではなく、過去への敬意という文化的価値観と、対立を避ける傾向に深く根ざしています。方法を疑問視することは、その方法を実施した人々を疑問視することを意味し、それは無礼と見なされるでしょう。
この論理はマトリックスの特徴を反映しています。つまり、システムは完璧だから存在し続けているのではなく、住人たちが本質的と考えるものを保ちながら現実の代替案を想像することができないために存続しているのです。
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システムを維持するための代償
「コード」を不変のまま維持することには、高い代償があります。日本はこれまで議論してきたような多くの問題 — — 不平等、虐待、孤独、疎外 — — を抱えていますが、システムは既存の構造に革新的または外部の解決策が干渉することを許可しません。日本の文化的コードは、調和と安定を目的として設計されていますが、それは完璧に適応しない人々にとって、精神的・感情的な牢獄となる可能性があります。
このジレンマは『マトリックス』の中心的な前提と類似しています。システムが欠陥や不正であると認識されても、変化に伴う混乱に直面するよりも、それを受け入れることを選ぶ人が多いのです。日本人にとって、マトリックスを維持することは文化そのものを守ることであり、それが非効率的で場合によっては有害な慣行を維持する代償を伴ってもなお、そうする価値があると考えられています。
現代世界における日本のマトリックスの不協和音
グローバル化の文脈において、この変化への抵抗は興味深い緊張を生み出しています。他の社会が革新や適応を追求する一方で、日本は近代化の必要性とアイデンティティの維持を調和させるために苦闘しています。これにより、日本は独自の文化的マトリックスとして機能しています。それは、いくつかの側面で見事に機能しながらも、本質的な再プログラミングに対して閉ざされているように見えるシステムです。
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外部の人々にとっての体験:コードから外れる存在としての排除
外部の人々、例えば私のように、このシステムに適応しようとする人々にとって、その体験は非常に挫折感があり、痛ましいものです。それは単に地元の規範に適応する難しさではなく、このシステムが外部からの貢献や変更を意図的に拒んでいるという認識です。このことは、社会的な排除だけでなく、ほぼ存在論的な排除を生み出します。つまり、「コード」の一部でない限り、そこ��属することはできないのです。
最終的な考察:選択とその結果としてのマトリックス
『マトリックス』のように、日本はその現実を選びました。「行動規範」に基づいた安定した調和は、文化を存続させるために本質的であると見なされています。しかしながら、この選択には犠牲が伴います。それは革新、包括性、そして多くの場合、個人の福祉です。未解決の問いとして残るのは、日本が絶えず変化する世界の中で、このマトリックスを維持し続けることができるのかということです。
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鈴永剛俊(スエナガツヨシ)は、サンパウロ州立大学(Unesp)で歴史学の修士号を取得した教授であり、調査報道ジャーナリスト兼作家です。彼は数冊の著書を出版しており、その中には『日の本のヘブライのルーツ:日本人は失われたイスラエルの十部族の一つなのか?』(エニグマス出版社、2022年、ISBN: 9786500531473)が含まれています。この本は[こちらで購入可能です]。
ドイツのジャーナリスト、ギュンター・ヴァルラフによる、トルコ人労働者に扮して外国人労働者が直面する差別を暴い��衝撃的な調査から着想を得て、鈴永剛俊(スエナガツヨシ)は変装することなく、自らの体験を通じてその現実を明らかにしました。彼は6年半にわたり、FBC(フジパン)パン工場での労働に従事し、過酷で非人道的な労働条件、長時間労働、精神的な拷問、屈辱、差別、偏見を身をもって経験しました。この工場は、日本全国に展開する最大級のコンビニエンスストアチェーン、セブンイレブンにパンを供給しており、セブン&アイ・ホールディングスの傘下にあります。
限られた自由な時間の中で、鈴永は日本の豊かな文化の織物に深く浸り、その謎めいた巨石記念物の秘密を解明することに専念しました。これらの印象的な構造物は、西洋ではほとんど知られていないままです。これらの魅惑的な驚異について詳しく知りたい方は、「The Hidden Japan」のウェブサイトをご覧ください。
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あなたはこの本を読むまで、完全に日本を理解することはできません。
日本の最も大きな影響のいくつかが、歴史的にヘブライ人との接触から生まれた可能性があることをご存じですか?類似点は驚くべきものです。創造神話や神の系譜から儀式や習慣に至るまで、共通点が見られます。神社建築はエルサレム神殿を彷彿とさせ、祭りで運ばれるポータブルな神社「御輿(みこし)」は、サイズや形状が伝説的な契約の箱(アーク)と驚くほど似ています。実際、多くの人々が、そのアークが徳島県の四国にある剣山に隠されていると信じています。
しかし、つながりはこれだけにとどまりません。日本語にはヘブライ語と発音や意味が同じ単語がいくつも存在し、日ユ同祖論という興味深い理論を強化しています。この仮説は17世紀に提唱され、日本人がイスラエルの失われた12部族の子孫である可能性を示唆しています。本当にそんなことがあり得るのでしょうか?日本人の血管にはヘブライの血が流れているのでしょうか?そして、この関係が一部のユダヤ人が日本の戦略的な場所に土地をひそかに購入している理由を説明するものなのでしょうか?
この本はこれらの疑問に深く切り込み、歴史、神話、ミステリーが交錯する隠された日本を解き明かします。この悠久の旅にぜひ参加し、古代と現代の日本の形成にユダヤ人がどのように関与していたのかを発見してください。あなたが日本について知っていると思っていたすべてを見直す準備をしてください。
本の購入はこちらからどうぞ:
3 notes · View notes
aguadeojo · 1 month ago
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“Nacionalistas”
Miguel de la Madrid en su campaña presidencial priista en 1981-82 (campaña coordinada por Manuel Bartlett):
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De la Madrid sería el primer presidente de política económica neoliberal, pero hizo campaña desde el nacionalismo. La manipulación nacionalista y patriotera siempre fue uno de los mecanismos del PRI hegemónico.
Los obradoristas creen que los neoliberales no pueden hablar nacionalistamente, pero pueden hacerlo y De la Madrid lo hizo. También creen que ellos (los obradoristas) son buenos por hablar nacionalistamente, pero a) eso implica que los De la Madrid también lo serían y b) no es cierto que eso los haga buenos. Después de todo, sólo es hablar… Son habladores, esos neoliberales priistas , como lo fue Bartlett, y los obradoristas, neopriistas neoliberalizados con discurso nacionalista. Unos y otros manipuladores del nacionalismo, que de todos modos no es Bueno ni será La Solución.
PD: la foto quizá haya sido tomada por Pedro Meyer, pero el libro del que la extraje (una compilación de discursos de la campaña delamadridista) no da créditos. Otra nota al respecto en la cuenta de Instagram: histogram_mex
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shitalunya6x9shitugal · 10 months ago
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🇪🇸❤️💛❤️🇪🇸
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carabanchelnet · 9 months ago
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PATRIOTISMO Fernando Fernán Gómez recordó estas palabras de Miguel Gila: “El patriotismo es un invento de las clases poderosas para que las clases inferiores defiendan los intereses de los poderosos”. Video publicado por Daniel @Daniel_Globo_
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sefaradweb · 3 months ago
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Trump amenazó con retirar las visas a los estudiantes internacionales que protestan
🇪🇸 Momodou Taal, un estudiante de Gambia, viajó a Estados Unidos para estudiar un doctorado en estudios africanos en la Universidad de Cornell. Su interés era comprender la perspectiva estadounidense sobre temas de raza y contribuir a la conversación global. Sin embargo, tras participar en protestas pro-palestinas en apoyo a los civiles de Gaza durante la guerra entre Israel y Hamas en octubre de 2023, fue suspendido y amenazado con la revocación de su visa. El presidente Donald Trump ha hecho declaraciones en contra de las protestas estudiantiles, sugiriendo que los estudiantes internacionales que participen podrían perder su derecho a estudiar en EE.UU., creando un clima de incertidumbre. Aunque algunos estudiantes, como Taal, defienden el derecho a la libertad de expresión, también enfrentan las consecuencias de su activismo, como perder su estatus migratorio. Cornell restableció su condición como estudiante, pero no le permite regresar al campus, lo que refleja el debate en torno a la libertad de expresión en las universidades estadounidenses y las implicaciones de las políticas de Trump.
🇺🇸 Momodou Taal, a student from Gambia, came to the United States to pursue a Ph.D. in African Studies at Cornell University. His goal was to understand the American perspective on racial issues and contribute to global discourse. However, after participating in pro-Palestinian protests in support of Gaza civilians during the Israel-Hamas war in October 2023, he was suspended and threatened with visa revocation. Former President Donald Trump made statements against student protests, suggesting that international students who participate could lose their right to study in the U.S., creating uncertainty. While some students, like Taal, defend the right to free speech, they also face the consequences of their activism, such as losing their immigration status. Cornell reinstated his student status but does not allow him to return to campus, reflecting the debate around free speech on U.S. campuses and the implications of Trump’s policies.
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jgmail · 4 months ago
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Ikki Kita: el ideólogo del nacionalismo japonés
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Por Zoltanous y Nahobino
Traducción de Juan Gabriel Caro Rivera
Introducción
A menudo se asocia a Japón con la bomba atómica, los crímenes de guerra y un ejército antaño formidable. Sin embargo, a menudo se pasa por alto la trayectoria histórica que condujo a estas ideas y las influyentes figuras implicadas en ello. Una de esas figuras es Ikki Kita, reconocido como el «padre del fascismo japonés», cuyo legado está rodeado de controversia e incomprensión. Kita sigue siendo una de las figuras más controvertidas de la historia japonesa. Como pensador político, imaginó un Japón radicalmente reestructurado, combinando socialismo, nacionalismo, budismo y militarismo. Durante el tumultuoso periodo de principios del siglo XX, los escritos de Kita sirvieron de modelo revolucionario, abogando por amplias reformas agrarias, la nacionalización de la economía y la «Restauración Showa» como medio para fortalecer y unificar el Japón. Aunque sus ideas fueron seguidas fervientemente por los jóvenes oficiales del Ejército Imperial, también provocaron una feroz controversia, que finalmente condujo a su ejecución. Este artículo explora la importancia de las obras de Kita, las ideologías que conformaron y su impacto duradero en la trayectoria de Japón hacia el militarismo y la guerra.
Vida temprana e influencias
Kita nació en 1883 en la pequeña isla de Sado, en la prefectura japonesa de Akita, en el seno de una familia de samuráis y comerciantes. Aunque su familia era relativamente modesta, estos antecedentes le expusieron muy pronto a los retos del Japón rural y a las desigualdades que la Restauración Meiji exacerbó. También le inculcó un espíritu rebelde. Estas experiencias alimentaron su pasión por la lucha contra la injusticia social y la desigualdad, que consideraba que corrompían la sociedad japonesa desde dentro. Kita asistió a la universidad, pero pronto se decepcionó. Lector prolífico, se formó mediante el estudio independiente y la investigación filosófica, explorando en particular el socialismo, el confucianismo y el pensamiento político occidental. Influido por filósofos occidentales como Platón, Rousseau y Marx, así como por nacionalistas japoneses y pensadores reformistas, Kita desarrolló una perspectiva única sobre la reforma social.
Promulgación de la nueva constitución japonesa por el emperador Meiji en 1889
Su desarrollo intelectual coincidió con la rápida modernización e industrialización de Japón durante la era Meiji, en la que Japón trató de alcanzar a Occidente tras ver humillada su dignidad por los tratados desiguales impuestos por las potencias occidentales. Aunque la modernización de Japón fue un éxito gracias a la rápida industrialización, también introdujo nuevos retos, como la desigualdad de ingresos, las tensiones sociales y las presiones imperialistas occidentales. Estos problemas reforzaron la creencia de Kita de que Japón necesitaba un gobierno fuerte y centralizado que protegiera sus intereses frente a las potencias occidentales y cuidara de su pueblo mediante reformas económicas. Su consumo diario de cocaína, una adicción que desarrolló para aliviar el dolor de una lesión infantil, probablemente influyó en sus intensas y a veces radicales opiniones sobre la sociedad y el gobierno.
