#���郷塘区
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asiaphotostudio · 25 days ago
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Nanning, 1995 Nanning, Guangxi, China. 中国 広西 南寧市 西郷塘区 西郷塘市場 Photography by Michitaka Kurata
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cuttercourier · 4 years ago
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[翻訳] コロナ禍と印中対立のなかのインド華人
中国系インド人の愛と憧憬
2020年7月25日 アスミター・バクシー
ガルワーン渓谷事件後の印中関係緊迫化、コロナウイルス・パンデミックによる反中感情の高まりとともに、インド系中国人コミュニティは集中砲火を受けている
3月17日、41歳のミュージシャン、フランシス・イー・レプチャは、急遽切り上げたプリー〔※オリッサ州の都市〕旅行からコルカタに戻る列車の中にいた。新型コロナウイルスは全国でその存在感を示しつつあり、ナレーンドラ・モーディー首相が厳重な全国ロックダウンを発表する日も近かった。レプチャが家族と一緒にまだプリーにいた間も、彼がチェックインしようとするとホテルの宿泊客は反対の声を上げ、路上では「コロナウイルス」と呼ばれ揶揄された。
フランシスは中国系インド人で、母方と父方の祖父は1930年代に他の多くの人と同様に日本の侵略から逃れてインドに来た。彼らはダージリンで大工として働き、地元のレプチャ族の女性と結婚した。のちに彼の両親はコルカタに移り住み、そこで彼は生まれ育った。
このミュージシャンは1980年代に幼少期を過ごし、ドゥールダルシャン〔※インド国営TV局〕で『ミッキー・マウス』や『チトラハール』を見たり、マドンナに憧れたり、クリフ・リチャードの「ダンシング・シューズ」に合わせて頭を振ったりと、これらを6歳で楽しんでいたわけだが、童歌「ジャック・アンド・ジル」に関係があるという理由が大半だった。彼は流暢なベンガル語と「荒削りなヒンディー語」を話し、そして、彼によれば「ほとんどお向かいのチャタルジー一家に育てられた」という。
列車がガタンゴトンと進むなか、冷房寝台車の他の乗客たちは、彼には自分たちが何を言っ��いるのかわからないと思い込んで、「中国人」について疑いの声を上げはじめた。フランシスはすぐさま口を挟んだ。「私は流暢なベンガル語で、自分がコルカタ出身で、中国に行ったことはなく、彼らに感染させることはないと説明した」のだという。「彼らの顔を見せてあげたかった」。
コルカタに戻ると、フランシスはプリントTシャツを注文した。彼はコルカタ・メトロのセントラル駅の真上に住んでいるのだが、それが明るい否定のメッセージとなり、かつ人種差別に対して有効なツールとなるだろうと考えた。フランシスのさっぱりとした白いTシャツの上の端正なベンガル語のレタリングには「私はコロナウイルスじゃない。コルカタ生まれで中国には行ったこともない」とある。
6月15日、国土の反対側では、俳優兼歌手のメイヤン・チャンが、過去13年にわたって本拠地と思ってきた都市ムンバイで、夕食をともにするために友人宅を訪れていた。彼らはテレビのニュースを見ていたが、その放送は特に憂慮すべきものだった。2つの核保有国が数十年間争ってきた境界である実効支配線に沿ったラダックのガルワーン渓谷でインド兵20人が中国軍に殺害されたのだ。
「衝突の後、ダウン・トゥ・アース誌のインタビューに答えた時、私の最初の反応は怒りでした。『どうして私が自分の愛国心を証明しないといけないのか。どうして私がインドを愛し、中国を憎んでいると言わなければならないのか』。私はその国のことを知りもしません。中国というレンズを通して自分が引き継いでいるものは理解していますが、それだけです。私にはインド以外の故郷はありません」と彼は言う。しかし、彼の経験上、怒りは何の役にも立たない。「その代わりに、私は異文化交流の美しさについて話しました。それはインド全土に存在するものです。私たちの外見だけを理由に自分たちの仲間ではないと考える人々には驚かされます」。
チャンもまた中国系である。彼はジャールカンド州ダンバードに生まれ、ウッタラーカンド州で学校教育を受けた。彼の父親は歯科医で、チャンもベンガルールで歯学の学位を取得している。彼は自分の家系を詳細に遡ることはできていないが、先祖が湖北省の出身であることはわかっており、そこは1月以来、ニュースを席捲している。新型コロナウイルスが最初に報告された武漢とは、同省の首都である。
37歳の彼は、主流エンタテインメント産業で名声を得たおそらく唯一の中国系インド人コミュニティ出身者である。2007年にTV番組『インディアン・アイドル』の第3シーズンで5位になり、2011年にはダンス・リアリティ番組『ジャラク・ディクラー・ジャー』で優勝し、さまざまなTV番組やクリケットのインディアン・プレミアリーグなどのスポーツイベントの司会を務め、『バドマーシュ・カンパニー』『探偵ビョームケーシュ・バクシー!』『スルターン』『バーラト』という4本の大作ヒンディー語映画に出演してきた。
