#衆愚政
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moko1590m · 2 months ago
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衆愚政治⇔民主政治 リーダーシップ⇔独裁 要はバランス
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misaki-kouyama · 7 months ago
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N国党の東谷を参議院選挙で当選させた日本人が言えた立場かよ
「N国党」や「れ新」に「参政党」や「つばさの党」はそんなのを公認候補にしているだろ
言うなれ��、本邦は「衆愚政治」の先進国だろ
小泉劇場からみんなの党に維新旋風あってのアベ政治を選択してしまったのが日本だからな
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monogusadictionary · 11 months ago
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かつて中学3年だった頃に社会科の教師に言われたことがあります。
『君たちに聞く。日本において戦争を焚き付けたのは誰か分かるかい?東條英機?確かに軍部は暴走した。これは事実だ。しかし、根本の���因はそうじゃないんだよ。
戦争を起こすことを望んだのはその時代を生きた国民一人ひとりだった。不景気、飢饉、震災。これらの要素が重なって、軍部への渇望が高まった。つまり、衆愚政治に陥った。戦争に勝てば自分たちの暮らしが良くなるんじゃないかと本気で信じていたんだ。
政治家にも責任は当然ある。しかし、政治家に意思決定をさせるのは一人一人の国民だ。それが民主主義というものであり、我々一人一人が意思決定に責任を持たなければならない。
民主主義というのは甘くはない。君たちにはそれを忘れて欲しくないから俺はこの話を一人の教員としてではなく、一人の人間として敢えてこの場で言う』
と。立場的に言い辛かったであろうことをよく言ったなと今更ながら思う次第です。
https://x.com/you2koizumi/status/1759010917277429954?s=46&t=XBYGx0NYt69itB5p-cHcLg
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kijitora3 · 3 months ago
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マスゴミ詐欺民主主義
「裏金」議員という言葉を創作し、落としたい議員にそのレッテルをペッタリと張り付け、裏金裏金と連呼して、さも違法に金をむしり取った印象をつける
 ここで確認しておくと、パーティー券収入は与野党問わず政治家は得ており、その金の流れを政治資金収支報告書に書くのが法的義務である
 しかし、その法の規定でパーティー券収入を寄付などの形で移転させるとその流れは政治資金収支報告書に書く義務はない これは違法ではないので、それをいくらやっても法的責任は生じない パチンコが賭博ではないとされているとのと同じだ
しかし、その不記載を法的義務違反のように騒ぎだし、その後あたかも違法に金を稼いだかのような印象付けがされ、その結果大衆は「裏金議員」と聞くと、違法手段で金を収奪した悪徳議員と印象付けられた
 現在「裏金議員」を公認するかしないかが騒がれる 世論調査をすると、「裏金議員」を詐欺犯と同じであるかのように洗脳された大衆だから、当然選挙予想は厳しいことになる 大慌てで大衆迎合議員は一事不再理の原則なんぞ放っておいて、「処分」(本来法的に何ら必要なかった)が済んだ議員をさらに公認しないという重罰にしろと騒ぎだす 完全にマスゴミの手中に嵌った愚かな行動である
 こうして、マスゴミはただレッテル張りで騒げば政治家を選挙で落とせる すると政治家はマスゴミの機嫌を取るようになる 民主政治は衆愚政治、マスゴミ専制主義に堕した マスゴミがあいつは悪いといえば処分が済もうが、判決が確定しようが、再び事実上罰せられ、自由主義は死に絶えた
 で、現在の日本はマスゴミ詐欺民主主義としか、言えない 長年パチンコは賭博ではなく、自衛隊は戦力ではない、という無理をごり押ししてきた結果、罪でないものを罪とし、罰を受けたものに再び罰を下す社��、無法社会になり果てた
それを支えるのはテレビの洗脳に簡単に染まって口から泡を飛ばしながら他人を攻撃する愚民たちだ
私は愚民の一員か否か 日本国民は全員こう自分に問いかけてみると、世の中少しはましになるかも知れない
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ari0921 · 7 days ago
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
  令和六年(2025年)1月5日(日曜日)
    通巻第8580号  
 日本の論壇は何故『ビットコイン』を議論しないのか?
  トランプは暗号通貨マイニングで世界一になると言っているゾ
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トランプ大統領の再度の就任にあわせて日本の論壇でもアメリカ論、トランプ政権分析、日米関係などが議論されている。しかしまるで無視、あるいは軽視されているのが「ビットコイン」などの暗号通貨論だ。
トランプは「ビットコイン大国」をめざし、アメリカを「マイニングの中心地」にすると言っている。この重大発言に日本の論客は無関心である。
 イーロン・マスクも暗号通貨『DOGE』を販売しはじめ、政権の枢要ポストの閣僚も暗号通貨推進派、議会にも仲間がふえている。
にも拘わらず、日本ではこの議論を見かけない。ビットコインは2025年1月3日現在で、877665枚がマイニングされた。
トランプはなぜビットコイン大国をめざすのか、と考えて見たい。
2024年7月、ナッシュビルで開催された『ビットコイン2024』で、トランプが演壇に立った。長いスピーチのなかで、暗号通貨に言及した部分を拾うと次のようである。
「アメリカを再び偉大にするために、ビットコイン・コミュニティが成し遂げたことに敬意と賞賛を表します。100年前の鉄鋼業界と同じです。15年前、ビットコインはインターネットの掲示板に匿名で投稿された単なるアイデアから、世界で9番目に価値のある資産になりました。もうすぐ銀の時価総額全体を超え、いつかは金を追い抜く日が来る。ビットコインは単なる技術の驚異ではなく、協力と人間の功績、そして形成された多くの関係の奇跡なのです。」(現在は16年前、いまは7番目)。
従来、トランプは暗号通貨に懐疑的だったから、この発言は百八十度の豹変だったため、全米のメディは大きく報じた。
トランプは続けて暗号通貨が重要な理由をふたつ挙げた。
「まずはアメリカファーストの目標に連動する。若し、米国がやらなければ、中国がやるでしょうし、他の国がやるでしょう。私たちは最高の経済、最高の生活水準、最も安全で最も美しい都市を持っています。安全に関して言えば、米国の都市は地獄に落ちています。私たちは都市を修復します。
我々が暗号通貨やビットコインの技術を受け入れなければ、中国や他の国々が支配するでしょう。中国に支配させるわけにはいきません。我々は中国が成功することを望んでいますが、米国がテクノロジー、科学、製造、人工知能、宇宙でトップになることを望んでいます」
次なる理由が電力の確保、そのためにはEVにはこだわらないとしつつ、資源の有効利用と暗号通貨との関連について言及した。
「(ビットコインのマイニングには)膨大��量の電力が必要です。支配権を握るには、現在米国が供給している全電力の2倍の電力が必要です。このため化石燃料を使用して電力を生産します。そうしなければならないからです。原子力も使用します。環境に優しい方法で行います。
 誰もが電気自動車を持つ必要はありません。車を充電するための充電器を8基作るのに90億ドルかかりました。このペースだと、充電器を設置するのに約12兆ドルかかります」
 ▼暗号通貨はドル基軸体制への脅威なのか、味方なのか?