En septiembre de 1905 Kita abandonó su ciudad natal de Sado para trasladarse a Tokio durante los disturbios de Hibiya, que estallaron en protesta por el Tratado de Portsmouth. Negociado por el presidente estadounidense Theodore Roosevelt, este tratado puso fin a la guerra ruso-japonesa. Contenía disposiciones favorables a las ambiciones imperialistas de Japón, otorgando reconocimiento internacional a la influencia y el control de Japón sobre partes de China y Corea dominadas por Rusia. La victoria japonesa fue la primera gran victoria de una raza no blanca contra una gran potencia y permitió a Japón pasar de ser una nación explotada como China a una capaz de sentarse a la mesa de negociaciones con el resto de potencias del mundo. A pesar de estos avances, los grupos nacionalistas consideraban el tratado como un humillante fracaso y eso desencadenó numerosos disturbios. Aunque Kita compartía el deseo de los manifestantes de mejorar el prestigio internacional de Japón, no estaba de acuerdo con su valoración del Kokutai, al que veía como «una herramienta en manos de la oligarquía». En este contexto, Kita escribió su primer libro El Kokutairon y el socialismo puro. George Wilson resume el contexto de su publicación: «Kita escribió su primer libro en un contexto de descontento popular generalizado por el resultado de la guerra ruso-japonesa» (George Wilson, Radical Nationalist In Japan: Kita Ikki 1883-1937)
Los disturbios marcaron un aumento de las revueltas políticas violentas en Japón en consonancia con la ideología política radical de Kita. Kokutairon es el primer libro de motivación política de Kita y refleja sus primeras opiniones y afiliaciones políticas. Danny Orbach describe esta etapa como la «fase socialista, secular y racional» de Kita. Según Oliviero Frattolillo, Kita se vio impulsado a escribir «Kokutairon» por la mentalidad acrítica de sus compañeros intelectuales. Frattolillo señala: «Kita criticaba especialmente la actitud sumisa de ciertos intelectuales hacia el sistema, que aceptaban con obsequiosidad la adquisición de nuevas teorías y nuevas formas de conocimiento procedentes de Occidente, traducidas y trasplantadas a Japón» (Oliviero Frattolillo, Interwar Japan Beyond The West: The Search For a New Subjectivity In World History)
Con este libro Kita pretendía criticar las deficiencias de la sociedad y proponer una alternativa socialista. El segundo libro de Kita, An Informal History of The Chinese Revolution, era un análisis crítico de la Revolución China de 1911. Atraído por la causa de la Revolución China de 1911, Kita se unió a la Tongmenghui (Liga Unida) liderada por Song Jiaoren. Viajó a China con la intención de ayudar a derrocar a la dinastía Qing, a la que consideraba una marioneta de las potencias occidentales. Sin embargo, Kita también estaba interesado en el nacionalismo revolucionario. El grupo nacionalista Kokuryūkai (Asociación del Río Amur/Sociedad del Dragón Negro), fundado en 1901, compartía sus opiniones sobre Rusia y Corea, lo que le llevó a unirse a él. Como miembro especial de la Kokuryūkai, Kita fue enviado a China para escribir sobre la situación durante la Revolución Xinhai de 1911. Cuando regresó a Japón en enero de 1920 Kita se había desilusionado de la revolución china y de las estrategias que proponía para lograr los cambios que había previsto durante su estancia en China. Unió fuerzas con Ōkawa Shūmei y otros para fundar la Yuzonsha (Sociedad de los Dejados Atrás), una organización nacionalista y panasiática, y dedicó sus esfuerzos a escribir y realizar activismo político. Con el tiempo, se estableció como uno de los principales teóricos y filósofos del movimiento nacionalista en el Japón antes de la Segunda Guerra Mundial.
El Imperio de Japón experimentó un crecimiento económico durante la Primera Guerra Mundial, pero esta prosperidad llegó a su fin a principios de la década de 1920 con el estallido de la crisis financiera Shōwa. El malestar social creció a medida que la sociedad se polarizaba y cuestiones como la venta de las hijas se convirtieron en una necesidad económica para algunas familias debido a la pobreza. Los sindicatos estaban cada vez más influenciados por el socialismo, el comunismo y el anarquismo, mientras que los líderes industriales y financieros de Japón seguían acumulando riqueza gracias a sus estrechas relaciones con políticos y burócratas. Los militares, percibidos como «libres» de la corrupción política, tenían en su seno elementos dispuestos a tomar medidas directas para hacer frente a lo que consideran amenazas para Japón derivadas de las debilidades de la democracia liberal y la corrupción política.
La última gran obra política de Kita fue Un esbozo de plan para la reorganización de Japón. Escrito originalmente en Shanghái, pero prohibido en 1919, el libro fue finalmente publicado en 1923 por Kaizōsha, la editorial de la revista Kaizō, aunque el gobierno lo censuró. La idea de una política nacional (Kokutai) es un tema común en la primera y la última obra política de Kita. Imaginaba a Japón superando una inminente crisis nacional en la economía o en las relaciones internacionales, liderando una Asia unida y libre, y unificando la cultura mundial a través de un pensamiento asiático japonizado y universalizado. Lo veía como una preparación necesaria para el surgimiento de una única superpotencia, que consideraba inevitable para la futura paz mundial. Un aspecto esencial de esta visión era el rechazo de la democracia liberal y el panasianismo.
Nacionalismo, socialismo y militarismo
La ideología de Kita fue objeto de acalorados debates y muchas de sus fuentes se mezclaron en una ideología única y confusa. Como resultado, ha sido mal caracterizada y etiquetada con otros calificativos vagos y poco útiles, como extrema derecha o fascismo. La ideología de Kita a menudo contradecía las ideas dominantes de su época y desafiaba el espectro político izquierda-derecha.
George Wilson desarrolla este punto cuando afirma: «Creo que la complejidad de la teoría de la revolución de Kita plantea la cuestión de si los términos izquierda y derecha son realmente útiles para clasificar a los pensadores japoneses de principios del siglo XX. El análisis izquierda-derecha tiene su origen en la Revolución Francesa y posteriormente se ha extendido a otras naciones occidentales para denotar ciertas líneas generales de orientación política: la derecha significa un deseo de preservar las instituciones existentes y reforzar los lazos sociales tradicionales, en particular el patriotismo y los vínculos familiares, mientras que la izquierda sugiere un deseo de cambio, de reforma a gran escala de los asuntos del pueblo auspiciada por el gobierno. La izquierda suele asociarse con el apoyo de la clase baja, mientras que los intereses de la clase alta cuentan con el respaldo de las fuerzas de derechas. Ambas son ipso facto capaces de pasar de formas moderadas a formas extremistas tanto de creencia como de acción con tal de alcanzar sus objetivos. Aceptando estos criterios como supuestos bastante típicos sobre el continuo político, podemos decir – anticipándonos a nuestra conclusión – que Kita Ikki no encaja en la imagen estándar de la derecha» (George Wilson, Radical Nationalist In Japan: Kita Ikki 1883-1937).
En cuanto a las ideas de Kita sobre el kokutai, concebía al emperador como un líder paternal, esperanzador y espiritual tras el que todos podían unirse. En esta época del Japón el emperador Meiji se alejó del poder absoluto e introdujo el constitucionalismo, dando lugar al concepto político de «kokutairon». Este concepto, formulado por Tatsukichi Minobe, considera al Estado liberal, o kokutai, como supremo, e incluso al emperador como un mero «órgano del Estado» definido por la estructura constitucional y no como un poder sagrado más allá del propio Estado. Minobe utilizó la metáfora de la cabeza del cuerpo humano para describir el papel del emperador. Esta tesis estaba influida por el filósofo jurídico alemán Georg Jellinek, cuya Allgemeine Staatslehre (Teoría General del Estado) se publicó en 1900, y por el concepto británico de monarquía constitucional. Minobe advirtió que la Dieta japonesa debía limitar cuidadosamente el derecho del emperador a ejercer el mando supremo sobre el ejército si no quería que Japón acabase con un gobierno dual en el que el ejército llegase a ser completamente independiente y estar por encima del imperio de la ley, sin rendir cuentas a la autoridad civil.
Ikki Kita no estaba de acuerdo con el kokutairon, defendía el absolutismo y una monarquía paternal platónica y deseaba recuperar el espíritu de la Restauración Meiji, con su poder absoluto, pero liberado de las falsas promesas de las potencias occidentales. El principal punto de divergencia radica en su uso del totalitarismo. Kita entendió el totalitarismo a partir de su lectura atenta de la República de Platón, que le inspiró a emular sus ideas. «La República de Platón era vista por estos radicales japoneses como el fundamento de las ideologías socialistas y comunistas occidentales. Cada vez más, por lo tanto, el texto era concebido como el anteproyecto de la revolución social...» (Hyun Jin Kim, Plato In East Asia ?).
Otro elemento central de la filosofía de Kita era su crítica a las élites gobernantes de Japón, a las que consideraba corruptas y alejadas del pueblo. Criticaba a los zaibatsu (grandes conglomerados industriales) por explotar a los trabajadores y mantener estrechos vínculos con el gobierno, lo que, en su opinión, comprometía el bienestar del pueblo japonés en beneficio de los zaibatsu. Una mezcla de budismo, lassallismo, marxismo y platonismo alimentaba su oposición al capitalismo y su deseo de ver Japón gobernado por líderes comprometidos con el bienestar del pueblo y no con el beneficio privado. Un aspecto intrigante de la ideología de Kita es su frecuente uso del término «socialdemocracia», que hace referencia a la versión defendida por Ferdinand Lassalle. George Wilson explica el impacto de Lassalle y Marx en Kita en este contexto: «En Sado, como en otros lugares, el cambio de siglo trajo consigo una oleada de nuevas ideas. El socialismo heredó el manto de protesta que antes llevaban los pensadores de minken. Los jóvenes socialistas se inclinaron hacia el romanticismo, influidos más por el ejemplo del efervescente Ferdinand Lassalle que por Karl Marx...» (George Wilson, Radical Nationalist In Japan: Kita Ikki 1883-1937).
Sin embargo, los liberales modernos y algunos críticos vieron en ello una admisión de «fascismo social». A pesar de su admiración por Marx, Kita discrepaba con él en ciertos aspectos, como su falta de espiritualidad. Sin embargo, en otras áreas, como el análisis económico de Marx, Ikki Kita fue uno de los primeros en elogiarlo.
«Aunque Kita no estaba de acuerdo con Marx en algunos puntos clave (por ejemplo, rechazaba vehementemente la teoría de los precios de Marx) y hacía hincapié en su propia interpretación independiente del socialismo, estaba fuertemente influido por las ideas marxistas. Desde las primeras líneas de Kokutairon se declaró dispuesto a defender el «socialismo científico» frente a sus detractores y en todos sus escritos posteriores elogió a Marx por su profunda comprensión del desarrollo histórico, económico y social. Incluso llegó a afirmar que la idea marxista de que «el capital es una acumulación de saqueo» era una «verdad inmutable igual a la ley de la gravitación» (Danny Orbach, A Japanese Prophet: Eschatology and Epistemology In The Thought of Kita Ikki).
En su programa político se considera necesario un golpe de Estado para establecer un estado de emergencia bajo el liderazgo directo de una personalidad fuerte. Debido a la estimada posición del emperador en la sociedad japonesa, Kita veía al soberano como el individuo ideal para suspender la Constitución, establecer un consejo iniciado por el emperador y reestructurar fundamentalmente el Gabinete y la Dieta, cuyos miembros serían elegidos por el pueblo y estarían libres de «influencias nocivas». Así se lograría la verdadera esencia de la Restauración Meiji. La «Dieta de Reorganización Nacional» propuesta revisaría la Constitución siguiendo los planes del Emperador, impondría límites a la riqueza personal, la propiedad privada y los activos corporativos y crearía entidades nacionales gestionadas directamente por el gobierno, como los Ferrocarriles Japoneses. La reforma agraria implicaría la transferencia de todo el suelo urbano a los municipios, de forma similar a las grandes reformas que Mao Zedong llevó a cabo posteriormente en China.
El nuevo Estado debía abolir el sistema de la nobleza kazoku, la Cámara de los Pares y todos los impuestos y garantizar el sufragio masculino, la libertad, los derechos de propiedad, los derechos de educación, los derechos laborales y los derechos humanos, todos ellos conceptos extraídos de su lectura de Lassalle. Mantener al emperador como representante del pueblo expulsaría a las élites privilegiadas y daría a los militares los medios para fortalecer Japón y permitirle liberar Asia del imperialismo occidental.
«Abolición del sistema nobiliario: Al abolir el sistema nobiliario, podremos acabar con la aristocracia feudal que forma una barrera entre el emperador y el pueblo. Esto realizará el espíritu de la Restauración Meiji» (Kita Ikki, Esbozo general para la reconstrucción de Japón).
Algunos estudiosos han traducido mal la obra de Kita y se han centrado demasiado en el darwinismo de su ideología, intentando vincularlo a figuras como Hitler. Sin embargo, el darwinismo de Kita estaba influido por Marx, que a su vez estaba influido por Darwin, lo que significa que Kita está más cerca del darwinismo de los Wobblies que del de la Alemania nazi. Su posición es, por tanto, comparable a la de Gramsci, Du Bois, Mao o Sukarno, que no estaban de acuerdo con Marx, pero, lo consideraban una fuente de inspiración. Además, incluso los estudiosos que atribuyeron el darwinismo a Kita, como Nicholas Howard, lo hicieron con sus propias palabras porque no encontraban la palabra para el realismo político, la teoría que se centra en la naturaleza competitiva y conflictiva de la política y en cómo el poder y la seguridad son las principales cuestiones de las relaciones internacionales.
