#赤い縁取り
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エケベリア ロンギシマ
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自室の記録
5年前からルームシェアをしているSと一緒に引越しをしてから、3年が経った。寝室をSが、リビングを私が自室としている。私の部屋の正面には大きな窓があり、左右にもそれぞれ小窓がある。
小窓1
装身具類の置き場所。ピアスを置いている鳥のレモン絞り器は、Fさんから貰ったもの。Fさんはよく動物のものをくれる。犬の形をした栓抜きや、野営をするくまの置物も彼からのプレゼントだった。
カートリッジインクの空き容器には、ヘアピンやネックレスを入れている。私の父は吸引式の万年筆を好んでいて、父から贈られたペンもインク瓶とセットのものが多かった。実家を出て外にいる時間が増えてからは、インクを切らすことが怖く、自然と替えのインクを持ち運べるカートリッジ式の万年筆を使うようになった。それからしばらく経ち、1年前にプログラマを辞めたことを手紙で報告すると、その数日後に「励まし」とボールペンが送られてきた。以降ずっとそのペンを使っているから、手持ちの万年筆はどれもインクを抜いてある。
よく付けるピアスは窓の縁に置いていて、どこかの喫茶店で使われていたらしい伝票入れには、硝子のオーナメントやトライアングルのビーターを差している。
Hのくれたトライアングル本体は、腕時計とブレスレットを失くさないための場所として機能している。良くない使い方だと罪悪感を覚えてはクロスで磨いている。
小窓2
『陶の家』を見かけたらひとつ買うというのを続けていて、現時点で3軒が建っている。少しずつ街になっていく。家の奥には、ミナペルホネンの好きなQさんにプレゼントしたものと色違いのタイルを置いている。
小窓3
すぐぼろぼろにしてしまう指先のケア用品を置いている。H先輩に貰ったネイルオイルの磨硝子が好きだった。Fさんが動物をくれるように、この人は硝子をよくプレゼントしてくれる。硝子のオーナメントも、ステンドグラスのくまもH先輩から貰っている。
窓を開閉するハンドル(オペレーターハンドルというらしい)に紐をかけて、ケーブルや電源類をまとめている。先日Eから貰った白いカールコードのシールドもここに下げている。黒い服ばかり着ているのに、Eには乳白色のイメージがある。“誤って人間として産まれてしまった天使”だと感じさせる人と知り合うことが何度かあり、Eもその中のひとりだった。
向かって左には仕事用のシャツ、右には外套を何着か掛けている。秋冬用の服ばかりある。
机
ここに越すことが決まってから最初に選んだ家具。プログラマになったばかりの頃、メモリの重要さを机の広さに喩えて教えられた。それで机は広いほど良いものだと認識したのか、気付けば横幅のある机ばかり探していた。天板の色を緑に決めて、部屋の軸に据えた。
職場で割ってしまったマグカップに無線イヤホンや保湿クリームを入れている。シャツを濡らしたまま破片を持つ私を見て、笑ってくれる会社の人たち。これ以上は無いとよく思う。
ヘアクリップ入れにしている、ままごと用のような小さな花瓶も気に入っている。渋谷の蚤の市で友人へのプレゼントを選んでから、度々その人の店でものを買うようになった。銀色のトレイやハート型の赤い缶もその人から買った。
銀色の電源タップは前の部屋から持ってきたもの。あらゆる電子機器の電力をここから供給している。
ギターをくれた友人たちが別の年の誕生日に合同出資してくれたオーディオインターフェースがモニターの下にある。未だに1-2と3-4の入力を同時にする方法が分からず、2つずつ付け替えながら使っている。これを貰ってからAudacityで曲を作り始めて、今もそのやり方をしている。会社の先輩には「システムを0と1だけで作ろうとしているみたいなものだよ」と言われたけれど、その頓馬さを含めて自分に馴染むので、Audacityをずっと使っている。キーボードがちょうど上に乗る。
モニターの横にはmicroKORGを置いている。普段は誕生日に贈り物をしないと取り決めているSだけれど、数年前に何かで手を貸した際「この恩は倍にして返します」と言い、その年の誕生日にmicroKORGをプレゼントしてくれた。このシンセサイザが部屋に来てから、自分の生活��向かうことのできる方角が増えたように感じている。大切な楽器。
microKORGには、新しい部屋で出した『野良の花壇』のマグネットを付けている。本来は冷蔵庫のために作られたマグネットだけれど、皆とスタジオにいる時にあって欲しく、ここに付けている。プリクラで来られなかった友達の似顔絵を描くような感覚。私の黒い冷蔵庫には、ピーター・ドイグの青鬼の絵と油絵の花のマグネットだけがある。
机の下に、PC・トランクケース・スーツケースを置いている。PCはSのお下がりで、MacBookしか使ったことのなかった当時の私は、こんなに大きな箱がPCだなんて、と思っていた。PCの上に付けたアンテナは狐の顔のような形をしている。
トランクケースは大学2年のころ大枚をはたいて手に入れたもの。どこか遠出をする時はこれに荷物を詰めている。畳み終えた洗濯物をSの部屋へ運ぶ時のかごや、ギターを弾く時の足置きとしても使用。頑丈さに安心する。
スーツケースはついこの間、京都に長く滞在するために買った。銀色の次に、灰がかった青が好きだと思う。
ギター・くま・本棚
ギターは高校時代の友人たちが誕生日にくれたもの。19歳になったばかりの頃、当時の交際相手と出掛けた帰り、気が付いたら楽器屋にいた。ギターを2本持ったその人に「どっちがいい」と訊かれ、指差した方を買ってくれた。私にギターを与え、弾き方を教えてくれたことにずっと感謝している。その人と別れてしばらく経ち、誕生祝いに何が欲しいかを訊かれ、ギターを頼んだのだった。友人たちは「あえて白にしてみた」と笑っていた。今思えば、このギターを貰ってから白を自分のものにすることへの抵抗が弱くなった。ギターの届いた日、触っているのが楽しくて大学を休んだのを覚えている。
YAMAHAのアンプは義兄が使っているのを見て購入した。私が真似をしていると知って嬉しそうだった、と姉から教えてもらった。
左端のくまは、元は白だったのだけれど、深い青のシーツで眠るのに付き合わせたせいで黝くなってしまった。Kの小説に「ヤニや涎で汚れてしまったのかしら」と書かれてからは、布で包んでいる。いつかぬいぐるみ病院に連れて行きたい。隣は一度も会ったことのない人が贈ってくれた黒いくまと、高校時代の交際相手が留学先のお土産として連れてきてくれた焦げ茶のくま。誰かとビデオ通話をする時にはよくパペットのくまに代理出席してもらっている。右は、地元や旅先の雑貨屋で見つけて連れてきてしまった(“しまった”という意識がずっとある)小麦と白のくま。グレーのワゴンに小さなギャッペを敷いて、くまたちの場所としている。
低い本棚の上
蓋のない宝箱。小物たちというより、質量のある記���群という方が実感に近い。
西荻窪にあった喫茶店の閉業を知って沈んでいると、H先輩が「お店で使っていた品物を販売しているみたいです」と教えてくれた。黒い花瓶のあるおかげで、ずっとその店を忘れずにいられる。今はEのくれた竹とんぼや、Aさんのくれた花を入れている。ポストカードをしまっておける箱のついた額縁には、Aの写真を入れている。過去、「__の写真を写真展に出してもいいですか?」と、もう搬入の終わった状態で確認の連絡が来たことがあった。Aがごく稀に見せる、こういった強引さが大好きだった。展示を了承する代わりに譲ってもらったその時の写真たちは、勾配天井の部屋に暮らしていた時に飾っていた。上京してから借りたどの部屋にもAの写真を飾っている。そのほか、江の島で拾った石や、Tさんがライブ終わりに嵌めてくれた指環、Uさんと行った犬吠埼のイルカの置物、書ききれないほどの誰かと紐付いた宝物がある。
声の依頼を受けた際、お礼にといただいた絵。額装までしてくれていた。元々この人の絵が好きだったので大喜びした。一度この絵を裏返さなければいけない時期があったので、また飾ることができて嬉しかった。
高い本棚の上
小さなギターは、Kさんと一緒にRさんの部屋でパーティをした日、中古のおもちゃ屋で買ったもの。Rさんの部屋に戻った後もご機嫌に鳴らしていて、そのあと火事が起きた。カセットコンロの火がテーブルクロスに引火して、火が早送りのように広がっていくのを見た。三人で死ぬ映像がちらついた、次の瞬間には火が消えていて、振り向くと花瓶を持って息を切らしたRさんが立っていた。チューリップを活けていた水での消火。このおもちゃが生き延びた証明になっている。このあいだのアルバムに入れたフィールドレコーディング曲にはその日の日付が付けられていて、火のはじける音やこのおもちゃギターの音が入っていた。volca keysは初めて触ったシンセサイザ。自分ひとりである程度のことができるようになりたくて、リズムマシンとマルチエフェクターを買った。
銀色のバットはひとつ前に住んでいた部屋の近くにあった台所道具の店で買ったもので、前日と翌日のあいだの時間に携帯品を置いておく場所として使っている。
Artekのスツール60を、椅子��ベッドサイドテーブルとして使っている。パーティめいたことをする時には、3脚くっつけて大きなテーブルとして使う。雑貨屋でまとめて購入したので、その日で店のポイントカードが1枚分溜まった。そのカードをイッタラのキャンドルホルダーと交換してもらった。
銀色のトレイは、先述の蚤の市で知った店で買ったもの。部屋のポケットとして使っている。
“拯”の字は、精神がどうしようもなく落ちていた今年の始めに、Uさんが「書初めをしよう」と言って筆を持たせてくれたもの。翌月にまた京都を訪れた際に、国際会館のカフェスペースで焼き上がったものを渡してくれた。頭でばかり考えてはすぐに身体と疎通できなくなる私に、四肢のあることを思い出させてくれる友人。
本の上には気休めの紙魚対策として除湿剤と防虫剤を置いている。
小窓4
Fさんからの犬の栓抜きと、Hに貰ったコンクリートの置物、H先輩が分けてくれた犬の箸置き。母の好きなミニチュアを贈る際、色違いのチューリップを自分にもひとつ購入して、端に置いている。自分のために生きた花を買えない反動か、花のモチーフのものを見かけると嬉しくてつい手が伸びる。
キッチン
私の洗面台を兼ねている。私もSも、料理と呼べるような自炊は殆どしないので、調味料や調理器具が少なく、キッチンの収納部にはそれぞれの私物が仕舞われている。
Mさんが引越し祝いに買ってくれたカセットコンロ。パンを焼く時やカフェオレを淹れる時に使う。組み立てる際の動作がロボットアニメのワンシーンを思い出させるので、人前で使う時には「変身!」と言うようにしている。
隣の空き瓶は元々ジンの入っていたもので、誰かに花をいただいた時には一旦ここに活けている。
この部屋に越した時にIがプレゼントしてくれたローズマリーの石鹸の匂いが好きで、貰った分���使い切ってからも自分で買い直している。歯磨き粉はGUM以外だと落ち着かないので旅行先にも持っていく。歯ブラシはKENTのもので、最初に使ったあとの歯の滑らかさに感動して、誰かに共感してほしいあまりSに押し売りをした。それからSも同じものを使っているので、それぞれのストックも合わせると10本近くこの歯ブラシがある。右端はリングホルダー。左手の薬指に環を嵌めるようになってから、指環が好きになった。今は5本の指環を付けている。
食器棚
H先輩のくれたくまを吊るしている。緑の石鹸はMさんのスペイン土産。ここに写っている鉄鍋も鉄フライパンも、写っていない3本の包丁も2枚のお盆も貰いもの。
ソファ
机の天板に合わせて布を選んだ、三人掛けのソファ。毎日ここで眠っている。Sの部屋にある質の良いベッドよりも、薄いマットレスを敷いたソファの方がよく眠れる。枕に近い小窓のハンドルにエジソンランプを括りつけて、普段はその光で睡眠薬が効くまでを過ごしている。
部屋のすぐ向かいには線路があり、3面の窓から電車の通る音や光が流れる。最終電車の後は、スケートボードの走る音や、酔った誰かの歌が聞こえる。この部屋で生活をしている。
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今年は暖冬と言われていた通り、多肉達は全体的に色付いてないね。
火祭りは一番染まったかな?
