#貪瞋痴
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(via 佛教小學堂- 你修行了嗎?)
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極楽浄土に住む伝説の霊鳥「共命鳥(ぐみょうちょう)」
一つの体に頭が二つある極楽浄土に住む鳥「共命鳥」。
極楽浄土には白鵠、孔雀、鸚鵡、舎利(九官鳥)、迦陵頻伽、そして今回登場する共命鳥が仏に仕える鳥として住んでいますが、それらの鳥をまとめているのは天空の守護神である迦楼羅王です。
ブッダが生まれる遥か昔、ヒマラヤの奥地に双頭の鳥が住んでいました。
一羽の名前はカルダ、もう一羽の名前はウバカルダ。
その鳥は「共命鳥」と呼ばれ、一羽が起きている間、もう一羽は眠っています。
ある日、カルダはウバカルダが眠っている間に摩頭迦という木の花を食べました。
カルダは摩頭迦の花を食べることは、もう一方のウバカルダもお腹いっぱいになって両方とも幸せになると思ったのですが、ウバカルダは目を覚ますと、カルダだけ美味しい花を食べたことに腹を立て、怒りの思いでカルダが眠っているうちに毒花を食べ恨みを晴らそうとしました。
眠りから覚め、ウバカルダが毒花を食べたことに気づいたカルダは、
「怒りや、貪り、愚かさには徳はない。このような愚かな行動は、自らを傷つけるだけでなく、多くの者をも巻き込んで皆を不幸にしてしまう」と語った後、2羽とも命を落としてしまいました。
片方が右へ行こうとすると、もう一方は左へ行きたいといい、片方が遊びたいといえば、もう一方は休みたいと、その都度別の意見で衝突して次第に怒りの念を増長させ、愚かな行動に走った共命鳥。
体が一つなのに頭が二つあるが故に生じる感覚や考えの違いが怒りに繋がり、やがて自らを滅ぼすという悲しい結末を迎えたこの物語。
貧欲、瞋恚、愚痴といった「三毒の煩悩」でお互いを傷つけあうことは無意味で罪深いことだと、この共命鳥のエピソードが教えてくれています。
共命鳥がこの世から消えてこの鳥の伝説も人々の記憶から忘れかけられた頃、修行中の僧が釈迦に質問をします。
「提婆達多(ダイバダッタ)は、あなたを妬んで悪いことばかりするが、それはどうしてでしょうか?」
すると、釈迦は「遥か昔の時代、彼と私は一身双頭の関係にあった。その時に毒のある実を食べたのが提婆達多で、私は体に役立つ方の実を食べた。かつてのことがそのまま続いており、私はいつも提婆達多に足を引っ張られている」と語ったそうです。
「共命鳥」に関するもの��明治の無教養な連中による廃仏毀釈によってそのほとんどが失われましたが宗派を問わず、ごく一部の寺院の欄間や所蔵する仏画でその姿を見ることができます。
「他を滅ぼす道は己を滅ぼす道、他を生かす道こそ己の生かされる道」と悟った共命鳥は、阿弥陀如来に救われ、極楽浄土で朝夕6時になると美しい声で鳴き、仏の教えを伝えているといわれています。
提婆達多(ダイバダッタ):特撮ドラマのレインボーマンにも登場する釈迦の弟子で従兄弟の僧。
意見の違いから釈迦とぶつかり合い、釈迦を殺そうとして無間地獄から最下層の阿鼻地獄に落ちるが、もともとは釈迦の片腕である非常に優秀な僧であったため、伝説では幾度か転生を繰り返し天界を次第に昇り、聖者となって最後に人間界に戻ってくるといわれており、法華経では「天王如来」という位の高い仏として登場します。
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TEDにて
マチウ・リカール:幸せの習慣
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
幸せとは、何で、どうやったら幸せになれるのでしょうか?
