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✿ ローマ皇帝ネロの雪のデザート | グレーテルのかまど ・母や妻を殺し、ローマに火を放ったといわれ、暴君と知られる古代ローマ第5代皇帝ネロ。実は繊細で感受性豊かな教養人だった。芸術やスポーツを愛し、エンターテイメント精神にあふれた人物だったという。客人たちをもてなす、食卓もしかり。あらゆる演出をしながら囲んだ食卓にあがったデザートは、アルプスの雪にフルーツやシロップをかけたデザート。
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カルタゴ滅亡をトレースする現代日本
◆カルタゴはなぜ滅んだのか?!
日本と同じような商人国家であったカルタゴが、完膚なきまでに滅ぼされた例を他山の石として日本人は国防を考え直す必要があると切に思うからです。
カルタゴは紀元前250年頃、地中海に覇を唱えていた大国でした。
第2次ポエニ戦争に負けて、戦勝国から武装を解除させられ、戦争を放棄することになったカルタゴは、戦後の復興を貿易一筋で見事に成し遂げ、戦後賠償も全てきれいに払い終えました。しかし、その経済を脅威だと捉えたローマ帝国によって、結局は滅ぼされてしまいました。
滅ぼされる直前、カルタゴの愛国者であるハンニバル将軍は、ローマの考えを悟り、祖国の危機をカルタゴ市民に訴えましたが、平和ぼけした市民は耳を貸そうとしませんでした。
それどころか「ハンニバルは戦争をしようとしている!」と中傷する者さえいました。しかも、最終的にハンニバルはローマに洗脳された者達によってローマに売られ、自殺にまで追い込まれてしまったのです。
平和ぼけした市民は、ローマから無理難題を次々に要求されてからはじめてハンニバルの警告が正しかったことに気が付きましたが、時すでに遅く、徹底抗戦に踏み切るもカルタゴの陥落を防ぐことはできませんでした。この間、たった3年の出来事でした。
ちなみに、生き残ったカルタゴ市民は約5万人でしたが、その全てが奴隷にされてしまいました。城塞は更地になるまで徹底的に破壊され、再びこの地に人が住み、作物が実らぬように大量の塩が撒かれたと言われています。
これはただの負け方ではありません。まさに地上からの抹殺です。
この悲惨なカルタゴ滅亡の理由は2つあると言われています。
1つは、カルタゴ市民が軍事についてほとんど無関心だったことが挙げられます。もともと自国の防衛はおおむね傭兵に頼っていた上に、国内世論も「平和主義的」な論調が強く、有事に備えて軍事力を蓄えておくといったことはままなりませんでした。
2つめは、国内の思想が分裂状態であったことが挙げられます。そもそも挙国一致して事に当たらなければ有事を乗り切ることはなかなか難しいものですが、カルタゴにはそれがなく、戦時中にハンニバルが外地を転戦している間も市民は素知らぬ顔をしていました。そして、ハンニバルを売り渡したのは、ローマに洗脳されたカルタゴの売国奴達でした。
自らの手で愛国者を切り捨てる・・・かくしてカルタゴは「滅ぶべくして」滅んだわけですが、私は今の日本がこのカルタゴに酷似している様に見えて仕方がありません。
今こそ日本の国防を真剣に考えないと本当に危ないと思います。
【対比】日本と似すぎているカルタゴの運命
カルタゴは、フェニキア人が建国した海洋国家で、現在のアフリカ大陸チュニジアに位置しています。
カルタゴは、世界一の造船技術を持ち、スペイン、シチリア島などの海外領土を支配していました。
紀元前3世紀、地中海貿易により富を蓄え、ローマ帝国と並ぶ強国となります。
BC264年、両者の中間にあるシシリー島で紛争がおこります。そして、これを契機にカルタゴとローマは、世界の覇権を賭けて激突します。この戦いは、23年間の中断をはさんで63年間続きます。(第一次ポエニ戦争、第二次ポエニ戦争)
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1867年、島国日本は、長い眠りから覚め、明治維新により近代国家への道を目指します。西洋文明を積極的に取り入れ、富国強兵に邁進します。日清・日露の戦争に勝ち、朝鮮、台湾、南樺太と領土を拡張します。
強国となった日本は、戦艦大和を建造して、世界有数の海軍を持ち、
太平洋をはさみ、超大国アメリカと対峙します。
1941年12月、日本連合艦隊は、ハワイの真珠湾の奇襲に成功します。太平洋戦争が始まります。
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カルタゴの英雄ハンニバルは、象36頭と兵士5万人を率いて、スペインを出発します。象を連れて、アルプス山脈越えに成功、ローマの本拠地イタリア半島を奇襲します。ハンニバルは、イタリアに、なんと15年も踏みとどまり、ローマを一時追い詰めます。
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「マレーの虎」山下奉文中将は、マレー半島を南下、シンガポールに侵攻します。インド兵への離反策が成功し、1942年2月15日シンガポールは陥落、イギリス軍は降伏します。
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カルタゴは、地力に勝るローマに対して次第に劣勢になります。ついに、名将スキピオ率いるローマ軍が、カルタゴの本拠地に進軍します。カルタゴは、イタリアで善戦していたハンニバルを帰国させ、本土決戦に賭けます。BC202年、天下分け目の戦い(ザマの戦い)が行われます。カルタゴの完膚なき負け戦でした。
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アメリカは、生産力、技術力で日本に勝っていました。ミッドウェー海戦を境に、戦局は逆転します。ガダルカナル、硫黄島、沖縄。日本は、敗退を続けます。本土空襲が激しくなり、広島と長崎に原爆が投下されます。日本の完膚なき負け戦でした。
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カルタゴは、ローマに無条件降伏します。
全ての海外領土は、放棄され、軍船、象もローマに引き渡されます。軍隊は、自衛のためのものだけが許されました。そして、自衛のためでも戦争する場合、ローマの許可が要ることになったのです。(この許可の項目が、後に大問題となります)
そして、50年賦で1万タラントの賠償金をローマに支払うことが決まります。
ともかく、カルタゴの町は、無事に残りました。100人会は、貴族の世襲制でしたが、戦後まもなく代議員が選挙で選ばれるようになります。
カルタゴは、民主主義の国家に生まれ変わります。
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「忍び難きを忍び、耐え難きを耐え・・・」玉音放送が流れ、日本は無条件降伏します。
日本列島以外の領土は、返還されます。アメリカが決めた平和憲法で戦争が放棄されます。(後に自衛隊が誕生します。)国土は焼け野原、アジア諸国には賠償金の支払いが必要でした。ともかく、本土決戦だけは避けられました。
日本は、天皇主権の国家から、主権在民の民主主義国家に生まれ変わります。
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カルタゴ人(フェニキア人)は、ユダヤ人やアラビア商人と同じセム語族で、最も商才があるといわれている種族です。
軍事国家への野心を棄てたカルタゴ人は、ますます貿易や商売に熱中するようになります。ローマ人は、楽しむために働きましたが、カルタゴ人は働くこと自体が人生の目的でした。奇跡の経済復興が実現します。
戦勝国ローマは、休む間もなく、マケドニアやシリアと戦わなければなりません。軍備費の要らないカルタゴは、次第にローマに匹敵する経済大国に、のしあがります。
BC191年ローマは、シリアを打ち破ります。
無敵の軍事大国ローマにとっての脅威は、経済大国カルタゴに移っていくのです。
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日本人には、勤勉さと物作りの才能がありました。
焼け原から立ち上がった日本人は、ひたすら一生懸命働くことで豊かになろうとしました。エコノミックアニマルと日本人は、陰口を叩かれます。奇跡の経済復興が実現します。
アメリカの核の傘に入り、軍事費もいりません。戦勝国アメリカは、ソ連との冷戦を戦わなくてはなりませんでした。
