#年賀状写真撮影
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kennak · 3 months ago
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自衛隊の幹部を養成する防衛大学校についてお伝えします。防衛大学校で繰り返されていたのは、上級生による指導の域を越えた“いじめ”です。被害を受けた1年生が撮影した映像に写っていたのは… 自衛隊の幹部養成学校で何が? 真っ暗な部屋。 ドアの外から「出てこい!」という怒鳴り声が響きます。 「出てこーい!」「出てこーい!」「出てこーい!」 この映像が撮影されたのは、防衛大学校の中。 一体何が起きていたのでしょうか? 神奈川県・横須賀市にある防衛大学校。防衛大臣直轄で、幹部自衛官を養成するために4学年、約2000人が学んでいます。 学生といっても、立場は特別職の国家公務員。学費はかからず、月給やボーナスも支払われます。 学生は4年間を寮で過ごします。朝6時起床。原則1年生から4年生の各学年2人ずつ、8人1部屋で暮らすことになっています。 2023年4月の入校式。整列する新入生の前で、一糸乱れぬ行進を見せるのが上級生です。 「(新入生は)この時、歩けないので横で見ている」 「外から見ていたら、かっこいいんですけど」 こう話すのは、2023年、まさにこの入校式のときに防衛大に入った男性と母親です。 元防衛大生の母親 「これが合格通知。飛び跳ねて喜んだ。制服を着ている姿は自慢に思っていた」 男性は同期の仲間にも恵まれ、勉強や訓練も順調にこなしていました。 しかし、寮生活での上級生からの“指導”は厳しく、とてもつらかったと話します。 元防衛大生 「部屋に内線がある。なるべく早く出ないといけない。1年生は走って電話を取りにいかないと(上級生に)怒られる。部屋に呼び出すか廊下に呼び出されて、時間が無くなって、ご飯を食べに行けない人がいたり、風呂に入りに行けない人がいる」 そして、自分は特に上級生たちに目をつけられていて、指導ではなく、もはや“いじめ”と言うべき状態だったと訴えます。 元防衛大生 「罵声だったりとか扉を叩かれたりとか、夜中に自分がいる部屋の内線にいたずら電話がかかってきて寝られない」 Q.この場を逃げたいとか、考えはめぐらなかった? 元防衛大生 「めぐるが、それをすると同学年の人たちに迷��がかかってしまう。『お前たちの同期が逃げ出したぞ』と、また厳しくなったり連鎖がある」 2023年11月、男性は不眠や食欲不振が続いているとして、適応障害と診断されました。 「出てこい!」という怒鳴り声は、部屋に1人でいた男性に向けられたものでした。 このとき、男性は教官に相談し、8人部屋から個室に移されていました。 扉の外にいたのは複数の上級生とみられています。 元防衛大生 「朝起きて清掃の時間がある。その時間にドアを叩いて走って逃げていく。水撒かれたのか、部屋の入り口が水浸しになっていた」 適応障害と診断された後も続いた上級生たちの行為。 当時、男性には4年生からこんなメッセージが送られてきました。 4年生から送られたメッセージ 「お前がなにもしてないのに給料をもらってるのがまじで納得いかない」 「おれはお前みたいなやつを男として絶対認めねぇ」 母親は男性から送られてきたこの映像を見て・・・ 元防衛大生の母親 「衝撃しか無かった。手も震えたし涙も出てきたし。心を病んでいる人に対して、ドアを叩いたり、罵声を浴びせたり、追い込むことしかしていない」 母親は息子を自宅に帰らせる決断をしました。 この映像を見た教官も驚いた様子だったといいます。 元防衛大生の母 「『こんなに酷いことが起きてるんですね』と言われた。『これは防衛大では当たり前の話か』と聞いたら『そうではありません』と言われた」 男性と母親は、防衛大側の対応にも不信感を募らせ、男性は自宅療養を続けたまま、2024年3月に退校しました。 なぜ繰り返される 防衛大の“いじめ” 防衛大では、過去にも「上級生による指導」と称した深刻ないじめが起きています。 2013年に入校した男性が、上級生らに体毛を燃やされたり、殴られたりしたなどとして訴えを起こしました。 この裁判では、上級生ら7人に賠償が命じられた他、実態を把握せず、適切な指導をしなかったなどと、防衛大側の責任も認められました。 自衛隊の実態に詳しい弁護士は、防衛大特有の上下関係が背景にあると話します。 自衛隊の人権問題に詳しい 佐藤博文弁護士 「学生の中にも、現場の自衛隊の組織と同じように、隊長・副隊長からヒエラルキーが完全にできている」 今回、JNNは防衛大の学生に対する過去10年間の懲戒処分の内訳を情報公開請求し、独自に集計しました。 内容は「パワハラ」や「私的制裁」など多岐にわたります。 全体の傾向として、4年生が処分されるケースが明らかに多いことがわかりました。中には、全体の60%近くが4年生だった年もありました。 佐藤弁護士は、立場の強い4年生が問題を起こしやすい実態がわかると指摘します。 自衛隊の人権問題に詳しい 佐藤博文弁護士 「教官とか学校も、そこにメスを入れない。ポツポツ出てくる様々���事案に、とにかく個別的に対応してるだけ。根本にある仕組みについてメスを入れない」 黒塗りの“指導記録”「異常としか言えない」 防衛大を退校した男性の母親は、入校してから間もない頃に息子からもらった手紙を今でも大切に保管しています。 入校直後に書かれた手紙 「やはり家での食事や洗濯のありがたみをひしひしと感じます」 「洗濯は何年前のものかわからない古い洗濯機を使っているので、本当に綺麗になっているかわかりません」 元防衛大生の母親 「『この子らしいな』と思った。こういう手紙を読み返すと、すごく残念だという気持ちが込み上げてくる。せっかく楽しんで行けていたのに、なんで潰されないといけなかったのか」 退校後、男性は防衛大側が上級生たちにどう対応したのか知るための手がかりになればと、自分への指導記録を開示請求しました。 しかし、そのほとんどが黒塗りでした。 自衛隊の人権問題に詳しい 佐藤博文弁護士 「異常としか言いようがない。本人に関わることなどは、本人が『明らかにしてくれ』と言っているのだから、秘密にする理由は全くない」 防衛大は取材に対し… 防衛大 「学生の懲戒処分については原則として公表しておりません」 このため、JNNに開示された資料を分析したところ、映像が撮影された2023年11月29日に暴言などを行ったとして、4年生6人が停学1日や戒告の処分をされていました。 この6人が罵声を浴びせるなどしていた加害者とみられます。 元防衛大生 「あの環境で毎日過ごしていたら、感覚が狂ってくる。その立場(幹部)に将来なる人たちが、ああいうことをしているのかと思うと、将来の自衛隊そのものに信用を置けなくなってしまう」 ========== 防衛大の在籍中に適応障害となり、退校した男性が「上級生からいじめを受けた」と訴えている問題について、木原防衛大臣が20日の閣議後の会見で、「ハラスメントを許容しない環境を構築する」などと述べました。会見の質疑応答をTBS NEWS DIGのYouTubeにアップしています。
上級生が激しくドアを叩き…「おい!出てこい!」 防衛大の元学生“いじめ”の訴え 適応障害で退校 幹部自衛官養成の現場で何が【調査報道】 | TBS NEWS DIG (1ページ)
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honshinmovienews · 4 months ago
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キャラクター・ビジュアル解禁!
人は誰しも、色々な面を“心の中”に隠しもっている―。 この度、11月8日公開、映画『本心』の豪華俳優陣が演じる人物たちそれぞれが、心の奥底に隠し持つ“本心”や“葛藤”が見え隠れするセリフ入りキャラクターポスターを解禁しました。
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「僕は自分が誰なのか既に見失い、迷子になっていた」 ――池松演じる石川朔也は母・秋子と2人でつつましくも幸せな生活を送る青年。しかし、ある日突然「大事な話があるの」と言い残し母が急逝してしまう。その後、生前の母が“自由死”を選んでいたと聞き、その決断に至った本心を知るために、最新AI技術を搭載したVF(ヴァーチャル・フィギュア)として仮想空間に〈母親〉を蘇らせます。葛藤を抱えながらもVFの母と向き合う朔也でしたが、次第に母の“隠された一面”を目の当たりにし、母だけでなく自分自身の本心をも見失っていくことに。
ポスターに写し出される真っ直ぐな眼差しの奥には、母親を亡くし、進化する時代に取り残され彷徨う不安や葛藤が垣間見えます。
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「朔也くんの本心が分からなくて、怖くなっただけ…」 朔也の母・秋子のVFを作るため朔也に協力するのが、三吉彩花演じる生前の秋子の親友三好彩花。過去のトラウマから他人に触れることができないが、ひょんなことから朔也の家に同居することになり、2人は特別な絆を築いていきます。しかしながら、朔也が自分自身をも見失っていくことで、2人の間に心のすれ違いが起こり…。
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「でもこれが、朔也さんの本性だからね」 不敵な笑みを浮かべるのは水上恒司演じる朔也の幼馴染岸谷。ある事故をきっかけに昏睡状態へと陥り、目覚めたときには仕事を失っていた朔也を気にかけ、自身のカメラ付きゴーグルと依頼者のヘッドセットを繋ぎ、依頼者の体として擬似体験する新たな時代の職業“リアル・アバター”を紹介したり、AIで人を再現できる技術があることを教えてくれます。朔也の過去を知る数少ない人物でもあり、刻まれるセリフからも、岸谷が朔也の心をかき乱し、本心にも切り込んでいく重要な役割。果たして岸谷の朔也に対しての感情は――?朔也との交流の中で、彼の本心も暴かれて…。
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「朔也さんはいずれ本当のことを言ってくれると思っていましたから」 ある出来事を機に朔也に興味を持つ仲野太賀が演じるイフィー。世界的に有名なアバターデザイナーで裕福な暮らしをしているが、実は事故で車椅子での生活をおくっており、リアル・アバターの朔也と専属契約を結びます。身体が不自由な自分とは違い、自身の身体を丸ごと依頼主に貸し出すような仕事をしている朔也を羨ましいと言っているが彼の本当の心は――?イフィーとの出会いは朔也にどのような影響を与えていくのでしょうか。
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「人は心の中に、色々な面を隠し持っています。違いますか?」 妻夫木聡が演じるVFの開発者野崎将人は、AI技術を駆使したビジネスの成功者で、朔也の母・秋子をVFとして蘇らせる。はじめは、亡くなった人をAIで蘇らせること、そして「本物以上のお母さまを作れます」という野崎の言葉に不安を抱く朔也でしたが、野崎が生み出したVF・中尾(演���綾野剛)が語る“VFの心”についての話を聞き、覚悟を決めます。しかし、VFの母から自分の知らない面が見え始め朔也は混乱。野崎のセリフに込められた人の本心とは――。
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「大切な話があるの。帰ったらいい?」 田中裕子演じる朔也の母石川秋子。息子に何も告げずに自分で死を選択できる制度“自由死”の認可を受けていました。そして、過去に朔也にも言っていない重大な秘密を抱えています。生前の情報を取り込んだVFとして蘇り、朔也と他愛もない日常を取り戻していきますが、徐々に隠された一面が明らかに…。秋子が朔也に伝えられなかった「大切な話」を朔也は聞くことができるのでしょうか――?