 ドル基軸体制への脅威に関して、トランプはこう続けた。
 「世界で1億7500万人が何らかの形で仮想通貨やビットコインの世界に関わっています。ところがバイデン・ハリス政権はビットコインに対して、未曾有のかたちでの戦争を仕掛けてきた。彼らは銀行を標的に金融サービスを遮断し、取引所に送金するのを阻止した。そのうえ「彼ら」はあなたたちを犯罪者として中傷しています」。
 (ゲンスラーSEC委員長は暗号通貨を『ペテン師』『詐欺師』『テロリスト』呼ばわりしていた)
 暗号通貨を攻撃してきたのは左翼全体主義だとトランプは言うのだ。
 「悲しいことに、暗号通貨への攻撃は、同じ左翼ファシストたちが自分たちの権力への脅威に対抗するために政府を武器にしている。全体主義者が暗号通貨を粉砕し、消滅させることに固執していることは驚くべきことではありません。それが彼らがやりたいこと、SECはビットコインを消滅させようとしています。理由は明確。ビットコインは自由、主権、政府の強制と管理からの独立を表しているからです。
私が就任宣誓をする日には、ジョー・バイデン、カマラ・ハリスの反暗号通貨運動は終わるでしょう。
就任初日に、私はゲイリー・ゲンスラーSEC委員長を解雇します。アメリカは未来を阻むのではなく、未来を築くべきだと信じる新しい SEC 委員長を任命します」
(ゲンスラーはトランプ就任前に自ら辞任した)。
トランプは改めて外国の脅威を指摘し、ドルを脅かすのは暗号通貨ではなく民主党政権の愚かな政策だと批判し、『常識に帰ろう』と訴えた。
「ビットコイン関連の雇用や企業が他国に逃げていくのを黙って見ているつもりはありません。米国内のビットコイン関連の雇用をすべて維持します。就任後、私は直ちにビットコインと暗号通貨に関する大統領諮問委員会を任命します」
▼CBDC(中央銀行のデジタル通貨)は否定した
FRBやECB、そして日銀が検討しているデジタル通貨に関しては明確に否定し、トランプは次のようにまとめた。
「中央銀行のデジタル通貨は実現させません。私たちは常識を取り戻したいのです。今日話しているのはすべて常識です。ビットコインや暗号通貨は���つてないほど、皆さんの予想を超えて急騰するでしょう。アメリカが繁栄するとビットコインは急騰し、それとともに上昇するからです。私たちは史上最高の経済を経験しました。そしてすぐにまたそれを取り戻すでしょう。
私が大統領を務めた4年間で、ビットコインは就任日の898ドルから退任日の3万5900ドルへと、3900%も急騰した。これは、どの業界でも最大の上昇だった。インフレは国を破壊することはワイマール下のドイツを振り返ってみてください。ドイツが巨大なインフレ期に何をしたか見てください。国を破壊しました。
アメリカは、世界でビットコイン採掘大国になるでしょう。家族を中国に移住させる必要はありません。連邦政府は21万ビットコイン、総供給量の1%を保有しています。米国政府が現在保有または将来取得するすべてのビットコインの100%を保持することが私の政権、アメリカ合衆国の政策となります」。
演説のしめくくりは「皆さんは現代のエジソンやライト兄弟、カーネギーやヘンリー・フォードです」と暗号通貨保持者、開発者を褒めあげたのだった。
トランプの暗号通貨演説を検証してみたが、どこにもシニュリ-ジ(通貨発行益)に触れていない。
ということは金とともに国家準備金に算入するという構想を示してはいるものの通貨発行という概念を提示してはいないのである。
 偶然だが、NHK大河ドラムは蔦屋。裏主人公は財政支出補填のため通貨改革を行った田沼意次である。田沼は松平定信によって失脚させられ、悪人とされているが、南鐐二朱銀という新貨の鋳造を行った。
通貨発行益を狙い印旛沼と蝦夷地開発の軍資金としたわけだが、その「南鐐二朱銀」は歴史的意義を持つ通貨改革だった。すなわち江戸が金本位、関西が銀本位制だった当時の日本では銀と金を両替するには手数料や相場変動があった。これを改革し、二朱銀8枚で1両の価値を持つ金貨単位は幕府金貨一元化であり、そこに通貨発行益シニュリージの実践だったのである。
トランプがそれをも企図しているか、どうかは前述の演説からは見えてこない。
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kennak · 2 months ago
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この103万の基準が決められてから何十年という歳月が経っていて、物価も2倍以上上がっていて生活水準も違うのに、基準額が上がらないのはおかしい。物価から考えたら200万くらいで適当なくらい。国民民主の言う178万でもまだ厳しいと思います。 基本自民党とかつての民主党が進めて来たのは、民衆の愚民化で、議員、官僚とお友達の企業経営者さえ優遇されてれば、他の国民には年金どころか家族も教育も介護も、あまつさえ葬式も墓も与えない、そんな状況になって来ました。闇バイトや海外へ身売りしなければ食べられない人が出るほど。 これに危機感を覚えない政治家は、本当何をしてるんだろうか。 またしても年金の3号までなくそうとしているし。税制は世帯で計算なんだからこれもおかしな話。
「103万円の壁」議論で注目される、自民党政権下で続けられてきた社会保険料アップ 会社員には「手取り減」と「賃上げ抑制」という二重のしわ寄せ(マネーポストWEB)のコメント一覧 - Yahoo!ニュース
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djsouchou · 2 months ago
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「法律でそう決まっているから」という「他者に説明できる理由」と、自分にとっての「ちょっとした利益」があれば、少数派を排斥する、あるいは、「見捨てる」ことは、そんなにハードルが高いことではなかったのです。
 それは、いまの世の中でも、同じなのだと思う。
 不法移民だって、自分の国で幸せになれるのなら、わざわざそんなリスクをとって他国に来ることはないはず。
 それに対して、これまでの世界は「相手の立場や状況も考えましょう、配慮しましょう」と「建前」を「先進国」に求めていました。
 でも、それはもう、過去の話になってしまった。
 それはもう、正しいとか正しくないとかいうのではなくて、「短期的な視点で、個人の意思や利益を大事にしていけば、そうなるのが自然」なのだと思います。
 自立した中間層はどんどん薄くなっていき、圧倒的な力を持つか、その力を持つ人たちに従順なペットとして保護してもらうか。
 そして、人々の最大の娯楽は「権力者たちの転落を嘲笑すること」。
