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#年賀状写真撮影
honshinmovienews · 3 days
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キャラクター・ビジュアル解禁!
人は誰しも、色々な面を“心の中”に隠しもっている���。 この度、11月8日公開、映画『本心』の豪華俳優陣が演じる人物たちそれぞれが、心の奥底に隠し持つ“本心”や“葛藤”が見え隠れするセリフ入りキャラクターポスターを解禁しました。
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「僕は自分が誰なのか既に見失い、迷子になっていた」 ――池松演じる石川朔也は母・秋子と2人でつつましくも幸せな生活を送る青年。しかし、ある日突然「大事な話があるの」と言い残し母が急逝してしまう。その後、生前の母が“自由死”を選んでいたと聞き、その決断に至った本心を知るために、最新AI技術を搭載したVF(ヴァーチャル・フィギュア)として仮想空間に〈母親〉を蘇らせます。葛藤を抱えながらもVFの母と向き合う朔也でしたが、次第に母の“隠された一面”を目の当たりにし、母だけでなく自分自身の本心をも見失っていくことに。
ポスターに写し出される真っ直ぐな眼差しの奥には、母親を亡くし、進化する時代に取り残され彷徨う不安や葛藤が垣間見えます。
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「朔也くんの本心が分からなくて、怖くなっただけ…」 朔也の母・秋子のVFを作るため朔也に協力するのが、三吉彩花演じる生前の秋子の親友三好彩花。過去のトラウマから他人に触れることができないが、ひょんなことから朔也の家に同居することになり、2人は特別な絆を築いていきます。しかしながら、朔也が自分自身をも見失っていくことで、2人の間に心のすれ違いが起こり…。
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「で���これが、朔也さんの本性だからね」 不敵な笑みを浮かべるのは水上恒司演じる朔也の幼馴染岸谷。ある事故をきっかけに昏睡状態へと陥り、目覚めたときには仕事を失っていた朔也を気にかけ、自身のカメラ付きゴーグルと依頼者のヘッドセットを繋ぎ、依頼者の体として擬似体験する新たな時代の職業“リアル・アバター”を紹介したり、AIで人を再現できる技術があることを教えてくれます。朔也の過去を知る数少ない人物でもあり、刻まれるセリフからも、岸谷が朔也の心をかき乱し、本心にも切り込んでいく重要な役割。果たして岸谷の朔也に対しての感情は――?朔也との交流の中で、彼の本心も暴かれて…。
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「朔也さんはいずれ本当のことを言ってくれると思っていましたから」 ある出来事を機に朔也に興味を持つ仲野太賀が演じるイフィー。世界的に有名なアバターデザイナーで裕福な暮らしをしているが、実は事故で車椅子での生活をおくっており、リアル・アバターの朔也と専属契約を結びます。身体が不自由な自分とは違い、自身の身体を丸ごと依頼主に貸し出すような仕事をしている朔也を羨ましいと言っているが彼の本当の心は――?イフィーとの出会いは朔也にどのような影響を与えていくのでしょうか。
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「人は心の中に、色々な面を隠し持っています。違いますか?」 妻夫木聡が演じるVFの開発者野崎将人は、AI技術を駆使したビジネスの成功者で、朔也の母・秋子をVFとして蘇らせる。はじめは、亡くなった人をAIで蘇らせること、そして「本物以上のお母さまを作れます」という野崎の言葉に不安を抱く朔也でしたが、野崎が生み出したVF・中尾(演:綾野剛)が語る“VFの心”についての話を聞き、覚悟を決めます。しかし、VFの母から自分の知らない面が見え始め朔也は混乱。野崎のセリフに込められた人の本心とは――。
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「大切な話があるの。帰ったらいい?」 田中裕子演じる朔也の母石川秋子。息子に何も告げずに自分で死を選択できる制度“自由死”の認可を受けていました。そして、過去に朔也にも言っていない重大な秘密を抱えています。生前の情報を取り込んだVFとして蘇��、朔也と他愛もない日常を取り戻していきますが、徐々に隠された一面が明らかに…。秋子が朔也に伝えられなかった「大切な話」を朔也は聞くことができるのでしょうか――?
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今年のカンヌ国際映画祭で注目を集めた『ぼくのお日さま』(公開中)や、SNS上で演じる役柄 #津野くん がトレンド入りし人気を高めたドラマ「海のはじまり」など、話題の映画やドラマへの出演が続く池松壮亮さんは、本作で演じる朔也について
「原作を読んで、自分がまだ言葉にできない、または実感のない不安が全て描かれていて『これは自分の話かもしれない』と思いました。撮影中、未来の朔也に対して"距離”を感じることはありませんでした。朔也の不安や恐れを痛いほど理解できましたし、今作において正しい感情、朔也として、場面ごとの最もシンプルな感情に到達できることを目指していました。」と、自身と演じる【朔也との重なる心情】の部分を語っています。
テクノロジーが著しく進化する現代を生きる誰しもが“自分事”になり得る物語。池松演じる朔也が目にするその物語の行方は、あなた自身の近い将来、もしくは今かもしれません。
時代に翻弄され彷徨う人間の【心】と【本質】を描いた革新的ヒューマンミステリー『本心』を是非劇場で。
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cmk-k · 8 months
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2024年始まりました
年末から断続的にお仕事が続いていたので、新装版EDGEの作業がひと段落したらtumblr更新しよう(1月中頃には終わる予定だし…)と思っていたんですが、、、 元旦の震災の影響に始まり、にわかに親族関係の用事も重なって、さらに新装版の作業はギリギリまで加筆に拘ってしまい……気付けば2月でした。 1枚目の写真は正月に撮った写真です(遅)。 ようやく年を越えた気分です。 楽しみにしていた予定を既に2〜3つ飛ばしてしまって凹んでますが(お出かけ予定とか、作家さんとの会合とか…泣)、 個人���に人生のひと区切りの年になりそうなので、色々やりたい事もあるし、元気に貪欲に生きたいな〜と思っています。 本年もどうぞよろしくお願いします。 ・・・ 以下、最近のお仕事関連について。 ↓↓↓
まずは…ついに、劇場版SEED公開されましたね…! ここ半年くらい、新装版の作業でC.E.世界にどっぷり浸かっていたので、万全の準備体制で劇場版を浴びることが出来まして……無事昇天しました。 あまりの圧倒的なエネルギーに、鑑賞後、脳内で沸き巡る感想に数日翻弄されておりましたが、自分の中で少しずつ消化していっています。 いちファンとして、あの世界の続きを観せて頂けた事に本当に感謝です。 ・・・ 劇場版の流れで、昨年末から刊行して頂いている新装版THE EDGEにも興味を持って下さる方や、懐かしく思い出して頂いている方もいらして、とてもありがたい限りです。 当時の事など振り返って色々書きたいこともあるのですが、ひとまず最終巻の5巻が2/26発売ですので、その後にでもまた記せたらいいなと思ってます。 ・・・ そして新装版発売のタイミングで、ガンダムエースさんにも久々に色々と載せて頂いてますが、 こちらは原稿の再掲載がメインなので、あまり大っぴらに告知はしていません。 単純に、昔の原稿が雑誌サイズで載るのは、描き手としては結構恥ずかしいというのもあるんですが…、やっぱり再掲載だと読者さん的にはあまり嬉しくもないだろうなと。 実際、12月売り号は再掲載や流用ばかりでガッカリ…というメッセージを頂いてしまいまして、まあ、そうですよね…ごめんね…(私としても、すごく久しぶりのガンダムエースさん掲載で、しかも初めての表紙だったので、描き下ろしたかったなぁ…)と、ちょっと申し訳ない気持ちになりつつ、少しだけ事情説明させて下さい。 SNSなどでたまに漫画業界の話題を見ている方はご存知かもしれませんが、コミックスの加筆や描き下ろしって基本、無償なんです。 何か新しく描いても、稿料は出ません。新装版でも関係ありません。 (この慣習に反対する目的で、コミックスには一切描き下ろさない方針をとる漫画家さんもいます) 私もそれ自体については色々思うことはあり、編集さんと話すこともあります。 ですが今回は、劇場版SEEDが公開されるという、18年越しのお祝いの機会です。 デザイン変え+キャラ単体表紙など、「省エネ��力で出す」選択肢もありましたが、やっぱり、ちゃんと描きたくてですね………。 カバーはMS&キャラで5巻分+描き下ろし漫画もそれぞれページ数限界まで入れることにしました。 そこで担当さんが、 じゃあ、ガンダムエースの方にできるだけ色々載せましょうと。 そうすれば「雑誌掲載料」が少しはお支払いできますから、と。 取り計らってくれたんです。 その流れで付録のイラスト集も企画して下さいました。 ですので、 こんなブログ記事の文章まで読んで下さっている方で、 ガンダムエースも購入して下さったという方は、色々と再掲載原稿が載っていてちょっぴりガッカリされているかもしれませんが、そのような事情もあるんだな…と、少しだけご理解頂けましたら嬉しいです。 そんな感じですので、もし、新装版のカバー表紙や描き下ろし分など、気に入って&楽しんで下さいましたら、ぜひ話題にして頂いたり反応を頂けますと…とても嬉しいです…!!報われます。 ガンダムエースの方は、昔の雑誌は買ってなかったとか、買ってたけど記憶の彼方…という方が、雑誌サイズでの原稿掲載を少しでも楽しんでくれれば幸いです(昔の原稿は恥ずかしいですが!) ・・・
そして最後に。 なかなか御礼を言うタイミングが取れなかったのですが、 昨年〜年始にかけて、それぞれの編集部に、作品の感想のお手紙や年賀状を送って下さった方、本当にありがとうございました。 昨年は手術療養からの復帰に色々と不安もあり、掲載も少なかったので、届くお手紙にとても大きな活力を頂いておりました。 めちゃ遅いペースですが、お返事をたまにお送りしたりすることもありますので、期待せず気長にお待ち頂けると嬉しいです。 それよりまずは勿論お仕事の方で、少しでもお返ししていけるようにまた頑張っていきます…! ・・・ 2月中にはジエッジ新装版の最終巻が出ます。 もちろん加筆ありますので、手に取って頂けたら嬉しいです。 セインティアmemoriesの続きを期待して下さっている方、もう少々お待ち下さいね。 水面下ではずっと、聖域とC.E.を行ったり来たりしていたんですが、もう少ししたら落ち着く予定…です!