10%を超す高度経済成長が続きます。日本は、世界第二位の経済大国になります。
ソ連が崩壊し、日米の経済摩擦が激化します。
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BC187年、カルタゴは、50年賦と決められた賠償金を一括払いしたいと申し出ます。いくら叩いても不死鳥のように蘇る、カルタゴ人の経済力に、ローマ人は、羨望と恐怖心を抱きます。ポエニ戦争の悪夢がふと蘇ります。
経済大国カルタゴの最大の悩みは、隣国のヌミディアでした。ヌミディアは、騎馬兵団で有名な、戦争に強い国です。自衛力しか持たないカルタゴを侮り、その領土を侵犯します。
カルタゴは、ローマに調停を頼みますが、黒幕のローマはもちろん取り合いません。ついに、カルタゴとヌミディアの間で戦争が起こり、平和の国カルタゴは、敗北します。
ローマの事前許可のない戦争開始は、条約違反でした。
ローマは、カルタゴに対して、突然宣戦布告をします。
驚いたのは、カルタゴです。ローマの許しを得ようと、300人の貴族の子供を人質に差し出します。しかし、8万人の世界最強のローマ兵が、上陸し、カルタゴに進軍します。
カルタゴの使者が、「どうすれば、許していただけるのですか?」とローマの司令官に聞きます。
「全ての武器を差し出せ。」司令官は、答えます。
カルタゴは、20万人分の鎧、投げやり、投げ矢、2000の石弓を司令官に差し出します。
すると、司令官は、最後の要求を使者に言い渡します。
我々は、カルタゴの街を根こそぎ破壊することを決めた。
カルタゴ人には、今の街より10マイル内陸部に
新しい居住地帯を造ることを許可しよう。
使者からローマの意向を聞いた20万人のカルタゴ人は、驚愕して、嘆き悲しみ、最後に激怒します。
「こんなひどい仕打ちがあろうか。街を破壊する��と。
内陸部に引っ込めだと。どう��死ぬなら戦って死のう!」
カルタゴ人は、丸腰で戦う覚悟を決めます。返事の猶予期間の30日間、密かに戦争準備がすすめられます。
武器職人は、連日徹夜で武器を作ります。
若い女性は、長い髪を元から切って石弓の弦が作られます。
こうして、始まったのが、第三次ポエニ戦争でした。
(戦争というより、ローマによるカルタゴの民族浄化です。)
カルタゴは、ここで奇跡的な粘りを見せます。なんと丸腰で三年間ローマの猛攻を食い止めたのです。
しかし、戦闘と飢えと疫病で、20万人のカルタゴ市民は、10万人に減ります。
そして、ついに、ローマ兵は城壁を破り、街へ進入します。
女、子供までがレンガを投げて抵抗しますが、5万人が虐殺されます。
ビュルサの砦に逃げ込んだ5万人のカルタゴ人は、オリーブの枝を掲げて投降します。
彼らは、一部が処刑され、残りは奴隷として売られます。
カルタゴの街は、十数日燃えつづけ、灰は1メートル積もります。カルタゴの復活を恐れたローマ人は、この地に塩を撒き不毛の土地にします。
700年続いた経済大国カルタゴと世界の富を独占したカルタゴ人は、BC146年こうして滅んだのです。
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この石塁は、ローマ皇帝ハドリアヌスが…
#シッポ追い #tailchaser #猫 #猫咪 #gato #katze #kucing
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ハロー(´ー∀ー`)2024.12.8
またもや勃発!
カスハラとか言われるかもしれないけどそんなの関係ねえ事案が発生いたしました。
ガス屋VS私のバトル(と言っても私が一方的に怒ってるだけ)スタート!
ある日家に帰ったらガス屋の点検に関する不在票が入っており、電話を下さいと書かれてあったため電話をする
↓
担当が帰ってもういない為、後日こちらから連絡さしあげますとのこと。住所・名前を聞かれ、電話はいつでもオッケーと伝える
↓
翌朝ガス屋から電話がかかる。
「どうかされました?何かありましたかね?」
と言われる。どうもしてねーよ!いやいや、日中勝手に点検来て不在票に電話してって書かれてあったから電話したんですけど?と言ったら
「あー、今日いつでもいいんですか?メモに何時でもいいと書いてあるので〜」
いつでもよくねーわ!💢今日は仕事だから無理ですよ?😡💢と言うと
「大丈夫な日わかれば予約の電話してもらっていいですか?」
はあ????💢だから今してんだろーがこのタコ!何なんだお前は!そもそも電話かけてきて名乗りもしてねーぞ!なめとんのかワレェ💢
「小さいお子さんとかいますかね?」
突然何の質問なんだよ?💢お前詐欺か何かか?普通大きい音でびっくりするから、とか説明してから聞く事じゃないのか?どうしようイライラが止まらない←
◯日だったら何時でも大丈夫ですと伝えると
「じゃあいく前に電話しましょうかね?」
そうして下さい、で電話を終える。
怒りでまた手が震え、動悸がしました。
そして入居時の開栓の立ち会い事件を思い出しました。
(開栓時に何の断りもなく無言で洗面所へ移動して私のタオルで勝手に濡れた手を拭いた事件)
なんなんこのガス屋?😇
クソばっかりなのか?😇
社員教育どーなってるん?😇
話は変わって一年に一度の甲状腺腫瘍定期診察へ行ってきました。
一年で最も憂鬱な日。
緊張が続いてメンタルが萎える日。
結果は!!!
採血異常なし!
エコーも異常なし!腫瘍���大きさも許容の範囲内とのこと!
安心しましたー😮💨
これで師走を楽しく進めそうです〜
動悸と息苦しさはまだありますが、焦らず休息を取りながら生活していこうと心掛けています。
そろそろ年末大掃除を始めないといけないのですが、体調不良と何故かバタバタしているのもあってヤル気が出ない…
ヤル気が出た時でいいや…←
あと寒いと動きたくなくなるし、冬の鬱がやってきますよね
(あーだこーだとやらなくていい理由をみつける奴
やらなくても誰も困らないから大丈夫👌
明日の私に頑張ってもらいましょう!
(2番目の姉がよく使う言葉🤣
そういえばようやく
「グラディエーター」
見返しました。ローマ帝国の皇帝がお年を召し、時期皇帝を息子ではなく将軍マキシマスに譲ろうとしていました。
息子は精神が歪んでいて危うい、マキシマスは人を統制する力も剣技もありカリスマ性があったので皇帝がそう言うのもわからんでもないと私はなったが、その事を知った息子は暴走して皇帝を殺して玉座を奪い、マキシマスに死刑宣告してマキシマスの妻と子供を殺します。
皇帝が正式な手順で息子を時期皇帝にしていればこんな事にはならなかったと思うよね。確かに危うくはあったけど、そのトリガーを引いたのは完全に皇帝で、そこを境目として息子がどんどん歪み変貌していく様子はジョーカーとかぶりました。
(ホアキンフェニックスだもんね←
父親の愛情を求め続け、相手に受け入れられなかった愛が歪んでいく部分は見てても正直キツい。不憫な人間とは思うけどめちゃくちゃ気持ち悪いと思ってしまったし、またそういう演技がめちゃくちゃ上手すぎて←
そしてマキシマスの人生ね😭
妻と子の亡骸をみつけたシーンが本当に辛かった…その後奴隷として拾われてお金儲けの為に闘技場で殺し合いをさせられていくんだけど剣闘士としてもカリスマ性を発揮していき民衆を味方につけるんだよね。
お見事としか言いようがない😭
でも周りの人達も協力してくれて死んじゃったりするのが悲しい…
それほどまでに皆から信頼されるような人柄で、男も惚れる漢!って感じで笑
最終的には復讐をやり遂げるんだけど、、力尽きてしまうシーンはもう涙涙です
まだ意識はあるんだけど、半分あの世に行ってるみたいな演出なの��す。あの世で故郷の草に触れ、扉を開けて妻と子供に会う。私も「やっと会えたね😭」ってなったし、その時のマキシマスの様子が愛猫アリスの最期と重なって…アリスの最期もあのような感じだったので。
ぶわーっと思い出しました。
だから最後に奴隷ジュバが木彫りの人形を闘技場の土に埋めて「また会える…いつか、いつか」って言ってた台詞が私にはめちゃくちゃ刺さりました〜
ラッセルクロウかっこよかったのに、アオラレとかバチカンのエクソシスト思い出したら「…うん…🙂」ってなります。
またアオラレみよーっと←
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みずからが、他人から迫害を受ける側に立っていた時は、おとなしくしていたユダヤ人でも、みずからが、他人に迫害を与える側に立った時は、残虐非道に相手を殺し尽くす。それが人間界の通弊であるとはいえ、見ていて実に不快である。 ローマ皇帝ネロやローマ皇帝カリギュラの時代に、みずからが、他人から迫害を受ける側に立っていた時は、おとなしくしていたキリスト教徒でも、みずからが、他人に迫害を与える側に立った時は、残虐非道に相手を殺し尽くす。それが人間界の通弊であるとはいえ、見ていて実に不快である。 人間は自己が権力を持った時、その本質を露呈する。権力を持った時、その人が何をするかで、その人の霊性が試される。残念ながら、大半の人類の霊性は低いのだ。
