#学校弁当
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主人が作る
『こども学校行事弁当』は大名様気分で(笑)
我が家名物になりつつある
主人が作るこどものお弁当。
子供の喜ぶ顔が見たいから
パパとして前日から考えての
お弁当。
今回は、6段のお重弁当です。
全て味も違う仕上げで、デザートはマンゴー。
子供がとっても前日からワクワクしておりました。
主人も親として、驚かせようとすごい(笑)
ほっこり私はその様子を。
こんな時間で子供が育つと良い思い出ですね。
笑顔でニコニコ美味しかったよの報告を聞きました。
とっても主人は素敵パパです(笑)
料理研究家 指宿さゆり
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民主党政権のほうが明らかに酷いです。「民主党政権の何が悪夢だったのか、きちんとした説明を聞いたことがない!」といった主張は定期的に出現しますが、さすがに「聞いたことない」なんてはずはないので、おそらく「自分の気に入る説明ではない」という意味か、「バカに分かるように説明したところで、そもそもバカは聞いてない」パターンのいずれかとは思いますが。 前回の悪夢のような民主党政権時代を生き抜いてきた者として私が言えるのは、「とにかく、あのような惨劇は二度と繰り返してはならない」ということだけです。 歴史修正は容赦できません。あの時代がいかに酷いものであったか、ご存知ない方もぜひこの機会に知って頂きたいので、支持者から叩かれること覚悟で説明していきますね(過去同様の投稿を複数おこなっていますが、毎回更新改訂しています。今般のバージョンが最新版です)。 個人的に、「悪夢の民主党政権」における大きな問題点は次の3点と考えています。 (1)国家運営能力の欠如により、内政上の失敗を数多く引き起こし、国益を損ない続けた。 (2)拙劣な外交を繰り返し、日米関係をはじめ、周辺諸国からの信頼を大きく毀損した。 (3)総理・閣僚をはじめとする所属議員の度重なる不祥事や、自分たちに都合が悪い情報を隠蔽する体質によって、国民の政治に対する信頼を失い続けた。 では、それぞれどんなことがあったか振り返っていきましょう。これがわずか3年間で起きた出���事です。はらわたが煮えくり返る覚悟で読み進めてください。 (1)国家運営能力の欠如 ・財源の見込みが甘く、政権交代の際に掲げたマニフェストはほぼ未達成。 ・官僚を敵視して排除し、国家業務の停滞と質低下を招いた。 ・金融政策と財政政策が食い違い、タイミングの悪い増税も重なり、景気や株価は低迷を続けた。 ・歴史的水準まで進んだ円高を放置し、デフレを加速させた。 ・法的根拠がないばかりでなく、仕分人の選定や対象事業選定にも透明性を欠いた「事業仕分け」をデフレ時におこない、必要な公共投資を削減。経済を悪化させたにも関わらず、結果に責任を負わなかった。 ・「コンクリートから人へ」という誤った政策により、災害対策を疎かにしたうえ、地域社会を破壊した。 ・「朝鮮王室儀軌引渡」「尖閣事件の船長釈放」「運用3号通知」「国家公務員採用大幅減」など、閣僚たちが思い付きレベルの意思決定を独断でおこない、結果的に我が国の将来に禍根を残した。 ・難民申請から6カ月たった申請者に対し一律に就労できる運用を始めた。 ・法的根拠のない組織を乱立させ、意思決定過程が曖昧になり、指揮命令系統も混乱。 ・法的根拠のない大臣や副大臣を任命したり、個人的な友人を参与に、党職員を内閣官房職員に任命するなど、ルールを無視、公私の別がつかない人事を実施。 ・原発停止、ダム建設中止など、法令根拠や事前協議が必要な決定を手続無視で断行。 (2)外交能力の欠如 ・普天間基地問題が迷走し、沖縄とアメリカの信頼を大きく損なった。 ・来日したオバマ大統領を日本に残したまま、鳩山総理がAPEC首脳会議に出席するためにシンガポールに向かうという非礼行為。 ・尖閣沖漁船衝突事件では、中国側の脅迫や報復に屈して船長を早々に釈放、不起訴に。その後の尖閣諸島国有化でも迷走。 ・領空侵犯が頻発するも、実効的な対策をとらず。 ・防衛上特に秘匿することが必要な「防衛秘密」3万件を破棄。 ・韓国に対しては、通貨スワップ協定締結、朝鮮王室儀軌引渡し、慰安婦問題での「知恵を絞っていきたい」発言など、不用意な譲歩を重ねた。 ・韓国の歴代大統領として初めて、竹島へ李明博大統領が上陸。 ・旧ソ連時代を含めて初めて、北方領土へロシア国家元首が上陸。 ・実現に向けた方策が何ら決まっていない状態で、国連気候変動サミットにおいて「CO2の25%削減」を突如国際公約化。 ・実現の見込みも全くないまま、G8の場で、「太陽光パネルを1000万戸に設置する」と突如国際公約をおこなった。 (3)閣僚・所属議員の度重なる不祥事と情報隠蔽体質 ・鳩山総理⇒偽装献金問題、脱税問題、引退撤回、「最低でも県外」「Trust me」「国民の皆様が聞く耳を持たなくなった」 ・菅(直人)総理⇒外国人献金問題、北朝鮮関係団体献金問題、「顔が見たくなければ法案を通せ」 ・野田総理⇒在日韓国人献金問題、脱税企業献金問題、民団選挙協力お礼発言、「大きな音だね」 ・小沢元代表⇒政治資金規正法違反容疑で強制起訴(無罪判決)、献金虚偽記載で公設秘書が逮捕(有罪判決) ・仙谷官房長官⇒尖閣漁船衝突事件、「自衛隊は暴力装置」 ・赤松農水大臣⇒口蹄疫問題、「だから早く殺せって言ってるのに」 ・松本復興担当大臣⇒「知恵を出さないやつは助けない」「書いたらその社は終わりだから」 ・長妻厚労大臣⇒運用3号独断決定、職務停滞 ・蓮舫行政刷新担当大臣⇒事務所費架空計上問題、国会内ファッション雑誌撮影、「2位じゃダメなんでしょうか?」 ・安住財務大臣⇒「1ドル75.63円の時点で介入を指示���た」「学校のプールにガソリンを貯蔵できないか」 ・前原外務大臣⇒外国人から政治献金受領 ・岡田外務大臣⇒「核兵器めぐる日米密約は存在した」 ・川端文科大臣⇒事務所費架空計上問題、キャバクラ費用を政治資金で計上 ・鹿野農水大臣⇒対中不正輸出疑惑、機密漏洩疑惑 ・鉢呂経産大臣⇒(記者の一人に、着ていた防災服をなすりつけ)「放射能つけちゃうぞ」「市街地は人っ子一人いない、まさに『死のまち』」 ・一川防衛大臣⇒「安全保障に関しては素人」 ・柳田法務大臣⇒「答弁は二つだけ覚えておけばいい」 ・山岡消費者担当大臣⇒マルチ商法業者からの献金問題 ・岡崎国家公安委員長⇒議員時代、韓国で日本大使館に対する反日抗議デモに参��� ・中井国家公安委員長⇒議員宿舎にホステス連れ込み&カードキー貸与、式典で秋篠宮ご夫妻に「早く座れよ」とヤジ ・輿石幹事長⇒「間違った情報ばかり流すなら、電波を止めてしまうぞ」「電波が止まったら、お前らリストラどころか、給料をもらえず全員クビになるんだ」 ・小林議員⇒違法献金問題で選対委員長が逮捕、選対幹部が公職選挙法違反で有罪 ・土肥議員⇒竹島領有権放棄を日本側に求める「日韓共同宣言」に署名 ・横峯議員⇒賭けゴルフ、女性暴行、恐喝事件への関与 ・緒方議員⇒「スーパー堤防はスーパー無駄遣い」 ・太田議員⇒「そうでしたっけ? フフフ」 ・原発事故対応(SPEEDI、米実測値の非公表、議事録不作成など)、尖閣ビデオ、北朝鮮ミサイル発射への対応、温暖化対策の家計負担、年金改革の財政試算 など、自分たちに都合が悪い情報は隠蔽し、政府への深刻な不信感を招いた。 ・総理-閣僚間で見解の方向性や意見の不一致が常態化。それらも含め、自民党で同様の事態があれば野党のみならずマスコミも総出で吊し上げられる事態となるが、マスコミも概ね民主党に好意的な報道姿勢。 そんなに民主党時代が良かったなら、下野以降何度でも政権を取り戻すチャンスはあったはず。なのにただ一度もそうなっていないということは、それが民意ということです。私はあんな地獄のような時代は二度と御免です。
Xユーザーの新田 龍さん: 「民主党政権のほうが明らかに酷いです。「民主党政権の何が悪夢だったのか、きちんとした説明を聞いたことがない!」といった主張は定期的に出現しますが、さすがに「聞いたことない」なんてはずはないので、おそらく「自分の気に入る説明ではない」という意味か、「バカに分かるように説明したところで」 / X
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給食がほとんど食べられず小学5年生までは地獄のような給食時間を過ごしてきた私は、6年生になって担任から「給食やめて弁当にしよう!診断書をもらってきてくれたら校長先生と交渉するから」と言われる。 発達障害の診断もでなかった私には主治医はおらず、病院嫌いなのでかかりつけ医もいない。「弁当にしょう」という診断書はどこに行けば書いてもらえるのか親は悩みまくって、ついに、思春期摂食障害専門の児童精神科医にたどり着く。 診察で事情を話したら、「今までよく頑張ったな。先生が給食やめたほうがいいって手紙を書いてあげるから、安心していいよ。好きなものだけ食べて生きていいんだぞ。ここからの人生、楽しむんだぞ」って言ってくれたんですよね。 あの時の安堵感は半端なかった。私の場合は1度だけの関わりだったど、児童精神科の先生は会った瞬間い味方になったくれたような感覚がありました。