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今年のカンヌ国際映画祭で注目を集めた『ぼくのお日さま』(公開中)や、SNS上で演じる役柄 #津野くん がトレンド入りし人気を高めたドラマ「海のはじまり」など、話題の映画やドラマへの出演が続く池松壮亮さんは、本作で演じる朔也について
「原作を読���で、自分がまだ言葉にできない、または実感のない不安が全て描かれていて『これは自分の話かもしれない』と思いました。撮影中、未来の朔也に対して"距離”を感じることはありませんでした。朔也の不安や恐れを痛いほど理解できましたし、今作において正しい感情、朔也として、場面ごとの最もシンプルな感情に到達できることを目指していました。」と、自身と演じる【朔也との重なる心情】の部分を語っています。
テクノロジーが著しく進化する現代を生きる誰しもが“自分事”になり得る物語。池松演じる朔也が目にするその物語の行方は、あなた自身の近い将来、もしくは今かもしれません。
時代に翻弄され彷徨う人間の【心】と【本質】を描いた革新的ヒューマンミステリー『本心』を是非劇場で。
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runpenparis · 3 months ago
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るんぺんパリ【RunPenParis】
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自己紹介 2024年11月4日追記 6116文字】 三重県伊賀市(旧名:上野市)出身 伊賀市(旧名:上野市)に 1976��(3歳)から 1996年(23歳)6月まで住んでいた 1976年以前の記憶と出生は不明 津市にある施設にいたと聞いた覚えがある 三重県亀山市に二つか三つ年上のお兄さんいるらしいが あった事は一度もない 30代の頃に一度だけ電話で話をした 父方に引き取られたお兄さんに 母親の事を聞いた 母親は別の人と再婚し離婚して 娘さんと一緒に暮らしているらしい 父親は再婚して自分と同じぐらい娘さんがいるらしい お兄さんはおじいさんの事を尊敬していて 中国語を勉強してるらしい あとは色々と聞いたけど 覚えているのはそれぐらいの内容で もう二度と話す事はないだろうと その時に思ったけど お兄さんの顔がどんな顔なのかは 見てみたい気持ちは少しある
伊賀市でそこそこ有名なのが 伊賀流忍者で忍者屋敷は今も昔も変わらない内容で 営業している それは去年に末っ子を連れていったから確認済 外観はただの古い家だけど 中に入ると意外と見応えはある 観光施設って感じ 伊賀牛は金谷のすき焼きが有名で 森辻が新しい様相なってから焼肉を食べた 個人的には伊藤の牛丼が好きだ 油が多い感じのお肉だから 100gも食べれば満足感がある 上野天神祭の鬼行列も有名かな ひょろつき鬼が子供の頃は本気で怖かった 銀座通りが歩行者天国になり 的屋がならぶ 高校生の頃はリング焼きが100円ぐらいで 何個も買って食べた 今年は10月18・19・20(金土日) 19(土)は久しぶりに一人で一日中お祭りを楽しむ予定だったけど 昼前から雨が降ってきて鬼行列は中止 午前中は親戚を3件回って、おみやげを渡した 午後に実家によって車を駐車して 歩いて上野天神祭へと向かった いつも泊まる「伊賀上野シティホテル」は1泊10000円以上も高い 16800円だった。この日は駐車場も使えなかった 夜の19時から同級生のお店「クワ��ロNo.4」に初めていった 30年ぶりにちゃんと会ったガキさんは すぐに気がついてくれた 居心地がよかったので閉店の1時までカクテルを8杯ぐらい呑んだかな 意外と安くて8200円だった 次の20(日)は上野天神祭に参加している同級生のオデに会って 鬼行列の準備風景を写真に撮って 上野天神さんの近く紅梅屋でおみやげを結構買って 桔梗屋で上生菓子とお茶を飲んで 静岡へ帰った 松尾芭蕉は俳句で有名で伊賀出身で 小学生の頃はがっつりと俳句を作らされる 俳句はいやいや作らされたので 俳句番組は見ない 俳聖殿の中には過去の優秀な俳句が収められていたかな 普段はこれといって何もないけど 俳聖殿のたたずまいは何か「The Haiku」という感じ 上野城のお堀の高さ日本2位? 一時期は日本1位説もあった 中学生の頃は上野城で体育の授業があったり クロスカントリーレースで走らされたり 高校生のデートも上野城が定番だったのか それらしき男女がイチャついていた 夜のライトアップは不気味なお城に見えた 一応、桜の名所なのかな 高校生の頃に一つ年下の子とつきあっていた頃は よく上野城をさんぽした 帰りはその子の家の近くまで送っていった この子はとても純粋な子で 自分にはもったいない子だった 半年もつきあっていないが 今でも純粋で幸せになっているかなと思い出す事もある もう向こうは忘れているだろうけど 伊賀の街には銀座通りとか丸の内とか 東京で聞くような名称が多く使われている 地元のうわさでは東京が伊賀の真似をして 街を作ったとの話がよく出てくるから 誰か本気でテレビとかで調べてほしい気もする いまだに東京が伊賀のマネをした説を 親戚がまじめな顔でいいだす時があるから 本当に真実が知りたいけど 自分が調べるほどは興味がない 2004年(平成16年)11月1日に 伊賀市に変わってから 上野市駅が忍者市駅になり 近鉄の電車だったのが伊賀鉄道になり 電車がコスプレになった 駅前には銀河鉄道999のメーテルと哲郎の銅像があり 産業会館がハイトピア伊賀になった 産業会館だった時にマルキンのパン屋が近くにあった そこのシナモンパンが子供の頃から大好きで 今はもう手に入らない もう一度、あのシナモンパンが食べてみたい あと小さなパチンコ店「マルト」があった 「フルーツパンチ」という機種で勝った覚えがある あと「麻雀物語」もあったかな 「海物語」という機種が記憶の最終機かな 上野で住んでいた時期に一日で20万近く負けて それからパチンコは完全に辞めた じつはその後もたまにしたが 本当に気晴らし程度で その内にきっぱりとやめた スロットが主流になったら なおさら興味すらなくなった 新天地もなんかおしゃれなサビれかたで 「新天地Otonari」となった 街は高校生の頃の面影は薄くなったけど 何となく残っている上野市街は今でも魅力的だ 新天地には映画館もあった気がする 当時は賑やかな商店街だった 当時からあった「喫茶店フランセ」は今もある 大きな化粧品店は更地になっていた ���校の時の知り合いが「クワトロNo.4」という バーを経営しているが、まだ入った事はない いつか行ってみたい気持ちはある ただダーツバーらしく 常連っぽい人たちのたまり場っぽいイメージで 気楽入れなさそうな雰囲気はある 一度だけ朝方にお店の扉までいったけど バーの扉って感じで雰囲気はあった 最近は実家で一人暮らしのおかんの様子を見に よく帰省するようになったけど 若い頃は年一回も帰省しなかった 最近の伊賀でよく立ち寄るのが 「菓匠 桔梗屋織居」と 「HANAMORI COFFEE STAND」と 「岡森書店白鳳店」で 岡森書店は、Kマーホの名で出版した 「トイレの閃き」が背表紙の色が抜けた状態で 25年以上も本棚に置いてくれている これを見ると初心に戻れて まだまた創作していこうとがんばれる この岡森書店の店長さんは従姉の同級生で 小学校の先輩の同級生でもあり この店長の妹さんは自分と同年代で それにしても伊賀は狭いなと感じる
市部という地区だったと思う 近くに市部駅という無人駅がありその近くの 依那古第一保育所に5歳から6歳の2年間通った おかんは自分の送り向かいのために 自転車を乗る練習して そのおかんが運転する自転車の後ろに乗って 途中の田んぼに二人で落ちて 泥だらけになった おかんは去年の年末まで 81歳でまだ自転車に乗って 小田町の坂を下っていたらしい いまは親戚から危ないからと 召し上げられた 小学校6年卒業までは上野市依那具にある 市営の城ケ丘住宅で過ごした この市営住宅はもう40年以上も その雰囲気を変えずに今でも残っている ここは伊賀市の文化遺産にしていいほどの時間が止まった場所だ いまだに汲み取り式の便所の換気の煙突が立ち並んでいる このカオスな感じは小学生の頃の不便な生活を思い出させる あの生活で暮らしたから今があるのは確かだ 小学校の通学路にある 垂園森でよく遊んだ 現在も存在しているが オバケが出そうな森 この森は当時通っていた依那古小学校の校歌の歌詞にも出て来る イメージ的には幽霊が出そうな森だけど 何か不思議な生き物が住んで居そうな森に見えた きつねも出そうだし おばけも幽霊も心霊も もしかするとタイムスリップして 小学生の頃に戻れそうな気もする森だと変な懐かしさを感じる 近くには無人駅の市部駅とにらめっこしている森 中学校から市街の上野城の 城下町で過ごした 当時はカオスな市営城ケ丘住宅から出れる事が本当にうれしかった 小学校までの友達とも飽きてしまっていたので寂しくはなかった 当時から色々な物にすぐに飽きては新しい物が好きだったので そっちのワクワク感で本当にうれしかった そして築20年以上の中古の一軒家で2階建て 自分の部屋がありトイレは汲み取り式だけど洋式で あこがれの上野の街で住める事もあって本当にうれしかった
そして近くの崇廣中学校に通う事に 中学校の3年間は 転校生という立場と 中一で足の骨折 バスケ部の試合で名張の体育館で遊んでいて 二階から飛び降りたら右足のかかとがにヒビが入った その夏にはバスケ部をクビになり陶芸部に入った 中二で腕の骨折 どちらも遊んでいての骨折2回 中三の高校受験で いい想い出は無い
高校2年生で 小学校の時にサッカーで出会った 旧友とバンドを組んだ RCサクセションのコピーで 「雨上がりの夜空に」「トランジスタラジオ」 「ベイベー逃げるんだ」「サマーツアー」 「サントワマミー」「いけないルージュマジック」 「いいことばかりはありゃしない」 「どかどかうるさいR&Rバンド」 旧友が作ったオリジナル曲「ガレージの上のR&Rバンド」 一番のモテ期だった気がする ただバンドをやっている自分を見て 好意を寄せられても違うなと思った バンドをしていない時はただのバイトに明け暮れた 高校生だったから バンドマン目線のそういう女子には興味がなかったから 冷たい感じだったかも 本当にこの時期がこれまでで一番楽しかった。 高校生の頃はたくさん恋をしたが 自分が不器用だったので自分が好きだった人からは つきあえてもすぐにフラれた 人を好きになることに迷走し始めて 最終的に好きになる事はやめて なんとなくという感情で奥手に過ごしていった そのせいか、他校の女子からゲイだとウワサされる事もあった なぜそうなるか不思議だったけど 当時は楽しければなんでもよかった
1993年 一人暮らしを始める やっと自由になった気がした 2年間ぐらいは金が無くて 通帳の残高は毎月マイナス50万 カツカツ生活 家賃と車のローンがきつかった 1996年7月から 2003年7月の 7年間は茨城県と千葉県の県境 利根川の近くに住んでいた この界隈を走るタクシー運転手の 態度は本当にムカつくから こっちも態度悪く乗ると 気分の悪さはお互いさまになる 関東平野は景色が無く ここでの生活は落ち着かなかった 食文化も人も気候も水も 肌に合わなかった 特にうどんの汁が濃いだけのシンプルな味は げんなりさせてもらった ただ寺原駅近くの「ふる川」はよく通った とくにカレーめちゃくちゃ美味かった この「ふる川」は今もやっている 当時はお店の小学生の女の子が手伝っていた 夫婦だけでやっていて 週3回ぐらい夕飯でお世話になった 「さば定食」もよく食べた気がする
1997年から パソコンをミド��電化で38万で購入して 作詞やネットに興味を持つ まどみちお詩集を読みだす 作詞に近い詩を書き始める 「Kマーホ」という名で 詩を書き始める 目標を300篇と決めて 詩を思いついたら メモをつけるようになる 週末は家に引きこもり 一日中、音楽を聴きながら パソコンがあるのに まだワープロで詩を清書していた
1998年から2002年まで 「Kマーホ」の名で 詩に団体に参加したり 詩の賞に応募したり 詩集を自費出版したり この当時参加していた詩の団体には もうドロドロとした 詩を書く人や あまりにも読み解けない詩や 暴力的な人や いい人もいたけど 自分とは全然目指している方向が 違うので2年目ぐらいで辞めた それからは詩の団体に興味は無くなった それから 自費出版した詩集を 全国の小中学校や 全国の図書館へ寄贈して 活動を休止 理由は2000年に結婚してから 集中して詩を書く時間が無くなってきたから 2002年に2つの詩集を出版して 詩の事は全部段ボール箱へ入れた
2003年から2019年まで 育児に重点を置いて生活をする この時期は友達とも連絡を 切っていたので のちに死亡説や宗教説が出ていたらしい 2003年7月から 現在は静岡県在住 もう20年以上住んでいる
2019年 るんぺんパリ【RunPenParis】の名で 詩を書き始める SNSでの詩の発信を始める るんぺんパリ【RunPenParis】とは フランスはパリの街を ぺんを持って 走るという意味から 【RunPenParis】ができた 1973年8月1日生まれ(もう51歳) しし座 O型 右利き 詩・詩集・ことばをデザイン アート・写真・小説・ペン画 松尾芭蕉の生家がある伊賀市で 十代までを過ごし 俳句が幼少期から 身近に存在していた 二十代から詩を書き始めて 「Kマーホ」名で活動(1999-2002) 詩集6冊を出版して活動休止
