#バナナの王様
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すこし前に筋トレYoutuberの嘘栄養学についての投稿がホッテントリに上がっていたが、女性向けのダイエット・筋トレ動画はそれに輪をかけてヒドい。ためしにYouTubeをシークレットモードにして「女性 ダイエット 筋トレ」で検索してみてくれ、3分間で浮き輪肉がごっそり取れるだの、2週間で二の腕痩せだの、やりたい放題。しかもそれらは数百万、場合によっちゃ数千万回も再生されてるんだぜ。ウォッチしてたら腹が立ってきたので俺が正解を書く。俺?ただの通りすがりの野良マッチョだ。命令口調でところどころ口うるさいかもしれんが、デタラメな事は言わないからまあ聞いてくれ。■継続続けることが最重要だ。最低でも3ヶ月、できれば半年取り組んでほしい。2ヶ月で10kg落としたいとか無謀なことは考えるな。それはボディビルダーのようなダイエットのプロがやる減量だ。あんたは月に2kg、攻めても3kgと考えてくれ。目先の数字に一喜一憂するな。体重なんて1kg〜2kgは簡単に増減する。ただし身体に関する情報を記録しろ。ノートを用意して体重・食事やトレーニング内容、思い当たることを書き記せ。身体の写真も月イチくらいで撮っとけ。足跡は後々あんたの財産になる。一度の食った、サボったは気にするな。女性の一時的な食欲増加は生理現象だ。というか週に一度はしっかり食え。あんたが頑張った一週間は一度の暴食よりはるかに尊い。一週間、一ヶ月間単位の総量で考えるんだ。2日止まっても3日目にまた走り出せば大したことはない。いいか、継続だ。■カロリー収支結局のところダイエットの本質はこれだ。消費カロリーが摂取カロリーを上回るように食事をコントロールすること、これがダイエット。〇〇食べて痩せ、白湯、一旦無視でいい。まずは自分の一日の総消費カロリー(基礎代謝+活動代謝)を計算する。年齢身長体重でだいたい分かるから検索しろ。これを基にして必要な栄養価の目安を算出する。P=タンパク質、F=脂質、C=炭水化物(糖質)の三大栄養素、これらをどのような内訳で摂取するか、これがPFCバランスだ。総摂取量を10として本稿ではP2:F2:C6を勧める。Fは意識していても摂り過ぎるからだ。Cは無理のない範囲で削ってok。1日の総消費カロリーから-300kcal〜-500kcalに設定できれば上出来だ。自炊ベースで食事管理するのが王道だが、忙しくて自炊なんて出来ない奴もいるよな。出来合いを食べるなら成分表に目を通せ。食べたもの、これから食べる食材の栄養価をチェックするなら江崎グリコの栄養成分ナビがオススメだ。何を食ってどれだけ摂取したか、数値で確認しろ。食事をカロリーベースで考える習慣がつくと、1日の中で上手に調整できるようになってくる。サプリ?要らない。食べ物の形をしたものを食べて消化器を動かせ。野菜もモリモリ食え。ただしプロテインパウダーは使い勝手がいいから常備しとけ。低カロリーで栄養効率がいいからな。栄養については書ききれないからググってくれ。そして大事なことが2点。・しっかり食べること。これは後述する。・脂肪が落ちるということは筋肉も落ちるということ。従ってあんたのダイエットの目標が「いい身体になること」であれば筋トレは必須となる。■筋トレ全身やれ。胸・肩・腕・背中・お腹・前腿・ハムストリングス・尻、ぎりぎり10回できる強度のトレーニングを3セット、これが原則だ。「5分で腹痩せ腹筋運動」じゃない。あれ系で腹が引き締まった気がするのは普段動かしていない筋肉が刺激され、腹筋の活動が活発になり、垂れ下がっていた内臓がリフトアップされるからだ。嘘ではないが本質的ではない。部分痩せ?無い。運動習慣のないあんたは全身の筋肉量が足りない。どの筋肉をどう収縮し、どう伸ばしたらどういう刺激があるのか、自分の身体を点検しろ。膝つき腕立て、パイクプレス、ベンチディップス、レッグレイズ、ブルガリアンスクワット、ヒップリフト、まずはこのあたりからだ。最初は自体重の種目でいい。ここで朗報だ。筋トレ初心者のあんたは腕立て伏せ10回も満足にできないだろう。3セットやると翌日には脇の下あたりが強烈な筋肉痛に見舞われるはずだ。これはあんたの筋肉が発達する福音だ。おめでとう!急な刺激を受けて肉体は突貫工事を始める。なにしろ身体にとって緊急事態だからな、アンダーカロリーだろうが疲れていようがお構い無しだ。あんたの身体は筋トレをやった直後から発達し始める。初心者に限っては「除脂肪と筋肥大」という相反する要素が両立する。我々はこれを初心者ボーナスと呼んでいる。1ヶ月も続ければ自重では不足に感じ始めるはずだ。特に背中は難しい。できればジムに行ってほしいのだが、様々な事情で通えない人もいるよな。自宅でトレーニングする場合はダンベルとベンチがあれば多くのことが出来る。ダンベルは20kgまで可変可能なアジャスタブルタイプのものが望ましい。もし男性なら30kgは欲しい。そんな重量は自分には不要と思うかもしれないが、なあに1年後には物足りなくなるさ。そのくらい初心者の発達は目覚ましい。あんたには伸び代しかない。■具体的tipsとはいえ何から始めればいいか分からないよな。そこで手軽に取り組める具体案をいくつか挙げるから今日から取り組んでくれ。・飲み物でカロリーを摂らないジュースをお茶に、ビールなら糖質offのものにしろ。100ccにつき40kcalのジュースならペットボトル一本で200kcal減だ。簡単だろ?・よく咀嚼すること見落としがちだがマジで重要だ。普段の2〜3倍噛むよう心がけてくれ。噛むことでインスリンの分泌が促され満腹中枢が刺激される。なるべく生野菜やカロリーの低いものから食べ始めること。噛むことで顔の筋肉が使われて小顔効果もある。・しっかり食べること一見するとカロリー制限と真逆のことのように感じるかもしれないが、ジュース一本とバナナ二本を考えてくれ。どちらが腹持ちがいいかは言うまでもないだろ?女性にありがちなのが普段から少食なのに痩せないパターン。これは最悪だ。身体には恒常性といって生体の状態を一定に保とうとする機能がある。海藻サラダにパンひと切れでも痩せないのは、あんたの身体が省エネモードになっているからだ。要するに代謝が落ちている。まずはバナナ一本でいいから朝飯を食べろ。「私はこれから食べて運動して燃やして生きていきます」と身体に宣言するんだ。それで1kg増えたってどうってことはない。あんたが最終的に得られるリターンははるかに大きいのだから。・歩けひと駅余分に歩け。階段を使え。徒歩は最強の有酸素運動だ。歩くことで全身に血が巡り代謝が上がる。HIIT?ラン?必要ない。毎日歩け。良いことしかない。水分は摂れよ。適当な事ばかり言ってるYouTuberをこき下ろすはずが、書いてみたら地味で真っ当な事ばかりだった。俺は別に「YouTubeで一緒にやろう系」を悪いとは思っちゃいない。ああいうものをきっかけに運動習慣がつくならそれは良い事だ。ただ一撃必殺!脂肪撃退!なんてものはなく、変化は日々の継続の先にしかない。画面の向こうの教える側はもれなく泥臭い努力をしてきた事はどうか理解してほしい。あいつらは時にそれを言わないから。この投稿が何かしらのきっかけになれば幸いである。ナイスマッスル!
女性向けダイエットの情弱ビジネスがヒドすぎるから正解書く
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2025年3月15日(土)

昨日、卒業式から帰宅すると、私学共済から封書が届いていた。中身はというと、4月以降の共済掛け金を今月中に払い込めとのことだ。払込書がゆうちょ銀行でしか使えないものなので、金額が多いことから新しくゆうちょ銀行の口座をアプリで作成、その場で送金した。クレジットカード同様銀行口座もまた増えてしまったが、資金が乏しいのにどうするつもりなの・・・?

5時45分起床。
洗濯開始。

朝食を頂く。
珈琲をいれる。
洗濯物を干す。
ツレアイは奈良と大阪で用があるので、自転車で京都駅へ向かう。

彼女に頼まれた買物、まずはセントラルスクエア花屋町店でこめ油・イチゴ・バナナ、それに麦茶用のボトルを2本買う。こめ油は一人一本限定なので、次はライフ西七条店へと移動、こめ油だけで良かったはずが、手羽中が10%引きだったので購入、明日の夕飯は天ぷらにしよう。
これまではライフ専用のJCBカードを使用していたが、三井住友カードゴールド(NL)の<100万円修行>を達成するため、今日からはレジでpontaカードを提示し、NLのタッチ決済を利用する。

息子たちのランチは日清ラ王柚子塩味、二男にはタマゴ、三男にはソーセージをトッピング。
軽く午睡。

ゆうちょ銀行への払込、当初はキャッシュカードが届けば払込書をATMに入れてカードで決済するつもりだった。ところが、アプリを立ち上げると払込のメニューがあり、カメラで払込書を撮影するとその場で送金完了、何とも呆気ない。

昨日頂いた学部同僚からのメッセージを改めて拝見、この5年間は学科業務から外れていたにもかかわらず、とても温かいメッセージの数々、懐かしい画像も含めて改めて感謝。
夕飯前に、彼女が帰宅。

今夜は鍋、奥川ファームの大根とキャベツをフィーチャー、息子たちにはスパークリングワイン、私は昨日頂いた<純米酒 聚楽第>をいただく。
録画番組視聴
笑福亭笑利「千鳥の香炉」
初回放送日:2025年3月15日 土曜の早朝は関西の笑いをたっぷりと!▽今回は笑福亭笑利の落語「千鳥の香炉」▽桂文枝かららくご男子へのミッション…「創作落語を作れ!」▽桂團治郎&桂あおばが挑戦!
名探偵ポワロから
第1話「メソポタミア殺人事件」/ Murder in Mesopotamiaシーズン 8, エピソード 1 死を予告する脅迫状の謎をポワロが解明。バグダッドに向かったポワロ。偶然、ヘイスティングスが遺跡発掘隊に身を寄せており、ポワロも調査隊の宿舎へ。翌 日、遺跡を見学したポワロの目の前で、調査員の一人が襲われる。調査隊長の妻ルイーズは怯え、自分も命を狙われているとポワロに打ちあける。
私は途中でダウン。