 それって、まさにギリシャのアテネが転落していった「衆愚政治」だよなあ、という不安と、「個人の意思、民意が反映されていった結果そうなるのだから、それもまた『民主主義の最終・究極形態』なのかな」という納得感が僕には両立しています。
 「少子化対策」って言うけどさ、「自分のことが一番大事」で、「死んだら終わり」の世界で、子どもを持ちたがる人が減っていくのは、ごく当たり前のことじゃない?
 これからも、たぶん、「よりカッコいい人」「より面白い人」「より耳触りの良いことを言う人」が勝つよ。
 その人が梯子を外されて転落していくまでが、ワンセットだけど。
アメリカ大統領選挙と日本の衆院選、そして「民主主義」について - いつか電池がきれるまで
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reportsofawartime · 5 months ago
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Tumblr media
ジャーナリズムやメディアについて語るときは、基本として「3S政策」をかんがえねばならない。3S政策とは前著に記したように、Screen(スクリーン=映画)、Sport(スポーツ=プロスポーツ)、Sex(セックス=セックス産業)を用いて、大衆の関心を政治に向けさせないようにする愚民化政策である。 映画は洗脳や刷り込み、大衆のガス抜きなどに持ちいれられてきた。スポーツは、エネルギーの矛先が社会悪に向かないよう、エネルギーを発散させることに用いられ、ストレスが解消したように思わせることで、さまざまな問題をどうでもよいと思わせられてきた。 セックスに関するビジネスは、人間の性の奴隷にし、生物としての闘争心や危機意識を薄れさせ、欲望的にさせてきた。また、恋愛ドラマによって倫理観を完全に破壊し、女性は恋愛にしか没頭できなくなった。   このような状態で、世の不正を正すため、国民が立ち上がるということはない。洗脳されたロボット人間が住む、飼いならされたペット人間が住む、平和な社会にぴったりの政策であるといえよう。   テレビもひどいありさまで、まともな報道など期待できるはずもなく、くだらないバラエティ番組ばかり放映されているのが現実である。メディアというのは新聞であれ、テレビであれ、事実を報道する気がまったくない組織であることは一目瞭然である。そんなメディアを少しでも信用することは、自分自身を危険にさらすことを意味する。 ところが、日本人のメディア信仰は非常に強力で、哀れなほどである。ある���計によれば、五大メディアを信じている人の割合は70%を超えるという。対して英国は、信じている人の割合が。10%程度しかないという。 つまり、海外の人々はメディアがウソだらけというのをよく知っており、自分たちで情報を集めて、身を守るという人が増えていることを示しているのだ。逆説的にいえば、日本は「3S政策」が成功している世界一の奴隷国家だという表現もできよう。
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worris · 6 months ago
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今の世界の政治状況を俯瞰すると、古代ギリシアの僭主政に似ているのではないかと指摘する人がいます。古代ギリシアの循環史観によると、「王政」が堕落して「貴族政」となり、それも腐敗して「民主政」になる。民主政はやがて「衆愚政」に陥り、その後に資格もない人間が指導者を名乗る「僭主政」に至るという考え方があります。
(3ページ目)富野由悠季「逆襲のシャア」制作での後悔と「ガンダム」を10年作り続けてわかった人類の課題 | AERA dot. (アエラドット)
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kurano · 6 months ago
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※ 菅野志桜里元衆院議員、「『何が原因か分からない』幹部たちが、立憲民主党の時代感覚を圧倒的にズレさせている」都知事選惨敗の蓮舫氏陣営の分析を嘆く
https://news.yahoo.co.jp/articles/8c39c9b6522338e6c123fe260a52e64442f56b1b
*蓮舫氏〝大敗〟に立憲衝撃「信じられない」 共産との連携、裏目か
https://mainichi.jp/articles/20240707/k00/00m/010/147000c
*「どっちに転んでも美味しい展開?」都知事選、敗北を喫した蓮舫氏を擁立した立憲民主党執行部へ様々な考察が集まる
q
 さすがに立憲関係者は、何が敗因か解っていますよ。それが解らなきゃ政治家の資格はない。そう書かないとニュースにならないから、マスゴミさんはそう書くだけの話です。
 それにしても、今回もまた、「有能な敵より、無能な味方の方がなんぼか怖い、やっかい!」を証明した選挙になりました。
 小池都政8年にたいした瑕疵はなかった。神宮外苑問題、そもそも都民のみんながそこにいくわけじゃない。渋谷宮下公園再開発。あの場所は新宿まで歩く時にいつも通ったけれど、そもそも渋谷の一等地空間としておかしかった。宮下公園に都民が抱くものは、ある種のノスタルジーに過ぎない。
 築地再開発。お金になるのが都民にとっての利益。都庁プロジェクション・マッピング。50億なんて端金でイベントできる。都民の誇りでしょうw。
 蓮舫も実は良い主張はした。非正規公務員の正公務員化や、教員の激務解消とか。でもそれらは全部、財政垂れ流しの美濃部都政の悪夢を再現するだけ。美濃部都政を持ち上げた時点で町山氏はずれまくっていた。
 そしていつもの限界左翼、死のバターン行進の始まり! 「テレビが都知事選を報じないのはなぜだ!」。いざ報じたと思ったら、「偏向している!」。「もっと投票率が上がれば!」。昔と違って、投票率が上がった所で、票は野党にはいかない。今回のようなことが起こるだけ。
 全て、町山氏の Twitter で、毎日のように繰り返された自爆行為です。この人たちは、情弱を過ぎて境界知能集団なのか! とうんざりした。
 留めは、選挙結果に対しての愚民批判、相手側批判。いや、私も日本人は総じて愚民だと思うし、民主主義は所詮愚民政治だと思う。でも、負けたら、その敗因を内側に探るのが貴方たちがやるべきことです。
 1日も早く、立憲から離れて下さい。貴方たちは本当に、史上最凶の無能な働き者です。共産党もれいわも、両手を大きく広げてあなたたちを受けて入れてくれます!
