#通常だったら懇親会なのに
Explore tagged Tumblr posts
Photo
#研修初日の夕方 は #通常だったら懇親会なのに 、 #時節柄 #今日は #おひとり様ぼっち夕食 …。 #でも 、 #チーズハンバーグ は #本格的 ! #ご飯 #の上には 、 #甘酢ショウガ #ショウガ ( #ガリ )と #大根の梅酢漬け #大根 ( #さくら漬け )を #てんこ盛り !! #そのほかの #野菜サラダ や #ブイヨンスープ 、 #青りんごゼリー も #ソーグット ♪ #明日も 、 #ガンバれる ☆… #かな ? (東北自治総合研修センター) https://www.instagram.com/p/CmbeftCPXO4/?igshid=NGJjMDIxMWI=
#研修初日の夕方#通常だったら懇親会なのに#時節柄#今日は#おひとり様ぼっち夕食#でも#チーズハンバーグ#本格的#ご飯#の上には#甘酢ショウガ#ショウガ#ガリ#大根の梅酢漬け#大根#さくら漬け#てんこ盛り#そのほかの#野菜サラダ#ブイヨンスープ#青りんごゼリー#ソーグット#明日も#ガンバれる#かな
0 notes
Quote
その事件は私が1歳の時に起きました。覚えていることはありません。 中国人の父と母は、大きくなってからも私に語ろうとはしませんでした。 中国政府は事件の死者数を319人としていますが、それよりもはるかに多いという指摘もあります。 あれから35年。真相は今も、明らかにされていません。 あの時、私のもう1つの祖国で、何が起きたのか。 (中国総局 高島浩) 日本人の祖母と中国人の両親 私の祖母は日本人です。満蒙開拓団として旧満州に渡りました。 戦後、帰国できずに大陸に残った「中国残留婦人」で、養子に出されていた中国人の男の子を引き取り、育てました。のちの私の父です。 父は中国人の母と結婚。1988年に中国東北部・黒竜江省で私が生まれました。そして6歳の時、国の援護事業のもと家族4人で帰国し、私と両親は日本国籍を取得しました。 私が生まれた翌年に起きた「天安門事件」 1989年6月4日。中国の首都・北京で、あの事件は起きました。 天安門広場に集まった民主化を求める学生や市民たちを、当時の共産党指導部が軍を出動させて武力で鎮圧した「天安門事件」です。 軍による発砲などで多くの犠牲者が出ました。中国政府は死者数を319人としています。 しかし当時、北京に駐在していた各国の外交官の報告などから、犠牲者の数はそれよりもはるかに多いという指摘が根強くあります。 中国政府はこの事件を、政治的な「騒ぎ」で「すでに結論が出ている」という説明を繰り返しています。 「知る必要はない」父のひと言 戦車の前に立ちふさがった市民の姿。民主化の動きを武力で制圧した事件。 天安門事件の前の年に生まれた私は、日本の教育で学ぶまで、こうした事件の表面的な情報でさえ、知りませんでした。真相を公表せず、事件を人々の記憶から消し去ろうと腐心してきた中国政府からみれば、もくろみどおりに育った、ある意味で“優秀な中国国民”だったでしょう。 中学生の時、一度だけ父に事件について尋ねたことがあります。そのときの父のことばが記憶に残っています。 「よく知らないし、知る必要はないよ」 記者になって、父と私のもう1つの祖国でもある中国のことを話すことが増えました。父は���分が共産党員だったことを明かしてくれました。共産党の実態を知っているからこそ、私に忠告したのです。 「天安門事件に関心を持つことで、いつか中国に赴任した時、どのような理不尽な目に遭うかわからない」 遺族取材の担当に もう逃げない 4年前の2020年、希望がかなって中国南部の広州駐在の記者となりました。 当局の厳しい監視下に置かれた人権派弁護士の家族などを取材。私自身も当局者に連行され、警察署に留め置かれる経験をしました。 国家の安全を最優先する習近平指導部は言論統制を一段と強め、外国メディアの取材環境はますます厳しくなっていることを身をもって感じてきました。 天安門事件は、そうした中国社会の中でも最もタブー視されていて、深く取材すればどんな目に遭うのか。恐怖すら感じていました。 私と同じように中国の若い世代は事件を知りません。私がおおまかな概要を話すと、「うそを創作するのが上手ですね」と、まるで信じようともしません。今の中国社会の現実です。 事件がまた1つの節目を迎えたことし、北京に赴任、遺族取材の担当となりました。 そして、誓いました。事件を深く知ろうともしてこなかった過去から逃げず、まっさらな気持ちで取材しようと。 集会を断念した遺族グループ 6月4日に向けて取材を始めたところ、ある情報が入ってきました。 これまで5年ごとの節目に、遺族グループが開いていた追悼集会が断念に追い込まれたというのです。原因は当局による厳しい監視のためでした。政府が例年以上に神経をとがらせていることが感じられました。 遺族グループの名は「天安門の母」。グループは集会の代わりに先月(5月)、海外の動画投稿サイトに声明を公開しました。 「私たちには軍隊が銃撃に及んだ真相を知る権利がある」 「政府は社会に謝罪し、私たちに公正と正義を返しなさい」 事実を隠ぺいし、遺族の日常生活への干渉を続ける政府を強く非難する内容でした。 そして、いまなお分からない犠牲者の正確な数や名前の公表、犠牲者と遺族への賠償、責任者への法的な追及を求めました。 厳しい監視、通信遮断の面会 声明が公開される少し前、グループの中心メンバーの遺族を訪ねました。今の気持ちを伝えたいと、当局の監視をかいくぐって取材に応じてくれた張先玲さん(86)。 遺族に直接、話を聞くのはこれが初めてです。心臓がバクバクと打つ胸を必死でおさえました。 張先玲さん 呼び��を鳴らすと、張さんがやや固い表情で出迎えてくれました。周囲をうかがうように招き入れてくれたあと、すぐに携帯などの電源を切るよう伝えてきました。当局の盗聴を警戒していたのです。 自身も自宅の通信設備の電源をすべて切っていて、奥の部屋に移るまで、会話もしないよう身振り手振りで伝えてきました。 記者を志した息子の死 張さんは、事件で当時19歳だった息子の王楠さんを亡くしました。 記者を志していた王楠さん。天��門広場で起きている歴史的なできごとを記録に残したいと、事件前日の3日深夜、カメラを持って自転車で現場に向かったそうです。 張さんの息子 王楠さん そして4日午前1時すぎ、人民大会堂の北門の向かいで軍の銃撃を頭部に受けました。地面に倒れた王楠さんを現場にいた人たちが助けようとしましたが、軍の部隊が近づくことさえ許さなかったといいます。兵士たちはひざまずいて助けさせてくれという人たちの懇願に対し、「あいつは暴徒だ」と聞き入れなかったそうです。 のちに現場で目撃した人から聞くなどしてわかった当時の状況です。張さんは、中国政府がひた隠しにする、あの事件の真相の1つだと信じています。 なぜあの時… 消えぬ後悔 張さんの自宅のリビングの壁には笑顔の王楠さんの遺影がかけられていました。毎日のようにその写真に手をあわせながら、張さんは胸にある後悔を拭いきれずにいます。 なぜ、あの時、息子を送り出してしまったのか… 張先玲さん 「天安門広場に向かう前、息子が私に聞いてきました。『まさか軍が発砲することはないよね』と。私は『まさか、ありえないよ』と答えてしまったのです。今もずっとあの言葉を後悔しています。生きていれば、今ごろは父親になって家庭を持っていたでしょう。私の脳裏にある息子は、永遠にあの日の、あの晩の、19歳の時でとどまったままです」 黙り続けることは許されない 王楠さんの遺体はほかの犠牲者とともに天安門の西側にあった中学校前の草むらに埋められていました。雨で遺体は地表から露出し、3日後、衛生当局などによって発見されたそうです。変わり果てた姿の息子。 張さんの脳裏から焼きついて離れず、毎年6月4日が近づくにつれて、張さんは体調を崩しています。 息子はなぜ死ななければならなかったのか。この日も体の調子が悪く、取材に応じてくれた時間は10分余り。それでも張さんは気力を振り絞るように、遺族の声を広く伝えてほしいと、1人の母親としての怒りを伝えてきました。 張さん 「国家が進歩していく上で、この事件が解決されないのは正常なことではない。『人民のために奉仕する』という中国政府が、人民の尊い命を奪っておきながら、なんの説明もなく、30年以上も知らないふりをして黙り続けるのは到底許されない」 「ごめん、生きてくれ…」最後���ことば 今、遺族グループの活動の中心は犠牲者の親たちから、そのパートナーや兄弟に移っています。その中の1人に会うことができました。 尤維潔さん 尤(ゆう)維潔さん(70)。事件で当時42歳だった夫の楊明湖さんを奪われました。 政府系の経済団体の職員だった楊さんは、当日の深夜、銃声を聞き、広場に集まった学生たちを心配して現場に向かったといいます。そこで、下腹部に銃弾を受けました。倒れた楊さんをその場にいた人たちがリアカーで病院に運びました。撃たれた骨盤は粉々に砕けていたといいます。 病院に駆けつけた尤さんに、手術室から出てきた楊さんはこう漏らしたそうです。 尤さんの夫 楊明湖さん 「ごめん、しっかりと生きてくれ」 2人が交わした最後の会話となりました。2日後、楊さんは息を引き取りました。わずか6年の結婚生活。国によって突然、終止符を打たれました。 尤さん 「35年がたっても、あのときの記憶は少しも消えていません。一瞬一瞬が頭の中に残っています。夫を見守った2日間で涙は流し尽くしてしまい、今はもう出ません。遺族は皆、この世を去らないかぎり、暗い記憶の中を生き続けるのです」 若者たちはなぜ立ち上がったのか 天安門事件とは結局、何だったのか。その疑問を持ちづけていた私に、尤さんは「若者たちが立ち上がったのは、社会に対する責任感だった」そう説明してくれました。 天安門事件は、1980年代に共産党トップの総書記を務め、言論の自由化など政治改革にも前向きだった胡耀邦氏が4月15日に突然、死去したことに端を発しているとされています。 胡氏は、学生の民主化運動に理解を示したなどと保守派に批判され、失脚していました。 学生や市民による胡氏の追悼集会は、民主化を求めるデモに変わり、各地に拡大。5月には10万人が参加する大規模な集会に発展していきました。訴えは汚職の撲滅や言論の自由などを求める社会的なうねりとなっていったのです。 天安門広場に集まった市民や学生たち 尤維潔さん 「当時、北京の市民は皆、天安門広場にいた学生たちをとても心配していました。特に印象深いのは、戒厳令が最初に出された日です。市民たちが天安門広場に軍隊を行かせてはいけないと、路上にバスを止めて道路をふさぎました。多くの人たちが、ハンガーストライキを続ける学生たちに食料や水を届けていました。すべてが自発的な行動だったのです。その光景に私はとても感動しました。政府はなぜこうした状況を理解できなかったのか、思い出すと、今でもとても腹立たしい」 “隠ぺい”と“沈黙”の35年… さらに大事なことを話してくれました。 当時、軍によって制圧された天安門広場やそれに続く大通りなどあちらこちらには死体の山があったそうです。連絡が��れない人も多く、尤さんの夫とともに病院に運ばれ、その後死亡した男性も身元が分かっていなかったといいます。 しかし、中国政府は事件発生から犠牲者や行方不明者についてほとんど説明を行ってきませんでした。それどころか、事件から1年余りの間、政府は「天安門広場に行ったのか」や「デモに参加したのか」など多くの人に聞き取りを行うなど徹底的に調査していました。 尤さんはこうした政府の心理的な圧力が、今の中国社会につながっていると語気を強めて訴えました。 