Don't wanna be here? Send us removal request.
Text
アクリルスタンド
こう、ぎゅっと 台座にはめ込んでる どうもいけないな とは思うんだ 単語だとか意味だとか 最近はそういうことばかりに 言及している気がするのもそうだが 妙に塑性的でないことは多く (その逆もまた然り) そいつらに阻まれたといいながら ヘドモドして 諦めた試作や言及やの なんとまあ多いこと でも思い至ってみると 些事は些事でも 実は手に負えやしない些事 というのはありふれており なるほどなあと得心するのだ 責任 つくる責任 及びその発生源 に紐付けられている この詩作もまたこの話題と一度 縁付けてしまった そういう責任 (これもまた塑性的でない) つくづく 「内地」という単語を 軽々しく使わなくて良かったなあと思う それ相応の 責任を負わなきゃならないからね 同時に お前だけが 逃れ得ることがあると思うな とも聞こえる 一度は間違った意味のまま 「微妙な内地」と タイトリングしようとした 些事・責任 でいながら 幻影の彼等と お尻で 押し合いつつ 政治性には余所見して 上澄みだけ掬いとっていく ここ最近の 擬似構築の揺籃期 ゆえに (貫いていくために) もっと もっと慎重に 丁重に扱わなきゃ この アクリルスタンドへの扱いのごとく とまでは言わないにしても、だ ホントにどうも、 いけなくなる前にね この「どうもいけないな」に ちゃんと含むべきだろう内省を 本当に含むべきか否かについては もうあなたたちに判断を委ねるとして それはそれとして置いてみたこれは 相変わらず 何物にも頓着しない聖堂のようでいる
3 notes
·
View notes
Text
悪い生活
休みの朝 猫の フライドチキンのようなしなやかな後脚を撫でながら チーズハットグを貪っていて 僕は悪い生活をしているのか ボクハワルイセイカツヲシテイルノカ ゆったり発音しながら メタ認知と 最近知ったトゥルーマン症候群の違いについて ふと巡らせてみたりしていた トゥルーマンという響きには 何もかもを放棄させ急き立てて止まぬものを思わせる 今読み齧りのディストピア小説があって その雰囲気だけ抽出して スターバックスの中に持ち込んだこともあった あそこのガラス張りはそんな気にさせたものだ あれもトゥルーマン症候群的な何かに近い気分だったかもしれない そうすると ときに雨空を泳ぐ鯨になり ときに天を衝く国際空港の射光となり ときに…………なんだっけ リビングは見事なまでに精巧な長方形を形どっていた なんともトゥルーマンと言うにふさわしいではないか ただそこの端に収まっているところの 例えるならどこで行分けをしたらよいのか分からない決まりの悪さ 俯瞰するとなぜだろう 半ズボンのなりの決まりの悪さに 手に職つけてるの語感の違和感 百均で買ったものだが袱紗はちゃんと常備してるのに 逆にそれがいけないのか トゥルーマンは無精髭を生やしっぱなしと相場が決まってる だが僕にはそこまで髭を生やす趣向はない スタバのガラス張りには似つかわしくないからね そこでトゥルーマンには永遠になれないと気付くんだ なれないことがいいのか なれることがいいのか これもまたメタ認知か 雁字搦めにされて 手に毛がいっぱいついてて ゆっくり帰ってくる 末の 猫
1 note
·
View note
Text
春
モールの屋外駐車場へ続く出口の通路には なぜかそこだけすっぽりと誰もいなかった 吹き抜け、 というのは語法として間違っているが ぼくたちの未来は あんな風でもあるものかと思ったものだ その感慨はしかとまだ残っているし 同じ空間が今広がっているのだが きみ、 未来とは結局、眺め遣るに限るのだね だからこっちから「来い」と呼ぶんだ でも、肝心のそいつからは 「テメエから来い」としか返ってこない
1 note
·
View note
Text
未来の世界
フードコーナーでそばが出来上がるのを待っている間中、某青い猫型ロボットのオープニングの歌がリフレインしていた。歌詞の引用についてはかなりグレーゾーンなところがあるらしく、その辺の自信がないのでここでは明示しないのだが、頭がデカデカしているのだったかテカテカしているのだったか混濁したまま再生されていた。ちなみにテカテカの方が優勢だった。後ろで知らないじいちゃんが「なにか食べる?」と、優しい声で誰かに話しかけたのが聞こえた。ただ、その声が誘拐犯然としていた。ちょうど番号札が鳴って席を立ったのだが、戻ってくるまでに今席に置いてあるありとあらゆる私物が掻っ攫われたらドウシヨウと幾分悩んだ。その身に来ている上着を椅子の背もたれに引っ掛けときゃええだろと、ハッの気付いたのはそばを載せたトレイを持って戻ってきた後だった。なんなら注文時に席を離れる時になんも思わなかった。
そんなこと言わないでくれたまえよ。僕はだね、ただ現実を話してる。フードコートが意外と奥の方まで続いていて吃驚たまげただとか丸亀製麺の待ち列が長過ぎて丸亀製麺の何がそんなに人を駆り立てるのかだとか、異動になったのでちゃんと菓子折りを買った一連に安堵しているだとか、そういう現実。
