#お石塔
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芭蕉庵はお抹茶飲めないのかな🍵?
月見亭でお月見したいよね🎑🌝🍆
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精霊流しの日の西浦を散策(2)
町内は昔ながらの狭い道
集められた?小さな石塔
この先、離合困難 … 抜けるのも困難
↓上の写真(町の中心部方向)の反対方向へ踵を返した先
ドック・オブ・ザ・ベイ
供養塔(?)
準備中 … こちらでも法要が行われます。
北の堤防
糸島市方向
玄界灘
2024.8.16 ~ つづく
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'24.4 東大寺のとある院にて
東大寺の敷地内には、多くの院(住職さんの自宅)があります。それぞれに「〇△院」といった名前があって、おそらく昔から代々住み継がれてきているのだと思います。
そんな院の中は綺麗な庭園があることも多いのですが、基本的に個人のお家なので門から中へ入ることはできません。でもこの日は院の奥方様のご厚意で庭へ入らせてもらい、写真を撮らせてもらうことができました。
いつもは���塀越しや門の外から見える範囲だけしか見られなかった庭の景色、中は綺麗に手入れされていて非常に興味深かったです。
・・お庭の花木やお地蔵さん、石塔も並ぶ日本庭園。もちろんよき雰囲気で写真も撮らせてもらうのですが、ついいつものクセで古い建物のパーツに眼が行ってしまいます・・。
#奈良#nara#奈良公園#nara park#日本#japan#東大寺#todaiji temple#桜#cherry blossoms#春#spring#院#home of the temple's abbot#日本庭園#japanese-style garden#photographers on tumblr#natgeoyourshot
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夏旅2024 延長戦 - 身延山久遠寺
青春18きっぷがまだ���っている。ということで夏旅の延長戦、日蓮宗総本山 身延山久遠寺へ参拝してみた。
菩提梯から五重塔、本堂へ
三門を抜け緑美しい石畳の参道を進むと目の前に見えてくる絶壁の階段、菩提梯。高低差104m、段数287段、角度はおよそ45度と大変険しい道のりを途中 小休止しながら進みます。
登り切れば涅槃(煩悩が絶たれた安らぎの気分)に達し、心穏やかに先の伽藍へ足を進められる、はずなのですが。。。登り切ったところで立ち眩みがしてしまい、近くのベンチで10分強ダウン。(自分より年長者や小さな子供が通り過ぎていく横で)思った以上に体力が落ちている情けない事実に悲しくなりました(涙)持ち直したところで五重塔、本堂を見学。
身延山山頂・奥之院へ
ロープウェイで身延山をさらに登り奥之院へ。山頂に降り立つと心地よい風がお出迎え。涼しい、と思わず声が出てしまうほどの気温差がありました、快適!そのまま奥之院 思親閣へと歩みを進める。静寂と澄み切った空気に包まれた厳かなお堂、素敵でした。
近くの展望台からは身延の街並みを見下ろすことも。この時点では良いお天気でしたがちょっと入道雲のボリュームが心配。。。足早に山を下りて帰路へ。
蛇足
今回は、都内から東海道線 熱海・富士を経由し富士から身延線にて身延へ。帰りは身延線でそのまま甲府に進む中央線経由で帰る予定でしたが、怪しい雲行きの予感が的中し、身延線 甲府方面はゲリラ豪雨により運転見合わせに。1時間ほど待ったところ富士方面の電車がやってきたため、予定を変更し来た道を折り返すことになりました。久しぶりに雨男の宿命を感じました。
というわけで東海道線経由で帰ったわけですが。。。旅で心は満たされたけれど、お腹がちょっとひもじいな(さっそく煩悩にまみれだした)、ということで熱海駅で途中下車。駅の商業施設にてさくっとお寿司でお腹も満たして、のんびり帰りました。
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2024.10.01
何度か来たことのある部屋で目を覚まし、そのまま仕事へ向かう家主と別れ、適当なバスに乗った。終点で降車して地図を開き、現在地点の少し先に“植物園”の字を見つけて、そこまで歩くことにする。