しかし、この数ヶ月の間、彼もまたCOVID-19についての世間の興奮と、そして目下の印中対決についてのそれを感じている。パンデミックのせいで人々が人種差別的発言を黙認しているため、彼はオンラインや路上で野次られてきた。実効支配線での印中対峙後は、これに無言の圧力、あるいは彼が言うところの飽くなき 「愛国欲」が続いた。「医療、経済、そしてある程度の人道的危機の最中に国境での小競り合いや恐ろしい話が出てきて、どう考えていいのかわからなかった」と彼は言う。
中国系インド人3世として、チャンとフランシスは共通点が多いように見える。二人ともインドで生まれ、家系は中国に遡り、家業を継ぐという中国的伝統から逸脱し、ディーワーリー、イード、クリスマス、旧正月をまぜこぜに祝って育ち、フランシスが的確にもこの国の「微小マイノリティ」と呼ぶものに属している。
この二人はまた、パンデミックが世界中で反中国の波を引き起こし、米国のドナルド・トランプ大統領が新型コロナウイルスを繰り返し「中国ウイルス」と表現している時にあって、中国系インド人が味わっている苦難を象徴している。インドでは中国との国境問題が状況をさらに悪化させている。怒りの高まりにより、政府は59の中国製アプリを禁止し、大臣たちは中華食品やレストラン(大半はインド人によって経営されている)のボイコットを求め、中国の習近平国家主席の肖像が燃やされ、COVID-19と紛争は危険なまでに一体視された。
この敵���の副作用はチャンやフランシスのような市民や北東部インド人が被ることになり、路上で暴言を吐かれたり、家から追い出されたりした。デリー在住の中国系ジャーナリスト、リウ・チュエン・チェン(27歳)は、地元のスーパーで人種差別的な悪罵を浴びせられた。「私の母はいつもならウイルスから身を守るためにマスクをするように電話で言ってきたはずですが、国境紛争の後は顔を隠すためにマスクをするよう言われました」と彼女は言う。
印中関係が緊迫するなか、世代を越えて広がりつづけているトラウマである1962年の中印戦争の記憶が前面に出てきた。では、こんな時代にあって中国系インド人であることは何を意味するのだろうか。
中国人の到来
インドに��ける中国系インド人コミュニティの起源は、1778年に海路でインドに上陸した商人、トン・アチュー〔塘園伯公〕、またの名を楊大釗に遡る。伝承によれば、アチューは当時のイギリス総督ウォーレン・ヘイスティングスより、日の出から日没まで馬に乗るよう、そしてその間に彼が通過した土地は彼のものになると言われたと、あるいは(より公式なヴァージョンでは)彼のホストとなったイギリス人に茶を一箱プレゼントしたおかげで土地を与えられたとされている。
フーグリー川沿いにあったアチューの土地は、現在はアチプルとして知られている。彼を讃えて記念碑が建てられ、中国系インド人の巡礼地となっている。アチューの後を追って何千人もの中国系移民が続いた。彼らの上陸港はコルカタであり、長年にわたっていろいろな職業の多様な集団が植民地インドの当時の首都にやってきた。
「1901年の国勢調査はカルカッタに1640 人の中国人がいたと記録している。中国人移民の数は20世紀最初の40年間、特に内戦と日本の中国侵略のために増加しつづけた」と、デバルチャナ・ビスワスは2017年8月に『国際科学研究機構人文社会科学雑誌』に掲載された論文「コルカタの中国人コミュニティ:社会地理学によるケーススタディ」1の中で書いている。
ダナ・ロイの祖父母も、日本による侵略の時期にインドにやってきた。コルカタの学校で演劇を教えている36歳の彼女は、『亡命』と題した作劇のプロジェクトに取り組んでいるときに、母方の中国人家系を辿った。「中国の家庭は一夫多妻制だったので、私の祖父は三度結婚しました。そのうち一人は中国で亡くなり、二人目は第二次世界大戦中に日本の侵略から4人の子供を連れて逃れました」と彼女は説明する。彼らの家は、広東省の小さな村唯一の二階建ての建物で、日本軍はそれを司令部としたのだという。
ロイの祖父は、その頃には既にインドで輸出入業を営んでおり、インドにはヒンディー語と広東語の両方を話す中国系の妻がいた。彼の職業柄、家族を船で渡らせるのは容易だった。「叔父の一人には眩暈症があり、大きな音を怖がっていたのですが、(道々)聞いたところでは、村から逃げる際に日本の戦闘機に追われたからだとのことでした」と彼女は言う。
長い間、彼らは均質的集団として見られてきたが、インドに来た中国人は実際には相異なるコミュニティの出身だった。その中でも最大のものは客家人で、まず皮なめしに、最終的には靴作りに従事した。彼らはコルカタのタングラ地区に住み着いた(市内に2つあるチャイナタウンのうちの1つであり、もう1つはティレッタ・バザール)。このコミュニティは他のいくつかのグループのように一つの技術に特化してはいなかったが、ヒンドゥー教のカースト制度が皮革を扱う仕事をダリトのコミュニティに委ねていて、客家人にはそのような階層的制約がなかったため、彼らはコルカタで皮なめし工場の経営に成功することができた。
チャンが属する湖北人コミュニティは歯医者と紙花の製造に従事していた。「ラージ・カプールやスニール・ダット主演の古いヒンディー語映画に出てくる花は全部私たちが作りました。俳優がピアノを弾き、メフフィル〔舞台〕の上に花々が吊り下がっていたなら、それは全部我が家の女たちが作った物です」とコルカタ湖北同郷会会長、65歳のマオ・チー・ウェイは言う。
広東人は大半が大工で、造船所や鉄道に雇われたり、茶を入れる木製コンテナづくりに雇われたりしていた。1838年、イギリス当局はアッサムの茶園で働かせるため、多くが広東人の職工や茶栽培農夫からなる中国人熟練・非熟練労働者を導入している。