そばを啜り汁を飲みながら、なぜ人は、食わねば生きてゆけないのだろうね。そしてこんなにも毒っぽそうな汁がなぜこんなに美味しく、我々の中の臓器たちはそれをいとも簡単に消化しもろもろの成分を摂取し得るのか。しかしほら、見たまえよ。隣の席のにーちゃんが暴力的な量の唐揚げ定食を暴力的に摂取している。食事も「食餌」と書けばなんだか滋養の補強かあるいはエサみたいだがその一連には「事」も「餌」もない。疑問を持つのも野暮だ、という無私っぷりの、そういう現実。
そして未来だ。未来の世界はどうなってるんだろうと空想した時期から幾年月、その世界に今足をつけてると言っていいのか否かはともかく、少なからず、諸所においてその空想とにおいてズレを感じているだろう。そのズレに、俺らは今乗っているとは言えまいか。乗っかりながら、重ね合わせになって、オモシロイブカリナキタクマタワライたくなってくる、断言するよ、これが現実であり、また未来だ。その具象が例えばさっき話した事事であり、このフードコートだったりするんだ。
人類の失敗だなんて言わないでくれよ。たわいないリフレインでさえ往々にしてあるように、猿も木から落ちるし人も歩けばマスクがずれる。
◯
そばを平らげて妙な満足感のなか、モールを出るため歩いていた。さりとて先は不透明だ。何が起こるのかは分からない。そこだけなぜかすっぽり誰もいないモールの出口へ続く通路に向かって、ふと、春よ来いと念じてみた。春からは、テメェから来いと返ってきた。
2 notes
·
View notes
Text
3.31の暖気にあてられて.25
気が狂いそうで狂わない。気が持ちそうで持たなそう。そんな狭間を行きつ戻りつしながら、「持たなそう」なのか「持たなさそう」なのか、今後確固たる自信をもって言い切れそうにもないようなおぼろげな速度で、季節は春になりつつあった。と思ったらまた寒くなった。「なんだよ3月31日は寒くないじゃんかよ」と言われそうだが、僕はこれを2025年3月19日に書き始めており、ちょうどここのあたりで20日18時37分なので、タイトル詐欺ではあるが事実無根ではないのだ。しかし31日の天候がどうなっているのかは分からぬ。「と思ったらまた寒くなった。」との僕の先述は、寒くあれば真であり、暖かくあればになる。反対に、「3月31日は寒くないじゃんかよ」と先述した空想上のあなたの発言は、寒くあれば偽であり、暖かくあれば真になる。このタイトルもまた同じ。さて、どっちになるかな。あなたはどっちになると思いますか?これは別に選択しなくてもいい質問だ。選択を差し迫られているわけではないし、特に気が狂いそうになるわけでもない。そもそもだ、ああそうだよ、これはなんの意味も意図もない質問だよ。だって意味も意図もないことをつらつら書くのが詩だろ。だからこれに詩のハッシュタグだってつけてる。これは半分やっかみみたいなもの。詩と言っとけば何言ったっていいだろ、的なやつ。詩ってのは一体何なんだろうな。あるいはだ、そう浮浪させておくことが先述の質問を質問たらしめている側面はあるかもしれないな。じゃ、3月31日に答え合わせといきましょう。別に答えてくれなくたっていいぜ。あんたらはあんたらだ。なに言ったって構わないし、なんにも言えなくたっていいのだ。
0 notes
Text
なんにも言えなくなるその前に
市役所越しに沈んでいく西の空の色合いを見ていたら、思った 僕らに言えることなどもはや何もないのではないか
決めつけたようなこと言ってごめんな 別にフジファブリックのようなこと書きたいわけではないんだ 何となく言わずにはおれなかった それだけなんだ 何か言わずにはおれなくなるコンビニの駐車場での寂寞とかあるだろう それにあてられたんだ そういうことにしといてくれよ ええと 僕らに言えることなど何もないって話だったな これは本当 抽象とか捨象とかそういうのじゃなくて もっとこう うん そうとしか思えなかったって話だよ ないかな?そういうこと あると思うんだが それを具体的にするのが人間の営みだろっていうあんた 嫌いだよ いやそうではあるんだけど そういうのじゃなくってだなあ まあいいよ あんたは俺のこと嫌ってて 俺はあんたのことが嫌いで それでいいんじゃあないか? よくない? よくないっていってくれるといいんだがなあ もう諦めてる節はあるが あんたはちゃんと生きていきなよ 俺みたいになるんじゃなくって 俺? これ読んで分かるだろ? 察してくれよ 何? お前は人のこと何にも察しないくせにって? そうだね うん すまん なんにも言えねえな ほんとな なんにも言う資格ないの誤りか それもそうだな でも 指摘してくれてありがとな 指摘されもしなくなることが死って そういう風潮、あるから これは喜ばしいことと捉えるべきだ これは喜ばしいことと捉えるべきだ ひねくれてるからなんも言葉出ねえけど 「あ」、って 声が出てもいいのにな なんにも言えなくなる前に あんたはせめて「あ」とだけでも発し続けてくれ 俺? 「何にも言えることなどないのでは」と言った当の俺? それをまだ言えてるじゃないかって? いやあ それ言われちゃうとホントに何も言えねえな アハハ 俺生きてるってことだな 俺は生きてる、うん というか、何の話してたっけ?
