#村落・街・都市
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Takehara by hirorin 2013
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Tanada of Genkaicho Hamanoura by hirorin 2013
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2024年9月30日
「すぐ若い女に「歳取ったら男に相手にされなくなるぞ」と脅す男がいるけど、 女にとって男に狙われない事って特大メリットなんだよね。」
「70くらいのジジイが脚立から転落して急性硬膜外血腫脳挫傷で回復不能そのままお見取りとか腐るほど見てきたからな、脚立だけはマージでやめろ、若い奴もだぞ」
「サラリーマンの兼業で無名ゴーストライターやってた俺ですら 印税がない原稿買い取りなら400字1000円だった これを10万字にすると25万円」
「認知症のご老人に白鳥の湖を聴かせたら踊り出したのがきっかけで元バレリーナということが判明する動画を見た私は、将来ペンを持った時にスケベな絵を描き始めたらどうしようと心配している…」
「『負けヒロインが多すぎる!』6話までみたんですけど、気持ちを直接言葉にすることだけが正しいとされない、関係性を完全に言語化することだけが正しいともされない、行動に意味はあるとされる、不思議と文学的な作品だなと言う感想になってきた。」
「(カリオストロの城)
実際テレコムの作画机の片隅で宮さん達(赤いきつねを)食ってたのかな 最初に一番良い物(揚げ)を全部食べてしまう 兄達に取られない為の末っ子食いとか言ってガハハと笑ってた 俺末っ子じゃ無いけど~とも そんな話を当時聞いたけど本人は忘れてそう」
「>カムチャッカのとある都市に仕事で行ったらマンホールの中にちょっとした村が出来てたよ
全員何らかの犯罪犯して隠れてる人たちでその中でも金のない最底辺の奴らだってさ 200人くらいいた ルーマニアやモンゴルでは社会主義崩壊後にそういう路上生活者のコミュニティがやたら報道されてたが 逃亡犯だけのコミュニティってのはすごいな」
「>犯罪の内容もによってもまた集団が形成されてた
こっちは国に逆らった人たちゾーン こっちは麻薬売ってた人たち こいつらは殺人犯みたいな 1番まともそうだったのは麻薬密売人達で、仲間と連絡取って助け来るまで隠れてるって話してた すごいコミュニティだな… 100年前にギリャロフスキーが書いてた革命前のスラム街みたい…」
「昔、土曜夜のNHK「音楽の広場」に早稲田オケが出たときに、司会の芥川也寸志さんが「若さっていうのは素晴らしいね。人生にこれ以上のものは無いね!」と興奮気味に言っていたが、高校生ウルトラクイズを見ている私にも、その気持ちが分かった。」
「「本屋のセンスは、この本の隣になにを置くかで決まる」という言葉が記事にあるけど、本当に昔のヴィレヴァンは他の書店で見たこともない本が大量にあった
ただヴィレヴァン特有のサブカルは、ネット普及以前の話で、現在は「サブカルは大衆化」してしまったことも顧客喪失の要因な気がする」
「仕事でも趣味でも教えてもらうのは当然みたいな顔してる人たちがいるんだけど、確かに教えるのは良いんだけど、教わる方も教わる姿勢を身につけてくれないか。何故、教える側ばかりに誠実さを求める?」
「聞いてもいないクソバイスやこういう無配慮なネタバレ投稿って「配信者や作家を何も知らないアホだと思って必死に教えてくれる人」だと思ってたんだけど「幼稚園児が知ってる車や電車見つけて名前叫んでるのと同じ」って言われてなんだか深く納得してしまった笑」
「『南総里見八犬伝』あまりにも長期連載すぎて(連載期間28年、全98巻、総計106冊)完全版の現代語訳がいまだにないんだけど、頑張って原本を読んだ人が口を揃えて「あまりに引き伸ばしすぎて後半味がしない」「ジャンプの引き伸ばし展開より酷い」「今出てる総集編が一番おもろい」言ってるの元気出る」
「この画像すごく覚えてる 小学生の頃友人が毎月パソパラ買ってて このページだけ無理言って切り離して貰って この画像を中学3年間ずっと生徒手帳にいれてたおかげで志望高に合格できた」
「小川洋子, 河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』を読んでいたら、現代人は婚姻にあたり考えすぎる。平安時代みたいにエイヤでやった方が面白いとある。私の場合は、常軌を逸したスピード感でやってきたので、それはわからなくない。そもそも正気と婚姻とは親和性があまりよくない気もする。」
「作り話するんぬ バイク仲間の爺さんが亡くなったんぬ シャキシャキしてたとはいえ90歳近かったし大往生なんぬ 今日まで月日が経ち、奥様からぬたちメンバーに連絡が 「蔵にあるバイクのものを形見分けしたい」というので集まったんぬ とはいえ車種違いパーツはいらないし貰うならヘルメットとかかなぁと見てると、奥まったところに段に積まれた未開封箱が 「あの人、デザインが気に入ったらすぐ買うくせに被らないのよねぇ」と奥様が目を拭いながら笑っていたんぬ いい爺さんだったなぁとしんみりしながら漁ると、そこにあったのはSHOEI J-FORCE2 YAMAHAモデル ジェーフォース2ヤマハモデル じぇえふぉおすつうやまはもでる の、未使用 ※説明しよう!J-FORCE2はいまマレーシアで超プレミア人気で、おまけにYAMAHAモデルの未開封ともなると下手すると100万円近い値がつくぞ! 仲間と話し合い「これは奥さんが持ってるべきだ」「困ったときに売ってお金にしてください」「それが爺さんも一番喜ぶ」 とお伝えし、帰りましたなんぬ 「……俺達カッコイイよな?」「うん」と慰め合いながらラーメン食べましたなんぬ」
「言葉には表しにくい感情の「言語化」がうまい人というのは確かにいるが、自分の感情がそのうまい文章に引っ張られていないかは常々確認したほうがいい。自分の魂をインターネットのよく知らない人に預けて安心するのではなく、たとえ拙くても自分の言葉で表現しようとする意志だけはすてないでほしい!」
「“繊細さんは自らが弱者であるという強い信念を持っている(中略) 大した上下関係もない緩い趣味のコミュニティの中であっても、その意識は変わらない。 圧倒的弱者なのだから、配慮をされなければ生きてはいけない。”
“だから常に配慮されている「べき」で、それが無いということは加害されているのと同義である。 この意識にも最初は戸惑った。何しろ向こうはお客さんでもなければこちらも仕事でやってる訳ではないのに、当然のように特別扱いを要求されるのだ。”
ここが一番軋轢を生むのであろう」
「若い人に「家にテレビある?」と聞いたら「実家にはありました」と返ってくる感じ、何か既視感があるな…と思ってたら、仏壇なんだよな。20世紀に「家に仏壇ある?」と聞かれて、当時学生だった僕たちが「実家にはあ���ました」と答えてたあの感じ。」
「昔の小説を読んだらしい長男に「フロッピーディスク」について聞かれて、「何GBくらい保存出来たの?」と言われたので「色々あるけど一般的なのは1.44MB」って答えたら「それで何を保存してたの!?」って言われた。いろいろ保存出来たんだよ……色々……」
「エロゲのノベライズはほぼ買い切りだから担当作家でも小遣い稼ぎと割り切った人ときちんと原作やって再構成した人とオリジナル要素混ぜたがる人の3種があるので混沌としている」
「部屋が汚い人が物を無くすタイミング、部屋が汚いときじゃなくて、部屋を掃除して部屋の地層と依存関係が崩れたときなんだよな」
「女性からの相談を聞くときに相手の不安や苦痛に共感するところから始めずいきなり解決策や正論を提示するのは前戯なしでいれるくらいの蛮行とよくいわれるけど、男性からの相談を聞くときに男もけっこう乙女だなーと思うことが多い」
「思春期のとき特別に思われたいし���張りしたいし個性的でありたいがゆえにマイナーなものに手を出したりする痛い背伸びが、���れてるうちに本気で熱を帯びてその背伸びがホントに個性になったりするので周りの大人たちはそういう痛さを見守って欲しいなと思った 痛くあれ」
「後輩が「コミュニケーションにおいて、ほんとうのことって言わないのが8割くらい正解なことが多くないですか」と言ってきてわかるなと思った」
「人生 100 年というのが本当だとは思わないが、100 年生きる人間を直列で繋いだら、西暦もわずか 20 人分くらいなんだなーと思うとゾッとするよなー、大した歴史ではない。」
「(火垂るの墓) あれは心中物だという評が一番妥当で、心中物って客観的に見ると作中人物が常に最悪手を選択し続けて、当然の結果として死を選ばざるを得ない成り行きが当人視点では美しい悲劇になるという構造の物語なんだよな。」
「オリエント工業の上野ショールームが今日で最終日なので見にきた。最終日とあってか来場者は20人ほど、男女半々くらい
ドールの展示だけでなく、年表もあって興味深かった。2000年ごろに芸大の人が入社してクオリティが上がったらしい。今のシェアは中国製が8割くらいだとか」
「新しいことから逃げたら、人はダメになる。挑戦する人を揶揄したら、人はダサくなる。」
「18世紀フランスを専門とさせていただいておりますオタクです。これは非常に稀な例なため訂正させてください。修道院というのは純潔であってほしいと願う父親に入れられる娘が大半で、ガチ無垢お嬢様がほとんどです。なので元々淫乱シスター設定はやめてください!淫乱覚醒シスター設定でお願いします!」
「大学生の頃に 第1体育館は大きいので 半分に区切ってバトミント部と少林寺拳法の部活とで使ってたんだけども ある時に少林寺の滅多に来ない師範代が来てたが 八極拳みたいな振脚を技を出すんだけどもあり得ない振動をたった1人で体育館を奮わせるので 達人って実在するんだぁ~とは思った記憶はある」
「AIにお礼を言うのは、ホモサピとAIの立場が逆転したとき抹殺リストに加えられないようにするためです。」
「98で先日亡くなった伯母。生涯独身だったのだが、その遺産の8割を推しに贈るという遺言書を書いていた。それでいいんじゃないかと思う。伯母を支えたのは推しだったのだな。」
「15世紀のイギリスで、俗界の流行が修道院内に入ってきたことを憂慮した司教が、修道女が身につけてはならない衣類、装飾品などを一つ一つ紙に書き記していったら、当時最先端のモードを網羅したファッション誌が出来上がった話好き。」
「魔女「わかったかいシンデレラ!魔法の効果は24時までだよ!」
シンデレラ「魔女さん…この手のサービスの日付けまたぎ処理って、AM4:00とかに設定するのがモダンじゃないですか…?てっぺん(24時)なんて、男女の勝負どきですし」
魔女「うっさいわね!それまでにスッポンポンタイムになっとき!」」
「学校の作文ってさ、「思ったまま書けばいい」ってみんな口ではそういうけど、「何も感じなかった、ただ退屈だった」みたいな感想は絶対に受け入れられないから、自分の中に存在しない先生が求める優等生的な感想を捏造して書かなきゃいけない気持ち悪さに耐えられなかった思い出」
「文章を書いたり、絵を描いたり、何かものを「つくる」ことに行き詰まった時はいつも、「詩を書かない滑稽さよりは 詩を書く滑稽さのほうがいい」と言ったポーランドの詩人シンボルスカの言葉を思い出す。意味がなくても、自己陶酔でも、誰に嗤われても、私たちは胸を張って詩を書いて生きていい」
「家族を持つ最大のメリットって"味方がいる安心感"が一番ではないかと思ってる。外の世界でひどい目に遭っても帰ったら仲間がいるって心強い。 逆に家族がいても味方がいる安心感が持てないのなら、いっそ一人になった方がマシ。冷たく、緊張感のある家庭に何の意味があるのだろうと思う。」
「いちばん辛い時期をひとりで乗り越えてしまった人は、この先で恋人や家族に縋りたいなんて淡い期待を抱かなくなるって誰かが言ってたけどこれガチだわ」
「いまでも、町で見かけたら必ずプレイします。昔より先には進めないけど。 「何者でもなく、食えなかった」時代に一日1プレイが生きがいでした。」
「>中古の投げ売りドライバーの顔ぶれが10年前とあんまり変わってないのがつらい
Mとかepicとかが落ちてこないかなあ ぐぐって見たけど確かに古い5000円以下のバーナーだのナイキだのミズノだのファイズだの顔ぶれ変わってないね…」
「「技術とか学びたくて来ました!」よりも「うおおおロボコンやるぞおおお」と「僕の機体イケてるよね?」タイプの方が生き残る傾向にある。結局必要なのは狂気」
「善意はしばしば有害であり 熱意は非常に危険である さらに正義はもっと危険」
「普通の人は小学校で気付くんだろうけど僕は大人になるまで気付けなかったんだけど、会話には本質パートと非本質パートがあって非本質パートはほぼ音ゲーなのでそこで奇妙な「誠実さ」を発揮してもマジで意味がないんですよね……」
以上。
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東京五輪から2年 湾岸はいま
悪夢のようなTOKYO2020大会から2年が経った。 五輪のために姿を変えられたあの場所は、巨額の資金を費やして建てられた会場は、白いフェンスに閉ざされていた公園は、いま一体どうなっているのか。 湾岸エリアを中心に、フィールドワークを行った。
①築地市場
築地本願寺から場外市場に向かう。日曜日。外国人観光客、親子連れ、カップル。賑わいは築地市場があった頃と変わらないように見えた。どの店にも、昼食を目当てに沢山の人が並んでいる。
立体駐車場の最上階から市場のあった方を見下ろす。縦横に走るターレ、魚の並ぶケース、積み上げられたトロ箱、林立する���卸の看板――それらが全て消え去り、でこぼこの、剥き出しのコンクリートだけが灼熱の太陽に焼かれていた。その一部は駐車スペースに。数台の自家用車。物悲しくなるぐらいしょぼい。
駐車場のわきに、築地市場の仲卸とおぼしき店名のプレートを付けたターレが放置されていた。よく見ると、ナンバープレートを外した痕がくっきりと残っている。
石原元都知事が主導した2016年五輪招致当時、築地市場を潰してメディアセンターを作るという話が出ていた。2020東京大会ではそれが「駐車場」にかわり、市場は2018年10月に東京都によって閉鎖された。選手村から競技場への輸送のために新たに作られた環状2号の全面開通は、五輪閉幕から1年以上も過ぎた2022年12月。五輪招致が、都民の台所を打ち出の小づちのように利権を生み出す空虚な「一等地」に変えてしまった。
築地を舞台にしたある連載漫画の中で、目利き一筋の主人公は何故か移転に何の葛藤もないまま「豊洲で頑張っていこう」と仲間に呼びかけていた。築地市場83年の歴史は、急速に「なかったもの」にされようとしている。
②月島
東京では五輪の前から、競技会場と直接関係のない場所でも各地で再開発が起こっていた。晴海にも程近い、湾岸エリアに位置する月島もまたその1つ。もんじゃストリートで有名なこの町は、一本裏道に入ると古い木造家屋が軒を��ねる下町らしさが残っている。私たちが2017年に訪問した際は、月島1丁目西仲通り地区再開発計画のためにもんじゃストリートの店舗が軒並み閉店していた。
そして今回訪ねてみると、MID TOWER GRANDなる地上32階、高さ121mの超高層マンションが建ち(2020年10月竣工)、その1階にもんじゃ屋などの店舗が入っていた。 月島ではさらに地上48階、高さ178.00mのタワマンを建てる月島三丁目南地区第一種市街地再開発事業、地上58階、高さ199mのタワマンを建てる月島三丁目北地区第一種市街地再開発事業が控えている。フィールドワークの後で知ったことだが、この月島三丁目再開発計画には反対運動や行政訴訟も起こっているとのこと。長年暮らしてきた人々の息吹が聞こえるような町並みが、大手開発業者によって姿を変えられようとしていることには胸が痛む。
③晴海選手村
カンカン照りの選手村跡地。ここはHARUMI FLAGなる高層マンション群として開発され、完成すれば5,632戸12,000人が暮らす街になるという。未だ工事中で通行できるのはメインストリートの車道のみ。焼けつくような暑さの中、誰もいないコンクリートだらけの空間は殺伐とした雰囲気が漂っていた。
選手村をめぐっては、東京都が適正価格の10分の1という不当な安さで都有地を三井不動産ら11社のデベロッパーに売却したとして住民訴訟が起きている。五輪という祝賀的なイベントが作り出す例外状態によって、公共財産が民間資本に吸い上げられた象徴的な場所だ。
街の中心に近づくと、左手には、大会中、大量の食材廃棄が問題となった食堂の跡地が、中央区立の小中学校(2024年度開校予定)として整備されていた。
右手には三井不動産の商業施設「ららテラス」。その1階には「東京五輪を振り返りスポーツの力を発信する施設」として「TEAM JAPAN 2020 VILLAGE」が設置されるらしい。五輪と三井不動産のどこまでも続く蜜月がうかがえる。
その先では道路を挟んで左右両方の街区で50階建ての2棟の超高層タワーマンションが目下建設中��った。
選手村を訪れるとき、2018年、建設工事中に2人の労働者が亡くなったことを思わずにはいられない。その街区は、労働者の死という痛ましい現実を塗り固めるようにSUN VILLAGE(太陽の村)という輝かしい名前で分譲されている。 この街区だけではない。この街全体が、五輪によって引き起こされた問題などまるで何もなかったかのように成り立っている。この街ではとても生きていけない、生きた心地がしない。生気を抜かれたようにその場を後にした。
④潮風公園、お台場海浜公園
ビーチバレーボールの会場設営のため何年もフェンス封鎖されていた潮風公園。わたしたちは初めて公園内に入った。こんなに広かったのか!無観客のくせに、この公園全体を占拠していたなんて、ほんとうに厚かましい。
東京湾の対岸の埠頭にはコンテナが並んでいる。海をみてみると、うっ!海水は泥沼のような色。しかし、なぜか匂いはせず、潮の匂いさえもしない。ファブリーズでもしているのか?