アガボイデス、魅惑の宵の方が縁が真っ赤になって好きだな。
虹の玉のはずなのにオーロラのような色してるねー
ゴールデングローがわりと染まったかな。
もう少しオレンジになって欲しいけど、うちの日照じゃ難しいか。
銀波錦さんは元気になって、葉もわさわさでよかった。
赤の縁取りが出てないのは残念だけど、元気なだけでいいよ、このコは。
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アマリア・ザタリ、BBCロシア語ソヴィエト連邦時代のロシアでは、隣近所の人や同僚や、赤の他人でさえ、当局に密告するのは普通のことだった。それが今では、ウクライナでの戦争に批判的な国民をロシア当局が厳しく取り締まる中で、誰かが気に食わないとか、自分には政治的な主義主張があるのだなど、様々な理由から、他人を密告するロシア人が増えている。「うちは、祖父が密告が得意だったので、どうすればいいか私は祖父に教わりました」「アンナ・コロブコワ」を名乗る女性はこう話す。ロシアの大都市に住んでいるそうだが、具体的にどこかは明らかにしなかった。広告そのコロブコワさんの祖父はスターリン時代、ソ連の秘密警察に匿名で情報提供をしていたのだという。当時は、他人を密告したり糾弾したりすることは日常生活の一部だったし、孫娘も今や祖父のあとを継いでいる。彼女は今では、ウクライナでの戦争に批判的だと思う相手は誰だろうと、片端から通報している。密告の常習者を自認ロシアによるウクライナ全面侵攻が始まって以来、自分は1397通の通報文を書いたと、コロブコワさんは言う。自分の通報によって、大勢が罰金を科せられ、解雇され、「外国の代理人」のレッテルを貼られたという。「気の毒とは思わない」と、コロブコワさんは明かす。「私が通報したおかげで罰せられたなら、とてもうれしい」。2022年2月にロシアがウクライナに侵攻してから間もなく、新しい検閲制度が法制化された。それ以来、コロブコワさんは暇を見つけてはオンラインで過ごし、「ロシア軍の信用を傷つけた」と思う人たちを次々と通報している。今の制度では、「ロシア軍の信用を毀損(きそん)」した罪で有罪となれば、最高5万ルーブル(約8万円)の罰金か、2回以上の再犯の場合は最高5年間の禁錮刑の罰を受ける。コロブコワさんは私の取材に対して非常に慎重で、メールでのやり取りにしか応じなかった。自分の顔を出すのはいやで、自分の身元を証明するものも提示したくないと力説した。なぜかというと、「殺してやる」と脅されることが多く、自分の個人情報がハッキングされたり盗まれたりするのが怖いからだという。では、なぜ自分と同じロシア市民について、密告するのか。動機は二つあるという。第一に、ロシアがウクライナに打ち勝つための手助けを、自分はしているのだと。そして第二に、自分の経済的安定の助けにもなるからだと。コロブコワさんは独り暮らしで、人文系の教授としてパートタイムで働いているという。貯金を取り崩しながらなんとか、やりくりしているのだと。もしも戦争でウクライナが有利になれば、ロシアは賠償金を払う羽目になり、そんなことになれば国全体と国民全員の経済状態が打撃を受けかねないと、心配しているのだと話す。「特別軍事作戦に反対する全員が、私の安全と生活にとって、敵です」。こう言うコロブコワさんにとって、ウクライナの勝利は自分の敗北を意味する。「貯金がなくなって、��ルタイムの仕事を見つけなくてはならなくなる」政府から離れて活動するロシアの独立系人権団体「OVD-インフォ」によると、新しい検閲法が制定されて以来、軍を批判した疑いで8000件以上の事案が立件されているという。標的コロブコワさんが通報するのは主に、マスコミに話をする人たちだ。特に、BBCなどの外国メディアの取材に応じる人たちを、標的としている。人類学者のアレクサンドラ・アルヒポワさんも、コロブコワさんに通報された一人だ。画像説明, アレクサンドラ・アルヒポワさんは人類学者として、ロシアで密告が再燃している現状を研究している「彼女はもう7回、私のことを通報しています」とアルヒポワさんは話す。「密告文を書くことがあの人にとって、当局とやりとりする手段で、それが自分の使命だと思っている」。「自分にぴったりな、得意なことを見つけたんでしょう。彼女に糾弾されると、専門家や研究者は往々にして、黙るしかなくなる」アルヒポワさんは今や亡命中だ。自分が昨年5月にロシア国内法に基づき「外国の代理人」と認定されたことと、コロブコワさんの行動は、無縁ではないかもしれないと思っている。「彼女に通報された私の友人たちは、もう一切、マスコミに話をしなくなりました。なので、彼女は成功したと言えるでしょう。任務完了です」もう一人、標的にされたのは、タティアナ・チェルヴェンコさんというモスクワの教師だった。ロシア政府が2022年9月に愛国教育を導入した際、チェルヴェンコさんは独立系メディア「ドシチ(TV Rain)」で、自分は代わりに数学を教えることにしたと発言した。「ドシチ」はその後、ロシア国内では閉鎖され、今ではオランダを拠点にしている。「ドシチ」のインタビューを見たコロブコワさんは、チェルヴェンコさんを攻撃し始めた。チェルヴェンコさんの勤務先に苦情を繰り返し、モスクワの教育当局やロシアの子どもの権利当局にもクレームを重ねた。結果的にチェルヴェンコさんは、2022年12月に解雇された。画像説明, タティアナ・チェルヴェンコさんは、自分が教職を追われたのは、通報・糾弾されたからだと言うコロブコワさんは自分のしたことを、何も後悔していない様子だ。それどころか、自分が通報した人たちのデータベースを作り、その結果どうなったかも記録している。自分の通報の結果、6人が解雇されたほか、15人が罰金処分を受けたのだという。コロブコワさんは、ロシア国家の敵だと思う相手しか自分は相手にしていないと力説する。しかし、ロシア国内には個人的な恨みつらみを晴らすために通報している人��いるという話が、BBCに寄せられている。投獄され、自由を求め漁師のヤロスラフ・レフチェンコさんは、ロシア極東のカムチャッカ半島出身だ。半島は火山と珍しい野生動物で有名なだけでなく、ロシア軍が重点配備されていることでも知られる。この地域に住む人たちの多くは、ウラジーミル・プーチン大統領を支持している。レフチェンコさんの同僚たち���そうだ。画像説明, ヤロスラフ・レフチェンコさん2023年2月のことだ。レフチェンコさんの漁船は1カ月の航海を終えて、カムチャッカの港に戻った。仲間の漁師に酒を勧められたが、断った。相手の男は以前から自分に不満があったらしいと、レフチェンコさんは言う。酒を断ったことから口論になり、レフチェンコさんは頭をびんで殴られ、意識が戻った時には病院にいた。退院が許され、被害届を出そうと警察署へ行くと、通報されていたのはむしろ自分の方だと知らされた。暴行ではなく、反戦思想を理由に。愕然(がくぜん)とした。レフチェンコさんに警察は、彼を殴った同僚を訴えられるほどの証拠がないと告げたのだという。やがて7月13日になり、レフチェンコさんは逮捕された。BBCが確認した裁判資料によると、問われている罪状はテロの正当化だ。そんなことはしていないと否定するレフチェンコさんは、公判開始前という理由で勾留された。BBCと連絡をとるには、弁護士に手紙を託すしか方法がない。「私が他の船員に暴力をはたらいたと、捜査員たちは言う(中略)そして、ロシア連邦に対して敵対行為をするつもりだと、私がそう話していたことになっている」と、レフチェンコさんは私たちに書いた。画像説明, BBCが確認した書類によると、レフチェンコさんはテロを正当化した罪に問われている。本人は否認しているレフチェンコさんの友人たちは、相手の船員が自分の暴力行為をごまかし、警察の目をそらすために、彼が通報したのだろうと、私に話した。漁船内での飲酒は禁止されているのに、酒を勧めたことも、相手の男はごまかそうとしているのだろうと。「自分はただ家に戻りたい」と、レフチェンコさんは言う。「自分の牢(ろう)では、何重もの鉄格子の向こうにかろうじて、空がぎりぎり少し見えるだけで、こんなことは耐えられない」。彼がこう友人に書き送った手紙を、その友人がBBCに見せてくれた。「果てしない訴え」戦争が始まって以来、あまりに大量の通報が次々とくるため対応しきれないのだと、ロシア警察は認めている。「誰かがロシア軍を批判したという訴えが、延々と届く」ため、警察はその捜査と対応に多くの時間を割いているのだと、警察関係者はBBCに匿名で明らかにした。「特別軍事作戦」をめぐり「何かしら他人を攻撃したい人たちが、常に言いがかりの口実を探している」のだと、引退間もない警官がBBCに話した。「おかげで、たとえ具体的な中身のある本物の案件がいざ来ても、捜査しようにも人手がない。みんな、ウクライナの旗に見えるカーテンを見たという、どこかのおばあちゃんの話を確認しに、出払ってしまっているので」プーチン大統領は、「裏切り者を罰せよ」と繰り返している。そして、ウクライナでの戦争に終わりは全く見え���い。それだけに、コロブコワさんのような常習的な密告者も、ほかの市民について密告するのを全くやめようとしない。「私はこれからも、通報文を書き続ける」と、彼女はメールでBBCに伝えてきた。「たくさん書かなくてはならないので、忙しい」のだという。(英語記事 Ukraine war: The Russians snitching on colleagues and strangers)
