#酒婦のひとり飲み
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安倍晋三「あの件さえなければ、今ごろ昭ちゃん(中川昭一氏)が自民党総裁だった」
12年前、こんな記事を書きました。いま振り返っても、思い出は尽きません。小泉政権ができて間もなくだったか、超党派の保守系議員の非公式会合が憲政記念会館であると聞きつけ、現場で中川さんに「どうも」と挨拶した際、
「なんであんたがいるんだ?…まあ、いいか。あんたは記者じゃないし」
と冗談で答えられたことやあれこれ、これほど印象、心に刻まれる政治家はめったにいません。酒好きなのはつとに知られていますが、禁酒を決めると、2時間半にわたって目の前で私と同僚がビールを飲み続けても、一切飲もうとせず、こちらの言葉からヒントを得ようとメモを続けていました。惜しい人をなくしたという言葉が、これほどぴったりくる人はいません。
中川昭一氏死去 保守伸長、シャイな推進役
【評伝】 シャイな人だった。何より、繊細な人だった。衆院当選8回、農水相、経済産業相、財務相、自民党政調会長…と要職を歴任した大物政治家であるにもかかわらず、はにかんだ笑顔のよく似合う、子供のような純真さを持ち合わせていた。 「おれは子供には『おれがいつか襲われて殺されても驚くな』と言い聞かせてあるんだ」 中川昭一氏は拉致議連会長を務めていた当時、政治家としてのこんな覚悟を語っていた。だが、死はもっと皮肉な回り合わせであっけなく訪れた。56歳という若すぎる最期には、ただ言葉を失うしかない。 「あの件さえなければ、今ごろ昭ちゃん(昭一氏)が自民党総裁だった」 盟友の安倍晋三元首相は故人を悼む。「あの件」とは中川氏が財務・金融相時代の今年2月、先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)後の記者会見で「酩酊(めいてい)」したかのような姿を見せて、引責辞任したことを指す。 この一度の失敗で、中川氏が長年積み上げてきた実績も名声もはかなく吹き飛んでしまった。先の衆院選で落選し、議席も失った。 確かに中川氏は酒席で、ときにはめを外し深酒することもあった。それも、強すぎる感受性をまひさせたかったからだろうと思う。素顔は、少し人見知りのまじめな勉強家だった。 平成9年、中学歴史教科書のすべてに慰安婦記述が載ったのをきっかけに、安倍氏らと自民党「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」を結成した。左派イデオロギー色満載だった教科書が是正されていく第一歩だった。 14年には超党派の拉致議連会長に就任したほか、永住外国人への地方参政権付与や民間の言論抑圧につながる人権擁護法案に反対した。一方、靖国神社参拝を推進するなど、常に保守系議員活動の前面に立った。 今や保守系の諸運動は衰退期にあるようなありさまだ。その中で忘れられるか過小評価されているが、10年代の保守勢力の勃興(ぼっこう)と伸長は、中川氏が安倍氏らとともに推進役を担ったのは間違いない。 一方で、現実を見据えたリアリストでもあった。20年6月、日中両国が東シナ海のガス田共同開発で合意した際には、表向き「日本のものを向こうにあげて資本参加するのでは互恵にならない」と厳しいコメントを発表した。だが、その裏では担当外交官らを集め「よくここまでこぎ着けたな」と慰労もしていた。 対中強硬派と目されてきた自分が、仮に交渉結果を評価しても、甘い顔を見せると中国側に「日本側では、あの中川氏まで喜んでいる」というメッセージが伝わる。それは今後の交渉、駆け引きのハードルを上げ、足を引っ張ることと理解していたからだ。 対中姿勢では、こんなことも語っていた。 「中国批判はたやすいが、むしろ『誠意を持って話せば分かる』と言うばかりで行動しない日本側の方が問題だ。私が中国の政治家なら、やはり今の中国のようなやり方をする」 本当に惜しい人が亡くなった。せめて自民党の中では、中川氏の志が受け継がれていくことを願ってやまない。(阿比留瑠比)
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これらの反応はこのまま放ってはおけないと思わせることで、傍らにいる妻からなんらかのケアを引き出そうとしているのだ。彼らにとってのケアは「大丈夫?」と語りかけやさしく介護されることだけではない。自分の言葉で妻が動揺すること、「死なないで!」と叫ぶこと、「もうこれ以上お酒を飲まないで」と叫ぶこと、すべてがケアなのである。そのケアは「妻に見捨てられたら自分は生きていけない」という究極の依存を満たすためには不可欠なのである。
アルコール依存症はアルコールへの依存なのではないか、と思われるかもしれない。確かに彼らは「酒さえあれば妻なんかいらない」と日常的に放言している。しかし大草原のパオの中でひとりで酒を飲めれば天国かといえばそうでもないのだ。自分の飲酒によって影響を受けてくれるひとがいること、自己破壊の淵まで追い詰められそうになったときそこから引き戻してくれるひとがいることで、彼らは「安心」してアルコールに依存するのだ。そのひととは言うまでもなく彼らにとってもっとも親密でもっとも重要なひとのことである。
(中略)
「お願いだから僕を捨てないで」というシンプルなフレーズを彼らは口にすることはない。いっぽう「ケアを与えろ」とストレートに強制するわけでもない。死ぬかもしれないこんな自分を放置しておくのか、という脅しをたくみに利用して、結果的には依存を実現するのである。夫を放置することが妻にとって決定的ダメージになることを熟知しているからこそ、可能になる脅しなのだ。妻の経済力のなさ、性別役割分業観がダメージの背景になっている。このような言動を見るにつけ、彼らが「妻なら当然」という「ドミナント=支配的」な夫婦観やジェンダー観をもっていることを痛感させられる。
——信田さよ子『苦しいけれど、離れられない 共依存・からめとる愛』(2009、朝日新聞出版)
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2025年になりました。
あけましておめでとう。
大晦日から三が日までしっかりと、
このタイミングでの帰省は、社会人になってから初。
大晦日は祖母と叔母と、新しくできた従姉妹、
そして父母と過ごす。
5年ぶりに会う友人とその旦那さんと元旦を過ごし、
あとは親戚との会食、幼馴染とのお茶が控える。
こんなにも故郷を堪能することはない。
都会で、仕事をして忙しさに追われて、
前に進んでいるようで、必死なようで、
たぶんいろんなことから目も背けている。
今日ひさしぶりにこの場に来たのは、
こんなにも幸せな環境で、眠れないから。
いつもの癖の、考えすぎ、ではあるけど
なんかいつもとちょっとちがう。
地元の友達のSNSはまったくみないから、
たくさんの人が結婚して、子供がいることを知った。
とても幸せそうな仲睦まじい友人夫婦をみた。
父から、幼少期ぶりの、
形ある誕生日プレゼントを貰った。
砂時計の形をした加湿器。
なんでこれにしたの、と聞くと、冬だから、と。
何を考えながら買ったんだろう。
何を考えながらわたしに連絡をしたんだろう。
母は友人と���愛犬と、日々を謳歌しているようだけど
父はほとんど家には帰っていないようで、
日々を楽しく過ごせているのだろうか。
変わっていく家族の関わり。
わたしが上京するタイミングで交代のように
うちにやってきた三女わんこ。
とても甘え上手で無邪気。帰省してからは
毎日同じ布団でくっついて寝ている。
体温と柔らかさと、匂い。幸せ。
7か月ぶりに会った次女わんこは、数ヶ月前に
腎臓の病気がみつかって薬を飲んでいる。
ひさしぶりにみたその身体は、とても小さかった。
まったく元気がないわけでもないけど、
とにかく小さいし、ずっと震えている。
とても不器用な子だから、甘えるのも苦手で、
幸せだと思えているだろうか。
何をしていても心配になる。
ひさしぶりに甘えてくれていると聞いて、
たくさんたくさん撫でてずっと一緒にいる。
でも、いつ会えなくなるかわからない。
ふと思い出す、長女わんこの、苦しむ姿。
頭から焼きついて離れない。
懸命に生きて、懸命に伝えてくれた姿。
一緒に過ごしていた、変わらない日常。
学生時代の思い出話さえ、かなり朧げになっていて
写真に残っていないことは覚えていないことも多い。
自分でもびっくりするくらい、忘れていくもので
東京にいるときは、まったく思い出さないことばかり
毎日、目の前のことに必死で、でも何もできていない
気もして、せまい視野せまい世界で暮らす。
お酒を飲んだくれたり、誰かと会ったりすることで
すこしのものを得たり、でも逃げていたりする。
いつものつらさとは、違うつらさがあった。
ああ、わたしは普段、これを見ないように、
知らないふりをして、生きているんだなと思った。
人の無関心さが好きだ、と、東京に住む理由を
普段は述べるけど、
わたしにとって、たぶん此処は、
幸せが眩しくて、辛くて、そして苦しすぎる。
ふだんこんなに長くいることはないし、
帰省しても、祖母と家族としか会わないから
この四日間は長すぎる。わたしには。
ちゃんと、噛み締めて、後悔ないように。
此処にいる間は、ちゃんと。逃げないように。
眠れないなら眠らなくてもいい。
ゆっくりしよう。
おやすみなさい。
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(第二部)
満月の日、寂しさがピークに達して、どうしようか悩みつつ、普段地味な姿をできるだけ派手に化粧して、長い髪をまとめてアップにして、体のラインがしっかり出るタイトなワンピースを纏って、下着を身につけずに、好きな人とよく歩いた街に出かけた。この衣装もプレゼントされたものだった。見知らぬ危険な地域とは違って、安心感があって、スリルはなかった。