赤塚植物園は散歩に向いた園で、行ったことのある中では目黒の自然教育園の雰囲気に近かった。石に支えられたベンチやテーブルが好きだった。
彼岸花や睡蓮も咲いていたのだけれど、見返すと看板ばかり撮っている。先日、「かわいい看板を見かけると__さんを思い出します」と言って、自分では生涯辿り着かないかも知れない街の看板を、Uさんが写真に撮って送ってくれた。それが嬉しかった。好きなものを好きだと口にしていると、私の優しい友人たちは、折にふれてそれらを見せてくれる。街灯やソフトクリームライト、看板や室外機の群れ。
植物園を出ると、ちょうど雨が降り始める。傘を差していても、風にあおられた雨粒が少しずつ服を重たくする。このあと誰かに会う予定があるわけでもないから、構わずに散歩を続けた。
途中、公園を見つける。“ゆうぐのなまえ”と太文字で書かれた看板に、“ふくごうゆうぐ:あそぼ〜”や“ノリノリ:ポニー”などと図示されている。その看板には子馬とパンダと虎とがいたのだけれど、実際にはラッコとイルカの遊具もあった。君たちは新入りなのかな、と思う。
高島平団地に着くころ、今日が祖母の誕生日であることを思い出して連絡する。祖父の喉に穴が空いてから、彼女は時折死への欲求を滲ませるようになった。もう年は取りたくないと溜息を吐いていた。いつもならば真っ先に「__は元気かい?」と訊くのに、今回はそれがなかったので、おや、と思う。公園で誰かの落とした青いトラックを見ながら数分話し、電話を終えた。
高島平駅からさらに北へ歩くと、見知った煙突に似たものが見えてくる。そういえば、数日前に投稿した池袋の塔が「高島平にもある」と引用されていた。その頃には雨が上がっていて、青い空に煙突が映えていた。
板橋区立熱帯環境植物館に着く。チケット販売機の前に立っている時点で既に子供のはしゃいだ声が聞こえる。どこかの小学校が遠足中のようだった。Eに「黄色い帽子を被った子供と私としかいない」と報告すると「植物のふりしな」とアドバイスをもらう。
温室の外側には、劇場の貴賓席のような、大きな窓とソファのある空間があり、そこから中を見られるようになっていた。居心地よく、また黄色い子供たちのいなくなってからは人も少なかったので、そこにしばらく座っていた。
これまでは翌日の仕事のために眠れるまで薬を飲んでいたけれど、休職している今は、たとえ寝付けなくても規定通りの量に戻すことを優先している。それで、ここ数日はあまり眠れていない。その場所にいるあいだ、自分が休まっているのを感じられて快かった。
自室に戻ろうと植物館を出て、ガスタンクの3つ並んでいるのを見つける。それが���のために必要で、どう動いているのかを知らないからか、自分にはまったく理解の及ばない宇宙船か何かのように見える。光の反射が綺麗だった。
ガスタンクのそばで母親と電話をする。もともと連休の間だけ地元へ行く予定だったのだけれど、普段滅多に帰省しないことや、今回の休職で随分心配をかけたことを機に、滞在期間を延ばしたのだった。祖母との通話について話すと、「余計なこと言われなかった?」と心配そうに言われる。どうやら、祖母から「__は子供作んねのか」と何度も訊かれており、私の体調がずっと悪いことや、自分を生かすのに精一杯で子供を作る気はないことを説明してくれたらしい。母の理解の深さが嬉しかった。帰省中に何をしようかなと言うと「あんたは私にレザークラフトを教えなんないよ」と返される。私がもう使う予定のない道具を実家に送ると、母は「勿体ないから」と言って、それを使って新しくものを作り始める。彼女が手芸を教えてくれたおかげで、私は一人遊びの上手な子供だった。今でも手慰みでレースを編む。
浮間舟渡駅へ移動すると、駅のすぐそばに広い公園があったので、その池の周りを歩いた。陽光に晒されたくなって日傘を閉じた数分後、右目から涙が止まらなくなる。感情由来の涙は両目から、それ以外の涙は右目から出る。普段あんな眩しさの中にいることがないから、光をうまく調節できずに疲れたのだろうか。ぼろぼろと出てくる涙に困ってしまう。
17時ごろ部屋に戻る。今日から10月が始まっていた。
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【帰路】
遺跡のある日常 本薬師寺跡と畝傍山 2024年4月7日撮影
本薬師寺は天武天皇が発願した寺で 都が平城京に移ると名前が変わり、 お寺は11世紀頃まで残ったそうです。 今は金堂・東塔・西塔の基壇跡・礎石を見る事が出来ます。 境内の建物、鍼灸院になってた??
