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#展望電車きらら
ntakemura · 2 years
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今年もこのシーズンに突入。 再び訪れたい地です。 撮影:2021年11月 #train_vision #traingarally_ig #もみじのトンネル #鞍馬線 #叡山電車 #きらら #展望電車きらら #旅に出よう日本を楽しもう #日本ツアーズ #紅葉 #ライトアップ紅葉 #鉄道写真 #鉄道のある風景 #東京カメラ部 #ニコン #原色 #railways_of_our_world #nikon #almostperfect_wheels #kings_transports #gris_premium #nightscape #写真好きな人と繋がりたい #写真撮ってる人と繋がりたい #nikon #nightgram #ファインダー越しのわたしの世界 (Kyoto, Japan) https://www.instagram.com/p/Ckyyq-QSrFj/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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shunya-wisteria · 9 days
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夏旅2024 延長戦 - 身延山久遠寺
青春18きっぷがまだ残っている。ということで夏旅の延長戦、日蓮宗総本山 身延山久遠寺へ参拝してみた。
菩提梯から五重塔、本堂へ
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三門を抜け緑美しい石畳の参道を進むと目の前に見えてくる絶壁の階段、菩提梯。高低差104m、段数287段、角度はおよそ45度と大変険しい道のりを途中 小休止しながら進みます。
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登り切れば涅槃(煩悩が絶たれた安らぎの気分)に達し、心穏やかに先の伽藍へ足を進められる、はずなのですが。。。登り切ったところで立ち眩みがしてしまい、近くのベンチで10分強ダウン。(自分より年長者や小さな子供が通り過ぎていく横で)思った以上に体力が落ちている情けない事実に悲しくなりました(涙)持ち直したところで五重塔、本堂を見学。
身延山山頂・奥之院へ
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ロープウェイで身延山をさらに登り奥之院へ。山頂に降り立つと心地よい風がお出迎え。涼しい、と思わず声が出てしまうほどの気温差がありました、快適!そのまま奥之院 思親閣へと歩みを進める。静寂と澄み切った空気に包まれた厳かなお堂、素敵でした。
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近くの展望台からは身延の街並みを見下ろすことも。この時点で��良いお天気でしたがちょっと入道雲のボリュームが心配。。。足早に山を下りて帰路へ。
蛇足
今回は、都内から東海道線 熱海・富士を経由し富士から身延線にて身延へ。帰りは身延線でそのまま甲府に進む中央線経由で帰る予定でしたが、怪しい雲行きの予感が的中し、身延線 甲府方面はゲリラ豪雨により運転見合わせに。1時間ほど待ったところ富士方面の電車がやってきたため、予定を変更し来た道を折り返すことになりました。久しぶりに雨男の宿命を感じました。
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というわけで東海道線経由で帰ったわけですが。。。旅で心は満たされたけれど、お腹がちょっとひもじいな(さっそく煩悩にまみれだした)、ということで熱海駅で途中下車。駅の商業施設にてさくっとお寿司でお腹も満たして、のんびり帰りました。
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kennak · 2 months
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その事件は私が1歳の時に起きました。覚えていることはありません。 中国人の父と母は、大きくなってからも私に語ろうとはしませんでした。 中国政府は事件の死者数を319人としていますが、それよりもはるかに多いという指摘もあります。 あれから35年。真相は今も、明らかにされていません。 あの時、私のもう1つの祖国で、何が起きたのか。 (中国総局 高島浩) 日本人の祖母と中国人の両親 私の祖母は日本人です。満蒙開拓団として旧満州に渡りました。 戦後、帰国できずに大陸に残った「中国残留婦人」で、養子に出されていた中国人の男の子を引き取り、育てました。のちの私の父です。 父は中国人の母と結婚。1988年に中国東北部・黒竜江省で私が生まれました。そして6歳の時、国の援護事業のもと家族4人で帰国し、私と両親は日本国籍を取得しました。 私が生まれた翌年に起きた「天安門事件」 1989年6月4日。中国の首都・北京で、あの事件は起きました。 天安門広場に集まった民主化を求める学生や市民たちを、当時の共産党指導部が軍を出動させて武力で鎮圧した「天安門事件」です。 軍による発砲などで多くの犠牲者が出ました。中国政府は死者数を319人としています。 しかし当時、北京に駐在していた各国の外交官の報告などから、犠牲者の数はそれよりもはるかに多いという指摘が根強くあります。 中国政府はこの事件を、政治的な「騒ぎ」で「すでに結論が出ている」という説明を繰り返しています。 「知る必要はない」父のひと言 戦車の前に立ちふさがった市民の姿。民主化の動きを武力で制圧した事件。 天安門事件の前の年に生まれた私は、日本の教育で学ぶまで、こうした事件の表面的な情報でさえ、知りませんでした。真相を公表せず、事件を人々の記憶から消し去ろうと腐心してきた中国政府からみれば、もくろみどおりに育った、ある意味で“優秀な中国国民”だったでしょう。 中学生の時、一度だけ父に事件について尋ねたことがあります。そのときの父のことばが記憶に残っています。 「よく知らないし、知る必要はないよ」 記者になって、父と私のもう1つの祖国でもある中国のことを話すことが増えました。父は自分が共産党員だったことを明かしてくれました。共産党の実態を知っているからこそ、私に忠告したのです。 「天安門事件に関心を持つことで、いつか中国に赴任した時、どのような理不尽な目に遭うかわからない」 遺族取材の担当に もう逃げない 4年前の2020年、希望がかなって中国南部の広州駐在の記者となりました。 当局の厳しい監視下に置かれた人権派弁護士の家族などを取材。私自身も当局者に連行され、警察署に留め置かれる経験をしました。 国家の安全を最優先する習近平指導部は言論統制を一段と強め、外国メディアの取材環境はますます厳しくなっていることを身をもって感じてきました。 天安門事件は、そうした中国社会の中でも最もタブー視されていて、深く取材すればどんな目に遭うのか。恐怖すら感じていました。 私と同じように中国の若い世代は事件を知りません。私がおおまかな概要を話すと、「うそを創作するのが上手ですね」と、まるで信じようともしません。今の中国社会の現実です。 事件がまた1つの節目を迎えたことし、北京に赴任、遺族取材の担当となりました。 そして、誓いました。事件を深く知ろうともしてこなかった過去から逃げず、まっさらな気持ちで取材しようと。 集会を断念した遺族グループ 6月4日に向けて取材を始めたところ、ある情報が入ってきました。 これまで5年ごとの節目に、遺族グループが開いていた追悼集会が断念に追い込まれたというのです。原因は当局による厳しい監視のためでした。政府が例年以上に神経をとがらせていることが感じられました。 遺族グループの名は「天安門の母」。グループは集会の代わりに先月(5月)、海外の動画投稿サイトに声明を公開しました。 「私たちには軍隊が銃撃に及んだ真相を知る権利がある」 「政府は社会に謝罪し、私たちに公正と正義を返しなさい」 事実を隠ぺいし、遺族の日常生活への干渉を続ける政府を強く非難する内容でした。 そして、いまなお分からない犠牲者の正確な数や名前の公表、犠牲者と遺族への賠償、責任者への法的な追及を求めました。 厳しい監視、通信遮断の面会 声明が公開される少し前、グループの中心メンバーの遺族を訪ねました。今の気持ちを伝えたいと、当局の監視をかいくぐって取材に応じてくれた張先玲さん(86)。 遺族に直接、話を聞くのはこれが初めてです。心臓がバクバクと打つ胸を必死でおさえました。 張先玲さん 呼び鈴を鳴らすと、張さんがやや固い表情で出迎えてくれました。周囲をうかがうように招き入れてくれたあと、すぐに携帯などの電源を切るよう伝えてきました。当局の盗聴を警戒していたのです。 自身も自宅の通信設備の電源をすべて切っていて、奥の部屋に移るまで、会話もしないよう身振り手振りで伝えてきました。 記者を志した息子の死 張さんは、事件で当時19歳だった息子の王楠さんを亡くしました。 記者を志していた王楠さん。天安門広場で起きている歴史的なできごとを記録に残したいと、事件前日の3日深夜、カメラを持って自転車で現場に向かったそうです。 張さんの息子 王楠さん そして4日午前1時すぎ、人民大会堂の北門の向かいで軍の銃撃を頭部に受けました。地面に倒れた王楠さんを現場にいた人たちが助けようとしましたが、軍の部隊が近づくことさえ許さなかったといいます。兵士たちはひざまずいて助けさせてくれという人たちの懇願に対し、「あいつは暴徒だ」と聞き入れなかったそうです。 のちに現場で目撃した人から聞くなどしてわかった当時の状況です。張さんは、中国政府がひた隠しにする、あの事件の真相の1つだと信じています。 なぜあの時… 消えぬ後悔 張さんの自宅のリビングの壁には笑顔の王楠さんの遺影がかけられていました。毎日のようにその写真に手をあわせながら、張さんは胸にある後悔を拭いきれずにいます。 なぜ、あの時、息子を送り出してしまったのか… 張先玲さん 「天安門広場に向かう前、息子が私に聞いてきました。『まさか軍が発砲することはないよね』と。私は『まさか、ありえないよ』と答えてしまったのです。今もずっとあの言葉を後悔しています。生きていれば、今ごろは父親になって家庭を持っていたでしょう。私の脳裏にある息子は、永遠にあの日の、あの晩の、19歳の時でとどまったままです」 黙り続けることは許されない 王楠さんの遺体はほかの犠牲者とともに天安門の西側にあった中学校前の草むらに埋められていました。