#旧暦のある暮らし
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kennak · 6 days ago
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ビートたけし率いる「たけし軍団」の一員として、また、漫才コンビ「浅草キッド」としてテレビ・ラジオで活躍してきた玉袋筋太郎(57)。50歳を境に、順調だった芸能活動に大きな変化が起こった。尊敬する師匠との別れ、「浅草キッド」の活動休止、長く連れ添った妻から三下り半を突きつけられて……。還暦が見える年齢になった今、家族同然だった仲間、自身を支えてくれた家族との関係を問い直す日々を送っている。(取材・文:元永知宏/撮影:倉増崇史/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部) 今の俺って正体不明でしょ? 高校卒業後すぐビートたけしに弟子入りし、師匠から「玉袋筋太郎」という芸名をもらった。相方の水道橋博士とのお笑いコンビ「浅草キッド」を結成したのが1987年のこと。今年の6月で58歳になる玉袋は言う。 「昔は、師匠からもらったこの玉袋筋太郎という名前に恥じないような型破りな芸人にならなきゃと思っていたけど、そういう力みみたいなもんはもうないね」 40年近い芸歴を誇るが、玉袋が過去を振り返ることは少ない。 「よく考えてみれば、芸人としてまだ一回もブレークしてないんだよね。俺なんか、これから。まだ全然アクセル踏んでないんだから(笑)。今の俺って、正体不明でしょ? 町中華食って、競輪やって、スナックで飲んだくれて。テレビとか見てる人は『なんだ! あいつ』と思うだろうね。 この年齢になって人生の目標なんか立てないんだけど、あえて言えば『職業・玉袋筋太郎』になれればいいね。『やっぱり玉袋だからな』とか『どうせ玉袋だろ!』と言われてもいいから」 玉袋はそう言って、紫煙をくゆらせた。 昭和のテレビ界のトップランナーだった“殿”に率いられた軍団の若手、玉袋が師匠や先輩たちと離れたのが2020年のことだ。彼らとは別の道を進むことに決めた。 「はじめに、殿が『オフィス北野』から出ていったからね(笑)。そのあと、弟子たちでどうするかという話になったんだけど、俺はひとりでやることに決めたんだよ。個人事務所の社長をカミさんにして、フリーになった」 同時に、10代の頃から生活をともにしてきた相方とも別れることになった(水道橋博士は2022年7月に参議院議員になり、翌年辞職)。ひとりっきりのリスタートだ。 「師弟関係って切っても切れないもの。今でもずっとつながってるわけですよ、ハートでは。『ビートたけしの味』を知る俺たち弟子が、それぞれの道を進みながら、いろいろなところでそれを広げていく。離れ離れにはなったけど、みんな、そういうことができているんじゃないかなと思うよ」 現在は東京・赤坂に開いた「スナック玉ちゃん」の経営者として、またタレントとして活動している。 「師匠と離れ、軍団とも別れてひとりになったときはさびしくて、心細くて、不安で仕方がなかった。だけど、自分で『やる!』と決めたこと。 レギュラーのラジオ番組スタッフは『玉さんと仕事してきたんだから、これからも変わらずやりたい』と言ってくれて、そのまま続けられた。独立する前後で『町中華で飲(や)ろうぜ』(BS-TBS)みたいな企画も生まれた。本当にいろいろな人に助けてもらって、もう感謝しかない。そういう気持ちを持った人と一緒にやってきてよかったなと思う」 妻との別居の原因は俺 50歳を過ぎてからの独立に苦闘する日々、私生活で嵐が吹いた。 「おふくろが認知症になっちゃって……施設に入れなくちゃいけなくなったときはつらかったね。年をとれば誰だってそうなるとはわかってはいるんだけど、自分が思うよりも早くそのときが来てしまった。 離れて暮らしていると、夢で見ちゃうんだよね。昔の、元気な頃のおふくろが出てきて、うわーっとなって夜中に目覚めることがあるよ」 会うたびに、母の変化を目の当たりにする。 「施設に行くたんび、行くたんび、ますます“天才芸人”になっていく。こっちが考えつかないような面白いことばかり言うんだよ。あるとき、俺が最近出した本を持っていったんだよね。そうしたら、ものすごく喜んでくれた。俺が表紙になっているのを見て、『ああ、いい本だね』なんて言いながらパラパラパラパラとめくって、『で、誰の本なんだい?』って言う。会うたびに、ボケの天才になってるんだよね」 もうひとつが妻との別れだ。 「携帯電話もLINEもブロックされてるから、俺から直接連絡する手段がない。どこでどんなふうに暮らしているかはわからない」 別居の原因は玉袋本人にあるという。 「緊急の場合は息子の嫁に連絡して用件を伝えてもらってるんだよね。人を介してでないとコミュニケーションが取れない状態がずっと続いている。 さびしくないかって? そりゃあ、さびしいよ。この件に関しては俺が100%悪い。俺に原因があるから、多くは語れないな。やっぱり、女々しいんだよね、俺は」 直接的なコミュニケーションはないものの、つながってはいる。 「個人事務所の社長であることに変わりはないし、俺がいないときに我が家の掃除や洗濯なんかはしてくれる。用事があるときには俺が置き手紙をして、それをカミさんが回収する形だね。 もっと優しくしておけばよかったと思う。それを教えてくれたということでは、カミさんはある意味で師匠になっちゃったね。俺が気づくのが遅かった」 戸籍はそのまま。ふたりの現在の関係を“スプリット婚”だと玉袋は表現する。 「そういうのもありでしょ。子育てが終わって夫婦ふたりで仲良くしようといったって、煮詰まる人は煮詰まるわけだし。無理に我慢する必要はないんじゃないかな。添い遂げる美しさもあるけど、スプリットする美しさだってあるんだから。 たまにカミさんの姿を見るとき、以前よりもイキイキしているように感じるよ。だから、今の状態も悪くないのかもしれない」 血縁関係ない息子を一生懸命に育てた 玉袋は実の姉と絶縁状態にある。家族がいれば心強いが、それを断ち切らなければいけないこともある。 玉袋は続ける。 「俺は、うちの親父が死んだときに姉と縁を切ったからね。姉の金銭問題のせいで親父が自分で死を選んだことで家族がバラバラになっちゃった……だけど、家族として過ごした時間とか経験は、自分の中に、もうずっと入り込んでいるからね。 たとえ縁を切らなきゃいけないほどのことが起こっても、二度と顔を見ることがない関係になっても、俺にとって家族はものすごく大切なものだね。かけがえのない時間、かけがえのない経験だったと思う」 玉袋は、妻の連れ子だった息子を育てあげ、孫をかわいがる“おじいちゃん”だ。50歳を過ぎて、さまざまな別れを経験した今だからこそ言えることがある。 「息子とも孫とも血のつながりはない。だけど一生懸命に育ててきた。血のつながりは大事なものだけど、それがすべてでもないと俺は思うよ。 日に日に老いていくおふくろを見るのはつらい。生きること、老いることってなんだろうというモヤモヤは俺の中にあるよね。でも、まだまだ無垢な2歳の孫を見ると心が洗われるような気がする。モヤモヤを吹き飛ばしてくれるんだよ。会うたびに、『こんなにピュアな生き物があるんだなあ』と思う」 血のつながりを背負いこむこともない 職場や学校、家庭での人間関係に悩む人が多いことも、心に傷を負いながらも懸命に生きようとする人がいることも玉袋はよく知っている。 「俺は自分でもスナックをやっているし、全日本スナック連盟の会長もしている。取材でお邪魔する町中華の大将とかスナックのママは本当にタフだよね。たくましく生きている」 傷ついた経験があるからわかることがあると玉袋は思う。 「そこを切ればどのくらい血が出るか、どれだけ痛いかがママさんたちにはわかるわけ。人に優しくなれるし、人を支えるときには、上っつらの言葉だけじゃなくて、全力でやってやろうと思うんじゃないかな」 玉袋にも人間関係で悩んだ経験がある。 「人のことを考えすぎて、いろいろ世話を焼いたのに相手は俺のことを何とも思わないということもあるよな。若い頃はガックリきたもんだよ。姉貴の金銭問題もそうだった���今の俺は、見返りは求めない。孫には異常な愛情��注ぐけどね。 こんなことを言うと、『冷たいやつだ』とか『人間味がない』と言われるかもしれないけど、そういうことじゃない。ギャンブルと一緒だよ。戻ってこないと思っているものが返ってきたら、こんなうれしいことはないじゃない?」 還暦まであと2年。「自分が60歳になることなんか子どもの頃には想像できなかった」と玉袋は笑う。 「俺は断捨離という言葉は好きじゃねえけど、血のつながりがあるからとか、世話になったからといって余計なものを背負いこむこともないと思う。それは優しさとはちょっと違うかもしれない。 自分というトラックの荷台にはいろいろなものが載っているよね。長く生きていれば『こんなのもあったか?』というのもある。自分でうまく整理して、いらないものは産廃業者に預けちゃっていいんじゃねえかと思うよ。シールを貼って粗大ごみで出すとかね(笑)」 この先どれだけ芸人として活動できるかはわからないが、今、玉袋はこう考えている。 