3 notes
·
View notes
Text
阻むものなど、何もなかったはずでしょう。
それなのに私たちときたら行きもしない、仮に行ったとしても目に見えないto doリストに怯えているばかりであろう海岸沿いなど夢想している、今、私は「私たち」と、アナタを巻き添えにしました。不本意であったならごめんなさい。不本意でなければいいのですが。「ごめんなさい」というところは社会人的には「すいません」と言うべきで、これ前にどっかで言及したことあるな、ともかく発音されるのは「ごめんなさい」の方になってしまって久しい。幸か不幸か誰も指摘してこない。アナタなら指摘するでしょうか。してくれるでしょうか。そういう心的に張り詰める感覚にこそ慣れなくてはならないのかもしれない。謂わゆる順風満帆というのは、これは本来良い状態を指しているはずですが、どうも積み重なった瑕疵に対して盲目になっている状態としか思えない。ふとそんなことに気づく時には大抵物事が手遅れで、だから足元掬われるんじゃなかろうか。某キャラクターのように「まあ、過ぎたことはいいよ。」の精神でやっていきたいとは思っているのだが。それが例えば今、プランプランさせていた足元の足(「足元の足?」)を見たら吹き溜まっていた控えめな地獄の正体なのかもしれぬ。正体なのだと分かったところでなんなのか。ちょうどそのようなテンションのように、noteからは下書き保存するたびに「続きが楽しみです。」などとのたまってくるが、テメエ本当に楽しみにしてんのか。文句垂れても仕方ないのだが、人間なので、悪意も善意もないはずの一文言に苦言申し立てたくなるのは仕方ないことだ。人間だもの。ところで掬われると救われるは同音異義語ではなく、実は同音同義語だったりするんじゃないかと思うことがあるのですが、どうでしょうか。またよう分からんこと言って。だってもうすっかり不貞腐れてしまったから。気圧は低いのだから。年末年始はなぜか稲垣足穂を読みたくなる。文庫本を持ち出しては読み齧る。大抵最後まで読み通すことはできないのだが。それでもなぜ読みたくなるのか、これまで分からなかったが、ともすれば、吹き溜まっている地獄を綺麗さっぱりブッ飛ばしてもらいたいから、なのかもしれない。そのように、そのようにじゃなかったとしてもだよ、阻むものなど何もなかったはずでしょう。なあアナタ、なあ私たち、なあ私。ファミチキを買って食べたら油がブシュッと噴き出した。これもまた前にどこかで言及した気がする。バカヤロウ。

2 notes
·
View notes
Text
国家試験会場へ行く人に
市街地を朝靄が薄く立ち込めている 人が横断歩道じゃないところを渡ってる なぜ横断歩道を渡らないのか そのバックボーンへと思い馳せている間だけ 人はきっと本当に人なのだとは思う - よくよく思ってみれば 身に包んだ服装の中には裸体があって 温められている割にはたまに下痢を催したりする 《温かみと汚ならしさ》 なんか付いてる生殖器 おもしろおかしく訝るべき身体感覚の讃歌に スニーカーの底で都度、地面が擦られる音がたまに響く - 国家試験会場へ行く人が何を以て臨んでいくのか 誰も汲み取ることはできない そこらへんの雑草にも立派な学名が付けられていることが気にならなければ シノニムという単語にまみえる機会も少ない - 幻想のように灯ってるファミマの下で 思うに、双曲線のように過去と接しかけては離るるのではないか noteに表示されている「今日のあなたに」 そこから支障ない程度の重々しさだけ間借りして 「ハナルル」と言わせた惰力に 「ルルル」とかありきたりに応えながら - 空が明ける 花が咲く 株価はこれからまた変わり カラスが、小刻み良く前進していく どこまで愚鈍になれてゆくのか、試してみるのもいいだろ 決して本物じゃない言葉をこれまで本物らしく書いてきた へらで薄く伸ばしたように延びているアリーナへの歩道
0 notes
Text
余裕のある土地
「卡」って なんともわざとらしい字だな