雨で遺体は地表から露出し、3日後、衛生当局などによって発見されたそうです。変わり果てた姿の息子。 張さんの脳裏から焼きついて離れず、毎年6月4日が近づくにつれて、張さんは体調を崩しています。 息子はなぜ死ななければならなかったのか。この日も体の調子が悪く、取材に応じてくれた時間は10分余り。それでも張さんは気力を振り絞るように、遺族の声を広く伝えてほしいと、1人の母親としての怒りを伝えてきました。 張さん 「国家が進歩していく上で、この事件が解決されないのは正常なことではない。『人民のために奉仕する』という中国政府が、人民の尊い命を奪っておきながら、なんの説明もなく、30年以上も知らないふりをして黙り続けるのは到底許されない」 「ごめん、生きてくれ…」最後のことば 今、遺族グループの活動の中心は犠牲者の親たちから、そのパートナーや兄弟に移っています。その中の1人に会うことができました。 尤維潔さん 尤(ゆう)維潔さん(70)。事件で当時42歳だった夫の楊明湖さんを奪われました。 政府系の経済団体の職員だった楊さんは、当日の深夜、銃声を聞き、広場に集まった学生たちを心配して現場に向かったといいます。そこで、下腹部に銃弾を受けました。倒れた楊さんをその場にいた人たちがリアカーで病院に運びました。撃たれた骨盤は粉々に砕けていたといいます。 病院に駆けつけた尤さんに、手術室から出てきた楊さんはこう漏らしたそうです。 尤さんの夫 楊明湖さん 「ごめん、しっかりと生きてくれ」 2人が交わした最後の会話となりました。2日後、楊さんは息を引き取りました。わずか6年の結婚生活。国によって突然、終止符を打たれました。 尤さん 「35年がたっても、あのときの記憶は少しも消えていません。一瞬一瞬が頭の中に残っています。夫を見守った2日間で涙は流し尽くしてしまい、今はもう出ません。遺族は皆、この世を去らないかぎり、暗い記憶の中を生き続けるのです」 若者たちはなぜ立ち上がったのか 天安門事件とは結局、何だったのか。その疑問を持ちづけていた私に、尤さんは「若者たちが立ち上がったのは、社会に対する責任感だった」そう説明してくれました。 天安門事件は、1980年代に共産党トップの総書記を務め、言論の自由化など政治改革にも前向きだった胡耀邦氏が4月15日に突然、死去したことに端を発しているとされています。 胡氏は、学生の民主化運動に理解を示したなどと保守派に批判され、失脚していました。 学生や市民による胡氏の追悼集会は、民主化を求めるデモに変わり、各地に拡大。5月には10万人が参加する大規模な集会に発展していきました。訴えは汚職の撲滅や言論の自由などを求める社会的なうねりとなっていったのです。 天安門広場に集まった市民や学生たち 尤維潔さん 「当時、北京の市民は皆、天安門広場にいた学生たちをとても心配していました。特に印象深いのは、戒厳令が最初に出された日です。市民たちが天安門広場に軍隊を行かせてはいけないと、路上にバスを止めて道路をふさぎました。多くの人たちが、ハンガーストライキを続ける学生たちに食料や水を届けていました。すべてが自発的な行動だったのです。その光景に私はとても感動しました。政府はなぜこうした状況を理解できなかったのか、思い出すと、今でもとても腹立たしい」 “隠ぺい”と“沈黙”の35年… さらに大事なことを話してくれました。 当時、軍によって制圧された天安門広場やそれに続く大通りなどあちらこちらには死体の山があったそうです。連絡が取れない人も多く、尤さんの夫とともに病院に運ばれ、その後死亡した男性も身元が分かっていなかったといいます。 しかし、中国政府は事件発生から犠牲者や行方不明者についてほとんど説明を行ってきませんでした。それどころか、事件から1年余りの間、政府は「天安門広場に行ったのか」や「デモに参加したのか」など多くの人に聞き取りを行うなど徹底的に調査していました。 尤さんはこうした政府の心理的な圧力が、今の中国社会につながっていると語気を強めて訴えました。 尤さん 「政府の圧力によって、市民は自分たちの家庭で何が起きたのか、言い出すことを恐れていきました。時間の経過とともに真相を語る人を探し出すことはいっそう難しくなっています。今では多くの人が事件についてよく知りません。35年がたち、若い世代は天安門事件に関心すらない状況です。これはこの間、政府が隠ぺいと沈黙を続けてきたからだと思います」 ���ッセージアプリに突然、使用制限 今、中国政府は、事件を国民の記憶から消し去ろうとする動きをさらに強めています。 遺族グループの今の活動の中心メンバーとなっている尤さんに対する監視は、6月4日が近づくにつれて厳しさを増していました。 尤さんのメッセージアプリ「ウィーチャット」は、4月ごろから機能が突然、制限され、ほかの遺族とのグループでのやりとりが一切できなくなりました。 ウィーチャットは中国国内では、使っていない人はいないほど、最もポピュラーなSNSです。“遺族どうしがつながることを阻みたい”、35年という節目に当局が神経をとがらせている様子がうかがえました。 尤さんが所在不明に 警告、そして尾行 尤さんに話を聞いてから、およそ1か月半たった先月(5月)31日。私は再び彼女の自宅を訪れました。もう一度話を聞きたい、そう思ったからです。 しかし、不在でした。連絡すらつかず、所在がわからなくなっていました。 自宅から立ち去ろうとした時、突然、警備員に呼び止められ、「何をしに来た。2度と来るな」そう警告されました。さらに、私服警察官とみられる2、3人の男たちが、私のあとを追うようについてきました。尾行は、私たちが車に乗り込むまで続きました。 尤さんとようやく連絡がついたのはその4日後、6月4日の午後でした。電話口の声は重く、監視役としてそばにいるとみられる当局者らしき女性の声が聞こえました。 「しばらく自宅にいることができない。近況も話しづらい。ごめんなさい」 短く状況を伝えてくれました。身に危険はないか心配する私に、彼女は「大丈夫」そう返し、電話は切れました。 男たちに囲まれて警告、墓地に近づけず あの日が近づくにつれて、天安門を東西に突き抜ける大通り「長安街」は異様な雰囲気に包まれていきました。前日3日午後、同僚のカメラマンが、多くの犠牲者が見つかった木※せい地という場所に向かいました。(※木へんに「犀」) 今は地下鉄の駅があり、隣には警察の派出所が設けられています。撮影機器が入ったリュックサックを開けようとした瞬間、十数人の男たちに取り囲まれ、立ち去るよう警告されました。 厳しい警備の共同墓地 6月4日の様子 そして4日当日。犠牲者が埋葬されている北京郊外の共同墓地には、多くの警察官が配置され、厳戒態勢が敷かれていました。近づくことすら許されず、命日の墓参りに訪れる遺族への取材はできませんでした。 天安門の叫び、今も 「天安門事件は、中国共産党による『国民の虐殺』にほかならない」 遺族たちのこうした訴えは「人民のために奉仕する」という共産党の正当性を、根幹から揺るがすことになりかねない、そう政府は考えているのかもしれません。だからこそ、政府は沈黙を貫き、時がたち人々が事件を忘れ去るのをじっと待っているように感じます。 かつて、私に「知る必要はないよ」と語った父と同じように、多くの国民が知らされずにきた35年。 それでも中国国民のなかには、天安門広場で民主化を叫んだ若者たちと同じように、一党支配への不満や、社会への責任感を持つ人がいます。 北京での白紙運動(2022年11月) おととし、中国政府のゼロコロナ政策への不満を背景に起きた抗議活動「白紙運動」。 そして去年、李克強前首相の急死後に各地で広がった追悼の動きと現指導部を暗に批判する追悼のことば。 私は、もう1つの祖国で今、事件とどう向き合うのか。 取材に応じてくれた張さんと尤さんの2人のことばを反芻しています。 「生きている間に事件の解決は見ないかもしれないが、それでもかまわない。 息絶えるその瞬間まで、生きているかぎり、訴え続ける。あなたも、この声を多くの人に届けてほしい」 (6月4日 ニュース7などで放送)
中国の習近平政権下で強まる抑圧と監視 天安門事件35年 記者にも尾行が?遺族が訴え続ける意味とは? | NHK | WEB特集 | 中国
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kaoriof · 28 days
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無題
平穏よりも胸のときめきをいちばんにしたら世界のぶあつい皮膚が一枚めくれたかのようになにもかもが歌い踊りかがやきはじめたのをいまでも覚えている。わたしは親が厳しくて外泊できないけれど、そのあいだに同級生の子たちはうつくしい島の海に反射する満月をみて、だれかと夜通しぴたりとからだをあわせて内緒話をするような、今にもぷつりと切れそうな糸のように細くて鋭い若さを世界の夢に浸らせている。感性を野放しにして、こどものころの感動をひとつずつ取り戻す時間がわたしにも必要だった。けれど思いどおりにいかないこともある、それも定めとおもって歯をぎゅっとくいしばる。わたしには必要だった。路上、白い廊下みたいに澄んだ朝霧をかんじる時間。薄いトップス。ズレた口紅。酔った勢いで入れ墨を彫ってしまう危うさ、煙ったクラブでなにもかんがえずに踊って、好きな男と寝て一限目をサボるとか、夜の街頭を走り抜け、くだらないことに時間とお金を費やすこと。「それだけじゃない、夜に遊ばなくても昼に釣りをしたりサッカーしたりそういう遊び方だってあるだろう。そっちのほうが幾分もまともだ」 おとうさんは夜遅くに帰ってきたわたしを叱りつけ、そう言った。わたしはけしてワルにあこがれているのではなくて、ただただ綺麗なものに飽きただけだった。わたしにとって祈りや信仰はさいしょから型があってそれに当て嵌めてハイ完成みたいなかわいいお菓子作りのようなものじゃなかった。自らを成り立たせるピースを集めた上でそれを食い尽くすくらいの覚悟や貪欲さがあなたにはある?わたしにはそれが足りなかった。昔も今も自分でうつくしい歌をつくれない。うつくしいものがたりをかけない。うつくしい絵を描けない。世の中にはフォロワーが万桁いる女子高生がいて、今、何千もの美術展が開催されていて、明日、いつかオリンピックに出るであろう少年がはじめてスケボーに乗るかもしれない。わたしには何もできないかもしれないけれど、彼らの生き様はわたしをわたしたらしめる微かなエッセンスとしてわたしに溶け込む。それを祈りという言葉で表象してはだめ?これからのことをかんがえると、ずっとどきどきする。目の前の光景が、訪れたことのない地の光が、風が、わたしを、わたしのからだを必要としてる気がする。世界中に張り巡らされた血管がわたしの心臓部にも繋がっているような心地。死ぬ5秒前ってどんな感覚なのかしらないけど、築き上げた塔が崩れてゆく感じなのかな、雪景色のような。