「88歳の先輩芸人、毒蝮三太夫さんに俺の本を見せたら『美しく枯れるなんて、言ってるんじゃないよ!』と怒られたよ。毒蝮さんからすれば、俺なんか、まだまだひよっこ。これからの目標は、人に迷惑をかけないで、自分勝手に生きることだね」 昨年10月、お笑いファンがざわめく出来事があった。長く活動を休止していた「浅草キッド」のふたりが同じ舞台に立ったからだ。 だが、復活までにはまだ時間が必要だ。 「ふたりは別の方向に行っちゃったから、まだ漫才できるような状況じゃない。だから、2、3年くらい経ってから漫才をやれるようになればいいと俺から言ったんだよね。俺が60歳で、あっちが65歳くらいかな。そのときまでに、お互いがいい男になれたらいいなと思っているよ」 撮影:倉増崇史 ------------------------------- 玉袋筋太郎(たまぶくろ・すじたろう) 1967年6月22日生まれ、東京都出身。高校卒業後、ビートたけしに弟子入り。1987年に「浅草キッド」として水道橋博士とコンビを結成。以来、テレビやラジオなどで活躍。一般社団法人「全日本スナック連盟」を立ち上げ、自ら会長を務める。『美しく枯れる。』(KADOKAWA)、『玉袋筋太郎の#昭和あるある』(双葉社)ほか著書多数。 「#家族とわたし」はYahoo!ニュースがユーザーと考えたい社会課題「ホットイシュー」の一つです。ひとり暮らしの単身世帯が過去最多となり、生涯未婚率も上昇するなか、家族のかたちは多様化しています。また、介護や育児、親子関係など、現代の家族が直面する問題も多岐にわたります。旧来の家族観が変化するなか、「家族」とは何なのか、どうあるべきなのか。さまざまなエピソードや課題をもとに、ユーザーと考えます。
LINEもブロックされてるから妻との連絡は置き手紙──玉袋筋太郎57歳、家族を問い直す日々 #家族とわたし(Yahoo!ニュース オリジナル 特集)
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uedah1 · 1 month ago
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読んだ本の余韻をそのままに小旅行の記録を残す
三重県の丸善でその本を見つけた時、私はこれを確実にこの年末に読もうと決心したのだった。
私の年末は読書の為にある。
正確に言うなら読書の為にもある。他の目当ても沢山ある。例えば、友達に会うこと。例えば、街を歩いて故郷の空気を胸いっぱいに吸い込むこと。
さて、この年末とは即ち令和6年、西暦2024年12月29日日曜日から31日火曜日までの3日間のことだ。
そしてその本とは古川日出夫「京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る」だ。
だから私はこれを携えて西へ帰った。
即ち名古屋から京都へと。
私の実家は京都ではないし、一度も住んではいないが、仮住まいもなかったのだが、「帰った」と言ってはばからない程には故郷のように愛している街である。
私は道中、読んだ。
しかし京都では読んだか。題に謳われし京都に着いて以降は読んだのか。読まなかった。
その代わりに京都を歩いた。
これには書かれていない京都を。即ち洛外を。
洛外のどこであるか。それは京都市伏見区だ。伏見区の稲荷大社だ。
一人でか。否、もう一人いた。大学時代の友人がいて、だから二人だった。
私たちが約束したのは令和6年、西暦2024年12月29日だった。
日曜日と言い添えるべきか。いや、もう書かずとも構わない。
バカンスに曜日は意識されない。
我々はわざと隣の駅で待ち合わせて、二人とも遅刻していて、しかしお互い気にしないで、挨拶を交わして、それから歩いて。
すぐに稲荷大社へ向かう訳ではない。
隣の駅で待ち合わせたのは訳があり、見たいものがあったからだ。
目的の一番目を達する為、京阪電車の龍谷大前深草駅を降り西へ向かう。
そこは普通の文教都市の住宅地である。しかしそこは京都の住宅地だ。並みの街とは、風格が違う。
実はそこにはカタカナ地名がある。漢字を受け入れる前の、日本の、この国の、古い古い記憶が残されている。
それを見る。標識に、看板に、自治会掲示板に。
まず、駅を降りるとそこはススハキ町である。
それ��らまっすぐ西へ歩き龍谷大学深草キャンパスと京都府警察学校との間を抜けていくとヲカヤ町。
誤字ではない。
地名であるにも関わらずーーー現今の国語体系ではまずありえないことにーーー「を wo」の字を冠する町がある。
それを確認して嬉しくなった所で大学の学舎群に沿ってぐるりと回って戻って来ればケナサ町に至る。
固まって所在する三つの旧い町を見、満足して私達は北進する。
するとすぐ、国際観光都市京都の、Kyotoの、面目躍如であった。
当然日本人もいて、地元の人々や九州人や関東の人がいて国の言葉が飛び交う。しかし同等かそれ以上かと思われる程に肌や、眼や、言葉の違う人がいる。コーカソイドがいて、モンゴロイドがいる。
私たちは本命の目的地に着く。
巨大な二本の鳥居の下を通り、歩く。
山を、神域たる山を登っていく。
千本を優に超えていると思われるほどの夥しい朱の鳥居が続く。
くぐる。
歩いて。
登って下って。
鳥居に挟まれた道は狭い。
狭い参道を歩いて、登って下って、鳥居をくぐり続ける。
参道で産道を連想する。
しかしこの場所で生まれるーーー生まれ直す人の数が、多い。
だから、混んでいる。
稲荷神社の狐は多産の象徴だから正しい状況とすら言えるかも知れない。
自撮りする旅人を抜かし、恋人を「映えスポット」で撮影するこれも旅人をそっと待ってから進み、家族写真を手伝おうか迷って、足を止めるが友人は行ってしまうので追う。
二人は黙って歩いていたのではない。しかし会話を続けるには狭くて、混んでいた。
だから途切れ途切れに言葉を交わした。
私たちは久方の再開をおざなりに寿ぎ、散策を開始し、以降休まず歩き続けているのだった。
体がほぐれ、心拍が上がる。
狭い参道で人を避ける為に縦一列になりまた戻りを繰り返した。並んでいても遠ざかったり肩が触れ合いそうな距離を歩いたりした。
状況に応じて左右を入れ替わったりしている内に奥社奉拝所に出た。
それぞれに願を掛け、おもかる石に挑戦した。
また、歩く。
四辻まで辿り着く頃にはすっかり日が傾いていた。
森は緑から黒に移ろい、濃さを増していた。
稲荷山参道の四辻は開けていた。視界が。街に向けて。西を向いて。
国立天文台の発表によると、令和6年、2024年12月28日の京都市における日の入り時刻は16時53分だ。
だからこの思い出はその時刻の頃だった、と後からでも断じることができる。
しかしその日の私はそこで時計を検めな��った。
スマホのカメラを夕焼けに向けながら、しかし画面の隅の時刻は確かめなかった。
バカンスに曜日は必要なく、もう時刻すらも煩わしくなっていた。
ここで明かしておくと、私は稲荷山を登るのは初めての事ではない。
なので四辻が眺望という観点ではゴールであることを知っていた。
なので念の為に尋ねた。友に。まだ、進むのかと。
進む、と友。
応、と私。
四辻の先、山頂へ向かうルートはすぐに角度を増した。我々は試されていた。
我々の腿が、ふくらはぎが、踵が、心臓が。
三の峰、二の峰、最後の一の峰に着く頃には、混雑ではなく疲れから口数が減っていた。
しかし引き返すという手はなかった。
かわりに足を出して歩み続けるのだった。
裏稲荷、という言葉は存在しないが、四辻で右を選び、一の峰、すなわち山頂からそのままぐるりとまた四辻へ戻る道は正に裏、といった風情だった。
日は暮れていた。下り道が続いた。お喋りは減り続けて今や殆ど止んでいた。
電灯がかろうじて鳥居の内側を照らしてるだけで、外側はもう全くの暗がりだった。
自分たち以外の観光客も殆ど見なかった。
四辻でまた観光客を認め、進んで三ツ辻へ再び差し掛かって、先に来た方角へは戻らず、北向きのルートへ入った。
登りと同じだけ人がいるのが道理だと思うが、目の届く範囲が無人であることが多くなる。
二人きりになることが増えた。
闇に包まれているが自分達の道筋だけは明るい。
不安定な傾斜の中で、お喋りの途切れた時、不意にこれまでに感じたことのない種類の親密さを傍らの友に覚えた。
音のない森の中で、それがいつかも分からず、方角をも知らなかった。
上と下、前と後ろ、内と外の別だけがかろうじて残っていた。
幽玄で原始的な感覚の中で傍らの人の存在は強烈だった。確固としていた。
肩が触れた。
そっと手を取りたくなってーーー迷って止した。
今日は本当に楽しかった、私は言った。
そやね、またね、友が言い、分かれた。
互いに交わり合うことのない観光客同士で混雑する、JR稲荷駅と京阪電車伏見稲荷駅の中間地点で、私たちは一人ずつに戻った。
高揚は続いていた。
私は実家へ帰る道すがらまた本を読み、実家で読み、名古屋で帰る道中でまた読んだ。
僅か三日の経過がめぐるましかった。
日常があり、今やそれは休んでおり、非日常なひと時があり、そこで新たな感覚を得、虚構の世界に入り、また出ていこうとしていた。
京都には私の過去が、今が、そして虚構すらもが重なっていた。
境目はあやふやだった。
混ざりつつあった。
帰名の道中、梅田スカイ��ルを見た。