歩数は足りないが、なんとか3つのリングは完成。
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「答えは愛」
「で、質問は何でしたっけ?」
Dr. アリーナ・レセニヒによるインタビュー
ゲスト:サンユ
オリジナル動画:https://youtu.be/ZJSXAyWoPw8
【和訳】 ALAE PHOENICIS by Telegram
サンユとは
Dr.アリーナ・レセニヒが「サンユ」を紹介:
サンユは私にとってとても特別な人。4年半前に出会ってから、私の人生はとてつもなく変化し、良い意味でひっくり返りました。それ以来彼女と共に歩んでいます。あらゆるレベルでの学びがあり、それまでの人生では想像も出来なかったことを実行できるようになりました。今やれていることは以前はとても出来ませんでした。私はとても怖がりな人間だったからです。特別な時代に、流れに逆らって泳ぎ、自分の��を公に晒して啓蒙活動をし、多くの逆風を受けて…それでもって、結構楽しくしていられるなんて…誰も信じなかったでしょう。きっと叫びながら逃げ去っていました。
そして、考えたこともなかったような新たな人生の基準も得ました。
人との付き合い方や、自己表現の仕方はとても自由になり、彼女のおかげで濃い喜びを感じるようになったことで、人生が良きように代わりました。
本日、私のスピリチュアルな師であり、愛する友人であるサンユが来てくれてとても嬉しいです。
アリーナ:こんにちは、チョコ・マウス(笑)
サンユ:こんにちは、愛すべき人(笑)
アリーナ:来てくれてありがとう。彼女には大方50回ぐらいお願いしたのよ、私の公開インタビューに来て「愛」と言うテーマについて語って欲しいって。だって、それがサンユ自身であり、サンユが人生で体現していることであり、彼女を構成するすべてを表現しているから。
彼女は常に断っていたのだけど、あるとき私は彼女が弱気になった瞬間を捉えたわけ。とっても嬉しいわ。でも、エンジェル、どうしてこんなに時間がかかったの?
サンユ:…愛とは、永遠から来ているもの。言語とは、限られたツール。ということは、何かを言葉にする度に、私は「これは完全ではない、何かが違う」と感じる。それは「大海を風呂桶に流し入れる」ような感覚がする。そして…(口ごもって)
サンユ:それに...言語は、「味」を伝えることが出来ない。もし、私が今、あなたの知らないインドの果物の味を教えたくて、「想像してみてね、噛み心地はデーツとバナナを合わせたような感じで、甘みはラズベリーとキウイとパイナップル、でもそれほどジューシーではない」って描写するとします。…どれぐらい時間が掛かる?
アリーナ:決して無理な話ね。
サンユ:もし、果物の味さえも伝えることが出来ないならば、「たったひとつの味」をどうやって伝えられる?
一方で、言語はガイドにもなる。あなたが「塀を作りたいのだけど、どうすればいい?」と尋ねてきたとすると、「石、次に粘土、石、粘土…これを積んでいけば?」って伝えて、何が起こるか見てみましょう、となる。ここで私がどう思うのかはどうでもいいの。あなたが私を信じようが信じまいが、どうでもいい。要は、あなたが「この体験」に心を開けるのかどうか。そして、単純にまる一日、石と粘土を交互に積み上げてみれば、出来上がったものと「塀」とに結びつきを見つけられるのかどうか、あなたが自分自身のために知ることができる。こうして、「言語」は道標にはなる。
そうやって、あなたは私が弱気になる瞬間を捉えたわけ。
アリーナ:なんて、素敵!
でも…「愛」とはあなたにとって何なの?「とても言葉には出来ない」っていっているのはわかったけれど、それでも言葉にしてみようとするならば、どのように描写する?どういう意味で言っている?
サンユ:私のいう「愛」とは、二人の人間がお互いに「愛している」といい、それと同時に「他の人は愛していない、もしくはより少なく愛情を感じている、もしくは別の種類の愛情である」ということを示唆するものではないわ。私が話そうとしている「愛」とは、そういうジャンルのものではなく…
アリーナ:でもそれが、殆どの人が「愛」だと思っていることでしょ?
サンユ:そう。その通り。
私の云う愛は、ある種の、深くて普遍的な真実で、それは私たちの心の器の底の方に眠っている。そして、一つ一つの心は、巨大なダイヤモンドの一側面であり、神聖さを映している。すべての側面(ファセット)は、その神聖さを自分なりに映し出し、その他のあらゆる心を同じように照らす。なぜなら、それらも「自分なりの神聖さ」を映し出しているから。
つまり、私の云う「深い愛」とは、ひとつには「創造物全体の中に在る意識はたったひとつ、唯一の愛流である」ということ。そして私たちはこの愛を源泉として湧き出ているということ。愛という根源が私たちを織りなしてる物質。それが、私たちをここに生み出した意図だということ。
創造物は全体でひとつをなしており、人は誰でも、その「唯一の光」から生まれ出た。
私たちの身体は個性という差異のある世界に生まれ、その物質的なレベルにおいては多様性という原理がある。しかし、その物質的レベルの背後には、非物質的なもの、スピリチュアルなものがある。そして、そこにはこの、たったひとつの流れしか無い。
そして、ふたつ目の秘密。これは誰でも、望みさえすれば自分の中に発見できる。それは、私たちが永遠の存在だということ。生み出されたこともなく、死ぬこともない。私たちはスピリチュアルな精神的存在で、人間的な体験というのを80年とか90年間ぐらいをこの身体の中味わう。そして、身体が亡くなっても、私たちは未だそこに在る。つまり、私たちは永遠なる意識体として、時間制限付きで人間としての経験をしている存在だということ。
アリーナ:OK。ご説明ありがとう。でもね…
それは私たちが日常体験していることではないわ。だって、私たちはお互いに別々の存在としての体験をしている。分離され、孤立し、殆どの他人のことはどうでも良くて…なぜ、そうなのかしら?
サンユ:私たちにはある種の社会的に導入された催眠、心理的条件付けが施されている。「私は私の身体であり、私のマインドが考えているものであり、自分の過去を合計したものである」、そのように教育されている。いわゆる「ボディ=マインド・アイデンティティ」と呼ばれるもの。それはとても精鋭な輪郭を持っていて、形があり、顔があり、名前がある。「ここに居る私以外は、その他の世界」だと思っている。それを私は「分離のアイデンティティ」と呼んでいる。
エゴとはEGO - edged God out - つまり、普遍的な宇宙意識は自意識から追い出されている。まるでメルヘンにあるように、偽の王様(EGO)が王座に座り、本物の王様が追放されている状態。
アインシュタインは、こうして私たちが互いに分離していると思い込んでいることを「意識の視覚的錯覚」と呼んだ。
アリーナ:そうね… では何故、EGOと同一視するのをやめて「愛の意識」の中で生きることが大事なのかしら?
サンユ:量子物理学、そして古き叡智によると、私たちは自らの精神を以て、その現実・人生・世界を創造しているとのこと。イエス・キリストは「汝の信じる通りのことが、汝に起こる」「汝が考えるものに、汝はなるだろう」といった。
量子力学は「あなたの思考が、あなたの現実を創る」とした。
一日に、6万の思考がマインドに入ってくる。天才と統合失調症の人には一日8万にまで至ることも。
つまりそれは、まるで宇宙飛行士のヘルメットをかぶっているような感じで、その中では6万の思考が軌道に乗ってヒューヒュー飛び回っているようなもの。私たちは自己解釈の世界にいる、(頭を指して)これはストーリーテラーなわけ。これは毎秒毎秒、ストーリーを創り出していて、私たちはシミュレーションのような世界の中にある。
ここで、例え話をすると、真夏の暑い中、アイスカフェの外席に100人ぐらい座っているとして、そこへ想像を絶する驚くほど美しい女性がやって来る。ミニスカから覗く長くてスリムな足。豊満な胸。とにかく華麗そのもの。彼女は前列にあるすべてのテーブルの間を通り抜ける。最初のマインドが思うことは「ワオ!なんて美しいのかしら!…毎日鍛えてるの?どうしよう、私はもう半年もちゃんとトレーニングしてないわ。いい加減にジムに行こうとずっと思ってたのに。ああ、でも毎月の費用を払えるかしら…でももうイヤ、お腹はダボついているし、足だって…明日絶対に申し込みに行こう」。次のマインドはこう思う:「なんて女。あんなのと付き合いがなくてよかったわ」。その次のマインド:「まあ…60年前は私もああやって人生を楽しんだわ。人生の春は本当に良かったわ。でも正直なところ、80歳になった今は、あんな虚栄心市場で誰かと張り合ったりしなくていいので私は楽だわ。あの娘はせいぜい楽しめばいい」。次のマインド:「なによ、売春婦みたい。この世は売春宿じゃないのよ。もうちょっと肌を隠せないのかしら。親にしつけられていないの?破廉恥な」…等等。
あ、一つ忘れていた。もう一つのマインドは「おお!あの娘とベッド・インしたいな。でもあんな外見の娘が僕になびいてくれるはずがない」というやつ。
そこで、懸賞付きの質問。このアイスカフェの客たちは「誰」を見ているのでしょう?
アリーナ:誰もが、自分のことしか見ていない。
サンユ:その通り。誰もが、この美しい女性をスクリーンに見立てて、自分の価値観、自分が癒せていない心の傷…または自己の存在価値に残された傷、自分の夢や願望、世界観、人間観を眺めている。
彼女はスクリーン。(頭を指して)これはスライド投影機で、スライドを差し込む割れ目がここにある。そしてこれまで自分が溜めてきたすべての条件付け・刻印・プログラミング・パターン・過去が、このスライドに入っている。このスライドを通して、自分自身をこの女性に見ている。…ということは、私たちはかつて、自分自身以外をこの世の中に見たことがない、ということ。誰もがこの女性の中に別人を見ているだけではなく、誰もがこのアイスカフェという同じ場所に居るのに、そこには100種の世界があって、ひとつは爆発せんばかりの楽しい気分になっているのに、1,5メートル先の席では爆発せんばかりの憤りを感じている。誰もが、自分だけの世界に生きている。
そうなると、トランプについて、コロナについて…何に関しても、誰かの意見に耳を傾けたところで、世界についてそんなに多くのことはわからない。実際には、「世界とはこういうものである」と主張している人物のことが、本を開くように見せられているだけ。
私がまだ、診療所を営んでいたころ、多くの愛すべき患者さんたちがやってきた。コロナの期間に関していうと、ある人は人類史上最大の残酷で邪悪な黙示録を目前にしており、ある人はパラダイス・黄金時代へ移行する直前のように感じていた。そしてその中間には更に、様々な色彩があった。そして、全員が同じ惑星に住んでいるのに、そこには75億種類もの世界が存在しているのは驚くべきこと。
エゴ意識には、いくつかの強迫観念がある。
その内のひとつは、分極化という意識。こいつは常に審判しないと気が済まない。審判のひとつは、世界を善と悪に区分化することで、当然、善側は私だ、となる。
アリーナ:違う違う。善側は私よ!私の方が善側よ!
サンユ:あら…(笑)言っておくけど、あなたは邪道に走っているわ。私たちのどちらか一人が善側なのだとすれば、それはどちら?
アリーナ:そう、それは私よ。善側は私。
サンユ:アハハハハ!じゃあ、こうしましょう。「私たち」は善側ね?OK?(アリーナ:OKよ!どっちにせよね(笑))
それで、「善良」だと謳ってきた者たちが残してきた血痕を辿れば…善良なキリスト教徒たち、善良な回教徒たち、善良な資本主義者たち、善良な植民地主義者たち、善良な共産主義者たち、善良な国家社会主義者たち… これらを振り返ると、私たちは本当に「善側」に属したいのかわからなくなってくる。そして意図的ではなかったことは確かであろうと、どうやら地獄への道というのは「善良」という名の石畳で張り巡らされている。
人類の歴史は、人類の歴史を何一つ教えてくれていない。今のところはね。でも、それはこれから変わるかも知れない。(アリーナ:今がチャンスよ)そうね(笑)。私たちには、自分自身と世界を別の形で眺めることが出来る。その別の形とは、創造物を全体として捉えることと、すべての小さなパーツは大きな全体を反映している。ラテン語の pars pro toto (一部が全体を代表)。小宇宙は即ち大宇宙である。イエスの述べていた、天界は即ち地上界、鏡の法則、アナロジーの法則。露の玉がどれだけ小さかろうが、それは創造物全体を反映している。どういうことかというと、私がこの世で目にするもののすべてを、私は自分の中に見出すことが出来るし、私が自分の中に見出すすべてを、私はこの世に見出すことが出来る。
そして…私は何に対して戦おうとしているのだろう。
そこで、あなたの「EGOから離れて「愛の意識」への移行がなぜ大事なのか」という質問だけど、アインシュタインの言葉を借りると「原因がつくられたレベルでは、その問題を解決することが出来ない」ということ。
アリーナ:つまり、憎しみは憎しみをもって解決できないし、怒りは怒りをもって解決できない、ということね?
サンユ:そういうこと。だって、不安・憎しみ・憤りといったものは、分離のアイデンティティから起こったものであり、この問題解決には、上位の階層へ移行しなければならない。それが「一体感」という意識。ワンネス、統合、愛。
そして…病んでいるマインド(意識)は、分離のアイデンティティという幻想の中にあり…つまりワンネスを破り飛び越えてしまっていて、断片化された世界を創造してしまう。
マインドが健全ならば、それは愛の意識の中にあり、愛に満ちた世界を創造することになる。
アリーナ:ここで、ちょっとプライベートな質問をするわね。あなたは心理セラピストであり、27年間いくつかの診療所を営んできたけれど、あの巨大な「C危機」がやってきたとき、あなたはあなた自身や何よりスタッフに、今後どのような規制が及ぶのかを懸念して、診療所を閉鎖する決断を下して、それまでほぼ500㎡の敷地にある大きな家に住んでいたのに、今後何をどうするのかわからないまま、ほとんどすべてのものを手放したわけだけど…
サンユ:でも知ってる?以前、私はいつも鍵を探しまくっていたでしょう?でも今は、この惑星で私の車の鍵はひとつしか無いのよ。なんという気楽さ!(笑)
アリーナ:それがまたあなたらしいわね。生活基盤のすべてを失ったのに、鍵が減ったって喜ぶなんて。でも、あんな形で自分の生活基盤を手放すよう強要されて、あなたにとってそれはどういうことだった?
サンユ:強要された?(アリーナ:ええ)
ねえ、ちょっとしたゲームをしない?(アリーナ:いいわよ)
私は思春期の娘で、あなたは私の母親ね。
あなたは娘に、自分の人差し指で自分の鼻を触らせたいの。
娘の私はそれを最高に馬鹿馬鹿しいと思っていて…だって子供が思春期になると親ってなんだか変になるのよね。私はそれが嫌で。母親のあなたは云うことを聞かせようと頑張って欲しいの。
アリーナ:わかったわ。
サンユ、人差し指で鼻を触ってご覧なさい、いい子だから。
…サンユ?…ほら、鼻を触ってよ。ねえ、触ってったら。今すぐに!
指図を受けて、うつむくサンユ
しつこく言われて、目をそらすサンユ
サンユ:OK。ちょっと待って。
では、云う通りにしなければ、どうなるの?
アリーナ:4週間テレビ禁止。3ヶ月間外出禁止。次の誕生会は3回なし。それとxボックスも3ヶ月間禁止。
サンユ:ちょっと待って…(上の条件を復唱すると、アリーナが肯定)。
ふーん…(しばらくうつむいて考えてから)
ゆっくりと鼻を触るサンユ
サンユ:エンジェル、(満足そうに微笑むアリーナ)今、決断して行動したのは誰?
アリーナ:あなたね。
サンユ:(頷いて)正解。どこで強要されたのかしら。私がやった。自分の決断。
そしてあなたの質問は、それがCの時期にどのように反映されたのか、ということよね…(しばらく考えて)そうね、アジェンダ2030を取り上げましょう。ワーストケース(最悪の場合)は、信じがたい虐殺があり、生存者は皆バイオロボットに変身。
私はそれ同類のものを自分の中に見いだせるのだろうか?
長く探す必要はない。私も人生の最初の3分の1はお肉を食べていた。たった3センチの口内で味わう喜び。如何なる呵責も感じずに、敢えて…いえ、何も考えてさえいなかった。この3センチの喜びのために、誰かが動物を一生「収容所」で虐待し、苦しませることを容認していた。
ここで誰かが、「サンユ、だって人間とは違って、動物なんだから」って云うかも知れない。それは理解できる。けれど、動物の痛覚は人間と変わらないことも今は知っている。動物も人間と同じように愛情を感じること、そして自分以上に子供に愛情を掛けることも知っている。私にとってその点で、人間��動物の区別がない。やっぱり「感性を持つ存在」。その意味で、それを主義として自分の中に見出すのなら、何に対して私は戦闘をおこなうのだろう。それでも、だからといって私はそのアジェンダに自分を差し出すつもりはない。全くない。どちらかといえば、私はその主義を自分の中に再発見しようと決断し、自分の中で統合しても、今後はマニフェストしなくて良いということになる。これは他のテーマにも繋がってくる。