その後 松尾芭蕉の俳句のような シンプルな言葉遊びを 詩で出来ないかと考えていた中で 令和元年(2019)に 「るんぺんパリ【RunPenParis】」の名で 活動を再開 SNSに140文字に 言葉をデザインした詩 「140文字詩」を 毎日投稿する活動を始める 2023年9月に140文字詩が 1200作品に到達した事で 「140文字詩」を全国へ さらに世界へと 俳句のように広く知られる 存在になって欲しい ◆るんぺんパリ【RunPenParis】作品一覧 【2023年】Amazonで販売 2023/12/27第2フォト集「ほちきす それでは あかんで」 2023/12/2 第1フォト集「とめても ええか ほちきすで」 2023/11/23 第16詩集「もあいの ねごとを よみとる」 2023/9/16 第15詩集「さんもじ もしくは よんもじ」 2023/9/9 第14詩集「のこりの あぶらは わるもの」 2023/9/2 第13詩集「あそびも しごとも たいふう」 2023/8/26 第12詩集「かいてきな しつどに おぼれる」 【2022年】Amazonで販売 2022/12/6 第11詩集「やくそくは よなかの おひるに」 2022/11/3 第10詩集「みさんがの ともだちの たまんご」 2022/10/7 第9詩集「くうきと さんその かつさんど」 2022/9/3 第8詩集「さついを こめた いもけんぴ」 2022/8/7 アート作品集「やさいに つめる にくえらび」 2022/2/14 アート作品集「よなかに ひかる かみぶくろ」 2022/1/1 第7詩集「みかんの むくちな きもち」 【2021年】Amazonで販売 2021/9/8 第6詩集「そんな ことばは さよなら」 2021/8/3 第5詩集「あさに おくれた なんて」 2021/6/5 第4詩集「すいかの たねの ちょうこく」 2021/5/31 第3詩集「たんぽぽの たまご ひとつで」 【2020年】Amazonで販売 2020/7/27 第2詩集「こよい こよりの そらから」 2020/3/2 詩小説「すきから あいへ おやすみ」 【2019年】Amazonで販売 2019/7/21 第1 詩集「ところで あした あいてる」 ◆Kマーホ 作品一覧(1999-2002) 【2002年】 2002/4/30 第6詩集「眠立体(ねむりったい)」 2002/4/4 第5詩集「コールサック」 【2000年】 2000/7/31 第4詩集「マガサス星人」 2000/1/31 第3詩集「おしりとサドルが あいますか」 【1999年】 1999/8/1 第2詩集「テレビジョン」 1999/5/1 第1詩集「トイレの閃き(ひらめき)」 【受賞】 2001年 詩「眠立体(ねむりったい)」第6回トワイライト文学賞 2000年 詩「永遠の親友」信越郵政局長賞 1999年 詩「トイレの閃き(ひらめき)」第1回万有賞 1998年 作詞「地球のウラハラ」第31回日本作詞大賞新人賞候補ノミネート
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cmk-k · 1 year ago
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2024年始まりました
年末から断続的にお仕事が続いていたので、新装版EDGEの作業がひと段落したらtumblr更新しよう(1���中頃には終わる予定だし…)と思っていたんですが、、、 元旦の震災の影響に始まり、にわかに親族関係の用事も重なって、さらに新装版の作業はギリギリまで加筆に拘ってしまい……気付けば2月でした。 1枚目の写真は正月に撮った写真です(遅)。 ようやく年を越えた気分です。 楽しみにしていた予定を既に2〜3つ飛ばしてしまって凹んでますが(お出かけ予定とか、作家さんとの会合とか…泣)、 個人的に人生のひと区切りの年になりそうなので、色々やりたい事もあるし、元気に貪欲に生きたいな〜と思っています。 本年もどうぞよろしくお願いします。 ・・・ 以下、最近のお仕事関連について。 ↓↓↓
まずは…ついに、劇場版SEED公開されましたね…! ここ半年くらい、新装版の作業でC.E.世界にどっぷり浸かっていたので、万全の準備体制で劇場版を浴びることが出来まして……無事昇天しました。 あまりの圧倒的なエネルギーに、鑑賞後、脳内で沸き巡る感想に数日翻弄されておりましたが、自分の中で少しずつ消化していっています。 いちファンとして、あの世界の続きを観せて頂けた事に本当に感謝です。 ・・・ 劇場版の流れで、昨年末から刊行して頂いている新装版THE EDGEにも興味を持って下さる方や、懐かしく思い出して頂いている方もいらして、とてもありがたい限りです。 当時の事など振り返って色々書きたいこともあるのですが、ひとまず最終巻の5巻が2/26発売ですので、その後にでもまた記せたらいいなと思ってます。 ・・・ そして新装版発売のタイミングで、ガンダムエースさんにも久々に色々と載せて頂いてますが、 こちらは原稿の再掲載がメインなので、あまり大っぴらに告知はしていません。 単純に、昔の原稿が雑誌サイズで載るのは、描き手としては結構恥ずかしいというのもあるんですが…、やっぱり再掲載だと読者さん的にはあまり嬉しくもないだろうなと。 実際、12月売り号は再掲載や流用ばかりでガッカリ…というメッセージを頂いてしまいまして、まあ、そうですよね…ごめんね…(私としても、すごく久しぶりのガンダムエースさん掲載で、しかも初めての表紙だったので、描き下ろしたかったなぁ…)と、ちょっと申し訳ない気持ちになりつつ、少しだけ事情説明させて下さい。 SNSなどでたまに漫画業界の話題を見ている方はご存知かもしれませんが、���ミックスの加筆や描き下ろしって基本、無償なんです。 何か新しく描いても、稿料は出ません。新装版でも関係ありません。 (この慣習に反対する目的で、コミックスには一切描き下ろさない方針をとる漫画家さんもいます) 私もそれ自体については色々思うことはあり、編集さんと話すこともあります。 ですが今回は、劇場版SEEDが公開されるという、18年越しのお祝いの機会です。 デザイン変え+キャラ単体表紙など、「省エネ労力で出す」選択肢もありましたが、やっぱり、ちゃんと描きたくてですね………。 カバーはMS&キャラで5巻分+描き下ろし漫画もそれぞれページ数限界まで入れることにしました。 そこで担当さんが、 じゃあ、ガンダムエースの方にできるだけ色々載せましょうと。 そうすれば「雑誌掲載料」が少しはお支払いできますから、と。 取り計らってくれたんです。 その流れで付録のイラスト集も企画して下さいました。 ですので、 こんなブログ記事の文章まで読んで下さっている方で、 ガンダムエースも購入して下さったという方は、色々と再掲載原稿が載っていてちょっぴりガッカリされているかもしれませんが、そのような事情もあるんだな…と、少しだけご理解頂けましたら嬉しいです。 そんな感じですので、もし、新装版のカバー表紙や描き下ろし分など、気に入って&楽しんで下さいましたら、ぜひ話題にして頂いたり反応を頂けますと…とても嬉しいです…!!報われます。 ガンダムエースの方は、昔の雑誌は買ってなかったとか、買ってたけど記憶の彼方…という方が、雑誌サイズでの原稿掲載を少しでも楽しんでくれれば幸いです(昔の原稿は恥ずかしいですが!) ・・・
そして最後に。 なかなか御礼を言うタイミングが取れなかったのですが、 昨年〜年始にかけて、それぞれの編集部に、作品の感想のお手紙や年賀状を送って下さった方、本当にありがとうございました。 昨年は手術療養からの復帰に色々と不安もあり、掲載も少なかったので、届くお手紙にとても大きな活力を頂いておりました。 めちゃ遅いペースですが、お返事をたまにお送りしたりすることもありますので、期待せず気長にお待ち頂けると嬉しいです。 それよりまずは勿論お仕事の方で、少しでもお返ししていけるようにまた頑張っていきます…! ・・・ 2月中にはジエッジ新装版の最終巻が出ます。 もちろん加筆ありますので、手に取って頂けたら嬉しいです。 セインティアmemoriesの続きを期待して下さっている方、もう少々お待ち下さいね。 水面下ではずっと、聖域とC.E.を行ったり来たりしていたんですが、もう少ししたら落ち着く予定…です!
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moderndays · 3 months ago
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日々のあれこれ、ヒトコト。
インスタやX、ブログを持ってません
気軽にヒトコト残せる「場所」をTumblrに作ってみました
新しいPCに合わせ、新年はマウスも新調した。見事なスケルトンで、マウスの中ってこんななのか、ふむふむ。ものすごく使いやすくて安価。BluetoothでPCにもタブレットにもスマホにもつなげました。USBで充電式。乾電池要らずだから軽い。イマドキだ、便利になったと感慨深い。
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年末にPCを新調。Winndows7→10にアップグレードし、メモリも4GBしかないボロボロPCから、16GBのWindows11へ。余計なソフトが入っていないDELL製です。ChromeもAcrobatReaderも入ってなかったけどwしかしながら、それはそれは快適で、少しはTumblerの更新頻度が上がるといいなと思う。スマホでもタブレットでもSNSの更新は出来る時代だけど、大事なものはやはりPCで向かいたい。
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あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。年賀状の数こそ少ないが、メール・SNS・LINE等で、続々と新年のご挨拶が来る昨今。改めて人との縁を築き上げた2024年だったと思う。昨年末から、悪夢ではないが、面倒くさいなと思うような夢ばかり見て目が覚める。今年は頭であれこれ考えず、スッキリとした1年にしたい。今年も新たに公私ともに忙しくなるため、先日変えたばかりだが、また手帳のフォーマットを変更。凝りない。しかし、ライフスタイルが変わると、おのずと手帳の使い方も変わる。シンプルな生活スタイルならマンスリーがいいし、年間通してバタバタするならガンチャートがなければ見通しが立たないだろう。1日が忙しないなら、バーチカルとか。それにしても近年ライフログというものが流行っており、改めてアナログ回帰になっているらしいです。
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職場が外資系なため、クリスマス休暇なる公休がある。小さなお子さんがいるお宅ならいいが、大人は特別感はない。ということで、近代建築活動として公開間もない荻外荘見学。近衛文麿が自決した書斎は当時のまま。応接間の螺鈿細工のテーブルが見事だった。撮影は可能だが、食堂で流れる動画が映らないことが条件。
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日付を入れると更新頻度が気になるので、無しにしてみました。��っきり。ここはそんな所。
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怒号の忙しさの11月が過ぎ去り、12月も半ばとなった。年齢を重ねると時が経つのが早く感じる。どこかで聞いて以来いろんな方にお伝えしているのだが、時の感じ方は年齢を時速に当てはめたもの。つまり20歳なら時速20kmと感じ、70歳なら時速70kmと感じる。だから早いのだと。昨日、近代建築探訪仲間と納会をした。出会いはそれぞれ20年ちょっと前。昼は街歩きを楽しみ、夜は飲み会(できれば近代建築が飲食店になったもの)を年に数回楽しんでいた。メンバーは其々の人生に合わせて入れ替わりつつ、現在は5名ほどで定着。家族や仕事等の近況報告もするが、出会った時に生まれていなかった子供が成人したり、ご自身が定年や還暦を迎えたり、自分だって最年少だがいい歳になり、体調や病気も話題になる。酒量も減った。しかしながら、皆概ね人生を楽しみ奮闘し、たまに個別に建物見学をしたりして変わりなく頑張っている。大人になってからの友人の付き合いは楽しい。学生時代のように毎日つるまず、頻繁にも会うわけではないが、「楽しいことを、時間が合えばご一緒に」。大人のお付き合いが心地よいのだ。
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まだ年も明けていないのに、手帳を変えた。使い方で思う所があり、当初使用する予定だった来年のマンスリーをいったんよけて、わざわざ新調する忙しなさだ。手帳遍歴は長く、フォーマットをExcelで手作りして使うなど凝ったこともあったが、今はようやく自分の理想が見えてきた。仕事やライフスタイルによって必要な要素は変わると思う。昔はバーチカルタイプへガチガチに予定とTODOを組み込んでいた。しかしやがて、予定はマンスリーで管理できるだけという、ゆとりある生活を目指すようになる。実は今もそうしたいと思っている。昨今手帳好きが増えたためか、市場にたくさんの手帳タイプが展開し、今の私の最新手帳は「B6でマンスリー+上1/3がウィークリーで下2/3は方眼メモ」という、新しいタイプ。つまりメモやTODOが多い人が週間ダイアリーと同じページに書き込める。メモ部分が年の途中で足りなくなるのが怖くて、マンスリーとノートで同サイズ2冊使いをしていたが、本当は「コレひとつ」で管理したいタイプ。一元化が好きなのだ。新手帳には、予定とTODO・メモに加えて、新たにクレジットカード使用記録を書き込むようになり、ますます一元化が進んでいる。
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京都に行ってきた。毎年恒例、池坊旧七夕会に合わせた上洛である。行き帰りの車中では、いけばなの歴史���「1日5分いけばなの歴史」を読了。我ながら勉強熱心な1日なった。そこで初めて気がついたのだが、旧七夕「会」は、「かい」ではなく「え」と読むのだという。手習い初めて8年、どなたも指摘してくださらなかった…普段は京都花展とか言うからだろうか?それはされておき、1年ぶりの京都で気がついたことがもうひとつ。キャッシュレス化がかなり進んでいるが、電子マネー支払いはそれほどでもない。ちょっとした個人商店でも、PAYPAY系ならある。外国人観光客仕様だろうか。電子マネーユーザーな私は、少々戸惑った(現金は用意済み)。来年のよい教訓になった。日頃のお買物も、PAYPAYをもう少し利用してみようか。
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職場の上司のお嬢様とお会いする機会があった。小学校高学年ながら「母がいつもお世話になって…」とご挨拶いただき、礼儀正しさに感激。思わず「こちらこそいつもとてもお母様にはお世話になっておりまして…」と深々頭を下げてしまった。ちょっと引かれた気がする。気のせい?
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1日が24時間では足りない。仕事やいけばなだけではない。何かとやること・考えることに追われてる。そんな私の相棒はスマホと手帳の2本立て。スマホはスケジュールとリマインダー。手帳はスケジュールとTODOリスト。似たような事をダブってやっているようだが、求める要素や使用場面に各々適材適所があり、どちらも欠かせない。スケジュールはどちらも同期を取っているが、スマホを見ながら先々の予定を検討するのと、手帳を見ながらでは、考えの広がりが全く違う。そういうことなのだ。最近、マンスリーのRollbahn手帳をもう1冊追加した。クレジットカードの使用歴や、いけばなでかかる費用(花も高くなりました。。)など、特定の支出を記録するためだ。実は資産管理もスマホでやっている。これも手放せないくらい愛用しているのだが、やはり見えない支出は手帳で見える化すると、把握度がアガるのだ。そういうことなのだ!