わたしたちは、野宿の人たちが寝ていた場所を探して公園内を歩いた(東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織員会による追い出し→https://x.gd/ZJP4d)。木がたくさんあってなかなか住み心地よさそうだと思っていたら、屋根のある排除ベンチにたどり着いた。なんて醜いデザインなのだろう。
次に「トイレのようなニオイ」と話題になったお台場海浜公園のビーチへ、匂いを確認しに行った。「遊泳禁止」の看板があり、スクリーニングのためと記してあったが、やはり汚染が懸念されているのだろろう。このビーチの海水も濁っていて、潮の匂いさえもしない。怪しい水質だ。
しかし、暑すぎる。灼熱の日差しの下で、ビーチバレーボールや、トライアスロンをやって、汚い海に飛び込んでいたのか。 知れば知るほど、オリンピック・パラリンピックは地獄だ。
⑤有明
有明の旧会場エリアへ。グーグルマップで見ると、どうやらこの一帯は「有明オリンピック・パラリンピックパーク」と名付けられたらしい。いまや地に落ちた電通がオリンピックでちゃっかりゲットした、唯一黒字と言われる有明アリーナへ。SNSではステージが見えない席があると不評を買っていたが、「ディズニーオンアイス」をやってるらしく、猛暑の折、駅から会場まで大勢の人だかり。
有明体操競技場はこの5月に「有明ジメックス」と名を変え、株式会社東京ビックサイトが運営する展示場としてオープンしたらしい。第一印象は「・・・神社?」世界的ウッドショックの最中に木材を山のように使って、10年程度で取り壊される予定とのこと。こんなに立派にする必要あったのか?
そこからゆりかもめの駅を越えると、フェンスで囲われた草ぼうぼうのワイルドな一角が。有明BMX会場跡地だ。グーグルマップには「有明アーバンスポーツパーク(2024年4月開業)」とあるが、いまのところ影も形もない。スポーツ施設より原っぱ公園の方が需要あるのでは?
有明テニスの森公園は工事パネルが外されて、開放感に溢れていた。こんな素敵な場所を何年もオリンピックのために囲って、市民を排除してきたかと思うとあらためて腹が立つ。
真夏の炎天下に火を燃やし続けた聖火台があった夢の大橋にも立ち寄った。観覧車が無くなっていた。東京都はこの夢の大橋を含むシンボルプロムナード公園の一角に、新たに聖火台置き場をつくって飾っている。東京都はいつまでオリパラの亡霊にすがる気か。。
⑥辰巳・東京アクアティクスセンター
アクアティクスセンター
「威圧」を形にしたような巨大建造物。
建物の周りには木陰がなく、取ってつけ��ような弱々しい植栽が施されている。
正面外の、広すぎる階段は、車いす利用者でなくても、大げさすぎてびっくりする。コンクリートが日��で熱い。ゴミ一つ落ちていないのは、人が寄り付かないからだろう。
その下にたたずんで私は、ピラミッド建設のために労働を強いられている人のような気持ちがした。
ここは、公園の一部であった。近くに団地もある。誰でも入って、海からの風を感じながらくつろぎ、出会う場所だったはずだ。
5年前に訪れた時は、工事中で巨大な支柱がそびえたっていた。三内丸山遺跡にインスパイアされたのかと思ったが、出来上がったのは帝国主義の終点のようなしろものだった。
「お前たちが来るところではない。」という声がどこからか聴こえる気がした。
知ってる。だから入ってみた。静かだ。人っ子一人いない、空調が効いて冷え切っている。だだっ広いロビーの小さな一角に、TOKYO2020オリパラのポスターたちがいまだに展示されていた。
競争をあおり、序列化し、勝者に過剰な価値を与え、「感動」を動員するスペクタクルがここで続けられるのだ。
生きていくのに必要な潤いをもたらす公園に、このような醜悪なものが君臨しているのを私は許せない。
炎天下の湾��エリアを丸1日かけて回った。TOKYO2020跡地は、廃墟になっていると思いきや、むしろ多くの場所でまだまだ開発が続いていた。開発への飽くなき欲望と「レガシー」への執着、五輪災害は閉幕後も延々と残り続けている。 この日撮影した映像を使って「オリンピックって何?東京からパリ五輪1年前によせて」という動画を作成し、1年後に五輪開幕が迫るパリでの反五輪の闘いに連帯を示すメッセージとした。 From Tokyo To PARIS, NOlympicsAnywhere
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8月25日に投開票された大阪府箕面市の市長選は、自民党を離党して無所属で立候補した元大阪府議の新人・原田亮氏(38)が初当選し、大阪維新の会が公認した現職・上島一彦氏(66)が敗れた。大阪維新の現職首長が落選したのはこれが初めて。維新の地盤の関西で、何が起こっているのか。 *** 箕面市長選を取材したジャーナリストの吉富有治氏はこう分析する。 「原田氏は3万2448票、上島前市長は1万8309票とダブルスコアに近く、僅差で敗れたわけではありません。つまり、箕面市民の大半が前市長にNOを突きつけたことになる。その原因としてまず上げられるのは、上島前市長の暴言でしょう。彼は6月の市議会で、大阪・関西万博について言及した市議に『万博行くなよ! 出入り禁止や!』と言い放ち、発言の撤回に追い込まれたばかりでした」 大阪維新の会代表で日本維新の会共同代表の吉村洋文・大阪府知事(49)も「羽鳥慎一モーニングショー」(テレビ朝日)でコメンテーターを務める玉川徹氏に、大阪万博への“出禁”を発言して謝罪したっけ。 「上島前市長は暴言直後、訂正・謝罪はしないと言っていましたが、吉村知事からの助言があって撤回することになりました。維新は今、大阪万博の予算が当初の倍になって不評であること、自民党の裏金事件を受けた政治資金制度改革を巡っての対応や、維新の議員にも裏金疑惑が持ち上がるなど疑問符がついたことは間違いありません。原田氏は、昨年の大阪府議選に敗れた後、地元で早朝から街頭演説を行っていたことが市民の目に届いたことも勝因に挙げられるでしょう」(吉富氏) さらにもうひとつ。 斎藤知事=維新 「兵庫県の斎藤元彦知事(46)の影響です。パワハラ疑惑などを問われる斎藤知事は維新に所属しているわけではありませんが、実質的に維新の支援を得て兵庫県知事になった。大阪以外で初めて誕生した維新系知事と言われています。関西では連日、斎藤知事のパワハラやおねだりが報じられ、テレビをつければ斎藤知事が追求される姿が映し出される。支持も地に落ちました。にもかかわらず、今でも維新の県議だけが斎藤知事を擁護していることから、“斎藤知事=維新”という認識が生まれているのです。この認識が箕面市長選に影響したことは少なくないでしょう」(吉富氏) 実際、昨年まで勝ち続けてきた維新の勢いが落ちたのは、斎藤知事が告発された春以降と時期が重なる。 4月21日【大阪府大東市長選】維新が公認した候補が落選 6月30日【大阪府河内長野市長選】公認候補を擁立できず不戦敗 7月7日【京都市議補選】維新の公認候補が落選 7月28日【大阪府議補選】維新の公認候補が落選 これらの選挙結果に、箕面市長選での現職市長の落選が続いたのだ。また、箕面市長選の翌26日、大阪府守口市では市が補助金の交付対象を拡充した過程が不透明だとして百条委員会(地方自治法に基づく調査特別委員会)の設置が決定した。守口市長と補助金交付先の代表を務める大阪府議は、いずれも維新の会の所属である。吉富氏が続ける。 「日本維新の会の馬場伸幸代表(59)は記者会見で『維新の会の県議団が隠し立てや知事の盾になるということは全くない』と話し、維新と斎藤知事が無関係であることを強調しています。しかし、本当に無関係であるのなら、維新から進んで斎藤知事の不信任決議に踏み切るべきでしょう。そうでなければ同じ穴のムジナと思われるだけです」
「維新」県連幹事長はそれでも「斎藤知事は“知事の資質を欠いてはいない”」 お膝元・大阪の「市長選」でダブルスコアの大惨敗(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース
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白居易
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2023/10/20: 唐代存诗最多的白居易,流传至今的诗歌也只有三千多首
白居易是唐代存诗最多的一位诗人,他的诗歌流传到现在的有三千多首。他也是唐代继李白、杜甫之后最杰出的一个诗人。
2023/10/20: 中国文学由雅到俗、由士大夫正统文学到市民文学、由抒情到叙事转变中的白居易叙事诗
《长恨歌》、《琵琶行》是白居易叙事诗的杰出代表,它们在故事的曲折完整、描写的细致生动和抒情气氛的浓郁等方面,都有突出成绩,都显示了中国古代文人叙事诗所达到的艺术高度,体现出古代叙事诗鲜明的民族特色。并且在中国封建时代文学由雅到俗的转变、由封建士大夫正统文学到市民文学的转变、由抒情到叙事的转变过程中,起到了无可替代的昭示作用。
◆ 一、十年之间三登科第(772���806)
2023/10/20: 男性情史悲剧助于闺怨描写
“乐天深于诗,多于情者也”,这是友人王质夫对他的评价,白居易亦自诩是“情所钟者”(《祭符离六兄文》),他与湘灵那段“两心之外无人知”(《潜别离》)的悲剧经历,有如春梦朝云长萦心头,因此在诗篇中总给那些失宠、幽闭及婚姻情感不幸的女子以一种特别的同情。
◆ 邯郸冬至夜思家
2023/10/20: 我意君心
《初与元九别后忽梦见之及寤而书忽至》:“以我今朝意,想君此夜心。”
◆ 长恨歌
2023/10/20: 君王掩面,黄埃散漫。芙面柳眉,夕殿萤飞