無題
朝起きたら腕に友達の噛み跡と身に覚えのない痣が3つくらいあった。耐え難い疲労がからだのあちこちにひっついて、入れ墨と化している。活字の海を、本をその背に背負えたらよかったのに、今のわたしを崖っぷちに引き止めているのはうつくしい言葉でもなくて、泥に塗れた重いカルマ。イヤホンの先から垂れ流れる音楽すらも風のように軽やかで自由なものではなくて、ねばねばした気持ちわるくてかなしいものに聴こえた。夏と、そのあつさと、その底知れぬ闇に街ゆくものすべてがこころのずっと奥の方で平伏している。昼過ぎにスクランブル交差点前の巨大スクリーンが薄青い空を泳いでいるようにみえたこと、街ゆく人の肌色が、シャボン玉のようにその熱を吸収して発光していたこと、ぜんぶなんか夢みたいにふわふわしているかんじがした。もうすぐでなつやすみなのに、大学入ってからそれまでもずーっと夏休みのような感じだったからあまりどきどきしない。みずみずしくずっと光っていたい。わたしもいつかデカい人間になりたい、いつかいつかいつかという文句ばかりが増えてゆくのを横目でみて、ぜんぶカサブタを剥がすように振り解いて拭ってくれる奇跡みたいな命、日々、音をどうしても期待してしまう。どうすればいいんだろーしにてーと思いながらまたあしたも友人と夜ご飯をたべにいく約束した。それでまた家に帰って、朝起きて虚無感に苛まされて、の繰り返しを大量の課題で中和する。薄暗い中でたべるごはんとか朝早起きして化粧をすることじゃない、今はなにもない海とか草原でなにも繕わずにその自然のデカさとか愛を仰向けになって享受するのがいちばんただしいきがする。たすけてと呼ぶには大袈裟すぎるし。わたしはわたしのことをぜったい見放さない、それだけで充分いっぱいすてきでしあわせで救いだということを今じゃなくてもいい何年もかけて真実にしていく、揺るがない愛に変えていきたい。
end
泣き出しそうに張り詰めた空気に鼻を啜る。世界の彩度が落ちて、ぶあつい服を着た街ゆく人たちが皆んなちっちゃな怪獣みたいにみえる。肌寒い。外はずっと灰色、モスグリーン、レモンみたいな匂い。大きな木が揺れて、木の葉の上に横たわっていた雨の滴が霧のように3秒間くらい降った。最近は毎日毎日やることが多くて、それをこなしているあいだに1日が終わる。3日連続で化粧を落とさずに寝てしまった。多くの人が電車にのっているときに外の景色に目をやらないのと同じ感覚で、わたしも生活の外側にひろがる微かな動きに鈍くなった。ずっと特別でありたかった、1番愛されたかった、そういった思春期的な熱望とどんどん疎遠になっていく自分に日々焦ったり安堵したりしている。だけど同時に、わたしの中をまだ生きている17歳のわたしがその面影をときどき覗かせる。期待させる。突拍子もなく走ったり、ゲラゲラ笑ったりする。些細なことで泣いたり、理不尽な世界に怒っている。良くも悪くも変わっていくのなら、これからの自分に期待をしたい。アルバイト先では後輩が6人くらいできて、みんなわたしよりも仕事ができる。わたしはもともと注意をされると衝動的に泣いてしまうところがあったし、シンプルに忘れっぽかった。あまりにも器用に仕事ができないので、ある日店長とそのことについて話し合ったら意識の問題と言われた。その1、人からのアドバイスに劣っている自分を見出してはだめ。その2、素直に人からの意見を受けとる。その3、自分のためでなくだれかのために働く。この3つを約束した。夜の繁華街で50歳の男性に飲みにいきませんかと声をかけられたり、あした授業にどんな服でいくかを考えながら化粧品を見に薬局に寄り道したり、腕に点々とのこる虫刺され痕をみて、それを残した蚊のことを考える。あした、図書館で借りた本の返却期限。わたしもちっちゃな怪獣になって寒さをまるごと食べてしまいたい、寒い日の、霞んだ光やクリアな淋しさ、果実のようにぎゅうぎゅうに酸っぱい気持ちを。
slow burning
大学一年生というよりも、高校四年生というような振る舞いをしているなあ、と自分のことを客観視する。新宿の横断歩道橋から行き交う人々を眺める。つい最近まで、委員会の同期の仲の良さにムラができていて、グループとかカーストとかそういう言葉が浮上してきてしまうほど揉めそうになっていた。それでも、それぞれが居心地の良い場所にしようと歩み寄っている。こういう、諦めによる愛想ではなくて心からの気持ちに胸を打たれる。明大前の飲み屋で酔っ払って「俺みんなのこと愛してるよ」と照れ笑いする先輩に、わたしたちみんな、キモいねーなんて言って茶化した。そのあと夜の大学で騒いでいたら警備員に注意された。机の下に10円玉を落としたのを拾わないで帰る。いつまでも赦されていたい、わたし、山猫のような女の子でいたかった。すぐ隣、肌すれすれにだれかの温もりを感じて弱さを誤魔化すのではなくて弱さを共鳴しあっていたい。「東京の人は生き急いでいる」なんて言葉があるけれど、わたしは美しい光景がそこに広がっていれば必ず立ち止まる人でありたい。仕事に遅れそう、とか、終電が、とかじゃない、好きな人たちのためだけに忙しくありたい。恋人は待ち合わせをするとき、「どこでおちあう?」と聞くのだけど、高2の頃、初めて会う日、それを「(恋に)落ち合う」と勝手に解釈して死ぬほどどきどきしたのを思い出した。それからわたしも「どこで落ちあう?」と聞くようにしている。ドア窓の形に切り取られた青い影が電車のフロアに映って、がたんごとんという音に沿ってフィルム映画みたいに小刻みにうごいていた。池袋で新疆料理をたべて、お腹を下す。スペイン語の中間試験。木曜日、ほんとうは1限に英語の授業があったんだけど、財���を忘れたいせいで交通費が若干足りなくて新宿駅から乗り換え先の電車に乗れなかった。その旨をインスタのストーリーに載せたら、一度しか喋った事ない同じクラスの男の子から「抜け出していくわ、」とだけ連絡が来て、本当にきてくれた。クラスで唯一金髪で、派手で、いつも高そうな服を着ている。ピーナッツをぼりぼり食べながら、ダーツをする。わたしが2回勝って、可哀想だったからあとの1回は負けてあげた。それからは何も無かったかのように授業では一言も喋らない。お互い、目を合わせないふりをしているような、ふしぎな距離感を保つ。渋谷で5分1000円の手相占いをしたら、鎖みたいにいくつもの線が絡まっていますね、と言われた。意外と気にしいなんじゃないですか?「そうですね」と答える。駄菓子屋で1000円使い切ったほうが幸せになれそうだとおもった。電車の隣の線路にカラスが一羽いた。こんなに近くでみるのははじめてだ、と思って、じーっとみつめた。黒なのに黒じゃなくて、光を受けて渋いグリーンや紫っぽくみえる羽毛に目を見張る。なんか、空はどこまでも真っ青なのに光の細部だけ色があたたかい夕方前みたい。ふわっとなにかに気付いて、じーっとそれを見つめて、そこになにかが“視える”とぜんぶ途端にスローモーションになって、焦燥感や虚しさがたちあがってくる瞬間がある。からっぽなのにぎゅうぎゅうな感じ。AirPodsをケースにしまう音が体感的に5秒間くらい耳に残ったり、自分の息遣いにどきどきしたり、すれ違う男子高校生の会話声や、鳥が羽をはためかせる様子がクリアに輪郭が保ったまま空中を転がる。ガムを買って噛みながら、心のもやもやしたなにかを同時に小さく噛み砕いてゆく。光の洪水。家に帰ってパスタをたべたあと、お風呂で下の毛をつるつるにする。夕方終わりにお風呂に入るの、とても好きだなあと思う。コンタクトレンズを外さないまま、化粧も落とさずベッドへダイブする。瞼の裏に東京タワーの赤がたましいの塊みたいにまあるく光っている、はやく何もかも諦められる年齢になりたいと思う。
無題
なんかまじでわたしが疲弊していて悲観しているのか、世界が残酷なのかわからなくなってきた。脳科学の講義を受講したあと、テキトーに混雑した休日の街をあるいていたら皆んなの脳みそが透けて浮きでてきそうで気持ち悪くなった。地球4周分の神経線維。そう、どでかい爆弾が街ゆく人々の頭蓋骨に葬られている。ニューロンが軸索を介してつながってゆく、放出と受容を繰り返してみんな手を繋ぎあってゆく。セール中でバイトの雰囲気がぴりぴりしていて、みんな資本主義の豚みたいに働いていた。うつくしくないとおもったし、私も美しくなかった。結いた髪に、ぴたっとあげられた前髪。なにを思っているのかを書くのがずっと怖かった。もしかしたら私の感じているこの欲望はとても汚らわしいもので、それゆえにだれかを傷つけてしまうかもしれない。でも、言葉にしなければすぐにわすれてしまう感情に名前をあげなくなって、水をあげなくなって、そうしたら、じぶんの脳みその溝をうめていたみずみずしい苔までもがすっかり枯れきってしまって虚構を連ねるようになった。空洞に哀しみの音だけが響き渡る。友達はいるけど、私はその友達の1番になれない。恋人みたいな人はいるけど、私はその恋人の1番にはなれない。1番っていうのはほんとうの意味での1番、2番とか3番とかがいない1番。圧倒的な2人の世界の中でのフェアで高貴な1番。有名になりたかった。文章でも外見でも写真でもなんでもいい、だれにも敵わない羽根で世界を羽ばたいてみたかった。わたしを選ばないで、そこらへんのそれっぽくかわいい女の子を選ぶかっこいい男の子たちを信じられないでいる。外国に行ったらモテるよ^_^と投げかけられた言葉について何回も考えるけど、考えるたびにかなしくなる。でもね、神様はいるとおもうの。木漏れ日の首筋に、砂丘のしずけさに、広大な空の一枚下に、その温もりと永遠が芽吹いているのをしっている。そのたびに、わたしはこの世界に愛されていて、まだ19歳で、まだ何にでもなれて、そして世界を(気持ちがあふれてしまいそうなくらい)等身大で愛しているドラゴンみたいにかわいい女の子だとまじないを唱えるようにして心を強く保つ。アスファルトに散った桜が朽ちて、吐瀉物のようにグロテスクにぬるい光を浴びている。走り抜ける!だれかの憎悪の中に、疑念の中に、見下しの中に憧憬の眼差しを覚えながら。東京で灯される光の数だけ、アフリカの広原でつややかな花が咲けばいいのに。光の重さの分だけ、銃弾が軽くなればいいのに。帰り道、ひさしぶりにパンを買って帰った。
日記
弟がiPadのタッチペンを無くしたらしくて、それを聞いた母がすぐにAmazonで検索して新しいのを買った。こういうとき、ほんとうになんか小さなことだけれど、すごく心が愛にみちる。
