#展示会車移動
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おはようございます。
宮城県仙台市は晴れております。
昨日も朝から小倉と川連塗りフェアとその他3箇所の展示会準備の中、今年の新作もコツコツコツコツ進行中。
そしてお昼過ぎからは、仙台へ出張漆教室の前泊車移動で一日が終了。
そして間も無く今日明日の二日間、出張仙台漆教室��始まります。
今週末もアレヤコレヤと有りますが、一つ一つコツコツ頑張ります。
皆様にとって今日も、良い一日と成ります様に。
https://jujiro.base.ec
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その事件は私が1歳の時に起きました。覚えていることはありません。 中国人の父と母は、大きくなってからも私に語ろうとはしませんでした。 中国政府は事件の死者数を319人としていますが、それよりもはるかに多いという指摘もあります。 あれから35年。真相は今も、明らかにされていません。 あの時、私のもう1つの祖国で、何が起きたのか。 (中国総局 高島浩) 日本人の祖母と中国人の両親 私の祖母は日本人です。満蒙開拓団として旧満州に渡りました。 戦後、帰国できずに大陸に残った「中国残留婦人」で、養子に出されていた中国人の男の子を引き取り、育てました。のちの私の父です。 父は中国人の母と結婚。1988年に中国東北部・黒竜江省で私が生まれました。そして6歳の時、国の援護事業のもと家族4人で帰国し、私と両親は日本国籍を取得しました。 私が生まれた翌年に起きた「天安門事件」 1989年6月4日。中国の首都・北京で、あの事件は起きました。 天安門広場に集まった民主化を求める学生や市民たちを、当時の共産党指導部が軍を出動させて武力で鎮圧した「天安門事件」です。 軍による発砲などで多くの犠牲者が出ました。中国政府は死者数を319人としています。 しかし当時、北京に駐在していた各国の外交官の報告などから、犠牲者の数はそれよりもはるかに多いという指摘が根強くあります。 中国政府はこの事件を、政治的な「騒ぎ」で「すでに結論が出ている」という説明を繰り返しています。 「知る必要はない」父のひと言 戦車の前に立ちふさがった市民の姿。民主化の動きを武力で制圧した事件。 天安門事件の前の年に生まれた私は、日本の教育で学ぶまで、こうした事件の表面的な情報で��え、知りませんでした。真相を公表せず、事件を人々の記憶から消し去ろうと腐心してきた中国政府からみれば、もくろみどおりに育った、ある意味で“優秀な中国国民”だったでしょう。 中学生の時、一度だけ父に事件について尋ねたことがあります。そのときの父のことばが記憶に残っています。 「よく知らないし、知る必要はないよ」 記者になって、父と私のもう1つの祖国でもある中国のことを話すことが増えました。父は自分が共産党員だったことを明かしてくれました。共産党の実態を知っているからこそ、私に忠告したのです。 「天安門事件に関心を持つことで、いつか中国に赴任した時、どのような理不尽な目に遭うかわからない」 遺族取材の担当に もう逃げない 4年前の2020年、希望がかなって中国南部の広州駐在の記者となりました。 当局の厳しい監視下に置かれた人権派弁護士の家族などを取材。私自身も当局者に連行され、警察署に留め置かれる経験をしました。 国家の安全を最優先する習近平指導部は言論統制を一段と強め、外国メディアの取材環境はますます厳しくなっていることを身をもって感じてきました。 天安門事件は、そうした中国社会の中でも最もタブー視されていて、深く取材すればどんな目に遭うのか。恐怖すら感じていました。 私と同じように中国の若い世代は事件を知りません。私がおおまかな概要を話すと、「うそを創作するのが上手ですね」と、まるで信じようともしません。今の中国社会の現実です。 事件がまた1つの節目を迎えたことし、北京に赴任、遺族取材の担当となりました。 そして、誓いました。事件を深く知ろうともしてこなかった過去から逃げず、まっさらな気持ちで取材しようと。 集会を断念した遺族グループ 6月4日に向けて取材を始めたところ、ある情報が入ってきました。 これまで5年ごとの節目に、遺族グループが開いていた追悼集会が断念に追い込まれたというのです。原因は当局による厳しい監視のためでした。政府が例年以上に神経をとがらせていることが感じられました。 遺族グループの名は「天安門の母」。グループは集会の代わりに先月(5月)、海外の動画投稿サイトに声明を公開しました。 「私たちには軍隊が銃撃に及んだ真相を知る権利がある」 「政府は社会に謝罪し、私たちに公正と正義を返しなさい」 事実を隠ぺいし、遺族の日常生活への干渉を続ける政府を強く非難する内容でした。 そして、いまなお分からない犠牲者の正確な数や名前の公表、犠牲者と遺族への賠償、責任者への法的な追及を求めました。 厳しい監視、通信遮断の面会 声明が公開される少し前、グループの中心メンバーの遺族を訪ねました。今の気持ちを伝えたいと、当局の監視をかいくぐって取材に応じてくれた張先玲さん(86)。 遺族に直接、話を聞くのはこれが初めてです。心臓がバクバクと打つ胸を必死でおさえました。 張先玲さん 呼び鈴を鳴らすと、張さんがやや固い表情で出迎えてくれました。周囲をうかがうように招き入れてくれたあと、すぐに携帯などの電源を切るよう伝えてきました。当局の盗聴を警戒していたのです。 自身も自宅の通信設備の電源をすべて切っていて、奥の部屋に移るまで、会話もしないよう身振り手振りで伝えてきました。 記者を志した息子の死 張さんは、事件で当時19歳だった息子の王楠さんを亡くしました。 記者を志していた王楠さん。天安門広場で起きている歴史的なできごとを記録に残したいと、事件前日の3日深夜、カメラを持って自転車で現場に向かったそうです。 張さんの息子 王楠さん そして4日午前1時すぎ、人民大会堂の北門の向かいで軍の銃撃を頭部に受けました。地面に倒れた王楠さんを現場にいた人たちが助けようとしましたが、軍の部隊が近づくことさえ許さなかったといいます。兵士たちはひざまずいて助けさせてくれという人たちの懇願に対し、「あいつは暴徒だ」と聞き入れなかったそうです。 のちに現場で目撃した人から聞くなどしてわかった当時の状況です。張さんは、中国政府がひた隠しにする、あの事件の真相の1つだと信じています。 なぜあの時… 消えぬ後悔 張さんの自��のリビングの壁には笑顔の王楠さんの遺影がかけられていました。毎日のようにその写真に手をあわせながら、張さんは胸にある後悔を拭いきれずにいます。 なぜ、あの時、息子を送り出してしまったのか… 張先玲さん 「天安門広場に向かう前、息子が私に聞いてきました。『まさか軍が発砲することはないよね』と。私は『まさか、ありえないよ』と答えてしまったのです。今もずっとあの言葉を後悔しています。生きていれば、今ごろは父親になって家庭を持っていたでしょう。私の脳裏にある息子は、永遠にあの日の、あの晩の、19歳の時でとどまったままです」 黙り続けることは許されない 王楠さんの遺体はほかの犠牲者とともに天安門の西側にあった中学校前の草むらに埋められていました。雨で遺体は地表から露出し、3日後、衛生当局などによって発見されたそうです。変わり果てた姿の息子。 張さんの脳裏から焼きついて離れず、毎年6月4日が近づくにつれて、張さんは体調を崩しています。 息子はなぜ死ななければならなかったのか。この日��体の調子が悪く、取材に応じてくれた時間は10分余り。それでも張さんは気力を振り絞るように、遺族の声を広く伝えてほしいと、1人の母親としての怒りを伝えてきました。 張さん 「国家が進歩していく上で、この事件が解決されないのは正常なことではない。『人民のために奉仕する』という中国政府が、人民の尊い命を奪っておきながら、なんの説明もなく、30年以上も知らないふりをして黙り続けるのは到底許されない」 「ごめん、生きてくれ…」最後のことば 今、遺族グループの活動の中心は犠牲者の親たちから、そのパートナーや兄弟に移っています。その中の1人に会うことができました。 尤維潔さん 尤(ゆう)維潔さん(70)。事件で当時42歳だった夫の楊明湖さんを奪われました。 政府系の経済団体の職員だった楊さんは、当日の深夜、銃声を聞き、広場に集まった学生たちを心配して現場に向かったといいます。そこで、下腹部に銃弾を受けました。倒れた楊さんをその場にいた人たちがリアカーで病院に運びました。撃たれた骨盤は粉々に砕けていたといいます。 病院に駆けつけた尤さんに、手術室から出てきた楊さんはこう漏らしたそうです。 尤さんの夫 楊明湖さん 「ごめん、しっかりと生きてくれ」 2人が交わした最後の会話となりました。2日後、楊さんは息を引き取りました。わずか6年の結婚生活。国によって突然、終止符を打たれました。 尤さん 「35年がたっても、あのときの記憶は少しも消えていません。一瞬一瞬が頭の中に残っています。夫を見守った2日間で涙は流し尽くしてしまい、今はもう出ません。遺族は皆、この世を去らないかぎり、暗い記憶の中を生き続けるのです」 若者たちはなぜ立ち上がったのか 天安門事件とは結局、何だったのか。その疑問を持ちづけていた私に、尤さんは「若者たちが立ち上がったのは、社会に対する責任感だった」そう説明してくれました。 天安門事件は、1980年代に共産党トップの総書記を務め、言論の自由化など政治改革にも前向きだった胡耀邦氏が4月15日に突然、死去したことに端を発しているとされています。 胡氏は、学生の民主化運動に理解を示したなどと保守派に批判され、失脚していました。 学生や市民による胡氏の追悼集会は、民主化を求めるデモに変わり、各地に拡大。5月には10万人が参加する大規模な集会に発展していきました。訴えは汚職の撲滅や言論の自由などを求める社会的なうねりとなっていったのです。 天安門広場に集まった市民や学生たち 尤維潔さん 「当時、北京の市民は皆、天安門広場にいた学生たちをとても心配していました。特に印象深いのは、戒厳令が最初に出された日です。市民たちが天安門広場に軍隊を行かせてはいけないと、路上にバスを止めて道路をふさぎました。多くの人たちが、ハンガーストライキを続ける学生たちに食料や水を届けていました。すべてが自発的な行動だったのです。その光景に私はとても感動しました。政府はなぜこうした状況を理解できなかったのか、思い出すと、今でもとても腹立たしい」 “隠ぺい”と“沈黙”の35年… さらに大事なことを話してくれました。 当時、軍によって制圧された天安門広場やそれに続く大通りなどあちらこちらには死体の山があったそうです。連絡が取れない人も多く、尤さんの夫とともに病院に運ばれ、その後死亡した男性も身元が分かっていなかったといいます。 しかし、中国政府は事件発生から犠牲者や行方不明者についてほとんど説明を行ってきませんでした。それどころか、事件から1年余りの間、政府は「天安門広場に行ったのか」や「デモに参加したのか」など多くの人に聞き取りを行うなど徹底的に調査していました。 尤さんはこうした政府の心理的な圧力が、今の中国社会につながっていると語気を強めて訴えました。 尤さん 「政府の圧力によって、市民は自分たちの家庭で何が起きたのか、言い出すことを恐れていきました。時間の経過とともに真相を語る人を探し出すことはいっそう難しくなっています。今では多くの人が事件についてよく知りません。35年がたち、若い世代は天安門事件に関心すらない状況です。これはこの間、政府が隠ぺいと沈黙を続けてきたからだと思います」 メッセージアプリに突然、使用制限 今、中国政府は、事件を国民の記憶から消し去ろうとする動きをさらに強めています。 遺族グループの今の活動の中心メンバーとなっている尤さんに対する監視は、6月4日が近づくにつれて厳しさを増していました。 尤さんのメッセージアプリ「ウィーチャット」は、4月ごろから機能が突然、制限され、ほかの遺族とのグループでのやりとりが一切できなくなりました。 ウィーチャットは中国国内では、使っていない人はいないほど、最もポピュラーなSNSです。“遺族どうしがつながることを阻みたい”、35年という節目に当局が神経をとがらせている様子がうかがえました。 尤さんが所在不明に 警告、そして尾行 尤さんに話を聞いてから、およそ1か月半たった先月(5月)31日。私は再び彼女の自宅を訪れました。もう一度話を聞きたい、そう思ったからです。 しかし、不在でした。連絡すらつかず、所在がわからなくなっていました。 自宅から立ち去ろうとした時、突然、警備員に呼び止められ、「何をしに来た。2度と来るな」そう警告されました。さらに、私服警察官とみられる2、3人の男たちが、私のあとを追うようについてきました。尾行は、私たちが車に乗り込むまで続きました。 尤さんとようやく連絡がついたのはその4日後、6月4日の午後でした。電話口の声は重く、監視役としてそばにいるとみられる当局者らしき女性の声が聞こえました。 「しばらく自宅にいることができない。近況も話しづらい。ごめんなさい」 短く状況を伝えてくれました。身に危険はないか心配する私に、彼女は「大丈夫」そう返し、電話は切れました。 男たちに囲まれて警告、墓地に近づけず あの日が近づくにつれて、天安門を東西に突き抜ける大通り「長安街」は異様な雰囲気に包まれていきました。前日3日午後、同僚のカメラマンが、多くの犠牲者が見つかった木※せい地という場所に向かいました。(※木へんに「犀」) 今は地下鉄の駅があり、隣には警察の派出所が設けられています。撮影機器が入ったリュックサックを開けようとした瞬間、十数人の男たちに取り囲まれ、立ち去るよう警告されました。 厳しい警備の共同墓地 6月4日の様子 そして4日当日。犠牲者が埋葬されている北京郊外の共同墓地には、多くの警察官が配置され、厳戒態勢が敷かれていました。近づくことすら許されず、命日の墓参りに訪れる遺族への取材はできませんでした。 天安門の叫び、今も 「天安門事件は、中国共産党による『国民の虐殺』にほかならない」 遺族たちのこうした訴えは「人民のために奉仕する」という共産党の正当性を、根幹から揺るがすことになりかねない、そう政府は考えているのかもしれません。だからこそ、政府は沈黙を貫き、時がたち人々が事件を忘れ去るのをじっと待っているように感じます。 かつて、私に「知る必要はないよ」と語った父と同じように、多くの国民が知らされずにきた35年。 それでも中国国民のなかには、天安門広場で民主化を叫んだ若者たちと同じように、一党支配への不満や、社会への責任感を持つ人がいます。 北京での白紙運動(2022年11月) おととし、中国政府のゼロコロナ政策への不満を背景に起きた抗議活動「白紙運動」。 そして去年、李克強前首相の急死後に各地で広がった追悼の動きと現指導部を暗に批判する追悼のことば。 私は、もう1つの祖国で今、事件とどう向き合うのか。 取材に応じてくれた張さんと尤さんの2人のことばを反芻しています。 「生きている間に事件の解決は見ないかもしれないが、それでもかまわない。 息絶えるその瞬間まで、生きているかぎり、訴え続ける。あなたも、この声を多くの人に届けてほしい」 (6月4日 ニュース7などで放送)
中国の習近平政権下で強まる抑圧と監視 天安門事件35年 記者にも尾行が?遺族が訴え続ける意味とは? | NHK | WEB特集 | 中国
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たどり着かなかったおおくの未来たちへ
文フリ東京だった。 土曜日開催のイベントってなんだかんだ言いながらはじめてのような気がする……労働が土日祝休めなかったころはなんでイベントは平日にやらないんだろうと思っていたし、土日が休みだったころはイベントは土曜日にしてほしいと思っていたが、日月休みになると、イベントは日曜日がいいなと思ってしまう。日月は宿泊料金がやすい。
そんな自分本位な「この日がいいな」をわたしはいくつも持っている。
文フリ東京は、土曜日の朝に出発した。車内販売がなくなってしまって、でもまあ新幹線のホームとか購買にシンカンセンスゴイカタイアイス(シンカンセンモウカタクナイアイスだという噂だが)が売っているらしいから、それを食べようと思っていたが、朝、名古屋駅で見つけることはできなかった。 しょんぼりしながら新幹線に乗る。新幹線の中ではほとんど寝ていた。
東京駅・浜松町・流通センター。いつもの乗り換えで会場に向かう。来年の12月の文フリはビッグサイトでやるらしいから、この行程で向かうのはあと一回。
会場前に八束さんのスペースで不穏なフライヤーをもらう予定だったのでもらいに行ったら、八束さんがさいたま文学館で開催中の『澁澤龍彦の文学世界』のフライヤーも一緒にくれた。 ので、スペースが出入り口の真ん前だったこともあって、これはたくさんのひとに見てもらえるんじゃないか…!ということで、出口に向けて配置した。完璧である。
そんな素敵な設営をして、開場。
遠方からきてくれたフォロワーさんに展示のフライヤーを見せ澁澤龍彦の話をし、「若い頃にわたしも全集読みました!」と言ってもらうなどしたり、痛覚の麻子さんにはえんえんと「この写真見てくださいやばくないですか?羽田に楯の会の制服を着て見送りに着た三島の帽子をかぶっておどけているときの写真でこれが二人が実際にあった最後になるんですよ……」と一生終わらないんじゃない勝手くらいの話をしつづけてしまったり、このフライヤーに気づいてくれた通行人のひと(「澁澤龍彦だ…!」という声が聞こえた)に「裏面も見てください!そしてよろしくお願いします!」とさっと差し出したり……。こんなに充実した文学フリマ東京は、2014年から参加していて初めてじゃないかと言うくらい充実していた。
惜しむらくは、澁澤龍彦のフライヤーと一緒に不穏なフライヤーを挟んでいたにもかかわらず、だれも「澁澤龍彦と棄てに行ける家父長制があるんですか?」と聞いてくれなかったこと…。澁澤龍彦と棄てに行ける家父長制は果たして存在するのか……?