尤さん 「政府の圧力によって、市民は自分たちの家庭で何が起きたのか、言い出すことを恐れていきました。時間の経過とともに真相を語る人を探し出すことはいっそう難しくなっています。今では多くの人が事件についてよく知りません。35年がたち、若い世代は天安門事件に関心すらない状況です。これはこの間、政府が隠ぺいと沈黙を続けてきたからだと思います」 メッセージアプリに突然、使用制限 今、中国政府は、事件を国民の記憶から消し去ろうとする動きをさらに強めています。 遺族グループの今の活動の中心メンバーとなっている尤さんに対する監視は、6月4日が近づくにつれて厳しさを増していました。 尤さんのメッセージアプリ「ウィーチャット」は、4月ごろから機能が突然、制限され、ほかの遺族とのグループでのやりとりが一切できなくなりました。 ウィーチャットは中国国内では、使っていない人はいないほど、最もポピュラーなSNSです。“遺族どうしがつながることを阻みたい”、35年という節目に当局が神経をとがらせている様子がうかがえました。 尤さんが所在不明に 警告、そして尾行 尤さんに話を聞いてから、およそ1か月半たった先月(5月)31日。私は再び彼女の自宅を訪れました。もう一度話を聞きたい、そう思ったからです。 しかし、不在でした。連絡すらつかず、所在がわからなくなっていました。 自宅から立ち去ろうとした時、突然、警備員に呼び止められ、「何をしに来た。2度と来るな」そう警告されました。さらに、私服警察官とみられる2、3人の男たちが、私のあとを追うようについてきました。尾行は、私たちが車に乗り込むまで続きました。 尤さんとようやく連絡がついたのはその4日後、6月4日の午後でした。電話口の声は重く、監視役としてそばにいるとみられる当局者らしき女性の声が聞こえました。 「しばらく自宅にいることができない。近況も話しづらい。ごめんなさい」 短く状況を伝えてくれました。身に危険はないか心配する私に、彼女は「大丈夫」そう返し、電話は切れました。 男たちに囲まれて警告、墓地に近づけず あの日が近づくにつれて、天安門を東西に突き抜ける大通り「長安街」は異様な雰囲気に包まれていきました。前日3日午後、同僚のカメラマンが、多くの犠牲者が見つかった木※せい地という場所に向かいました。(※木へんに「犀」) 今は地下鉄の駅があり、隣には警察の派出所が設けられています。撮影機器が入ったリュックサックを開けようとした瞬間、十数人の男たちに取り囲まれ、立ち去るよう警告されました。 厳しい警備の共同墓地 6月4日の様子 そして4日当日。犠牲者が埋葬されている北京郊外の共同墓地には、多くの警察官が配置され、厳戒態勢が敷かれていました。近づくことすら許されず、命日の墓参りに訪れる遺族への取材はできませんでした。 天安門の叫び、今も 「天安門事件は、中国共産党による『国民の虐殺』にほかならない」 遺族たちのこうした訴えは「人民のために奉仕する」という共産党の正当性を、根幹から揺るがすことになりかねない、そう政府は考えているのかもしれません。だからこそ、政府は沈黙を貫き、時がたち人々が事件を忘れ去るのをじっと待っているように感じます。 かつて、私に「知る必要はないよ」と語った父と同じように、多くの国民が知らされずにきた35年。 それでも中国国民のなかには、天安門広場で民主化を叫んだ若者たちと同じように、一党支配への不満や、社会への責任感を持つ人がいます。 北京での白紙運動(2022年11月) おととし、中国政府のゼロコロナ政策への不満を背景に起きた抗議活動「白紙運動」。 そして去年、李克強前首相の急死後に各地で広がった追悼の動きと現指導部を暗に批判する追悼のことば。 私は、もう1つの祖国で今、事件とどう向き合うのか。 取材に応じてくれた張さんと尤さんの2人のことばを反芻しています。 「生きている間に事件の解決は見ないかもしれないが、それでもかまわない。 息絶えるその瞬間まで、生きているかぎり、訴え続ける。あなたも、この声を多くの人に届けてほしい」 (6月4日 ニュース7などで放送)
中国の習近平政権下で強まる抑圧と監視 天安門事件35年 記者にも尾行が?遺族が訴え続ける意味とは? | NHK | WEB特集 | 中国
22 notes
·
View notes
Quote
私は通常、YouTube を最大 1 時間程度しか視聴せず、Instagram はコンテンツを作成するためだけに使用します。私が会う 95% の人とは違って、私は TikTok や Netflix などのエンターテイメント系のものは視聴しません。 友達に会うと、2 人以上が新しいトレンド、新しいシリーズ、新しいジョークについて話します。彼らが何について話しているのか、私にはまったく理解できません。 最初は自分が時代遅れの人間だと思ったのですが、結局それらのコンテンツはほとんどがゴミだということに気づきました。 娯楽は現実ではないので、それを見すぎると世界に対する認識が変わってしまいます。 韓国ドラマを見すぎる私の妹は、誰かを愛すると必ずその人も愛し返してくれると思っ��います。 YouTube を観すぎている私の友人たちは、いまだに簡単にお金を稼ぐ方法を見つけられると信じています。 TikTokを見すぎる隣人は、流行の新しいiPhoneを買ってくれるよう親に懇願している。 ほっとしました。それらのコンテンツを一気見しないことで、私の生活はよりシンプルになりました。私の頭の中には、自分が重要だと思うこと以外何も浮かびません。
気づかなかったけど賢くなる習慣3つ | Yuan VK | ILLUMINATION | Medium
8 notes
·
View notes
Text
「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024)4月19日(金曜日)
通巻第8221号
後継皇室問題で自民党が有識者会議の二案を『妥当』
やはり自民党に「現代の新井白石」はいなかった
*************************
皇統後継問題の皇室典範改正をめぐって有識者会議が開かれ、これを踏まえて岸田首相は令和六年(二〇二四年)一月三十日の所信表明演説後の質門に答え、かく述べている。
「有識者会議において悠仁親王殿下までの皇位継承の流れをゆるがせにしてはならないとの結論に至った」。
つまり「女系天皇論」という俗論をたしなめたのだ。だがメディアは意図的に、この一歩踏み込んだ発言を殆ど伝えなかった。岸田首相は「悠仁親王殿下までの皇位継承の流れをゆるがせにしてはならない」と明言しているのである。
皇統は神武以来の万世一系で男子が継承し、跡継ぎが幼少などの場合、未亡人皇后か独身の内親王が天皇代理として「称制」と務めた。この歴史の特質が意図的に議論されず学校でも教えない。
だから軽佻浮薄にも「愛子天皇待望論」が出てくる。女性天皇と女系天皇の区別も曖昧とされたままである。
小泉政権のおり皇室典範改正をめぐって有識者会議が開催された。明治二二年(一八八九年)制定された典範により、男系長子が皇位を継承するという神武天皇以来の万世一系の伝統が守られてきた。状況が変化し、皇統が絶えかねないという危機を認識し、急遽、有識者会議が招集された。
だが、座長はロボット工学専門の学者で歴史には無知だった。秋篠宮に悠仁親)王がお生まれになって、皇統問題は棚上げとなった。
もしこの流れを変えるとなると歴史を否定する革命である。フランクフルト学派が狙うのは二段階革命による国家破壊であり、グローバリズムが国境をなくせと唱えている国家否定の隠れた目標に通底する。
4月15日、自民党は皇位継承の安定のための皇族数確保に関する有識者会議の二案を『妥当』とする立場を示し、「安定的な皇位継承の確保に関する懇親会(麻生副総裁が会長)で党見解のとりまとめを急ぐ��した。
「二案」とは(1)皇族女子の結婚後の皇族身分保持。(2)養子縁組に拠る旧皇族団系男子の皇籍復帰、である。
自民党はいずれも妥当としたわけだが、いささか勉強不足だろう。やはり与党に現代版の新井白石はいなかったのだ。
各党の意見のなかで、唯一まともなのが「維新の会」である。すなわち(1)に対して、現実的ではあるが「女系への皇位継承資格拡大につながる懸念がある」としている。
(2)に関しては『歴史と現実を踏まえれば、高く評価できる』とした。
そもそも皇室典範の改正云々を内閣ごときがおこなうべきではない。立太子と親王殿下がおられるのに、なぜこんな議論をするのか、裏に何か別の動機が潜んでいるのか。
(参考文献 宮崎正弘『二度天皇になった女性 ─孝謙・称徳女帝の光と影』(ワック)
▼
(再録)「新井白石 皇統断絶の危機を予知」
皇統が断絶の危機に瀕したことは神武天皇の御代から幾度かある。また後継皇位を争った政争、謀殺も何回かあった。
古代史最大の謎は応神天皇と継体天皇の正当性である。ほかにも雄略天皇が謀殺したイチノヘオシハ(履中天皇の皇子、雄略天皇の叔父)の遺児が播磨と吉備の境に二十年隠れ住んでいて、雄略の皇子・清寧天皇が亡くなると名乗り出た。この間、イチノヘオシハの妹の称制だった。
新井白石は自伝ともとれる『折たく柴の記』のなかで、皇室の後継が不在となる危機の到来を認識し、東山天皇の祖孫をして閑院宮家を立てられるよう将軍に建言した。その皇統を維持させた経緯を次のように回想した。
「議し申すべき一事の候は天亨・建武の間、皇統すでに南北にわかれ、南朝はいくほどなくて絶させ給ひぬ。北朝はもとこれ武家のためにたてられ給ひぬれば、武家の代の栄えも衰えをも、ともにせさせ給ふべき御事なるに、応仁の後、世の乱れ打ち続て、武家すでに衰給ひにし上は、朝家のことは申すに及ばず当家(徳川)神祖天下の事をしろしめされしに及びてこそ、朝家(皇室)にも絶たるをも?ぎ、廃れしをも興させ給ふ御事共はあるなれ。しかはあれど儲君(皇太子)の外は、皇子、皇女皆々御出家の事においては、いまもなほおとろへし代のさまに、かは
り給はず。凡そ匹夫匹婦の賤しさも子を産みては其室家あらむ事を思ふ。これ天下古今の情也。(中略)これより後、代々の皇子、皇女、其数多くおはしまさむに至りては天下の富も、つがせ給はぬ所ありぬべしなど申す事も候はんか。古より皇子、皇女、数十人おはしませし代々もすくなかれねど、それらの御後、今に至り給ふは、いくばくもおはしまさず。『天地の間には大算数といふもののある也』と古人は申したりき。これらの事は人の智力の推し測るべき所にあらず。ただ理の当否をこそ論じもうすべけれ」(松村明校注、岩波文庫。138~140p)
新井白石は後継皇統の候補者がたくさんおられた時代ではなく、いずれ後継候補が不在となる危機にそなえ、別に宮家を建てて費用をまかなうべきと建言したのだ。
将軍家宣は白石の建言を受けいれ直仁親王を閑院宮と称し、禄千石を進上した。はたして白石が危惧した通り第113代東山天皇の系統は第118代後桃園天皇で絶えた。
そこで東山の皇子、直人親王の孫にあたる光格天皇が第119代天皇として即位された。光格天皇は閑院宮典仁親王の第六王子。誕生の翌年に聖護院に入寺し将来は出家して聖護院門跡を継ぐ予定だった。
ところが後桃園天皇が崩御し、直系は内親王だけだったため、安永八年(1789)十一月二十五日、践祚された。今上陛下はこの光格天皇の系統である。
ゆえに令和の時代の皇室論議に臣籍降下された旧宮家の復活が急がれる所以である。
白石が冒頭にのべた「建武の間、皇統すでに南北にわかれ、南朝はいくほどなくて絶させ給ひぬ。北朝はもとこれ武家のためにたてられ給ひぬれば」という意味は、建武の中興の後醍醐天皇の南朝が99代の後亀山天皇で世継ぎなく北朝五代の後円融天皇の皇子が、第百代の後小松天皇、101代称光天皇のあと、五代遡って北朝一代の光嚴天皇の祖々孫にあたる後花園天皇となられたことを指している。