JR西日本の新快速に乗り、僅か十五分揺られるだけで乗り換えの京都駅に着いた。
乗り換えの合間に京都駅舎を内から外から眺め、観察し、原広司の世界を楽しんだ。
作中、古川が住んでいたという原広司事務所策の借家を思った。
私はこの本のカバー裏に京都駅来訪記念スタンプを押すことにした。
改札の近くまで行くと、南西アジア系の浅黒い肌をした観光客がはしゃぎながら先にスタンプを操作していた。
すぐに私の番になった。
この思い付きはーーー迷わなかった。
ハンドルを下げ、抑える。
手を上げてみると案外インクが薄く、期待外れだったが、これで全てが繋がったと思った。
内と外も。リアルとフィクションも。過去と今も。
ここを地獄の、とは言わないでおく。
ここは国際観光都市Kyoto。
愛する街を離れながら、私は次の本を開いた。
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myonbl · 2 years ago
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2023年7月7日(金)
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今日は<七夕>、旧暦では皐月20日なのでまだまだ先のこと・・・、などと野暮はことは言わないでおこう。GoogleDoodleをクリックすると、Wikipeiaの解説とともに可愛い画像が表示される。職場(私立女子大学)では今週が<たなばたまつり>、学生たちが笹に短冊を飾り付け、昼休みにはサークルの演奏が行われる。2限の授業を終えた後、掲示板のポスターを撮影してすぐに自室に戻る。別に悪いことしているわけではないけれど、教室以外で学生と喋るのは苦手なのだ。
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4時30分起床。
日誌書く。
5時30分にアラームを止めて、シャワーを浴びる。
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奥川ファームの蕎麦がなくなったので、朝食には大分以前に送っていただいて冷凍していたパンを頂く。まだ初期のころの作品、無骨な外見の写真を撮っておけば良かった。
洗濯。
弁当*3。
可燃ゴミ、20L*1&30L*1。
ツレアイの職場経由で出勤する。
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順調に到着する。
今日の授業で使う資料を用意する。
非常勤講師のO姉が iPhone を忘れてきたとのこと。<探す>アプリの使い方を教え、自宅にあることを確認する。
金曜日2限・3限は<スタディスキルズ>13週目、O姉のクラスも一緒に合同発表会、各10分間の発表を聞き、終わってから評価シートに記入する。2限は4組、3限は都合で3組となった。内容はともかくも、この授業の流れで言えば前期に必要なスキル習得が一通り終わったことになる。
昼休み、1人の学生が卓球の試合のために来週のエクセルの試験が受けられないと相談に来る。別途対応するから心配しなくても良いと答えたのだが、木曜日のクラスの学生と(ほぼ)双子であろうことを確信した。
いつも通り、九条大宮でO姉を降ろしてから帰宅。
まずは、玉ねぎをスライス、タマゴを半熟に茹でる。
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セントラルスクエア西七条店まで買い物、猫砂・牛こま・糸コンニャク・レタス・キュウリ。
蒸し暑くて汗びっしょり、すべて着替える。
玉ねぎを酢に、半熟タマゴをポン酢に漬ける。
キュウリのしょうゆ漬けを仕込む。
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夕飯はすき焼き風煮物・半熟酢タマゴ・キュウリのしょうゆ漬け・トマトとレタス。ツレアイも間に合って、4人揃っての食事を楽しむ。
片付け、入浴、体重は3日前から150g減。
タマネギの酢漬け、もう一瓶を仕込む。
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夕方買い物に出たのでなんとか3つのリング完成、水分は1,880ml。
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floraflora-weblog · 12 days ago
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MY LIFE AS A FLOWER
今日は旧暦の新年。そして、水瓶座の新月。
少し前に、iCloudの容量を圧迫する写真を整理しました。10年分。
外付けのハードディスクや、例えば他のクラウドサービスに上げてもよかったのだけど、重複していたり必要なかったりと結構な枚数を削除。
MY LIFE AS A FLOWER というタイトルでアルバムを作成。
畑の様子を含む10年の流れ、様々な出来事を象徴する写真、その時々のお気に入り、セルフ写真などを選んでアルバムにまとめました。
まとめてみて思う。勢いに波がある。人はそれをバイオリズムとでも言うんだろう。
コロナ禍以降遠くへ出かけなくなり、旅行の写真がない。10年通して畑にはたくさんの花、��の写真はたくさん。
2019年の台風被災や、2023年の水回りのリフォーム。
壊れた「もの、こと」を整え直すことで、その後暮らしが快適になっているのが見える。
新しい畑も作業がひと段落したので、2月は家の断捨離を進めようと思う。乾燥ハーブを置く棚も作りたい。
去年の夏は気温が高過ぎたのだろう、窓からの直射日光が当たっていた場所の乾燥ハーブをダメにしてしまった。
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今日作ったお餅2種。モリンガ餅と、発芽玄米餅。ジップロックでのし餅に。
お餅への興味関心もこれでひと段落。
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flair-design · 4 months ago
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[新規取り扱い]暦のある暮らし [商品No.734] IC-705H
暦のある暮らし [商品No.734] IC-705H 暦のある暮らしは季節の移ろいや動植物の様子を短い言葉で表現した七十二候。伝統模様と友にあなたの暮らしに和の彩りを。 二十四節気、七十二候、旧暦、月例記号を表記。
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kachoushi · 9 months ago
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虚子自選揮毫『虚子百句』を読む Ⅵ
花鳥誌2024年6月号より転載
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日本文学研究者
井上 泰至
10 思ひ川渡れば又も花の雨
 初出は『ホトトギス』昭和三年七月号。「貴船奥の宮」と前書き。『五百句』には、「昭和三年四月二十三日 (西山)泊雲、(野村)泊月、(田中)王城、(田畑)比古、(同)三千女と共に鞍馬貴船に遊ぶ」と注記。
 成立の事情は『ホトトギス』昭和三年九月号の、「京都の暮春の三日」なる虚子の紀行文に詳しい。二十一日夜、大阪で「花鳥諷詠」の初出とも言うべき毎日新聞社での講演の後、東山から鞍馬・貴船・大原と洛北を巡った。二十三日当日は、前日ほどの雨ではないが、天気は悪く、かなり寒かった。鞍馬から貴船に向かい、昼食の後、幸い雨もあがって貴船神社から奥の宮へと向かい、宿に戻って句会を行い、掲句は「春の雨」の形で披露されている。
 本井英氏は「虚子『五百句』評釈(第五五回)」(『夏潮』)で、昭和十年三月発売の「俳句朗読」レコードに添えられた自注を紹介している。それによると、貴船神社を参詣後、貴船川という小川にそってさらに物寂しい奥の宮に着くと、ほとんど参詣する者もなく、辺りには桜がたくさん咲いており、落花もあれば老樹もあった。貴船神社でも雨だったが、しばらく降ると止み、奥の宮にゆく道にある思ひ川が貴船川に流れ込んでおり、そこでまた降り出した、という。
 当初「春の雨」としたのは、京都特有の、降ったりやんだりする「春雨」を実地に体験した報告として成った、ということだろう。それが様々な桜を濡らし、花を散らして川に流す方に重心を置いて「花の雨」とした。ここで「又も」が報告に終わらず、奥山の桜の様々な姿態を想像させる、繚乱の華やかさを得るに至った。
 「思ひ」は、和歌では恋の火を連想させ、貴船には恋の説話が堆積している。恋多き女、和泉式部も夫の心変わりに貴船に��参りをし、貴船川を飛ぶ蛍を見て、歌に託して祈願をしたら、ほどなく願いが叶い、夫婦仲が円満に戻ったという故事がある。