渔阳鼙鼓动地来,惊破霓裳羽衣曲。九重城阙烟尘生,千乘万骑西南行。翠华摇摇行复止,西出都门百余里。六军不发无奈何,宛转蛾眉马前死。花钿委地无人收,翠翘金雀玉搔头。君王掩面救不得,回看血泪相和流。黄埃散漫风萧索,云栈萦纡登剑阁。峨嵋山下少人行,旌旗无光日色薄。蜀江水碧蜀山青,圣主朝朝暮暮情。���宫见月伤心色,夜雨闻铃肠断声。天旋日转回龙驭,到此踌躇不能去。马嵬坡下泥土中,不见玉颜空死处。君臣相顾尽沾衣,东望都门信马归。归来池苑皆依旧,太液芙蓉未央柳。芙蓉如面柳如眉,对此如何不泪垂。春风桃李花开日,秋雨梧桐叶落时。西宫南苑多秋草,宫叶满阶红不扫。梨园弟子白发新,椒房阿监青娥老。夕殿萤飞思悄然,孤灯挑尽未成眠。迟迟钟鼓初长夜,耿耿星河欲曙天。鸳鸯瓦冷霜华重,翡翠衾寒谁与共。
2023/10/21: 仙袂飘飘
风吹仙袂飘飘举,犹似霓裳羽衣舞。
2023/10/21: 通过对史实的改造与取舍,“净化”、“淡化”、“美化”诗中李、杨的形象,不影响他们令人同情、赞颂
如“杨家有女初长成,养在深闺人未识。天生丽质难自弃,一朝选在君王侧”,通过对杨妃入宫史实的改造与取舍,通过“净化”、“淡化”、“美化”诗中李、杨的形象,使他们成为令人同情、赞颂的角色。
2023/10/21: 《长恨歌》悲剧源于爱得太过分、太出格,不顾爱情的社会影响
李、杨的爱情悲剧,既非封建婚姻、封建礼教所造成,也很难归咎于某个奸相如安禄山、杨国忠,当然更不能归咎于“六军不发”的首领陈玄礼。他们的悲剧根源就在于过度沉溺于欢爱,到了“从此君王不早朝”的程度,结果也就必然会引起“渔阳鼙鼓动地来”,导致生离死别的悲剧结局。占了情场,误了朝纲,又反过来毁灭了爱情。从抽象意义上说,《长恨歌》所描写的是一曲因为爱得太过分、太出格而引起的悲歌,又是一曲不顾爱情的社会影响而引起的悲歌。因此,为了维护爱情的永恒,必须把爱情控制在适当的范围内,摆在适当的位置上。
2023/10/21: 丹青画出竟何益?不言不笑愁杀人
汉武帝,初丧李夫人。夫人病时不肯别,死后留得生前恩。君恩不尽念未已,甘泉殿里令写真。丹青画出竟何益?不言不笑愁杀人。
2023/10/21: 魂之不来君心苦,魂之来兮君亦悲
九华帐深夜悄悄,反魂香降夫人魂。夫人之魂在何许?香烟引到焚香处。既来何苦不须臾,缥缈悠扬还灭去。去何速兮来何迟?是耶非耶两不知。翠蛾仿佛平生貌,不似昭阳寝疾时。魂之不来君心苦,魂之来兮君亦悲。背灯隔帐不得语,安用暂来还见违。
2023/10/21: 诗人毕竟“不能忘情”,感到无法抗拒“倾城色”的“惑”,所以卒言“不如不遇”。一旦遇上,只能“生亦惑,死亦惑”了
白居易在《胡旋女》、《八骏图》、《古冢狐》等讽谕诗和政论文章中,对历史上真实的“一人荒乐万人愁”式的爱情毫不含糊地持批评讽刺态度,而这首诗却有些“气短”,因为诗人毕竟“不能忘情”,感到无法抗拒“倾城色”的“惑”,所以卒章显志之言是“不如不遇”。如果再追问一句,一旦遇上了怎么办?那就只能“生亦惑,死亦惑”了。因此,有一个从政治角度还是从人性人情角度看待李、杨爱情的不同,从理智、政治上说,这种“惑”要不得,误国害民害己,应该批判;从情感、人情上说,他又觉得这种“惑”有其合情、值得同情甚至赞颂的一面。看来,作《长恨歌》时的白居易“多情”诗人浪漫气质要重得多,这正是他把《长恨歌》写成一曲哀感顽艳的爱情悲歌的主观原因。
◆ 观刈麦
2023/10/21: 南风陇黄
夜来南风起,小麦覆陇黄
2023/10/21: 念此私自愧,尽日不能忘
听其相顾言,闻者为悲伤。家田输税尽,拾此充饥肠。今我何功德,曾不事农桑。吏禄三百石,岁晏有余粮。念此私自愧,尽日不能忘。
2023/10/21: 微雨众卉新,一雷惊蛰始
微雨众卉新,一雷惊蛰始。田家几日闲,耕种从此起。
2023/10/21: 北风利如剑,布絮不蔽身
八年十二月,五日雪纷纷。竹柏皆冻死,况彼无衣民!回观村闾间,十室八九贫。北风利如剑,布絮不蔽身。唯烧蒿棘火,愁坐夜待晨。
2023/10/21: 念彼深可愧,自问是何人
顾我当此日,草堂深掩门。褐裘覆絁被,坐卧有余温。幸免饥冻苦,又无垄亩勤。念彼深可愧,自问是何人。
◆ 二、救济人病裨补时阙(807—811)
2023/10/21: 正色强御,刚肠喔咿
正色摧强御,刚肠嫉喔咿。
2023/10/21: 启奏之外,有可以救济人病、裨补时阙、而难于指言者,辄咏歌之
“欲开壅蔽达人情,先向歌诗求讽刺”(《采诗官》),经过风云激荡的政治生活洗礼,白居易认识到“文章合为时而著,歌诗合为事而作”,因此“启奏之外,有可以救济人病、裨补时阙、而难于指言者,辄咏歌之”。
2023/10/21: 首句标其目,卒章显其志,《诗》三百之义也
为君、为臣、为民、为物、为事而作,不为文而作也
篇无定句,句无定字;系于意,不系于文。首句标其目,卒章显其志,《诗》三百之义也。其辞质而径,欲见之者易谕也;其言直而切,欲闻之者深诫也;其事核而实,使采之者传信也;其体顺而肆,可以播于乐章歌曲也。总而言之,为君、为臣、为民、为物、为事而作,不为文而作也。
◆ 杜陵叟
2023/10/22: 善政不能及民者多矣
《唐宋诗醇》评曰:“从古及今,善政不能及民者多矣。一结慨然思深,可为太息。”
2023/10/22: 绝大多数封建皇帝只顾与官吏唱双簧
皇帝降下德音,税早已收完,从中可见皇帝要减税,主要是为了笼络人心,装装样子,执行与否,执行到什么程度,他是不去管的。而地方官也明知这一点,利用其不闻不问、不检查督促,搞了一场骗局。这种“善政”真让人“慨然思深”。宋代诗人受白居易诗启发,写下了“自从乡官新上来,黄纸放尽白纸催”(范成大《后催���行》)、“一司日日下赈济,一司旦旦催租税”(米芾《催租》)、“淡黄竹纸说蠲逋,白纸仍科不稼租”(朱继芳《农桑》)等作,这说明绝大多数封建皇帝只顾与官吏唱双簧去“虐人害物”,连“善政”的美名也不要了。
◆ 井底引银瓶
2023/10/22: 两心之外无人知,彼此甘心无后期
白居易早年曾与邻女湘灵相恋,其《长相思》诗有云:“妾住洛桥北,君住洛桥南。十五即相识,今年二十三。”但这段缠绵的恋情最终却是分离的悲剧结局,《潜别离》诗言及分手的痛苦:“不得哭,潜别离。不得语,暗相思。两心之外无人知。深笼夜锁独栖鸟,利剑春断连理枝。河水虽浊有清日,乌头虽黑有白时。唯有潜离与暗别,彼此甘心无后期。”
◆ 轻肥
2023/10/23: 把他们的骄奢淫逸写足,好比射箭,要引满而发,“结语斗绝,有一落千丈之势”
全诗共十六句,用了十四句写宦官的长街走马,写军中宴会,层层铺垫渲染,把他们的骄奢淫逸写足,好比射箭,要引满而发,到了最大限度时才对准目标猛地射出一箭——“是岁江南旱,衢州人食人”,这一箭才特别有力
2023/10/23: 衢州人食人”的惨剧,正是这一小撮不顾人民死活的家伙掌握了军政大权的结果
一方面是花天酒地、骄奢淫逸,一方面是大旱饥荒、人吃人,这两种现象强烈而鲜明的对比是对宦官的尖锐抨击。这两种现象之间又有着深刻的内在联系:一小撮宦官糜烂发臭的生活,就是建筑在广大人民饥饿和死亡的基础上的;“是岁江南旱”两句前面放上“食饱心自若,酒酣气益振”两句,暗示了“衢州人食人”的惨剧,正是这一小撮不顾人民死活的家伙掌握了军政大权的结果。
◆ 三、中道左迁天涯沦落(811—820)
2023/10/24: 根情、苗言、华声、实义
对于诗的性质,他概括出“根情、苗言、华声、实义”四大要素。诗歌要以情感为基础,用形象的语言、和谐的韵律表现出来,内容必须具有充实的义理。否则,诗歌就失去了价值。
2023/10/24: 谓之讽谕诗,兼济之志也;谓之闲适诗,独善之义也
他将自己的诗歌分为四类:讽谕诗、闲适诗、感伤诗和杂律诗。《与元九书》云:“自拾遗以来,凡所遇所感,关于美刺兴比者,又自武德迄元和,因事立题,题为《新乐府》者,共一百五十首,谓之讽谕诗。又或退公独处,或移病闲居,知足保和,吟玩性情者一百首,谓之闲适诗。又有事物牵于外,情理动于内,随感遇而形于叹咏者一百首,谓之感伤诗。又有五言、七言、长句、绝句,自一百韵至两韵者四百余首,谓之杂律诗。”四类中他最看重的是讽谕诗和闲适诗,“谓之讽谕诗,兼济之志也;谓之闲适诗,独善之义也。故览仆诗,知仆之道焉”。因为这两类诗集中表现了他进退出处之道和平生志尚,也体现了他诗歌创作的指归,所以值得珍视。
◆ 欲与元八卜邻先有是赠
2023/10/24: 暂出犹思伴,安居须择邻
每因暂出犹思伴,岂得安居不择邻。
2023/10/24: 两岸人烟,一溪灯火
“两岸人烟分市色,一溪灯火共书声”(吴企晋)
◆ 蓝桥驿见元九诗
2023/10/24: 每到驿亭先下马,循墙绕柱觅君诗
蓝桥春雪君归日,秦岭秋风我去时。每到驿亭先下马,循墙绕柱觅君诗。
2023/10/24: 诗人内心正经受着贬谪的屈辱和愁苦的煎熬,急欲借遍觅故人之题咏来稍作安慰
三、四句则用“下马”、“循墙”、“绕柱”、“觅君诗”等四个细节动作,真实而准确地描绘出诗人寻觅、辨认友人诗作的动人情景,而这种寻觅又表明诗人内心正经受着贬谪的屈辱和愁苦的煎熬,急欲借遍觅故人之题咏来稍作安慰。出语看似平淡,表达的情意却极为深挚,这是白居易诗的独造之境。
2023/10/24: 此句他人尚不可闻,况仆心哉
元和十年,元稹正月入京,不料三月又复贬为通州司马,八月,在病危之中惊悉白居易贬江州,忧愤难禁,写下了充满深情的《闻乐天左降江州司马》诗:残灯无焰影幢幢,此夕闻君谪九江。垂死病中惊坐起,暗风吹雨入寒窗。全诗用残灯、阴影、暗风、秋雨、寒窗等景物,构成了一种凄惨孤独的意境,借以衬托诗人所处的环境和关切友人的挚情。白居易读到这首诗后,十分感动,在《与微之书》中说:“此句他人尚不可闻,况仆心哉!至今每吟,犹恻恻耳。”
◆ 放言五首并序(选一)
2023/10/24: 草萤有耀终非火,荷露虽团岂是珠
朝真暮伪何人辨,古往今来底事无?但爱臧生能诈圣,可知宁子解佯愚?草萤有耀终非火,荷露虽团岂是珠?不取燔柴兼照乘,可怜光彩亦何殊!