しかし、胸に痛みを覚えながら、路地から路地へと渡り歩く。それはただ思い出になった場所を感傷に浸って歩いているに過ぎず、いつものようなひりついた感覚は味わえなかった。いつものようにシェリー酒を飲んだが、ちっとも酔えなくて、頭は冴えていて、清らかに感じていた思い出ばかりが頭を駆け巡っていく。
場所を変えて、同じ街の繁華街のバーで強めのカクテルを浴びるようにたくさん飲んで、裏通りのビルの谷間に倒れ込んだ。どのぐらい倒れ込んでいただろう。東の空から顔を出した満月が、高く昇ってビルの間の雲の切れ間から顔を覗かしていた。優しい声で私を抱き上げて、お姫様抱っこでどこかに連れて行こうとする。
聴き慣れた声。どこかで聴いたことのある声だった。しかも私の名前を呼ぶ。身分証明になるものは何も身につけてないはずなのにと薄目を明けると、結婚を反故にした元恋人だった。
私は気づかないふりをして、元恋人の行動を見守る事にした。連れていかれた場所は、ネオンサインの通りにある、けばけばしいホテル。受付を済ませ部屋に入って、ぽんと放り投げるようにベッドに寝かされた私は、もうすっかり酔いも醒めて、元恋人が自分をどんな風に扱うのか様子を伺っていた。
頬を軽く叩かれて、名前を呼ばれる。懐かしくて涙が出そうになったが、こいつは私を捨てて、他の人と結婚しているはずだった。唇をこじ開けるように、舌を絡めながらディープキスをしてきた。
「こいつノーブラだよ」
と言ったかと思うと、服の上からでも的確に乳首のありかを探し出し、乱暴に愛撫してきた。
そういつもそう���私はこの人に乱暴に体をこじ開けられて、欲望を満たすだけの女だったのだ。私は急に腹立たしくなって、
「あなたは結婚したのでしょう?お酒につぶれた女を介抱するふりをして抱くの!!!」
大声で喚き散らしながら、こいつの股間を思い切り蹴り上げた。こいつは茫然として弁解じみたことを言おうとしたが、痛みで口をパクパクとしているだけだった。私は涙を流しながら、怒りが頂点に達して、もんどりうってベッドのわきに倒れ込んでいるこいつを、何度も何度も足で踏みつけて、早々と部屋を飛び打した。
勢いよく飛び出して、アスファルトに引っかけて、高いピンヒールが折れて、歩けなくなったので、途中で脱ぎ捨てて、裸足で帰った。あいつが乱暴に唇をこじあけて、乳首にかすかに残る愛撫の感覚はあったが、これですべてを吹っ切ったような気がした。
これまで何人かの見知らぬ男性に乱暴されて、心も体もぐしゃぐしゃでばらばらになりそうだったが、何の偶然か必然か、のこのことと現れて、酩酊状態になった私を当然のように抱こうとしたこいつからやっと心が解放されて、離れられそうな気がした。
自宅に戻り、いつものように鏡に映った自分を覗き込んだ。やっと笑顔になれた気がした。不潔なのは私ではなくて、こいつであって、私はちっとも穢れてなんてない。服を脱ぎ捨てて、身体に刻みつけられた痣やキスマークの痕すらも、乗り越えるために越えなければならなかった試練だった気がした。
翌日、産婦人科に行って、丁寧に体を見てもらった。不幸中の幸いで、大きな裂傷があるだけで、他の心配事は何もなかった。
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妻を殺害した疑いがかけられている元長野県議会議員の丸山大輔被告(50)の初公判が10月16日に行われた。裁判の冒頭、丸山被告は「妻を殺害したのは私ではありません」と容疑を否認し、妻の実家への借金などを理由に殺害したという検察の主張と真っ向から対立している。 真相究明の一助となるため、丸山被告の人柄や経歴、夫婦関係について追った当時の記事を再公開する。(初出:「週刊文春」2022年12月15日号。年齢、肩書等は当時のまま) ◇◇◇ 「地元のために汗を流します。貢献したいんです」 2022年10月22日、長野県塩尻市の会館には300人を超える後援者が一堂に会していた。この日行われたのは、来年の統一地方選の決起集会。地元選出の後藤茂之経済再生担当相や百瀬敬塩尻市長が控える中、自民党の丸山大輔長野県議(48)はマイクを握り、飄々とした表情で挨拶をした。 だが、約1カ月後の11月28日、丸山は妻・希美さん(享年47)に対する殺人容疑で逮捕されたのだ。 「昨年9月29日の未明から早朝にかけ、塩尻市の自宅兼事務所で希美さんを窒息死させた疑いが持たれている。希美さんの首には絞められた跡や抵抗した際に付いたと見られるすり傷があり、喉の骨の一部が折れていた」(社会部記者) 事件前日の晩、丸山は同僚議員と飲食し、「その後は長野市の議員会館にいた」と全面否認を続けている。 県議の傍ら、約140年続く酒造会社「笑亀(しょうき)酒造」の四代目当主を兼務していた丸山だが、自らが杜氏となって世に出した酒は「深みがなく、まるで水のように軽かった」(同業他社)と酷評されている。周辺取材で浮かび上がったのは、まさに「笑亀」のような半生だった――。 地元の名門校から一浪して慶応大へ 1974年、丸山は塩尻市内で2人きょうだいの長男として生まれた。中学時代の同級生が振り返る。 「中学時代は吹奏楽でチューバを演奏していた。言われたことをちゃんとこなすタイプで、リーダーシップをとる感じではなかった」 中学卒業後、丸山は地元一の名門校である県立松本深志高校に進学。 「D(丸山のあだ名)はチャラくて陽気な男で、高2の頃には美人の同級生と付き合っていた」(高校の同級生) 「あの同窓生と1回だけヤッた」 一浪を経て、慶応大学経済学部に合格。すると、次第に“欲望の刃”を周囲に向けるようになる。 松本市内の宴会場で催された高校の同窓会に参加した丸山は、勢い良く酒を呷ると、同級生の女性に“性的サービス”を要求。その場には白けた空気が漂った。 「彼は友人に『あの同窓生と1回だけヤッた』と吹聴するなど、異性関係をひけらかすようになっていきました。当時、父親が東京の信濃町にマンションを持っており、そこで1人暮らしをしていましたね」(友人) 大学卒業後、丸山は公認会計士を目指す。ところが、2002年に父が事務所内で倒れ、急逝。丸山は27歳で家業を継ぐことを決意し、帰郷する。杜氏の修業を積む一方、塩尻青年会議所に積極的に出入りし、理事長を務めた。 「父親の死後、昔からの杜氏が辞めてしまった。丸山は杜氏の真似事をして奮闘していたが、所詮は素人。濁ってるし、腐ってるしで飲めたもんじゃなく、得意先の飲食店はどぶに流して捨てていたほど」(後援者) 教育熱心だった希美さん そんな苦境を陰で支えたのが、糟糠の妻だった。 1974年、希美さんは400年以上続く木曽漆器で知られる町に生まれた。実家は約100店舗ある木曽漆器店のうち3本の指に入る名店。都内の大学を卒業した彼女は一時、実家で経理業務を担当していたという。 「希美さんと丸山は青年会議所を通じて知り合い、意気投合。結婚後に2人の子宝に恵まれた。長男が産まれたとき、旦那さんは酒蔵にちなんだ名前をつけて、『この名前、どうですかね』と嬉しそうに話していました」(希美さんの知人) 一方、琴を嗜む希美さんは長男にピアノやサッカーを習わせ、教育熱心な母の顔を周囲に見せていた。 「酒屋では食えない」と政治の道へ だが、家業は茨の道が続いた。夫婦の奮闘虚しく酒造りは軌道に乗らず、丸山は「酒屋では食えない」と周囲に吐露。別の道を模索して地元企業グループの御曹司だった高校の同級生に相談したところ、政治への道が拓けたのだ。 当時の市長の全面支援を得た丸山は、2015年の統一地方選でトップ当選。晴れて県議としての人生をスタートさせた。ところが――。 松本城を望むホテルに約60人のメンバーが集まったのは、2018年1月のこと。同窓会が催されたその日、会場を見渡した丸山は「今日は随分少ないじゃねえか」と悪態をついた。学校関係者が振り返る。 「丸山は自分が話したい女性と話すために『どけ!』という態度で周りの同級生を恫喝し、割って入ったりしていた。泥酔し、終始ぞんざいな態度でしたね」 表に出始めた“卑猥”な性癖 地元有力者に担がれているという慢心と共に表に出始めたのが“卑猥”な性癖だった。2020年1月15日深夜、丸山の姿は塩尻市内のバーにあった。ウルフルズの曲「ええねん」がかかると、おもむろにマイクを握り、替え歌を披露する。 「ちんこ出したらええねん~♪」 同店関係者が明かす。 「その日は青年会議所OBの飲み会でした。近藤真彦の『ギンギラギンにさりげなく』の替え歌で『ギンギラギンで縦振りだぁ!』と叫び、連れてきた30代の女性をカウンターの前に立たせ、ひたすら股間をすり当てていました。常連のフィリピンパブで下半身を露出し、“ちんちん踊り”をする様も頻繁に目撃されていましたね」 そんな丸山が、密かに熱い視線を送る女性がいた。 長野県庁議会棟2階にある自民党県議団。会派室の職員として20年にわたり仕事をこなしてきた地元出身のA子さん(41)だ。 「2人は不倫している」と囁かれるように 彼女を知る県議会議員が仕事ぶりを評する。 「県議団が雇っている職員で、字が上手いもんだから重宝されていた。御礼状など『一筆書いて』と頼むと、きちんと仕上げてくれる。議員の体調を心配するなど気遣いもできる子で、年配の女性が多い中、自民県議のアイドル的な存在です」 5、6年前に離婚し、今は独り身のA子さんに、丸山は急接近していく。 「半年ほど前から複数の県庁職員が長野市内でディナーをする2人の姿を目撃するようになり、『2人は不倫している』とまことしやかに囁かれるようになった」(県庁関係者) 妻の実家に多額の資金援助を… 他方、丸山は酒造会社の経営を巡り、妻と意見が対立するようになっていく。 「経営難に喘いだ末、希美さんの実家に助けを求め、多額の資金援助をしてもらったのです。“担保”として12年2月、会社の建物のうち1棟を希美さんに贈与。一帯の物件には1億円の根抵当権も付けられています」(漆器店関係者) 丸山が希美さんを連れ、行きつけの寿司店に顔を出したのは昨年夏のこと。座敷で出迎えたのは、10人前後の後援会関係者だった。 「支援者が『奥さんにも食わせてあげてほしい』と言って2人を招いたんです。帰り際には支援者の畑でとれた野菜を渡されていました。彼女は3歩下がって付いていく人。それが最後に見た姿だった」(店主) それから約1カ月後、酒に酔った丸山は自家用車のハンドルを握り、議員宿舎から自宅へと向かった――。 県警は“重要参考人”として、A子さんを複数回にわたり聴取している。 「A子さんの存在を巡り、夫婦関係が悪化したことが殺害動機の1つになっていると見て、裏付け捜査が進んでいる」(前出・社会部記者) 希美さんの遺体の第一発見者は、当時小学1年生の次男だった。両親を失った2人の息子は、東京に住む希美さんの親族宅に預けられているという。