とまあ、こんな感じなのだが、そろそろ皆さんも不穏なフライヤーとは?と思っているところだろうと思うので、ご紹介致しますとこういうやつです。
「父親の死体を棄てに行く」アンソロジー。家父長制を棄てに行きたい方はどうぞ2024年5月の文学フリマ東京をお待ちください。
イベントが終わってからは、八束さんとヒマラヤ鍋を食べに行った。 お店の予約時間まで過ごしていたドトールで渋沢栄一の話になり、「ああ、向こうは傍家で、本家はうちなので」と話したら「いまうちって言いました?」と聞き返される。うちです。 ヒマラヤ鍋屋さんはめちゃくちゃすてきな楽隊(?)のお誕生日パレードがあったり、びっくりするような美味しい鍋を食べられたりと大満足だった。
打ち上げを終えて、翌日のさいたま文学館に備えて埼玉に宿を取っていたので、移動をはじめたら電車がいきなり止まった! 電車の沿線で人身事故があったとのことで、近くのハブ駅みたいなところで電車を降ろされてしまう。こんなこと担ったのは初めてなのでびっくりしていると、とりあえず一時間くらいしたら電車は動くからね~とアナウンスが入り、事なきを得る。
都会ならではの体験だな…と思いながら、ホテルにたどり着いて泥のように寝た。
そしてさいたま文学館へ。
張り切って出てきたら開館まえについてしまった…。図録を買って、老人クラブの展示があったので見せてもらったりして(ヤツガシラの俳句があってとてもよかった)、10時になる。
貸し切り状態……。
展示は、埼玉と澁澤の関係から始まっていて、浦和高校時代の写真(浦和高校同窓会が出しているものだった)があるのがとてもよかった。 限定本も展示がたくさんあり、原稿も、文学館が所蔵しているものが4、5点。 サド裁判のときに澁澤が三島に書き送った手紙に、争点が「わいせつか芸術かを超え、表現の自由/検閲への抵抗である」ことが書かれていることを指摘していたり、『高丘親王航海記』の原稿用紙、最初は「了」と書いてあったのを、推敲の段階で文字を自ら消したことを指摘していたり、「澁澤龍彦」という人物を表現との向き合いかたから見せているのが良いと思った。 面白かったのは三島の写真の使い方で、「血と薔薇」の「男の死」の三島の写真、あと、メインビジュアルが羽田に見送りにきた三島の帽子をかぶっておどける澁澤の写真だったからか、「楯の会の制服を着た三島由紀夫」の写真が展示してあったりした。
展示をひとしきり見た後は、図書室に今回の展示の関連本がまとめてあるとのことだったのでそれを身に。「作家のおやつ」「作家の食卓」といった本の紹介や、山﨑���オコーラが文豪の墓参りにいく本に澁澤の項目があった。山﨑ナオコーラの澁澤へのまなざしにはわたしにもおぼえがある。よい本だった。そしてその本で、先月わたしが緑色のインコに夢中になっていた霊園に中島敦の墓があることを知った。敦、ごめんな……墓のことなんて全然知らなかったから、緑色のインコのことしか考えてなくて……。
その後は文学館併設の「けやきカフェ」で澁澤龍彦コラボメニューをたべる。黒糖と胡桃のパンケーキ。澁澤が好きだった胡桃や黒糖のお菓子をイメージしてつくられていて、とてもよかった。 思い出したのは、今よりもっと貧乏だったころ、いろんなところでやっている澁澤の展示に行けなくて悔しい思いをしたことだった。いまこうしてたどり着くことができるようになったことを、なんだかとても、自分が、自分をなんとかしているように思えた。
パンケーキを食べ終えてから、「武��野うどん」に挑戦することにした。「伊勢うどんとは対極にあるうどんだ」という事前情報しかなかった。 桶川駅ちかくのお店はかなり人気店のようでたくさん人が並んでいて、お店に入れたのは並び始めてから一時間後くらいだった。 つけ麺(うどんのことをつけ麺というのか?)システムで、つけ汁とうどんは別々の皿に載っている。なるほどこういうやつなのか、となにも考えずにがっと箸でつかんで汁につけてすすりはじめたはいいが、うどん、めちゃくちゃかたいんですけど?!噛みちぎれない…やばい、全部すすって口の中に入れるしかない……と思ったが、これがまたすさまじく長くて……永遠にうどんがおわらない……。 こんなに硬くて長いうどんはじめてなんですけど?!おれたちは箸で持ち上げただけでへたしたらブツッといく伊勢うどんの民なんだということを再確認し、「これは風邪を引いたときに食べるうどんではなく、体力が有り余っているときに食べるうどんだな」と確信しました。きっと武蔵野のひとたちは、風邪をひいたときにはおかゆを食べるに違いない。(伊勢志摩の人間は風邪をひいたら伊勢うどんを食べます)
二口目からは一本ずつ食べることで武蔵野うどんのおいしさを堪能し、また是非食べたい、顎の力を試したい、と思った。
武蔵野うどんを噛み砕くのに体力のほとんどを持って行かれて、疲れ果てたので、そのまま帰宅することに。 購買にシンカンセンスゴイカタイアイスを見つけたので購入し、席に着くと、隣のひともおなじシンカンセンスゴイカタイアイスを持っていた。しかもおなじチョコレート味。
べつに示し合わせてはいないがふたり一緒に食べることになってしまい、こんなに好きなひとがいるのに、もうシンカンセンスゴイカタイアイスは車内販売されないんだな……と悲しくなる。 そして、乗車15分まえに買ったし、シンカンセンモウカタクナイアイスだった。
アイスを食べ終えてからは、記憶がない。気づいたら名古屋だった。
名古屋駅で、近鉄のホームに来たら、電車を待つ人は無秩序にホームにたたずんでいて、車両のドアとか何も気にしていなかったし、電車が着いても「先に並んでいたひと」という概念がないので、運良くドアの近くにいたひとから電車に乗りこんだ。東京とかから帰る途中、この近鉄のホームの無秩序さを目の当たりにすると、まだ名古屋から三重まで帰らないと行けないのに、「帰ってきたなあ」と思うのだった。
名古屋駅から最寄り駅までも、寝ていたのでほとんど記憶がない。
帰宅したら、夕食は焼きそばだった。焼きそばの麺は、どれだけ頬張っても簡単に噛みちぎれた。武蔵野うどんは硬かった。
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2023/11/25
11月25日 結局だれとも会えなかったけれど、お休みの日はなるべく社会の中に自分に都合の良いものだけ触れたいキャンペーン中だったので良かったかも。
朝方4時ごろ目が覚めて今日(昨日?)までの豆乳の残りをレンジで温めて飲んで、インスタグラムを見ていた。ストーリーに“逃げる先はどこですか?”と問うてみたところ、大学時代の友人から“ない”と返ってきて!!と、思わず、そうですよね!!とメッセージを送った。 この時間なのにすぐ返事が返ってきてとても元気が出た。元気が出たからかお腹が空いてきたので一眠りした。
今日は観たかった展示をはしごできた。 渋谷パルコからスタートし、雑司ヶ谷、上野とPARCOのある街を渡り歩いた。 移動しながら一気下の方に借りたまま読めていない“黄色い部屋”を読んでいる人を電車で見かけたり、amazonブラックフライデーでおもちゃのプレゼントを選ぶ女性のiPhoneを眺めたり、2023ベストオブイヤー(ベストオブイヤーって何…)に投稿したいことが少しできたので、その内容をなんとなく頭で記述していた。
渋谷PARCOは今回も上階のニンテンドーエリアはとっても人が多くて他は静かだった。 PARCOの広告の展示を鑑賞。Special in youの大森さんや詩羽ちゃん、YMOや上野さん、ピチカートファイヴなど並べてみるとカオスだけどPARCOだな〜と感じる。 PARCOは今もちゃんと時代と共に変わっていて、今の時代に即したショッピングモール的商業空間に変わってしまったと思っていたけれど、ギャラリーの隣のセレクトショップで女の子2人が「渋谷PARCOが私たちを破産させにかかってくる!」と楽しそうにお洋服などを物色している姿がとても良かった。
今日はスクランブル交差点が小さくてボリュームダウンしてみえた。
雑司ヶ谷へ移動しタイロンギャラリーでqpさんのグループ展“精霊に捕まって倒れる”を鑑賞。 いつも京都での日々や写真が更新されるqpさんのSNSに、東京のお店や街やギャラリーの様子がアップされていて嬉しい。 ギャラリーは少し奥まったところの地下にあり、何度もゴルフ練習クラブにしか辿り着けず、諦めて帰るところだった。
目白まで歩いて上野へ移動。 芸大の陳列館で青木淳の退官記念展を鑑賞。建築家なのに(?)よい言葉��セレクトをされる。やわらかい言葉の使いかたをされる方という印象。今回のキャプションにもそれが表れていて良かった。言葉を大切にしている建築家。展示のキャプションのデザインは菊地さんが手がけていた。 展示会場から根津駅まで歩き途中に良い感じのお花屋さんを3軒見つけた。
早めに帰宅してなんの魔が刺したのか生卵を買って(絶対に使いきれない)、ぶんぶんチョッパーで混ぜて余ったトマトもぶんぶんして、レンジでチンしてみている。 (卵をぶんぶんしてみたかった欲は満たせました!)