1949年に毛沢東率いる共産党が政権を握ると、中国への帰国は問題外であることが明らかになった。そのため、女性たちはインド在住の家族と合流しはじめ、すぐに東部諸州の中国人居住区にはヘアサロンやレストラン、ドライクリーニング店などが点在するようになった。
寺院が建てられ、コルカタのタングラとティレッタ・バザール、アッサム州のティンスキアには中国人学校ができた。賭博場や中国語新聞、同郷会館などもでき、春節や中秋節を祝うほか、中国の儀礼に従って結婚式や葬儀を行うようになった。
「彼らがコルカタに定住し始めた18世紀後半から、1960年代初めまで、中国人移民は、とりわけ同じ方言グループでの内婚や、文化実践、独特の教育システム、住居の排他的なあり方を通じて『中国人アイデンティティ』を維持することに成功した」と、張幸は彼の論文「中国系インド人とは誰か?:コルカタ、四会、トロント在住中国系インド人の文化的アイデンティティ調査」の中で述べている2。
このコミュニティと祝い事の時代は、1962年の印中紛争で突然終わった。戦前には5万人と推定されていた中国系インド人の人口は約5,000人にまで減少した。彼らの多くはその後、海外に移住した。
融合する文化
「アイデンティティとは、単に『私は中国人か、それともベンガル人か』というよりも複雑なものです」とロイは言う。「アイデンティティを主張したり断言したりする必要性を本当に感じるのは、それが奪われつつあると感じたときだけです。アイデンティティについて聞かれたとき、特にこのような時世には、『他のインドのパスポート保持者はこんなことを聞かれ���だろうか』と疑問に思うのです」。
��イは中国系移民と地元民との不可避的な混ざり合いの象徴である。彼の母親は中国系で、ベンガル人と結婚しており、一家はタングラやティレッタ・バザールから離れたコルカタ南部に住んでいる。ロイがこれらの地区を訪れるのは、たいてい中国式ソーセージを買うためか、たまに友人と中華の朝食を食べたりするためだ。
今日の中国系インド人は、中国的伝統が失われていく一方、国籍と文化遺産の間の摩擦が増えていくという二重の現実に直面している。例えば、かつてコルカタのチャイナタウンで行われていた旧正月の祝賀会は、ほとんどがプライベートなものになっている。チャンはただ友人を家に招待することが多い。ロイは親戚とご馳走で盛大に祝ったり、「みんなが忙しければ」ただオレンジを食べて祝ったりしている。
若い世代が広東語や北京語ではなくヒンディー語や英語を学びながら成長し、儒教のような中国の伝統的な宗教的習慣から遠ざかるにつれ、彼らのアイデンティティの中国的側面はますます衰えつつある。以前はそのアイデンティティの別称として機能していたタングラも、今や混合文化に道を譲った。また、環境問題により1996年には皮なめし工場が閉鎖された。
それでもフランシスのように、自分たちの文化を守るためにできることをしている人もいる。彼は友人と毎年の旧正月にはコルカタで龍の踊りを披露する。「私たちは衣装と太鼓を身につけ、旧チャイナタウン、新チャイナタウンその他、コミュニティが散在しているコルカタの各地で4日間にわたって上演するのです」とのことだ。彼らは彼が子供の頃に喜んで受け取っていた赤い封筒入りのお金を配る。
しかし、帰属と受容という、より大きな問題は残ったままである。チャンによれば、自身がエンタテインメント産業に加わっていることと「ヒンディー語とウルドゥー語に堪能」であること(彼はボリウッド作品を観て育ち、父親はマフディー・ハサンのガザル歌謡が大好きだった)は、人々が常に彼を「インド人」として受け入れてきたことを意味する。彼のファンは年齢層やエスニック・グループを跨いで存在する――『インディアン・アイドル』に参加していたときには中国人コミュニティが彼を支持し、より若いファンは彼が「K-POPスターやアニメ・キャラクターを彷彿とさせる」ゆえに彼を愛している。しかし、ソーシャルメディアで意見を表明することは、特に最近では危険であり、時に大騒ぎになる。
「CAA(修正市民権法)のような問題については、間接的に言及して自分の意見を伝えるようにしています。これは大事なことだからです」、彼は言う。ガルワーン渓谷での衝突の後、陸軍大尉を名乗る匿名アカウントが、彼のYouTube動画の一つにコメントして、国家に忠誠を誓い、インド人兵士への支持を公に表明する���う彼に求めた。「私はそれを大したことではないと思い、〔陸軍大尉という〕彼の名乗りに引っかけて『敵との戦いに集中してください、あなたの仲間の国民とではなく』と言いました」。
ジャーナリストのリウ・チュエン・チェンは、アイデンティティとインド政治の両方についての自身の率直な物言いは、コミュニティ内では異例であり、しばしばオンラインやオフラインで嫌がらせの標的になることにつながっていると述べる。「一度、エアインディアの飛行機に乗るとき、係員たちが私に有権者証ではなくパスポートを見せろと言い張ったことがありました。彼らは私がインド出身でないと信じていたからです」、彼女は言う。「私はパスポートを取ってすらいなかったのに」。
年長世代の政治との関わり方はやや異なっている。彼らは今でも中国政治を追いかけてはいるが、距離を置いている。「調査中、国民党シンパと共産党シンパの間にあるコミュニティ内の分断を感じました」とジャーナリストのディリープ・ディースーザは言う。彼は1962年の印中戦争の歴史を、当時強制収容されていたジョイ・マーの口頭の語りとともに記録した『ザ・デオリワーラーズ』3の共著者である。
「しかし、それだけです。彼らは台湾とPRC(中華人民共和国)の対立を私と同じように見ています。そこに親戚はいるかもしれませんが、台湾市民になりたいとか、PRCに忠誠を誓いたいというようなものではありません」。