En cuanto a la perspectiva geopolítica de Kita, también preveía que Japón desempeñara un papel de liderazgo en Asia y se opusiera al imperialismo occidental formando una «Gran Esfera de Coprosperidad de Asia Oriental». Los militaristas japoneses retomaron posteriormente este concepto en las décadas de 1930 y 1940 para justificar su expansión por Asia. La visión original de Kita de esta «esfera» era una alianza mutua de países asiáticos unificados bajo el liderazgo japonés para resistir colectivamente la influencia occidental. Aunque veía a Japón como un liberador de Asia, no abogaba por la explotación u opresión de otras naciones asiáticas, como han intentado hacer creer fuentes comunistas.
Como el mundo era injusto e irracional según la visión realista de Kita, éste sostenía que la lucha por el desarrollo positivo de Japón no era egoísta, sino una necesidad biológica y un acto revolucionario en favor de la justicia internacional. Este sentido de la justicia y la necesidad internacionales llevó a Kita a simpatizar con el desafío de Alemania a los «grandes imperios y la plutocracia internacional» durante la Primera Guerra Mundial. Aunque Alemania fracasó, Kita predijo que Japón no tardaría en hacer frente a estas injusticias y, tras la victoria, se convertiría en la «Alemania del Este», adquiriendo Australia, Siberia Oriental, las islas del Pacífico, Manchuria y Mongolia. Estas ganancias territoriales asegurarían la supervivencia de Japón como Estado-nación y garantizarían la integridad territorial de China y la independencia de la India. Sin embargo, Kita veía la liberación de Asia como el primer paso de una misión más amplia.
Kita afirmó el derecho de Japón como «nación proletaria» a tomar el control de Siberia, Extremo Oriente y Australia, sugiriendo que los habitantes de estas regiones deberían disfrutar de los mismos derechos que los ciudadanos japoneses. Argumentaba que los problemas sociales internos de Japón no podían resolverse sin abordar los retos de la distribución mundial. Este concepto se conoce como la Restauración Shōwa. Kita percibía el mundo dividido en dos clases: naciones burguesas y naciones proletarias. Veía a Japón como una nación proletaria, carente de un vasto territorio (un gran imperio colonial) y de recursos financieros (inversiones en ultramar). Por el contrario, veía a Rusia como un gran terrateniente con más territorio del que le correspondía, mientras que Gran Bretaña era vista como rentista y financiera. Esta visión era muy similar a la del protofascista italiano Enrico Corradini.
Para él, Japón debía aspirar a liderar una federación mundial difundiendo los principios sagrados del budismo por todo el mundo. Kita creía que la lucha de clases internacional contra los terratenientes y la plutocracia era la principal fuerza motriz de la historia. En su contexto histórico, la visión política de Kita era establecer un estado socialista utilizando un enfoque fascista conocido como «socialismo desde arriba» para unificar y fortalecer la sociedad japonesa. Las misiones internacionales de Japón tenían como objetivo garantizar la independencia de la India y salvaguardar la República de China, para evitar que se dividiera como África, en el espíritu de la unidad asiática. Otro objetivo de su plan era crear un vasto imperio que incluyera Corea, Taiwán, Sajalín, Manchuria, el Lejano Oriente ruso y Australia. Esta visión también implicaba el rechazo definitivo de la democracia de estilo occidental, que consideraba ajena a la conciencia asiática.
«No existe absolutamente ninguna base científica para pensar que una «democracia», es decir, un sistema estatal en el que los representantes del pueblo se eligen mediante un sistema electoral, es mejor que un sistema en el que el Estado está representado por una sola persona. La nación difiere según el espíritu del pueblo de cada nación y la historia de la formación de la nación. No se puede decir que China, que tiene un gobierno republicano desde hace ocho años, sea más racional que Bélgica, donde una sola persona representa a la nación. La idea estadounidense de «democracia» se basa en la idea de una sociedad formada por la libre voluntad de los individuos que celebran un contrato libre y en las ideas extremadamente burdas de la época en que los individuos se separaron de las patrias de Europa y formaron comunidades aldeanas que se convirtieron en naciones. La teoría del derecho divino de los electores no es más que una filosofía débil, lo contrario del derecho divino de los reyes. Esto no ocurrió cuando se fundó Japón, ni ha habido un periodo en el que dominara una filosofía tan débil. Un sistema en el que el jefe del Estado tiene que manipular las opiniones vendiendo su nombre, refinando sus modales como un actor barato para luchar en las elecciones, es para la raza japonesa, que ha sido educada para creer que el silencio es oro y la modestia una virtud, una invitación suficiente para permanecer muda y espectadora de esta extraña costumbre» (Kita Ikki, Una visión general de la reconstrucción de Japón).
Kita propuso que el Imperio de Japón adoptara el esperanto en 1919 como medio de unificación del mundo. Predijo que 100 años después de su adopción, el esperanto sería la única lengua hablada en Japón y en los vastos territorios conquistados y que el japonés se convertiría en el equivalente del sánscrito o el latín dentro del Imperio. Creía que el sistema de escritura japonés era demasiado complejo para imponerlo a otros, que la romanización sería ineficaz y que el inglés, enseñado en las escuelas japonesas de la época, no era dominado por los japoneses. Kita sostenía que el inglés era perjudicial para la mente japonesa, del mismo modo que el opio afectaba a los chinos, y que aún no había destruido a los japoneses porque la lengua alemana tenía más influencia. No obstante, pidió que se excluyera el inglés de Japón para evitar la anglización del país. Kita se inspiró en los anarquistas chinos con los que trabó amistad, que abogaban por sustituir el chino por el esperanto a principios del siglo XX.
Uno de los aspectos más significativos del pensamiento de Kita es la considerable influencia de su budismo. A diferencia de los sintoístas shōwa de su época, que en general se oponían al socialismo, Kita abrazó el budismo de Nichiren, una forma de budismo mahayana, o budismo del «Gran Vehículo», que fomentaba enérgicamente la acción política y la organización como preparación para la gran guerra venidera que Nicheren había predicho. Por tanto, Kita estaba más abierto al socialismo y a la diversidad de opiniones que los sintoístas. El budismo de Kita se diferenciaba del budismo teravada, o «budismo de los antiguos», en que se centraba en los bodhisattvas y en la ayuda comunitaria para alcanzar el nirvana. Esta forma de budismo encaja bien con el socialismo por sus aspectos comunitarios.
Su budismo nicheriano también desempeñó un papel en la formulación de su escatología o visión del ciclo de la historia. Al igual que Marx, creía que había progreso en la historia. Lo que le diferenciaba era su interpretación budista de la historia cíclica. Kita creía que la democracia social que implantaría sería la mejor etapa para que la gente alcanzara el nirvana y que el mantenimiento de este estado produciría el mayor número de bodhisattvas para acercar a la gente al nirvana. Esta mezcla de budismo y marxismo reflejaba el budismo de la Tierra Pura de una forma que se hace eco de las creencias de una antigua comunidad de monjes guerreros socialistas agrarios de Japón, los Ikko Ikki.
En Sobre el Kokutai y el socialismo puro Kita también cuestionó la perspectiva sintoísta de nacionalistas como Hozumi Yatsuka, que veía Japón como un «estado familiar» étnicamente homogéneo que descendía a través del linaje imperial de la diosa Amaterasu Omikami. Kita hizo hincapié en la presencia histórica de no japoneses en Japón y defendió que, junto a la integración de chinos, coreanos y rusos como ciudadanos japoneses durante el periodo Meiji, cualquiera debería poder naturalizarse ciudadano del imperio, independientemente de su raza, con los mismos derechos y obligaciones que los japoneses nativos. Creía que el imperio japonés no podía extenderse a regiones no japonesas sin concederles los mismos derechos o excluirlas del imperio. Al mismo tiempo, creía que Japón debía preservar una identidad japonesa diferenciada para servir de bodhisattva en el mundo. Sus opiniones sobre las políticas de inmigración y asimilación eran similares a las de Italo Balbo y Gentile.
Influencia en la sociedad japonesa y en el movimiento de los jóvenes oficiales
Aunque las ideas de Kita no gozaron de gran popularidad, sí resonaron entre los jóvenes oficiales militares japoneses desilusionados que se veían a sí mismos como guardianes del emperador y del futuro de Japón. Este grupo, conocido como los «jóvenes oficiales», era una coalición de elementos de derechas e izquierdas comprometidos con la purificación de Japón. Especialmente activos en la década de 1930 abogaban por una acción radical para destituir a los gobernantes corruptos y hacer realidad la visión de Kita de un Japón restaurado y poderoso. Creían que sólo un movimiento revolucionario dirigido por el ejército podría salvar a Japón de sus problemas sociales y económicos y mantener su autonomía frente a las potencias occidentales.
Una facción de esta coalición de jóvenes oficiales fue la Sakurakai, o Sociedad de los Cerezos en Flor, una sociedad secreta nacionalista formada por jóvenes oficiales del Ejército Imperial Japonés en septiembre de 1930. Su objetivo era reorganizar el Estado siguiendo líneas totalitarias militaristas, posiblemente mediante un golpe militar. La sociedad perseguía la restauración de Shōwa, con la intención de restaurar al emperador Shōwa (Hiro-Hito NDT) en la posición que le correspondía, sin partidos políticos ni burócratas corruptos, bajo una nueva dictadura militar. También apoyaban el socialismo de Estado, tal y como lo defendia Ikki.
Dirigido por el teniente coronel Kingoro Hashimoto, jefe de la sección rusa del Estado Mayor del Ejército Imperial Japonés, y el capitán Isamu Chō, con el apoyo de Sadao Araki, el Sakurakai comenzó con unos diez oficiales en activo del Estado Mayor del ejército. Luego se amplió para incluir a oficiales de rango de regimiento y compañía, y contaba con más de 50 miembros en febrero de 1931, llegando a varios centenares en octubre de 1931. Uno de sus principales líderes fue Kuniaki Koiso, futuro Primer Ministro de Japón. El Sakurakai se reunía en un dojo dirigido por Morihei Ueshiba, fundador del Aikido, en la sede del movimiento religioso Oomoto en Ayabe.
En 1931, durante el Incidente de Marzo y el Incidente del Color Imperial, los Sakurakai, junto con elementos nacionalistas civiles, intentaron derrocar al gobierno. Tras la detención de sus líderes después del Incidente del Color Imperial, el Sakurakai se disolvió y muchos de sus antiguos miembros se unieron a la facción Toseiha dentro del ejército. La admiración de los jóvenes oficiales por las ideas de Kita llevó a varios intentos de golpe de estado durante la década de 1930, siendo el más notable el incidente del 26 de febrero de 1936. En este suceso, un grupo de jóvenes oficiales intentó tomar el control del gobierno japonés y asesinar a figuras políticas clave que consideraban obstáculos para la reforma nacional. Aunque fue sofocado, el golpe de estado puso de manifiesto el alcance de la influencia de Kita en los círculos militares y la radicalización de ciertas facciones de la sociedad japonesa.
El incidente del 26 de febrero de 1936
La facción Kōdōha, o Vía Imperial, fue fundada por el general Sadao Araki y su protegido, Jinzaburō Masaki. Esta facción radical pretendía establecer un gobierno militar que promoviera ideas totalitarias agresivas, militaristas y expansionistas, obteniendo el apoyo principalmente de oficiales jóvenes. El Kōdōha apoyaba firmemente la hokushin-ron («doctrina de expansión hacia el norte»), abogando por un ataque preventivo contra la Unión Soviética, al considerar que Siberia formaba parte de la esfera de interés de Japón.
El Ejército Justo era un grupo de jóvenes oficiales del IJA que apoyaban a la facción radical de Kodoha. Estos jóvenes oficiales creían que los problemas de Japón provenían de su desviación del kokutai, un concepto que a grandes rasgos significaba la relación entre el emperador y el Estado. Creían que las «clases privilegiadas» explotaban al pueblo, provocando una pobreza generalizada en las zonas rurales y engañaban al emperador, mermando así su poder y debilitando a Japón. En su opinión, la solución pasaba por una «Restauración Shōwa» inspirada en la Restauración Meiji que había tenido lugar 70 años antes. Sus creencias estaban fuertemente influenciadas por el pensamiento nacionalista contemporáneo, en particular por la filosofía política de Ikki Kita. El 26 de febrero de 1936, intentaron dar un golpe militar destinado a purgar el gobierno y la cúpula militar de sus rivales y oponentes ideológicos.