〈初公判で無罪主張〉妻の実家に借金も…妻殺害で起訴の丸山大輔元県議(50) 長野県警が聴取していた不倫相手は“自民党のアイドル”だった(文春オンライン) - Yahoo!ニュース
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「ヘリ・コプター」じゃなくて「ヘリコ・プター」なの!?意外なところで区切る言葉30選 - Peachy - ライブドアニュース
・「ヘリ・コプター」じゃなくて「ヘリコ・プター」なの!?意外なところで区切る言葉30選|ウォーカープラス
以下一部引用
ヘリコ・プター
“ヘリ”と略され、ドラえもんのひみつ道具でも「タケコプター」があったりするので、「ヘリ・コプター」と捉えている方も多いのではないでしょうか。語源はギリシア語の“helix or helic(螺旋)”と“pteron(翼)”で、これらが組み合わされた造語が元になっています。
カ・メハメハ
ドラゴンボールの必殺技である「かめはめ波」のイメージから最後のハで区切れると思い込んでいないでしょうか。ハワイ語の“ka”は、英語の“the”にあたる表現で、“メハメハ”は「孤独な」という意味の言葉です。つまり「孤独な人」という意味になります。カメハメハ大王なのにちょっと寂しい意味ですね。
キリマ・ンジャロ
アフリカ大陸の最高峰の山ですが、まさかンの前で区切れるなんて思いませんよね。スワヒリ語で“キリマ”は「山」、“ンジャロ”は「輝く」という意味になり、「(白く)輝く山」というのが語源の通説ですが、はっきりしたことはわかっていません。しかし、アフリカでは珍しい積雪する山なので白く輝いているのは間違いありません。
プリマ・ドンナ
イタリア語で“Prima donna”は、オペラの主役となる女性歌手を意味します。「マドンナ」という言葉が知られているのでこちらもプリで区切れると思ったら少し違います。そもそもマドンナは“ma donna”であり“ma”が「私の」、“donna”が「淑女・婦人」という意味です。一方、“prima”は「第一の」という意味です。
ア・カペラ
楽器の伴奏なしに歌う合唱様式のことです。そもそも区切れを意識しない言葉かもしれませんが、アカベラはそもそもイタリア語です。イタリア語で書くと“a cappella”。“a”は場所を示す前置詞で、“cappella”は礼拝堂を意味します。英語の“chapel”の元でもあります。
クー・デター
クーデターはフランス語で「国家への一撃」と無駄にカッコいい意味を持ちます。フランス語で書くと“coup d'état”であり、“coup”は打撃、“d'état”は「国家への」を意味します。英語では「クー」と略して言ったりするようです。
コ・エンザイム
日本語で「補酵素」を意味します。よく栄養補助食品として販売されていますが、なんとなく「コエン・ザイム」と区切ってはいないでしょうか。英単語にするとわかりやすいのですが、“coenzyme”は“co-“が「補」を意味し、“enzyme”が「酵素」を意味しています。
コレ・ステロール
ギリシア語の “chole-(胆汁)”と “stereos(固体)”からコレステリン (cholesterin)と命名されたのが語源とされています。悪いイメージを持たれがちですが、生きていく上で大事な栄養素の1つです。ただ悪玉コレステロールの摂り過ぎは注意したいですね。
トリ・ケラトプス
トリケラトプスは3本角が特徴的な中生代後期白亜紀の恐竜です。古代ギリシャ語で「トリ」が3、「ケラトプス」が角を持った顔といった意味。つまり、3本のツノを持った顔というのが語源となっています。
スリ・ジャヤワルダナ・プラ・コッテ
スリジャヤワルダナプラコッテはスリランカの首都です。「コッテ」が元々の街の名前でしたが、1985年に遷都を行った第2代大統領ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナの名前にちなんで改名されました。「スリ」が「聖なる」、「ジャヤワルダナ」が「勝利をもたらす」、「プラ」が「都市」を意味しています。
張本・人
事件を起こす元になった人を指す言葉ですが、「張本」は古くは“チョウボン”と言い、伏線を表す言葉でした。日本では、伏線から「あらかじめ用意する」となり、さらに悪事の元という意味に変わっていきました。そこにさらに「人」がつき、日本独自の言葉になりました。
登・竜門
立身出世のための難しい関門を指す言葉ですが、「竜門」とは中国の黄河上流にある急流の難所のことです。ここを登った鯉は竜になるという言い伝えに由来する言葉です。
無・礼講
地位や役職を気にせず礼儀を抜きにした宴会のことで、「今日は無礼講だからじゃんじゃん飲め!」のような使われ方をします。「礼講」とは神事で神に供えられたお酒を参列者が身分の高い人から順番にいただくこと。それが無いので、礼儀作法や堅苦しいことを抜きにするという意味になりました。
五里霧・中
すっかり迷ってどうしていいかわからない状態を意味する四字熟語です。「五里霧」とは五里四方に立ちこめる霧のことで、その霧の中で方角を失うことから現在の意味で使われるようになりました。
間・髪を入れずすぐにという意味で、「間不容髪」という言葉から来た成句です。間に髪の毛一本を入れるすき間もないということから来ています。ちなみに正しい読み方は「かんはつをいれず」です。
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くちなしの花!2「クレーマー!」
葬儀場を離れてしばらくもやもやしていた泰蔵はちょっと時間オーバーしてしまったが、昼の休憩に入る事にした。だいぶ離れた所まできて近くにちょうど良い定食屋がないかと探していると、開店祝いとおおきな垂れ幕がかかった大きな建物がみえてきた。こんな所でオープンしたのか! 今は一人暮らし、節約がてら、適当に路肩にタクシーを止めどんよりと灰色に変色してきた空の下、泰蔵はその大型スーパーの店の中に入っていった。
結構、品ぞろえも良い感じで、冷房がしっかりきいた店内を歩いていろいろと眺めていたが、今は勤務中あんまり沢山の品は買えないと思い、とりあえず惣菜屋目指して探していたら、お酒コーナーの前に大量にかごに入っているビール缶を見つけた。只今開店祝い当店一押し半額セールと書かれている張り紙に足が止まる!
仕事がら、しばらく大好きなお酒類は我慢していたが、つい当店の目玉商品というシールの誘惑に負けてしまい、気づいたら大量のビールを買い物かごいっぱいに放り込んでいた!
泰蔵「さすがに買いすぎか!まあ、同僚の社員たちにも配ればいいか!普段接点もあまりないが、この顔のせいか変な誤解イメージ抱かれている空気を感じるのもあまり気持ちの良いもんじゃねえしな!(-_-メ)」
気難しく、一匹狼的な存在の風貌のせいか、しばし泰蔵は裏社会側の人間じゃないかと勘違いされる事があった。度々、乗客からも拒否される事もあって、そのせいであまり泰蔵だけ売上が伸びない状態も続いたりしているが、きちんと毎月、最低賃金だけは払ってもらっているので文句は言えない!というか、社長たちにも、若干恐れられている感じがして幸い、これまで、売り上げの事で文句を会社から言われた事もほとんどなかった。 泰蔵は、そのあと適当に割引のついたつまみの袋を数種類と、惣菜屋の手軽なおにぎりで節約しようとかごに詰め込むとレジに並ぼうとした。が、予想外にレジには人だかりにあふれていて、すぐに会計が出来る状態ではなかった! それに、土曜日か並んでいる間もにぎやかにしている親子連れも多かった!
気が短い泰蔵も普段ならすぐに��っぽりだす状況なのだろうけど、やはり、大好きなビールには勝てなかったのか、しぶしぶ待つことにした。なかなか列は進まず、そしてようやく、昼休憩から戻ってきたのかお助けのパートの女性らしき人が、水色の涼しいかっこのパート服で小走りに、臨時のサービスカウンターを解放して、客足が進むようになった。
だが、この時になると、だいぶ短気のしびれをきらしていた泰蔵は一言文句を言わなきゃ気が済まなかったのか、自分の番がくるやいなや、足押しで重く引きずってきたビールの詰められたかごをドンとカウンターに乗せると女性店員に大声でがなりちらした!
泰蔵「遅っせえなあ~、どんだけ待たせるんだ!足が棒になるだろ!ったく!(# ゚Д゚)」
女性店員「大変ながらくお待たせいたしました!こちらで承ります!<(_ _)>」
泰蔵「休憩時間なくなるだろ、早くしろたわけ!(# ゚Д゚)」
女性定員、ちょっとあたふたして・・・!
女性店員「すみません、お客様ふたたび申し訳ないのですが、こちらの商品は昼1時までのタイムサービスでして・・・!今からだと、すべて定価通りになりますけどよろしいでしょうか!?」
泰蔵、半ギレ状態で・・・!
泰蔵「ああん?まだ30分もたっとらんだろ~!よろしくねえわばかやろう!さんざん無駄な時間、またせやがって、客に対する礼儀か、それが!(# ゚Д゚)」
女性店員、泰蔵の威圧感に動揺しながらも・・・!