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「イスラエル」という言葉は、紀元前 13 世紀の終わり近くにエジプトのメルネプタ石碑に初めて登場し、明らかに当時「カナン」だった地域に住んでいた (場所ではなく) 民族を指していました。数世紀後、その地域にイスラエルとユダ(「ユダヤ人」という用語の起源)という 2 つの姉妹王国が誕生しました。聖書によると、最初は両方からなる君主制が存在しており、「イスラエル」とも呼ばれていたようです。 紀元前 722 年頃、イスラエル王国は現在のイラクを中心とする新アッシリア帝国によって征服されました。古代の地理用語としての「イスラエル」はもはや存在しませんでした。 1世紀半も経たないうちにユダは打倒されました。首都エルサレムは略奪され、ユダヤ神殿は破壊され、ユダの住民の多くがバビロニアに追放されました。 50 年弱後に亡命が終わってから、旧ユダ王国の領土はほぼ 7 世紀にわたってユダヤ教の中心地として機能しました (ただし、再建された神殿は西暦 70 年にローマ人によって再び破壊されました)。 西暦 135 年、ユダヤ人の反乱が失敗に終わった後、ローマ皇帝ハドリアヌスはエルサレムからユダヤ人を追放し、エルサレムとその周囲の領土を「シリア・パレスチナ」と呼ばれるより大きな組織の一部とすることを布告しました。「パレスチナ」という名前は、イスラエル人(ユダヤ人の祖先)の敵である古代ペリシテ人の沿岸地域に由来しています。 7 世紀にイスラム教徒が中東を征服した後、アラブ人はかつての「パレスチナ」に定住し始めました。約90年間の十字軍の支配を除けば、この土地は1,200年弱の間、イスラム教徒の支配下にあった。ユダヤ人の居住が途絶えることはなかったが、人口は圧倒的にアラブ人であった。
「イスラエル」と「パレスチナ」の歴史:別名、競合する主張
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不法滞在者の軍隊への参加を許可するのはローマ帝国の非常に後期段階の戦略である。 ここでローマ帝国の歴史を少しご紹介します。 後期ローマ帝国 (西暦 4 世紀と 5 世紀) では、帝国への野蛮人の大量移住を目撃しました。これらの部族は兵役と引き換えに帝国の土地に定住することを許可され、封建制度の祖であるフェデラティという用語が誕生しました。これらの連邦政府は主に自分たちの部族の族長によって率いられていたが、これが後に帝国のさらなる不安定化につながり、最終的には連邦司令官オドアケルが西皇帝ロムルス・アウグストゥスを廃位させ、西ローマ帝国を滅亡させた。
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イスラエル・パレスチナ問題 文字数6500文字以上、400字詰め原稿用紙17枚に相当
【イスラエル・パレスチナ問題の超簡単な要約】
むかしむかし、紀元前11世紀ごろ、つまり今から3000年前、パレスチナという土地にイスラエル王国という国があった。 ユダヤ教の国や。 日本はまだどんぐりを拾って生活をしていた縄文時代の頃やな。
一代目の王様が国を作ったあと、二代目の王様ダビデ王って人が国を大きくしたんやけど、今でもDAVIDっていう名前の西洋人いっぱいおるよな。 ダビデの名残や影響力を感じるよな。 三代目の王様ソロモン王は、エルサレムにユダヤ神殿という立派な神殿を作った。
ソロモン王の死後、イスラエル王国は分裂し弱体化していったんや。三代目で駄目になるって日本の同族会社と変わらんな。ビッグモーターは二代目であかんことなったけど。
弱体化したイスラエルはお隣の国々に攻め込まれ、ソロモン王が作った神殿は破壊され、ユダヤ人はバビロニアの支配下に入って、バビロン、今のバグダットの近くに連れて行かれたんや。
紀元前5世紀頃、ペルシャ王のキュロス二世が「ユダヤ人はイスラエルに帰ってええで」と発表して、エルサレムにまたユダヤ神殿を建設したんや。 2回目の建設なので第二神殿と呼ぶ。 立派な神殿���出来てユダヤ人は喜んだわけやな。
紀元0年頃、イエス・キリストが生まれる。 この人は実はイスラエルのあたりの人なんよ。 弟子を12人作ったり、あれこれ活動したあと、最後はエルサレムのゴルゴダの丘っていうところで死ぬんやけど、死んだのはさっきのエルサレムのユダヤ神殿のすぐ近くや。
紀元前が終わり西暦70年、イタリアのローマ帝国がはるばる中東まで攻め込んできて、ユダヤ人と激しい戦争となったんや。 エルサレムはまたも陥落し、せっかく作ったユダヤ神殿はまた破壊されてしまった。
この時あまりにも激しく国が破壊されたので、ユダヤ人たちは国自体がなくなり、世界中に散り散りばらばらになってしまったんや。 国がないからどこへ行っても外様扱いで、常に迫害されてきたわけやな。ひどい話や。 明日突然日本国が滅んで、どっかの国に住めと言われたら、苦労するよな。差別もされるよな。
で、ユダヤ人らが追い出されたエルサレムは荒廃したわけやが、それから250年後の4世紀頃、ときのローマ帝国の皇帝が大のキリスト教ファンで、「エルサレムのキリストが死んだ場所(ゴルゴダの丘)に教会を作れ」って命令したんや。
キリストが死んでから長く経ってたし、ユダヤ人が追い出されてから250年くらい経ってたから、「まあこのへんやろ」ってことで大体の位置で作ったのが「聖墳墓教会」や。 ゆな先生もいったことあるで。 昔ユダヤ神殿があった場所の、かなり近くにあって、要はキリストの墓の教会やな。 よって、この4世紀の時点でエルサレムはユダヤ教の聖地だったのに加えて、キリスト教の聖地にもなったわけや。
それからまた300年後の7世紀、アラブ軍(イスラム教)がエルサレムに攻め込み、支配下においた。 ユダヤ神殿がかつてあった土地の真上に、かの有名な「岩のドーム」を作ってしまったんや。金ピカの屋根のやつやね。
この岩のドームは預言者ムハンマドが昇天したという伝説の場所として信じられてて、イスラム教におけるメッカほどではないにせよ、超重要聖地になってしまった。 超重要な聖地なわけで、イスラム教の信者らも多くエルサレムに住み着いたわけやで。 この時点で、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、3つの聖地がエルサレムのほぼ同じ場所にある状態になった。いまから1700年も前の話やね。 ちなみに、ユダヤ神殿が破壊されて、上に岩のドームが作られてしまったわけでユダヤ人の聖地はなくなったわけやが、ユダヤ神殿の壁が残ってる広場があって、ユダヤ教の人はそこを聖地にしてる。これが嘆きの壁や。ユダヤ教の最高の聖地扱いやね。
それから400年たった11世紀頃頃、ローマ帝国(イタリア)はキリスト教国家になってたんやけども、この頃に結構国粋主義みたいなのが盛んになるんや。 ローマ帝国の中にいるユダヤ人を迫害して虐殺してみたり、聖地エルサレムを奪還しようって動きが高まる。 しまいには「十字軍」ってやつを組織してエルサレムへ侵攻したんや。 7世紀頃からパレスチナを治めてたアラブ人ら(イスラム教)は抵抗するんやが、ローマ帝国の軍団が強かったから負けてしまって、エルサレムはキリスト教の支配下に置かれるようになったんや。 ��スラム教の人たちがキリスト教を嫌う理由に、この十字軍があるね。 キリスト教国家が中東でイスラム教国家と戦争をするたびに、「現代の十字軍め」と恨み節を言うのは結構よくある話や。
その後も何度も何度も支配権が変わって、キリスト教が追い出されたり、ユダヤ人が追い出されたりを何度も繰り返しながらまた数百年たったんや。 その後マムルーク朝とかオスマン帝国(いまのトルコ)に支配されて20世紀まで来る。 20世紀初頭の時点で、エルサレムにはユダヤ人、イスラム、キリスト教が1/3ずつくらい住んでたんや。聖地が重なりながらも、まあなんとか回ってたんや。
でも西暦70年に国が滅ぼされて世界に散り散りバラバラになったユダヤ人がどうしてたんか?って話気になるよな。 日本人が海外に分散していったら、段々とその国に慣れていって、何世代かしたら日本語も忘れて、仏教も神道も忘れてその地に同化していくよな。
