#澄輝 さやと
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Sumiki Sayato as Rudolf in Elisabeth by Cosmos Troupe 2016
#takarazuka#elisabeth das musical#エリザベート#sumiki sayato#澄輝 さやと#asaka manato#朝夏 まなと#misaki rion#実咲 凜音#soragumi#elisabeth
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花雨さんはフリーランスで活動する被写体です。
7月31日生まれで東京都出身です。
新卒でメーカーに入社し、社長秘書を務めていたと語っています。
2017年春から一般企業の事務職に転職し、現在は休業中とのことです。
2014年11月に「読んでいる漫画のページに胸を挟む」画像をアップしたところ、豊満なバストが注目されて「あの子は何者?」と大きくバズり、それ以降SNSでセルフグラビアを発信するようになります。
2022年には「Fantia(ファンティア)」を開設。
セクシー系の被写体として本格的な活動を開始します。
またコミケやコスホリなど同人誌即売会イベントにも積極的に参加し、その感覚的で研ぎ澄まされた身体表現センスが注目され業界内での評価がうなぎ上りに。
桑島智輝氏や笠井爾示氏といった著名なカメラマンとの��ラボ��品を多数発表しており、カメラマンから撮影オファーが殺到する人気モデルとしての地位を確立させました。
2024年5月には「週刊プレイボーイ」のグラビアに起用され、デジタル写真集「真昼の出来事」をリリース。
現役社会人であるという以外はほぼ謎に包まれた素性が、専業グラビアアイドルが放つ芸能人オーラとはまた毛色の違う「隣のお姉さん」的な距離感の近い色気を放ち、ガチ恋ファンが続出中という遅咲きの逸材です!
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今日は店は休みです。久しぶりに奈良に来ています。本籍を奈良に置く身としては、故郷へ戻る嬉しさです。仕事があるとはいえ、合間に興福寺で八部衆の御顔でも拝めるとなおなお嬉しいところですが。
そういえば、本日2023年12月12日はちょうど小津生誕120年、没後60年。小津で奈良、といえば『麦秋』の最後、ふっと差し込まれる麦畑の中をゆく嫁入り風景のシーンですが、あれ、どこなんでしょうか。後ろに耳成山のような山が見えるので、橿原のどこかかな。
ついでの話。このごろ書きものの仕事が多くて、頼まれもの以外の文章なぞつらつら書いている場合ではないのですが、小津についてふと気になってしまったことがあり、書いておかないと本来の仕事ができなさそうなので、合間合間に記していた雑文をここに置いておきます。長いですし、結論はないし、ほとんどの方が興味の��い内容かと思いますが…。
ちょっとした調べものがあって雑誌『みすず』2001年12月号を読んでいたら、木村伊兵衛が小津安二郎を撮影した写真と文章「上海で小津安二郎氏をうつす」が掲載されていた。時期は1938年1月なので第二次上海事変の翌年。小津は1937年9月に出征して中国に渡り、事変の直後12月から上海にいたようで、その時に偶然木村と出会っている(その後小津は南京・漢口と転戦する)。写っている小津が携えているカメラは、木村の稿に続いて掲載されている田中眞澄氏の文章「ライカという”近代”」によればライカA型。小津関係の文章を読むと、小津は「ご愛用のライカ」をいつも手にしていたと多くの人が書いているので(同文によると山中貞雄はコンタックスだったらしい)さもありなんと思うのだけれど、田中氏の文章を読んでいくなかで、ちょっとしたことが気になるようになった。
小津は1942年から軍の依頼で記録映画撮影のためにシンガポールに滞在し、ただまあ映画製作などできる状況でもないため、自国内では上映が禁止されていたアメリカ映画をひたすら見続け、敗戦を当地で迎えている。そしてそのまま捕虜となり、抑留生活を終え1946年1月に帰国する際に小津はライカを手放しており、「彼が再びライカを所有するのは一九五四年のことである」とある。買った件の典拠はどこにあるんだっけ、と思いつつ近所の図書館に置いてある『全日記 小津安二郎』を紐解くと、なるほど1954年3月22日の項に、
> 「出京 サンにてライカを買ふ 135.000 アメリカン フアマシー 明治屋(燻製)によつて帰る」
とある。と、ここで急に話は脇道に逸れるのだが、ちなみに隣のページ、同年4月8日の項には、
> 「駒場の東大教養学部 民芸館 青山の花屋 それから 車にて銀座に出て なごやかに夕餐を喫す 野田夫妻と江原氏同道」
と日本民藝館に行った旨の記載がある。他にも、1951年11月10日に
> 「宿酔 森昌子さん達と 陶哉 たくみに寄って大船に帰る」
や、1955年5月17日には
> 「駅にて野田氏と待合せ 上野松坂屋の民芸展にゆく」
とも。ほか、パッと目を通しただけでも1952年4月8日、同年6月15日、1953年2月9日、1961年2月2日に銀座たくみに行った記載があるし、志賀直哉や里見弴についての言及は多すぎるので略す。こういうものを読むとつくづく民藝誌において特集「小津と工藝」を組みたいなと思う。白樺派との関係や小津の映画における「巧藝品考撰」について取り上げる特集。『秋日和』で原節子の後ろにかかっている暖簾は芹沢銈介だろうか、『秋刀魚の味』で中村伸郎の後ろに置かれたやちむん?はたくみで求めたものなのだろうか、やちむんであれば誰の仕事だろうか。佐田啓二と吉田輝雄がとんかつ屋で食事をするシーンには確かに芹沢カレンダーが掛かってるな、などといつも気になるので。松竹から写真借りるといくらぐらいかかるかな…。
それはさておき。この時購入したライカが、前掲日記の1961年3月23日の項に「夕方会社帰りの秀行くる ライカ借(貸)してやる」とある通り、のちに小津の甥が譲り受け、現在は茅野駅前「小津安二郎・野田高梧コーナー」に寄贈展示されているライカIIIfとズマリット5cmF1.5なのだろう。と、ここまで長々と記して、まだ前提です。
そこでふと思い出したのが厚田雄春・蓮實重彦著『小津安二郎物語』(筑摩書房・リュミエール叢書)の冒頭。ここには小津が『東京物語』と『早春』のロケハンをしている写真が2葉掲載されているのだけれど、どちらにおいても小津はバルナック型のカメラを携え、光学ファインダーをのぞいたりしている。沈胴レンズにフードをつけている様子から、あれはライカなんだろう、レンズは厚田雄春が『父ありき』において75mmを一場面で使った以外はすべて50mmだったと言っているぐらいだから同径のエルマーやズマール、ズミタールとかかな、などとうっかり思い過ごしていた。むろん『早春』については、製作年やロケハンの写真に記載されている「1955.7.20」という日付からするとまったく問題はない。しかし『東京物語』は1953年製作公開だから「再びライカを所有した」1954年では間に合わない。そう気がついて見直すと、小津が構えているカメラは、ライカIII型に似ているがファインダーの位置が違うし、そもそも1954年にあわせて手に入れたと思しきズマリットは沈胴レンズではない。
妙なことに気がついてしまったと思いつつも、ひとまずは日記記載の「サン」を手始めに調べてみようとしたが、何の会社かわからない。名取洋之助が企画編集した「週刊サンニュース」と関係はあるのだろうか。対外宣伝誌の専門家であり、銀座に店を構える森岡さんに聞いたらわかるだろうか。いずれにせよ1949年以降の小津の日記に「サン」が登場するのは、「1951年1月17日・3月21日・4月24日・11月10日、1952年4月17日、1953年6月16日、1954年3月22日(前述のライカを買った日)・10月14日、1955年4月6日、1960年7月14日、1961年2月2日(”たくみ サンに寄って三越”)」。1953年6月16日は、ちょうど『東京物語』ロケの最中だったことが気に掛かる。ほか、関係しそうな記載としては1953年3月30日に「アサヒカメラ座談会」、1954年11月5日の「シュミットに寄ってから」(当時ライカの総代理店だったシュミット商会か)、1955年2月15日「昼寝をしてゐると小尾がくる ニッコールの85m(ママ)のレンズを頼む 四万五千円を預ける」、同年3月11日「小尾に会ひ105mmのレンズを見る」、同年6月27日「小尾から電話ライカピッド(ママ。入手したライカがIIIfであれば、ライカビット SYOOMか)を頼む」ぐらいか。この「小尾」という人は何者なんだろう。
次に小津が構えているカメラの形状から何かわからないかと思い、あらためて細部を見れば、写っているカメラは戦後キヤノンが作っていたコピーライカであることがわかる。決め手はファインダーの位置。同時期の国産コピーライカであるニッカやレオタックスはライカそっくりに作っているのだが、キヤノンは誠実と言っていいのか「打倒ライカとコンタックス」の心意気の現れか、多少スタイルが違う。なお、小津が用いている機種については、この時期のレンジファインダー機は輸出用に作っていたせいか勢いがあり、すぐ新型が出るうえに、外観がどれも似すぎていて小さな写真では区別がつかない。時期を考えれば、1946年発売のSIIから1952年のIVSbの間のいずれかで、III型以降のように見受けられる。レンズ���やはり形状から判断するとズマールに似ているので、1949年発売開始のキヤノン Serenar 50mmF1.9か。そう気づいて改めて調べると、「カメラ毎日」1954年6月号に掲載されている座談会「カラーは天どん 白黒はお茶漬の味」ではカメラの話がもっぱらで、その時に手にしているのはキヤノンである。このキヤノンのカメラとレンズ、そして外付けのファインダー、この時期どういう経緯で小津は使っていたのだろう。いずれにせよ、1953年の『早春』はともかく、なぜ1955年に「ご愛用のライカ」ではなく、キヤノンを用いているのか。
ついでに言うと、小津が鏡の前でカメラを向けて撮っているセルフポートレートに用いているカメラはコンタックス。日記をざっと読んだ限りではわからないけれど、これもいつ手に入れたのだろう。レンズはゾナーの5cmF1.5。明るいレンズがお好みと見える。こちらは姪が譲り受けたとのことで、今は先のライカと同じく茅野駅前にある。
長々と書いてきましたが、つまりはこれらが今回生じた疑問です。小津に詳しい人、どうか教えてください。
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日々あれこれ#124
2024年4月8日 孤独はしずく 似たようなもの 池に住む魚が言うにはね かしこい魚 黒に惹かれ 深くひそむ 魚が言うな そんなことは口には出さず 唇ばかり見ている 水は澄んでいるが 深い緑で綿のような藻 水生植物の棲家 そういうことか あなたの世界 暗黒でもないが 確かに孤独のしずくの溜まった場所
2024年4月9日 花一輪の姿 言葉を補うブースター 落ちてゆく ロケットと同じ どうすればいい 自分の中で反芻する そんな世界があったはず もう少し先の 結局はまぼろしで いつまでも平行世界 接点があったのは 偶然の混信 その瞬間から環境に ひびが入っていたのだろう 間違いの歪み 崩壊した 一瞬で
2024年4月11日 入れ子の中でひとり 空気の壁 知での分離 穏やかな午後でも 見えない仕切りはつねに存在し 気づいていた 違和感も理解力もすべて 階段を上り あるいは下らないぶつからない邂逅か 足を進めるほどに視界は歪んでしまう だから交わることはなく 長く歩む一本道 わたしだけ ひたひたと 続く