ロシアで増える密告……同僚でも他人でも - BBCニュース
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小休止6
鉢物 小さめのプランターにて株分けを進めているガザニアです。梅雨明けてから急激に上がった湿度のせいか、一番ダメージの大きいガザニアをやっていきます。 以前は足の踏み場もないほど密集してましたが、逆にそれがまずかったようです😫 4/5くらいのガザニアがダメになってしまいました。これからも少しずつ株分けをして、どうにか増やしていこうと思います。 狙い通りにいってくれるといいのですが、なんとも言えませんね。ただ増やすだけでなく、間引きも必要かもしれません💦 そしてトウガラシの鉢物です😅 地植えすると虫にすぐやられるので、今のところこの場所で鉢に入れて育てることにしています。今年からはひとまわり大きめのもので、もっと実を付けてくれるかどうかチャレンジです😂 ゴム製のハンマーで何度も鉢を叩き、縁を鉄製の杭で刺しながら少しづつ本体を取り出します。 地元産の赤土と有機肥料を下の方へ混ぜて敷いてから、ト…
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神島にて、三島由紀夫が『潮騒』取材中に滞在していた寺田家を、宿泊した旅館にお願いして案内してもらいました。
①寺田家に続く階段
②『潮騒』の登場人物、漁業協同組合長「宮田照吉」のモデルになった寺田宗一さん宅。現在はどなたも居住されていません。
③寺田家の屋根越しに臨む景色。島の電気供給に大切なケーブルは、まるで空に線を引いたように見えます。
④玄関を入ってすぐ。左側には原作の通り、急な傾斜の梯子階段がありますが、本当に梯子のように急な傾斜で撮影出来ませんでした。
⑤三島由紀夫が朝6時半に起きる毎日を過ごしていた2階のお部屋。
⑥2階の窓から三島由紀夫も眺めたと思われる眺望。
⑦三島由紀夫から寺田宗一さんへの贈り物など、所縁の品々。赤い机は当時、三島由紀夫が実際に使用していたもの。奥に山口百恵さんのパネルが❗️
⑧三島由紀夫のサインの入った品々。左上はシガレット入れの付いたライター、右上はその外箱。
⑨怖い程、澄み切ったエメラルドカラーの神島の海。
当時、28歳だった三島由紀夫が、
「人口千二、三百、戸数二百戸、映画館もパチンコ屋も、呑屋も、喫茶店も、すべて「よごれた」ものは何もありません。この僕まで忽ち浄化されて、毎朝六時半に起きてゐる始末です。ここには本当の人間の生活がありさうです。たとへ一週間でも、本当の人間の生活をまねして暮すのは、快適でした。」と川端康成宛の手紙に書いたように、現在も映画館、パチンコ屋、そして呑屋はありませんが、宿泊した旅館の姉妹店でもあるかわいい喫茶(軽食)店が時計台の隣にありました。
人口は昭和28年当時、1,200〜1,300人となっていますが、2022年で402人に…。澄んだ海のように島の人々は快活、気さく、親切で働き者ばかり、しかし荒波で知られる伊勢湾の海を相手に命懸けの漁業をされるのですから、遊びに来たのがちょっぴり恥ずかしくなるような旅でした。
#潮騒#潮騒の地#三島由紀夫#神島#寺田家#寺田宗一氏#離島#三重県#鳥羽市#漁村#yukio mishima#kamishima#kamishima-iland#toba-shi#mie prefecture#the sound of waves
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024年)9月14日(土曜日)
通巻第8409号
中国、アメリカ養親者との養子縁組みを中止
一方で、定年の延長へ方針転換
*************************
広州へよく行っていた頃だから2005年から06年度ごろだった。定宿の花園ホテルが満員で白雲ホテルに宿泊した。朝、遅い朝食を取りに豪華なロビィへ降りてビックリした。喫茶しながら赤ん坊を籠に乗せアメリカ人夫婦と中国人の伯母さんがお喋りをしている。それが六組か七組。なにかと思って聞き耳を立てると養子縁組の斡旋風景だった。異様な風景だった。
そして翌日、東京行きの飛行機に乗ると中国生まれの赤ちゃんと抱えたアメリカ人カップルが30組ほど乗り込んできた。東京でアメリカの別々の都市へのフライトに乗り換えるからだ。
中国は養子縁組を積極的に進めていた時代で、民政部の所管に「中国養子縁組組織」が置かれていた。
政府が養子縁組で海外へ孤児を送り出す支援をしていたのである。
1992年に中国は外国人が中国人の子供を養子にできる「養子法」を施行し、中国における外国関連養子縁組への扉を開いた。
2005年4月、中国全人代常務委員会は児童の保護と国際養子縁組に関する協力に関する条約を承認した。孤児の増加がピークに達し、年間5万1,000人の孤児のうち1万3000万人の赤ちゃんが外国人家庭に養子縁組され、全体の養子縁組の25%を占めた。
米国では合計8万2658人の中国人の子供を養子にしてきた。
外国人養子総数の三割が中国からで、しかも大半が女の子、一人っ子時代だから女の子が生まれると孤児か棄児扱いとされる。2005年がピークでアメリカへわたった中国人の子供の数は7,903人だった。
それまで養子の条件は孤児あるいは棄児で、被扶養困難児童と呼ばれた。養子になるに10歳とこえていたら本人の同意も必要だった。要親の条件は35歳以上。ただし未婚の場合は40歳以上で扶養教育能力を保障する書類が手続き上必要とされた。
以後、海外養子縁組の基準を修正し、たとえば30 歳未満または 49 歳以上の養親申請者、一人当たりの年間所得が 10,000 米ドル未満、純資産が 80,000 米ドル未満の世帯、身体的および精神的健康上の問題を抱えている申請者、肥満指数が過剰な養親は引き取り手は除かれた。
中国の養子の数は2014年に2,800人に減り、5万1000人のピーク時から80%の激減だった。そして2024年8月、中国政府は「孤児などを養子縁組のために中国人の子供を海外に送らない」と発表した。
▼アメリカで幸せを得られたのだろうか?
方針転換である。
少子化対策の一環か? ただし例外があり、三世代以内の傍系血���の子供や連れ子を養子にするために中国に来る外国人を除く(外国人と言っても「中国系アメリカ人」が殆ど)。9月になって、中国民政部は米国に対し、国際養子縁組業務を一切実施しないと通告した。
筆者が広東で目撃した養親希望者に引き取られアメリカへ渡った「幸運な」中国人女性らは、順調にいけば大学生だろう。幸せにアメリカの大學へ入学させて貰えたか。幸せな人生を送ってこられたか?
比例するかのように中国は定年引き上げに動き出した。
現在、男性60歳、女性50歳(管理職55歳)となっている法定退職年齢を2039年までに男性63歳、女性55歳(管理職58歳)とする。同時に年金を受け取るために必要な保険料支払い期間を延長し、現行の15年を最終的に20年とする。
現在の制度は1950年代に大枠が定まり、国民の平均寿命が80歳近くに達する中で時代に合わないと指摘されていた。
中国14億人口の2割が60歳以上となった。労働人口の急減で2035年に年金財源が枯渇するため、定年延長が不可欠となったのである。
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11月24日(日)open 12-18
皆さまいつもわかりにくい路地裏の店に足を運んでくださってありがとうございます。 明日が定休日なので、前もってご挨拶を。 明日、11月25日で本・中川は開店8周年を迎えることができます。 いつもお店に来てくださる方、遠くから本を注文してくださる方、そしてここで展示をしてくださる皆さんや、協力してくれる先輩方や仲間たち、本を届けてくださる取次の皆さま、作家さん、版元さん、たくさんの皆さまに支えられてここまで来られました。 いつもと変わらず、一日一日お店を開けていられるように、これからもどうぞ、お付き合いくださったら嬉しいです。 たくさんのことを抱えすぎて、手の回らない面もありますが、日々考えながら、手を動かしながら、来週からの9年目もひとつひとつ大事にやっていきたいと思います。 今後とも、どうぞよろしく��願いいたします!
さて今年最後の『暮しの手帖 33号』、特別付録の来年のカレンダーは塩川いづみさんの素敵な「季節のなかの赤」。 そして「目利きの本屋さんに聞いてみた」のコーナーでは、大好きな一冊『雨犬』(未明編集室)を紹介させていただきました。 今号のテーマは「音楽が聴こえてくるような本」です。 是非、暮しの手帖と併せて『雨犬』もお手に取ってみてくださいね。 (早速選んでくださった方がいらっしゃって嬉しい🐕!)
それから、ご縁があって今年初めてのことに参加させていただきます! 絵本専門士の谷口和恵さんにお声がけいただき、様々な事情で困難の中にある子どもたちに、誰でも本を贈ることができる「サンタ・プロジェクト・まつもと」の協力書店となりました🎅🏼 店頭でチラシを配布しております。 期間は11月30日(土)から12月8日(日)まで。 是非皆さまもサンタになって、子どもさんたちに本をプレゼントしませんか?
