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寒い日が戻ってきた。
杉並区の家はあと2日で完全退去。仕事を調整をして片付けを終わらせて何度か行った有名店のラーメンをすする。
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何度も何度もゴミを出してようやく空になった箱。誰にも理解されなくても労われなくてもやらなくてはならない。
いくつかの家具を友人に譲渡して、そのまま焼肉屋でご飯を食べた。
マッチングアプリをいまここで登録した女の子へのアドバイスを考えるながらお 確か懐かしさに浸っていた。
誰でもどこでもどんな伴走も選べる未来と、光。期待と望みのきらめき。それが眩しい。
登録した瞬間の何通ものいいねとプロフィールを完成させた瞬間のさらに増えたいいね。
男とは全然違ってやはり価値が違うなぁと思いながら。不均等でも望む未来を見据えて進むのはかわらない。誰しもタフでなくてはね。
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終電で帰宅。友人宅で飲んだ焼酎の銘柄を覚えておきたくて。確かあの寒いと片足を上げる、あの動物。
今日はとても寒い日、さよならポエジーの2月の中をを聴きながら歩こう。冬をつかの間吸い込んで。
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2025/2/13
引っ越しの準備な日々。
火葬まで終わってしまえば後は四十九日の納骨までそんなにやることはないのでとりあえず母は放置。とはいえ、健康保険証を止めたり、携帯を解約したり。
人が死ぬっていうのは大変なことだなと思いながら、なんとなく契約でがんじがらめになっている人のイメージが頭に浮かぶ。契約というか所属というか。
何のサービスを受けるにも契約だもんなぁ。
生活をしながらの引っ越し準備は難しく「片付けてるんだか散らかしてるんだかわからん」と連れ合いに言うと「とにかく段ボールに突っ込め」と返答が来た。
まぁ、新居の引き渡しと退去までの期間が7日くらいあるのでそのあたりでなんとかしよう。
THEATERBROOKの「無実の子」をなんとなく聴きながら好きなラーメンを食べに行く。
車内でミーティングができるから車は便利だなぁなんて思いながら。
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引っ越しは楽しみというよりは実感がわかない気持ちが強い。つまり無味。
連れ合いが決めた間取りと連れ合いが決めた家具に囲まれながら、決められた場所で生活するだけ。
まぁ、今までも積極的にどこかに住んだことないか。
状況が裂いた部屋ってやつだ。
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吹き抜けリビングだとか
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自分の仕事部屋だとか。
新しい家の匂いだとか。犬がどう思うかなって気に入ってくれるかなとかは考える。
そんな事を考えていたらTHEATERBROOKはドレッドライダーからまばたきへ曲を変えて。
さぁ、ここを旅立つのは勇気がいるぞ。
って、まったくそのとおり。
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高校のときうちだって裕福でなかったのに母は何かと人にご飯を食べさせていた。何はともかくご飯を食べていれば大丈夫というのが持論で。
それは自分の友人に対してもそうで、何かと困窮している友人の家に行くときはご飯を持たせたものだ。
その時のことを覚えていたのか友人はちゃんとお線香をあげにきた。
「あのときはごちそうさまでした」と手を合わせた。
母が死んだ悲しみを癒すのはそんなこと。
「母がいることで救われた人がいた」
それが少しずつ胸の重みをとってくれる。
自分にとっては厄介な母でも、そうではない一面は多分にあった。その事実。
憎しみも悲しみも育ててはいけないと思う。
地続きの場所にいないように。対岸の火事として見ないといけない。たまに思い出して眺めてくらいがいい。
誰かがなくなったときは生死問わず、ふとしたきっかけで。例えば、母から教わった肉団子を練ってるときに、例えば母と行ったお蕎麦屋さんを見かけた時に思い出して懐かしんでやれば良い。