「お前はクリスマスも大晦日も、家族と過ごしてはいけない」と言われれば「はあ、そうですか。ご説明ありがとう。でも私のつもりは全然違って、当然クリスマスを家族と過ごすために会いに行きます」と言うでしょう。
そう。当時、私はマスク解除証明を発行していたことで、警察との対峙があった。そして、自分の中のどこに“警察”を見いだせるのか、自問した。すぐに明らかになったのは、彼らは「自分たちの世界」、つまり「階層構造と秩序で成り立っている法と規律と義務と権利の世界」を愛しているということ。そして、彼らは自分たちのやり方で、自分たちのツールを自分たちの世界のために駆使する。私は自分のやり方で、自分の世界を、彼らとは違う手段で確保しようとするわけで、そこには当然差異がある。それでも、自分の世界を確保しようとする主義主張を彼らは映し出していた。そこで私は争う必要がない。
私に言えるのは、「ご訪問ありがとう。当然、私は証明書を発行し続けますが、この問題をどう解決しましょうか」ということ。「私は罰金を払わねばならない?なるほど。私がそれを受け入れたいのか、よくかわからないので、様子を見ましょう。私の子供はマスクを着用すべきということですが、何故なのかご説明いただけますか?あなたの見解は興味深いですが、私にとってはそれは全くもって真実ではないし、重要でもありません。私の子供がマスクを着用せずにいられるよう、何でもやります。父兄イニシアチブを設け、動画を構成し、なぜマスク義務に反対なのか説明します。その他の組織に働きかけ、法律家に相談します。これらのすべてに効果がなければ、私は子供を学校には行かせません。そして、あなた方がホームスクーリングをさせたくないのであれば、私たちは国を去ります」。
「あなた方は、私にワクチン接種を受けさせたいのですか?なぜ?絶対にイヤですね。どうしましょうか?私は刑務所行きですか?OK。この転生では私はまだ刑務所に入ったことがないです。では、外からの条件に縛られないで自由に生きるための訓練を喜んでさせてもらいます。それは何時からスタートしますか?」
これらはひと言で言い換えると、「no war(戦争反対)」。
私は繋がり(connected)続けていたい(訳注:高次の自分と)。この、何事もジャッジしないという繋がり(connection)。ドイツ語のUrteil (音:ウルタイル/意味:審判・ジャッジ) という言葉は良く出来ている。Urーというのは原初・オリジナルなものを指し、Teilというのは「部分、分けた一部」と言う意味。原初の段階ではひとつだったものが、意識によって分割されているからジャッジが起きる。
そうして、審判・ジャッジするいかなるものにも、私はエネルギー的に連結しようと思わない。それは私を弱らせるので。
つまり、私は自分自身のエネルギーの中に留まり、そこと繋がり続けます。それは当然「民事不服従」ということになる。だって、私の世界で不正が正義として扱われるのなら、民事不服従とは「愛の行動」だということになり、服従こそが犯罪。私が愛に満ちた抵抗の道を選ぶのは当たり前じゃない?でも、そこには憎しみも分断もなく、戦争も起こらない。
アリーナ:わかったわ。そこにあるのは唯一、愛だけ、ということね。でも、それならばこの世の邪悪はどうなるの?
サンユ:(大きく頷いて)…うーんと。
同様のイメージとして… 「電流」をとってみましょう。ラジオに電流を流すと音が出る。電球に流すと明かりが灯るし、ヒーターを通すと暖を取れる。
このイメージをもって、「愛」という流れを想像すると、権力志向の人の頭に差し込まれたスライドのフィルターを通った結果、その愛は「暴君」という姿で映し出されるかも知れない。
別のフィルター、お金に執着する人のスライドの場合、愛の流れがやって来ると、その先の結果は窃盗犯かもしれない。
3つめのフィルター、3つめのマインドセットであるスライド。それは宗教的…もしくは政治的思想。愛の流れがその意識フィルターを通ると、果には狂信的なテロリストが表現されるのかも知れない。
愛流は、どんなマインドセットによって濾過されるかで、最終的表現の形が異なるだけ
どんなスライドがフィルターになっているかによって、結果は歪み、果には倒錯的なものにまで至る。
だから、いわゆる「邪悪な人物」というのも、自分がやりたいようにやる権利がある…もしくは、それをするのが正しいことになるのかも知れない。…例えば自爆テロ…そうして他人を死の巻き添えにするとか。その者のマインドセットからは、それは正しい行動ということになっているか、もしくは「自分にはその行動を起こす権利がある」とみなされている。
改めていうと、私は彼らを正当化しているのではなくて、心というのはジャッジに興味がなく、ひたすら「理解したいだけ」なのです。
2000年前のベストセラー(訳注:聖書のこと)には「隣人を自分のように愛せよ」とあったけど、私には「隣人を自分自身として愛せよ」と聞こえてくるし、その声から更に「敵を愛せよ」とも聞こえてきた。
そして、ここであなたに質問するけれど、私は「隣人(訳注:原語では「最も近くにいる人)」そして「最も遠くにいる人」を愛すべきだという。では、この最も近距離の人と、最も遠距離の人、これら両者の間のどの辺りに切れ目があるのか?
どういうことかというと、ファウチだとか、ゲイツだとか、ドイツ健康相のラウターバッハだとか、シュワブだとかなんだとか…みんながこの中に含まれている。
「主よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです」。
では、彼らは何故、知らないのでしょうか?
彼らは、自分たちが何者かを、知らないのです。
自分が永遠の意識体であり、しばしの間、短い体験をするために肉体に宿っているだけなのだ、ということを知らなければ、その無知から苦悩が生み出される。それは、無常のものにしがみつくことであり、死に絶えてゆく儚さへの恐怖がそこにあり、自身をそれと同一視していると、その他の創造物と自分とは分離しているという世界観にあり、そのために利己的考えに陥って、その他の世界と自分との繋がりは絶たれてしまっている。
この世の犯罪のすべては、加害者が被害者と自分を同一視しないことから起こる。
だからこそ、私たちは自分の意識に働きかけ、エゴという意識によって生み出される分離分断を手放し、ワンネスの意識に至ることに価値を置くことになる。
アリーナ:うん…それで、この世の行く先についてのあなたの予見は?終末の世がやってくるのか、それとも新世界の誕生へ向かうのか。
サンユ:…蛹にとっての「この世の終わり」というのは、この世にとっては「蝶の誕生」を迎えること。
私たちは今、本当に自分たちがどのようなプロセスの中の、どの地点にいるのか、わかっているのだろうか。
私にはわからない。
ただ、愛というのは「目的地点」にとらわれてはいない。
想像してみて。今日が月曜日だとして、木曜日にはこの世のすべての核爆弾が投下されるとする。どの島だろうが、逃げ場はない。そこで、あなたの玄関のベルがなり、開けてみると誰もいないので、ドアを締めようとした時、足元の玄関マットには赤ちゃんが寝かされていた。木曜日には世界が崩壊すると知っているあなたは、足元の赤ちゃんを有機ゴミに出すだろうか?それとも、抱き上げて栄養を与え、おむつを換えて愛撫し、木曜日に原爆が落とされたら、自分の身体で赤ん坊を覆い、守ろうとするのだろうか。
それはつまり、愛は「結果とは無関係」だということであり、結果は自ずと現れてくる、それだけのこと。
アリーナ:そう、そういうことなのよね。ありがとう。私は皆さんに、身体的健康について自分の知識をシェアしたいとは思っていますが、その他にすこしでも、感情面、そしてスピリチュアルな側面についても自分が学んだことを、皆さんんにシェア出来ればと思って。
〈2022年秋に開催されたワークショップ・セミナーの紹介〉
サンユ:私たちの核となるものは、永遠に神聖であり続ける、これは全く持って素晴らしいこと。どういうことかというと、私たちの奥深くにある自然は太陽であり、人生において何が起ころうと、この太陽は決して破壊されることはない。この核心は永遠に神聖なまま。
スクリーンに上映されているのはホラー映画だったり、アクション映画だったり、家族ドラマだったり。しかし、上映が終われば、スクリーンは真っ白に戻り、なんの破損もなく、焼き跡もついていない。全く変化はなく、壊されることはない。私たちの内なる太陽(光)とはそういうもの。
人生を歩む中には、転生という観念、つまり別の人生の存在と共鳴することがある。人生は今回一度きりと考える人たちは、スラグのようなものに撒かれている。つまり幻想が玉ねぎのような層になっていて、そうした「概念(コンセプト)」に覆われている。それは分離の意識という誤った知覚であり、傷心、被害者意識にまみれている。
私たちが取り組むべきことは、この覆われた殻を取り外していくこと。
これはミケランジェロの説明に通じるものがある。
「こんな、雑な大理石の塊から、君はどうやってこの世のものとは思えないほど美しい、あのダビデのような姿を掘り出すことが出来るのか」という問に、彼はこう答えた「ダビデは既に大理石の塊の中に居るんだ。私はそれを覆っている余分な部分を取り除いているだけ」。
私たちはみんな、まさにそれをやっている。私たちは、真実ではないものはすべて、幻想として見抜くようになり、時と共に内なる光は自ずとして輝き出してくる。
こうした概念を自覚していくワークは大事。
私たちはあまりにも多くのことを、信じ込んできた。
そしてもしかすると、信じ��きたすべてのことが、真実ではなかったのかも。
それで、人類は自分が考えていることを信じてきたために、苦悩してきた。繰り返して言います:もし、私たちがこれまで考えてきたこと、これが嘘であったのなら、これを信じていれば私たちは苦悩することになる。
しかし、素晴らしことに、宇宙は私たちの内部にナビシステム、いわゆる「感情ガイドシステム」を設置してくれた。私の感情は、私にとっての方磁石のようなもので、毎秒の如く私の日常、そして私の人生に寄り添ってくれている。
そして、アインシュタインはこうも言った:「私は神の思考が知りたい。それ以外は二の次だ」。
では、神の思考とは?実際には神は思考をしておらず、存在そのものなだけだけど、イメージとして、神という存在が思考するならば、。それは愛という思考。
もし、私たちが宇宙に漂う愛の思考と一致して振動しているならば常に、私たちは感謝、感激、献身、結束、幸福を感じるはず。
しかし、もし私たちが宇宙の思考と一致して振動していないのならば。即、憤り、悲しみ、失望、傷心…いわゆるネガティブな感情に襲われることになる。
そして、そのようなネガティブな感情が降りてきたときこそ、高次の自分はあなたに向かってサインを送っている:「君は今、君の真実とは共鳴しない振動の仕方をしているよ、戻りなさい」。
私たちはこれを学ぶべき。〈部分的にワークショップの内容紹介〉
アリーナ:締めくくりに、何か私たちに向けて言っておきたいことはあるかしら?
サンユ:アインシュタインの引用だけど、「人は、最初から実現不可能に思えるかどうかで、その思想の良し悪しを見極めることができる。それゆえ私は、希望するすべての人たちとともに、愛の思想、愛に満ちた世界をあえて夢見るのである」
そして、ヴィクトル・ユゴーの引用:その時が訪れたアイデアほど大きな力を持つものはない。そして今、約1万3500の戦争と36億人の死者を経て、ついに愛の時が来た。
安全を守るために自由を放棄すれば、自由も安全も失いかねない。
そして、安全とは港に停泊する船でもある。しかし、船はそのために造られたのではない。
そして今、変化の風が吹くとき、私たちは何を望むのだろうか?
防護壁を作りたいのだろうか?それとも風車を作るのか?
防護壁とは、抵抗すること、コントロールすること、しがみつくことを意味し、風車は手放すことを意味する。
そして時には、自分らしくいられるようにするため、私たちは自分らしさを手放さなければならないこともある。
そして、ケーテ・コルヴィッツ(ドイツの女流版画・彫刻家)はかつてこのように言った:私たちの才能は、使命である。(ドイツ語で才能は「ガーべ」、使命は「アウフガーべ」)
そして、私たちのガーべが誕生時に託されるものならば、今私たちはどうすべきなのか。闇について嘆きたいのか、それとも明かりを灯したいのか、そして、私たちのガーべを昼の光に晒し、大いなる全体に捧げ、私たちが己の道を行くことで愛の意識へと到達することを望んでくれる人たちのために、どんな明かりを灯すのか。
なぜなら、きっと今こそ人類史上最も重要な革命の時代が訪れているのだから。政治革命ではない。経済革命でも、社会革命でもない。
起ころうとしているのは、自己の意識変容。分離のアイデンティティから、愛の愛テンティティへと移行しようとしている。
マハトマ。「偉大なる呼吸」と言う意味。
マハトマはこう言った:「あなたがこの世に見たいと願う変化、あなたがその変化になりなさい」。
彼は、何故そのように言ったのでしょう。
それは、私たちはひとつであり、分離した存在ではないから。
そこにあるのは大きなひとつの意識という大海。
私たちは人間という意識領域の中に、互いに繋がり合いながら集団として存在している。
あなたが成し遂げる如何なること、どんな針穴をあなたがくぐり抜けようと、それは何処かの誰かに何かをもたらし、この誰かも、自分なりの針の穴をくぐり抜けている。
そして、何処かの誰かが自分のためにくウォンタム・リープを成し遂げたとして、それはあなたに跳ね返ってきて、もしかするとあなたは自分にとっての新しいレベルへとジャンプすることになるのかも。
一人は万人のために、万人は一人のために。
そして…危機というものが来るのは大抵、ある種の生き方がもう耐え難くなった時。
そして、問いかけるべきことは「すべての社会には、それ相応の革命が起こる」ということ。そして今、私たちは愛の革命を望むに値しないだろうか?
アリーナ:私はそれにイエスと答えるわ。そして、その道へ向かおうとする誰もを、喜ばしく思う。
サンユ:そして、その道へ向かおうとしない誰かをも、喜ばしく思っていいのよ。彼らが己の道を往き、自分の魂が求める全てを得ていけるよう、願いましょう。
アリーナ:その通りね。私のエンジェル、一千回、感謝を述べさせて。
サンユ:ありがとう。百回分の感謝をお返しするわ。
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☆SMAPの新譜のデザイン問題で抗議のメール
この前の村上ラヂオ27でSMAPの新譜のデザインについて書いたら、予想通りというか、早速SMAPファンから抗議のメール��来ました。SMAPのホームページに情報がまわったんだそうです。温厚な僕としては別にSMAPの悪口を言うつもりはなくて、新譜"La Fiesta"のジャケット・デザインがビーチボーイズの「ペットサウンズ」のマネをする必然性があるんでしょうかね?というごく当然な疑問を呈しただけなんですが。とりあえずメールをここに転載します。
> 初めまして。今回SMAPのアルバムのことで村上さんが「パクリだ」
> とHPで書いているという情報を、SMAPのファンがやっているHPで
> 読みまして、メールさせていただいております。
> 「ジャケット・デザインは、ビーチ・ボーイズの名鑑「ペット・サウンズ」
> をモチーフにしている。」と、TVガイドのCD紹介で書かれています。
> SMAPの音楽面での、スタッフ(ビクター)は洋楽に非常に詳しい
> 方々なので、SMAP&スタッフ側の遊びだと思うのですが?
> SMAP側が、モチーフにしているとはっきり言っているのだから
> 「パクリ」とかって、公のHPの中で書くのはSMAP側に失礼だと
> 思うのですが。>
> 匿名希望(特に返事が欲しいわけではありませんので。)
★抗議に対する僕の返事です
それに対する僕の(出されなかった)返事。
こんにちは。「SMAP側が、モチーフにしているとはっきり言っているのだから」というお説ですが、特殊能力を持ち合わせていない僕のような一般市民には、ジャケットを見ただけではそんなことはまったくわかりません。ジャケットの中にも「ペット・サウンズ」との関連性を示唆するような断り書きはひとことも書いてありませんでした(僕はその事実を確認するために、この忙しいときにわざわざ自転車に乗って原宿ラフォーレ・ビルのHMVまで行って、バナナ林に結集した猿のような少年少女の群をかきわけ、税込みで2205円出してこのCDを買ってきたのです。やれやれ)。「TVガイドのCD紹介で書かれています」とおっしゃいますが、世間のみんなが「TVガイド」を後生大事に読んでいるわけじゃないですよね。そう思いませんか? 「はっきり言っているのだから」「失礼だ」と言われても僕は大変に困ります。あるいは何か意見を言う前には、国民みんなが「TVガイド」を読むことを--いつの間にかジョージ・オーウェル的に--義務づけられてしまっているのでしょうか?