El Incidente del 26 de febrero (26-28 de febrero de 1936) fue un intento de golpe de Estado en el Imperio de Japón, orquestado por jóvenes oficiales del Ejército Justo que apoyaban a Kodoha. Su objetivo era llevar a cabo la «Restauración Shōwa», purgar a sus oponentes políticos y restablecer el poder directo bajo el Emperador Showa (Hirohito). La «Restauración Shōwa» prevista pretendía ser un reflejo de la Restauración Meiji, con un pequeño grupo de personas capacitadas apoyando a un emperador fuerte. Aunque lograron asesinar a varios altos cargos y ocupar el centro gubernamental de Tokio, no consiguieron asesinar al primer ministro Keisuke Okada, tomar el control del Palacio Imperial ni ganarse el apoyo del emperador. Aunque sus partidarios en el ejército intentaron sacar provecho de sus acciones, las divisiones internas y el enfado generalizado por el golpe impidieron cualquier cambio gubernamental. Ante la abrumadora oposición del ejército, los rebeldes se rindieron el 29 de febrero. Las consecuencias han sido la represión de la sublevación, el declive de la influencia de la facción Kodoha y el aumento de la influencia militar sobre el gobierno.
El legado y la ejecución de Kita Ikki
Kita ejerció una profunda y compleja influencia en el nacionalismo y el militarismo japoneses. Su obra intelectual inspiró a reformistas radicales que apoyaban el establecimiento de una dictadura militar estricta y un gobierno autoritario. Estas ideas contribuyeron al avance de Japón hacia el militarismo en la turbulenta década de 1930 y principios de 1940, en un contexto de insatisfacción generalizada con una democracia ineficaz y de desafíos geopolíticos, como el fin del Tratado Anglo-Japonés, que dejó a Japón aislado. La visión de Kita de la Gran Esfera de Coprosperidad de Asia Oriental, concebida inicialmente como una organización idealista y cooperativa, se transformó en un sistema al que él se oponía, a medida que sus ideas se reconfiguraban para alinearse con la agenda del gobierno imperial. Personalidades como Konoe intentaron poner en práctica los ideales de Kita a través de reformas laborales, propuestas de igualdad racial en la Sociedad de Naciones y esfuerzos para obtener el indulto de los líderes ultranacionalistas implicados en el incidente del 26 de febrero, que habían intentado asesinar a su mentor Saionji. Sin embargo, Konoe se enfrentó a la oposición de varias facciones del gobierno japonés y a presiones externas, como la venganza de Estados Unidos y las intrigas de China. Finalmente, Konoe, partidario de la diplomacia, cedió el poder al más agresivo Hideki Tojo.
En 1937, durante la «Purga del 26 de febrero», Kita fue detenido y ejecutado por el gobierno japonés, que lo consideraba una amenaza para la seguridad del Estado. Aunque algunas de sus ideas fueron parcialmente adoptadas por las autoridades gobernantes, Kita era considerado un ideólogo peligroso, capaz de incitar al descontento y desafiar el arraigado poder de la élite. Su ejecución no acabó con su influencia; los escritos de Kita siguieron resonando, convirtiéndose en textos fundamentales para los pensadores nacionalistas y militaristas que imaginaban la salvación de Japón en forma de un estado socialista centralizado y autoritario.
Herencia
El legado ideológico de Kita ha tenido una influencia sorprendente, sobre todo dentro de la ideología Juche de Corea del Norte. Esta ideología refleja las creencias de Kita, como la dinámica líder supremo/emperador, la colaboración internacional contra el imperialismo occidental, el antiliberalismo, el anticapitalismo, el socialismo de Estado, el totalitarismo y el Songun. A pesar de su propaganda antijaponesa, estos principios permitieron que las ideas de Kita sobrevivieran en Corea del Norte. En Corea del Sur, algunos medios de comunicación liberales de izquierda han retratado la administración de Park Chung-hee como antiamericana, fascista panasiática y Chinilpa, cuyas influencias se remontan a la educación japonesa de Kita y a su estudio del incidente del 6 de febrero. Inejiro Asanuma, líder del Partido Socialista Japonés, estaba muy influido por Kita y abogaba por una alianza con Mao y Sukarno, haciéndose eco de los ideales de Kita de una esfera de prosperidad. Sin embargo, fue asesinado por Otoya Yamaguchi, un nacionalista japonés pro-inglés-estadounidense protegido por Bin Akao. El asesinato de Asanuma sirvió para sofocar cualquier movimiento genuino japonés en favor de la soberanía y para afianzar elementos neoconservadores en muchas facciones del nacionalismo japonés.
En el Japón actual, el movimiento nacionalista está muy atenuado y desconectado de las ideas de Kita, muy influido por las perspectivas angloamericanas, un escenario al que Kita se habría opuesto rotundamente. La Cuarta Teoría Política de Aleksandr Dugin se alinea con algunas de las ideas de Kita cuando se considera en el contexto de los actuales alineamientos geopolíticos, como explica Kazuhiro Hayashida en Lo que los japoneses necesitan para entender la Cuarta Teoría Política. Kazuhiro subraya la importancia de recordar ideas y figuras históricas para comprender teorías contemporáneas como las de Dugin. Kazuhiro se centra en Kanji Ishihara, antiguo soldado del ejército imperial y budista Nichiren influido por Kita, que fue reconocido por sus teorías estratégicas durante el periodo de entreguerras y por su planificación y ejecución de la reconquista de Manchuria por el emperador Qing, Esto permitió a Manchuria convertirse en una potencia económica multicultural al servicio de las ambiciones de Japón, gracias a sus prácticas agrícolas colectivas y a una industrialización que mejoró el nivel de vida, superando a Japón en la producción de acero. La minería del carbón, la extracción de petróleo y la agricultura se convirtieron en industrias importantes, los puertos y las ciudades se modernizaron, el comercio y los negocios florecieron y Manchuria se industrializó más que la República de China. Manchuria se convirtió en la región más industrializada de toda China, lo que llevó a los soviéticos a utilizarla como base de operaciones y permitió a Mao ganar la guerra. Aunque las teorías de Ishihara perdieron importancia tras la Segunda Guerra Mundial, el autor cree que siguen ofreciendo valiosas perspectivas. Las ideas de Ishihara, como las de Kita, se alinean bien con la Cuarta Teoría Política de Dugin, que cuestiona el liberalismo.
El gobierno chino contemporáneo tiene vínculos ideológicos con Kita, ya que las reformas económicas de Deng Xiaoping estuvieron muy influidas por Park Chung-hee y el modelo económico japonés que inspiró las economías de los Tigres Asiáticos. El burócrata chino Wang Huning también ha incorporado muchas de las ideas de Kita en China, dirigiendo la nación hacia el establecimiento de una Pax Sinica a través de iniciativas internacionales como el proyecto Cinturón y Ruta, que recuerda los esfuerzos de la Sociedad del Dragón Negro. Wang expresó su desdén por la política multipartidista y se distanció del marxismo, abogando en su lugar por un sistema corporativista.
Yukio Mishima, también muy influido por Kita, creía que su vida debía culminar con su propio incidente del 26 de febrero, destinado a restaurar la soberanía japonesa frente a la influencia occidental, o arriesgarse a una muerte artísticamente significativa. Para ello, fundó la Tatenokai, o Sociedad del Escudo. Mishima apreciaba la cultura tradicional japonesa y se oponía al materialismo occidental, al globalismo y al comunismo, temiendo que erosionaran la identidad cultural única de Japón y dejaran a su pueblo «desarraigado». El 25 de noviembre de 1970 Mishima y cuatro seguidores entraron en una base militar del centro de Tokio, tomaron como rehén al comandante e intentaron sin éxito reunir a las Fuerzas de Autodefensa Japonesas para derrocar la Constitución japonesa de 1947. Tras su discurso, gritó «Larga vida al Emperador» antes de suicidarse.
Kita sigue siendo una figura controvertida de la historia japonesa. Su ideología radical pretendía crear un Japón más fuerte y justo combinando nacionalismo, socialismo y militarismo para hacer frente a problemas como la disparidad económica y el imperialismo occidental. Sus ideas inspiraron a muchos y supusieron una amenaza para la Unión Soviética. Las potencias coloniales occidentales y el propio Japón lanzaron una campaña de desinformación para suprimir y tergiversar sus ideas. En realidad, Kita pretendía desmantelar el capitalismo y se veía a sí mismo como un budista totalitario que utilizaba Japón como vehículo para la iluminación mundial, haciéndose eco de la visión de Fichte para Alemania. Su búsqueda de la salvación budista mundial le convirtió en una importante figura del fascismo genérico/tercera posición en Japón, junto a figuras como Akira Kazami y Seigō Nakano.
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lovelikeinthebooks · 1 year ago
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Hoy estoy triste.
Estoy triste porque soy un fracaso.
Porque mi idea de salir de la miseria y sacar a mi familia de la pobreza se está convirtiendo en un sueño mas que una posibilidad. Porque antes me costaba, incluso cuando no tenia otras obligaciones más que la facultad y el viaje largo era mi único contratiempo. Ahora no solo el tiempo que requiere ese viaje, sino tambien la plata que cuesta es algo que no tengo para nada de sobra.
Por un lado, voy a tener (mucho) menos tiempo para dedicar a la facultad porque estoy siendo responsable de un ser humano que no elegí tener y mucho menos estoy de acuerdo de dónde salió, que aunque sé que ella no tiene la culpa de su origen, sigue dandome rechazo. No ella, sino su origen: mi mamá y esa basura. Nunca le creí cuando me dijo que fue con un hombre random que conoció bailando salsa y que casualmente se desligó de la responsabilidad porque "estaba casado y no confiaba en ella". Yo sé que fue con esa escoria. Y pensarlo me trae todos los recuerdos de ese tiempo oscuro que quiero dejar atras.
Por otro lado, la plata es algo que no tuve ni tengo de sobra. Esa era una de las motivaciones para elegir la carrera que elegí y, erroneamente, la universidad que elegí (a kilómetros y kilómetros, horas y horas de distancia). En el pasado, vivimos como pudimos con lo que conseguimos y con la situación politica actual (que parece estar empecinada en desaparecer todas las facilidades brindadas a la gente en mi situación, que intenta salir de su mala posición) parece que ese va a ser mi futuro también.
Y no sé de qué forma ayudar. Me siento cada vez mas inútil porque no se me ocurre nada para aportar económicamente; ya que pensar en un futuro mejor estudiando una carrera está quedando fuera de la ecuación, tampoco tengo disponible el tiempo necesario para un trabajo normal de 8hs diarías mínimo, ni la fuerza y conocimientos necesarios para hacer changas de construcción o jardinería.
Cada vez me siento mas desesperada y solo encuentro trabas en cualquier cosa que me plantee.
También es mi culpa obviamente. A esta altura tendría que estar recibida si hubiera seguido un plan fijo. Pero desperdicié mi tiempo y plata ganada de las formas mas patéticas. Intento justificarme diciendo que era mi forma de escape (los libros, las historias ficticias me hicieron vivir imaginariamente miles de vidas mejores que la mía) y tanto me hacía bien al corazón que se terminó convirtiendo en adicción. Terminé gastando la única plata que tenia disponible durante toda mi adolescencia y juventud en libros y en viajes a otra parte de la provincia para construir el camino de ascenso social. En vez de gastarlos (mi tiempo y dinero) en algo que en el futuro me rentaría más, como enamorar a un millonario o comprar dólares.
Es más no quería gastar en eso último (lo primero es imposible con mi forma de ser y mi apariencia física) porque sentía que traicionaba a mi país, a mi patria y a los argentinos. Y, al final, ellos fueron los que me soltaron la mano. Votando a personas que hablan de la gente como yo: pobre, con menos opciones y, por lo tanto, recibiendo ayudas del Estado diciendonos planeros, vagos, chorros; gente de ciencia (en mi caso, aspirando a ser) tratada como no rentable, ñoquis y sacando el apoyo y respeto que tenía el dedicar tu vida al desarrollo de conocimiento; mujer feminista siendo desvalorizada y volviendo a invisibilizar nuestras luchas; gente que cree en la justicia social y en la importancia de la convivencia organizada siendo rebajada a comunista y corrupta. Y muchas otras cosas que no me tocan personalmente o me olvido ahora mismo, pero que destrozaron tanto simbólicamente y que llegó a afectar en la vida real (los maestros y la educación pública, los ancianos y jubilados, la salud pública, los empleados públicos, la gente dedicada al arte, a la historia, etc. Sé que me quedo corta) Todo se redujo a números. A si da ganancia monetaria o no. Se redujo a un partido de futbol en donde hay ganadores y perdedores y como ellos ganaron el balotage (donde era uno u otro) ahora tienen el poder de decisión en todo, asi que nos toca jodernos porque "hubiéramos ganado las elecciones".