🎁贈り先は 信州大学医学部附属病院小児病棟 長野県信濃学園(福祉型障害児入所施設) 長野県立こども病院 松本児童園(児童養護施設) 城西病院小児科病棟 長野県松本あさひ学園(児童心理治療施設) 松本赤十字乳児院 長野県松本児童相談所 松本市子ども日本語教育センター 長野県松本養護学校 の10施設となります。
恥ずかしながら、こんなにたくさんの子どもさん達のための施設があることを私は知らずに暮らしていました… いつだって、世の中には自分の知���ないこと、気が付かない困難があるし、支援をしている皆さんがたくさんいるんですよね。 自分が本屋という立場で、何ができるのかと考えたら途方もないのですが、このような形で参加させてもらえる貴重な機会をいただきました。 私もサンタになって、どの本を贈ろうかな…と考えています。 皆さまも是非。
今日も地域猫が見守ってくれています。
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2024-2月号
アンビグラム作家の皆様に同じテーマでアンビグラムを作っていただく「月刊アンビグラム」、主宰のigatoxin(アンビグラム研究室 室長)です。
『アンビグラム』とは「複数の異なる見方を一つの図形にしたもの」であり、逆さにしたり裏返したりしても読めてしまう楽しいカラクリ文字です。詳しくはコチラをご参照ください⇒アンビグラムの作り方/Frog96
◆今月のお題は「レトロ」です◆
今月は参加者の皆様に「レトロ」のお題でアンビグラムを制作していただいております。各参加者が思い描くレトロなものは何でしょうか。ぜひじっくりご覧ください。
「懐古趣味」 旋回型:きいろいビタ氏
レトロをそのままとらえれば、「Retrospective=懐古趣味」。レトロ文字風にきれいにまとまっています。既存作との違いにも注目してみてください。装飾によりエレガントに仕上がっていますね。
「懐古趣味」回転重畳型:Σ氏
一見同じ対応付けのように見えますが、字画の差分を重畳型で解決し自然に仕上げています。足し引きの調整が絶妙です。対応付けを読み解いてみてください。
「レトロゲーム」���像型:ヨウヘイ氏
ドット絵にするとレトロ感を感じるのは、実はある程度以上の世代だけなのかも知れません。 ロゴ的にまとまっているのと、ドット表現がぴったりなこともあり、変形していても何となく読めてしまう面白さがありますね。
「アーケードゲーム」 旋回型:つーさま!氏
同じ形が「アー/ケー/ド/ゲ/ーム」の5とおりに読める力作です。前後の言葉のつながりにより「ケー/ゲ」を振動させているのも面白いです。
「ブラウン管のレトロなテレビ」 回転型:超階乗氏
ブラウン管のテレビ、今は教科書から知る人も多いでしょうね。 ブラウン管の画像の乱れのような表現が解釈に自由度を持たせているようです。
「しろくろテレビ/ちゃぶ台」 図地反転型: いとうさとし氏
1950年代のお茶の間の光景ですね。 7文字と4文字で対応付けできてしまうのが神業ですね。文字数の差をどのように吸収しているかに注目してみてみると面白いです。
「pixel」回転型:繋氏
液晶パネルや電光掲示板なども昔はピクセルがしっかり見えているのが普通でした。 「pi/el」を切り替える共有部分の表現がピクセルにマッチしていて自然ですね。読みやすいです。
「古びた箱庭の下、広い芒畑が昭和の幻影と馨.辺境が甦る」 鏡像型:ちくわああ氏
文字列生成の大作が仕上がってきました。とにかく解読するのが楽しい作品、すごいです。ぜひじっくり読み解いてみてください。
「ガリ版」 回転型:lszk氏
謄写版の俗称。昔はテストや学級新聞などもガリ版で刷っていました。 輪郭の角度調節が上手なので、ここまでデフォルメしても容易に読めてしまいます。匠の技です。
「大正ロマン」 回転型:peanuts氏
大正時代の雰囲気を伝える思潮や文化事象。 既存作とは対応解釈が異なり、余計な線がなくなるように作字している点が優れていますね。作字としてもステキで素晴らしいです。
「レトロモダン」 図地反転回転型: いとうさとし氏
古いながらも現代的で洗練された意匠。 レトロキネマ風の文字を彷彿とさせるデザインでステキです。「ロ/モ」が裏表にできるのが驚きです。
「明治モダン」回転型:無限氏
昭和レトロ、大正ロマンときたら明治モダン。 右から左に読むようにデザインすることで対応付けがしっくりくる一石二鳥の解決策です。字形もハイカラでよいですね。
「セピア色」 振動型:lszk氏
色あせてセピア色になると古さと共にエモさも感じます。 切り替わる字画は一本だけできれいに読みが変わります。素晴らしい発見と表現力です。
「三丁目の夕日」 鏡像型:kawahar氏
昭和30年代の東京を舞台にしたお話。 影のような表現で斜めになっており純粋な鏡像型アンビグラムとはなっていませんが、この表現が雰囲気と可読性向上につながっていて面白いです。
「湯沸かし器」振動型:海氏
昭和の台所には湯沸かし器が設置されているものでした。 各文字とも大胆な解釈ですが、確かにそう読めます。「器」の略字を知っているとより読みやすそうです。
「高度経済成長」 図地反転鏡像型: いとうさとし氏
日本においては1955年頃から1973年頃が高度経済成長期とされます。 さすがの仕上がりです。3組分きれいに対応付けできる言葉を見つけるのも関心です。隙間で調整している部分が気になって文字として読めない人は、薄目でぼんやり見るなどすると読みやすくなるかもしれません。
「鉄人28号/横山光輝」 回転共存型:兼吉共心堂氏
昭和30年代に描かれた、同時代を舞台にした漫画。 赤字と黄色の縁取りのカラーリングは実際のロゴのうちの一つに似せたものですね。黄色部分をうまく利用して字画あまり部分を処理しています。
「ティファニーで朝食を」 回転型:.38氏
1958年小説発表、61年オードリー・ヘプバーン主演で映画化。 「朝食」を手掛かりに解読可能なデザインになっていて、「ティファニー」部分の組み方を読み解くのが楽しいです。
「写ルンです」 鏡像型:douse氏
1986年発売開始、レンズ付きフィルムの先駆け。 「写/す」がピッタリすぎますね。全体的に作字としてステキで、レトロ文字の香りもします。
「純喫茶」 回転型:螺旋氏
酒類を扱わない純粋な喫茶店のこと。特殊喫茶と区別するため昔は純喫茶と名乗る喫茶店が多かったようです。 随所に思い切った解釈がされていますが、うまい字画配置により読みやすく仕上がっています。レトロ文字風の書体でまとまっていてステキです。
最後に私の作品を。
「感慨」 旋回型:igatoxin
昔を思うといろいろと感慨深いものがあります。レトロ文字風に仕上げてみました。
お題「レトロ」のアンビグラム祭、いかがでしたでしょうか。昔を感じさせつつ新しい風も感じさせる作品が集まったと思います。
さて次回のお題は「うた」です。カラオケ、歌謡曲、和歌、現代詩、Ado、替え歌、ファルセットなど 参加者が自由にうたというワードから発想 連想してアンビグラムを作ります。
締切は2/29、発行は3/8の予定です。それでは皆様 来月またお会いしましょう。
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2023年 1月{フリー} 2月{TV} 3月{クイズ} 4月{健康} 5月{回文} 6月{本} 7月{神話} 8月{ジャングル} 9月{日本史} 10月{ヒーロー} 11月{ゲーム} 12月{時事}
2024年 1月{フリー}
※これ以前のindexはこちら→《index:2017年~》
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アガボイデス ヒダルゴ
#エケベリア#アガボイデスヒダルゴ#echeveriaagavoideshidalgo#爪先#赤い縁取り#コントラスト#多肉植物#多肉植物のある暮らし#多肉狩り#多肉植物好きな人と繋がりたい#多肉植物好き#多肉コレクション#多肉パトロール#多肉中毒#群馬タニラー#succulents#succulentlife#succulentlove#succulentlover#succulentcollection#succulentpatrol#succulentpoisoning
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18世紀フランスを専門とさせていただいておりますオタクです。これは非常に稀な例なため訂正させてください。修道院というのは純潔であってほしいと願う父親に入れられる娘が大半で、ガチ無垢お嬢様がほとんどです。なので元々淫乱シスター設定はやめてください!淫乱覚醒シスター設定でお願いします! 私は18世紀フランスガチオタクニキですが、史実に基づかないファンタジーえっちも大好きです。ただし、史実に沿ったという前提で元々淫乱シスターぶち込まれ修道院ハッピーライフはやめてください!男に夢見てるふわふわお嬢様たちが男を知るという方向性こそが史実に沿った本物のエロです!! ちなみに、修道院には元娼婦や公娼などが入ることもあります。ただ一度自立した彼女たちを「ぶち込む」権利は誰もなく、大抵実家とも縁を切っているので「出家」のような自主入院です。つまり、元水商売女たちは修道院で返り咲くことはなく枯れ果てています。もう昔の暮らしには戻らないと誓っています。 追加で言わせていただくと、当時、女性は男性に比べて性への過ちは一発アウト事案でしたので、淫乱になる前に修道院にぶち込まれることが大半です。なので、ちょこっとだけえっちなこと知っちゃった子が修道院にいる可能性は極たまぁにありますが学年に一人いるかいないかレベルかと思われます。
昨今のシスターキャラに王道の清楚キャラが希少なのは歴史的に正しい?→野生の18世紀フランス専門オタクによる修道院のガチ解説コミュニティノートが投下 - Togetter [トゥギャッター]
あと、これ言っちゃうとほぼ全ての悪役令嬢ものをぶちのめすことになってしまうので、出来ればここだけの話にしたいのですが、爵位のある女性は仲介人の女性または肉親の男性が居ない場所で、初対面の男性と二人きりになるだけで終わりです。社交界ではもう咲けません うぅ、あと、これもここだけの話なんですが…婚約破棄ってあるじゃないですかぁ…あれ、たまぁに他の女に婚約者取られた系あるじゃないですか…あれマジで有り得なくてぇ…史実!あくまで史実!であれば!寝取った女は淫乱売女呼ばわりされて二度と表に顔を出せません!あんなドヤ顔で主人公見れない! つまり、史実に基づく婚約破棄ざまぁモノにするならば、「あれ?私何もしてないけど王子様に気に入られて乗り換えられたら貴族の反感買って田舎に追放されました!」なんですよね…立場が逆なんですねぇ!!惜しい!!
赤ト 果那(@red_to_kana)さん / X
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ジェームズ・M・ブキャナン邦訳文献まとめ
- 単著(書籍, 出版年は原書)
『財政理論 ―― 民主主義過程の財政学』(1967)
『公共財の理論 ―― 公共財の需要と供給』(1968)
『選択のコスト ―― 経済学的探究』(1969)
『財政学入門』(1970)
『自由の限界 ―― 人間と制度の経済学』(1975)
『経済学の考え方 ―― ブキャナン経済学のエッセンス』(1987)
『公と私の経済学 ―― ブキャナン経済学のエッセンス』(1987)
『コンスティテューショナル・エコノミックス ―― 極大化の論理から契約の論理へ』(1991)
『倫理の経済学』(1994)
- 共編著(書籍, 出版年は原書)
『公共選択の理論 ―― 合意の経済論理』(w/ G.タロック, 1962)
『赤字財政の政治経済学 ―― ケインズの政治的遺産』『赤字の民主主義 ―― ケインズが遺したもの』(w/ R.E.ワグナー, 1977)
『ケインズ財政の破綻』(w/ J.バートン, R.E.ワグナー, 1978)
『公共選択の租税理論 ―― 課税権の制限』(w/ G.ブレナン, 1980)
『立憲的政治経済学の方法論 ―― ルールの根拠』(w/ G.ブレナン, 1985)