 ただし、連合の本音はどうなのだろう。共産党と組んでも勝てないよ? と悟っていたのは立派だけど、されど連合が、自民党に近い小池さんを応援するのは筋違いではないのか? という疑問は拭えない。
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shinayakani · 1 year ago
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240111 状況と言葉(断層のただ中で)
 さて何から書いていこうか、などと書き出せるのならまだいいものの、書きたいことが全く見当たらない。年末年始にまで至る数ヶ月の間は雑事に追われていたこともあるが、持ち前の怠惰が遺憾なく発揮されていた(能動的な怠惰って何?)と、弁明せずに言えばそれに尽きる。しかしそれとは別に、私が言葉を綴ったところで、その言葉たちがどんなものであっても、現実と対峙するにはおそろしく安直で愚劣なものにしか映らなくなってしまうような出来事が、現在進行形で起こっている。いや、そもそも何十年もの間ずっと起こり続けていた。
《教えてください。/非暴力で訴えても世界が耳を貸さないのだとしたら、銃を取る以外に、ガザの人たちに他にどのような方法があったでしょうか。反語疑問ではありません。純粋な疑問です。教えてください。》――岡真理『ガザとは何か』
 国際法は機能していない。「暴力が支配するところ、暴力だけが助けとなる」。おそらく。私はそんな世界で生きていたくないし、人間は生き続けることができない。しかしまた、あからさまな暴力や不正が行われ続けているにもかかわらず、あたかも何事もないかのように隠蔽され取り繕われた日常を生きることが、どこまでできるだろうか。一つの固有名、パレスチナ――これまでの「歴史」が一気に凝縮されたかのような土地の、名――を避けるようにして、それどころかあたかも存在すらしていない/いなかったかのように書かれる言葉の欺瞞。私もその欺瞞を共有している。���く離れた土地での出来事だって? いまでは訳知り顔で「恥辱」という言葉を使うことも、自身を省みて「ヒューマニティー」を易々と鼓舞することすらも耐え難い。だがそれでいて、沈黙することは許されていない。苦境を生きる者(当事者、マイノリティ…)や傍観者(非当事者、マジョリティ…)というお馴染みになった区別は、出来事を語る際にただ自身の安全を担保して距離をとるための手段になってしまうのなら、適切なものとは言えない。そして長く続くこの惨状に関して、外地への収奪によって駆動し続けた末に現在まで至った「近代」の歴史を少しでも顧みれば、発言する者の複数の立場などというものは、もはや存在しえるのだろうか。現在の虐殺を、いまに至る占領を止めさせること以外に。
(240104)
《ツィフェル「ちょっといっておきたいことがある。民衆が権力を奪取するのは、ぎりぎりの窮地に追いつめられたときだけだよ。このことは、概して人間はぎりぎりの窮地に追いつめられたときにだけ思考する、ということと関連がある。首筋まで水に漬かったときだけなんだ。ひとびとはカオスを、革命を恐怖する」
カレ「それを恐怖するばっかりに、とどのつまりは地下壕のなかに、頭上には爆撃の音を聞き、背後にはSS隊員の拳銃を感じながら、うずくまることになるんだ」
ツィフェル「そして腹のなかはからっぽになり、子どもの埋葬に外へ出ることもできなくなるんだな。しかし秩序は厳然と支配していて、ひとびとにはほとんど、ものを考える必要がなくなるだろう」
〔…〕
ツィフェル「きみに誤解されないように付け加えておくと、ぼくはひとびとを批判してはいない。批判するどころか、その逆だ。尖鋭な思考は苦しいもので、それをできる限り避けるほうが、理性的なんだ。ぼくが知っている国々のように、異常なまでの思考を余儀なくさせる国々では、ほんとの話し、とても生活は不可能だよ。不可能だよ、ぼくが生活と名づけるものは」》
 ――ブレヒト『亡命者の対話』ⅩⅣ章
 戦時中に異国の地を転々としていたブレヒトによって書き継がれていた本のなかで、上に掲げた対話は「革命と思考とにたいする恐怖について」と題された章で交わされる。私が住んでいる国においてはとりわけ、誰もその内実を知らない「革命」というものを、何も性急にぶち上げたい訳ではない(念のため。政治に関して言えば、その言葉が特に空疎なものに響くというよりは、私たちにはもっと最低限な認識すら欠けているのが現状だろう)。ここで気になるのは、「革命」と���思考」と呼ばれるものが、互いに密接に関係するものとして言われていることだ――《概して人間はぎりぎりの窮地に追いつめられたときにだけ思考する、ということと関連がある》。
 人が何事かを思考しはじるのは、それを不可能にする事態に直面した時だけだとするならば、普段の生活において行っているものは、どこまで思考と呼べるものなのか。文中《厳然と支配していて》と言わるほど圧制的なものではないにしても、秩序は存在している。その中でそれなりの生活を享受している私たちは、一時的に「カオス」から守られもするだろうが、はっきりと目に見えてやって来る外部からの衝撃、またはそれまで(確実に存在していながら)眼前に一瞬だけ過るものにすぎなかった内部の破れ目から漏れ出したものによって、いつの間にか、これまでの自動的な習慣を取り繕いながら維持し続けることは不可能なものになって行く。そこにおいてこそ思考が発生する余地があると言うこと――だが、それ自体も「カオス」の領野に属するものを、受動性においてもなお引き受けなければならないというのは、困難な要請ではないか。何よりも身体が直接的な暴力(戦争、窮乏、災害、病い…)に曝されている状況にあっては、なおさら「思考」などと安穏に言ってはいられない。