胸の中に常にいなくて良い。それをずっと見てなくて良い。幸せになって良い。
みんな幸せになって良い。余計なお世話かもしれないけど、機会があればそう誰に対しても言ってあげたい。
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2025/2/7
幼なじみに母が亡くなっことを告げると珍しく電話がかかってきた。
実は幼なじみのお母さんも肺がんになり現在闘病中とのこと。有名な劇団で役者をやっているその人は次の舞台も決まり、復帰に向けて頑張っている。けど、脳転移もありけっこう厳しい状況のようだ。
幼なじみの家は躾に厳しくて、習い事も多かった。
泥だらけのままで家に上がり込んでは怒られていたことを思い出す。その温かみはこの年にならないとわからない。怒ってくれるのは愛情だ。
「きっと、顔を見たら心が持たないから…」だから線香をあげにはいけないと涙ながらに言う。寂しくなるね。寂しいねと言う幼なじみの声に電話越しながら声が詰まった。
並走する音が共振するように、幼なじみの寂しさが悲しさがつらさがすごくよく分かった。
嬉しくて悲しかった。
火葬式の朝はとても寒い日だった。葬儀場には人があふれていた。焼かれるために並んでいる棺たち。
お坊さんに御経をあげてもらい華を棺に入れる。人が骨になるまで60分程度。出てきたときには粉々に炭と変わっている。人が骨になるのを見るたびに心に空虚な風が吹く。
あ〜あぁ
という感じ。とうとうこの世に影も形も無くなってしまったなと。
お骨をもらってすぐに解散。
母がどう生きて、何を思い病と闘って、自分が死ぬことにどう納得して、或いは納得できずにそれでも死んでいったのか。考えたことも思ったことも��んだことも無念も悲しみも喜びも寂しさも全て持っていってしまった。
何もいまさらわからない。
いつか自分が身を持って知るしかないのだろう。
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2025/2/4
どうしても外せない仕事がいくつかあり仕事をしながら線香をあげる来客対応。
大抵は母の宗教仲間で、いかに母が素晴らしい人だったかを力説してくれる。
家族に見せる顔と他人に見せる顔が違うのは当然よくあることなれど、もやもやした気分は晴れず。
相対する人の角度から見る母という人物と物語につきあわされている。
何名かは取り乱すほどに泣く人もいる。
やはり、こういうときに気の利いたエピソードトークを持ってくる人のが好きだなぁと冷めた感想を持ちつつ昼のモスバーガー休憩を挟みながらも時間が過ぎていく。
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母に会わせてやろうと一旦友人宅から犬を連れ戻してみたがあまりピンときていない感じだった。
人より動物のほうが死に対してフラットなのかもしれない。
葬儀屋はどうにか料金をぼろうとしてくる。
結局火葬式にして最低限で収めた。それでもうちの市は火葬場が足りてないのか、人がよく死ぬのか、葬儀をしようと思うと20日近く待たないといけないらしい。その期間冷凍保存するわけで、それだけで+20万…。なんだそれと。
仕方ないので有料の民間葬儀場にすることにした。合計で50万程度の出費。
死ぬのにも生きるにもお金がかかる。
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2025/2/3
母が死んだ。
日曜日に危篤状態になり、一時的に回復したところで翌日に面会にいった。胸を上下させながら酸素を必死に取り組む母。会話することもできないが「頑張りすぎないでね」「全部、大丈夫だから安心してね」と言葉をかけると少しだけ瞳孔が開き、瞳に意思のかけらが浮かんだ気がした。
面会の時間が30分過ぎ、退出し、近くの公園で夕飯時間までどうしようかと思っていると「血圧が急降下しているのですぐに来てください」と病院から連絡があった。
急いで向かったが、電話のあとにすぐに心停止になったらしい。
「息子さんが来るのを待ってたんだね」と言われた。
母と二人になった際に「おつかれさまでした。ありがとうございました」とだけ頭を下げ伝えた。少し涙が出た。
そこからは義理の父と同じ。葬儀屋に連絡して、すぐに搬出。自宅安置か葬儀屋の霊安室に移すのか。書類の手続きや知り合いに連絡。
とドッと忙しくなる。