2024年4月12日 到達できないね あなたには 分からないのなら仕方なく ただ眺めても謎の暗号異教徒の呪文 そんなふうに思っている 目の前にあるのにね 答えも過程もない 考えようとしないの もっと受け取るだけがいい 私の範疇で感情が揺さぶられればいいだけ 私にとって難解なもの 考えたくもないの結論か
2024年4月13日 燃えたのはわたしのこころ 灼熱の太陽のように輝く あなたを見れば燃えて 残り 失ったものはなく 燃焼しながら得続けている 受け続ける糧は永遠ではない 分かってるんだ 失った輝きを知れば わたしのこころも冷えてしまう 白から黄色へ 変化してしまう それを経験したからね 失いたくない
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『ガラスの街』
五月は読書の月だ。僕は本を読んだ。数多の本を。 最初、それは次の小説のアイデアを得るためだった。頭上の樹々からワインのための葡萄をもぎ取るような、循環を続けるにあたっての摂取だった。いきおい堕落しつつある現実から少しでも意識を逸らすためでもあった。 普段の僕は、本を読んで時間を過ごすことは少ない。長い時間ひとつの文章に集中することができないのだ。 それに読むことよりは書くことのほうがずっと大切だと僕は思っている。読む行為は、現実という制限された枠組みのなかではせいぜい膝丈ほどの優先度しかなかった。 しかし五月ではあらゆるものが落下した。熟れ過ぎた果実が枝との繋がり終え、足元に開いた坩堝に呑み込まれていった。読む行為もそうだ。落ち、煮え滾る器の中で混合した。 いまでは僕の「読む」は混沌としている。それはいまでは長身の僕、その僕以上にのっそりとそびえる一本の巨大な柱となっている。物言わぬ花崗岩の柱。五月、僕はそんな柱を中心にぐるぐると回り続けている。手は文庫本に添えられ、目は9.25ポイントの文字に注がれている。足は僕の意識から離れて交互に動いている。ひたすら歩き、ひたすら読んでいる。柱から少し離れた誰彼にどう見られているかどう言われているかなんてことお構いなしに。
いや。そんな話自体がどうでもいい。関係ない。 きょう、僕は自分自身が”うすのろ”だということを語りにきたのだ。
***
五月。 僕はどんなものを読んだのだろうか。 金ができて僕がまずやったことは大学生協の本屋に行くことだった。カウンターで二枚つづりの注文用紙を手に取り、もう何年も使い続けている青のボールペンで書いた。 "9784002012759" 週明け、僕は地下の生協で注文の品を受け取った。『失われた時を求めて』全十四冊。いまは第一巻を読んでいる。僕がふと目をあげると、あの遠い窓の奥で、大叔母が目を爛々と輝かせているというイメージが浮かぶ。泳ぐような精神の移ろいもまた。
シェイクスピアの『夏の夜の夢』も読んだ。 『MONKEY』のvol.31の三篇、ケン・リュウ「夏の読書」、イーディス・ウォートン「ジングー」、ボルヘス「バベルの図書館」も読んだ。 仕方なく後回しにされていた本を買って読んだのだ。 金銭の自由は、精神という鈍い壁に茂っていた蔓植物のような不足を一太刀で解決した。
『春の庭』も読んだ。『九年前の祈り』も。 ウルフの『波』も読み始めている。 ��の貪欲は、過去に読んだことがあるかどうかなんてもの��は選ばなかった。カーヴァーの『象』、春樹の「タイ・ランド」、マンローの「イラクサ」、ヴォネガットの『スローターハウス5』。マラマッドの「悼む人」も読んだ。
一度の時に、僕はこれらの本を読んだのだった。 こんなに大量のフィクションを仕入れて、いったい何をしようとしているのか? 紛争でも起こそうとしているのか?
何のためか。それは僕自身にもわからなかった。 僕は特定の目的をもって読んだわけではなかったようだった。五月の読書は「文章の上達」や、「ストーリーテリングの技法」といったそれまでの興味とは別物だった。振り返ればそうだとわかる。
五月の読書は、それまでの自分を抑制しようとする、極めて機械的な態度とは違っていたのだ。 言えば、それは無垢に機械的な読書だった。 これまでの僕は断じて読書好きではなかった。どんな傑作でも一時間もしないうちに音を上げて投げ出した。ドストエフスキーやメルヴィルと出会ったときでさえ、メインストリームは”書くこと”、そして”生きること”で変わらなかった。この五月に僕は初めてむさぼるように読んだのだ。頭を空っぽにして。堆い小説の亡骸の山に坐すかのようにして。
それで、僕は何かしら成長したか。 いや。成長なんて一つもなかった。 そこには変化さえなかった。二週間前と、すべては同じだった。僕が着るのは依然深いグレーのブルゾンだった。コミュニケーションもぎこちないままだった。 だからそこで起きたことはシンプルだ。つまり、僕はポール・オースターの『ガラスの街』を読み、ある一つの事実に行き当たった。 「僕はなんという低能なのだ」という事実に。
***
一昨日から僕はポール・オースターの『ガラスの街』を読み始める。 『MONKEY』でオースターのエッセイを読んで彼のことを思い出し、その夜に丸善に立ち寄った僕は彼の本を久々に手に取った。 三日で読んだ。 「三日で読む」というのは僕にとってほとんどあり得ないことだった。僕のリュックサックには必ず四、五冊の本があった。読むときにはまずそのとき一番惹かれる本を手に取った。そして十数ページが過ぎ、抱いていた軽度の好奇心が満たされてしまうと、浮気性の蜜蜂のようにまた別の小説の甘いのを求めるのだった。 だから、一日目、二日目と時を経るごとに加速度的にその好奇心が勢いを増し、三日目には150ページを一つの瞬間に通貫して読んでしまったのだ。僕の読書体験において、異例中の異例だった。
『ガラスの街』を読んで、僕はうちのめされた。徹底的に。 ”面白さ”、そして”新鮮さ”の二つが、やはり事の中心だった。読書においておきまりのその二つが今回も僕を虐め抜いたというわけだ。 『ガラスの街』を読み終えた瞬間、僕の生きる世界のどこかが確実に変化した。
「祈っている。」 僕がこの最後の一文を読んだとき、��り空の下にいた。その一節がこちらに流れ込んできたあと、僕は立ち上がった。テーブルがごとりと揺れるほどぶっきらぼうに立った。取り乱していたのだった。僕はそのままであてもなく歩き始めた。 「これ以上座っていることはできない」 「このまま座っていると、僕は頭の先から崩れ落ちてしまう不可逆的に」 そうした、僕という精神を一切合切覆してしまうほどの強烈な予感のために。 僕は予感に乗っ取られないよう、何も考えないと努めていた。何も感じまい、何も見まい、と。 リラックスを意識し、肩から力を抜く。腕をぐんと伸ばし、指をぽきぽきと鳴らした。イヤホンを耳にした。『ベリーエイク』を再生する。いつか足元をくすぐった波のように心地よい、ビリーアイリッシュの声に心をしっとり傾けた。 もちろん、そんなことは無駄だった。とりあえずの形など、何の助けにもならなかった。以前との比較から始まる違和感たちは強権的に僕の感情の戸をこじ開けた。 歩く中、透明の空気が奇妙に凪いでいた。風景からは特定の色が抜け落ちていた。向こうで笑う声、衣擦れの音、靴底の摩擦。音という音がワンテンポずれて聞こえた。 変化は女王だった。彼女は支配的だった。 僕は小説による変化を受け入れ、恭順のように認めたわけではなかった。むしろ、変化は僕にどうしようもなく訪れていた。言わば、言い渡しのようにして。 女王を僕は素晴らしい小説を読んだ後の”ゆらぎ”の中に閉じ込めたのだった。何もかもが、僕に合わない形に作り替えられていた。建物を構成する直線はいまやでたらめで恐怖がつのった。頭上の青はこのように汚い灰色では絶対なかった。
――そして、当然、この点についての文章はかたちだけに過ぎない。これらは省略した文章。書く必要がないということ。 なぜなら、あなたたちもかつて同じ経験を経ているからだ。小説を読み終えたあとに来る世界の変質を。 加えて、忘れるなんてことを女王が許すわけもない。これについても言わずもがなだろう。
そして、重要なのは変化のよろめきではない。 そうなんだ。きょうしたいのは女王の話とは実は違うのだ。ここであなたに伝える言葉は破壊だ。 破壊。 それは”面白さ”と”新鮮さ”のコンビがやったわけではなかった。変化の体験に曝されたゆえのサイコ・ショックでもない。 木々を打ち砕く手斧となり、人体を壊す剣となり、バベルの塔をゼロにする雷となったのは、オースターの書きっぷりだった。
オースターは、考え抜いていた。 そこで”感じ”は排除されていた。 感覚による言い表しがまるで無かったのだ。��かにイメージに依拠��るものがあっても、それは必ず共感の姿勢だった。テーブルに身を乗り出し、相手の声に耳を澄ませる態度。
『ガラスの街』では、本当に一切妥協はなかった。僕はとても信じられず、街を隅から隅までしつこく歩き回った。しかし、本当に妥協はどこにも無かった。
オースターは僕とコミュニケートすることを選んでいた。そのへんの宙に感覚という水彩画を描いて「ほらご覧」とする、ごく個人的で他者には見せつけるだけという表現は徹底的にしなかった。チャンドラーを始め、私立探偵ものに由来する例の論理的な高慢さはあった。しかし、確実にオースターは読者と対峙していた。彼は殴る、殴られる痛みを完全に了解した上でリングに立っていた。 彼の据わった眼が僕を揺るがしたのだった。彼は完全の脆弱性を知りながら、完全に書いていた。 それだから、彼を読んだとき、僕は……
向こうから厚底ブーツの女が歩いてくる。 女は痩せている。薄い、流線形の黒一枚に身を包んでいる。背が高く、ありったけに若い。二十歳前後に見える。二つの瞳はキャップに隠れている。すれ違いざまに見える耳にさえ、カナル型のイヤホンで黒が差されている。マニキュアはあまりにも美しい銀色に染まっており、高まりを誘う。 センスがいい。綺麗だ。 彼女はなんて豊かなんだ。 僕はそう思う。 ほとんど同時に、ガラス一枚を隔てた向こうで本を読む人を見つける。 また女だったが、今回性別は重要ではなかった。その読む人は区切られたブースで、文庫に目を落としていた。化粧や唯一のファッションなどもなく、やはり装飾は重要でなかった。というのも、いまにも涎が垂れてきそうなほどに口をあんぐりと開けて読んでいた間抜けなその放心が、僕の記憶に楔として打ち込まれていたからだ。
これらのスケッチが、何かを直截に意味することはない。二つの風景は隠喩ではない。 正直に、上記は僕が受けた印象の再放送だ。 この日記は『不思議の国のアリス』ではない。二つは作為的な意味を持たない。 書いたのは「意味を持たない」ということを明らかにするためだ。 その内容でなく、外側、僕のスタイルという基本的な骨組みを露わにするためだ。
そう。だから、つまり……僕は痛みから逃げている。オースターとは違って。 きょう、読んで、事実は突きつけられる。
***
”言葉”はもう一度響く。
「大西さんの小説は、けっきょく古典から表現を引用しているだけ」
「僕は彼にもう興味がないんだ。かつて、彼は賢い人だと思っていた。書くものに何かしらの意味があると思っていた。でも、そうじゃないと知った」
「あなたの課題は、独自の世界観を提示できるかということです。海外の小説、そして村上春樹でなく」
***
そして、このように敗北してもなお、僕は決定的な何かについて述べることはなかった。張りつめた表情で、まやかし、それ自体に必死に祈る。もうそのような生き方しかできないと信じ込んでいるのだ。
「この大地にあるものはすべて、消え去るのだ。そして、今の実体のない見世物が消えたように、あとには雲ひとつ残らない。私たちは、夢を織り成す糸のようなものだ。そのささやかな人生は、眠りによって締めくくられる」