大学の新校舎の建物のにおいが400人もの人が集まった大教室の縁をすべっていく。扉を開けた瞬間、目と目と目がわたしの顔を捉える。湿気漂うフロアにだれかがペンを落とす音、先生のマイクが吐息までもを拾って湿った熱を加速させる。「儚いって聞いて何を思い浮かべますか?蝶?蛍?蝉?トンボ?」 教授がそう聞くと、みんなのえらぶ選択肢がちょうど均等に分かれる。講義が終わるといつもすぐに帰るイケてる男の子が蛍を選んでいて、なおさらかっこよく見えた。わたし、インスタのフォロワーが490人いるんだけど、その人数って今見てるこの人たちよりももっともっと多いのかと思うとなんか心強いような息苦しいような、不思議な気持ちになるなーとぼんやり思った。君たちはぶっちゃけ勝ち組です、という先生がキモかった。海外の大学院に行きたい。わたしはもっともっと色々な人を知るべきだし、美しい景色にであうべきだし、貪欲に学ぶべきだとおもうから。聡明になって、お金を稼いで、将来だいすきなひとたちにたらふくご飯をたべさせてあげたい。お母さんとお父さんが育ててくれた、守ってくれたこの心の真ん中にそびえる愛情のかたまりを誰かに分け与えていきたい。でも、そうとも思うけど、逆にそれをこなごなにさせてくれる危険性や若さゆえの解放にも目が眩んでしまうの。「今しかできない」ってとてもずるい言葉だなあ。
19さい
19歳とかいちばん呪われていた1年だった。まだハタチじゃないけど、もうそうさせて、と思うくらいに、1年のあいだに10年分くらいの幸せと不幸せがぎゅうぎゅう詰めに、どっちがどっちかわからなくなるくらいに入り乱れててくるしくてさみしくて悲しかった。くるしかった。わたしと同じ純度で、等しく、あいしてほしい。あいされたい。
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hangorin · 1 year
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東京五輪から2年 湾岸はいま
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悪夢のようなTOKYO2020大会から2年が経った。 五輪のために姿を変えられたあの場所は、巨額の資金を費やして建てられた会場は、白いフェンスに閉ざされていた公園は、いま一体どうなっているのか。 湾岸エリアを中心に、フィールドワークを行った。
①築地市場
築地本願寺から場外市場に向かう。日曜日。外国人観光客、親子連れ、カップル。賑わいは築地市場があった頃と変わらないように見えた。どの店にも、昼食を目当てに沢山の人が並んでいる。
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立体駐車場の最上階から市場のあった方を見下ろす。縦横に走るターレ、魚の並ぶケース、積み上げられたトロ箱、林立する仲卸の看板――それらが全て消え去り、でこぼこの、剥き出しのコンクリートだけが灼熱の太陽に焼かれていた。その一部は駐車スペースに。数台の自家用車。物悲しくなるぐらいしょぼい。
駐車場のわきに、築地市場の仲卸とおぼしき店名のプレートを付けたターレが放置されていた。よく見ると、ナンバープレートを外した痕がくっきりと残っている。
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石原元都知事が主導した2016年五輪招致当時、築地市場を潰してメディアセンターを作るという話が出ていた。2020東京大会ではそれが「駐車場」にかわり、市場は2018年10月に東京都によって閉鎖された。選手村から競技場への輸送のために新たに作られた環状2号の全面開通は、五輪閉幕から1年以上も過ぎた2022年12月。五輪招致が、都民の台所を打ち出の小づちのように利権を生み出す空虚な「一等地」に変えてしまった。
築地を舞台にしたある連載漫画の中で、目利き一筋の主人公は何故か移転に何の葛藤もないまま「豊洲で頑張っていこう」と仲間に呼びかけていた。築地市場83年の歴史は、急速に「なかったもの」にされようとしている。
②月島
東京では五輪の前から、競技会場と直接関係のない場所でも各地で再開発が起こっていた。晴海にも程近い、湾岸エリアに位置する月島もまたその1つ。もんじゃストリートで有名なこの町は、一本裏道に入ると古い木造家屋が軒を連ねる下町らしさが残っている。私たちが2017年に訪問した際は、月島1丁目西仲通り地区再開発計画のためにもんじゃストリートの店舗が軒並み閉店していた。
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そして今回訪ねてみると、MID TOWER GRANDなる地上32階、高さ121mの超高層マンションが建ち(2020年10月竣工)、その1階にもんじゃ屋などの店舗が入っていた。 月島ではさらに地上48階、高さ178.00mのタワマンを建てる月島三丁目南地区第一種市街地再開発事業、地上58階、高さ199mのタワマンを建てる月島三丁目北地区第一種市街地再開発事業が控えている。フィールドワークの後で知ったことだが、この月島三丁目再開発計画には反対運動や行政訴訟も起こっているとのこと。長年暮らしてきた人々の息吹が聞こえるような町並みが、大手開発業者によって姿を変えられようとしていることには胸が痛む。
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③晴海選手村
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カンカン照りの選手村跡地。ここはHARUMI FLAGなる高層マンション群として開発され、完成すれば5,632戸12,000人が暮らす街になるという。未だ工事中で通行できるのはメインストリートの車道のみ。焼けつくような暑さの中、誰もいないコンクリートだらけの空間は殺伐とした雰囲気が漂っていた。
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選手村をめぐっては、東京都が適正価格の10分の1という不当な安さで都有地を三井不動産ら11社のデベロッパーに売却したとして住民訴訟が起きている。五輪という祝賀的なイベントが作り出す例外状態によって、公共財産が民間資本に吸い上げられた象徴的な場所だ。
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街の中心に近づくと、左手には、大会中、大量の食材廃棄が問題となった食堂の跡地が、中央区立の小中学校(2024年度開校予定)として整備されていた。
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右手には三井不動産の商業施設「ららテラス」。その1階には「東京五輪を振り返りスポーツの力を発信する施設」として「TEAM JAPAN 2020 VILLAGE」が設置されるらしい。五輪と三井不動産のどこまでも続く蜜月がうかがえる。
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その先では道路を挟んで左右両方の街区で50階建ての2棟の超高層タワーマンションが目下建設中だった。
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選手村を訪れるとき、2018年、建設工事中に2人の労働者が亡くなったことを思わずにはいられない。その街区は、労働者の死という痛ましい現実を塗り固めるようにSUN VILLAGE(太陽の村)という輝かしい名前で分譲されている。 この街区だけではない。この街全体が、五輪によって引き起こされた問題などまるで何もなかったかのように成り立っている。この街ではとても生きていけない、生きた心地がしない。生気を抜かれたようにその場を後にした。
④潮風公園、お台場海浜公園
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ビーチバレーボールの会場設営のため何年もフェンス封鎖されていた潮風公園。わたしたちは初めて公園内に入った。こんなに広かったのか!無観客のくせに、この公園全体を占拠していたなんて、ほんとうに厚かましい。
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東京湾の対岸の埠頭にはコンテナが並んでいる。海をみてみると、うっ!海水は泥沼のような色。しかし、なぜか匂いはせず、潮の匂いさえもしない。ファブリーズでもしているのか?
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わたしたちは、野宿の人たちが寝ていた場所を探して公園内を歩いた(東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織員会による追い出し→https://x.gd/ZJP4d)。木がたくさんあってなかなか住み心地よさそうだと思っていたら、屋根のある排除ベンチにたどり着いた。なんて醜いデザインなのだろう。
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次に「トイレのようなニオイ」と話題になったお台場海浜公園のビーチへ、匂いを確認しに行った。「遊泳禁止」の看板があり、スクリーニングのためと記してあったが、やはり汚染が懸念されているのだろろう。このビーチの海水も濁っていて、潮の匂いさえもしない。怪しい水質だ。
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しかし、暑すぎる。灼熱の日差しの下で、ビーチバレーボールや、トライアスロンをやって、汚い海に飛び込んでいたのか。 知れば知るほど、オリンピック・パラリンピックは地獄だ。
⑤有明
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有明の旧会場エリアへ。グーグルマップで見ると、どうやらこの一帯は「有明オリンピック・パラリンピックパーク」と名付けられたらしい。いまや地に落ちた電通がオリンピックでちゃっかりゲットした、唯一黒字と言われる有明アリーナへ。SNSではステージが見えない席があると不評を買っていたが、「ディズニーオンアイス」をやってるらしく、猛暑の折、駅から会場まで大勢の人だかり。
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有明体操競技場はこの5月に「有明ジメックス」と名を変え、株式会社東京ビックサイトが運営する展示場としてオープンしたらしい。第一印象は「・・・神社?」世界的ウッドショックの最中に木材を山のように使って、10年程度で取り壊される予定とのこと。こんなに立派にする必要あったのか?
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そこからゆりかもめの駅を越えると、フェンスで囲われた草ぼうぼうのワイルドな一角が。有明BMX会場跡地だ。グーグルマップには「有明アーバンスポーツパーク(2024年4月開業)」とあるが、いまのところ影も形もない。スポーツ施設より原っぱ公園の方が需要あるのでは?