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有給休暇を取って、年に一度の健康診断に行ってきた。日頃の(間近の?)努力が実り、ベストスコアではないが体重は昨年と変わらず、視力に至ってはコンタクトレンズ使用で1.0→1.5を叩き出した。あとは血液検査でコレステロール値の結果を残すのみ…。いつも同じ検診センターで受診するのだが、検診前の連絡がきめ細かすぎて、妙なプレッシャーがかかる。やれ問診票を先に入力してだの、検診内容を再度ご確認などの一般的なご連絡から、受診一週間前・3日前・前日とカウトダウンのようにリマインドメールをいただく。恒例行事が終わった安堵と、絶対受診に来てよね的な圧からの解放で、本日はもう店じまいな気分。
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秋の三連休が終わろうとしている。あえて遠出をせず日々行ったおうち作業は、冬服のクリーニングや新調などの冬支度と、今までのお稽古記録写真(データ)をまとめる作業。2023年10月までお世話になった師匠の元では、整理しても190枚もの写真データがあった。Webフォトアルバムにまとめ、DVD-R等に保管する為の前作業だ。今のお教室では簡易スタジオセットがあるが、前のお教室では暗めの蛍光灯に、白色だが経年劣化が残る壁がバック。壁紙がボコボコとした質感で、最新のスマホカメラでさえも明るく綺麗に撮影が難しく、大半は暗めの写真。加工で明るくビビットにするのは簡単だが、やり過ぎると光が飛んで不自然になるのは、自撮りのやり過ぎ加工と同じだ。Tumblrではお稽古作品を随時アップしているが、明るさ調整の加工だけはしていると予め言っておきます(やってません的な嘘はつかない)。
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月の初めだから?やたらとあちこちからDM含めてメールが届く(NOT仕事)。今の自分に不要なものは秒で削除だが、11月が誕生日月の私には、お誕生日特典のメールも混ざっているので要注意。いつになく、やることタスクも買物リストも豊作な1日。最後に、某建物見学会の予約が取れた。大歓喜。
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いつもより混雑した車内で、年配男性が同年代くらいの男性に、混んでるのにモタモタするなとイチャモンつけていた。言われた男性は年の功か、聞き流しつつも、わかりました静かにしましょうと一言。その言葉には激さなかったが、危うく乗り損ねそう?になった年配男性は文句止まらず。二駅到着後、今日は急いでるからこれくらいにする、次から気をつけなさいと命令口調で降車。今日のところは許してやるよってとこだろうか。幸いにも自分の身に降りかかったことはないが、こういう時は目的地でなくとも、さっさと降りて離れるが勝ちだと思う。ちなみに、第三者側にいても不快な時は、関係なくても降りて離れる。今朝は出社優先で、つい同じ空間を共にしてしまった。お陰様で1日気分が悪い。
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只今、東京宝塚劇場では星組公演・政界コメディ『記憶にございません!』-トップ・シークレット-が公演中だ。憲政史上最低の支持率を叩き出し、不倫汚職暴言全部やってる総理大臣が、アクシデントで記憶を無くし、ドタバタの挙句に政治家としての信頼と家族愛を取り戻し立て直すストーリーだ。その中で「総理は国民に雇われている」という名台詞がある。この総理は記憶を無くし、その後記憶が戻っても信頼回復に誠心誠意努め、生まれ変わろうとしている。日本の政治家は、失った記憶は失った設定のまま。今からチケットは取れないが、12/1に千秋楽LIVE配信がある。今回、議席を獲得した方もそうでない方も、是非ご覧いただきたい。
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あんなに暑かったが、きちんと秋がきた。いけばなをしていると、季節を先取りする。特に桜。旬の花は、遅れて触れるより先取りが粋なのだ。今なら一足早めの紅葉。ピンクのかわいい実がつくヒペリカムが大きく育ったものを、今季は枝ものとして花材に使用。葉が紅葉している。
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少し前、某推しが(not宝塚)、「俺、アホなやつ嫌いなんですよ」と言っていた。天然とかそんなの関係ないから、ちゃんとしようよ!と。激しく同意してしまった。きっちりしてないことが嫌い。自分も周りも仕事も、できればそうでありたい。生真面目・ストイックの裏返しかもしれない。効率最優先主義ではないのだが、要はやることに意味を持たせたいのだ。「何となくやってみた」が一番嫌い。
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「ユナイテッド カラーズ オブ ベネトン(UNITED COLORS OF BENETTON.)」が10月23日、日本市場から撤退すると公式インスタグラムで発表したそうだ。ベネトンが流行ったとき、私は20代。好��だったな〜バッグや小物、服も持っていたかな。思い返すとブランド物を一番よく使っていたのは20代。一周回ってノーブランドでもコスパがよく、堅実でニーズに合うものを選ぶようになった。
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1週間ほど前、数年前から悩んでいた手帳カバーを購入した。お気に入りの文具セレクトショップTouch&Flowの革カバー。10年は全然もちますよ〜とのことで、覚悟を決めてもとめてみたが、一昨日の晩に留め具のボタンが取れた。接着剤で事なきを得ているが、こうやって味が出てくるんだろうな…(前向き)。
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ミミズが足元に大量にいる夢を見て飛び起きた。夢占いによると、疲労や体調不良などを示唆しているだという。そうか、私は疲れているのか…
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foucault · 1 year ago
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今日は店は休みです。久しぶりに奈良に来ています。本籍を奈良に置く身としては、故郷へ戻る嬉しさです。仕事があるとはいえ、合間に興福寺で八部衆の御顔でも拝めるとなおなお嬉しいところですが。
そういえば、本日2023年12月12日はちょうど小津生誕120年、没後60年。小津で奈良、といえば『麦秋』の最後、ふっと差し込まれる麦畑の中をゆく嫁入り風景のシーンですが、あれ、どこなんでしょうか。後ろに耳成山のような山が見えるので、橿原のどこかかな。
ついでの話。このごろ書きものの仕事が多くて、頼まれもの以外の文章なぞつらつら書いている場合ではないのですが、小津についてふと気になってしまったことがあり、書いておかないと本来の仕事ができなさそうなので、合間合間に記していた雑文をここに置いておきます。長いですし、結論はないし、ほとんどの方が興味のない内容かと思いますが…。
ちょっとした調べものがあって雑誌『みすず』2001年12月号を読んでいたら、木村伊兵衛が小津安二郎を撮影した写真と文章「上海で小津安二郎氏をうつす」が掲載されていた。時期は1938年1月なので第二次上海事変の翌年。小津は1937年9月に出征して中国に渡り、事変の直後12月から上海にいたようで、その時に偶然木村と出会っている(その後小津は南京・漢口と転戦する)。写っている小津が携えているカメラは、木村の稿に続いて掲載されている田中眞澄氏の文章「ライカという”近代”」によればライカA型。小津関係の文章を読むと、小津は「ご愛用のライカ」をいつも手にしていたと多くの人が書いているので(同文によると山中貞雄はコンタックスだったらしい)さもありなんと思うのだけれど、田中氏の文章を読んでいくなかで、ちょっとしたことが気になるようになった。
小津は1942年から軍の依頼で記録映画撮影のためにシンガポールに滞在し、ただまあ映画製作などできる状況でもないため、自国内では上映が���止されていたアメリカ映画をひたすら見続け、敗戦を当地で迎えている。そしてそのまま捕虜となり、抑留生活を終え1946年1月に帰国する際に小津はライカを手放しており、「彼が再びライカを所有するのは一九五四年のことである」とある。買った件の典拠はどこにあるんだっけ、と思いつつ近所の図書館に置いてある『全日記 小津安二郎』を紐解くと、なるほど1954年3月22日の項に、
> 「出京 サンにてライカを買ふ 135.000 アメリカン フアマシー 明治屋(燻製)によつて帰る」
とある。と、ここで急に話は脇道に逸れるのだが、ちなみに隣のページ、同年4月8日の項には、
> 「駒場の東大教養学部 民芸館 青山の花屋 それから 車にて銀座に出て なごやかに夕餐を喫す 野田夫妻と江原氏同道」
と日本民藝館に行った旨の記載がある。他にも、1951年11月10日に
> 「宿酔 森昌子さん達と 陶哉 たくみに寄って大船に帰る」
や、1955年5月17日には
> 「駅にて野田氏と待合せ 上野松坂屋の民芸展にゆく」
とも。ほか、パッと目を通しただけでも1952年4月8日、同年6月15日、1953年2月9日、1961年2月2日に銀座たくみに行った記載があるし、志賀直哉や里見弴についての言及は多すぎるので略す。こういうものを読むとつくづく民藝誌において特集「小津と工藝」を組みたいなと思う。白樺派との関係や小津の映画における「巧藝品考撰」について取り上げる特集。『秋日和』で原節子の後ろにかかっている暖簾は芹沢銈介だろうか、『秋刀魚の味』で中村伸郎の後ろに置かれたやちむん?はたくみで求めたものなのだろうか、やちむんであれば誰の仕事だろうか。佐田啓二と吉田輝雄がとんかつ屋で食事をするシーンには確かに芹沢カレンダーが掛かってるな、などといつも気になるので。松竹から写真借りるといくらぐらいかかるかな…。
それはさておき。この時購入したライカが、前掲日記の1961年3月23日の項に「夕方会社帰りの秀行くる ライカ借(貸)してやる」とある通り、のちに小津の甥が譲り受け、現在は茅野駅前「小津安二郎・野田高梧コーナー」に寄贈展示されているライカIIIfとズマリット5cmF1.5なのだろう。と、ここまで長々と記して、まだ前提です。
そこでふと思い出したのが厚田雄春・蓮實重彦著『小津安二郎物語』(筑摩書房・リュミエール叢書)の冒頭。ここには小津が『東京物語』と『��春』のロケハンをしている写真が2葉掲載されているのだけれど、どちらにおいても小津はバルナック型のカメラを携え、光学ファインダーをのぞいたりしている。沈胴レンズにフードをつけている様子から、あれはライカなんだろう、レンズは厚田雄春が『父ありき』において75mmを一場面で使った以外はすべて50mmだったと言っているぐらいだから同径のエルマーやズマール、ズミタールとかかな、などとうっかり思い過ごしていた。むろん『早春』については、製作年やロケハンの写真に記載されている「1955.7.20」という日付からするとまったく問題はない。しかし『東京物語』は1953年製作公開だから「再びライカを所有した」1954年では間に合わない。そう気がついて見直すと、小津が構えているカメラは、ライカIII型に似ているがファインダーの位置が違うし、そもそも1954年にあわせて手に入れたと思しきズマリットは沈胴レンズではない。
妙なことに気がついてしまったと思いつつも、ひとまずは日記記載の「サン」を手始めに調べてみようとしたが、何の会社かわからない。名取洋之助が企画編集した「週刊サンニュース」と関係はあるのだろうか。対外宣伝誌の専門家であり、銀座に店を構える森岡さんに聞いたらわかるだろうか。いずれにせよ1949年以降の小津の日記に「サン」が登場するのは、「1951年1月17日・3月21日・4月24日・11月10日、1952年4月17日、1953年6月16日、1954年3月22日(前述のライカを買った日)・10月14日、1955年4月6日、1960年7月14日、1961年2月2日(”たくみ サンに寄って三越”)」。1953年6月16日は、ちょうど『東京物語』ロケの最中だったことが気に掛かる。ほか、関係しそうな記載としては1953年3月30日に「アサヒカメラ座談会」、1954年11月5日の「シュミットに寄ってから」(当時ライカの総代理店だったシュミット商会か)、1955年2月15日「昼寝をしてゐると小尾がくる ニッコールの85m(ママ)のレンズを頼む 四万五千円を預ける」、同年3月11日「小尾に会ひ105mmのレンズを見る」、同年6月27日「小尾から電話ライカピッド(ママ���入手したライカがIIIfであれば、ライカビット SYOOMか)を頼む」ぐらいか。この「小尾」という人は何者なんだろう。
次に小津が構えているカメラの形状から何かわからないかと思い、あらためて細部を見れば、写っているカメラは戦後キヤノンが作っていたコピーライカであることがわかる。決め手はファインダーの位置。同時期の国産コピーライカであるニッカやレオタックスはライカそっくりに作っているのだが、キヤノンは誠実と言っていいのか「打倒ライカとコンタックス」の心意気の現れか、多少スタイルが違う。なお、小津が用いている機種については、この時期のレンジファインダー機は輸出用に作っていたせいか勢いがあり、すぐ新型が出るうえに、外観がどれも似すぎていて小さな写真では区別がつかない。時期を考えれば、1946年発売のSIIから1952年のIVSbの間のいずれかで、III型以降のように見受けられる。レンズ���やはり形状から判断するとズマールに似ているので、1949年発売開始のキヤノン Serenar 50mmF1.9か。そう気づいて改めて調べると、「カメラ毎日」1954年6月号に掲載されている座談会「カラーは天どん 白黒はお茶漬の味」ではカメラの話がもっぱらで、その時に手にしているのはキヤノンである。このキヤノンのカメラとレンズ、そして外付けのファインダー、この時期どういう経緯で小津は使っていたのだろう。いずれにせよ、1953年の『早春』はともかく、なぜ1955年に「ご愛用のライカ」ではなく、キヤノンを用いているのか。
ついでに言うと、小津が鏡の前でカメラを向けて撮っているセルフポートレートに用いているカメラはコンタックス。日記をざっと読んだ限りではわからないけれど、これもいつ手に入れたのだろう。レンズはゾナーの5cmF1.5。明るいレンズがお好みと見える。こちらは姪が譲り受けたとのことで、今は先のライカと同じく茅野駅前にある。
長々と書いてきましたが、つまりはこれらが今回生じた疑問です。小津に詳しい人、どうか教えてください。
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tokyomariegold · 8 months ago
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2024/1/5
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1月5日 年始の落ち込みについて考えて、ここ数年の年末年始に撮影した写真を振り返ってみて、毎年理由は違えどこの時期は生き延びることに必死だった気がした。そして2015年末からの写真があるってことは、もう8年も元気ないお正月を過ごしているの!