祈りの文句を何度も何度も口にした。 僕の声はいつも通りにすごく軽くで響いた。 そして一度響いてしまったものは泡沫のようにたちまち消え去った。
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2024年4月3日(水)
私の住まう地域は<松尾大社>の氏子地域、<伏見稲荷大社>とともに<秦氏>の勢力圏である。4月に入ると青年会のメンバーが寄付を集めに回る、いつも通りの寄進をすると御献酒の札とお守りをくれる。今年の<神幸祭(おいで)>は4/21(日)、<還幸祭(おかえり)>は5/12(日)、町内にこの札が貼られるようになるとなにやら少し浮ついた気分になるから不思議だ。もっとも、神輿を担ぐような体力は既に無く、祭気分に合わせて鯖寿司(と酒)をいただくのが近頃の当たり前となっている。
5時起床。
日誌書く。
朝食。
洗濯。
弁当*2。
空き瓶缶、45L*1。
ツレアイの職場経由で出勤する。
相変わらず朝の燃費が悪い。
来週から始まる授業準備、スタディスキルズの第1回資料を作成し印刷する。
かつて<露の新治を育てる会>の事務局長をされていたAさんに電話、明日午後のアポをいただく。
昨日��まいどおおきに露の新治です>の管理人・Mさんから送っていただいた過去のウェブサイトのコンテンツを復元、これで2000年から2006年までの記録を閲覧することができる。紀要に寄せた原稿は2009年以降のデータに基づくものなので、これで執筆のための資料はかなり調ってきた。
帰路も順調だが、今日は燃費が今ひとつ。
今夜はツレアイの研修で夕飯が遅くなるので、サッポロ一番味噌ラーメンを頂く。
軽く午睡。
露の新治さんの<へらへら日記>の旧版を読み進める。明日のインタビューにも大分役立つ。
息子たちの夕飯準備中に彼女が帰宅、少し遅れたが20時までのWeb研修だ。息子たちの食事が終わってから、テレビでナイターを観ながらちびりちびり。ようやく彼女が終わったので改めて晩酌開始。
録画番組視聴、新日本風土記。
「函館の光」
初回放送日: 2024年4月1日 夜景輝く港町・函館。冬、異国情緒漂う街は電飾をまとい、澄んだ空気に暮らしの明かりも輝きを増す。北海道の玄関口として発展した町と、そこに生きる人々の光をめぐる物語 ロープウェイを山頂で降りると、目の前に星屑をまき散らしたような輝き。ここは夜景の美しさで知られる港町・函館。坂道の洋風建築や港の赤レンガ倉庫も旅情を誘う。世界を巡りたどり着いたこの町で、店中電飾が覆うハンバーガーショップを始めた父娘。歴史的建造物を店舗として再生し、町の灯を守ろうとする人々。北洋漁業衰退の荒波の中、必死に生きる庶民に光を見た小説家。町中がイルミネーションで輝く冬の函館と、人々の物語
片付け、入浴、体重は3日前から50g増。
遅くなったので日誌は明日のことにする。
デスクワークが続いたので、残念な結果に。
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柴田元幸『ナイン・ストーリーズ』朗読会
不確かな現実を綱渡りで生きる人々��描いた、アメリカ文学史に燦然と輝くJ.D.サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』の河出文庫化を記念して、訳者・柴田元幸さんの朗読会を1月10日にtwililightで開催します。
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“小説を訳すのはいつでも「耳を澄ます」営みだが、この『ナイン・ストーリーズ』を訳していたときは、いつにも増して、語り手や登場人物の言葉や息づかいに耳を澄まし、彼らのしぐさや周りにあるいろんな物に目を凝らしていた気がする。”
とヴィレッジブックス版の訳者あとがきで書いた柴田元幸さん。
今回の河出文庫化ではササキエイコさんが装画を担当し、「21世紀のサリンジャー」が生まれたと柴田さんは仰っています。
柴田元幸さんの朗読によって、あらためてシーモアたちの声、“世界に対してムカツいていたり、過剰な自意識を抱え込んでいたり、傷から癒えるすべを探っていたりするサリンジャー世界の人たち”の声に耳を澄まし、体感していただけたらと思っています。
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日時:2024年1月10日(水)開場:19時 開演:19時30分
会場:twililight(世田谷区太子堂4-28-10鈴木ビル3F/三軒茶屋駅徒歩5分)
料金:1500円+1ドリンクオーダー
定員:18名さま
*定員に達したので、キャンセル待ちの受付になります!
件名を「柴田元幸『ナイン・ストーリーズ』朗読会」
として、お名前(ふりがな)・お電話番号・ご予約人数を明記の上、メールをお送りください。
*このメールアドレスが受信できるよう、受信設定のご確認をお願い致します。2日経っても返信がこない場合は、迷惑フォルダなどに入っている可能性がありますので、ご確認ください。
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【出演者プロフィール】
柴田元幸(しばた・もとゆき)
1954年生まれ。東京大学名誉教授、翻訳家。ポール・オースター、スティーヴン・ミルハウザー、レベッカ・ブラウン、スチュアート・ダイベックなどアメリカ現代作家を中心に翻訳多数。著書に『アメリカン・ナルシス』、訳書にジョナサン・スウィフト『ガリバー旅行記』、マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒けん』、エリック・マコーマック『雲』など。講談社エッセイ賞、サントリー学芸賞、日本翻訳文化賞、早稲田大学坪内逍遙大���を受賞。文芸誌『MONKEY』日本語版責任編集、英語版編集。
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ある画家の手記if3-4? エロ怪文
某所。 ほとんどなにも置かれていない、生活空間とさえいえないような伽藍堂の一室で
一見すると華奢で小柄な身体が、大柄の真澄をゆったりと寛がせるようにベッドの上で優しく横抱きにしていた。 瞼に、額に、ふとした時に降る優しい口付け。まるでそんな時間が永遠に続くかのように、一片の不穏さも感じさせることのない空間… いつまで続くのかなどどちらにも分かりはしなかったし、勿論なんの先立つ予定もない、もしかすれば「今後」という発想さえも、その男が既に殺してしまっている、 閉じたあたたかな 胎内のように。 生まれ出でる日を密やかに恐れる、胎児が二人、揺蕩っていた。 「真澄 チビどもがお前を探し求め始める時間だぜ」 甘やかすような優しい声音で紡がれる、ここに来てから初めての、不穏当なことば。 真澄の頬を、顔にかかる髪の毛を、そうっとすくいあげて自分のほうへ顔を上向かせる。 「チビたちぁ泣くだろうがまだ俺と来い」 粗野で飾り気も品もあったものではない、無神経極まりない言葉そのままの言葉が真澄の全身を差し貫くように発せられる。 ーーー男がふと手の届く場所にあった窓をからりと少しだけひらく 久しぶりの外気が部屋の中に滑り込んでくる 凍るように冷えた外気とともに風に乗って部屋の中に舞い込んできたのはーーー今年の初雪だった。 すぐに閉められた窓に、外から入った風は行き場をなくしてはらりとその場に、剥き出しのフローリングの上に、雪を無造作にゆっくりと散らす。 「攫ってきたせいかね、ついてきちまった」 そう言ってどこか子供のように無邪気にわらう。 かと思えば真澄の頭が仰け反るほどの深いキスを与えてくる。 真澄の前で、男の行動はまったく出鱈目に無軌道のようでいて、男の情緒はいつだって穏やかに安定していた。 一瞬あとにどのような悲劇が襲ってもその笑みを崩すことはないだろう。むしろもっと愉快にわらうに違いない。穏やかだが、確かに狂っていた。 真澄は今、その狂気を羊水がわりに、全身をくまなく浸されて、安らぐ以外のなにをも禁じられ、封じられていた。 「――――…っ…」 突然のキスに一瞬息を詰まらせた真澄を、男は無遠慮に閉じることもしない両眼を、爛々と輝かせて見据え続ける。 お互いが快楽の内にあっても支配権はこの手にあると、揺るがぬ主張を絶え間なく続ける瞳だ。 ��の瞳の在り方は、男の人生そのものでもあった。 それを男は当分の間、真澄一人に一心に注ぐつもりらしい。 あまりにもーーー置き忘れられたままのものが多すぎる …男は真澄の頬を撫でながらそう感じる。 いちいち何を置き忘れたのか思い出して拾いに出向くよりいっそ、一度壊してはじめからーーー 詰まるところ男の思惑は、男の愛し方は、今はそこに集約していた。 男はその道の学を収めた専門家でもない、ただ真澄を愛するあまりにそれに似た道を辿ろうとしている、一歩間違えば真澄そのものを失いかねない危険な手段をやすやすと選びとっていた。 ーーー外気に触れた 雪の舞い溶けた室内、……殻を 破り 羊水から顔を覗かせて 少しずつ自分で呼吸させる時間だ。 キスの合間に空気を吸わせて、空気に溺れないようキスで呼吸を導く。何度も繰り返した。 男の頭の端には一応の目処がなくもない。 何故なら追ってくる相手は手強い。いつまでも適当に撒けるとも思えない。それになにせ頑なに一途ときている。いずれ真澄と会う機会を設けさせなければいけなくなる…
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Oscar Peterson "My Favorite Instrument" 久し振りの"Exclusively for My Friends"シリーズ、お復習になりますが下記の6部で、( )内は録音年月です。 ●Vol.1 "Action" (March 1963/April 1964) ●Vol.2 "Girl Talk" (Late 1965, November 1966, November 1967, April 1968) ●Vol.3 "The Way I Really Play" (November 12, 1967) ●Vol.4 "My Favorite Instrument" solo piano (April, 1968) ●Vol.5 "Mellow Mood" (April 1968) ●Vol.6 "Travelin' On" (April 1968) 未購入はVol.6だけになりました。 本作は、シリーズ中唯一のソロです。ピーターソンはピアノ・トリオの期間が長く、もちろんどの作品も当たりはずれのない安定した素晴らしい演奏を聴かせてくれますが、アート・テイタムと並んで、ソロ向きのピアニストだと私は思います。 確かなテクニックから奏でられる誰にも真似の出来ない豊かな表現力は、他の楽器は不必要、ソロですべてを伝えられるからです。"一人芝居"を演じられるピアニストは、そう多くはいないでしょう。 また、音数の多い超絶技巧ばかりではなく、Side 2-4 "Little Girl Blue"のような静かなバラッドもタッチが繊細で美しく、華麗さと優雅さを併せ持ち、妙なフレーズや奇をてらわないことも、ソロにはうってつけだと思います。 録音は、もちろんこのシリーズに共通の全く文句の付けようのない美しい音色です。Sumico Pearlの繊細さが絶妙、真空管アンプ+フォノイコも素晴らしいです。低音域は身体に振動として伝わり、高音域は澄んでどこまでも届くようです。彼の声も聞こえるほどリアリティがあります。 