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有明テニスの森公園は工事パネルが外されて、開放感に溢れていた。こんな素敵な場所を何年もオリンピックのために囲って、市民を排除してきたかと思うとあらためて腹が立つ。
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真夏の炎天下に火を燃やし続けた聖火台があった夢の大橋にも立ち寄った。観覧車が無くなっていた。東京都はこの夢の大橋を含むシンボルプロムナード公園の一角に、新たに聖火台置き場をつくって飾っている。東京都はいつまでオリパラの亡霊にすがる気か。。
⑥辰巳・東京アクアティクスセンター
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アクアティクスセンター
「威圧」を形にしたような巨大建造物。
建物の周りには木陰がなく、取ってつけたような弱々しい植栽が施されている。
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正面外の、広すぎる階段は、車いす利用者でなくても、大げさすぎてびっくりする。コンクリートが日射で熱い。ゴミ一つ落ちていないのは、人が寄り付かないからだろう。
その下にたたずんで私は、ピラミッド建設のために労働を強いられている人のような気持ちがした。
ここは、公園の一部であった。近くに団地もある。誰でも入って、海からの風を感じながらくつろぎ、出会う場所だったはずだ。
5年前に訪れた時は、工事中で巨大な支柱がそびえたっていた。三内丸山遺跡にインスパイアされたのかと思ったが、出来上がったのは帝国主義の終点のようなしろものだった。
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「お前たちが来るところではない。」という声がどこからか聴こえる気がした。
知ってる。だから入ってみた。静かだ。人っ子一人いない、空調が効いて冷え切っている。だだっ広いロビーの小さな一角に、TOKYO2020オリパラのポスターたちがいまだに展示されていた。
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競争をあおり、序列化し、勝者に過剰な価値を与え、「感動」を動員するスペクタクルがここで続けられるのだ。
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生きていくのに必要な潤いをもたらす公園に、このような醜悪なものが君臨しているのを私は許せない。
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炎天下の湾岸エリアを丸1日かけて回った。TOKYO2020跡地は、廃墟になっていると思いきや、むしろ多くの場所でまだまだ開発が続いていた。開発への飽くなき欲望と「レガシー」への執着、五輪災害は閉幕後も延々と残り続けている。 この日撮影した映像を使って「オリンピックって何?東京からパリ五輪1年前によせて」という動画を作成し、1年後に五輪開幕が迫るパリでの反五輪の闘いに連帯を示すメッセージとした。 From Tokyo To PARIS, NOlympicsAnywhere
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delorean · 8 months
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プジョーe-208買いました!
実は昨日、40代を共に過ごしてきた13年超のマツダ・デミオから、プジョーのEV「e-208」に乗り換えました。電気自動車にはEVデロリアンを作った2009年から乗り続けていますが、メーカー製はこれが初めて。ディーラーで納車の際、新旧2台並べて記念撮影しました。デミオは主に妻が使っていた愛車で、この赤色とサイズ感が特にお気に入りでした。お別れするのは残念だったけど、ファロイエローのプジョーも乗ってしっくりきたので、これからもカーライフが楽しめそうです。
乗り換えの理由は雨漏りでした。1年前、バックする時に電信柱と軽く衝突。それ以降、雨の日に乗ると後部トランク付近から後部座席の足元まで濡れてしまうようになっていました。そこで半年前から後継車種探しを開始。マンションの充電設備導入も叶ったので、EVを中心に検討しました。
当初から中古狙いで、第一候補は日産リーフの40kWh版。ところが妻の希望は「デミオと同じぐらいのサイズがいい」。こうなると一気に選択肢がなくなります。軽自動車のサクラかeKクロスEVはどう?と聞くと「隣県まで料理を教えに行く時も充電なしで往復したい」。試乗もしたけどしっくり来なかったようです。BYDのドルフィンは、私がフロントデザインに馴染めず。結局、サクラの次にコンパクトなEV「プジョーe-208」案が浮上しました。しかも走行用バッテリーは50kWh積んでるので約300km走るし、普通充電も6kW対応。コンパクトな上にリーフよりスペックが上と理想的です。妻も「楽しめそう♪」と気に入ったようです。
色選びは「日本の風土にメタリックカラーは似合わない気がする」というので、比較的多いパールホワイトは落選。カタログを示しながら「プジョーのロゴマークはライオン。鉤爪の意匠がライトデザインなどに施されてるよ」と説明したら「ライオンなら黄色でしょ?」の一言でファロイエローになりました。あらゆる選択肢を感性で決めて行く過程が、本当にすがすがしかったですw
中古車はネットを駆使し、新年早々、名古屋のディーラーが所有する走行距離20kmの展示車でほぼ決め、契約の準備を始めました。しかし土壇場で、地元・広島のディーラーが同年式・同色の試乗車をほぼ同じ金額で出せる+ルーフウインドゥ付き、という条件を出してくれたので一転、地元で買うことに。価格以上に地元で買える安心感も勝りました。結果として良かったと思っています。さっそくこの日の夜、e-208納車を話題にClubhouseの仲間とワイワイやりました。興味がある方はぜひお聞きください。
さて、このファロイエローなプジョーとどこに行きましょうかね。ちょっとしたお出かけが楽しみです♪もちろんe-208で得たEV体験の情報発信もやりますよ!
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ari0921 · 9 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)1月7日(日曜日)
   通巻第8083号 
 昨年のウォール街上場で新記録8兆円はエヌビディア
  中国向け半導体製造装置の輸出が不許可。株式下落
*************************
 2023年10月にエヌビディアは高度AI用半導体の中国向け輸出規制について、対象となるのはAI用半導体「A800」と「H800」が含まれるとしていた。米商務省の新規制ではゲーム用半導体「RTX4090」も禁輸対象となった。
 11月にエヌビディアは「AI用半導体は商業向けであり、中国にAI用半導体を販売することは合法、販売する予定である」と楽観的だった。
これらのAI用半導体は中国のアリババ、TikTokの親会社バイトダンス、百度(バイドゥ)などが、すでに2024年分として50億ドルを発注していた。この大商いが政治の風圧で飛ばされた。
 エヌビディアは、「画像処理半導体(GPU)を使用した先端AIコンピューティングシステムが不許可となったため、他の顧客に振り向ける必要があるのだが、(バイデン政権の政策により)米国産業の競争機会を永久に奪われる。将来の悪影響は避けられない」と不満を表明した。
 米商務省は輸出不許可理由を「当該品は最も洗練された、最も処理能力の高い半導体だからだ。こうした最先端の半導体を輸出してしまうと中国は最先端モデルの訓練が可能になる」との懸念を表明した。
 一方、米アドバンスト・マイクロ・デバイセズ(AMD)は12月6日に人工知能(AI)向けのアクセラレーター新製品(MI300)を発表した。エヌビディアが席巻していた市場にライバル製品の登場となった。CEOのリサ・スー女史(彼女は台湾人)は「AI半導体業界は今後4年間で4000億ドルを超える」と大胆な予想を展開した。
MI300の採用を予定しているのはマイクロソフトやオラクル、メタ・プラットフォームズが含まれる。
余談だが、人工知能(AI)と「人間の知能」とが「偶会」した。AMDのリサ・スーはシリコンバレーで伝説化した才女だが、日本の将棋のチャンピオン藤井聡太がスー女史との会見を望んでいた。
「?」。じつは藤井叡王はAMDの新型パソコンを自作し、「AI将棋ソフト」によって勝負局面の解析や対局シミュレーションを行ない、勝負能力強化を図ってきたのだ。AMD製品の活用で次々とタイトルに挑戦し続けてきたわけで、2022年にはAMDのブランド広告に藤井が起用された。スー女史は来日時に、藤井の誕生日に合わせて会談を設定した。
▼なぜアメリカは台湾半導体企業を警戒するのか
日本でも波乱の一幕があった。西村産業相は「エヌビディアCEOの黄仁勲(「ジェンスン・フアン=台湾人)から、日本における研究開発拠点の設置の意向が示された」と記者会見で披露した。大規模言語モデルに加えて、ロボティクスの分野でエヌビディアはモデル開発に期待しているという。
エヌビディアが日本と組みたいのはスパコンなど日本が優位を誇る技術との連携で、とくに産業技術総合研究所との連携強化に狙いがある。産総研はエヌビディアからGPU(画像処理半導体)の供給を受けてきた。
 米大手のインテルやマイクロンはバイデン政権の意向に逆らって中国国内で半導体生産を継続している。そのうえラボを設営しており、米商務省の規制には反対の声をあげてきた。
 またTSMCはアリゾナ州に進出するものの、次世代AIは、「台湾で製造する」と言明しており、エヌビディアも先端ラボは台湾で設立するなどの動きをみせている。これらの動きは米国の神経を逆撫でしている。
 懸念する理由ははっきりしている。
 第一にハイテク情報、とくに台湾から中国へ最先端技術の機密漏洩が連続していること。中国のSMICはそもそも台湾TSMCにいた台湾人エンジニア数百人が大陸に渡って仕上げたのだ。
 第二に台湾軍人の軍事機密漏洩がつぎつぎの明るみに出たことだ。
中国は台湾総統選挙に向けてスパイ気球を1月6日までに17個も飛翔させ、武威、威嚇をしめしつつ、裏面では破壊工作に余念が無い。米国は台湾軍高官等の機密売買の実態を把握しており、このため高性能武器の台湾供与を遅らせてきた。
 第三にファーウェイのL540ノートブックがSMIC製造の半導体使用ではなく、TSMCの5ナノ半導体「Kirin 9006Cプロセッサ」だったことがカナダの研究所のモデル解体解析調査で判明した。
 ただしファーウェイのスマートフォン「Mate 60」は、中国製の7ナノ相当の半導体だった。これらは台湾人エンジニアが協力し、中国の技術的独立推進に貢献していた。
 第四に中国に工場を持つ台湾企業の従業員らの心理と背信である。また眼に見えないスパイ工作が台湾で進んでいることも米国に疑念を抱かせる。
 台湾当局は5日、暗号資産を利用して中国から資金提供を受け、選挙活動を行っていた女性候補を反浸透法違反容疑で拘束した。この女性候補は桃園から立候補した馬治薇。彼女は23年に中国の対台湾工作部門の人物から選挙に立候補して選挙関連の情報を渡す見返りに暗号通貨などで470万円を受け取った。
馬は台湾民衆党からの立候補を目論んだものの中国との関係に問題があるとして、同党は推薦せず、無所属での出馬となっていた。
 ▼中国SMICが大量生産に突入する
 2024年の世界の半導体市場を展望すると、6%以上の成長が見込まれている。とくに中国の飛躍が予測されている。
現在も世界の半導体の30%は中国が買っている。
半導体生産は80%がアジア、それも中国、台湾、韓国、日本に集中している。米国の生産は世界の10%、欧州は9%。だから欧米の焦りは並大抵ではなく、WTOが規制する政府補助金をつけて、半導体企業の誘致に余念が無い。ドイツも99億ユーロを補助して半導体企業の誘致をきめた。
 インテルはインドとイスラエル、とくに後者には250億ドルを投資し、イスラエル政府は32億ドルの補助金支出をきめた。
 TSMCはアリゾナに新工場を建設中だが、建設労働者不足と労組の反対運動のため、工期が大幅に遅れている。日本のラピダスは千歳で工場建設は予定通り、TSMCの熊本工場も建設は順調という。
 中国のSMICは24年度中に新工場を42ヶ所つくると豪語している。SMICは汎用28ナノ半導体の大量生産をはかり、EVならびにAI向けとする。
 業界がおそれるのは、いきなりの大量生産により中国のダンピング攻勢で世界の半導体市場が攪乱されかねない懼れである。
なぜなら中国は国内消費者に中国製を買えとキャンペーンを張るうえに補助金をつけるからだ。
風力発電、太陽光パネル、そして現在のEV自動車の世界への殴り込み、その遣り方、その世界市場独占への道のりを考察すれば、中国の次の一手がみえてくる。
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sendai21-independants · 3 months
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2024年エントリー受付中(8/8迄延長!)