Sé que antes había cosas que mejorar, la gente no está disconforme y enojada de la nada (aunque hay gente para todo). Estábamos en una crisis económica con inflación en aumento y no parecía haber mejora en la inseguridad y corrupción. Pero estábamos es eso, manteniendolo a flote, remando para adelante e intendando mejorar poco a poco. Sin embargo, mucha gente se cansó, se bajó y dejó de aportar a la causa colectiva, decidiendo que era mejor destruir todo a seguir construyendo.
Que haya ganado la violencia, el individualismo y la intolerancia me decepciona mucho. Y si hablamos de victorias y derrotas, ya perdimos la batalla cultural. Porque ahora no importa cuánta formación, conocimiento y empatía tengas, si tenés más likes, plata y (sobre todo) si ganaste las elecciones podés manejar la verdad a tu antojo.
Sé que mi visión es limitada y espero estar equivocada con muchas cosas, pero la realidad que veo en el presente y a futuro es catastrófica. Hay incendios intencionales en la Patagonia, comedores, universidades, escuelas y hospitales desfinanciados, ministerios destruidos, gente de cualquier edad que reclama siendo reprimida, lastimada y encarcelada, inflación por encima de cualquier aumento de sueldo en más del 100%, gente que en pocos meses se queda sin vivienda, trabajo y comida, una estigmatización creciente por tener un color de piel no blanco (¡ahora usan la palabra marrón de forma peyorativa!), un genocidio en curso en el mundo, mayor desconexión entre personas habiendo más redes sociales y tecnología de comunicación; y la gente responsable sigue de fiesta sacando provecho de haber ganado poder, eliminando las ayudas y subsidios (que están por algo!), votando leyes que destruyen el avance de décadas y desprotegen a la mayoría de la población (millones de personas y ecosistemas), apoyando a los genocidas, mostrando orgullosa su falta de empatía y razonamiento, creyéndose mejores y con más valor de opinión que gente a la legua más inteligente y experimentada no solo en la vida sino también en asuntos que requieren formación profesional.
No cuento a la gente que no está de fiesta porque votó algo que al final los terminó perjudicando. Estuvieron siempre a la vista las intenciones e intereses de las personas gobernado, tomando decisiones que afectan a miles, pero aún así decidieron ser ciegos.
Me da lastima la gente ciega de verdad (metafóricamente hablando), que votó pensando que el cambio iba por ese lado. Sin ver que ese lado era formando más caos y rompiendo el tejido social a sierrazos.
Estoy que lloro escuchando No llores por mí Argentina.
De nuevo, espero estar equivocada y que mi visión sea muy alejada de la realidad con tal de que yo sola esté viviendo en este mundo cayéndose a pedazos. Y, de nuevo, me siento inútil porque no tengo ni poder ni ideas que puedan ayudar a mejorar algo, aunque sea algo simple.
Soy un conjunto de células existiendo que no lograron nada con su organización sostenida por mas de 25 años.
Volviendo a mi existencia diminuta en mi propio espacio tan pequeño como una cama de una plaza en una habitación 3x3. Debería estar estudiando para liberarme de 1(una) materia de 30(TREINTA) en vez de mover los dedos sobre la pantalla de mi celular para escribir letritas que solo tienen significado para mí, en este momento de mi vida y con esta tristeza dentro del pecho.
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ironnerdparadise · 6 months ago
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2024 - ELEIÇÕES MUNICIPAIS - PREFEITOS - VEREADORES
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brunojordanposts · 7 months ago
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Nuevos mapas para desertores
Por Franco Berardi (Bifo) Escritor, filósofo y activista de la izquierda en Italia. El imperialismo liberal democrático colapsa y el imperialismo nacional avanza. Necesitamos nuevos mapas para orientarnos, nuevas líneas de escape al desierto. Mapa del siglo XVI, Museo del Papa, Madrid.         Las elecciones de junio en Francia y las del 1 de septiembre en Turingia y Sajonia suponen la…
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claudiosuenaga · 27 days ago
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Japão, o Paradoxo da Perfeição: Matrix e a Insustentável Harmonia do Ser
Imagine um mundo onde tudo funciona perfeitamente: trens que nunca atrasam, ruas impecavelmente limpas, segurança absoluta e uma sociedade que parece ter alcançado o equilíbrio ideal. Esse mundo existe, em parte, no Japão. Mas, ao mesmo tempo, ele carrega uma sombra que desafia a ideia de que a perfeição é sinônimo de felicidade. Essa dualidade nos leva a questionar: será que a perfeição é suportável? Ou será que, como em The Matrix, a realidade precisa de imperfeições para ser vivida?
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Por Cláudio Tsuyoshi Suenaga, com base em suas próprias experiências no Japão
No filme The Matrix, as máquinas criaram uma realidade perfeita para os humanos, mas ela foi rejeitada. Os humanos, incapazes de aceitar um mundo sem conflitos, precisaram de uma versão imperfeita da realidade para que ela fosse suportável. Essa ideia ressoa profundamente quando olhamos para o Japão moderno. Apesar de ser um modelo de eficiência e ordem, o país enfrenta crises emocionais e sociais que revelam as rachaduras em sua utopia funcional.
O Japão, com sua baixa taxa de criminalidade, infraestrutura impecável e um senso de coletividade admirável, parece um exemplo de quase perfeição. No entanto, essa harmonia externa contrasta com uma realidade interna inquietante: altas taxas de suicídio, uma população envelhecendo rapidamente e uma juventude desinteressada em formar famílias. Além disso, a exploração de imigrantes em fábricas e trabalhos precarizados expõe uma face sombria que muitas vezes é ignorada no retrato idealizado do país.
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As linhas de produção da FBC (Factory Bakery Company), conhecida como Fuji Pan, onde trabalhei por muitos anos em Osaka, oferecem um retrato vívido da realidade industrial. A fábrica opera ininterruptamente, 24 horas por dia, todos os dias do ano, dividida em dois turnos de 12 horas. O trabalho é realizado de pé, em condições árduas: sujo, repetitivo, mecânico e profundamente alienante. Conforto e ergonomia são negligenciados, e qualquer traço de individualidade é sistematicamente reprimido, seja pelo rigor do uniforme ou pela supervisão rigorosa dos chefes e colegas.
Essa dissonância entre a aparência e a realidade levanta uma questão fundamental: será que a perfeição externa sufoca a complexidade interna do ser humano? Assim como em The Matrix, onde a perfeição artificial era insuportável, o Japão parece ilustrar que a ordem absoluta pode vir à custa da espontaneidade, da criatividade e, talvez, da própria felicidade.
A sensação de estar em uma "Matrix" no Japão não é apenas uma metáfora. É uma experiência visceral para aqueles que percebem a desconexão entre a superfície impecável e as tensões subjacentes. A sociedade japonesa, com suas rígidas normas sociais e expectativas, pode criar um ambiente onde as pessoas se sentem presas, incapazes de expressar plenamente suas individualidades ou de encontrar significado em suas vidas.
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O que podemos aprender com isso? Talvez a lição esteja em aceitar que a imperfeição é uma parte essencial da experiência humana. Um mundo ideal não é aquele que elimina todos os problemas, mas aquele que permite espaço para o erro, o crescimento e a autenticidade. A busca por um paraíso perfeito, seja ele uma Matrix ou uma utopia real, pode acabar nos privando do que nos torna verdadeiramente humanos.
A ordem vigente no Japão é um fenômeno que transcende as formas clássicas de controle totalitário. O que ocorre no Japão parece ser o exemplo mais avançado de algo que poderíamos chamar de "biopoder" ou "controle disciplinar." Não é o tipo de domínio explícito, centralizado, que imaginamos em um Big Brother, mas um sistema onde o poder é difuso, incorporado na própria estrutura social e cultural, e exercido por cada indivíduo sobre si mesmo e sobre os outros. Vamos ver como é isso:
1. O Controle Invisível: O Poder nas Normas e Não nas Ordens
No Japão, o controle social parece emanar mais de normas culturais profundamente enraizadas do que de comandos explícitos de um regime autoritário. O conceito de "tatemae" (o comportamento que se espera em sociedade) e "honne" (os verdadeiros sentimentos e pensamentos) exemplifica isso. As pessoas agem conforme o que a sociedade espera não porque há uma força coercitiva clara, mas porque a conformidade é praticamente um valor sagrado.
Essa conformidade cria um sistema autossustentável de controle. Cada indivíduo se torna um vigilante não apenas de si mesmo, mas também do próximo, perpetuando um equilíbrio que raramente precisa de intervenção direta.
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2. A Harmonia Como Imperativo Social
A obsessão pela "wa" (harmonia) tem um papel central. No Japão, o conflito é algo a ser evitado a todo custo. Isso, em muitos aspectos, é admirável: reduz tensões sociais, facilita o trabalho em grupo, promove uma coexistência ordenada. Porém, há um preço psicológico nisso: muitas pessoas reprimem suas insatisfações, seus desejos e até suas identidades para manter a aparência de harmonia.
É nessa busca por harmonia absoluta que se observa um paralelo com The Matrix. Assim como a realidade perfeita foi rejeitada no filme por ser insuportável, a harmonia imposta pelo sistema social japonês cria tensões internas. Infelicidade, alienação e desespero se tornam os efeitos colaterais de um paraíso social que parece impecável na superfície.
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3. Um Totalitarismo Sem Ditador: O Controle Distribuído
O que diferencia esse modelo japonês de um regime ditatorial clássico é que ele não é imposto por um líder ou por uma elite central. Ele é difuso, distribuído, quase orgânico. Não há necessidade de um "Big Brother" porque a própria sociedade se encarrega de policiar comportamentos e reforçar normas.
Pense, por exemplo, no peso das expectativas sociais em locais de trabalho japoneses, na pressão pela perfeição escolar ou profissional, ou no estigma associado ao fracasso. Tudo isso constrói uma rede invisível de controle que é talvez mais eficiente do que qualquer regime formal.
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4. Reflexão Global: Existe Outro Lugar Assim?
Embora o Japão seja talvez o exemplo mais extremo desse fenômeno, traços similares podem ser observados em outras sociedades de alta coesão, como algumas nações escandinavas, onde a pressão cultural por conformidade também é forte, ainda que em menor intensidade.
O Japão, no entanto, parece único em combinar essa pressão social com uma visão quase utópica da ordem e eficiência, criando a impressão de um "programa social" onde todos os cidadãos participam, consciente ou inconscientemente.
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5. O Preço da Perfeição
É aqui que a comparação com The Matrix se torna tão poderosa. Vivendo em um sistema tão "bem programado," muitas pessoas podem começar a questionar se estão realmente vivendo ou apenas "funcionando." Os problemas de saúde mental, a crise demográfica e a infelicidade generalizada, mesmo em um ambiente aparentemente ideal, são sinais de que um mundo projetado para ser perfeito pode, paradoxalmente, sufocar a humanidade.
Esse modelo japonês, de controle sem regime, é um alerta: a busca por um paraíso na Terra pode não precisar de um ditador para se transformar em uma prisão. A força das normas sociais, da harmonia coletiva e da conformidade pode, por si só, criar uma realidade tão complexa e controladora quanto qualquer regime totalitário explícito.
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E esse controle não é uma questão territorial, restrito aos domínios geográficos do Japão. O transplante desse "espírito coercitivo e exigente", típico das comunidades japonesas, para realidades como a do Brasil — uma sociedade mais plural, descontraída e menos hierárquica — gera dinâmicas complexas bastante reveladoras, que irei analisar agora.
1. A Persistência do Modelo Social Japonês no Exterior:
As comunidades nipônicas fora do Japão, como as do Brasil, carregam consigo os valores que definem a cultura japonesa: trabalho árduo, disciplina, respeito pelas hierarquias e a busca pela harmonia social.
Mesmo fora do Japão, essas famílias costumam criar seus filhos dentro de um "microcosmo" cultural em que os mesmos padrões de conduta e expectativas são mantidos. Isso inclui, muitas vezes, pressão acadêmica, perfeccionismo e uma aversão ao fracasso.
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2. O Desenraizamento Cultural:
Enquanto no Japão esses valores são amplamente compartilhados e reforçados pela sociedade como um todo, no Brasil as comunidades nipônicas vivem em meio a uma cultura com valores muitas vezes opostos. A sociedade brasileira é, em geral, mais permissiva, menos rígida em suas expectativas e valoriza a espontaneidade e a flexibilidade.