1972年にトリオを解散しソロ・ピアニストとして活動するようになりますが、本作では早々にその自由奔放な思いのままのプレイを楽しんでいる姿を見ることが出来ます。 本作のシリーズは、MPSのオーナーであるブルナー・シュワァー氏の自宅でお客を招いてのパーティー形式でのピアノ・プレイを録音した珍しいものですが、Verveの契約切れを持ってMPSから発売。しかし発売予定の枚数に取り置きの音源が足りなくなったので、急遽追加録音して発売したのが、このソロ・アルバムだそうです。1945年からのレコーディングの中でも20年振りに生まれた初のソロ・アルバムだと言うことですから、ピーターソンのソロはこの1枚と言っても過言ではないでしょう。 このシリーズは再三再発されていますが、本盤はテイチクからのMPSベイシック・セレクション"2000"と言う日本盤です。そう言えば、このシリーズ、私が所有しているのは、全部日本盤です。 #jazz #fuzey #vinyl #jazzvinyl #vinylcollection #jazzvocal #ジャズシンガー #ジャズ #スイングジャーナル #レコード #OscarPeterson *作品を知るとジャズはもっと輝きます。情報くださる先輩諸氏に感謝。 https://www.instagram.com/p/Cp9EfQ_PcSf/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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Dancing for You [ ダンシング・フォー・ユー] by Cosmos Troupe 2008 第17場 - フィナーレ エイト・シャルマン Get Me to The Church on Time
♪ 教会の鐘が鳴る 街に鳴り響く 出かけよう 教会へ So get me to the church on time 結婚の鍵が鳴る 朝の訪れに 急ごうよ 教会へ So get me to the church on time ♪
#takarazuka#dancing for you#ダンシング・フォー・ユー#nagina ruumi#凪七 瑠海#nanami hiroki#七海 ひろき#hoshibuki ayato#星吹 彩翔#sumiki sayato#澄輝 さやと#houju ichi#鳳樹 いち#sorahane riku#蒼羽 りく#aizuki hikaru#愛月 ひかる#sagiri seina#早霧 せいな#soragumi
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Clear Sky Message (Español)
Intérprete: Aijima Cecil (CV. Toriumi Kousuke)
Digital single: 07 Shining Birthday Song “Clear Sky Message”
Fecha de lanzamiento: 31 de octubre 2022
Clear Sky Message Mensaje del cielo despejado
空を渡って 頬をなでる風 Sora o watatte hoho o naderu kaze A través del cielo, el viento acaricia mis mejillas
冷めない熱と 懐かしさ運ぶ Samenai netsu to natsukashisa hakobu Llevando una calidez y una nostalgia que nunca se enfrían
センチメンタルなおとぎ話も Senchimentaruna otogi banashi mo Un cuento de hadas sentimental
アナタとなら優しい時間に Anata to nara yasashii jikan ni También será un momento apacible contigo
誰も邪魔できない 二人だけ Grassland Dare mo jama dekinai futari dake Grassland Nadie puede interponerse en esta pradera sólo nuestra
ひとときの永遠 そっと心に触れさせて Hitotoki no eien sotto kokoro ni furesasete Déjame tocar suavemente tu corazón en la eternidad de un momento
My Princess 仕舞ったままの言葉は唇に乗せ My Princess shimatta mama no kotoba wa kuchibiru ni nose Mi Princesa, pon en tus labios las palabras que detuviste
高く澄みきる青に溶かして Takaku sumikiru ao ni tokashite Para que se fundan en el alto y despejado azul
小鳥が囀るように かわいい声を聞かせて Kotori ga saezuru you ni kawaii koe o kikasete Déjame escuchar tu linda voz que es como el canto de un pajarillo
心地よい秋麗(あきうらら)アナタのための歌で包みたい Kokochiyoi akiurara anata no tame no uta de tsutsumitai Quiero envolver este cálido día soleado de otoño con una canción para ti
日差しの中に ひと筋凛々と Hizashi no naka ni hitosuji rinrin to Espléndidamente en la luz del sol,
寂しさ連れて そよぐ夕紅葉 Sabishisa tsurete soyogu yuu momiji Las hojas de otoño del atardecer se balancean con soledad
デリケートに変わっていく日々も Derikeeto ni kawatte iku hibi mo Incluso los días que se vuelven delicados,
アナタとなら鮮やかに染まる Anata to nara azayaka ni somaru Se tiñen vibrantes si estoy contigo
想い見上げたなら 空は微笑み Omoi miageta nara sora wa hohoemi El cielo sonreirá si tus sentimientos miran hacia arriba
重ね合う願いを きっと届けてくれるでしょう Kasaneau negai o kitto todokete kureru deshou Y seguramente cumplirá nuestros deseos que se han unido ¿no crees?
Star Night Dream 星のカケラを繋げて星座を創る Star Night Dream hoshi no kakera o tsunagete seiza o tsukuru Sueño de la noche estrellada, crea constelaciones conectando los fragmentos de las estrellas,
一つ一つに輝き集め Hitotsu hitotsu ni kagayaki atsume Reuniendo su brillo uno por uno
新たなページにはほら 今日より広がる未来 Aratana peeji ni wa hora kyou yori hirogaru mirai En esta nueva página, mira, el futuro se extiende a partir de ahora
夢だけじゃ終わらない 七色 Happiness Yume dake ja owaranai nanairo Happiness No es sólo un sueño, es una felicidad de siete colores
My Princess 仕舞ったままの言葉は唇に乗せ My Princess shimatta mama no kotoba wa kuchibiru ni nose Mi Princesa, pon en tus labios las palabras que detuviste
高く澄みきる青に溶かして Takaku sumikiru ao ni tokashite Para que se fundan en el alto y despejado azul
小鳥が囀るように かわいい声を聞かせて Kotori ga saezuru you ni kawaii koe o kikasete Déjame escuchar tu linda voz que es como el canto de un pajarillo
心地よい秋麗(あきうらら)アナタのための歌で包みたい Kokochi yoi akiurara anata no tame no uta de tsutsumitai Quiero envolver este cálido día soleado de otoño con una canción para ti
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第四楽章 水の旅路
「物語」
地球上の水のほとんどが塩が混ざり あるいは氷に閉ざされている
���粋な水として存在するには空に抱かれ 山に削られ 岩磐(いわいわ)の険しい旅路を行き 大地の洗礼をうけなければならない
地表に流れる水は命の源であり 様々な自然の関わりによって生み出される命の産物
水は天より降り注ぎ 山を下り 河を流れ 海に終着する水が渇き天に抱かれ空を旅する雲となるのなら風とは命の使いとも呼べないか
風は運命を垣間見せる全ての命は風に運ばれている
風の導きによって命の定めも決まるだろうか風が囚われれば世界は地獄と化し風が自由に歌えば生命もまた謳歌する
ふと目にするあの雲もまた空の彼方の海からやってきたのかもしれない雲は風に流れ 果てに行き着くだろうまた別の風は果てしなく巡っていることだろう
―海のように
果てなき海は生命の始まりの大地山は生命の終わりの果て 辿り水は生と死を巡る 水は命そのもの
雪に閉じこめられた命は春の訪れと共に花開き溶ければ寄り集まりながら小さな鼓動のように流れやがて大きなうねりとなり生命が漲る川となる
そこに命があるなら戦いがある戦いに勝利したものは生き延び敗北したものは死に絶え川を下る
その戦記には続きがある彼らの肉体は川の果ての森に続き木々に住まうものたちの糧となる森の果ての川に命を紡ぐ���語がある
「川の調べ」
雨は天より零れし海の唄 海は天を仰ぎ 天は海を抱く山を越え 草原を愛で 森の謳歌を奏で渇いた砂漠に一瞬の楽園を築く 命の交響曲を支える旋律
空が蒼いのは川を抱いているからなのか空に漂う雲は 流れる風は 天に聳える山にとって脅威にもなる水は一度流れを持ってしまえば何者をもってしても止めることはできない時に抗えないように
水は命を蘇らせる力を持つが同時に山を死に至らしめる力を秘めている峰を削り 野山を駆け下り 大地を削り 渓谷へと変貌する深く奥へと 時が覆い隠した地表が現れる時を遡るかのように