皇位が空位となったケースは幾つかあるが、未亡人か独身の内親王が称制(臨時天皇)として正式な後継皇子が成人するのを待った。たとえば持統天皇、皇極・齊明、元正、元明がそうだ。孝謙・称徳天皇の場合は後継淳仁天皇を廃帝とし、次の光仁天皇を指名したとする遺書は藤原百川がでっち上げた。
第二十一代雄略天皇の子、清寧には皇子がおらず三代遡って履中天皇の皇子イチノヘオシハの遺児(顕宗、仁賢)が継いだことはみたが、その間の飯豊天皇は明治三年に皇統譜から削除された。ところが葛城の麓へいくと宮内庁管轄の飯豊天皇陵がある。
その後、第二十五代武烈天皇にも後継皇子は不在で、こんどは五代遡り、応神天皇の五代孫と言われた継体天皇が践祚された。継体天皇は越前からやってきたが二十年間も奈良へ入らず、この謎は解明されていない。
(『月刊日本』から再録です)
8 notes
·
View notes
Text
YさんのAV男優スカウトとOさんのデマ事件
前の会社で起きた変なエピソードをご紹介したいと思います。
就職して間もない新人の頃、私が担当していた地域は、現在担当している中東・北アフリカなどのアラブ圏ではなく、インド・パキスタンが昔から領有権を巡って紛争の火種になっているインド北部のカシミール地方だった。 私はインドへはカシミール地方(主にスリナガルか、ラダック)しか行ったことがないのだが、カシミール地方は、俗に言うインドの有名観光地(デリー、カルカッタ、バラナシ、アグラ、ブッダガヤなど)とは全く異なる雰囲気らしく、インドがイギリス領だった頃のイギリス貴族の別邸があったり、当時、避暑地としての高級リゾート地だった名残を残している。
雪を抱いたヒマラヤの山々と湖が織りなし、三角屋根の可愛らしい家々や、湖に浮かぶボートハウスなどが、雄大な大自然に恵まれたカシミール地方の美しさを引き立てており、治安さえ安定すれば、ここは素晴らしい観光地になるだろうと、訪れる度に思っていた。
カシミール地方を担当していた頃、一緒に取材に行く映像部門のカメラマンに40代半ばのYさんという中間管理職の男性だった。
どちらかと言えば、この会社では、何故か容姿や体格にやたらと恵まれた男性が多い(特に営業部)中、Yさんに至っては、ごく普通の風貌だった。 身長も恐らく、175cmぐらい(当時の40代半ばの175cmだと世間一般では、高いのかもしれないが、大学&大学院で所属していた研究室と、前の職場の男性は異様に背が高い人が多く、仲良くしている男性社員は全員180㎝台後半だったし、私の親兄弟&親戚&夫&夫の親戚も皆異様に背が高く、明治生まれの祖父でさえ、185cmという背の高い家系なので、男性で175cmだと低いと思ってしまう💦)の瘦せ型で、特にイケメンという訳でもなく、ごくごく普通のオジサンという印象だった。
重い機材を持ち運ぶカメラマンらしく、Yさんの浅黒く日焼けした身体は引き締まっており、白髪も無いフサ��サとした黒髪は豊かで、弛みの無いシャープな顎は実年齢よりもYさんを10歳ぐらい若く見せており…と誉め言葉を連ねたいのだが、中年男性特有の(?)顔のテカりを営業部の次長のOさん(ハリウッドスターのロバート・レッドフォードさん似の高身長痩身の男前で、海外ハイブランドのスーツを格好良く着こなし、営業成績も良く、見た目だけは、モデルや俳優のような完璧な容姿。だが、性格と言動はかなり問題アリな人)にからかわれ、Oさんからは『てっかりん』と呼ばれていた。
Yさんは、奥様と二人の娘さんがいる、ごく普通の妻子持ちのサラリーマンである。 ちなみに、娘さん二人は、Yさんには全く似ておらず、奥様に似た美人姉妹で日本最高峰の国立大学に公立高校から予備校にも通わずに、通信教育だけで現役で合格した超秀才の、非の打ち所がない才色兼備の美人姉妹である。
だから、心無いOさんは、『Yさんの娘さんは二人共、奥様と間男との不義の子だ』なんて酷い噂を流していた。だが、Yさんはおおらかで、寛大な方だったので、Oさんの悪意も笑って受け流してしている、非常によくできた人間だった(多分、私がYさんだったら、そんな噂を流されたものなら、OさんやOさんの上司のTさんにブチ切れたあげく、人事部の部長に報告し、名誉毀損で損害賠償を請求すると思う)。
そんな、お人好しのYさんが、ある休日に、彼の趣味であるパラグライダーの用品を買おうと渋谷を歩いていたら、スカウトされたらしい。 何にスカウトされたかというと、なんとAV男優へのスカウトだったらしい。 Yさんは、その場で断ったらしいが、1出演あたり、50万円のギャラを支払うから、どうか、撮影現場だけでも来て欲しいとスカウトしてきた人に懇願されたらしいが、YさんはAVなんかには絶対出演したくなかったし、そもそも自分はカメラマンで、撮影する側であり、撮影される側ではないと、断ったらしい。スカウトの人は残念そうに、名刺だけYさんに渡して、気が変ったら、是非連絡をくださいと言い残して、残念そうに去っていったらしい。
Yさんは、帰宅してから奥様に渋谷でAV男優にスカウトされた事を話したらしい。 すると奥様は「よかったじゃない。AV男優にスカウトされるなんて、あなたは、40代だけれど、まだまだ男性として魅力があるってことよ。でも、まあ普通、AVの出演は断るわよね」と言ったそうだ。
すっかり気を良くしたYさんは、次の出社日にスカウトされたときにもらったAV制作会社の名刺を持って、意気揚々として、『渋谷を歩いていたら、一回あたりの出演ギャラ50万円のAV男優にスカウトされた』と誇らしげに語っていた。 YさんがAV男優にスカウトされた話は、お喋りや噂好きのOさんの耳にも届き、会社中どころか、関連会社、子会社の社員までが知る事となってしまった。
YさんのAV男優スカウトの話題が社内で落ち着いた頃、私はセミナーで自分と同じくカシミール地方の紛争取材を担当している同業種の他社で働いている知人記者とバッタリ会った。 その知人記者とお昼休憩で、一緒にランチをしていると、こんな会話になってしまった。
「みずほさんの会社にYさんっていうカメラマンの方がいらっしゃいますよね?」 「ええ、いますよ。私とペアを組んでいるカシミール担当のカメラマンです」 「あのYさんって凄いですよね~。カリスマAV男優の●●さんと共同出演してゲイAV界で華々しくデビューして初版のDVD発売数は500万部って聞きましたよ~」
私は思わず、飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。 なぜ、そんな噂が流れているのか?! カリスマAV男優の●●さんは、確かにカリスマAV男優だけれども、ゲイAVに出演するなんて聞いたこと無いぞ?しかも、その相手がYさんだなんて、一体何処からそんな情報が出たの?? 私は心の中で何度も疑問を反芻していた。
「…!!!えっ?それ、完全にデマですよ?Yは確かに、AV男優にスカウトされましたけど、スカウトされたその場でAVの出演を断りましたけど?しかも、ゲイAV男優じゃなくて、普通のAV男優として、スカウトされただけですけど?」 「えっ?だって、御社の営業部のOさんが、ウチの△△部長にそう言ってましたよ」 「いえいえ、その話は、真実に尾鰭が付いたデマです。YはAV男優にスカウトされただけですし、その場で断ってますし。真実と異なるいい加減な情報をOが流してしまい、本当に申し訳ございません。どうか、△△部長殿にも、デマだとお伝えいただけますか?」 「Yさんと一緒に仕事をされているみずほさんが、そう仰るなのなら、それが事実なんですね、分かりました、伝えておきます。」
このとき、私は口から心臓が飛び出るかと思うほどビックリしたし、顔から火が出るほど恥ずかしかった。 なぜ、Oさんは、いつもいつも真実ではなく、余計な尾鰭、背鰭、胸鰭、尻鰭まで付けてデマを流すのか。 しかし、よくこんなぶっ飛んだデマを思い付くモノだなってOさんの発想力に感服すると共に、冷静になればなる程、Oさんに対する不信感が募ってきた。 百歩千歩譲って社内や関連会社の人間だけならまだよしとしても(本当は全然よくないが)、全く違う会社の人に、こんなデマを伝えるなんて、この業態に身を置く人間として許されないのではないか?という怒りがこみ上げ、午後からのセミナーは殆ど身に入らならかった。
その日は直帰していい事になっていたが、私はセミナーが終わるなり、会社へと急いだ。 自分の部署の扉を開けるなり、私は大声で
「Mさん!!Oさんのせいで、大変な事になりかけてましたよ!!」
と叫んだ。 てっきり、私が直帰するとばかり思っていた上司で部門長のMさんは私が物凄い剣幕でまくし立てたので、ビックリして飛び上がりそうになっていた。
Mさんは、取り合えず、私に落ち着く様にと言い、何が起こったのか順を追って説明してくれと言った。 私は知人記者から聞いた「YさんAV男優スカウト事件」について、Oさんがトンデモナイ尾鰭、背鰭、胸鰭、尻鰭まで付けて、社外の人に真実と異なる事を喋っていた事を伝えた。 そして、これは職務上、聞き洩らしや言い間違いなどの齟齬を防ぐための、私のいつもの習慣なのだが、ボイスレコーダーを再生し、知人記者との会話をMさんに聞かせてみせた。
Mさんは、Oさんが盛った話があまりにコミカルでぶっ飛んでいたので、最初はお腹を押さえて大笑いしていたが、一通り笑った後、「イカン、イカン、笑い事じゃなかったな。営業部と人事部に報告に行こう」と言い、私を同行させた。
この業界は色々な人間や組織を相手に取材を行い、取材から得た情報を提供する事が仕事である。 だから、提供する情報は真実と異なる物であっては絶対にならない。 勿論、知っている情報から憶測でモノを言うこともご法度である。 これは、新入社員の時に厳しく言い聞かされた事であり、私のように執筆に携わる者だけでなく、間接部門や管理部門でも周知徹底している当然の鉄則である。 ましてや、社外の人との交流が多い、営業部の、部門長のTさんの次に偉い人間であるOさんがデマを話すなんて言語道断である。
幸い、Oさんが話した内容は、相手方企業の方があまり興味を持たなかったので、事無きで済んだ。 しかし、Oさんが盛った話の中で、Yさんの相手役になっていた●●さんというAV男優は、AV界では、カリスマAV男優として名を馳せている(特定の分野に限ってではあるが、ある意味)著名人である。 もしも、Oさんがデマを話した相手方企業が、Oさんの話に興味を抱き、カリスマAV男優の●●さんへ取材を申し込んでいたりしたら、当社は信頼を失墜する恐れすらあったのだ。
この事は人事部長の逆鱗に触れ、Oさんは1週間の出勤停止処分となり、Oさんの上司のTさんも部下の監督不行き届きで厳重注意処分となった。
人事部長と営業部の部門長のTさんには、よく炎や火事になる前に煙の状態で火消ししてくれたと感謝されたが、当然ながら、Oさんには恨まれた。私はこのAV男優スカウト事件以来、Oさんにしょっちゅう落とし穴を掘られたり、地雷や罠を仕掛けられるようになり、Oさんとの長い戦いの始まりであった。
だが、滅茶苦茶酷い噂を流されても、「まぁまぁ、Oさんは面白い話をしたかっただけだと思うし、よくそこまでぶっ飛んだ噂に飛躍できるなって、ある意味Oさんも盛った話は笑いのネタとしてはもってこいだから、僕は気にしてないよ」と、笑いながらOさんを許したYさんは、本当に寛大な人間だと思う。 私もYさんの寛大さとおおらかさを見習わなければならないと思った瞬間だった。
残念��がら、私は2年後にカシミール地方の担当を外れ、アラブ圏(主に中東・北アフリカ)担当になったので、Yさんと一緒に仕事をしたのは2年間だけだった。