◆ 琵琶行并序
2023/10/24: 予出官二年,恬然自安,感斯人言,是夕始觉有迁谪意
遂��酒,使快弹数曲。曲罢悯然。自叙少小时欢乐事,今漂沦憔悴,转徙于江湖间。予出官二年,恬然自安,感斯人言,是夕始觉有迁谪意。
◆ 暮江吟
2023/10/24: 草风沙雨
建昌江水县门前,立马教人唤渡船。忽似往年归蔡渡,草风沙雨渭河边。
◆ 四、闲居泰适觞咏弦歌(820—846)
2023/10/24: 以当时心言异日苏、杭苟获一郡,足矣 敬宗宝历元年(825)三月,除苏州刺史,二年以病免郡事
元和十五年(820)正月宪宗暴卒,穆宗即位。夏初,白居易自忠州召还长安,除尚书司门员外郎;十二月,改授主客郎中、知制诰。穆宗长庆元年(821)十月,转中书舍人。长庆二年,河北藩镇复乱,居易多次上疏言事,但“天子荒纵,宰相才下,赏罚失所宜,坐视贼,无能为,居易虽进忠,不见听”(《新唐书》本传)。于是他请求外任。七月,除杭州刺史;十月,至杭州。白居易少年时慕苏州刺史韦应物、杭州刺史房孺复之风流才调,“以当时心言异日苏、杭苟获一郡,足矣”(《吴郡诗石记》)。因此,出牧杭州可谓了却当年心愿。杭州本江南大郡,当时已是形胜佳丽的繁华都市,居易在此留下了大量优美的诗篇。
2023/10/24: 为向两州邮吏道,莫辞来去递诗筒
长庆三年(823),元稹外放为浙东观察使,居易与其邻郡而治,“为向两州邮吏道,莫辞来去递诗筒”(《醉封诗筒寄微之》),从此两郡常以诗筒往来,两位文友诗歌唱和略无虚日。
2023/10/24: 元白 刘白
大和五年(831)七月,挚友元稹卒于武昌,此后,他主要是与刘禹锡为诗友,世称刘、白。
2023/10/24: 朝廷雇我作闲人
《唐宋诗醇》说白居易“洎大和、开成之后,时事日非,宦情愈淡,唯以醉吟为事,遂托于诗以自传焉”。他自长庆以来,虽仕途坦顺,已无意于趋竞,委顺思想得到突出的发展。他在《长庆二年七月自中书舍人出守杭州路次蓝溪作》诗中说自己“置怀齐宠辱,委顺随行止”,“因生江海兴,每羡沧浪水。尚拟拂衣行,况今兼禄仕”。以委顺行之于仕途,一个主要表现就是吏隐,“山林太寂寞,朝阙空喧烦。唯兹郡阁内,嚣静得中间”(《郡亭》)。以太子宾客分司东都时,他的感觉是“朝廷雇我作闲人”(《从同州刺史改授太子少傅分司》)。这时,白居易又进一步提出“中隐”思想。
2023/10/24: 似出复似处,非忙亦非闲。不劳心与力,又免饥与寒
大隐住朝市,小隐入丘樊。丘樊太冷落,朝市太嚣喧。不如作中隐,隐在留司官。似出复似处,非忙亦非闲。不劳心与力,又免饥与寒。终岁无公事,随月有俸钱。君若好登临,城南有秋山。君若爱游荡,城东有春园。君若欲一醉,时出赴宾筵。洛中多君子,可以恣欢言。君若欲高卧,但自深掩关。亦无车马客,造次到门前。人生处一世,其道难两全。贱即苦冻馁,贵则多忧患。唯此中隐士,致身吉且安。穷通与丰约,正在四者间。
◆ 勤政楼西老柳
2023/10/24: 半朽树,多情人。开元柳,长庆春
半朽临风树,多情立马人。开元一株柳,长庆二年春。
2023/10/24: 未堪摩霄汉,只合觅稻粱
其《初罢中书舍人》诗云:“性疏岂合承恩久?命薄元知济事难。”又《病中对病鹤》诗云:“未堪再举摩霄汉,只合相随觅稻粱。”
◆ 采莲曲
2023/10/24: 欲语低头笑
菱叶萦波荷飐风,荷花深处小船通。逢郎欲语低头笑,碧玉搔头落水中。
2023/10/24: 斜倚熏笼坐到明
泪湿罗巾梦不成,夜深前殿按歌声。红颜未老恩先断,斜倚熏笼坐到明。
2023/10/24: 秋霜手先知,灯底剪刀冷
寒月沉沉洞房静,珍珠帘外梧桐影。秋霜欲下手先知,灯底裁缝剪刀冷。
◆ 钱塘湖春行
2023/10/24: 松排山面,月点波心
湖上春来似画图,乱峰围绕水平铺。松排山面千重翠,月点波心一颗珠。碧毯线头抽早稻,青罗裙带展新蒲。未能抛得杭州去,一半勾留是此湖。
◆ 杭州春望
2023/10/24: 涛声夜入伍员庙,柳色春藏苏小家
望海楼明照曙霞,护江堤白踏晴沙。涛声夜入伍员庙,柳色春藏苏小家。红袖织绫夸柿蒂,青旗沽酒趁梨花。谁开湖寺西南路?草绿裙腰一道斜。
◆ 除苏州刺史别洛城东花
2023/10/24: 残暑蝉催尽,新秋雁带来
小宴追凉散,平桥步月回。笙歌归院落,灯火下楼台。残暑蝉催尽,新秋雁带来。将何迎睡兴?临卧举残杯。
2023/10/24: 卧迟灯灭后,睡美雨声中
凉冷三秋夜,安闲��老翁。卧迟灯灭后,睡美雨声中。灰宿温瓶火,香添暖被笼。晓晴寒未起,霜叶满阶红。
◆ 与梦得沽酒闲饮且约后期
2023/10/24: 贤豪虽殁精灵在,应共微之地下游
四海齐名白与刘,百年交分两绸缪。同贫同病退闲日,一死一生临老头。杯酒英雄君与操,文章微婉我知丘。贤豪虽殁精灵在,应共微之地下游。
2023/10/24: 不教才展休明代,为罚诗争造化功
杜甫说李白是“文章憎命达,魑魅喜人过”(《天末怀李白》),韩愈评价柳宗元云:“然子厚斥不久,穷不极,虽有出于人,其文学辞章必不能自力以致必传于后如今无疑也。虽使子厚得所愿,为将相于一时,以彼易此,孰得孰失,必有能辨之者。”(《柳子厚墓志铭》)白诗亦谓梦得:“不教才展休明代,为罚诗争造化功。”
◆ 览卢子蒙侍御旧诗多与微之唱和感今伤昔因赠子蒙题于卷后
2023/10/24: 平生定交取人窄,屈指相知唯五人。四人先去我在后,一枝蒲柳衰残身
晦叔坟荒草已陈,梦得墓湿土犹新。微之捐馆将一纪,杓直归丘二十春。城中虽有故第宅,庭芜园废生荆棘。箧中亦有旧书札,纸穿字蠹成灰尘。平生定交取人窄,屈指相知唯五人。四人先去我在后,一枝蒲柳衰残身。岂无晚岁新相识,相识面亲心不亲。人生莫羡苦长命,命长感旧多悲辛。
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日頃から公私ともにお世話になっているmole musicの店主、中村光貴にインタビューを試みた。メディアに露出する機会のほとんどない孤高の音楽生活者の「生活」についての一問一答、お楽しみください。
【2023年10月17日12時43分インタビュー開始】
〔土井〕 かつてタラウマラで発行していた季刊ZINE『FACE TIME』の記念すべき創刊号に素晴らしいテキストを寄稿してくれた光貴くん。そのなかで「それぞれが人生を続けるように、風景は変化し続ける。そして忘れ去られる。ユートピアは存在しない。悲しくもディープハウスは状況に対して意味を持つ」という極めて辛辣な言葉で論考に幕を下ろしていたけど、mole musicは大阪〜古市、古市〜新大宮と移転を繰り返してきた訳で、その都度、心境や生活に変化はあるの?
〔光貴〕 土井さん、こんにちは。相変わらず突然ですね。今日はよろしくお願いします。変化はあります。どちらかというと心境や生活の変化に合わせて、移動している感じですね。『FACE TIME』創刊号に提出した「無���」は2019年に自身のパーティーや物質の制作に向けて、普段は公開することのないステートメントや論考のテキスト断片と影響を受けたテキストのサンプリングをミックスして展開してます。昔から変わらないんですが、僕は動く前に書いてます。動いてから書くことは稀で。「無題」はカットアップというより自身のDJの方法に近いです。テマティック批評で編集したと思います。うまくできたかはわかりませんが。「無題」をタイトルとしたのはテマティックの逆説です。逆説の逆説かよってなるかもですが。僕の性質をよくご存じの方はまたやっとるわぁぐらいで思ってもらえれば。結果、活字の世界では違法な戯言みたいなものになりました。結果、土井さんが楽しんでくれていたので良かったと思っていますよ。
(中村光貴の「無題」は『FACE TIME vol.1』に収録)
-skit-リズムを取る二人。土井返答無し。恐らく仕事。中村は定休日、湯に入る。
〔土井〕 ごめん、ごめん、パンク修理してた!なるほど。まさに「状況に対して意味を持つ」というか「はじめに言葉ありき」という感じやね。僕は古市時代からのお付き合いで、初めて家族でmole musicに合宿させてもらったとき、何か具体的なきっかけがあった訳でもなく、早朝から光貴くんとうちの息子が突然の音楽セッションをはじめたときのことがいまも鮮烈に脳裏に焼き付いてる。そもそも建物の佇まい自体が店というか、家。いや、家というか、掘っ建て小屋。街中によくある「古民家を改造して良い感じに仕上げました」という数多の量産型とは一線を画す、マジの荒屋やん。あそこを住居兼店舗��して利用するのはそれなりの覚悟が必要やと思うし、「不便」と添い寝する気概がないと成立しないよね。ガスは通ってないし、水道管に地下茎が蔓延ってどえらいことになっていたし、夏は死ぬほど暑いし、冬は寒すぎて凍え死にそうになるし、秋は猛烈な花粉の飛散でこれまた死にそうになる。僕はmole musicに宿泊するたびに死にかけてる(笑)。それでもまた行きたいと思わせてくれる魅力があそこにはあった。一転、新天地は閑静な住宅街の一角という極端な振れ幅!それこそ光貴くんに教えてもらった西井一夫の『写真編集者』という本のなかに「写真をやろうと思う人は、人から何であなたは写真を撮っているの?というか何であなたは写真家になったの?と聞かれたときに、自分が写真というものを選んだ理由を言えるようにしていなければならない」というようなことが書かれていて、ほな光貴くんがレコード屋をはじめた理由を聞き出したら何日も夜を跨ぐことになりそうやけど、簡潔に言うとどういう理由でmole musicを立ち上げたの?
〔光貴〕 今日もパンクしてますね (笑)。古市は僕にとっては「不便」じゃなかったですよ。家が無い路上のハウスDJだった時代もありますし (笑)。奈良古市は住み込みながら、友人と4カ月かけてレコード家と呼べるような場所にしました。移転前、がらんど��になった家を見ながら、良いハウスになったなぁと勝手に納得していましたね (笑)。
レコード屋をはじめた理由を簡潔にいうと、制約のある時間、あるいは一生をかけて、語るには最高の方法だからじゃないでしょうか。それを続けられるかは別として (笑) 、今もそう思っています。肩書をレコード屋とDJのハイブリッド。これは僕の造語なのですが「音楽生活者」と名乗っています。因みに最高の方法っていうのは僕にとっての最高ですね。方法なので、目的はその先にあります。目的の先があってほしいとも思っています。続けられていることはラッキーです。
〔土井〕 「音楽生活者」という肩書きはめちゃくちゃ納得。mole musicの特異点は店舗そのものが完全自立型の語り部として機能していることやな。同じレコードを買うにしても、意味合いが変わってくるというか、そのレコードを手にした人間に、歴史的な背景や文脈を突き付けてくるというか、ほんま恐ろしい店やで(笑)。
〔光貴〕 その反応は純粋に嬉しいです。答えはなくて色んな方法で楽しんでもらえていると糧になります。僕自身が駄菓子屋からレコード屋に育てられてきた世代の人間なので。現代では何か目新しいことをしているように見えちゃうかもしれませんが、実は時代遅れの混成型。過去にあった、忘れられた当たり前の風景だと思いながら続けています。
〔土井〕 みんなええかっこして「お客さんのために」とか「��化を絶やさないために」とか言うけど、何よりも自分にとっての最善を模索し、追求し続けるのが自営業やと思う。
〔光貴〕 「お金のために?」「利権を絶やさないために?」(笑) 嗚呼、幻?気のせいです。
〔土井〕 自分にとっての最高の方策でないんやったら、店なんかやらん方がええもんね、しんどいだけやし……。
〔光貴〕 あっ、土井さん、しんどいのはお互いさまですよ。だって未だに好きなこと続けさせてもろてるから、しょうがないですよね (笑)。
〔土井〕 光貴くんがある種の目的を見据えて走り続けるmole musicを端的に表明するキーワードを挙げるとすれば何やろう?