「川の宴」
川が在る所に命は宿る獲物求め命を奪う破壊者がいるなら草を求め旅するものたちの大行進がある
命を賭けた戦いが川を彩る沈黙に眠る川も一度戦いが始まれば騒然となる
一瞬のうちに命が散り 火花のように瞬き雷の閃光のように轟く
そこには思想も哲学もない剥き出しの命と真実がある
「湖の謳歌」
湖は海と隔たり生き物たちはその境界を越えることはできないそれは牢獄なのか それとも楽園なのか
湖がもし栄華を極めたとしても湖が干上がれば命は全て消えてしまう
生き残るためには他を上回る戦略によって己の道を切り開くしかない
裏切り 裏切られ 騙し 騙され 命を残すための闘いは熾烈を極める本能と理性の狭間に揺れる闘争
鏡のように澄み切った湖の下には過酷な世界がある
一の美しさをこの目に宿すためには相反する十の醜悪な世界を知らなくてはならない
「川の旅路」
川の旅は続く天空より舞降りる千の雫は木の枝から幹へと遡るように寄り集まり川の流れを描き大地をうねりながら森を横切り平野を走る
大地の鼓動が生命の躍動なら大地の雄叫びは闘いの咆哮である
闘いの先に散っていった者達が川に溺れ 川に沈み川を血の色に濁らせるなら
草茂る水の流れはその汚れを払い水に清流を取り戻す
乾季と雨季に生と死が巡り歓喜と憂き命が交錯する
雨が降ることで大地の様子は一変し世界が変わる
生命の謳歌と眠りが時の巡りに合わせて変化する川は山を削り 破片を海岸まで運んでいく
そして川の旅は終わる
「海の森」
珊瑚礁は海を砂漠から森に変え多種多様な命を呼び起こすオアシス光を受け輝き 波に揺らぐ花のよう海に咲く花を愛でようと多くの命が集まり闇の海に咲く光であり 命の灯のよう海の家 大地にとっての安らぎの木
海に昆布が揺らめく場所は熱帯雨林を思わせる海を浮かびながら漂い 命は溢れ 迸り色は犇めきあいながら 絡まり合い 踊りながら波に歌う絵の具を散りばめたかのような宝石のように輝き始める足を踏み入れたものはその場所に住み着き憩いの場所を築き 新たな旅に出る時を隠れながら待つ
「海の宴」
命を育み 支える命の種命を降らせる恵みの雨植物プランクトンの恩恵を受けるために 命たちで溢れ返る
生き物たちが群れを成して訪れる命求めて海を縦横無尽に旅するものたちが春を待ち続けていた
冬に荒れ狂う波は海をかき混ぜて海に栄養を行き渡らせる命にとっては天と地を別つ温度の壁海にはある嵐は壁を破壊し 天と地を混ぜ合わせる命にとっての心臓の鼓動のよう
夏命を求める旅は続く魚は群れを成して移動を続け鳥たちは巣へと帰り 再び飛び立っていく鯨もまた旅を続けている温暖な場所から極地へと向けて旅は続いている―春を求めて太陽の方角へ
秋が来る時 嵐は再び起こる命にとって堪えなければならない長い時の前の休息と謳歌の時間集まってきていた生き物たちは散り散りになりそれぞれの場所で 冬が終わる時を待っている海さえ嵐を呼び込みながら 海をたゆみ無く巡らせながら 春の時を待っている海の流れが無ければ 命は恵みの時を受け��れず翼は折れ 大地に落ちる
「富の海」
光が降り注ぎ 大地は珊瑚礁に彩られ魚が銀色に閃いて通り過ぎる揺れる虹のようなたなびく彩雲のような百花繚乱の森色の豊かさが命の豊かさを示すならこの彩りに富んだ景色が命の豊かさを現している
海の楽園は海全体のどれ程だろうか
エメラルドに光り輝きクリスタルのように透き通り波が青の群れとなり光揺れる世界
生き物に犇めき濁った世界砂漠や極寒の世界に隠された地底奥底の知られざる世界があるかもしれない
豊かさだけを見るなら確かにここは楽園であるが楽園の背後に眠る闇を誰も知らない
命踊り 光輝き それは目下に佇む闇の中に歌う星のよう
「海の彼方の闇」
知られざる宇宙のような場所
天文学者ならば星を探して眼を凝らし新たな光を見ようとし
生物学者ならば命を探して彷徨い歩き新たな生き物を見つけるだろう
深海の闇という宇宙に潜む星を探すように生き物たちは身を潜め闇の中で蠢いている
光は徐々に薄くなっていく辺りは夜のように紺に染まっていく気づけば無音の闇の中光の恩恵はここには存在しないあらゆる時間において闇は光の無い洞窟のように
微かな栄養を頼りに彼らは生きるしかない自らの力によって海を渡り海流という大地にとっての風に乗り漂う
海を浮遊する微細なプランクトンが海の世界を支えている鯨や鮫 鯱や海豚といった華やかな生き物はその表面で閃いているに過ぎない舞台に踊るアクターを支える無数の影の努力者たちのような
触れれば壊れそうなガラス細工のように揺らめき揺れる蝋燭の火は今にも消えそうな陽炎のよう今にも壊れそうな幻想的なあり方をしている
「深海の底」
海は深いだけで圧倒的な力を湛えている大気であれば気圧 全ての命の源 水を水として存在させるための力水圧の力には際限がない 科学の力で武装した鎧すら簡単に破壊する
水温は凍えるほどに冷え込み 空気は高山のように薄く やがて皆無になるこの世界は生命の存在を拒んでいるのだろうか
果てしなく深い限界の場所で生き物は蠢いている恩恵は海の表層から降り注ぐ 雨のようで 雪のような死が舞い降りる生きとし生けるもたちの肉片が塵となって落ちてくる彼らの死によってもたらされるものはこの世界では太陽の光のよう
海底に着く時この世界は月のようだ果てしない無の世界が広がっているしかしこんな所にさえも生き物は生息している
「海底火山」
海底にも火山は存在する海底とは海の底であると同時に大地の果て
大陸と大陸の鬩ぎ合いの狭間に摩擦に散る火花があるように火山が煌々と火を上げている
マグマは地脈のように奔り 地球の中心まで潜り巡り 再び地上へと吹き出す
世界とは外に開かれているのではなく内側に広大に巡っている
マグマが海底の生き物を支えている砂漠にとってのオアシスのように
海底に山脈を築き 延々と続くかのようにいつか大地が隆起し 沈没した時海底に眠る大地は海上に眼を覚ますだろうか
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好きな詩人が 「星空の体温に触れているみたいな冬。」と書いて、寒さに慣れると逆に暖かくなってくるのはこういうことなのかもしれないと思った、寒いなーと思うとそれが軽やかな痛みに変わって寒さが消える、それを熱さのようだと思う。星は、青白く輝く。冬のシリウス、大三角。青白い光は冷たそうで熱い。幼い頃はコンロの青い光を冷たいと思っていた。シリウス、私を連れてって。好きな歌だ。
昨日は雪で帰れなくなり満員電車で座りながらM-1を見ていた。アルバイト終わりに雪の中を軽やかに駅まで走った、私はかなり雪が好きである。みんなに疎まれる雪も夏の暑さも生きている感じ、またその季節に辿り着くまで生き抜いた感じがして好きだ、これは私の動物性故かもしれない。恋人に「人間らしいところが良いよね」と言われたことを思い出した、嬉しかった、漫画でもアニメでも私は人間らしいキャラクターが好きだから。「みんなが終わってほしいと思いがちなものを終わって'しまう'と君は思うだろう」 とも。好きな人から教えてもらったことをうれしそうに話す癖、昔から変わらない。前の投稿でとてもキレてたけど彼がどうにかしようとしてくれて本当にありがたかったな、本当にこの人と人生つくりたいって思ってる。
サークルの句会歌会に出せなかった作品を置いておきます。
俳句:カタカナを使うこと
短歌:歌
サンタの褪めた赤団地の子だけ見ゆ
飛べなかった縄跳赤い痕痛し (テーマに沿わず)
シリウスに惚れる気がついたら湯冷め
ホットワインに浮かぶ自画像ゆれる
君の胸に耳を澄ますと拍動の讃美歌が響いている初冬
セロリでも句作りたかったけど上手く出来なかった、他の人の「刻まれてセロリの小さきが数多」 という句が良すぎてやられました。まだまだなのでまずは量を読まないとなーと思う。
少し前に眼科に行った時、あの気球を目の当たりにして検査中に笑ってしまいました。「眼科の検査で浮いてる気球を君と僕で探しに行こうか」、と���思いました。恋人も目が悪いし。目が悪くなったので眼鏡作らなきゃなんだけど多分まだ作らないと思う、迫られてないので。それより目が悪くなったって何?天気が悪いもあんまり好きじゃない、悪いもんなんてないだろとか屁理屈こねたくなってしまう、はい。視力が落ちました。
スマ���トフォンのケースに彼と行った水族館のチケットを挟んでいたんだけどそこに好きなキャラクターの小さいシールを切って並べた、小学生みたいな様子になったけどこれを見ると癒されるから仕方ない、妥協するしかないことが最近は多い、トートで行きたいけど重いからリュック、ヒール履きたいけど大変だからスニーカー、ダサいけど生きるにはそうするしかない。美学を貫きたい欲望とどうにかして生きなければならない義務、自由に好きなものを愛していたいね〜〜、今日は大雪で大学にもアルバイトにも行かなくて済んだのでおうちでぬくぬくしていました。久しぶりにゆっくりできてたすかった。このたすかったは助ではなく救です。(2022-12-19)
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レムリア 〜 母なる樹に抱かれた生活
ロビン・カイザー
オリジナル動画:https://youtu.be/UMtxg1KGJXE
【和訳:ALAE PHOENICIS】
最新情報はTelegramチャンネルへ
レムリアには巨大な生命の樹があり、そこに人が住んでいた。現在でも、この母なる樹の遺跡は世界各地に残っている。レムリアの記憶が人々の心の中に残っている限り、本来の自然な生活を取り戻す希望があるのです。 ロビン・カイザーのホームページ:robinkaiser.eu
レムリアと母なる樹木での生活
その昔、地球にはまだ水が澄んでいて、土壌には豊かな栄養分が含まれ、自然の中のあらゆるものが底力をみなぎらせ、振動していた頃がありました。
当時はまだ炎には性格があり、風には声があり、自然界のものにはみな生命が宿っているのが当たり前だったのです。
火の精霊は炎を舞ってその姿を人間に見せ、風の勢いは遠くの国の物語を語ってくれた。
人間は、すべての生き物と親密な交流を持ち、すべての生き物が心の動きや感情を直感的に理解できる言葉を話すことができました。
自然界に備わる力は友人や仲間として扱われ、助けを求めたり、助言を求めたりすることができました。
人間が他の土地について何か知りたいと思ったとき、その土地の情報を素早く運んできてくれないかと風に頼みました。
そして、人生における決断を運命に問うたときは、炎の精霊に火を灯しました。
人間が全生涯を自然界の創造物に捧げているため、自然界の精霊たちは人間に好意的でした。
二つの部族が互いに連絡を取り合いたいとき、同時に火を焚いて、その火を通してもう一方の火の中に姿を現すことができました。
この地球上のすべての炉は自然のネットワークを形成しており、ある人の意識は、ある炉を通して別の炉に現れることができるのです。そして、火の精霊の力を借りて、火の炎の中に顔や形を作ります。
人々は火を通してお互いを訪問し、風に乗って聞こえてくる声と火の中の幻影の両方を通して、お互いにメッセージを伝え合うことができたのです。
その頃、大地との対話は、現在の数倍も大きかった木々を通して行われました。
そして、人々は木々を通して深い瞑想状態に身を置くことができたのです。
人の意識が木と融合すれば、木の枝や根をすべて自分の手足のように感じ、その意識で大地に深く沈むことができました。
自然は人間の家であり、森の中の空き地はすべて自分の家の中のようだったからです。
自然の力は、その自然な成長を通して、人間のために素晴らしい住まいを作ってくれていました。
この地球が人間に与えた最大の贈り物は、母なる樹木です。