でもユダヤ人はそうはならんかったんや。ユダヤ教のおかげやね。 ユダヤ教は小さい頃から教義を叩き込んで、子供に伝えていくのが本当に生活に染み込んでる。 その結果、西暦70年から1900年間も世界に分散した割に、ちゃんとユダヤ教は残ってたんや。
19−20世紀頃になると、世界に分散してるユダヤ人たちは「シオニズム運動」って言って「シオンの丘に帰ろう」という活動が盛んになる。シオンの丘=聖地エルサレムのことや。 自分たちの国を作ろうっていう動きが出てきたわけやね。
20世紀初頭、オスマン帝国(トルコ)がエルサレムを支配していた頃、シオニズム運動は盛り上がってたんやけど、オスマン帝国はちょっと弱体化してきてたんや。 「おっ、弱っとるやん!」ってことで当時世界最強の国だった鬼畜イギリス軍が、エルサレムに攻め入ってきて、エルサレムを奪ってしまうんよ。 この頃のイギリスは七つの海を制したと言われるほど力があったからね。
オスマン帝国を倒したことで、イギリスはパレスチナ、ヨルダン、イラクを委任統治領にしたんや。要は植民地みたいなもんやね。 イギリスの統治下にある間に、シオニズム運動が盛んだったのもありユダヤ人人口が増え、3つの宗教では争いが頻発するようになっていった。
1948年、委任統治の期間が終わるにあたり、めんどくさくなったイギリスは「じゃあユダヤ人の国とアラブ人の国に2つに分ければいいじゃん!」って謎提案をして、国連もそれを承諾してしまうんや。 3つの宗教が混ざってなんとかこれまで来た場所を、2つの国に分ければいいじゃんって無理な話よな。土地への愛着とかもあるしさ。
ユダヤ人がエルサレムのエリア(今のパレスチナ+イスラエル)を支配したのは西暦70年が最後で、そこから先はユダヤ人が支配はしてなかったんよ。ローマ帝国はキリスト教やし、岩のドームを作ったのはイスラム教で、そこからずっとイスラム教が支配してて、最後に支配してたオスマン・トルコもイスラム教国家や。
イスラム教の人らからすると、「確かにユダヤ教の人らもエルサレムにおったけど、なんでお前らが突然このパレスチナに国作って我々の土地を奪うんや!」ってブチ切れるわけや。 逆に自分の国がほしかった全世界のユダヤ教徒は喜んでたわけやな。 しかもユダヤ人のほうが遥かに少ないのに支配する面積も大きかったんや。
結果として発生したのが第一次中東戦争や。 そりゃ1500年間住んでた土地に、いきなりユダヤ人の国を勝手に作られて追い出されたらたまったもんじゃないよな。 我々日本人が、「2000年前は実は僕たちの先祖が住んでたんで」とか言って本州を謎の外国人に取られて四国とか北海道におしのけられるようなもんやからね。 どんぐり拾ってたような時代に住んでましたなんて言われても納得できんわな。
当時統治してたはずのイギリス軍はさっさと逃げ出したわけやが、そもそもこの問題はイギリスの影響が大きい。 イギリスは三枚舌外交と言って、
・オスマン帝国(トルコ)を倒したいので、オスマン帝国の支配下にいるアラブ人たちに「武装蜂起してくれたらオスマン帝国の土地を割譲して独立国を作ってあげるよ」とそそのかして反乱を起こさせる ・フランス・ロシアとの間では、アラブ人たちに約束したのとは全く違い「オスマン帝国の領土はフランス支配、イギリス支配の2つに分割にし、パレスチナは国際管理下にしよう」と提案する ・ユダヤ人資産家のロスチャイルドには「パレスチナにユダヤ人国家を作ってあげるから、その代わり戦費をくれ」と提案
要は3つの関係者に矛盾することを言いまくって争いを起こして最終的にオスマン帝国を倒してパレスチナ(+エルサレム)を手に入れたわけやな。 そのままオスマン帝国が支配してたら今のような争いだらけのエリアにならず、幸せだったんやないかという話やね。 ブリカスと言われる所以やね。
第一次中東戦争(1948)ではイスラエルが勝利し、イスラエルはまず独立国としての地位を得る。まず国を作ったわけやね。これが一回目の戦争や。
第二次中東戦争(1956)では、スエズ運河を国有化しようとしたエジプトを邪魔しようと企んだイギリスとフランスがイスラエルと一緒にエジプトに攻め込んだことで勃発する。 エジプトが負けるかと思いきや意外と耐えたしスエズ運河も守りきったことで「エジプト結構すごくね?」的な雰囲気で国連の介入で終戦したんや。 エジプト=アラブの勝利やね。
第三次中東戦争(1967)は、わずか6日で終わったから6日間戦争とも言われるけども、イスラエル軍がアラブの国々(エジプトやシリア、ヨルダンなど)に攻め込んで、圧倒的勝利を治めて、今のイスラエルの国土は大半はここで奪い取った土地と合わせたもので大体一緒やね。 左隣のエジプトからガザ地区を奪って、右隣のヨルダンからヨルダン川西岸地区を、シリアからゴラン高原を奪ってる。 ゴラン高原は、のちに自衛隊が海外平和維持活動として派兵してた場所やね。争いが起きてカオスだったってことやね。
この第三次中東戦争は、テレビドラマにもなった山崎豊子の小説「不毛地帯」でも扱われていて、この戦争がすぐ終わるのか長期化するのかを分析して投資をする、近畿商事vs東京商事の戦いでも描かれてるで。 小説もテレビドラマも面白いからぜひ鑑賞してほしい。 ドラマは唐沢寿明主演で、めちゃ面白いで。このドラマで商社マン志望の学生が増え���とすら言われてる。
第四次中東戦争(1973)は、第三次中東戦争で奪われた土地を取り返そうとエジプトとシリアがイスラエルに攻め込んだんやが、これは今から50年前の10月6日の、ヨム・キプル、つまりユダヤ教の贖罪の日という祝日に行われて、お休みの日やった。 ちょうど今週ハマスがイスラエルを奇襲したが、これもまた同じ祝日の日やった。 油断した日を狙うのは変わってないな。
イスラエルvsアラブ系の国々という構図になったけども、冷戦下でもあったから、裏側ではイスラエルを米国が、アラブをソ連が応援してた。 この戦争は3週間で終わるんやが、アラブ系の国々がイスラエルの味方をする国々に対して石油を禁輸したり、OPECが石油の価格引き上げをしまくったことでいわゆる「オイルショック」を起こして日本も影響を受けたで。 このオイルショックのときに日本人はトイレの紙を買いまくってたけど、50年経ってコロナが起きてもトイレの紙を買いまくってたから、なんの進歩もしてないよな。 ちなみに、前に「オイルショックのときに買いまくったトイレの紙がまだ家に積み上がってる」っていう人に会ったことあるで。ほんとかいな。
大規模な戦争は4回のみで、その後は小さな紛争が何度も何度も起きてる。 1988年にはパレスチナ自治政府が独立宣言を行って、1993年にはパレスチナ自治政府のアラファト議長と、イスラエルのラビン首相が「仲良くしようね」とアメリカ大統領仲介の元パレスチナの自治を認めたんや。これでだいぶ進歩したなあってことで、アラファト議長とラビン首相はノーベル平和賞を受賞してるで。 でもその後イスラエルのラビン首相は、国内の極右学生に暗殺されてる。宗教色が強いエリアだと、国内を説得するのも大変やな。
パレスチナ側はアラファト議長が死んだあと、内紛が起きる。 2006年に議会選挙でハマスっていう反イスラエル・反米の党が第一党になった。 一応選挙で選ばれた人らやけど、イスラエルのことめっちゃ嫌いやねん。 パレスチナではハマスに加えて、親米・イスラエル融和派の党ファタハという2つの派閥があったけどハマスがガザ地区を武装支配してしまう。 ファタハはヨルダン川西岸地区っていう方を支配してるで。穏健派やな。
今回イスラエルにロケット砲打ちまくってライブ会場から人を拉致しまくったのは、このハマスの武装組織やね。 だからパレスチナがイスラエルに攻撃したというよりは、パレスチナの中にいるハマスの人たちがやった行為って考えたほうがええと思う。 ゆな先生が前に訪問したのはハマスが支配するガザ地区ではなく、ファタハが強いヨルダン川西岸地区ってとこやけど、そこはそこまで激しく反米って感じでもなかったな。
一方でイスラエルもイスラエルでじわりじわりとパレスチナに入植地、つまりユダヤ人が住むエリアを拡大し、実質的にそのエリアを支配してしまうのをやめずにいるし、ガザからロケット砲が飛んでくるたびに民間人も含めてお構いなしに報復攻撃をするから、結局永久に終わらない紛争になってしまってるわけやな。 ハマスが10人イスラエル人を殺すと、だいたいイスラエルはパレスチナ人を1000人とか殺すからね。
2022年11月にイスラエルで右派のネタニヤフ政権が生まれたけど、政権誕生から今回のハマスによるロケット砲攻撃やライブ会場での虐殺や拉致の事件の間にも実は、ちょくちょくイスラエル軍がハマス支配エリアを攻撃してたりする。 あんまり報じられることはないけどテロリストを逮捕するとかいう名目でちょくちょく空爆したり、武装襲撃したりしてるわけで、いろんなものがたまり溜まった状態だったことは間違いないな。