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foucault · 10 months
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今日は店は休みです。久しぶりに奈良に来ています。本籍を奈良に置く身としては、故郷へ戻る嬉しさです。仕事があるとはいえ、合間に興福寺で八部衆の御顔でも拝めるとなおなお嬉しいところですが。
そういえば、本日2023年12月12日はちょうど小津生誕120年、没後60年。小津で奈良、といえば『麦秋』の最後、ふっと差し込まれる麦畑の中をゆく嫁入り風景のシーンですが、あれ、どこなんでしょうか。後ろに耳成山のような山が見えるので、橿原のどこかかな。
ついでの話。このごろ書きものの仕事が多くて、頼まれもの以外の文章なぞつらつら書いている場合ではないのですが、小津についてふと気になってしまったことがあ��、書いておかないと本来の仕事ができなさそうなので、合間合間に記していた雑文をここに置いておきます。長いですし、結論はないし、ほとんどの方が興味のない内容かと思いますが…。
ちょっとした調べものがあって雑誌『みすず』2001年12月号を読んでいたら、木村伊兵衛が小津安二郎を撮影した写真と文章「上海で小津安二郎氏をうつす」が掲載されていた。時期は1938年1月なので第二次上海事変の翌年。小津は1937年9月に出征して中国に渡り、事変の直後12月から上海にいたようで、その時に偶然木村と出会っている(その後小津は南京・漢口と転戦する)。写っている小津が携えているカメラは、木村の稿に続いて掲載されている田中眞澄氏の文章「ライカという”近代”」によればライカA型。小津関係の文章を読むと、小津は「ご愛用のライカ」をいつも手にしていたと多くの人が書いているので(同文によると山中貞雄はコンタックスだったらしい)さもありなんと思うのだけれど、田中氏の文章を読んでいくなかで、ちょっとしたことが気になるようになった。
小津は1942年から軍の依頼で記録映画撮影のためにシンガポールに滞在し、ただまあ映画製作などできる状況でもないため、自国内では上映が���止されていたアメリカ映画をひたすら見続け、敗戦を当地で迎えている。そしてそのまま捕虜となり、抑留生活を終え1946年1月に帰国する際に小津はライカを手放しており、「彼が再びライカを所有するのは一九五四年のことである」とある。買った件の典拠はどこにあるんだっけ、と思いつつ近所の図書館に置いてある『全日記 小津安二郎』を紐解くと、なるほど1954年3月22日の項に、
> 「出京 サンにてライカを買ふ 135.000 アメリカン フアマシー 明治屋(燻製)によつて帰る」
とある。と、ここで急に話は脇道に逸れるのだが、ちなみに隣のページ、同年4月8日の項には、
> 「駒場の東大教養学部 民芸館 青山の花屋 それから 車にて銀座に出て なごやかに夕餐を喫す 野田夫妻と江原氏同道」
と日本民藝館に行った旨の記載がある。他にも、1951年11月10日に
> 「宿酔 森昌子さん達と 陶哉 たくみに寄って大船に帰る」
や、1955年5月17日には
> 「駅にて野田氏と待合せ 上野松坂屋の民芸展にゆく」
とも。ほか、パッと目を通しただけでも1952年4月8日、同年6月15日、1953年2月9日、1961年2月2日に銀座たくみに行った記載があるし、志賀直哉や里見弴についての言及は多すぎるので略す。こういうものを読むとつくづく民藝誌において特集「小津と工藝」を組みたいなと思う。白樺派との関係や小津の映画における「巧藝品考撰」について取り上げる特集。『秋日和』で原節子の後ろにかかっている暖簾は芹沢銈介だろうか、『秋刀魚の味』で中村伸郎の後ろに置かれたやちむん?はたくみで求めたものなのだろうか、やちむんであれば誰の仕事だろうか。佐田啓二と吉田輝雄がとんかつ屋で食事をするシーンには確かに芹沢カレンダーが掛かってるな、などといつも気になるので。松竹から写真借りるといくらぐらいかかるかな…。
それはさておき。この時購入したライカが、前掲日記の1961年3月23日の項に「夕方会社帰りの秀行くる ライカ借(貸)してやる」とある通り、のちに小津の甥が譲り受け、現在は茅野駅前「小津安二郎・野田高梧コーナー」に寄贈展示されているライカIIIfとズマリット5cmF1.5なのだろう。と、ここまで長々と記して、まだ前提です。
そこでふと思い出したのが厚田雄春・���實重彦著『小津安二郎物語』(筑摩書房・リュミエール叢書)の冒頭。ここには小津が『東京物語』と『早春』のロケハンをしている写真が2葉掲載されているのだけれど、どちらにおいても小津はバルナック型のカメラを携え、光学ファインダーをのぞいたりしている。沈胴レンズにフードをつけている様子から、あれはライカなんだろう、レンズは厚田雄春が『父ありき』において75mmを一場面で使った以外はすべて50mmだったと言っているぐらいだから同径のエルマーやズマール、ズミタールとかかな、などとうっかり思い過ごしていた。むろん『早春』については、製作年やロケハンの写真に記載されている「1955.7.20」という日付からするとまったく問題はない。しかし『東京物語』は1953年製作公開だから「再びライカを所有した」1954年では間に合わない。そう気がついて見直すと、小津が構えているカメラは、ライカIII型に似ているがファインダーの位置が違うし、そもそも1954年にあわせて手に入れたと思しきズマリットは沈胴レンズではない。
妙なことに気がついてしまったと思いつつも、ひとまずは日記記載の「サン」を手始めに調べてみようとしたが、何の会社かわからない。名取洋之助が企画編集した「週刊サンニュース」と関係はあるのだろうか。対外宣伝誌の専門家であり、銀座に店を構える森岡さんに聞いたらわかるだろうか。いずれにせよ1949年以降の小津の日記に「サン」が登場するのは、「1951年1月17日・3月21日・4月24日・11月10日、1952年4月17日、1953年6月16日、1954年3月22日(前述のライカを買った日)・10月14日、1955年4月6日、1960年7月14日、1961年2月2日(”たくみ サンに寄って三越”)」。1953年6月16日は、ちょうど『東京物語』ロケの最中だったことが気に掛かる。ほか、関係しそうな記載としては1953年3月30日に「アサヒカメラ座談会」、1954年11月5日の「シュミットに寄ってから」(当時ライカの総代理店だったシュミット商会か)、1955年2月15日「昼寝をしてゐると小尾がくる ニッコールの85m(ママ)のレンズを頼む 四万五千円を預ける」、同年3月11日「小尾に会ひ105mmのレンズを見る」、同年6月27日「小尾から電話ライカピッド(ママ。入手したライカがIIIfであれば、ライカビット SYOOMか)を頼む」ぐらいか。この「小尾」という人は何者なんだろう。
次に小津が構えているカメラの形状から何かわからないかと思い、あらためて細部を見れば、写っているカメラは戦後キヤノンが作っていたコピーライカであることがわかる。決め手はファインダーの位置。同時期の国産コピーライカであるニッカやレオタックスはライカそっくりに作っているのだが、キヤノンは誠実と言っていいのか「打倒ライカとコンタックス」の心意気の現れか、多少スタイルが違う。なお、小津が用いている���種については、この時期のレンジファインダー機は輸出用に作っていたせいか勢いがあり、すぐ新型が出るうえに、外観がどれも似すぎていて小さな写真では区別がつかない。時期を考えれば、1946年発売のSIIから1952年のIVSbの間のいずれかで、III型以降のように見受けられる。レンズもやはり形状から判断するとズマールに似ているので、1949年発売開始のキヤノン Serenar 50mmF1.9か。そう気づいて改めて調べると、「カメラ毎日」1954年6月号に掲載されている座談会「カラーは天どん 白黒はお茶漬の味」ではカメラの話がもっぱらで、その時に手にしているのはキヤノンである。このキヤノンのカメラとレンズ、そして外付けのファインダー、この時期どういう経緯で小津は使っていたのだろう。いずれにせよ、1953年の『早春』はともかく、なぜ1955年に「ご愛用のライカ」ではなく、キヤノンを用いているのか。
ついでに言うと、小津が鏡の前でカメラを向けて撮っているセルフポートレートに用いているカメラはコンタックス。日記をざっと読んだ限りではわからないけれど、これもいつ手に入れたのだろう。レンズはゾナーの5cmF1.5。明るいレンズがお好みと見える。こちらは姪が譲り受けたとのことで、今は先のライカと同じく茅野駅前にある。
長々と書いてきましたが、つまりはこれらが今回生じた疑問です。小津に詳しい人、どうか教えてください。
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tokyomariegold · 4 months
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2024/1/5
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1月5日 年始の落ち込みについて考えて、ここ数年の年末年始に撮影した写真を振り返ってみて、毎年理由は違えどこの時期は生き延びることに必死だった気がした。そして2015年末からの写真があるってことは、もう8年も元気ないお正月を過ごしているの!
出勤してみて、ひどく寒かで身体の冷えがひどくて今年も身体的理由の生き延びる必死さを感じながら仕事をする季節になってしまったことを実感。 とにかく午後は酸素不足な身体に深呼吸をしてなんとかするのでやっとだった。
通勤の電車やバスで、この数日間に無かった、他人との距離が近い時間が長く、なんか人間の匂い(?)を感じた。無香料��ファブリーズを薄めたみたいな匂い(みなさんファブリーズをコートにしている?)