自宅安置にしたらしたで近所の人がお線香にあげにくる。
これでは義理の父の時と変わらない。対応にてんやわんや。なんども頭下げて何度もお礼を言って何度も悲しんで、何度も死ぬ前の状況を話して。
「悲しいですね、寂しいですね」と言われるけど、時折悲しく、時折寂しいが正確な表現で事実。
ふと、湧き上がってくる感情。後悔や良き思い出、もちろん憎しみも。触媒になり感情を満たしていく。
けして、四六時中哀悼の意というわけではなく。
なので、寂しがってる時に、悲しがってる時に言われるのは良いけど、そうでないときに言われるのは何か強制されてるような気がする。
そこまで考えて言ってるわけではないんだろうけど。話すことがないので繋のようなものかな。
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朝早くに実家に帰ってゴミ出し。
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なぜ、実家にはこんなにも着る気にもならん、古くセンスのない服ばかりあるのか。三世代分。なんとかゴミ置き場に収まったけど、他の人置けないから怒られるかも。
今日は午後に実家を買ってくれるかもしれない人が内覧にくる。近くの私立高校に子どもが通うことになり引っ越しを考えているらしい。
さて、どうなる。
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もっと、日記はどうでも良いことを書こう。
些細なことのほうが覚えてないしね。
眠りの浅い時間から寝床を連れ合いが抜けだしたのがわかった。あとで聞いたらこむら返りがあったので寝れなくなったたのこと。
普段ならキャンセルできるんだけど失敗した。と独特の表現で悔しそうにしていた。
月末の仕事を(請求書関係)をババっと片付けてふと冷蔵庫を開けると白米が小分けにしてあり、じゃこチャーハンが作ってあった。
食べて良いかラインで聞くといいよ、暇だから作った。と返信があった。
人が作った料理は当然ながら食べるまで味がわからないので面白い。じゃこのチャーハンは定番なれど、自分では作らない。チャーハンのチャーは自分の中ではやはり豚肉。
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実は友人の家に犬を預けている。
もう2週間近い。忙しいのと、母がそろそろなので葬式まで終わらないと犬の世話が重荷になるから。
友人の家は夫が仕事でメンタルが落ちてるらしく犬がいることで随分癒されてると言われた。
こちらに対する気遣い半分なのだろうけど、嬉しくもある。
渋谷で一つ仕事を片付けて、色んなテナントが閉まっていることと、JRへの連結がかなり悪くなったことを知る。
夕飯は豚肉ときくらげの炒め物とスーパーの唐揚げと味噌汁、あとは水菜のサラダ。
駅前のオオゼキは特定の野菜が安い。今日は水菜。
葉野菜が高い今日この頃、口の中をさっぱりさせる役割不足で献立に迷う。
明日納車の車の保険の手続きをして今日の業務終了。
結局ヴェゼルにした。スバルのクロストレックが欲しかったのだけれども、値段と後部座席の広さに差が。
欲しいものはあと少し手に入らないのは自分の人生らしくて良い。
車検証の様式が変わってて少しびっくりした。
縁遠くなると知識が過去の産物になる。これが降り積もると老害になるのだろう。
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母の転院が完了した。
人工呼吸器を装着し、目も虚ろであとはその日を待つだけの母を転院させるのはすべて病院の都合。
入院して2週間が過ぎると診療点数が下がるので病院が儲からなくなる。新しく患者を入れたほうが収益が上がる。そんな理由。
呼吸をするだけの母を見る。感情をそこに入れてしまうと胸が苦しくなる。もっと自分にできることはなかったのかとか、最後に交わした言葉はなんだったかな?とか考えてしまう。
そのくせ、心をすっと離せば結局のところはすべて自業自得なのかな?と冷たい意見も出てくる。
自分に疲れる。
約1ヶ月分の医療費を精算。だいたい15万円くらい。医師、看護師、PT、薬剤師といろんな人が母を生かすために動いてくれて、しかも食事とベット代も込みでこれはどう考えても安い。
もう、母が死ぬ間際に何を考えているのか知るすべはない。いつか自分が答え合わせをする日まで。