とはいえ、この2000年3000年規模の歴史的な背景もあるから、今回はハマスが悪いとかイスラエルが悪いとか、断言することはできないというのがワイの立場やね。 むしろ日本はこの長い長い宗教戦争とは無縁の離れた場所で、無縁の仏教神道の国であるから、どっちの肩を持つというのはしないほうがいいんじゃないかなと思う。
日露戦争ではユダヤ人経由で戦費を調達して戦争になんとか勝ち、戦後は中東のアラブの国々から石油を輸入してなんとかライフラインを維持している島国で、わざわざ敵を作らなくてもいいし、3つの宗教、そして欧米諸国の争いであって、簡単に解決できる問題ではないことは理解してもらえたと思う。
ちなみに私はイスラエルとパレスチナ両方を訪問したことがあるから、どちらの立場もなんとなくわかるし、実際に訪問してみて非常に学びが多かった。イスラエル・パレスチナにもう少し平穏が訪れたら、ぜひみんなにも行ってみてほしい。
歴史を学び、地政学を学び、宗教を学ぶことは、人生で起きる出来事やニュースなどから想像できることを増やし、旅行を楽しくし、投資にも役立ち、将来の予測にも役立つ。 ついつい毎日だらけて過ごしてしまうこともあるけど、たまには本を読んだりして遠い異国で起きていることに関心を持ってみるのも面白いと思う。
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混迷した世界の指南書 『武士道』 藤原正彦(2008) 『この国のけじめ』 文藝春秋
新渡戸稲造『武士道』が売れているという。昨年末(二〇〇三年)公開されたアメリカ映画 「ラスト・サムライ」の影響もあるとかで、数社から合わせて百万部以上が出ているそうだ。 これを聞いて意を強くした。 『武士道』が英語で書かれたのは明治三十二(一八九九) 年であ る。百年以上前の本を現代日本人がこぞって読むのは、健全な危機感のあらわれと思うから (5)である。 庶民は知識や理屈を持っていなくともときに鋭い感覚を示す。多くが「いまの日本は何かが おかしいぞ」という素朴な実感をもっている。グローバルスタンダードを取り入れるといって、企業はリストラをする。学校では「ゆとり教育」を取り入れる。その結果、職のない中高年があふれ、地方の駅前商店街はさびれ、小学校では国語や算数の時間が減らされ、小学生から大(10) 学生に至るまでの学力��下は著しい。庶民はこうしたことに「自分たちの親や祖父が大切にしてきたものが壊されつつある」と感ずるのだろう。我々のよってたってきた価値観とは何だったのか、(1)というルーツ探しに似た感覚が『武士道』を手にとらせているのだろう。 『武士道』の著者・新渡戸稲造は幕末の南部藩(いまの岩手県)で下級武士の子として生まれ、札幌農学校(現・北海道大学)で農業を学んだ後、アメリカに留学しキリスト教クェーカー派 の影響を受けた。アメリカからドイツへ渡り、研鑽を積んだ後、札幌農学校教授、台湾総督府技師、(5)京都帝国大学教授、第一高等学校校長などを歴任、農学者および教育者として活躍するかたわら、東西思想の調和を目指し「太平洋の懸橋たらん」ことを悲願とした。東京女子大の初代学長、国際連盟事務局次長なども務めた日本の誇る国際人である。 『武士道』が書かれた明治三十二年は日清戦争と日露戦争の中間期で、清を破った新興国家日本に世界が注目しながらも警戒心を持ちはじめた時機である。新渡戸はベルギー人法学者夫妻と散歩中(10)、日本には宗教教育がないと話したところ、「宗教なし! それでどうして道徳教育を授けるのですか」と驚かれた。その後いろいろ考えた結果、自身の正邪善悪の観念を形成しているものが幼少期に身につけた武士道であることに気づいたのである。 同時代人である内村鑑三や岡倉天心にも共通するが、新渡戸には日本人の魂を西洋人に理解させたいという熱い思いがあった。そして英語で武士道を紹介することを決意する。西洋人に(15)も理解しやすいよう、ギリシアやローマの哲学、聖書、シェイクスピア、ニーチェなどと我が国の本居宣長、平重盛、頼山陽、吉田松陰らを比較し���がら武士道精神の本質について説いた。 (1)『武士道』初版は一九〇〇年にアメリカで出版され、たいへんな賞讃を受けた。感激したセオドア・ルーズベルト大統領などは、何十冊も買い、他国の首脳に送ったという。その後多くの言語に訳されたが、日本語訳は明治四十一年以来、新渡戸の弟子で東大総長を務めた矢内原忠雄訳(岩波文庫)をはじめとしてさまざま出ている。 (5) 私は勤務する大学の学部一年生に対して、日本の名著を講読するゼミを担当している。こと十年近く、真っ先に学生たちに読ませるのが『武士道』である。受験戦争をくぐり抜けて大学��入学したての学生たちは、『武士道』を読んで一様に驚く。高校までに習ってきたこととあまりに違うことが書いてあるからである。とくに戸惑いを見せるのは、(10)名誉に関する部分である。 武士道では、名誉はしばしば命よりも重いとされる。「それ故に (武士は)生命よりも高価であると考えられる事が起れば、極度の平静と迅速とをもって生命を棄てたのである」(矢内原忠雄訳・以下同)という箇所を読むと、戦後民主主義の教育にどっぷりつかった学生たちは、「名誉より自分を大切にすべきだ」とか「生命は地球より重い」などと拒否反応を示す(むろん(15)新渡戸は「真の武士にとりては、死を急ぎもしくは死に媚びるは等しく卑怯であった」とも述べており、いたずらに死を賞讃しているわけではない)。 (1)学生たちのそうした批判に対して、私は「それではあなた方は一体どうやって価値判断をするのですか」と問う。すると「自分の理性で考えます」「主体的に考えています」などと答える。「すごいなあ、なぜそれほど自分の理性に自信が持てるんですか」と問うと学生は困ってしまう。人間には、理性や論理だけでなく、価値判断の基準となる倫理的な座標軸がなければならない。(5)それがない論理的思考は単なる利益追求とか自己正当化に過ぎない。座標軸の役割を果すのは、外国の場合、主に宗教だから、外国人は宗教のない人間を信用してよいものか訝る。 宗教の力がそれほど強くない我が国でその役割を果してきたのが武士道である。武士道は平安時代末期から鎌倉時代にかけて、「戦うものの掟」として生まれた。それはいわば(10)戦闘におけるフェア・プレイ精神だった。卑怯な振る舞いはしてはならない、臆病であってはならない、という観念である。 騎士道がキリスト教の影響を受けて深みを得たように、単なる戦闘の掟だった武士道にも、さまざまな「霊的素材」が注入されたと新渡戸は言う。 まず仏教、なかでも禅が「運命を任すという平静なる感覚」と「生を賤しみ死を親しむ心」(15)を武士道に与えた。 そして主君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、親に対する孝行という他のいかなる宗教でも教えられなかった美徳が神道からもたらされた。さらに孔子と孟子の教えが、(1)君臣、父子、夫婦、長幼、ならびに朋友の間の五倫の道、また為政者の民に対する仁慈を加えた。 こう書くと外国のものが多いようだが、禅にしても孔孟の教えにしても、中国ではごく一部の階層にしか広まらなかった。これらの思想は日本人が何千年も前から土着的に持っていた(5)「日本的霊性」 とびたりと合致していたから、武士の間にまたたく間に浸透したのである。 江���時代になると実際の戦闘はなくなった。それとともに武士というエリート階級の行動指針であった武士道は、物語や芝居を通して次第に庶民にまで行き渡り、戦いの掟から精神へと昇華し、日本人全体の道徳的基準となった。武士道精神はこうして「遂に島帝国の民族精神を表現するに至った」のだ。 (10)武士道は成文化されていない。聖書やコーランのような経典がない。武士道は「書かれざる掟、心の肉碑に録されたる律法」として親から子へ、口から口へと伝えられた。そして知識よりその実践こそが本質とみなされたのである。 私の父・新田次郎は、幼いころ父の祖父から武士道教育を受けた。父の家はもともと信州諏訪の下級武士だった。生家の二階には三畳の間があり、子供は容易なことでは入らせてもらえなかった。(15)なぜならそこは切腹の間だったのである(実際に使われたことはないらしい)。幼少の父は祖父の命で真冬でも裸足で『論語』の素読をさせられたり、わざと暗い夜に一里の山道を(1)上諏訪の町まで油を買いに行かされたりした。父は小学生の私にも武士道精神の片鱗を授けようとしたのか、「弱い者が苛められていたら、身を挺してでも助けろ」「暴力は必ずしも否定しないが、禁じ手がある。