Esse desenraizamento pode gerar um "choque cultural interno" para jovens descendentes de japoneses. Eles crescem divididos entre o rigor cultural familiar e a fluidez cultural externa, gerando sentimentos de inadequação ou isolamento.
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3. A Pressão Silenciosa e Suas Consequências:
A pressão familiar para corresponder às expectativas tradicionais pode ser extremamente desgastante para jovens nikkeis. Eles frequentemente enfrentam os mesmos desafios emocionais presentes no Japão, como ansiedade, depressão e, em casos extremos, tendências suicidas.
A diferença, porém, é que eles não têm o suporte de uma sociedade que compartilha os mesmos valores. No Japão, a conformidade, embora pesada, é recompensada por um senso de pertencimento a um sistema harmonioso. No Brasil, essas pressões podem parecer desproporcionais e até opressoras, dadas as dinâmicas mais livres e informais da cultura local.
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4. A Marginalização e as Tensões com a Sociedade Local:
Além do conflito interno, comunidades nipônicas no Brasil podem enfrentar uma forma de marginalização social. Suas normas culturais rígidas e sua hesitação em se misturar com os padrões locais podem ser mal compreendidas ou vistas como distanciamento.
Por outro lado, dentro da própria comunidade nipônica, há uma tendência de manter barreiras em relação ao restante da sociedade, criando uma bolha onde o "coletivismo japonês" é reforçado em detrimento da interação com valores locais.
5. A Prática de Harmonia Forçada:
A busca pela "harmonia" dentro das comunidades japonesas no Brasil, paradoxalmente, muitas vezes intensifica os problemas. Essa harmonia não é natural, mas imposta: espera-se que conflitos e insatisfações sejam varridos para debaixo do tapete em nome da preservação das normas tradicionais.
Isso leva a uma falta de espaços para diálogo ou para contestação das expectativas impostas. Sem a possibilidade de questionar, muitos acabam reprimindo seus sentimentos, o que potencializa crises emocionais.
6. A Comparação com o Japão: Um Totalitarismo Interno sem Contexto:
No Japão, o controle social é diluído no coletivo: todos vivem sob as mesmas regras e valores, criando uma sensação de pertencimento mesmo em um sistema opressor.
No Brasil, porém, a tentativa de recriar essa cultura dentro de uma comunidade isolada pode parecer um "totalitarismo interno." Sem o respaldo de uma sociedade convergente, a pressão vivida pelos jovens nikkeis parece ainda mais severa e desconectada da realidade externa.
7. Possíveis Caminhos:
Promover o diálogo intergeracional dentro das comunidades japonesas pode ser um passo essencial. Os mais velhos devem entender que, fora do Japão, as condições são diferentes, e os jovens precisam de mais espaço para combinar elementos das duas culturas de forma saudável.
Abrir mais pontes entre as comunidades nipônicas e a sociedade brasileira pode ajudar a reduzir o isolamento e criar uma troca cultural rica que valorize o melhor de ambos os mundos.
Por fim, reconhecer que a harmonia verdadeira não vem da repressão de conflitos, mas de sua resolução aberta e sincera, pode ser libertador para essas comunidades.
Nesse sentido, há um outro aspecto profundamente comovente e que ilumina uma das camadas mais desafiadoras da identidade cultural: o sentimento de nunca ser "suficientemente" algo, mesmo quando, por todas as aparências externas, deveria haver pertencimento. A minha experiência e a de muitos estrangeiros no Japão toca uma ferida que muitos enfrentam ao viver entre culturas e pode ser explorada como um exemplo rico de exclusão, exigências culturais e resiliência.
1. A Identidade Híbrida: O Espaço Entre Dois Mundos
Ter crescido no Brasil como descendente de japoneses já me colocou em uma encruzilhada cultural. Por um lado, carrego o sobrenome, os traços físicos e algumas práticas culturais passadas pela família. Por outro lado, minha identidade é, inevitavelmente, moldada pelo Brasil: um país vibrante, plural, descontraído, onde as normas de coletividade não se alinham com o rigor japonês.
Esse "espaço entre dois mundos" cria uma identidade híbrida que, em muitos casos, é celebrada por sua riqueza e flexibilidade. Mas em outros, como no meu, se torna uma fonte de exclusão, na medida em que nenhum dos lados parece me aceitar plenamente.
2. O Condicionamento Cultural e o "Não Ser Japonês o Suficiente"
No Japão, a socialização desde cedo desempenha um papel fundamental na formação do senso de pertencimento. Não é apenas uma questão de aparência ou de idioma, mas de internalizar as normas não ditas: saber quando se curvar, como agir em grupos, como expressar (ou suprimir) emoções.
Para alguém que não cresceu nesse ambiente, o "condicionamento" cultural parece impossível de alcançar completamente, não importa o esforço. No caso dos nikkeis que retornam ao Japão, isso é ainda mais acentuado, pois há uma expectativa de que eles devam compreender e se adaptar devido à herança familiar, mas muitas vezes são percebidos como "outsiders" pelo simples fato de não terem passado pela educação e socialização japonesa desde a infância.
3. A Humilhação no Ambiente de Trabalho: Um Reflexo do Exclusivismo
A experiência que passei na fábrica é particularmente dolorosa, pois revela como as normas culturais de "tatemae" (a fachada pública) e "gaman" (suportar dificuldades silenciosamente) podem ser distorcidas no ambiente de trabalho.
Apesar de minha dedicação, minha posição como alguém "de fora" me marcou de forma indelével. O Japão pode ser profundamente meritocrático, mas dentro de certos limites: se alguém for percebido como "diferente," mesmo um esforço acima da média pode não ser suficiente para superar as barreiras invisíveis de preconceito e exclusão.
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4. O Exclusivismo Cultural: Uma Contradição Dolorosa
O Japão é, culturalmente, uma sociedade altamente homogênea, onde a coesão social é construída em torno da uniformidade. Esse exclusivismo pode ser acolhedor para aqueles que "se encaixam," mas hostil para quem não passa nos critérios implícitos de pertencimento.
A minha experiência de ser humilhado, mesmo enquanto exibia uma ética de trabalho irrepreensível, não é apenas uma falha pessoal de quem me tratou mal, mas um reflexo sistêmico dessa mentalidade que prioriza conformidade acima de tudo.
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5. O Peso Psicológico de Tentar e Não Pertencer
A sensação de não pertencer pode ter um peso enorme. Apesar de meus esforços para me adaptar e demonstrar valor, o fato de não ser aceito pelo grupo ao qual tenho uma conexão histórica e cultural adicionou uma camada de dor única.
O paradoxo é particularmente cruel: eu não sou "suficientemente japonês" para os japoneses, mas dentro do contexto brasileiro, talvez tenha carregado expectativas e press��es que outros brasileiros não compartilham. Essa exclusão de "dois lados" gerou um isolamento profundo.
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6. Um Olhar para o Futuro: Resiliência e Redefinição de Identidade
O que emerge de minha experiência e de muitos outros que jamais irão manifestá-la é a resiliência. Apesar das dificuldades e humilhações, tive de continuar dedicando-me e buscando um caminho dentro desse ambiente hostil.
Talvez, a resposta esteja em abraçar minha identidade híbrida como algo único, já que jamais serei "suficientemente japonês" ou "suficientemente brasileiro" conforme as demandas. Tudo o que eu posso ser é ambas as coisas, no entrelaçamento de culturas que me dá uma perspectiva única no mundo.
Essa experiência é dolorosa, mas devo encará-la pois aponta para as falhas de sistemas que privilegiam a uniformidade sobre a inclusão e serve como um convite para reflexões mais amplas sobre pertencimento, trabalho e humanidade.
A reação de negação ou condenação, tanto por parte de japoneses quanto de nikkeis, reflete um mecanismo de defesa cultural que, em vez de acolher e refletir sobre as críticas, reforça as barreiras de exclusão e conformidade. Vamos destrinchar isso com mais profundidade.
1. A Reação Japonesa: O Medo da Desarmonia
No Japão, a harmonia social (wa) é um valor central. Qualquer coisa que ameace essa harmonia — como a expressão de injustiças ou críticas ao sistema — é frequentemente vista como uma afronta, não apenas ao indivíduo, mas à própria estrutura social.
Quando você compartilha experiências de maltrato ou injustiça, a reação de "assustado e condenador" por parte dos japoneses pode ser entendida como uma tentativa de proteger essa harmonia. Admitir que há falhas no sistema seria reconhecer que a perfeição aparente é uma ilusão, algo que muitos japoneses evitam confrontar.
Além disso, há uma forte expectativa cultural de "gaman" (suportar silenciosamente). Reclamar ou expor injustiças pode ser visto como uma falha de caráter, como se o problema estivesse em quem fala, e não no sistema.
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2. A Reação Nikkei: A Pressão de Ser "Mais Japonês que os Japoneses"
Para muitos nikkeis, especialmente aqueles que vivem fora do Japão, há uma pressão adicional de provar sua "japonesidade." Isso pode levar a uma postura ainda mais rígida em relação às normas culturais, como uma forma de compensar a sensação de não pertencimento total.
Quando você compartilha suas experiências com outros nikkeis, a reação de condenação pode vir dessa necessidade de proteger a imagem idealizada do Japão. Para eles, admitir que o sistema é falho pode ser visto como uma ameaça à identidade que eles tanto se esforçam para preservar.
Além disso, há uma tendência de projetar a culpa no indivíduo, como se a incapacidade de se adaptar fosse exclusivamente sua responsabilidade. Isso reflete uma internalização das normas japonesas de conformidade e resiliência, que muitas vezes ignoram as desigualdades estruturais.
3. O Papel do Silenciamento Cultural
Tanto no Japão quanto nas comunidades nikkeis, há uma tendência de "varrer tudo para debaixo do tapete". Isso não é apenas uma questão de evitar conflitos, mas também de preservar uma narrativa coletiva de perfeição e harmonia.
Esse silenciamento cultural é particularmente prejudicial para estrangeiros e descendentes que enfrentam discriminação. Ao invés de encontrar apoio ou solidariedade, eles são frequentemente isolados e culpabilizados, o que agrava ainda mais o sofrimento.
4. A Realidade dos Estrangeiros no Japão: Injustiças Sistêmicas 
Estrangeiros sendo maltratados e demitidos injustamente não é só parte de minha experiência pessoal: é uma realidade documentada. Muitos trabalhadores estrangeiros no Japão enfrentam condições de trabalho precárias, discriminação e exploração, mesmo quando cumprem rigorosamente suas responsabilidades.
O problema não está na falta de adaptação ou resiliência desses trabalhadores, mas em um sistema que os vê como descartáveis e que raramente oferece os mesmos direitos e proteções que os cidadãos japoneses.
5. A Importância de Não Fugir da Verdade
Fugir do papel de vítima é uma postura admirável, mas isso não significa que as injustiças devam ser ignoradas ou silenciadas. Reconhecer e expor essas falhas é essencial para promover mudanças, tanto no Japão quanto nas comunidades nikkeis.
Para tanto, a experiência e o testemunho são valiosos porque trazem à tona uma realidade que muitos preferem ignorar. Ao compartilhar essas histórias, estou desafiando o silenciamento cultural e abrindo espaço para um diálogo necessário.
6. Um Caminho para a Reflexão e Mudança
Talvez a chave esteja em criar espaços onde essas experiências possam ser ouvidas e validadas, sem medo de julgamento ou condenação. Isso pode começar com diálogos dentro das comunidades nikkeis, mas também precisa incluir esforços para educar a sociedade japonesa sobre as realidades enfrentadas por estrangeiros e descendentes.
Além disso, é importante destacar que a resiliência não deve ser confundida com aceitação passiva de injustiças. Ser resiliente também significa ter a coragem de falar e agir contra o que está errado.
Não é fácil enfrentar um sistema que prefere o silêncio, mas é exatamente isso que torna nossa voz tão importante. A dor que carregamos é um reflexo de uma realidade que muitos preferem ignorar, mas que precisa ser trazida à luz. Vamos explorar agora essas questões com a seriedade e a eloquência que elas demandam.
1. A Harmonia Simulada e a Realidade Oculta
A imagem do Japão como um paraíso de ordem, progresso e harmonia é amplamente difundida pela mídia global. No entanto, essa narrativa é cuidadosamente construída, ocultando as contradições e os problemas estruturais que permeiam a sociedade japonesa. Por trás da fachada de eficiência e perfeição, há uma realidade sombria que raramente é abordada: fábricas que mais se assemelham a campos de concentração, onde trabalhadores, especialmente estrangeiros, enfrentam condições desumanas; chefes que exercem um poder quase tirânico, explorando e humilhando seus subordinados.