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2025/1/23
束の間の休息。
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前日に母の血圧が下がり始めたと病院から連絡を受けて気が気でないが、お見舞いに行った母の友人からは受け答えもしっかりしてると伝わってきたので予定通りの温泉旅行をすることにした。
ここからいよいよになれば個室に移動し付き添いをし、看取りでは病院に許された5人という人数を決めて死に水をとることになる。
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温泉は客室露天風呂付。
新年の神社へのお参りを兼ねている。
何も考えずに星空を見上げてビールを飲む。
困難や問題は1つずつ良い方向に流していくしかない。
とてもではないが2年前の状況から考えるにこんな人間と誰も添い遂げたいと思わないだろう。
父が残した借金
母の宗教問題
母の癌に貧困
1つずつ片付けていけば、「なにかあっても粘り強く適切に処理できる」、ひとりのまっさらな自分が残る。
それを見ていてくれればありがたい。
困難の道中も一緒にいたというのはある程度の結束にはなる。と思う。
そんなものまで口に出して求めたりはしないけど。
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今日も今日とて、実家に帰る。
犬の散歩とご飯と、その寂しさに寄り添うために。
夜中だとバイクで35分。車通りも少ないのでスピードを出す場面もある。
家と実家の往復生活はもう2、3ヶ月になった。同じ道をひたすら行き来するとどこか自動的になり意識が思考に流れていく。
生活と生活を渡り歩く。実態と実態。2つの線はそれなりの重みがあり身体と心を重たくしていく。
まぁ、あと1ヶ月と割り切ってみてもしんどさは変わらない。���日何年かぶりにあった友人が病気で仕事をだいぶ休職してたと言っていた。疲れとストレスから身体の平行感覚や動的に周りをとらえる能力がなくなってしまったらしい。こうなると単純に歩けない。
動いてるものを動いてると認識できないのだ。自分も含めて。とても怖い体験だったと言っていた。
「野球部でしごかれてストレス耐性はかなりある方だと思ってたから本当にびっくりした」と自嘲気味だった。歳は取るもんじゃないねと笑う。
自分もこのままじりじりそういうものに囚われる瞬間まで進んでいくのだろうか。
そんなことを考えていると対向車線の車が2台Uターンをしてこちらの車線に入ってきた。
と思ったら2台目が曲がりきれず道路を塞いでしまった。二車線の半分以上を塞ぎ停止した。バイクを傾けて進路を調整し冷静に脇をすり抜けて事なきを得たが、
例えば自分が現実にもっと飽き飽きしていて突っ込んでしまっても良いと思っていたら
或いは相手がもっと自暴自棄で誰でも良いから壊したいなんて思っていたら
どうなっていたかなんてわからないよなと思う。
深い谷底に落ちる前にはよろめきやつまずきがあるもので、何かのきっかけで死にとらえられることもあるかもしれない。
餓死する人が稀なように、すべては何かのきっかけ。
上手く悪路を乗り越えていくために心身共に健康を。
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どういうふうに生きれば良いかわからなくなる日々だった。親が長く生きれば生きるほどにお金がかかり自分と連れ合いの生の脚をひくことになる。
長く生きてほしい気持ちと裏側にある死んだほうが助かるという気持ち。
天使と悪魔どころではなく常に自分が生み出した善と悪が概念として両肩にいて囁き悲しませ喜ばせを繰り返している。
自分で何とかしないと!という気持ちはあっけなく生活保護の申請が代替えしてくれた。持ち金がなくなる直前に。
母をなんとかしなきゃと思えば思うほどセーフティネットから遠ざかる不���議。
むしろ資産を一つずつ剥いで、丸裸にした方���良いのだ。正しく努力すればするほど苦しくなる。
諦めて、行政にお願いするだけで、あっけらかんと死ぬほうがよいという気持ちが消えて、天秤の片方に生きててほしいが残った。
無理することは何もなかった。
同時にこんなにも簡単に救ってくれて、保護を受ける前よりもむしろ生活費をくれる制度が恐ろしくもあった。この国の必要最低限の暮らしはずっと恵まれていて、そこに元気でもしがみつく人がいるのもわかる。