まあそれはそれとして、もしこのCDの内容に「ペット・サウンズ」を<モチーフ>にしているような音楽的要素がはっきりと認められるのなら、もちろん「ペット・サウンズ」のジャケット・デザインを<モチーフ>にしてもまったくオーケーです。それなら筋は通っています。僕は何も文句を言いません(心静かにソファに寝ころんでジム・キャリーの映画でも見ています)。たとえば「王様」がその愉快なCD「波乗り伝説」でビーチボーイズのジャケットをもじっていても、そこにはそうするだけの必然性があります。それを<オマージュ>と呼ぶことも可能です。
あるいはまた、ジョー・ジャクソンがかつてソニー・ロリンズの50年代ブルーノートのレコード・ジャケットをパスティシュしたように、デザインにそれとひと目でわかる、大胆に洗練された諧謔性が見受けられるのなら、言い換えれば引用を引用として認知せしめる鮮やかな自立性があるのなら、それも僕は進んで認めます(内容に言及するなら、そのときのジョー・ジャクソンの音楽には、音楽的分野こそ違え、ソニー・ロリンズの50年代ブルーノートの世界を髣髴とさせる都会性がたしかに含まれていたと僕は思っています。つまり文法が通底しているわけです)。そこまではわかりますか?
でも率直に申し上げまして、このCDに収められた音楽とビーチボーイズの「ペット・サウンズ」に収められた音楽とのあいだには、ハリネズミの屁ほどの関連性も共通性も類似性も連続性も接続性も血縁性も交流性も共有性も共振性も貢献性もありません。あえて共通性を求めるなら、数人の男性が集まって、肺呼吸をしながらマイクに向かって歌を歌っているという事実くらいではないかと、僕は思います。かといってデザイン的に言っても、「洗練された諧謔性」「引用の自立性」なんてものは、どれだけ時間をかけて好意的に見渡しても、一切見あたりません。じゃあいったいどうして--と僕はここで声を大にしてあなたに質問したいのですが--このCDのジャケットに名鑑(盤?)「ペット・サウンズ」の<モチーフ>をわざわざひっぱってこなくちゃならないんですか? <モチーフ>というのはまことに美しい言葉ですが(フランス語には美しくて、場合に応じて好都合に雰囲気を醸し出せる言葉がたくさんあります)、僕の住んでいる世界では、そういう種類の不毛で安易な<モチーフ>取りのことを、シンプルにクールに<パクリ>と呼びます。ご存じないかもしれないのであえてつけ加えますと、それは一般に「恥ずべき行為」であると考えられています。
オリジナリティーを欠いた才能を持ち合わせたこと自体は、不幸ではあるかもしれませんが、べつに「恥ずべき行為」ではありません。それを糊塗するために、他人のオリジナリティーをちゃっこく流用することが「恥ずべき行為」なのです。アメリカの作家、スコット・フィッツジェラルドは「他人と違うことを語りたければ、他人と違う言葉で語りなさい」と言っています。それがすべての芸術行為の根底にあるものです。またなくてはならないものです。僕はその言葉を信じて20年間この仕事を続けています。ご存じのように、自分の独自の文脈で自己を語り続けるというのは時として厳しい作業です。でもプロとしてそのような姿勢を維持していけないのなら、クリエイティブな仕事はその時点でいさぎよくやめるべきです。
僕は(おそらく)あなたがSMAPをお好きなように、ビーチボーイズの音楽を遥か昔から(実に35年くらい前から)愛しているので、それが残した様々な美しいあり方--それは文句のつけようのなくオリジナルなものです--を、無意味に商業的にいじくりまわされることに対して、非常に強い不快感を覚えるのです。気持ちとして。何かを愛するというのはそういうことです。ビクターのスタッフの「方々」がどれだけ「洋楽」に詳しかろうが(そのような言及がどのような論拠として機能することを予期されているのか、あなたの書かれている文脈からは、僕にはほとんど想像することができませんが)、そんなことを勝手に「遊び」でやられては困ります。僕も遊ぶのは大好きですが、世間には「遊び」でやっていいことと、いけないことがあります。あなたは「遊びだからいいじゃないか」とおっしゃいますが、そんなこと言いだしたら、「遊びであれば何をやっても赦される」ということになってしまうじゃないですか。それはあまりにも幼児的な理屈だと思います。
誤解されると困るのですが、僕は決してSMAPの音楽性や倫理性を誹謗しているわけではありません。僕はただのしがない小説家ですので、全国のSMAPファンを相手に回して喧嘩をするような度胸もありませんし、そんなことをもともと望んでいるわけでもありません。SMAPファンはSMAPファンとして、僕は僕として、この哀しみと挫折と限界に満ちた世界でいくらかでも愉しみをみつけて日々生きていくことができれば、それに越したことはないと考えています。このCDの中に収められた音楽のいくつかはなかなかよく作られていると思います。正直言って僕の好みの音楽とは言えませんが、僕が好まない立派なものごとは世間にいくらでもあります。僕はただ、このジャケットをデザインした人の意識のあり場所とその方向性(というようなものがあればということですが)がぜんぜん理解できないと言っているだけです。どうかそのことは理解して下さい。あなたはSMAPのファンであって、彼らのCDジャケットをデザインする人のファンじゃないですよね? それともSMAPのファンは、SMAPに関連するどのような細かい事実に対する批判にも、自動的に反発するように感情をセットされているのでしょうか?
公的であろうが私的であろうが、このホームページでは僕は感じたことを感じたように書いています。そしてそれについての責任はとっています。何か間違いがあれば率直に謝りますし、理由をもっと詳しく説明しろと言われれば(今回のように)ちゃんと説明します。それが僕のやり方です。「切り捨てご免」で無責任にやっているわけではありません。自分の意見をはっきりと口にするのがもし「失礼」であるなら、他人のジャケット・デザインを意味なく流用して知らん顔をしている人間のことを、いったいなんと呼べばいいのでしょうか? 知りたいものです。本気で。
------------------------------------------------------------------------
(村上からの注)
このビーチボーイズ「ペットサウンズ」・SMAPジャケット問題についてはかなり多くの反響があり、メールのやりとりがありました。論争というほどのものではないのですが、たしかに僕もビーチボーイズのこととなると、けっこう口調がマジになるところがあって(自分のことではあまりならないんだけど)、それについて反感を買う部分があったのだと思います。そういう意味では、メールの中でも述べていますが、僕なりにいささかの反省をしていますし、少なくとも学ぶところはありました。
いただいたメールは賛否両論、もろに内容が重複するものはべつにして、ほとんどはここに掲載しました。村上のことを悪く書いたから削った、というようなことはまったくありません。ただひとつわかっていただきたいのは、僕はなにもSMAPを批判したわけじゃないということです。僕はこういういい加減な商品を作る日本の企業の体質に対してノーを言いたかっただけです。ご理解いただければ幸いです。しかしSMAPってすごい人気あるんですね。知らなかったけど。
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「F彼」「放サモ」を繋ぐ2つのバナナ型神話 グノーシス主義的解釈の失楽園とウテナリスペクトと不変の否定について
(オリジナルは20019年6月4日投稿)(面倒くさいから編集一切なし)
(褒めてる部分は全て過去形)(海底都市を許すな)
※上で名前を出した作品のふわっとしたネタバレを含むので観てから読んで
◼︎キーワードの雑な説明 ※ポップカルチャーでの引用としての説明で本物の説明ではないので雑でも許して
・バナナ型神話
「『永遠に変わらず在り続けるもの』と『時間と共に終わりを迎えるもの』の二択で終わりを迎えるものを選んだアホがいるせいで人間には寿命があるんだな~」という 昔の人が考えた人類の起源にまつわる神話の一種。 単に永遠の命を得る機会を失うだけの話もバリエーションとしてカウントするらしい。 「永遠(の命)」は石のように硬く食べられないものに、「終わりある命」は果物や肉のように腐ってしまうものに象徴される。 創世記に出てくる失楽園のエピソードもバナナ型神話であるとされる。 現代では後に触れるF彼のように「(永遠の命と比較した上での)終わりある命の肯定」をテーマとした作品も多い。 ちなみに日本神話におけるバナナ型神話はイワナガヒメ(永遠の命)とコノハナサクヤヒメ(終わりある命)の2人を妻として与えられたニニギノミコトの話が該当するが、要約するとどちらかを選ばないといけないわけでもないのに「ぶっさwwwお前帰っていいよwww」とやらかしたのが全ての原因なのでなんというかアレ。
・グノーシス主義的解釈の失楽園
「なんだよ蛇っていいやつじゃん」説
~終了~
雑に詳細を省いて詳細を書くと、 グノーシス主義においては現世と現世を創造した神は不完全な存在であり、人類が目指すべき理想の世界は別にあるという考えから、 「悪い蛇に誘惑されて間違ったことをしたので完璧な存在である神によって恵まれた環境から追い出される」という失楽園のあらましが 「良い蛇に導かれて善悪を判断できるようになったので不完全な存在である神によって見せかけだけの恵まれた環境を追われることを受け入れた」に反転するということ。
・ウテナリスペクト
TVアニメを中心とするメディアミックス作品「少女革命ウテナ」に対する敬意を込めたオマージュと取れる表現のこと。
・不変の否定 革命という言葉からわかる通り、「少女革命ウテナ」のテーマの一つ。 意味するものとしては、「男(王子様)によって女(お姫様)として支配されること」と「女(お姫様)として男(王子様)に依存すること」の 表裏一体から抜け出すというのが作中で最もわかりやすく示唆されている。 監督が影響を受けた作品である「デミアン」に登場するグノーシス主義における神であるアブラクサスの名前を引用していることから、 「知性を得ることによって楽園から追放される」という骨子はグノーシス主義的に解釈した失楽園に基づくものだとされている。
その1 放サモのウテナからの影響
◼︎放サモのウテナからの影響 放サモがウテナから影響を受けていると判断される要素として一番目立つのはウテナに出てくる同名の主人公を連想させるタローマティの存在 ・学ランを着た男装の少女 ・「男になりたいから男の服を着ている」わけではなく、自分らしさの表現である ・そのことによって「『こうあるべき』という押し付け」を退けることができる ・女ではなれないと言われた存在(王子様or騎士)になることが目標(タローマティの場合は「生まれによって許されなかった」とぼかされている) ・「気高い」というキーワード
→「意識しているのは明らかだけどパロディ・オマージュであるとは言われていない」「似せているけど二つを並べて真似たものだと一目でわかるものではない」感じの何か
◼︎グノーシス云々より先にやらないといけない「コレウテナやんけ〜!」ポイント ・神の庇護の下楽園で暮らしていた人類と親の庇護の下学校の中で暮らす学生たちのモラトリアムを重ねた表現(両者とも寮生活設定で外の世界との繋がりを弱めている) ・閉じた環境を「生きながら死んでいられる世界」と表現するウテナと「死と蘇生を繰り返す世界」の放サモ ・その中で行われる決闘ゲーム(放サモは決闘というか乱戦だしゲームさせるわりに今のところ目的とか不明でふわっふわだけど) ・型から外れた生き方で他者を啓発する主人公(「支配から解き放つ能力」というのは翻案としてわかりやすい) ・代償としての楽園からの追放(ここに貴種流離譚と剣と蛇の神話を繋げてるのはわりとすごいと思う) ・縛るものと守るものの表裏一体(閉じた環境・卵の殻※・世間に浸透している規範・王子様)
※ウテナを観た人間なら全員思い出そうとする前に脳裏に浮かび上がるので知らない人からしたら「こいつ急に早口になって気持ち悪いな…」と思われそうなフレーズ「卵の殻を破らねば 雛鳥は生まれずに死んでいく 我らが雛だ 卵は世界だ 世界の殻を破らねば 我らは生まれず死んでいく 世界の殻を破壊せよ 世界を革命するために」のこと
◼︎共通したモチーフから導かれるウテナが描いたテーマへのオマージュへの可能性(グノーシス主義的解釈の失楽園) →苦痛や困難から隔離された「ぬるま湯」「甘え」的なある種の楽園である閉じた世界から抜け出して苦痛や困難に挑んでいく生き方への賛美
◼︎その他 ・放サモFateの影響を受けてるのは明らかだし否定するつもりもないけどけどFateの1作目もウテナから影響を受けてるのでそのへん似てる似てるって言っておきながらそっちについて知らないやつはよろしくな ・本当のあなたの物語云々がプレイヤーへのメッセージとして読み取れる〆だったらベタだな〜!って叫ぶ(嫌いではない)
その2 2つのバナナ型神話
◼︎F彼は石とバナナの神話 ・人間ではないものとして「石の命を得た存在」が出てくる ・というか「人間の数倍じゃ済まないほぼ不死の種族は石の影響を受けている」みたいなノリ ・それを踏まえて(ほぼ)永遠の命を放棄するキャラクターと死すべき定めを生きる人間への称賛 ・全知全能不老不死の神を苦痛を受け続ける存在として描く
◼︎放サモのオチになる不変の否定、永遠の放棄のモチーフとして選ばれたのが失楽園(という可能性) ・主人公が蛇(悪魔、サタン、シャイターン)であり流者・追放者 ・己の尾を噛めば永遠の象徴であるウロボロスに、人を導けば誘惑を行う悪魔であり知性を象徴する蛇になる善悪の二面性を持つ存在 ・前半で説明した閉じた世界から出ることを肯定的に描いたウテナへのオマージュ
◼︎放サモにおける不変の否定 ・一番わかりやすいのが「実りのない永遠を過ごすエーギル」と「流される(変化する)ことを肯定するベンテン」が対立することで最終的に止まっていた時間が動き出す宝船イベント ・「歩みを止めてはなりません」というマリアのセリフ ・散れば終わる花の命のシノ
◼︎永遠の中に人を閉じ込めるもの ・ウテナでは現実で社会を支配してきたものとしての男性中心的な考えとか父権主義とかざっくり言って「男が上」の価値観なんだけどそのへんはそれはそれこれはこれで知らんしなのとメインスタッフ(サークルメンバー)にとっての最萌え要素である父親が悪になることはないのかなとかそんな感じで代わりに出てくるのがグレートマザー →グレートマザーについてはまあググれや →なんかユングとグノーシス主義も関係あるらしいですよ 例: 温泉山脈の山(魔王のいる禿山) 宝船イベントのラーン(エーギルの子供っぽさを肯定することで間接的に母親のような存在になる) クロードの母(元ネタであるネロ帝にとっての少アグリッピナ)
正直過去のものとはいえ褒めてた頃のテキスト出すのムカつくなと思ってたけど前作のテーマに対する真摯さは本物だったと思ってるしそのわりに誰もその話してないし何よりあの出来の悪いオマージュを名乗ってないけど名乗らないでほしい海底都市(滅びろ海底都市)や2020バレンタインのドヤ顔デミアン引用がお出しされるより前に書き手のやろうとしていることを父親を悪役として描けないことまで含めて看破していたというメタ読み勝利の決定的証拠を未だに考察とかチャカチャカ言ってるインターネットに見せつけたいので再投稿です(性格の悪いオタク)
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魔王様の好きなフライドポテトの状態とバナナを食べるタイミング【ナリちゃん切り抜き/ヤンナリ/양나리/韓国語講座/にじさんじ】
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2023/12/16 あさごはん
●グラノーラボウル:「素材まるごとグラノーラ」(Kellogg's)、無糖ヨーグルト(明治R-1)、甘熟王バナナ、冷凍ミックスベリー
●目玉焼き、JAS特級あらびきウインナー(伊藤ハム米久)、アイコトマト
●マクドナルドのチョコパイ
起き抜けから頭が割れそうな頭痛で今日は起き上がるのも無理かと思いましたが薬の力でほぼいつも通りになりました。この数年は副鼻腔炎の急性症状に幾度となく見舞われており、毎回高熱を出して寝込みます。今回は発熱こそしなかったものの痛み方から察するに膿のたまる範囲が目の下から上にまで広がった模様😭抗生剤をかなり早めに飲めたつもりだっただけに今朝の痛み方が恐ろしい。