【パフォーマンスとトートバッグ展の会場が決まりました】
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---------------------------- 第13回 せんだい21アンデパンダン展2024 自由と独立を意味する[independants]を冠した無審査の美術展。 エントリー8/4まで受付中 →8月8日木曜日まで延長します。(郵送の方も必着です) 追記/郵送の方は4日投函までOKです。 せんだいアンパン2024エントリーフォーム https://forms.gle/PREymDLxaywwiJ5X9 ---------------------------- 13回目のせんだい21アンデパンダン展は、 ①ターンアナザーラウンド(フォーラス7F)会場に変わって、  新たにぶらんど〜む一番町にある「むかでや画廊」が加わりました。 ②オリジナルトートバッグにアートする 「あっ!トートバッグ展」の開催が決定しました。 ----------------------------
1884年、フランスのパリからはじまった自由と独立を意味する[independants]を冠した無審査の美術展[アンデパンダン展]。表現者にとってかけがえのないその精神は日本、そして仙台にも伝わってきました。かくして21世紀の仙台、無審査で出品される表現は観るものにどんな感動をもたらしてくれるでしょう。本展は仙台のギャラリースペースが協力、連携し、誰にでも等しく開かれた場を設け、新たな時代の表現を目撃しようとする試みです。 あなたの自由な精神に満ちた出品作品に期待します。フランスではアンリ・ルソーが、アメリカではマルセル・デュシャンが、そして仙台では糸井貫二(ダダカン)がアンデパンダン展から登場しています。本展では、ジャンル、趣向、年齢、経歴、主張、価値…あらゆる垣根を越え、誰にでも等しく開かれた表現の場であることが目指されます。 ●展覧会会期:2024年9月25日(水)-10月6日(日)月曜定休 ●パフォーマンス+トートバッグ展 9月29日(日) ●会場:  中本誠司現代美術館(青葉区東勝山)  GALLERY ECHIGO(青葉区双葉ヶ丘)  SARP 仙台アーティストランプレイス-A(青葉区錦町)  ギャラリーチフリグリ(宮城野区五輪)  むかでや画廊(青葉区一番町)  Gallery TURNAROUND(青葉区大手町)  のりっぱ/野外展示(青葉区大手町)  9/29㈰1day 野外パフォーマンス+トートバッグ展   仙台フォーラス駐車場(青葉区一番町)   ・営業時間は会場ごとに異なります ・展示会場は実行委員会で決定します 主催:せんだい21アンデパンダン展実行委員会 令和6年度 仙台市青葉区まちづくり活動助成事業 題字協力:糸井貫二(ダダカン) 後援:tbc東北放送・仙台放送・ミヤギテレビ・khb東日本放送・河北新報社
【募集要項】 ●募集作品:平面、立体、映像、屋外展示作品、パフォーマンス ●サイズ規定:  ■平面作品(壁面展示)/タテ1m×ヨコ1m以内   ※厚さの目安10cmまで、重量の目安10kg以内   ※宅配便利用の場合は各自でサイズ等を確認してください。  ■立体作品(床置き展示)/タテ1m×ヨコ1m×高さ1m以内、重さ25kgまで   ※台座必要時は自身で準備/高さ1m以内   ※転倒しないよう固定するなど安全面にご配慮ください。   ※宅配便利用の場合は各自でサイズ等を確認してください。  ■映像作品(モニターで期間内繰り返し上映)/1作品3分以内   ※作家名とタイトルを作品冒頭に数秒入れてください。   ※電子データをDVDまたはメモリスティック等に収めたものを    郵送または持参(返却希望については応募用紙に記載のこと)   ※データ転送サービス利用可(ダウンロード期間は7日以上で)   ※動画形式MPEGまたはMP4   ※画像形式JPEGまたはPNG   ※上映会場は決まり次第お知らせします  ■のりっぱ野外展示作品/縦3m×横3m×高さ2m以内   ※期間中は無人野外展示になります。    雨や強風等に耐えられる作品に限ります。   ※応募時に完成予定図を提出のこと。   ※自身による搬入出であること、    および自身での展示作業が可能な方に限らせていただきます。  ■パフォーマンス/   1作品20分以内を予定   ●搬入受付予定日:9月23日(月祝)(通知でお知らせします)  直接持込みまたは出品者手配による委託搬入。 ●搬出発送予定日:10月6日(日)15:00〜17:00  ※宅配便の方は着払い伝票を同梱してください。 ●搬入出委託代行特別協力/横山美創 tel.090-1938-2572  (ご希望に添えない場合もありますのでご了承ください) ●エントリー〆切:8月4日(日)→8/8木曜必着  作品は搬入日までに完成すればOKです! ●エントリー方法:下記のフォームまたは応募用紙を各ギャラリー(むかでやを除く)まで提出してください。  https://forms.gle/PREymDLxaywwiJ5X9 ●出品料:1点3,500円、2点6,000円(送料別途負担) ●出品料は8月4日(日)までに振込またはエントリー時に応募用紙とともに納付してください。  ※出品者都合によるキャンセルでの返金はできませんのでご了承ください。  ※振込の際は必ず本人の名前でお願いいたします。 ●振込先:七十七銀行 芭蕉の辻支店(シチジュウシチギンコウバショウノツジシテン)  普通預金 5766869  名義:仙台21アンデパンダン 代表 関本 欣哉(センダイニジュウイチアンデパンダン ダイヒョウ セキモト キンヤ) ●応募用紙郵送の場合はコチラまで:980-0805 宮城県仙台市青葉区大手町6-22久光ビル1F ターンアラウンド ●その他
※展示会場については実行委員会が決定し、後日「会場決定通知書」で連絡いたします。 ※搬入受付および搬出発送は会場により異なる場合がありますので詳細は「会場決定通知書」でお知らせいたします。 ※委託搬入は自身による手配で費用は作家負担。委託搬出は着払いで発送させていただきます。(梱包材は作家側でご準備ください。搬送中のトラブル等については、その責を負いません。) ※インスタレーション、ハプニング等は実行委員会と相談のうえ決定させていただきます。 ※安全面や腐敗・腐臭など著しく気分を害する物などの問題が予想される作品の判断は実行委員会に委ねられ展示不可の場合もありますのでご了承ください。 ※会場のスケジュール管理等は実行委員会に委ねられますが万一作品が破損した場合には責任を負いかねますのでご了承ください。 ※のりっぱ野外展示については危険ではないもの、雨・風等の天候を考慮した作品であることと、展示期間中および夜間が無人であることを特にご了承・ご留意ください。(第3者用保険加入) ※本展の展示スペースには限りがあるため、エントリー者数が許容範囲に達した時点で受付を打ち切らせていただく場合もありますので、ご了承ください。
●募集チラシ兼ポスター(A2サイズ両面)
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チラシを置いて頂ける方はご連絡いただけますと助かります。 特別企画 「あっ!トートバッグ展」
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キャンバス地製の「せんだい21アンデパンダン展オリジナルトートバッグ」をアートしてください。アンデパンダン展期間中に臨時会場で一日限定展示いたします。 ●日 時 : 2024年9月29日(日) 時間は未定です ●会 場 : 仙台フォーラス駐車場
※オリジナルトートバッグは最寄りのギャラリー(むかでやを除く)でご購入いただけます(価格2,200円) ※ご購入時にトートバッグ展エントリーシートのご記入をお願いします ※昨年購入された方も参加できます! ※数に限りがありますのでご注意ください  ※作成したオリジナルトートバッグの搬入は9月1日~9月18日(月は休み)の期間内にターンアラウンドまで持参または発送してください 遠方の方で参加ご希望の場合は実行委員会までメールにてお知らせください。2200円+送料を頂戴して発送します。
●各お問合せ せんだい21アンデパンダン展実行委員会 tel.fax/022-398-6413(月休・混雑時は出られない場合もあります) mail/info※sendai21-independants.com(※を@に)
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3kyu3itaka · 30 days
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 危ないバランスの取られ方だと思っている。いきなり何を、と思われるだろうけどそういう毎日だからだ。俺は疲れているのか。疲れているから雑貨の雑多な環境を求めてはるばるドン・キホーテに行きたくなるのか。(行けてないけど)または消灯した後の民宿のロビーに怪しく光ってる自動販売機の有り様なんかを思い浮かべたりするのか。(浮かばれないことばかりだけど)
 俺は俺が倒れることを期待している、と言われて嘘だとは言い切れない。むしろそれこそが俺という人間の本分を表しているとさえ言ってもいい。コソコソ隠れながら宣言してしまおう。ワタシは卑怯ですと。突然胸が裂かれ、肋骨がアラワになり、臓物が剥き出されたとしても仕方のない立場の人間性でしょう。某単語が思い浮かぶ。思い浮かぶというか祝詞のように無言で念じている。別にそうしたいわけではないが、そうする他、未来はない、選択肢はないとしか思えない夕方頃や夜がある。「持ちつ持たれつ」の感覚を積み損ねているようだった。
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 こっちとしては早々に瞼が重くなっちまいたいのにその欲がある間だけ限って重くならないような日が続いている。この期間に感受性をフル稼働させては危険だ。裏切られるから。無駄な体力の消耗にしか還元されないから。
 タイヤの空気圧が規定値よりも随分低くなってて肝を冷やした。入れるのはいいんだけど、入れた後に注入口に栓、するじゃないですか。あれ緊張するんですよね。一度、閉め損なってタイヤのホイールの内側に落としてしまったことがあって、「すいません、あの、タイヤの栓、あるじゃないですか。アレ、ホイールの内側に入っちゃったみたいで、あの、どうすればいいですかね」と慌てて呼びかけてしまってすぐ替えの栓とアドバイスをくれたあの日のガソリンスタンドの店員さん、元気ですか。ああいう人になるべきなんだ。ああいう人にだけ、日は滞りなく循環することを知っている。
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 仕事帰り、訳もなく旅行にでも行ったような気分になりたくて、今、サービスエリアにいる。フードコートで冷たいうどんでも食べようかと思ったけど受付終了していたので、今の所ここでしか見たことがない缶コーヒーを買って、ついでにバウムクーヘンも買って、外の木のベンチでちびちびはむはむしたりしながら、まばらな駐車の光景を眺めている。ここに居るのは皆、どこかしらへ行く中途にある人たちなのだな、とふとよぎって、それはまあ旅行であれ出張であれ、筆舌に尽くし難い動機を抱えての逃避行であれ、いずれはここを出て何処かへ行くのだと思うと、何でしょう、こう、感慨深いものがあった。と同時に変な動機を以てここにいる俺は何だ、などと思ったし、実際ここにいることに何だかしっくりきていないのはそうなのだが、己もまた何処かしらへは行く中途にある人、なのには変わらないはずで、そんな感慨の中で客観的に己の車を見つめてみると、ああなんだか、少しはサマになってるじゃないんですか。