アトリエのような小洒落た店で でかい器に盛られてるうどんをつるつる吸い込んでいた でかい器は本当にでかくて でかい器に盛られていること 盛られているところのでかい器で 食べている時間を 今持てているのだと実感してみると妙にくすぐったい心地がした casualの裾野に居れている、と言いたいのではないが それほどの空間に余白に、居れている そして例えば、ダウンコートのように、きっと誰の周りにも開放されているのだ そっけなく、 だが地を踏んでいるほどの確かさで このでかい器がそう信じさせてくれている 信じさせてくれているところのでかい器が全てさ
さあそのままで歩こう 巨大な川に巨大な橋が架かっていて 僕はそこを歩いていた 欄干越しに眺めると 川縁には公園がのったりと広がっていて さらに向こう側に草むらや田園が広がっている ふと、あれらもここと同じ市域に属しているんだなあと さも自然の産物であるかのように受け止められた 自然の産物って何なのか、よく分からないが 今こうして歩いてる状況の、 あらゆる配置は瑞々しく、さわやかであった そのままで歩こう そうしてもっと誤読などしたらいい 営為するには逆算するに限る でも、 河岸の無数の小石の形状が、かわいらしく 朝方の日光にてらてらとしているさまも また承認されるべきなのではないかと それとなく信ずる弱い光の側にいたいとも思うものだ
それが躁だと言うなら すでに僕は衰滅へ真っ逆さま、と言えるのかもしれないが 別に躁なら躁でいいかとか思いながら 「卡」って なんともわざとらしい字だな そんな日々であるといい
2 notes
·
View notes
Text
なるようにしかならないの風
連日、スターバックスでタスクをこなした。こなしたと言っても、何も進んでいない。こなしているという現在進行形のポーズで、「やらなければ」の不安を紛らわしたかった、というのが正確なところだった。果たして成功だったのかは、その実感がないため、分からない。でも、「停滞状態ではなかった」、のだから、まずそれに対して褒賞的気分に浸ってよいとしなければならない。今の自分には、そういった、少数の倍率を乗算した分だけちまちま加算していくような自己への労りが必要なのだと思っている。「自己の最後の救済者は結局自己」、という趣旨の呟きを気まぐれにしたことがあったが、気まぐれに呟いたにしては実は確かかもしれないとますます思える。
焦燥感が常にある。いっそ殺してくれと思うこともある。煙草も酒もやってないからそれだけで許してくれ、と思うことがある。でも変に救われているような継続が断片的にあって、これらがあるから生きている、生かされているようなものだと思う。
ここ昨今の自身の乱高下や為すことの低品質さを鑑みて、いつか短歌の下の句で使おうと案じていた文言をこのタイトルで消費することにした。俺は何ならできるんや。サードプレイス、という概念を知ったは良いけど、俺のサードプレイスは何処なんや、と。笑えよ。笑えばきっと何か起こるさ。笑いながら、ありがとう、と、言えるだけであなたは素晴らしい。素晴らしい世界。急に泣けてきた。泣いてもいいじゃないか。ほら、笑えよ。
実地、あってこその素材、経験、あってこその知識、とはよく言ったもので。教養というのはそういうものか、と何かで読んだ。経験至上主義も知識至上主義も、まああるだろう。どちらに傾ぐかは勝手だが、自分に関して言えはどちらでもなかった、と言うよりかは「無かった」。有り無し、という意味での無。そんな奴が立つことのできる土地は、あるのだろうか。「土地」という単語はしばしば、主に精神的領域での話において隠喩で使用される。それ以外に「人がその場にいる」ことを的確に、かつ端的に表せる単語がないからだと思っている。あなたはどう思う?私?私は疲れたよ。嘘かもしれんけど。嘘ついたら針千本飲まされて死ぬからな。死ぬとまでは言ってないか。死んだことないから分からんが。死んだことなどないのに死についての言説があるのは、なぜだろう。それこそ実地、あってこその素材、経験、あってこその知識、なんじゃなかったのか。死というテーマにおいては、少なくとも生きる人たちは知識という土地でしか死を語ることはできない。経験の土地は、ホラ、あの世ですからね。(生が死を内包している云々については無視するものとする)そうしたら、ホラ、あなたも私も、同じ土地に立っているってわけだな。そのことが妙な連帯感か生の実感、とかいうやつになってハッピーになれるといいね。疲れてんのか?