地球は人間に、天に近い最も美しい住処を提供しようと考え、ある種の樹木を空に向かって何キロも成長させました。
この樹木は、地球が生んだ最も素晴らしいものでした。
そして、それらは生きた楽園であり、色鮮やかな花々が咲き乱れる独立した生態系でした。
一本の母なる樹には、部族が丸ごと住めるほどで、その上に台座、塚、見晴らし台、梁、小川、円周およそ3メートルもある花があり、日没時には必ず開いて燐光を放っていました。
世界は言葉に尽くせないほどの美しい色彩に染まり、生活は静かな調和と深い感銘、そして母なる自然への大きな感謝の中で営まれていました。
なんでも豊富にあるため、人間は何も植えなくても木や草の果実を食べて生きていました。
人間が必要とするものはすべて自然が与えてくれ、生活の自然な営みを阻害するものは何もありませんでした。
人の体は細身で力強く、生命力に溢れていました。直立歩行で、足取りも軽く、優雅でした。そして、歩くというより、大地の上を踊るように飛び跳ねていました。
夕刻になると、人間も植物も生きとし生けるものすべてが調和し合い、深い静寂の中にたたずむことがありました。
風が止んでしまいました。もう葉っぱの音もしないし、人も獣も動いていません。
すると、すべての生命を包み込むような大きな静寂が訪れるのです。あれだけ活気に満ちていたのに、まるで、自然そのものが息を潜めて、ひと休みしているかのようです。
この最も神聖な時代にあって、すべての生命は互いに静かに結ばれ合っていたのです。そして、すべての生命体が母なる樹木と大地の精霊のもとに一体となっていました。
その日の時刻によって、さまざまな香りが漂っていました。
中には、一瞬で人を別の意識状態にしてしまうような魅惑的な香りもありました。
生命のリズムは、ある種の植物の開花によってもたらされ、その植物はその進化において動物と植物の中間に位置する生物のようなものでした。
母なる樹には、その上を移動する植物があり、常に最も日当たりの良い美しい場所に移動していました。
また、一日に一度、数時間だけ大きな花を咲かせ、その後また閉じる植物もあります。また、他の植物には脈拍や呼吸のリズムがあることも見て取れました。
ある日、ある植物が花を咲かせると、その香りが辺り一面に広がり、その香りを通じて人間の意識はその植物と一体化しました。
その花が閉じればまた、別の植物が示し合わせたかのように花を開き、人間の心を招き入れるのでした。
母なる樹は年に一度、数日間だけ花を咲かせますが、このときが自然と人間が結ばれる最高の神聖な結婚式だったのです。
母なる樹が開花するや否や、人々を恍惚とさせる芳香が立ち込めるため、その宴の準備は長い時間をかけて行われました。
母樹の花、そして一部の植物には幻覚作用があり、その香りだけで人間の意識を大きく拡張させることができたのです。
萼(がく)から滴る露を飲み、花粉で満たされた空気は、呼吸するだけで豊かな栄養を与えてくれます。
人間の皮膚はやや硬く、革のようでありながら、ところどころに細かいクリスタル状の構造が浮き出ていて、その上に皮膚が光っているように見えます。
深い意識状態から抜け出したばかりの人たちは、文字通り、肌がクリスタルのように光り輝いていました。
植物は人々の生活の場となり、母なる樹木の中には、夜になると大きな花が開き、その中に寝そべることができるような、各人専用の植物があったりしました。
人間の意識は植物と結びついていて、疲れたときには必ず寝台植物の花びらが開くのでした。生きている花の中に横たわって眠れば、花はその人の体を優しく覆い包んでくれました。また、目が醒めると共に、花は開きました。
こうした人たちの眠りとは、意識的に夢の世界へ移行することでした。
また当時の人々の生活の営みは大部分が睡眠中に行われていました。
人生には、夢の世界というレベルからしか叶えられないことがありました。ほかに、身体的な場面での方がもっとうまくやれものもありました。
その意味で、世界には意識が起きている間も、眠っている間も、変わりありませんでした。
人々は、睡眠中に物理的な世界に繋がるのと同じように、日中も睡眠中の世界に繋がっていたのです。
そして、彼らは夢の中の世界から、物理的な領域で多くのことを実現させました。彼らは自分の人生を夢で描き、その夢に従って自然界は急速に物質面で成長していったのです。
母なる樹は鉱物の王国と植物の王国の狭間で進化を続け、地球は母なる樹を通して生きた結晶のように空へ向かって成長していきました。
地球に宿る魂は、母なる樹の中に最も純粋な形で転生していきました。そして、地球の鉱物界から植物界へと流れるようなクリスタル状の移り変わりを形成したのです。母なる樹の幹は、大地から伸びたクリスタルのようで、頂上に向かって次第に樹らしくなっていくのでした。
反重力によって、母なる樹の幹は地中の鉱物だけでなく、大量の水を運び、樹冠の中で湧き水となり、小川や滝となって地上に流れ落ちていきました。
ある種の樹木の鼓動は、大地から何キロも上へと水を汲み上げ、樹冠の中に泡立つ湖を形成していました。
さっきも言いましたが、それぞれの木にはそれぞれの生態系があり、当時の人が住んでいた地球にはそれぞれの地球があったのです。
当時の気候は一年中安定しており、熱帯らしい暖かさで、昼夜の温度差もわずかでした。
母なる樹に生える植物は、どちらかというと動物に近かった。そして、動物はより植物に近かったのです。
そこには沢山の巨大な平野があり、非常に多様な色と形をしたキノコがたくさんありました。
いく��かのキノコは夜になると小さな提灯のように発光し、母なる樹を光の海に変えてしまいました。
当時は昆虫や鳥類もいましたが、その他の大型哺乳類はまだいなかったか、母なる樹の上で生活していた人たちには関わりのない存在だったようです。
ただ、人間の髪の毛には特別な役割があり、髪の毛もある種の生き物として、触角のような役割を果たしていました。
樹木が幹か��枝を生やすように、人も頭髪を生やしました。そして、髪の毛は手や足と同じように身体の一部として何かに触れることができたのです。
また、髪は意識的に動かすことで、例えば三つ編みにすることなども出来ました。
人々は特別な日には葉や花で身を飾りましたが、伝統として我々が理解している衣服は存在しませんでした。
彼らは、高い目標を目指すことなく、母なる樹木の腕に抱かれ、最も素晴らしい自然構造の中で暮らしていたのです。
そして、彼らの存在は、大地が差し出す贈り物で深く満たされていました。
レムリアと呼ばれるこの時代に、一体何が起きて、このような生き方が終焉を迎えたのかは、その時のあなた方の記憶に委ねるしかないでしょう。
私たちはただ、あなたの地球の最も素晴らしい創造物が完全に消滅させられた、巨大な破壊工作が行われたことを記しておきたいのです。
すでに一部の人類が乱伐を営んでいたにもかかわらず、レムリアの人々は最後まで、大自然に忠実に、平和的な生活を続けようとしました。
そうして、地球にとって最も痛ましきことは、すべての母なる樹木が計画的に伐採されていったことでした。
今でも、その痛みは地球のエネルギー領域で感じることができるのです。
母なる樹木が壊されて以来、地球上の生命はますます分離と孤立に向かって後退していきました。
そして、一本の母樹の最初の伐採から始まったこの破壊行為のクライマックスに、今日、皆さんはたどり着いたのではないでしょうか。
けれども、あなた方の世界では、当時の楽園のような地球での状態を覆い隠し、嘘だらけの人間の起源を語る勢力があるものの、まだ母なる樹木の名残が息づいているのです。
そして、自然と深く一体と なって生きていた記憶は、一部の人々の中で未だに消えてはいません。
もちろん、現在の地球上の自然はかなり異なっていますが、レムリア時代の生き生きとした自然が当時のみなさんの意識に呼応していたように、ある意味、現在のみなさんの意識状態に呼応した小規模な自然がそこに存在しているのです。
地球上の天然の楽園が破壊されようとも、地球はまだ失われてはいません。
そして、レムリアの原初的状態の生々しい記憶が、あなたに相応しい未来を創造する力を持っているのかもしれません。
人類として別離の時代を乗り越えたとき、地球上のいくつかの木々は再び他の木々よりも大きく成長し、ガイアの精霊が自らそれらの木々に転生して、天まで成長させるのかも知れませんね。
今の地球には、このような素晴らしい生き物を育てるだけの生命力と強さがありません。しかし、地球が再生し、枯渇から回復したとき、人間は再び木の上に生きた自然の建造物を育てることができるかもしれません。
最後に、以下の写真をじっくり眺めて、レムリア時代と母なる樹木の記憶を呼び覚ましてみてください。
これらは、のこぎりで切られた切り株です。
かつて、あなたの地球で最も偉大で最も素晴らしい生き物でありました。
この地球上の破壊工作は、はるか昔から始まっており、あなた方は今になってその結果を体験しているのだということに、どうか気づいてください。
レムリアの生活形態は破壊されたとはいえ、人々の心の中に生き続けています。
そして、それがそこに生き続け、人々の意識の中に残っている限り、地球を癒す希望も残っているのです。
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洋燈
赫(かがや)きの溝で生まれた色は 未だ見えなくて 幾つもの夜の底に埋もれた 灯(ひ)は誰の枷? ここに在る意味も理由(わけ)も すべてなぞるように 辿った足跡 続く先は 迷いの海 想像と鼓動がまた 瞬き 導き 咲く時 綻ぶ夢に描く 混ざり合わない想いを 燦然と陽が撫でる 積み上げた くすむ星も 満天の誇りはただ 求めて 壊して この手と繋ぐ手を 暗がりの裏で塗られた色は 未だ消えなくて 愛しむことで欠けた心の 灯(ひ)は誰のため? ここに成す意味も理由(わけ)も すべて崩すように 重なった足音 響く先は 過去の澱み 創造と軋む日々が 輝き 彩り 咲く時 零れた夢が染める 混ざり合わない願いのまま 心象にかざすなら 黎明、閉ざされた記憶と ―――幾つもの夜の空に浮かべた灯を。 澄んだ風が運ぶ声と ―――美しく蕾みかけた心が摘む灯を。 創造の鼓動はまだ 高鳴り 羽ばたき 確かに 記憶の奥を照…
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春霞 四方山話
JGエイプリルフールのエア新刊ネタまとめの「春霞」に収録していた四方山話をこちらにおいておきます。四方山話はエア新刊それぞれの繙きと過去ツイ(JGmomentと重複します)をふまえて構成されてます。
絵はクロスフォリオにまとまっています。
「空に沈む」 タイトルについて 【空】そら、から、くう ①地球を覆う大気。天。 ②からっぽ。中身がない。 うつろ。 ③空気。 ④むなしい。むだ。 ⑤あな。つきぬけたあな。
「空」は好きな音で読んでください。
空と反対に位置するような動詞って何だろう?と探してみて、「沈む」をあてました。言葉が音にならないような。空気として消えるような。そんな意味も付随できました。最初のときはこれっきりのつもりだったので、暗に「嘘」っぽいニュアンスも入ればな、の気持ちがありました。
発端・繙き 「三好」は、アニメや舞台で一番セリフあるな、話してるな、饒舌なのかな?という認識が強かったこともあり、日頃よく話す人が静かなだけで不思議だな、明け透けな言い方をしている人が言葉を噤んでいたら怪しむな、というところが始まりです。いつもながら、実際のところどんなカバーだったのかは分かりませんけれど。「三好」だった彼はどうだったんでしょうか。「三好」である間は、内在していた言葉を紡ぐことは気楽だったのでしょうか?