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世間はゴールデンウイークですが、先週の土曜に続いて明日の憲法記念日も金沢でお仕事です。
(先週の土曜は死ぬほど大変だった)
平日に休みが欲しいのでずらし休日です。
土曜からこのまま休みにはいるので、このまま金沢で久しぶりに美術館巡りを再開したい。
(京都は今は面白い美術展がない)
本日のお昼は金沢駅前のANAクラウンプラザホテル金沢で友達と昼食です。
久しぶりに牛肉のステーキを食べました。
カツオのお刺身も久しぶり。
写真は本日食したもののごくごく一部です。
食べるのに一生懸命で写真を撮るのを忘れておりました。
先週は能登・七尾のとれたてホタルイカをたくさん食べました。
(やっぱ能登の魚は新鮮で美味しい)
金沢駅西口のアパホテル隣にある平岡野神社には神仏習合の名残で��る足利尊氏寄贈の「愛染明王���絵塔婆」で有名ですが、重要文化財なので現在は石川県立美術館で保管されているそうです。
長町武家屋敷の野村家の庭を鑑賞しようと思って行ったけど平日なのに、あまりにも観光客が多くて諦めました。
(近所なのに行ったことがない)
来月あたりリベンジ予定。
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春はけだもの
小型犬に吠えられた。万感の春である。中学生くらいの茶髪の女の子が、連れ合いのやはり茶髪の女の子に「〇〇(我が町)最近めっちゃフカしてるやついるらしい��と話しながら、駅前の目抜き通りをがに股で歩いていた。「フカしてる」が何を意味するのかはわからないが、俺のことだったらどうしよう。電車で眠りこけているおばちゃんの足元に小銭が散らばっていた。罠だと思った。後から乗ってきた赤いブルゾンのおばちゃんが親切に起こして教えてあげると、小銭のおばちゃんは赤面してお礼を言っていた。毎朝電車で少しずつ読んでいた、ちくまの漱石全集第1巻『吾輩は猫である』を読み終えた。20代のうちに漱石全部読もうと息巻いて、29歳の誕生日に自分で自分に買った。中絶に中絶を繰り返すうち結局1年経って30代に突入し、全10巻のうちの1巻をようやく読み終えた次第。4月も半ばである。目標は既に下方修正されて、30代のうちに全部読めたらよし。ブックカバー外したら背の上部が擦れてしまっていた。次巻は倫敦塔。
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n=1だし、革命前に国をでたイラン人から聞いた話だから偏ってるかもしれないが、イランの国民性がちょっと特殊。 イラン人は強烈なプライドがある。 自分たちがずっと世界史の中心にいたと思ってる。 西洋の文化はギリシャ由来で、それもペルシャの真似だと思ってる。 イランというのは、アーリア人の国って意味で、ペルシャはイランの一地方の名前。 イラン人の歴史観は、いつの時代もまずイラン人が文化的な国を作り、栄華を極めたあとに必ず内紛でグダグダになり、その度に馬やラクダにのった蛮族(トルコ人やアラブ人)に滅ぼされるけど、イラン人は優秀だから官僚として取り立てられ、力を蓄え新しいイラン人の帝国を再興させる。それの繰り返しという歴史感。 彼らの中では、アラビア人の国もトルコ人の国もモンゴル人の国も、結局はイラン人官僚が支えてたし、それらの国が栄えたのもその前にイラン人が作った国とその文化があったからという理屈。(追記。なお、ヨーロッパ諸国は産業革命までは辺境。十字軍はエジプトらへんのアラブの蛮族とヨーロッパの未開人の小競り合い) 「NASAにはイラン人が沢山居る。Yahooのナンバー○イラン人、Googleの〜」という感じの自慢話が長い。そういう連中は革命前にイランを出た人やその2世とかだけど、国民性として、知性へのこだわりが強いみたいで、教育には力を入れてる。実際、科学論文数ランキングがかなり高い。注目される論文数で日本がイランに抜かれたとか何年か前にニュースになった。 それはさておき、そういうわけでイラン人は自分たちが特別だと思ってる。イスラムで括られるのも、中東で括られるのもすごく嫌がる。特にアラブといおうものなら、必ず訂正が入る。 「イスラム教は受け入れたけど、アラブ人になったつもりはないから。アラビア語なんかわからんから」 でもコーランってアラビア語じゃないの?って聞くと 「あれはすごく昔のアラビア語。お経みたいなもん。なにいってるのかわからん。日本人だって卒塔婆のサンスクリット語読めないだろ?ちなみにサンスクリット語もアーリア系だからな」 とのこと。 で、シーア派ってのは、教科書だとアリーの子孫がなんちゃらって習うけど、結局そのアリーの子孫はペルシャの王族の血が入ったから実質イラン人の宗教、みたいな話だとか。イスラムは受け入れたけどアラブ人に上に立たれるのはとにかく嫌らしい。 そんなメンタリティな上に、革命前まで親アメリカだったもんだから、そりゃ中東からは偉そうな調子乗ってる国として総スカン。実際、石油と天然ガスが湧いて調子乗ってたし。シーア派とスンナ派というより、オレ様なイランの自慢がムカつくから、宗教のせいにしてるんだよ。経済制裁でこんだけ絞り上げられててもまだ偉そうだし。
n=1だし、革命前に国をでたイラン人から聞いた話だから偏ってるかもしれな..