このような関わりの多くは目に見えない。このコミュニティに共通する話として、彼らは頭を低くして注目されずにいることを好む。これは1962年に中国系コミュニティと関係者が強制収容された結果という部分が大きい。
消えない恐怖
1962年の戦争後、中国軍が国境東部のNEFA〔北東辺境管区〕、国境西部のアクサイチンに進出したとき、インド世論は怒りと疑念に満ちていた。インド人は当時のジャワーハルラール・ネルー首相の保証に憤慨し、中国に裏切られたと感じていた。今回もまた、この敵意の矛先はインドの中国系コミュニティに向けられていた。
作家クワイユン・リー氏が学位論文『デーウリー収容所:1962~1966年の中国系インド人オーラル・ヒストリー』4で書いているように、「国民的な熱狂に駆り立てられ、主流派インド人は中国人住民を追放し、時に暴力を振るい、また、彼らの家や事業を攻撃したり破壊したりした」。
リーは付け加える。インド当局は「毛沢東支持に傾いた中国語学校や新聞、中国系団体を閉鎖した。蒋介石(台湾)を支持する学校、クラブ、新聞は活動を許された。これらの学校やクラブは、マハートマー・ガーンディーの肖像とインド国旗を孫逸仙〔の肖像〕と十二芒星の〔ママ〕国民党旗の横に加えた」。
これらの状況は、当局に「敵国出身者」を逮捕する権限を与えるインド国防法が1962年に成立し、1946年外国人法��外国人(制限区域)令の改正が行われたことと相まって、ラージャスターン州のデーウリー収容所で中国系インド人を抑留するための「法的なイチジクの葉〔方便〕」になった、とディースーザは言う。
3000人近くの中国国民または中国系の親族をもつインド国民がスパイ容疑で逮捕され、最長で5年間拘束された。
「ガルワーン渓谷の小競り合いが起こったとき、私はそれについて思いもしませんでした。祖母が最初にそれを口にしました。『もし雲行きが悪くなったら、私たちは逮捕されるかもしれない』」、チャンは言う。「たとえ私達も同じことを考えていようがいまいが、そんなことは起こらないと彼女を説得するのが私のおじと私の役目でした」。
フランシスは1962年に当時10代前半だった母親がダージリンの祖母を訪ねており、二人とも収容されたという思い出話を語る。イン・マーシュも同様であり��1962年11月に13歳でダージリンのチャウラスタ地区から父、祖母、8歳の弟と一緒に収容所に連行された5。
マーシュのように、このコミュニティの多数の人がインドを離れカナダ、米国、オーストラリアに向かった。しかし、歴代の政府がこの歴史の一章を認めたり、謝罪したりしていないことを考えると、圧倒的なトラウマと裏切られたという感情は今日に至るまで残っている。
中国系インド人はなおも傷を癒やす途上にある。アッサム州の同コミュニティ出身の48歳の女性(匿名希望)は、ガルワーン渓谷事件の後、89歳の父方のおばから電話を受けた。彼女はまたも強制収容されるのではないかと心配していた。「私はそれを笑い飛ばし、心配させまいとしました。私はね、もしまたそんなことになったら、皆一緒に行ってダルバートを食べましょうって言ったんです」と彼女は言う。
大昔の法改正はまた、1950年以前にインドに来た、あるいはインドで生まれた中国人移民のほとんどは決してインド市民権を与えられないということを確実にした。例えば、彼女のおばは今や87年間インドに住んでいる。「彼女は今でも毎年外国人登録事務所に行って滞在許可証の更新をしなければいけません。ここは彼女が知っている唯一の故郷ですが、法的には決して帰属することはなく、常に部外者のままです」と彼女は言う。
以上のような要因が、生まれた国への忠誠心を公にするようインドのこのコミュニティをせっついている。例えば、ガルワーン渓谷の衝突の後、コルカタでは中国系インド人が「我々はインド軍を支持する」と書かれた横断幕を掲げてデモ行進をした。
「人々には中国共産党(CCP)が中国系インド人のことを大して気にかけていないことに気づいてほしい。彼らはおそらく我々が存在していることすら知らない。もし私が完全ボリウッド風でやりたいと思ったら、『マェーンネー・イス・デーシュ・カー・ナマク・カーヤー・ハェー〔※私はこの国の塩を食べてきた、の意〕』と言う〔=愛国心を歌い上げる〕ところまでやります」とフランシスは言う。「私の優先順位は単純です。私はインド市民であり、インド憲法に従って暮らしており、私の支持は常にこの国にあります」。
印中間の緊張がすぐには緩和されそうにないなか、アイデンティティと帰属意識の問題が頻繁に前景化されるかもしれない。チャンの不安もまた、このような思慮をめぐるものだ。「エンタテインメント産業の誰もが仕事はいつ再開できるのかと心配していたとき、敵のような見た目の顔をしているから自分には誰も仕事をやりたくないのではないかなどと、余計な不安を私が感じていたのはどうしてでしょうか」と彼は問いかける。
http://www.iosrjournals.org/iosr-jhss/papers/Vol.%2022%20Issue8/Version-15/J2208154854.pdf ↩︎
張幸(北京大学外国語学院南亜学系副教授)は女性。引用論文は2015年刊行の論集に掲載されたもの。これを補訂したと思われる2017年の雑誌論文あり。 ↩︎
http://panmacmillan.co.in/bookdetail/9789389109382/The-Deoliwallahs/3305/37 デオリワーラー(デーウリーワーラー)はデーウリー収容所帰りの意。 ↩︎