ニコンのレビューの応募を受け付けたメールが届いたのでプリントを注文したい。
それと今年の目標の、関西で展示をする、を果たすために散漫に調���ていた関西のギャラリー情報をスプレッドシートにまとめて比較していこうと思う。
明日はなるべく早起きして初詣に行けたらいいな。
職場でお仕事先からの年賀状を配布され“お年玉番号を調べるので読み終わったら回収します”とメモがあり、あれ?去年で年賀状のお年玉って終わってしまったのでは?となる。
NHKオンデマンドに登録して年末のお休みから見返し始めた“わたしの一番最悪な友達”を昨日ちょうど全話見終えた。
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soku812 · 10 months
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Art and Fashion Photography: A Japanese Renaissance Hayashi Fumihiro   今の日本に、本当の意味でのファッション・フォトグラファーは、僅かな例外を除いて存在しない。広告写真の影響力が強い日本の写真界では、広告、芸能といった商業写真での成功が、ほとんどの写真家の目標であるといっていい。ファッション写真は、広告カメラマンになるためのプレゼンテーションに過ぎない場合が多く、ファッション写真だけを撮り続ける写真家は皆無といっていい。さらに、欧米の文化、セレブレティーに対してコンプレックスの根強い日本のファッション写真界は、海外でこれほどまでに日本文化が注目されているにも関わらず、欧米の有名写真家の表層的な模倣に執着する。そのことは、東京の街に氾濫するファッション企業のビルボードや広告ポスターを見れば一目瞭然だ。日本人の白人コンプレックスは根深い。また、最近のファッション誌は、ユニークな才能を持つ新人のファッション・フォトグラファーの作品よりも、素人の芸能人、スタイリスト等の知名度のほうに価値を感じるようである。大多数の日本の雑誌のファッション・ページは、美意識やクオリティーに対する判断力を利益至上主義で失ってしまい、さもしいカタログ的な自己顕示欲の坩堝と化してしまった。   ただ、これは90年代後半、バブル経済崩壊から続いた経済的不況に影響された、日本の“失われた10年間(ジャパニーズ・ロスト・ジェネレーション)”時代の話である。この10年間で、日本人の美意識、倫理観、価値観は、大きく変化、堕落し、虚無主義と拝金主義が世の中全体を覆っていった。そして、壊滅的なモラルの崩壊、無秩序な混沌が極まった今やっと、日本文化は、ルネッサンス的な新しい変革の時代を迎えようとしている。その最も大きな流れは、まず白人コンプレックスからの脱却から始まった。子供たちを熱狂させるマンガ、アニメーション、コンピューター・ゲームなどのオタクカルチャー、健康志向からの日本食や禅、高性能のハイテクノロジー、海外の人々が伝統文化のみならず、日本の現代文化に大きく影響を受ける現状を実際に感じた、欧米(特にヨーロッパ)で教育を受けたクリエイター達の帰国は、その変革の重要なきっかけとなった。彼らは、海外の地において、“オリジナリティーとは何であるか”という事を徹底的に教え込まれる。そのことは、自分は日本人であるという事を強烈に再認識させることになる。欧米文化への憧れ、模倣ではなく、欧米文化との違いが創造の源であることに気づくのである。彼らが、影響を与える時代、ポスト・ロストジェネレーションが始まったのである。今考えれば、“失われた10年間”は、DJ的なサンプリング・カルチャーとアメリカ的な大量消費文化に、日本のファッション界が大きな影響を受けた時代であったと言えるのではないか。サンプリング、コラボレーションという心地よい英語のフレーズによって、模倣に何の疑問を持たなくなった日本のファッション界は、オリジナリティーを片隅に追いやり、業界自体を異形で未熟な物質主義に変容させてしまった。   このような、現在の日本のファッション写真界を取り巻く状況を理解した上で、読んでもらいたい。   日本のファッション写真の大きな転機は、やはり90年代であった。そして、この90年代の東京のイメージを決定付け、その後の日本の写真界全体に、最も影響を与えたのがホンマタカシであろう。日本人独自のロリータ趣味を全面に押し出した現実感溢れるポートレイト風のファッション写真は、アートとファッション写真、ドキュメンタリーとファッション写真の融合であり、彼の写真から強烈に感じられるニヒリズムは、近未来の日本への警鐘のようであった。無機質に殺菌されたシステムの中で、自らのアイデンティティーを見失い、凶暴なグローヴァリズムに翻弄される日本への、誰しもが持つ漠然とした不安、終末の予感。ホンマタカシの写真は、ジャンルを超えて多くの人々に支持され、多くのフォロワーを生み出す。今や日本を代表する作家となった、ヒロミックス、佐内正史、本城直季らは、多かれ少なかれホンマタカシが切り開いたスタイルの延長上に独自の世界観を築き上げたといっていい。そして、彼の広告、アート、ファッション、ヌード、グラビア、建築、編集、映画等のあらゆる分野へボーダレスな進出は、良しにつけ、悪しきにつけ多くのカメラマンの指針となったのである。   もう一つ、90年代の日本のファッション写真に大きな影響を与えたファッション誌が、パリで出版されるPURPLE誌である。アートとファッションの融合をテーマに、一貫したインディーズ・スタイルで数多くの新しい才能を世に送り出してきたこの雑誌は、日本のカルチャー、サブカルチャーにも早い段階から興味を示している。そのため、日本人アーティストも多く参加しているが、その中でも別格なのが、このPURPLE誌で創刊以来、ファッション写真をとり続けている鈴木親であろう。鈴木親は、今の日本では数少ない純粋な意味でのファッション・フォトグラファーであり、世界に通用するオリジナリティーを持ち合わせている。彼のファッション写真は、マルタン・マルジェラに代表されるアントワープ系の内向的なデカダンスの影響を色濃く受けながらも、日本の伝統的な文化の品と静謐さを感じさせる。そこには日本人しか表現する事の出来ない情緒がある。彼は、ファッション写真家であることにこだわり、ファッション写真と作品以外は、ほとんど撮影しない。商業主義一辺倒の今、鈴木親の隠者のような撮影のスタイルは、彼のオリジナリティーを磨き上げた。その独特の色彩と間を感じさせる作風は、世界に影響を与えるファッション写真家になることを予感させるに十分である。   ただ、このような日本のファッション写真界の曖昧なあり方は、決して悪い事ばかりでもない。その、通過儀礼的なポジションから、様々な分野の写真家がファッション写真を撮るために非常に多様性のあるものになっている。例えば、アフリカ、中東、東南アジア、南米等の“滅びゆく��数民族”のポートレイトの作品で、ファビアン・バロンに絶賛され、写真集“TRIBE”を出版した小林 響は、欧米のファッション界では、90年代最も評価された日本人写真家であろう。荒木経惟、植田正治、ヒロミックス、新津保建秀、富永民生、久家靖秀、佐内正史、石坂直樹、ザ・グレート・ザ・歌舞伎町、平野太呂、本城直季、米原康正、井賀孝といったアート、グラビア、広告、ルポルタージュ、スポーツ等のジャンルで活躍するファッション写真家以外のファッション写真をこれほどまで沢山見る事のできるのは日本だけだろう。そして、ファッション写真を変革するのは、実は、他のジャンルから来た異端者の価値観である。マーティン・ムンカッチは、スポーツカメラマン。アーヴィング・ペンは、画家。ヘルムート・ニュートンは、報道カメラマン。スティーヴン・マイゼルは、ヘア&メイク。マリオ・ソレンティは、モデルであった。そう考えると日本のファッション写真界は、可能性に満ち溢れている。止まれる者の出現。。日本人としてのオリジナリティーを追求して、美意識と技術を極めた上で、ファッションという世界に魅せられ、美の本質を探究したい写真家が現れたときに、きっと日本のファッション写真界はドラマティックに変わるはずである。サンプリングの達人から、オリジナリティーへ、欧米コンプレックスからジャパニーズ・ルネッサンスへの意識の変化。それが、近い将来であることだけは間違いない。
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unibas · 2 years
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あけましておめでとうございます。年賀状用の写真撮影の役者さんに来ていただきました。 今年は飛べる猫になるにゃ。 #世之介日記 #cat https://www.instagram.com/p/Cm3zBnTvxVk/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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kennak · 2 years
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滋賀県日野(ひの)町で昭和59年に酒店経営の女性=当時(69)=を殺害し金庫を奪ったとする強盗殺人罪で無期懲役が確定し平成23年に病死した阪原弘(ひろむ)元受刑者について、大阪高裁(石川恭司裁判長)は27日、再審開始を認める決定をした。30年の大津地裁決定を維持し、検察側の即時抗告を棄却した。大津地裁決定は、戦後に発生し、死刑・無期懲役が確定した事件で初めて「死後再審」を認めていた。元受刑者は捜査段階で自白したが、公判や再審請求審では「警察官から暴行や脅迫を受けて自白を強要された」と主張。主な争点は自白の信用性や、元受刑者が金庫の投棄場所と遺体発見現場を自ら案内できたとする「引き当て捜査」をいかに評価するかだった。事件を巡っては昭和59年12月下旬に女性が行方不明となり、翌年1月に遺体が、同年4月に山林で破壊された金庫が見つかった。滋賀県警は63年3月、店の常連だった元受刑者を逮捕した。平成7年の確定判決(大津地裁)は「自白の根幹に矛盾がある」と信用性を否定しつつ、引き当て捜査などの間接事実を基に有罪を認定した。2審大阪高裁は「自白の根幹は十分信用できる」として控訴を棄却。最高裁も上告を退けた。元受刑者は23年、肺炎とみられる症状で刑務所を出て入院していたが、75歳で死亡した。一方、元受刑者の遺族が申し立てた再審請求を大津地裁で審理中、引き当て捜査の写真のネガフィルムが開示された。それを弁護団が分析した結果、捜査報告書に添付された19枚のうち8枚は、金庫の投棄場所まで「案内する」写真ではなく、帰路に撮影されていたことが判明した。再審開始を認めた30年の大津地裁決定は、この報告書を不適切と批判した上で、警察官の断片的な誘導などによって現場を案内できた可能性を指摘した。自白についても「供述する殺害方法と、遺体の損傷状況は一致しない」として信用性を否定。取り調べ中に警察官の暴行や脅迫があった疑いもあるとして、「確定判決の判断はおおいに疑わしくなった」と結論付けた。
38年前の強盗殺人、大阪高裁も「死後再審」開始認める 滋賀・日野町事件 - 産経ニュース
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shintani24 · 2 months
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2024年8月2日
広島原爆投下後の写真ネガ 新たに10点確認 路面電車など写る(毎日新聞)
広島駅駅舎屋上から南東に向かって写す。多くの人々が電車を待っている。写真右手の人だかりがある場所に露店の闇市があった=1946年2月撮影
原爆投下から1カ月後と半年後の広島市中心部を撮影した写真のネガ計10点が、毎日新聞大阪本社の未整理だった資料から確認された。広島駅前にできた闇市の雑踏や復旧途上の路面電車、焼け跡に建ち始めた家屋などが写っており、破壊し尽くされた街の再建と復興に人々が歩み始めていた時期を捉えている。
1945年9月撮影の3カットと46年2月撮影の7カットで、広島平和記念資料館(原爆資料館)や専門家の協力を得て検証し、45年9月の2カットを除いて撮影地点を特定した。いずれも撮影した記者の氏名は記録がなかった。
46年2月撮影分のうち4カットは広島駅前の光景で、全壊全焼した一帯に建ち始めた住宅や商店、闇市の露店に詰めかける人々、電車を待つ乗客の長い列などを捉えている。別の地点のカットに写っていた電車は判別した形式や車番から、大破した後に修理して復帰した車両と判明した。
広島電鉄によると、原爆で保有していた123両のうち108両が大破したり焼損したりするなど甚大な被害が出た。突貫作業で復旧を進めたが戦後初期は車両が少なく、停留所では大勢が待ったという。
原爆資料館の石田芳文館長は「原爆の傷痕がまだ深く、行政による復興計画が本格的に動き出す前の戦後間もない時期、生きるために懸命だった人々の息吹が伝わってくる。長い復興の過程を検証できる貴重な資料で、『被爆の実相』の理解にもつながる」と話している。【宇城昇、広瀬晃子】
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お金持ちだけが医療を受けられる?…コロナが流行ってるけど治療薬はこんなに高い 「いのちの格差」実態は(東京新聞)2024年8月2日
猛暑の本格化と足並みを合わせるよう、新型コロナウイルスの第11波が到来しつつある。喉の痛みに止まらぬせきなど、特有の症状に直面する人々はいま、別の悩みも突きつけられる。コロナ治療薬の高さだ。頭がふらつく中でも価格におののき、処方をためらう人もいるという。「経済格差」「健康はカネ次第」。そんな言葉も浮かぶ現状を改めなくていいものか。(山田雄之、木原育子)