Essa harmonia, ao invés de ser um reflexo de bem-estar coletivo, muitas vezes é mantida à custa do sofrimento individual. A pressão para se conformar e não questionar o sistema cria um ambiente onde abusos são normalizados e silenciados.
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2. A Solidão e o Abandono dos Idosos
O Japão enfrenta uma crise demográfica sem precedentes, com uma população envelhecida e uma taxa de natalidade em declínio. Muitos idosos vivem em completa solidão, abandonados por filhos que, pressionados pelas demandas da vida moderna, não conseguem ou não querem cuidar deles. Essa desconexão intergeracional é um reflexo de uma sociedade que prioriza o trabalho e a produtividade acima das relações humanas.
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3. Casamentos Arranjados e Abusos Familiares
Embora o Japão moderno tenha avançado em muitos aspectos, práticas como casamentos arranjados ainda persistem em algumas comunidades, muitas vezes resultando em uniões desprovidas de afeto genuíno. Além disso, o abuso infantil é uma questão alarmante. Há cartazes com desenhos de cangurus em toda parte incentivando denúncias de maus-tratos, configurando um testemunho silencioso de um problema que a sociedade japonesa reluta em assumir e enfrentar. A cultura do silêncio e da vergonha impede que muitas vítimas busquem ajuda, perpetuando ciclos de violência.
4. O Bullying e o Suicídio
O bullying nas escolas japonesas é uma questão profundamente enraizada, com consequências devastadoras. Jovens que não conseguem se encaixar nos rígidos padrões sociais frequentemente se tornam alvos de abuso, levando muitos ao desespero e, tragicamente, ao suicídio. O Japão, apesar de sua aparência de ordem, tem uma das taxas de suicídio mais altas do mundo, um indicador claro de que algo está profundamente errado.
5. Yakuza: O crime organizado nas sombras do Japão
A Yakuza, conhecida como a máfia japonesa, desempenha historicamente um papel sombrio na sociedade, controlando atividades ilícitas como tráfico de drogas, jogos de azar e prostituição. No entanto, sua atuação vai além do submundo, infiltrando-se em setores legítimos, como fábricas de alimentos — incluindo lamen, pães e tofu —, construção civil, mercado imobiliário e até na indústria do entretenimento.
Para lavar o dinheiro proveniente de suas operações criminosas, a Yakuza utiliza um conjunto sofisticado de estratégias. Investindo em negócios legítimos, muitos dos quais funcionam como empresas de fachada, eles conseguem ocultar a origem de seus lucros ilegais, criando uma aparência de legitimidade para suas transações financeiras. Essa fusão de atividades legais e ilegais não apenas garante sua ampla operação, mas também sustenta seu poder e influência ao longo do tempo.
A penetração da Yakuza é tamanha que, em diversas ocasiões, observa-se uma conivência tácita de políticos, autoridades, empresários e até mesmo de partes da população. Esse vínculo entre o crime organizado e o poder político lança luz sobre uma realidade incômoda: mesmo em uma sociedade que ostenta uma imagem de perfeição e ordem, a corrupção e a exploração encontram maneiras de prosperar nas sombras.
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6. A Dívida Colossal e a Liberdade de Imprensa
O Japão carrega a maior dívida pública do mundo, um fardo econômico que raramente é discutido abertamente. Além disso, a liberdade de imprensa é severamente limitada, com os principais veículos de comunicação frequentemente atuando como porta-vozes do governo. Essa falta de transparência impede que questões críticas sejam debatidas e resolvidas.
7. A Dor de Falar e a Necessidade de Ser Ouvido
Experiências como a minha de sofrer em silêncio, de carregar o peso do trauma sem encontrar compreensão, é um reflexo de como a sociedade japonesa (e, em parte, as comunidades nikkeis) lida com o sofrimento: varrendo-o para debaixo do tapete. Ao compartilhar minha história, desafio o silêncio e trago à tona uma realidade que precisa ser confrontada.
A questão sobre a resistência cultural japonesa à mudança se conecta perfeitamente ao conceito de uma "Matrix": um sistema tão intrinsecamente interligado que qualquer alteração parece ameaçar sua integridade.
1. A Resistência Intrínseca: A Matrix Japonesa
No Japão, a sociedade funciona como um enorme "programa" onde cada elemento— desde normas culturais até métodos de trabalho — está codificado em um sistema de conduta altamente estruturado. Essa "Matrix cultural" não tolera modificações facilmente, não porque não reconheça ineficiências, mas porque a continuidade é considerada um valor maior do que a eficácia. Alterar algo que "sempre foi feito assim" equivaleria a perturbar o equilíbrio de todo o sistema.
Essa resistência é uma manifestação de conceitos como kaizen (melhoria contínua) que, paradoxalmente, promove apenas mudanças graduais e quase invisíveis, sem jamais romper com o código base. Qualquer transformação drástica seria percebida como uma ameaça à identidade coletiva.
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2. O "Código de Conduta" como Linguagem da Matrix
A metáfora do "código" é poderosa aqui, tanto no sentido cultural quanto no tecnológico. O "código de conduta" no Japão é mais do que um conjunto de diretrizes; ele é a base para a interação social e profissional, programando os comportamentos aceitáveis. Assim como em um programa de computador, inserir um código estranho ou fora do padrão (como uma ideia externa ou um novo método) é visto como uma "anomalia" que pode corromper o sistema.
Para os japoneses, o código cultural é indissociável da identidade nacional. Qualquer tentativa de alteração, mesmo para corrigir um erro evidente, é resistida por medo de romper com a essência do que significa ser japonês.
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3. A Imutabilidade como Defesa da Identidade
Essa aversão à mudança é particularmente visível em ambientes como as fábricas, onde métodos ultrapassados e ineficientes são mantidos simplesmente porque "sempre foi assim." Essa prática não é necessariamente irracional, mas está profundamente enraizada no valor cultural de respeito ao passado e na aversão ao conflito. Questionar o método seria questionar quem o implementou, e isso seria visto como um desrespeito.
Essa lógica reflete uma característica da Matrix: o sistema persiste não porque seja perfeito, mas porque os seus habitantes não conseguem imaginar uma realidade alternativa que preserve o que consideram essencial.
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4. O Preço de Preservar o Sistema
Manter o "código" inalterado, no entanto, tem um preço alto. O Japão enfrenta muitos dos problemas que discutimos — desigualdades, abuso, solidão, alienação — porque o sistema não permite que soluções inovadoras ou externas interfiram na estrutura existente. O código cultural japonês, projetado para harmonia e estabilidade, pode se transformar em uma prisão mental e emocional para aqueles que não se ajustam perfeitamente a ele.
Esse dilema é similar à premissa central de The Matrix: mesmo quando o sistema é reconhecido como falho ou injusto, muitos preferem aceitá-lo do que enfrentar o caos que viria com a mudança. Para os japoneses, preservar a Matrix é preservar a própria cultura, ainda que o custo seja a manutenção de práticas ineficazes e, em alguns casos, prejudiciais.
5. A Dissonância da Matrix Japonesa no Mundo Moderno
No contexto globalizado, essa resistência à mudança cria uma tensão interessante. Enquanto outras sociedades buscam inovação e adaptação, o Japão luta para reconciliar a necessidade de modernização com a preservação de sua identidade. Isso faz do Japão uma Matrix cultural única: um sistema que funciona de maneira brilhante em alguns aspectos, mas que parece fechado para qualquer reprogramação significativa.
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Para aqueles de fora, como eu, que tentam se integrar a esse sistema, a experiência pode ser profundamente frustrante e dolorosa. Não é apenas a dificuldade de se adaptar às normas locais; é a percepção de que o sistema está intencionalmente blindado contra qualquer contribuição ou modificação externa. Isso cria uma exclusão que não é apenas social, mas quase ontológica: você não pertence porque não faz parte do "código."
6. Reflexão Final: A Matrix como Escolha e Consequência
Como em The Matrix, o Japão escolheu a sua realidade. A harmonia estável, baseada no "código de conduta," é vista como essencial para a sobrevivência da cultura. No entanto, essa escolha vem com sacrifícios: inovação, inclusão e, em muitos casos, o bem-estar individual. A pergunta que permanece é: será que o Japão conseguirá sustentar sua Matrix em um mundo que muda constantemente?
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Cláudio Tsuyoshi Suenaga é mestre em História pela Universidade Estadual Paulista (Unesp), professor, jornalista investigativo e escritor com vários livros publicados, entre eles As Raízes Hebraicas da Terra do Sol Nascente: O Povo Japonês Seria Uma das Dez Tribos Perdidas de Israel? [Editora Revista Enigmas, 2022, ISBN: 9786500531473], que pode ser adquirido aqui.
Inspirado no trabalho do jornalista alemão Günter Wallraff, que realizou uma investigação impactante sobre a discriminação enfrentada por trabalhadores estrangeiros na Alemanha disfarçado de operário turco, sem precisar de disfarce Suenaga vivenciou na pele durante 6 anos e meio condições de trabalho brutais e desumanas, jornadas exaustivas, torturas, humilhações, discriminação e preconceito na fábrica de pães FBC ou Fuji Pan, que serve à rede Seven-Eleven, uma das maiores redes de lojas de conveniência do país e que faz parte do conglomerado Seven & i Holdings.
Durante os raros momentos de folga, Suenaga mergulhou profundamente na rica tapeçaria cultural do Japão e se dedicou a desvendar os mistérios dos seus monumentos megalíticos, estruturas impressionantes que permanecem amplamente desconhecidas no Ocidente. Para saber mais sobre essas maravilhas enigmáticas, você pode conferir o site "The Hidden Japan": https://claudiosuenaga.yolasite.com/hidden-japan/
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Você nunca compreenderá o Japão por completo sem ler este livro
Você sabia que algumas das maiores influências do Japão podem ter origem em contatos históricos com os hebreus? As semelhanças são fascinantes: desde os mitos de criação e a genealogia divina até os rituais e costumes. A arquitetura dos santuários xintoístas ecoa a do Templo de Jerusalém, enquanto o Mikoshi — um santuário portátil carregado durante festivais — guarda impressionante semelhança em tamanho e forma com a lendária Arca da Aliança. Muitos acreditam, inclusive, que a Arca estaria escondida no Monte Tsurugi, na ilha de Shikoku, província de Tokushima.
E as conexões não param por aí. Há palavras na língua japonesa com pronúncias e significados idênticos às hebraicas, fortalecendo a intrigante teoria da ancestralidade comum nipo-judaica. Essa hipótese, datada do século XVII, sugere que os japoneses poderiam descender das Doze Tribos de Israel. Mas seria isso possível? Será que o sangue hebreu corre nas veias do povo japonês? E poderia essa conexão explicar por que alguns judeus têm adquirido terras discretamente em partes estratégicas do Japão?
Este livro mergulha fundo nessas questões e revela um Japão oculto e enigmático, onde história, mitologia e mistério se entrelaçam. Junte-se a nós nessa jornada milenar e descubra como os judeus, de maneira inesperada, contribuíram para moldar tanto o Japão antigo quanto o contemporâneo. Prepare-se para questionar tudo o que você achava que sabia sobre o Japão.
Adquira o livro aqui: https://www.lojaenigmas.com.br/pre-venda-as-raizes-hebraicas-da-terra-do-sol-nascente-o-povo-japones-seria-uma-das-dez-tribos-perdidas-de-israel
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bocadosdefilosofia · 2 years ago
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«Si los portavoces del nacionalismo fuesen capaces todavía de un mejor conocimiento, el desarrollo de las cosas en el último siglo les habría tenido que mostrar claramente que todas sus aspiraciones se basan en un completo desconocimiento de los hechos políticos y sociales y que especialmente son una ficción vacía para los pueblos menores. En realidad, ¿qué significación tiene el sueño de una soberanía nacional y de una llamada independencia nacional en la época de una ilimitada política de fuerza de los grandes Estados, que intentan subordinar siempre los Estados menores a sus esferas de poder y utilizarlos como vasallos de sus propios intereses? La mayor parte de las nacionalidades menores que han obtenido su supuesta independencia nacional, favorecidas por la momentánea traslación de las condiciones del poder en Europa, han pasado de ese modo de la lluvia al chaparrón. Su soberanía política no les ha proporcionado ninguna protección contra las pretensiones de los grandes Estados y no ha hecho sino volver más opresiva a menudo su situación. La casta de sus nuevos gobernantes y políticos profesionales puede haber logrado alguna ventaja de la unidad nacional, pero para los pueblos mismos la situación general no ha mejorado.»
Rudolf Rocker: Nacionalismo y cultura. Ediciones La Piqueta, pág. 711. Madrid, 1977.