 なるほど、人は自分自身が耐え難い災厄に遭遇してみないかぎりは、他者の苦痛を、よくても「想像を絶するもの」と片付けるだけで、それについての思慮を能動的に働かせるには及ばないのかもしれない。現在の生が、自分たちの安全が、維持されているかぎりは……。そんな風に呟きながら行き着く先が、偽装された政治的言説にお決まりの賢しらなニヒリズムに陥るか、道徳教師よろしく訓戒を垂れるだけならば、もっと救いがない。西欧流のヒューマニズムの復権なんてもうとっくに擦り切れていて、場合によってはそれが発言する者の利害に関わっているものにすぎないようにも思われる。しかし、そういった気分もまた、ともすれば単にシニカルな認識をもたらすだけならば、共犯的な愚かさだ。
 たとえ自身の罪悪感や無力さから出発したもの(ヒューマニズム?)であったとしても、人々を、どんな形であれ現状に抗する行動と思考に駆り立てる動機となるならば。狂気一歩手前で、「われらの正気を生き延びる道を教えよ」。兆候となる自発的な行動と、やって来るはずの未だ形を成していない思考が、これまでのヒューマニティとは異質の次元を切り開くものとなるならば……。
(240109)
 政治的な発言をする時、曖昧な言葉を繰り返し口に出すだけならば、それは有効な力を一切持たない。私の言葉は優柔不断なものに見えるのと同時に、読み返す気がまったく湧かないほどに、ひどく固まって動きのないもののように思えて、息苦しい。ここでいつも似たような言葉を書き綴っていたことにも言えるが、その度に経験と知識が足りないことを痛感させられる。言葉は、その意味が了解可能なものになり、さらに手垢に塗れた使用に慣れたものとなった時、すでにその役目を終えてしまう(言うまでもなく、政治的な性質を帯びた言葉に限った話ではない)。それに比べると、上に引いたブレヒトの言葉からは何度読み返しても不思議な魅力を感じる。事態は切迫していて、現実に彼の政治的な立場は明確なものであったと思うが、彼が書く言葉にはいつも奇妙な揺れがある。曖昧さとも異なる、この距離感と軽やかな(?)動きは、いったい何なのだろう。
 この本を読んでいたのは昨年の九月だったようだが、そもそもブレヒトを読みたくなったのは、同じ頃に久しぶりに手に取った『彼自身によるロラン・バルト』で度々言及されていたのがきっかけだった。
〈R・Bはいつも政治を《限定し》たがっているように見える。彼は知らないのだろうか? ブレヒトがわざわざ彼のために書いてくれたと思われる考えかたを。/「私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどというのは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるかというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。」(『政治・社会論集』)〉――「ブレヒトからR・Bへの非難」
 バルトが上に引いている警句にも、どこか奇異な言葉の揺れ動きがある。そしてバルトは同断章の末に、政治的な言葉が反復されずにすむ(手垢に塗れ固定したものにならずにすむ)、まれな条件を三つ上げている。その中の二つ目はブレヒトに関わる場合(それも「控えめな場合」)として、こう言及する――〈著述者が、ことばづかいというものについて単に《知的理解》さえもっているなら――みずからの生む効果についての知識によって――厳密でありながら同時に自由な政治的テクストを生みだせばいい。そういうテクストは、すでに言われていることをあらためて発明し変容させるかのように働き、自身の美的な特異性のしるしについて責任をもつことになる〉。さらにまた、以下は別の断章で詳述されているもの。
〈ブレヒトの場合、イデオロギー批判は、《直接的��》おこなわれているのではない(さもなければ、それはまたしても、しつこい、同義語反復的な、戦闘主義の言述を生み出す結果となっていただろう)。それは、美的な中継を経ておこなわれる。反イデオロギーが、ある虚構の下に身をひそめるわけだ。リアリズムの虚構ではなく、《適正な》虚構にたよるのだ。たぶん、ここにこそ私たちの社会において《美的なもの、美学》の演ずる役わりがあるのだろう。《間接的でしかも他動詞的な〔現実に働きかける〕》言述のための規則を提供する、という役わりである(そういう言述��言語活動を変形することはあるけれども、みずからの支配力、みずからの善意を掲示したりはしない)。〉――「イデオロギーと美学」
 《美的なもの、美学》? 危機が切迫している現状において、それは慎ましいもの、どころか全く呑気で欺瞞的なものに響くだろうか? たしかに、あたかも外部の喧騒から逃れることができるかのように自律性を誇示するだけの言葉を書くだけならば、そうだろう。しかし、言葉を読む/書くという思考の次元というものがあるとするならば、それは、実際に身体が生きている現実から影響をつねに被り続けながらも、現実の生に対して謎めいたずれや断層を幾重にも孕んでいるものだ。言葉は現実そのもの(出来事やそれぞれの生)に対して、直ちに結び付くことはない――「早すぎる、遅すぎる」。ましてやそれが、当然のように久しく繰り返されてきた愚劣を打ち破るために、現在に介入しようと試みる言葉であるならば。もちろん、短絡的に大多数の人々に動員を促すことは、つねに心許ない。その意味で思考、言葉にできることは、あまりに慎ましいものだ。
(240110)
 ブレヒト=バルトの教え。リアリズムではない《適正な》虚構が、具体的にどのようなものであるかは、引用したバルトの文章からはそれ以上詳述されていないが、彼によれば《間接的でしかも他動詞的な》言葉は、読む者の言語活動を変形させる。さらにまた、その言葉によって語られる物事は、反復され自明視されたものとしてではなく、つねに奇異なものとして示し出される(再発見される)。出来事は、つまり、変容可能性に開かれたもの(変化の兆し)として見出される。
 おそらく、美的なものは、あらかじめ自律的なものとして創造されるのではなく、まず第一に外との折衝がなければ生み出されえない。どこまでも「政治的な」現実に対峙しながらも、現状を掻い潜るように揺れ動き、読む者の言語活動(思考の動き)を変形すべく働く言葉――現実に働きかける「問い」となる言葉を、いかにして書くことができるか。