『財政赤字の公共選択論』(w/ C.K.ローリー, R.D.トリソン, 1986) ⇒ 内ブキャナン著作論文《「赤字体質の政府(w/ C.K.ローリー, R.D.トリソン)」, 「リカード流の等価定理の論理(w/ G.ブレナン)」, 「ケインジアン以後の政治における予算バイアス ―― 財政規範の侵食と復権の可能性」, 「債務不履行の倫理」》
『国際化時代の自由秩序 ―― モンペルラン・ソサエティの提言』(w/ M.フリードマン他, 1991) ⇒ 内、ブキャナン報告《「自由貿易の厚生政治学」》
『行きづまる民主主義』(w/ G.タロック, 加藤寛, 1998) ⇒ 内、ブキャナン報告《「多数決民主主義の制約」》
『財政学と公共選択 ―― 国家の役割をめぐる大激論』(w/ R.A.マスグレイブ, 1999) ⇒ 内、ブキャナン報告《「生い立ち、経験、およびアイデア:回想的評価」, 「マスグレイブ「財政の役割」への応答」, 「政治的行動に対する制約」, 「マスグレイブ「財政連邦主義」への応答」, 「道徳、政治、制度改革:診断と処方箋」》
- 論文など
「はしがき(w/ G.W.ナッター)」(F.H.ナイト 著『フランク・ナイト 社会哲学を語る ―― 講義録 知性と民主的行動』所収, 1960,)
「個人主義的アプローチによる政治過程論」(D.イーストン 編『現代政治理論の構想』所収, 1971) ⇒ 「政治過程の個人主義理論」として『公と私の経済学』に再所収。
「外部性(w/ W.C.スタブルバイン)」「公共財の供給(w/ M.Z.カフォグリス)」(経済企画庁経済研究所 著『公共経済学理論の展望』, 1971) ⇒ 「外部性」は『公と私の経済学』に再所収。
「公共財の過密」(西村光夫, 西山千明 編『新しい自由社会の展望:木内信胤先生古稀���念論文集』所収, 1972)
「競争的供給における外部不経済(w/ C.J.ゴーツ)」(『高速道路と自動車』vol.15 No.11 所収, 1972-11)
「赤字に抱かれた民主主義 ―― ケインズ卿の政治的遺産」(『大蔵省調査月報』vol.68 No.1~5 所収, 1979-1) ⇒ 『赤字の民主主義』(『赤字財政の政治経済学』)の抄訳。
「日本はまとまりの良い国か A Governable Country?」他(『日本は「ただ乗り大国か」国際シンポジウム 日本の主張’81』所収, 1981)
「ブキャナン教授に聞く ―― 米産業界にヤル気」(『日本経済新聞』所収, 1981-3-19)
「レーガン政権の新経済政策 ―― 減税は赤字財政拡大の懸念 ―― 大幅な歳出削減は当然 規制緩和で民間を刺激」(『日本経済新聞 経済教室』所収, 1981-4-4) ⇒1981年3月28日 日本経済新聞に抄訳記事あり
「レーガン政権の新経済政策 ―― カギ握る減税案の成否 ―― 景気の足引っ張る議会との妥協」(『日本経済研究センター会報』所収, 1981-4-15) ⇒1981年3月28日 日本経済新聞に抄訳記事あり
「財政赤字の諸問題」(『ファイナンス:財務省広報誌』17(3)(187) 所収, 1981-6)
「コスロフスキー「資本主義の倫理」に対するJ.M.ブキャナンの論評」(P.コスロフスキー 著『資本主義の倫理』所収, 1982)
「政治とおせっかい好き」(R.D.トリソン 編『喫煙と社会 ―― よりバランスのとれた評価にむけて』所収, 1986)
「人間と国家」(『世界経済』vol.42 No.1 所収, 1987-1)
「ケインジアンの愚見」(『公共選択の研究』No.10 所収, 1987)
「再生した政治の経済理論」(『大蔵省調査月報』vol.77 No.6 所収, 1988-6)
「経済インタビュー ブッシュのアメリカ ―― 歳出削減進みそう 為替が赤字調節機能担う」(『読売新聞』所収, 1988-11-10)
「カルテル・提携および立憲政治:探索的分析(講演記録)」(『公共選択の研究』No.13 所収, 1989)
「組織化された人間社会の潜在力と限界」他(『第1回 ノーベル経済学賞日本フォーラム ― 21世紀への創造 ― 1988年』所収, 1989) ⇒ 1988年11月10日 読売新聞に抄訳記事あり
「ポスト社会主義の経済学」(J.D.ヘイ 編『フューチャー・オブ・エコノミックス ―― 21世紀への展望』所収, 1992)
「経済学の勝利 ―― フクヤマ論文は間違っているか もしそうならそれはなぜか」(『会計検査研究』第7号 所収, 1993-3)
「《対談》「分配政治」への絶縁状(w/ 西山千明)」(『月刊 正論』250号 所収, 1993-6)
「レントシーキングと利潤追求」, 「外部不経済下でのレントシーキング」, 「レントシーキング社会における改革」(R.D.トリソン, R.D.コングレトン 編『レントシーキングの経済理論』所収, 1995)
「米のノーベル賞経済学者 ブキャナン氏に聞く ―― 財政赤字削減「米合意、意義ない」 日本の財政・金融分離 予測しやすい政策を」(『日本経済新聞』所収, 1997-9-2)
「ジェームズ・M・ブキャナン教授(ノーベル経済学賞受賞者)に聞く ―― 財政均衡化へ向け米国憲法を改正せよ」(『週刊東洋経済』1997年9月27日号 所収, 1997)
「小手先でなく抜本的改革こそ正道 ―― 日本もシステム全体の変革で「取引」の余地なくせ」(『日経ビジネス』2002年1月28日号 所収, 2002)
- その他
「欧州連邦憲法制定の好機 ―― アメリカ史からの教訓」(『世界経済 Journal of World Economy』vol.45 No.13, 1990-11) ⇒ 要約
「はだかの経済学者」(ブログ『himaginary's diary』, 2010年2月11日)⇒ 一部訳
#Buchanan#James Buchanan#James M. Buchanan#James McGill Buchanan Jr.#Jim Buchanan#ジェームズ・ブキャナン#ジェームズ・M・ブキャナン#ブキャナン
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2024年1月14日(日)
<SOU・SOU>に注文しておいた手ぬぐい(ひめ丈)が届いた。通常の手ぬぐいの半分の大きさ、ハンカチや弁当包みとして使いやすい。開封すると、この時期恒例の<節分の福引き豆>が入っていた。宝船のポチ袋を開けると、3種類の当たり(500円・1000円・2000円)が入っている(かもしれない)。恐る恐る開いてみると・・・なんと2,000円の大当たり、次回の買物に利用出来る。こいつぁ春から縁起がいいわえ!
6時45分起床、アラームをとめてから1時間熟睡した。
朝食は、昨晩の鍋の残りにそばを入れていただいた。
洗濯2回。
あれこれ片付け、掃除。
ランチ、息子たちには日清ラ王、私たちは出石蕎麦に鰊をトッピング。
今日は女子駅伝、テレビで応援する。
軽く午睡。その間、ツレアイはWeb研修、14時から17時まで。
セントラルスクエア花屋町店で買物、赤かれいと塩鮭半額だったので購入する。
私が夕飯準備をしている間に、ツレアイと3男がココに点滴。
早い時間に夕飯開始。
録画番組視聴。
桂文珍 落語「猫の忠信」
初回放送日: 2024年1月14日 桂文珍さんの落語「猫の忠信」をお送りします(令和5年11月9日(木)NHK大阪ホールで収録)【あらすじ】浄瑠璃の師匠・お静の稽古に通う次郎吉。お静と常吉の噂を耳にし、半信半疑で稽古屋をのぞくと二人でいちゃついていた。次郎吉はすぐに常吉の女房・おとわに報告すると、おとわは一瞬腹を立てたが、すぐに冷静さを取り戻す。なんと常吉は奥の部屋で寝ていたのだ。そこで、次郎吉と常吉が稽古屋へ行き、中をのぞくと…。
久しぶりに散髪をしてもらう。
入浴、体重は400g減。
正月の血圧は大分高かったが、少し落ち着いてきた。
日誌書く。
歩数、もう少し頑張らないと。
水分は、1,540ml。
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今から数年前に1万円で家を売った。 5月のある朝、突然携帯電話が鳴り、誰かと思ったら母からだった。 今、A県(亡き父の実家のある県)の警察から電話があって、伯父(父の兄)が遺体で発見されたと連絡が来たとのこと。家の中を捜索していたら、母の名前と電話番号があり電話してきたと言われた。しかし、持病もあるので息子と話してみると伝えたと。 簡単に言えば、遺体の引き取りの件で連絡が来たということだ。 父は今から30年ほど前にすでに他界してる。そして父方の実家には父の兄である伯父が単身で住んでいた。年にして80歳ぐらいだっただろうか。 その連絡が来る、1~2週間前にふと気になり、母に父方の実家の名義は誰になっているか尋ねたところ、私だと言う。 祖父が昭和30年代に建てたらしいが、その祖父が亡くなり、祖母の名義になり伯父は独身で祖母と伯父の二人暮らしだった。そして祖母も亡くなり、伯父の名義になっているかと思っていたが、弟、次男である父の名義であると以前聞かされていた。 そして、父はがんで今の私の年齢のぐらいで30年ほど前に亡くなった。そこで長男である私が自動的に相続していたようだ。 その後、父方とは音信が途絶え、関わりもなくなり、まさかと思い尋ねたら私名義だったと言うことだ。 これはまずいと思い、ネットで調べてみたら名義変更の相談は最寄りの法務局でとあったので、法務局の連絡先などを調べていたところ、伯父が急死した。 警察に電話をしたところ、死後3日ほど経っているが、検死の結果、事件性もないと判断した。よって遺体の引き取りをお願いできるかと言うことだった。 ふと、考え込んでしまった。あの家の名義は私ではあるが、音信不通になっていた期間は数十年。なぜ私が?と。 そこで私が迎えに行かなかった場合どうなるのかと担当刑事に尋ねたら、無縁仏に入ることになりますと。ああ、菩提寺あったなと思い出した。しかもそこのお寺のご住職は同級生でよく遊んでいたと父からも聞いていた。 仕方ない。迎えに行きますと答えた。そこからとりあえずで準備して、そのまま新幹線に乗り、レンタカーを借り、夜中の10時過ぎに警察署についた。 当直の職員に名乗ると、ああ、とすでに理解しているようで担当の者を呼んできますといい、取調室のような、応接室へ通された。他の刑事さんがお茶を持ってきてくれた。遠いところお疲れ様でしたと言うような挨拶はしたと思う。 担当の刑事さんともう一人の刑事さんがやってきて名刺を渡され、状況の説明と見つかった所持品の説明を受けた。 庭で発見され、全く外傷はなく、さらに雨風もなかったので全く汚れなどもない状態で発見され、検死をお願いしている大学病院でも、CTなどを撮ったが内臓からの出血もなく、外傷もなく、事件性はかなり低く、さらに病気も見つからなかったと言う。よって自然死としか言いようがないとのことだった。いわゆるぽっくり逝ったようだ。庭で作業していて心臓が止まり、そのまま亡くなったらしい。 発見は新聞配達の方が新聞が溜まっているのを見て、地元の民生員さんに連絡してくれて、110番して、警察が発見したとのこと。ありがたい話だ。 そして遺体安置所へ案内され、遺体と対面した。冷凍で安置されていたためか少し霜柱が鼻などについていたが間違いなく伯父であった。 再度、応接室に戻り、今後どうされますかとのことだったのでできれば、明日には荼毘と納骨は済ませて帰るつもりだと伝えると、遺体を一晩預かってくれる葬儀屋を紹介してくれた。葬儀屋さんが来ると手際よく、ワゴン車に棺を乗せた。刑事さんたちにおせわになりましたと挨拶をし、葬儀屋さんへ向かった。 一晩預かってもらうことができ、明日に運良く火葬場で荼毘ができるとのことだった。明日の朝再びこの葬儀屋で待ち合わせとなった。 料金は一晩で25万円とのこと。後払いで結構ですのでと気を遣ってもらった(?)振り込み用紙を折りたたみ財布に入れた。 とりあえず遺体は置いておけるが問題は自分だ。0時も回って今から泊まれるところはありますかねと相談したところ、葬儀屋さんが探してくださり、駅前の東横インに泊まれると。そのままレンタカーのナビに目的地を入れて向かう。 ホテルにつき、カウンターで支払いをする。一晩朝食付きで1.2万円ほど。 部屋へ行き、スマホの充電を繋ぎ、シャワーだけ浴びて、そのままベッドへ。はー、来てよかったと思った。 朝、ホテルで朝食を食べ、再度葬儀屋へ。