1950年カルカッタに生まれ、強制収容は免れたが1970年代にカナダに移民した著者が、トロント在住の客家人元収容者4人の聞き取りをもとに2011年にトロント大学オンタリオ教育研究所に提出した修士論文。 ↩︎
元デーウリー収容者で、収容経験を述べた『ネルーと同じ獄中で』(初版2012年、シカゴ大学出版会より2016年再刊)の著者。 ↩︎
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yomirenshuu · 8 years ago
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about a bear attack
so for a change today’s text for reading practice is a short newspaper article about a bear attack, that occured yesterday
taken from the 04/17 issue of the 北海道新聞
have fun practising:
山菜採り 春グマ襲う
標茶 男性、頭や顔にけが
【標茶】16日午前8時10分ごろ、釧路管内標茶町塘路の山林で、同管内鶴居村の男性会社員(54)がクマに襲われ、頭や顔などにけがを負った。男性は道警のヘリコプターで釧路市内の病院へ運ばれたが、命に別条はないという。
 弟子屈署などによると、男性は山菜採りのため、16日朝から1人で山林に入った。現場は国道から5㌔ほどで、林道に止めた車から約300㍍離れた地点でクマに襲われたという。男性は襲われた後、持っていた携帯電話で110番した。地元の猟友会が周辺を捜索したが、クマは見つかっていない。標茶町は付近の林道を通行止めにした。
 標茶町塘路の山林では2015年1月、林業作業員がクマに襲われ死亡する事故が起きている。道警によると、今年に入って道内でクマに襲われて負傷者が出たのは初めて。
 16日には伊達市大滝区本郷町で、捕獲用の箱わなに体長約1.5㍍、体重105㌔の雄のヒグマ1頭がかかっているのを猟友会員が見つけ、駆除した。
 道は、山菜採りなどで入山し、人身被害が起きやすくなる今月1日~5月31日をヒグマ注意特別期間としており、「山に慣れていても、油断は禁物。単独行動を避け、山では鈴などの音を鳴らしてほしい」(生物多様性保全課)と呼びかける。
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tohoku-youth-orchestra · 6 years ago
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第7回合同練習会のレポートです。
12月23日の日曜日に今年最後の合同練習会を福島市の福島民報本社のホールにて行いました。ちょうど1年前と同じく、世界を舞台に活躍されている現代音楽の作曲家、藤倉大さんにお越しいただき、午前中の2時間は作曲のワークショップを行なっていただきました。
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とても昨日ロンドンから東京に到着されたばかりとは思えぬ活力で、朝イチからハイテンションの軽快トーク、しかも練習会場にいる100人ほどの中でお一人だけ半袖Tシャツ姿です。作曲に先立ってのコンディションをつくるため、一昨年亡くなったアメリカの作曲家ポーリン・オリヴェロスの1971年の作品『チューニング・メディテーション』を演奏してみようと楽曲の解説がはじまりました。スコア自体は音符は一切なく、A4一枚におさまるテクストから成っています。藤倉さんご本人による冒頭の翻訳を抜粋しますと、
「まず、心の中に聞こえる高さの音を鳴らしなさい。自分の音に集中した後、他の演奏者の音を聴き、できるだけぴったりと同じ音高になるように合わせなさい。もう一度よく耳を澄まし、今度は誰も演奏していない高さの音を鳴らしなさい。(以下、続く)」
なのですが、お読みいただいた通り、全体は3つの展開��ら構成されています。まずは全員でではなく、各セクションごとにやってみましょうとなりました。
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コントラバスの左隣の白髪の紳士は、ニューヨークから日本に滞在中の監督、坂本龍一さん、ご多用の合間を縫って今期初めて合同練習にご参加いただけました。
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坂本監督、思わずスマホでレコーディングしながら演奏する団員の中へと進み出られました。
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全体で通しで演奏を。
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たゆたうような音のテクスチャーの重なりに藤倉さんも想像以上の面白さだったようです。「最初は武満(徹)、3番目はリゲティ(・ジェルジュ)みたいだね!」と興奮されていました。
団員の耳の準備運動が出来たところで、もう一人のゲスト、チェロ奏者の山澤慧さんをご紹介されました。
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事前に煌びやかな経歴を見たせいだけではなく、そこはかとなく山澤さんに漂う貴公子感! 藤倉さんだけがTシャツ一枚です。それはともかく、軽妙にチェロという楽器の音域の確認から自然ハーモニクスの解説をしていただきました。