グラノーラボウルは娘が喜んでくれそうなもりつけにしてみました。「素材まるごとグラノーラ」は味が好みで買っているけれど、栄養面でみたときに巷にあふれるグラノーラ製品のなかでどのていど優秀なのか、よくわかりません。炭水化物だけでお腹満たすよりいいかなぐらいの気持ちで主に間食として常備してます。いまさらだけど気軽に食べられるから朝食に向いてますね。(たぶん本来はそういう製品)



一食分40gあたりの炭水化物30gって白米でいうところの100g分くらいかもっと多い?でもこの製品の40gってかなりのボリュームで、ごはん一膳のように食べきれません。硬さのおかけで咀嚼量が増えるしすぐ満腹になってしまい、フルーツや野菜と併せるならせいぜい15〜20gが限界。でも控えて食べたとしても脂質はだいぶおおいですね、コーングリッツだからか。繊維やほかのミネラルが摂れるので総合的に見ると悪くはない?味は落ちるけどやはり玄米フレークのほうが健康的?
ウインナーソーセージはセブンイレブンPB(?)で、生産者見たら伊藤ハム米久ホールディングスとありました。


聞き慣れない社名だったので調べたら、2016年に伊藤ハムさんと米久さんが経営統合してたんですね。知らなかった〜!ウインナーソーセージは毎日消費しない分シャウエッセンか香薫を選んできましたが、これは香薫よりもお安いのにじゅうぶん美味しいです!更にはなんと6本入りなんです。5本じゃないんです。ふたりで半分こできるのがありがたい。セブンに行けば必ず買えるという便利さも相まって今後お世話になる機会が増えそうです。
きのうは未明からカップラーメンをたべ


(あさごはんこれだけ)
夕方には仕事の合間に立ち寄ったベローチェでたまごサンドとケーキを食べ、夜には飲み会に顔出して唐揚げを摘んでからの帰宅後はマクドナルドのポテナゲセットを食べるというめちゃくちゃな食生活をしました。今朝頭が割れそうだったのは罰があたったのかも知れません。懺悔します。
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井上泰至「恋の季題」連載ⅢⅩⅦ
花鳥誌2023年12月号より転載