そのままレンジに放置して日記を書いたり写真データの整理を始めてしまい、ほったらかしの卵料理にサルモネラの食中毒が不安になる。知恵袋の回答にあった、1日は大丈夫ですよ、を信じたい気持ち。
ブラックフライデーで何となく散財してしまいそう。
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「家」開催によせて
12月8日に下北沢spreadで企画します。
普段はバンド主催の形で企画することが多いけど今回は個人として企画します。
企画は割とよくするけど、どうしてもバンド出演も兼ねると、気も張るし単純に体力が持たなくて観たかった人たちの演奏を平常心で見れるケースがかなり少ない、特に東京で演奏するとなると、バンド単位で移動だと車が基本になるからかなりキツい。(この前は初めて新幹線で移動して演奏したけど、負担も少ないし良い演奏できるし絶対マストだ、と思った。)あと、京都に来てもらうとなると交通費とかの経費がかかってそれも負担になる。大阪に比べると人もあんまり入らないし。うーん、という感じで最近は過ごしてました。
そんな時に、たまたま京都市の補助金を見つけ、一気に企画の構想が浮かんで、応募すると受託された(正確に言うと受付の要件を満たした事業者の中で抽選があって当選した)、ということで東京で企画することになった。
ちなみに応募したのはこれ↓
https://aak2024.kyotoartsupport.com/
今回は「若手交流促進枠」での採択を受けた。
なので京都から行く象の背と自分の交通費実費分が補助されることになります。
コロナ禍で文字通り、若手交流だったりバンド活動自体が中断したのは自分も象の背もなので、この機会を活かさないわけにはいかない!と思った。
話を戻す、思いついた企画の構想は嘘偽りなく今決まっている人たちで新しいコンセプトの企画をする、ということだった。
ライブハウスやそれに付随する文化とか空気が苦手な自分が、それでも企画して何をしたいんだろうと考えたとき、思ったのは「その場にいる一人ひとりが1人でいれる場所を作りたい」「そこにいることが意思になる場所を作りたい」ということだった。そのために作ったグランドルールも一読いただきたいです。
音楽もそうやけど、一般的に優劣のジャッジに付随するのは、大きさ・強さ・数という尺度だと思う。そこに反抗するための小ささ・弱さ・少なさにも魅力はあるけど、その尺度を手放したいとずっと考えている。
1人で目をつぶっていてもいいし、その場から離れてもいいし、あいさつしなくてもいい。暴力や差別が存在しないことが努められている空間の中で、そこにいる人が好きに過ごしてほしいと思ってます。
そして、その尺度から離れさせてくれるような人たちを今回は呼んだ。
M.A.Z.E.のbushbashでやってたコロナ禍のライブ映像、かなりしびれたのを今でも覚えている。
言葉にして発することの責任とか行く先が画面を通して貫通した。
メンバーの演奏が掛け算や割り算じゃなく、ちゃんと足し算として形になる喜び。(象の背もWETNAPもそうかも。最近はこの感覚を信頼している。)
なによりも音源もライブもめっちゃイケてる。東京で観れたらめっちゃ上がると思ってお誘いさせていただきました。まだお会いしたことが無いですが、真摯に対応いただき、胸が熱くなる瞬間がすでにたくさんあります。出てもらえてうれしい。
youtube
WETNAPも最高。カセット出した時のライブをネガポジで観たことがあるけど、過出力でシステマチックを拒絶したパンクでうれしくなった。レコードの作品も当然カッコいい。あんまり自分の語彙ないけど、パンクを聴きたいじゃなくて、WETNAPを聴きたいと思う。あと、一方的に3名ともカッコいいと思わされるエピソードがあってかなり信頼しています。まだ対面して話したことないけど。すみません。ライブハウス苦手と言ったけど、ライブハウスでWETNAPの名前があったらめっちゃ安心するんじゃないかと思う。
youtube
象の背、この組み合わせで観たかったから本当に良かった。
勘違いされているとは思わないけど、関西でグッとくる組み合わせで象の背観るの少ないからマジで楽しみ。比較的距離の近い位置で演奏や活動を観ることが多いけど、やりたいことをしっかり選んで活動をしている姿、かなりカッコいいと思う。年上だけじゃなく同世代の人たちにもっと観てもらいたい。現在の京都で最もいいバンドと断言できるのでマストで観てもらえれば!
DJにminorsuicide。村上くんとは先日初めて会った。でも、ずっと前からその活動や言葉に、いつも背中を押されています。詩やZINE制作を主体に活動されているけど、いつかのツイートでDJをやられていたような…と思いだした。
DJの姿は見たことないけど、自分も参加させてもらったZINEに付属されていた彼の曲を聴いて、DJとして参加をお願いさせてもらった。どんな場所にいてもここに居座る、黒くて形のない感情みたいな暗闇が融和していくような感覚。そういう瞬間が自分の企画にも訪れてほしいと思ってます。自分だけのリズムを見つけたいし、見つけてほしい。
自分も今回DJをする。Spreadは平日の夜に一回遊びにいった事があって、あまりにも空間としてカッコよくて衝撃を受けた。音もびっくりするぐらいよかった。そんな場所でDJできるのマジでうれしい。安心と緊張を繰り返す時間になるかも。
あと、クレジットしてないけどオープンの時間に友達のなかにしがDJしてくれる。本当はオープンの時間はDJとは別に自分が好きな曲流そうかと思ってたけど、この前会ったら「DJやりたい」って言ってくれたからお願いした。決まってからCDJ買ってて気合入ってるぽい。なかにしに甘えて、オープンの時間は会場でバタバタしようと思う。
今回の企画は入場料を固定していません。
500円から3000円の間で任意の金額を受付のboxに入れてください。
「実際いくらいれたらいいんやろ」となる人も多いと思うので、標準価格として2000円を提案しています。参考になれば。
この形は以前、京都芸術センターでやっていた公演で実施されていた形式を参考にしました。お金の価値は大事にしたいけど、それによって機会が奪われることはあってはならないと思ってるので、入場料が来場検討の足かせになる人にとっての負担を軽減できればという気持ちです。(Spread入場の際の1ドリンクチャージは別途お願いします。)
会場内にも投げ銭BOXを配置する予定なので追加で払ってもらうことも可能です。当然イベントなので会場費や出演いただく人たちの経費(出演するまでに発生している練習代などもあります)も発生しています。あなたにとって素晴らしいイベントになれば、追加で支払ってもらえると嬉しいです。
また、会場では「フリマ・出店自由」としています。
自分の作品を出展いただていもいいし、フリマ収入で入場料を賄ってもらってもいいです。入場料を支払ってもらう皆さまにもイベントを作り上げてもらえればと思います。自分もフリマと参加した作品の販売をしようと思ってます。
spreadは下北沢駅からスグですが、階段を下る必要があります。
会場ではシートを敷いて地面に座れる場所を作ろうかと思ってます。(当日の会場の状況次第でフリマスペースも兼ねるかもしれません。ご了承ください。)
来場いただくにあたり考慮すべきこと、不明な点があれば事前にご連絡いただければ幸いです。[email protected]
当日来場者には企画用に制作したパッチとZINE(フリーペーパー)をお渡しします。パッチは既に制作しましたがかなりカッコいい。イベントもカッコいいイベントだからパッチ無くなるくらい来てほしい。ZINEは今から作ります。毎回企画の直前に書いて印刷する。
最後に、企画のタイトルは「家」です。これからも続ける予定。
村上くんがブログに書いてくれた文章が全てと言っても過言ではないけど、
帰るための家、安心できる家、それは関係性でも血でもなく場所でしかない。
誰かにとっての家は、どこにでもあるべきで保証されるべきだと思う。
収益の一部は、家の鍵をもって避難を続けるパレスチナ・ガザの人々を支援する機関への寄付を予定しています。暴力と差別、そういうものを拒絶し反省する家。何度だってはじめたい。予約不要。あなたの歩みを心待ちにしています。
2024.12.08(Sun.) 12:00-15:00
@下北沢spread
入場料:\500-3000(標準価格\2000)+1drink
来場特典ZINE パッチ有
フリマ・出店自由
「家」
M.A.Z.E.
WETNAP
象の背
minorsuicide(DJ)
knit(DJ)
※収益の一部はパレスチナ・ガザの支援機関へ寄付します。
連絡/問い合わせ先:[email protected]
フライヤー配布場所:リンキーディンク下北沢1st,2st、下北沢ERA、Irregular
Rhythm Asylum、エトセトラブックス bookshop
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小玉くん
車検のタイミングで都内に移動したのと合わせて、友だちの小玉さんの展示を見に行ってきた。小玉さんは暮らしの中にある���の、目の前にあって書きたいと思ったものと書いている。容器、家具などの静物から、人、動物、鳥などもある。縦横無尽に、等価値に書いている。少なくとも、わたしにはそう捉えられる。一筆書きの丸も、バターケースも、どこかの女性も、誰かの手も、同じ目線、同じだけの重さ、軽さ。大きさの揃った紙だからかもしれない。振り返ってみると、コロナ前からそれらの絵を見ていたので5年以上はその絵を見ていることになる。昔の絵と今の絵を比べてみると、最近書いた絵になるほど、肩の力が抜けてるというか、書こうとして書いてない感じというか、そういう違いがあるなと思った。でも、等価値性は変わってないし、書いてるものによっては昔のものと見間違うものもあった。タッチに違いを感じるのは生きているものが特に顕著なのかなと思った。対象との距離感が変わったのかもしれない
会場のdessinは割と昔から通った、というほどではないけど、まだ駅から遠い場所にあった頃によく行った本屋で、Ren Hangの写真集を買ったのもここだった。Ren Hangのは高くてすぐに買うという決断ができなくて、店員さんに「絶対戻ってくるからちょっと時間ちょうだいね」と言って、周辺を歩き回ってラーメンを挟んでここで買わなかったら後悔すると思い切って買った思い出の本。今も大切に本棚にある。そんなことも思い出した秋頃の一日だった
小玉良行 小林一毅 絵本 画集 写真集 | dessin | 中目黒 | 古書古本の販売と買取
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東京五輪から2年 湾岸はいま
悪夢のようなTOKYO2020大会から2年が経った。 五輪のために姿を変えられたあの場所は、巨額の資金を費やして建てられた会場は、白いフェンスに閉ざされていた公園は、いま一体どうなっているのか。 湾岸エリアを中心に、フィールドワークを行った。
①築地市場
築地本願寺から場外市場に向かう。日曜日。外国人観光客、親子連れ、カップル。賑わいは築地市場があった頃と変わらないように見えた。どの店にも、昼食を目当てに沢山の人が並んでいる。
立体駐車場の最上階から市場のあった方を見下ろす。縦横に走るターレ、魚の並ぶケース、積み上げられたトロ箱、林立する仲卸の看板――それらが全て消え去り、でこぼこの、剥き出しのコンクリートだけが灼熱の太陽に焼かれていた。その一部は駐車スペースに。数台の自家用車。物悲しくなるぐらいしょぼい。
駐車場のわきに、築地市場の仲卸とおぼしき店名のプレートを付けたターレが放置されていた。よく見ると、ナンバープレートを外した痕がくっきりと残っている。
石原元都知事が主導した2016年五輪招致当時、築地市場を潰してメディアセンターを作るという話が出ていた。2020東京大会ではそれが「駐車場」にかわり、市場は2018年10月に東京都によって閉鎖された。選手村から競技場への輸送のために新たに作られた環状2号の全面開通は、五輪閉幕から1年以上も過ぎた2022年12月。五輪招致が、��民の台所を打ち出の小づちのように利権を生み出す空虚な「一等地」に変えてしまった。
築地を舞台にしたある連載漫画の中で、目利き一筋の主人公は何故か移転に何の葛藤もないまま「豊洲で頑張っていこう」と仲間に呼びかけていた。築地市場83年の歴史は、急速に「なかったもの」にされようとしている。
②月島
東京では五輪の前から、競技会場と直接関係のない場所でも各地で再開発が起こっていた。晴海にも程近い、湾岸エリアに位置する月島もまたその1つ。もんじゃストリートで有名なこの町は、一本裏道に入ると古い木造家屋が軒を連ねる下町らしさが残っている。私たちが2017年に訪問した際は、月島1丁目西仲通り地区再開発計画のためにもんじゃストリートの店舗が軒並み閉店していた。
そして今回訪ねてみると、MID TOWER GRANDなる地上32階、高さ121mの超高層マンションが建ち(2020年10月竣工)、その1階にもんじゃ屋などの店舗が入っていた。 月島ではさらに地上48階、高さ178.00mのタワマンを建てる月島三丁目南地区第一種市街地再開発事業、地上58階、高さ199mのタワマンを建てる月島三丁目北地区第一種市街地再開発事業が控えている。フィールドワークの後で知ったことだが、この月島三丁目再開発計画には反対運動や行政訴訟も起こっているとのこと。長年暮らしてきた人々の息吹が聞こえるような町並みが、大手開発業者によって姿を変えられようとしていることには胸が痛む。
③晴海選手村
カンカン照りの選手村跡地。ここはHARUMI FLAGなる高層マンション群として開発され、完成すれば5,632戸12,000人が暮らす街になるという。未だ工事中で通行できるのはメインストリートの車道のみ。焼けつくような暑さの中、誰もいないコンクリートだらけの空間は殺伐とした雰囲気が漂っていた。
選手村をめぐっては、東京都が適正価格の10分の1という不当な安さで都有地を三井不動産ら11社のデベロッパーに売却したとして住民訴訟が起きている。五輪という祝賀的なイベントが作り出す例外状態によって、公共財産が民間資本に吸い上げられた象徴的な場所だ。
街の中心に近づくと、左手には、大会中、大量の食材廃棄が問題となった食堂の跡地が、中央区立の小中学校(2024年度開校予定)として整備されていた。
右手には三井不動産の商業施設「ららテラス」。その1階には「東京五輪を振り返りスポーツの力を発信��る施設」として「TEAM JAPAN 2020 VILLAGE」が設置されるらしい。五輪と三井不動産のどこまでも続く蜜月がうかがえる。
その先では道路を挟んで左右両方の街区で50階建ての2棟の超高層タワーマンションが目下建設中だった。
選手村を訪れるとき、2018年、建設工事中に2人の労働者が亡くなったことを思わずにはいられない。その街区は、労働者の死という痛ましい現実を塗り固めるようにSUN VILLAGE(太陽の村)という輝かしい名前で分譲されている。 この街区だけではない。この街全体が、五輪によって引き起こされた問題などまるで何もなかったかのように成り立っている。この街ではとても生きていけない、生きた心地がしない。生気を抜かれたようにその場を後にした。
④潮風公園、お台場海浜公園
ビーチバレーボールの会場設営のため何年もフェンス封鎖されていた潮風公園。わたしたちは初めて公園内に入った。こんなに広かったのか!無観客のくせに、この公園全体を占拠していたなんて、ほんとうに厚かましい。
東京湾の対岸の埠頭にはコンテナが並んでいる。海をみてみると、うっ!海水は泥沼のような色。しかし、なぜか匂いはせず、潮の匂いさえもしない。ファブリーズでもしているのか?