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自然ハーモニクスについて、わたくしなりのわかりやすい要約をしてみようと思ったのですが、力不足でした・・・。ご興味の向きは検索に励んでいただければ幸いです。
このあと山澤さんに各種作品に紐づけてまとめていただいた特殊奏法の数々の披露がありました。
まずは通称「カモメ」と紹介されたカモメの鳴き声のような音を奏でる技法です。
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弦楽器のメンバーは戸惑いながらもチャレンジ。
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指板に指を滑らせる動きなので、コントラバスは音を出すのが難しそうですが、鳴ると迫力ある音が出ますね。坂本監督も実演指導の中、指揮の栁澤寿男さんも愉快そうにご覧になっております。
このあとも藤倉大さん作曲の『osm』『エターナルエスケープ』やツィンマーマン、リンドベルイ、ラッヘンマンなどの現代音楽の作品から抜粋した特殊奏法の数々を山澤さんに弾いていただきました。とにかくチェロてこんな音が出るのかと驚きの演奏ば���りです。
思わず栁澤さんも個別に熱心に質問をされていました。
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さて団員は蒙を啓かれ作曲にチャレンジです。藤倉大さん曰く、自作自演ではなく、他の人のために作曲するのが大事であると。
20分ほどすると、曲が仕上がった団員が名乗り出てくれました。
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まずはヴィオラ担当の福島の大学一年生、土田雄樹くん。出来立てほやほやの作品をプロの奏者に弾いていただけるという贅沢なワークショップです。
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習ったばかりの特殊奏法だらけのスコアを余裕しゃくしゃくで演奏していただきました。とにかく新鮮な音色が迫力満点で響くのです。
続いては、ホルンの音大生、田嶋詩織さんの作品を磯貝雛子キャプテンが演奏します。
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ホルンの一部パーツを取って演奏という新手の技に藤倉さんも感心されていました。
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3番目は今期の「コンミス」ことコンサートミストレス(第一ヴァイオリンのトップ)である大学4年生、佐藤実夢さんによる作品。
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いっぱしの作曲者としてのこだわりを山澤さんにオーダーできるという、本当に恵まれたシチュエーションです。
コントラバスは同じセクション内でグループで作曲したそうです。
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代表して福島の大学2年生、勝田凛さんが紹介してくれました。
実演するのは、吉田飛鳥くんと金子隆介くんの福島大学の先輩後輩コンビ。
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曲の終わり方が激しいなと思ったら、つい先ほど金子くんの眼鏡が壊れたことをテーマにした作品なんだそう。
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確かに泣きたくなりますね。この体験をもとにできた作品が来年の演奏会で披露されると思えば、損して得取れ、とも言えますよ。もっと嘆き悲しんで表現へと昇華したら?!
次の発表者は菅野桃香さん。現在は東京の音楽大学の一年生ですが、福島県浪江町出身で望まず故郷の町を捨てざるを得なかった団員の一人です。
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どうやらドアの開け閉めを含む一連の人間の動作音を表現した作品化したようです。作曲家然として山澤さんに演奏のディレクション(畏れ多い)。
こちら小学5年生も作曲が進んでいるようです。今期から参加の岩手県盛岡市からの小学5年生、田口陽大くん。
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恥ずかしがって楽譜をみんなに見せてくれません。
そして、ここにも。
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同じく岩手県からのチェロ担当、中学一年生の齋藤玲利くんが恥ずかしがっています。岩手県民は恥ずかしがりなのかな。
こういう時に率先して前に出て来てくれるのは、クラウドファンディング係のリーダーで���ある岩手県いわき市の橋本果林さん(コントラバス)です。
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臆せず吸収した特殊奏法の楽譜を山澤さんに演奏してもらう貫禄がありますね。
ヴィオラの大学4年生、佐藤ひかりさんも卒団前のひと踏ん張りで作曲してくれました。