生化学者から仏門を選んだマチウリカールは、我々の心を鍛えて満ち足りた状態を習慣にすることによって、心の奥底からの静かな充足を生み出すことができると言います。
これもグローバリゼーションのおかげなのでしょうね。
エベレストの山頂にコカコーラの缶、モントレーに僧侶(私はちょうど、2日前。皆さんのお招きに上がりヒマラヤ山脈から来ました。ですから、皆さんをしばらくの間。ヒマラヤ山脈に招待したいと思います)
そして、私のような修行僧がいる場所にご案内しましょう。
私はパスツール研究所の分子生物学者でしたが、山に入る道を選びました。さてと、幸福について語りましょう。私は、��ランス人ですが、フランスには幸福に全く興味のない知識人が多いです。
では、幸福または満たされた状態について話しましょう。
まず、最初にフランスの知識人がなんと言おうと朝から「今日も一日苦しむだろうか」と考えながら起きる人は誰もいません!つまり、意識しようがしまいが、直接であれ間接であれ、すぐのことでも将来のことでも我々がすること。
望むこと。夢見ること。そういったこと全てが心の奥底で幸せを求めることにつながっているのです。
東洋や西洋の書物を調べれば、幸せの定義は驚くほど多彩でしょう。こう言う人がいます。「過去の記憶を信じて、将来を想像し、現在は念頭にない」こう言う人もいます。「幸せとは、今という瞬間。今という瞬間の新鮮さの度合いである」
そして、これは、フランスの哲学者アンリベルクソンにこう言わせました「すべての偉大な人文科学の思想家は、幸せを曖昧なまま残した彼らが自分達の言葉で幸せを定義できるように」
人生において幸せにそれほど関心がないならかまわないでしょう。しかし、幸せが人生のあらゆる瞬間の質を定めるものだとしたら?私たちは、それが何であるかを知り、はっきりした考えを持った方が良いでしょう。
そして、おそらく私たちが幸せについてよく知らないことが理由となって、しばしば、幸せを求めながらそれに背を向けてしまうのでしょう。
苦しみから逃れたいのに苦しみに向って走っているかのようです。それはある種の勘違いが原因かもしれません!
喜びを、幸せと思い込む事は、よくあります。
この2つの特徴をよく見てみると喜びは、時間、目的、場所に左右されます。その本質は相対的に変わりうるものです。チョコレートケーキの最初の一切れはおいしいです。二切れ目はそれほどでもなく、三切れ目には嫌気がさします。
それが人間の欲望の本質です。
飽きが来ます。私は、昔、バッハが大好きでギターで弾いたりしました。5回聴いても飽きません。もし、24時間休みなしで聴くことになれば飽きるかもしれません。寒いとき、火のそばに近づくのは気持ちがいいです。
そして、しばらくすると少し後ろに下がります。それからすごく熱く感じます。
喜びは経験とともに消費されるかのようです。
そして、それは、あなたから発せられるものではありません。あなたが強い喜びを感じることでまわりの人が大いに苦しむこともありえます。ゲーム理論のゼロサムゲームのこと
では、幸福とはいったいなんでしょう?
幸福というとあまりにも漠然とした言葉なので満ち足りた状態と定義しましょう。
仏教徒の見解から、最もふさわしい定義は、満ち足りた状態とは、ただ楽しいという感覚ではないということです。
それは心の奥底��静かに満たすものです。
人生におけるあらゆる心の働きや喜びや悲しみにも、しみ渡ってその根底に横たわっています。皆さんは驚くかもしれません。悲しみのさなかでも満ち足りていることは、ある意味可能です。なぜなら、私たちは別のレベルの話をしているからです。
岸辺に寄せる波をごらんなさい。波の谷間にいれば、海底に当たります。
堅い岩にあたります。波の上にのっているときは意気揚揚としています。海面は上へ下へと揺れ動きます。外洋をごらんなさい。そこには鏡のように美しく穏やかな海があるかもしれません。嵐の海かもしれません。
しかし、海の深さはそこにあり変わらないのです。どういうことでしょう?それは、つかの間の感情や感覚でなく、そのものの状態です。喜びもまた幸福の源となりえますが、誰かの苦しみを喜ぶというような邪悪な喜びもあります。
ではどのように幸せを探しましょうか?
たいていは外界から探し出そうとします。「幸せ」になるためにすべての状況。すべての条件を満たせば幸せになれると考えます。すべてを得ることで幸せになる!
こんな考え方の幸福には、崩壊が待ち構えています!!すべてを持つこと。何かが欠ければそれは崩れます。
何かがうまく行かないといつも外界を修正しようとします。しかし、私たちが外に及ぼす力は限られたもの。一時のもの。錯覚かもしれません。では、内部の状況を見てください。それらはより強くありませんか?