◆「9割が値段でためらい、6〜7割があきらめる」
新型コロナ用の治療薬の一つ「ゾコーバ」
東京・渋谷区の「みいクリニック」。最近は多い日で30人が発熱外来を訪れ、10人ほどが新型コロナと診断される。宮田俊男理事長は「高熱や強い倦怠感、喉の痛みを訴える人が多く、症状が強い」と話し、こう続ける。「ほとんどの患者が値段を聞いてためらい、20〜30代前半は『やっぱり大丈夫です』と断る」
「値段」とは、新型コロナ用の治療薬の金額だ。
同院は、重症化や後遺症のリスクを抑えるために治療薬の処方を提案するが、「9割が値段でためらい、6〜7割が諦める」。飲み薬として通常出す「ゾコーバ」は、医療費の窓口負担3割の人で5日分が1万5000円程度になる。
「値段が高くて処方できないのは歯がゆい」
東京・北区の「いとう王子神谷内科外科クリニック」の伊藤博道院長もそう漏らす。夫婦で感染しても1人分だけの処方を希望するケースもあり、「『お金が払えない』と聞いたら、勧めら��ない」と息を吐く。
◆第11波の主役・変異株「KP.3」の特徴は
新型コロナ用の治療薬「ゾコーバ」などの調剤明細書
新型コロナの感染者数は11週連続で増加し、第11波に入ったと目されている。厚生労働省によると、約5000の定点医療機関から7月15〜21日に報告された感染者数は6万7334人で、1医療機関あたり13.62人。インフルエンザで流行の注意報を出す基準の10人を超えている。九州は多く、佐賀は31.08人、宮崎が29.72人。主流はオミクロン株「JN.1」から派生した変異株「KP.3」。感染やワクチンで得た免疫を回避する力が強く、感染力も目立つ。
国内で新型コロナ用の治療薬として一般流通する飲み薬は軽症や中等症向けのゾコーバ、重症化リスクがある人向けのラゲブリオ、パキロビッドの3種類だ。厚労省の資料には7月12日時点で「全ての受注に対応でき、十分な在庫量が確保できている」とある。先の伊藤院長は「ゾコーバは発症後3日以内、他は5日以内の服用を勧めている」と解説する。
◆「必要な患者に行き届いていない」
コロナ禍の必需品となったマスク
コロナ治療薬は以前、全額公費負担だったが、新型コロナの感染法上の位置づけが「2類相当」から「5類」に移行された後の昨年10月から、最大9000円の自己負担に。今年4月には公費支援が廃止され、3割負担の人は5日分でゾコーバが1万5000円程度、ラゲブリオとパキロビッドは3万円程度となった。
なぜ高額なのか。厚労省の担当者は、新型コロナで入院する患者向けの点滴薬については「新薬として研究開発経費や副作用といった安全性の調査費などを積み上げて薬価を算出した」と述べた一方、他の薬は「類似薬と比較し、薬価を決めている」と説明した。
公費支援の有無で治療薬の処方率が変わる傾向があるようで、医療従事者向けサイトを運営する「エムスリー」の調査では、3種類の飲み薬の処方率は昨年8月で2.2%、公費支援廃止後の今年4〜6月は10.5%程度だった。伊藤院長は「現場でも今、処方希望は患者全体の1割の感覚。必要な患者に行き届いていない」と訴える。
◆アビガンはいま…
新型コロナ用の治療薬といえば、物議を醸した過去もある。
代表例は、富士フイルム富山化学(東京都)が開発したアビガンだ。元々は新型インフルエンザの治療薬だったが、コロナ禍当初、新型コロナへの有効性を示す治験結果がないにもかかわらず、故・安倍晋三政権下の判断で投薬が進んだ。肝心の有効性はその後も確認できず、2022年10月に治療薬の承認申請を取り下げた。ちなみに、アビガンは今、マダニにかまれることで起きる感染症の治療薬として承認されている。
塩野義製薬のゾコーバも承認まで時間がかかった。同年2月に厚労省に承認申請したが、胎児に影響が出る可能性があり、「妊婦または妊娠している可能性のある人」は禁忌になるなど、分科会も有効性を判断しかね、7月に継続審議に。その後も臨床試験を重ね、11月に緊急承認された。
◆「夏場だけでも自己負担軽減を」
「内閣感染症危機管理統括庁」の看板を掛ける岸田文雄首相(左)と後藤茂之感染症危機管理相(当時)=2023年9月
そんな経過を経た今、治療薬を服用しやすい環境の整備を求める声が上がる。
7月16日にあった都医師会の会見では、尾崎治夫会長が「今回は喉が痛くなるのが特徴。食事が喉を通らなくなり、暑さと相まって衰弱し、昨年以上に重症化するケースが増えるのでは」とし「夏場だけでもいいので、自己負担額が軽減されるよう国や都に対策をお願いしたい」と提言した。
同月22日に厚労省が開いた有識者ヒアリングでも、治療薬の負担軽減を望む指摘があり、解熱剤や鎮痛剤などの増産を求める訴えもあった。
◆「エビデンスがあまり確立していないことも問題」
高額ながら治療薬が必要とされるのはなぜか。
インターパーク倉持呼吸器内科(宇都宮市)の倉持仁院長は「重症化を避けるという意味で効果があり、これ以上悪くさせないという歯止めの意味もある」と解説する。
「コロナで自宅療養することに慣れ、症状が出ても解熱剤を飲むなどして、まずは経過をみる人も多い。持ちこたえるように普通の生活を送り、喉が痛くなるなど、どうにもならなくなって来院し、ゾコーバを処方する場合もある」
一方で「『治療したらこうなった』『治療しなかったらこうなった』というエビデンスもあまり確立していないことも問題だ」と指摘する。ただ、そうはいっても「未投与の場合、肺などさまざまな臓器でウイルスが増殖し、炎症を引き起こし、持病がある人は特に悪化しやすい」。
◆「人権無視も甚だしい」
新型コロナについて会見する東京都医師会の尾崎治夫会長=YouTubeから
そんな治療薬だが、現状では経済的な理由で治療薬を諦める人もいる。
NPO法人「医療制度研究会」理事長の本田宏医師は「ひと言で大問題だ」と切り出し、「家庭の懐事情で医療に差が生じるのは、医療へのアクセス権を��害しているという面でも『いのちの格差』を生んでいる」と続ける。
本田氏は国の医療費抑制策の問題を指摘する。
「『医療費が増えると国が滅ぶ』と、医療費を削る一方で患者の窓口負担は増やしてきた。限界まで医師数を抑制し、コロナでは在宅死も起きた。お金持ちだけが医療にアクセスできる現状になり、人権無視も甚だしい」
今も社会的に影響が大きいコロナ。昭和大の二木芳人名誉教授(感染症学)は「ゾコーバの価格も高いが、重症化の可能性がある人が口にする二つの飲み薬も高額だ。二つの薬は、ともすれば命に関わる人々が対象になる。全体的に治療薬の資金援助が必要だ」と訴える。その上で「ゾコーバなどがもっと安価であれば、多くの人がもっと積極的に飲む。結果的にウイルスの脅威は減る。社会全体の不安感を取り除くとの意味合いでも急ぎ、対策してほしい」と話した。
◆デスクメモ 先日、新型コロナになった。当初は38度前後の熱。解熱鎮痛薬の処方のみ。やがて喉に激痛、声が出なくなった。医院でゾコーバを勧められるとうなずいた。ただ詳しい額を知ったのは薬局でのこと。出ないはずの声が出そうになった。普通の風邪との差。何とかしてと切に思った。(榊)
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masahiroterakawa · 5 months
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yotchan-blog · 5 months
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2024/4/26 22:02:15現在のニュース
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cyanoooon · 6 months
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[読み物] 古代の記憶ツアー
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読み物です。2006年くらいの記憶です。ほぼ走馬灯です。
好きなものに触れていると、記憶を失ったフィーネのように、ふと、昔のことを断片的に思い出すことがあります。
何かあったような…、と、ピクシブを見に行ってみると、古文書が残っておりました。
文章に当時の若さを感じますが、それも時代を越えてきたということでご容赦頂けますと幸いです。……なんだその顔文字は!(^ω^)
この投稿が2012年近辺、ちょうどBlu-rayが発売された頃になります。時の流れを遡っていくと、もう少し前にひとりゾイドブームで大騒ぎしていた記憶を思い出しました。10周年記念ゾイドエンサイクロペディアが発売されたのが2009年、ジェネシスをリアルタイムで視聴していたのが2005年~2006年。
…2006年付近だ!
我々は倉庫の資材置き場のさらに奥深く、開かずの箱を開けることとなった。
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▲いにしえのたんまつ(au W43S:2006年モデル)
携帯電話に表示される日付は0/0(スラッシュゼロだ…!)表記になってしまいましたが、電源を入れると問題なく起動しました。背面が光っててコンパクトでお気に入りの端末でした。もちろん、DIYキッズなので着せ替えデザインも作りました。(なんと、光るうえに着せ替え出来るんです、この携帯)
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▲波動を感じる…!2007年の波動だ!
当時、携帯にカメラ機能は付いておりましたが、今ほど写真を撮影する傾向はなく、それでも何か面白そうなものは残ってないかと、本体データやメモリースティックのデータを見てみ���した。
…ありました。発掘しました。
撮影した理由は全く覚えてないのですが、机を掃除して、子供なりにいいディスプレイが出来たぜとか、そのような感じだと思います。それにしても、ツッコミどころが多い。笑って頂けたら幸いです。
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描いた絵のことは忘れがちなのですが、改めて絵を見ると、私が描いたな、と記憶が戻ります。赤い人が多いです。確実にヒルツですね。
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違う写真も残っておりました。定期的に卓上ディスプレイが変化する様子。無印からスラゼロブームに移動した様子が見えます。Blu-rayを順番に視聴したのだと思います。いつぞやの年賀状イラストがビットだったと思うのですが、この時期かもしれない。
そして、デスクライトの麓に何かいる。
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メガラプトルに同梱されてるザイリンのフィギア、小さなゴジュラス(?)、そして問題の鮮やかなコバルトブルー。
件の手作りのデススティンガーになります。写真当時は、ジェネシス放送後でしたが、前シリーズのゾイドは店頭で見かけなくなっており、お小遣いの制限もあったので、少し敷居が高い状態でした。大きなゾイドとなるともちろん価格もサイズに比例してきます。でも欲しい!デススティンガー欲しい!シャカシャカしたい!気が付いたら粘土をこね、小さいデススティンガーが誕生しておりました。しっかりと塗装、ニスも塗られてました。
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不思議とデススティンガーのデフォルメだけ迷いなく描けるな、とは思っていましたが、理由はコレでした。手が古代の記憶を覚えていました。
最後にもう一枚。
とにかくゾイドが欲しくてお店を駆け回りましたが、時期的に売っておらず、リサイクルショップ巡りが日課になっておりました。各機体をよ~く見てみると、フューザーズ時代のゾイドの様子。ライガーの頭の部分が白いのでRD機ですね。(無垢な子供達でしたので、RD機とビット機で塗装がちょっと違うことは最近知りました。)
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塗装途中のケーニッヒウルフがいます。塗装のトの字も知らなかったので、アクリル絵の具でバシバシ塗り上げ、ものすごくマットな仕上がりのウルフになってました。
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その時考えてたウルフとオリジナルウォーリアーちゃんがこちら。作ったことのあるゾイドはスムーズに描けるので、解像度が高いのだとと思います。
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ゾイドサーガDSでもケーニッヒウルフ白でした。ラスボスのギルベイダーとギルドラゴンが中々強く、何回挑戦しても倒せなかったので、執念でひたすら自分が与えた攻撃ダメージをメモして敵の総HPを計算したりしてました。
エナジーライガーは背中のポンプギミックがうまく繋がらなくて、四苦八苦して作り上げた記憶があり、こうして手先の器用さが訓練されていったのだなぁ、としみじみ関心します。
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昔作ったゾイド自体はもう手元にいないのですが、時折、掃除をしていると名残が出てきて、あの頃に思いを馳せることがあります。超合金ゼロ君よ、それはフューラーのシールだよ。
それから長い年月が経ち…
デデーン!