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2024年11月25日(月)
月曜日は原則として1人で出勤、東寺五重塔前を通るルートだ。今朝は信号待ちのタイミングが良く、隣のレーンが空いている間に写真を撮ることが出来た。境内の紅葉の進み具合を見ると、夜間ライトアップもきれいだろうなぁ。職場の欅もしっかり色づいて、これをみれば冷え込みが厳しくなっても文句は言えない。さて、後期授業も10週目、もう少し頑張るぞ。
5時20分起床。
ツレアイが起きるのを待って洗濯開始。
彼女は息子たちの朝食と次男のおにぎりを用意、その後私が夫婦の朝食を整える。奥川ファームの手打蕎麦、賞味期限間近の昆布をたっぷりトッピング。
洗濯物を干す。
珈琲を入れる。
彼女と三男の弁当を用意する。
1人で出勤する。
いつものMK石油で給油、以前にも一度あったことだが、なぜか<社員価格>でいれてくれた。@155*34=¥5,270、ともかく安いのは有り難い。
順調に到着する。
換気、ラジオ体操第一、お茶。
ユニクロの誕生日クーポンは今月まで、新発売のバッグとジーンズを購入する。
木曜日の<共生社会と人権>の資料作成。
午後の<情報機器の操作Ⅱ>の内容確認、例題を解く。
昼にはラジオ体操第二。
3限・4限<情報機器の操作Ⅱ(看護学科)>、先週のExcel試験の解説、グラフの構成要素の説明と例題、その後Excel試験を再度解かせて提出させる。何しろ<if関数>をほとんどのものが使えていないのだが、人の話を聞いていない、教科書をちゃんと読んでいない、つまり・・・基礎学力の低下を痛感する。
帰路R171の混雑が激しく、結構時間がかかってしまった。
帰宅すると<SOU・SOU>から郵便、先日のメルマガプレゼントに当選とのこと、ちょっと嬉しい。
ツレアイは午後に訪問Ⅰ件だけ、私より早い帰宅、夕飯前にココに点滴。
夕飯は彼女が用意してくれた<無水地鶏カレー>、簡単サラダとリンゴを添え、スパークリングワインを抜く。
録画番組視聴、サラメシ
(26)10歳の息子弁当▽秋のソラメシ▽さし飯〜東京・浜松町
初回放送日:2024年11月21日 自動車整備工場で働く父のお弁当を作るのは、小学5年生の10歳の息子。料理を始めて6年になるという小学生のお弁当作りに密着しました!▽深まる秋、都会の青空の下でランチを食べるみなさん。「ソラメシ」を楽しむ人たちにその魅力を大調査。以前サラメシで出会った人も再び登場!?▽妻への感謝を伝える夫のサプライズ弁当は、スマホを再現?▽街行く人に突撃!ランチから本音を探る「さし飯」。舞台は東京・浜松町!
昨日読み込んだCDから、小三治「品川心中」を聴く。
サゲを待って、布団の中に吸い込まれる。
月曜日にしては珍しく、3つのリング完成とは嬉しい。
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蕨平の地蔵様(一)
長野県北安曇郡北城村の蕨平に尼僧が守るお堂があった。 そのお堂のすぐ側に地蔵様があった。 土地の人々は延命地蔵とか万能地蔵などと呼び、ご利益の多い地蔵様だと篤く敬っている。 ある晩、尼僧がふと庭に出て、見てみると、地蔵様の首がない。 畏れた彼女がお堂に飛び込み、一心不乱に読経をしていると、しばらくして急に外が騒がしくなった。 彼女は読経をやめて耳を澄ますと、誰かの独り言が聞こえる。 「ああよかった。やっと産まれた。なかなかの難産で俺も汗をかいてしまった」 尼僧が恐る恐る外へ出てあたりを見回すと、先ほどは確かになかった地蔵の首がちゃんと胴体に乗っかっていたという。
後に知ったのだが、ちょうどそのとき、村には難産の果てにやっと産まれた子がいたそうだ。
(信濃教育会北安曇部会・編『北安曇郡郷土誌稿(七)』四 石・地藏・石塔等の話 「52 蕨平の堂の地蔵」)
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【かいわいの時】元禄六年(1693)八月十日:井原西鶴没 (大阪市史編纂所「今日は何の日」)
西鶴は元禄6年(1693)に亡くなったが、その墓は長い間不明であった。明治20年を前後するころ誓願寺境内で発見され再興されたという。発見者についてはいくつか説があり、幸田露伴であるとも、朝日新聞記者の木崎好尚であるともいう。