中東・北アフリカ担当になり、カシミール担当時代よりも、遥かに過酷な現実や心が折れそうになる悲惨な世界や事柄を沢山目の当たりにした。だが、挫けそうになる度に、私はYさんの事を思い出した。 まだ、右も左も分からない新人の頃に、Y��んからは、この業界に身を置く者としてのイロハを沢山教えて頂いた。
Yさんから教えて頂いた沢山の事は、今でも私の心の支えである。
19 notes
·
View notes
Text
過日、年下の恋人ができた。相手は偶然静岡から出張で東京に来ていた客で、仕事は楽器メーカーの営業と言っていた。自分を見た瞬間、撃ち抜かれたように腰を抜かし、どうしても付き合いたいと懇願されたので折れた。折れた、と言うのは告白が嫌だったわけではなく、むしろ自分の癖に刺さる容姿と性格だったから、かえって自分では不相応に思い疑心暗鬼的になっていたからだ。歴代の恋人(最後に交際していたのは5年前まで遡るけれど)皆優しかったが、どこかが抜けていたし、皆年上だったのも相俟って「困るぐらい」愛してはくれなかったと思う。長年好意を抱き、Tumblrに思いの丈を綴り続けていた男も、結局隣人愛でさえ手渡してくれなかった。その意味で彼と初めて会った時に彼が「好きすぎてどうしよう」と頭を抱えていたのは深く印象に残ったし、最後は直感的に遠距離恋愛でも楽しめそうだと思ってしまった。年齢差も気にしたが、相手は元々年上好きらしく杞憂だった。まだその一度しか会っていないけれど、おそらく自分より寛大で、振る舞いの節々に男性的(けれども手で掬えるほど純粋な)社会人意識が垣間見えると思う。容姿だけが理由なら早々に夢から醒めていたと思うが、仕事柄、また趣味でバンドをやっていて世代には見合わない渋い音楽趣味をしていて、こちらとの共通言語があることが発覚し(LINEのBGMがザ・ポリスだった)翌日も翌々日も醒めるわけがないと言っていた。LINEの返信が異常に遅い点だけネックで不安にならないと言えば嘘になるが、自分が比較的早いことと(通知マークを残すのが苦痛)、相手にパーソナルな行動の軌道修正を要求することは自分の中での理に反するので(男女差あるいは世代差もあると思う)直截的には現段階では言わず、こちらが謙る形で忙しい中何度も連絡してごめんね、と意識させるような声掛けをしている。真偽はわからないが、単純に仕事が多忙でスマホを放り投げる癖があるらしい。遠距離となると殊更気が気でない部分もあるけれど、この辺は多分、許容範囲の中で折り合いつけていくしかないのだと思う。
月に一度は会いたいということで、昨夜は二度目の通話の中で静岡のどこへ行くかを勘案し、ベタにアウトレットでしょうということ��。日程は追って。友人に「客が恋人になった」という報告をしたら、仮面ライダーみたいな名前の彼氏だね笑と冗談めかしてリアクションしてくれたよという話を伝えると、向こうも編集者の彼女ができたと彼の友人らに伝えたらしい。周りに隠して交際を続けるカップルは多いけれど、認知をもらえて初めて恋人ができたことを自覚する瞬間が嬉しいので、親友数人には伝える判断を選んだ。昨夜は正直クラフトビールを煽っていた帰りであまり覚えていないが、彼とは会話の波長が合い、自分の癖である小ネタ的な冗談を流さずキャッチして返すところに尚更惹かれた。見かけによらず私はおっとりした会話が苦手なのだ。それを聞いてお互い良いプレーだねと電話越しに伝える彼の誇らしさ。私のあらゆるスペックを聞かせると、「あなたの現段階でのステータスなだけであって、自分が惹かれた編集者以外のマイナスな要素は今のあなたにとってただのおまけでしょう?」と言ってくれたところも。遠距離も歳下も経験がなく未知数だが、それまでに続けば夏には沼津の花火大会へ浴衣で。一時間の通話の後に眠って、朝目が覚めると父から「兄が来年結婚する」と連絡を受けた。聞くとマッチングアプリ婚らしい。奇しくも三兄弟の内二人のタイミングが揃ってしまい変な感覚。兄のビッグニュースには及ばないが、母に恋人ができたと伝えると可愛らしく喜んでいた。私はセルフラブができる人間なのでこのまま一人身でも良かったのだが、どうやら純粋に愛されたかったらしい。今週はいよいよイギリスへ行くし、20代後半も歩く速度は変わらない。
22 notes
·
View notes
Quote
Teen Vogueがインタビューしたクレアさん(仮名)の本名を検索すると、数百万人のチャンネル登録者数と10億回超の総再生数を誇るYouTubeチャンネルがヒットするとのこと。このチャンネルにはクレアさんの幼少期からティーンエイジャーになるまでを撮影した数百本の動画が投稿されており、InstagramなどのSNSでは人々がクレアさんについてコメントしているほか、公の場でもファンから話しかけられたり写真撮影を求められたりすることがあるそうです。 しかし、当然ながら幼少期のクレアさんが動画投稿を始めたわけではなく、動画投稿をしているのはクレアさんの両親です。Z世代の若者にとって、親によって自身の日常写真や動画がインターネットに投稿されているのは珍しいことではなく、クレアさんのように本人の同意なしでコンテンツとして収益化されてしまうことすらあります。 クレアさんは幼児の頃にインターネットで人気となり、家族は仕事を辞めてYouTubeの動画収益によって生計を立てるようになったとのこと。クレアさんはかつて両親に「もうYouTube動画に出たくない」と伝えたものの、そうすれば両親は普通の仕事に復帰しなければならず、裕福な生活もできなくなってしまうと反対されてしまったそうです。Teen Vogueの取材に対し、クレアさんは「私が家族全員を養わなければならないのは不公平です。私は怒らないようにしていますが、本当は怒っています」と述べています。 プライベートな関係であるはずの親が仕事の上司でもあるという状況は、クレアさんにとって大きなプレッシャーになっているとのことで、18歳になったら家を出て両親との関係を絶つことを考えているそうです。もし両親と別居することができれば、クレアさんは本名で「YouTubeチャンネルのスターになること」の問題について公の場で話したいと思っています。 クレアさんは、親のせいでソーシャルメ��ィアのスターとなったことが子ども時代にどのような陰を落としたのかを、両親や他の人々に知ってもらいたいとのこと。「両親が今更何をやったところで、私が仕事をやらなければならなかった年月を取り戻すことはできません」とクレアさんは述べました。 また、クレアさんの両親は大学進学のための費用を貯金していると言っていますが、正確な金額をクレアさんが知ることはできません。アメリカのカリフォルニア州には、子役が稼いだ収入の15%以上を子どもに残すことを義務づけたクーガン法という法律がありますが、「インフルエンサーの子どもの収入」を保護するための法整備は遅れており、2023年にようやくワシントン州でインフルエンサーの子どもの収入を保護する法律の議論が始まったところです。 一方、一部のインフルエンサーは子どもを苦しませないために行動を変えています。TikTokで360万人以上のフォロワーを抱えるBobbi Althoff氏とその夫は、2人の娘を動画に写さないだけでなく、「Richard(リチャード)」「Concrete(コンクリート)」と呼んで本名がわからないようにしています。 実は、Althoff氏らは長女が2歳になるまでは本名や生年月日、名前、顔などをコンテンツ内に登場させていました。しかし、2022年になって「長女が生後6カ月で話し始めた天才だ」というネタ動画を投稿したところ、長女に対する誹謗(ひぼう)中傷のコメントが書き込まれるようになってしまったことで考えを改めたとのこと。 Althoff氏は、「私はインターネットに身を置く大人ですが、それでも自分自身に対する悪意のあるコメントを読むのはつらいです」と述べ、長女に対しても悪意のあるコメントが書き込まれることに耐えられなくなったと説明しています。Althoff氏はその日のうちに長女が写っているすべての投稿やコンテンツを削除し、その後は娘たちを動画に写さないようになりました。「リチャードはいつまでも私の小さな娘であるわけではありません。彼女はいつか大人になります」「彼女には自分の物語を��由に描けるようにしてあげたいのです。私は人々を楽しませることを仕事にすると決めましたが、それは子どもの仕事ではなく、子どもたちの仕事にしたいわけでもありません」とAlthoff氏は述べました。 また、投稿するコンテンツに子どもたちを載せないことは、Althoff氏が「子どもたちの母親であること」以外のアイデンティティを見つけるのに役立ったとのこと。Teen Vogueは、20代の親にとって自分たちの写真や動画をインターネットに投稿するのは自然なことであり、子どもが写ったコンテンツもインターネットに投稿しがちであるものの、成長するに従って考えを変えることもあると述べています。 近年ではAlthoff氏以外にも、子どもの顔を出さないインフルエンサーが増えています。TikTokで「Violet(バイオレット)」「Scout(スカウト)」という双子の娘が写った動画を投稿し、850万人以上のフォロワーを獲得したMaia Knight氏は、2022年12月から子どもたちの顔を絵文字や手で隠すようになりました。この決定に対するユーザーの反応は��否両論ありますが、Knight氏はTikTokへの投稿で「今の彼女たちは幼児であり、私はもう彼女たちを見せないことに決めました」「この選択は娘たちを守るためです」と説明しています。 また、TikTokで270万人のフォロワーを抱えるLaura Fritz氏は、約2年にわたり継続してきたTikTokへの投稿を終了すると発表しました。Fritz氏はInstagramへの投稿で、「これで私たちのTikTokアカウントは終了です。約2年間にわたり私たちの生活の大きな部分を占めていたので、手放すのは困難ですが、これが私たち家族にとってベストなことです。子どもたちには、ソーシャルメディアのプレッシャーにさらされることなく、普通の生活を送ってほしいと思っています」と述べました。 近年では、オンラインで子どもの写真や動画を共有することに警鐘を鳴らすインフルエンサーも増えています。TikTokで16万人のフォロワーを抱えるsoftscorpio氏は12歳だった頃、1万人のフォロワーを持つ母親のFacebookアカウントで個人情報を投稿されてしまい、知らない男性から「友達と自転車で走っているのを見た」というメッセージを受け取ったことがあるとのこと。この経験で不安を覚えたsoftscorpio氏は、母親に自分のことを何も話したくなくなってしまったそうです。 2023年にワシントン州議会に提出された法案には、インフルエンサーの子どもに「自分の写真や名前を永久的に削除することを要求する権利」を与えることが含まれています。動画で議員らに向けて呼びかけたsoftscorpio氏は、「この世代の子どもたちの声に耳を傾けるよう、あなたたちに懇願します。なぜなら私は、自分が作ったわけでもないデジタルの足跡が一生付いて回るという選択肢がどんなことか、身をもって知っているからです」と述べました。 また、普段はコメディ系の動画を投稿しているインフルエンサーのcaroline_easom氏は、匿名で自分のもとに届いた「家族系Vロガーの子どもの手紙」を読み上げています。手紙の中で子どもは、「家族Vログを始めたり、公共のインターネットで子どもたちの生活を収益化したりしようと考えている親には、ここに私のアドバイスがあります。やらないでください」「あなたが得たお金は、長年に苦しみによって覆い隠されるでしょう。あなたの子どもは決して普通になれません。私はネット上に存在することに同意したわけではないのです」と述べました。