出勤してみて、ひどく寒かで身体の冷えがひどくて今年も身体的理由の生き延びる必死さを感じながら仕事をする季節になってしまったことを実感。 とにかく午後は酸素不足な身体に深呼吸をしてなんとかするのでやっとだった。
通勤の電車やバスで、この数日間に無かった、他人との距離が近い時間が長く、なんか人間の匂い(?)を感じた。無香料のファブリーズを薄めたみたいな匂い(みなさんファブリーズをコートにしている?)
ニコンのレビューの応募を受け付けたメールが届いたのでプリントを注文したい。
それと今年の目標の、関西で展示をする、を果たすために散漫に調べていた関西のギャラリー情報をスプレッドシートにまとめて比較していこうと思う。
明日はなるべく早起きして初詣に行けたらいいな。
職場でお仕事先からの年賀状を配布され“お年玉番号を調べるので読み終わったら回収します”とメモがあり、あれ?去年で年賀状のお年玉って終わってしまったのでは?となる。
NHKオンデマンドに登録して年末のお休みから見返し始めた“わたしの一番最悪な友達”を昨日ちょうど全話見終えた。
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soku812 · 1 year ago
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Art and Fashion Photography: A Japanese Renaissance Hayashi Fumihiro   今の日本に、本当の意味でのファッション・フォトグラファーは、僅かな例外を除いて存在しない。広告写真の影響力が強い日本の写真界では、広告、芸能といった商業写真での成功が、ほとんどの写真家の目標であるといっていい。ファッション写真は、広告カメラマンになるためのプレゼンテーションに過ぎない場合が多く、ファッション写真だけを撮り続ける写真家は皆無といっていい。さらに、欧米の文化、セレブレティーに対してコンプレックスの根強い日本のファッション写真界は、海外でこれほどまでに日本文化が注目されているにも関わらず、欧米の有名写真家の表層的な模倣に執着する。そのことは、東京の街に氾濫するファッション企業のビルボードや広告ポス��ーを見れば一目瞭然だ。日本人の白人コンプレックスは根深い。また、最近のファッション誌は、ユニークな才能を持つ新人のファッション・フォトグラファーの作品よりも、素人の芸能人、スタイリスト等の知名度のほうに価値を感じるようである。大多数の日本の雑誌のファッション・ページは、美意識やクオリティーに対する判断力を利益至上主義で失ってしまい、さもしいカタログ的な自己顕示欲の坩堝と化してしまった。   ただ、これは90年代後半、バブル経済崩壊から続いた経済的不況に影響された、日本の“失われた10年間(ジャパニーズ・ロスト・ジェネレーション)”時代の話である。この10年間で、日本人の美意識、倫理観、価値観は、大きく変化、堕落し、虚無主義と拝金主義が世の中全体を覆っていった。そして、壊滅的なモラルの崩壊、無秩序な混沌が極まった今やっと、日本文化は、ルネッサンス的な新しい変革の時代を迎えようとしている。その最も大きな流れは、まず白人コンプレックスからの脱却から始まった。子供たちを熱狂させるマンガ、アニメーション、コンピューター・ゲームなどのオタクカルチャー、健康志向からの日本食や禅、高性能のハイテクノロジー、海外の人々が伝統文化のみならず、日本の現代文化に大きく影響を受ける現状を実際に感じた、欧米(特にヨーロッパ)で教育を受けたクリエイター達の帰国は、その変革の重要なきっかけとなった。彼らは、海外の地において、“オリジナリティーとは何であるか”という事を徹底的に教え込まれる。そのことは、自分は日本人であるという事を強���に再認識させることになる。欧米文化への憧れ、模倣ではなく、欧米文化との違いが創造の源であることに気づくのである。彼らが、影響を与える時代、ポスト・ロストジェネレーションが始まったのである。今考えれば、“失われた10年間”は、DJ的なサンプリング・カルチャーとアメリカ的な大量消費文化に、日本のファッション界が大きな影響を受けた時代であったと言えるのではないか。サンプリング、コラボレーションという心地よい英語のフレーズによって、模倣に何の疑問を持たなくなった日本のファッション界は、オリジナリティーを片隅に追いやり、業界自体を異形で未熟な物質主義に変容させてしまった。   このような、現在の日本のファッション写真界を取り巻く状況を理解した上で、読んでもらいたい。   日本のファッション写真の大きな転機は、やはり90年代であった。そして、この90年代の東京のイメージを決定付け、その後の日本の写真界全体に、最も影響を与えたのがホンマタカシであろう。日本人独自のロリータ趣味を全面に押し出した現実感溢れるポートレイト風のファッション写真は、アートとファッション写真、ドキュメンタリーとファッション写真の融合であり、彼の写真から強烈に感じられるニヒリズムは、近未来の日本への警鐘のようであった。無機質に殺菌されたシステムの中で、自らのアイデンティティーを見失い、凶暴なグローヴァリズムに翻弄される日本への、誰しもが持つ漠然とした不安、終末の予感。ホンマタカシの写真は、ジャンルを超えて多くの人々に支持され、多くのフォロワーを生み出す。今や日本を代表する作家となった、ヒロミックス、佐内正史、本城直季らは、多かれ少なかれホンマタカシが切り開いたスタイルの延長上に独自の世界観を築き上げたといっていい。そして、彼の広告、アート、ファッション、ヌード、グラビア、建築、編集、映画等のあらゆる分野へボーダレスな進出は、良しにつけ、悪しきにつけ多くのカメラマンの指針となったのである。   もう一つ、90年代の日本のファッション写真に大きな影響を与えたファッション誌が、パリで出版されるPURPLE誌である。アートとファッションの融合をテーマに、一貫したインディーズ・スタイルで数多くの新しい才能を世に送り出してきたこの雑誌は、日本のカルチャー、サブカルチャーにも早い段階から興味を示している。そのため、日本人アーティストも多く参加しているが、その中でも別格なのが、このPURPLE誌で創刊以来、ファッション写真をとり続けている鈴木親であろう。鈴木親は、今の日本では数少ない純粋な意味でのファッション・フォトグラファーであり、世界に通用するオリジナリティーを持ち合わせている。彼のファッション写真は、マルタン・マルジェラに代表されるアントワープ系の内向的なデカダンスの影響を色濃く受けながらも、日本の伝統的な文化の品と静謐さを感じさせる。そこには日本人しか表現する事の出来ない情緒がある。彼は、ファッション写真家であることにこだわり、ファッション写真と作品以外は、ほとんど撮影しない。商業主義一辺倒の今、鈴木親の隠者のような撮影のスタイルは、彼のオリジナリティーを磨き上げた。その独特の色彩と間を感じさせる作風は、世界に影響を与えるファッション写真家になることを予感させるに十分である。   ただ、このような日本のファッション写真界の曖昧なあり方は、決して悪い事ばかりでもない。その、通過儀礼的なポジションから、様々な分野の写真家がファッション写真を撮るために非常に多様性のあるものになっている。例えば、アフリカ、中東、東南アジア、南米等の“滅びゆく少数民族”のポートレイトの作品で、ファビアン・バロンに絶賛され、写真集“TRIBE”を出版した小林 響は、欧米のファッション界では、90年代最も評価された日本人写真家であろう。荒木経惟、植田正治、ヒロミックス、新津保建秀、富永民生、久家靖秀、佐内正史、石坂直樹、ザ・グレート・ザ・歌舞伎町、平野太呂、本城直季、米原康正、井賀孝といったアート、グラビア、広告、ルポルタージュ、スポーツ等のジャンルで活躍するファッション写真家以外のファッション写真をこれほどまで沢山見る事のできるのは日本だけだろう。そして、ファッション写真を変革するのは、実は、他のジャンルから来た異端者の価値観である。マーティン・ムンカッチは、スポーツカメラマン。アーヴィング・ペンは、画家。ヘルムート・ニュートンは、報道カメラマン。スティーヴン・マイゼルは、ヘア&メイク。マリオ・ソレンティは、モデルであった。そう考えると日本のファッション写真界は、可能性に満ち溢れている。止まれる者の出現。。日本人としてのオリジナリティーを追求して、美意識と技術を極めた上で、ファッションという世界に魅せられ、美の本質を探究したい写真家が現れたときに、きっと日本のファッション写真界はドラマティックに変わるはずである。サンプリングの達人から、オリジナリティーへ、欧米コンプレックスからジャパニーズ・ルネッサンスへの意識の変化。それが、近い将来であることだけは間違いない。
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mxargent · 1 year ago
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制��度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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tokyotrendnews · 29 days ago
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【#テレ東 #ドラマ 】【YouTube限定】絶メシバックロード 2024・2泊目 ドラマ25「絶メシロード2024」の撮影模様を主演の濱津隆之が自らレポート!|テレビ東京
テレ東公式 ドラマチャンネル \\絶メシバックロード// ドラマ25「絶メシロード2024」の舞台裏を主演の濱津隆之が自ら撮影した「絶メシバックロード」を今回もお届け! 是非ドラマと合わせてお楽しみください! ▼2泊目あらすじ どこにでもいるごく普通のサラリーマン須田民生(濱津隆之)。二泊三日の旅で筑波山を満喫していると、妻・佳苗(酒井若菜)から突然の電話が。なんと、年賀状用の富士山の写真が欲しいと要求される!しぶしぶ富士山方向へ向かう民生だったが、しっかり神奈川も観光し満喫する。富士山が見える場所を目指して運転していると、トラックばかりが停まる店を発見。昔ながらの食堂で、看板には不思議な“シャーワー室”の文字。今年最後の絶メシに民生が選んだメニューは…。 <<ドラマ25「絶メシロード…
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kennak · 2 years ago
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滋賀県日野(ひの)町で昭和59年に酒店経営の女性=当時(69)=を殺害し金庫を奪ったとする強盗殺人罪で無期懲役が確定し平成23年に病死した阪原弘(ひろむ)元受刑者について、大阪高裁(石川恭司裁判長)は27日、再審開始を認める決定をした。30年の大津地裁決定を維持し、検察側の即時抗告を棄却した。大津地裁決定は、戦後に発生し、死刑・無期懲役が確定した事件で初めて「死後再審」を認めていた。元受刑者は捜査段階で自白したが、公判や再審請求審では「警察官から暴行や脅迫を受けて自白を強要された」と主張。主な争点は自白の信用性や、元受刑者が金庫の投棄場所と遺体発見現場を自ら案内できたとする「引き当て捜査」をいかに評価するかだった。事件を巡っては昭和59年12月下旬に女性が行方不明となり、翌年1月に遺体が、同年4月に山林で破壊された金庫が見つかった。滋賀県警は63年3月、店の常連だった元受刑者を逮捕した。平成7年の確定判決(大津地裁)は「自白の根幹に矛盾がある」と信用性を否定しつつ、引き当て捜査などの間接事実を基に有罪を認定した。2審大阪高裁は「自白の根幹は十分信用できる」として控訴を棄却。最高裁も上告を退けた。元受刑者は23年、肺炎とみられる症状で刑務所を出て入院していたが、75歳で死亡した。一方、元受刑者の遺族が申し立てた再審請求を大津地裁で審理中、引き当て捜査の写真のネガフィルムが開示された。それを弁護団が分析した結果、捜査報告書に添付された19枚のうち8枚は、金庫の投棄場所まで「案内する」写真ではなく、帰路に撮影されていたことが判明した。再審開始を認めた30年の大津地裁決定は、この報告書を不適切と批判した上で、警察官の断片的な誘導など��よって現場を案内できた可能性を指摘した。自白についても「供述する殺害方法と、遺体の損傷状況は一致しない」として信用性を否定。取り調べ中に警察官の暴行や脅迫があった疑いもあるとして、「確定判決の判断はおおいに疑わしくなった」と結論付けた。
38年前の強盗殺人、大阪高裁も「死後再審」開始認める 滋賀・日野町事件 - 産経ニュース
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gardencityrecords · 1 month ago
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【GCE 〜LIVE INFO〜】
「13.3g 新年会」 2025.1.17(金) 渋谷Milkyway 開場 19:00 / 開演 19:30 チケット代 ¥1,000+D
【入場者全員特典・ミート&グリート】
◉メンバー全員と写真撮影(お客様のスマートフォンにてスタッフが1枚撮影させていただきます。
【13.3g OFFICIAL FAN CLUB 3s 会員限定入場者特典】
◉3s 会員限定パスステッカー(直筆サイン済)+13.3g年賀状
※3s会員の方は入場時に会員証画面をスタッフにご提示ください。
本公演では椅子席をご用意させていただきます。
入場後先着にてお好きな席へお座り下さい。
また椅子には限りがございますので、埋まり次第立見にてご対応させていただきます。
チケットはこちら
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shintani24 · 2 months ago