三好について思うこと まつげが長く、真直ぐで伏せがちな人の瞳にはハイライトが入りにくいので、三好はそんなイメージ。女顔ではあるけれど男性を感じられるようなバランスを目指したい。 彼が鏡をずっと見てるのは設定上は自己愛としているけれど、実際は装うことにとてつもない不安を感じていたらいい。完璧であることを確認しているけれど、完全なる自分ではなく不完全ではない自分を見ている。記憶無し転生D組設定で(何故か鏡をずっと見てしまうのが癖になっている。自分の顔など全く好きではないのに。) とかさせたい。これは妄言。 機関員のお兄さんたちがどこまでカバーでどこからが 素なのかは深淵すぎるのですけど、三好の猫嫌いが素としては愛猫家で顔がゆるんでしまうから三好としては触れあわないとかだったらすき。よい。
「僕の様子が普段と違う?」 「僕らが変わったと思う様になったのならば、それは貴方が変わったのですよ。」「僕らは何一つ、変わることはありませんから」「貴方の変化が見てとれるなんて、まるで鏡みたいでしょう?」 莫迦なことを言う。人間である以上不変であるはずがないのに。……しかし、彼らは「人間」なのだろうか。
機関員たちはカバーを変えてるけれど、「彼ら」のカバーそのものは何も変えずに、人によって、時によって抱く印象が変化する、そんな鏡の様な彼らも見てみたい。
「割りたい赤」 タイトルについて 「赤」には風船を抽象化していることに加え、生命(肉感、血、エネルギー)のイメージが強そうな色として選びました。対称的にストレートな言葉をくっつけています。他に比べると、ひねりが少ないタイトルになりました。
発端・繙き 風船(浮かんでいる、軽い、楽しい、ふわふわしている→明るさや身軽さを感じる物)を過去とか自由とか未来だと考えて、それを貸してくれないかって、過ぎし日の幼い自分に請うて「お兄さんそういって割っちゃうんでしょ」って断られる機関員さん。持つ者、持たざる者、手放した者。 信条「死ぬな殺すな囚われるな」でございますけれど、夢の中とか脳内で気に入らない、とか眼中にないとかそういう周囲の人を殺してる殺戮犯な機関員の話みたい!基本的には、血濡れにはならないはずの機関員さんたちを、どうにかこうにか血濡れにしたい!の具現化です。 この時はエイプリルフールなんか描きたいけどネタないからエア新刊をこすろう、位のきもちです。三好の次で描きやすい人選んでます。
実井について思うこと 青年でありながら少女のような可憐さを匂わせる雰囲気をまとっている人であってほしい。見事な幻影。外見が、無邪気さも繊細さも似合うのずるい。声音が落ち着き払っているのもすごい良い。(中の人が何時だったか「時期によって意識的に性格変えてる」って話してたのも、うわってなっていマス。記憶違いだったらごめんなさい。余談。) 一応アニメ公式(パロディ含)だと豪胆さ、強引さの味付けが入っている様に思うのでギャップで固められている。なんなんだ? 実井さんには「蓮」が似合いますねの話をここにも置いておきます。過去『而今』で描いてるけどいつだって描きたい。(而今の解説的でもある。)蓮は泥と共にある。「泥から美しい花が咲く」又は「花の下は泥」という風景を踏まえて、彼には蓮池の花の中に居てほしい。彼の足下には深い泥が広がっている。彼「自身」が泥とでも、泥の中でも輝かしいと解釈してもいい。
清澄でも汚濁でも。 神聖さも世俗さも。 厳格さも奔放さも。 両立する。と思っています。
「だって頭の中(ここ)では僕がカミサマ」
「なんだい、人を殺したことがあるようなことを言うね」 「馬鹿言わないでくれ、不殺の誓いをたてているんだ」「〝俺〟の意思で手をかけたことなんかないよ」 「〝あいつ〟は如何だったか分んないけどサ。」
「斎を食す」 タイトルについて とき【斎】 お斎。葬儀・法事の際に出す食事。 食事にまつわる行為そのものが弔いのよう。
発端・繙き 3回目ともなり、そろそろ恒例化しようかな~と企み始めた頃です。3人目は福本さんにしようかというところから、福本さん→料理、食べることから膨らませていきました。 彼に何を食べさせるか、食べたいと思うのか?を始点に、「福本」にとっても不可能なものを望ませよう→人間とか星とか魂とか、が候補になりました。人間は血肉が連想され「割りたい赤」ぽい、星は空が連想されて「空に沈む」ぽいな~となり、魂を採用。死んだら魂は何処へ?魂は存在するのか?肉体は魂の入れ物なのか?外殻でしかないのか?幽霊は魂なのか?そんなことを考えながら魂を食べるにはどうしたらいいか探求して試そうとして失敗しても諦めない話かも。『英霊の声』をみすあこんの課題図書として読んだ後(「11.25 自決の日 三島由紀夫と若者たち」も観た)だったことが多大に影響しているのか、あの時代の中での死とか、軍人としての死とか、「神国」での死とか、を頭に過らせながら拵えたネタでした。
福本について思うこと アニメ、舞台を通してひときわ変装(人相)の幅を見せられていることもあって、像が固まらない人です。固まらないから��そ、福本さんは「無」になれる人だと考えており、自我を封じ込めてるというよりは、元々何もない感じのミステリアスさが出るといい、と思いを込めて描いている節がありマス。身体的特徴として背が高い点は、画として気にしてます。 得意な料理はなんだろう~。(急な方向転換)献立行き詰って婦人誌も目を通してるのか、多様な料理店に潜り込んで修行しているのか。一度口にしたものは再現できる系なのか、再現できるまで研究タイプなのか、抜群に調理センスが高いのか、 出自に関係するのか。新規レシピ開拓、栄養バランスの調整、見目、おいしさ、特殊食材・機材に興味があっても、極めたら無関心になるタイプでも「ぽい」のがまた。調理は几帳面さ・柔軟さ・こだわりのバランスだと思ってるので、勝手に納得できてしまうところではある。
人はどうしたら神なくして聖者になれるか。
神国なんて春の夢だよ。
なぁ、お前はいつ神の正体に気づいたんだ? ─さぁな。「俺」が生まれた頃じゃないか? ─そんなの、神が救ってくれなかった時に決まっているだろう。
「あいをかたる」 タイトルについて かたる【騙る】 偽る。うそをもっともらしく話し、人を欺くこと。 かたる【語る】 話す。物事を順序だてて話して聞かせる。 同音異義語ダブルミーニング大好き人間なので、いつか語る・騙るは使いたかったのでここぞとばかりに。これまたエイプリルフールで嘘の話をしています。今度はどんな嘘をつかせるかと考えて、「愛」だろうなと。(今度はっていつもか、、 ※恒常的なのかどうかは私的見解です。)
発端・繙き 「愛される人を演じるのは得意なんですよ、」 (愛なんて知りませんけど) って機関員に言わせたい、を昇華した形ですね。 軽く言っている様に見える人。ホラ吹きであることと周囲への影響に自覚的な人。愛されることに一家言ありそうに見える人。この三つの基準を薄ら頭に入れて選抜しました。一家言ありそう・というのが大事。どうせ、あるわけないんだし。(失礼)彼らにとっての「愛」とか、愛する・愛されるとか、どう考えているんだろうか。 人間的?冷たい?温かい?綺麗?汚い?軟派?遊び?枷?重荷?面倒くさい?過去?手の届かないもの?考えたこともない?強い感情(肯定・否定どちらでも)を抱いていても、無関心でもいい。愛に飢えていても、満たされていても、放棄していても、しまい込んでいても、壊れていても。正面から向き合っていても、目を背けていも、雑に扱っていても、丁寧に手入れをしていても。結局なんだっていいんですよ。どんなバランスでも相性良いな。
神永について思うこと ほか7人と比べると声に明るさ、ハツラツさを感じているので「神永」としてはお調子者…ひょうきんな面も見せ、楽しくて面白く、親しみやすい人という印象を与えてるんだろうな、など。あとは隠そうともしない自負心が溢れているな、と見てます。だからこそ、ひとりでいるときの静かさとの差が大きく見えそう、というイメージ。まじめ、何事もそつなくこなす、努力を感じさせないが素地かも?まァ、「努力を感じさせない」は、彼ら全員に当てはまるか。 今回書き出していて。神永さんへの思い入れが無いことに気づきました。好きとか嫌いの軸にはいないのですが、機関員の器として理想すぎるのかも。この後にも続きますけど、目の前の彼は、その肉体と精神(素)とカバーは一体「誰」といえるのか。
彼であって、彼ではない。
瓜二つなのに別人だった。 似つかないのに「彼」だった。 忘れられないのに、上手く思い出せないなんて。
「蛻の體」 タイトルについて もぬけ【蛻】 蝉や蛇が脱皮すること。ぬけがら。中身が空っぽの状態。もぬけのから。 「もぬけのから」、「もぬけのから、だ」という状態説明、「身体(からだ)」そのものが抜け殻であると意味したい、の要素から音で遊びました。 斎を食すの體の話にも近いですが、「カバー」の言い換え、カバーを変更していく彼らを形容する言葉を、探すことが度々ありまして。 面・顔・頭・服・影といった外見、あるいは脳、人格─意識・思考・性格・心といった中身のどちらを変えているとするのか?と考えたりするんです。考えたところで、どちらも変化しているのでしょうけども。そこから、脱皮を繰り返す→抜け殻を増やしている、殻の中で変容する人の意で「もぬけのから」と結びつきました。空蝉も良かったですが、漢字の重複を避けるのと意義も広かったので。 煙と機関員で何故タイトルが蛻なのか、抜け殻の中身が煙の様。彼らの抜け殻って風で消えそうだな。そんなニュアンスです。実体が残らない感覚?薄れゆく記憶の中にだけ存在している抜け殻、みたいな。
発端・繙き このエイプリルフール遊びもいつまで続けるかわかんないし!描きやすい人はもう波多野さんしかいないよ!描かないと!から決まりました。他とテンションが違すぎる。波多野さんで描くとしたら何を描きたいか?となると、喫煙している、煙草と波多野さんを描きたくなって。アイディアスケッチにも喫煙波多野さんがいくつかありました。でも結局、この中では手にはしているけれど、喫煙の様子は描いてないな。アレ?