けして許されることではないけど。
申請を終えたとき、本当に心が楽になった。感謝しかない。
連れ合いに言わせると
そのために税金を払っている。本当に困っているのだから甘えよう。となる。
中庸が1番割を食うのは変わらないが。
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もうひとつ
母が突然、長年信仰してきた宗教の悪口を言った。
きっと医療麻薬と脳梗塞のせいなのだけど、これも心を軽くしてくれた。仏壇や宗教関連の細々とした物のの処分に困っていたところだった。
宗教は母のほぼ全てだったのに、誰がどういう意図でそんなことを言わせてくれたのか。
少なくとも元気な頃は絶対に言わない揶揄だった。
この言葉を聞いてすべてを廃棄する決意がわいた。事実病気になってからの母が宗教で救われる場面をついぞや見なかった。本人も全くそのことについて触れなかった。
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少しずつ収束し経済的にも心情的にも肉体的にも終わりが近づいている。生活保護にお世話になるとしても長くて2-3ヶ月だろう。日に日に管が増えやせ細っていく母を見ると何も言えない。
これが、現代における人が死ぬということなのか。と疑問には思う。病院の在り方についても。
金にならない患者に転院を勧めたり、転院先を紹介料が入る有料老人ホームにしたり。健康は金もうけの道具だ。もはや。
それでも、おくらねばならぬ。その日に向かっていく。あと、どの程度時間はあるだろうかと、半月の入院費七万を見ながら考えていた。
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良いお年を
1月、なんだか連れ合い夫婦の親類に疲れてしまった。当たり前って当たり前ができない人にとっては毒なんだよな。
年末(12月30日)から1月2日まで泊まってげんなり。家族間の違いってやっかいだし人生観の違いもやっかいだ。
後半は札幌出張へ。友人の家業のお手伝い。雪がなんだか愛おしく感じた。夜は友人と飲み歩いていたわけだけど、札幌すすきのあたりにいけば誰かに会うというコミュニティのキュッとしたまとまりが新鮮だった。東京には人が集まれるような街がたくさんある。選択肢が多いのは良いことだけど寂しい侘しい気持ちにもなる。
2月 東京にも雪が降った。義父がなくなった2年前のことを思い出した。その度に相続で揉めている実子を思い出して腹が立つ。本格的に人に振り回されるようになったのはそのあたりからな気がする。プロジェクトの後輩に飲みにつれてかれて締めに入ったらーめん屋であった女の子としばらく連絡をとっていた気がする。名前ももう忘れた。
新しい生成AIの仕事が入��準備にも忙しかった。「夜明けのすべて」を映画館で見て、人が持つ障害や病について考えさせられた。受け入れて生きていく難しさ。ただ、日常を過ごす難儀さよ。
3月 霊視?ができる人のところにいった。人生の答え合わせのような時間だった。もう日記には書いたので詳しくは書かない。とにかく人と自然を敬って生きていこうと思えた。なかなか人にはできていない気がする。接待で連れてかれた料亭に、金を持った経営者にくっついてくる「女性がいたほうがなんとなく見栄えがよい」みたいな思惑で連れてこられた女の子がいて妙に気に入られた。薬をやってるんだかずっと酔ってるんだか、へらへら笑う子だった。帰りに袖をつかまれたときに合った目が急に正気で「どっかいこ」と言われたのが「逃げよう」という意味に聞こえてしまって急に怖くなった。「こんどね」と言って手を振りほどいてゆっくりと離れた。
末には母がようやく病院に行き、大きな病院での受診を勧められている。
4月 母の余命宣告を4月の1日に医師から受ける。ステージ4の肺がん。残された時間を良いものにと思っていたが、何度も躓いている。きっと自分は良い子供ではない。母が人生で一番大切にしている宗教を大切にできないからだ。脳への転移も中旬には見つかり、治療を選択する。今思えば、母が人間らしく生きることができる分かれ道はここだったのかもしれない。奥さんの友人夫婦と飲みに行った際にパートナーシップについて考えさせられた。どうしたって男女に力の差はあるのだから恫喝や暴力で支配しようとしてはいけない。要求を通そうとしてはいけない。と話しても無駄だった。人への説得や説教は無駄に終わることが多い。人は人生で何度かしか学べない。ちいさこべえ。沖縄出張のついでにひめゆりの塔にもいった。献花した。嘉手納町の光と闇を知る。