大きい者が小さい者を、大勢で一人を、そして男が女をやっつけること、また武器を手にすることなどは卑怯だ」と繰り返し言った。問答無用に私に押しつけた。 (5)義、勇、仁といった武士道の柱となる価値観はこういう教育を通じて知らず知らずに叩き込まれていったのだろう。義とは孟子が言うように「人の路」である。卑怯を憎む心である。林子平は義を「死すべき場合に死に、討つべき場合に討つこと」と言っている。勇とは孔子が「義を見てせざるは勇なきなり」と言ったように、義を実行することである。そして仁とは、「人の心」。慈悲、愛情、惻隠の情、「強きを挫き弱きを助ける」などがこれに含まれる。 (10)他にも、礼節、誠実、名誉、忠義、孝行、克己など大切な徳目があった。なかでも名誉は重要で、恥の概念と表裏をなし、 家族的自覚とも密接に結ばれていた。前述したように名誉はしばしば生命より上位にくるもので、名誉のために生命が投げ出されることもたびたびあった。 武士道精神の継承に適切な家庭教育は欠かせない。戦前に国や天皇に対する「忠義」が強調 された、という反省から戦後は日本の宝物ともいうべき武士道的価値観がまったく教えられなくなったのは不幸なことである。(15)戦後教育しか受けていない世代が親となり先生となっているから、いまでは子供にこれを教えることも叶わない。 (1)新渡戸の『武士道』は日本人の美意識にも���れている。 武士道の象徴は桜の花だと新渡戸は説く。そして桜と西洋人が好きな薔薇の花を対比して、「(桜は)その美の高雅優麗が我が国民の美的感覚に訴うること、他のいかなる花もおよぶところでない。薔薇に対するヨーロッパ人の讃美を、我々は分つことをえない」と述べ、本居宣長の歌、(5)敷島の大和心を人間はば、朝日に匂ふ山桜花、を引いている。 薔薇は花の色も香りも濃厚で、美しいけれど棘を隠している。なかなか散らず、死を嫌い恐れるかのように、茎にしがみついたまま色褪せて枯れていく。 (10)���れに比べて我が桜の花は、香りは淡く人を飽きさせることなく、自然の召すまま風が吹けば潔く散る。桜の時期にはしばしば雨が降り、ときには数日で散ってしまう。自然の大きな力に逆らわず潔く散る。 「太陽東より昇ってまず絶東の島嶼を照し、桜の芳香朝の空気を匂わす時、いわばこの美しき日の気息そのものを吸い入るるにまさる清澄爽快の感覚はない」、つまりこの清澄爽快の感覚が(15)大和心の本質と新渡戸は説く。 (1)日本人は、このような美意識を持ち、いっぽうで行動原理としての武士道を守ってきた。新渡戸はまた、吉田松陰が刑死前に詠んだ、かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂、(5)を引く。吉田松陰は黒船来航以来の幕府の政策を痛烈に批判し、安政の大獄の際に死罪に処せられた。この歌は、たとえ行き着く先は刑死とわかっていても、正しいと信ずることをせずにはおれないという松陰の告白である。名誉のためには死も恐れないという態度である。 こうした「大和心」といい「大和魂」といい、武士道精神の精華といえよう。これを世界の人に知らしめた新渡戸の功績は訳者の矢内原忠雄の言うように「三軍の将に匹敵するもの」がある。(10)日清戦争後の三国干渉等で世界が日本に警戒心を強めていたときに、軍事力でなく、誇るべき民族精神によって日本を世界に伍する存在としたのである。 明治維新のころ、海外留学した多くの下級武士の子弟たちは、外国人の尊敬を集めて帰ってきた。彼らは、英語も下手で、西洋の歴史や文学もマナーもよく知らなかった。彼らの身につけていたものといえば、日本の古典と漢籍の知識、そして武士道精神だけであった。それでも彼らは尊敬された。(15)武士道精神が品格を与えていたのである。 世界は普遍的価値を生んだ国だけを尊敬する。 イギリスは議会制民主主義を、フランスは人権思想を、(1)ドイツは哲学や古典音楽を作った。自然科学のうえでもこれらの国は多大な貢献をした。現在経済的にも軍事的にもたいしたことのないこれらの国が国際舞台で主要な役割を果せるのは、彼らの創出した普遍的価値に世界が敬意を払っているからである。 私は、日本の武士道精神と美意識は、人類の普遍的価値となりうるものと思う。 (5)二十一世紀は、武士道が発生した平安時代末期の混乱と似ていないでもない。日本の魂を具現した精神的武装が急務だ。 切腹や仇討ち、軍国主義に結びつきかねない忠義などを取り除いたうえで、武士道を日本人は復活するべきである。これなくして日本の真の復活はありえない。国際的に尊敬される人とは、自国の文化、伝統、道徳、情緒などをしっかり身につけた人である。武士道精神はその来歴といい深さといい、身につけるべき恰好のものである。 (10)新渡戸は「武士道の将来」と題した最終章にこう書いている。「武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない、しかしその力は地上より滅びないであろう。(中略)その象徴とする花のごとく、四方の風に散りたる後もなおその香気をもって人生を豊富にし、人類を祝福するであろう」 世界はいま、政治、経済、社会と全面的に荒廃が進んでいる。人も国も金銭崇拝に走り、利害得失しか考えない。 (15)義勇仁や名誉は顧みられず、損得勘定のとなり果てた。 ここ数世紀の間、世界を引っ張ってきたのは欧米である。 ルネッサンス後、理性というものを他のどこの地域より(1)早く手にした欧米は、論理と合理を原動力として産業革命をなしとげ、以後の世界をリードした。論理と合理で突っ走ってきた世界だが、危機的な現状は論理や合理だけで人間はやっていけない、ということを物語っている。それらはとても大切だが、他に何かを加える必要がある。 (5)一人一人の日本人が武士道によりかつて世界の人々を印象づけた高い品格を備え、立派な社会を作れば、それは欧米など、荒廃の真因もわからず途方に暮れている諸国の大いに学ぶところとなる。これは小手先の国際貢献と異なる、普遍的価値の創造という真の国際貢献となるであろう。この意味で、戦後忘れられかけた武士道が今日蘇るとすれば、それは世界史的な意義をもつと思われる。
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普段から由来やどうでもいい知識を調べるのが好きなのだが、帝王切開の語源(由来)については何度も調べて分かった気になって2日後には忘れて再度調べる、というのをすでに8億回くらい繰り返している。それほどこの帝王切開という言葉の語源について複雑、かついろんな説が出回っており、その説すべてで「この説が正しい。他は間違い」というスタンスなのでわかりにくい事この上ないのである。なので自分なりにわかりやすくまとめたものをここに置いておく。ソースはウィキペディアやどこかの医学系のサイトなど複数から取ってきて多数決を取った。同じ疑問を持つ人の目に止まれば幸いである。これが本当に正しいかどうかは知らない。Q 帝王切開(妊婦のお腹を切開して赤ちゃんを取り出す術式)ってなんで帝王っていうの?A ざっくりこんな流れっぽい①フランス語「opération césarienne」(切開する術式、的な意味でこう呼ぼう)↓②ラテン語「sectio caesarea」(切除して取り出す、的な意味。ここのcaesareaには帝王というニュアンスが無いことに注意。古代ローマのcaedere(切り取る)に由来。)↓③並行してcaesareaには「分家」という意味があり、これがカエサルさんが有名になったことで後世では「皇帝・帝王」という意味を持つことになる。同時に切り離す的なニュアンスが薄れていく※↓④ドイツ語「Kaiserschnitt」(Caesareaってなんや?皇帝?まあ適当に直訳すればええやろ。schnitt(切開)も付けとくか)↓⑤日本語「帝王切開」(Kaiserってついてるから帝王って意味やろな。直訳して帝王切開でええやろ)Q つまり誰が悪いの?A しいて言えば「意味を深く考えず直訳した適当な単語を作ったドイツと、それを勝手に単語をバラバラにして安易に直訳した日本」である。 でも"Kaiserschnitt"を訳せと言われたら"帝王切開"以外に訳しようがないのも事実。 一番の元凶はcaesareaが皇帝という意味を持ってしまったことである。これがすべてをややこしくしている。つまり誰も悪くない。Q ドイツ人がcaesareaをKaiser(皇帝)に間違えたんじゃないの?A 間違えたというよりcaesareaを訳せと言われたらKaiserとしか訳せなかったのであろう。Q ドイツ語kaiserには「切り分ける」という意味もあるので日本が間違えたのでは?A これはデマ。現代ドイツ語にそんな意味はない。Q 結局どういうこと?A そもそも誰も「誤訳」や「間違い」なんてしていないのだ。歴史と言語に翻弄されただけである。彼らは忠実に訳していっただけ。Q カエサルさんが帝王切開で生まれたんだよね?A これはめちゃくちゃデマ。Q 帝王切開にはハサミを使うからシザー→シーザー、なのでは?A これもめちゃくちゃデマ。※結局②と③の因果関係が未だにはっきりしていない。卵が先か鶏が先か、みたいな話である。23/04/21:コメントをもとに追記、修正