Xユーザーの加藤路瑛@感覚過敏研究所さん: 「給食がほとんど食べられず小学5年生までは地獄のような給食時間を過ごしてきた私は、6年生になって担任から「給食やめて弁当にしよう!診断書をもらってきてくれたら校長先生と交渉するから」と言われる。」 / Twitter
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松田 実桜(まつだ みお、2005年〈平成17年〉9月13日 - )は、日本の女優、グラビアアイドル。福岡県出身。サンミュージックプロダクション所属。愛称は、みおちゃん・みおちん。
愛称 みおちゃん みおちん
生年月日 2005年9月13日
現年齢 19歳
出身地 福岡県
身長 157 cm
スリーサイズ 80 - 56 - 81 cm
趣味はファッション・食べ��こと・音楽・野球/バスケ観戦。
高校時代は女子バスケットボール部のマネージャーをしていた。
野球については、2代目鷹BAKAガール就任を機に、福岡ソフトバンクホークスの試合を見て勉強中。
特技はダンス・ピアノだが、ミスマガジン2023ベスト16お披露目イベントでは小学5年から習っている特技のダンスではなく、フラフープを回しながら博多弁で早口言葉を披露。
サンミュージック福岡のスゴ腕マネージャーにスカウトされ、福岡で活動をしていたが、ミスマガジン2023受賞がきっかけとなり、カンニング竹山とその担当マネージャーの働きかけでサンミュージックプロダクションに移籍。
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JLPT Grammar げ・がち・っぽい・気味
What is the difference in usage among げ、がち、っぽい、and 気味? These grammar points can be difficult to differentiate, so I have gathered some notes and examples here. These grammar points are JLPT N3/N2 grammar points.
★~げ★
This is used it to describe something or someone (not yourself) who looks~ / seems~ / appears to~.
It is similar to そうに・そうな (sou ni / sou na), but げ (ge) is much more restricted with what words it can be paired with.
It is usually used to describe things like one’s emotions or state of being, whereas そう (sou) can be used with more general things like weather, etc.
Although this grammar is mostly used with adjectives, it can also be used with some verbs and nouns.
何か、言いたげだね。 They look like they want to say something.
ずいぶん、自信ありげだね。 You seem very confident.
そりゃあちょっとあやしげに見えますからね、そう思いませんか? Well, that looks a little suspicious, don't you think?
同級生にテストの結果を聞くと、嬉しげな顔で100点だったと答えてくれた。 When I asked my classmate how they did on the test, they answered with a happy face that they got a perfect score.
★~がち★
This is usually used for something negative.
ありがち = tend to have
になりがち = tend to become ~
遅れがち = tend to be late
留守がち = tend to be absent
彼は、学校をサボりがちです。 He is always skipping school.
ずっと曇りがちの天気が続いている。 The constant cloudy weather keeps continuing.
一人暮らしなので、コンビニ弁当ばかり食べがちだ。 I live alone, so I tend to only eat convenience store meals.
私は空腹の時は機嫌が悪くなりがちだ。 When I am hungry I easily get into a bad mood.
★~っぽい★
① When following a noun or い-adjective, this means -ish, -like, -ly. Note: The number of adjectives that can be used with this are limited.
子供っぽい = childish, childlike
男っぽい = manly, like a man
女っぽい = womanly, like a woman
油っぽい = oily, lots of oil
② When following a verb, this means easy to do, or often do~. Note: This cannot be used with all verbs.
忘れっぽい = easy to forget, often forget
怒りっぽい = easy to anger, often angry
このコート、デザインはいいけれど、生地が安っぽいね。 This coat has a nice design, but the material looks cheap.
油っぽい食事は好きじゃない。 I don't like oily foods.
年を取ると、忘れっぽくなる。 As you get older, you become more forgetful.
君は飽きっぽいから何事も成功しないのだ。 You do not succeed in anything because you are quick to lose interest.
★~気味 (ぎみ)★
This is used to express that something looks or seems to be a certain way.
疲れ気味 【つかれぎみ】= looks / seems tired.
太り気味 【ふとりぎみ】 = looks / seems large
遅れ気味 【おくれぎみ】= tends to be late
寝不足気味 【ねぶそくぎみ】= looks / seems to be sleep deprived
残業続きで疲れ気味だ。 I've been feeling rather tired because of continuous overtime work.
新入社員は緊張気味の顔をしていた。 The new employee looked nervous.
彼は人の名前を忘れ気味である。 He tends to forget people's names.
彼女は遠慮気味にそう言った。 She said that hesitantly.
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先輩が、娘さんの高校入学式で担任から「お弁当持たせてください、持たせられなければパン買って現物支給を」といわれ、親の愛情云々かと身構えてたら「この年代の子は趣味のためならいくらでもご飯代を着服します私は嵐のDVDのために2週間ブラックサンダーで乗りきった」と続いたらしく、新しいなと。
Nakko@1y👧 目指せ-3㎏ / Twitter (via y-kasa)
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和七年(2025年)1月6日(月曜日)弐
通巻第8583号
トランプ政権は「さようならDEI」である。
『オバマの家来』エマニュエル駐日米大使が日本から去る。
*************************
トランプの大勝の意味は極左政権だったバイデン時代の終わりではない。米国をはんぶん破壊した「オバマ時代」(バイデン時代とはオバマ院政だから合��12年)の終焉なのである。