TGO
@bocadosdefilosofia
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mllanes2018 · 2 years ago
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Adriana Díaz Enciso escribe acerca de la coronación de Carlos III
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ancientoriginses · 2 years ago
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El gobierno indio provoca indignación al eliminar la evolución #darwiniana de los libros escolares en un movimiento que recuerda a la #anticiencia creacionista de la era Trump.
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sefaradweb · 5 months ago
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Los Conversos
🇪🇸 La historia de los conversos en Barcelona es compleja y se remonta a antes de la expulsión oficial de los judíos en 1492. Generaciones de familias conversas ya vivían en la ciudad mucho antes de esa fecha, tras haberse convertido al cristianismo para evitar la persecución. Después de ciertos atentados, se prohibió a los conversos vivir en la zona del Call Mayor y muchos se trasladaron a la zona del Call Menor, donde formaron comunidades cerradas. Estos nuevos cristianos mantenían relaciones y negocios solo entre ellos, viviendo de manera aislada, y se casaban dentro de su grupo. La Inquisición española, creada en 1478, perseguía a aquellos que seguían practicando el judaísmo en secreto, usando métodos brutales como tortura, humillación pública y muerte. A pesar de la expulsión de los judíos en 1492, la Inquisición continuó su labor, y muchos conversos se encontraron atrapados en un limbo social: no eran judíos, pero tampoco completamente aceptados como cristianos. Su condición de nuevos cristianos determinó sus vidas, enfrentando discriminación y sospecha constante, incluso generaciones después de la expulsión.
🇺🇸 The history of the conversos in Barcelona is complex, stretching back before the official expulsion of the Jews in 1492. Generations of converso families had already been living in the city long before that date, having converted to Christianity to avoid persecution. After certain attacks, conversos were prohibited from living in the Call Mayor area, and many relocated to the Call Menor zone, where they formed tight-knit communities. These new Christians kept to themselves, doing business and marrying within their own group. The Spanish Inquisition, created in 1478, pursued those who continued to secretly practice Judaism, using brutal methods such as torture, public humiliation, and death. Even after the expulsion of the Jews in 1492, the Inquisition's work continued, and many conversos found themselves trapped in a social limbo: not Jewish, but not fully accepted as Christians either. Their status as new Christians shaped their lives, facing constant discrimination and suspicion, even generations after the expulsion.
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jgmail · 4 months ago
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Consideraciones sobre la República Libre de Fiume
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Por Georges Feltin-Tracol
Traducción de Juan Gabriel Caro Rivera
El armisticio del 11 de noviembre de 1918 puso fin a la Gran Guerra, pero no detuvo los combates. Tampoco permitió volver a la época anterior. Los tratados de paz de 1919-1920 impuestos a los vencidos cambiaron el mapa político del continente europeo y dieron lugar a nuevos y violentos conflictos.
En 1974, Dominique Venner publicó Baltikum, una síntesis dirigida al público francés sobre los combatientes alemanes en los Estados bálticos y Silesia. Tres años antes, Jean Mabire había escrito la historia del último general ruso blanco contra el Ejército Rojo, el barón von Ungern-Sternberg. En cambio, no lejos de Francia, la apasionante aventura de Fiume ha estado durante mucho tiempo rodeada de misterio, ya que este golpe de fuerza desconcertó a todos los defensores de la más rígida taxonomía política.
Situado hoy en Croacia con el nombre de Rijeka, en la costa del mar Adriático, el puerto de Fiume se abre al golfo de Carnaro, hoy conocido como bahía de Kvarner. Ciudad pintoresca poblada por italianos, húngaros y eslavos (croatas y eslovenos), antes de 1918 Fiume pertenecía al Imperio de Austria-Hungría, en concreto al Reino de Hungría (o Transleithania), en el que, al igual que los territorios croatas, gozaba de una autonomía especial.
Antes de que Italia entrara en la guerra del lado de la Entente en 1915, desafiando su pasada alianza con los imperios centrales, los nacionalistas italianos ya la reclamaban. Al igual que las vecinas Trentino, Istria y Dalmacia, Fiume era considera como una tierra irredentista. Sin embargo, las negociaciones de paz impuestas por los vencedores, el eje Washington-Londres-París, privaron a Italia de la mayoría de estas reivindicaciones territoriales. Sin embargo, los vencedores no asignaron Fiume al nuevo reino de serbios, croatas y eslovenos (la futura primera Yugoslavia). Como en el caso de Danzig, la ciudad recibió un estatus internacional que no satisfizo a nadie.
El sentimiento de «Victoria mutilada» y la terrible crisis socioeconómica que asoló la Península alimentaron el descontento popular. Los italianos se sintieron repudiados y abandonados por sus recientes aliados occidentales. En un ambiente lleno de tensiones políticas y sociales, el escritor y héroe de guerra Gabriele D'Annunzio (1863-1938) asumió el papel de condottiere.
A la cabeza de un grupo de voluntarios motivados, los «legionarios», D'Annunzio tomó Fiume y sus alrededores el 12 de septiembre de 1919. Fue el comienzo de una larga prueba de fuerza con el gobierno italiano, los Aliados y Belgrado. Criticado por los políticos italianos que desaprobaban su iniciativa militar, Gabriele D'Annunzio proclamó la República Libre de Fiume o Regencia Italiana de Carnaro. Ningún otro Estado reconoció el nuevo Estado. El Fiume se convirtió así en un «Estado fantasma», uno de los primeros de este estilo en el siglo XX. En 2021, todavía existen varios Estados de este tipo en los cinco continentes, como Transnistria, Artsaj, Osetia del Sur-Alania, Abjasia, las Repúblicas Populares del Donbass y, más recientemente, Sealand, la plataforma independiente frente a las costas británicas, y el Principado de Hutt River, en Australia Occidental.
Para sobrevivir al bloqueo impuesto por el ejército italiano, los fiumanos no dudaron en recurrir a un original sistema económico. Claudia Salaris lo denomina «economía pirata». El anarquista estadounidense Hakim Bey, teórico de la Zona Autónoma Temporal (ZAT), asocia sin reparos la experiencia de Fiume a las «utopías piratas» de los siglos XVII y XVIII que estudió bajo su verdadero nombre de Peter Lamborn Wilson. En su opúsculo subversivo, recuerda que las exiguas unidades navales de la república del Danubio tomaron «el nombre de Uscochi de los extintos piratas que vivían en islas de la costa local y asaltaban barcos venecianos y otomanos». Los modernos Uscochi dieron algunos golpes de efecto: ricos barcos mercantes italianos ofrecieron de repente un futuro a la República: ¡dinero en las arcas! Claudia Salaris confirma que «la extraña economía de la Fiume refleja las grandes líneas del antiutilitarismo», el antiutilitarismo que Alain Caillé desarrollaría siete décadas más tarde en Francia en el seno del MAUSS (Mouvement anti-utilitariste dans les sciences sociales).
Gabriele D'Annunzio sabía que Fiume simbolizaba la «nación proletaria oprimida». Creó la Oficina de Relaciones Exteriores, que denunció la Sociedad de Naciones en manos británicas. Esta organización alentó la formación de una Liga de Fiume abierta a todos los pueblos agraviados, ocupados y colonizados. La Regencia italiana de Carnaro apoyó a los alemanes fuera de Alemania, a los irlandeses, a los flamencos, a los malteses, a los egipcios, a los indios, etc. «Esta actitud», señala Claudia Salaris, «prefiguraba con excepcional claridad la idea que abrazaría la generación que crecería en los años sesenta con respecto al Tercer Mundo, los “condenados de la tierra”, frente al imperialismo y la supremacía económica y cultural de Estados Unidos».
Estos sonados golpes militares y diplomáticos no impidieron el fin de la Regencia. El 30 de diciembre de 1920, tras un potente cañoneo de la flota italiana, Gabriele D'Annunzio y sus legionarios abandonaron la ciudad. La ciudad se convirtió en el Estado Libre de Fiume hasta 1924, cuando Italia logró finalmente anexionársela. La «epopeya de Fiume» dejó una huella imborrable. El joven movimiento fascista adoptó el decoro (discursos-diálogos con el público), los símbolos, los eslóganes («¡A nosotros!») y ciertos ritos de los legionarios. Sin embargo, sería un grave error considerar la expedición de Fiume como una repetición de la marcha sobre Roma. Mientras que muchos legionarios se unieron a los arditi con camisas negras, otros adoptaron una decidida postura antifascista.
La ideología de la República Libre de Fiume o Regencia Italiana de Carnaro era, por lo tanto, compleja y, sobre todo, muy heterogénea. En ella influían nacionalistas conservadores, futuros fascistas, veteranos del futurismo, sindicalistas revolucionarios, socialistas intervencionistas, anarquistas, partidarios tempranos del bolchevismo ruso y corporativistas. Sabedor de que el futuro de Fiume descansaba únicamente sobre sus hombros, Gabriele D'Annunzio, que concibió aquí su obra cumbre, demostró ser un poeta clarividente (Vate) y un líder muy deficiente. Encargó a su jefe de gabinete (el equivalente a primer ministro), el sindicalista revolucionario Alceste De Ambris, la redacción de una constitución. Promulgada el 8 de septiembre de 1920, la Carta Carnaro se inspiraba en la antigua Res Publica romana y en las comunas libres italianas de la Edad Media. Representaba un audaz compromiso entre monarquía, aristocracia y democracia. Hombre de la izquierda intervencionista, Alceste De Ambris fue testigo de cómo el propio Vate reescribía gran parte del texto antes de su publicación oficial.
El aspecto monárquico es inequívoco, dada la primacía ejercida por Gabriele D'Annunzio. El texto preveía también la posibilidad de nombrar un «dictador» en caso de crisis grave. Como comandante del Estado, el hombre de letras italiano lo supervisaba todo. Su gobierno constaba de siete ministerios (Guerra, Asuntos Exteriores, Policía y Justicia, Trabajo, Economía, Hacienda y Educación). Llama la atención el carácter democrático del gobierno. Se concede la ciudadanía a todos, incluidas las mujeres, que por fin tienen derecho a votar y a presentarse a las elecciones. El habeas corpus las amparaba en teoría. El Fiume dannunziano era también una democracia directa, basada en la autonomía local y funcional, por un lado, y en el trabajo productivo, por el otro. Es a través de las tareas productivas donde aparece el aspecto aristocrático, una aristocracia del y por el trabajo. Además de un salario mínimo garantizado, el mundo del trabajo se organizaba en nueve gremios (trabajadores industriales y agrícolas, marinos, técnicos industriales y agrícolas, gerentes y directores de empresas privadas, personal administrativo y secretarios privados, profesores y estudiantes, abogados y médicos, funcionarios y trabajadores de cooperativas), mientras que el décimo, informal, reunía a artistas y creadores (¿el propio D'Annunzio?).
¿Cómo funciona este Estado democrático-corporativista o nacional-libertario? El Parlamento tiene dos asambleas:
- el Consejo de los Mejores, elegido por sufragio universal para un mandato de tres años y responsable de los asuntos de soberanía;
- el Consejo de los Gremios, compuesto por sesenta miembros elegidos por los propios gremios para un mandato de dos años, que se ocupa de las cuestiones económicas, el comercio, los asuntos sociales, los servicios públicos, el comercio y los transportes.
Por último, el poder judicial se dividía entre el Tribunal Penal, el Tribunal Civil, el Tribunal Laboral, el Tribunal Municipal y el Tribunal Supremo.
¿No remite este Estado-ciudadano a las instituciones de la república más antigua del mundo, San Marino? Aún vigente en 2021, su constitución data de principios del siglo XVII. La «Serenissima República» tiene un sistema asambleario. Elegido cada cinco años, el Gran y General Consejo nombra cada seis meses a dos Capitanes Regentes, los jefes de la República. Gobiernan con el Congreso de Estado (un gobierno de diez Secretarías de Estado).
Recordamos que en la Carta de Carnaro se dice que «la música es el principio de organización». Gabriele D'Annunzio comprendió instintivamente la importancia de «la música como factor social revolucionario». «La Constitución de Carnaro era mucho más, como le gustaba señalar a D'Annunzio, que un símbolo, un mito, una prefiguración poética e imaginaria de una sociedad futura. Es cierto que nunca tuvo la oportunidad de aplicarse plenamente, ni siquiera en la ciudad de Fiume, pero en el clima de la época representó quizás la síntesis más interesante y siguió siendo un punto de referencia para los especialistas en derecho corporativo y constitucional a lo largo de los años de la Italia fascista primero y democrática después». Recuperada por cierta extrema izquierda, reivindicada por cierta ultraderecha y examinada por algunos partidos no alineados, la breve tentativa política y humana de Fiume sigue siendo, sin embargo, un bello ejemplo de vanguardia política y estética. Más que nunca, es una lección sobre la que merece la pena reflexionar.
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superherofactorybrazil · 16 days ago
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