わたしたちは、野宿の人たちが寝ていた場所を探して公園内を歩いた(東京オリンピック・パラリンピック競技大会組��員会による追い出し→https://x.gd/ZJP4d)。木がたくさんあってなかなか住み心地よさそうだと思っていたら、屋根のある排除ベンチにたどり着いた。なんて醜いデザインなのだろう。
次に「トイレのようなニオイ」と話題になったお台場海浜公園のビーチへ、匂いを確認しに行った。「遊泳禁止」の看板があり、スクリーニングのためと記してあったが、やはり汚染が懸念されているのだろろう。このビーチの海水も濁っていて、潮の匂いさえもしない。怪しい水質だ。
しかし、暑すぎる。灼熱の日差しの下で、ビーチバレーボールや、トライアスロンをやって、汚い海に飛び込んでいたのか。 知れば知るほど、オリンピック・パラリンピックは地獄だ。
⑤有明
有明の旧会場エリアへ。グーグルマップで見ると、どうやらこの一帯は「有明オリンピック・パラリンピックパーク」と名付けられたらしい。いまや地に落ちた電通がオリンピックでちゃっかりゲットした、唯一黒字と言われる有明アリーナへ。SNSではステージが見えない席があると不評を買っていたが、「ディズニーオンアイス」をやってるらしく、猛暑の折、駅から会場まで大勢の人だかり。
有明体操競技場はこの5月に「有明ジメックス」と名を変え、株式会社東京ビックサイトが運営する展示場としてオープンしたらしい。第一印象は「・・・神社?」世界的ウッドショックの最中に木材を山のように使って、10年程度で取り壊される予定とのこと。こんなに立派にする必要あったのか?
そこからゆりかもめの駅を越えると、フェンスで囲われた草ぼうぼうのワイルドな一角が。有明BMX会場跡地だ。グーグルマップには「有明アーバンスポーツパーク(2024年4月開業)」とあるが、いまのところ影も形もない。スポーツ施設より原っぱ公園の方が需要あるのでは?
有明テニスの森公園は工事パネルが外されて、開放感に溢れていた。こんな素敵な場所を何年もオリンピックのために囲って、市民を排除してきたかと思うとあらためて腹が立つ。
真夏の炎天下に火を燃やし続けた聖火台があった夢の大橋にも立ち寄った。観覧車が無くなっていた。東京都はこの夢の大橋を含むシンボルプロムナード公園の一角に、新たに聖火台置き場をつくって飾っている。東京都はいつまでオリパラの亡霊にすがる気か。。
⑥辰巳・東京アクアティ��スセンター
アクアティクスセンター
「威圧」を形にしたような巨大建造物。
建物の周りには木陰がなく、取ってつけたような弱々しい植栽が施されている。
正面外の、広すぎる階段は、車いす利用者でなくても、大げさすぎてびっくりする。コンクリートが日射で熱い。ゴミ一つ落ちていないのは、人が寄り付かないからだろう。
その下にたたずんで私は、ピラミッド建設のために労働を強いられている人のような気持ちがした。
ここは、公園の一部であった。近くに団地もある。誰でも入って、海からの風を感じながらくつろぎ、出会う場所だったはずだ。
5年前に訪れた時は、工事中で巨大な支柱がそびえたっていた。三内丸山遺跡にインスパイアされたのかと思ったが、出来上がったのは帝国主義の終点のようなしろものだった。
「お前たちが来るところではない。」という声がどこからか聴こえる気がした。
知ってる。だから入ってみた。静かだ。人っ子一人いない、空調が効いて冷え切っている。だだっ広いロビーの小さな一角に、TOKYO2020オリパラのポスターたちがいまだに展示されていた。
競争をあおり、序列化し、勝者に過剰な価値を与え、「感動」を動員するスペクタクルがここで続けられるのだ。
生きていくのに必要な潤いをもたらす公園に、このような醜悪なものが君臨しているのを私は許せない。
炎天下の湾岸エリアを丸1日かけて回った。TOKYO2020跡地は、廃墟になっていると思いきや、むしろ多くの場所でまだまだ開発が続いていた。開発への飽くなき欲望と「レガシー」への執着、五輪災害は閉幕後も延々と残り続けている。 この日撮影した映像を使って「オリンピックって何?東京からパリ五輪1年前によせて」という動画を作成し、1年後に五輪開幕が迫るパリでの反五輪の闘いに連帯を示すメッセージとした。 From Tokyo To PARIS, NOlympicsAnywhere
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はあ、幸せだった。この気持ちの全てを言語化できるとは思えないけれど、忘れぬうちに。
山さんに会うとき少しの緊張を抱えていたのだけれど、山さんが駅舎の柱と柱の間から見えたとき嬉しくなってニコニコでクラウチングスタートを切る私。膝小僧に乗せていた財布のことをすっかりと忘れて、小銭とカードをぶちまけた。まぬけなぶちまけを拾い拾い、拾い終えた私の目の前には爆笑の山さんが。「姿を見つけて柱の向こう側に移動したら、次のコマには財布ぶちまけてたわ笑笑」と山さんに言われて「山さん見て嬉しくなって走って!」と私は言い訳をする。もう緊張はいない。
山さんの手帳にはわたし用の旅の計画が書かれていて、その暖かさに一旦心で泣いてみる。お昼ご飯のお店に向かうとき、我々は一旦目的地から逆走してしまう。山さんは「今週ダメダメでね」なんて言うけれど、私は人間味を感じる瞬間を酷く愛しているのでむしろありがとうと思っていた。小さい草鞋の話をした。着。エビフライとオムレツとスパゲッティとハムとその他、私が喜ぶものがずらりと並ぶ定食を2人で食べた。
紹介していただいた展示を見に行くと「今日誰もきてなくて、初めての人です」と言われる。2番目の来客は小山さんという山さんの出身校の先生と小山さんの会社のかつなりさん(山が多い文章)、3番目は今見ている展示と同時期に展示をしているというデザイン科の学生の方だった。全員と糸で結ばれたみたいに名刺をガッといただき、返すものがないn度目の不便さを感じた。ありがたいことに小山さんの車にあれよあれよと乗せてもらい、別の展示へ。コンペで知り合った精力的なデザイナーさんと再会し、話を聞いて高鳴った。頑張らなきゃかもなと思った。そんな展示を見た後に糸が切れたように鼻血を出した。山さんがくれたウェットティッシュだけでは止まらず、かつなりさんがくれたポケットティッシュでも止まらず、小山さんがくれた箱ティッシュでようやく止まった。ビニール袋をくださるかつなりさんのファインプレーに���れた。大人になって、いたく興奮すると鼻血を出すようになったことを思い出す。そこから小山さんの展示に。そして3番目の方の展示に。山さんから作品に添えられる一言一言に、考え方が伝わってくる。どれも真っ当で清い。
作品と人々との繋がりを浴びて、2人とも歩き疲れた先のお店で、私にはクリスピーさんは白だしで山さんはだし醤油のように見えてるという話をしたら、「白だしではないと思う。ナンプラーかな」と言われる。お酢の話をした。土の話をした。自分のためにご飯を作る話をした。これだけ話したいことがあったのに、山さんに会いに行くまでにとても時間がかかった。不思議。山さんに読まれているらしいな、このアカウント、Tumblr。いいぜ、楽しんでいただけるなら。また会いにゆきます。
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1123-1129
1123 宇都宮の正嗣の餃子。フライパンをあたためてサラダ油とごま油を多めに引く。大さじ1ずつくらい。凍ったままの餃子を並べる。5人前の箱だと26センチのフライパンにぎっしり丸く並べられる(正嗣の餃子は小さいのでふたりで食べるなら5人前でちょうどいい)。そこに熱湯をまわしかけ、餃子が半分浸かるくらいにして強火で焼く。ふたをして5,6分。作り方の紙には「絶対に途中で弱火にしないでください」と書いてあって、絶対にって言われるの面白いなと思う。他人に絶対を求めることも求められることもそうそうない。水気が飛んで焼き目がついたらできあがり。 皮がパリッとしていて、具は野菜が多め。生姜がきいている。いたってシンプルなのになんでこんなに美味しいんだろう。冗談抜きに世界で一番美味しい餃子だと思っている。前に「水ギョーザとの交接」という小説を書いたのでいろんな人が餃子を食べに連れて行ってくれるんだけど、申し訳ないけどどこの餃子よりも正嗣の餃子が美味しい。本当に一番美味しい。 あとこの冷凍のは、家で焼いてもちゃんと美味しいのがすごいと思う。わたしの焼き方が上手いとかでもなく、紙に書いてあるとおりにやるだけでたぶん誰が焼いてもこうなる。ほかの冷凍餃子だと皮が破けたり焦げついたりけっこう失敗するんだけど、正嗣のは毎回パリッと焼ける。 正嗣のお店には「餃子専門店なのでライスやビールはありません」と書いてあってひたすら餃子だけを食べるストロングスタイルの店なんだけど、FCの駒生店のみライスがある。ので、宇都宮に住んでいたころはよく駒生店に行っていた。
1124 どうにも調子がよくない。きのうは同人誌の通販で本を入れまちがえて送ってしまったようで、一冊入ってませんでしたよとメールが届いた。ああついにやってしまったと思った。あわてて追加で送ったけどいつもできていることができなかった自分がショックで、きのうはそれを日記に書けなかった(それで餃子のことを書いた気がする)。 こういうメール送るのしぬほどめんどくさいよな…ほんとに申し訳ない。やっぱ疲れてんのかな。そしてついにやってしまったと思ったけど、もしかしたらこれまでもまちがえたことはあったのかもしれなくて、でもしぬほどめんどくさくて言い出せなかった人もいたかもしれないよな…と詮無いことも考えた。 えもとLINEで通話した。わたしのようすが明らかにおかしいのだろう、ちょっと休んだ方がいいよと言ってくれた。同時に「でも休んだ方がいいって言われるとなんかムッとすることはあるよね…」とも言ってくれたので、だめなときの気持ちがわかる人は優しいよな…と思った。だめなときほど焦ってしまう。送ってくれたナポリの男たちの動画を見た。
ここには書かない方がいいような気もするんだけど、まあこれは日記なので書くんだけど、ZINEフェス長野、noteの告知には出展者30人程度を予定って書いてあるんだけど開催前々日で集まっているのは10人(10組)っぽい。これって10人だけなんですかと軽い感じで出展者用のLINEグループでたずねてみたら、2日経って主催さんから「そうなんです…」と返事が返ってきた。こじんまりしてるのはそれはそれでいいと思うんだけど、お客さんから入場料300円とることになっているイベントで出展者10組だとちょっときびしくねえか…と思った。今からでも入場料無料にできたらいいんだけど。 わたしはこういうときすごく疑り深くなってしまうし性格がとても意地悪なので、もしかしたら主催さんも損切りを始めてるのかなーとか思ってしまった。ZINEフェスのtwitterアカウント、来年の吉祥寺回に関するリツイートはしてるけど長野はスルーしてるし。えーっどうしよう。遠出したい、ともかく電車に長く乗って遠くに移動したい…という気持ちで申し込んだから本をたくさん売ろうとは思ってないんだけど、やっぱりハラハラはする。 とりあえずペーパーを作る。だいたいおすすめみたいな本を一日一冊並べた読書カレンダー。そして文フリで使った優人さんのポスターをスチレンボードに貼ってみたらいい感じのパネルになった。これを文フリでやれって感じ。やることが2週間遅い。長野に持って行こうかなと思って作ったけど初めて行く場所でこれは目立ちすぎるし荷物になるよな…。
1125 明日ほんとに長野行くのかよ〜と思いつつゴルフの練習。ゴルフは小説の活動とあんまり関係なくやっている。こういうルーティンみたいなものがあるのはちょっといいかもなと思う。ゴルフ自体は、男!女!というスポーツでけっこうきついけど。 土曜だけどパートナーは在宅仕事で、仕事の前に肉を食べて元気を出したい…と言いお昼はブロンコビリーへ。いや食後ぜったい眠くなって仕事やらないだろ〜。と言ってみて、あっ完全にフリをやっちゃったなと思った。家に帰るなりちょっと食休みと言って布団に潜ってしまった。わたしは午後出かける用事があって、帰ってきたら同じ姿勢のまま寝てるパターンだな…と思ったし言った。言っちゃったから本当にそれをなぞっちゃいそう。フリとボケみたいな。悪いことしたなと思った。
渋谷ハチ公前のデモに参加。ガザの犠牲者の名前が読み上げられていく。一人一つ赤い涙を描いていく。名前はぜんぜん読み終わらない。名前と一緒に年齢も読み上げられる。ゼロ歳の名前が続き胸が苦しくなる。肌寒い日だった。通りすがりの人も参加しているように見えた。描くというアクションによって参加しやすい空気があったように思う。 小さな男の子が「Free Free Palestine!」と声を上げ、近くにいた大人たちもあとに続いてコールになった。男の子の(たぶん)お父さんは隣にいて横断幕を持っていた。自分が叫ぶと大人も叫ぶから男の子はちょっと楽しそうで、和やかな、けれども力強い時間だったと思う。デモのハッシュタグを検索したら西川火尖さんと冬野くじさん(きさめさん)の名前が見えて���自分が(一方的にでも)知っている作家の名前が見えるとなんだかほっとするなと思った。なのでデモのようすをツイートした。このあいだとぜんぜんちがう気持ちになっている。
渋谷◯◯書店の棚の補充。『顔たち、犬たち』など持って行った。久しぶりにのぞいたら思ったより本が売れていてわかりやすくうれしい気持ちになった。これもこないだと言ってることがちがうと思う。自分は現金だと思う。 明日のコピー本とペーパーの印刷でキンコーズへ。キンコーズのコピー機ってなんか難しいというか意地悪というか、いつもうまく扱えない。まあでもできたものはなかなかよかった。
帰ってきたらパートナーはやっぱり昼寝していて、いやでもやらなきゃだよな〜とかなんとか唸ってなんとか起きた。自分を見ているようだと思った。わたしも在宅のときってだいたいこう。 遅めの夕飯。トマトとじゃがいもとツナのパスタを作った。にんにくと玉ねぎのみじんぎりを炒め、じゃがいもとツナとホールトマトを入れて煮る。ほうれん草もちょっと入れた。かなりじょうずにできて自分で自分にびっくりした。なんか疲れていたので明日の準備も夕食の後片付けもせず寝た。
1126 ZINEフェス長野。暗いうちに家を出た。といっても朝6時の電車なのでぜんぜん始発とかではない。朝が来るのが遅くなった。空気がきんと冷えている。冬だなと思う。夜勤明けっぽい人やこれから仕事に向かう感じの人、朝まで飲んでいたっぽい人、大きなスーツケースを引いた人…。案外駅は人が多くて、みんな冬っぽい格好をしていた。遠出の気持ちが高まってワクワクした。優人さんのデカパネルは結局持って来た。ものすごく雑に梱包したけど、一回使ったポスターだからまあいいかと思った。でかいけど軽いし。リュック、トートバッグ、パネル。さほど本は持っていかないので身軽に荷造りできた。 電車で寝ていたらすっかり明るくなっていて、立川からあずさに乗り換え。寝てたからだと思うけどあまりに寒くてタイツを買った。あずさのトイレで履いた。 寒くてやけに腹も減っていた。ツナおにぎりと焼きそばパンとスコーンを買って食べた。あったかいミルクティーとコーヒーも。食べすぎだと思ったけどほんとに寒かったのでしょうがない。スコーン、かりっとしてふわっとしていてすごくおいしかった。駅のポップアップみたいなところでパッと買ったけどちゃんとお店の名前見ておけばよかったな…。津島佑子『笑いオオカミ』を読みながらうとうとした。松本に着いたのは10時前。息が白くて驚いた。山が近くて眺めのいい街。