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2024年12月10日
証言集を手にする山口響さん(右)と被爆者の城臺美彌子さん(右から2人目)ら=2023年11月28日、長崎市魚の町、寺島笑花撮影
平和賞授賞式を機に考えたい 被爆者が語ってきたのは「理想」なのか(朝日新聞 Re:Ron)
「長崎の証言の会」証言誌編集長・山口響さん寄稿
日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)に間もなく、ノーベル平和賞が授与される。
ロシアによる対ウクライナ戦争は、核兵器使用の可能性を高く保ったまま開戦から3年の時を迎えようとしている。パレスチナ・ガザ地区に対する核兵器使用を肯定する声もちらほらと聞かれる。しかし、「日本被団協がノーベル平和賞を受賞」との報が飛び交う中で、核兵器使用の決断ができる指導者はそうそういない。「核兵器は絶対に二度と使われてはならない」というノルウェー・ノーベル委員会の強い意思は、核使用への強い制約として働く��
ただし、賞などというものに対する他人の注目はしょせん瞬間風速的なものだ。実際、「この20年でノーベル平和賞を与えられた個人・団体を10以上挙げよ」と言われたら、答えに窮する人は少なくないのではないか。
賞の直接の当事者でない者の記憶はそのぐらい移ろいやすいものだということを前提として、ここでは、「祝賀」ムードからは一歩身を引き、「被爆者の声」なるものを私たちがどう考えるべきかを示しておきたい。
というのも、ノルウェー・ノーベル委員会が、日本被団協への平和賞授与の理由を「『核兵器が二度と使われてはならない』と証言によって示したこと」と説明しており、その意味するところには多少の肉付けが必要だと感じているからだ。
私(48歳)はこの10年ほど、「長崎の証言の会」という団体で、被爆証言誌を刊行する活動を続けてきた。また、研究者としても、被爆前後の長崎の歴史について調べている。もちろん、日本被団協を含めた各地の被爆者団体で被爆者の相談活動に加わってこられたような方々の経験と比べれば大したものでないことは承知しているが、いちおう、被爆者の聞き書きを続け、被爆体験集を多く読んできた者として、発言してみたいと思う。
「冬の時代」にある戦争体験の継承
「被爆者の声」なるものをめぐっては、被爆当事者、あるいは被爆者に伴走して活動している人々の間から、「核兵器の問題に無関心な人たちにどうやったら被爆者の声(証言)を聞いてもらえるか?」という問いが頻繁に発せられる。
そしてこうした問いはしばしば、証言集の刊行から紙芝居、朗読、演劇、音楽、映画、絵画、写真、小説や詩歌に至るまで、最近では、VR(仮想現実)やAR(拡張現実)、モノクロ写真のカラー化、AI被爆語り部といった形で、「被爆体験の継承」の有効な方法論をめぐる議論に横滑りしていきがちだ。
もちろん、こうした具体的な営みがきわめて重要であることは論をまたないが、今回私は、問題の位相を少しずらして、
(1)2024年現在の日本において、「被爆者の声」が聞かれうる環境はどうなっているか。
(2)そもそも「被爆者の声」とは何か。
という問いを考えてみたい。まずは(1)について。
広島・長崎への原爆攻撃とアジア太平洋戦争の終結から79年経つ現在は、「戦争体験者の声を聴けるラストチャンスの時代」としばしば言われ、そうした危機感がさまざまな活動を駆動させる背景になっている。
しかし、私自身は、「戦争体験の継承」にとって今は冬の時代だと感じている。どういうことか。
戦後79年の日本では、「戦争体験者の声に耳を傾ける」ことは「お年寄りの昔話を聴く」とほぼ同様のイメージで捉えられているはずだ。
ところが、メディア研究者の伊藤昌亮氏のインタビューによれば、東京都知事選での石丸伸二氏、衆院選での国民民主党、兵庫県知事選での斎藤元彦氏の躍進の背景には、世代間対立の強まりがあるという。
もし、若い世代の間で「老害批判」「既得権批判」が強まっているとすれば、もうそれだけで、「お年寄りの戦争体験」には耳を傾けてもらえなくなる。「人生の先輩を敬うべきだ」などという一般的な説教ではどうにも手当てできない。
こういった状況に対して――私自身もついついそう言ってしまいがちなのだが――、「『自分事』として捉えよ」とい���呼びかけが(特に若い人に対して)なされることが少なくない。
こうしたメッセージは、おそらくごく一部の人にしか刺さらないだろう。自分たちなりの「現実」に呻吟(しんぎん)している人たちには、「他人の」「過去の」戦争体験はなかなか届かない。まして、「過去に何があったか知らないけど、長生きしてきたということは、それなりにいい思いをしてきたんじゃないの?」などと思われてしまったら、回路は完全に閉ざされる。
しかし、「被爆者の声」に耳を傾けてもらうには厳しい社会環境にあることを指摘しただけでは、議論はストップしてしまう。
世代間の溝を埋めるには
そこで次に、2番目の「そもそも『被爆者の声』とは何か」という問いを考えてみたいと思う。このことが、世代間の溝を埋めるひとつのヒントになるかもしれないからだ。
日本被団協へのノーベル平和賞の授与が発表された時、それを支持する人は「被爆者の理想を現実に近づける上でこの賞は意味を持つ」と興奮したが、他方では「被爆者は理想ばかり語って安全保障の現実を見ようともしない」との懐疑的な意見もインターネット上にはあふれていた。
実のところ、これら両極の意見はいずれも「被爆者は理想を語っている」とする点で共通しているが、それは本当なのだろうか? 「理想」というのは、被爆者の語ってきたことに対して外から貼り付けたラベルであって、被爆者はただひたすらに「現実」を語ってきたのではないだろうか?
私の見るところ、被爆者の語る「現実」は、二つの重みを持っている。
79年前、8月の重み
ひとつは、8月6日・9日の「あの日」の現実の持つ重みであり、言い換えれば、「戦争を続けていれば、行き着くところはこうなる」という現実のことだ。「あの日」、生きながらにして人間の肉が溶け落ちた。「あの日」、末期の水を求めて何千人という人が川に蝟集(いしゅう)した。「あの日」、ある生存者は焼け跡で気が狂ったように歌い続けた……。
核兵器を含む現実主義的な安全保障論は、現実主義的であろうとすればするほど、「核兵器を持てば敵の攻撃は抑止できる。以上!」とはならず、核抑止が破れた後の世界のことも想定しておかねばならない。
核兵器使用シナリオをビルトインした現実主義的な安全保障の構想は、広島・長崎の被爆者たちが語ってきた「核使用後の現実」を一般の人々に当然に受け入れさせるような率直な用語で語ってきたのだろうか。私にはそうは思えない。軍事的なリアリストの練るデスクプランの「現実」の方が、被爆者の見た「あの日の現実」よりも重みをもって捉えられているとしたら、私にはその状況はよく理解できない。
被爆者は、核兵器廃絶という「理想」を一見語っているように見えても、見果てぬ夢を口にしているのではない。被爆者はただ「現実」だけを語ってきたのだというシンプルな事実に目を向けるべきだ。
被爆者の戦後の現実
被爆者はもうひとつ、被爆直後のことだけではなく、「その後」の現実をも語ってきた。
社会には、被爆者と、そうでない人がいる。原爆は、放射線の影響によって個体を傷つけるだけではなく、被爆者と非被爆者、場合によっては被爆者どうしの関係をもゆがませる。被爆者が将来をはかなんで自殺し、そのあとに残された者たち。自分の子の結婚相手が被爆者ではないかと疑い、探偵に調べさせた者。自分は被爆者ではないのに、被爆者の夫との間の赤ちゃんを産むことが心配で、夫に本当の理由を告げず中絶した女性。「いつも横になっているのがお母さんだ」とばかり感じていた、ある被爆女性の子ども……。
原爆の悲惨さを伝える取り組みは、核兵器の特殊性をどうしても強調しがちだ。もちろん、そうした特殊性があることは、否定してはならない事実である。
一方で、特殊性の強調は、被爆者の「現実」を理解しようとする他者の意思をくじくことにもなってしまいかねない。
被爆者を取り巻く「『その後』の現実」は、今を生きる人々の「現実」とそう遠いところにあるわけではない。ただ一点、原爆を理由とするという違いがあるだけだ。
私自身、被爆者の「『その後』の現実」をもっとみつめていきたいと思っている。性急に「継承」(=他者に伝えること)を図ろうとするより、「被爆者の現実」に対する自分自身の理解・解釈を深めていきたい。
幸い、広島・長崎の被爆者の証言は、世界のあまたの戦争体験の中でもっともよく記録されているもののひとつである。まずは、一冊の証言集を開き、一編の証言映像を見るところから始めてみてはどうだろうか。
やまぐち・ひびき 1976年生まれ。長崎県出身。京都大法学部卒。英シェフィールド大で公共政策修士号、一橋大で社会学博士号を取得。現在は、長崎大核兵器廃絶研究センター(RECNA)客員研究員として長崎原爆の歴史を研究するかたわら、国際学術誌の編集長補佐、長崎県内の他大学での非常勤講師なども務める。「長崎の証言の会」証言誌編集長や、長崎新聞客員論説委員としても活動する。
田中美穂(カクワカ広島共同代表)【視点】 今回の #ノーベル平和賞 受賞をきっかけに、被爆者はこれまで一貫して「現実」を訴えてきたということを強調していかなければいけません。私たちも国会議員との面会の中で、「現実と理想がある」「核廃絶は究極の目標」と言われることが多々ありますが、「核廃絶は理想」とする人の「現実を見る」はただの現状追認に過ぎません。山口氏の仰る被爆者の「『その後』の現実」を私たち一人ひとりが学び、これは私たちの闘いでもあるということを広く共有していきたいと思います。今夜の授賞式での田中熙巳さんのスピーチを胸に刻み込み、「もう沢山だ」という怒りとともに、さらなる行動に繋げていきます。
BossB(天文物理学者・信州大准教授)【視点】 主な大量破壊兵器のうち、化学・生物兵器は禁止されているのに、核兵器は禁止されていません。化学・生物兵器は歴史が長い分、被害や苦しみに対する認識があるからでしょうか?世界を牛耳る西洋人たちも被害を受けているからでしょうか?ならばなおさら広島・長崎のストーリーは語り続かれていくべきです。核兵器の方がターゲット狙いをしやすい感があるのかもしれません。しかし、核兵器の使用はエスカレートし核の冬がやってきます。世界大半の人々が飢え死にします。
なぜ第2次世界大戦の戦勝国5カ国のみが核兵器を持っていいのか?って、他国が思うのは必然です。さらに、広島・長崎を抱える日本でさえ、核兵器禁止条約には不参加です(アメリカの傘下にあるから)。矛盾だらけだからこそ、広島・長崎は世界の先頭をきって、核兵器被害のストーリーを語り続け、核兵器禁止を叫び続けてほしいと思います。私も叫びます。
人々の意識は変わります。社会も変われます。体罰が当たり前だった時代から、体罰は間違っている、という認識を持てるようになった、タバコもどこでもパカパカ吸っていた時代から、吸っている方が肩身の狭い思いをする時代になった、核兵器も廃絶できると思います。
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runpenparis · 2 months ago
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るんぺんパリ 【RunPenParis】
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自己紹介 2024年12月7日(大雪)追記 7642文字】 三重県伊賀市(旧名:上野市)出身 伊賀市(旧名:上野市)に 1976年(3歳)から 1996年(23歳)6月まで住んでいた 1976年以前の記憶と出生は不明 津市にある施設にいたと聞いた覚えがある 3歳のときに養子として育てられることになり 伊賀市へ突然連れてこられた 5世帯がつながった集合住宅の一番端っこお家で 四畳半と六畳の和室の二部屋 三畳の台所 トイレはくみ取り式 お風呂は深底のホーローでガス釜式 冬は寒くて よくしもやけになった 三重県亀山市に二つか三つ年上のお兄さんいるら��いが あった事は一度もない 30代の頃に一度だけ電話で話をした 父方に引き取られたお兄さんに 母親の事を聞いた 母親は別の人と再婚し離婚して 娘さんと一緒に暮らしているらしい 名古屋に近い三重県に住んでいるという話だった気がする 父親は再婚して自分と同じぐらい娘さんがいるらしい お兄さんはおじいさんの事を尊敬していて 中国語を勉強してるらしい あとは色々と聞いたけど 覚えているのはそれぐらいの内容で もう二度と話す事はないだろうと その時に思ったけど お兄さんの顔がどんな顔なのかは 見てみたい気持ちは今でも少しはある