女性店員「それと、こちら、もともとおひとり様2本まででしてお連れ様とかいらっしゃらない場合一度にこんなに、大量なお買い上げは出来ないんですよ!」
泰蔵「同僚に渡すやつだよ!俺一人で飲むんじゃないわ!」
泰蔵の後ろの方では、そわそわとばつの悪そうな顔をした客たちが、視線をそらすように、だんまりとこちらの様子をうかがっている。
女性店員「どちらにしても、一応当店の規則になっておりますので!広告の方にもちゃんと書いてありますし!お客様だけ特別扱いすると他のお客様にも示しがつかないのでご理解いただけたら・・・!」
泰蔵「知らねえわ、そんなもんそっちの都合だろ!チラシなんかいちいち見るか、このくそ忙しいときに!そのへんの愚痴ほざいて遊んでる主婦と一緒にするな!なにパートの分際があほな事ぬかしとるんだ、さっさと気いきかせて客の要望を優先するのが当たり前だろ!責任者呼んで来い!(# ゚Д゚)」
女性店員「あいにく今は、他の従業員も手一杯なので、お客様をお相手できないかと!(>_<)」
声はかすかに震えながらも、それでも、冷静な対応の女性定員!
泰蔵「なんだ、そのいちいちしゃくにさわる態度は・・・!バカにしとるだろ!(# ゚Д゚)」
その瞬間、順番待ちしている、他のお客の中から、パシャっとスマホで撮られる音が・・・!
泰蔵「誰だ!今、シャッター押したやつ!出てこい!(# ゚Д゚)」
怒り任王顔で泰蔵は、ビール缶を一つかごからつかみ取り乱暴に構えるが!
泰蔵「なんだお前ら!見物(みせもん)じゃねーぞ俺は!(# ゚Д゚)」
並んでいる客たちもざわざわと、眉間にしわをよせて曇った表情をしていて・・・!もちろん何人かの主婦も!母親の後ろにしがみついて泣きそうな子供まで・・・!
このままだと、警備員を呼ばれて大げさになりかねないと多少戻りつつあった理性の中、泰蔵もさっしたのか、持っていたビール缶を無造作にかごに戻し店から出て行こうとすると、なおも女性定員が社交辞令じみた言い方をしてきた。
女性店員「本当に、大変申し訳ございません!<(_ _)>お客様、こちらのおつまみでしたら、割引のままお買い上げいただけますが・・・!」
泰蔵「うるさい!!もうなんもいらんわ!客に恥をかかせやがって、すぐにつぶれるぞ、こんな店!(# ゚Д゚)」
完全ブチぎれ状態の泰蔵は結局なにひとつ会計もせず大声を張り上げて店を出て行った!
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その夜
ミカと会うのは何年ぶりか。
初めて会ったのは新宿のキャバクラでまだ大学生だった。ある日ライブハウスで見かけて何度かメシに行き撮影した。よく食べとにかくいろんなことに悪態つきながらタバコをふかす姿がかわいかった。就職したあとは会うことはなく、何度か転職して最近は小さな広告代理店に就いていることはSNSで知っていた。近所に引っ越してきたとメッセージをもらい会うことになった。
サウナに4回入って向かった。予約してもらったのはサバ専門の居酒屋。初めて来たがとても良い雰囲気。老夫婦で切り盛りしていてカウンターは常連ばかりで座敷がありテレビがあってこれでタバコが吸えれば100点なんだけどなーと。。遅れるとのことで、何品か注文し先に瓶ビールをもらう。冷えてなかったが半分くらい飲んで緑茶ハイをすぐに注文した。刺し盛りの真っ赤なマグロが不味そうでよかった。刺身は醤油をなめる為の口実。残りのビールで流しこみテレビを見ていると、ミカが入ってきた。「常連さんみたいやん、ひさしぶり」濡れ髪とタイトなワンピースのミカは年頃の大人の女性になっていた。若い時の見定めするような無意識なイヤな視線はなく、フランクによく笑っていた。でも嘘っぽくはないけど、壁を感じた。社会性を身につけたということか。
仕事や音楽やオードリーの話しをした。今日の飲み会をそれはデートやんと心配した友達のミュージシャンが同席していい感じにプレゼンしようかと真顔で聞いてきたのを思い出し笑いした。楽しい夜です、大丈夫と心の中でつぶやく。
恋はどうなの?��聞くと上司と不倫していると。とても相性がいいだとか、将来2人で新しいプロダクションを起業する予定だとか、楽しく話す姿がかわいかった。恋してるときは綺麗になるよなーとぼんやり。とじじいになったなーと。サバのいろんな料理をたくさん食べ普段飲まない日本酒をあおり2人ともおおいに酔っ払った。2軒目は立ち飲み屋に行き、バツ3の中年カップルに絡まれて面白かった。ゲーセンのお菓子のクレーンゲームでチョコが結構な数取れてとても喜んでいた。チョコは小さくて固くて味がしなかった。コンビニでアイスを買い近所を散歩することに。甲州街道をふらふら。店はほとんど閉まっていたけど、明かりがついてる誰もいない小さい雑貨屋を外からのぞいたりした。なんかこういう映画観たなと、自分がジジイなの忘れてドキドキした。
信号待ちの間、今日はそいつに会わないのか?と聞く。一瞬間が空き「今日は会えない。休日だから。会うのは平日の終わったあとだけ。家族に残業と言い訳出来るから」迂闊だった。。バツが悪く、ひさしぶり撮ろうかと誘う。ガソリンスタンドとコンビニを挟んだ縁石に座ってもらう。なにやら口ずさんでるので尋ねると「ランタンパレードの甲州街道の歌。学生の頃好きだったなー」と笑う。オレンジの街灯、行き交う車のライトに照らされるタイミングでシャッターを押す。たびに表情が変わっていき泣き出した。「あれ、どんなメロディーだっけ。歌詞も思い出せない。毎日聞いてたのに。。」止まらない涙。過ぎていく大型トラックの風が髪を揺らす。飲み過ぎたな、あとずっと泣けてなかったんだろうなーと思った。タバコに火をつけて落ち着くのを待つ。居酒屋に入ってきたときの違和感は、どうにかやりくりするためのキャラだったんだろうなーとぼんやり。撮りたいがやめておく。コンビニで水とポカリを買いにいく。戻ると苦しそう。過呼吸か、と落ち着かせようと深呼吸を促したり水を飲ませるが悪化してきて手が震えて硬直してきた。救急車を呼び待ってるあいだ意識朦朧とごめんなさいごめんなさいと、つぶやくミカ。救急車に乗るとだいぶ落ち着き、病室に入るころには意識もしっかりしていた。さっきよりもはっきりした声でごめんなさいと言ったが泣き続けていた。
待合室で待つことに。肩はじぶんの汗か彼女の涙かで濡れていた。ランタンパレードをYouTubeで聞いた。雑に言うなら、男が夏の甲州街道で職質された、だけの歌だった。短い歌詞と良いメロディー、リスナーは語りやすいだろう。この余白は無責任で空っぽだと、だからミカにメロディーや歌詞も残せないんだ、と思った。我にかえる。八つ当たり。いい曲。
看護師さんから案内されると、点滴しながら横たわっていた。眠りながらまだ泣いているようだ。先生から説明を受ける。点滴が終わって落ち着いたら帰っていいとのこと。はだけたタオルケットを戻して待合室で時間をつぶす。ずっと昔の恋人が過呼吸になったことを思い出していた。離れたり引っ付いたりを何回も繰り返していて、友達がセッティングした仲直り飲み会に行き、2人で公園で話した。離れている間の風景のスナップ写真を見せながら話した。それでも仲直り出来ずもういいやって持ってきた写真を公園向こうの川に投げ捨てると彼女は過呼吸になった。初めてで手に負えず慌てて友達を呼んだ。いつだって自分自身に大いに問題があるが、自殺したり出ていかれたり何回も離れていった、写真では繋げない紡げないことを繰り返せばいいんだろうと、頭抱えた。空しい、でも写真しかないからしがみつく。
iPhoneを出すとランタンパレードの続きでくるりの奇跡のライブ動画をぼんやり見始めた。歌詞が刺さるとかどうのこうのじゃなく、とんでもないライブだった。フィッシュマンズの男達の別れや中村佳穂のそのいのち、の時のような、空間が歪んで光り続けるライブ。気付いたら泣いていた。
点滴が終わりミカがきた。「あー生理前で酔ったのかなーごめんね。」薬をもらい外に出ると明るくなっていた。病院の脇から差し込む逆光のシルエットが心底美しく思わずカメラを出す。「泣きすぎて顔が腫れてるから見ないで」って言う。のでカメラをしまう。代わりにカバンに入っていた無印の日焼け止めスプレーを渡す。受け取ると一振り二振りして投げ返してきた。「帰るね。またね。」と歩道橋をかけていった。もう会わないかもしれないなーと、なんとなく思った。
ランタンパレードの歌詞の中で
潤すために 乾かしたかのような僕の喉が
できれば夜明けから 夜更けまでを
見届けたいのだけれど 僕は
見届けたいのだけれど 僕は
と歌っていた。
オレは夜更けを見届けたから勝った。ってことじゃないな。。にしても暑い。このまま今日もサウナに行くことにした。
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2023/08/10
大抵は妻が会社に出かける時に起きる。寝ぼけた頭と身体でするのは家事の残りを片付けることやゴミ出し。
それが終わると身支度をしてパソコンに向かう。最近は2台のパソコンを使���ていて、こう書くとなんだかITエンジニアのようだけどそんなことはなく、パソコンのスペックミスにより急遽一台必要になっただけ。こういう些末なところに自分の人生がでこぼこで上手くいかないことが表れているなと思う。幼いころに工作で自分だけラジオの音がうまく出なかったみたいな。それははんだごてや接着が甘かったせいなのだけど、まぁつまりどう考えても自分のせいなのだ。
ラジオを組み立てる、というか学校の授業すべてを大したことだと思ってなかったふしがある小さな頃の自分。
いま、市民プールにいても公園で遊んでいても、親が習い事をさせており、「ああ、こんなところからすで競争は始まっていたんだな」と実感させられる。どれだけ意識をそこに持つことができるかが勝負のひとつだし、人より少しスタートを早くしてあげることがどれだけ子供の自信になるのかということ。