途中コンビニにより、ATMで3万ほど下ろした。 葬儀屋さんの案内で火葬場へ。そのまま荼毘へ。焼き上がるまでお茶を飲んで待つ。荼毘を待つのはいつ以来だ?母方の祖母か?あれ?どっちが先だったか? そして、骨を広い骨壷に収めてもらい。挨拶をして、骨壷を助手席に乗せて菩提寺へ向かった。着いてから気づいたのだが、事前に連絡できなかったなと。 しかし、ご住職に会うと、事情は知っておりますとのことで話は早かった。このまま納骨させてくださいと伝えるとわかりましたと。その場で埋葬許可証を渡し、父方のお墓まで行き、納骨を済ませたところで、大変少なくて失礼ですが、こちらをと先ほどのコンビニでおろした3万円を包んだ封筒を渡した。ご住職はいえいえと恐縮されていたが、こちらとしても始末をつけねばならない。 そして、帰り際にこちらから、これにてこちらの家系は終わり、最後の納骨になりましたので、ひいては年度末に墓じまいもお願いしたくと申し出た。 では、年度末ごろに改めてご連絡しますとのことになった。よろしくお願い致しますと挨拶をした。 そのあとは実家周辺のお宅全てにご挨拶に行った。私は〜家の親族のものです。この度は大変ご迷惑をおかけしましたと、決まり文句を続けた。 全ての方が、まさか私が来るとは思ってもみなかったようで、どちらにお住まいの方?と尋ねられ、伯父の弟の息子で、B県に住んでいる。警察から電話が来て昨日の夜ついて、無事納骨までできたとこれも決まり文句で話し続けた。 皆一様に驚いていたが無事解決してよかったと。 その日は陽が暮れる頃に帰途に着いた。 そして、帰宅してからは「家」をどうするかと言う点だけが気になった。 無人の家に放火、居座られる(これを一番不動産屋が心配していた)、災害による周辺宅への被害は過失になる可能性があるが火災保険には入っていない。 名義は私だが何にも関係はない。住むこともない。なぜ私の名義になったのかはわかる。そして次男である父に名義が行ったのも以前から聞いていた。事情があった。その事情で伯父は孤立無縁だった。ちなみにこの時は血縁関係者は一人も現れなかった。事情は知っているが来なかったと言うことだ。 早く私としても終わりにしたいので、このご時世だ。県名を入れて、不動産売買のサイトで5社ほどに買取の件で一斉送信した。 すると買取不可が3社。仲介販売が1社。建物をこちらで解体したら土地のみを引き取りたいと言う会社が1社返答があった。 ちなみに地域的には限界集落である。バスもない、駅もない。人気もない。 仲介販売は200万円で売りに出しましょうと言う非現実的な提案だったのでお断りした。 引き取りたいと言ってきた会社に連絡をしたところ、いつ現場でお会いできますかと言う話になり、7月ならと。電気もガスも電話も固定資産税なども事情により父、母が支払っていたので、物が腐っても解体するのならいいと思った。冷蔵庫のものは知らんと。 ガスと電話、そして新聞を止めた。特に新聞は支店にも電話して丁重に挨拶をした。支店では事情を皆が知っているようで電話口の女性も同情してくださ��た。電話も遠くの地だと知るとさらに同情してくれた。 7月。不動産会社の方と現地で待ち合わせした。スーツを着た男性で30代半ばぐらいの方だろうか。お話を聞くと、東京で大手不動産屋さんに勤めていて、出身のこちらに戻ってきて不動産屋を開店したばかりだと言うことだった。 早速、解体についてお話を家の前で立ち話でした。おおよそ200万ぐらいはかかると思うと。家の前の道が狭いのでダンプなどが入れないため、余計に費用がかかるはずとの説明だった。 さらにこちらに来る前に登記簿を取ったが、複雑な登記になっており、道から家の間にお隣の方の土地があると。 お隣の方も出てきていらして、そうそうと。登記の確認の書類を持っていた。ああ、あんた、ここの持ち主さんかい?と。わかる、わかるよと。こちらは幼い頃に遊んでもらったことぐらいしかわからないのだが。 確認書には平成一桁代、つまり父が亡くなり私が自動的に相続した時に、ついでだからどこからどこまでがどうなっているのか確認しようとなり、お隣さん主導で確認し、ビス?を地面に打ってもらったと。そして、その確認のサインがあると言う。 紙をピラっと出してきた。そこには紛れもなく、私の筆跡の名前があった。私はこんな重要な書類にサインしていたのかと。驚いた。全く記憶にない。 ではということで、解体したら引き取りということで良いですかと確認したところ、不動産屋さんが、額に手を置いてしばらく考え込んでいた。 何かと思っていたら、すみません、1万円で引き取らせてくださいと言う。 え?無料でもいいんですが?と返すも、いいえ、それが無料だと色々税金やら何やらと面倒なのでと言うことだった。 売買ではなく贈与ということになるのか?まぁともかく1万円だ。これでおさらばだ・・・と思ったが、200万円の赤字だ。プラス新幹線代、葬儀場代etc...プラス100万になりそう。 話がまとまったところで、後ほど郵送で書類などお送りしますと。そして室内に入ることにした。誰もない父の実家。懐かしい。夏休みにはこちらにきていたが、祖母と父は駅前にマンションを購入し、そこで二人暮らしをしていた。 父は私が小学5年生の時に単身赴任でこちらにきていたが、それから10何年経っても、戻ることなく癌で死んだ。のちに知ったが上司と喧嘩して左遷されたそうだ。 事情により、伯父と祖母と父の3人で住むことなく、父と祖母は家を出たようだ。それも当時は祖母の通院のためと聞かされていたが・・・。今回、死亡して色々わかった。伯父は一族から絶縁されていた。絶縁に法的根拠はないが、一切関わらないということだと思う。 ちなみに村八分は火事と葬儀は協力するが他の8割は協力しないということ。絶縁ももっとすごいと思った。 まさに独居老人だなと思っていたが、生活保護を受けて、元気に自転車を乗り回していたらしい。全くの無病で、慎ましやかに生活されていたと役所の担当ケースワーカーから聞いた。 ところで、25万と火葬費用がかかったので葬祭扶助くださいと申し出たのだが断られた。生活保護は死んだら支給停止なのでと。 は?おかしいでしょ?と言ってもダメだった。 こちらで再度調べたが、やっぱり支給されるようだが・・・。 無知なケースワーカーに当たるとめんどくさい。縁を早く切りたかったので再度役所に出向いたりするのも嫌なので、連絡を取るのはやめた。 室内は死んだ時の状態そのままかなと思えた。布団は万年床になっている感じ。 小さなブラウン管のテレビがあるところに布団が敷かれていた。 電話は薄緑色の回転式の電話。これ。 NTTに解約の電話をしたところ、最後のお支払いで「買取」をしてくれればそのまま捨てても良いとのことだった。数百円だったと思う。で、そのままにしておいた。 問題はこれから真夏の7月に電気を切るので、冷蔵庫の中身だった。 物は独居老人だったので少なかったが、腐り始めているのもあって面倒だったがコンビニで買ったゴミ袋に全て突っ込んで捨てた。 ちなみに靴は脱がなかった。足の怪我が怖かったし、もう思い入れもない。 以前からあった場所に仏壇があった。そこには父からの手紙もあった。どうやら色々と揉めていたらしい。90年代の手紙だった。~の親族には挨拶に行けなど指示的な内容が多かった。 差し出しの住所は父が癌で入院していた病院だった。そして、仏壇の引き出しからは、若い頃の祖母と父、伯父、見知らぬ女の子が写っている写真が出てきた。 その女性は戦前食糧難の時に青梅を食べて食中毒を起こして亡くなったらしいと聞いている。 伯父は結婚したものの、一人娘を交通事故で亡くしており、その後離婚。相手方を見た記憶は私にはない。 さらっと家の中を片付けて、このまま全て処分してくださいとお願いした。 あ、あとケースワーカーから聞いていた、保護費が振り込まれる口座のある銀行にお金が少しは入っているのでそれを葬儀代に当てて欲しいと言われていたので、印鑑と通帳を見つけた。すぐに見つけられるところにあるのは、男一人って感じ。 ではと解体をお願いし、その足で銀行へ行ったところ、受けてくださった行員さんは大変困惑し、私は一体何者なのかという点と、すでに死亡しているので相続の問題があるとのことだった。 何者かを証明するには戸籍謄本などが必要だが・・・と。しかも相続の対象になるかどうか、ここの口座から引き出すことも閉じることも、事実上不可能だと。 相続の対象者は過去に離婚した奥様、そのお子さんなど全てで、私が現金を手にするには、その全員から印鑑をもらわないととダメだという。すると不可能なことになる。これが億などの大金なら、弁護士や何やら雇って解決する方法もおすすめできるが、おそらくそんなに多くはないはずで、他の多くの方もそれで諦めてしまうことが多いと。そのお金はどこへ?と聞くと、不明金として一旦本社に行き・・・おそらく国庫かとという回答だった。 しかし、そこで行員さんが少々お待ち下さいと、上席の方に相談してくださり、支店長まで来てくださり、今回は支店長決済ということで、私の身分証明書、伯父の印鑑、通帳があれば、引き出しと解約をさせていただきますとのことだった。大変助かった。 引き出せた金額は一桁万円。しかも年金だった。保護費は残っていなかっ���。つまりこの金額だから、支店長決済で対応もらえたのだと思った。 年金が振り込まれているが・・・。これはどうすればいいのかと銀行の方に尋ねるも、これは年金事務所へ行っていただかないと分かりませんということだった。 車で数十分、最寄りの年金事務所へ行った。事情を話したところ、全くどうなるか、わからない、本体の年金機構に尋ねるので時間が欲しいと。どれぐらいかかりますか?と尋ねると。わからないという。 では、年金機構の対応部署を教えて欲しいと尋ねるも、わからないという。どうやって尋ねるのですか?と聞くと、わからないですという。じゃあ、とりあえずどこに尋ねるかわからないけれど、相談は受けるということか。 じゃあ連絡待ってますと伝え年金事務所を後にした。 その後、半年経っても何も連絡が来ないので、年金事務所に連絡したが、わからないという。年金機構のどこに連絡したのかと聞いてもわからないという。 もう流石に話にならないので年金機構の問い合わせに電話したところ、そのような事情はわからないと。担当部署が対応していると思うので年金事務所がそう言っているのなら、連絡を待って欲しいと。え、担当部署はどこですか?と尋ねると、年金機構でもわからないという。あの、仕事していますか? その後、今に至るまで連絡なし。私は葬儀代として考えている。これから返せと来ても一生かけて争ってやる。 さて、家のその後だが、7月に解体のお願いをして、8月に永田町の司法書士事務所にて1万円で売買した。その時に司法書士の立ち会いのもと行われましたという旨が書かれた書類をもらい、名義変更も終わった。これで何があっても私の責任は無くなった。 これで終わりだと思った。一応不動産屋からは解体が終わったらご連絡しますと言われていて、9月とか10月には来るのかなと思っていたら、次の年の2月に連絡が来て、メールには解体されて更地になった土地の写真が添付されていた。土には雪が積もっていた。 今、ストリートビューで見てみたが、まだ家が残ってる。とても嫌な気分だ。 追記、その年度末には一通の手紙が税務署から届いた。何か不動産の取引をしましたよね?納税はありませんか?と。ない、むしろマイナスであると書き込み返信した。すごいよ、税務署の仕事ぶりは。年金機構も見習って欲しい。
1万円で家を売った - カメラが欲しい、レンズが欲しい、あれもこれも欲しい
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2023振り返り
折角ここを作ったので、振り返ろうと思います。
今年は2次元だったものが三次元になった1年でした。
0.初めてのライブ
今年は年はじめBABYMETALのライブを見に行きました。ちょうど声出し解禁日のライブで、マスクあれど叫んでジャンプして頭振っては最高でした。実は何年も推せど、今までライブに行くという考えは私の中に無かったんです。でも大阪のサマソニ行ってからタガがはずれてしまい。気がついたらライブに行くという。TXTの影響でやれることがまた増えました。
1.初めてのTXTライブ
loveさんのおかげでASMの名古屋ラストに行けることになって、初めてTXTのライブ、初めての連番。相手がrunaさんで本当に良かった…また機会があったら是非お会いしたいです🤝