日本文学研究者
井上 泰至
女を見連れの男を見て師走 虚子
長きにわたったこの連載も、恋の話はこれで語り収めとなる。振り返ってみれば、虚子は師走によく「女」の句を作った。そんな話をしておこう。
行年やかたみに留守の妻と我 虚子 掛乞の女はもののやさしけれ 同 焼藷がこぼれて田舎源氏かな 同 おでんやの娘愚かに美しき 同
しかし、「連れの男」と「女」を比べて見る冒頭の掲句は、極めつけで、連載の仕切りにはうってつけだ。 三高生時代、京都に寄宿した虚子・碧梧桐は、『日出新聞』に務めていた巌谷小波のところを訪ね、句座を共にしている。小波は流行作家尾崎紅葉の愛弟子だった。紅葉は俳句でも一派の頭目だった。 『金色夜叉』で一世を風靡し、新派劇の源流ともなった紅葉の女性を描いた句は、巧妙で鮮やかな仕掛けが各所に確認できることが、高山れおなさんの『尾崎紅葉の百句』に、手際よく活写されている。
春寒や日長けて美女の嗽くちそそぐ 紅葉
女性の一生を年齢順に詠んでいく漢詩の趣向にならったもので、二五歳の女の句である。古典世界にあっては、三〇歳は女を終える年齢で、二五歳は成熟した女を意味する。なぜ、日も上がったところで、口を漱ぐかといえば、事後だからであろう。 洒脱なれおなさんは、『長恨歌』の一節「春宵は短きに苦しみ、日高けて起く。此れ従り君王は早朝せず」を引いて、示唆しているが、下品な追究を試みれば、季語を「春寒」にするのは、人肌の温もりが心地よい季節でもあるからだろう。 野暮でロマンチストだった子規と違い、恋句の名手であった虚子は、紅葉一派への憧れから文学に開眼している。子規と文通するうち、紅葉が模範にした西鶴も俳句を詠んでいると言われて俳句を始めた。虚子の嗜好は、元は意外に紅葉に近かったのである。 さて、掲句である。女は目につく女であろう。そこでこんな女を連れている男はどんな、という視線の移動のみ示して、「師走」に落着している。師走は、人も種々雑多、入り乱れる。そこで自ずと、カップルの品定めとなる。 たぶん、女と男は釣り合わないのである。なんでこの二人が? という答えのない問いだけが残り、二人の関係を想像した物語が様々浮かんではみるものの、それこそが一年の総決算である「師走」の景なのだ。「師走」以外では、どうにもならない。
川を見るバナナの皮は手より落ち 虚子
この句も同様の、流れゆくものを呆然と見つめている感がある。虚子一流の絵巻物の視線である。 一方、『新歳時記』の「師走」の例句は、
能を見て故人に逢ひし師走かな 虚子
である。この句は実際に逢ったのでなく、たいてい亡霊が主役である能を見て、それにつらなる亡き人の想い出と出会ったのである。ただし「逢」の字を選ぶ以上、偶然に会ったその人は恋しい人であった可能性が高い。それは亡き母であったか? 不幸のうちに亡くなった、松山時代の幼馴染のお菊さんだったか? そういえば、歳末にはこういう句もあった。
けふも亦心中ありて近松忌 虚子
虚子の「眼」は、バナナの皮や、不釣り合いなカップルといった不思議なものを掬い取ってみせる。「バナナ」の句の発表は十一月だから、季感さえ薄い。一旦は例外扱いの「熱帯季題」に入れられ、戦後進駐軍の手前「大日本帝国」の影をひきずるこの分類自体を撤去したため、辛うじて「夏」に置かれたに過ぎない。 一方、「棒」のような時の流れの裂け目からは、ふっとあの世が顔を出す。近松心中物のヒロインお初は、観音の化身として恋の神となる。虚子の「写生」が、心の目で見た「写生」であった証拠だ。 虚子を軸に「恋」の「所在」を追いかけてみたら、結局のところ、幽明境を異にする向こう側の世界も含めた「恋」に行きついたのであった。 ___________________________
井上 泰至(いのうえ・やすし) 1961年京都市生まれ 日本伝統俳句協会常務理事・防衛大学校教授。 専攻、江戸文学・近代俳句
著書に 『子規の内なる江戸』(角川学芸出版) 『近代俳句の誕生』 (日本伝統俳句協会) 『改訂雨月物語』 (角川ソフィア文庫) 『恋愛小説の誕生』 (笠間書院)など 多数
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昨日までのブレワイ日記
水
水の神獣ヴァ・ルッタはなんとかしました。パオーン。もうリンクも私も慣れてしまって��るので、淡々とやらせていただきました。
カースガノンとの戦いは水場でしたが、泳いで移動してから足場に上陸するとき、カースガノン本体が邪魔でなかなか上がれない場面がありました。もしかしたら一番強い攻撃かもしれません。リアルでも一番危険な場面の一つと言えます。
水のカースガノン戦はガンシューティングみたいでちょっと楽しかったです。
ゾーラの里でいくつかおつかいしましたが、イベント終わったらあんなに存在感のあったシド王子も風景の一部になってしまい、「ゲームの登場人物にとって、主人公ではないこと」について深く考えさせられました。
砂
ゲルド砂漠へ。
ゲルドの長い長い塔を起動して、すべての塔を起動完了したことになりました。実はこれまでの放浪は「とりあえず全部の塔を起動してからいろいろやっていくか」という気持ちに基づいていましたが、ゲルドの塔にはなかなか到達できずにいました。
「荒野の塔」は早々に起動していたので、「ゲルドの塔」にはゲルド高地側からのアプローチを続けていたのです。荒野の塔とタバンタの塔の間あたり、地図で言うとこの辺にあるはずだ…という気持ちで何度も望遠鏡を覗いたのですが、静寂を切り裂く声は生まれていませんでした。(言いたいだけ)ともかく、砂漠に入ったらゲルドの塔は発見できました。発見できなかった理由も納得できました。
(※余談:「望遠鏡を覗く」という言葉によって惹起される数多くのタームがもしかして今の10代には伝わらないかもと考えたら、伝統を守ることの難しさもある程度類推できますね)
女装して女だけの町に突入。この町楽しい!服屋の裏口で適当な合言葉を伝えて「酒場でミルクでも飲んでな!」みたいなことを言われたので、酒場でミルクを頼んだら「そんなヴェーヴィの飲み物ウチにはないよ」みたいなことを言われて、ホントこの素直ムーブがヴェーヴィすぎたわと反省しきりです。
秘密を守れない若い女子のおしゃべりによって秘密クラブの秘密は簡単にバレてしまいましたが、別に怖い店ではありませんでした。むしろ、女子だけの町にある、男子服を売る店、ちょっとロマンティックです。
ゲルド族はマレビトを待つのではなく、自らヴォーイ・ハントをしに行くのですね。どの種族のヴォーイを連れてきてもいいのかな。こうした巡礼が宿命づけられた種族っていうのはそれだけでロマンがありますが、それが「旦那さんを探す旅」だというのはなかなか面白いです。やる気の少ない女子だとカラカラバザールあたりで妥協するんでしょうね。そしてアマゾネスでありながら、いわゆる「花嫁修業」みたいなのをしていることにやや涙を禁じえません。強い女もモテると思う!特にハイリア人弱いし!でも強い女だけの閉鎖的な種族だからこそ、「ほかの種族の男と円満に結婚するためには」という方法論が(ゼルダ姫のような?)「たおやかな女子を目指す」というような夢見がちな方向に発展していくのかもしれません。
賊
イーガ団のアジトに潜入。砂漠では潜入ばかりする。
(8月11日追加 幹部の立ち方が美しい)
実はこのシーンは夫が先に遊んでいて、「これは面白そう」と思っていたのですが、私には向いていませんでした。潜入に向いていない。バナナを投げた瞬間に見つかる。もう一人目から見つかって拳で解決してしまいます。しかし乱戦が苦手なうえ、幹部の攻撃ワンパンでミファーさまの祈りも妖精さんも発動せず終わってしまいます。
こらえ性がないためかなり苦戦しましたが、最終的には「ちゃんとやります」という気持ちになり、ちゃんとやって突破。
コーガ様の小物っぷりには残念な気持ちしかありません。幹部こんなに強いのに頭領はこのありさまですか?そしてイーガ団の面々からはけっこう本気の殺意を感じていたのに頭領はこのありさまですか?幹部の一人から弑されなかったのが不思議なくらいです。
無限の穴に落ちていきましたが、「若い衆あとは頼んだぞ」って遺言でしょうか?コミカルに落ちていきましたが、即「若い衆」が出てこなかったことを考えると、今後のイーガ団を頼んだぞってことですよね、つまり、コーガ様、あれで死んだのか。ショッキングなシーンです。。。あるいは異世界転生したかもしれません。
平原
そのまま兜返すのも面白くないので、平原に突入してきました。叙任式の広場で思い出フォト回収が以前からひっかかっていたので。
その前にローメイ遺跡(右上のやつ)を探索していたのですが、そこの地下でガーディアンの倒し方を完全に理解したんですよ。(ここの地下はなかなか迫力ありましたね)それで勇気が湧いて平原に行きました。
叙任式の思い出がよみがえりましたが、ゼルダ姫の表情は硬い。ここまでの思い出回収で、すこしずーつゼルダ姫の気持ちがわかってきました。残りの思い出も探しちゃいたいところです。
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TEDにて
ユバル・ノア・ハラーリ:人類の台頭はいかにして起こったか?
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
7万年前、人類の祖先は取るに足らない程のちっぽけな存在で、アフリカ大陸の片隅で他の動物と同様、ただ生きるのに精一杯でした。
しかし、今や人類が地球を支配しているということに異を唱える人はほぼいないでしょう。
地球全土において、ほか全ての動物の運命(ひょっとしたら地球自体の運命さえも)を左右しています。
いかにして、そんなちっぽけな存在から地球を支配するような存在に至ったのか?
歴史学者のユバル氏が、サピエンスという人類が台頭したその驚くべき理由を提示します。
妄想とは、「ない事に対して病的原因からいだく、誤った判断・確信」のこと。ここでは、どちらかというと空想の方です。
空想とは、「現実には、あり得ないような事柄を想像すること」と辞書では書かれています。
7万年前、我々人類の祖先は取るに足りない程のちっぽけな動物でした。先史時代の人類について知っておくべき、最も重要なことは、人類は重要な存在でなかったということです。人類がおよぼす地球への影響は、クラゲやホタルやキツツキとほぼ変らなかったのです。
2018年現在では、サピエンスは20万年前からアフリカで進化し、紀元前3万年に集団が形成され、氷河のまだ残るヨーロッパへ進出。紀元前2万年くらいにネアンデルタール人との生存競争に勝ち残ります。
そして、約1万2千年前のギョベクリ・テペの神殿遺跡(トルコ)から古代シュメール人の可能性もあり得るかもしれないので、今後の「T型オベリスク」など発掘作業の進展具合で判明するかもしれません。
メソポタミアのシュメール文明よりも古いことは、年代測定で確認されています。古代エジプトは、約5千年前の紀元前3000年に人類最初の王朝が誕生してい��す。
ところが、今日では、人間がこの地球をコントロールしています。ここで疑問が湧きます。いかに、その先史時代からここまでに至ったのか? アフリカ大陸の片隅で自分たちが生きるのに精一杯な取るに足らない存在の類人猿から、地球の支配者になったのか?
大抵、この疑問に対し、人間とそのほか全ての動物を比較して、個々の違いに目を向けます。我々が信じたいのは、人間には特別な何かがあるということです。人間の身体や脳に犬や豚やチンパンジーより、ずっと優れている特別な何かがあると信じたがります。
しかし、実は、個々の能力のレベルでは恥ずかしながら チンパンジーと差はないのです。
さらに言えば、もし私ひとりと一匹のチンパンジーを孤島に置き去りにした場合 生き残りをかけて必死になりますが、どちらが上手く生き延びる可能性があるか?私ならチンパンジーに賭けますね。
これは私に問題があるわけではなくて、ほとんどの人がたった一人でチンパンジーと孤島に置かれたら、チンパンジーの方がよっぽど生存可能性が高いでしょうね
人間とそのほか全ての動物の本当の違いは、個々の能力のレベルではなく、集団としての違いにあるのです。人間が地球をコントロールしているのは、人間が唯一柔軟かつ大勢で協働できる動物だからです。
さて、ほかの動物でも蜂や蟻のような社会性のある昆虫がいますね。多数で協働しています。ただ、柔軟性があるわけではないんです。彼らの協働は、とても柔軟性に欠けています。ミツバチの巣は基本的に、ひとつの方法でのみ機能しています。
もし、ミツバチが新しい環境や初めて遭遇する危険に出くわしても、一夜にして新しい社会システムに作り変えることはできません。
例えば、女王蜂を処刑してミツバチ共和国を設立したり、働き蜂の共産主義独裁政権を設立したりそんなことはできません。
ほかにも、社会性のある哺乳類はいます。オオカミや象やイルカやチンパンジーです。彼らは、もっと柔軟に協働できます。でも、それは少数に限っての場合です。ネアンデールタール人も同様でした。この広い大地であんたのことをよく知りもしないで協働なんてできるわけないでしょ?という具合にです。
ふたつの能力を持ち合わせ、柔軟性を持って大勢でも協働できるのは、唯一我々、ホモ・サピエンスだけなのです。1対1。あるいは、10対10ならチンパンジーの方が良い成果を出す場合もあります。
しかし、規模が巨大で1,000人の人間に対し、1,000匹のチンパンジーなら容易に人間が勝ちます。理由は簡単です。数が1,000匹となるとチンパンジーは協働できないからです。
10万匹のチンパンジーをオックスフォード・ストリートや ウェンブリー・スタジアム。はたまた、天安門広場やバチカンに連れてきて押し込んだら、もうそこは完全なるカオスです。想像してみてください。ウェンブリー・ スタジアムに10万匹のチンパンジー大混乱ですよね。
対照的に、何万もの人間が普通にスタジアムに集まりますが、それでもカオスにはなりませんよね。
その代わりに、極めて洗練された効率的な協力の輪を築きます。これまで人類が成し遂げた偉業は、ピラミッドであれ月への飛行であれ、それらは全て個人の才能によるものではなく、大勢が柔軟性をもって協働できるという人間の能力によるものなのです。