事務作業は午前中に片付くので12時から13時までは市民プールに行き泳いだり、水中歩行をしたりする。老人が7割でみんなぴんぴんコロリのために頑張っているのだなと思う。立派な人たちだなと思うけど、態度は消して立派ではなく横柄な人が多かったりする。
ひとつ、仕事の知り合いから相談の連絡が来て話を聞いていたけど、妙にまっとうにビジネスを進めていて違和感。けっこう下衆い稼ぎ方をするやつなので。
「俺も、そろそろそういう風になっていかないとなと思ってさ」と言っていたけど、周りが君に期待しているのはどれだけ稼がせてくれるかなので、たぶんその新規ビジネスはうまくいかないと思う。商品自体が差別化されているわけでもないし。わざわざそんなことは言わないし(言ってもいいかなと思えないので人徳のなさ)協力できるところは協力して、それだけかな���
午後は大きなものを前に進めるという(もちろん比喩です)をして夕方になると晩御飯どうするかなと準備にとりかかる。
ただこの日は友人夫婦と渋谷で飲む約束があったので奥さんと合流して出かけた。
ビストロで飲み。大衆居酒屋で飲み。
友人夫婦は奥さんが潔癖で気が強い。旦那さんは奥さんにべたぼれなので何を言われてもニコニコしている。こういう成立の仕方あるよなと思いながら話を聞いている。
結局は締めのラーメンまで食べてしまってタクシーで帰宅。
夜中の渋谷はところどころ、道の片隅で寝ている若者がいて、昔の渋谷が戻ってきたなと思った。良くも悪くもない。安全な国だな。
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3/18午前10時より‼️WEB限定販売‼️ 『岩清水JUPITER2022飲み比べ🍏限定30セット』 受付期間:2023年3月18日10:00~3月19日22:00(セット数に達し次第期間中でも終了します) お申込み:こちらの申込みもしくはホームページのWEB販売よりお願いします @iwashimizu.igaya Instagramプロフィール→ホームページ→WEB販売からお申し込みいただけます。 2022年4月に搾り来月で丸1年の熟成を迎える「岩清水JUPITER」飲み比べ(Souplesseスープレス(おりがらみ)&Corseコルセ)限定30セットをご用意しました! ※「岩清水JUPITER」の次回醸造は2025年以降を予定しております!この機会にぜひお楽しみくださいませ♪ さらに、ご一緒に「岩清水EARTH2022 Corse」の入った飲み比べコースもご用意しました! よろしくお願いします^ ^ #岩清水 #井賀屋酒造場 #期間限定 #web販売 #限定販売 #開栓注意‼️ #シュワシュワ #日本酒 #ワイングラスで日本酒 #岩清水ペアリング #日本酒好きな人と繋がりたい #グルメ好きな人と繋がりたい #ワイン好きな人と繋がりたい #生原酒 #低アルコール #惑星 #創業1853年 #始まりが伝統になる一滴入魂の蔵 #岩清水の如く澄んだ味わい #じっくりと時間をかけて #丁寧にていねいに #テロワール #減農薬栽培米 #井戸水 #超軟水 #日本一柔らかな仕込み水 #日本一生産量の少ない酒蔵 #生きている日本酒 #夫婦二人で醸す #マイナス5度で瓶貯蔵 (井賀屋酒造場) https://www.instagram.com/p/CpzmFf6S1Kd/?igshid=NGJjMDIxMWI=
#岩清水#井賀屋酒造場#期間限定#web販売#限定販売#開栓注意‼️#シュワシュワ#日本酒#ワイングラスで日本酒#岩清水ペアリング#日本酒好きな人と繋がりたい#グルメ好きな人と繋がりたい#ワイン好きな人と繋がりたい#生原酒#低アルコール#惑星#創業1853年#始まりが伝統になる一滴入魂の蔵#岩清水の如く澄んだ味わい#じっくりと時間をかけて#丁寧にていねいに#テロワール#減農薬栽培米#井戸水#超軟水#日本一柔らかな仕込み水#日本一生産量の少ない酒蔵#生きている日本酒#夫婦二人で醸す#マイナス5度で瓶貯蔵
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仮名桜待ち惚け
ことばを文字を単語を音をコレクションして好きに組みあわせたいというのは前回の日記に書いた気がするが、その最上級の楽しさをあじわえる遊びとして小説を書きたい。が、体が痛すぎて今日も起き上がることはできなかった。正確には何度か起きている(朝、ドラッグストアへ行きやっと食器用洗剤を買い、ついでに絹豆腐やメロンパンなども買ったり)。3連勤はまだきつい。とはいえ、3連勤はできる。なぜなら一日6時間(休憩なし)だから。これが1日7時間(休憩あり拘束8時間)になってくると3連勤はきびしい。と思っているが、まだ下っ端の一兵卒なので、とくに責任もなくのうのうとしていればよいから7時間でも3連勤、行けるのかもしれない。生家にいた頃の実績は家庭内でのストレスが強すぎてあてにならない。ともかく3連勤終え、今日一日は無事寝たきりをしていた。未だもって腰も足も腕も痛い。でもまあ明日は出勤できるだろう。この三連勤の中日に、前職場(片道2時間)に顔を出し、生家方面の飲み会、高三の時のクラスメイトたちとの5人の飲みに参加した。みな立派な大人であり、良いことだと思った。とくに独身でフリーターの私に気を遣うでもなくふつうに話してくれる元クラスメイトたち��基本的に素直で品が良いと思う。そういう人ばかりが集まった公立高校だった(これにはさまざまな理由がある)。男3、女2で、女はCAから転職し今はテレビ局のプロデューサーというやべえやつなのだが(夫婦で三茶に家を買ったらしい)、なんとコロナ禍で一瞬2次元オタクになり、アイナナにはまっていたというのでたまげた。そんな。きみ、そんな。オタクから最も遠い位置の女たちの一人だったじゃないか。何がどうなってそうなったんだ。しかも頭がよいので一瞬にしてオタク界のことを把握したらしく、即売会に同人誌も買いに行ったし、私が居酒屋の床に正面から転んでカバンからあんスタの缶バッジの袋が飛び出た際、心配してくれたあと、ああ、私あんスタはわかんないんだよな〜と言っていた。一瞬にしてコンテンツ名までだいたい総ナメしたんだ���というのが伝わってきた(彼女はテレビの人だが、エンタメ系ではなく報道系である)。男3人は順調に働き、子供を育て、偉いなあと思った。みんな……立派だ!結婚生活(共同生活)上の秘訣のようなものもなんだかんだ言っていたりいなかったりして、なるほど今の夫婦っていうのはそういう感じか、と思ったりした。まあもともとみな良識ある穏やかな人間たち(能力高)なので、かなりいいケースの話だけがインプットされた。そしてとにかく私は帰り際に誰かのサンダルに蹴つまずいて顔から真ん前にびたーん!という感じで転んで、右膝全体が完全にりんごの色になった(今は黒い)。帰りは東海道線の架線柱倒壊(なんと車両に倒れたらしい)による運転見合わせにより、ぎりぎり終電で帰宅できたが、かなりひやひやした。翌日はズボンの下に湿布を貼って出勤したが、疲労とたまの痛みで「限界の向こう側」を感じる場面もあった、が、本当に労働内容がたいしたことはないので(まだ)、とにかく先輩たちに可愛がってもらって終わった。やったー。色んな人に名前を覚えもらい始めている。私は人の名前がとにかく覚えられないので、かなり有難い。すごく好きな先輩の苗字もいまいち自信が無い。とにかく人が多い。
移動距離が長かったり3連勤だったりで日記らしい日記になった。ダブルフェイスのイベントは、無事三毛縞斑の星5までたどり着けた。明日でイベント終了なので今日中に取ろうと思っていたものの、椅子に座ることさえ疲労で厳しく、取れるか不安だった。ダイヤはあと100というところで、これもぎりぎりだった。あんスタのキャラクターはたぶん全員好きだと思うのだが、ストーリーが多すぎて何から読めばいいのかいつ読めばいいのか、そもそもソシ��ゲのストーリーを読むのが苦手で(目が弱いため)、全然読めていないので、ダブルフェイスについて狂おしいほど今は知りたい。ストーリー解放は12日までなので、とにかく回収して、休日前夜にでも読みたい。その休日前夜というのはだいたい疲れ果てて死体然として布団の上で滅びているのだが。とりあえず今は肉体を酷使して勤労することで手一杯だ。悲しいが、小説を書けるような体力を獲得できるのはもう少し先だろう。
2023.8.7