イベントとか旅行とか楽しいことがたくさんあった日の日記ってうまく書けない。たぶんぜんぶ書こうとしちゃうからだと思う。結論からいうとすごくいい一日で、いいイベントだった。出展者は結局10組。それゆえの親密さがありのびのびしたイベントだった。 自分としては旅先の気安さもあったと思う。知っている人が誰もいない、初めて行く街の初めて参加するイベント。いつもより自由にふるまえた気がする。まったく知らない人、その場限りの人しかいない場所はあまり気をつかわない。リラックスして自分を開示できた気がする(とするとふだん自分が何をストレスに思っているのかがわかってくるな…)。 お客さんはけっこう来ていたように思うし、思ったより本も手に取ってもらえた。何よりお客さんとも参加者さんともたくさん会話ができてうれしかった。これ伝わるかわかんないんだけど、交流をしたい(人間関係をやりたい)わけではないんだけど、人と話はしたいんだよな…。 きのうまでの不安はどこへやら、じゃないな。この「開催前のもろもろに不安な要素がある」と「行ってみたら気さくでいいイベントだった」は表裏一体なんだなと思った。意外とか挽回とかではなくてこの雰囲気はこうでなくては出てこない。これについては別途イベントレポ的にまとめたいつもり。
どういうイベントになるか不安だったので、ネットプリントで印刷した「END WAR NOW」のプラカードを机に貼ることにした。あずさの中でふと思いついて、何かネプリないかなーとツイッターを検索した(戦争じゃなくて虐殺だと思うけど「STOP GENOCIDE」はネプリの期限が切れていた)。水色、ピンク、黄色。パンセクシャルフラッグのカラーだなと思った。 イベントの案内に政治的なことはだめって書いてあって、は?という気持ちがありつつ参加している。は?と思うならやめときゃいいんだけどなんだろう…。ダメって言われたら帰ったろと思って貼った。なんか試し行動みたいだ。 新しくてきれいな会場で、大きな窓から日が差し込んで明るかった。空も山もきれいで、ああ遠くに来たなあと思った。机は5台ずつ向かい合わせに置かれていて、机半分という話だったけど一人一台になった。奥行き60センチのでかい机。当然持ってきた布は大きさが足りないんだけどのびのび使えてよかった。いつになくちゃんと設営できた気がする。優人さんのデカパネルを机の前に立てかける。こういうのは文フリではできない。蹴飛ばされそうだし「スペースからはみでる」に抵触すると思う。自由にふるまえている。 そう、自由にふるまえている。リラックスしている。プラカードを貼って、新刊のでかいパネルを置いて、いつもはイベントに置かないコピー本『小説を書くquuerのzine』も机に並べた。「陰気なクィアパーティー」用に作った、通販はしたくないコピー本。いろんな人ともう一回初めましてからやり直したいみたいな気持ちってあるよな…と思う。
主催さんいわく、想定より規模が小さくなってしまったので入場料は無料にし、事前決済の人には返金したとのこと。そして今日参加している人は吉祥寺のシェアカフェを一日無料で使ってOKにしますとのことで、えっラッキーと思ってしまった。ほんとにわたしは現金なのだと思う。 イベントは11時から16時まで。全部のブースをまわっていろいろ話をし、全部のブースで買い物した。べつに義理とかではなくて、人の話を聞くのって面白いから、気になるものがなにかしらいっこはあるものだと思う(こういうとき思想的に苦手だな、無理だなと思うものはもちろんあって、それはそっと避ける)。 ただこういう場で小説って難しいかもなーとは思った。これは何ですか、どういうものを作っているんですか、あなたは誰ですかみたいな自分のことを話す場だと、フィクションの世界にチューニングを合わせるのはしばしば難しい。気になるものがぜったいいっこはある、にはなりにくい面がある。まあぶらっと来たお客さんにとってはそうでもないかも。長くなりそうなのであとはイベントの記事で書きます。
1127 尻が痛い。きのう帰りの新幹線、『笑いオオカミ』の真似をしてデッキの床に座ってみたのがきっとよくなかった。冷たい床だった。たぶんまた痔が破裂するだろうなと思う。最近イベント終わるたびにこうだと思う。 『笑いオオカミ』を読んでいたら、自分はこう見えてけっこう大食いでカレーを12皿おかわりしたことがあったとしゃべるシーンがあって、ZINEフェスで買った日記の本に「かきあげが美味しすぎてごはんを5杯もおかわりした」というくだりがあり、どっちがどっちだっけと一瞬混ざった。 長い小説は当然ひと息では読みきれないので何日もかけてちょっとずつ読み進める。その間に読んだほかの文章や生活の中で見聞きしたものと混ざってどこからどこまでが小説だったかわかんなくなる。それがけっこう好きだし醍醐味だと思う。 どこからどこまでが小説だったかわかんなくなるというのは小説そのものにちゃんと集中していないようでうしろめたさはあるんだけど、なんというか、わたしは人格全部で小説をやっていたいんだよな…と思う。物語に振り回されてうわの空で仕事したり、夢中で読んで寝落ちたり、べつのことをしているときにふっと思い出したり、目の前の景色と小説の情景が混ざり合ったり。みたいなの。なので書評とか感想とかがあんまり上手じゃない。そして、上手な感想とそれを述べる人がちょっと怖く思えてしまうことさえある(これはやつあたりかもしれない)。
1128 痔が痛いし生理も来た。イベントが終わると本当に毎度こう。ヨロヨロしていてなにも進まなかった。とても眠かった。労働のメールを書いていたら簡単な言葉なのにパッと出てこなくて自分で自分にがっかりした。本当におまえは小説を書いているのか、文章ぜんぜん書けないじゃんと思う。元気なときは、いやべつに文章うまくなくても小説は書けるでしょ(どのように書いても小説にはなるでしょ)と思うのに。
1129 引き続きいろいろ痛い。なんも進まない。『不思議の国の少女たち』を読んでいる。 異世界へ行って帰ってきた子どもたちの集まる寄宿学校の話。死者の国から帰ってきたナンシーが寄宿舎に入るところからはじまり、異世界から「帰ってきたくなかった」子たちが集まっている学校。 まだ読み始めたばかりで、ヤングアダルトはチューニングを合わせるのが難し���なと思う。でも急にカチッとはまる瞬間がある。 「王は敵だったけど、人生ではじめて俺をまともに見た大人だったよ」���これは妖精界から帰ってきたケイドのせりふで、あっいいなと思った。どうやらケイドはトランスジェンダーの男の子のよう。 そしてナンシーのルームメイトのスミが「あたしがオナニーしたらいや?」とあっけらかんとたずねるところでめっちゃいいな!と思った。夜遅くにルームメイトが自慰をしてもいいか。見たくはないからそんなこと言わないでくれとナンシーは困惑し、まあそれはそうなんだけど、なんていうのかな…女の子の生活に自慰があると書かれていることにほっとした。「女の子だと扱われる子の生活」にそれがありますと書かれているのがうれしい。 子どものころ長期休みにホームステイとかサマースクーリングとかよく案内が来ていたけど、それをやってみたいかどうか考えるより先に、あるいは費用の捻出のような実際的なハードル以前に、長い期間他人の家に泊まったらそういうのどうするんだろうと思っていた。だから自分には無理だと思っていた。すごくばかみたいだけどほんとに。そしてあるとき友だちが「ホームステイって生理とか気をつかいそうだよね〜」と言い、わたしはそれに強く同意した。自慰の話をする代わりに生理の話をした。
日記、毎日更新すると��ラバラうるさいかなと思って1週間分まとめてみたけど、これはこれで長いな…。
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2023.9.8fri_tokyo
8時半起床、夜中に流れてきた岡田索雲さんの「追燈」というネットcomicを読み始めて、読み終えた後眠れなくなって3時に寝たので眠いです。漫画は関東大震災が起きた100年前の東京を舞台に、朝鮮半島出身者の男の子が目の当たりにした出来事のお話。受け止めなきゃと思いながら、人間の狂気が怖くて眠れなかった。 ※リンクから無料で読めます
ちょうど昨日、俳優のカトウシンスケくんに偶然あって、彼が出演している現在上映中の”福田村事件”の話をしたところ。これも関東大震災直後の実話に基づくお話で、映画の予告を見ると「十五円五十銭」と言わされるシーンがあり、胸が痛すぎる。漫画にも出てくる狂気の言葉。映画、絶対見なければいけない。
そういえば5時半に寒くて一回起きてしまったのだった。暑すぎた夏だったけど、もう寒くてかけ布団を探すなんて。寂しい気持ちになりながら、台風が近づいている雨の音に耳をすます。静かにしとしと、地面や草花に雨が当たる音、きれい。
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7月から、下北沢のボーナストラックという施設を運営している会社で、週に2回くらい働き始めていて、10時半からはその金曜定例会議。雨が強すぎるので、オンラインで参加することにして準備。こないだ鎌倉で買ったパラダイスアレイのパンを食べながら(酸味がうま〜)、報告内容をまとめる。余った時間で、個人活動として動いている案件を進める。秋に開催のいくつかのイベントの更新や、各所にメールの返信をするも、永遠にタスクが溜まっていくのだ。告知もめっちゃ溜まっている。自分のキャパせま、おそ、つら。うそ、順番にやるしかないだけなので、シンプル。やる。
新しい仕事が始まってからは、インプットが多い毎日で、リズムがうまく生み出せなくて、この2ヶ月は、飲み会もライブも遠ざけてきた。人と話すのも、音楽聴くのも、ちょっとキャパオーバーで断りまくり。(みなさんごめんなさい)特に音は聞けない泣 だけど9月に入ってから、これだ!っていう感じで、うまく気持ちを抜けるようになってきたので、心も暮らしも復活してきた。それでも、コロナが落ち着いてきたここ半年くらいの世の中の急な全力疾走にはついていけなくて。けど、ついては行かずに、でも、止まらずに歩いて行き先を決めていくことをしながら、バランス取って休む。みたいなことができるようになった。あと、毎日歳もとっているので。
10時半。会議は毎度面白いなーと思う。毎回約10人が参加していて、それぞれ発言の時間があるのだが、発表の仕方も話の聞き方にも個性があって、勉強になる。自分が今進めていることも信じてくれることとか、すぐに自由にやらせてもらえることとか、とても嬉しいし気力になるし応えたい。
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12時に終了して、今日は朝からずっと卵焼き食べたいと思ってたので、白米を食べようと、ささっと茄子の味噌汁も作る。家に必ず常備している鳥取の”陶山商店”さんの乾物のうるめ(ワカメみたいだけど強い食感がおいしい)と奥出雲の干し椎茸で出汁をとる。うまい〜 この乾物シリーズには太田夏来さんのレシピがついていてそれも最高なのだ。納豆と、山クラゲの和物、キューリ塩揉み、茗荷の梅酢漬、質素で簡単なご飯だけど、こういうのが一番贅沢。10分で準備して、15分間で食べる。テレビも音楽も聞かずに携帯も遠くに投げて、食べるだけをする時間をする。食べるを意識することだけの時間、だいじ。
14時から打ち合わせがあるので、カッパを着て駅まで向かい電車で3分の下北沢へ。施設で毎月開催している本のマルシェの担当になるので、施設内の本屋さんとも、もっと連動できないか相談と、これからの進め方について。やるからには、自分が一番楽しいと思えることがやりたいし、諦めるをしたくないので、伝える。いい話ができた1時間だった。無理なく、だけど熱量を持ってやっていきたい。
この後の会議の前に、施設内ギャラリーでやってる新潟のツバメコーヒーさんの10周年を記念した、”工芸と工業のあわいにあるもの”という展示会へ。今展示会で初お披露目のオリジナルドリッパーを試しながら自分でコーヒーを淹れることができるので、久々にコーヒーを淹れる。「丁寧に淹れますね」と言われるが、自分にとっては心地よいリズムなのと、どんなに癖のある豆を使っても、コクとかを飛ばして、スッキリシンプルな味わいになっちゃうのが悩みだったので、相談すると、「スッキリって何事にも良くないですか」と返してくれた。ツバメの田中さん、すごくおもしろそうな方だった。もっと喋ってみたかった。
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16時からのイベント反省会は、みんなが正直ですごく良い会議だった。ここが好きだよ!ここむかついたよ!気づかなくてごめんね!みたいな、正直な大人たちの優しいぶつかり合い、大好き。会社のみんなは本当に個性強くて、それぞれのやり方や、得意・不得意があるけど(自分も然り)人の話をちゃんと聞いてくれる優しい人たち。頭の回転が早く、柔軟で、おもしろい。ちゃんと愛があるし。
そんなブレストは2時間を超えて、飲み会へと移行されていき、それぞれの人生における大事な音楽を発表→みんなに聴いてもらう→それについてみんなで語る。という、胸熱な時間になっていきました。久々に聞いたラポン・シュポンのライブ映像、めちゃくちゃよかった。
最初はカラオケの順番みたいに、ルールを守ってたけど、最後はみんなかけたいタイミングで音楽を流していく始末(とてもいい始末)。時間は流れていき、舞台を見るために途中抜けしたはずのあやかたんも(まだやってるの?笑 と)戻ってきてくれて、酒を飲みながら、スナック菓子をひたすら食べまくる永久時間は終電ゴングで終了。雨が降っていなければ、半分はチャリメンだから、永遠に終わらない飲み会だったので、終電様感謝。雨も小雨になってきた。
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その後、降りる駅が一緒のミヤジと歩いて帰りながら「この信号が変わったらもういくからね!」を繰り返して30分後、無事帰宅。 今日のタスク全然終わってない、やばいな…………みんなごめん…って思いながら、顔だけ洗って寝転んで、さらに超眠いのに、どうしても「ハヤブサ消防団」が見たくて、パソコン開いてTverつけたままご臨終。
日記で振り返りながら、今年は特に、1日が終わっていくのが、1週間が、1年が早すぎる。仕事も友達と遊ぶのも大好きで大事だけど、それより何より、誰かとデートがしたいです。旅行いって、ダラダラする感じ、やらないと。改めて感じたのであります。赤裸々日記終わりでございます!