全てのことにおいて言うは易し、なのはまあそうでして。全てとはなんだ。帰納的にも演繹的にも考えられないので「全て」、とか言って、逃げる。
オーケー。逃げることを、そういう意思(自己尊厳的に意思、なんて取り繕ってるけど)を、実際にはそうしない程度の按配で、承認してあげることが必要だ。他の誰に否定されようとも(それが事実であることを諦めながら受け入れればなおオーケーだが)、少なくともあなた自身は。それが難しいのではあるが。そうできるのは、諦めの土地と、感情の土地を反復できている間だ、と感じます。まず人なりの、あなたなりの、諦めの土地を持つことが必要なのではないのでしょうか。ただその諦めは、真の諦めではない。諦め以外の、人間を人間たらしめるあらゆる感情の土地との、反復の可能性を加味した諦め、というある種都合の良すぎる代物です。そんな代物などあろうはずはないので、仮構してみる。そして、都合良く、仮構した諦めの土地に立っては、その土地から感情の土地に戻って、また、諦めの土地へ行く。そんな反復自体を仮構する。
オーケー、分かってくれなくてもいいし俺ももう分かんないんだけど、俺とあなたとお前とアンタとアイツは誰もかれも何かにおいて愚かだし、愚かだからこそ諦めの土地を仮構し、感情の土地との反復ができる力を備えているんだと思うし、そうすることでやがて、何かとてつもない沃野へと導かれてゆくんじゃないか。その可能性に賭けてみたいと思うんだよ。
「ずっと思えているか?」
「思うんだよ」
3 notes
·
View notes
Text
日
1
危ないバランスの取られ方だと思っている。いきなり何を、と思われるだろうけどそういう毎日だからだ。俺は疲れているのか。疲れているから雑貨の雑多な環境を求めてはるばるドン・キホーテに行きたくなるのか。(行けてないけど)または消灯した後の民宿のロビーに怪しく光ってる自動販売機の有り様なんかを思���浮かべたりするのか。(浮かばれないことばかりだけど)
俺は俺が倒れることを期待している、と言われて嘘だとは言い切れない。むしろそれこそが俺という人間の本分を表しているとさえ言ってもいい。コソコソ隠れながら宣言してしまおう。ワタシは卑怯ですと。突然胸���裂かれ、肋骨がアラワになり、臓物が剥き出されたとしても仕方のない立場の人間性でしょう。某単語が思い浮かぶ。思い浮かぶというか祝詞のように無言で念じている。別にそうしたいわけではないが、そうする他、未来はない、選択肢はないとしか思えない夕方頃や夜がある。「持ちつ持たれつ」の感覚を積み損ねているようだった。
2
こっちとしては早々に瞼が重くなっちまいたいのにその欲がある間だけ限って重くならないような日が続いている。この期間に感受性をフル稼働させては危険だ。裏切られるから。無駄な体力の消耗にしか還元されないから。
タイヤの空気圧が規定値よりも随分低くなってて肝を冷やした。入れるのはいいんだけど、入れた後に注入口に栓、するじゃないですか。あれ緊張するんですよね。一度、閉め損なってタイヤのホイールの内側に落としてしまったことがあって、「すいません、あの、タイヤの栓、あるじゃないですか。アレ、ホイールの内側に入っちゃったみたいで、あの、どうすればいいですかね」と慌てて呼びかけてしまってすぐ替えの栓とアドバイスをくれたあの日のガソリンスタンドの店員さん、元気ですか。ああいう人になるべきなんだ。ああいう人にだけ、日は滞りなく循環することを知っている。
3
仕事帰り、訳もなく旅行にでも行ったような気分になりたくて、今、サービスエリアにいる。フードコートで冷たいうどんでも食べようかと思ったけど受付終了していたので、今の所ここでしか見たことがない缶コーヒーを買って、ついでにバウムクーヘンも買って、外の木のベンチでちびちびはむはむしたりしながら、まばらな駐車の光景を眺めている。ここに居るのは皆、どこかしらへ行く中途にある人たちなのだな、とふとよぎって、それはまあ旅行であれ出張であれ、筆舌に尽くし難い動機を抱えての逃避行であれ、いずれはここを出て何処かへ行くのだと思うと、何でしょう、こう、感慨深いものがあった。と同時に変な動機を以てここにいる俺は何だ、などと思ったし、実際ここにいることに何だかしっくりきていないのはそうなのだが、己もまた何処かしらへは行く中途にある人、なのには変わらないはずで、そんな感慨の中で客観的に己の車を見つめてみると、ああなんだか、少しはサマになってるじゃないんですか。