アイドルのライブはBABYMETALしか行ったことないので、女性の多いイベントは初。刺激的でした。電車でどんどん増えるMOA率、可愛い人かきれいな人ばかりの電車内凄い。席に座っていたら、目の前に凄くバブバブにデコされたテヒョンのトレカと目が会い、駅につくまで目が離せなかった。
会場が名古屋なので、かなり何だこれは?というのは拭いきれずwwでも、会場を埋めるMOA棒と薄っすらと見えるTXT、慣れない双眼鏡、掛け声、何もかもが新鮮でした。…ある意味この会場が初めてだったのは良かった気がする、多分どこ行ってもある程度満足できそう。
最後に
MOA棒を連携できたのが印象深かった。最近つけるたびにちょっと異音していたので、壊れる前にライブの星の一つになれて良かった。
2.初めてのライブビューイング
今年は配信も多かったですが、ライビュもありましたね。初めて行きました。会場は、前から行ってみたかった。ユナイテッドシネマとしまえん。ハリポタのオープン前でしたが近くはもうハリポタな感じになってて943聴きながら散策。
ライブビューイングは近くに「かわいいー!!」やら「さいこー!!」やら叫んでくれる子がいたので楽しく見られました。映画を良く見る自分には無い感覚(精々するのは笑うくらい)なので掛け声とはまた違う、リアクションが沸き起こるのは良かったです。
3.初めてのドーム
初めてのドームです。ドーム公演もドームに来ることも初めてでした。loveさんをはじめ、前からTwitterで交流のあったMOAさんとあえて嬉しかったです。前回よりは緊張が溶けたのか夢の章の話とかMVの話とか、オタクと話すの楽しい!とな���ました。ソンムルもありがとうございます。今まで頂いたの宝物過ぎて箱に入れて出してら思い出に浸ってます。
ここで初めてカンテヒョンが177cmかもしれないと思うようになりました。
4.初めてのハイタッチ
奇跡的に当選してテヒョンとハイタッチをしました。凄い、推しに触れた。「くろいんさん」と読んでくれてありがとう。177cmをシュミレーションしすぎたせいか身長の高さの衝撃はなかったけど顔が…小さすぎて…誰しも想像する顔の小さい人の顔にさらに小顔+パーツ拡大加工かけたのがカンテヒョンの顔でした。今でも思い出すたびに頭の中で「この顔からの更に小さくしてパーツを大きくしたのがテヒョン」と脳内で補正かけてます。
地続きでの身長差、動く、触れるということで2次元かもしれなかったTXTが3次元に存在することを体感した。凄いね。
終わったあとマコさんと飲み会に、MOAとお酒を飲める日が来るとは…嬉しいです。これは楽しいです。また行きたい。
5.2次元コンテンツの終わり
去年から連載の始まった「星を追う少年たち」の連載が終わりました。寂しすぎる。まだ、次の話に公式が触れていないのでどうなるかは分かりませんし、あれは何だったんだみたいなことはありますがとても満足してます。花様〜のときに感じた上手く終われなかった感じが無く、FreefallやASMフィナーレを通してしっかり「終」となった事は本当に素晴らしく、4年の連載お疲れ様でした。
また(前要素を持ってくるのではなく)新たに何かしら考察させてくれるコンテンツが生まれたら嬉しい���。
6.フェスに行った
BABYMETALの出たNEX_FESTに行きました勢いで。そこにはYOASOBIとか直前にヨンジュンが写真取ってたYUNG BLUDも出ていて何となく繋がりを感じつつお守りにヘルメットトレカを連れていきました。おかげでモッシュに巻き込まれることはなくジャンプしすぎて腰を痛めるに終わりました。I prevaliという色んなマッチョのいるバンドを見ながらテヒョンはどんなマッチョを目指しているんだろうとか思った。
まとめ
こうやって振り返るともうアイドルオタク的にはやることやったんじゃないか?ってくらい充足した1年でした。その分ちゃんと赤字になったのは笑いました。推し始めの時は埋まるわけ無いと思っていた棚もキャパを越えたので、来年はもう少し頭使って推し活したい(とはいえ当たらなすぎるFCを手放す踏ん切りがつかない)
今年は色んな方に出逢ってお陰様で様々な事を体験できました。ありがとうございます。来年も縁があれば是非お会いしたいです。
良いお年を
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<Hemingway’s Fly Bottle (*1)/Another Heart (*2)>
7/21/2024 (The 125th Anniversary of Hemingway’s Birth)
by Masahide Kobayashi 6.6 (φ) × 35.5 (H.) cm 364 g Mixed Media
Slightly Iridescent Clear Bottle with Octagonal Lower Half and Round Upper Half (Glass)
Folded/Woven-blade Silver-grass-hopper (Plant Fiber)
Pine Stick (Plant Fiber)
Chocolate-colored Thong (Leather)
(*1) [https://www.mutualart.com/Artwork/Flies-in-a-Bottle/1A3B028FC320BED32F4E681CC2D0615F]
(*2) [https://reslater.blogspot.com/2011/07/big-two-hearted-river.html]
<ヘミングウェイのフライ・ボトル (*1)/もう一つの心臓 (*2)>
7/21/2024 (ヘミングウェイ生誕125周年記念日)
小林正秀 作 6.6 (φ) × 35.5 (H.) cm 364 g 混合材
下半分が八角面取りされ、上半分が丸い、僅かに銀化した透明瓶 (ガラス)
バッタの形に折った/編んだススキの “折り葉”/草編み玩具 (*3) (植物繊維)
松の木の小枝 (植物繊維)
チョコレート色の紐 (革)
(*1) この言葉は、デヴィッド・ハモンズの (何本かある “ボトル・アート” の中の) 少なくとも6本は数えられる “フライ・ボトル” の連作の一つ、<ボトルの中のフライ (瓶の中の蝿)>の題名に負っている ([https://www.mutualart.com/Artwork/Flies-in-a-Bottle/1A3B028FC320BED32F4E681CC2D0615F])。
この連作では、透明な瓶の内側に接着剤で貼り付けたジッパーの引手を、止まった「蝿=“fly”」に見立てているわけだが、“fly” は「ズボンのボタンやジッパーを隠す覆い布」の意味もあって、恐らくこの縁語から、この見立てが思い付かれたのではないだろうか。
この作品のボトルは連作中唯一「ペット=“PET”」だが、上述の「6本」の中には拙作同様ガラスのボトルもあり––––
([https://newyorkarttours.com/blog/art,artist,contemporary,critic,exhibition,gallery,newyork,photography,sculpture,tour,visualart/bottles/]-右から四本目のワインの瓶)––––��た、上述「6本」の内の残る4本は、ガラスはガラスだが、「ボトル (細首/細口瓶)」ではなくて「ジャー (“jar”=広口瓶)」である
([https://www.mutualart.com/Artwork/Fly-Jar/624F86C99BE1B1E9]/
[https://www.mutualart.com/Artwork/Fly-Jar/01A3D05CA4FFA6D7]/
[https://lesoeuvres.pinaultcollection.com/en/artwork/one-stone-head]-1994/
[https://greg.org/archive/2024/03/02/shoo-fly-shoo.html]-1994-蝿が黒人で瓶がニューヨーク市ハーレムの「ゲットー (“ghetto”)」を表しているとのことだが、今は瓶がガザで蝿はパレスチナの子どもたちに見えてならない)。
拙作の「フライ (“fly”)」 は、蝿ではなくて「釣りの擬似餌=ルアー (“lure”) の一種である毛鉤 (“fly”)」––––飛ぶ (“fly”) 虫であるバッタ (「飛蝗」) の形に折った (折り紙ならぬ) “折り葉”/バッタの形に編んだ「草編み玩具」(*3) ––––である。
(*2) この言葉は、ヘミングウェイの最初の本格的な短編集である《我らの時代に = In Our Time》(1925 刊) に収められた〈大きな、二つの心臓のある川 = Big Two-Hearted River〉(1924-5 執筆) の題名に負っている。
この小説の第二部に、革紐で首から下げたバッタを入れたガラス瓶––––拙作の題名で言えば “フライ・ボトル”/原文では “グラスホッパー・ボトル” ––––が胸にぶつかって揺れたとあり、そこから、この瓶を、胸中の心臓の近くで揺れる胸外の “もう一つの/(二つある内の) 二つ目の心臓” に喩えた。
「かれは空の瓶を手にすると…草地に行った。……餌にするバッタを捕まえたかった。おあつらえむきのバッタが一杯…草の…根もとにいた。……中ぐらいのサイズの茶色いバッタを五〇匹くらい瓶に入れ…/…栓がわりに松の枝を押し込んだ。それで、バッタたちが逃げ出せないくらい瓶の口はふさがったし、通気にも問題なかった。/////// かれは…バッタの入った瓶の口を革紐で片結びにして、首から下げて、流れの方へと降り…た。…/… バッタの入った瓶が胸にぶつかり揺れた」––––アーネスト・ヘミングウェイ著, ニック・ライアンズ編, 倉本護訳『ヘミングウェイ釣り文学傑作集』木本書店, 2003, pp.46-8。
“he took an empty bottle and went…to the meadow. …Nick wanted to catch grasshoppers for bait…. He found plenty of good grasshoppers…at the base of the grass…. ……Nick put about fifty of the medium browns into the bottle. …/……Nick put in a pine stick as a cork. It plugged the mouth of the bottle…, so the hoppers could not get out and left plenty of air passage. /////// He started down to the stream, …the bottle of grasshoppers hung from his neck by a thong tied in half hitches around the neck of the bottle. …/…The grasshopper bottle swung against his chest.” –––– “Hemingway on Fishing” : Ernest Hemingway; edited by Nick Lyons, Lyons Press, 2000 ([https://www.amazon.com/Hemingway-Fishing-Ernest/dp/1585741442/ref=sr_1_1?crid=3ILB53P3QFMOI&dib=eyJ2IjoiMSJ9.JjbqJHremWZ5h_HnJQ9i8Q.bYOfxz8ItEOecHZymhUdroQz23LL5duJsEuP2ywH-Bw&dib_tag=se&keywords=hemingway+on+fishing%2C+lyons+press&qid=1718868802&s=books&sprefix=hemingway+on+fishing%2C+lyons+press%2Cstripbooks-intl-ship%2C251&sr=1-1]), pp.13~6.