 さらに、謡曲「鉄輪」では、嫉妬に狂った公卿の娘が 貴船社に詣で、鬼神にしてほしいと祈願し、明神の託宣があって、娘は髪を分け、五本の角をして、足に松明をつけ、これを口にもくわえ、頭にも火を燃え上がらせて鬼の姿に変じたという。
 虚子は、こうした幾多の恋の話を面影に、一句を絢爛たる「花の雨」に転じて詠み留めたのである。
 なお、田畑夫妻は祇園の真葛原でにしん料理屋を営む。吟行に侍した三千女は、かつて千賀菊の名で祇園の一力に出ていた舞妓であった。虚子の祇園を舞台にした小説『風流懺法』の三千歳のモデルである。
11 栞して山家集あり西行忌
 『五百句』に「昭和五年三月十三日 七宝会。発行所」と注記。
 この句については、『夏潮虚子研究号』十三号(二〇二三年初月)に私見を披露しているので、ここにそのあらましを再記する。
 最近提出された岸本尚毅氏の掲句に対する解釈の要点は、以下の通りである。「山家集」と「西行忌」という、氏によれば同語反復に終始したこの句は、
「定型と季題以外何物もない」句ということになる(『高濱虚子の百句』)。そもそも膨大な数残る虚子句から、配合の句に絞って論じた所に本書の狙いがある。通常季題と季題以外の取り合わせに俳人は苦心するが、氏に拠れば、虚子にはその迷いの跡がない、と言う。その理由を探ることが本書の目的でもある、とも言う。
 従って、標題句もそうした関心から選ばれ、「人の気配がない」句として解釈されるに至る。その真意は、本書の最後に置かれた「季題についての覚書」に明らかである。岸本氏によれば、虚子の配合の句は、一般のそれより季題に近いものを集めた「ありあわせ」なのだという所に落ち着く。虚子の工夫は、季題を季語らしく見せることにあり、それは季題のイメージの更新でもあった、という仮説が提示される。
 ここまで確認したところで、掲句を眺めれば、「西行忌」から「山家集」を「ありあわせ」、「栞」がどの歌になされているのか、その折の情景や人物はほぼ消去されているというのが、岸本氏の解釈であろう。
 ただし、岸本氏は、「おしまいにまぜっかえすようなことを」言うと断りを入れて、「句はあるがままにその句でしかない」というのも虚子の真意だったろう、と記している。
 これを私なりに敷衍して述べれば、虚子にもともと二物衝撃のような俳句観は���めて希薄だったのだから、標題句のような一見すると同語反復に見える「ありあわせ」については、季題がどれで季節がいつかといった議論を無効にする句作りがなされていたことになる。したがって、「同語反復」の良否を議論することは、虚子の句の評価においては、本質的ではないことになる。
 虚子の読書を題材とした句にも、標題句より取り合わせの色が多少は濃いものがある。
  焼芋がこぼれて田舎源氏かな
 昭和八年の作なので、標題句から詠まれた時期も遠くない。『喜寿艶』の自解はこうである。
 炬燵の上で田舎源氏を開きながら焼藷を食べてゐる女。光氏とか紫とかの極彩色の絵の上にこぼれた焼藷。
 絵入り長編読み物の合巻『偐(にせ)紫田舎源氏』は、本来女性向けの読み物であった。白黒の活字印刷ではない。木版本で、表紙および口絵に華麗な多色摺の絵を配した。それらは、物語上の主要な人物を描くものではあるが、顔は当代人気の歌舞伎役者の似顔絵となっていた。
 「読書」というより、「鑑賞」と言った方がいいこの手の本への接し方は、色気を伴う。主人公光氏は、光源氏のイメージを室町時代の出来事に仕立て直したものである。そこに食い気を配した滑稽と、冬の余り行儀のよくない、それが故に微笑ましい、旧来の読書の季節感が浮かんでくる。確かにこれから比べれば、西行忌の句は人物の影は薄いし、西行の繰り返しということにはなる。周到な岸本氏は、
  去来抄柿を喰ひつつ読む夜哉
  落花生喰ひつつ読むや罪と罰
など、虚子句から同じ発想のものを、「焼芋」句の評で引いてもいる。  そこで、標題句の解釈の焦点は、「栞」が「山家集」のどこにされているのかについての推論・推定に絞られてくる。まずは『山家集』中、もっとも有名な次の歌が想起されよう。
  願はくは花の下にて春死なむ         そのきさらぎの望月の頃
 西行は出来ることなら、旧暦二月の望月の頃に桜の下で死んでゆきたいと願った。『新歳時記』よりさかのぼり、標題句の成立から三年後に出された改造社版『俳諧歳時記』(昭和八年)の「西行忌」の季題解説は、虚子が書いている。この歌を引いて、その願望の通り、二月十五日か十六日に入寂したことを伝えている。従って、掲句についても、この歌と願い通りの入寂を想起するのが順当であろう。その意味で、この句は「花」の句の側面を持つことになる。
 ここまでくると、一句の解釈は、読み止しにした人も、「願はくは」の歌に「栞」をした可能性が出てくる。また、仮にそうでななくとも、「西行忌」に「栞」された「山家集」からは、西行と花の奇縁を想起するのは、当然のこと��言えるだろう。
  花有れば西行の日とおもふべし 角川源義
 例えば、この句は「西行忌」ではなく、「花」が季題だ、という事に一応はなるだろう。また、「西行の日」を「西行忌」と考えてよいのか、という問題も残る。しかし、一句は「桜を見れば、桜があれば、その日を西行入寂の日と思え」という意味であり、「西行入寂の日」の奇縁、ひいては西行歌と西行の人生全体への思いがあふれている。むしろ、「西行忌」という枠を一旦外すことを狙った、広義の意味での「西行忌」の句と言えるだろう。
 逆に虚子の句は、「西行忌」に「山家集」を持ち出すことで、和歌・俳諧の徒ならば、西行の作品とともに、その生きざまに習おうとする思いは一入のはずではないか、というところに落ち着くのだろう。「栞」をした人を消すことで、逆に西行を慕った人々に連なる歌俳の心が共有される句となっているわけで、かえってここは、具体的な人物など消して、西行の人生と歌のみを焦点化した方がよかったのである。
 回忌の句は、俳諧の場合、宗祖を慕いつつ、一門の経営に資する世俗性が付きまとってきた。近代俳句はそういう一門の流派を嫌った子規の書生俳句から生まれたが、皮肉なことにその死の直後から「子規忌」は季題に登録され、他ならぬ虚子自身が、大正の俳壇復帰に向けて子規十七回忌を利用した経緯もある(井上『近代俳句の誕生』Ⅳ・2)。
 しかし、西行ならば、広く歌俳を親しむ人々一般に、「開かれた」忌日として価値が高い。標題句が、西行一辺倒で詠まれた理由は、西行の「古典性」「公共性」に由来していたとみてよい。標題句の同語反復に近い言葉の選択の意義は、祈りの言葉に近いものであったからで、それを正面から行わず、「栞」を媒介に『山家集』の読者を無限につなげていく「さりげなさ」こそが、虚子の意識した俳句らしさであったと見る。
『虚子百句』より虚子揮毫
11 栞して山家集あり西行忌
12 紅梅の莟は固し不言
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国立国会図書館デジタルコレクションより
___________________________
井上 泰至(いのうえ・やすし)   1961年京都市生まれ 日本伝統俳句協会常務理事・防衛大学校教授。 専攻、江戸文学・近代俳句
著書に 『子規の内なる江戸』(角川学芸出版) 『近代俳句の誕生』 (日本伝統俳句協会) 『改訂雨月物語』 (角川ソフィア文庫) 『恋愛小説の誕生』 (笠間書院)など 多数
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naritamarchaiswebsite · 10 months ago
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美味しい旅~その36
先月の話になってしまうのですが、東京に就職が決まった次女の引っ越しの手伝いに行き、長女も合流。いろいろな手続きのために次女が出かけている間、長女と散策に。
そこでとても可愛いカフェを見つけました。玉川学園前駅近くの『うぃすかあ』というお店。
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中に入ると、たくさんの雛飾り。
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もうお雛様は過ぎていたのですが、常連さんがお孫さんに見せてあげたいというので旧暦のひな祭りまで飾っておく、とのこと。そういうところがたまらなくいいなあ、と思いました。
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近くに住む万華鏡作家さんの作品も置いてあって、自由に見ることができるようになっていました。
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万華鏡の世界、不思議で神秘的でとても綺麗でした。
注文したものはこちら。私はアップルパイ。
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長女はババロア。
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味見をしあって・・・どちらも美味しかった!