(1693年)下山鶴平・北條団水、西鶴の墓を建立 墓石は位牌型の砂岩製のもので、「仙皓西鶴 元禄六癸酉年 八月十日 下山鶴平 北條団水 建」と刻まれている。この墓碑を建立した下山鶴平については、西鶴の版元ではないかといわれている。北條団水は京都生まれの文人で、橘堂、滑稽堂と号した。西鶴を慕って来阪し、西鶴の死後7年の間、鑓屋町の庵を守ったことで知られている(大阪市指定文化財)。
(1801年)太田南畝(蜀山人)、書肆山口屋の案内で西鶴の墓に参る 寺町をすぎ 誓願寺に入る、甃庵中井先生の墓あり《略》 此寺に西鶴か墓ありと書肆山口屋かいへるによりて墓はらふ下部にとふに志らず、つらつら墟墓の間を見るに一ツの石あり、仙皓西鶴とゑれり。右のかたに元禄六癸酉年八月十日としるし左の方に下山鶴平北条団水建と有り。也有翁の鶉衣にも、作文に名を得し難波の西鶴は、五十二にして世を去給ひ「秋風を見過ごしにけり末二年」といふ句を残せりとかけり。げに八月に終りぬるには折からの句成へし(太田南畝)。『葦の若葉』四月廿一日条より。句読点後付け。ママ。
(1802年)滝沢馬琴、太田南畝に紹介された田宮盧橘の案内で西鶴の墓に参る 西鶴が墓は、大坂八町目寺町誓願寺本堂西のうら手南向にあり。〈三側目中程〉七月晦日蘆橘と同道にて古墓をたづぬ。はからず西鶴が墓に謁す。寺僧もこれをしらざりし様子なり。花筒に花あり。寺の男に何ものが手向たると問ふに、無縁の墓へは寺より折/\花をたつるといふ。
棹石高サ二尺余ヨコ一尺 台石高七八寸 大字 総高サ二尺八九寸
元禄六 癸酉年八月十日 仙皓西鶴 右ノワキ 下山鶴平 北条団水 建
團水は西鶴が信友なり。西鶴没して後、團水京より來り、七年その舊廬を守れり。そのこと西鶴名殘の友といふ草紙の序に見へたり。追考 難波鶴に云。西鶴は井原氏、庵は鑓屋町にあり(滝沢馬琴)。『羇旅漫録』より。句読点後付け。(写真参照)
(1889年1月)幸田露伴、誓願寺無縁墓にある西鶴の墓を探し当て、卒塔婆を立てる 露伴は住職に供物を出して、 お墓をちゃんとしてほしいと言い、香を焚き、水を手向け、卒塔婆を立てて去るわけです。それが、明治22(1889)年の1月のこと。その卒塔婆には、「元禄の奇才子を弔ふて 九天の霞を洩れてつるの聲」と書いた(肥田晧三)。「上町台地から本をめぐる時空の旅へ」『上町台地フォーラムvol.9』2018より。
(1889年8月)尾崎紅葉、西鶴の墓を訪れ、卒塔婆を残す 紅葉も、同じ明治22年の8月に西鶴の墓を訪れ、「為松寿軒井原西鶴先生追善」と書いた卒塔婆を残した(肥田晧三)。
それではなぜ、この二人は西鶴を知ることになったのか。露伴は帝国図��館、今の国会図書館にあった西鶴の本を随分と勉強したんです。また当時、東京に淡島寒月という人がいましたが、彼は時代に先駆けて西鶴を評価し、自身でも作品を手元に持っておりました。その寒月と仲が良かったのが露伴で、彼の西鶴作品を借りて徹底して読んだわけです。紅葉も、露伴に遅れてですが、やはり淡島寒月から西鶴の作品を教えられたんです(肥田晧三)。
(1889年11月)木﨑好尚、読売新聞に「西鶴の墓」を寄稿 大阪朝日新聞の青年記者だった木﨑好尚は、後に頼山陽や田能村竹田の研究で知られるようになる人です。この人が、明治 22 年にやはり誓願寺に行くわけです。すると新しい卒塔婆が二つ西鶴の墓に立てかけてある。一つは幸田露伴、一つは尾崎紅葉。それで、大阪の青年がびっくりするんです。東京の輝かしい新進の作家二人がここに来ている!大阪の自分たちはちっともお参りせんのに、あの二人が西鶴の墓にお参りしていると。そして 明治22年11月に、東京の読売新聞に「西鶴の墓」という題で書く んです(肥田晧三)。ママ。木崎が朝日新聞に入社したのは明治26年(1893)。
(1889年11月)幸田露伴、「井原西鶴を弔ふ文」を雑誌『小文学』に発表 露伴もまた、「井原西鶴を弔ふ文」という題で、明治22年11月に雑誌『小文学』に発表します。「今や露伴幸に因あり縁ありて、茲に斯に來つて翁を吊へば、墓前の水乾き樒枯れて、鳥雀いたづらに噪ぎ塚後に苔黑み、霜凍りて屐履の跡なく、北風恨を吹て日光寒く、胸噫悲に閉ぢて言語迷ふ。噫世に功ありて世既に顧みず、翁も亦世に求むるなかるべし。翁は安きや、 翁は笑ふや、唯我一炷の香を焚き一盞の水を手向け、我志をいたし、併せて句を誦す、翁若し知るあらば魂尚饗。九天の霞を洩れてつるの聲 露伴」(肥田晧三)。