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376 名前:名無しさん@おーぷん[sage] 投稿日:23/02/09(木) 20:12:25 ID:WK.ta.L1 [1/3]かなり長文になるが、元嫁が一昨年死んでたらしくて吐き出したくなった。5年ぐらい前のことだけど、車に跳ねられて死にかけたことがあった。意識が回復したのは数日後だったらしいが、その前に一度目が覚めたって言うか気が付いたら病室の隅っこに立ってて、妻と義母がベッドの横でなにやら話をしていた。ベッドには俺がいくつかの機械に繋がれて包帯だらけで眠ってるんだが特に悲しむ様子もなく、二人してヒソヒソ声で話してたのが聞こえた。最初は状況が良くわからなかったが、少し考えてもしかしてこれは臨死体験とか幽体離脱とかってやつか?と思った。俺が死にかけてる俺を見ている状況にわけがわからなかったが、それよりなによりふたりの会話に雷に打たれたみたいにショックを受けて、記憶はそこまで。目が覚めた時は、そのことは忘れてて視界がぐにゃぐにゃしてて気持ち悪いし痛いしでもう死なせてくれーって思ったぐらい苦しくて、でもどうにか少しずつ回復していってからリハビリ中にふいに思い出したんだ。でも、それが現実だったのか単に脳がバグってたのか、夢でも見ていたのか、全く自信が無かった。とはいえ、完全に忘れることもできなかった。あの時、義母が「A君とはちゃんと別れたんでしょうね」て言ったんだ。A君と言うのは俺の後輩の名前だ。同名の別人ってことも可能性としてはあるだろうがそうありふれた名前ではない。それに対して妻は返事をしなかった。そして義母が「バレないうちに別れなさいってあれほど言ったのに」って言ったら妻は首を横に振りながら「このまま助からなきゃいいのに」って言ったんだよ。377 名前:名無しさん@おーぷん[sage] 投稿日:23/02/09(木) 20:12:56 ID:WK.ta.L1 [2/3]思い出してからはあの会話が忘れられなくて、リハビリの間もそのことばかり考えていた。退院して自宅療養してるときにもその事ばかり考えて、それが嫌で嫌である日妻に「Aとはいつからなんだ」って言った。目玉ひんむいて絶句したが、少しして「誰に聞いたの!?」って逆質問されて黒決定。「あのまま死んでた方が良かったらしいな。俺意識は回復してたんだよ。全部聞いてた」って言った。幽体離脱とか信じてもらえないだろうから、そんなふうに言った。それに対する返事もなく、そのまま俺を置いていなくなった。実家に逃げた。車椅子だったけどトイレはどうにか自分でできたので、翌日弟に電話してレンチンで食べられるものや飲み物を大量に買ってきてもらった。弟には経緯と共に離婚するつもりであることを伝えた。そのあと義母が訪ねて来て、謝られた。何度も別れるように説得したんだけどって言われて、今度こそ必ず別れるように説得するから時間が欲しい、離婚はどうにか思いとどまってほしいって。ちなみに義母が娘の浮気に気付いたのはもう2年も前だったらしい。俺は断った。事故に遭う前年に妻から不動産の名義変更を頼まれたことがあった。前年はちょうど結婚20年の年で、夫婦間の優遇措置がある。せっかくだからそれを利用して自宅の名義を半分分けてほしいって。378 名前:名無しさん@おーぷん[sage] 投稿日:23/02/09(木) 20:13:11 ID:WK.ta.L1 [3/3]しかし断った。断ったのには理由があって妻には音信不通になっている弟がいて、ちょっと評判のよくないやつだ。もしも何かあって将来的にそいつに不動産の一部で��渡ることになったら面倒くさいことになりそうな気がしたから。俺的には正当な理由だと思ってるので断ったんだが、その時にはすでにAと不倫していたことになる。妻は専業主婦だ。離婚後を見据えて少しでも自分有利にしようと動いたと思ってしまう。しかも俺に死んでほしいと願ったのも、死んだらまるっと自分のものになると思ったのかと。浮気してただけならまだしも「このまま助からなきゃいいのに」は許せなかった。2年以上前から不倫していたことを知って、わずかにあった迷いも吹っ切れた。弟の手を借りながら一気に離婚話を勧めた。妻自身が失言を認めていることもあり、慰謝料は不倫だけでなく上乗せさせてもらい財産分与と相殺してわずかな金を渡して出てってもらった。もちろんAにも慰謝料を請求した。Aはバツイチ独身だったから、俺が離婚すれば一緒になるのかと思ったが別れるタイミングが掴めずにずるずる来たとか言ってて、再婚する気はないんだとか。なんか妻が憐れになったがどうでもいい。そうやって離婚して5年、身体は多少後遺症が残ったものの普通に日常生活を過ごせるようになったが今年に入って元妻が一昨年死んでたことを知った。免許の更新に行ったら元義母とバッタリ会って待ってる間にあれこれ話しかけてきた。元義母が悪いわけじゃないのに延々と過去の謝罪をし始めたので「お義母さんが悪いんじゃないし、もういいですよ」と言ったら「あの子は罰が当たったんだろうねえ・・・一昨年死んだんだよ」って。そんなこと聞いても「そうなんですかー」としか言えなかった。冷たいかも知れないけど、悼む気持ちが全く湧かなかった。死因にも興味がなかったので聞かなかったら、元義母の方が何か察したようで「じゃあね」って去っていった。嫌なことを思い出して酒が不味い。
続・妄想的日常
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2023/2/10〜
2月10日 やっとiPhone14へ機種変更した!えらかった! 3時間くらいもう諦めようかと思ったり、とにかく焦ってその後なぜiPhoneなんかに振り回されているのだ?と思って、でも急に孤独になって悲しくなったりを通って、やっとApple IDと認証コード入力ができた! 長い1日すぎて気がついたらすっかり日が暮れていて、外に出て思い出したのは、今日が雪だったことと、都庁へ出張したいたこと。
朝、出かける前に思わず「雪!降ってるじゃん!」と言ってしまった。不安になる前にイヴを1錠のんでおく。新宿では外に出ずにずっと地下通路をあるけるので、雪の日なのにコートを着て汗ばむくらい。やっぱり東京は暖かい。 そして新宿は済ましたい用事が一挙に片付く街。 フィルム現像もApple storeもバレンタインのデパ地下も最果タヒの新刊もエトヴォスの化粧品もチューリップのお花も。あと、一応、お仕事も。 西と東を行ったり来たりして、全部できてしまった。
伊勢丹地下のお菓子売り場で「お日もちは◯◯日までです」と店員さんに言われ「大丈夫!すぐ食べちゃうから〜」と答えるご婦人がいた。 西口の献血のそばで、朝からお酒とアメリカンドッグを頬張るおじさんがいた。 雪予報でも遊びに繰り出す学生さんたちや、きっとアルバイトだろうデパ地下の店員さんがいた。 東京はいろんな人がいて、気も身も紛れる。
機種変作業前に、とにかく生活がだるいのにいっぱい掃除をして、それで機種変をして、さすがに身体が冷えてへとへと。またお守りのイヴを1錠飲んでみる。
2月11日 今日は職場の1・2期下の方々に仲間に入れてもらって焼き鳥を焼く会をした。 こんな日が来るなんて…、と思い返して不思議な気持ちだし、とても何か楽しくて救われた。 それで帰ってきて、大切な何かを、やっぱりポロポロと落としていってしまった気持ちになり、あれ?と土手で写真を撮っていた。 いつも社会は私に写真を撮る原動力をくれる。
焼き鳥はとても美味しかったし、おしゃべりの中で、お城巡りが趣味だったり、留学中に公園でひとり泣いていたり、大勢で遊ぶのは疲れるので構わず断ったり、妊娠というもの全てに拒絶感があることを受け入れてくれたり、職場の人たちの一律なライフプランを疑問に感じたりする話ができて、それに、本当に救われました。
でも大切何かは落としてきてしまった。
なにかってなんなの?と言いながら土手に行って、土手ってどこにと街灯がなくて、人影を見つけては怯えた。
見た目も話し方も動作もなめられがちな弱々なままてま、誰にも守られることなく、わたしが1人でふつうに生きていけない世界っておかしい。 このままで、写真を撮らなくても大丈夫ならところに行くのが1番良いのかもしれないけれど、今いるところは大丈夫ではないので、とっても値上がりしているカラーネガフィルムを書い足そうと思う。
そして、ネットがない!をやっています。
2月12日 ティルマンスの展示をヴィトンのギャラリーで鑑賞して、友人が見つけてくれた北欧のカフェでお茶をした。 ティルマンスの特別でない被写体を清潔に撮った写真が良かった。写真なのでよかったと思える写真。
北欧のチョコレートを職場の方へのプレゼントに包んでもらって待ち合わせ前に出したフィルムを受け取って帰宅している。
朝飲んだイヴの効果が切れてきているのを感じる息苦しさと身体のだるさがあって、いただいたチョコレートを今日は美味しく食べられなさそうな感じ。
そういえば今朝やっとインターネットを復活させた!何だかんだ機種受け取りから1週間かけて変更を完了させた。ともかくえらかった!
お茶の席で答えのない問いみたいな話題をしてしまって、半分お通夜みたいな雰囲気にさせてしまって少し反省していて、帰り道に相手に謝らせてしまったり、電車のトレインビジョンで明日の天気が雨予報なのを知って低気圧が来ていたから仕方ない、と言い聞かせているよ。
2月13日 おとといのお礼ととても楽しかったことを伝えたところ「表情に全然出ないからわからなかった!」と相変わらずにざっくばらんに職場の2期下の方から言われる(わたしが初めて彼女に、ざっくばらんですね、と伝えた時、ざっくばらんの意味を調べて、まさに自分のことだ!と驚いたそう)。
昨晩スーパーでお隣さんに鉢合わせてしまい、あ〜引っ越ししたいよね〜、と思っていたら、今朝“髪色変えたんですね!すてきです”というラインが来ていて、引越しだ!!となった。
明日の産業医の面談のため中抜けする旨を上司に伝える。「え、ちょっとまさか悩みでもあるんじゃないでしょうね」と言われて、お世話になっている上司に余計なことを思わせたくなくて、今に始まった病ではないので大丈夫的な説明をしてしまった。
おととい昨日と人といた時間を過ごしすぎたのか、その時の相手のことやその時の自分の対応などを振り返ってばかりで頭が忙しくて、お仕事でも紛れなくてちょっと苦しい。 こうゆう時に最果タヒしか読みたくなくなる。大阪に行って詩の観覧車に乗りたい気持ちが高まっている。
��っとお目にかかれないと思っていたグルーエンの本を図書館で借りることができた!
2月14日 新しい産業医の先生と面談をしてとっても疲れた! 面談のために時間休みをとる相談と報告を方々の上司たちにして、その説明をするたびに心がくだくだになった!
2月15日 あっけなく診察の予約を取ることができてしまった。なぜ晴れて病院通いを自ら復活させてしまったのだろう、と、もうかつてほどひどい状態ではない自分が、紹介状を持って待っている人もいるのに、診察する権利はあるのだろうか?と平気モードになったりするあまのじゃく。通院のことを社会の皆さまへ情報共有しなくてはいけないことが、今まで通院をできなかった大きな要因でもあるので、まずそこを乗り越えないといけない。
今日もわけもなくスカートを履いて出勤できた!