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本番の演奏会が楽しみだなと思っていたら。
コントラバスの山崎寛大くん(大学2年生)が満を持して手を挙げてくれました。
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五線譜ではなく、手帳にテキストライティング系の作曲ですね。
ネタバレにならないようにお伝えすると、楽器では無い、しかし団員みんなが持っている物を楽器にするというコンセプチュアルな作品でした。
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山崎くん自ら指のサインで指揮を執ったり、堂々たる作曲家ぶりでした。
2時間のワークショップの締めに坂本監督から一言。
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つねづね監督がおっしゃる「耳を開く(啓く)」体験から、去年以上に積極的に作曲家が生まれたことを褒め称えるコメントをいただきました。
もともと坂本監督の大ファンで、作曲家の道に進まれた藤倉さんとのトーク。
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(失礼とは思いながらも)「漫才コンビ」のような掛け合いなんです。
そして午前中の練習の締めに福島民報の荒木英幸事業局長からのご紹介で、毎年手厚いご支援をいただいているJA共済さん、その福島県本部の菅野好雄本部長から激励のご挨拶をいただきました。
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昼休みに入って、先ほどの作曲サークショップで恥ずかしがっていた田口くんの作品を演奏してみようと、藤倉さん。
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山澤さんの神の手的な演奏に田口くん、押し隠せないほどうれしそう。よかった。
お昼休みはランチタイム。
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ここで坂本監督から団員全員にクリスマスシーズンの差し入れが。
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クラシカルな苺のショートケーキ。
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おいしゅうございました! ありがとうございます。
さらにケーキにあわせてJA共済連福島県本部さんから紅茶の振る舞いが。福島市の紅茶専門店「アールグレイ」さんが出張店舗でアールグレイとルイボスティーをサーブしていただけました。
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1時間弱の短い時間ではありますが、ケーキとティーのマリアージュを楽しませていただいた休憩時間となりました。
その間隙に団員の作曲家志望の地元福島の高校2年生、塘英純くんが先日桐朋学園全国ジュニア音楽コンクールで第一位となった作品を両巨匠に見ていただいていました。
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3人の緊張感ある場に、カメラ。
そうなんです。先ほどから写真に写り込んでいるのは、福島民報、岩手日報の一般社団法人の理事社の記者だけでなく、当日取材に入られていたテレビ番組2番組のカメラでした。
そのため午後イチの練習再開冒頭の毎年恒例の集合社員、つまり今年度のアー写(アーチスト写真)、つまりは「宣材」(宣伝材料)とも言う撮影においては、
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多数のカメラが並んだのでありました。
午後の合奏にそなえて、チューニング。
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最初は坂本監督の作曲作品の『Blu』から。第4期のメンバーとの初音合わせです。
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そして、先月の合同練習会に続き、仙台出身の作曲家・仁科彩さんによる委嘱作品『くぐいの空』。
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第1楽章の演奏の様子をスコア片手に穏やかに見守られている様子を事務局の宮川裕くんが望遠レンズで報道カメラマン的におさめていました。
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隣に写っているのはオフィシャルカメラマンの丸尾隆一さんです。
ほんとうに数多くのプロフェッショナルの善意に支えられている東北ユースオーケストラ。団員はその方々のご厚意に演奏で応えないと!
休憩時間にはマエストロの方々が仁科彩さんを囲んで、委嘱作品についてのコメントをされる光景が見られました。第2楽章、第3楽章が楽しみです。
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団員にとっても貴重な休憩です。
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森永さんからの差し入れ!