「民主党の高層部に陣取った極左集団はくさっている。全体主義と変わらない」と言って、RKJもトゥルシー・ギャバードも飛びだした。前者はトランプ政権で厚生長官、後者は国家情報長官となる。
オバマ・バイデンの十二年間つづいた「悪政」とは、公務員や追随する広告代理店や弁護士やコンサルタントを動員して欺瞞の政治目的を拡販してきたこと、「人道主義」をいう美名で隠蔽した中身とはアメリカを社会主義的全体主義国家と塗り替えることだった。
第一に「人口構成が運命だ」という妄想があった。白人の出生率が激減している一方で、黒人、ヒスパニック、アジア系の移民が急増し、人口構成を逆転する趨勢を加速させる。
そうすれば極左政党が半永久的に政権の座を維持できるという妄想に基づいた計画だった。
反対の選挙結果だった。ヒスパニックと黒人の民主党支持が顕著に激減し、そのうえ労組が民主党支持から離れた。
これらの基層部分は依然として民主党へ入れたが、曾ての固定票ではなくなっていた。民主党の牙城といわれたNYCやロスでトランプは大幅に得票を増やした。
第二にオバマ院政下にあったバイデンは就任後、90の連邦機関に人種優遇とDEI規則を義務付けた。「左派のネオ・レイシズム」である。
全米でアンチDEI運動が燎原の火のように燃え広がった。
第三に国境開放を解放し、1600万人とも言われる不法移民を受けいれたことは逆にヒスパニック系の票を失った。『聖域』といわれた都市は治安悪化に悲鳴を上げた。
第四に石油・ガス産業に対するグリーン・ニューディール戦争は、環境問題に関心のある若い有権者を引き寄せるはずだった。石油ガス業界を「オバマ院政』(バイデンの四年)で完全に敵に回した。皮肉にも環境規制強化が中国のEV産業を飛躍させアメリカの三大巨人の経営をふらふらにした。自動車労組も幹部を別として、バイデン支持を離れた。
第五に反イスラエルキャンペーンである。ハマス支持の過激派の言動をバイデン、ハリス政権は正当化したが、反イスラエル、そして反ユダヤ主義の左派の票を獲得できなかった。そればかりか民主党の基盤だったユダヤ人の相当数が���和党へ鞍替えした。
▼『オバマ時代』とは『ポストモダン宗教』だった
こうしたオバマ・バイデンの十二年間に猖獗した「ポストモダン宗教」はオバマ時代に急速に勢力を拡大した。妖しげなNGO、コンサルタントと称して企業の幹部に落下傘降下し、顧問弁護士とか社外取締役として当該企業のWOKEを見張った。
消費者の反乱がおきて、バドワイザーなど、販売を四割も落とした。BLMなど過激な活動家グループ、インスタントな財団、公務員組合などが納税者の資金で支えられた。
この急拵えの亜官僚システムは連邦および州の機関、公立学校、そしてアメリカ企業に強制した『研修』と称する仕組みにあった。つまり「DEI産業複合体」だった。
トランプ政権は「さようならDEI」である。
学生ローンの減免など、「平等保護」ではない。多くの異議申し立てがあり、各地で訴訟に発展した。トランプ政権のDOGE設立と、その大鉈で崩壊しそうだ。
オバマ政権は系列の左派知識人を動員し、例えば欠陥だらけのイラン核合意について、主流メディアや政治エリートに虚偽や誤解を招くような話を売りつけ、その後、反対意見を封殺した。
この仕組みは、 ロシアゲート、ハンター・バイデンのラップトップ、その他多くの多くの論点において、有権者の70%が主流のニュースメディアを 信用しなくなり、FOXニュースとカールソンの番組とネットの記事とトランプのXへの投稿、SNSに拡がった保守の主張への支持となった。
バラク・オバマは巧みな演説で時に人々を感動させた(というより誤解させた)が、このようなホワイトハウスの陰湿で陰謀的な政治が民主党を全体主義的ムードへと導いた。惨敗後、民主党執行部は空中分解、自ら首を絞めたのだ。
米国の財界、ウォール街は雪崩のようにトランプ政権にアプローチを進めている。
メディアもすっかり様変わりだ。ワシントン・ポスト政治風刺漫画家が、同紙オーナーがトランプを思わせる銅像前に土下座する様子を描いた漫画の執筆し、それが没になった直後、辞任した。
漫画家のアン・テルナエスは「私がペンを向けた対象や人物のせいで漫画が削除されたのは初めて」と投稿した。その風刺漫画には、アマゾンの創設者でワシントン・ポストの所有者であるジェフ・ベゾスや、フェイスブックとメタの創設者マーク・ザッカーバーグ、その他のメディアやテクノロジー界の大物たちが、巨大なトランプ銅像���金日成親子を思わせる)の前でひざまずいてお金の入った袋を掲げている様子が描かれていた。ABCニュースを所有するディズニー社のシンボルであるミッキーマウスがひれ伏している姿も描かれた。
ABCニュースは、ニューヨークでの性的虐待裁判の報道をめぐってトランプが名誉毀損で訴えた事件で、1500万ドルの和解に同意した。
テルナエスは風刺漫画の不掲載は今回が初めてだとし、「これは状況を変えるものであり、『報道の自由』にとって危険だ。民主主義は暗闇の中で死ぬ」と逆の捨て台詞を残した。
『オバマの家来』エマニュエル駐日米大使はやっと日本から去る。
最悪の評判を取りながらもウクライナ支持、LGBTQ法の強要など、忠実にオバマの社会破壊活動を実践してきたが、つぎには民主党全国委員会の委員長への立候補を検討している。
エマニュエルは2009~10年に���バマ大統領の首席補佐官を務め、シカゴ市長に当選し、バイデン大統領から駐日大使に指名された。この背後にオバマがいたことは明白、そもそもバイデン政権の閣僚は殆どがオバマの指名だった。
日本にとってじつに迷惑千万の外交を展開した。
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七月になり、ようやく広樹のギブスが取れ、サポーターだけになった。通学は自転車に戻り、時折ラガーシャツにも袖を通した。
一方、克也は広樹が辞めないで済んだことに胸を撫で下ろしたが、未だ自分自身の気持ちを言えずにいた。浩志からは、
「いつまでもウジウジしてンじゃねぇよ! チ◯ポ付いてるンだろ!?」
と一喝されていたが、男同士が好きになることに対して罪責感があった。未だ、同性愛が世間的にタブーとされていた時代である。浩志が大学生だった昭和三十年代の後半と比べると、五十年代の前半は女装したり女言葉を使ったりする芸能人も多く活躍したが、やはり偏見はあった。
夏休みになり、秋の試合に向けて練習にも力が入った。浩志も普段はポロシャツとジャージーと言う格好だったが、時折ラガーシャツとラグビーショーツでグランドに現れた。そんな姿に漫画研究会の利江子たちは、
「あれぇ〜? ヒロシったらラガーマンになってるぅ!」
「きゃッ! なんで、あんなにラグパン短いの!?」
「いゃァ〜ん、何か誘ってない?」
「ラグパンって、パンツ穿かないンでしょ!? エッチぃ〜!」
と、相変わらず盛り上がっていた。そんな彼女たちに浩志は、
「鶴田ッ! 一応、穿いてるぞ!」
とラグパンの裾をチラッと上げてみせた。何故、アタシの名前を知ってるのとびっくりしながら、
「ヒロシ、このスケベっ!」
と笑い転げた。他の同級生は黄色い声を上げていた。
休憩時間になり、広樹は予め���っておいた麦茶の入ったやかんを二つ、ベンチのある日陰に置き、部員に声をかけた。皆、待ってましたと言わんばかりに詰め寄って来て、麦茶の注がれたプラスチックのコップを手に取った。浩志も蛇口の水を頭から浴び、
「このまま昼飯にするぞ」
と、眼鏡を片手に持ちながら首に掛けたタオルで頭を拭き、彼は校舎に戻って行った。
その間、日陰で弁当を食べたり芝生に横になったりと、それぞれ休んでいた。克也もケヤキの幹に寄りかかった。視界には空になったやかんや、プラスチックのコップを片付ける広樹の姿があった。なかなか告白できずにいる克也は、
『今なら言えそうな気がする』
と立ち上がった。そっと近づき、広樹の手を取った。
「加藤先輩…?」
「ちょっと来て」
そう言われるがまま、広樹は克也に手を引っ張られた。連れて行かれたのは部室だった。窓を全開にしていたが殆んど風が入らず、蒸し暑かった。十二畳はあるかないかの室内で、克也は広樹と見つめ合った。両手を握りしめ、
「額田君、好きだ」
と克也は唇を奪った。身体を密着させ、広樹の背部に両腕を回し、愛撫した。広樹は嫌がることなく、奪われた唇が克也のものと一体になる様な感覚を得た。
ラグパンの中で股間が隆起していくの互いに感じながら、二人はブリーフ越しに恥部を弄った。内腿から汗が垂れ、次第に濡れていった。克也はこれまで抑えてきた感情を露にしながら喘ぎ、広樹のラグパンを脱がせた。
「あぁん、はァ、ああん…」
鼻息を粗くさせながら、二人はブリーフを膝まで下げ、肉棒の裏側を合わせながらしごいた。
「あッ、あん、ああん…」
先走り汁で手指を汚しながら、克也は広樹のラガーシャツを胸元までたくし上げ、乳房を咥えた。
「イ、イキそう…」
「オ、オレも…」
オルガズムは二人一緒に達した。ドクッ、ドクッと粘度が強い乳白色の愛液を流し合い、克也は広樹の唇を求めた。広樹も舌を絡ませ、二人は暑さも忘れて愛し合った。
練習を終え、体育館に併設されたシャワーを浴びた部員はそれぞれ、制服に着替えて帰って行った。浩志もワイシャツとスラックスに着替え、職員室の扇風機で涼んでいた。嗚呼、今日は飲みにでも行こうかなァ…。そう思っていると、