私が一番感動したのは紅茶を漆塗りの茶わんで出していただいたこと。
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漆塗りの茶わんで紅茶をいただいたのは初のこと。紅茶がまろやかに感じられ、同時に「私は日本人のDNAを持っているんだなあ」と手に感じられる温もりや口触りが心にまで沁みわたっていくのを感じ、感動しました。
近所のお馴染みさんとお店の方の会話も、日ごろからいろいろな話をしているのだな、と感じられるもので、そういう全てが楽しく、次女がこの町で暮らしていくことへの希望を感じました。
いろんな意味で、忘れられない「美味しい旅」となりました。
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ryuukouji · 1 year ago
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ベトナム寺院 大恩寺旧正月参拝
2月10日(土)
今日は風もなく暖かい陽気に恵まれ
多くのベトナム人さんたちがお正月をお祝いしております。
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日本伝統文化の餅つきを日越交流として行いました。
お手伝いの小学生たちも餅つきを体験です。
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小学生には配布物をベトナムの皆様にお手伝いしてもらいます。
お正月に食べる「バインチュン」
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もち米に緑豆やぶた肉などを加えてゾンという葉で包み、
長い時間をかけて 蒸む し上げた四角いちまきで日持ちがします。
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ベトナムでは旧正月のことを“テト(Tết)”と呼びます。
中国の春節と同様に、ベトナムでは旧暦で新年をお祝いします。
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本堂前の会場ではベトナム歌手の方々がステージを披露してくれてます。
大恩寺タムチー和尚様、ガードナー社、アプロン社両矢澤社長様と本堂で記念撮影。
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世界平和や新年の抱負、家内安全を祈って三連休の初日です。
分散しているとは思いますけれども、500人以上は参拝されておりました。
皆真剣に読経している様子に言葉が分からなくとも気持ちが伝わって参ります。
お連れしたベトナム人さんたちも故郷の習慣や言語に日本で触れて懐かしい思いをされたと思います。
「日本を選んできてくれた人たちに、ここにきて良かったなと思ってもらえたら」
もし、私たちが外国へ移住したらどのような気持ちになるでしょうか?
家族と離れ、慣れない環境で暮らすとき、周囲とコミュニケーションが取れず、うまく友達が作れないとき。
不安に思ったり、困ったりすることは皆同じ。
困ったときに声をかけてもらう嬉しさもみんな同じです。
言葉や文化の「ちがい」を越えて共に生きる社会を育むには、
お互いを理解しようとする想像力と創造力、
一歩を踏み出す優しい言葉と無限の可能性を秘める心に気づくことが大切です。
今日は小学生と共に楽しく国際交流が出来ました。
タムチー和尚様はじめ大恩寺スタッフの皆様、
日本人スタッフの皆様、
ガードナー社矢澤様、
アプロン社矢澤様、
社員の皆様、
小学生保護者様のご理解とご協力ありがとうございました。
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purplekittennight · 2 years ago
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神と富、どちらが主人?
主を愛する者たちよ、 悪を憎め。詩篇97:10
あなたがたは 神と富とに仕えることはできない。マタイ6:24
 ルカ22:14~20  マタイ7:24~29(通読箇所)     (ローズンゲン『日々の聖句』7/28;金)
   ―――― α&ω  ――――
 聖書が啓示している神、天の神、【主】、 「『わたしはある(I am)』という者」と 名乗られる方(出エジプト3:14)。
この方を愛する者、 この方の御思いが成ることを願う者は、 悪、この方と対立、対抗して、 自分の善悪の判断をこの方の善悪の判断よりも優先する 生き方を憎むのですね。
なぜなら、それが、すべての悪の根源なのですから。  
 ですからイエスは言われます。 「だ���も二人の主人に仕えることはできません。 一方を憎んで他方を愛することになるか、 一方を重んじて他方を軽んじることになります。 あなたがたは神と富とに仕えることはできません」と。
 イエスが十字架刑での処刑を受けられたのは、 過越しの祭りのときなのですね。
そして、過ぎ越しの祭りで、大祭司がエルサレム神殿で 羊を屠(ほふ)るその時刻にイエスは息を引き取られて。
過越しの祭りは、 昔、モーセの時代(紀元前1500年頃)、 エジプトで奴隷であったイスラエルの民が エジプトを脱出しようとする時、 これを阻止するエジプトの王ファラオは、 神がモーセを通して九つの災害をもってエジプトを打っても、 なお、心を頑(かたく)なにし、 イスラエルの民を去らせようとはしませんでした。
そして、モーセに、 「私のところから出て行け。 私の顔を二度と見ないように気をつけろ。 おまえが私の顔を見たら、 その日、おまえは死ななければならない」と 最後通告を言い渡しました。
それで神である【主】は、エジプト中の長子、 王の長子から奴隷の長子、家畜の初子に至るまでを 打たれ、死ぬことを言い渡されました。
そして神は命じて言われました。 「その月(旧暦)の10日に、 家族ごとに、傷のない一歳の羊を取り分け、 14日まで、それをよく見守り、 14日の夕暮れにそれを屠(ほふ)る。 そして、その血を取り、羊を食べる家々の 二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。
そして、その夜、その肉を食べる。 それを火で焼いて、 種なしパンと苦菜を添えて食べなければならない。
その夜、わたしはエジプトの地を行き巡り、 人から家畜に至るまで、 エジプトの地のすべての長子を打ち、 また、エジプトのすべての神々にさばきを下す。 わたしは主である。  
その血は、あなたがたのいる家の上で、 あなたがたのためにしるしとなる。 わたしはその血を見て、あなたのところを過ぎこす。 わたしがエジプトの地を打つとき、 滅ぼす者のわざわいは、 あなたがたに起こることはない。」(出エジプト10 :27~ 12: 13)
 神は、イスラエルの民に、 この出エジプトの出来事を記念して、 毎年、過越しの祭りを行うよう命じられました。 イエスご在世当時、 家々で羊を屠ることはなかったのでしょうが、 その代表として、夕暮れ(午後3時頃)、 エルサレム神殿で、大祭司が羊を屠り、 それが完了するとラッパが吹き鳴らされたそうです。
 イエスは、この過越しの食事を 一日前に行われたようです。
ルカは記します。
その時刻が来て、イエスは席に着かれ、 使徒たちも一緒に座った。 イエスは彼らに言われた。 「わたしは、苦しみを受ける前に、 あなたがたと一緒にこの過越しの食事をすることを、 切に願っていました。
あなたがたに言います。 過越しが神の国において成就するまで、 わたしが過越しの食事をすることは、決してありません。」
そしてイエスは杯を取り、 感謝の祈りをささげて��ら言われた。 「これを取り、互いの間で分けて飲みなさい。 あなたがたに言います。 今から神の国が来るときまで、 わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは 決してありません。」
それからパンを取り、 感謝の祈りをささげた後これを裂き、 弟子たちに与えて言われた。 「これは、あなたがたのために与えられる、 わたしのからだです。 わたしを覚えて、これを行いなさい。」
食事の後、杯も同じようにして言われた。 「この杯は、あなたがたのために流される、 わたしの血による、新しい契約です。」(ルカ22:14~20)
 このようにして、エレミヤ書に記され、 エゼキエル書に記されている 「新しい契約」が始まったのですね。
(エレミヤ31~34) 「見よ、その時代が来る——【主】のことば——。 そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、 新しい契約を結ぶ。 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、 エジプトの地から導き出した日に、 彼らと結んだ契約のようではない。 わたしは彼らの主であったのに、 彼らは私の契約を破った——【主】のことば——。
これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約は こうである——【主】のことば——。 わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、 彼らの心にこれを書き記す。 わたしは彼らの神となり、彼らは私の民となる。 彼らはもはや、それぞれ隣人に、 あるいはそれぞれ兄弟に、 「【主】を知れ」と言って教えることはない。 彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、 わたしを知るようになるからだ。——【主】のことば——。 わたしは彼らの不義を赦し、 もはや彼らの罪(「的外れ」)を 思い起こさないからだ。」