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どうもありがとうございました。なにしろホリデーシーズンですから、砂糖はご褒美。甘いのカモン!
と気分一新、ブラームスの交響曲第2番の合奏、通しで!
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どんな演奏に仕上がっているのか、みなさん興味津々です。
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この選曲をされた坂本監督は幼いころから「(団員通称)ブラ2」が好きで、50年ぶりくらいにスコアを見ながら曲を聴かれたそうです。
そして1日の練習が終わり、栁澤さんからの総括。
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まとめると、
「明らかに練習していない人がいるのがわかる。指揮者を怒らせないでくれ。指揮者が怒ると団員との関係性も悪くなって、修復できなくなる」
これまでに無い苛立ちを言葉にされました。
団員のみなさん、1月の合同練習にあたっては、各人万全の練習で臨んでください。仏の顔も一度まで、と思いましょう。あの温厚な栁澤さんが、抑え気味にも沸点超えてる感じ、さすがにわかりましたよね??
2019年3月の演奏会のチケット先行発売もありました。お金を払って観に来られるお客様がいらっしゃる以上、みなさんはプロフェッショナルです。その自覚を!
今週は「引率の先生」役の小生が担当している、渋谷区のコミュニティラジオ「渋谷のラジオ」のレギュラー番組でも、効果のほどは知れぬなりに、東北ユースオーケストラ特集をしてみました。
3月30日(土)の盛岡公演、31日(日)の東京公演に向けて、みなさまにご注目いただければ幸いです。
引き続き東北ユースオーケストラへのご支援をお願いいたします。
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asiaphotostudio · 4 months ago
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Nanning, 1995 Nanning, Guangxi, China. 中国 広西 南寧市 西郷塘区 広西民族大学 Photography by Michitaka Kurata
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asiaphotostudio · 3 months ago
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asiaphotostudio · 11 days ago
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asiaphotostudio · 4 months ago
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asiaphotostudio · 5 months ago
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asiaphotostudio · 1 year ago
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asiaphotostudio · 2 years ago
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China, 2000 Nanning, Guangxi, China. 中国 広西 南寧市 西郷塘区 Photography by Michitaka Kurata
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asiaphotostudio · 7 months ago
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asiaphotostudio · 7 months ago
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asiaphotostudio · 6 months ago
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Nanning, 1996 Nanning, Guangxi, China. 中国 広西 南寧市 西郷塘区 Photography by Michitaka Kurata
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asiaphotostudio · 3 years ago
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asiaphotostudio · 2 years ago
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Nanning, 2000 Nanning, Guangxi, China 中国 広西 南寧市 西郷塘区 Photography by Michitaka Kurata
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