「…先生」
と克也が訪れた。浩志は、
「何だ、帰ってなかったの?」
と気だるそうな声で聞いた。克也は言った。
「オレ、額田君に告白しました」
「へぇ〜、良かったね。…で?」
「…そのままエッチしちゃった」
「へぇ〜、良かったね」
何も考えずにこう言ったが、否、「エッチしちゃった」って、何が? ようやくコ��の真意に気付いた浩志は、
「ハァァァァァァ〜!?」
と上半身を起こした。
「犯っちまったのか!?」
「声が大きいよ!」
「…お前、溜まってたンだな」
「何か、気持ちが大きくなっちゃって…」
克也は、徐々に真顔になっていく浩志の様子に、嗚呼、怒られるのかなと不安になった。しかし、浩志はバンッと彼の背中を叩き、
「よくやった! これでこそ男だ! 気持ち良かったっぺ!?」
と、寧ろ喜んだ。何だ、この先生!?と克也は呆然とした。そして、浩志は克也の股間を鷲づかみにし、
「イイぞ、イイぞ! その調子でガンガン攻めろ! 若いってイイなァ〜!」
と揺さぶった。
「や、やめッ…! おしっこ漏れちゃう!」
もし誰かいたら問題になるなと、克也は思った。
この日を機に、克也と広樹は浩志から色々と「性のてほどき」を受けた。時折、部室で『さぶ』や『アドン』などのゲイ雑誌を渡され、ア◯ルセックスの仕方も山奥のモーテルで「伝授」された。克也は、
「オレは純愛が好きなのに!」
と心の中で叫びながらも、沸々を込み上げてくる肉欲に負けて広樹と絡んだ。広樹も、克也を所謂「セックスシンボル」としてしか見られなくなり、ラグビーショーツから覗くブリーフに生唾を飲んだ。克也の家も若宮町にあった為、水府橋の下で毎日の様に愛し合った。
一方、ラグビー部の成績は劇的に飛躍した。これまで県大会で二回戦以上は勝ち進められなかったのが、関東大会でも上位の方まで成績を残した。他県のシード校を打ち破った時には、浩志は嬉しさのあまりに、
「これも皆、克也と広樹の『愛』あってこそだ!」
と口走り、二人は火消しに追われた。
そんな克也と広樹だが、個別に利江子から漫画のネタに色々とインタビューを受けた。あまりにしつこいので、
「イイじゃん、愛してるンだから。好きにさせてくれよ」
と広樹は言い切ったが、
「えぇ〜!? そんなにラブラブなのぉ〜!? だったらイイじゃ〜ん!」
と、寧ろ彼女の創作意欲に火をつけてしまった。
広樹は浩志との思い出を「熱弁」した。途中、浩二は笑いをこらえるのに骨折り、
「う、嘘ッ!?」
「それ、本当ですか!?」
「高校生だったのに!?」
云々と、何度も聞き直した。
二人が話している間、大樹は座布団を半分にして折り、枕の様にして眠っていた。寝息を立てている我が子を気にしながら、広樹は目頭をハンカチで押さえた。今は高校生だった二人を浩志が手を出し、淫乱にさせたことを信じられないと思っているが、その数年後には中学生になったばかりの大樹をまさか自分がそうさせることになろうとは、考えてもいなかった。
午後九��を回り、広樹は大樹を起こした。
「長居をしてしまってすみません。告別式には妻が来ますので…。私、K百貨店に勤めておりまして、明日から秋に催される物産展の関係で北海道へ行くンです。克也、否、加藤さんは通夜には行けるそうです」
「K百貨店にお勤めですか? 大変ですね。道中、気を付けて」
玄関で広樹と大樹を見送ると、茶の間に戻って浩二は残っていたお茶を飲み干し、片付けた。徐々に、彼は浩志との永遠の別離がきているのだなと実感した。
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今日は息子の私立高校入試。
試験の練習も兼ねて受ける子が多かったみたい。
本当なら島からフェリーに乗って
試験を受けに行かなあかんけど
学校側が島にきて試験をしてくれるだなんて
なんとありがたいシステムよ。
お昼はお弁当持参なので朝からばたばた。
友達のお母さんが急な通院で不在とのことで
一個も2個も一緒やからお友達の分も一緒に◎
照り焼きチキン、卵焼き、菜花のガーリック炒め
豆ひじき、冷凍の蓮根団子。
息子帰宅するなり「お弁当美味しかったです!って言ってた〜」
との伝言。嬉しかったな◎
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ホワイトデーだった。彼が高価なチョコレートを買ってきてくれた。わくわくしながら箱を開けたら、12粒入りだったけれど、半分くらいしか食べられるものがなかった。同じブランドのトリュフアソートだったら全部食べられたのに、と勝手に落胆しては、そもそも人の好意を無碍にする自分って最悪だなと思ってさらに落ち込んでいる。
さて、今日もスーパー自己開示タイムをしようと思う。今回は食生活編。先に言っておくが後半で理解のある彼くん(笑)(言ってみたかった)の惚気が入るよ。ここはとても静かで良い場所だから、別に嫌がる人はいなさそうだけど。
他人からの好意を無碍にしてしまった経験を、幾度となくしてきた。そしてそれのうち、ほとんどが食べ物に関するものだ。以下に思いつく限りの具体例を挙げていく。
高校生のとき、とある男子運動部のマネージャーをしていた。高1の春、学校外での外練の後、学校に戻る途中にあるシュークリーム屋に寄る流れになった。わたしはべつにいらないな、と思ったので、同じく買わないメンバーと一緒に、お店の外で待っていた。主に3年生の先輩がこぞって買っていたはずだ。先輩たちがお店から出てくると、その中の一人の先輩がわたしにシュークリームをくれた。わたしの分を買ってくれたらしい。ありがたく受け取りはしたが、先輩との間に恋は芽生えなかった。わたしは生クリームが苦手なのだ。
大学生の頃、美容院の予約日がちょうどバレンタインデーだったので、担当の美容師(メンズ)に既製品のチョコレートをあげてみた。翌月の施術の時、ホワイトデーのお返しをもらった。「甘いの苦手って前に言ってたから、控えめのやつにしてみたよ」と言われ、会話覚えててくれたんだ〜と嬉しくなった。中は謎の焼き菓子だった。家に帰ってひとくち食べた。普通に甘すぎて食べられなかった。家族にあげてしまった。
ある年の冬、友人と待ち合わせをしていたとき、相手がすこし時間に遅れて、寒空の下で待ったことがあった。遅れてきた友人はコンビニで買ったであろう暖かい紅茶をくれた。午後の紅茶のストレート。飲んでみたら、甘かった。ストレートのくせに甘かった。調べてみると、午後の紅茶はミルクとレモンが入っていない状態の紅茶をストレートと定義しており、ストレートと表記されているものは飲みやすさを重視して、若干量の砂糖が含まれているのだそう。わたしは完全に無糖の紅茶しか飲めない。一口でオエってなって、それ以降飲めなかった。
恋人と高価格帯のおしゃれなバーで飲んでいたとき、座っていたテーブル席に虫が出た。店員さんに対処してもらった。その後、不快な思いをさせてすみません的なお詫びで、お店からシャインマスカットの盛り合わせをサービスとして出された。ありがたくいただくことにした。一口食べた。あまくてそれ以降食べられなかった。
数年前に研究関連の用事で台湾に行ったとき、出先でお弁当などをよく出してもらった。だが、どうしても匂いが受け付けなくて、一口も手をつけられなかったということが何度もあった。去年フィリピンに行ったときも、帰りの飛行機の時間が早朝だったのでホテルが朝食としてお弁当を準備してくれたのだが、食べずに空港のゴミ箱に捨ててしまった。
食べ物を粗末にしたら地獄に落ちる系の言葉はきっとわたしのためにある。誰かが準備してくれたり、労力をかけてくれたり、お金をかけてくれた好意を、わたしはこんなにも簡単な形で切り捨ててしまう。わたしは本当に地獄に落ちた方がいい。
食に関する悩みが人生においてずっとつきまとっている。決まった時間に食事をとるのが苦痛だ。毎日決まった時間にご飯を食べている人間、あまりにも文化的存在すぎて尊敬する。あとわたし、単純に好き嫌いが激しすぎる。嫌いなもの���気分じゃないものを食べるくらいだったら一食抜いてもいいや、という、どう考えてもおかしい判断がまるで正当かのようの思われてしまう。
一般的に太りやすいと思われている食べ物が軒並み食べられない。ポテチはのり塩以外たべられない(のり塩でも別にいらない)。甘いもの、大半はむり。ミルク・ビターのシンプルなチョコレートは大丈夫だけど、ケーキ全般、生クリーム、和菓子、パフェ、ドーナツ、シュークリーム、大抵は無理で、ミスドのチョコファッションのチョコレートの部分が小さくなったという話題についていけなかった。バスキンロビンスことサーティワンアイスクリーム、わたしはオレンジソルベしか食べられない。唐揚げやカツなどの揚げ物も好きじゃない。ステーキも別にいらない。焼き鳥もべつになくても生きていける。天ぷらもいらない。ていうかうどんの天かすマジでいらない。ハンバーガーも食べない。牛丼もいらない。焼肉屋ではホルモンしか食べない(付き合いで他の肉を食べることはもちろんある)。菓子パンも苦手。ついでにフルーツも、柑橘系とりんごしかたべない。