(1890年5月)尾崎紅葉、「元禄狂」を「国民新聞」に寄稿 西鶴に心酔しているということを書き、その中で、「明治二十二年八月、大阪八丁目寺町誓願寺に、 西鶴翁の墓に詣でゝ」と記し、「ででむしの石に縋りて涙かな」という句も詠んだ(肥田晧三)。
木﨑好尚を除き、全員、江戸っ子です。
(写真)「仙皓西鶴」『壬戌羇旅漫録 2巻 [3]』1802-1812(東京大学学術資産等アーカイブズポータル)より。 注記:写本 注記:目首の書名: 著作堂羇旅漫録 注記:題簽の書名: 羇旅漫録 注記:本文末に「享和二壬戌年八月廾四日筆同十一月朔日挍合畢 曲亭瀧澤觧戯記」とあり 注記:[跋]末に「享和二壬戌年冬十一月二日 著作堂馬琴再識」, 「壬申春日 曲亭主人書」とあり
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店は暑気払いで20日も休んでいます。明日からまた通常通り店を開けます。ご寛恕ください。
写真は、先月末奈良へ行った際に久しぶりに訪ねた「塔の茶屋」にて。塔の茶屋は『工芸青花』17号でも特集された、「無窮亭」河瀬虎三郎ゆかりの店ですが、以前は興福寺五重塔のすぐ裏手、え、ここ、公園というか寺域だよなあ、と思うような場所にありました。会社員のころは年末になると大和文華館の裏手にある義祖父の家に滞在し、夕暮れどきに皆で訪ね、春日大社への参拝者が静かに砂利踏む音を聞きながら懐石をいただくのが楽しみだったのですが、ならまちちょっと外れたあたりに移転されてからは初。
また伺いたいな、とこのところずっと思っていたのは、昨年末、honograの小松さん @akenosora8 とお酒を飲んだことがきっかけでした。店を営むにあたって、やることは決めていないけれど、やらないことは決めている、といった話が、ロラン・バルトの「私は好きだ、私は好きでない」みたいに、好き/嫌いをつらつら書き立てる楽しさってありますよね、などという話へ移りゆき、小松さんが、『無窮亭 数寄書留 竹柏のしづく』にもやはり「スキ・キライ」が記されているから、お持ちでなければ一冊お譲りします、という流れ(……ですよね?)でご恵与いただいていたこともあり、そこに記された「キライなもの」への共感から、あらためてまた行きたいな、と思っていたのでした。
最近は海外からの旅行客が多いようで、日取りの電話をした際には、団体さんがいらっしゃっているので、お帰りになってからの時間、簡単なしつらえでよければ……とのお返事でしたが、伺うと軸は「銅燈薹銘 并序 弘仁七載歳…」で始まる、興福寺国宝館に納められている燈籠火袋羽目銘文の拓、床には薄板を敷き、土師器の壺に野の花添えて、奈良らしい様子。懐石も先付・向附・煮物椀から、すっと飛んで鉢肴・茶がゆに甘味という軽めの流れでしたが、いずれも無駄なく(まさにキライなものなく)結構、老婦人からお話なども伺いつつ御酒もいただけて、たのしい一席でした。また伺いたいです。
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鳳凰 龍 細密石彫刻製作 石基壇 聖徳太子殿 念佛宗仏教美術 The Prince Shotoku Hall The Buddhist Art of Nenbutsushu Stone carving
聖徳太子殿 The Prince Shotoku Hall
念仏宗無量寿寺(念佛宗) 総本山 佛教之王堂〜三国伝来の佛教美術 日本では類例を見ない四手先総詰組様式、および三手先腰組付縁の八角堂 It is a grand octagonal shrine with four-stepped intermediate bracket complexes under the eaves and three-stepped bracket complexes under the veranda, which is peerless in Japan.