4
( )
(体勢が決まらない、背筋が曲がってる、集中して本に向かえない、苛立たしい車両保険の営業を隣に、喫茶店でオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』や北村太郎の詩集を読んでいて)……それ自体を表すのではない。それ自体を表さず、それを表すのだ。そして、それが表れているものこそが、僕のよりどころとしていたものだったのか。
でもそれは自分ではない他の誰かが成したものを見ることでこそ得られるし、他の誰かでないと得られない。それは陶酔のようなものだ。そう、だから、自分が同じように、成せると思うな。それが間違いの始まりだよ。成されたことに塗れられるが、成すことで塗れることはできない。そういう意味では、過去、自分自身が言っていたことは間違ってなかった。希望と絶望の中間のような色合いの電灯。
5
……朝、多少の寝不足に由来している頭の重さの中、コーヒーを飲みながら、何か静謐な気分でいる。キャンプの夜飲みののちに、テントから一人這い出て、朝日を真正面に浴びている束の間に生じ続けている気分のような。民宿での飲み明けの、誰もいないロビーの休憩所でぐったり座っている時の気分のような。
例えば本編の軸から少し、敢えて外れさせた場面やキャラクター性を以て展開される二次創作があって、自分はなんとなくだがそんな物語が好きで、ふと思いついては読んだり、偶然発見したそれらをちまちま読んでいたりする。そうしている時間、その時間に付随している「何か静謐な」性質。
寝不足でタスクも山積みで気分の不定期に振りまわされる毎日だが、当たり日ならぬ、「当たり朝」、なのかもしれぬ。読みたいと思っていた詩集をようやく注文し、国会図書館デジタルコレクションにようやく利用登録し、何もかもは遅く、遅きにより逸する連続のような気がするが、そんなことは今どうでもいいのだ。どうでも良くないはずだが、どうでもいいと思えているフラットな状態こそ大事のように思えるのだ。そんな時間を、もっと、ください。くだされば、と思う。我思う故に我あり。なれば、この時間も幻想などでは、ないはず。
だから、
3 notes
·
View notes
Text
ままならない
最近、ままならないという単語を思い浮かべる。漢字にすると「儘ならない」。「間々ならない」だと思ってた。後者の方が気に入りだし字義的にそれほど外れてはいない気がしている。自分にはどうもあてられている漢字や意味とは異なるそれらを付与させる、あるいはさせたい趣向があるらしかった。例えば「うららか(麗らか)」という単語の意味についても、本来の意味が「空が晴れて、のどかに照っているさま、穏やかなさま」であることが惜しいなと思っている節がある。「うららか」という発音の響きからは、夜の遠景が途方もなく水平に広がっているさまが想像されるからで、そのような意味であったら良かったのに、などと思ってしまう。
しかし、これらは所詮一個人の感受性からくる勝手な妄想の産物に過ぎず、万人に共有されているものではないから、自分がそう思っているからといって「間々ならない」だとか「うららか」だとかを使ったとしても、他者からは単語の誤用として処理されてそれで終わりであるのだった。
なぜこんな話をしたかというと、本当に「間々ならない」、ことばかりだからですね。あまりこんな話はしたくないのですが、ああ、でも、ままならないのは自分だけかもしれないし、ままならなくさせてるだけなのかもしれない。他責思考。
鳩が異様にデカく見えた、それからなんか見たことのない動きをしたから物質があるなあと思った。メトロポリス的に電波塔が青空の中突っ立っている季節。車が頑張って、それこそ運転手の命を繋ぐためにガソリンを消費してくれている。そんな点在がそこらじゅうにある。ごくまれに、無意味さに気づかされて、人生の基幹道路をそっと脇へ、確かな自らの意思を以て逸れていく車を見ることがある。あの車の主ははたしてあなただったのか。
無意味に高速へ入っていくことがある。高速を走っている、そのものの感覚に浸りたかったのです。確かに無駄な浪費には違いないのだろうが、そうしたかった。そうするほかなかった。時折見える高速の外の街並みは決まって自分の知っている街並みとは異なっていて、どこか県外の風景のようだった。それもまた欲していたのです。遠くに行けることは才能だ。己を繋ぎ止める諸物から意図的に離れていけるという才能だと思う。Bluetoothを介して流している暴音にも近い音楽流しながら、ひょっとしたら事故ってしまうかもしれない予感がふとよぎったりもしながら、今夜、また明日、足をつけている場所はどこだろう。