じゃあ何食うの?? って感じだと思うけど、おさかなと野菜、あと各種麺類です。カップ麺は食べられるので助かっている。わたしあと3年は学生なのでまだいいけど、社会人になったら飲み会とかですごく苦労しそうだからもうすでに怯えている。
偏食だという事実をふわっと誰かに話すと、ほぼ確実に「羨ましい」と言われる。甘い物と脂っこいものを食べないから細いんですね、いいなあ、と。でも、違うんだよ。生きづらいよ。アフターヌーンティーとか行ってみたいんだけど、無理なんだよ。ほぼ全部食べられないから。パスタ屋に入ってもオイルベース系かジェノベーゼしか選べないし、ピザ屋のピザもトマト系はまず無理だから選択肢がないし、ジェラート屋さんに行って食べられるものが一つもないとかザラだし、カフェのフードメニューから食べられそうなものを探す作業も苦痛だ。行ったことのない店に行くと、これは食べられるものか、という認知判断が食事に先立つからいちいち疲れるんですよ。だるい。
わたしは実家で暮らしていた約20年間、ことごとく母親を困らせてきた。もともと家族全員で食事をとる習慣がないうえに、わたしは上記の通り病的な偏食なので、よく何も食べずに適当に過ごしていた。ネグレクトとかじゃなくて、家族それぞれ別のものを別の時間帯に食べることが多いというかんじ? 母はふつうに料理をしていたと思う。だけどみんなバラバラの場所で適当に食べるから、なんかぬるっと夕食をパスできる家だった。母はわたしが食事を残すことも、連絡なく勝手に夕食を外で済ませてくることも、なんなら夕食があるのにそれをパスして部屋でカップラーメンを食べるのも��これはわたしが最低すぎる)、べつにとやかく言わなかった。母はたまに気まぐれで、「今日あなたが食べられそうなもの作ったけど食べる?」とか聞いてくるから、そういうふうに言われたら食べるようにしていた。わたしが自室以外で食事を摂ると、父にいつも「珍しいね」と驚かれる。当時はべつに引きこもっていたわけでもないのに。
↑は夕食の話だけど、それ以外にも母はよくスーパーでお惣菜を何種類か買ってきて、どれかを食え、と選ばせてくれた(選ばれなかったものは父や弟の昼食になる)。知らない間にウイダーやカップ麺をよく自室の学習机の上に並べられていた。わたしがとあるブランドのグミにハマると、飽きてもういらん!となるまで母は毎日そのグミを買ってきた。お願いだから何か外で食べてこい、とお金を渡されることもしばしばだった。母のために食べた。母はわたしが何かをむしゃむしゃ食べているところを見ると安心するのだそう。あまりにも親だ。迷惑かけてごめんなさい。
空腹をそこまで苦痛に感じない。お腹がすいた、よりも、動きたくないな、の方が強い。トイレに立ったときに立ちくらみがすると、そこでやっと「そういえば食べなきゃ」が勝つ。そういう生活。
実家を出て恋人と同棲しているが、ここでも彼を困らせている。放っておくと何も食べない。彼が夕方に仕事から帰ってくると、「今日は何か食べた?」と尋ねられ、「まだ〜」もしくは「さっきウーバー頼んだから今日はもういらない〜」と答える会話をほぼ毎日している。約一日何も食べずに過ごした日曜日の夕方、お願いだからすこしでも食べて、と懇願されて、ねるねるねるねと茶碗蒸しを食べたこともあった。ウェーブ体型なのが相まって、さいきん肋骨が出始めてきた。アー食べなきゃ、と思うけど、お腹いっぱい、の感覚が嫌いすぎるのでたくさん食べられない。ジュースを飲んで糖分を摂取した気になっている。わたしはそのうち病気になると思う。死にたくないな〜。
温泉旅館に泊まったりして、いつもより多い量のご飯を食べると、絶対に次の日は反動で食べられなくなる。これも人体の、否、我が身体の謎だ。
不健康自慢なんてクソダサいからしたくないんですよ。だけどどうしたって食と睡眠に関してはガタガタすぎて困ってる。せめて2日に1回ウーバーイーツを頼む生活をやめたい。
ていうか自炊できる人ってすごくないですか?? 毎日働いて、生活してる人って本当に尊敬する。わたし、生活を捨ててそのほかの欲望に忠実でいることで、気が狂いそうな毎日の中で精神性のバランスをとっている節があるから、自炊をするようになったらたぶん心が壊れる気がする。あと、それとは別で、ウーバーを愛用してしまうのは自炊をするのに必要な文化的資本がないからなんですよ。わたし、まったく料理ができない。それは、「色々と大変な状況下でわたしに家事手伝いまで強制させたらあまりにも気の���だから」という理由で母がわたしに家事手伝いを強制しなかったという一種の愛の副作用でもあるが、それよりもわたしにやる気がなさすぎるのと、ふつうに自炊に必要な道具も食材も足りていないのが根本の原因だ。もちろん、道具と食材とレシピと動機があればやるのかもしれない。だがわたしの頭はほんとうにおかしいから、作るのが面倒だから食べなくていいや、になるの。それだと死ぬからウーバーを頼む。スーパーにいけば安いお惣菜があるけれど、家から出るのがだるいから食べない、になるの。それだと死ぬから、ウーバーしかないんですよ。家に届いたら食べるしかないから。こういう思考回路。あほじゃん。3月までは同年代の人よりも多くの額の収入があったからウーバー漬けの生活でまかり通っていたけど、4月からはそれがごっそり減るので、やはり怯えている。
ご飯を食べなきゃって思いながら過ごす生活、だるいです。どのタイミングで食べるかを考えるのがしんどい。ログインボーナスをもらうために一日一回ソシャゲにログインしてる感覚に近い。今日もやらなきゃ、みたいなね。午後に出かける用事があればそれが終わるまでは大抵何も食べないから、用事が終わったあとに、やば今日何も食べてないじゃん、と思ってあわてて外食するみたいな。だるい。味のないゼリーとか飲んだら1日分の栄養が摂取できるとか、そういうのってないんですか?? 味も食感もいつか飽きるからしんどい。
なんか今日の記事いつにも増してキモすぎるからみんなに引かれそうでこわいな〜。おねがい、嫌いにならないで…。
冒頭の話に戻る。結局その後彼は、同ブランドのトリュフアソートをまた買ってくるねって、にこにこしながら言ってくれた。罪悪感とほんのりとした嬉しさがぐちゃぐちゃに交わってなきそうです。面倒くさくてごめんねっていうわたしの中のメンヘラの部分が顔を出していると同時に、こんなわたしにも怒らないでいてくれるんだっていう安心感にやさしく包み込まれている。ありがとね。たぶん、彼のそういうところが好きだ。
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主人の子育て食堂
学校行事のお弁当🍱
今回は子供からの七段リクエストでしたので
パパがもちろんおうちの
冷蔵庫にアルモンデ➕ウインナーと思っていましたが、
近所の子供達だってお弁当となるので
売り切れです。
なので今回は、赤身の牛肉を少々使って
ミニステーキ弁当も入れたそうです。
テーマは『洋食お子様弁当』
ということですので、それに合わせてまとめたそうです。
ちょうど大雨になり
臨時の休校になってしまったのですが(笑)
ワクワクしていた子どもの様子は
親としても少しでも美味しく喜ばせようと思うのでしょうね。とても美味しそうに仕上がっています。
ミニオムライスもいい感じ���
フルーツでお弁当の保冷を考えてだそう。
パスタはボンゴレかしら?
給食のように大量に作るのは体力が入りますが、単純作業です。
ケータリングで100から300人の料理も作りますしね。
少量の料理を種類多く作る方が大変なのです。
効率面で考えてもわかると思いますが。
料理が上達することの条件の一つは
『料理を食べる人が笑顔に』
あるものでどれだけの料理に展開できるか。
これは料理を多く知っていて多くの経験があることで
変わってくるものです。
さて、最近の外食は、すっかりと物価高ちインバウンド観光客での価格を上げているお店が増加して
すっかり質は落とすしかないなど見受けられます。
ですので、子どもを外食をさせるときも、大変悩ましい。
けれど外食での料理はお店の人の頑張りようや色々を、知っておけば
子供にとって大切な社会勉強になります。
大人になったときもマナーや社会性を身につけれるチャンス。
おうちとのごはんの違いだって知るのです。
大変嬉しそうにいただいておりました。
やっぱり親は子供の喜ぶ笑顔をみたいから
努力は惜しまない。そんな主人でした。
料���研究家 指宿さゆり
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2025-3月号
アンビグラム作家の皆様に同じテーマでアンビグラムを作っていただく「月刊アンビグラム」、主宰のigatoxin(アンビグラム研究室 室長)です。
『アンビグラム』とは「複数の異なる見方を一つの図形にしたもの」であり、逆さにしたり裏返したりしても読めてしまう楽しいカラクリ文字です。詳しくはコチラをご参照ください⇒アンビグラムの作り方/Frog96
◆今月のお題は「春」です◆
今月は参加者の皆様に「春」のお題でアンビグラムを制作していただいております。沸き立つアイディアの数々をご覧ください。
皆様のコメントがいただけますと幸いです。