インフルエンサーの親によって自分の生活が「コンテンツ化」されてしまった子どもの苦しみとは? - GIGAZINE
16 notes
·
View notes
Text
考えてみる、サバイバル
今年は元日に突然携帯の地震を知らせるアラームが鳴り出し、ギョッとなった。まもなく、能登で大きな地震があったことを知った。本当にいつどこで地震に遭うのかわからない今日この頃だ。日頃の備えが大事というが、どんな備えをすればいいのだろうか。どうすれば、自分や家族や周りの人の命や財産を守れるのだろうか。
「サバイバルファミリー」という映画を観た。どういう話かというと、主人公は東京のマンションに住む、中年の夫婦と高校生の息子と娘の一家。お父さんは平凡なサラリーマンで、会社から帰れば、晩酌しながらテレビをみている。息子と娘は親に関心がなく、勝手なものを食べている。お母��んはひとり台所で、実家の鹿児島から送られてきた大きな丸一匹の魚を捌こうと格闘しているけれど、誰も手伝わないし、食べたがらない。
そんなある日朝、突然電気という電気がみな停まってしまう。電気ばかりでなく、乾電池や車のバッテリーも全く働らかなくなる。お父さんと子どもたちは、文句を言いながらとりあえず会社や学校に向かう。自分のマンションだけでなく、かなり広範囲に停電していることがわかってくる。スマホで検索しようと思っても、画面には何も映らない。お母さんがスーパーに行くと、みな買い出しに来ているが、レジが動かずそろばんで計算するので、長蛇の列となる。
三日ぐらいは、ロウソクとカセットコンロとレトルト食品で凌いでいるが、水道からの水も出なくなり、会社や学校も休みとなり、多くの人がだんだんと東京脱出を始める。大勢の人が家族を伴って、ガラガラとスーツケースを引いていく。この一家はお父さんがうまく調達したおかげで、一人一台自転車がある。途中の商店では、ペットボトルの水が一本2500円の高値で売りに出されている。この家族も高値承知でありったけを買い占め、旅を始める。お母さんの実家の鹿児島を目指して。途中のお米屋さんでは、水や食べ物を持って行くと、お米一合と交換してくれる。そこにロレックスや高級車の鍵を持って交換に来る人物が現れるが、「そんなもの食えるかい! 」と突き返される。
「大阪から先の関西では電気が来ているらしい」という噂が飛び交い、今や車の走らない東名高速道路を大勢の人が歩いたり、自転車だったり、中には荷車を引く人も、西に向かう。途中のサービスエリアで野宿。寒い季節ではないのが、まだよかった。寝ている間に、水を一本盗まれて、息子がすぐに追いかけるのだが、盗んだ家族には赤ちゃんがいて、取り返すのをやめる。
脱出から16日目高速道路を降りて、川で洗濯をする。水が一見きれいだからと飲んだお父さんが下痢をする。強風に煽られて転倒し、自転車やお母さんのメガネが壊れる。次に通りかかったちょっと大きい街の無人のホームセンターを覗くと、食べ物はとうに無いが、キャットフード、精製水( コンタクトレンズに使うもの? )、自転車の修理材料などを手に入れる。火おこししようとしたもできないお父さんを横目で見つつ、おいしくないキャットフードを食べる。
さらに高速道路を走り続ける。長いトンネルの入り口で報酬と引き換えに、トンネルの案内を買って出る盲目のお婆さんたち。無視してトンネルに入るも、真っ暗な中、停まっている車や障害物に阻まれて進めなくなり、盲目のお婆さんに手引きしてもらう。
次はいやに元気��家族と遭遇する。彼らは日頃サイクリングしながらキャンプをしているらしく、装備も揃っていて、みなで楽しそうに食事をしている。「食料や水はどうしているんですか」と尋ねると、山の中の岩場の間から湧き出ている水は、周りに苔が生えていればそれは安全な証拠なのでそういう水を汲んだり、地面から直に生えているオオバコのような植物は食べられますよ、セミなどもおいしいですよ、と教えてくれる。
43日目、やっと大阪に到着。電気は来ていない。通天閣のタワーの入り口には、たくさんのメモ紙が貼ってある。「岡山のおじさんのところに行く。◯◯」などの伝言が。娘がブチ切れて「もう嫌だ! お父さんが大阪に来ればなんとかなるって言ったよね?」「そんなこと俺いったか? 」「ほら、そうやってまたいつもの責任のがれ」「親に向かってなんだ、その口の聞き方は! 」すると息子が「親らしいことしてくれたことあったかよ! 」今度はお母さんが、「いい加減にして! そんなこととっくにわかっているじゃないの、お父さんがそういう人だってこと」ここでお父さんはがっくりとなってしゃがみ込んでしまう。水族館の前で、飼っている魚を調理した炊き出しの列に並ぶも、自分たちの前で終わってしまった。お父さんは調理していた人に、土下座をして「せめてこの子たちだけにでも何か食べ物を」と懇願するが、「無いものは無い」と断られる。
67日目、食料も水も無くなり、岡山あたりの田舎道をとぼとぼ歩いている。と、一頭の豚が目の前を通り過ぎていく。えっ、となり夢中で追いかける。四人でやっと捕まえてみたものの、どうやってとどめを刺すのと手間取っているところ、後ろから「うちの豚に何をする! 」とお爺さんの怒鳴り声。お爺さんのうちの電気柵が働かなくなり、豚たちが逃げ出したのだった。お爺さんが、持っていたナイフで手早くとどめを刺し、豚を運ぶのを手伝い、そのお爺さんの家に。庭先の井戸水を汲ませてもらい、ごくごく飲む。久しぶりの白いご飯に、卵や野菜のおかずに豚肉の燻製。近所のお婆さんがキャベツや大根を届けてくれる。「あれまあ、お客さん? お孫さんたちが帰っているのかと思った」お爺さんの家族はアメリカにいて、連絡もつかないのだ。
ご飯の後は、さっきの豚の解体を手伝う。バラバラにした肉に塩をすり込む。一週間ほど熟成させてから燻製にするのだそうだ。逃げた他の豚も、みんなで追いかけ回して捕まえる。井戸水をバケツで汲んでは、お風呂に運び薪でお風呂を沸かす。何十日ぶりのお風呂に入り、夜はお孫さんたちが着る予定だった新しい寝巻きを貸してもらい、これまた久しぶりの布団に横になる。
毎日薪割りしたり、洗濯をしたり、お爺さんの手伝いをして過ごす。一週間後、豚肉を燻製にしながらお爺さんが語る。「お前さんたちさえよければ、ここにずーっと住んでもいいんじゃぞ。わしも年取って、一人で車も洗濯機も使えない生活では大変でなぁ・・」と誘われるが、この一家は鹿児島にいるお母さんの実��のお父さんの安否も気になっていて、結局お爺さんの申し出を断り、たくさんの食料をもらって、また自転車の旅を続ける。
そのあともいろいろあって、命の危険にも晒されて、奇跡的に誰かが動かしてくれたSLに拾われて、ようやく108日目に鹿児島のお祖父ちゃんの家にたどり着く。お祖父ちゃんは元気だった! お祖父ちゃんは浜で魚釣りをしていた。それからは村人同士助け合って、魚を捕りに行ったり、畑をしたり、鶏の世話をしたり、お婆さんに機織りを教えてもらったりして、みんなで元気に楽しく一生懸命に暮らし始める。
それから、2年と126日目の朝、突然村のスピーカーから埴生の宿のメロディーが流れてくる。みんなが驚いて家を出てみると、街灯が次々と点き始めた。すっかり忘れていた電気が戻ってきたのだ。そして場面は変わって、東京の一家のマンション。日常を取り戻し、以前の生活に戻る。テレビからは、「世界同時停電の原因は、太陽フレアか彗星の異常接近ではないかと、専門家からは語っている。サイバーテロの疑いはなくなったとのことです・・」停電前はそれぞれ勝手に心もばらばらに生きていた家族だったのが、思いやりのある温かい家族になっていた。
とまあ、そういう話であったが、いろいろといいヒントがあった。非常時にはアナログが強いこと。キャンプ生活などに慣れておくこと。北杜市に住んでいて、地震などで自分の家が壊れていない限りは、ここにいた方が湧き水もそばにあるし、薪や焚き木を燃やして暖を取ったり煮炊きすることもできる。むしろここは、首都圏からの避難地域となるだろう。今できることといったら、いつでも人を迎えられるように、家の中を整えておくこと、食料や薪を備蓄しておくこと?
もうひとつ気になるのが、「年長者としての知恵」のようなもの。年長者はパソコンやスマホに弱く、操作方法などは若者に訊かないとわからないことばかり。でももしパソコンやスマホが一切使えない世の中になった時に、どこまで年長者がサバイバルの知恵を出せるだろうか。本当に長く生きた分だけいい知恵があればいいけど。
さっきの映画の話では、最初はばらばらだった家族の気持ちもだんだんとひとつになり、お互いにかけがいのない家族として心が結ばれる。停電が終わり東京に戻るのだけど、本当に戻る必要はあったのかなぁ。鹿児島にいた二年半は、みなで漁をしたり、畑をしたり、はた織りしたりして、お金も介在せずに生きていたわけだ。これからこの地震や災害の多い日本で生き抜くには、都会を出て地方でコミュニティを作って、いろんな年齢の人が、各々出せる力を合わせて生きていく以外の得策は無いのではないかしら。
2024年1月
映画「サバイバルファミリー」は、2017年2月に公開された。監督 矢口史靖。
主演 小日向文世、深津絵里、泉澤祐希、葵わかな
2 notes
·
View notes
Text
Seriously you guys really our best rock band in this generation..!!
Last night gig just proved it..
Totally mind blowingggg
It was beyond my imaginationnnn😇
youtube
Massive well done board saaaaaan🎸
Judeさん..最高の瞬間の映像シェアしてくれてありがとう🤝(毎日見てます☺️BOARDさんが歌ってる時のGrianのうれしそうな顔といったら!
そしてこんな素晴らしい記事にまとめて下さったライターさん🇬🇧ありがとう🤝
本当に記念すべき忘れられない初来日ライブになった🇮🇪🇯🇵2月18日毎年お祝いしたいくらいだ☺️
BOARDさんのほんまもんのガチのパーフェクトギターリフに「お主、、やるわね、、」って二度見、三度見してるConarさんがツボです
BOARDさんのギターでサウンドの厚みが更に増し増しになって本当にスペシャルな熱い瞬間だった
こんなライブ体験初めてかも..
本当に幸せだ
ライブ会場ではわたしの大好きなLobsterご一行も来ていらした!
ポストパンクバンドが愛してやまないバンドFontaines D.C.
わたしの大好きなバンドが大好きなバンドFontaines D.C.
かっこいいバンドはみんな夢中になってしまうよね🤝
音楽愛が循環している🤝❤️🔥(私から見た世界線笑
好きなバンドと好きなバンドが共通してるというのもすごくうれしーくなる
ライブに遊びにきているだけなのにかっこよかった🦞みんなファッションがこれまたキマってた😎😎😎😎😎(絵になってるからすぐ発見されちゃう私に笑🦞
Lobsterメンバーもみんなホクホクいい笑顔していた☺️会場のみんな全員ホクホク高揚していた!わたしも風呂上がりみたいになってた☺️
オーラとてつもなくハンパなかったFontaines d.c.
GUCCIを纏ってもpepsi teeを纏っても圧倒的オーラを放つGrian😳
(お写真ネットからいただいてしまった☺️
寧ろpepsi tee+ボトムレイヤードはかなりの上級者スタイル..