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 ( )
(体勢が決まらない、背筋が曲がってる、集中して本に向かえない、苛立たしい車両保険の営業を隣に、喫茶店でオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』や北村太郎の詩集を読んでいて)……それ自体を表すのではない。それ自体を表さず、それを表すのだ。そして、それが表れているものこそが、僕のよりどころとしていたものだったのか。
 でもそれは自分ではない他の誰かが成したものを見ることでこそ得られるし、他の誰かでないと得られない。それは陶酔のようなものだ。そう、だから、自分が同じように、成せると思うな。それが間違いの始まりだよ。成されたことに塗れられるが、成すことで塗れることはできない。そういう意味では、過去、自分自身が言っていたことは間違ってなかった。希望と絶望の中間のような色合いの電灯。
 5
 ……朝、多少の寝不足に由来している頭の重さの中、コーヒーを飲みながら、何か静謐な気分でいる。キャンプの夜飲みののちに、テントから一人這い出て、朝日を真正面に浴びている束の間に生じ続けている気分のような。民宿での飲み明けの、誰もいないロビーの休憩所でぐったり座っている時の気分のような。
 例えば本編の軸から少し、敢えて外れさせた場面やキャラクター性を以て展開される二次創作があって、自分はなんとなくだがそんな物語が好きで、ふと思いついては読んだり、偶然発見したそれらをちまちま読んでいたりする。そうしている時間、その時間に付随している「何か静謐な」性質。
 寝不足でタスクも山積みで気分の不定期に振りまわされる毎日だが、当たり日ならぬ、「当たり朝」、なのかもしれぬ。読みたいと思っていた詩集をようやく注文し、国会図書館デジタルコレクションにようやく利用登録し、何もかもは遅く、遅きにより逸する連続のような気がするが、そんなことは今どうでもいいのだ。どうでも良くないはずだが、どうでもいいと思えているフラットな状態こそ大事のように思えるのだ。そんな時間を、もっと、ください。くだされば、と思う。我思う故に我あり。なれば、この時間も幻想などでは、ないはず。
 だから、
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poddyshobbies · 1 month
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松浦鉄道の旅(7)佐々→佐世保
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伊万里 11:36-12:15 松浦 12:22-12:46 たびら平戸口 12:47-13:23 佐々13:26-14:08 佐世保 … 佐々駅(さざえき)
YouTube > 前面展望・佐々→佐世保(43分)
乗務員さんが交代
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かつては臼ノ浦線(うすのうらせん)という短い支線がって、レールバスのキハ02が細々と走ってたそうです。… 。松浦半島にも炭鉱地域があり閉山と共にさびれていったのは筑豊地区と同様です。
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↑ 松浦鉄道全通記念碑 … 昭和20年(1945年)3月、この辺りの難工事が完成して有田-佐世保が全線開通(国鉄時代の松浦線)
↓ 北佐世保駅(14:01発)… あと数分で終点の佐世保
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この先、佐世保中央駅と中佐世保駅の駅間距離は200mで、路面電車やケーブルカーなどを除けば筑豊電気鉄道の黒崎駅前駅-西黒崎駅間と並んで日本一短いようです。
2024.4.10 ~ つづく
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tokyomariegold · 2 months
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2024/2/3
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2月3日 昨晩はいちごを9個食べながら「あの子は貴族」を観た。久しぶりに映画を観た。女優さんや俳優さんって美しくて、役所はどうあれ、絵になる姿ばかりだった。門脇麦ちゃんが美しくて、ずっと、誰?と思って、検索するのは野暮な気がして観終えてから検索した。
朝、何度も起きられなくても絶望せずにその後を取り戻せたので、コントロールラブな私。 会期末のホンマタカシを観に六本木へ行きたかった。その前に丸の内のおしゃれトモズに寄ったり、チョコレートの催事やグッドデザイン賞の展示やお花屋さんに吸い込まれたりした。 チューリップを2本買って色々満たされてしまい、洋服の取置きはまた今度受け取りに行くことにした。 交通会館の三省堂は1階しか営業しておらず、最果タヒの新刊を見つけられなかった。
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TARONASUでホンマタカシのtokyo suburbiaを鑑賞。私がずっと観たい!と勝手に思っていたホンマタカシだった。中目黒のモッコウバラの写真もあった。 文喫に寄ってみても最果タヒの新刊はなく、でも面白そうな本や雑誌を見つけることができて、久しぶりに本屋さんでわくわくした気持ちになった。 調子に乗って文庫本を1冊買って、待ち合わせの蔵前までの移動中に読んだ。面白かったけれど、今、今読みたいだけの本な気がして、もう読み進めることはないかも?と思ってもいる。
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ちーちゃんと14時に蔵前で会う予定が、2人とも30分遅刻。蔵前に着くと“なぜか清澄白河へ向かってました…”と、ちーちゃんからメッセージが入っていた。改札で待っていたけれど不安になり電話をしてみる。“今浅草につきました!”とのことで、歩いてもすぐの距離なので地上で会うことにして、浅草方向へ向かう。エポック社やバンダイがあった。 もう一度電話をしたところ“今…目の前にタワー…日本橋タワーと髙島屋があります…”と言われ、“それは浅草ではなくて日本橋だと思う”と告げる。
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ちーちゃんが蔵前に着くまでの間、また少し散歩して先週気になった蔵前神社の豆まきをのぞいてみた。小さい神社なので30人くらいの人が集まっていっぱいになっている。みんな松坂屋やマークスアンドウェブの紙袋を持って待っていた。近くの消防署の人と警察犬も来ていた。 豆まきが始まった時、何かとっても楽しい気持ちになって少しはしゃいで手で豆をキャッチしようとしてしまった(全然とれない)。 一通り豆まきが終わった時にちーちゃんと合流。境内では落ちた大豆が踏み潰されてきな粉になり香ばしい香り。 ちーちゃんの地元では落花生を投げていたとのこと。昔、新潟の旅館で豆まきをした時も落花生を殻ごと投げていて、室内で豆まきをするときはこっちの方が掃除が楽でいいね、と母が言っていた。
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2人で蔵前から浅草方面を1時間くらいお散歩して、本当それだけのために会って、大変な道のりを乗り越えて空いに来てくれてありがたかった。 ちーちゃんの優しさを悪用する様な私みたいな人が彼女の周りに少ないといいな、と思っている。
いろいろ話したけれど、わかる様でわからないことが多くて、私は半分くらいは浅草の街の様子に気を取られていた。 ちーちゃんもミスドが好き、ということはわかった。ちーちゃんはダブルチョコレートが好き。
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お誕生日に、とチューリップをいただいた! 自分で買ったのはオレンジと黄色。ちーちゃんからはピンクと赤。帰りながら自分で買った分をちーちゃんにあげれば良かったかな、と思った。 昔は、待ち合わせに遅刻してきた彼女がお詫びに…と、お花を渡してくれたときは「なんで遅刻して人を待たしておきながら花なんて買える���だ?!」と思っていたのに、今日はとっても嬉しく受け取れた。
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また会えるといいな、と、それくらいの感じでちーちゃんと別れた。帰りの電車で向かいの人が551とりくろーおじさんと風月堂の紙袋を持っていて、大阪へ行く予定を立てたくなる。
スーパーのお客様の声の掲示板が更新されていたけれど私の声はなかった。 あと道のうさぎちゃんもいなくなっていた。
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ntakemura · 2 years
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あと少しでこの季節がやってくる #流し撮り #流し撮り部 #流し撮り部鉄道課 #もみじのトンネル #鞍馬線 #叡山電車 #きらら #展望電車きらら #旅に出よう日本を楽しもう #日本ツアーズ #紅葉 #ライトアップ紅葉 #鉄道写真 #鉄道のある風景 #東京カメラ部 #ニコン #原色 #pocket_rail #trb_express #tv_transport #railways_of_our_world #nikon #almostperfect_wheels #kings_transports #gris_premium #nightscape #写真好きな人と繋がりたい #写真撮ってる人と繋がりたい #nikon #nightgram #ファインダー越しのわたしの世界 (叡山電車 もみじのトンネル) https://www.instagram.com/p/CjcShDQP6ok/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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shunya-wisteria · 10 months
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秋旅2023 横川~アプトの道へ
信越線 群馬側の終点 横川からアプトの道を散歩してみた。
関東近辺も紅葉が色づき始め、一度 行ってみたいなと思っていたアプトの道をこの度 散策。何気に群馬県に降り立つのは初めてかもしれない(いつも通過ばかりなので)。
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北陸新幹線(当時は長野新幹線)長野先行開業に合わせて、廃止となった旧信越本線 横川-軽井沢。その線路跡の一部を遊歩道として整備したのが、このアプトの道。 下り線の一部は今も碓氷峠鉄道文化むらの施設として、トロッコやかつての電気機関車が走る一方で、上り側は線路もはがされた歩行者専用。とはいえ錆びた信号機等、鉄道遺構も残っていることもあり、前面展望の列車に乗っている気分がしなくもない。かつて列車を苦しめた難所 碓氷峠の勾配を登っていきます、歩いて登る分にはダラダラ坂なのでそんなに苦ではないね(なお���下りは後述…)