「春の芽吹き」 回転型:peanuts氏
植物が冬を越えて新しい芽を出す。 合体した文字をうまくほぐしながら読んでください。植物のような柔らかな曲線とざらつきが魅力的ですね。

「バネの季節」 回転型:無限氏
Spring。 文字送りに工夫がありますね。「季」「節」とも横画の省略がありますが違和感がないですね。
「春/泉/バネ」回転型+交換型:化学氏
Spring三面相。 メリハリのある書体の選択が成功していますね。交換型の利用により読みやすくできていると思います。
「はなみ」 重畳型:ラティエ氏
お花見の季節ですね。 5倍重畳。ステキな発見です。たしかに、三文字とも走り書きをすればこうなりますね。
「桜ちらし!」 マトリョーシカ型:kawahar氏
桜を散らす雨や風。 「桜」に見出した♥が散っているのがかわいいです。「!」のために斜めにしていますが、♥にも効いています。

「花菜」 回転型:うら紙氏
春が旬の京野菜で、寒咲きナタネの蕾を収穫したもの。 分割により読みやすくなっていると思います。躍動感がよいですね。

「開花予想」 図地反転回転型:douse氏
ソメイヨシノはいつ咲くか。 文字相当部分が太さについてグラデーションになっているのでデザインとして自然ですね。

「花見」 振動型:lszk氏
春といえば。 30年間以上のアンビグラムキャリアを持つ氏の真骨頂。無回転で2通りの読みが可能な「花」とも「見」とも読める絶妙な韻踏みデザインになっています。無回転アンビグラムの醍醐味はいかに上手く曖昧に描くかということ��のですが lszk氏はその妙技を極めています。

「桜ノ雨/桜の雨」 回転共存型:ちくわああ氏
halyosyさんの楽曲タイトル「桜ノ雨」より。 かわいらしい書体とデザイン。「の」を舞う花びらに模していて楽しいです。

「桜満開」 図地反転鏡像型: いとうさとし氏
開花から一週間ほどで満開になるといわれます。 「桜」「満」「開」がそれぞれ上下の図地反転鏡像文字になっています。字形に電子味がありData70フォントのようでカッコいいです。
「春と修羅」 敷詰[回転+鏡像]型:つーさま!氏
宮沢賢治の小説のタイトル。 下にある、きれいに並んだ「春と修羅」の文字図形をそのまま敷詰できるのが驚きです。図形化技術が素晴らしいですね。

「校長式辞」 回転型:てるだよ氏
卒業式や入学式で。 ストロークだけで行っている図形化の仕方がかわいいです。花弁がよいアクセントになっているデザインですね。

「別れ」 図地反転型:ヨウヘイ氏
卒業の一つの意味。 一目で読めるのはドット表現の力もあると思います。オンオフのバランスが絶妙です。

「旅立ちの日に」 回転型:螺旋氏
近年の卒業式で歌われることが定番となった合唱曲。 文字の角度が躍っているのが楽しいです。字画の太さに対して点が小さいのがバランスをよくする工夫ですね。

「獅子の大鎌」 回転型:松茸氏
しし座の頭部に相当する7つの星を繋いだアステリズムのこと。 星座内の星を文字に取り込んでいる工夫があります。書体もおしゃれですね。


「春日俊彰/若林正恭」 回転共存型:.38氏
お笑いコンビ「オードリー」の二人の名前で。 対応付けを文字密度で比較してみると、二人の名前はなんともぴったりすぎです。「俊/林」のギミックがテクニカルです。

「はる/HaRu」 振動型:意瞑字査印氏
春です。 無回転で「はる」と「Ha Ru」、どちらにも読めるアンビグラム。似たタイプの文字遊びに[寄せ字]というジャンルがあります。

「春とヒコーキ」 回転型:超階乗氏
お笑いコンビの名前で。 デザインの一部を文字表現に取り入れた楽しい作品です。袋文字の活用もよいですね。

「桜散る 木の下風は 寒からで」 回転型:繋氏
紀貫之の短歌より。「空に知られぬ 雪ぞ降りける」と続きます。 踊るような筆致が楽しく、対応付けにも生きています。「風」が隠れたような効果が面白いです。

「あかるい未来は桜色へ染まって」 回転重畳型:すざく氏
春の色は門出にふさわしい。 文字列生成で。どの文字も読みやすく仕上がっていて見事です。回転重畳型はパズル的な側面が強く、ほかのタイプとは違う魅力があります。

「庭に咲いた花 別れの日は、 もう一年前。」 敷詰回転型:Jinanbou氏
卒業して一年たって。 文字列生成で。こちらも、どの文字も読みやすくすばらしいです。読みやすい文字で長文アンビグラムを作るには敷詰回転型は有力な手段です。

「卒業式/入学式」 図地反転鏡像型: いとうさとし氏
春のイベントと言えば。 なんと左右の図地反転鏡像文字で「卒業式」と「入学式」に読めてしまうアンビグラム。一文字一文字の略し方がすばらしいです。

「従うか抗うか自堕落な風無草滴るはいつかの可惜夜に咲く涙」 回転型:結七氏
ヒプノシスマイク・Fling Posseの楽曲「とりまGet on the floor」の歌詞より。「風無草」が柳の意味で春の季語です。 長い文字列を見事に対応解釈して処理していますね。一文字ずつ見てもステキな顔をしています。