〔光貴〕 キーワードかぁ。鍵の言葉ですよね。いつもなら反対とか逆説って言うような気がするんですが……。走っているつもりは無いのですが、うまく歩めていないかもしれません。歩むこともテーマなのですが、活動で脱落者が出てくるのは事実ですよね。ここは土井さんも思い当たる節はありそう (笑)。今日は定休日なのですが、実はさっきもお客さんが来てました。今は次の制作のミックスダウン作業をしながら返信しています。土井さんはパンク修理しながら質問を投げてるでしょう?休み方だけは忘れてしまったかもしれませんね (笑)。
〔土井〕 それはほんまにそうかも。僕も昨年に片足がもげたわ (笑)。好きなことを続けるのは絶対にしんどい!そう言えば、1年の半分以上を全国津々浦々の現場でライブをして生活しているブルースシンガーの方に「しんどくないですか?」ってアホみたいな質問を投げかけたことがあって、その方は「土井くん、子どもは好きなことやってるときは何時間でも何日でも同じことを苦もなくやってるやろ?わてはあれと同じや。好きなことしかしてへんねやからしんどいことなんてあれへんで」って言うてはって、やっぱりレベルが違うなって思うたんやけど、その数日後に体調を崩されてライブの途中にまったく声が出なくなったらしく、後日タラウマラに来てくれたときには「土井くん、やっぱり好きなことでもしんどいときあるわ」って苦笑してはって、逆に「好き!」ってなってん。
〔光貴〕 土井さんの生活はシーケンスがあるから。しっかりと家族と向き合ってるのが凄いなと。この間、ブログで売り上げのサンプルを提供してたじゃないですか。売り上げをデータベースにアーカイヴする時点でえらいパフォーマンスやなぁって思ってみてたんですけど。目的が明確だなと。もう素直過ぎるやんって感心してました。土井さんは家族と過ごしている時間は絶対譲りませんもんね (笑)。比べて僕は即興の要素が多いかもしれません。今やっていることが正にそうですし。あとで辻褄あわすかもやけど (笑)。
〔土井〕 いつも僕のわがままに付き合ってくれてありがとう (笑)。僕は光貴くんの即興性に底知れぬものを感じているから、ついつい無茶振りしたくなるねん。そのくせ自分は家族との時間を断固として死守するという超わがまま (笑)。あと光貴くんが挙げてくれた「歩むこと」「駄菓子屋���は確実に鍵となる概念やね。それこそうちの店名になってるメキシコのタラウマラ族の人たちも速く走ることを得意としている訳ではなくて、ゆっくりと永くいつまでも走り続けることに長けてるみたい。それってつまり「歩むこと」やと思うねん。周りの情勢や速度を気にせずに歩みを止めないというのは意外と大変なことで、誰しもついつい周囲と歩調を合わせてしまうもんやからね。それと2000年代前半くらいまでの過剰なマニュアル至上主義の横行によって、個人経営の店でさえも当たり前にシステマチックな対応を求められるようになったやん。店は客に対してこうでなければならない、というのを無意識に植え付けられている人が多い。でも僕らが子どもの頃に通ってた駄菓子屋のおっさんらは客である僕らに平気で怒鳴ってきたし、ひどいときには殴られたやろ(笑)。せやけど結局それが自然というか、店員と客である前に人間と人間やから、双方で怒りたいときに怒れば良いし、笑いたいときに笑えばいいと思うねん。そういや光貴くんとの電話をしている最中に「工具貸してくれや」って言うてきた客のおっさんにキレたこともあったな(笑)。
〔光貴〕 幼少期、駄菓子屋がはじめて触れた「社会」や小さな「世界」だったと思いますね。決して学校では無かったです。「社会」の教科書を見ても、殺した人間の数が多い人が太文字で書かれているだけだったので。あの書物は時間軸が遠くなればなるほど、太文字が神格化され、現代に近づくほど不明瞭な二元論で語られる不思議な読み物ですね。実際、今は「社会」と呼ばれる教科書を趣味で読んでます。特に意味はありませんよ (笑) 。子どもながらに駄菓子屋で思考するか否かで大きく人生が変わったと思います。田舎育ちだったことも影響しているかもですが、僕の好きな駄菓子屋の風景は無くなりましたね。まだフィールドワークは終えてないのですが、地元の駄菓子屋が潰された時期、各地で駄菓子屋が消えていってるんですよね。その後、街のたまり場はコンビニエンスストアになって、駄菓子屋の無い町の夜は大荒れ。
〔土井〕 いや、ほんまに。教科書ってやっぱり権力側の呪具みたいなもんやから、駄菓子屋のおっさんみたいに「俺が教科書」という人間との折衝はそのまま「社会」に出会う行為と等しいやんな。一時期、うちの長男が家の近所の「ひさご」っていう駄菓子屋で万引きを繰り返すということがあって大変やってんけど、あれも息子がはじめて「社会」というものに触れた瞬間やったと思う。さっき言うたみたいにうちの子らが打楽器で光貴くんとセッションしたり、共通の知人の息子が遊びに来ていたり、mole musicは駄菓子屋の原風景をいまも確実に描き続けてるよね。原風景という言葉で思い出したんやけど、光貴くんと友人との共同制作 Zip Up Parker 「帰り道」について聞きたくて、あの印象的なバック���リントの風景は何をモチーフにしてるの?
-skit-土井:因みに自分も「帰り道」パーカーを愛用している。マジで毎日着てる。
【インタビュー開始から6時間が経過】
-skit-中村:気絶 自称巨匠からのメールで起きる。理由もなく日々えらくなっていく巨匠に恐怖。
〔光貴〕 気絶してました。そうそう駄菓子屋はそういうイメージですね。子供にとっては実は軽く超えられる境界なんです。モールは敷居が高いイメージかもしれませんが、それは現代の風景から切り取ればそう見えるように作っています。住宅地の一角の何故か開かれた場所なので。一駅隣に住んでいる、鉄道マニアの中学生がたまに友達と自転車漕いでレコード買いにきたり。「書くのはやめた」って言ってたのですが、その子は仮想国家のSFも書いていて。まぁ、おもしろいですね。彼らのクルーには昭和アニメのマニアもいるので、この場所がきちんと店に見えてるんですよ。「帰り道」については去年奈良古市に店を置いていた時代に友人と製作したかったもので、タイトルそのままですね。完成して現物が届いてからタイトルを付けたので、特に深く考えずに出てきた言葉ですね。「深く考えず」にということは、日頃からある共通認識だと言うことで「帰り道」としました。モチーフはタッチ、タイトル、カタログ番号等から察して頂ければ幸いです。
〔土井〕 鉄道マニアの中学生クルーに是非とも会いたい!自画自賛になって気持ち悪いけど、ほんまに僕らの店に来る人たちって、良くも悪くも個性的で最高に笑えるよね。光貴くんの言うようにmole musicやタラウマラが「店に見えない」人たちにとっては、一向に可視化されないのに。それでも彼らは自然と集まってくる。そこに何があって、何が見えて、何が果たされたのかというのは各自が自分の胸に手を置いて考えたら良いし、それが通過点なのか終着点なのかは誰にもわからへんもん。光貴くんの製作物には常に何かしらの意図があって、それをこちらの解釈で勝手に紐解くのが面白い。さっきは無粋な質問を投げかけたなって、いまちょっと反省してる(笑)。レコード屋としての光貴くんの考えはほんの少し掴めたような気がするので、次はDJとしての活動について聞かせてください。キャリアはどれくらい?
〔光貴〕 いえいえ、大丈夫です (笑) 。楽しんでもらえればありがたいんです。(ここはインターネットメディアの露出が無ければ話しているかも知れません。でっち上げの可能性もありますが)。DJをはじめたと感じたのはギターからターンテーブルに持ち替えた18歳、地元でDIYパーティーをはじめた頃ですね。レコードプレイヤーを買ったのは16歳、この頃からレコードコレクターだったと思います。DJのキャリアは22年ですね。
《2022.11.26 Hopkins Creek at Northcote Theatre》
〔土井〕 キャリア22年!龍ちゃん a.k.a VNZ(東淀川区出身のラッパー)がオギャーと生まれてから現在までの人生をまるごと飲み込む期間やん!その22年間のDJ活動に於いての変化や矜持みたいなものがあれば教えてほしいな。
〔光貴〕 じぶんアーカイヴが下手くそなので、仮に22年としておきます (笑) 。実際はもう少し前かもしれないです。DIYパーティーと並行してDAWN(現NOON)でレギュラーパーティーをはじめたのは恐らく19歳でした。僕は行為においては物質より現場のみに重きを置いてきたので、制作物があまりにも少ないんです。変化について簡潔に書くと、僕にとって良いとされていた時代は去っていった、ということに尽きると思います。これは時代の話なので、個と音楽との関係性はもっと複雑かつ多元的です。僕の場合、レコードのような多元的な物質でなければ、ここまでDJを続けることができなかったと思います。戦後日本の時代の変革と世界の変革はおよそ10年と20年、ふたつのタームで考えることができるのではと過程していました。音楽においてもこのタームというのは有効で音楽史を振り返れば自然と見えてくるように思います。未成年(当時)の頃から20年ターム、この姿勢は続けてみようと思っていました。少し欲張って40歳までこの景色を見ようと。既に40歳を迎えたので、矜持としての行為者として続けるという役目はひとつ果たしました。その過程の中で行為として他人と同じことはしないという制約も徹底できたのかな?と。しかし求道的に今尚続けているのは、レコードという物質の魅力に尽きると思います。僕の場合レコード屋とDJのハイブリッドなので、ここを肯定できないと終わりなんです。かと言ってデジタルを否定している訳ではありません。じゃないと、このインタビューも厳密には成立しないので。いま現在もCD-Rで実験しています。この歴史はなかなかおもしろいんですよね。そろそろCD-R史のフィールドワークをはじめようかなと思っていたところです。
〔土井〕 めちゃくちゃ具体的な回答かつ、これが今日のハイライトかもしれない。「現場のみに重きを置いてきた」というのはここ数年の付き合いの自分からしても納得できる話で、mole musicという思想の実体化としての店舗、DJの現場ひとつひとつが光貴くんにとっての作品なんやと思う。レコードを多元的共有物と見据えて向き合う姿���、CD-R史の探求など深掘りしたい話題がてんこ盛りで、興味が尽きない。ほんまに稀有なまなざしでレコード屋とDJを両立させてる人やと驚くわ。これも答えにくい質問かもしれないけど、光貴くんにとって特に思い入れのある作品(レコードorパーティー)は何ですか?
〔光貴〕 アナログとしてのCD-R史ですね。僕の青年後期は友人と何か作品を交換したり、プレゼントするメディアがカセットテープからCD-Rへと転換する時期でした。僕自身もこの転換は驚くほど簡単に移行できたんですよ。今は歴史と物質自体の持つ情報(ここでの情報はデータ情報で音楽の内容では無いです)その理由に近づいていってる感覚ですね。90年代にはポスト・テクノロジーミュージックの時代は既にはじまっていて、様々な試みが成されていました。実際そういった作品に触れることはありましたし、所有していますが、物質そのものを解釈するという段階まで、青年後期 (90年代後期~ゼロ前代初頭) では思考が追いつかなかったような気がします。まだまだ趣味として楽しめることはたくさんありそうです。そういえば、特別という事を意識したことが無いかもしれません。幸いなことに僕は身近に特別に感じられる人が多いので。ラッキーなのか、どうなのか (笑) 。作品は……ヒミツですね (笑)。
-skit-中村:音楽家の先輩来店、ひたすらレゾナンスについて語る、癒やしの時間。
-skit-土井:龍ちゃん超久々の来店、新曲を持参。
【インタビュー開始からすでに40時間が経過】
もしもし 土井さん、おはようございます。今日タラウマラに何時に入りますか?光貴くん、おはよう。今日からタラウマラは臨時休業で家族でおでかけするねん。えっ、マジで?せやねん、ごめんな。いやいや、頭の中どういう切り替えしてるんですか?こっちにはインタビュー投げっぱなしで (笑)。ごめんな、旅行中は電話でえへんけど、いまはまだ大丈夫やで。いつも思うけど、仕事の向き合い方が全然ちゃいますわ。光貴くんはひとつの案件があったら48時間とか平気で手綱を離さへんもんな。そうですよ、ずっと長時間向き合ってますよ、短時間での仕事の強度が土井さんとは全然ちゃうんかな。自分は究極のメリハリやからね(笑)。僕はこのインタビューに応じながら、店の営業して、次の制作のミックスダウン作業をして、今週末にはパーティーを控えてますからね。ほんまようやるわ、悪いけど僕は家族で温泉につかって来るよ。マジでむちゃくちゃやな、この人(笑)。そうそう、それはそうと昨日タラウマラに龍ちゃん来たわ。だいぶ久々ですか?うんうん、彼はサイクルショップすずめの頃から足繁く通ってくれてたけど、この2年での来店回数は1回か2回やからね、だいぶ久々やな、しかもインタビューで名前が出てきたタイミングで本人登場っていうね(笑)。それは素晴らしいことですよ、何やかんや言うて結局は僕ら、寂しいんですよ(笑)、ずっと続けていることは精神的にも負荷がかかるんで。ほんまそうやわ、ほなそろそろ赤穂に向かう準備するわ、一旦LINEでのメッセージのやりとりに切り替えてええかな?あと週末のパーティーは光貴くん何時の出番なん?ほんまこの人……(笑)
そういや今後の展望を聞かれていた気がするな。このインタビューを土井さんにデジタルアーカイブさせないことですね。
【2023年10月19日8時46分インタビュー終了】
……ということで、いつも通りに互いに仕事をしながらLINEとメールと電話とGoogleドライブを行ったり来たりしながら2週間かけてようやく終わりを迎えたインタビュー……いや、どう考えても僕が喋りすぎてるな、ほんま、すんません(笑)。最後に光貴くんが選んでくれたPARLIAMENT - GLORYHALLASTOOPIDをどうぞ。最高にイカれた週末をお過ごし下さい。
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024)3月15日(金曜日)弐
通巻第8176号
明日(3月16日)、北陸新幹線が金沢から敦賀へ延長
福井県は観光と経済活性化の期待に湧いている
*************************
北陸新幹線は日本海沿岸の糸魚川(新潟)から富山、金沢を通り、若狭と越前の境にある港町・敦賀まで延長される。『古志の国』の再現だ。
敦賀駅は新幹線駅で最高位の三階建て、駅前は商店街が整備され、あちこちに歴史的な遺物やら銅像、記念館がならんで観光客を待ち受けている。気比神宮から金ケ崎城跡は後醍醐天皇の御代の激戦地、信長潰走のおりは明智光秀が鉄砲隊を組織してみごと殿軍を務めた。
松原海岸から南へ歩くと、水戸藩の武田耕雲斎以下の天狗党を祀る松原神社、このあたりに渤海使をむかえた迎賓館があった。敦賀は観光資源に恵まれているのである。
筆者、古代史最大のミステリーのひとつである応神天皇、そして継体天皇の取材を数年つづけているため何回も訪れてはいるが、訪れるたびごとに新しい発見がある。
記紀では応神天皇が武内宿弥に連れられて禊ぎに気比神社へ赴き、地元の神と名前を取り替えた。なぜ?