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アニメ4作品がネット配信、加えてなんとグッズも発売されたので、あれもこれも買い、にっこりディスプレイが再建設されました。本当に配信されたり新規描きおろしイラストグッズが出たりするとは思っていなかったので、未来なんてわからないですね。
大変なこといっぱいあったけど、Wild Flowersを歌って乗り越えた!
生きてて良かったー!!!!
古代の記憶ツアー2006、お読みいただき、ありがとうございます。
[to be continued...?▼]
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helloharuo-diary-2023 · 8 months
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思い出を振り返る
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Tuesday 11 February 2014
2014年1月9日(木)夜10時4分、おかあさんが92歳で亡くなった。おかあさんは、自分の母のことではない。ハルオは、26歳の時人生のターニングポイントを迎えた。それはカメラマンになる修行を始める時だった。キーパーソンは、カナダ人のジョン。ジョンとの出会いは、ハルオが当時勤めていたカメラ量販店(24〜26歳)でのことで販売員(ハルオ)とお客(ジョン)の関係から始まった。そのジョンにカメラマンになりたいと伝えるとジョンはある女性を紹介してくれた。その女性は、ハルオが師事する事になったカメラマンGが手掛けていた雑誌の編集者をしていた。ハルオは、ジョンを介してその女性と会いまもなくカメラマンGを紹介してもらい彼の元で働きながら写真を学ぶことになった。
ハルオは、当時国分寺に住んでいた。カメラマンGの仕事場は中目黒にあった。一方ジョンは中目黒に近い下北沢のアパート「葉隠荘」に住んでいた。そのアパートは、いわゆる外人ハウスで管理人がいなくある意味無法地帯のアパートだった。そのアパートがあった敷地内におかあさんが営む一杯飲み屋「小料理 小千谷」があった。ハルオは、国分寺のアパートをキープしながら葉隠荘(3畳部屋)に移り住んだ。そしておかあさんと出会った。おかあさんは、当時70歳だった。1991年のことだ。「小千谷」とはおかあさんの生まれ故郷新潟県小千谷のことだ。「小千谷」カウンターに5席ほどの小さい飲み屋でおかあさんが一人で切り盛りしていた。メニューは、300円と600円のみ。瓶ビール(大瓶)500円。おかあさんは、自分のことを『昔はあばずれ、今は聖母マリア』と言った。そして『おかあさん』と呼んでと言われる。おかあさんは、外国人しかいない葉隠荘に日本人がやって来たことが嬉しかったのだろうかハルオとおかあさんはすぐに打ち解けて仲良くなった。「小千谷」は夕方から12時まで営業していたので仕事が遅くなった時でもお店は開いていてよくハルオはおかあさんに会いにお店に寄った。おかあさんは昔の下宿屋のおばちゃんみたいな存在だった。おかあさんは世田谷区に住まいがあり旦那さんと暮らしていたが葉隠荘にも1室部屋を持っていた。その部屋はジョンの部屋(6畳部屋)の隣りだった。ジョンもハルオも20代後半の血気盛んな時期で週末となればどこからともなく外国人たちがジョンの部屋に集まりテクノミュージック(後にトランス)を聞いて騒いだ。ボロアパートの葉隠荘だから音は筒抜けでおかあさんは最年長でテクノを聞いていたことになるだろうか。聞くだけならともかくその音はおかあさんには不快でよくジョンの部屋に来て『うるさいよ〜』と注意に来た。
「小千谷」には、常連のお客さんがたくさんいて当然おかあさんのファンでもあった。おかあさんが道で拾った鶏をカゴに入れて飼っていた時があった。そのカゴは「小千谷」の店先に置いてあってある日おかあさんはそのコメコと名付けた鶏を写真に撮っている女の子Aと出会う。そして「うちにも写真を勉強しているハルオ君という子がいるよ』と伝えハルオはその女の子と「小千谷」で会った。ハルオは、その女の子を気に入りやがて2人は付き合う様になった。おかあさんは愛のキューピッドをし他にもおかあさんがお客さんとお客さんの縁を取り持ち結婚までしたカップルがいた。ハルオには、18歳で上京して以来2番目に仲良くなったTという友人がいるがそのTも「小千谷」が気に入り常連になった。そのTもやはり常連だった女性と恋に落ちその縁は今でも続いている。
ハルオが葉隠荘にいた期間は3年間だったがその間に「小千谷」が30周年を迎えた。近くの北沢八幡宮の宴会場を借りて大勢の人が集まり盛大に開催された。おかあさんは、得意のかっぽれを踊った。おかあさんはハルオに葉隠荘の外観写真を撮ること依頼しその写真を使い記念テレフォンカードを作った。おかあさんが何かの病気になり病院に入院した。それは大したことではなかったが退院の日ハルオはおかあさんに頼まれて迎えに行った。当時ハルオは400ccのバイクに乗っていておかあさんをシートの後ろに乗せて葉隠荘まで連れ帰った。そのことは後々までもおかあさんの記憶に残っていて時折そのことを懐かしんでハルオに話した。
「小千谷」には焼き飯というメニューがあってとても美味しく量がありハルオはよく好んで食べた。他には、刺身や漬け物、焼き魚等のメニューがあった。時折ハルオが朝仕事に出掛けると葉隠荘の入り口におかあさんからハルオに宛てたメモがありお店で残ったメニューの焼き飯やおにぎり、惣菜、を詰めてハルオに弁当を持たせてくれた。おかあさんは"お母さん"だった。ハルオは、バイクで交通事故に遭い肩甲骨と鎖骨を折って入院したことがあった。その際にはハルオの母も看病にやって来たのでハルオの母とおかあさんは顔を合わせている。その後年賀状のやり取りも続く。
ハルオが葉隠荘に住んで約3年後葉隠荘が取り壊しになる話が進められていた。丁度ハルオはカメラマン修行も終えた頃で立退料を大家の代理から30万円貰って早々に羽根木公園の近くのアパートに引っ越しをした。その後も暫く葉隠荘も「小千谷」もそのまま健在だったが遂に取り壊しをする時がやって来た。おかあさんが75歳前後のことだろうと思う。ハルオは、葉隠荘が取り壊される日、ドキュメント写真を撮った。その後まだ元気だったおかあさんは世田谷区上町駅近くの商店街に「小千谷パート2」を開店させた。ハルオは、定期的におかあさんに会いに行った。さてその店が何年続いたか?2〜3年?ハルオには記憶にない。下北沢という好条件にあった時に比べ上町ではお客さんが少なくなっていた。それでもおかあさんはお店を続けたかったんだと思う。
おかあさんは、水泳を好んで良くプールに出掛けていた。『ハルオ君、今度私が泳いでいるところを撮って』とおかあさんに言われたことがあったが実現には至らなかった。『小千谷パート2』が終りかけた頃、おかあさんは、自分史を書いた。その文章を常連のお客さんたちが小冊子に纏めた。その中にハルオについての話を書いてくれた。
2006年、ハルオは、写真展「十人十ゑろ」を開催した。しばらくおかあさんとは会っていなかったがおかあさんに写真展の話をすると行きたいと言ってくれた。しかしおかあさんは足が悪くなっていて自力では来れない。ハルオは、タクシーをチャーターしておかあさんの送迎をした。「十人十ゑろ」は10人の女性の素肌(殆どがヌード)をキャンピングテントの中で撮影した作品だった。その後おかあさんとのやり取りは年賀状や時折の電話で続いて行った。
2008年、ハルオは25年間住み慣れた東京から静岡に引っ越しをした。この年の前後(記憶が乏しい)におかあさんに会いに行った。場所は下北沢から近い世田谷区の淡島通り付近の喫茶店。おかあさんの住まいは一戸建だったがとても小さく人を迎い入れるには難があった。おかあさんの足は更に悪くなっていた。その時は、ハルオはおかあさんがキューピッドをして付き合うことになった女の子Aと行った。Aとのお付き合いは半年も続かなかった。しかし元々Aはカメラマンになりたかった女の子でハルオに触発されてか付き合っている頃から写真学校の夜間部に通い晴れてカメラマンになっていた。ハルオとAは、友達として連絡を取り合っていたのでいい機会と一緒におかあさんに会いに行ったのだった。ハルオは、写真を撮って後でおかあさんにその写真を額に入れて贈った。おかあさんはその後世田谷の住まいをそのままにして小千谷に近い新潟県長岡市に身を寄せた。始めはおかあさんだけでその後旦那さんも。
2011年、おかあさんからハルオに手紙が届いた。その日は偶然にもハルオの誕生日だった。手紙が入った封筒には、現金2万円と写真も入っていた。その時何故現金が入っていたのか分らずハルオは、誕生日プレゼントだと勝手に思った。(しかしそれは後で気付いたが新潟までの往復の交通費だった。)そして写真だがそれが驚いたことにおかあさんのヌード写真だった。おかあさんが50〜60歳位の頃の温泉の露天風呂に入っている写真で下半身はタオルで隠れていて上半身は裸で乳首は見えそうで見えてはいなかった。手紙に『ハルオ君の個展か何かに出せるんじゃないかと勝手に考えました。自分のうぬぼれかも知れないけどそんな風に役立てて下さい。お願いします』とあった。随分大胆だなとハルオは驚いた。ハルオは、この時以前プールの写真を撮ってとリクエストされたことを思い出した。
手紙を貰った後中々新潟までおかあさんに会いには行けなかった。 ハルオは、それがはがくゆく気になっていたのでおかあさんに会いに行く決意をする。 おかあさんに貰った交通費2万円を使い時がやって来たのだ。