この本の写真頁 (上掲ハードカヴァー版原書には有るがスクリブナーズ社刊のペーパーバック版には無い) の7枚目に––––「1916年頃、釣行でのE・ヘミングウェイ。『大きな、二つの心臓のある川』で描かれるバッタを詰めた瓶を首にかけている」(“EH on a fishing trip, c. 1916. Note the grasshopper-holding bottle around his neck that would find its way into ‘Big Two-Hearted River.’”) ––––とのキャプションが付された写真が収録されている。
つまり彼がまだ高校卒業前の––––(卒業を目前に兵役志願するも左眼弱視で叶わず、代わりに) 1918年の春、赤十字野戦病院輸送車の運転手に志願して北イタリア戦線に配属され、2週間後には19歳の誕生日を迎えるという7月8日の深夜にヴェネツィアの30キロ北東を流れるピアーヴェ川西岸のフォッサルタ・ディ・ピアーヴェで (一説によるとイタリア兵にチョコレートを配っていた時に) オーストリア軍の迫撃砲弾と機銃掃射を浴びて重傷を負う前の––––この写真は、上で引用はしなかった瓶以外の装備……竿や手網や、肩から吊るして膝下まで長く垂らした (釣った魚を水中で生かしておく生簀としての) 布袋や、(これは中が見えないので作中の記述に従っての推測だが)「ランチや毛鉤入れ帳でふくれ上がっ…た」「シャツの胸ポケット」(同上 p.48) 等……も含めて、作中の描写にそっくりである。
この小説は、(3ヶ月の入院と10数回にわたる237個の砲弾破片・銃弾摘出手術を経て帰国後の) 1919年9月に、昔のように友人らと釣りに出掛けた体験を基に、(しかし作中では彼らを消して主人公のニック唯一人が) 大自然との遣り取りを通して、戦場だった “彼の川” での心身の傷を、平和な “此の川” で癒し回復して行く過程を表した作品だが、このバッタ=“grasshopper” は––––彼自身も含めた––––戦火に追われ傷つけられる犠牲の草の根の民=“grassroots” を表しているように思う。
例えば第三短編集収録の〈人こそ知らね = A Way You’ll Never Be〉(1932執筆, ‘33刊) の中でも––––「この軍服を着た…数万の兵隊が、バッタ (ローカスト) の大群の如くやって來るよ」(谷口陸男訳, 三笠書房版全集1, 1955, p.156, 但し (ローカスト) は元文では行間に振られたルビである:“you will see…millions wearing this uniform swarming like locusts”-[https://gutenberg.ca/ebooks/hemingwaye-winnertakenothing/hemingwaye-winnertakenothing-00-h.html#story06awayyoullneverbe]-par.100)––––という風に、(確かに揃いの軍服を着て揃いの行動をする軍団を、「相変異」を起こし「群生相」となって飛来襲撃するバッタの群団になぞらえるのは極く常識的で常套的な連想とは言え) 徴集された民衆兵がバッタになぞらえられ、また “此の川” の岸で瓶に入れられたバッタも元は「草の…根もとにいた」(“They were at the base of the grass”) のであり、更には、小説の第一部で主人公は (戦火の換言に他ならぬ) 火事で焼き尽くされた町シーニー (Seney) を通り過ぎて行くわけだが、そこで見たバッタは––––「どれも煤けて黒い色をしていた。……焼け野原で暮らしているのでみな黒く変色してしまったのだ…。火災は一年前だった…が、バッタは今もみな黒く変色している…。いつまでこんなふうに変色したままの姿なのだろう、とかれは思った。…/『さあ、行くんだ、…どこかへ飛んでゆけ』/ かれはバッタを空中に投げ上げ、道の向こう…へと飛んでゆくのを眺めた」(同 p.36)––––のである。
この末尾は犠牲からの治癒と回復への希望・願望だが、バッタの犠牲面に絞ってここで更に付言すると––––これは拙作の瓶の銀化とも結果的に照応してくるのだが––––この黒いバッタの「ほこりをかぶった背中や頭…は虹色だった」(同上, “it was … iridescent where the back and head were dusty”-ibid.)––––という。そしてこの虹色=“iridescence” は、実は、上で触れた第三短編集収録の別の短編〈死体の自然誌 = A natural History of the Dead〉(1929-21執筆, ‘32+’33刊) の中の、兵士の死体を自然誌的に描写した箇所にも出てくるのである。––––「暑いところに…放って置かれると肉はコールタールに似てくる。特に損傷した箇所には、タールの表面に見られるような虹色の光彩が現れる」(“If left long … in the heat the flesh comes to resemble coal-tar, especially where it has been broken or torn, and it has quite a visible tarlike iridescence”-[https://gutenberg.ca/ebooks/hemingwaye-winnertakenothing/hemingwaye-winnertakenothing-00-h.html#story11anaturalhistoryofthedead]-par.8-l.4)。……つまりこのバッタたちは “生きている死体 (the living dead)” なのである。
そして終いには、この「道の向こう」の……第二部の瑞々しい緑の渓谷に生きる健康なバッタたちもまた、瓶の中に囚われた後は生きたまま魚の餌として犠牲になる運命にあるわけで、その心臓は––––一寸のバッタにも五分の心臓がある––––主人公の胸の前で同じ鼓動を打つ同じ犠牲の草の根の民であることを証しているのである。……この瓶は、彼のもう一つの––––川ならば湧き/噴き出る水源としての––––心臓に他ならない。
周知のようにシーニーの町の側を流れる川は、実際はたったの3文字から成る単純な1音節名詞1語のフォックス川=Fox River なのだが、彼はそれを、その遥か北東に在る––––3文字+7文字の2語3音節から成る長く複雑な形容の––––川の名と取り替えている (これに Big も加えた形容全体の構造/型式は……あの倭建命の「{倭は国の眞秀ろば} 畳なづく青垣 山籠れる 倭 {し麗し}」にも似た……第三短編集収録の〈清潔な、明るい光の差し込むところ = Clean, Well-Lighted Place〉という題名と同じである)。
(via [https://reslater.blogspot.com/2011/07/big-two-hearted-river.html])
この “grasshopper” への “grassroots” の仮託は、旧約の『イザヤ書』(Is. 40–22~24) の昔から––––「主は地球のはるか上に座して、地に住む者をいなごのように見られ……また、…無きものとせられ、…むなしくされる。彼らは…植えられ、…まかれ、…地に根をおろしたとき、神がその上を吹かれると…枯れて、わらのように…風にまき去られる」(日本聖書協会『旧約聖書』1955年改訳 p.998) ––––と有るように、極めて馴染み深いもので、例えば現代の絵画でも––––Web 上では今はこの<赤バッタ、青バッタ>しか画像が見出せない
([https://www.nihonbijyutukai.com/anpan/archives/archives57])––––長谷川匠のバッタ連作が思い出される (「なお,伝統的に日本では,聖書…や欧米の文学書など…,飛蝗…を〈イナゴ〉と訳してきたが,これは〈バッタ〉と訳すべきものである」-[コトバンク-バッタ-改訂新版 世界大百科事典]=[https://kotobank.jp/word/バッタ-115128#goog_rewarded]-山崎柄根執筆部分より)。
この、聖書からの引用という繋がりで––––否、この短編集が刊行された百年前と今が何一つ変わらぬ戦火/戦禍の拡大/継起の時代だからという繋がりで––––最後に一言付け加えるが、この短編集の題名《我らの時代に》は……ヘミングウェイの作品 (と、併記するのは気が引けるが拙作) の題名が多くそうであるように……ある出典からの引用で、それは、英国国教会 (“Church of England”) の『祈祷書』(“The Book of Common Prayer”) の「晩祷」(“The Order for Daily Evening Prayer”) の中の––––「おゝ主よ、我らの時代に平和を与えたまえ」(“Give peace in our time, O Lord”-[http://justus.anglican.org/resources/bcp/1928/BCP1928.pdf]-p.31-l.9)––––だという。
(日本聖公会の1895年版『祈祷書』-[https://dl.ndl.go.jp/pid/824979/1/1] では、この言葉は「晩祷」ばかりでなく「早祷」にもあって、どちらも會師の先唱 :「主よ。我らの生涯泰平をあたへ給へ」で、また、これに対する會衆からの応/答唱は「地のはてまで戦争をやめしめ給へ」([ibid.-1/34],[ibid.-1/45]) であり、戦後の1959年版では、司式者先唱 :「主よ、この世を安らかに治めたまえ」と、会衆応/答唱 :「地のはてまで戦いをやめしめたまえ」である-p.73, p.84)。
……いずれにせよ、この、記されず/発せられず/海面下に沈んで隠された氷山の言葉を––––それをヘミングウェイの非情と反語がどう捉えていたかは別にして––––私たちは私たちの「我らの時代に」、今一度新たに/改めて思い発 (おこ) す必要があるのではないだろうか。
(*3) 新崎宏『手遊び 草編み玩具 第1巻』琉球新報社, 2011, pp.62~3 (沖縄型)/ 65~7 (普及型)/ 69~74 (中国型)。
[https://www.youtube.com/watch?v=mxb3Z399GNM]。
[https://www.youtube.com/watch?v=I_opJ2xl_Fk]。
追記
1989年の3月13日から4月8日にかけてパリの【Galerie 1900 ▾ 2000】で開催されたジョゼフ・コーネル展のカタログ–––– Edouard Jaguer, “Joseph Cornell”, ©1989 The Joseph and Robert Cornell Memorial Foundation [https://nostos.jp/archives/363284] ––––には、 いずれも1933年頃の作とされるコーネルの4本の “ボトル・アート” ––––色々な物品が中に入れられた沢山の小瓶を一つの箱に収めた広義の “ボックス・アート” とは異なる “一本瓶もの” の作品––––の写真図版5枚が収載されている。
その内<無題 (中国の瓶)>(p.20) と<無題 (月の瓶)>(p.21) の2枚=2作品はカラーで、
3枚の白黒は、<無題>と、<無題 (バッタの瓶)>の全図 (p.22) とその部分拡大図 (p.11) である。
<…中国の瓶…>に入れられた活版印刷本の頁らしき巻かれた紙の右端一行は、漢字に [平仮名のルビ] を振った漢字+平仮名交りの日本語の文章で––––「食物 [しょくもつ] を與 [あた] へて汝 [なんぢ] ‥ 今 [いま] より我子 [わがこ] ‥ 做 [な] れよと云 [い] は」––––と読め、従ってこれは、<…日本の瓶…>と改めた方が良いのではなかろうか。
それはともかくとして、コーネルにも<…バッタの瓶…>が有ったということだが、このバッタは、(解説も無く拡大図でも判別し難いのだが) ひょっとすると腹の下にゴムの吸盤が付いていて、何かに押し付けて初めのうちは平らに伏せて耐えているが、そのうちに吸盤の効力が失われて針金の脚のバネの反発力で突然跳び/跳ね上がるブリキの玩具の「跳ねバッタ」––––(例えば[https://www.ebay.com.au/itm/181510296673] 、[https://www.jataff.or.jp/konchu/obj/obj30.htm] 、[https://www.amazon.co.jp/ノーブランド品-q1145510112-ブリキのおもちゃグラスホッパー雑貨ブリキ玩具品駄菓子屋懐かしコレクション絶版品バッタレトロ品珍品/dp/B0D9WKKWX4] のような) ––––かもしれない (但し写真を見る限りでは吸盤は……初めからなのか、後で取れたのか、は兎も角として……付いていない)。
なお、1980年のニュー・ヨークMoMa でのジョゼフ・コーネル展の図録 ([https://nostos.jp/archives/49182]) には、反対側から異なる角度で撮られたと思われる内容物品の配置が違うこの瓶の白黒写真図版 (Pl. 12)
が掲載されている。
(10/14/2024)
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