 ここでふたたび、書く身体と読む身体の問題に帰ってくる。
《僕は一体的な作品群〔body of work〕を作り上げたいと考えたことは一度もない。ただ、僕らの体〔body〕――息をする、説明の付かない存在――を作品の中に保存したいとは思う。》
《偉大な本は政治的なものから自らを“解き放ち”、差異という障壁を“乗り越えて”、普遍的真理に向けて人々を一つにする、と人は言うだろう。それはとりわけ、技巧を通して成し遂げられる、と。では、その方法を具体的に見てみましょう、と人は言う――まるで、そうして組み立てられるものが、それを作った衝動とは切り離されるかのように。まるで人間の姿形を考慮することなしに、最初の椅子がこの世に現われたかのように。》
 ――オーシャン・ヴオン『地上で僕らはつかの間きらめく』
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keredomo · 2 years ago
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ヒロスエの手紙
 ヒロスエのごく個人的な恋文が大衆に晒されたことがひたすらに悲しい。  有名人の個人的なことが暴力的暴���に晒されることにカタルシスを覚える者の感覚がまったくわからない。ヒロスエもまた自分と同じく人間であることを想像できない思考回路がわからない。その人が与えてくれる画面越しのきらめきを搾取するばかりで、自分の側からは相手に何の幸福ももたらし得なかった者たちが、ただただ身勝手に期待し身勝手に非難し、おのれの信じてきたものを守るためだけにひどく攻撃する。ヒロスエと自分があたかも対等であるかのように非難するくせに、ヒロスエが人間であることは認めない。その大衆のふるまいが憎い。あなたが信じるものとヒロスエが信じるものとは本来別物であって然るべきなのに、ヒロスエの倫理が自分と同じでなかったことを憎んで、好き放題叩く。あまりにも醜い。
 不倫の報道があるたびに(そもそも不倫を報道することが是である社会が狂っているのだが)大衆は「婚姻制度」を揺るがす事態に動揺して、婚姻制度に反撥した個人を「死んでもよい」くらいの勢いで、思いっきり叩く。その弱さがゆえの攻撃性が私には憎くて仕方ない。婚姻制度を信じることのしょうもなさに、その思考停止に、気づく余地もなく大喜びで信仰してそれが与える正しさに淫して、そんな有様ながら自分が信じているものを信じきれていない弱さを他者への暴力という形に転化させてしまう、無恥。あまりにも愚かだ。暴力に淫する人間の無様なこと。
 「愛」とか「好き」とかの、定義がさだかでないままに流布してしまった概念を扱うのが難しいのと似て、「婚姻制度」をどの程度確固たるものとして扱うかには時代による揺らぎがある。  自我を持つ同士の思想も感性も大きく異なる二者が育む複雑な関係がなす近代以降の恋愛と、国民をふやし国を強くする糧としての繁殖を目論んであつらえられた婚姻制度とは、ほんらい別物でよかったはずだ。一緒くたにしたのは、国家が戸籍管理をスムーズに運用するためだろう。さらに道徳というものを導入し、社会の規律を守れる人間だけが正しい人間であると吹聴する。こうして悪魔的に賢い人間が作り出した婚姻制度は、人権侵害という暴力を正当化する頑丈な武器となった。元来、暴力を振いたくて振いたくて仕方ない生き物である人類はみな、大喜びでその武器を振り回し、人を傷つけまくっている。大いなる権力が認めている道理に従えばおのれもまた正しいものになれるのだと信じ、その正統性を主張することで他者を嬲る暴力の快楽に、愚衆はあらがえない。
 婚姻において夫婦間の愛情関係が維持されるべきだというのは、ロマンティックラブイデオロギーが強要する信仰にすぎない。その信仰を強化するための生ぬるいフィクションが未だに世に喜んで受け入れられているのを、白けた目��見ている。社会に促されるがままに家父長制という神を信仰させられている人間たちは、自身が信仰する神のありかたに反抗する者を断罪したくて仕方ない。セクシャリティの多様性には寛容な態度を示す者も、なぜか婚姻契約の反故については目の色を変えて激怒し暴力を行使しようとする。己の信仰が脅かされれば、安寧もまた脅かされるからだ。狂ったように、自分の信じる脆い倫理の埒外にある人間を傷つけようとする。
 何が正しいのか、何が正しくないのか、正しさの基準点を見定めて自分自身でしかと判断するには、膨大な労力がかかる。それを全うするためには、自分が生きていて手が届く範疇よりも広い世界に眼差しを開き、その無知を恥じ、愚直に学び、知るために奔走し、知がもたらす自己否定の痛みを伴いながら異和を受け入れ、おのれの状況・環境を相対化して広い意味で客観視する必要がある。その学びを怠って、ぬるま湯に浸って生きている人間に、他者を非難する権利などないはずだろう。脊髄反射で他者を叩くことなど、少しでも知性が働けばとても出来やしないはずだ。芸能人の不倫ゴシップに沸き立つ人間が「相手も同じ人間である」「その相手は自分と異なるバックグラウンド・状況に立っている者である」と考え至るだけの想像力を欠いているのは、国家が婚姻制度を「信仰」に仕立て上げたせいだけではない。阿片のように与えられたその信仰を、一度たりとも疑わなかった者の咎でもあるはずだと言いたいのだ。
 一口に婚姻といっても、個のなす一対一の関係である以上、そこに築かれる文脈は膨大なものになる。配偶者のモラルハラスメントからようやく逃げ延びた先が家族ではない他者だったのかもしれない。妊娠だけを強制される性交に苦しんでいた日々の唯一の救いが家族ではない他者だったのかもしれない。もちろん、幸せな結婚生活・家族計画もこの世にはごまんとあるだろう。しかし、それと同じように、幸せではない結婚生活・家族計画もごまんとある。  婚姻関係と家族を神聖視することは、間違いなく一つの宗教にすぎない。それがきちんとあなたに幸福をもたらしてくれているのなら、そのまま信じていてほしい。あなたが幸福であるのなら、私は何の文句もない。けれど、信仰に従った十全な幸福に浸ることが叶わず、異教徒を迫害し討伐しようとして首を刈り耳鼻を削ぎ死体を燃やすような真似だけはしてほしくない。そんなかたちでカタルシスを得たところで、結局はだれも幸福にならない。