5月 母の入院に伴い実家で過ごすことが多くなった。抗がん剤は良く利くものほど副作用が大きい。あっという間に母はボロボロになっていった。もともと食が細く、身体も瘦せていて、体力もない母がさらに骨と皮になっていくのは見てられないものがある。きつかった。5月はTumblr民とひとりあった。人生で一度も交錯することのなかった人の話は面白い。筋が通った人生で羨ましいと少し思った。5月は冨山出張もあった。そして三峰神社にもいった。
家を建てるためのプランニングが本格的になったのもこの頃だ。決められたところに自分のサイズを合わせて住んできた自分には注文住宅という選択は意味がわからなかった。結婚は人の価値観に片足を突っ込みながら生きることだ。
6月 誕生日。東京ドームホテルのブッフェでごはんを食べた。あと下北沢で「辰巳」を観た。今年見たドラマや映画の中で5本の指に入る作品。連れ合いは中旬に韓国旅行へいった。女性は好きですね。韓国。プロジェクトチームの女の子のことを女の娘と書いたことで変な絡まれ方したのもこの頃だ。辞書を引けと言いたい。母と冥土の土産的なプレゼントとして宮古島旅行をプレゼントしいったのも6月か。身体の自由がきかない母はあまり楽しめなかったかもしれない。たまに思い出すことがあれば良いが。母はそういうタイプでもない。
7月 新しい仕事が舞い込んで研修つくりをたくさんした月だった。母の闘病は相変わらず続き。夏の暑さからかあまり記憶がない。
8月 妊活が始まった。これはけっこうつらかった。なんだか閉塞感がとてもある時期だった。予定調和の上を歩いているようで気持ち悪かった。「ラストマイル」を観た。エンタメとして最高。自分のために働くっていつの間にかにできなくなるよね。選んで人のために働くならいいけど、人に搾取され続けるのはしんどい。
9月 相続がようやくまとまりかける。弁護士さんが入ると話が早くて助かる。家の工事も始まった。幸福な家庭の風景が相変わらず自分の中にはなくて、いつかどこかへ行きそうで怖い。それは実の父と同じで嫌だし、あこがれるし。父も金さえあればそんな生き方で良かったのかもしれない。実家の売却も現実味を帯びてきて、家を見ては無駄なものの多さに頭が重くなる日々。結局はしりぬぐいはこちらだから。いつも。もう一人Tumblr民と会った。自由で羨ましいが、その自由さを羨ましがられることがこの人の業だなと思った。人は手に入らないものを欲しがるから。相変わらず母は通院。一度、治療するを選択するとこちらから声をかけるまでストップしないのが病院で。そんなことも知らなかったな。
10月 母の二度目の癌の脳転移が見つかり、喪服を買う。母から急にもう犬の散歩ができないと連絡がきたのも10月。それは良いけど、事前に相談するということができないのに腹立たしさを覚えた。いつもそうで、限界になってからパスされる。久々にバイクを買った。去年買ったお気に入りのコートも今年は着ていない。そういう機会が減った。
11月 福島出張。気晴らしになった。母の治療方法は試してはダメを繰り返してもう残り少ない。分の悪い賭けはやはり奇跡は起こらず終わる。閉塞感は孤独感に変わってきた。孤独なら良い。親しい。
12月 大阪出張。介護系のセミナーの撮影。「認知症と癌が一番幸せな死に方っていうよ」と励まされた。認知症はすべてを忘れてい��から。癌は死ぬ時期がわかるからお別れがしやすい。10年会っていなかった兄家族と母を合わせる。意外と何事もなかったかのように話しているそうだ。その場に自分はいたくない。白けてしまう。
人の一生について考える。経験したことが身体や心に沁みついて、時にそれが毒となる。小説家などの自殺者について調べた人が大抵は小さい頃に愛されなかった記憶を抱えていると言っていた。老いるということは、無力だった小さい頃に戻ってしまうという怖さと戦うことになる。人に迷惑をかけて生きるということがどうしても許せなかったのだろう。生きるということは迷惑なことだ。きっと誰もそう。そうなんだけど開き直ったら終わり。
年末年始は犬の世話があるのでひとりで実家にいる。連れ合いの実家にいかなくてよいのはなんとも楽だ。スーパーで少しだけ良いものを買って食べる。そして年越しそばの準備をしている。もうすぐ2025年だ。全部片づけていこう。