-プロフィール- 鷹取愛 40 山ト波 @opantoc
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Windows HeartBeat #9 (1994年3月) 永久プログラマー このところ、ハードウェアとソフトウェアが車の両輪のように、うまく歩調を合わせて、進化している。7、8年前、Windowsやページ記述言語のPostScriptに出会った時、どうして、こんな大げさなソフトウェアが必要なのか、疑問を持った。8086や68000など初期の16ビットMPUが全盛の時代に、システムサイズが600KBや1MB近い基本ソフトは、処理速度も遅く、普及するとは思えない代物であった。 4、5年前、WindowsやPostScriptが米国で定着したのを見て、「ソフトウェアの開発には時間がかかる。ハードウェアの急速な進歩を見越して、数年先を先取りしたシステムデザインをしなければならなかったのか」と合点した。 そして現在、開発に時間がかかるはずのシステム・ソフトウェアが、ハードウェアと同じスピードで、どんどん変化している。 新しいソフトウェアが矢継ぎ早に発表される背景には、米国を中心としたコンピュータ・サイエンスに対する基礎研究の充実と、膨大な良質のソフトウェア資産の蓄積、そしていくつかの極への開発の集中が挙げられる。極とは、マイクロソフト、アップル、IBMなどのシステム・ソフトウェア・メーカーである。 システム・ソフトウェアの変化が激しくなると、アプリケーション・ソフトウェアの開発者は、その理解のために、開発時間の多くを割かれることになる。Windowsにしても、開発キットに添付されているサンプル・ソース・プログラムを試し、入門書を読み、プログラマーズ・リファレンス・マニュアルを眺めないと、その「思想」は理解できない。 DOSには、思想など存在しなかったが、Windowsは明らかに思想を持っている。思想に反した使い方やプログラミングを行なうと、Windowsはぎこちない動きをしてしまう。 ソフトウェアの作成工程は、設計、開発、試験の3工程で、工数は各工程でちょうど3等分されると昔からいわれてきたが、Windowsのアプリケーション開発では、その前に「調査」という工程が入る。思想を理解する工程である。Windowsは、グラフィックス、テキスト操作、メモリ管理、フォント操作、デバイスドライバなどで様々な思想を持っている。DOSでは生き字引きが何人もいたが、Windowsのすべてを理解している人は、世界中探しても見つからないであろう。Windowsプログラマーといっても、開発実績を持つ特定分野のことは理解していても、他の分野については素人である。新しいソフトウェアを作る時には、Windowsプログラマーといえども、先ずは調査をして、あれこれ試してみる必要がある。 Windowsだけをとっても、たくさんのソフトウェア技術者が毎日、たいへんな苦労をしながらプログラミングしているのが、日本の現状である。その上、今後、C++を理解し、クラスライブラリの使い方を覚え、OLE2やODBCを使いこなさねばならない。 昨年のComdex/Fallで華々しくデビューしたMicrosoft Office4.0では、アプリケーションが画面上にアイコンとして表示される、新しい試みがなされている。また、Word6.0では、ダイアログ内にメニュー展開用の「タブ」という新しいユーザ・インタフェースが採用された。MDI(複数文書操作)、OLE(オブジェクト結合手順)などの例に見られるように、アプリケーション開発チームが実現させた基本機能を、システム側が取り込むのがマイクロソフトの通例となっている。アイコン表示やタブもその内、OSの機能として組み込まれるのであろう。Windowsの次バージョンであるChicagoで、タイトルバーの文字列表示が左寄せに変わっても、アプリケーションでは何の変更も必要ない。しかし、タブをサポートするためのは、ユーザ・インタフェースの設計からやり直さなければならない。 Excel5.0のような、3Dの立体感のあるダイアログの作成でも、Windows3.1の開発キット(SDK)を使って実現するには、結構苦労した。それが、VisualC++1.5のMFC2.5には、標準ライブラリとして入っているらしい。VC++1.5にはもっと大切なOLE2対応のクラスライブラリや、ODBCの各種ドライバも入っている。Accessエンジンもロイヤリティなしでアプリケーションに組み込んで使えるのである。開発環境も、いつになく速いペースで改善されつつある。 システム・ソフトウェアや開発言語が、急速に進歩する「過渡期」であるため、プログラマーは勉強の連続になってしまう。過渡期といっても、この状態が21世紀まで続く可能性があり、Windowsソフトウェアを開発しようとしても、どこから、何に手を付けて良いやら分からない状況となりつつある。高級なクラスライブラリやオブジェクト指向OS、Visual Basic for Application(VBA)のような1ランク上の開発ツールの出現など、待てば待つほど、充実した開発環境でプログラミングが行えることが目に見えている。 パソコン・ハードウェア本体の「半年で旧型機」と同じサイクルにシステム・ソフトウェアも突入してしまった。東芝の部長さんが言っていた「最高のダイナブックが欲しければ、死ぬ1日前に買いなさい」というブラックジョークが笑えなくなってきた。 最高の開発環境で仕事をしたければ、死ぬ1日前に着手しなさい」ではプログラマーは誰も笑えない。 開発に着手したプロジェクトでは、更に話は複雑である。 A君は優秀なWindowsプログラマーである。彼は、1年半ほど前に、「これからはC++の時代だ」と一念発起して、マイクロソフトC/C++7.0とクラスライブラリMFC1.0を使って、アプリケーションを作り始めた。半分ほどプログラミングした時点でVisualC++1.0が米国で出荷された。その開発環境の良さやMFC2.0の高級な機能に刺激されて、VC++に開発環境を移行した。MFC1.0は、Win16APIにクラスライブラリの皮を被せただけの簡単なものである。彼はこの上に、独自の高級なクラス構築していたのだが、MFC2.0が見事にそれを葬ってくれた。MFC2.0に合わせて、モジュール構造から作り直すのに6ヵ月ほどを費やした。 そして、今、彼はVC++1.5への移行を真剣に考えている。ソフトウェアを出荷できるのは、いくらがんばっても今年の年末。その頃にはExcel5.0やWord6.0の日本語版も出ているに違いない。「OLE2をサポートしないソフトなんて、みんなに見向きもされないのでは?」と心配している。VC++1.5に付属しているMFC2.5のOLE2サポート機能は魅力である。独自に裸のOLE2をサポートするなど、ひとりでプログラミングを行なっている彼にとっては気の遠くなる話だ。マイクロソフトはMFC2.5でOLE2をサポートするために、2万行ものプログラミングを行なっている。これを使わない手はない。 Win32も気になる。半年も待てば、VC++2.0が出荷されて、32ビットで高速に稼働するアプリケーションが作れるであろう。Win32APIは、マイクロソフトが推奨しており、Macへの道も開かれるので、ぜひとも対応したい。このままVisualC++1.0で開発を続けるか、1.5に乗り換えるか、はた又、2.0まで待とうか。とにかく、MFC2.5のOLE2部分は使うことに決めたようである。 Chicago、Cairo、OLE、ODBC、MAPIなどの登場、そしてVisualC++の立て続けのバージョンアップで、「僕のプログラミング・スピ��ドより、OSや言語の変化の方が、速度が速い」と、彼は嘆いている。今年の終わり頃には、オブジェクト指向OSであるCairoが姿を表わすであろう。すると、Win32APIよりも、はるか上位のプログラムインタフェースがクラスライブラリとして提供されることになる。完璧なソフトウェアを目指す、プログラマーの鑑のようなA君は、Cairoへの対応をすぐに検討するであろう。 こうして、プログラマーとしてA級の技術を持つA君は、プログラミングをやり続け、いつになってもソフトウェアが完成しない「永久プログラマー」となるのである。
永久プログラマー
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おはようございます。
宮城県仙台市は曇り空です。
昨日は朝から職人さんの中塗り作業準備をしてから、明日11日から15日までの五日間、宮城県仙台市の夢メッセみやぎにて開催される、全国やきものフェアinみやぎの展示会準備をし、お昼過ぎからは仙台へ車移動。
予定通りに夕方前に到着し、近くのスーパーにて買物後にチェックイン。
会期中の衣服やらアレコレと部屋で整え、晩酌後には知らないうちにZzz
そして今日はこれから展示会の搬入日。
今日もアレヤコレヤと有りますが、一人焦らず一つ一つコツコツ頑張ります。
皆様にとって今日も、良い一日と成ります様に。
https://jujiro.base.ec
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ストンマラソン爆弾テロ事件(ボストンマラソン ばくだんテロじけん)は、アメリカ合衆国のマサチューセッツ州ボストンにて、第117回ボストンマラソンの競技中であった2013年4月15日14時45分頃(現地時間。日本時間16日3時45分)に発生した爆弾テロ事件である。 概要 事件現場の位置 この日、ボストンでは第117回ボストンマラソンが開催されていた。ボストンマラソンはアメリカ3大市民マラソンに数えられる大会で、国内外から多くのランナーが集まっていた。そのレース中、ゴール付近のコプリー広場(英語版)で2度爆発が発生、その際に3人が死亡、282人が負傷したと報じられている[1][4][5][6][7]。 1度目の爆発はトリニティ教会などがあるコプリー広場近くのボイルストン通り671番地の「マラソン・スポーツ」前で発生し、それから12秒後にゴールから見て2ブロック、距離にして約100m離れた地点で2度目の爆発が起きた[8][9]。この爆発で周辺の店舗の窓ガラスは粉々に吹き飛ばされ[9]、ボストン公共図書館3階の窓も破壊された。現場付近には他に2つ、ないしは3つの不発弾が発見され、ボストン市警察の爆発物処理班によって処理されたと報道されたが、後に爆弾は爆発した2つのみと判明した。 事件の発生当時、ゴール付近に設置されていた記録用の時計は「4時間9分43秒」を指しており[10][11]、これは前回大会で最も多くのランナーがゴールした時間帯であった。今回もトップランナーたちは2時間ほど前に現場を通過しており、後方にも多くのランナーが走行していた[9]。 捜査当局の発表によると、爆発物はいわゆる即席爆発装置で、圧力鍋が使用されており、殺傷能力を高めるためにボールベアリングや釘などの金属片が含まれていた[12][13]。また、このような攻撃が迫っていることを示す事前の兆候はなかったとしている。 公的機関の発表によると、4月16日現在で8歳男児・29歳女性・ボストン大学院生の中国人女性の3人が死亡し183人が負傷した[6][14]。地元紙「ボストン・グローブ」(The Boston Globe) によると、100人以上が様々な施設で治療を受けている[15]。22人はマサチューセッツ総合病院に、10人はボストン小児病院(Boston Children's Hospital)に、9人はタフツ・ニューイングランド医療センター(Tufts New England Medical Center)に、20人はブリガム及び婦人病院(Brigham and Women's Hospital)、20人はボストン医療センター(Boston Medical Center)に搬送されたという。少なくとも10人が手足の切断を余儀なくされた[15]。 アメリカ政府の対処 事件直後の現場の様子 事件の連絡を受けるオバマ大統領 事件発生後すぐにマラソンは中止され、ボストン市警察は事前に取り決められていた対処計画に基づいて残っていたランナーをボストンコモン(中心部にある大きな公園)やケンモア・スクエア(ボストン大学近くにある大通り)に避難させた[13]。ゴール近隣にあるラノックス・ホテルからも全員退避させた[13]。警察は爆発現場周辺15区画を立ち入り禁止にした。 この事態を受けて、バスや地下鉄を運営するマサチューセッツ湾交通局(MBTA)は運行の一部を停止させ[9]、マサチューセッツ州軍(Massachusetts National Guard)[13]とアメリカ海軍の部隊が、地元当局を援助するために加わり、爆発物処理班が付近の捜索を行った[15]。また、連邦航空局(FAA)は念のためボストン上空の飛行を制限し、ボストン・ローガン空港にいる飛行機には地上待機命令を発した。 事件を受けてエリック・ハンプトン・ホルダー司法長官は、事件捜査にアメリカ司法省の総力を投じるよう指示[13]。ニューヨーク市警察は対テロ部隊の車両を主要な地点に展開させ、ホテルなどの警戒態勢も引き上げた。ワシントンD.C.でも警戒態勢が引き上げられ、ホワイトハウスで部分的に避難が行われたほか[13]、シークレットサービスによってホワイトハウスに繋がるペンシルベニア通りが封鎖された。また、加害者は特定されていないものの[16]、連邦捜査局(FBI)はテロ事件として捜査を進めた。 マサチューセッツ危機管理庁(Massachusetts Emergency Management Agency)は、電話が輻輳したため、近隣の人々に電子メールを使うよう呼びかけた。なお、携帯電話の回線は込み合ったものの正常に作動していた。またアメリカ赤十字は、ランナーの情報が得られるよう援助を行ったほか、ボストン市警察は家族の安否を心配している市民のためにホットラインを設置し、情報提供を行った。このほか、Googleの安否確認サービス「グーグル・パーソン・ファインダー」が「ボストン・マラソン爆発事件」(Boston Marathon Explosions)に関する災害サービスを用いて、情報を収集した。 事件の第一報を受けたバラク・オバマ大統領はホワイトハウスで緊急記者会見を行い、「誰がこのようなことを行ったのかを究明し、責任を取らせる」と声明を発した[17]。オバマ大統領は連邦警察当局に対して「必要な支援などを行うよう」指示を発している[4]。またアメリカ合衆国下院のジョン・ベイナー議長は、連邦議会議事堂に被害者のために半旗を掲げるように指示した。 影響 同日に予定されていたNHLのボストン・ブルーインズのホームゲームが延期となり、翌日に予定されていたNBAのボストン・セルティックスのホームゲームも中止となった[18]。 また、イギリスの大きなマラソン大会であるロンドンマラソンの主催者は、マラソン自体に差し迫った脅威は無いものの、この事件を受けて警備体制を見直すことを発表した[19]。 国際陸上競技連盟(IAAF)会長のラミーヌ・ディアックと、国際オリンピック委員会(IOC)会長のジャック・ロゲは、共にボストンでの事件に際し、テロがスポーツ競技会を標的にしたことを非難する声明を発表した[20]。 事件は捜査当局を過敏にさせた。ガーディアン紙によると、合衆国内の夫婦で、夫が「リュックサック」、妻が「圧力鍋」と検索したところ、自宅に警察が事情聴取にやってきた[21]。 「エシュロン」も参照 容疑者 情報収集による容疑者探し 東海岸時間4月18日17時20分(日本時間19日6時20分)に行われた記者会見で、FBIが容疑者2人の写真と監視カメラのビデオを開示した。それによれば、容疑者はそれぞれバックパックを担ぎ、脇目をふらず行進している。FBIは、判別に関連した情報を一般から募集した[22][23]。 両足を切断した被害者のジェフ・バウマン(Jeff Bauman)[24]は爆弾の一つの脇にいて、意識を取り戻した際、FBIに "bag, saw the guy, looked right at me"(カバン、男を見た、私を見た)というメモを渡した[24]。