 「個人」という概念は近代、明治以降の開化政策によって西洋から日本に導入された。それまでの日本は「共同体」を重んじる社会で、たとえば村落の夜這いのシステムは本来「夜闇にまぎれて女を襲って���勝手な快楽を得るため」ではなく「試しに知り合い同士で体を重ね、もし女性側から性的な面での合意がとれればまぐわい、夫婦となりましょう」といった至極理性的なものであった。そういう伝統を明治維新によってがらりと覆した結果、かつてのシステムが機能しなくなり、人口維持ができないことを恐れ、共同体を離れた個人間の恋愛を繁殖制度に持ち込んだのはほかでもない国家だった。  初めて国際政治の場に立った日本が直面したのは、国家の「武力的」繁栄のために人口を増やす必要があるという喫緊の課題であった。明治政府も大正政府も、戦争の可能性を視野に入れて、兵となる国民を殖やすのに躍起なのだった。それで産めよ殖やせよをやっているうちに、生殖につながる恋愛感情を利用する策を講じたのがうまくいった。その成功体験を引きずってこんにちまできていて、だからLGBTQ+のことを「非生産」として認めないばかげた与党をやっているのだろう。とっくに不戦条約を掲げているはずの憲法を改めてまで戦争を望み、非生産な結婚を望まず、女を産む機械だと言って憚らない政府に反撥するのであれば、婚姻制度自体もきちんと疑うべきではないのか。なぜ陽動されていることに気づかないのか。
 国家の敷いたレールに人生を捧げるかどうかは、個人がそれぞれに選べばいいと思う。ただし、自分が選んだ道を正しい道だと盲信し、他者に強要することだけは避けてほしい。あまつさえ、自分は国家に従っているがゆえに圧倒的に正しく、おのれの盲信に反した他者を叩く権利を持っているなどと前近代的なことを主張するのはやめてほしい。  それぞれの人生をそれぞれが選ぶことを容認し、選んだ道が同じではなかったことを責めることなく、自分だけの人生を謳歌してほしい。それがいわゆる本質的な多様性なのではないか。「多様性」は善性を大いにはらんだ言葉であるように見なされているが、まったくそんなことはない。信じる神が違う者同士が隣人となった時に、いかに共存するか、共存するための自治を対話によって確立できるか、そういう難しい話であるはずだ。一方的に叩き、相手の尊厳を貶めるのは対話ではなく暴��であり戦争の契機にすぎない。
 ヒロスエの手紙を晒すことによる公開処刑は、日本社会の幼稚さをあまりにも無様なかたちで明らかにした。ここまで、大きな社会構造の話をしてきたけれど、最後に個人の話に焦点を戻して終わろう。  誰を責めたところで、自分の人生がよくなることなどないはずだ。無為な、鬱憤晴らしの暴力を他者に振ったところで何も変わらない。見つめるべきは他者よりもおのれではないか。おのれを見つめて、愛のありかを定めるのが、人生というものではないのか。  あなたのそれは、他者を貶めることで守れる程度の安い人生なのか?
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delicissors · 2 years ago
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民主主義では、基本的に投票という「多数決」が重視されるわけだが、多数決が有効に働くためには、事前に人それぞれの正しさや価値観や信念をぶつけあって議論し尽くしている必要がある。そうしてはじめて投票という多数決は、「おさまるところにおさまる」ように機能する。だが、みんなが「正しさ」や「こうあるべき」などの「自分の考えを決めるための価値観」を持っていなければ、多数決は有効には働かない。結局のところ、みんながなんとなく多数決に参加するわけだから、クチのうまい雄弁な政治家、すなわち「もっともらしく話をするだけの扇動政治家��の意見ばかりが採用されるようになっていく。つまり、民主主義は、その場のノリで物事や権力者が決まる無責任な衆愚政治へと成り下がってしまうのである。
「考え方は人それぞれ」が堕落を生む理由を、人気哲学作家がソクラテスで解説 | ニュースな本 | ダイヤモンド・オンライン
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kijitora3 · 8 months ago
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東京の選挙ってどうしてこうバカばかり集まるのか
こいつが都知事になるなんて小池以上の悪夢なんだけど
都民は数が多くて、何にも考えない浮動票もやたらと多く、浮動票はカミツキガメREN4に流れるだろう
民主主義は、大衆のレベルが下がると衆愚政治に堕する見本のような選挙になりそうで今から頭痛がする
負けてもいいから飯山陽さんに都知事選に出てもらって、保守対意識高い系はやりサヨクの対決にしてもらいたい でないと、噛みつきがめと火付け市長の争いという不毛な争いになる
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ari0921 · 9 months ago
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【美しき勁き国へ】国益反する再エネ投資
 櫻井よし子
 産経新聞令和6年4月1日
 河野太郎デジタル相が内閣府で主導した再生可能エネルギーに関するタスクフォース(TF)の会議で事件が起きた。河野氏の推薦でTFに加わった「自然エネルギー財団」事業局長大林ミカ氏が中国の国営電力会社「国家電網公司」のロゴ入り資料を正式に提出していた。わが国のエネルギー政策を議論する政府中枢で中国の資料が使われていた。ここまで浸透されていたかと驚愕(きょうがく)したのは私だけではないだろう。