なんとか今年中に書き終わった。良いお年を。
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1週間ほど前から、母は歩けなくなった。立つことも座位もできなくなった。そうすると困るのは排泄。オムツはしてるものの定期的に交換しなくてはいけない。
ただ、肺がんはもはや母の背中の輪郭を追い越すほどに大きくなり左横向きでないと痛みが激しいようで体位変換もままならない。
母の友人が二人来てなんとか排泄処理をしてくれたが、壮絶でこんな大変なことを無償で他人にさせて良いとは思えなかった。
母は10年会っていない兄と孫たちに会うまではと在宅を死守しようとしていたがここらが潮時だと判断。
数日前から顔に歪みが出てきたこともあり、救急車を呼んだ。通常の通院もできないのだから仕方がなかった。隊員の方々に運ばれるが、やはり痛みが激しく、素人ではどうやったって動かすことはできなかったなと判断は間違ってないと罪悪感を飲み込む。
痛みもあるだろうが、母の態度は誰に対しても刺々しい。ドラマや映画で見るような最後は安らかに菩薩のように。とは全然いかない。人相も悪い。
朝の10-17時頃まで��査からの入院手続きに時間がかかった。山程の書類にサインし、生活用品を買った。
主治医からは痛みが激しくじっとしてられないのでMRIは撮れなかったと言われた。おそらくは脳梗塞があるが、CTではわからないそうだ。
緩和ケアに入院。もう治療のしようもない。
どちらかといえばホッとした気持ちが大きい。人に迷惑をかけて、親族にも負担をかけている。まだ、母がも模範的な患者ならいいが、ろくに運動せず、ろくな食事をせず、薬も飲んだり飲まなかったりで、「生きたい」という気持ちと態度が合っていない。それに支える側も腹が立つ。
最後まで言ってることとやってることが違うを地で行く人だ。誰かがなんとかしてくれるはこと病気には通用しない。
身の回りの整理をして、「またくるね」と話した際に「もう、いよいよとなったら大量の痛み止めをもらってうちに帰る」とゆがんだ顔で言った母は意地の悪い魔女のようだった。
立てもしない、自分で排泄もできない人が何を言っているのか。まだ、人に迷惑をかけてまで我を通そうとするのかと自分の母ではあるが、心底がっかりした。
「母にはここで死んでもらおう」と心に誓った。その罪や罰があるならば引き受ける。これ以上人に迷惑をかけるのは違う。そう思った。
もちろん母には何も言わない。死という大きな言い訳で押し返される。弱者は強い。
帰り道歩きながら、酷く情けない気分になった。
人生の引き際がこんなにも醜く、それが自分の母なのだ。と同時に癌という病気は、少なくとも母の肺癌は治療にしがみついて、できることがなくなったときにはもう体の自由が利かない。
余命何ヶ月になり、車椅子でもいいからゆったりとした余生を送る。そんな甘い生活は、治るかもしれないという希望を早めに捨てないと手に入らないものなのだ。母は醜く執着し過ぎた。両方は手に入らない。
選ばなくてはいけないタイミングは実はずっと前でもうとっくに逃している。
「こんなんわからんよなぁ」とひとり呟く。
ここ数日の夕焼け空はその派手な色と裏腹に大気を温めてくれない。白い息が舞っていった。
新百合ヶ丘の駅前はクリスマスマーケットの準備に余念がない。どこか浮かれた人の顔にモザイクがかかる。頭の処理能力が落ちてる。早く帰ろう。
風呂に入り、少し寝て
自分のときは間違えないように。未来のために胸に刻むのだ。
336 notes
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母を見ていると
もはや、自分の痛みとどこで折り合いをつけて人生から退場するかだから
これって実はどの人生の場面でもあり得るかも。
痛みの種類がその都度心なのか身体なのか変わるだけでさ。
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少し怖い夢を見た。
その夢の示唆は
過ぎ去った者にまつわる贈り物は捨てなさい。
と
その人が何も思っていなくても、自然と縛ってしまっていることもある。
だった。
夢の中で自分は泣いていた。
いつか、誰しも言葉を持たぬものになること寂しがって泣いていた。
部屋の片付けをしようと思う。もう、引っ越しも実家の整理も近い。
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