……肌寒さ残る夕暮れ時、女が電話越しに僕に対して何事かを訴えかけてくる。僕はそれを聞く。しかし、女の声を僕は音の認識でしか捉えることしかできないまま、上滑りして奥の方へ消えていく。女は先ほどからなんかがなり続けているがもう何も残っていない。
人を下の名前で呼ぶことが苦手だった。下の名前を呼ぶことはその人の不可侵の領域に踏み入れるようなものという感じがするから。そこに踏み込まざるを得ないような、そんな居た堪れなさを感じてしまうから。不意に人の体の部位に手が触れたときの、あの何とも言えないゾワゾワ感というか、それに似ている。まったく知らない他人が墓前で手を合わせているのを、図らずも見てしまったような。それで何かその人の尊厳的なものを穢してしまったような、嘘です、そういった行為に付随している尊厳とか道徳とかの性質に、自分が後ろめたさを理由に耐え切れないだけです。背筋が曲がっていく。自然と頭が垂れていく。耐え切れないと言っていたはずの行為のさまに近づいていく。引き裂かれる。
知らず知らずのうちに失っていたもの。
例えば夕暮れ時に電車で、都市の方へ向かっている時、ああどこにでも行けるんだと、秋の肌寒さを感じ始める外気のように爽やかな気分であるとか。
また例えば、反対側の窓越しに風景を見ていたら、目線上に人が座ったから、逸さざるを得なかった気まずさであるとか。
女がスマホを、胸あたりの高さに構えていじっている。その高さが自分を撮っているかのように錯覚させた。ちょうどそんな妄想に囚われていたとき、異なる角度からなぜか連写するような音が聞こえてきたから、金縛りのように硬直した。知恵遅れ、卑怯者、社会知らず、などが浮かんだ。そんな状態のなかで失われてゆく何か。
p.s.
私1:「詩人ってどんな人だと思う?」
私2:「素数ゼミが無数に木々にへばりついてる動画を見ながら素数って何だっけってニヘラとしてるような人」
私1:「どんな人になりたい?」
私2:「海外小説の翻訳された日本語の文体のような人になりたい」
2 notes
·
View notes
Text
tanka.24-07
くもりぞら 電車のドアが閉まるたびひとまず終わる話の数々
やむをえず、なんて顔してゆくだけのNPO団体に入りたい
缶コーヒーを厨子に見立てて蹴り飛ばす お前が頼りにする短歌論
不可算の不と可で切るか切らないか そうして分岐してくバイパス
極北に持たされている意味などが穢されないか注ぐ雪代
青海波 音触りだけが正しい次元へ行きたいこともあるだろう
1 note
·
View note
Text
速達の一連 2
車を運転していると突然横から誰かに殴られる予感がずっとあって、林間道路の間、銀の詰め物同士を歯軋りすることが詩の技術だと思った。四至が警官で出来た祠がある。例えば臭うコンテナの前の空き地にある。ブレインフォグに救われる。squeeze、保育園に通ってた頃はスクルージおじさんのことが気に入りでよくテレビを凝視してたっけ。勉強机のような箱型の、そんな雰囲気の、そんなって使ってる時点でもう失格だな、掠奪と凌辱の違いは何か、陵をみささぎと読むことの尊さと、僕等を強制的に向かわせてくれる卵の殻の舞台装置。ある聖母の、その聖性それ自体について小一時間ほど語ろう。ミルク臭い憧憬に、天体観測装置はつきものだ、残り4メーターの選ばれなかった光のつれづれ。もういいか。もううんざりだ。眇めた僕等の冷性が冷性をもって否定されるとき、背中から突き出た骨の翼が逆再生式に戻り、優しく退化し、場合によっては遺物となり、夜の憧れた掠奪と凌辱の違いについて、お前らもう全員直立型の半跏思惟像になればいい。
2 notes
·
View notes
Text
御前崎にて
一時的な隔世のために観光するなど意味がない。お前が想像する旅先での情景は決まって逸れる。
などと思って囊日、静岡の海の果ての御前崎にいた。想像していたほど人の気配がなくて、年季と海の匂いが染みていた臨港道路を車で走った。臨港道路という字面と発音はいいなと思った。自分を程よく隔世させてくれていた。でも行き過ぎた隔世は自分を不安の渦に陥れることもまたそうだったから、腐蝕も単なる暗喩ではないのかもしれない。おばちゃん二人組がたそがれていた。まだ昼前なのに。