 河野氏肝煎りのTFは構成員4人のうち、大林氏と高橋洋氏の2人が自然エネルギー財団関係者で大林氏はすぐに辞任した。が、トカゲの尻尾切りのような終わり方で済む問題なのか。
 2011年に孫正義氏が創設した同財団は中国を中心に広くアジア諸国にまたがるエネルギー供給網「アジアスーパーグリッド(ASG)」の実現を目指す。ASGに組み込まれる国は民生、産業、国防、全分野でエネルギー供給の安定を必然的に中国に頼ることになる。国家の首根っこを中国に押さえられるに等しいASGを孫氏らが目指すのは自由だ。しかしなぜ、河野氏はそうした人々を重用するのだろうか。
 気になることを国民民主党幹事長の榛葉賀津也参院議員が指摘した。
 「河野氏が外相当時、気候変動の有識者会合を設置しました。その異常な人選と内容をわが党議員が国会でただした。有識者各氏は意見書で化石燃料由来の発電は中止、石炭火力発電の段階的廃止計画を明示せよなどと再生可能エネルギーを強く推していました」
 平成30年3月23日、参院経済産業委員会で同党の浜野喜史議員がただした。
 「今年2月、外務省は気候変動に関する有識者会合で、エネルギーに関する提言を取りまとめています。これは外務省の見解を示したものですか」
 外務省側は「あくまでも有識者の現状に対する危機感の表明」で、それが「外相(河野氏)に対して提出された」(だけ)と答えた。外務省見解ではないということ��。浜野氏はさらに、有識者9人のうち3人が孫氏の財団の執行メンバーだと指摘した。前述のように今回のTFでは4人中2人が財団関係者だった。
 この人選の偏りは何を示すのか。著名な政治家が主催する会議の結論はおのずと大きな影響力を発揮する。河野氏が再エネ推進で影響を及ぼそうとしているのは明らかだ。動機は何か。氏の自然再生エネルギーへの肩入れ、化石燃料否定はわが国の国益にどう合致するのか。この疑念に関して河野氏はきちん���説明すべきだ。
 政府は、温暖化対策の国際枠組み「パリ協定」に基づく温室効果ガスの削減目標の達成に向け、脱炭素化に10年で官民合わせ150兆円超の投資が必要だと想定し、うち20兆円を支援する方針だ。専門家らはわが国のエネルギーを再エネで賄おうとすると、この額はやがて何倍にも膨らんでいき、日本経済を押し潰すと危惧する。
 いま莫大(ばくだい)な資金を風力発電などに注入することが正しいとは思えないのだ。それがわが国の産業を下支えし、国民生活を豊かにするとも思えないのである。加えて風力発電に関しては設備のほとんどが中国からの輸入だ。利益は中国に吸い取られる。さらなる再エネ賦課金で、ただでさえ国際的に高額なわが国の電気料金は高騰する。国民負担も国内産業への負担も尋常ではない。
 河野太郎氏や自民党の小泉進次郎衆院議員は再エネに莫大な資金を投入し電気自動車(EV)をふやすという。しかし、日米欧のどこでも政府が補助金を出してもEVは消費者から敬遠され始めた。
 EVに熱心だったドイツ政府はEVへの補助金を前倒しで停止した。中国はEVで最先端を走っていたが、今や中国のEV大手、比亜迪(BYD)さえも方向転換してハイブリッド車などに傾いている。にもかかわらず、わが国はまだEVへの補助をやめない。
 再生エネルギー全体に関して国際社会は大きな揺り戻しの中にある。2050年までに二酸化炭素(CO2)排出ゼロを目指し、気温の上昇を1・5度までにおさえるとしたパリ協定への各国政府の姿勢が変化しているのである。
 パリ協定の目標数値に縛られているのは主に先進国であり、ロシアやグローバルサウスの国々には有利な条件が与えられている。先進国が年間5兆ドル(約750兆円)を温暖化対策費用として途上国に払うとき、はじめて彼らも先進国同様のCO2削減の努力をするという条件だ。
 中国がインドとともに途上国に分類されているのは周知の通りだ。そうした中で日本がCO2ゼロに向けて、巨額を支出するのは愚策である。
 ドイツは30年までに石炭から脱出する方針を延期する可能性がでてきた。英国はCO2ゼロの実現よりもエネルギー安全保障の方が重要だとして、化石燃料の段階的廃止に距離をおいた。
 キャノングローバル研究所の杉山大志研究主幹が紹介する「脱炭素からの撤退が始まった」(ロス・クラーク著)には、パリ協定崩壊を示す事例が満載だ。たとえば昨年12月にドバイで開催した国連気候変動枠組み条約第28回締約国会議(COP28)では、議長を務めたアブダビ国営石油公社の会長が3年で石油生産量を約50%増やすと発表した。ブラジルとカナダが石油生産量の拡大を決定した。インドは30年までに石炭生産量を60%拡大する。そして中国だ。21年までの2年間に新規石炭発電所127基の建設を承認し、
その後の2年で承認数は182基まで増えた。
 繰り返す。パリ協定は破綻した。再エネへの巨額の支援、投資はやめるのが国益だ。広く世界を見つめて、日本だけが世界の潮流に取り残され、国力を衰退させる事態は防がなければならない。エネルギー分野でわが国が中国の影響下に置かれることも回避しなければならない。一般常識から見れば奇々怪々の動きを見せてきた河野氏だからこそ、その行動の意味と意図を国民に説明する責任がある。
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kennak · 6 months ago
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国際指名手配しないからこうなる。JRと日本政府の無策がこの事態を招いた。日本は無法外国人に甘すぎだ。
[B! *あとで読む] 「信じられない」「ある種の衆愚政治」新幹線無賃乗車YouTuberが欧州議会当選に日本のSNS衝撃 JRは被害届も提出(女性自身) - Yahoo!ニュース
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