そしてなんと明日お友達がわたしの職場にやってくるらしい…ほんとかな?あまり期待せず、でも、ほんとうに来てくれたら、今までずっと写真にもならずに孤独を堪えるだけの場所が、何か少し変わるかもしれない、と嬉しい気持ち。
部屋の真ん中にベッドを置きはじめてから、導線計画乱れまくりですが、なんだ��少しよく眠れている気がする。
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なう(2023/03/15 20:52:53) 今夜はカワハギ祭り😀🙌 寺泊で買った2尾は1尾を煮付けに!もう1尾は 天麩羅と唐揚げに😄そして肝は生食する為に 丸3日冷凍してアニサキス殺して食べた😆 濃厚でめちゃくちゃ美味😭魚の肝はドレも 旨いけど私はカワハギが一番濃厚で好きやわ🥰 身も下処理後ペーパーとラップでミイラみたく グルグル巻きにして熟成させた☺️ 新潟の酒「朝日山純米吟醸」と共に美味しく 頂きました🤩至福のひととき☺️❣️ #カワハギの煮付け #カワハギの天麩羅と唐揚げ #蓮根とウドの天麩羅 #カワハギの肝刺し #ほうれん草の胡麻和え #朝日山純米吟醸 #ポン酒タグラム #家飲み #おうち居酒屋 #おうちごはん #おうちごはん部 #おうちごはんlover #今日の晩ごはん #晩ごはん #晩ごはん記録 #献立記録 #自炊記録 #てづくりごはん #手作りごはん #てづくりごはん365 #cooking #タベリー #フーディーテーブル #クッキングラム #キッチングラム #いいね返し #夫婦ごはん #ふたりごはん #豊かな食卓 #家庭料理 釣ったばかりのカワハギをその場で捌いて 肝を取り出してちょこっと醤油つけて食べたい😌 https://www.instagram.com/p/CpzxP6oybJc/?igshid=NGJjMDIxMWI=
#カワハギの煮付け#カワハギの天麩羅と唐揚げ#蓮根とウドの天麩羅#カワハギの肝刺し#ほうれん草の胡麻和え#朝日山純米吟醸#ポン酒タグラム#家飲み#おうち居酒屋#おうちごはん#おうちごはん部#おうちごはんlover#今日の晩ごはん#晩ごはん#晩ごはん記録#献立記録#自炊記録#てづくりごはん#手作りごはん#てづくりごはん365#cooking#タベリー#フーディーテーブル#クッキングラム#キッチングラム#いいね返し#夫婦ごはん#ふたりごはん#豊かな食卓#家庭料理
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2023年1月30日(月)
大雪のせいで有給休暇を取ったため、1週間ぶりの出勤である。先週最後の授業を終えたので、今日はひたすら成績評価作業に精を出す。3科目6クラス分の評価をWebで登録、保管用に印字したものと授業記録簿を教学センターに提出、これで今年度の私の仕事はすべて終了した。勤労諸氏には申し訳ないのだが、明日から春休みなのだ〜!
5時起床。
月水金の朝は忙しい。
ツレアイを5時30分に起こし、彼女は息子たちの朝食と2男のおにぎりを用意する。私は洗濯機をセットしてから、夫婦の食事を用意する。朝食前の血圧測定、先週はまずまずの数値だった。
私は珈琲を入れ、3人分の弁当を用意する。その間に、彼女が洗濯物を干す。
彼女の職場経由で出勤、事務局のメールボックスをチェックしてから研究室に向かう。
まずはPCを立ち上げてログイン、ガルーンで先週の休暇申請を出す。
次年度の雇用契約書が届いていた。私の場合、<特命教授Ⅱ種>という契約をお願いしている。授業以外の学務は担当せず、出勤は週3日以上、ペイは持ちコマに規定の単価を掛け合わせたもの。薄給ではあるが、授業以外は全て自分の時間になることは何ものにも換えがたい。サイン・押印して事務局に提出する。
今日のミッションは、後期分の成績評価作業。「情報機器の操作Ⅱ(4クラス)」「共生社会と人権(1クラス)」「インターンシップ(1クラス)」、すでに下処理はできているので最終的な点数を確定し、Web登録した後で紙に印字、授業記録簿と共に教学センターに提出する。やれやれ、ランチ前に今年の業務はすべて終了した。
弁当を食べ終え、カップ類を洗い、早めに退出する。
ツレアイは午後から休み、私の帰宅より数分早く、朝作った弁当を食べていた。
神戸新開地・喜楽館からタニマチの名詞と昼席入場券6枚が届いていた。昨年は日本酒が送られてきたが、さすがに経営が苦しいのだろう、今年はなし。4年連続応援(最初は50,000円、2年目からは30,000円)しているが、コロナに負けずに何とか踏ん張って、神戸の定席を守って欲しい。
寒いので買い物は止めて、今ある食材を消費する。
4人揃って早めの夕飯、ベーコンとジャガイモのバター醤油/ベーコン・エッグ/蒸しキャベツ/厚揚げとコンニャクの炊いたん/トマト、それにホタテの炊き込みご飯。
テレビではカーリングが放送されている、ロコ・ソラーレが敗戦、予選リーグなのでそれもまたよし。
早めの片付け、入浴、体重は600g増、今夜は納得の数字。
ツレアイは今夜も早めの就寝、何しろコロナ最前線で戦っているので栄養と睡眠で抵抗力を維持してもらうにしくは無い。
ワイン飲みながら、ゆっくりとこの日誌を認める。
今日のところは3つのリング完成で良しとしcよう、水分は1,800ml。
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姉から連絡があり、母さんの体調が悪いこと、癌の可能性もあることを知らされる。母さんは自分の意志でがん検診は受けていなかったから、不安を感じつつも、「姉は大袈裟だからなー」と、大ごとになるとは思っていなかった。ただ、残念ながら婦人科系の癌だった。コロナ禍ではあったものの、運良く地域の基幹病院に入院することができ、溜まっていた腹水を抜いてもらったり、検査をしたりと、色々と処置をしてもらったらしい。医者からは一般論として「5年後にはいないだろう」という話をされたが、「医者は短めに言うんだろうな」と、前向きに捉えようとした。仕事の帰り、一つ手前の駅で降りて、歩きながら母さんに電話した。「そうじゃないかと思ってたから、分かってスッキリしてるよ。子供たちは立派に独立して、みんな家族もいるし、私は思い残すことはないから。」とサラッと話していた。なんとか気丈に話そうとしたが、涙が出た。帰宅し、妻に報告したら、また涙が出た。祖父を癌で看取った妻は「そんな簡単に亡くなりはしないよ」と、怒っていた。彼女なりに励ましてくれてたんだろう。「何で癌で人が死ぬのか」ということすら知らないことに気づいて、いくつかの本を読んで、「多臓器不全で死ぬ」ということを今���らながら知った。翌月、帰省すると、「で、何しに帰ってきたの?」と、とぼけたことを聞かれたので「様子見にだわ」と。特段変わった様子はなく、いつもの調子。溜まっていた腹水を抜いてもらって、楽になったらしい。「しばらくは大丈夫かな」と思う。翌朝、母さんは「そのうち、『あれが最後に作ってもらった朝ごはんだったな』ってなるわよ」と軽口を叩きながら、目玉焼きを焼いてくれた。その後の検査で、癌はそれなりに進行していて、「ステージⅢの後ろの方」と評価された。外科手術や放射線治療を行う段階にはなく、化学療法(プラチナ製剤)を試してみて、癌細胞が小さくなるようであれば、外科手術や放射線治療を検討しようということに。母さんは「『髪の毛が抜けることがある』じゃなくて『絶対抜ける』って言われたわ」と笑っていた。程なく、抗がん剤治療が開始され、母さんの髪の毛が抜けた。この頃は、抗がん剤の副作用が抜ければ、食べたいものだとかも色々あったから、買いだめしといてあげたりした。実家に家族と帰省して、夜遅くまで母さんも交えて酒を飲んだりもした。まだ、言葉もしゃべれなかった娘も、母さんにはよく懐いていた。副作用に耐えながら抗がん剤治療を続けたものの、思うような効果は得られなかった。「癌の専門医の先生の方がいいんじゃないか」という思いもあり、主治医の先生にも相談の上で、セカンドオピニオンを取ることにした。その道の専門医の先生2名にお話を伺いに行ったが、どちらも「うちなら治るかもよ」だとか「この治療法よりも、こっちの方がいい」なんて話は、当然なく、今診てもらってる病院で、「そのままお世話になる方が良い」とやんわりと伝えられた。それでも、「やっぱり経験値が高い専門医の先生の方がいいんじゃないか」と、先の2名の先生のうちお一人にお世話になることにした。細かく検査もしてもらったが、「やれることは限られている。選択肢がないわけではないが、リスキーな上、効果の期待値は低いので、おススメはしない。本人の希望に沿うならば、通いやすい、もともと診てもらっていた病院で改めて診てもらっては。」とのお話があり、結局、出戻ることにした。その病院からの帰路、高速道路の大きなSAに寄った。「あなたたちが小さい頃には、旅行の度に、いつもこのSAに寄ってたのよ」と懐かしそうに話していた。ちなみに、今でもそのSAを通過すると、その時の母さんを思い出して、なんだか泣きそうになる。改めてもともと診てもらっていた病院に伺ったところ、事前に調整はしていたこともあってか、主治医の先生は嫌な顔一つ見せず引き受けてくださり、次の段階��抗がん剤(単剤)にトライすることになった。これ以降、段々と体力の低下、食欲不振が顕著になりだし、当初は「抗がん剤の副作用かな」と考えていた。思うような効果が得られず、抗がん剤の投与を中止してからも状態は改善しなかった。母さんが癌であることは、母さんの希望もあって、積極的に知らせることもせず、また隠すこともしなかったが、状況を知った遠方の親類達が揃って見舞いにきてくれたりもした。この頃は、まだ座ってコーヒー飲むらいのことはできていて、楽しそうにお喋りもしていた。