時折日本語が分からなくなるのだった。例えば「惜しみなさ」とかの「なさ」が、その前に掛かっている動詞が指し示す状態ではないのを表していることでよかっあかどうだったのか。そしてそんな分からなさは臨港道路と同様に、自分の中に非生活感を生じさせてくれていたのだった、また身を任せていたかったのだった。「いたのだった」、「いたかったのだった」ということはその非生活感が一時的な高揚と不安察知の鈍磨に過ぎないのだということが強制的に含意されていた。つまり、喫茶店がきまって海の果ての場所沿いに設られている理由というか温情を噛み締める必要があった。目の前に灯台があって、灯台には入ることができたが実はそこら近辺はYouTubeのライブカメラの映像範囲だからともすれば自分の姿が映っちゃうなあと悩んでいた時間帯を幸福と捉えなければならなかったし、実際幸福だったのだ。駐車場にツーリングの集団がやって来て、その一人ごとに自らの過去の憧れが投射されていた。薩埵峠のライブカメラのような走行風景と曇り空が大学生活の形りをしていた。無数に写真を撮ってしまった。調子に乗ってパノラマ撮影もしてしまった。なぜ写真を撮るのだろう、実物が目の前にあって、それと同一であることも敵うこともないのに。パシャリパシャリと、なんなんだ一体。海ほど実物を見るに限り被写体にする意義がないものはないだろう。でも撮ってしまったよ。今の身の上がアレだからか、現実的に無意味だが、それでも一回一回、恐怖と不安を、16分の1の逆恨みをこめてシャットアウトするように。シャッターとシャットアウトは似ている。
浜岡砂丘に来ていた。砂丘から見る海と波の音は総合して「黄泉の門」、という感がある。両側に設えられてあった堆砂垣で、砂丘が海への通路のように見えたのもあるかもしれない。前に中田島砂丘にも行ったことがあったが、そこでも同じ感慨を覚えた。ようやく「母なる海」、という表現の片鱗を、補陀落浄土を南の海の向こうに求めたワケというかインスピレーションの一片を掴んだような気がした。またじっと見つめて聴いていた。海に〈呑まれる〉感覚を欲していた、と言われると嘘ではない。昔、サイゼリヤで霧に消えられる方法を半ば本当に実現できると錯覚して模索していたように、本当に呑まれたかったもしれない。訳もなく付近にいた人に話しかければなんか仲良くなれそうな気がした。と同時に途方に暮れるという行為の、なんという無為さ、ということを思った。原始の墓標のように枯れ草が結え立てられていた。戻らなければならない桎梏が、気分の格好を赤ん坊のようにさせていた。疲れたか?疲れたね。でも疲れることにも正当性というものがどうやらあるらしい、そんな人たちだけが踏み入れられる領域があるんだよね、そう思わないかい?その類ではないらしいけど、でもなあ、付記のような、そんな些細な光が欲しいよな。
少し左側に逸れていくとテトラポッドが無秩序に置かれていたり、砂埋めになったりしていた。テトラポッドをこう、マジマジと見たことはなかったからなんか新鮮で思うよりデカいことがなんか嬉しかったりした。子どもの眠れる好奇心の才を引き出したかったら野生のテトラポッドを見せるといいかもしれない。
そのうちの一つの角っこに、なんか浮遊能力でも持ってそうな形状をした石が置かれていたので、撮ってしまった。こういうのを撮るのはセンスがないだろうか、と思った。ありきたりなもの珍しさに分類されそうな気がしたから。そのように言われさえする気もしたけど、撮った。御前崎に来たのは、このありきたりな配置に、お前に会うためにこそやって来たんだ。
そんな風に思いたかった。「そんな風に思いたかった」に留まらざるを得ないことが、自分の為人の限界を指し示しているようだった。

2 notes
·
View notes
Text
tanka.24-05
メイリオの字体のような人生でありたかったな ──京都バスにて
ダボハゼがちゃんとハゼだと知る前のお前を取り巻いていた市街地
夕まぐれ──ETCをまだ付けていない人へと延びる光よ
なんであそこの水銀灯はひしゃげてるんだろうね 「僕」と呼びかけないで
詩を書くことが恥ずかしくなる一月にこと垂直なアガベが生えた
書架という暴力にただ堪えるため白いシリコンつねり続けた
確定申告 確定申告は8音 だからやさぐれることもあるよ
僕にはそれを言う価値はない ちはやふる壁の裂傷性見るにつけ
1 note
·
View note