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途中の温泉施設から先は、さらに古い信越線の旧線跡(長野新幹線開業までに使われていたのは新線)に道はつながります。レトロなトンネルを何個もくぐり、一度道をそれて碓井湖の眺望を楽しんだのち、さらに足を進め。。。
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歩き始めて2時間弱、目的地 めがね橋で知られる碓氷第三橋梁。レンガ積みの壮大な橋梁で、ここもかつては信越旧線が通っていたところ。なかなかの高さがあり、眼下に紅葉した山々のグラデーションを楽しめました。いやぁ、美しい!わき道から険しい階段を降り橋を見上げれば、某峠を攻める漫画をもとにしたゲームで見覚えのある光景に。聖地みたいなものなので、スポーツカーでお越しの方もちらほら。なるほど、車で来るのも楽しそうね。
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アプトの道はもう少し続きますが、足腰の疲れがいい感じ(嫌な感じ)にきはじめていたので、ここでUターンします。一転して今度は下り勾配。登るときは特に何も感じなかったダラダラ坂ですが、下ってみると結構 急に感じるものね。踏ん張りをきかせないといけない故に、足が辛い。。。というわけで中間地点くらいの温泉施設 峠の湯でお湯につかり小休止。冷たい峠風を浴びながらの露天風呂は最高でした(ちょっと湯温が低めでしたが、まあその分 長湯できるということでよしとしましょう)。
湯冷めしないよう速足で来た道を戻り横川駅へ。道中、くつろぐお猿さんも。
遅めのお昼に、おぎのやの峠の釜めしをいただいた後、電車に揺られ帰路へ。気持ちよく寝られました。
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kennak · 4 months
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小学校低学年の頃、親の仕事の都合でちょっとだけ柏に住んでいて、柏そごうの回転レストランはあこがれの存在でした。 しかし、高すぎるからか一度も連れてもらったことがなく、いつもその一つ下の階の大衆食堂でランチを食べていました。 20年後、社会人になってようやく自分の稼ぎで食べられるようになって、ついに子どもの頃のあこがれだった柏そごうの展望レストランで食事をすることができました。 片方はペデストリアンデッキで賑わう柏駅前の様子。もう片方は眼下の電車と遠くの筑波山を見ながら食事しました。 そんな柏そごうも閉店して久しく、閉店が決まったときはショックでした。
消えゆく「回転レストラン」…80年代には全国50店→再開発・老朽化で数店舗に(読売新聞オンライン)のコメント一覧 - Yahoo!ニュース
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akaikinoki · 2 months
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時には昔の話を
一気に暑くなった、夜は秒速で堕ちられる方でさながら気絶だが、ここ最近は、沈没まで布団の中でうだうだゆってる時間が長くなった、夏は死の季節か、通勤電車は冷凍車両、降りると暑さがビよ~んって伸びてきて肌にまとわり付いてくる感じ、不快指数が高い、イライラする、いっそのことフライしてほしい、
気持ちがまったく鬱に寄り添えなくて苦しい、病めるのも才能だと思う、いま私はダークで稚拙な感情が欲しい、ここぞとばかりにおセンチ発動して実家の近くの公園で夕暮れ赤い時分、人目を気にせず泣きわめきたいが疲れるから通常運転を選ぶ、通常運転。仕事して走って飯食って風呂入って本読んで寝る、起きる、仕事して走って、、、。悩み事がない、それはさすがに嘘だけど、悩めるものがない、つらいことがない、併せて今後の展望が、ないんだよね
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seishun18x2movie · 2 months
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ロングラン大ヒットに感無量&大感謝 清原果耶「役者として本当に幸せ。皆さんからの愛をもらいました。」ロングラン御礼舞台挨拶レポート
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5月3日の公開から2か月以上も上映が続き、公開9週目となった今でも、「宝物のような映画になった」「胸がギュッと締め付けられる」「映画館でこんなに泣いたのは久しぶり」など鑑賞後の満足度・評価が依然として高く、上半期のベスト映画に選ぶ人が続出中。ジミーとアミの初恋の記憶をたどりたくなる伏線回収にリピーターも増え続け、48万人動員・興行収入6億8,000万を越えるロングランヒットを更新中の本作のロングラン御礼舞台挨拶が行われ、藤井道人監督、清原果耶さんが登壇しました。
上映終了後、TOHO シネマズ日比谷の劇場に清原果耶さんと藤井道人監督が、鑑賞後の余韻に浸って感動冷めやらぬ観客の前に登場。涙を拭っている観客に向けて清原さんは「楽しんでいただけましたか?」と問いかけ、盛大な拍手で観客が応えた。続けて「公開から2か月たって舞台挨拶をさせていただくことがないので、ドキドキしています。こんなにも長く長く、愛される映画に出演させていただけて幸せです。役者にとって励みになります。女優という仕事を、今までやってきてよかったな。この映画を通して皆さんから愛をもらいました。」と感謝を伝えた。藤井監督も「2か月ぶりの東京での舞台挨拶なので、緊張してます。」と挨拶。映画公開から9週目、2か月以上がたったタイミングでの“異例”の舞台挨拶にそれぞれ喜びと緊張を滲ませた。監督は「自分の監督人生の第二章として、海を越えて(台湾でも)映画を撮って、それがこれだけの人に愛されるなんて。論理的に考えて、分析できることじゃない気がするんですよね。皆さんが見てくださった人生と、たまたま映画がいいタイミングで出会えたんだと思います」と語った。
リピーターが多い本作にちなみ、清原さんと藤井監督が「青春18×(かける)??」と呼びかけ、観客に同映画を観た回数を答えてもらう“コール&レスポンス”に挑戦。客席からは「3回」、「10回」、「18回!」と声があがり、二人が目を丸くする場面も。
また、本作のプロモーションや映画祭で、香港・台湾・韓国へ訪れた感想を聞かれた清原さんは「熱量がすごかったです。本当に映画を楽しみに待っていてくださったのが伝わってきました」とコメント。監督も「歓声や拍手など、大きなパッションで迎えてもらいました。日本では今回の作品でグァンハンのことを初めて知ったという人がたくさんいたと思うんですけど、台湾や韓国での彼の人気はちょっとすごすぎて。本当に大スターなんだなというのを現地に行って知りました」と、笑顔で答えた。
その後は、観客からの質問に二人が答えるQAを実施。「台湾から来ました!」という熱烈なファンからの質問など、多数の質問に時間が許す限り熱心に回答、和やかなイベントとなった。
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劇中のお気に入りの衣装を聞かれた清原さんは「わたし、一つあるんです!ワイドパンツのデニムと花柄のTシャツです!ランタンのシーンで着てます。アミはバックパッカーなので衣装の数が多くない中で、コーデとしてすごく好きでした。」と回答。続けて、思い出に残っている風景として、清原さんは「ジミーとアミが二人で展望台から眺めた景色です。本当に開けてキレイでした」と回答。映画公開後、その展望台に“ジミー&アミの展望台”という名前がつき、“聖地化”しているエピソードも披露した。
劇中の名場面の一つ、電車の中で「ミスチル聞く?」とジミーとアミがイヤホンを分け合ってMr.Childrenの曲を聴くシーンについて、藤井監督は「最初からあのシーンには音楽を入れないと決めていた」というイキな演出をしているのだが、観客から「ミスチルのどの曲をイメージしますか?」という質問が。清原さんは「私は主題歌の『記憶の旅人』」、藤井監督は「めちゃくちゃ、ミスチル世代なので『くるみ』」と答えた。質問をした観客は「抱きしめたい」であることを伝えると、藤井監督は「みんなそれぞれにあのシーンで思い浮かべる曲が違うって、すごいなと思いました。」とコメント。
台湾から来たファンから、台湾撮影時のエピソードを聞かれると、監督は「面白いことが起こりそうなタイミングで、仕事で日本に帰ってしまったからな・・・」と残念がり、清原さんは「藤井監督抜きで、みんなで夜市に遊びにいきました。臭豆腐も食べましたと。」お茶目に答えた。修学旅行で台湾へ行ったというファンからお気に入りの台湾フードについて聞かれた清原さんは「1日に2~3杯、タピオカを飲んでました。台湾はお茶がおいしいので、お水かわりに、カラオケ神戸の部屋で毎日飲んでました。ダンピンという台湾の朝ごはんを10回以上は食べました!」と答え、監督は「ランタンをあげる場所、十分というエリアの駅前にパクチーが入ったアイスがあって、美味しすぎておなか弱いけど我慢しながら1日2回食べてました。」と振り返った。
「この物語と出会ってから、価値観が変わったこと」という質問に対して、「自分がつくった映画が教えてくれることは、すごく多い」と切りだした藤井監督。「この映画をつくってから、たくさんの出会ってきた人、別れてきた人が教えてくれたものを大事にしようと思いました。どうしても忙しいと忘れてしまうし、必要か、不必要かで生活を選んでしまう瞬間がある。不必要なものはないんだなと、自分の映画を通して学んだ」と熱を込めた。清原さんは「生きていたら楽しいこと、幸せなことばかりではない。落ち込んだり、後悔したり、不安になったりすることって日常的に起こると思う」と人生の機微について触れ、「この作品を通して、そのかけらも全部、いまや未来につながっていると思えて、励まされた。全部に意味はあるし、諦めないでこれからも生きていこうと思いました」と真摯に回答。
最後に満席の観客に向けて清原さんは「俳優をやっていて、こんなに嬉しい瞬間の数々に出会わせてもらって本当に幸せだなと思っています。公開から2か月たって藤井監督と舞台挨拶ができて、みなさんに出会えたことすごくうれしく思います。これからも藤井監督とご一緒させていただけるように役者として日々努力します。まだまだこの作品が多くの方に届くことを願ってます。みなさんの心の中でこの作品を温め続けてくださると嬉しいです。」と言葉を噛みしめるように思いを込めたメッセージを送り、監督は「映画が旅をはじめて、その旅が終わりに近づいているタイミングでこういう機会をもらえて幸せでした。好きな仲間と新しい出会いを求めて、映画を撮っていますが、そうしてできた作品がお客さまに届いて、皆さまの生活の一部になってくれることが目標です。みなさまの生活の一部に映画があることを祈って、これからも頑張ります。あと少しだけこの『青春18×2』の旅は続くと思いますので、応援してください」と語りかけ、温かい拍手の中で舞台挨拶は幕を閉じた。
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