「わたしが きよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、 あなたがたはすべての汚(けが)れからきよくなる。 あなたがたに新しい心を与え、 あなたがたのうちに新しい霊を与える。 わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、 あなたがたに肉の心を与える。 わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、 わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを 守り行うようにする。」(エゼキエル36:25~27)
 イエスは言われます。 「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、 それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた 賢い人にたとえることができます。 雨が降って洪水が押し寄せ、 風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。 岩の上に土台が据えられていたからです。
また、わたしのこれらのことばを聞いて、 それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた 愚かな人にたとえることができます。 雨が降って洪水が押し寄せ、 風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。 しかもその倒れ方はひどいものでした。」
イエスがこれらのことばを語り終えられると、 群衆はその教えに驚いた。 イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、 権威ある者として教えられたからである。(マタイ7:24~29)
 イエスのことばを聞いてそのとおりを、 自分の力でやっていこうとする生き方は、 シナイ山以来の「古い契約」の生き方であり、 神を愛し、神と思いを一つにしていく生き方ではなく、 神の向こうを張って 自分の誇り、自分の誉れを求めていく生き方。  
「神の一人のようになり、善悪を知る者」になっている 〔生まれたときからの私〕の善悪の判断を土台として 人生という家を建てている人、ということなのでしょうね。 
この〔生まれたときからの私〕��いう私の霊から出て来た 善悪の判断は、 イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて 「死んだ者」から出て来た思いであることを認めて、 イエスの前に差し出しながら、 イエスを通して来てくださる 「わたしの霊」と言われる【聖である霊】と呼ばれる方が 心に置いてくださる【父である神】の思いによって生きる 「新しい契約」の生き方が、 「神の御思い」という岩盤を土台として 人生という家を建てる生き方なのでしょうね。 私たちも、この方を待ち望んで。
今日も。
      ~~~~~~~~~~~~~~ 
(聖書のことばへの疑問やご意見、 近くの教会を知りたい等の方、 また、婚活で広く出会いを求めたい、 教会に行っていないけれど 葬儀をキリスト教でしたい、等の方、 お問い合わせは、 [email protected]へどうぞ。)
 
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kuribayashisachi · 2 years ago
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勉強メモ 野口良平『幕末的思考』 第2部「内線」 第3章「一八七三年のアポリア」1~3
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理不尽なやり方で幕府を倒した新政府は、急いで自分たちの正統性を証明しなくてはならなかった。
そんな新政府内で、分裂が起こる。
きっかけは……
◆ 岩倉欧米使節団の12カ国視察
明治4(1871)年11月~岩倉具視・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文ら、新政府の主要メンバーが、ごっそり、しかも1年10ヵ月も欧米諸国を視察巡回。
この旅で使節団は合点する
欧米と自分たちの力の差のあまりの大きさ
国際法である「万国公法」は弱者を助ける法ではない、日本と同じ新興国、プロシア(ビスマルク)のゴリゴリのやり方に、希望がありそうだ
国家をまとめるには宗教の力が大きい。キリスト教はあらゆる考えの基本。これに相当するものを、日本にも根を張らせなければ! → 天皇の利用。顕密2分法 《国民には、天皇を信仰の対象と見せる。「陛下バンザーイ」  列強とエリートには、イギリスのような「立憲君主制」として天皇制を据える
◆留守政府の奮闘と混乱の中で……西郷隆盛のチャレンジと挫折
留守を守った新政府メンバーは、 西郷隆盛・三条実美(太政大臣)・井上馨・山県有朋・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・大隈重信・大木喬任
ビシビシ厳しい態度でたくさんの仕事をした →・学制発布 ・地租改正 ・徴兵制(げっ) ・司法制度���立 ・えた非人の呼称廃止 ・仇討ち禁止 ・キリスト教禁止を廃止 ・鉄道 ・太陽暦 ・マリアルーズ号事件をうけて娼妓解放令
だが、旧武士や庶民の生活を直撃するものも多く、取り残される人々が……。このありさまに、西郷隆盛は心を痛めてゆく。
そんななか、留守政府は、朝鮮王朝ともめごとをおこす。 1873(明治6)年、朝鮮半島にあった日本の出先機関、「草梁倭館」(対馬藩が管轄)をムリヤリ廃止して、日本政府外務省が管轄する「大日本公館」にしてしまう。
↓ 一方的なやり方に、朝鮮政府は反発 ↓
板垣退助たちは「そんならペリーみたく、軍��つきの使節を派遣して脅しちゃおうぜ!」 ↓ 西郷「そりゃいけん!」 板垣と三条実美たちを説得。
西郷の考え: 「日本はアジア諸国と連携して近代化をとげ、欧米列強に対峙すべし」
「欧米は、文明国と言いながら、小国に対しては野獣のような振る舞いだ! こんなやり方をまねしてはいけん!」
(えーそうだったの!?)
朝鮮には、軍隊も軍艦も率いずに、西郷が丸腰で交渉にでむく(西郷丸腰派遣)ことに決まる ↓ 帰国していた大久保・岩倉は、西郷に押し切られて了解するが……若い天皇に手を回したりして、西郷の派遣をやめさせてしまう。 ↓
西郷、ゼツボーして政府を去る (えーっ、ちょっとまってよ、やめないで無責任でしょ~~! 朝鮮はどうなるの!! 江華島事件止めてほしかった!! ……でも西郷さん一人では無理か……)
◆在野で考えた人たち
明治六年に、政府と在野の知識人たちが結成した明六社のチャレンジが紹介される。
森有礼、福沢諭吉、加藤弘之、津田真道、西周、中村正直ら
身分や序列による「命令!」ではなく、 すべての者が対等な立場で、 反対意見を尊重し、意見を交換することで妥協点を見いだし、 混乱を切り開いてゆくやり方を築こうと。
累計156もの論文が掲載され、毎号平均3200部(す、すごい!)も売れたが……
早くも2年後には、大久保政権の打ち出した、言論の自由を弾圧する法「讒謗律」「新聞紙条例」をめぐって、意見が対立 (「学問は政治に口出しすべきでない」という森と「知識をひろめようという人間が政治のことに関わるな、というのは無理な話だ」という福沢と)。解散してしまう。明治8年11月14日。
この10日後、森有礼は、政府の役人として江華島事件(やっちまったか~!)の処理のため、朝鮮へ。
◆福沢諭吉『文明論之概略』(明治八年八月刊)
明六社は短命だったが、その試みの可能性は、福沢の著『文明論之概略』に盛り込まれているそうだ。
いま、混乱の根にあるのは、
《立国の目標としての“文明とは何か”をめぐる信念の対立である》。p163
では、文明とは……
《文明とは、信念の対立を武力によらない仕方で受け止める精神(人民の気風と化した知徳)のことであり、かつそのような精神の発達過程のことである。》p163-4
だったら、と福沢はいう。
今の欧米のやり方は、すぐに戦争で片をつけようとする。 こんな彼らはいつまでも「文明」のトップではいないだろう。
人間が殺し合いになだれ込んでしまうのは、
難題に立ち向かう耐性の欠如ゆえ。
《時代の転換期を生きる人間が、その生き方のうちにアポリアを抱え込まざるをえなくなるという経験は、一つの僥倖でありうる》 という考えを、福沢はこの本の「緒言」で述べているそうだ。
これは、著者の求めるところであるかもしれない。 「何が正しいか」を探ろうとしているのでなく、いろいろな正義が湧き上がるとき、どのようにまとまって暮らしやすい社会を作るか、と。
これはハッだな。
◆メタフィジカルクラブ
ちょうど明六社ができたころ、 アメリカでは8人のエリート青年が「メタフィジカルクラブ」というのを結成。
意見の対立から悲惨な南北戦争を起こしたことへの反省、知識人としてそれを止められなかった上の世代への皮肉から、意見の対立を乗り越える知恵を探求。「プラグマティズム」を提唱した。
プラグマティズムとは……
《異なる信念をもつ者同士が衝突しつつ、そのいっぽうで妥協の道を探る道を探る思考法》p162
《いかなる信念の意味もそれを行動に移した際の帰結を思い描くことで明らかにしうるという考え方》p163
高校の倫社の授業の「プラグマティズム」のところで、とてもドキドキして、心が晴れるようだった、のを思い出した。
著者にはルイ・メナンド『メタフィジカル・クラブ 米国100年の精神史』みすず書房、という共訳書もある。おもしろそう。
◆印象
西郷の思想に、そうだったのか!!