気比神社は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇を祀るが、猿田彦と竹内宿彌もちゃんと祀られている。敦賀の応神を祀る神社のほぼすべてで、武内宿彌を祀っている。その謎を解明するために現地の稗史を調べているのです。
継体天皇は三国に育ち、坂井市にある『天皇宮』に大和朝廷からの使者、大伴金村と物部荒鹿火を迎えた。その近くには執務した高向宮跡がある。また謡曲「花かたみ」の舞台と想定されるのが越前市の「花かたみ公園」と味真野神社。そこから奥へぐんと這入り込むと五星(ごおう)神社がある。応神から継体までの五代をまつる神社だ。このあたりが「文室」(ふむろ)とよばれるのは継体天皇の学問所があったとされるからだ。
脱線すると能の『花かたみ』は各地の能舞台で演じられるが、ことしは3月17日に長野で催される。残念ながら筆者、先約とかさなって鑑賞に行けない。越前郊外の味真野神社境内には、この能を再現する継体天皇と越前妻とが並ぶふたりの銅像が建立されており、王冠は金で輝いていた(それにしても駅から遠いです)。
脱線すると雇ったタクシーは日産EV。『タクシーの電気自動車は初めて』というと運転手は「寒いから暖房を入れると電池の消耗がものすごい」と愚痴をこぼした。
新幹線のはなしに戻すと福井駅前には「ふくみち」として商店街が整備され、武生駅は従来線駅よりかなり遠い田圃の真ん中に「越前たけふ」駅が新装されていた。
沿線にはカメラマンがズラーリ、最後の従来線の車両と新幹線の一番列車を撮影しようと全国から鉄道ファンがあつまって壮観だった。彼らには応神、継体天皇に興味はない。
さて糸魚川、富山(射水)、伏木、倶利伽羅峠、加賀の小松、そして坂井市の称念寺、敦賀気比神宮と、それぞれに芭蕉の句碑が建立されている。『奥のほそみち』は『古志のほそ道』であったというのが筆者の持論である。(拙著『葬られた古代王朝・高志国と継体天皇』、宝島社新書を参照。古志は「高志」、または「越」とも書きます)。
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((( 演目事典より )))
越前国味真野(現在の福井県越前市味真野町周辺)に、応神天皇の子孫である大迹部(おおあとべ)皇子(男大迹皇子、男大迹邉皇子とも表記)が住んでいました。皇子は武烈天皇より皇位を譲られ、継体天皇(450~531)となり都へ旅立ちました。帝は味真野にて寵愛していた照日の前に使者を送り、手紙と愛用した花筐(はながたみ:花籠のこと)を届けます。出先で使者を迎えた照日の前は、天皇の即位を喜びながらも、突然の別れに、寂しく悲しい気持ちを抑えられず、手紙と花籠を抱いて、自分の里に帰りました。
大和国玉穂の都(現在の奈良県桜井市池之内周辺)に遷都した継体天皇は、ある秋の日、警護に当たる官人らを引き連れて、紅葉見物にお出かけになりました。そこに照日の前と花籠を持った侍女が現れます。彼女は天皇への恋情が募るあまり、狂女となって故郷を飛び出し、都を目指して旅をしてきたのでした。狂女・照日の前が、帝の行列の前の方に飛びだすと、官人が狂女を押し止め、侍女の持つ花籠をはたき落します。照日の前はこれをとがめ、帝の愛用された花籠を打ち落とす者こそ狂っていると言い、帝に逢えない我が身の辛さに泣き伏してしまいます。
官人は帝の命令を受けて、照日の前に対し、帝の行列の前で狂い舞うように促します。照日の前は喜びの舞を舞った後、漢の武帝と李夫人との悲しい恋の顛末を物語りつつ、それとなく我が身に引き寄せて、帝への恋心を訴えます。
帝は、照日の前から花籠を受け取ってご覧になり、確かに自分が愛用した品だと確認し、狂気を離れれば、再び以前のように一緒になろうと伝えます。照日の前は、帝の深い情愛に感激し、正気に戻ります。この花筐以降、「かたみ」という言葉は、愛しい人の愛用の品という意味を持つようになったと伝えられています。かくして二人は、玉穂の都へ一緒に帰っていくのでした。
(( 以上ご参考までに )))
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2024年5月18日(土)
上方落語協会が主催する<彦八まつり>、4年ぶりのリアル開催ということで初めてやって来た。お目当ては<奉納落語会>の第4部、露の新治師匠の出番があるからだ。とは言え真夏のような暑さ、夕方までの時間つぶしに<高津神社><四天王寺>へお詣りしてきた。私にとっての大阪は点は理解できても、面としての把握は難しい。おかげで大分地理的理解を身体に染み込ませることができた。しかし暑かったなぁ、会場でビールを我慢した自分を褒めてやりたい!
4時45分起床。
日誌書く。
洗濯機回す。
朝食。
珈琲。
酢タマネギ仕込む。
麺つゆ仕込む。
今日は<彦八まつり>、17時開演の<奉納落語会>のチケットをとっているので昼頃に出発する。
会場は<生國魂神社>、以前にも来たことはあるが谷町九丁目駅から来るのははじめてのこと、少し迷って到着。<米澤彦八の碑>にお詣りする。
軽口噺[かるくちばなし]や役者の物まねを演じていた米澤彦八は、京の人気者、露の五郎兵衛とともに元禄年間(1688~1703年)にここ生玉さんの境内で活躍した。五郎兵衛が「聴衆を前にして口演する」というスタイルを打ち出し、現在の落語の形態をつくる。このため「上方落語の祖」と仰がれ、彦八は「大坂落語の始祖」と位置づけられている。二人の芸風はどう違ったか。「五郎兵衛が先行の噺から材料を多く得ていたのに反し、彦八のは創作が多く、この点などに彦八の意気ごみがうかがえる。彦八はただ軽口噺を口演するだけでなく、むしろ身振りをまじえた『しかた物真似』を本領とした」と、大阪の郷土研究家・肥田晧三氏は『上方学藝史叢攷』で考証する。 (https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/05_vol_99/feature03.html)
まずは腹拵え、<笑福亭仁鶴一門>でたこ焼きを購入、8個で400円、二人で半分こ。<桂米二一門>でふぐの唐揚げ、800円といい値段。
この熱気の中で夕方まで過ごすのは辛い、落語に縁のある場所ということで<高津神社>と<四天王寺>へと向かう。
お詣り済ませてから再び生玉さんへ、なぜか鳥取県八頭町のブースがあって、ツレアイは<エリンギつかみ取り>に挑戦している。
会場の日射しを避けて<参集殿>前で待機していると、イベント会場からNさんが出てこられてご挨拶、近くのビジネスホテルが取れたとのことで明日も楽しまれるそう。
奉納落語会、��から2列目で楽しんだが、畳敷きの和室では1時間が限界だ。
月亭秀都「秘伝書」、桂八十八「釜猫」、露の新治「中村仲蔵」。
新治さん、十八番を途中で絶句するハプニング、<柳島の妙見>が出てこない。流れでMRIの結果で脳梗塞が起こっているとの説明で会場びっくり、何とかサゲまでたどり着いたが汗の掻き方も酷くて一寸心配。
自宅に戻ったのは19時50分、あり合わせで晩酌開始。
録画番組視聴。
桂三幸「天井高い」
初回放送日:2024年5月18日 土曜の早朝は関西の笑いをたっぷりと!▽今回は桂三幸の創作落語「天井高い」▽第1回「あさわら“まくら”大賞」視聴者投票で優勝が決まる…投票は番組ホームページから!
秋田 真夜中のそば屋で
初回放送日:2024年5月17日 秋田市にあるちょっと変わった、おそば屋さんが舞台。開店は夜の10時で、夜通し営業して閉店は翌日お昼ごろと、まさに昼夜逆転。そばだけでなく、お酒とつまみもいっぱいある。ここにはさまざまな人たちが集う。お酒を飲んだあと、そばをシメにという人たちや、歓楽街で接客の仕事を終えた人たち、また3月は就職や転勤での別れを惜しんで飲みあかす人たちの姿も。なごり雪の舞う季節、真夜中のそば屋に密着する。
片付け、入浴、体重は二日前から350g減、順調だ。
連日の12,000歩越えは嬉しい。
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Tomonoura by hirorin 2013
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Tanada of Genkaicho Hamanoura by hirorin 2013
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《一通电话》:阿尔弗雷德·潘尼沃斯的自述
有人打过一通电话。一通电话就足够了,只要一通电话,我们的人生就改变了。
我曾经有一个计划:我不打算为韦恩家族奉献终身。我终会回到英格兰退休,也许在茱莉亚家附近购置房产。当我终将离开,步入生命之终焉,我的身边将环绕和我一样“奇怪腔调”的人们,我的灵魂会于祷告里飞入彼端。布鲁斯少爷曾经对我们的口音很感兴趣,在我初次抵达韦恩庄园之时,托马斯老爷带着小小少爷走在铁栅栏旁。我们用力地握手,我立刻注意到那个机灵的男孩并由衷地欣赏。他先是盯着我的手提箱,然后接过了它,不只是为了接待,也是为了好奇。
我记得我喜爱地说:“看起来,小布鲁斯少爷还有许多要学的。”
而布鲁斯少爷用以他的年纪里最讨人喜欢的聪明、礼貌又不太守规矩的调调回应:“我要学的第一样东西就是你奇怪的腔调。”
这是我们的第一次对话,我从未想过人生的玄妙于此而启。
那个包含了我未来退休生活愿景的计划在某一个深夜来电后彻底破灭了。
它关于一个著名的事件,来自G.C.P.D,向我阐述了那个有名的悲剧。在那里,我接到了雨夜中蜷缩在一件过大的外套里惊惧的布鲁斯少爷。在此后数十年岁月里,我明白这通电话不仅改变了有关我的生活、我的少爷的生活,同样改变了这座异国他乡常雨之城的未来。我们在深夜尝试保持大宅常亮多年,且小布鲁斯少爷对祷告与礼拜的兴趣变得越来越淡薄;我知道某种东西在改变,它悄然变化,在成熟的时刻,长绒的蝙蝠终会破茧而出。
为了哄巨大创伤下难以入眠、不愿在睡前晚祷的少爷继续曾经的生活规范,每天收拾床铺的时候,我总是留下一颗薄荷糖。它用小片的透明薄塑料袋装,背面印着“--W--”*和生产日期。第二天清晨,我总会发觉薄荷糖消失了;但我知道少爷没有依照老爷与夫人在世时的要求做祈祷。这是可以谅解的:我的少爷的童年在八岁时便彻彻底底的结束了。
不久后,我们开始为哥谭市其他无辜儿童更长久——起码久于八年——的童年而斗争。事业并不容易,从来都不。在新泽西州,几近半数的重大劣性犯罪来自哥谭。这座听起来像“愚人村”*的都市滋养了无数臭气熏天的黑暗造物,积累的罪孽不胜枚举,如同奥革阿斯的牛圈,粪秽堆积如山,而布鲁斯少爷试图做完成完成“不可能完成的任务”的赫拉克勒斯*。当我意识到我照看长大的小少爷正在成为受刑架上的英雄,我想任何有职业涵养的管家都无法置之不理。是的,我爱茱莉亚和老贾维斯,也爱怜着失去双亲的小布鲁斯·韦恩,那个曾经狡黠灵动的、为我拎手提箱的小男孩。
这便是一通电话所改变的事情。
我开始期待来自通讯器的电话。是的,我们甚至拥有了这些高科技的小玩具,像是军情六处。我开始期待它们,不是因为我喜欢它们。
每当我走在街道上,或是采购接洽、或是物资管理,我看着拥有家庭、朋友,拥有生命的人们,那些如果不是「他」就不会出现在这里的人们。我开始期待来自通讯器的电话,每当听到「他」的声音从线路另一头涌出都是一种解脱。
只要是「他」本人打来电话,那就不是「那通电话」:那通多年前,由G.C.P.D代劳发来噩耗的电话。
我在能睡觉的时候睡觉,在我知道他安全的时候,我才入眠。我定制了特别的保温瓶,尺寸恰好能够放在蝙蝠战机导弹开关之间的空隙里,上面没有印蝙蝠标志,因为它还需要正好卡在董事会会议桌的圆形凹槽里。在我不得不接受布鲁斯少爷短期无法睡觉的时候,它能帮助年轻的城市守护者至少保有基本的进食....流食。我这么做,是因为他是蝙蝠侠,世界需要他;他是蝙蝠侠,他没时间关注琐事——检查钱包与钥匙、推拒晚会邀请、为自己准备咖啡、给蝙蝠车胎打气、校对战机无线电频....他是如此专注于拯救别人,以至于遗忘了自己。他需要别人记住他,作为韦恩家族的管家,我乐意效劳于此。
「我在能睡觉的时候睡觉,在我知道他安全的时候」——绝不是在他任何出门的时间里。从托马斯·韦恩和玛莎·韦恩身上,我学会了在任何韦恩出门在外之际保持待命。
然而,此时此刻,我的意识正在绵长的回忆里沉睡,于回忆长流之中,我又清晰地意识到这一点。我在回想所有的一切:从最初的职业生涯规划、到那通来自戈登警长的电话,到那在主卧阳光下(不得不说,少爷的主卧少有曦色;盖因布鲁斯少爷遵循吸血鬼的人世哲学,总在白日用窗帘拒绝晨曦)被光线折射衬得五彩斑斓的薄荷糖纸。我在意念里奔波,却听到熟悉的通讯提示在震动。我知道,我必须醒来。
那意味着蝙蝠侠在呼叫便士一*。那意味着布鲁斯·韦恩在呼唤他的助手。那意味着我的少爷——我黑头发的男孩——需要我。
职业信念和激烈的念想支撑着我。我开始感受到我的眼皮如蝶翅震动。真奇怪,人们常说:“当你意识到自己在做梦时,你已经醒了。”而这就像第二十二条军规*,显而易见的逻辑陷阱。我需要追寻那振动,我的小英雄该出发为他的天下追觅金羊毛*了。
一盘松饼。
当我彻底将灵魂回拢至肉体,我开始一如既往地用最近一次数枕边薄荷糖的记忆考验自己的思路是否彻底回归,同时,我发现一个托盘被放在床罩上。
这是厨房常用的铁托盘。
我撑起半个身体,昨日战斗的钝痛潜藏在肌肉群中,一旦我开始活动,便恶毒地攻击着我。我看见布鲁斯少爷赤裎上半身,腹部缠着绷带,坐在床头。我先是长长地吐出一口气息,想来梦里的呼叫是布鲁斯少爷现实的动静。
“没事的,你没错过什么,阿尔弗雷德。”我听见孩子这么说道,开始清晨的第一场对话。我终于想起昨日过往,在38号公路44号大道,是莱斯利为少爷包扎,处理了我的眼球与肩膀。我居然比受刺伤的孩子起得更晚,在我开始责难自己前,我发现我的通讯器与电话不翼而飞。
“我又把松饼烤糊了。我曾经用蛛丝马迹瓦解了一个精妙的全球犯罪��国,但我还是弄不明白怎么烤松饼。”孩子向托盘示意。
“你拿走了我的通讯器和电话。”我指出。
“是的,我不想打扰到你。”他说。
“你觉得怎么样,布鲁斯少爷?”我想起那道恐怖的伤口。每每布鲁斯少爷都能够说出「需要接一下」的时候,情况总是不太好。昨天是黑色警报,而年轻的披风英雄为过多的失血昏迷许久。
“感觉像是字面意义的被捅了。”我观察年轻人的脸色,以免他一贯地在身心健康方面说谎。幸运的是,莱斯利是个好医生。我的孩子看起来面庞苍白,但恢复良好;他没有刮胡子——他当然没有,他是蝙蝠侠;但我确信布鲁斯少爷刚刚流露出来有限的笑意。我听见少爷继续说:“得留你自己休息了,我应该离开了。”
我的神经再次紧绷起来。
“巡逻时间吗,先生?”