概略 高さ17.2m(基壇、棟飾り込) 側通り柱間4.85m
輪島塗による高蒔絵、及び彫金が施された厨子に、中華人民共和国、工芸美術大師・佘國平佛師制作の「和国の教主」とうたわれる聖徳太子像がお祀りされている。
念佛宗(念仏宗)無量寿寺 聖徳太子殿 建築的特徴
他に類を見ない様式 四手先総詰組、三手先腰組付縁の八角堂は他に類を見ない。特に四手先総詰組は、日本建築史上初めての独自の変形組み手である。特殊な組み方をすることにより、組み手同士の立体的干渉を回避している。この念佛宗(念仏宗)ならではの、独創的な手法は、専門家をも捻らせている。日本の大工の始祖とも崇められる聖徳太子も、きっと納得されているに違いない。 天平の文化が華やかなりし頃、神社仏閣は、鮮やかに朱で彩られ、外国文化を吸収、醸成され、それはきらびやかなものであった。 そして今また千年の時を超え、念仏宗 佛教之王堂における聖徳太子殿は、天平時代の華やかさを凌ぐ存在感で、参詣者を迎える。 外装壁部には「天女」、阿件形の「鳳風」、衆生を導かんと雲を従えて天下る阿件の「龍」が、また蛙股部には「宝相華」が、胡粉の白一色に塗られた彫刻で荘厳されている。腰組部と階段脇の耳石にも阿件の精緻に「鳳風」が彫刻されている。 これら数多くの彫刻、彩色で彩られた御堂は、典雅な趣にみあふいざな満ち溢れ、訪れる者を夢の世界へと誘う。 桟唐戸は丹青技法による極彩色が施された「宝相華」や「転法輪」、「鳳凰」の彫刻で荘厳され、八方を守護している。 世界に誇る槙の日本庭園に囲まれた姿は、飛鳥・天平時代を偲ばせる典雅な趣に満ちている。 軒裏に扇垂木を用いており、内部は韓国人間国宝・李萬奉大僧正猊下、及び、直弟子洪昌源師制作の、韓国古来の伝統的丹青技法による彩色が施され、合計428点の彫刻が太子を賛嘆している。 念佛宗(念仏宗)無量寿寺 聖徳太子殿 建築的特徴 三国伝来の佛教文化 念佛宗(念仏宗)無量寿寺 佛教之王堂の聖徳太子殿は、かつて、聖徳太子が御堂にこもって、経典の解釈に没頭しておられる時、夢告(むこく)で教えを賜った(たまわった)との伝説から、法隆寺などでは平安時代より、「夢殿」(ゆめどの)とも呼ばれてきた。 ここ念佛宗(念仏宗)無量寿寺 佛教之王堂における聖徳太子殿は、日本の建築技術と韓国の丹青(たんせい)技法、そして中国の彫刻が見事に調和し、三国伝来の佛教文化の粋を見ることができる。 例えば四手先総詰組様式及び三手先腰組付縁(こしぐみつきえん)は、他に比類なき日本建築の最高峰といえるもの。 また、内部に施された極彩色(ごくさいしき)は、韓国の丹青技法が日本で独自発展を遂げた平等院鳳凰堂の様式を踏襲したものであり、天井画写真下方の緑色部、「ぼかし」のような繧繝(うんげん)彩色や、全体的な白く縁どられた紋様等が特徴的である。 和国の教主 聖徳太子 念佛宗(念仏宗)無量寿寺 佛教之王堂 聖徳太子殿には、聖徳太子像をお祀りしている。天竺(インド)から唐土(中国)へ伝わった佛教の尊さを悟られ、神佛が習合する中、日本へ佛教を根付かせた「日本佛教の父」が聖徳太子。 「和を以て尊しとなす」 これは世界的に有名な聖徳太子『十七条憲法』の根幹(こんかん)をなす第一条の言葉。『十七条憲法』は、我が国最初の憲法であり、佛教精神を基(もとい)とした平和国家日本の建設に臨まれた聖徳太子の決意を表している。推古(すいこ)天皇即位の時、聖徳太子を摂政(せっしょう)とし、すべての政治を委ねられた。『日本書紀』には、その時、もろもろの豪族らは、君主と先祖の恩に報いるために競って佛をお祀りする場所を造ったとされ、以来、それが「寺」となった。つまり恩に報いるために寺が建てられ、佛教が興隆していった。 第二条に「篤く三宝を敬え。三宝とは佛・法・僧なり」そして「何れの世 何れの人か この法を 尊ばざる」として、どの時代、いかなる人であってもこの法を尊ぶべきことを明断しておられる。 そして佛教を基調とした国づくりをして、日本を統一国家に相応しい姿にされた。それによって寛容の心が根付き、民の争い事が減った。そして佛教伝来から僅か数十年で、当時の世界最新建築の佛教伽藍(ぶっきょうがらん)「四天王寺」「法隆寺」を建立した。