伊賀市でそこそこ有名なのが 「伊賀流忍者」で「忍者屋敷」は 今も昔も変わらない内容で 営業している それは昨年(2023年)の夏休みに 末っ子を連れていったから確認済 外観はただの古い家だけど 中に入ると意外と見応えはある 「上野城」ならぶ観光施設 伊賀牛は「金谷」のすき焼きが有名で 「森辻」が新しい様相なってから焼肉を食べた 個人的には「伊藤」の牛丼が好きだ 油が多い感じのお肉だから 100gも食べれば満足感がある 「伊賀上野天神祭」の鬼行列も有名かな ひょろつき鬼が子供の頃は本気で怖かった 銀座通りが歩行者天国になり 的屋がならぶ 高校生の頃はリング焼きが100円ぐらいで 何個も買って食べた 2024年は10月18日・19日・20日(金土日)がお祭り 19日(土)は久しぶりに一人で一日中 お祭りを楽しむ予定だったけど 昼前から雨が降ってきて鬼行列は中止 午前中は親戚を3件まわって、おみやげを渡した 午後に実家によって車を駐車して 歩いて「伊賀上野天神祭」へと向かった いつも泊まる「伊賀上野シティホテル」は1泊10000円以上も高い 16800円だった。この日は駐車場も使えなかった 19日(土)の夜は19時から 同級生のお店「クワトロNo.4」に初めていった 30年ぶりにちゃんと会ったオーナーの 「ガキさん」は すぐに気がついてくれた 居心地がよかったので開店から閉店の1時までの 6時間でカクテルを8杯ぐらい呑んだかな 意外と安くて8200円だった 次の日の20(日)は「伊賀上野天神祭」に参加している 同級生の「オデ」に会って 鬼行列の準備風景を写真に撮って 上野天神さんの近く「紅梅屋」でおみやげを結構買って 「桔梗屋」で上生菓子とお茶を飲んで 静岡へ帰った 「松尾芭蕉」は俳句が有名で伊賀出身 小学生の頃はがっつりと俳句を作らされた 俳句はいやいや作らされたので 俳句番組は絶対見ない 「上野公園」に行くと「俳聖殿」という建物はある 「俳聖殿」の中には過去の優秀な俳句が収められていたかな 普段はこれといって何もないけど 「俳聖殿」のたたずまいは何か「The Haiku」という感じ 「上野城」のお堀の高さ日本2位? 一時期は日本1位説もあった 中学生の頃は「上野城」のまわりで体育の授業があったり クロスカントリーレースで走らされたり 高校生のデートも「上野城」が定番だったのか それらしき男女がイチャついていた 夜のライトアップは不気味なお城に見えた 一応、桜の名所なのかな 高校生の頃に一つ年下の子とつきあっていた頃は よく「上野城」をさんぽした 帰りはその子の家の近くまで送っていった その子はとても純粋な子で 自分にはもったいない子だった 半年もつきあっていないが 今でも純粋で幸せになっているかなと思い出す事もある もう向こうは忘れているだろうけど 伊賀の街には「銀座通り」とか「丸の内」とか 東京で聞くような名称が多く使われている 地元のうわさでは東京が伊賀の真似をして 街を作ったとの話がよく出てくるから 誰か本気でテレビとかで調べてほしい気もする いまだに東京が伊賀のマネをした説を 親戚がまじめな顔でいいだす時があるから 本当に真実が知りたいけど 自分が調べるほどは興味がない 2004年(平成16年)11月1日に 「上野市」から「伊賀市」名称が変わってから 「上野市駅」が「忍者市駅」になり 「近鉄」の電車だったのが「伊賀鉄道」になり 電車がコスプレになった 駅前には「銀河鉄道999」のメーテルと哲郎の銅像があり 「産業会館」が「ハイトピア伊賀」になった 「産業会館」だった時に「マルキン」のパン屋が近くにあった そこのシナモンパンが子供の頃から大好きで 今はもう手に入らない もう一度、あのシナモンパンが食べてみたい あと小さなパチンコ店「マルト」があった 「フルーツパンチ」という機種で勝った覚えがある あと「麻雀物語」もあったかな 「海物語」という機種が記憶の最終機かな 上野で住んでいた時期に一日で20万近く負けて それからパチンコは完全に辞めた じつはその後もたまにしたが 本当に気晴らし程度で その内にきっぱりとやめた スロットが主流になったら なおさら興味すらなくなった 「新天地」もなんかおしゃれなサビれかたで 「新天地Otonari」となった 街は自分が高校生の頃の面影は薄くなったけど 何となく残っている上野市街は今でも魅力的だ 「新天地」には映画館もあった気がする 当時は賑やかな商店街だった 当時からあった「喫茶店フランセ」は今もある 「伊賀上野天神祭」を見に帰省したときに ドリアを食べたが 素朴ないい感じの仕上がりの味に 古い喫茶店をぐっと感じる事ができた 「新天地」のとなりの大きな化粧品店は 更地になっていた 高校の時の同級生が「クワトロNo.4」という バーを経営している場所もこの「新天地」にある となりにダーツバーもあり 常連っぽい人たちのたまり場っぽいイメージで 気楽には入れなさそうな雰囲気はある 一度だけ朝方にお店の扉までいったけど ダーツバーの扉って感じで雰囲気はあった ここ数年は実家で一人暮らしの おかんの様子を見に よく帰省するようになったけど 若い頃は年一回も帰省しなかった 最近の伊賀でよく立ち寄るのが 「菓匠 桔梗屋織居」と 「HANAMORI COFFEE STAND」と 「岡森書店白鳳店」で 岡森書店は、「Kマーホ」の名で活動して 出版した「トイレの閃き」が背表紙の色が 抜けた状態で25年以上も 岡森書店の本棚に置いてくれている これを見ると初心に戻れて まだまた創作していこうとがんばれる この岡森書店の店長さんは従姉の同級生で 小学校の先輩の同級生でもあり この店長の妹さんは自分と同年代で そんなつながりが それにしても伊賀市は狭いなと感じる
幼稚園の頃の事で 「市部(いちべ)」という地区だったと思う 近くに「市部駅」という無人駅があり その近くの依那古第一保育所に 5歳から6歳の2年間通った おかんは自分の送り向かいのために 自転車を乗る練習して そのおかんが運転する自転車の後ろに乗って 途中の田んぼに二人で落ちて 泥だらけになった おかんは去年の年末まで 81歳でまだ自転車に乗って 実家近くの小田町の坂を下っていたらしい いまは親戚から危ないからと 自転車は召し上げられ 手押し車ででかけている 小学校6年生の卒業までは 上野市依那具にある 市営の「城ケ丘住宅」で過ごした この市営住宅はもう40年以上も その雰囲気を変えずに今でも残っている ここは伊賀市の文化遺産にしていいほどの 時間が止まった場所だ いまだに汲み取り式の便所の換気の煙突が立ち並んでいる このカオスな感じは小学生の頃の不便な生活を思い出させる あの生活で暮らしたから今があるのは確かだ 小学校の通学路にある 垂園森(たれそのもり)でよく遊んだ 現在も存在しているが オバケが出そうな森 この森は当時通っていた「依那古小学校」の 校歌の歌詞にも出て来る イメージ的には幽霊が出そうな森だけど 何か不思議な生き物が住んで居そうな森に見えた きつねも出そうだし おばけも幽霊も心霊も もしかするとタイムスリップして 小学生の頃に戻れそうな気もする森だと 変な懐かしさを感じる 近くには無人駅の「市部駅」と 毎日にらめっこしている森 垂園森(たれそのもり) 中学校からは上野市街の「上野城」の 城下町で過ごした 引っ越しをしました 当時はカオスな「市営城ケ丘住宅」から出れる事が 本当にうれしかった 小学校までの友達とも 見飽きてしまっていたので 寂しくはなかった 当時から色々な物にすぐに飽きては 新しい物が好きだったので そっちのワクワク感で本当にうれしかった そして引っ越ししたお家は 築20年以上の中古の一軒家で2階建て 自分だけの部屋があり トイレは汲み取り式だけど洋式で あこがれの上野の街で住める事もあって 本当にうれしかった
そして近くの「崇廣中学校」に通う事に 中学校の3年間は 転校生という立場と 中一のときに足のかかとを骨折 バスケ部の試合で となり町の「名張市(なばりし)」の 体育館で遊んでいて 二階から飛び降りたら 右足のかかとの骨にヒビが入った
完治した その夏にはバスケ部をクビになり 陶芸部に入った バスケ部とは違い まろやかな陶芸部の部長は 本当にやさしい部長さんだった 中二で左腕を骨折 中一の右足かかとの骨折 どちらも遊んでいての骨折を二年連続してしまい この二年間の体育の成績は最低だった そして中三の高校受験に突入して この「崇廣中学校」では いい想い出は ひとつも無い
そして高校生となって 高校1年生で やっと自由になれた気がした まずは毎日 カッコつけて髪型をきめて その次は彼女を作りたいと 手当たり次第に告白したら 全滅した その数は20数人はいたと思う そしてあらゆる所で 告白しすぎて 変な奴として顔が広まってしまいそうになってきた 高校1年の後半はおとなしく 過ごしていた
高校2年生で 小学校の時にサッカーで出会った 旧友とバンドを組んだ RCサクセションのコピーバンドで 代表曲の 「雨上がりの夜空に」「トランジスタラジオ」 「ベイベー逃げるんだ」「サマーツアー」 「サントワマミー」「いけないルージュマジック」 「いいことばかりはありゃしない」 「どかどかうるさいR&Rバンド」をコピー 旧友が作ったオリジナル曲「ガレージの上のR&Rバンド」 も歌って一年で6回ぐらいライブをしていた 一番のモテ期だった気がする ただバンドをやっている自分を見て 好意を寄せられても違うなと思った バンドをしていない時は ただのバイトに明け暮れた 高校生だったから バンドマン目線で近づいてくる そういう女子には興味がなかったから 冷たい感じの男だったかも 本当にこの高校2年の時期が いままで生きてきた中で一番楽しかった。 高校2年後半の頃は またたくさんの恋をしたが 自分が不器用だったので 自分が好きだった人からは つきあえてもすぐにフラれた それから人を好きになることに 迷走し始めて 最終的に好きになる事はやめて なんとなくいいか別に という感情で奥手で過ごしていった そのせいか、 他校の女子からゲイだとか ウワサされる事もあった なぜそうなるか不思議だったけど 当時はそんなうわさも 楽しければなんでもよかった
1993年の20歳になるころ 家を勝手に出て 一人暮らしを始める やっと自由になった気がした 2年間ぐらいは お金が無くて 通帳の残高は毎月マイナス50万の カツカツでぎりぎりの生活 家賃と車のローンがきつかった 1996年7月(23歳)から 2003年7月(30歳)の 7年間は茨城県と千葉県の県境の 利根川の近く取手市に住んでいた この取手駅界隈を走るタクシー運転手の 態度は本当にムカつくから こっちも態度悪く乗ると 気分の悪さはお互いさまになった 関東平野は景色が無く ここでの生活は なんとなく落ち着かなかった 食文化も人も気候も水も 肌に合わなかった 特にうどんの汁が濃いだけのシンプルな味は げんなりさせてもらった ただ寺原駅近くの「ふる川」はよく通った とくに「カレー」がめちゃくちゃ美味かった 夕食時はのれんが出される前の時間に 駐車場で待機して開店と同時に 店に入っていたので お店の人には顔を覚えられていた この「ふる川」は今もやっている 当時はお店の子供で 小学生の女の子が手伝っていた 夫婦だけで運営していて 素朴な店内で 週3回ぐらいは夕飯でお世話になった 「さば定食」もよく食べた気がする
1997年(24歳)から パソコンを近くの「ミドリ電化」 というお店で38万で購入して 作詞やネットに興味を持ちだした 「まどみちお詩集」を読みだし 作詞に近い詩を書き始めた 「Kマーホ」という名で活動を開始し メインの詩を書き始める 創作の目標をまず詩300篇と決めて 詩を思いついたら メモをつけるようになった 週末はいつも家に引きこもり 朝起きて寝るまでの一日中 音楽を聴きながら 38万円のパソコンを買ったのに まだ「ワープロ」で 手書きの詩を清書して プリントしていた
1998年(25歳)から2002年(29歳)まで 「Kマーホ」の名で活動して 詩に団体に参加したり 詩の賞に応募したり 詩集を自費出版したりと やりたい事にお金も時間も好きなだけ 使ってすごしていた この時期に参加していた詩の団体(万有)には もうドロドロとした 詩を書く人や あまりにも読み解けない詩や 暴力的な詩を書いたり そんな態度の人や いい人も数人はいたけど 自分とは全然目指している方向が 違うので2年目ぐらいで辞めた それからは詩の団体に興味は無くなった それから 自費出版した詩集「トイレの閃き」約2000部を 全国の���中学校や 全国の図書館へ寄贈して 本棚に置いて欲しいとお手紙をそえた 返送されたり お礼のお手紙を頂いたりと 色々と反応を感じながら 2002年の29歳の時に 詩を創作する活動を休止した これで「Kマーホ(けいまーほ)」での 活動は終わった 理由は2000年(27歳)に結婚してから 集中して詩を書く時間が無くなってきたから 2002年に2つの詩集を出版して 詩の事は全部段ボール箱へ入れた
2003年(30歳)から2019年(46歳)まで 育児に家族を重点を置いて生活をする この時期の16年間は友達とも連絡を 切っていたので のちに死亡説や宗教説が出ていたらしい 2003年7月(30歳)から 子育てを重視するために 景色のいい静岡県に引っ越し もう20年以上住んでいる
2019年1月(45歳から46歳になる年) 「平成」から「令和」に変わる年に 「るんぺんパリ【RunPenParis】」の名で 創作活動を再開する 1998年(25歳)から2002年(29歳)の 「Kマーホ(けいまーほ)」の頃とは 全然ちがう方向性で詩を書き始める そしてSNSを活用して まずは詩の発信を始める 「るんぺんパリ【RunPenParis】」という名前の由来は フランスはパリの街を ぺんを持って 走りながら創作するというイメージから 【RunPenParis】ができた 1973年8月1日生まれ(現在は51歳で2025年は52歳) しし座 O型 右利き 詩・詩集・ことばをデザイン アート・写真・小説・ペン画 松尾芭蕉の生家がある伊賀市で 十代までを過ごし 俳句が幼少期から 身近に存在していた 二十代から詩を書き始めて 「Kマーホ」名で活動(1999-2002) 詩集6冊を出版して活動休止