「ひねもす/のたりのたり」 回転型:lszk氏
与謝蕪村の句「春の海 ひねもすのたりのたり哉」より。 4字/6字の文字数違いも何のその。海面がゆるやかにうねっているような字形に趣きがあります。
「春空に夢ヲ志せ」 回転型:Σ氏
新たな門出に思うことは。 文字列生成にて。「すずむし」フォント風のかわいらしい文字がとてもよいです。隙間の扱いが巧みですね。文字組もぴったりで素晴らしいデザインです。
最後に私の作品を。
「桃の酒」 回転型:igatoxin
春の季語。 桃の花を浸した酒で、これを桃の節句に飲めば、百病を除き、顔の色艶がよくなるといわれます。
お題「春」のアンビグラム祭、いかがでしたでしょうか。御参加いただいた作家の皆様には深く感謝申し上げます。
さて次回のお題は「キッチン」です。調理、包丁、フライパン、皿洗い、揚げ物、換気扇、冷蔵庫、生ごみ、エプロン、厨房、速水もこみち、 など 参加者が自由にキッチンというワードから発想・連想してアンビグラムを作ります。
締切は3/31、発行は4/8の予定です。それでは皆様 来月またお会いしましょう。
——————————–index——————————————
2023年 1月{フリー} 2月{TV} 3月{クイズ} 4月{健康} 5月{回文} 6月{本} 7月{神話} 8月{ジャングル} 9月{日本史} 10月{ヒーロー} 11月{ゲーム} 12月{時事}
2024年 1月{フリー} 2月{レトロ} 3月{うた} 4月{アニメ} 5月{遊園地} 6月{中華} 7月{猫} 8月{夢} 9月{くりかえし} 10月{読書} 11月{運} 12月{時事}
2025年 1月{フリー} 2月{記憶} 3月{春}
※これ以前のindexはこちら→《index:2017年~》
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その事件は私が1歳の時に起きました。覚えていることはありません。 中国人の父と母は、大きくなってからも私に語ろうとはしませんでした。 中国政府は事件の死者数を319人としていますが、それよりもはるかに多いという指摘もあります。 あれから35年。真相は今も、明らかにされていません。 あの時、私のもう1つの祖国で、何が起きたのか。 (中国総局 高島浩) 日本人の祖母と中国人の両親 私の祖母は日本人です。満蒙開拓団として旧満州に渡りました。 戦後、帰国できずに大陸に残った「中国残留婦人」で、養子に出されていた中国人の男の子を引き取り、育てました。のちの私の父です。 父は中国人の母と結婚。1988年に中国東北部・黒竜江省で私が生まれました。そして6歳の時、国の援護事業のもと家族4人で帰国し、私と両親は日本国籍を取得しました。 私が生まれた翌年に起きた「天安門事件」 1989年6月4日。中国の首都・北京で、あの事件は起きました。 天安門広場に集まった民主化を求める学生や市民たちを、当時の共産党指導部が軍を出動させて武力で鎮圧した「天安門事件」です。 軍による発砲などで多くの犠牲者が出ました。中国政府は死者数を319人としています。 しかし当時、北京に駐在していた各国の外交官の報告などから、犠牲者の数はそれよりもはるかに多いという指摘が根強くあります。 中国政府はこの事件を、政治的な「騒ぎ」で「すでに結論が出ている」という説明を繰り返しています。 「知る必要はない」父のひと言 戦車の前に立ちふさがった市民の姿。民主化の動きを武力で制圧した事件。 天安門事件の前の年に生まれた私は、日本の教育で学ぶまで、こうした事件の表面的な情報でさえ、知りませんでした。真相を公表せず、事件を人々の記憶から消し去ろうと腐心してきた中国政府からみれば、もくろみどおりに育った、ある意味で“優秀な中国国民”だったでしょう。 中学生の時、一度だけ父に事件について尋ねたことがあります。そのときの父のことばが記憶に残っています。 「よく知らないし、知る必要はないよ」 記者になって、父と私のもう1つの祖国でもある中国のことを話すことが増えました。父は自分が共産党員だったことを明かしてくれました。共産党の実態を知っているからこそ、私に忠告したのです。 「天安門事件に関心を持つことで、いつか中国に赴任した時、どのような理不尽な目に遭うかわからない」 遺族取材の担当に もう逃げない 4年前の2020年、希望がかなって中国南部の広州駐在の記者となりました。 当局の厳しい監視下に置かれた人権派弁護士の家族などを取材。私自身も当局者に連行され、警察署に留め置かれる経験をしました。 国家の安全を最優先する習近平指導部は言論統制を一段と強め、外国メディアの取材環境はますます厳しくなっていることを身をもって感じてきました。 天安門事件は、そうした中国社会の中でも最もタブー視されていて、深く取材すればどんな目に遭うのか。恐怖すら感じていました。 私と同じように中国の若い世代は事件を知りません。私がおおまかな概要を話すと、「うそを創作するのが上手ですね」と、まるで信じようともしません。今の中国社会の現実です。 事件がまた1つの節目を迎えたことし、北京に赴任、遺族取材の担当となりました。 そして、誓いました。事件を深く知ろうともしてこなかった過去から逃げず、まっさらな気持ちで取材しようと。 集会を断念した遺族グループ 6月4日に向けて取材を始めたところ、ある情報が入ってきました。 これまで5年ごとの節目に、遺族グループが開いていた追悼集会が断念に追い込まれたというのです。原因は当局による厳しい監視のためでした。政府が例年以上に神経をとがらせていることが感じられました。 遺族グループの名は「天安門の母」。グループは集会の代わりに先月(5月)、海外の動画投稿サイトに声明を公開しました。 「私たちには軍隊が銃撃に及んだ真相を知る権利がある」 「政府は社会に謝罪し、私たちに公正と正義を返しなさい」 事実を隠ぺいし、遺族の日常生活への干渉を続ける政府を強く非難する内容でした。 そして、いまなお分からない犠牲者の正確な数や名前の公表、犠牲者と遺族への賠償、責任者への法的な追及を求めました。 厳しい監視、通信遮断の面会 声明が公開される少し前、グループの中心メンバーの遺族を訪ねました。今の気持ちを伝えたいと、当局の監視をかいくぐって取材に応じてくれた張先玲さん(86)。 遺族に直接、話を聞くのはこれが初めてです。心臓がバクバクと打つ胸を必死でおさえました。 張先玲さん 呼び鈴を鳴らすと、張さんがやや固い表情で出迎えてくれました。周囲をうかがうように招き入れてくれたあと、すぐに携帯などの電源を切るよう伝えてきました。当局の盗聴を警戒していたのです。 自身も自宅の通信設備の電源をすべて切っていて、奥の部屋に移るまで、会話もしないよう身振り手振りで伝えてきました。 記者を志した息子の死 張さんは、事件で当時19歳だった息子の王楠さんを亡くしました。 記者を志していた王楠さん。天安門広場で起きている歴史的なできごとを記録に残したいと、事件前日の3日深夜、カメラを持って自転車で現場に向かったそうです。 張さんの息子 王楠さん そして4日午前1時すぎ、人民大会堂の北門の向かいで軍の銃撃を頭部に受けました。地面に倒れた王楠さんを現場にいた人たちが助けようとしましたが、軍の部隊が近づくことさえ許さなかったといいます。兵士たちはひざまずいて助けさせてくれという人たちの懇願に対し、「あいつは暴徒だ」と聞き入れなかったそうです。 のちに現場で目撃した人から聞くなどしてわかった当時の状況です。張さんは、中国政府がひた隠しにする、あの事件の真相の1つだと信じています。 なぜあの時… 消えぬ後悔 張さんの自宅のリビングの壁には笑顔の王楠さんの遺影がかけられていました。毎日のようにその写真に手をあわせながら、張さんは胸にある後悔を拭いきれずにいます。 なぜ、あの時、息子を送り出してしまったのか… 張先玲さん 「天安門広場に向かう前、息子が私に聞いてきました。『まさか軍が発砲することはないよね』と。私は『まさか、ありえないよ』と答えてしまったのです。今もずっとあの言葉を後悔しています。生きていれば、今ごろは父親になって家庭を持っていたでしょう。私の脳裏にある息子は、永遠にあの日の、あの晩の、19歳の時でとどまったままです」 黙り続けることは許されない 王楠さんの遺体はほかの犠牲者とともに天安門の西側にあった中学校前の草むらに埋められていました。雨で遺体は地表から露出し、3日後、衛生当局などによって発見されたそうです。変わり果てた姿の息子。 張さんの脳裏から焼きついて離れず、毎年6月4日が近づくにつれて、張さんは体調を崩しています。 息子はなぜ死ななければならなかったのか。この日も体の調子が悪く、取材に応じてくれた時間は10分余り。それでも張さんは気力を振り絞るように、遺族の声を広く伝えてほしいと、1人の母親としての怒りを伝えてきました。 張さん 「国家が進歩していく上で、この事件が解決されないのは正常なことではない。『人民のために奉仕する』という中国政府が、人民の尊い命を奪っておきながら、なんの説明もなく、30年以上も知らないふりをして黙り続けるのは到底許されない」 「ごめん、生きてくれ…」最後のことば 今、遺族グループの活動の中心は犠牲者の親たちから、そのパートナーや兄弟に移っています。その中の1人に会うことができました。 尤維潔さん 尤(ゆう)維潔さん(70)。事件で当時42歳だった夫の楊明湖さんを奪われました。 政府系の経済団体の職員だった楊さんは、当日の深夜、銃声を聞き、広場に集まった学生たちを心配して現場に向かったといいます。そこで、下腹部に銃弾を受けました。倒れた楊さんをその場にいた人たちがリアカーで病院に運びました。撃たれた骨盤は粉々に砕けていたといいます。 病院に駆けつけた尤さんに、手術室から出てきた楊さんはこう漏らしたそうです。 尤さんの夫 楊明湖さん 「ごめん、しっかりと生きてくれ」 2人が交わした最後の会話となりました。2日後、楊さんは息を引き取りました。わずか6年の結婚生活。国によって突然、終止符を打たれました。 尤さん 「35年がたっても、あのときの記憶は少しも消えていません。