バウマンは後に容疑者の1人が爆発の2分半前にバックパックを下ろしている様子の詳細な記述を当局に提供し、判別写真の速やかな提供に貢献した[24][25][26]。当局は後に容疑者写真の公開が「間違いなく捜査のターニングポイントだ」としている[27]。 容疑者はFBIによって証拠の写真とビデオから容疑者1と容疑者2と呼ばれ (またはそれぞれ "black hat"(黒帽)と"white hat"(白帽)) — 爆破後に「正常でない反応を示した」犯人は止まって爆発の余波を見守り、逃げるような素振りはなく、落ち着いた様子で現場を歩いて去った[28]。容疑者特定の協力を要請したところ、一般から大量の写真と家庭ビデオが捜査当局に提供され、当局とオンラインソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の一般人が詳細に吟味したが、SNSでは多くのデマが広がり大手メ���ィアにまで掲載されたほか、redditによる一般人の捜査によって、赤の他人が犯人とされる事態も起こった[29][28][30]。 容疑者の特定 一般からの情報に基づいて[31]、当局は容疑者を、2002年頃に難民としてアメリカ合衆国に移住したチェチェン共和国出身の2人兄弟と断定した[32][note 1]。 タメルラン・ツァルナエフ(Tamerlan Tsarnaev、ロシア語: Тамерлан Царнаев [ta-mer-LAN tsar-NA-yeff] 兄。1986年10月21日生まれ、事件時26歳。 技師を目指しマサチューセッツ州で評価の高い2年制のコミュニティー・カレッジで、工学専攻。 タメルランは、ボクシングでオリンピック出場を目指しており、2009年と2010年にニューイングランド・ゴールデングローブ・トーナメントに優勝、全国大会となるナショナル・ゴールデン・グローブ・トーナメントに出場を果たしていた[33]。 ジョハル・ツァルナエフ(Dzhokhar Tsarnaev、Джохар Царнаев [dzho-KHAR tsar-NA-yeff] 弟。1993年7月22日生まれ、事件時19歳 マサチューセッツ・ダートマス大学(英語版)で口腔学専攻。 捜査官は、爆弾作成をアルカイーダが、ムスリムをテロリズムに勧誘する目的で発行したとみられるオンラインマガジン『インスパイア("Inspire" )』から学んだものと確信している[34]。 警官殺害と自動車強盗 写真の公開後、容疑者はマサチューセッツ工科大学の26歳の警備警官ショーン・コリアー(Sean Collier) を複数の銃撃によって射殺したとみられる。その様子は暗殺と表現された[35][36]。コリアーは4月18日、午後10時48分マサチューセッツ工科大学キャンパスのStata Center (MITビル 32)の横に停車したパトカーに乗っていた[37][38]。コリアーは近接したボストン市内のマサチューセッツ総合病院に運ばれたが、死亡が確認された[38][39]。 容疑者はベンツSUVをケンブリッジで乗っ取り、ベンツの所有者にATMの使用を強要して$800(7万円相当)を奪った[40][41]。容疑者は荷物をベンツに移し、もう1人の容疑者がホンダ・シビックで伴走した[42]。被害者はATM引き出しの上限に達したあと、ガソリンスタンドから警察に連絡した。車に残った携帯電話によって、警察は所在地を特定した[43]。車乗っ取りの犯人は被害者に、彼らがボストン爆発とMIT警官殺害を実行したと明言している[44]。 銃撃戦により兄が死亡 4月19日午前0時過ぎ、ウォータータウンの警官がホンダのセダンと盗まれたベンツSUVに乗車している兄弟を発見し、ローレルアベニュー(Laurel Ave)で、兄弟と到着した警官のあいだで「猛烈な」銃撃戦が展開された[2][44][45]。200-300発の銃弾と少なくとも1つの爆弾、それに幾つかの"粗雑な手榴弾"が使われた[45][46]。兄のタメルランが銃弾を使い果たし、警官が兄を押し倒して逮捕するに伴い、弟のジョハルは盗まれたSUVを運転して警官に向けて突進し、そのためSUVはタメルランを轢いて、短距離ながら引きずった[47][48]。シリアル番号を消されたルガー9mmピストル1丁が現場から検収された[49]。 タメルランは警察によってBeth Israel Deaconess Medical Centerに運ばれ、同病院で死亡した。死因は、多数の銃創、自爆装置付きベストからの爆傷と思われる傷[50][51]、およびジョハルによって轢かれた際の負傷[43][45][52]だとされる。一方、ジョハルはSUVを乗り捨て、徒歩で逃走した[50][43][53]。銃撃戦の際、MBTA(マサチューセッツ湾交通局)の警察官、リチャード・H・ドナヒュー・ジュニアが重症を負った[54]。ドナヒューはMount Auburn Hospitalに運ばれ、「重体だが安定」(critical but stable condition)と診断された[55]。 逃亡した弟の捜索 FBIは、ウォータータウンでの銃撃戦の最中、両容疑者の追加写真を公開した[56]。4月19日早朝、ウォータータウンの住民たちに、リバース911通報による屋内待機が呼びかけられた[57]。同朝、パトリック・マサチューセッツ州知事も、ウォータータウン及びその周辺地域(Allston-Brighton、ボストン、Belmont、ブルックライン、ケンブリッジ、ニュートン、ウォルサム[58][59])の住民たちに屋内退避を指示した[60]。 ウォータータウンの20ブロック区域に非常線が張られ、戦闘装備の警官たちが一帯を捜索する間、住民たちは自宅に待機してドアの呼び鈴などに応じたりしないよう指示された。2機のブラックホーク・ヘリコプターが上空を旋回し、装甲車に乗ったSWATチームが隊列を組んで移動し、警官らが一軒一軒を調べた[61]。現場にはFBI・国土安全保障省・マサチューセッツ州兵・ボストン市警察・ウォータータウン警察・マサチューセッツ州警察が駆けつけた。アメリカ同時多発テロ事件の発生後に組織された複数機関合同タスクフォースとしては初の大規模実地行動となった[62]。 MBTA管轄下の全ての交通機関、ボストン地域の大部分のタクシー、ボストン発およびボストン行きのアムトラックが運営を停止した[37][63]。ローガン国際空港は運営を続行した[63]。大学・学校は閉校、多くの企業・商店や施設も営業を停止した。数千人または数万人(原文: thousands[64])に及ぶ警官らがウォータータウンで各建物を回る一方で他の手がかりも追った。ケンブリッジ市のツァルナエフ宅とウォータータウンの捜索を合わせ、最低7個の即席爆発装置が押収された[65][64]。 両容疑者の父親が、ダゲスタン共和国マハチカラの自宅から息子に「あきらめろ。あきらめろ。おまえには明るい未来が待っているんだ。ロシアに帰って来なさい」と呼びかけるとともに、アメリカ合衆国に対しては「(ジョハルが)殺されたりしたら、大騒動になるでしょう」と警告した[66]。メリーランド州Montgomery Villageに住む叔父(または伯父)も、ジョハルに自首するよう、テレビを通して懇願した[67]。 ジョハル・ツァルナエフ逮捕を祝うMission Hill地域の住人たち 弟の逮捕 4月19日夜、ウォータータウンのある民家の裏庭にあったボートのタープの下に隠れていたジョハルを警官たちが取り囲んだ[68][69]。屋内退避命令が解除された直後、同宅の住人が外に出たところ[70]、裏庭のボートにかけてあったタープが緩んでいることに気付き[68]、血溜まりに横たわる体をボートの中で見つけたため、即座に警察に通報した[71]。 マサチューセッツ州警察のヘリコプターが、前方監視赤外線熱線暗視装置を使用して、ジョハルの存在と動きを確認した[2][72]。ジョハルがタープを突付くような動作を始めると、警官たちはボートに向かって大量発砲し、現場指揮官の命令によってようやく中止した[73]。逮捕後、ジョハルが一切の武器を所持していなかったことが判明した[74]。逮捕時刻は、現地時間(アメリカ東部標準時)午後8時42分である[75][76]。 その後、Beth Israel Deaconess Medical Centerに運ばれ、頭部、首、手足に多数の銃創[77]がある重態[78]だと診断された。当初、首の傷は自殺未遂による銃創だと報道されたが、逮捕時に武器を所持していなかったことと、SWAT隊員による描写では切創らしいということから、爆発時の破片によるものである可能性がある[79]。 なお、この容疑者捜索による屋内退避は、18時間近くに及んだ[80]。 葬儀 タメルラン・ツァルナエフの遺体は、住民の反対運動などによりマサチューセッツ州内の墓地に埋葬することができなかった。イスラム教徒であり、火葬にすることもできなかったため海外への移送を行うことも難航。最終的にはバージニア州に居住する叔父が遺体を引き取ることとなり、地域からの反発を受けないよう同州内に搬送され速やかに墓地に埋葬されている[81]。 裁判 2013年7月10日にジョハルの初公判はボストンの連邦裁判所で開かれ、4件の殺人を含む30の罪状で起訴された。ジョハルは全ての罪状について無罪を主張した。2015年4月8日に連邦陪審は全罪状に有罪を認定し、同年6月25日に連邦地方裁判所は死刑判決を言い渡した。この際ジョハルは「爆弾事件は自分が兄とともに行なったものである」とはっきり述べ、「自分が人を殺し、苦しみを引き起こしたことについて申し訳無いと思っている」と、法廷内にいた事件の被害者や遺族らに直接謝罪したが、死刑判決には控訴するものと見られている[82]。 2020年7月31日に連邦高等裁判所は死刑を言い渡した一審の判断を破棄し、刑に相当するかどうかをめぐる量刑審理を地方裁判所に差し戻した。被告側は陪審による死刑の量刑判断が公正ではなかったと主張しており、高等裁判所の判決は陪審選定時の地方裁判所判事の陪審候補に対する質問が不十分で、被告は有罪だと予断を抱いていた人物が陪審に含まれる結果になったと指摘し、陪審選定手続きの不備を認定した[83]。トランプ政権側は決定を不服とし上訴した。 2021年3月22日、連邦最高裁は高裁の差し戻し審理の決定を見直し、死刑判決の適用を検討する審理を決めた[84]。 2022年3月4日、最高裁は9人の最高裁判事のうち保守派6人が賛成、3人が反対の評決で、ジョハルの死刑を破棄した高裁の判断を覆し、地裁の死刑判決を回復させる判断を示した[85]。 民族的背景 容疑者のツァルナエフ兄弟はチェチェン人の血を引くキルギス出身のアメリカ人。二人の父はチェチェン人、母はアヴァール人、祖父母は世界大戦中にチェチェンを追われ、キルギスに強制移住させられた[86][87][88]。チェチェン系であることから、イスラーム過激派の本事件への関与が一時疑われたが、FBIの捜査によればテロ組織との関連は見つからなかった[89]。因みに、弟の名前はジョハルであるが、チェチェン独立派でチェチェン・イチケリア共和国初代大統領の名前と同じであり、独立派政権時の首都グロズヌイの公式市名はジョハル(Соьлжа-ГIала/Джохар-Гӏала/Dzhokhar-Ghala)であった。 脚注 注釈 ^ チェチェン語: Царнаев Анзор-кIант ДжовхΙар および Царнаев Анзор-кIант Тамерлан. 出典 ^ a b Deborah Kotz「負傷者合計282人に上昇」『The Boston Globe』2013年4月23日。2013年4月23日閲覧。 ^ a b c Carter, Chelsea J.; Botelho, Gregory 'Greg' (2013年4月20日). 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ボストンマラソン爆弾テロ事件 - Wikipedia
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2024年4月20日(土)
連休中の移動はしたくないので、一週間早い遠出を楽しんだ。目的地は<田辺市立美術館>、私も関わった<紀伊山地の霊場と参詣道>の世界遺産登録20周年を記念した展示=熊野の風景を楽しんだ。熊野と縁のある画家たちの仕事ぶり、田辺文化の底力が具現化されている。往復5時間、滞在2時間弱の強行軍だったが得るものは多く、体は疲れたが胸は一杯になったことだ。
5時45分起床。
日誌書く。
洗濯。
朝食は今朝も煮麺を頂く。
珈琲。
ツレアイに昨晩の残りのタケノコご飯をおにぎりにしてもらい、玉子焼きと漬物で弁当を用意する。
2時間30分掛けてたどり着いたのは田辺市立美術館。
田辺市の高台の公園の一角にあり、天気もよいので大勢の家族連れが花の写真を撮り、木の下で弁当を拡げている。
まずは弁当を拡げて腹拵え、その後観覧料260円をシニア割引130円にしてもらって入場、心に栄養を吸収した。とくに、稗田一穗の作品には強く惹かれるものがある。
昨年3月に満100歳で亡くなった、和歌山県田辺市出身の日本画家、稗田一穗(1920-2021)の回顧展を和歌山県立近代美術館と田辺市立美術館の共同で開催いたします。 10代半ばで日本画家を志した稗田は、東京美術学校に学び、戦後、本格的に画家としての活動をはじめました。鳥を主要なモチーフとした、生命を寿ぐような素朴で力強い表現や、世界的な絵画動向を意識しつつ画材の特質も発揮した画面構成は、日本画の地平を拓くものとなります。 また60歳を迎える頃よりは、故郷、和歌山の熊野の地をモチーフにした、悠久の時間を想わせる荘厳な風景と、長らく生活を営んだ東京の成城の町をモチーフにした、詩情あふれる日常の風景が主要なテーマに加わり、個々の作品はもちろん、あちらとこちらを行きかうなかで、見る者を深い思索と想像に誘う独自の世界観を築きます。 田辺市立美術館の会場では、各時代の主要な作品を通して稗田の画業全体をふり返ります。また熊野古道なかへち美術館(田辺市立美術館分館)の会場では、熊野の地をテーマにした作品を特集して紹介します。80年以上を日本画の研究に費やし、戦前から戦後の絵画に大きな足跡を残した画家の画業を改めてご覧いただくことで、故人を偲ぶ機会といたします。 特別展 稗田一穗展(田辺市立美術館)
往路は事故渋滞などあったが帰路は順調、早めに帰宅して、トラベラーズノートに今日の記録を採った。
4人揃って夕飯、ベーコンと筍のバター醤油、豚バラとキャベツのシークワーサー蒸し、ポークステーキ、レタスとトマト。
録画番組視聴、刑事コロンボ。
第65話「奇妙な助っ人」/ Strange Bedfellowsシーズン 1, エピソード 65 サラブレッドの牧場を経営するグラハムは借金の返済に困る弟テディに頼まれ、レースの八百長を約束する。貸主で��フェィアとも関係があると噂されるブルーノに儲けさせ、借金を帳消しにする計画だった。しかし、彼は薬を使い、勝つべき馬を負けさせてしまう。
片付け、入浴、体重は600g増、よく食べたからね。
疲れたので日誌は明日のことにする。
終日車移動だから仕方なし。
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2024/5/22〜
5月22日 ずっと眠い東京出張の1日。 待たされ時間も含めて5時間、新宿の西口をうろうろした。 重い荷物が今日は一段と重たい体感で、気持ちよく散歩もできず、ただへとへとと移動し続けてしまった。 ナチュラルローソンのコバトンは一羽いなくなっていた。 西口の大きくて綺麗で、犬を連れたり、会社のランチ会でピクニックイベントをしたり、リモートワークをしたり、お昼寝をしたり、まっすぐコクーンタワーを見つめながらお弁当を食べている人々のいる公園に行った。 ナイアガラの滝があった(これが?!あの?)。 バラも咲いていた!