その後 松尾芭蕉の俳句のような シンプルな言葉遊びを 詩で出来ないかと考えていた中で 令和元年(2019)に 「るんぺんパリ【RunPenParis】」の名で 活動を再開 SNSに140文字に 言葉をデザインした詩 「140文字詩」を 毎日投稿する活動を始める 2023年9月に140文字詩が 1200作品に到達した 「140文字詩」が広く浸透できればと 創作を続けている ◆るんぺんパリ【RunPenParis】作品一覧(2019年~) 【2024年(51歳)】Amazonで販売 2024年11月17日 第17詩集「もんもん もんもんで もんだろ」 【2023年(50歳)】Amazonで販売 2023年12月27日 第2フォト集「ほちきす それでは あかんで」 2023年12月2日 第1フォト集「とめても ええか ほちきすで」 2023年11月23日 第16詩集「もあいの ねごとを よみとる」 2023年9月16日 第15詩集「さんもじ もしくは よんもじ」 2023年9月9日 第14詩集「のこりの あぶらは わるもの」 2023年9月2日 第13詩集「あそびも しごとも たいふう」 2023年8月26日 第12詩集「かいてきな しつどに おぼれる」 【2022年(49歳)】Amazonで販売 2022年12月6日 第11詩集「やくそくは よなかの おひるに」 2022年11月3日 第10詩集「みさんがの ともだちの たまんご」 2022年10月7日 第9詩集「くうきと さんその かつさんど」 2022年9月3日 第8詩集「さついを こめた いもけんぴ」 2022年8年7日 第1アート作品集「やさいに つめる にくえらび」 2022年2年14日 第2アート作品集「よなかに ひかる かみぶくろ」 2022年1年1日 第7詩集「みかんの むくちな きもち」 【2021年(48歳)】Amazonで販売 2021年9月8日 第6詩集「そんな ことばは さよなら」 2021年8月3日 第5詩集「あさに おくれた なんて」 2021年6月5日 第4詩集「すいかの たねの ちょうこく」 2021年5月31日 第3詩集「たんぽぽの たまご ひとつで」 【2020年(47歳)】Amazonで販売 2020年7月27日 第2詩集「こよい こよりの そらから」 2020年3月2日 詩小説「すきから あいへ おやすみ」 【2019年(46歳)】Amazonで販売 2019年7月21日 第1 詩集「ところで あした あいてる」 ◆Kマーホ 作品一覧(1999年~2002年) 【2002年(29歳)】 2002年4月30日 第6詩集「眠立体(ねむりったい)」発行部数不明 2002年4月4日 第5詩集「コールサック」100部発行 【2000年(27歳)】 2000年7月31日 第4詩集「マガサス星人」500部発行 2000年1月31日 第3詩集「おしりとサドルが あいますか」500部発行 【1999年(26歳)】 1999年8月1日 第2詩集「テレビジョン」100部発行 1999年5月1日 第1詩集「トイレの閃き(ひらめき)」2000部発行 【受賞】 2001年(28歳) 詩「眠立体(ねむりったい)」第6回トワイライト文学賞 2000年(27歳) 詩「永遠の親友」信越郵政局長賞 1999年(26歳) 詩「トイレの閃き(ひらめき)」第1回万有賞 1998年(25歳) 作詞「地球のウラハラ」第31回日本作詞大賞新人賞候補ノミネート
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yotchan-blog · 2 months ago
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2024/11/13 22:00:27現在のニュース
国民・玉木代表 石丸伸二氏の新党「旋風を起こす可能性ある」 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/11/13 21:57:49) 花山天皇の出家描いた大和絵を限定公開 京都の寺社で非公開文化財公開([B!]産経新聞, 2024/11/13 21:57:39) トランプ外交、「力による平和」鮮明 同盟国に負担迫る - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/11/13 21:54:33) イーライ・リリーの認知症薬「ドナネマブ」保険適用 薬価は年308万円 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/11/13 21:54:33) 電気・ガス補助1月再開 非課税世帯には3万円案、政府原案 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/11/13 21:54:33) 北朝鮮兵部隊、クルスク州で戦闘参加…アメリカ政府が初めて確認([B!]読売新聞, 2024/11/13 21:53:01) ロシアと北朝鮮の「軍事条約」発効へ、批准手続き終了…東アジア安保に影響必至([B!]読売新聞, 2024/11/13 21:53:01) これが取り出された福島第一原発のデブリ…搬送先の研究機関が写真公開、14日から分析開始([B!]読売新聞, 2024/11/13 21:53:01) 世界のサンゴ44%が絶滅危機、日本近海は178種…16年間で大幅増「ガス排出の大幅削減を」([B!]読売新聞, 2024/11/13 21:53:01) 鎌倉で「白タク」横行、成田周辺から観光地に拡大…容疑の中国籍男「友達の友達を乗せただけ」([B!]読売新聞, 2024/11/13 21:53:01) 石破首相が9日に続き「健診」…首相指名選挙では「居眠り」指摘、「疲労が蓄積」の見方も([B!]読売新聞, 2024/11/13 21:53:01) 認知症新薬ドナネマブの薬価は年308万円、国内で2例目 20日から公的医療保険適用に([B!]産経新聞, 2024/11/13 21:46:38) 「築城名人」高虎の原点を見る 愛媛県・宇和島城 千田嘉博のお城探偵([B!]産経新聞, 2024/11/13 21:46:38) 茨城の女子高生を誘拐疑い 福島在住57歳男を逮捕 SNSで誘い自宅に宿泊させる([B!]産経新聞, 2024/11/13 21:46:38) 国民、消費税5%に引き下げ要求へ 所得税基礎控除引き上げ、ガソリン暫定税率廃止も([B!]産経新聞, 2024/11/13 21:46:38) <正論>金正恩政権の打倒を目標にせよ 龍谷大学教授・李相哲([B!]産経新聞, 2024/11/13 21:46:38) 石丸新党に「ぜひやって」とエール 大阪維新の吉村代表、動画チャンネルも開設([B!]産経新聞, 2024/11/13 21:46:38) 高円宮妃久子さま、米国訪問お取りやめ 三笠宮妃百合子さまのご容体悪化受け([B!]産経新聞, 2024/11/13 21:46:38) TBS記者、中国で取材中「警察呼ばれ、全て素材削除させられた」 広東の車暴走死傷で([B!]産経新聞, 2024/11/13 21:46:38) 村井嘉浩・全国知事会長が国民民主の年収の壁見直しに苦言 「夢ごとでなく具体策を」([B!]産経新聞, 2024/11/13 21:46:38) NTT法廃止見送りへ、総務省報告書は慎重内容 自民大敗で潮目変化 名より実をとる決着([B!]産経新聞, 2024/11/13 21:46:38) 円下落し一時155円台 3カ月半ぶりの円安ドル高水準に 日米金利差拡大を材料視([B!]産経新聞, 2024/11/13 21:46:38) ハリス���、テレビ出演前に司会者側に7700万円寄付 好意的インタビューとの関係は不明([B!]産経新聞, 2024/11/13 21:46:38) セブン&アイに創業家が買収提案 非上場化で加コンビニ大手に対抗 資金確保策が焦点に([B!]産経新聞, 2024/11/13 21:46:38) 自民が新人2議員を厳重注意、衆院本会議場で写真撮影 Xで釈明「禁止とは知らず」([B!]産経新聞, 2024/11/13 21:46:38) バンダイスピリッツ、プラモデルを抜本的値上げ 仕様変更時以外では1969年以来初めて([B!]産経新聞, 2024/11/13 21:46:38) 北朝鮮兵が「露軍と戦闘作戦を開始」 米政府初確認、ウクライナ侵略継続で([B!]産経新聞, 2024/11/13 21:46:38) 玉木雄一郎代表の不倫報道で調査委任 国民、党の倫理規範に違反あれば処分の可能性も([B!]産経新聞, 2024/11/13 21:46:38) 敦賀原発、初の審査不合格 原子力規制委員会が正式決定 再稼働を認めず([B!]産経新聞, 2024/11/13 21:46:38) 「メガソーラーは地元理解得られず」 奈良県、防災拠点運営用の太陽光施設を素案に([B!]産経新聞, 2024/11/13 21:46:38) 東京・中目黒駅近くで凄惨事故 日比谷線脱線で69人死傷の教訓 警視庁150年 107/150([B!]産経新聞, 2024/11/13 21:46:38) <正論>濱口梧陵の行動力と防災対策 拓殖大学特任教授・防災教育研究センター長 濱口和久([B!]産経新聞, 2024/11/13 21:46:38) <正論>昭和100年に「海道東征」を  文芸批評家・新保祐司([B!]産経新聞, 2024/11/13 21:46:38) <正論>米新政権が突きつける「核抑止」 同志社大学特別客員教授、笹川平和財団常務理事・兼原信克([B!]産経新聞, 2024/11/13 21:46:38) 玉城知事の「由々しき」発言でよみがえる尖閣中国漁船衝突事件 辺野古抗議制止警備員死亡 【沖縄考】(50) 那覇支局長・大竹直樹([B!]産経新聞, 2024/11/13 21:46:38) トランプ氏、猟犬「銃殺」告白の米州知事を国土安保長官に起用へ | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/11/13 21:46:20) ロシアと北朝鮮、連携条約の批准手続き完了 事実上の軍事同盟復活 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/11/13 21:46:20) ロシア、北朝鮮との条約批准 相互軍事援助も規定 関係が緊密に | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/11/13 21:46:20) 「折られた白杖は7本」 暴行被害に声を上げた視覚障害者の願い | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/11/13 21:46:20) 世界のサンゴの4割超が絶滅危機 IUCN「気候変動が最大の脅威」 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/11/13 21:46:20) 700年前の「トイレ」発見 土から野菜や寄生虫の卵 鹿児島の遺跡 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/11/13 21:46:20) トランプ氏、1週間で外交・安保の陣容固める 「力による平和」強調 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/11/13 21:46:20) 気候革命:弱い人々に偏る被害 小島慶子さんが語る「温暖化への備え」とは | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/11/13 21:46:20) 森達也監督 初の劇映画「福田村事件」11月15日から台湾で劇場公開(スポニチ) | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/11/13 21:46:20) 24色のペン:韓国文学の源流を訪ねて 大河小説「土地」=堀山明子 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/11/13 21:46:20) 「年収の壁」超えが800人 収入大幅アップ、大手スーパーの仕掛け | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/11/13 21:46:20) 自民、新人2議員厳重注意 衆院本会議場で写真撮影 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/11/13 21:46:20) 東国原英夫氏 国民民主・玉木代表の不倫謝罪会見に「仮に総選挙前にこの状況だったら結果は…」(スポニチ) | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/11/13 21:46:20) 橋下徹氏 国民・玉木代表の不倫相手の元グラドル“解任”にチクリ「相手女性の職を全力で守らなあかん」(スポニチ) | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/11/13 21:46:20) 大阪・関西万博:「大阪万博には行きません」高村薫さんが地元で感じる70年との違い | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/11/13 21:46:20)
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photoflowstaffblog · 3 months ago
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〘 年賀状撮影会🎍〙
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兵庫県姫路市にある写真館スタジオ、フォトスタジオ
フォトフローです📷
今年も年賀状撮影イベント開催いたします!! いつでもご予約お待ちしております✨
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◾︎ 開催期間 ⇢ 11/1(金) ~ 12/21(土) ⚠️日祝は撮影受付不可❌となります!
◾︎ 撮影内容 ⇢ 兄弟ショットや家族ショットなどいろいろ撮影📷
◾︎ price ⇢ ¥ 3,300[税込](データ1cut付)
・データ1cutはカメラマンセレクトとなります
▪︎ other ⇢ 全データ : ¥16,500[税込]  通常商品も、もちろんご購入いただけます♪
◾︎ ご予約方法 ・ ご予約は公式LINEでもお電話でも!  (LINEからのほうがレスポンス早いかもです🙇🏻‍♀️) ・「年賀状撮影」とご希望の日時をお伝えください
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⇨PHOTO/MOVIE flow 姫路市岩端町125 079-260-7505 9:00-18:00(水曜定休)
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