なんであんなかっこいいんか
これを日本滞在4日目まで着倒していた(かっこよすぎる
たくさんの素晴らしい出来事を総合して本当に祭りだ祭りだ気分満載
うつつを抜かすとまた色々な事件が(ぇ 起きるから落ち着きを取り戻さないといけないと思いつつも浮かれてしまう。とてつもなくかっこいいライブを見た後ってなんでこんなにも無敵な気持ちになってしまうのでしょう
本当にありがとう😊
「Grian! !曲の美しさとかっこよさは言うまでもないよ、もちろん、、」
と話した時サングラス越しで表情はわからなかったけどフリフリと首を横に振っていた
知的でクレバーな方だと文学的な歌詞を読んでよくわかっていたけれど
かっこよくて親切で思慮深くクレバーで詩人でそれでいて、謙虚で、、でもしっかりとした自分の信念と考えを持っていて地に足がついている(止まりません👀
(すごく素敵な記事を発見してしまった
「曲が美しいのは言うまでもないけれども、歌詞もまたすごくいい!」って話した時にニコっとして頷いてくれた
このサイン会はサイン会じゃなかった
ほぼほぼ懇親会
一人ひとり、ファンの気の済むまでかなりかなり時間をかけて対応してくれていた
お尻が決まってる流れ作業じゃなかった
や、流れ作業が通常運転ですよ
スタッフ〜も全く急かさない..どーゆーこと
わたしとその場で知り合った方と3人で前でずーっとその様子をご機嫌さんで見守っていた笑
(見てるだけで楽しいんだもの笑 満足して本題忘れて帰りそうになるくらい笑
そしてフロアではFontaines D.C.の曲を爆音でかけているし😎目の前には���ンバーがいるし
目を細めたらそこはライブ空間ですYO
擬似ライブ体験ですYO
本当に楽しくて、、そしてそしてこの曲流れたらもう跳ねずにはいられないから跳ねちゃった
「Sha Sha Sha♪」って歌ったらメンバーニコニコしていた😎(やってんな〜
かれこれ1時間半以上のハートフルな心暖まるサイン会という名の懇親会だった😎😎😎😎(もうこんな事絶対ない..Conar(Ba)はおなかが空いたのかコンビニのサンドイッチを途中モグモグしていた..(堪忍やで
ビデオです♪
ビデオなんかーーーい!Oh..my..god..
世界でやってる!このネタを..(万国共通だ☺️
ネタのつもりはなくてただただ写真撮るのが下手なので動画にしてるのだけど はは。
大大大好きなRoman Holidayのギターイントロ
わたしはこのギターの音にメロメロになっていて
そしてしっかりライブでキャッチ⚾️できた!
しっかりしっかりガン見した👀(モッシュに揉まれながら海老反りになりながらウットリしていた笑人生であれほど海老反ったことない!
番号悪かった割に前に流れついていたわたし☺️
そしてなんとそのわたしの大好きな甘ーーーい艶々なセクシーフレーズを奏でたConarさん(Gt.)のギターのピックをいただけた🙏
(最近、すごくうれしいハプニングが沢山
年末から2月にかけて本当に忙しくて大変で全くもってライブ楽しめる余裕あるのかな..なんて思っていた。こんなにも胸を動かされて高鳴って感動するライブを味わえるとは思っていなかった。や、思ってはいたけれど、とにかく想像と期待をはるかに超えていた
我々も彼らをリスペクトして思い切り楽しんだから相乗効果もあったのかな(Yay❤️🔥
この胸の高まり今も続いてる..😇
楽しめただけでも充分すぎるほどなのに😭
こんなにも素敵な時間を過ごせて幸せ
がんばったご褒美🎅なのかな(やったね!
1 note
·
View note
Quote
はじめに 本記事の内容は数年前の状況で、現在は修繕されている可能性があります。 また、入社希望者を止めたり、Cygamesの各ゲームタイトルへのイメージを下げる目的はございません。 Cygamesは企業イメージを落とさないよう社員による内部情報の漏洩やSNS投稿等にかなり厳しく網を張っています。 特定されたらどうなるのかが怖くて、離職から数年間は何もせずただCygamesのCMを目にする度に軽いPTSDを発症していました。 現在、労働中に患った軽度な精神疾患が元となり精神障害へと発展した為、本記事を書こうと決めました。 最初の部署でのセクハラ行為 私は開発エンジニアとして所属しました。 まず初めに所属した部署で、上長からセクハラ行為を受けました。 懇親会で使うお店の下見をしたいと言って2人きりで飲食させられました。 →その時私は所属から1週間程度だった為、断ることが出来ませんでした。 その後も飲み会に誘われると何故か2人きりだったり、その場で「つい最近まで私と同じ年頃の女性と不倫していた」という話をされました。 泥酔した上長から「俺、お前の事が可愛くて堪らないんだよ」と言われました。 年末年始休暇中にプライベートな内容のLINEを送られました。 →部署内のLINEグループがある��のことで所属して直ぐにLINEを登録していました。 飲み会の翌日朝、私の個人LINEに「昨日は楽しかったね。飲みすぎちゃったから、今日はサボっちゃうね」と送られ、その後送信取消をされました。 色々な飲み会に誘われ、中には下ネタばかり話している会もありました。 これらを人事に相談したところ、私が別の部署へ異動となりました。 他部署のマネージャーからのセクハラとパワハラ行為 開発スケジュールの相談をしに行った際、「私の部署の上長と話がついてるから」と言い、取り合ってくれませんでした。 私の呼び掛けを無視し、会議で私がまるで居ないように会話していました。 高圧的な態度を何度も取られ、私が耐えきれずその場で泣いてしまうこともありました。 懇親会の後、空がまだ明るかったので、「ラブホ行って朝帰りしたみたいだな」と私の方を見ながら発言しました。 これらを人事に相談したところ、この方は降格処分となりました。 →私の他にも複数人から訴えがあったようです。 異動後の部署でのパワハラとモラハラ行為 全体朝礼の場で、PMが、特定の個人が過去に起こした過ちを何度もネタにして馬鹿にしていました。 リリースされた箇所に実装ミスが発覚した際、PMがエンジニアリーダーに対して「原因が分かるまで帰るな」と命令し、リーダーを含め複数人が徹夜をしていました。 翌朝出社した際、まだ原因が解明出来ておらず、疲弊しきったリーダーが謝罪していました。 リリースされた箇所に実装ミスが発覚した際、PMがエンジニアリーダーに対して「誰が実装したんだよ?そいつがこのバグのせいで損失した金を払ってくれるんだろうな?」とエンジニア全員に聞こえるほどの大声で叱責していました。 →私はこの時の怒声を今でも鮮明に覚えており、若干のトラウマとなっています。自身がリリースする際にかなりのストレスを感じていました。 エンジニアリーダーはその後体調不良で遅刻や欠席をされることが多くなりました。 労働時間外の深夜や休日でも、不具合が発生した場合すぐに修正しないといけない為、夜眠ることが怖くなったり、休日も落ち着いて心を休めることが出来ませんでした。 →エンジニアリーダーと食事をした際、リーダーは会話中でもApplewatchに通知が来る度すぐに開いて確認しており、常に緊張状態にあるようでした。 プランナーリーダーと機能実装の相談をする際、私を小馬鹿にしているように鼻で笑ったり、強い口調で常に威圧的な態度を取られました。 →私はこれをきっかけに一過性の鬱状態となり、その方と話した後にトイレで嘔吐したり、一時他人と話すことが出来なくなり、別室で作業をするようになりました。 その後、そのプランナーリーダーと関わらない部分の実装を担当するようになりましたが、鬱状態が治らず、限界がきて離職する運びとなりました。 その他 エンジニアマネージャーは一日中YouTubeで釣り動画を見ていました。 社内部活があり、私はダーツ部に入部したのですが、テキーラを何十杯と煽られ急性アルコール中毒になり入院しました。 最後に 今や他社のゲームも盛り上がっておりあまり目立たなくなりましたが、一時期はウマ娘やゾンビランドサガ、グラブル等の広告や話題が街中・TVCM・SNS等で目にすることが多かった為、その度にフラッシュバックして嫌な気持ちになる事が多かったです。(現在進行形) このせいで佐賀県に個人的な苦手意識が芽生え、大好きなお笑いのキングオブコントでスポンサーとなった時はショックを受けました。 以上がCygamesでの労働体験のうち黒い部分です。 1人でも多くの人が幸せな環境で働けること、またブラックな労働で壊れてしまった心が治りますようお祈りしています。
Cygamesで体験したブラック労働を綴る
6 notes
·
View notes
Text
「画面上の人」から「会ったことのある人」へ:てらけん流オンライン×オフラインで繋がる経営術
近年、インターネットやSNSがビジネスやコミュニケーションの舞台として中心的な役割を果たしています。しかし、オンラインで完結できる場面が増える一方で、あえてオフラインで顔を合わせ、リアルな関係を築くことが新たな価値を生むシーンも少なくありません。
ここでは、長崎・佐世保で創業70年を迎える会社経営者とのコラボレーションを通じて、てらけん氏がオンラインからオフラインに踏み出す意義や、SNS運用における新たな可能性について考察します。
てらけん氏がオンラインで築いた関係性をどのようにオフラインで深めていったのか、そのプロセスと成果を紐解き、オフラインで直接会うことがどれだけビジネスを加速させるのかを探っていきます。
オンラインが主流の今、なぜオフラインへ?
SNSやメルマガで長らく情報を発信し続けてきたてらけん氏。その情報は、ビジネスだけでなく、人柄が滲み出るような発信で、多くのファンや購読者を獲得しています。オンラインで「画面上の人」として認知され、信頼される存在であるてらけん氏が、なぜ今回、あえて現地で直接の交流を選んだのでしょうか?