2013年春、 その旨をおかあさんに伝えようと身を寄せていた新潟県長岡市のお宅に電話すると旦那さんが危ないからまたの機会にして欲しいと言われ延期した。おかあさんには2人のお子さんがいて長女さんは大阪に住んでいて息子さんはすでに亡くなっていた。その息子さんの奥さんがおかあさんと旦那さんの世話をしていたのだ。間もなく旦那さんは亡くなられた。そして10月の始め、おかあさんに会いに静岡から車で出掛けた。久しぶりに会ったおかあさんは、すでにガンに侵されていた。部屋の中で2時間ほど話した。写真も撮った。しかしおかあさんの笑顔は撮れなかった。おかあさんは、長年の伴侶だった旦那さんが亡くなり生きることよりも死ぬことを願っている様に見えた。ハルオは、おかあさんと別れた後おかあさんの勧めで小千谷にも寄って来た。おかあさんの実家は小千谷駅近くにあった。甥っ子さんが寿司屋を経営し、その同じ通りにおかあさんの幼馴染みが住む金物屋があって両方訪ねた。幼馴染みの方はご健在で写真も撮ることが出来た。
『おかあさ���、これから手紙を定期的に送っていい?』そうハルオはおかあさんに尋ねると承知してくれたのでその後迷惑にならない様に気を使いながら手紙(葉書)を送った。しかしおかあさんはそれから3ヶ月後に帰らぬ人になってしまった。
おかあさんのご冥福を心からお祈り致します。 長い間本当にありがとうございました。 安らかにお眠り下さいね。
2014年2月21日(金)    ハルオ
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tokyomariegold · 4 months
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2024/1/1
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1月1日 たぶん年が明けているな、と暗い中目を覚ましてベランダから写真を撮った。少し寝て、まだ暗い中起きるといつもの朝焼けの時刻。 初日の出はきっときれいだったはず。
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外に出ると1月1日の気候だった。凧揚げがいのある強い風の日。 オークラ東京の前に思い立って辰巳の森公園へ行ってみた。 新木場駅から散歩道を歩いて、途中首都高沿いで「あ!ここだ!」と思ったところで写真を撮る。 辰巳公園は 辰と巳のオブジェがある公園。辰はこんな感じだろうな、な気がした通りのモニュメント。巳の方で撮影。辰巳公園はちょっと不思議な風景がたくさんあったので次は誰かと行きたい。
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ホテルオークラへ向かう途中、有楽町の乗り換えで干支ツリーお正月バージョンを確認。友人に報告のメッセージを送り、送った後に“あけましておめでとう”を追加した。本当に今日は1月初めの月曜日、という感覚。 ホテルオークラで12:30の回の獅子舞を鑑賞。初めて獅子舞を生で見たかも。頭は金色の獅子を被った華奢な踊り子さんだった。 もっと着ぐるみっぽいかと思っていた。 口からお賽銭をもらい子供たちの頭をかじってまわっていた。 昔クリスマスツリーを見た旧館は取り壊されていた。 今日の予定というか、タスク?をこなしてるフィルム現像を出して帰宅。
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正月早々〜(よくない出来事)、と言われることってお正月でなくとも起こってほしくない。 体調を崩したり、��我をしたり、どろぼうにあったり、地震が起きたり、お店のミスで買いたいものが買えなくて少しイラッとしてしまったり。 なるべくずーっと起こってほしくないかも。 (この内いくつかが当てはまった1日だった。)
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年賀状は嬉しいのが3枚! 元���にしては多い方! カスタムくんのイラストやお手製の芋ハンコの年賀状に笑顔になってしまう。 なるべく日記が嫌にならずに続けるために、1ページに収める方針にしようとしたら全然ダメだったり ちょっといろいろ、うーんと思い返すことが多めの日だったけれどニコンのレビューに応募したので、一先ずえらい!
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0--fgl · 9 months
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まだ寝てへんからギリギリ今週やんな。ということで先週と今週あったこと色々と話していこかな。ここ最近はずっとドラマの撮影で有難いことにバタバタしとって、観に行きたかった先輩の舞台とか行けてへんかってんけど丈の舞台にはギリギリ間に合ってほんまによかったなあ。そんなわけで丈の舞台観劇したあと晩ご飯も食べに行ってんけど、折角やし大地も誘うかって話になって誘ったのにあいつ来やんくて結局2人でご飯食べました。丈とはご飯行こかって言うとったから、久しぶりに行けてほんまによかった。写真は楽しそうに俺の事絞めてる丈です。ほんま舞台お疲れさん。次は写真の順番関係なく喋ってまうんやけど、文一くんにずっと来いよって言われとったのに行けてへんかったらじらーに遂に出演してきました。ほんまにずっと言うてくれとって、やっと叶ったことやったからめっちゃスタッフさんも気合い入れてくれとって嬉しかったけどめちゃくちゃ出にくかったなあ。そんなおもろいこと言えるわけとちゃうのに、初っ端からドラムロール流れとったし。よくないわあ。あとあれやね。久しぶりにHiHiの橋本と作間に会った日やったね。わっしょい終わってから中々関東の子らとは勿論、関西の子らとも会う機会あんまりなかったからめちゃくちゃ久しぶりな気したけど言うほどわっしょいから時間経ってへんねんな。半年ぐらい経ったつもりでおったわ。もうアーカイブないから聞いてください!とは言われへんけど、終始おもろかったなあ。あ、せや。ラジオ文一くんと2人きりじゃなくて、ますだおかだの岡田さんと3人やったんよ。岡田さんとはAぇとなにわの、《なにわからAぇ!風吹かせます!Aぇ男塾》って関西ローカル番組が昔あってんけど、そこでご一緒させてもらってからそれ以降お仕事ではあんまり接点なかったから、塾長とはほんまに久しぶりやって。こうやってまたお仕事で塾長に会える日を待ってたからめちゃくちゃ嬉しかったなあ。あの番組、ほんまにめちゃくちゃハードやったし今でも1番しんどかった番組のロケは?って聞かれるとAぇは6人揃ってあの番組のエピソードになるけど、でも思い出はめっちゃできたいい番組やったからいつか復活させられたらなあってこっそり裏でメンバー同士話したりしてます。そんなこんなであっという間に過ぎた1時間、めちゃくちゃ楽しかったなあ。もしまた文一くんがらじらーに出るってなったらその時は呼んで欲しいなと思います。ほんでその次の日に次は僕らAぇ! groupの方のラジオ番組に、浜中文一くんと室龍太くんがゲストに来てくださいました!4人でやるラジオということで、ほんまにしっちゃかめっちゃかでうるさいラジオになってると思うので、聞いてみてください!って言いたいんやけど俺のこの投稿遅すぎてもうタイムフリーもなくなってもうてるなあ。とりあえず俺と龍太くんの声がうるさいってめちゃくちゃ言われとった、そんな回でした。ほんでその2人が出演されている舞台を、クリスマスイブの昨日観に行ってきました!先週今週とめっちゃ文一くんと一緒におること多かったけど、ほんまにおもしろくて優しくて頼りになるいい先輩やなって改めて思いましたね。ほんまに。退所しても変わらず、ずーっと見守ってくれるって言うてくれてるので僕はそんな優しい先輩の背中を肩を借りながらもっともっとでっかい一歩踏み出していこうかなと思ってます。ほんまに大切で大好きな先輩です。お疲れ様でした!これからも変わらず末永くよろしくお願いします。めちゃくちゃ長くない?大丈夫かな。まあこの長さちゃんと目通す人の方が少ないやろうからええか。こんな長いのに読んでくれてる方、ほんまにありがとうございます。もう少しだけ続きます。次はあれやね。このリチャとの制服の写真のやつ。これはドデスカです。ドデスカで名古屋の高校に取材に行かせてもらった時のんです。もう2週とも放送は終わってもうてるんやけど、めちゃくちゃ楽しかったということだけは書いとこかな。ローストチキンつくったり、短歌つくったり全力で走ったり色んなことしました。もう来年で30やのにって言葉聞こえてきそうやけど、まあこれもアイドルの特権ってことで許してください。ギリギリ黒髪やからまだいけるんちゃう?ほんでやっと、やっと告知できます。FILAさんの公式アンバサダーをAぇ! groupが務めさせていただいております!多分靴屋さんとかで僕らのこと見かけることあると思うので、その時は末澤やんって感じで僕のこと見つけてくださると嬉しいです!あとは12月23日発売のRayさんの表紙をAぇ! groupが飾らせていただいています!これ確か特別版の方なので、本屋さんでなんか年賀状っぽい写真が表紙の雑誌あるなあって思った方がいらっしゃったらそれ多分僕らAぇ! groupなので、是非手に取ってみてください!最後は昨日公開された、ドラマのチラ見せ5秒動画です。パンくわえてます。これから毎日更新されるそうなので、ちょこちょこ載せていけたらなと思ってます。こんな感じですかね。いやあ、さすがに長すぎる。これ読むの誤字脱字ないかなって読み返す俺しかおらんちゃう?まあでも俺自身が書ききったって満足してるしそれでええか。お仕事の話ばっかりしてもうてるから、もうひとつの方でもうちょっと違う話していきたいな。覗いて興味ある内容とか、俺も好き!って方がいらっしゃったら気軽に声掛けてもらえると喜んでその話すると思うので!よろしくお願いします。また来週!