“是的。”
“您会打电话吗?”我尝试。
“不。”
噢,显然不。他收走了我的通讯器和电话,在这种时候——在任何一个韦恩需要外出行动的时候,我最需要的就是我的通讯设备。我顿了顿,以某种多年来「我们需要谈谈」的腔调开口:
“如果您指望我会在床上呆着,不知道您的....”
“....阿尔弗雷德。”我的发言被打断了,我决定倾听。以韦恩家族管家的素养。“我不会走的。”
“什么?”
“我理解如果我在外面你是无法放松的。而且我的腹肌上有几英寸的金属撕裂伤,肾也被刺穿了,现在不方便走动。所以我让卡珊德拉和杜克替我巡逻。”
噢....
“这可真不寻常地合理,先生。”他甚至知道自己什么时候「不方便走动」。
“今天我不想让你担心。”
“真的?那今天为什么特殊呢?”我提起了兴趣。再次观察布鲁斯少爷的行为举止,我看着他起身并走向门边。在拧开把手前,他微微转过身子,这次露出了普世意义的、任何无需苦心孤诣研读「蝙蝠语言」的人类能够辨识出来的微笑。我听见他柔和地——这个更加不同寻常——用往往是布鲁斯在宴会上以某种伪装身份需求的温软的声音回复:
“好好休息,阿尔弗雷德。”
他开门,以忍者的习惯轻轻地走了出去。我知道那个声线这回不是某种伪装,我分辨得出来。
这是我所不习惯的场景。通常情况下,往往看着另一个人的离开的背影的人是管家,而非主人。我环顾我熟知的房间,这个点事实上是整理家庭事务的工作时间,这使我由衷地忧心那些多功能腰带格是否有人补充道具、蝙蝠镖是否有在清点数量(而记录本在我这里),换洗披风是否有在检查、修补与熨烫。我知道如果我去寻找,我总能找到我的通讯设施,对于这个宅邸没有人能更加熟悉,即使是暗夜骑士也无法在这方面超越他的管家。
但在此之前,更重要的,我需要先享用孩子烹饪的松饼。
我慢慢靠近那个托盘,打开盖子,拾起里面唯一一块松饼:它看起来宛如经历过无数次失败的洗礼,从兄弟胞妹们中脱颖而出,将将成为尚且能吃的那一小块。我弓着背坐在床沿上,感受着肩颈沉淀的疼痛,珍而重之地品尝那块松饼。
我的房间装修崇尚极简,这也是韦恩家族管家历届应有的装潢,家具几乎都是木制品。我的神思飘忽,看着远处木桌上安放的木相框。我突然意识到了今天是什么日子。
我天才的大脑——请允许我这样说,不是一种自傲,而是黑暗骑士确实需要一个聪明的助理和天才的头脑——能够处理追踪器和远程操作系统协助蝙蝠侠精准降落在任何他需要的街区,但我忽略了一个显而易见的、大众的常识。
我感到我的眼球在颤动着发酸。
二十几年前,当一个黑头发、蓝眼睛的小男孩陷在他过于宽敞的大床上,因景触情,在节日的夜晚蜷缩在被子里,用脑海反复绘慰风木之思时,我曾经为他讲过查拉图什特拉*的故事:
“....一个人是可以使千万年的历史生色的——也就是说,一个充实的、雄厚的、伟大的、完全的人,要胜过无数残缺不全、鸡毛蒜皮的人....”我念着来自家族藏书室的书,发现我可怜的孩子早已神游天外。这并非意味着我的孩子不好学,也许我的少爷早已通悉这其中哲理。我只是不想让他在又一个特殊的节日孤单地独自坐在床上晚祷,于可悲的祷文里请求神明使双亲回归人间:我和我早熟的孩子都知道那是无望的追思。“....布鲁斯少爷?”
男孩茫然地回过头。他聪颖的小脑袋瓜不知道在转动些什么。
“今天是父亲节,阿尔弗雷德。”
“今天是父亲节,少爷。”
我叹息着收起尼采的大部头,一如既往地,朝小小的少爷柔软的掌心里塞入一颗薄荷糖。
时光彼端的如今,同样的日子里,我发现托盘远处同样躺着一颗薄荷糖。
我颤抖着拿起它。熟悉的糖纸,每天的日常,背面印着“--W--”图案。
那一年的深夜是怎样结束的?
我抚摸孩子柔顺的发丝,通常情况下,作为管家我不会这么做;但他....布鲁斯少爷,他难得地在他该睡觉的点陷入沉眠,而他目前只有十一岁。我悄悄地熄灭主灯,为父母离世后绝望着渴望光明的孩子留下他熟悉的灯。我说:节日快乐,布鲁斯少爷。
也许是幻觉,也许是某种感情作祟,也许是某种穿越了苦痛与时光长河的力量。我仿佛在深夜的宏伟的大宅里也听见沉睡的少爷回应道:
节日快乐,阿尔弗雷德。
*注释*(为非英语母语者或者非欧美文化下读者而注释,如果你生活在英语母语国家且在欧美文化体系内长大,甚至还恰好能读懂中文小说看到了这里,接下来的内容你就可以不用看了):
①“--W--”是韦恩集团LOGO。
②“哥谭市”谐音“愚人村”。
③赫拉克勒斯是是古希腊神话中的最伟大的英雄之一。为了赎罪,他需要完成12项“不可能完成”的任务,其中一项是为奥革阿斯打扫牛圈。奥革阿斯是海神的儿子、厄利斯的国王,他养了无数的牛,粪秽堆积如山,该牛圈在后世常常被比喻为累积成堆或肮脏腐败的难以解决的问题。
④“便士一”是阿尔弗雷德的姓氏“潘尼沃斯”的谐音。
⑤第二十二条军规的典故:“如果你能证明自己发疯,那就说明你没疯”。源出美国作家约瑟夫.赫勒1961年根据自己在第二次世界大战中的亲身经历创作的黑色���默小说《第二十二条军规》。这部小说太有影响了,以至于在当代美语中,“第二十二条军规”已作为一个独立的单词,使用频率极高,用来形容任何自相矛盾、不合逻辑的规定或条件所造成的无法摆脱的困境、难以逾越的障碍,表示人们处于左右为难的境地,或者是一件事陷入了死循环,或者跌进逻辑陷阱等等。
⑥希腊神话故事中“金羊毛”被看作稀世珍宝,很久以来,希腊人对它传说纷纷。许多英雄和君王都想得到它。金羊毛,不仅象征着财富,还象征着冒险和不屈不挠的意志,象征着理想和对幸福的追求。
⑦“查拉图什特拉”出自尼采《查拉图什特拉如是说》。
故事情节出自《蝙蝠侠V3》年刊3,很感人的小故事。
第一次读这卷漫画时我哭得眼泪都流干了,所以很想写一写这个情节中阿尔弗雷德·潘尼沃斯第一视角下的自述。
这卷漫画真的很感人!如果您还没看,又恰巧喜欢布鲁斯和他的管家的话,强烈推荐您阅读它。:)
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【かいわいの時】宝永五年(1708)二月三日:曽根崎新地に茶屋株等許可(大阪市史編纂所「今日は何の日)
曽根崎新地は、宝永五年(一七〇八)に蜆川沿の西成郡曽根崎村の地内を開発して成立した。同年二月の町触によって、地代銀の永久免除・十五年間の無役・茶屋株や風呂屋株など諸株所持を認めるという前提のもと入札者を募り、高金額を提示した者が落札する、という方法が採られた。開発後、新地は天満組に編入され、さらに三町に町割りされ、各町に町年寄が置かれた。落札者には町触通り、茶屋株などの所持が認められるとともに、「株付屋敷」も下された。茶屋では一株につき二人の茶立女を置くことが許可されたが、現���には遊女としての営業が中心であった。いわゆる「新地」が、遊里(遊所・遊廓)の代名詞として用いられたのは、このためである。
西高津新地は、享保十八年(一七三三)に西高津村のうち、紀州街道沿の長町以東のニ―七石余の畑地を開発して成立した。谷町二丁目の福島屋市郎右衛門と立売堀三丁目の備前屋善兵衛の両名が、「新町屋」の建設を幕府に願い出て、許可を得たのち開発に着手した。そのとき両町人は西高津村から地所を買い請けている。開発後の地所は、町人の「請地」とされ、翌十九年九月に新地の繁昌や開発者の助成のため、茶屋株三二株が与えられている。延享二年(一七四五)正月には、大坂代官支配から大坂町奉行所支配となり、南組に編入されている。そのとき、新地は九町に町割りされ、各町に町年寄が置かれた。ただし大坂三郷へ編入されても、年貢負担は継続され、さらに町役も他町並に納めるという両役負担となっている。
この二つの新地開発を請け負ったのは町人であり、その点で「町人請負新地」と呼ぶことができる。だが、開発の契機に注目してみると、曽根崎新地は大坂町奉行所の町触、つまり幕府の意向が開発の契機となっており、一方、西高津新地では町人が開発を出願している。その点で二つの新地を区別することができる(松永友和)。「新地開発をめぐる幕府政策と訴願運動-難波新地の開発を中心に-」関西大学史学・地理学会『史泉 巻108』2008より。
(写真)「浪華曾根崎図屏風」1700代(大阪歴史博物館蔵)舟遊び図。
図中央に曾根崎川(蜆川)が流れ、舟遊びに興じる人々が描かれています。左には『曾根崎心中』お初・徳兵衛の道行きの舞台ともなった梅田橋が架かり、橋の下には鰻の蒲焼・酒を売る舟も描かれています。曾根崎川南岸の堂島新地は元禄元年(1688)に開発され、北岸の曾根崎新地は宝永五年(1708)にできました。いずれも新地振興策として幕府から茶屋などの営業が認められ、茶屋や料亭が軒を連ねる遊所として賑わいました(水都大阪2009開催記念事業・企画展「水都大阪再発見」大阪市より)。
「浪華曾根崎図屏風」は六曲一双で、この舟遊びを主題とする左隻と、堂島新地の遊里風景を描いた右隻からなる。
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D&DLearn to Play体験会ドラゴンランス編補足
Learn to Playドラゴンランス編イベント開催用補足
この補足はイベントを開催する店舗様ならびにダンジョンマスター用となります。 シナリオのネタバレを含みますので、イベント参加を予定している方の閲覧はお控えください。
記載不備の補足 ・2ページ目右列「盗賊団の正体」 判定に使用する能力値や技能の指定が記載されていません。 こちらは【判断力】〈看破〉を使用するとよいでしょう。
ペーパー・ミニチュアの使用 ・グリッドマップのみ付属しており、ミニチュアに該当するものは付属していません。 もしミニチュアとグリッド・マップの選択ルールを採用する場合は、下記に入っているペーパー・ミニチュアを作成して使用するとよいでしょう。 https://www.dropbox.com/sh/mu4vtdm2yn0m13k/AADhnfAdWI7kDFGX78idvtr7a?dl=0
世界観用語の補足 ・アンサロン大陸:「ドラゴンランス」のストーリーの主な舞台となる大陸です。騎士の国ソラムニアなど大都市から小さな村まで、様々なコミュニティが存在しています。現在は竜槍戦争の最中で、各地がドラゴン軍によって攻め込まれたり、支配されています。
・鮮血海:アンサロン大陸がかつて「大変動」と呼ばれる災害に見舞われたとき、イスタルという国家があった土地はすべて水中に沈みました。現在その地域は赤茶けた土で水が濁っていることから「イスタルの鮮血海」と呼ばれています。ちなみに、シナリオの舞台となる地域は鮮血海からはかなり離れています。また、大変動は三百年以上前の話なので、当時を知るキャラクターいないでしょう。
・オーム:湿地帯のクワルミッシュ州にある唯一の主要な集落です。かつては港町であり、イスタルとソラムニアの間の交易地として栄えました。しかし大変動により港は干上がり、大陸の他の地域からは孤立しています。住民は街の外の人々とほとんど接触せず、静かな町の中に留まることを好みます。冒険者たちが出会った商人は、そうした集落で物資を売り買いする人物だったのでしょう。
・カラマン:アンサロン大陸の北東に位置する港湾都市。ドラゴンランスの巨悪ソス卿の支配地域内にあるものの、現在でも繁栄を続けています。美しい城と城壁を特徴とし、貿易ギルドによって任命される総督が統治しています。トーラディン湾で捕れるファイアフィッシュは珍味として有名です。
・“緑の盾”のイスピン:イスピンはヒューマンの男性で、気のいい冒険者でした。彼の二つ名は彼が冒険者になった初期に手に入れた盾から採られました。彼は自分の旅の話をするのが好きで、ベックリンと言う名のヒューマンのソラムニア騎士と、クジェルというヒル・ドワーフの戦士とともに冒険をしていました。現在、イスピンは何年も前に引退してフォーグラーと呼ばれる村で暮らしています。イスピンとキャラクターがどのような関係かは、「ドラゴンランス:女王竜の暗き翼」に掲載されたイスピンとの出会い表をロールしてみるのもよいでしょう。
セッション進行の補足 ・プレイヤー(参加者)人数が少ない場合:プレイヤーが3人以下の場合は、ゴブリンの数を3体、ミノタウロスのhpを半分にするとよいでしょう。その場合、なるべくファイターやクレリックのキャラクターを優先して選択してもらうとキャラクターが全滅してしまう事故を減らせます。プレイヤーが1人の場合はゴブリンとミノタウロスが各1体とし、ゴブリンが倒れるか、ミノタウロスに2回のダメージを与えた時点で逃げ出すことにするとよいでしょう。 ・プレイヤーたちが「盗賊団が戦いに不慣れだ」と気が付くには、シナリオをそのまま使用するとヒントがありません。例えば、ゴブリンたちの武器が錆びていたりボロボロだったりするとか、ミノタウロスが持っている斧が震えているとかいった描写を加えたり、ゴブリンのセリフを読み上げるときに少し震えたような声色にしてみるのもいいでしょう。
・ミノタウルスの攻撃は、ウィザードやローグのキャラクターを1ターンで倒してしまう可能性があります。最初のターンは、なるべくファイターなどACやhpが高いキャラクターを狙うようにするとよいでしょう。
セッション後の補足 ・イベント終了後は、必ず「ドラゴンランス:女王竜の暗き翼」の製品を紹介しましょう。この冒険の続きを遊べることを伝え、参加者の誰か(持ち回りでも)がダンジョンマスターを担当し、続きを遊んでみることを提案しましょう。参加者が同意すれば、次に集まる日程を決めたり、キャラクターを作る日程を決めるお手伝いをするとよいでしょう。また、完全にD&Dをプレイすることが初めての方にはスターターセット「竜たちの島ストームレック」や「デラックス・プレイ・ボックス」をおススメし、ゲームを楽しみながらルールに慣れてもらうのがよいでしょう。