さらに、情報技術の発展とインターネットで大企業の何十万、何百万単位から、facebook、Apple、Amazom、Google、Microsoftなどで数億単位で共同作業ができるようになりました。
現在、プラットフォーマー企業と呼ばれる法人は先進国の国家単位レベルに近づき欧米、日本、アジア、インドが協調すれば、中国の人口をも超越するかもしれません。
このプレゼンテーションひとつをとってもそうです。今、300から400人の観衆の皆さんの前に立っていますが、ほとんどの方が私にとって初めてお会いする方々です。同様に、このイベントを運営している人々のことも私はよく知ってるわけではありません。
それにもかかわらず、お互いに知らない同士でもここでアイデアをグローバルに交換するために、私達は協働することができます。チンパンジーにはこれはできません。
もちろん、チンパンジーもお互いにコミュニケーションをしますが、遠く離れたチンパンジーの群れにバナナや象やその他チンパンジーが興味がありそうなことについて、遠路はるばるプレゼンするためにやってくるチンパンジーなんていません。
たしかに、協働がいつも万能で絶対良いわけではありません。これまで人間がしてきた忌まわしいことも、実際、我々がしてきた酷いことも、大規模な協力から生まれたものです。
監獄も協力体制の上に成り立っていますし、大虐殺もそうですし、強制収容所も然りです。チンパンジーの世界には、大虐殺も監獄も強制収容所もありません。
皆さんは納得されるでしょうか?人間は大勢でも柔軟性をもって協働することができるから、地球をコントロールするまでになったと。すると、探究心のある方々は、すぐに次の疑問が湧いてきますよね。まさに、どうやって協働しているのか?
ほかの動物にはできないような協働を可能にするのは何か?答えはズバリ、想像力です。妄想とは異なります。
人間は、無数の知らない人たちとも柔軟性をもって協働することができます。それは、この地球上で人間だけが唯一想像したり架空のストーリーを作り、それを信じることができるからです。
全員が同じフィクションを信じたりすれば、同じルールや基準や価値観に従って、全員が行動します。
つまり、概念です!!集合的無意識というか、通常は、各国の社会システム内の義務教育の国語、算数、理科、社会で洗練抽出されたエッセンスを学びます。
その他の動物が行うコミュニケーションは、良くも悪くも事実を伝えることだけに使います。チンパンジーの場合「見て!ライオンがいる!逃げろ!」とか。「見て!あっちにバナナの木がある! バナナ取りに行こう!」とかです。
対して、人間は事実を伝えるためだけではなく、良くも悪くも、新しい現実や架空の現実を創り出すために言葉を使うのです。人間は「ほら、雲の上に神様がいる。もし、私の言う通りにしなかったら、死んだ時に罰として地獄に送られてしまうよ」と言えるのです。
もし?全員が、今、私が作ったこのストーリーを信じたら、同じ規範、法律、価値観に従うことになり、協働が可能になります。人間にしかできないことです。
バナナを渡すようチンパンジーを説得するのに「死んだら天国に行けるよ」と約束してもダメです。「その善行によって、天国でたっくさんのバナナをもらえるよ・・・だからバナナちょうだい」チンパンジーは、絶対にこの話を信じませんよね。人間だけがこういった話を信じる。
これが、繁栄に良い場合も悪い場合も人間が地球をコントロールし、一方で、チンパンジーが動物園や研究所の檻の中に閉じ込められている理由です。精神病と言われる人間もです。
同意いただけると思いますが、宗教では、同じフィクションを信じることで信者は団結しています。何百万人という人が一緒になって、大聖堂やモスクを建てたり、十字軍やジハードで戦うのは、神、天国、地獄といったことを皆が信じているからです。
しかし、ここで強調したいのは、人間がなし得る大規模な協働はどれもまったく同じメカニズムにもとづいているということです!宗教に限ったことではないのです。つまり、概念だから!!
ところで、宗教とは何でしょうか?神や天国と同じように、宗教もホモ・サピエンスが作ったストーリーなのです。客観的な現実ではありません。人類になんら生物学的影響をおよぼすものでもありません。
人間のカラダを切って開いて、中を見ると心臓、腎臓、ニューロン、ホルモン、DNAでも宗教は見つからないでしょう。宗教が見つけられるのは、我々が作って広めてきた社会システムのストーリーの中だけです。
それらは、とても前向きでとてもいいストーリーかもしれませんが、やはり、我々が作り上げた架空の社会システム内のストーリーです。
これは、政治の分野でも当てはまります。近代政治において最も重要な要素は国家です。ところで、国家とは何でしょうか?これらも客観的には実在しません。山は物理的に存在します。見ることができ、触れることができ、匂いを嗅ぐことができます。
しかし、国家?イスラエル、イラン、フランス、ドイツなど。国家は、人間が作ったストーリーにすぎませんが、その考えは非常によく定着していきます。
経済の分野も同様です。グローバル経済で重要な役割を担っているのが、企業や法人です。おそらく、ここにいらっしゃる多くの方が、どこかの法人に勤めていると思います。
グーグルやトヨタやマクドナルド。これらってつまりは何でしょう?法律家は、これを法的擬制と呼びます。法人も人間が考案した作り事ですが、強力な魔法使い達によって守られています。まぁ法律家たちのことですが・・・
法人は、一日中いったい何をやっているのか?大部分は、金を稼ごうとしているんですよね。
ところで、お金って何でしょう?
またしても、お金とは客観的には実在せず、客観的価値もありません。この緑色のドル紙幣見てください。何の価値もありません。食べられないし、飲めないし着ることもできません。
でも、これが優れた語り部の手にかかると、大手の銀行マンや財務大臣や首相が語ると、とても説得力のあるストーリーになります。
実際のところ、お金は、人間が考案し受け継がれてきたものの中でもっとも成功した例の一つです。全ての人が信じる唯一のストーリーだからです。全員が神を信じているわけではありません。全員が人権を信じているわけではありません。全員が国家主義というわけではありません。
ところが、お金やドルはほぼ全員が信じるところとなっています。
つまりは、人間は二重の現実にいるので世界をコントロールしているんです。他の全ての動物は、客観的実在の世界だけに生きています。彼らの現実は、実在的に存在するもので構成されています。川や木やライオンや象のような実在です。我々人間も実在の世界に生きています。川や木もあればライオンも象もいます。
しかし。何世紀にもわたってこの実在の世界に加えてフィクションの世界というもうひとつの層を形成していったのです。概念の世界です。国家、神、お金、法人のようなものです。
そして、驚くべきことに歴史の過程でこの架空の現実がよりパワーをもつようになり、今日の世界ではこの概念の存在が、もっとも力を有しています。今や川や木やライオンや象が生き残れるかどうかは、まさに、概念の世界の決定や願いにかかっているのです。
アメリカ合衆国やグーグルや世界銀行のような人間の想像の中だけにある存在にかかっているのです。
数学は、この二重の現実を虚数、複素数という概念の発明で数値化できるようにしています。信号処理、制御理論、電磁気学、量子力学などにも取り入れられています。
ラファエル・ボンベリ、デカルトは初めて虚数という概念を数値化し活用し、ゼロや負の数ですら架空のもの、役に立たないものと考えられていました。
オイラーやガウスが発展させていったことでも有名です。
スイスの偉大な数学者レオンハルト・オイラー。
その才能ゆえに1700年代には、あらゆる数学者達が彼を師と仰ぎました。とても尊敬されて、現代では欧州で紙幣になりました。
この時代の解析学においては膨大な業績がありすぎて、微分積分の創始、この分野の完成に貢献している天才。級数や母関数の方法・近似計算・特殊関数や微分方程式・多重積分や偏微分法もこの人ひとりの業績です。
名前もオイラーの公式などに残っている。物理学者のリチャード・ファインマンはこの公式を評して「我々の至宝」かつ「すべての数学のなかでもっとも素晴らしい公式」だと述べてもいます。
フェルマー以降進展がなかった整数論において、ラグランジュの出現まで単独で研究し続け、オイラー関数にも名前が残っている。ゼータ関数を初めて扱い始めたのもこの人です。
幾何学では、「ケーニヒスベルクの橋の問題」が特に有名。グラフ理論の起源��なってトポロジーへと発展している。
ライプニッツによって定義された関数を初めてy=f(x)の形で表したのもオイラーの業績。
現代で主要な数学表記記号のほぼすべて(πやSinθ、Cosθなど)を作った人。
古典力学や光の波動論などの数学的な土台を構築していて、物理学でもよく使用されています。
そのほかの数学表記記号には、和の記号Σや虚数単位i、自然対数の底eといった記号もこの人の貢献です。
現代のコンピューターでよく使われるアルゴリズム的な計算方法もオイラーが考え出しています。この人が大昔にいたからこそ、量子力学も存在できるような天才的な業績を上げています。
ニュートン、ライプニッツ以後の解析学を大きく発展させ、複素数の世界を自由自在に使いこなす手法もこの人が一人で構築しています。
位相幾何学の初期の土台構築もこの人の貢献です。
1911年に始まった「オイラー全集」という書籍は、生前に残した原稿は、整理できないままま保管され続けていて、ベートーベンの作曲のように未完成となっています。
やがて、コンピューターの登場で数学の世界では、爆発的な進歩を遂げます。コンピューターが主役になり、人類の計算能力が飛躍的に高まったのです。
位相幾何学は、その後、コンピューターを活用し発展します。
<おすすめサイト>
ロジェカイヨワ戦争論と日本の神仏習合との偶然の一致について2019
マーク・パーゲル:言語能力が人類に与えた影響について
サラ・パーカック:宇宙から見た考古学
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ジュヌヴィエーヴ・フォン・ペツィンガー:ヨーロッパ中の洞穴に描かれた32個のシンボルの謎
<提供>
東京都北区神谷の高橋クリーニングプレゼント
独自サービス展開中!服の高橋クリーニング店は職人による手仕上げ。お手頃50ですよ。往復送料、曲Song購入可。詳細は、今すぐ電話。東京都内限定。北部、東部、渋谷区周囲。地元周辺区もOKです
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#🍌 #BANANApaint ・ #バナナの王様 #甘熟王 #👑🍌 ・ 🍌 Hobby scribble before eating. 食べる前に趣味のラクガキ。 🎨🖌 ・ 2012年にバナナタトゥー からのバナナペイントに変えて、定期的にやってます😙 ・ ・ いつも投稿の1番下に書いてるスケジュールも、良かったらチェックして下さい🗓 ・ ・ ・ #Graffiti #落書き #ラクガキ #らくがき #banana #Banana_Paint #PaintBanana #バナナペイント #ペイントバナナ #バナナ #甘蕉 #フルーツ #fruit #朝バナナ #昼バナナ #夜バナナ #毎日バナナ #banana #BANANAtattoo #バナナタトゥー #バナナアート #バナナの人 #甘熟王イラストコンテスト #スミフル #sumifru ・ ・ ・ <JACK PAINTON schedule> 2022.9/18(19) ※🌪悪天=延期/調整中 「コンテナペイント&キャンプ」プライベートイベント NNF(愛知県岡崎市) 2023.04.03 「イケメン!?なもんで喋りSHOW!」 ラジオ生出演(MID FM) 2023.04.23 LIVE PAINT/展示/販売(愛知県名古屋市) 2023.4/29〜5/7 「JAMBOWL」STAYMELLOW LAB(愛知県名古屋市) カスタムペイント作品展示販売 現在購入可能なアパレルやCD等デザインした物多数 ※各種ご依頼やお誘い等、個人もお気軽にお待ちしています♪ (各地に行きたいです) (Japan) https://www.instagram.com/p/CqPvgfdSG-g/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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今日のおやつ。 #バナナの王様完熟王のプチシュー #オランジェ #田口食品株式会社 https://www.instagram.com/p/Cg6DcQuhQ56/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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#ブルボン #アルフォートバナナ 🍌 #バナナの王様甘熟王 のパウダー使用とのことで、爽やかなバナナ風味がありますね( ꒪Д꒪) バナナチョコの甘さとココアビスケットのビターさがイイ組合せ。 https://www.instagram.com/p/Cd7Rdc4P240/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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#christmasday #brunch #soyyogurt #tokyobanana #littleprince かなり遅い #おはようございます #東京バナナ #豆乳ヨーグルト #星の王子様 (at Maidenhead) https://www.instagram.com/p/B6fzr93lHqo/?igshid=1c1rel2bvaq6r