妹が介護休業を取り、母さんの面倒を見てくれることになった。その時点では、自分のことは自分でできていたし、正直言って「早いんじゃないかな」と思っていたが、結果的には、ドンピシャのタイミングだった。死ぬまでに行きたいと言っていたスカイツリー。東京で結婚式に出席したので、その足でスカイツリーに行き、ビデオ通話で見てもらった。「すごいねー」と笑ってくれた。12月下旬は、早めの冬休みを取って実家に。妹からは、体力の低下が著しいということは聞いていたが、想像よりずっと悪かった。ベッドの脇に座って吐いてばかりいた。思っていた以上の状態に言葉が出なかった。夜も眠れず、食事も摂れず、水分を摂れば吐き。かわいそうで見ていられなかった。足のむくみもひどく、母さん曰く、頭の中は「しんどい」一色だった様子。肩をさすったり、足を揉んであげたりしかできない。足をマッサージしてあげていると、少しの間だけ、寝てくれたのが、せめてもの救いだった。そんな中、母さんは「とても渡せそうにないから」と、お年玉と一緒に娘の七五三の祝いを渡してくれた。涙が溢れた。母さんも「湿っぽくなってごめんね。」と言いながら泣いていた。年明けも早々に再入院。あまりに辛そうな母さんの姿に、打ちのめされてしまった。母さんの希望は、「できる限り家にいたい」だったので、妹が訪問看護の段取りを取ってくれ、病院には無理を言って予定より早く退院した。この訪問看護のチームが素晴らしく、親身になって、それも超速で対応してくれた。母さんは「病院から逃げ出して正解だった」と、喜んでいた。急遽、仕事を休み、実家へ。妹と交代で診る体制に。眠れず、体の置き所がない母さんは、15分おきくらいで、姿勢を変えてあげなければいけなかった。辛そうだった。少し話ができそうなタイミングで、「今までありがとう。母さんの子どもで良かったよ。」と口に出すと、涙が溢れた。喋るのも辛く、手をあげるのもしんどいはずの母さんは「何を言ってるの。こっちのほうが、ありがとうよ。いい子だね。」と言って、頭や頬を撫でてくれた。涙が止まらなかった。妹と交代で眠りながら看ていたが、日に日に意思疎通がとれなくなり、意識レベルも低下。せめて、苦しまず、穏やかに逝かせてあげたいと、鎮静剤の量も増やしていった。眠る時間が増え、顔をしかめる頻度も少なくなり。「母さん、先に横になるね。また後でね。」と声をかけて寝ようとしたところ、ほとんど意識のないはずの母さんが、少し手を上げて応えてくれた。「バイバイしてんの?」と、妹と2人で笑った。その晩、妹に「やばいかも」と起こされ、会ったときにはほとんど呼吸もなく。子供3人が揃ったところで、母さんは静かに息をひきとった。目を瞑り、とても穏やかな顔だった。皆、口々に「お疲れ様。よく頑張ったね。」と母さんの闘病生活の終わりを労った。泣き崩れてしまうかもと思っていたが、不思議と涙は出ず、ホッとしたような気持ちになった。訪問看護に連絡したところ、深夜にも関わらず、看護師さんが来てくれた。死亡診断は医師しかできないとのことだったが、脈拍を見たり、瞳孔を見たりして「確かに亡くなられていますね」と手を合わせてくれた。そこからは、子供三人で、看護師さんの指示に従って、母さんの体を拭いたり服を着せたり。服は死装束じゃなく、妹が見繕ってくれていた、いつも母さんが来ていた服を着せることにした。最後に看護師さんが、母さんに化粧をしてくれると、すっかり血色が良くなって、まるで寝てるみたいだった。看護師さんが帰られてからは、葬儀屋を探したり、段取りや役割分担を話したり。葬儀屋は、空いてるところに頼むしかなかったというのが実態で、なんなら「火葬場に直送しろ」くらいのことを言っていた母さんの考えとは違ったんだろうけど、普通に葬儀屋に頼むことになった。一旦、各自寝て、翌日以降に備えた。翌日は午前6時の医師の死亡診断に始まり、寺や葬儀屋との調整や、親類への連絡、行政関係の手続きなどで忙殺され、あっという間に通夜になった。どんな感じで動いたのか、正直、思い出せない。覚えているのは、いつも気にかけてくれていた母さんの友達が、偶然訪ねて来られ、母さんに会って「信じられない」と泣いてくれたことと、一報を受けた母さんの義姉にあたるおばさんが寄ってくれて、母さんに会って「寝てるみたい」と泣いてくれたこと。おばさんは「お母さんは若い頃はお父さん(自分の祖父。自分が小さい頃に他界。)と、喧嘩ばかりしててね。今頃、お父さんから「うるさいのが来た」って言われて、また喧嘩してるかも。」と、知らない話をしてくれた。納棺のときには、たくさんの花と一緒に父さんの写真や、自分を含む子どもの写真を納めた。短い髪の毛の頭には、ウィッグをつけたかったんだけど、生前に「あんな高いものを燃やすなんてもったいないから、棺桶には入れるな。」と言われていたので、やむなく頭はそのままに。誰が使うんだよ。マジで。葬祭会館で通夜を終え、そのままそこに泊まることにし、姉と妹は一旦、家族と帰宅。酒を飲みながら待ち、時々、隣室の母さんの顔を覗きに行っては、線香をあげ、その度に泣いた。夜中の2時になっても、誰も帰って来ず、体力的にも限界だったので、寝た。深夜に姉が、朝型に妹が戻ってきた。翌日も葬儀、火葬とバタバタ。孫たちが大騒ぎしてくれたおかげ(?)で、終始、湿っぽくならずに済んだような気がする。母さんも、「あんたらねぇ」と笑ってくれただろう。母さんが望んでいたような「火葬場に直送」じゃなくて、普通の見送り方にはなってしまったけれど、許してくれると思う。それから職場に復帰するまでは、皆で家の片付けや、クレジットカードの解約やら銀行関係やらのたくさんの事務手続き、親類縁者への連絡などを分担して対応している間に、あっという間に過ぎていった。その間、近所の方だとか、母さんの旧来の友達だとかがたくさん弔問に訪ねてきてくれた。皆が口々に「いい写真だね」と言ってくれた祭壇の遺影は、母さんが自分で選んで、わざわざトリミングまでしていたものだったから、本人も満足してるだろう。母さんの旧来の友達からは、母さんの若い頃の話や、その後の友人関係の話しを伺った。学生時代のことや、社会人時代のことだとか、自分が知らない母さんの一面をたくさん知ることになった。当たり前だけど、母さんは「母」としてだけでなく、一人の人間として、たくさんの人と関係を作り、それを続けていたんだなと気付き、なんだか新鮮な気持ちになった。そういえば、ウィッグは友達の一人で、自分もよく知っているおばさんが貰い受けてくれることになった。何度も「管理が大変だけど大丈夫?」と聞いたけど、それを踏まえて快く受け取ってくれた。ウィッグの販売店には、その旨は連絡しておいた。弔問に来てくれた時にお渡ししたところ、母の遺影に向かって「返さないからね」と笑っていた。思い返してみると、母さんが癌になってからというもの、母さんとは色んな話ができた。父さんのことだとか、嫁いできた経緯だとか、これからのことだとか。癌との闘いは、とても辛かったと思うけど、近い将来確実に訪れる「死」に向かって、本人も家族も、心の整理も含めて、時間をかけて準備することができたように思う。僕は癌で死にたくないけれど、そんなふうに、ちゃんと準備をして死にたいなと思う。母さん、ありがとう。母さんの子どもで良かったよ。【追記】たくさんの方に、暖かな言葉をいただき、恐縮しております。ありがとうございました。私自身が、母さんが癌になるまで癌のことを何も知らず、また、どのような経過を辿るのかを知らなかったので、「自分用に書いたけど、同じ境遇を迎えてたり、これから迎えるかもしれない誰かのためになるかも」と、乱文を投稿させていただきました。野暮かなとも思いましたが、いくつかコメントいただいた内容を踏まえ、その趣旨に合うかなとも思うので、いくつか追記いたします。母さんが癌の宣告を受けたのは、2月上旬で、翌年の1月中旬に60台後半で他界しました。10月頃まではまずまず元気でしたが、以降は段々と体力の低下が顕著になりました。12月中旬までは、体調が良ければ妹の運転でドライブに行く程度の元気さもあったのですが、食事を受け付けなくなってからは、あっという間でした。思っていたよりもずっと早い経過だったので、「もっと会いに帰ったら良かった」と思うこともありますが、「そうさせないところが母さんらしいな」とも感じています。経過は個人差が非常に大きいものだと思います。母さんよりも早い経過を辿る方もいれば、もっと緩やかな経過を辿る方もおられるでしょう。早い経過を辿ることを前提に、たくさん話し合って、準備をしておいた方が良いと思います。特に、残された時間はできたら住み慣れた自宅で過ごしたいという方が多いと思うので、それができるよう、家族の介護+訪問看護の体制を整えられるかをしっかり考えておくべきだとも思います。うちの場合は、姉が実家の比較的近くに住��でいたこと、妹が介護休業に理解のある職場環境だったこと、また、訪問看護のチームが素晴らしかったこと等、様々な要因が重なって、自宅で看取ることができました。なお、母さんがやっていてくれた事で本当に助かったのは、エンディングノートをしっかり書いていてくれたことと、重要書類(通帳、カード、年金手帳、マイナンバーカード等)を整理してくれていたことです。特に、亡くなったことを誰に知らせるのかは、親類縁者ならまだしも、友人関係はほとんど分からなかったので、これがなかったら不可能でした。「私も書くから一緒に書かない?」と、提案されてみても良いと思います。長くなってしまいましたが、皆様の一助になりましたら、幸いです。皆様のコメントから、元気をもらいました。改めて、ありがとうございました。
母さんがガンで死んだ(追記)
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