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kennak · 5 months
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「両親と子供の失われた時間は戻らない」生後5か月の長男を骨折させた傷害の罪に問われ、無罪が確定した男性(25)が胸の内を明かした。なぜ平穏な日々が奪われたのか――一連の裁判で明らかになったのは食い違う研修医らの証言と不自然な対応。弁護団が語った経緯と判決、男性の言葉をもとに紐解く。 父親が語った2年9か月の思い 4日、佐賀県内で会見したのは、森口流星さん(25)。森口さんは2021年6月、自宅の寝室で生後5か月の長男の右腕に何らかの暴行を加えて骨折させたとして、傷害の罪で逮捕起訴された。1審も2審も無罪。事件当日から無罪確定に至るまで、2年9か月の月日が流れた。 森口流星さん(25)「2021年6月21日。息子が泣き出し腕を動かさなくなり、私と妻はすぐに佐賀県医療センター好生館へ連れて行きました。息子を看護師に引き渡すと、そのまま児童相談所へ連れていかれました。妻は何の疑いもかけられませんでしたが、息子とは引き離され、私たちは約1年間息子と離れて生活をさせられました。2か月後私は急に逮捕され、保釈が認められるまで10か月以上、留置所から出られませんでした。面会は弁護士と児童相談所の職員を除けば、母だけでした。妻や家族と会うことは許されませんでした。私は何もやっていないのにどうして逮捕されたのか。毎日思い悩み、夜眠ることもできず、睡眠薬を飲む日が続きました」 裁判の争点骨折がいつ起きたのか 密室である家庭の中で起きた事件。弁護団は「協力医の存在なしには立証は難しかった」と語る。 森口さんは長男に暴行したのか、していないのか。公判では、 (1)森口さんが自宅で暴行を加えて骨折したのか。 (2)医療機関に引き渡したあとに骨折したのか。 つまり、長男の右腕の骨折が「いつ起きたのか」が争点となった。 弁護団の説明をもとに事件当日を時系列で振り返る。 【午前2時】森口さんが仕事から帰宅。 【午前6時31分】森口さんが長男を膝にのせてあやしている様子を妻が写真に収める。この写真には長男が右手でおもちゃを持っている様子が映っており、この時点では骨は折れていなかったとみられる。 【午前6時40分】寝室で長男が大泣きし始める。別室で洗濯物を干していた妻がすぐに駆け付けた。妻は森口さんが長男へ駆け寄っていく瞬間を目撃している。両親は長男が腕を動かさないことに気づいた。「ぶらんとしていた」と証言。 【午前7時11分】佐賀県医療センター好生館に電話 【午前7時30分】病棟へ入る 【午前7時51分~8時1分】レントゲン撮影で「上腕骨骨幹部骨折」が発覚。 【午前8時2分】長男の写真撮影開始(カルテ伝送) 弁護側の主張「長男は寝返りで起きる『肘内障』だった」 弁護側は、長男は「肘内障」だったと主張した。「亜脱臼」ともいい、子供によく起こるものだという。肘内障の所見は「腕を動かさない、だらんとする」「痛がる」「腫れは生じない」。両親の証言とも一致すると述べた。 肘内障は「6か月または5か月以下は寝返りで起きる」とされている。長男の骨折はねじったように折れる「ら旋骨折」だった。 弁護側の証人として法廷にたった医師は、「ら旋骨折」について「肩も肘も固定された状態で前腕が回旋した場合」に生じると述べ、「医療関係者により過度な整復作業(骨を正常な位置に戻すこと)が行われることによって生じる可能性がある」と証言した。 午前8時2分に病院で撮影された長男の右腕の写真には、洋服の袖まつり縫いの跡が残っていた。弁護団は跡が残る時間を調べる実験をしたうえで、「整復作業の際に強く握って腕を回したのではないか」と主張した。 1審の佐賀地裁判決は「無罪」 1審の佐賀地裁は2023年5月、「経験の浅い研修医らが肘の亜脱臼で過度な整復作業を試みたことで骨折が生じた可能性も否定できない」として森口さんに無罪を言い渡した。 2審も無罪研修医の証言「事実と異なる可能性」 福岡高裁 1審の佐賀地裁で無罪判決が言い渡された後、検察側は控訴した。そして2審の福岡高裁は今年3月、1審の無罪判決を支持し検察側の控訴を棄却。なぜ「無罪」なのか。 2審では、長男を診た当時2年目と1年目の研修医2人が、「救急外来を受診した当初から、長男の右腕に(肘内障の場合にはみられない)腫れを確認した」と証言している。 しかし、福岡高裁は判決で、「腫れが認められ骨折を疑っていたのであれば両親への対応も含め慎重な対応も求められる特殊な事案であることは容易に認識できたはず。にもかかわらず、当直の小児科医等に一報することもないまま、独断で長男の両親と隔絶してレントゲン検査が終わるまで研修医だけで診察等の対応を行ったことになるから不自然との感は否めない」とした。 さらに研修医ふたりの証言は、「カルテにもその(腫れの)記載がなく、看護師によるトリアージ結果とも整合しない」とした。 福岡高裁判決より「長男の右腕に明らかな腫れはなかったにもかかわらず、骨折を疑っていたことを強調するために、腫れの有無や程度について誇張するために事実と異なる証言をしている可能性が否定できない」 また、福岡高裁では診察にあたり研修医が両親に問診を行ったかどうかについても考察された。 福岡高裁判決より「(両親に問診したとする研修医2人の証言は)細部に相当の食い違いがある。看護師も曖昧な証言をしており、証言の信用性に疑問を生じさせる。問診等が行われないまま長男を両親から隔絶して診察が行われた可能性が否定できない。研修医らが、事実と異なる証言をしているとすれば、隔絶して診察を行った際に医療事故を含め何らかの不都合な出来事が生じたのを隠そうとしているためではないかという疑念も完全には否定しきれない」 福岡高裁は判決で、こう結論付けた。 福岡高裁判決より「(長男の骨折は)経験の浅い研修医らが長男の右腕に明らかな腫れ等がなかったこともあって、肘内障の疑いがあると判断してその整復作業(正常な位置に戻すこと)を試みた���、実際にはそれまでのいずれかの段階で自然に整復していたため(正常な位置に戻っていたため)整復感が得られず、整複感を得ようとして過度な整復作業を行ってしまったため、骨折を生じさせたという可能性も完全には否定できない」 「失われた家族の時間は戻らない」 検察側は上告を断念し、2024年3月、男性の無罪判決が確定した。 無罪が確定した森口流星さん(25)「検察官は起訴した時点で、私がどんな方法で暴行を加えたのかをはっきり説明していませんでした。1審判決時点でもはっきりさせることはできませんでした。結局はっきりできないまま、検察官は控訴までしました。最終的に福岡高等裁判所で検察官が主張した最も可能性が高い暴行の内容は、私が息子の腕を足で踏んづけて丸太のように転がした、というものでした。私は意味が分かりませんでした。本気でそんな主張をしているのかと腹が立ちました。私たち家族の失われた時間は戻らないということを忘れないでほしいです」 佐賀県医療センター好生館に見解を聞いた 佐賀県医療センター 好生館 確定した判決で、研修医が受診した乳児を骨折させた可能性を指摘された、佐賀県医療センター好生館。取材に対し、4月5日「判決内容を詳細に把握していないためコメントする状況にありません」と回答した。福岡高裁の判決から3週間。判決確定から1週間がたっていた。 森口さんが失ったもの 森口さんは、事件から約10か月後にようやく保釈が認められた。小さかった息子は、会えなかった期間に大きくなっていた。当時勤めていた会社は「自主退職」を余儀なくされ仕事も失った。 森口流星さん(25)「やっと保釈が認められて、約1年ぶりに息子に会うことができ、信じられないほど大きくなっていてうれしかったのと同時に、息子の成長を見られなかったことがとても悲しかったです。保釈後も長い間、妻と息子と一緒に暮らすことが許されませんでした。犯人扱いされているようで、友人や知人からも疑われているようで、人目を気にしながらの生活は本当に嫌でした」 長男と引き離されたのは父親である森口さんだけではなかった。長男は事件後、児童相談所に保護された。母親である妻も面会させてもらえなかったという。 (以下、弁護団によると) 事件発生から約2か月後、まだ逮捕前だった森口さんと妻は、児童相談所の職員から、”父親が暴行して長男を骨折させたこと”を前提に今後どうしていくべきか家族で話し合いをするよう言われたという。2人は、「やっていないのにそんな話をするのはおかしい」と反論したが、職員から「あなたたちは何をしたのか分かっていますか」と強い口調で言われたと話す。弁護団によると、児童相談所から長男を返す条件として提示されたのは、当時専業主婦だった母親が仕事をすることと、日中、長男を保育園に入れることだった。その後、森口さんが逮捕され、妻は仕事を始めた。それでも児相から子供を返してはもらえなかった。 事件から3か月後の2021年9月。妻の面会が認められた。ただ、月1回、1回につき1時間以内、付添人をつけることが条件だった。 2021年12月。児童相談所から「複数人で常に長男を見られる環境でないと子供を返せない」と言われた。森口さんの妻は、親戚と一緒に暮らすため、引っ越しを余儀なくされた。 2022年6月、妻のもとへ長男が返された。事件から1年がたっていた。 あの日何が起きたのか「知っている人がいたら名乗り出てほしい」 無罪が確定した森口流星さん(25)「裁判では研修医が骨折させた可能性があると判断されました。検察官はそれ以外の可能性を一切立証できませんでした。研修医が骨折をさせたのであれば、それを研修医自身が病院に隠したか、病院側が組織的に隠ぺいしたのかどちらかです。どんな医療現場でも事故は起こると思います。私が病院に言いたいのは、いざ事故が起きたときに保身に走るのではなく、再発防止を最優先に考えてもらいたいということです。もし好生館に勤務する医師、放射線技師、看護師、その他の医療従事者でこの事件の真相を知っている方がいましたら名乗り出てほしいです。どうか病院をみんなが安心して利用できる場にしてください」 あの日、病院内で何があったのか。森口さんと弁護団は、「知っている人がいたら名乗り出てほしい」と呼びかけている。
なぜ私は逮捕されたのか「乳児の父親は無罪」判決が指摘した医師の不自然な対応と沈黙する病院 | TBS NEWS DIG (1ページ)
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shintani24 · 7 months
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2024年3月1日
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能登地震の倒壊家屋、元日のまま 「一歩一歩進むしかない」(共同通信 3月1日)
石川県輪島市の「輪島朝市」周辺に残る焼け焦げた車両=1日午前
発生から2カ月となる1日になっても、多くの家は倒壊したままで元日と変わらぬ光景が広がる。能登半島地震で大きな被害を受けた石川県ではいまだに1万人以上が避難所にいて、自宅に戻った人も断水などで不自由な生活を強いられている。「大変だけど一歩一歩進むしかない」。輪島朝市の焼け跡に早朝から手を合わせる人の姿も見られた。
朝市近くに住む主婦(77)は倒れかけた家屋を指さし「早くつぶしてくれないと危なくて」とつぶやく。道路には屋根瓦やくぎが散乱したままで「ちょっと歩くだけでも危険を感じる」。
珠洲市飯田町の浜田博司さん(80)は応急危険度判定で「危険」とされた自宅の再建をあきらめ、金沢市の賃貸住宅に家族4人で移る。「未練もあるが2カ月の避難所生活の大変さは体験しないと分からない」と話した。
津波の被害が大きかった珠洲市三崎町では地面が隆起した波打ち際に船や家電、布団などが残されたまま。川端国夫さん(73)は「崩れた建物も撤去してもらわないといけないが、いつになったら業者が来るのか」と力なく話した。