オンラインではリーチできない関係性や信頼を構築するために、オフラインでの顔合わせが重要だと考えたからです。
今回の長崎・佐世保訪問では、SNSだけでは得られない土地の空気感や、直接の会話から生まれるアイデアを求め、東京から長崎まで足を運ぶことを決断しました。この背景には、単にビジネスチャンスを得るだけでなく、その土地の魅力を肌で感じ、佐世保の経営者と一体となって地域発信をしたいという思いがあったのです。
「ブログはこちら」:https://f-lifelog.com/archives/4102
実業家との縁が深まった瞬間
てらけん氏が今回訪問したのは、長崎・佐世保で創業70年の歴史を持つ会社の女性経営者です。この経営者とは、もともとSNSやメルマガでのつながりがあり、ずっと互いに発信を見守り合っていた間柄でした。長年続く会社を切り盛りし、多岐にわたる事業を手掛ける彼女も、てらけん氏のメルマガのファンであり、発信内容から学びを得ていると言います。
こうしたオンラインでの繋がりが、今回オフラインでの直接対話に発展した背景には、双方の相互信頼があったと考えられます。
てらけん氏が現地で彼女に会ったとき、ビジネスの話だけでなく、佐世保という土地の話や地域文化の魅力にまで会話が広がりました。オンラインでのつながりが、オフラインでの相互理解を深め、土地の発展に貢献できるアイデアへと形を変えていったのです。
このように、SNS上の「画面上の人」としての繋がりが、「会ったことのある人」に変わることで生まれるインパクトの大きさは計り知れません。
インスタ運用案件200万円が繋いだリアルな縁
てらけん氏が今回の長崎・佐世保訪問を決断した理由には、現地の魅力を発信するためのインスタグラム運用案件がありました。その案件は、通常であれば300〜400万円規模のもので、てらけん氏にとっても大きなビジネスチャンスです。
しかし、今回は協業先がメインで動いてくれることになり、てらけん氏は観光しながら、地域の魅力をリアルに発見することができました。オンライン上であらかじめ計画していた戦略に加えて、現地で直接得たインスピレーションやアイデアが、今後のインスタ運用に活かされることになります。
また、佐世保の「知る人ぞ知る」スポットを訪れたことも、今後の投稿内容に大きなプラスとなるでしょう。現地のネオンが素敵なバーガーショップや、個性的な飲食店をSNSで紹介することで、フォロワーにとっても「行ってみたい」と思わせる内容を充実させられるのです。
こうした地元ならではの体験を含んだ発信は、やがて「佐世保と言えばこのインスタアカウント」としての認知度向上につながり、地域活性化の一助となることでしょう。
「ブログはこちら」:https://f-lifelog.com/archives/4102
SNSとオフラインの融合が生む新たな価値
オンラインの集客力とオフラインの深いつながり。この両者を融合させることで、ビジネスにも新しい価値が生まれます。
オンラインで簡単に繋がれるからこそ、あえてオフラインで会うことで、てらけん氏はより濃密な人間関係を築くことができました。さらに、その関係性はSNSで発信されることで、より多くの人にリーチし、共感を得やすくなるのです。
今回の経験から、てらけん氏はSNSを活用した地域密着型のプロジェクトを立ち上げ、LINE@を活用した地域店舗のクーポン発行なども視野に入れているようです。SNSを起点にしながらも、地域の消費者と店舗がオフラインで繋がりを持つ仕組みが、より強固な地域経済の発展に繋がっていくでしょう。
そして、この新しい取り組みは、オンラインとオフラインの境界を超えて、他のエリアにも波及していく可能性があります。地方発のビジネスアイデアやプロジェクトが全国区で注目されることで、他の地域にも良い影響を与えることが期待されるのです。
振り返りと今後の展望
今回の長崎・佐世保での取り組みを通じて、てらけん氏が感じたのは、インターネットだけに頼るのではなく、リアルな関係性を積極的に構築する重要性です。特にコロナ禍の影響で、対面でのビジネスが減少しているからこそ、あえてオフラインの出会いを大事にすることで、他者との差別化を図れるのです。
こうしたリアルなつながりから得られる信頼感や安心感は、単なる画面上のやりとりでは得られません。てらけん氏は、オンラインとオフラインの融合によって、ビジネスだけでなく、個人的な人間関係や信頼関係も大きく前進することを実感したと言います。
彼は今後、メルマガの読者限定で懇親会を開催したり、地域でのイベント企画なども検討しているとのこと。オンラインとオフラインの両方でつながることで、より濃い関係が築けるのではないかと期待しています。
こうしたビジネススタイルは、単に情報発信だけで終わることなく、読者やフォロワーとの結びつきを深め、より質の高いサービスや製品を提供するための糧となるでしょう。
「ブログはこちら」:https://f-lifelog.com/archives/4102
結びに
てらけん氏のように、オフラインとオンラインを駆使し、相手との信頼関係を深めながら、地域活性化を図るビ
ジネスは今後ますます注目されていくでしょう。インターネットを利用するだけで完結できるビジネスが増えているからこそ、顔を合わせる価値がより一層感じられ、ビジネスにも大きな可能性が広がるのです。
この旅を通じて、てらけん氏は単なるインフルエンサーではなく、「会ってみたい人」「現地を訪れるきっかけを作ってくれる人」として、次なるステージに進んでいるように感じられます。
1 note
·
View note
Text
織田邦男先生の論稿です
現代が見習うべき大正人の精神 麗澤大学特別教授元空将・織田邦男
ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では、ドラマのような優勝劇に日本国中が沸いた。顔に日の丸を描く人、球場内外で日の丸が振られ、国と選手と国民が一体化したような光景に、思い出したことがある。
国家と個人が一体となり
102歳で天寿を全うした父が90歳の時である。筆者に「もうそろそろ、ええじゃろう」と語り出し「実は、わしは戦艦大和を造ってたんじゃ」と。どうやら父は広島の呉工廠(こうしょう)で戦艦大和の建造に携わっていたらしい。「大和については、家族にも一切話してはならぬと命ぜられていたんじゃよ」と述べ、最後に「わしももう長くないからな」と終わった。大変驚いた。国家(海軍)の命令を、帝国海軍が消滅した戦後60年間も律義に守る。しかも戦後生まれの筆者に対して箝口(かんこう)令を守り通すとは。
父が亡くなる2年前、同じ大正生まれの小野田寛郎氏が亡くなっている。小野田氏は旧陸軍の軍人で、情報将校としてフィリピンのルバング島に赴任した。師団長の横山静雄中将から「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも5年でも頑張れ。必ず迎えに行く」と訓示を受けたという。戦後も29年間、孤立無援でゲリラ戦を戦った。
手に入れたラジオで戦争が終結したことは気づいていたらしい。冒険家の鈴木紀夫氏によって発見され、帰還を促された。だが任務解除命令がない以上、任務は放棄できない。結局、元上官である谷口義美氏(元陸軍少佐)による任務解除命令を受けて帰国した。
両者に共通しているのは、国家と個人が一体となった「大正人」ということだ。父は大正3年生まれ、小野田氏は大正11年生まれである。先の大戦では大正人の7人に1人が戦没している。戦後復興の原動力も大正人が主力だった。
父には9歳年下の弟がいた。海軍パイロットとして昭和18年、太平洋のギルバート諸島上空で散華した。父は弟を思い、靖国神社にしばしば参拝した。最後の参拝は90代後半だったと思う。杖(つえ)を突きながら気丈に昇殿参拝を果たした。その時、父はポツリと呟(つぶや)いた。「何で靖国参拝に反対するんじゃろうのお」。現役時代、ある懇親会で小野田氏と同席させていただいたことがあるが、その時、小野田氏から同じ言葉を聞いたのを思い出した。
国家意識溶解の懸念
大正人にとって国家と個人は一体で、国家に尽くすことは、自分に尽くすことである。国家に命を捧(ささ)げた場合、国は永遠に死後の面倒をみる。なのになんだと、憤懣(ふんまん)やるかたない思いが感じ取れた。
国に殉じた先人に対し、国民が尊崇と感謝の念を表すのは世界の常識である。米国ではアーリントン国立墓地に、韓国では国立顕忠院に、フランスでは凱旋(がいせん)門の無名戦士の墓に国家のリーダーは参拝する。外国の要人来訪時も、必ず参拝する。これが国際共通の儀礼である。岸田文雄首相は1月の訪米の際、アーリントン墓地に参拝した。だが岸田首相は就任後、靖国神社には参拝したことがない。
いかなる事情があるにせよ、一国のリーダーが自国の為に命を捧げた先人に追悼の誠を捧げないのは異常である。異常を異常と感じなくなる時、国家と個人の一体感は失われ、国家意識は溶解していく。国家は国民一人一人の「義務と責任」から成り立っている。国家意識が希薄化すれば当然「犠牲」「勇気」「名誉」という普遍的価値は喪失し、我欲は限りなく肥大化する。国家あっての人権、人道、社会福祉であり、祖国あっての個人であるという当たり前のことが理解できなくなる。
公に尽くす生き様を忘れず
令和5年度予算が成立したが、国会での議論は見る影もなかった。昨年12月、安全保障関連3文書と共に、防衛費のGDP比2%、反撃能力の保有が閣議決定された。この時、「満足な議論もせず、民主主義の破壊だ」と野党は批判した。だが国会では十分な時間がありながら、「満足な議論」もせず、表層的で枝葉末節な質疑に終始した。参院ではウクライナ戦争や台湾有事もそっちのけで、行政文書をめぐっての「コップの嵐」に終始する体たらくである。
これを見る時、選良たちも国家意識が溶解し、安全保障や天下国家を「議論しない」のではなく、もはや「議論できなくなった」のではと思ってしまう。2021年の国際世論調査では「国のために戦うか」に対し、「はい」と答えた日本人は13・2%で最下位だった。この現実と通底するように思えてならない。
国家という「人」はどこにもいない。国家とは同胞、友人、知人、そして自分自身のことである。自分自身が国家そのものだという事実に戦後日本社会は目を伏せてきた。その結果「国家」の希薄化は深刻なまでに進んでいるようだ。
WBCで日の丸が乱舞する光景と国会の惨状が同じ日本だとはどうも思えない。数年もすれば大正人はいなくなる。国家と自分自身を同一視し、我欲を捨て、公に尽くす大正人の生き様を今こそ見直すことが求められているのではないか。(おりた くにお)
#産経新聞 #正論
33 notes
·
View notes
Text
きんようび通信No.716📚
2024年9月6日
▲北海道鶴居村にある「ウィルダネスロッジ・ヒッコリーウィンド」。オーナーでネイチャーガイド・写真家の安藤誠さんに初めて会ったのは、11年前・大阪の集まりでした。その時見せてもらった動物の写真や音楽の話しは、知らないことばかりで今も強く印象に残っています
▲7年前に初めて訪れ、知床半島などガイドしてもらいました。至近距離でみるヒグマ・頭上に広がる満天の星空・霞んでみえる国後島など、遠くに来たことを実感しながら大阪では味わえない感覚を感じていました。安藤忍さんに作ってもらった絶品の「おむすび」が忘れられません
▲「暮らしに丁寧に取り組むこと、あきらめないこと、自分を信じること/自分の好きを大切に、自分の好きを信じて、自分と周りを幸せに」、かけてもらった言葉を時々に振り返っています。「日常の奇跡」もよく使われていますが、その意味の深さを考え続けたいと思っています
▲実は明日から3日間、母親と次女の3人でヒッコリーに行ってきます。初北海道の母親は「何着て行ったらいい。お土産に絵手紙用意するわ」など嬉しそう。虫・動物が苦手の次女は、「楽しみやけど大丈夫かな」とドキドキの状態。82歳誕生日のお祝い旅行、珍道中間違いなしです
▲さて先週末に鹿児島に上陸した台風10号は、各所に大きな被害をもたらしました。「いのちの守り方を変えなければ」と岩手の友だちが言っていましたが、その通りだと思います。今後被害全容が明らかになっていきますが、生活再建や安定に向けた迅速な対応を国・自治体に求めます
※ウィルダネスロッジ・ヒッコリーウィンド
【今日は何の日📌】
【今週の一句🔖】
酒飲み🍺🍶川柳
長生きの
秘訣はおしゃべり
楽しむこと😊
【今週の歌🎸】
・The Byrds…Hickory Wind
いつ聴いてもとてもいい名曲の中の名曲。この曲からロッジの名前をつけたと安藤さんに教えてもらいました😌
youtube
【今週のグルメ情報😋】
・麒麟…地下鉄「堺筋本町」駅から徒歩約7分
障連協総会の昼食休憩で訪れたお店。餃子がとても美味しかったので、ODF総会後の懇親会でも利用しました。コースもガッツリ料理が出て、かつリーズナブルでした。お薦めのお店です😙🥟
【追記📝】
この間のテレビ報道は、台風被害を伝える映像の後にほとんどが自民党総裁選を取り上げていました。関心事の一つであるにせよ、強烈な違和感・ギャップを感じました😩😤
2人とも、お土産は友だちの分とかいろいろ買いたいようです。母親は、「帰ってきたら、おせち料理をどれ頼むかを決めなあかんわ」と気の早いことも言っています😅
#きんようび通信 #ヒッコリーウィンド #鶴居村 #北海道 #日常の奇跡 #珍道中 #台風10号
1 note
·
View note
Text