一瞬一瞬が頭の中に残っています。夫を見守った2日間で涙は流し尽くしてしまい、今はもう出ません。遺族は皆、この世を去らないかぎり、暗い記憶の中を生き続けるのです」 若者たちはなぜ立ち上がったのか 天安門事件とは結局、何だったのか。その疑問を持ちづけていた私に、尤さんは「若者たちが立ち上がったのは、社会に対する責任感だった」そう説明してくれました。 天安門事件は、1980年代に共産党トップの総書記を務め、言論の自由化など政治改革にも前向きだった胡耀邦氏が4月15日に突然、死去したことに端を発しているとされています。 胡氏は、学生の民主化運動に理解を示したなどと保守派に批判され、失脚していました。 学生や市民による胡氏の追悼集会は、民主化を求めるデモに変わり、各地に拡大。5月には10万人が参加する大規模な集会に発展していきました。訴えは汚職の撲滅や言論の自由などを求める社会的なうねりとなっていったのです。 天安門広場に集まった市民や学生たち 尤維潔さん 「当時、北京の市民は皆、天安門広場にいた学生たちをとても心配していました。特に印象深いのは、戒厳令が最初に出された日です。市民たちが天安門広場に軍隊を行かせてはいけないと、路上にバスを止めて道路をふさぎました。多くの人たちが、ハンガーストライキを続ける学生たちに食料や水を届けていました。すべてが自発的な行動だったのです。その光景に私はとても感動しました。政府はなぜこうした状況を理解できなかったのか、思い出すと、今でもとても腹立たしい」 “隠ぺい”と“沈黙”の35年… さらに大事なことを話してくれました。 当時、軍によって制圧された天安門広場やそれに続く大通りなどあちらこちらに���死体の山があったそうです。連絡が取れない人も多く、尤さんの夫とともに病院に運ばれ、その後死亡した男性も身元が分かっていなかったといいます。 しかし、中国政府は事件発生から犠牲者や行方不明者についてほとんど説明を行ってきませんでした。それどころか、事件から1年余りの間、政府は「天安門広場に行ったのか」や「デモに参加したのか」など多くの人に聞き取りを行うなど徹底的に調査していました。 尤さんはこうした政府の心理的な圧力が、今の中国社会につながっていると語気を強めて訴えました。 尤さん 「政府の圧力によって、市民は自分たちの家庭で何が起きたのか、言い出すことを恐れていきました。時間の経過とともに真相を語る人を探し出すことはいっそう難しくなっています。今では多くの人が事件についてよく知りません。35年がたち、若い世代は天安門事件に関心すらない状況です。これはこの間、政府が隠ぺいと沈黙を続けてきたからだと思います」 メッセージアプリに突然、使用制限 今、中国政府は、事件を国民の記憶から消し去ろうとする動きをさらに強めています。 遺族グループの今の活動の中心メンバーとなっている尤さんに対する監視は、6月4日が近づくにつれて厳しさを増していました。 尤さんのメッセージアプリ「ウィーチャット」は、4月ごろから機能が突然、制限され、ほかの遺族とのグループでのやりとりが一切できなくなりました。 ウィーチャットは中国国内では、使っていない人はいないほど、最もポピュラーなSNSです。“遺族どうしがつながることを阻みたい”、35年という節目に当局が神経をとがらせている様子がうかがえました。 尤さんが所在不明に 警告、そして尾行 尤さんに話を聞いてから、およそ1か月半たった先月(5月)31日。私は再び彼女の自宅を訪れました。もう一度話を聞きたい、そう思ったからです。 しかし、不在でした。連絡すらつかず、所在がわからなくなっていました。 自宅から立ち去ろうとした時、突然、警備員に呼び止められ、「何をしに来た。2度と来るな」そう警告されました。さらに、私服警察官とみられる2、3人の男たちが、私のあとを追うようについてきました。尾行は、私たちが車に乗り込むまで続きました。 尤さんとようやく連絡がついたのはその4日後、6月4日の午後でした。電話口の声は重く、監視役としてそばにいるとみられる当局者らしき女性の声が聞こえました。 「しばらく自宅にいることができない。近況も話しづらい。ごめんなさい」 短く状況を伝えてくれました。身に危険はないか心配する私に、彼女は「大丈夫」そう返し、電話は切れました。 男たちに囲まれて警告、墓地に近づけず あの日が近づくにつれて、天安門を東西に突き抜ける大通り「長安街」は異様な雰囲気に包まれていきました。前日3日午後、同僚のカメラマンが、多くの犠牲者が見つかった木※せい地という場所に向かいました。(※木へんに「犀」) 今は地下鉄の駅があり、隣には警察の派出所が設けられています。撮影機器が入ったリュックサックを開けようとした瞬間、十数人の男たちに取り囲まれ、立ち去るよう警告されました。 厳しい警備の共同墓地 6月4日の様子 そして4日当日。犠牲者が埋葬されている北京郊外の共同墓地には、多くの警察官が配置され、厳戒態勢が敷かれていました。近づくことすら許されず、命日の墓参りに訪れる遺族への取材はできませんでした。 天安門の叫び、今も 「天安門事件は、中国共産党による『国民の虐殺』にほかならない」 遺族たちのこうした訴えは「人民のために奉仕する」という共産党の正当性を、根幹から揺るがすことになりかねない、そう政府は考えているのかもしれません。だからこそ、政府は沈黙を貫き、時がたち人々が事件を忘れ去るのをじっと待っているように感じます。 かつて、私に「知る必要はないよ」と語った父と同じように、多くの国民が知らされずにきた35年。 それでも中国国民のなかには、天安門広場で民主化を叫んだ若者たちと同じように、一党支配への不満や、社会への責任感を持つ人がいます。 北京での白紙運動(2022年11月) おととし、中国政府のゼロコロナ政策への不満を背景に起きた抗議活動「白紙運動」。 そして去年、李克強前首相の急死後に各地で広がった追悼の動きと現指導部を暗に批判する追悼のことば。 私は、もう1つの祖国で今、事件とどう向き合うのか。 取材に応じてくれた張さんと尤さんの2人のことばを反芻しています。 「生きている間に事件の解決は見ないかもしれないが、それでもかまわない。 息絶えるその瞬間まで、生きているかぎり、訴え続ける。あなたも、この声を多くの人に届けてほしい」 (6月4日 ニュース7などで放送)
中国の習近平政権下で強まる抑圧と監視 天安門事件35年 記者にも尾行が?遺族が訴え続ける意味とは? | NHK | WEB特集 | 中国
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私は荒れ狂った暴れ川を撮影する専門的な写真家です。
物心ついた時、普段はうららかで大人しい川が、激しい降雨によって、濁流がどっと押し寄せて、堤防が切れて、街を吞み込んで、何もかも奪った姿を見て、荒れ狂った川と自分がまるで同じもののように感じて、それ以来惹かれるようになった。
大人しくて、抵抗できなくて、学校でいじめられていた私は、それからナイフを鞄に隠し持って、スタンガン、人を殺めることのできる毒物も入手していた。
そして、隠し持ちつつ、いじめにあっていたがある時、たがが外れて、5人のいじめっこの中で暴れ回って、半死半生の目に合わせて、退学になった。
私は今でもそれで良かったと思っているし、川は私の化身だと感じて、思い入れ持って撮影して、写真集にしていた。
見知らぬ男性に声をかけられて、どこか分からないところに連れていかれても、カバンに隠し持っているものがあれば、肝が据わっていて、女性を見下して食い物にしようとするようなつまらない男性なら、簡単に言葉だけで蹴散らかすことが出来るような言語力を持っていた。
世の中つまらない人間ばかりだと思っていたが、案外そうでもなく真っ当に生きて、確実に周りの人々を幸せにしている方たちの存在を知り、そのコミュニティーに入ることが出来た。そういう人の輪の中に入って、幸せを享受しつつ、愛する人を見つけた。
鞄に隠し持っていた危険なものはもう必要なくなっていた。お付き合いしている人に結婚を自分から申し込もうと決めた冬の日に、スタンガンを自分にあてて電流を流してみた。鋭い衝撃を受けて、その場に倒れ込んだ。薄っすらと残る意識の端で、こんな危険なものを自分は隠し持っていたのかと思った。気がつくと夕方で、薄暗くなりつつあった。
鋭いナイフで自分の手首にすっと切込みを入れてみた。こわごわ刃を滑らすと、血が滲んでなかなか止まらなかった。結構深く切ってしまったようだった。唇で吸ってみると、鉄さびの味がして、なぜか分からないが生きている確証を得た気がした。
毒物を飲んでみようと思ったができなかった。死んでしまえば何もかも終わってしまう。捨てる場所に困ったし、自分で飲むわけにはいかない。もう必要ないと思っていたが、毒物を飲む代わりに、自分を殺してみようと思った。川の上流に行き、深みのある淵に裸で身を沈めてみた。冬の水は冷たくて、刺すように痛かった。深みに沈む中で、このままどうなるか身を委ねてみようと思った。死んでしまうなら自分はそれまでなのだろう?暴れ川を撮影する写真家、川で入水自殺のセンセーショナルなニュースが流れるのだろうなと思ったが、神様は簡単に私を殺さなかった。対岸の浅瀬に流れついて、裸でガタガタ震えていると、大きな鹿が二頭私を遠くから眺めて去って行った。気を取り戻して、飛び石を渡りながら戻り、衣服を着て、車の中で毛布にくるまり暖を取った。
何か儀式めいたものがあったが、私はまだ何かやり残しているものがあるのかもしれない。翌日愛する人に自分からプロポーズした。前日の行為を全て話すと、神妙な顔つきで私の話を聴いていて、最後によく生きて帰ってきてくれたねと抱きしめてくれた。毒物は彼が処分してくれることになった。
うららかな陽の当たる河川敷で、桜の花を見ながら、お弁当をつついて過ごしている家族の姿があった。
暴れ川の写真は高い評価を得て、写真家として大成していた。嘘のない人生を送ることが出来たことを本当に幸せだと感じている。
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