朝鮮を侵略するために、鉄砲弾になりに行こうとしたのかと思っていた。
他の著者が書いたなら「また~。西郷さん人気だからな、いいもんキャラにしてるんでしょ」と思ったと思うが、ちゃんと史料をたどって、西郷の思いの軌跡を辿っているので説得される。
あと、三条実美ってどういう人だったのだろう。
この本を読むまでの理解では、
“朝鮮を攻めたがる西郷たちと、戦争を始めないために西郷にストップを書けた大久保の板挟みになって、発狂した……なんて気の毒な、と思い、しかし、「これはもう手に追えない」と判断して発狂を演じたのかな、したたかかだね!と思ったりした。
この章もまた、1行ごとに発見でたいへんでした。
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vegan-surfer-ds · 3 years ago
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R40521小満 卯月二十一日 赤口 甲戌(きのえいぬ) 🧘 World Meditation Day 🧘 🧘季節の覚書🧘 本日は#二十四節気 の#小満 #さつき 咲く。 祖師谷の年配の友人に届け物をしたら、庭で取れた甘夏とそれでこさえた甘さ控えめのお上品なジャムを戴きました。 感謝🙏💕 偶然座るだけで世界と繋がれる日 🧘 #国際瞑想デー と土曜坐禅会が重なったのでは二柱座る🧘新規参禅者も多かった。 #家庭菜園 #ガーデニング #バルコニー菜園 #gardening #gardener #旧暦 #旧暦のある暮らし #二十四節気 #雑節 #坐禅会 #成城山耕運寺 (曹洞宗 耕雲寺) https://www.instagram.com/p/Cd2Uh92BU0R/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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uberfall · 2 years ago
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時間が経ってしまいましたが、私が関わるお野菜チーム @enyasai "えんやさいの餅つき大会"にお越しくださった皆様❣️誠にありがとうございました☺️🥰 いつも大変お世話になっている岡上の名店"寡黙堂"さんに場所をお借りして、師匠の三澤さんの育てた餅米を使用した玄米餅は格別に美味しく、お餅が好きじゃないと言っていたお子様も食べてくださり、とっても嬉しかったです(●´ω`●) 旧正月を過ぎて、立春を迎え暦の上では春になります🌸 昨年は、漢字一文字で表すと変化の『変』でした。 数秘術で自分の運勢を観ると、今年は9年周期の最初のスタートの年になります。 そして3月末には新しい命とともに、また私も生まれ変わるのだろうなと思います🪐 新たな氣持ちで畑や竹林と向き合いながら、四季を感じて魔女🧙‍♀️を目指し丁寧な暮らしを心掛けたいです٩( 'ω' )و 引き続き、よろしくお願いいたします(^ω^)✨ #えんやさい #岡上 #神奈川県 #自然食品 #発酵 #麻生区 #腸活 #川崎市 #農業 #お野菜宅配 #宅配日 #vegetables #えん農 #行商 #風土円満 #野菜 #お野菜 #健体康心 #健康 #農幸集樂 #炭素循環農法 #たんじゅん農法 #自然栽培 #たんじゅん元氣 #旧正月 #餅つき大会 #玄米餅 #旧暦 #お餅 #立春 (Okagami, Asao-ku) https://www.instagram.com/p/CoUcezIyLaH/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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herbiemikeadamski · 3 years ago
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. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 7月3日(日) #仏滅(丁巳) 旧暦 6/5 月齢 4.0 年始から183日目(閏年では184日目)にあたり、年末まではあと182日です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない 朝はありませんし、朝が来ない夜 はない💦睡眠は明日を迎える為の ☀️未来へのスタートです🏃‍♂💦 でお馴染みのRascalでござ���ます😅. . (^O^)/ハイ!28/53週目に突入です🤚 折り返し点から15時間余り過ぎて 一年の後半戦が始まってますね😅💦 残すところ25週で時間に換算すれば 現時点(朝の8時頃)で4,191時間です。 こんな風に計算すると、なんだそれ ぽっちですかッてなりますよね🤣😆 一年って本当に短いし人生も長い様で 短いです🤚いかに有意義に過ごせる かがですよね🤔それなのに30年も 騙し続けられて下手したら人生の半分 にもなりますもんね⤵️30年に比べれ ば、ここ2、3年ぐらいって思える❓ しかし、よく考えたら戦後の生まれだ し、元々に偽りの社会で生きて来たの かって無性に腹が立って来ます💢 人生も終盤に来て、これだもの⤵️⤵️ 今年後半は世直しに期待し希望を持ち たいですよね🤚って事で今朝は🙏 . 今日一日どなた様も💁‍お体ご自愛 なさって❤️お過ごし下さいませ🙋‍ モウ!頑張るしか✋はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #GHQが解散命令発令.  GHQ(連合国軍総司令部)は1947(昭和22)年7月3日(木)先勝、三菱商事と三井物産に解散命令を出した。  戦後の財閥解体の一環で、両社が戦争に協力したことを米国が問題視したとされる。  過去10年間に部長以上だった人が共同で新会社をつくることを禁じ、両社の商号の使用も認めなかった。  解散後に三菱商事は160社以上、三井物産は200社以上に分割された。 . 三菱商事と三井物産は49年にGHQが制限を緩和したのを受けて再結集に向かった。  当時の三菱銀行が旧三菱商事系の会社に合同を要請したことから、54年に新しい三菱商事が発足。  59年には旧三井物産系の会社が合併して現在の三井物産となった。 ,  両社は貿易を主力事業としてきたが、経済・社会の変化に合わせて業容を変えている。  日本に資源を安定供給するために液化天然ガス(LNG)や金属資源の開発に参画。  製造業やサービス業への出資を通じて、積極的に事業運営に乗り出している。 . しかし、夢の経済成長を果たすのだが、この事を脅威に感じた各国は日本を潰しにかかります。  1990年頃から現在までの30年間で各国の思惑通りに日本が衰弱して行くのを喜んで居ます。  この事で判るように、ABCD同盟軍やらGHQは未だに健在かも❓で日本解体に止めを刺しに... (一部、日本経済新聞を参照) . #ウ号作戦敗北撤収(#インパール作戦、#ビルマの戦い)  第二次世界大戦中(大東亜戦争)のビルマ戦線(#ビルマの戦い)において、1944年(昭和19年)3月に帝国陸軍により開始、7月初旬まで継続された。  援蔣ルート(エンショウルート)の遮断を戦略目的として、イギリス領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略を目指した作戦のことである。 . #仏滅(ブツメツ).  六曜における大凶日。 . #一粒万倍日(イチリュウマンバイビ).  一粒万倍日は何事を始めるにも良い日とされ、特に仕事始め、開店、種まき、お金を出すことに吉であるとされる。  但し、借金をしたり人から物を借りたりすることは苦労の種が万倍になるので凶とされる。  また同じ意味合いで、借りを作る、失言をする、他人を攻撃する、浪費などもトラブルが倍増するので避けたほうがいいとされている。 . #波の日. . #七味の日. . #塩と暮らしの日. . #ソフトクリームの日. . #通天閣の日. . #涙の日. . #渚の日. . #オロナミンCの日. . #ビースリーの日. . #くるみパンの日(毎月3日). . #みたらしだんごの日(毎月3,4,5日). . #ベラルーシ独立記念日. . . ■今日のつぶやき■. #死しての千年より生きての一日(シシテノセンネンヨリイキテノイチニチ). 【解説】 死んでしまってからのあの世で千年より 生きているうちに一日のほうが価値があるという事から。 あの世へ行き極楽のような場所で千年過ごすよりも 生きている一日を好きな事を精いっぱいするのが尊いものだと云う事。 死んでからの千年より、この世での一日のほうが大事だと云う事。 一日一日を大切にしなければならないという事。 . . 1992(平成4)年7月3日(金)先負. #須藤茉麻 (#すどうまあさ) 【アイドル、歌手、タレント、女優】 〔東京都〕 . . (at デニーズ) https://www.instagram.com/p/CfhzvFaBZ9ZL3B96miH3iXVc9X9dM7_5vGjVpM0/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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yoga-onion · 4 years ago
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Japanese Mythology & Deities
The world of the Divine Spirit, the Gods in our lives (2)
The Thirty Gurdians
The thirty gods who are supposed to guard this world in turns every day for thirty days a month are called the Thirty Guardians. (The Gregorian calendar, with its 31st day, was adopted in Japan in 1872, at the beginning of the Meiji era (1868-1912), before which the lunar calendar had consisted of 29 or 30 days per month).
Based on the Shinto-Buddhist syncretism of honjisuijaku-setsu (a unique Japanese religious belief system that combines Shinto gods with Buddhism introduced from the continent), a specific deity protects the land and the royal castle every day in turn, and arose in the mid-Heian period  (794-1185).