帝王切開の語源のややこしさの話
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かつては宮殿に皇帝の戦勝などを描いたモザイク画が描かれていたが、宮殿は帝国滅亡後に破壊されてしまったために、現在ではコンスタンティノポリスの大宮殿の床を飾っていたモザイク画の一部が残っているに過ぎない(イスタンブールのモザイク博物館で見ることが出来る)。 これらは宗教画と違って、古代ギリシア以来の写実的な技法で描かれている。世俗の絵画はほとんどが失われてしまったために、宗教画の特徴のみがビザンティン美術の特徴として伝わってしまっているが、近年これは誤った認識ではないかと言われてきている。
ビザンティン美術 - Wikipedia
ビザンティン美術(ビザンティンびじゅつ)は、5世紀から15世紀の東ローマ帝国で発達した美術の体系。古代のギリシア美術、ヘレニズム美術、ローマ美術を継承しつつ、東方的、キリスト教的要素を含んだ独特な体系を産んだ。日本ではビザンツ美術と呼ぶことも多い
https://ryotarox.tumblr.com/post/668664405720006656/ビザンティン美術
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✿ グーゲルフップフ | Gugelhupf ・オーストリアやドイツ、フランスのアルザス地方で親しまれているリング状のケーキ。フランスのアルザス地方では「クグロフ」と呼ばれています。 ・その歴史には諸説ありますが、ニーダーエスターライヒ州のカルヌントゥム遺跡でグーゲルフップフの型に似た陶器が出土していることから、古代ローマ時代には作られていたのではないかと言われています。後にオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が好んで食べていたことで、上流階級を中心に高級菓子として広まるようになりました。かのマリー・アントワネットがフランス国王ルイ16世へ嫁ぐ際に、���ーゲルフップフをフランスに持ち込んだという逸話が残されていますが、専門家の中にはフランス発祥説を唱える人もいるそうです。
#gugelhupf#グーゲルフップフ#クグロフ#グーゲルフプフ#sweets:オーストリア#オーストリア#fusion#fusion:オーストリア×フランス#fusion:フランス+#fusion:オーストリア+#2020〜#オーストリア:2020〜#マリー・アントワネット#フランス:アルザス#sweets:オーストリア:2020〜
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024)5月29日(水曜日)
通巻第8270号
ユダヤ人の起源がハザール人の改宗という誤謬は否定された
古代日本:「渡来人」が文字を書き、技術をもちこんだという説は?
*************************
モンゴル系遊牧民が中央ヨーロッパに進出し、彼らがユダヤ教に改宗したのが、今日のユダヤ人の多数派であるとする不思議な説は半世紀ほど前に突如流布し、いまでも信じている人がいる。
嚆矢は『アメリカの鉄のカーテン』を書いたジョン・ビュティとされ、ユダヤ人がメディアを握り、かれらの不都合な真実が伝わらないように鉄のカーテンを降ろしたのだという社会分析のついでにハザール説を唱えた。
ベストセラーとなったのはアーサー・ケストラーの『13部族』、そしてシュモロ・サンド『ユダヤ人の発明』、ミカエル・グラントの『ローマ帝国におけるユダヤ人』と続く。グランドの説ではローマ帝国の最盛期に800万人のユダヤ人がいたと人口比からの影響力を説いた。
最新の医学の発達はDNA鑑定である。結果、ユダヤ人とハザール人とは遺伝子の繋がりがないと証明され、ジョン・エンティンは『アブラハムの子孫たちーー人種、アイデンティティ、選民のDNA』を出版して世の中に訴え、同様にハリー・オストレーが『ユダヤ人の遺伝史』という医学専門書で学問的な証明を行った。
さて、なぜこのことを書いたか。日本の古代史で、歴史学者が「朝鮮半島を経由して渡来人が文字や窯業、建設技術、土木の新技法などを日本に伝えた」と、『渡来人』への高い評価である。これはおかしくないか。
ハザール人説とまったく逆で、古代の「渡来人」とは「倭人」のこと、かれらは「帰国」したのであり、この点では『魏志倭人伝』も、ちゃんと書いている。倭人は半島南部にも大勢いる、と。
そこで、「朝日新聞」(令和五年九月二八日)の報道を次に掲げる。
「弥生人像、核ゲノム分析が変えるーー古人骨の核の遺伝子分析を最新機器が可能にした。(中略)意外なことがわかってきた。渡来人の故郷である当時の朝鮮半島にも、縄文人に似た遺伝的要素をもつ人々がいたらしいのだ。つまり、二重構造モデルではまったく異質なはずの列島往来系と渡来人がじつは縄文時代以前から海を挟みつつ同じ遺伝子を共有していた」。
任那は日本の飛び地だった。朝鮮半島南部には前方後円墳がいくつもある。神功皇后の三韓征伐以前から日本海沿岸部と交流が深く、交易は活発であった。倭人同士だった。
したがって応神天皇があちらの人だったトカ、素戔嗚尊がそうだったとかの説は成り立たないのである。
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2023年3月19日(日)
各地から桜の開花情報が届いている。それならと、拙宅から徒歩10分の<梅小路公園>へとやって来た。とくにイベントが行われているわけではないが、好天のもと芝生広場には大勢の人がシートを拡げている。ソメイヨシノはまだ開いたばかりだが、広場東端の枝垂れ桜は満開に近い。暑さ寒さも彼岸まで、どうかこのまま暖かくなってほしいものだ。
6時起床。
今朝の朝食は、届いたばかりの奥川ファームのパンを頂く。
日誌書く。
洗濯1回。
高校野球が始まる前に、録画番組視聴。新・にっぽんの芸能から、
文楽「道行初音旅」〜音楽としての魅力を堪能する〜
初回放送日: 2023年3月17日
文楽屈指の名曲、その魅力を掘り下げる▽ゲストはいとうせいこう(作家・クリエーター)と桜井秀俊(真心ブラザーズ)▽錣太夫・宗助が実演家の立場から音楽的な魅力を語る
いやぁ、ゲストのやり取りが大変面白い。
選抜高校野球2日目、テレビで流��っぱなし。
ランチ、息子たちには炒飯、ツレアイには野菜タップリ辛ラーメン。
録画番組視聴。今度は大分以前撮ったまま見ていなかった映画から
テルマエ・ロマエ
劇場公開日:2012年4月28日
「マンガ大賞2010」「第14回手塚治虫文化賞短編賞」を受賞したヤマザキマリの同名コミックを阿部寛主演で実写映画化。古代ローマ帝国の浴場設計師ルシウスが現代日本にタイムスリップし、日本の風呂文化を学んでいく姿を描くコメディドラマ。生真面目な性格で古き良きローマの風呂文化を重んじる浴場設計師のルシウスは、ふとしたきっかけで現代日本にタイムスリップ。そこで出会った漫画家志望の真実ら「平たい顔族(=日本人)」の洗練された風呂文化に衝撃を受ける。古代ローマに戻りそのアイデアを用いた斬新な浴場作りで話題となったルシウスは、時の皇帝ハドリアヌスからも絶大な信頼を寄せられるようになるのだが……。映画オリジナルのヒロイン・真実を上戸彩が演じる。監督は「のだめカンタービレ」の武内英樹。興行収入59.8億円で2012年第2位の大ヒットを���録。阿部寛が第36回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞を受賞した。
いやぁ、大笑い。
梅小路公園までウォーキング、37分/3.4km。
早めの夕飯、豚肉とキャベツのクタクタ煮/フライドポテト/半熟酢卵。
明日の夕飯用に、無水地鶏カレーを仕込む。
入浴、体重は500g減、よし。
ちち歩数は届かなかった、水分は1,940ml。
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P3 Club Book pages 15-16 scan and transcription.