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26/12/22
日記、人に見せるものという意識があるために、あまり重たくならない様に調整してしまうが、それでは嘘になってしまう。わたしの人生における出会いも気づきも抑うつもまた、全て等しくこの身に起こっていることであり、どれも誇張されたり退けられたりするべきではない。しかし、やはりこれは他者が読むものであるため、生々しい言葉を使うべきでもない。色んなべきではないを抑えて折り合いが付くように言葉を選んでいくのは、自分に正直であり続けるためだな。
スペイン旅行の3日目にバルセロナで高熱を出し、5日間は調子が��らずほぼ寝たきりだった。バルセロナではピカソ美術館とカタルーニャ美術館へ行ったきりで、海辺のホテルで療養していたにすぎない。熱を出した翌々日に宿の関係でマドリードへ移動せねばならず、熱で二倍になった重力の元、特急の始発駅へ向かっていた。運が悪いことに地下鉄で貧血を起こし、降りた駅のベンチで横になっていたら、心優しく声を掛けてくれたスペイン人が水を買ってバナナを分け与えてくれ、本当に助かった。マドリードの宿へ到着してからも、一日に二度、外食のために身体を起こすのが精一杯で、ただずっと具合が悪かった。せっかくのスペインだったのだが、ベッドでM-1決勝戦ネタを観たりしていた。イギリスに帰って、餅、つこうぜ。
どうしてもうどんが食べたくなる。Googleマップでうどんと検索し、ちゃんと日本人が作っていそうなおうどんの写真が出てきたので、今夜はここへ行こうと星マークをつけようとしたら、店名が「donzoko」だった。どん底スペイン旅行。お店へ行くと、おそらく同年代の日本人の男の子が接客をしてくれ、スペインでワーホリをしているとのことだった。スペインワーホリは4年前くらいにできたらしい。英語圏の次は別の言語の国へ行ってもいいね。海外にはトリリンガルの人とか結構いるし、フランス語なんか喋れたら素敵だな。肝心のおうどんは、おつゆが甘じょっぱすぎた。かなりまともな日本料理屋だったけど、味はなんだか惜しい。お出汁にこだわる家で育ったから、もしわたしが日本料理屋で働いたらお出汁にめちゃくちゃ口出ししちゃうかもしれない。オーダーではなく出汁をとらせろ。ちなみにどん底の由来を彼は知らないとのことだった。
具合が悪いとしか言いようがない。これがコロナなんだとしたら、全く脈絡のない刺激で悲しくなってしまうのも症状のひとつなのかもしれない。着ているフリースの毛流れがあまりにふわふわと立体的で、悲しくてたまらない。ひとしきり悲しんで眠りに落ちると、フリースを着て眠っていたはずなのに脱いでいて、足元のベッド枠に掛けられている。睡眠時遊行症もコロナの一症状なのかもしれない。
マドリード3日目。ずいぶん長く歩けるようになるまで回復する。病み上がりにはいつも辛いものが食べたくなるが、今回も例に漏れず、口コミのよい韓国料理屋を探して向かう。店内はいっぱいだからテイクアウトなら、とのことでスンドゥブチゲを注文。女将さんがスペイン語と韓国語と英語をない混ぜにして喋るので全然わからなかった。英語圏ではない国へ旅行する場合、必ずしも英語が通じるとは限らず、メニューが現地言語表記のみだったりすると本当に詰んでしまう。ヨーロッパ言語は英語に似ているみたいな話をしたけど、音が似ているわけではなく、全くスペイン語がわからない英語学習者にとってのスペイン語はもちろんどうぶつ語である。20分後にできるからとのことで、外へ出てベンチに腰掛けスンドゥブを待つ。マドリードは至るところにベンチがあってよい。バルセロナは暖かくて春の匂いがする午後さえあったが、マドリードは少し肩が縮こまる。それでも、ふくらはぎが出るワンピースを中に着て20分間ベンチに腰掛けることはできるような温度感だ。店へ戻ってスンドゥブを受け取る時、女将さんがにっこりしながらポンポンと肩を叩いてくれたが、韓国語を喋っていたのでどういう意味だったのかわからない。ゆっくり食べられそうなベンチを探しながらしばらく歩いていると、○○町第一児童公園 みたいな名前が付いていそうな、寂れつつ小綺麗な公園があったので、そこでスンドゥブを広げることにする。付け合わせで、火を通した茄子を塩辛い餡のようなもので絡めたおかず、じゃがいもとにんじんを千切りにして塩で味づけした炒めもの、がびっくりするほど美味しかった。塩気の効き具合と火の通し加減が絶妙で、こういうのを家庭料理のおいしさというのかな。スンドゥブは辛さが足りずもどかしかったので、辛さを求めて、夜にまた別の韓国料理屋へ行く。両側をスペイン風のアパートで挟まれた、狭くて歪んだ石造りの坂道を少し登ったところにある、地下に店を構える韓国料理屋で、地上から階段で半分下がったところに入り口があり、お辞儀をするような格好でドアを押す。ここではビールを解禁してサムギョプサルをしたのだが、にんにくが付いていなくてふざけているのかと思ってしまった。シメにいただいたユッケジャンは微妙な見た目して味は一品だった。熱くて舌が焼けそうなほど辛い。そういえばどちらの韓国料理屋でも、日本人だと告げると(韓国人ではないため)ちょっと残念そうな顔をされつつもなんだかんだ良くしてくれて、アジア人というアイデンティティが芽生えつつある。満足して帰路につき、ゆっくりシャワーを浴びて早く寝ようと思っていたのだが、なぜか宿のバー巡りイベントに参加することになり、お酒を解禁してグラスビールを許した段階なのにショットを5杯飲む夜になってしまった。塩とライムで飲むテキーラっておいしいんだね。同じ宿に泊まっている人たちと英語で喋るよい機会だったけど、ナイトクラブの雰囲気がめちゃくちゃ苦手だったのでそそくさと抜け出して帰った。
丸一日自由に使える日を二日間残して体調が戻る。マドリード4日目。普段の調子も戻ってきて、スペインでようやく息ができた朝だった。宿の近くに、スペシャリティコーヒーと看板を掲げるカフェが連なるスペシャリティコーヒー通りがあり、どれもわたしが知っているそれとは雰囲気がかなり違ったので、広義のスペシャリティコーヒー、と思った。スペシャリティコーヒー通りのカフェのひとつがBrunchをやっていて惹かれたのでふらりと入る。(おそらくスペシャリティ)コーヒー、足のついたグラスに注がれた生のオレンジジュース、アボカドと生ハム(たっぷり!)とトマトソースのバケットトースト、クロワッサン、グラノーラと果物のヨーグルトで完璧なブランチ。ヨーロッパでは基本的にどんな食事にもナイフとフォークが添えられているが、バケットトーストをナイフで切ってフォークで口に運ぶのも優雅でよかった。オーダーを取ってくれた店員が、日本好きだよ、In the Mood for Loveが好きなんだ、と話すのに対し、背中合わせの客が、それは韓国映画だね、と割り込む。どうやらウォンカーウァイの花様年華のことを話しているらしかった。お会計の時、あなたは主人公によく似ているから観てみてと、伝票の裏にIn the Mood for Loveと書き込んでくれ、なんだか映画のワンシーンみたいだった。カフェを出てプラド美術館へ向かう。スペインといえばプラド美術館と思っていて、それは��れは様々な西洋画が見られるのだろうと期待していたのだが、展示内容にはかなり偏りがあった。Wikipediaによると、プラド美術館は歴代スペイン王家のコレクションが大半で、歴代王の趣味やスペイン史を反映しているためにルネサンス、バロック絵画に偏っているとのことだった。確かに、モネとかゴッホとかは全くなく、宗教画ばかりだった。じっくり館内を見て回っていると、ぐっと引き込まれてしまう絵がいくつかあった。なぜだろう。おっきくて本物だから?光って見える絵とかもあった。宗教画はものすごく精巧な絵画で、一言でいうと、絵がめちゃくちゃうまい。そしてどの絵にもドラマ、ストーリーがあって、人が血を流して死んでたり泣いてたり呆然としてたりなど、どうしたんだろうとシリアスになって絵に近づいていってしまう。Antonio Munoz Degrain の The Lovers of Teruel と、Juan Luna の Cleopatraが特に美しかった。ところで翌日も酔い続けているタイプの二日酔いで訪れる美術館てなんて心地いいんだろう。身体に一定の負荷がかかっているために、余計な言葉や思いだしたくない悩みが引っ込み、視覚から絵を楽しめる。あとこの日はコンタクトレンズをしていて、眼鏡とは見え方が異なる気がした。コンタクトレンズの方が、より鮮明に立体的に見える、ために絵が飛び込んでくる。一通り見終えて、ソフィア王妃芸術センターへ本物のゲルニカを見に行くため、マックで腹ごしらえをする。小腹が空いていて時間も微妙な時にちゃくっと行くマックは楽しくて美味しくて好き。閉館まで時間がなくて、駆け足で回っても全ての展示室へは行けず、近代的なおもしろい展示もやっていたから勿体なかった。この夜も韓国料理を食べる。
マドリード5日目。マドリードはよい街。まずスーパーがいい。並んでいる野菜や果物はぱつっと新鮮だし、鮮魚コーナーはでっかい魚が氷に埋まっていて、精肉コーナーには生ハムの原木がぶらさがっている。何より床が綺麗で店が明るい。(ロンドンのスーパーはなんか散らかってる。)ティッセン=ボルネミッサ美術館へ行く。ここはプラド美術館とは異なり、かなり満遍なくコレクションされていて、おすすめルートで回ると西洋美術史の流れに沿って作品を鑑賞できるようになっていてかなりよかった。Edward HopperのHotel Roomを長い間眺めていた。とても好きだったので、絵がプリントされたクリーニングクロスをお土産に購入した。さすがに二日酔いは治っていたと思うけど、心地よさは継続していて、夏を想起させる様な色彩鮮やかな厚塗りの抽象画を見ていると、幸福な気持ちでいっぱいになった。美術館行って幸福な気持ちになって出てくるって体験として最高だなあ。
美術館へ行ってばかりの旅だったけど、美術館でわたしは何をしているんだろうとふと。多分、作品を見てるだけじゃないんだよな。建築設計の妙でもたらされる幸福感とか、絵を眺める人を眺める時、すれ違う人の放った言葉が耳に入ってくる瞬間、あんま面白くない作品が続くゾーン、はっとして吸い寄せられてしまう絵、の合間合間でメモアプリに書き留められる断片的な自己理解や新しい思いつき、の全て。チケットの列に並んでから夕暮れ時に出口をくぐるまでに起こる全ての体験。そういう娯楽。
旅をしていると、こうすればこうなるだろう、からこうする、みたいに、今の不安を未来の自分に解消させるべく、筋道立てて人生設計して未来を計算しながら生きるのをどんどんやめていくことが今を幸せに生きる方法のような気がしてくる。そのような設計はどうしても垂直な要素を含むが、わたしは人生をどこまでも広い平面として生きていきたい。設計が必要になったとしても、資本主義的垂直ではなく平面的な心持ちで努力をする。垂直に生きないと何かがダメになるというのは資本主義社会の幻想であって、平面的に生きても、何かが減ったりツケが増えたりするわけではおそらくない。やりたいこと、知りたいこと、行きたいところを正しく把握するために、自分の心の機微に敏感になっておくこと。今嬉しいのかつまんないのかをわかるようにしておくこと。その上でやる力、やり通す体力と精神力を備えておくこと。この辺りが大切なんだろうなと思う。
クリスマス当日は快晴。ロンドンへ戻る。滞在中に何度か行った宿の近くのカフェへ朝ご飯を食べに行った。おおきな(本当におおきな)チョコレートケーキを食べながら、これクリスマスケーキだ、と思う。大型犬を連れた客が入店してきて、ヨーロッパの犬寛容社会、と思う。フライトの時間が迫っていたので、バタバタとチェックアウトして駅へ向かうと、広場で露店マーケットが開かれていた。15分だけ、と急足で露天を見て回り、変な蟹のピアスを3€で購入した。うれしい買い物。ピアスだけはいくつ所持してもよいことになっている。空港で手荷物、予約時の規定では8キロ制限だったのに、チェックイン時に計って9キロで、超過してるか聞いたら問題ないとのことで首を傾げていたら、搭乗時に10キロまでと書かれた表示を見つけ、何がどうなってんねん。手荷物検査すぐ終わって余裕だと思っていたら出国審査に並んだ。出国審査はある空港とない空港があるけど、どうなってんねん。昼下がりのエアヨーロッパ。搭乗した機内には柔らかく日が差し込み、滑走路の離陸ポイントへ移動する間、角度を変えて入り込んでくる日が窓際、手元、手荷物棚とあちこちにひだまりを作る。空調が機能していないのかよく暖まり、うとうと眠りに落ちてしまう機内は、まるで水泳の後の授業か、あるいは放課後のようだった。到着先のガドウィック空港のストライキを心配していたが問題なく入国でき、ロンドン市内まで帰ってきたが、鉄道とバスのストライキは全く予想しておらず、家に帰る手段がタクシー以外に何一つなかった。距離を調べたら徒歩3時間だったので余裕じゃん!と心が軽くなり、旅行前は氷点下だったがこの夜は10度近くあったため、歩いて帰ることを決めた。
一人旅、向いていないかもしれないけど、好きでいたい。旅行中に、そういえば母親にスペイン旅行のこと連絡していなかったなと思ってラインしたら、ひとり旅!? あなたは勇気あるねえと返事がきた。誰かがいないとできないとか、ひとりだと寂しいとかいう次元とは別のところにいたくて、旅に限らず、お酒を飲みに行ったり映画を観に行ったり、なんでも一人でやっているのかもしれない。そして一人旅では、すぐには言葉にならない水面下で何かが、大きな攪拌が起こっているような気がする。旅行前半は、ちゃんと仕事も決まっていない無職なのに貯金を切り崩して10日間もスペイン旅行だなんて、という思考に囚われていたけど、ロンドンに帰ってきたら、そういう悩みが削ぎ落ちていて、空いた分をどうでもよさ、寛大さが占めていた。まだ無職でいいや、というニュアンスのどうでもよさではなくて、もっと前向きな力の抜け方。旅行をすればするほど、人生に対して前向きにおおらかになっていくのかもしれない。

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