深夜のカウントダウンイベント後、終夜運転で電車を乗り継ぎ吉祥寺の懇意にしているバーへ出向く。0時丁度にこそ居なくとも、かれこれ5年は元旦の夜をこの店で過ごしていることになる。懐かしい常連の面々と一年の中で最も多く再会でき喜びを分かち合う反面、今年は自分がこの店に訪れる頻度が落ちたのも相俟って見ない顔の方が圧倒的に多く、加えて店長からはこの子は19の頃から通ってる古参だからと自分より若い客に紹介され、時間の流れをほのかに寂しく感じる瞬間でもあった。
あの頃は本当に「地に足がつかない」という言葉がお似合いのフラフラ放浪娘だった。両親の期待から背いて専門学校を辞め、中野のシェアハウスで家賃を折半しながら夜から朝まで近所のバーで働く。たまに高田馬場にあるスナックへも出勤していた。飲食業に就きたいと思いながら、気弱でマルチタスクが苦手な自分には性に合わず、他の場所ならとバイト先を転々として環境を変えては粉砕した。今より金がない癖に酒の飲み方だけは一丁前だった。それは当時から自分を見ていてくれた年配の常連にも伝わっていたようで、当時もその危うさが魅力の一つだったけれど今の君は自信に満ちていてこちらが安心するよ、と伝えられた。確かに、当時の覚束ない足取りでなんとか前に進もうとする危なっかしさはあの頃境地に立たされていた(実際には自分で選んだのだけど)からこそ醸していたオーラだった。守られないと死んじゃう兎みたいな。多分今の仕事に就いたことが繭を突き破らせてくれた確たる証拠なんだと思う。それが他人の口から伝えられることは素直に喜ばしいことだと思う。
長年好意を寄せていた人と一年以上振りに会話をした。5年前のインスタグラムの投稿には「きっと付き合うことはないけどたくさん話せて幸せだった」と書いていて幼かったなと思う。いつもどんな顔で会話したらいいのか分からないが故に変に緊張して吃る癖があるけど、昨夜は至って平常心、むしろいつもは会話の主導権を彼に握らせられるけれど、昨夜に限っては自分がリードしていてどこか勝ち誇った気になった。
周囲の客の会話のレベルと年下のスタッフが店のBGMの代わりに流す適当なヒップホップのプレイリストが唯一気に食わなかった。本人は面白い返し、だと思っているのかもしれないけど多分いや確実に自分の方がベストアンサーとしてのレスポンスができると思うし、ありふれたリリックを垂れ流すイケイケラッパーよりも(いくら専門外とはいえ)さすがにもっと良いヒップホップのナンバーを知ってる。自分と彼は6個違いだけど、敬語は遣わない上にお互いのパーソナルな部分を理解しているからこそ痛いところをわざと突いたり逆に受け身になったりしている。拾ったゴミ1つで三分間笑える、そんなところが彼を好きだった部分であり、今も恋愛感情を抜きにして居心地の良い人だと感じる所以だと思う。
店を閉めて朝の7時前に毎年恒例の初詣へ行く。初参加のメンバーも多く、繰り返しになるけれど自分がこの店の中だけで見ても大人になっていることを感じて少し歯痒い。当時は可愛がられていたけど可愛がる側。20の頃に散々奢られたウイスキーやビールの数々は「俺の年齢になったら下の子へ奢るように」と言われて貰ったもの。バーで過ごす��法以外にも、世間知らずな当時の自分には教えられたことが非常に多い、だからどこへ引っ越してもせめてイベントの時だけはと予定をこじあけて足を運んでいる。
初詣で引いた御籤は中吉。可も不可もなく縛らずに鳥居の外へ。右手を見ると目に眩しいぐらいの初日の出が燦々と光を放っていて元旦の朝を感じた。コロナ前はこのまま八幡近くのカラオケ屋へ雪崩込んでいたけど、今回を含めここ数年は解散して各々帰路へ。10人ぐらいは同行していたはずなのに、井の頭線に乗って帰る組は自分と彼のたった2人だった。あーそうか、皆近いんだねと言って乗車し隣同士に座る。社会人どう?と唐突に聞かれたので、迷いなく今が一番楽しいよと答えた。今年の抱負を語り合って先に明大前で降車。よいお年を、えっ今?よいお年を、と交わしたところでドアが閉まる。おそらく今後も進展はないままで、お互いにお互いの選んだ人と結ばれるんだと思う。それでもこの距離感がどうにも愛おしくなるし、この瞬間のために小さな成功体験を日々重ねていられるように努力しているのかもしれない。ちなみに自分が伝えた今年の抱負は「ジョジョを全部観終える」だった。良いお年を。
16 notes
·
View notes
Text
母の告白
編集 | 削除
Thursday 20 February 2014
禅寺に行く。今日は、少し起きるのが遅れたが通常通りに茶畑庵を出発。偶数日だったので般若心経を読経した。般若心経はほぼ間違えないで唱えることが出来るが空では無理だ。これは真観の今後の課題である。ご住職曰く「坐禅を上手く行かせるコツは、自分の事を他人の事の様に投げちゃいなさい。赤子の様になりなさい』(※言い様は微妙に違うが)と。それが出来れば苦労はしない。ただ自分のことをあれこれ考えたって何も始まらないから自分の仕掛けた罠に捕われない様になった。というより罠を考えない。まあ坐禅を始めた1年前に比べたら随分楽になった。坐禅の効果は他にも如実に現れている。例えば、落ち着き、言葉使い、所作、食事、アイディアの閃き・・・。
「人間は、過去と想像に支配されます」by 加藤諦三 Twitterでお気に入り登録をした言葉。
支配されない様にするのが仏道であり坐禅ではないだろうか?
今日も母と話した。 昨日の日記にも書いたが真観が10代後半の頃は酷く真観も荒れてて家庭崩壊に近い家族だった。『私の精神状態は鬱の様だった。』と母。年齢的には45歳〜50歳くらいだろう。そして死にたい死にたいと自分の兄妹や友人に嘆いていたらしい。そして母は、真観にある場所を示しそこで首を吊って死のうか何度も思ったと初めて告白した。その原因は、真観が大きいと真観も認めるがでは何故真観がそうなったか?と原因もある訳だ。それを母は過去を振り返り自己分析していた。会話は重いものでもなくさらりとしていた。
真観が生まれる前、真観の兄がまだ3歳くらいの時、父の行いに悩み離婚をしよう母は、実家に戻った。すると父の兄が実家に来て母が悪いのではないと頭を下げて戻って来てくれと母に懇願した。父と母は、お見合い結婚だったが仲人を通して父方の祖父母に頼まれたから母は結婚した。しかし父の母は、『百姓の娘がこんないいところに嫁に来て有り難いと思って暮らせ」と母に憤怒して言ったそうだ。『あ〜こんな親だからこんな息子が出来たんだ』と母は悲しくなった。真観がいつも上下関係に非常に敏感で毛嫌いしているのはそんな父方の祖父母や父の兄弟を見て育ったのが原因と真観も自己分析している。不条理な上下関係を押し付けた人間が真観の人生の中で要所要所にいた。不条理な上下関係ほど愚かなことはない。(不条理がポイントで美しい上下関係は存在する)
今日の母との電話も2時間半に及んだ。
他にも真観は知らなかった事実を母から聞いた。それをメモを取りながら聞いた。しかしそのメモの字は汚く自分でも読み辛いものだった。そして電話の後iPhoneで会話を録音出来ないかと調べてみたがiPhoneのアプリでは良いのがなくボイスレコーダーなら完璧に録れるが高額だった。母の話は講話のごとく貴重だから残したいと思う真観。この問題も今後の課題だ。しっかりとメモを取れる様になれば一番いい。
今日もZenZineを1部制作した。 明日も作ろう。
0 notes
Text
マインドフルネスアートセミナー 「魅力あふれる自分を発見する」講師/森夕花(2024年1月27日)in 渋谷
マインドフルネスアートセミナー 「魅力あふれる自分を発見する」講師/森夕花(2024年1月27日)in 渋谷 チケット:https://peatix.com/event/3794943/view https://www.facebook.com/events/382454744444767
マインドフルネス(mindfulness)は、「今」という瞬間につねに意識を向け、自分が感じている感覚や感情、思考を冷静に観察している心の状態のことです。今、この瞬間に、評価や判断を手放して、注意を払うことから、わき上がる気づきの状態(アウェアネス)という語義で説明がされています。
1979年にジョン・カバット・ジンが、臨床的な技法としてMBSR(マインドフルネスストレス緩和プログラム)をマサチューセッツ大学の医療センターで開発しました。 8週間のマインドフルネス瞑想法では、扁桃体の反応が緩やかになり海馬と前頭前野(学習、思いやり、内省など)が活性化し、ストレス軽減・能力アップしたという科学的裏付けがあります。
(Sara Lazar, Ph.D.他 2010University of Massachusetts Medical School)
最近ではマインドフルネスを取り入れたアートセラピーが欧米でポピュラーになってきています。アートセラピーは、アート表現を通して自己認識を高め、ストレスや精神的な疾患などの症状を緩和するセラピーのひとつで、自分の感情と向き合いアート表現を行うアートセラピーは、マインドフルネス瞑想と共に行うことで相乗効果をもたらすと言われています。
「マインドフルネスアートセミナー」では、マインドフルネスによって、休眠状態のいろいろな感覚が目覚めさせ、身体のセンサーを使って、自由に描きアート表現を行います。表現をはじめると、私たちの「内側の存在」が手や身体、ひらめきを通して、何を表現したいか、伝えたいかを教えてくれます。
さらに私たちはこの宇宙を創生した存在(ソース)ともつながっていて、マインドフルネスな状態になると、ソースとつながる扉が開き、創造性が高まるとも言われています。何にもとらわれることのない「純粋な意識」は、高次の存在とつながるための大切な条件となります。 アート表現のプロセスは、まさに「純粋意識(無心)」の状態を経験できる貴重な機会です。
このセミナーは、23年間に渡り、ヒーリングやカウンセリング、ライフコーチングなどの「心と身体の癒し」に携わってきた森夕花がガイドを務めます。マインドフルネスアートを通して、「本来の自分」と出会い、豊かなクリエーションとイマジネーションの世界を体験していただけたらうれしいです。
☆♡☆♡☆♡☆♡☆♡☆♡☆♡☆♡☆♡☆♡☆
■内容 (状況により変更する場合があります)
☆リラックスブリージング&イメージブリージング(誘導瞑想) ☆心を満たすハートフルネス(誘導瞑想アートワーク) ☆マンダラート(アートワーク) ☆過去を旅する(誘導瞑想アートワーク) ☆2024年のカギ(象徴)を受け取る(誘導瞑想)
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
■日 程:1月27日(土) ■時 間:13:30ー16:30 ■定 員:8人限定 ■場 所:渋谷区勤労福祉会館 和室(1・2) ※入口の表記は「サステナ塾」となっています。
■持ち物:筆記用具 ■受講費:通常8,800円のところを 特別期間価格 5,500円 消費税・材料費が含まれます。
※チケットのお申込みとお支払いは「peatix」よりお願いします。 https://peatix.com/event/3794943/view
※正式申込後のキャンセルはご遠慮いただいております ※やむを得ずキャンセルされる場合は、必ずご一報ください
☆セミナー終了後、近くのカフェで懇親会をおこないます。 ぜひ、交流を深めていただけたら嬉しいです!
■講師:森夕花 カングロ株式会社 取締役執行役員/ライフコーチ/マインドフルネスアート研究家
神奈川県横浜生まれ。尚美高等音楽学院卒業。京都芸術大学芸術学部卒業。1993年、ドイツの環境先進都市フライブルクに留学。自然と調和したライフスタイルを学ぶ。2002年より心と身体を癒すヒーリング・カウンセラーとして活動。2015年から企業のライフコーチとして、個人セッション、研修等を行っている。現在、ライフコーチの他、「大人のためのアート思考講座」「Philoarts研究会」「マインドフルネスアートワークショップ」「サステナ塾」「目覚めの瞑想会」など講座、ワークショップを中心に活動を行っている。 趣味は、声楽、読書、人間観察、そば栽培、瞑想。特技、人・動物の心を読む、直観力、探求。好きな言葉は、「自由」「日日是好日」「悠悠閑閑」
■【ダイジェスト版サービス動画】 ★既存の枠の限界ぎりぎりへ一歩踏みだす~アートシンキング スプリングセミナー20230316 https://youtu.be/u-8BgGK5Wpo
★なぜビジネスにアート思考が必要なのか?世界の見方を変えるアート思考/第16回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープンダイアログ20221209 https://youtu.be/vFnykrdzwt4
★「センスオブワンダーとアート思考/真のウェルビーングを探究する」第5期ショック・コヒーレント基礎講座⑦(2022年12月6日) https://youtu.be/hMHQi2c87eM
■プライバシー保護方針: https://www.kanglo.co.jp/privacy.html
■主催:フィロアーツ研究会/カングロ株式会社 https://www.kanglo.co.jp 協力:SDGs超実践者委員会/イノベーションサロンZ/システムD研究会/ショックコヒーレント・イノベーションクラブ/セブラルメディテーションの会/HOOPS!/ザッポス研究会/サステナ塾
#アート思考 #アートシンキング #デザイン思考 #カングロ #森夕花
1 note
·
View note