聖徳太子が、「和国の教主」と呼ばれる所以。太子の願いは、大和の地に佛教を興隆させ、人々に平和をもたらすことでした。 丹生(たんせい)技法に彩られた堂内 青丹によし 奈良の都は 咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり 聖武天皇(しょうむてんのう)の御代、奈良で一世を風靡した丹生技法は、今、ここ社の地で大きく華開いている。 渡来して日本的発展を遂げた密度濃やかな繧繝(うんげん)彩色や、白縁模様で荘厳された極彩色の天井を、吉野檜の銘木に、拭き漆と熨斗(のし)模様を施した八角柱が八方から支える。 聖徳太子殿の「八角宮殿」 扉に描かれた阿吽の鳳凰は、聖天子(せいてんし)の出現を待ってこの世に現れ、飛天は、釈尊説法時に舞い降り、奉楽し、天華を散らし空中で舞う、とされている。 宮殿は、もともと、天竺(てんじく)における塔やその下の小室である「龕」(がん)を源流とし、後世、これが厨子(ずし)や仏壇に変化した。 法隆寺玉虫厨子や橘夫人念持佛(たちばなぶにん)などは、その代表例。 念佛宗(念仏宗)無量寿寺 佛教之王堂 聖徳太子殿の「宝珠」 宝珠は、災いを除き、願いをかなえる力を持つとされ、聖徳太子殿の屋根に聳える宝珠は、聖徳太子の佛教興隆の成就を象徴しています。 この宝珠を護法神である、八頭の象が支えており、八方から佛敵より佛法を護り、宝珠の周りには、凡夫の煩悩を焼き尽くす火焔(かえん)が、勢いよく燃え盛っています。 聖徳太子殿の「輪島塗 高蒔絵」 日本の伝統技法の輪島塗りによる高蒔絵は、最高品質の漆を盛って、乾かないうちに松煙(しょうえん)を蒔きこみ、盛り上げ固めます。入手困難な「舟鼠(ふなねずみ)の蒔絵筆」を用い、輪島塗職人の二年間にわたる努力の末に完成しました。十枚の扉に浮かび上がる金色の『十七条憲法』の銘文は、職人会心の傑作です。 松竹梅と獅子 念佛宗(念仏宗)無量寿寺の宮殿下部には獅子が八方を護り、吉祥紋様の松竹梅が施されています。 風雪や厳寒に耐えて緑を保つ常磐木(ときわぎ)の「松」と「竹」、春、百花に先駆けて花開く「梅」を長寿・高潔・節操・清純などの象徴として「���寒三友(さいかんさんゆう)」とも呼び、その吉祥紋様を背景に、獣類中、最も勇敢で高貴な、百獣の王の獅子が、宮殿を護っています。
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#おでかけ #南宮大社
会社の同僚に南宮大社に連れて行ってもらいました。西濃の方のことはほとんど知らないことだらけなので、岐阜地区住みの同僚に一日案内してもらうことに。
しかし南宮大社という名前、どこかで聞いたことがあるなと考えていたところ、何年か前に島根の石見銀山を訪れた時に聞いたのでした。
現地のガイドさんにどこから来たのかと尋ねられ、私は岐阜県と答えたのですが(当時は岐阜市内に住んでいた)。するとそのガイドさん曰く、岐阜は石見銀山の神様と縁があるとのこと。石見銀山には鉱山の守り神のような神社(佐毘売山神社)があり、そして岐阜県垂井町にある南宮大社は金属の神の総本宮という位置付け。つまり石見銀山など全国各地にある鉱山や製鉄に関わる神社の総本宮が南宮大社、ということのようです。
そんな南宮大社、一度行ってみたいなと思っていたので、同僚からのお誘いは嬉しい偶然。ぜひとも〜!と一緒に行くことにしました。
気持ち良い冬晴れの日。美濃国の一の宮だからか、建物はその辺りの神社より豪奢な感じです。塗装もしっかり赤で、青空とのコントラストがすごい。いや、これは赤というより朱か。
本殿にお参りしてから千本鳥居の方に歩いていくと、途中に何か塔のようなもの?が。
これは瓦の供養をする瓦塚というものだそうです。並んでいるのは昔の社殿に使われていた鬼瓦など。
それにしても、ありとあらゆるデザインの瓦が並んでいて、見ている私たちにとっては供養の塚というより鬼瓦博物館みたいな感じで楽しめてしまいます。
狛犬でしょうか?安易に浮かんでくるお座りの姿勢ではなく、逆立ちのデザインにしているのが面白いなぁと。
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