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石川6市町から1400人超転出 地震2カ月、人口流出に拍車の懸念(朝日新聞 3月1日)
6市町の転出者数
能登半島地震で特に大きな被害を受けた石川県内の6市町で、発災から2カ月で1400人超が別の自治体に転出していたことがわかった。転出には至っていないものの他の自治体に避難している被災者も多く、今回の地震をきっかけに人口流出に拍車がかかることが懸念されている。
1日時点で6市町に出された転出届の集計(速報値含む)によると、1月と2月の転出者数は計1449人。昨年同期の計602人に比べて2・4倍となった。地震が起きた元日時点の6市町の人口(11万9650人)の約1・2%にあたる。
1~2月の転出者は多い順に輪島市417人(前年同期196人)、七尾市405人(同200人)、珠洲市240人(同45人)、能登町163人(同57人)、志賀町129人(同82人)、穴水町95人(同22人)だった。
また、石川県は1日、2月1日時点の県内の人口は110万6278人で、地震発生の元日時点から1570人減になったと発表。内訳は死亡が出生を上回る自然減が1030人、転出が転入を上回る社会減が540人で、1971年4月の調査開始以来、自然減は過去最大、社会減は1月の数値としては過去最大だったという。
大森凡世(かずよ)能登町長は朝日新聞の取材に「ショックだ。生活の場を少しでも早く提供しない限りはこの状況は変わらない」と危機感をあらわにする。
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衆院予算委に臨む岸田文雄首相=2024年3月1日午後5時36分、岩下毅撮影
予算成立にこだわる岸田首相、弱体化を懸念か(朝日新聞 テーマ特集:岸田政権)2024年3月1日
新年度政府予算案をめぐる1日の審議は深夜に及んだ。年度内成立が確定する2日までに衆院を通過させようと自民が強行し、野党が抵抗したためだ。誰よりも2日の通過にこだわったのは岸田文雄首相本人だった。
1日の衆院本会議は、拍手とヤジ、双方が飛び交う騒然とした雰囲気となった。
「予算審議は円満にやってきたのに、強行するなんてありえない」
立憲民主党の山井和則氏の衆院本会議での「演説」は、記録が残る1972年以降最長の2時間54分間にわたった。小野寺五典・予算委員長(自民)の解任決議案を説明する場だが、国会混乱の発端は裏金問題にあるとして、裏金作りに関わった自民議員を一人ずつ読み上げて指弾した。
自民の強行に対し、野党はそろって批判した。日本維新の会の馬場伸幸代表は「原因は与党にある」と指摘。国民民主党の玉木雄一郎代表も「上半身は謝っているけれど、下半身は蹴飛ばしているような対応だ」と首相の姿勢を批判した。
ただ、この日深夜、立憲は態度を軟化させ、2日の採決に応じた。
強行は首相の強い意向とされる。年度内の自然成立のめどが立たないまま衆院を通過すれば、その後の参院審議でも野党の攻勢にさらされる可能性がある。自民幹部は「何か一つでも問題が起きて審議が止まれば、とたんに見通せなくなる」。野党側は、二階俊博元幹事長や萩生田光一前政調会長らの参考人招致を求めており、こうした要求にも応じざるをえない可能性が出る。
首相自ら衆院政治倫理審査会(政倫審)に出席したり、政倫審と同時並行で予算委を開催したりするなど異例の対応が続いたことも、予算案の年度内成立を確定させたいとの強い思いの表れだ。
そこまでして自然成立にこだわるのはなぜか。首相周辺は「年度内成立ができなければ、政権の統治能力が問われ、内閣支持率がさらに下がりかねない」と危機感を漏らす。参院中堅が「ここまで自然成立にこだわるのは、政権の弱り具合を首相自らが認識しているからだ」と指摘するように、自然成立が確定できなければ政権の弱体化に拍車がかかる。
とはいえ、こうした事態を招いたのも首相自身だ。強行姿勢を続ける首相に対し、自民重鎮はこう指摘した。「判断が遅すぎる。派閥解散にしてもそう。旧統一教会(��界平和統一家庭連合)もそう。対応がすべて後手に回っている」(三輪さち子)
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繰り返す「在日特権」論は100年前のドイツと同じ 社会保障の行き詰まりを「あいつらのせい」に転嫁(東京新聞)2024年3月1日
根強く繰り返される「在日特権」という言説。だが、税制面での特権について国税庁は2月28日、国会で「ない」と明言した。昨年11月には自民党の杉田水脈衆院議員が「実際には存在します」とX(旧ツイッター)に投稿するなど、保守系国会議員やネット右翼らの「ある」という主張はやまないが、政府が公式に否定した格好だ。杉田氏を含む裏金議員の問題が問われた政治倫理審査会開催の日に、本当の特権は誰にあるか考えてみた。(岸本拓也、西田直晃)
◆国税庁が国会できっぱり否定
「国税当局が、対象者の国籍や特定の団体に所属していることをもって特別な扱いをすることはない」
「在日特権」について「ない」と答弁した国税庁の田原課税部長=衆議院インターネット審議中継の動画から
在日コリアンらへの憎悪をあおる悪質なデマとして知られる「在日特権」について議論された28日の衆院予算委員会分科会。高橋英明氏(日本維新の会)が、税制面の優遇などがあるのかとただすと、国税庁の田原芳幸・課税部長はきっぱりと否定した。
高橋氏が「朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)とか、それに関わる法人個人にも一切の優遇措置はないのか」と重ねて問うと、田原氏は「繰り返すが、特定の団体なり、その会員に対して、特別な取り扱いをすることはない」と明言した。
在日特権は、在日コリアンが、日本社会で優越的な「隠れた特権」を持っているとする言説で、「在日特権を許さない市民の会」(在特会)などが主張してきた。内容はデマにあふれ、ネットの検索動向を示すグーグルトレンドによると、14年をピークに世間の関心は薄れていった。
◆杉田水脈氏の「存在する」発言で再燃
しかし、特定民族などへの数々の差別発言で知られる自民党の杉田水脈衆院議員が昨年11月、X(旧ツイッター)で在日特権は「実際には存在します」などと投稿して批判を受けると、その言葉がにわかに注目された。
ただ、これまでも特権の存在は、ことごとく否定されてきた。在特会がやり玉に挙げてきた在日コリアンらに認められている「特別永住資格」もその一つ。1991年の出入国管理特例法で定められ、一般の永住者と違い、入国審査時の顔写真の撮影や指紋採取などが免除される。
韓流ショップや韓国料理店が並ぶ新大久保で、旭日旗などを掲げてデモ行進する在日特権を許さない市民の会(在特会)=2013年3月17日、新宿区で
これらは特権なのか。特別永住者について議論された2014年10月の参院内閣委員会で、山谷えり子・国家公安委員長(当時)は「特別永住資格は特権ではなく、法律や通達に基づくもの」と答弁。当時、在特会関係者と一緒に写真撮影したことが問題視された山谷氏でさえ、特権とは言わなかった。
◆特別永住資格には「歴史的な背景がある」
改めて出入国在留管理庁に聞くと、担当者は「歴史的な背景がある話で、優遇や特権と呼ばれるものとは性質が異なる」と話した。
日本は1910年に日韓併合で朝鮮人を「日本国民」にして、労働力として日本で炭鉱労働などに従事させた。しかし、終戦後の52年にサンフランシスコ平和条約が発効されると、在日コリアンらの日本国籍は剝奪された。
すでに日本に生活基盤のある在日コリアンらが引き続き暮らせるよう韓国政府と議論。その子孫を含め、安定的な生活が送れるように整備されたのが特別永住資格だった。先の担当者は「日本への定住性が強いことや、日本国籍を失わせてしまったことへの配慮は必要で、結果的に一般の永住者と違いが生じた」と説明した。
生活保護を巡っても在日コリアンが「優���」されているとの主張もあった。改めて、厚生労働省保護課に尋ねると、担当者は「特別永住者だからゲタを履かせることはない。日本人と同じように、支給要件に合致すれば出すし、しなければ出さない」と否定した。
◆「荒唐無稽なデマ、口にする国会議員がいることに驚き」
在日特権は存在しない。政府があらためて示す見解に対し、ジャーナリストの安田浩一氏は「そもそも、この文言をまだ持ち出す人がいることに驚き。荒唐無稽なデマに過ぎないのに。ましてや国会議員が口にするのは異常としか言いようがない」と絶句する。
その上で、在日コリアンの置かれた現状について、「現実には多くの在日コリアンが日本国籍を取得している。優遇措置が存在するなら、わざわざ日本国籍を取得する必要はない。むしろ、日本人と同様に税金を払いながらも、外国人参政権がなく、政治参画の機会すら持てない。そちらのほうが問題だ」と指摘。「マイノリティーがこうした差別を訴えると、『不当な利益を求めるな』という主張が横行しがち。現代における差別扇動の典型的な表現だ」
◆差別のために妄想とデマを寄せ集める、レイシストの作法
ネット右翼の中には、過去に一部の自治体が行っていた在日コリアンへの税の減免措置を「特権だ」と決め付ける言説もある。安田氏は「植民地時代に国籍を一斉に剝奪され、終戦直後には社会保障から排除された無権利状態だった。行政による必要な措置であり、それは特権でも何でもない。在日コリアンを差別したいがために、あらゆる妄想の産物やネット上のデマを寄せ集め、形式的な理由をつくり、武装して差別の正当化を図る。それがレイシストの作法だ」。
今回も、国税庁が在日特権を公式に否定したにもかかわらず、いぜんネット上には、「実質的に特権まみれ」「通名悪用すればいくらでも悪さできる」「ナマポ(生活保護)在日に優先してんじゃん」といった書き込みがあふれる。こうした排外主義的な動きの源泉に何があるのか。
「ヘイトは愛国心の発露ではなく、『政府は私を大事にしてくれるのか』という不安感の裏返しでは」と語るのは、駒沢大の山崎望教授(政治理論)。「社会保障や安全保障の行き詰まりを考えたとき、国に見捨てられる恐れが潜在意識の中にある。その点が日本人と関係のない人々の排除に向かっていく」
東京造形大の前田朗名誉教授(人権論)は「『日本人が損している』『本来得られるはずの利益が得られていない』といった思い込みが背景にある。下に見ている旧植民地出身者に目を付け、そのいびつな感情を『あいつらのせいだ』と転嫁している。100年前のドイツでも、ユダヤ人に対して同じ見方をしていた。世界中どこでも起きうる現象形態だ」と話す。
◆「特権があって当然」という思いがあるからでは
本来なら、政治家はこうしたヘイトやレイシズムに歯止めをかける立場だ。だが、岸田文雄首相が22年に杉田氏を総務政務官に起用するなど、自民党内には、歯止めをかけるどころかヘイトを容認したり、拍車をかけるよう動きや発言が後を絶たない。
前田氏は「一部の地方議員にも排外的な言説をあおる動きがあるが、『差別するつもりはない』という言い訳がまかり通っている。歴史認識の違いで済まされてしまい、議論が成立しないまま、差別と迫害につながっていく」と危ぶむ。
2月29日から岸田首相らが出席して始まった政倫審では、「政治資金は非課税」といった政治家への税制上の優遇措置も問われている。安倍派から寄付された計1564万円が政治資金収支報告書に不記載だった杉田氏、同氏を重用した安倍晋三元首相の名を冠した安倍派の幹部らは裏金疑惑にまみれている。存在しない特権を唱えたり黙認したりしてきた側が、「政治家特権」を享受してきた。
山崎氏は言う。「政治家には『特権があって当然』という思いが多かれ少なかれあるのでは。特権を持っていい人、よくない人という線引き、奇妙なおごりや選民意識が見え隠れする。非常にゆがんだ意識だ」
◆デスクメモ 「在日特権」などのヘイト言説は、旧ツイッターなどで根強く使われる。根拠を示さず短く攻撃的に言い切ってしまう危うさ。旧ツイッターより8字少ない132字制限のこのメモを5年9カ月書いてきて、痛感している。自分はきょうで最後。今まで本当にありがとうございました。(歩)
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