○パラディオン
ア わたしの初期ペルソナ、パラディオンを紹介させていただくであります。パラディオンは、機械のわたしに相応しい、無機物の神であります。トロイの木馬の伝説で有名なトロイア戦争において、トロイア軍がアテナ神殿で人々に崇められていたアテナ神像、それがパラディオンであります。伝説によっては神の形を模した炎あるいは炎の精霊を指して呼ぶこともあるようでありますが、わたしのペルソナのデザインを見る限り、アテナ神像を表わすと認識するのが妥当であります。なおトロイ戦争では、木馬の策略で城門を解放した挙句、神殿のパラディオンを奪われたことが、トロイを敗北させた決定要因であと伝えられているでありますね。まったく物騒な話であります。
Paradion
○アテナ
ア 神話のパラディオンと同じ、たんなる無機物であったわたしが、人間らしさを少しだけ手に入れたことで、ペルソナ・パラディオンはアテナへと変化するであります。 このアテナは有各なので、あまり説明する必要もないでありましょうか。 ギリシャ神話では戦いと知性の女神として崇められ、また芸術や造船、建築の神としても有名であります。 ただ、その年誕のエピン一ドに関しては、意外と知られてないかもしれないでありますね。 何というか、なかなか豪快なエピン一ドであります。 ゼウスがメティスという女神を懐妊させたのでありますが、その子がゼウスの権力を奪うと予言されてしまうのです。 それを恐れたゼウスはメティスを飲みこんでしまうのでありますね。 これだけでも非常識でありますが、さらにそのあと頭痛が治まらないゼウスは、別の神に斧で自分の頭を叩き割らせます。 いくら痛くても、本末転倒と言わざるを得ません。 そして、その頭の中から、既に成長して鎧で身を固めたアテナが生まれたと言われています。 ......いくら昔の話とはいえ、プロットが破綻しすぎではいかと思われます。
Athena
○ポリデュークス
真田明彦 (以下「真」) 俺の分身ポリデュークスも、ギリシャ神話の神だ。とはいえ、あまり馴染みのない名前かもしれないな? ただ、もし星座に詳しいやつだったら、ふたご座の弟ポルックス、と言えばわかるんじゃないか? ポルックスとはラテン語読みで、ポリデュークスはギリシャ語読みというだけの違いだ。大神ゼウスとスパルタ王の妃レダとの間に生まれ神の不死の属性を受け継ぎ、剣の腕と挙闘つまりポリデュークスは、神話の中ではアルゴー探検隊の一員としての活躍が有名だろう。アルゴー探検隊がべブリクスを訪れた際には、ボクシング勝負を挑んでは族人を殴り投していた王を、見事に返り討ちにしたとの話も残っている。不死のポリデュークスは、兄が戦いで命を落とした際���、神の血を引き死ねないニとを嘆き、 ゼウスに頼んで兄ともども星座に変えてもらったらしい。なかなか、身につまされる話じゃないか。
Poriducs
○カイシス
真 カエサルとは、紀元前1世紀のローマの軍人で、優れた政治家でもあったガイウス・ユリウス・カエサルのことだ。わかりにくい奴は、英語で名前を発音してみるといい。ジュリアス・シーザーという名なら、聞いたことがあるんじゃないか? このカエサルという名は、のちに「君主」を悪味する言葉ともなり、皇帝のアルカナに相応しいペルソナだと言えるだろう。覚醒前のポリデュークスとはとくに関連はなく、デザインのモチーフは巨大ロボットらしいな。デザイン担当の副島氏によると、画面上では実現できなかったが、実はかなり巨大なペルソナらしい。胸元にいる人影が、ちょうど俺と同じぐらいだと考えてもらえばいいだろう。俺としても、どうせなら巨大なカエサルに乗って、シャドウをボコボコにぶちのめしてやりたかったところなんだがな。
Cesarean
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オコゼシネマのお知らせ
旅する映画館 café de cinémaが不動前のバーOKOZEで開催する「オコゼシネマ」
上��作品はアヌシー国際アニメーション映画祭で初演され観客賞を受賞、東京アニメアワードフェスティバル2016でグランプリを受賞し、ジブリの高畑勲監督をはじめ日本での上映を熱望された『ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん』
https://youtu.be/t6TjF7Q6zKo
少女は北極点を目指すーー
お祖父様の名誉のために。
<作品紹介>
舞台は19世紀ロシア、サンクトペテルブルグ。14才の貴族の子女サーシャには悩みがあった。1年前に北極航路の探検に出たきり帰ってこない大好きな祖父。探索船は出たものの未だ行方が分からない。祖父と家族の名誉は失われ、祖父の名を冠する予定だった科学アカデミーの図書館も開館が危ぶまれている。ロシア高官の父は、そんな状況にあって、なんとかローマ大使の道を模索するが、そのためには社交界デビューの娘が皇帝の甥っ子に気に入られるしかないと考えている。社交界デビューの日、サーシャは祖父の部屋から航路のメモを見つけ、それが捜索船がたどったものとは異なる事に気付く。再び捜索船を出して欲しいとサーシャは舞踏会の場で王子に懇願するが受け入れられない。王子の不興を買い、父からの叱責を受けた娘は、自ら祖父の居場所を突き止めようと決意する。―サーシャが目指すものは、祖父との再会、それが叶わなくとも遭難した艦船ダバイ号の発見、そして何よりも真実を突き止める為の旅だったゲ号に乗せて貰おうと船長の弟に話しを持ち掛けるが、手違いもあり港に取り残される。食堂の女主人オルガの手助けにて、住み込みで調理や船乗りの経験も無く、しかも女性であるサシャには、想像を絶する困難が待ち受けていた。そして―
・参加費用:¥1980(CINEMA CHARGE & 1ドリンク付)
▶︎ タイムスケジュール
開催日:2023年3月18日(土)
〜リアル〜
19:30 開場
20:00 上映開始 〜81分程度〜
21:40 アフタートーク開始
22:00 終了
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