波多野について思うこと 強く少年らしさ(未熟・幼さ・純粋さ)を感じる様相の中に、成熟している内面がちらつくといいな、と思いながら描いてます。立ち絵で見せられている波多野の「生意気」「少年ぽさ」と、お当番会と舞台での彼から感じられる知性の空気は大事にしたいです。(彼らの中で相対的に)小さい、童顔のビジュアルがただ欲しくて描くときもありますが。とにかく描きやすくてビジュアルの推しなのだろうと思ってます。
吐き出された紫煙の奥に隠れた彼の表情を想像して、狼狽える。どんな顔をしているか分からなくて、ふいに不安になった。 ぼやける輪郭を信じていいのだろうか。 そうだ。きっと。いつだって。彼を捕らえて、留めておくことなんて、出来やしないんだろうけど。
せめて、この一本が灰になるまでは、自分の前では「彼」のままでいてくれないか。
「渺たる影」 タイトルについて びょう 【渺】 水などが限りなく広がっているさま。果てしないさま。 はるかにかすんでいるさま。
普段使わないような馴染みのない言葉で、含みを持たせるのも好き人(すきんちゅ)です。いつもいつも言い換えやら類語やらを漁って引っ張ってきてます。
水光─水面の光の反射の眩さと、落ちる影─虚像の暗さ。遠景で眺めたときには凪いで見えても、近づくと止めどなく揺らいでいることに気づくところ。大小さまざまな寄せては返す波。静けさも荒々しさも想像させるところ。大きさと深さを感じるところ。海(あるいは水面)の要素から。
発端・繙き 甘利さんには、暗号名ケルベロスが「海」回なこともあり、水面や海、波のイメージが自分解釈のなかで紐づいています。 大らかさや、凪いでいる雰囲気が「甘利」のものなのか、「彼」のものなか。 彼の浮かべている笑顔について、いつも笑ってる。なんで?口が笑ってる?目が笑ってる?声が笑ってる?何が楽しいんだろう。癖?無意識?意図がある?と思うことがあります。 この二点を合わせて捏ねくりまわしてみました。 画的には、前々から「絶対見せてくれないだろうけど、機関員の瞳からつたう涙が見たい」願望がありまして。カバーによっては、多様で絶妙なさじ加減の感情表現がされていると思いますが、涙を人に見せる場面ってそうそう無いと思うんですよね。あの時代の男児なのも相まって。そこで感情の発露ともいえる涙が見たいな~という。ただ、前述をもとにすると「泣き顔」なんて到底思い浮かばないので、顔に当たった水滴がつたう、という描き方をとることになりました。『夢寐の紗幕』七夜も然り。
甘利について思うこと 甘利さんは、余裕を感じるのにどこか翳る笑顔が似合うと思います。優しい皮を被った冷血漢・残虐非道がいいな…にじみ出てる気もしますけれど。(言いがかり)波多野さんもですけど、甘利さんは前髪が長いので、目を隠せる!楽しい!の気持ちで描きます。物理的にも隠せるし、影の中にも隠せる。良い。笑顔と目元が隠れる解釈から「翳る笑顔」の印象があるのか……。 描いてきた甘利さん見直してみたら、結構「無」だった。冷たさを求めすぎ?お当番回の画はあんなに明るくてまぶしいのにね。
「ひとつ、問題を出そう」 浮かんだり、沈んだり。 止まったり、流れたり。 映ったり、消えたり。 澄んだり、濁ったり。 溢れたり、枯れたり。 さて、其れは、何でしょう?
「種も、仕掛けも、あるとか。ないとか。」 タイトルについて しかけ【仕掛け】 ①相手に対して、攻撃など をすること。 ②目的���ために装置や策な ど工夫されたもの。 ③物事をし始めて中途であ ること。 ④やり方。手段。 手品の常套句「種も仕掛けもない」をいつか使おうと決めて早○年……。
発端・繙き いざ田崎さんのネタを誂えるとなったときに、過去絵で勝手に藤を宛がっていたので、藤の噺を描いてしまおうか、とも考えたりも。鳩も手品もタロットカードも汽車もある。モチーフ多すぎ。取っ掛かりが多すぎて迷い、後回しに。描いたことがなかったジョーカーゲームトランプを描くことを決めたので、カードマジックの中から簡単な「カード当て」を選びました。シャッフルやカードを並べる仕草だけでも、動きが大きくて派手に見えてイイ。代わりに作業コストはおかしかったですが。写経です。絵の中に使われたカードの柄とか数字とかはグループ分けツール頼みです。 今回は悪魔の証明─「存在しないこと」の証明をほんのり用いながら、逆説として証明できるなら「存在する」ことにされる、という切り口で組み上げてみました。舞台の田崎と福がスイッチするアレです。その証明の正誤は誰が決めるのか。手品は「種も仕掛けもある」ことが前提ですが、トリックを見破れないなら「種も仕掛けもない」と言ってもいいのでは?という話。
田崎について思うこと 田崎さんの天然さはカバーなだけなのか、素なのか図りかねてます。どうにもコミカルな雰囲気がついてますが、爽やかな人に見せたい気持ちも。田崎さんへの思い入れも薄い…いや鳩に占領されているといった方が正しいか…。
機関員と嘘について 「カバー設定がある」ことが嘘とか、「全て偽りである」ことが嘘、「嘘が嘘」っていう解けない謎な世界線の彼らは、真実を「嘘」だと振る舞い続けるのもいい。「これから、嘘をつきますね」が嘘で、その後から真実を話してもよい…。
本当の偽物、真実の嘘 素顔の化粧、本性の芝居
「偽物であることに関しては 本物だよ」 スパイたち、全てが嘘であることを知らない世界線で、「嘘だよ」って言ってくれ。 眠りに落ちる瞬間の夢か現かはっきりしない微睡みの中、煙草の煙を吐くと同時に、すれ違いざまに零すようにして、さよならの後とかに。それまでの会話か、最後に交わした言葉か、そのときの感情か、それとも彼の全てか、或いは「嘘」そのものか。何に対してかが不明瞭な「種明かし」。
はるがすみ・はるかすみ 【春霞】 春先の遠くの景色をぼんやりとさせる空気のこと。
えいぷりるふーる 【エイプリルフール】 April Fool’s Day 日本語直訳では「四月莫迦」。 毎年四月一日には、悪戯や罪のない嘘をついてもいいという習慣のこと。
あとがき あるけどない、ないけどある。存在することに意義があるのか、存在したから意義があるのか、存在を誰が定義するのか、そもそも意義が必要なのか?みたいな答えがないところから始まって、現実と非現実・実在と不在の境界が揺らいでる感じや、無にも人にも神にもなれるし、なれないところが好きなのだと思います。最近、モキュメンタリーやARG─代替現実ゲームというものを知り、親和性の高さを感じています。
「ねぇ」「何。」 「貴様は〈己〉のことをどれほど理解している?」 「…またくだらないことを。俺自身、なのだから全てだろうが」 「ウソ。俺は貴様以上に〈貴様〉のことを知ってるよ」 「なんだ、貴様が〈俺〉か。」 「さてね。」 「まァ、俺自身はこの世からいなくなったがな。」 「…そうか」 if:機関員の「カバー」が、機関員たちそれぞれの「過去」のシャッフルだったら。最終までに自分の過去が脱落すると、その時点でこの世からいなくなる。頭を使いそう。でも読んでみたい。会話してるのは、お好きな二人でどうぞ。訓練時と最終試験時でカバーを変えていたらどうだろう。機関員八人の中でシャッフルしているかもしれない。訓練時から継続だったら?「過去」を見送った輩もいるのか…とぽやぽや。飛崎によって完全に死んでしまった「小田切」は誰だろう。訓練任務での瞬間的なカバーから機関員のカバーに戻る。「彼奴」には戻らない。役者さんへ自分の役以外で演じてみたいのは?っていう質問、良いですよね。
かつての「俺」を見るのが楽しい俺は、かつての「彼奴」かもしれない。
エア新刊の新刊です。カラー、白黒のページを混ぜたくて、仕様が面倒になってしまったのでコピー本です。包み紙とシール使いたいのもあったので取り入れて。一冊にまとめるのも骨が折れたので分冊に。その流れで空白が誕生したため、読まなくても差し支えない各話ネタの発端と繙きについてと、各々への見解やssめいた過去ツイをふまえた四方山話を置いておきました。起承転結をつくる気もなく、描きたいところだけを描いて、楽しみました。見てくださりありがとうございます。
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