It is said that Saicho (Degkyo Daishi) first enshrined it on Mt. Hiei, and it became a popular worship in the Kamakura period ( 1185-1333). It was first practised by the Tendai sect (Sanno Shinto), and later mainly by the Nichiren sect (Hokke Shinto).
In the Muromachi period (1336-1573), one of the activists of Shintoism attempted a Shintoistic reinterpretation of the thirty guardian deities from the standpoint of the only Shintoism. Later, in the late Edo period (1603-1868), the thirty guardian deities theory was thoroughly criticised by a scholar of Japanese classics as a ridiculous theory created by the Tendai and Nichiren sects.
In the Meiji period (1868-1912), the separation of the Shinto and Buddhist faiths led to a ban on the worship of the thirty guardian deities.
Although there are slight variations in the names of the deities and the schedule, the thirty guardian deities were supposed to be in charge from the 1st to the 30th, with the following deities taking their turn:
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日本神話と神様たち
神霊の世界・暮らしの中の神々 (2)
三十番神
月に三十日を毎日交代でこの世を守護するとされる三十人の神々を三十番神という。(日本で31日目が存在するグレゴリオ暦が採用されたのは1872年、明治時代初期のことで、それ以前の旧暦は1ヶ月の日数は29日か30日であった)。
神仏習合(しんぶつしゅうごう)の本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ:神道の神々と大陸から伝来した仏教を融合させた日本独自の宗教信仰法)に基づき、特定の神が国土や王城を毎日順番に守るというもので、平安時代中期に生じた。
最澄(さいちょう:伝教大師)が比叡山に祀ったのが最初とされ、鎌倉時代には盛んに信仰されるようになった。当初は天台宗(山王神道)で行われ、のちにはおもに日蓮宗(法華神道)で信仰された。
室町時代に神道の喝道者の一人が唯一神道の立場から三十番神の神道的な焼き直しをはかり、その後、江戸時代後期に国学者により三十番神説は、天台宗と日蓮宗が造作した荒唐無稽(こうとうむけい)なものとして徹底的に批判された。明治時代の神仏分離令で三十番信仰は禁止となったこともある。
神名や次第に多少の異同はあるが、三十番神は1日から30日までを次の神が順番に担当することになっていた:
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myonbl · 3 years ago
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2022年1月6日(木)
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今年初めての出勤、道中は雪が降ったり止んだり。木曜日は1限から授業が入っているが、3男の送迎があるために学生たちには<9時30分スタート>でお願いしている。2限を終え、ランチを済ませ、明日の用意をして14時30分退出、3男を迎えに行く。帰宅してすぐに京都南病院へ、16時30分にMRIの予約を入れているのだが30分遅れでスタート、所要時間30分。戻ってから夕飯を用意してほっと一息・・・。いやぁ、寒さを感じる暇が無いほどドタバタの一日、今になって気づいたのだが、出勤すると<午睡>ができないのであった。トホホ・・・。
4時45分起床。
日誌書く。
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ネギタマ煮麺+ヨーグルト+豆乳。
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2男はオフ、3人分の弁当を用意する。3男の送迎があるので、ツレアイは自転車通勤となる。
プラゴミ、45L*1。
3男と一緒に8時5分出発、ポリテクセンター京都に着いたのが8時45分、名神大山崎から吹田、職場に着いたのが9時25分。
1限は「人権論」、前日にメールで連絡済みなので9時30分スタート。今日のテーマは「雇用の場でのハラスメント」、例によって大阪府人権啓発パンフで概要を確認し、YouTubeの映像<人権啓発ビデオ 「企業と人権 職場からつくる人権尊重社会」(2/7)【ハラスメント】>見てコメントを書いてもらう。
2限は「環境論」、例年年明け最初の授業ではテキストを離れて<正月はなぜめでたいのか>というテーマの講義をする。<数え年>の意味を説明し、<旧暦>の暮らしを展開し、落語の<時うどん>を取り上げて不定時法の解説・・・と、こんな話をしたら止まらなくなる。最後は「おめでとう」から「寒中見舞」に変わることで締めくくる。ミニレポートは、<新年の挨拶、どんなメディアでどんな方に送りましたか?>。
ランチ、弁当を美味しくいただく、🍊を忘れた。
明日の「情報社会と倫理」のレジュメ準備、Clasrromへのアップ、印刷。
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ふと気づいたのだが、9時25分の入室時に暖房のスイッチを入れたが、4時間経っても室温が16℃、どないなってんねん。
14時25分退出、3男を迎えに行く。
自宅に戻ったのが15時45分、少し休憩して16時に京都南病院まで送る。私の方は、西大路花屋町・セントラルスクエアまで買物、大根・白菜・水菜・鰤。
16時50分にMRI検査室に向かったが、息子はまだ待機中、結局17時過ぎに検査スタート、30分で終了した。会計を済ませて帰宅、すぐに夕飯の用意にかかる。
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息子たちには鰤の塩焼き大根おろしがけ/白菜と水菜と豚バラ肉のクタクタ煮/タマネギの味噌汁。
ツレアイは買い物して帰宅、私の好物のげそ天が安かったとのことで、それを肴に熱燗をいただく。
録画番組視聴。とっておき木曜笑タイム
▽桂二葉「子ほめ」▽桂吉の丞「代書」
初回放送日: 2022年1月6日
最注目の若手が登場!桂二葉は落語「子ほめ」▽桂吉の丞は落語「代書」▽KAMIGATA☆らくご男子のチャレンジ企画▽ご案内:南沢奈央・KAMIGATA☆らくご男子 いま最注目の若手落語家2人が登場!「NHK新人落語大賞」で優勝した桂二葉は「子ほめ」を。もう1人の桂吉の丞は「上方落語若手噺家グランプリ」の初代チャンピオンで、今回披露するのは「代書」▽新年最初の「KAMIGATA☆らくご男子」チャレンジ企画は、今年の目標を漢字一文字で表現し、その意味を「もくわら」作文で発表!どんな決意が飛び出すか!?▽ご案内:南沢奈央・KAMIGATA☆らくご男子
二葉さん、やはりアホが突き抜けている。
早めに切り上げて順番に風呂へ、22時には就寝。
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細々動いて12,000歩突破、水分は1,200ml。
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uchinaguchishutoku · 4 years ago
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わったー ぱーぱー♪
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旧暦3月1日(新暦4月12日)
わったー ぱーぱーや なま ぐそーんかい ぅんめーいしが、 くぬ ぱーぱーや じこー がーじゅー ぱーぱー やいびーたん。
ななかにん めーに わんが ウサギ ぱーぱー やーんけー むっち いかびたん。
わったー ぱーぱーや どぅーちゅい っし くらちょーびーたくとぅ めーなち さっびさる ひちょーんせーはに り うむとーびーたん。
ウサギ こーいねー、 ぅんまがんちゃーが めーなち あしびんが ちゅーる はじやー り。
あんさ���に、 ウサギぬ やーぐゎー そーじ しんが ぅんまがんちゃーが ぱーぱー やーんけー いくせー。 うりがる じょーとー り うむとーびーたんよー。
やーぐゎーん ゑさん むる こーてぃ いかびたしが、 わったー ぱーぱーや
「わんねー くれー しむんよー! へーくなー うぬ いきむし そーてぃ いけー!」
り、 いんせーぎーたん。
1時間あまい ぱーぱーんけー うにげーさびたしが ないびらんたん。 あぎじゃびよー!
わんねー ひーじーや 「そーいらーぅんまが」る やいびーしが、 うぬとぅき びかーのー ぱーぱーぬ くとぅ「やな はーめーぐゎーや!」 り うむいびたん。。。
うぬ あとぅから わったー やーとーてぃ ウサギぬ ちかないる くとぅ ないびたん。。。
***
私たちおばーは今あの世にいらっしゃいますが、このおばーはとても頑固なおばーでした。
七年前に私がウサギをおばーの家に持って行きました。
私たちおばーは一人で暮らしていましたから、毎日寂しくしているんではないかと思っていました。
ウサギをかったら、孫たちが毎日遊びに来るはずねーと。
それから、ウサギの小屋を掃除しに、孫たちがおばーの家に行きますよね。それが良いと思っていましたよ。
小屋も餌も全部買って行きましたけど、私たちおばーは
「私はこれはいらないよー!早くその生き物を連れて行きなさい!」
と、おっしゃいました。
1時間あまりおばーにお願いしましたけど、できませんでした。あぎじゃびよー!
私は普段は「お利口な孫」ですが、そのときだけはおばーのこと「やな はーめーぐゎーや!」と思いました。。。
その後から、私たちの家でウサギを飼うことになりました。。。
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