本当はSOMPO美術館の北欧絵画の展示を観たかったけれど、次にも打ち合わせが控えていて心に余裕がなく行けなかった。 帰りの電車で嘘みたいに眠って、早く帰れたから何もしないで寝てしまおう!と思ったのに、掃除をしたり掛け時計を掛けようとしてできなかったり、リモートでお仕事をしてしまった。
明日満月を控えた月が窓の外に出ている。 何をしたいか具体的なことは思いつかないのだけれど、ただ「写真のことをしたい!」と頭に中に文字が浮かび続けている。何もできなくて虚しくなるだけなのに。
いいちこのポスターの新作を見つけられることくらいが、東京の良いところです。今のところ。
5月23日 今日は満月。 もう無理なので、来月は土日も出勤してお仕事をするつもりで今するべきことに少��余裕を持たせることにした。でも本当良くない。
もうすぐ閉店するスーパーは、どんどん売り場が縮小されていって、生鮮食品以外は売り切れおしまいの感じで日々焦ってしまう。 干しエビとか海苔とかごまとか調味料とか、日々摂取したいものがどんどん無くなっていっていて焦る。すりごまは金から売り切れてしまい、残りは白、黒の順で少ない。
写真のことしたいです。
5月24日 今日は金曜日だからみんな優しかったし、みんなの優しさを受け入れる事ができた気がする。 避けられている上席の方から、一言の会話を持ちかけられて「!」と緊張したり、ちょっと褒めてもらって素直に嬉しかったり、良くしてもらっている職員さんと良い話ができたり、2年前の上席の方と朝の駅ですれ違って挨拶できたり、朝起きた時に絶望的に体調が悪くても、今日出勤しなくては月曜日に運ばなくてはいけない書類を作ることも持ち帰ることもできない!!と出かける事ができた。 できてしまった。
先週失敗された採血の腕がまだ荷物を持ったりすると痛くて青まま、来週の健康診断でまた採血をする。
写真のことがしたい。
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緊急脱出時、車いすのお客様はどうなるのか? 鳥塚亮えちごトキめき鉄道代表取締役社長。元いすみ鉄道社長。 1/9(火) 10:58 羽田空港で日本航空の旅客機が海上保安庁の飛行機と衝突するという事故が発生しました。 これだけの大事故でありながら、日本航空の旅客機に乗り合わせた乗客、乗員379名全員が脱出に成功したことは不幸中の幸いだと思いますが、これを実現したのはクルーの皆様方の不断の訓練と、乗務員としての心構えであり、また、乗客の皆様方の冷静な行動と協力だと海外メディアからも絶賛されているようです。 ところで、こういう緊急脱出時に車いすのお客様など行動に身体的な制約があるお客様はどうなるのでしょうか。 そのような疑問をお持ちの皆様も多いと思いますが、航空会社の対応やどのような考え方で規則が成り立っているのかをお話させていただきます。 事前のお申し出が必要です 車いすなど、特別なお手伝いを必要とされるお客様はどの航空会社もご予約の際に事前にお申し出いただくことが必要とされています。 一例として車いすのお客様が飛行機にお乗りいただく場合ですが、航空会社では3つのカテゴリーに分けてコードを付けています。 WCHR:階段の上り下りなどはできるが、長距離の歩行ができない方。 WCHS:階段の上り下りはできないが、飛行機のドアから座席までは一人で行かれる方。 WCHC:一人で歩行ができない方。
航空会社ではご予約時にお客様のお申し出から上記3種類のどれに該当するかを判断し、どのようなハンドリングが必要かを事前に準備します。 事前準備には、チェックインカウンターに車いすを用意して、搭乗ゲートまでご案内する職員を確保することはもちろんですが、飛行機がボーディングブリッジを使用するゲートに発着する場合以外の、いわゆるスポットからタラップで機内に入るゲートを使用する場合は、ハイリフトと呼ばれるエレベーター型の自動車を手配することもあります。その場合、機内でお座りいただく座席の位置も決定します。 車いすのお客様は非常口座席には座れない 車いすのお客様のみならず、身体的な移動制限があるお客様のことをPRM(passengers with restricted mobility)と呼びます。 PRMのお客様はご旅行の際に例えば優先搭乗など様々なサービスを受けることができますが、航空旅行では同様に様々な制約が課されます。 その一番大きなものはお座りいただく座席の位置です。 移動に制限がある車いすなどのお客様、あるいは介助が必要な方は足元に余裕があるお席を求められる傾向があります。また、搭乗したドアの前のお席であれば、出入りに便利です。 しかしながらバルクヘッドと呼ばれる非常口前の広めのお席はそういうお客様にお座りいただくことはできません。その理由は緊急脱出時に他のお客様の障害(impediment)になるからです。 こういう表現をするとクレームされる方もいらっしゃるかもしれませんが、すべては国際的に定められている「90秒以内に脱出を完了する」ためのもので、全員のお客様がスムーズに脱出するためには、車いすをはじめ、PRMのお客様はあらかじめお座りいただける座席の位置が決められています。 乗務員はお客様の体に触れることは許されない 車いすだけではありませんが体のご不自由な方は介助が必要な場合があります。でも、乗務員は機内でそのお手伝いをすることはありません。 トイレや食事、あるいは移動など、身の回りのお世話が必要なお客様は、介助する方と同伴でご搭乗いただく必要があります。 上記カテゴリーのWCHC(機内での移動も一人ではできない方)の場合、たいていの航空会社では機内の通路専用の車いすを準備していますので、それを利用して移動していただきますが、その車いすからの乗り降り、通路から座席の横移動についてはご自身で、あるいは介助の方にやっていただく必要があります。乗務員がお手伝いをするのは車いすを押すだけです。これはどこの航空会社も同じです。 小さな子供がぐずったりした場合、子供を抱き上げてあやすのはサービス的には美談かもしれませんが、乗務員は子供を抱き上げてあやすようなことも基本的にはしません。お客様の身体に触れるような行為は一切禁じられています。 車いすの方のお席は限られている 車いすの方がご利用いただけるお席は限られています。 飛行機の機種にもよりますが、1機当たりの車いすの方の利用される上限人数が2名とか4名などと限られている航空会社が多くあります。 また、お座りいただける座席位置も限られます。 非常口座席などにお座りいただけないのはもちろんですが、機種によって座席の位置が指定されている場合が多く、特にWCHC(自分で機内移動ができない方)の場合はひじ掛けが上がる席となります。そして、お座りいただくのは窓側のお席となります。 車いすの方は通路側の方が便利かもしれませんが、車いすの方が通路側に座ってしまうと、緊急脱出の際に窓側のお客様が脱出できなくなる可能性があるからです。 以上のような理由により、車いすをはじめ、PRMのお客様はご予約の際に事前に航空会社にご連絡いただく必要があるわけで、ご連絡をいただかずに空港にいらしたときには、その時の機内の状況によっては、ご搭乗を次の便にお願いするなどということも発生しますし、ご自身でご予約サイトから事前座席指定をされていたとしても、その座席は無効になり、航空会社が指定した座席にお座りいただくことになります。 緊急脱出の際にはどうなるか これははっきりと明示されている文章はありません。 ただし、客室乗務員の訓練時のマニュアルにはこのように書かれています。 某航空会社の客室乗務員訓練マニュアルから抜粋 内容としては ・身体的行動制限があるお客様は事故発生時には大きなリスクに直面する。 ・大多数の健常者の脱出の妨げとなってはならない。 ・定期便やチャーター便などの一般のフライトでは、緊急事態発生時には乗務員から満足なサポートは受けられない。 ・乗務員は自分の身を危険にさらしてまで救助を手伝うようなことはしてはならない。 ということです。(チャーター便というのはPRMの方々の団体、例えばパラリンピックへ向かう選手団のような団体の貸切などと考えられます。) 筆者の友人で30年の経験を持つ客室乗務員が、若いころ訓練時に教官に 「どうしたらいいんですか?」 と尋ねたことがあります。 その時の教官からの答えは「最悪の場合は置いていく。」だったそうです。 これが航空会社のPRMのお客様に対する考え方です。 「車いすの方は、どうしたら安全に避難できるんですか?」と質問したら、「プライベートジェットしかない」と言われたということが数日前にネットで話題になっていましたが、回答者は救急搬送用の飛行機などの存在を示していると思われます。 定期便の旅客機というのはあくまでも公共交通機関であり、緊急事態発生時には最大限の効率的避難を求められるものです。 この議論が日本人になじまない理由 以前にもこのニュースで書きましたが、航空輸送というのは運送約款に基づく契約の世界です。 義理人情にあつい国民性の日本ではなかなか受け入れられないものかもしれません。 緊急脱出時の対応も運送約款に基づく契約としては、はっきり言ってドライなものです。 これは航空機というものが西洋を中心に発展したものであり、細かな規則やハンドリング規定というものがアメリカやヨーロッパの法律をもとに作られているからかもしれません。 そして、その西洋社会と日本社会を比べた場合、考え方が根本的に違うその大きな原因は、日本人の法律的考え方の中に「善きサマリア人の法」というものが存在していないか、あるいは希薄であると言われています。 この「善きサマリア人の法」についての解説はここでは行いませんが、災害発生時のトリアージと呼ばれる優先順位を付けた救助や治療行為なども、日本で論じられるようになってからの歴史はまだ浅いものがあります。 今回の海上保安庁と日本航空機の羽田空港での衝突事故を見ても、海上保安庁の隊員5名がお亡くなりになられているのも関わらず、ペットが2匹死んだことが大きな議論になったりするのを見ても、日本人の考え方に特徴的なものを感じます。 緊急事態が発生した場合に客室乗務員が最終的にPRMのお客様をどうするかということは上記のマニュアルには書かれていませんが、その根底にあるのは「目の前に困った人がいれば見て見ぬふりはできない。できる限りのことをしなければならない。でも、そのために自分の身を犠牲にすることは許されない。」という考え方が国民の間に浸透している社会かどうかということではないかと筆者は考えます。 補足 客室乗務員はお客様の体に触れてはならないというのが大原則です。 しかしながらWCHCのお客様が搭乗される際、あるいは降機の際に「お手伝いしましょうか?」と言って屈強な男性クルーがお客様をヒョイと抱き上げて機内を移動している姿を筆者は何度も目撃しています。 欧米ではお客様の体に触れることは、後々様々なトラブルの原因になりますから、基本的にはお手伝いをすることはないのですが、お客様の同意を得て、証人となる他の同僚がいる場所で、「自分にできることは何でもする。」というのが乗務員の考えだと感じました。 ただ、そのことをお客様の側から期待されて、求められてもお手伝いはできないということをご理解いただきたいと思います。 今回の日本航空機の事故でも、PRMのお客様が乗っていらしたと聞いておりますが、きちんと全員脱出できているのも、クルーの皆様方の不断の努力と的確な判断力があってのものであると、高く評価していただくに値するものだと考えます。 皆様方の安全で快適なご旅行をお祈りいたしております・ 参考 善きサマリア人の法(Wikipedia) 緊急脱出したら手荷物はどうなるのか(YAHOOニュース 2024-1-3) ※おことわり 本編は筆者の長年にわたる航空会社での経験をもとに、読者の皆様方の一つの参考となることを目的として平易に書いたものであり、各航空会社の取り扱いを示すものではありません。また、本編の内容につきまして、各航空会社へお問い合わせをされても航空会社が回答の責を負うものではありません。 あらかじめご了承ください。
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