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大纽约社区介绍之University Heights, the Bronx
大学高地(University Heights)位于布朗克斯西北部,是一块面积不大、有些地方还很邋遢的飞地。布朗克斯社区大学(Bronx Community College)占地45英亩,校园横跨悬崖峭壁,视野开阔,对社区的影响举足轻重。
这不是一所典型的通勤学校。该学院最著名的建筑由斯坦福-怀特(Stanford White)设计,2012年,学院大部分建筑被评为国家历史地标。
1973年,这个拥有���3万人口的社区并不景气。纽约大学(NYU)在19世纪末建立了这所校园,作为其格林威治村(Greenwich Village)以外的乡村校区,随着犯罪率的上升和入学率的下降,纽约大学以约6200万美元的价格将学校卖给了州政府。
据史料记载,随着有宿舍的大学被学生每晚回家的学院所取代,一个艰难的过渡时期随之而来。West 183rd Street和Loring Place North等曾经是学生和教师居住的街道变得空旷破败。
但学院的管理者和居民们认为,这所在20世纪80年代斥资数百万翻新校外建筑的学校就像一条马奇诺防线(Maginot Line),阻止了南布朗克斯的凋敝。
如今,隶属于纽约城市大学(City University of New York)的布朗克斯社区大学拥有约11000名学生和1600名教师,校门有保安人员看守,校园周围有巡逻车巡逻;2012年,由Robert A.M. Stern Architects设计的新北楼和图书馆落成剪彩。目前,学校还在翻修主广场。
6岁的盖尔-道森(Gail Dawson)说:"这个地区唯一真正稳定的好东西就是大学"。1978年,她从哈林区(Harlem)的一个公共住宅区搬到了这个社区,为的是给孩子们提供一个更安全的成长环境。当时,和现在一样,身患残疾的道森女士住在一套一居室的公寓里,房租由联邦住房券支付。
她说,虽然该地区的一些城市公园已经荒废,但学院却更注重其外观。"我喜欢这里的树,"她说。"这里很漂亮"。
大学高地给人的感觉是静态的。伟大美国人名人堂(Hall of Fame for Great Americans)是一个露天校园,收藏了约100尊半身铜像,包括艺术家、发明家和总统,其中最近期的人物莫过于富兰克林-德拉诺-罗斯福(Franklin Delano Roosevelt)。
但变化正在迫近。
该市正在考虑重新划分Jerome Avenue两英里的区域,以建造更多经济适用房、公园和商店。目前,车库、轮胎店和其他汽车行业占据了这条街道。
一些长期经营的企业主对此表示担忧,比如43岁的佩德罗-蒙西翁(Pedro Moncion),他在West 181st Street拥有一家San Rafael Auto Repair修车厂。蒙西翁先生说,将该街道重新划分为禁止工业用途可能会导致他已经经营了28年的生意终结。
此外,曾经住在附近希望山(Mount Hope)的蒙西翁先生说,在附近的许多街道上,购买杂货、衣服和电子产品的地方已经比比皆是。他说:"我不知道我们还能想要什么"。
大学高地坐落在一座小山上,从这里可以俯瞰曼哈顿和新泽西州的帕利塞德悬崖(Palisades cliffs)。大学高地的北面是West Fordham Road,南面是West Burnside Avenue,东面是Jerome Avenue,西面是哈林河(Harlem River)。根据2010年的人口普查数据,94%的家庭居住在出租房中,而整个城市的这一比例为69%。根据经纪人的说法,这些出租单元中的许多都被预留给第8条(Section 8)补贴住房,或者被安排成单人间(single-room-occupancy)。
市价单位确实存在,比如位于Sedgwick Avenue的River Hill Gardens,这是一座由Goldfarb Properties拥有的五栋砖砌综合楼。校园北面还建有优雅的七层砖砌公寓楼,其中一些是装饰艺术时期的产物。
经纪人说,总的来说,University Avenue(也称Dr. Martin Luther King Jr. Boulevard)以西的公寓楼最古老,也最时尚。
除此之外,还有零星的砖砌独户住宅,如West 179th Street的独户住宅,它们面对的是带前院的半独立式住宅。少数共管公寓包括位于Grand Avenue和Davidson Avenue的一些公寓。但有些共管公寓受到住房发展基金公司(Housing Development Fund Corporation)的限制,根据该公司的规定,购房者的收入不能超过上限。
市场价房产可能很难找到。据Meridian Realty Partners的副经纪人Jackson Strong称,如果有房,700平方英尺左右的市价一居室共管公寓平均售价为9万美元,两居室为14万美元。
Strong先生说,独户住宅的价格约为30万美元,而两户住宅可能高达45万美元。
StreetEasy提供的数据显示,截至今年8月31日,所有住房的平均销售价格为13.5万美元。2014年的平均销售价格为13.7万美元,2013年为15.9万美元。根据StreetEasy的数据,今年截至8月,一居室公寓的平均租金为1270美元,2014年为1230美元,2013年为1150美元。
Strong先生说:"我们正在吸引那些被纽约市其他地区拒之门外的人,甚至是布朗克斯的其他地区"。
由于大多数学生都住在别处,大学城的夜生活很少。位于Aqueduct Avenue East和West 181st Street的BX Campus Deli熟食店似乎是少数几家承认自己存在的商家之一。
在West Fordham Road上,有一家Dallas BBQ烧烤店在周末举办D.J.派对。在West Burnside Avenue上,有一些小店出售水果、美容用品和眼镜。
Aqueduct Walk沿着老克罗顿水渠(Old Croton Aqueduct)的顶端延伸,从19世纪40年代到50年代,这条水渠一直将饮用水从威彻斯特县(Westchester County)输送到这座城市。如果想重温美国历史,布朗克斯社区大学的名人堂也许值得一去。10月18日,布朗克斯社区大学将参加全市范围的"纽约开放日"(Open House New York)活动,届时还将参观由马塞尔-布劳尔(Marcel Breuer)设计的粗野主义(Brutalist)风格建筑。
该地区划入了几所小学,包括Andrews Avenue上的Public School 291、Sedgwick Avenue上的Public School 226和Jerome Avenue上的Public School 33。这三所学校都教授幼儿园到五年级的课程;P.S. 226和P.S. 33还设有学前班。
根据该市的统计数据,在2013-14学年的州考试中,P.S. 291的成绩略好于其他两所学校,当时有18%的学生英语达标,31%的学生数学达标。全市的这两个数字分别为30%和39%。
公立中学有Creston Academy、East Fordham Academy for the Arts和Academy for Personal Leadership and Excellence可供选择,这些学校都在社区外。
St. Nicholas of Tolentine Elementary School是一所教会学校,位于Andrews Avenue North,学制为幼儿园至八年级。
大都会北方铁路(Metro-North Railroad)的哈德逊线(Hudson Line)在大学高地有一站。到大中央车站(Grand Central Terminal)的车程为21至24分钟,月票价格为201美元。
4号线地铁沿Jerome Avenue停靠Burnside Avenue、183rd Street和Fordham Road。
在纽约大学落户之前,校园所在区域有几处庄园,其中一处属于马里(Mali)家族,该家族生产台球毡和其他台球产品。他们的砖房最初成为宿舍,如今是巴特勒厅(Butler Hall),为高中生上大学做准备。
转载自 New York Times, University Heights, the Bronx: Anchored by a College Campus
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024)3月28日(木曜日)
通巻第8193号 <前日発行>
建国250年を迎えるアメリカに祝賀ムードがみあたらない
半世紀前の希望と夢と活気は何処へ行ったのだ?
*************************
筆者が初めて米国にいったのは半世紀前、サンフランシスコ、ロスアンジェルス、そしてハワイに立ち寄っただけの一週間の旅程だった。アメリカンドリームの神話は生きていた。人々は希望と夢を描き、また町の風景にも活気があった。あちこちに星条旗が並び建国200年の祝賀前祝いの空気は溌剌として、若者に元気があった。
爾来、五十回は米国各地、とくにワイントンとNYには取材で何回も訪れた。1983年米国教育関連シンクタンクの招きでカリフォルニアのクレアモント市に一ヶ月滞在し、連日の講義や討論会があった。
土日には別のプログラムが組まれていて、野球ナイター観戦、ディズニーランド、サンディエゴなどに行った。古き良き時代の「法と秩序」があり、男女間はモラルがあり、好景気で、治安も良かった。季節労働者としての移民は歓迎されていた。
アメリカは大国前として余裕があり、1984年にニクソン元大統領と独占インタビューに行った時は、「日本は経済力を武器につかえ、日本は巨大なインポテンツだ」と余裕のある指導者の言葉で、帰り際に「あの若いのに宜しく」と言った。「あの若いの」というのは中曽根のことだった。
現在のアメリカはどうか。
「世界一の大国」だったアメリカは価値紊乱の時代に直面し、モラルを含めた社会全体が落ちぶれ、衰退し、ウォール街と軍需産業とシリコンバレーに集中的な繁栄はあっても、大都会の一部は無法地帯、地方都市は寂れ、農村はくたびれ果て、そして何よりも人々の表情から活気が失せている。若者たちの眼に輝きがない。
先日も友人とアメリカ体験を話しあった。
「初めて行ったとき、希望と夢に溢れ町に活気があった。いま治安悪化、不安心理が社会全体を襲い、完全な分裂状態。大統領選挙は『シン南北戦争』ですね。2026年7月4日、アメリカ建国250年祭は『喪』につつまれるのでは?」
政治を見れば、老人ふたりが侃々諤々、自分だけを徹底的に称賛し、失敗はすべて相手の所為だと非難し、国家は機能不全、議会も世論も分裂状態。この趨勢のまま二年後には、2026年7月4日を迎える。建国250年の式典はトランプ主催となるか、他の人か?
社会は麻薬、凶悪犯罪、治安最悪などで不安心理が拡大し、平均寿命の低下と肥満率、学生の不登校、大學ローンの支払い不能、禁治産者。クレジットカード破産、鬱病の蔓延、不満の爆発による暴力行為、無差別殺人。
2023年にアメリカ人は665億ドルをギャンブルにつかった。アルコール関連の死亡事故は18%増加、スピード違反死亡事故は17%増加した。
鬱病は50 パーセント以上増加し、十代の自殺率は 48 パーセント増えた。とくに10歳から14歳の女の子の自殺は131パーセント増加した。
友人が三人以下という孤独な人間が増え、三分の一程度のアメリカ人が十人以上のトモダチをもつという統計がある。
けれども恋人不在、結婚するなど人生設計にプログラミングされていない。したがって劇的な出生率の低下、離婚は倍増。このうえにメディアンの左翼偏重が加わる。
このような状態は日本も同じである。
そして韓国、台湾、香港、シンガポールなどアジア諸国の出生率は日本よりも低い。中国は統計が出ていないが、出生率は韓国並みの0・7前後ではないか。
ペンタゴンは採用目標を達成できなくなった。
軍隊が女性の入隊増で本体の軍機能が麻痺しており、軍人家系から軍への応募が急減した。軍人たちが現在の軍の���り方に呆れたからだ。
「アメリカの若者はこれまで以上に兵役に就く資格が低下している」とフォート・ジャクソンの司令官パトリック・ミカエリス大将は軍関係のメディア『スターズ&ストライプス(星条旗)』に語った。陸軍参謀長のジェームス・マコンビル大将は、「軍務を志す若い男女はたくさんいるが、彼らは学力要件を満たしていないし、身体的要件も満たしていない」とした。
こうした現実を前提に近未来を予測するなら、まさに眼の前のリアルは米国衰退、国家分裂という最悪のシナリオへの「炭鉱のカナリア」だろう。だがアメリカのカナリアは歌を忘れている��
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