外界から幸福や苦しみを捉えるのは心ではないですか?心の影響が強くないですか?小さなパラダイスのようなところに住んでいてもまったく不幸せなこともあるのをご存知でしょう。
ダライラマがポルトガルに行ったとき、そこでは、至る所で建設工事が行われていました。ある晩、彼は言いました「立派な建物を建てるよりも、心の中に何か築き上げるのが良いのではありませんか?」
そして、こう言いました「もし、あなたが素晴らしくモダンで居心地の良いハイテクのマンションの100階に住んでいても内面でひどく不幸だったら飛び降りるための窓を探してしまうでしょう」
では、反対に非常に厳しい状況下でも落ち着き、芯の強さ、自由、信頼を失わない人が沢山います。では、内面の条件が強ければどうか?もちろん、外部状況は影響するでしょう。
そして、健康に長生きすることや情報が得られ。教育が受けられ、旅行が出来。自由でいられることは素晴らしいことです。大変望ましいことです。
しかし、これだけでは十分ではありません。補助的な条件に過ぎないのです。
すべてに解釈を与えるのは、心の中に存在する経験です。内面の幸せの条件をどうはぐくむかと自問していくと幸せを妨げるものが自らの内面に見出されたりもします。これを解るにはいくらかの経験が必要です。
ある種の心の状態があることに気付かなければなりません!
それは、この幸せ、この満ち足りた状態につながる心の状態でギリシア人がユーダイモニアと呼んだものです。
こんな満ち足りた状態の妨げとなるものもあります。自らの経験の中から探しても怒りや憎悪、嫉妬、ごう慢、しつこいほどの欲望、執着。そんな感情にとらわれた後はあまりよい状態とはいえません。
そのうえ、それらは他人の幸せにも有害です。これらのものが心に侵入すればするほど、連鎖反応のようにますます惨めになり苦悩を感じます。憎しみの連鎖とも呼ばれてます。
逆に、誰もが知っていることですが、献身的で、寛大な行為の奥底では、遠くからであっても、他の誰に知られることがなくても、子どもの生命を救い。誰かを、幸せにすることができます。
我々は、認識されることも、感謝されることも必要としません。ただ、そうする事が、心の深みにおいて、満ち足りたものを与えます。それは、常にそうありたいと思う「姿」です。
では、生き方を変えて心の在りようを変容させるこ���が可能でしょうか?
生まれつき心が持っていた否定的な気持ちや破壊的な感情を?我々のムードや特徴。そして、感情を変化させることは可能でしょうか?そのためにはこう尋ねなければなりません。
心の性質とは何でしょう?
経験的な観点から見れば、意識の主な性質というものは、単に事実を認識し、気付くことなのです。
意識は、すべてのイメージを映し出す鏡のようです。
醜い顔も美しい顔も鏡は気にしません。鏡は汚されず、イメージによって変質する事もありません。同様にすべての思考の背後には、ありのままの意識。純粋な認識があります。
そういう性質なのです。意識は、憎悪や嫉妬によって損なわれるようなことはありません。全体が、染料で染められても、布は布であるように、常に、意識は、そこにあります。
我々は、いつも怒っていたり、嫉妬深かったり、気前がよかったりするわけではありません。意識という布地は、純粋に認識をするというその性質において、石とは違っていて、だから、変化の可能性があります。
すべての感情は過ぎ去っていくからです。それが、心の訓練の基盤です。
心の訓練は、2つの対立する精神要因が、同時に起こり得ないという考えに基づきます。愛から憎しみへ行くことはできます。でも、同じ時間に同じもの。同じ人に対し、害悪を願いながら、善を願うことはできません。あなたは、握手しながら殴ることはできません。
我々の内面が、満ち足りようとするのを妨げる感情に対して、自然の特効薬がある!!ということです。
そこに進むべき道があります。
嫉妬に対しては、喜び。貧欲な執着に対しては、内心の自由。憎悪に対しては、慈愛あふれる親切。もちろん、それぞれの感情ごとに、特定の解毒剤が必要です。
これは、仏教の最古の経典とされる南伝パーリ語のスッタニパータにもある「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」の克服方法です!!
もう一つの方法は、全ての感情の特質を���析することで、対抗手段を見出そうとするものです。
通常、我々が、誰かに対し、不快や憎しみ。動揺を感じたり、何かに執着すると我々の心は、その対象のことを繰り返し考えます。その対象に思いを寄せるたびに、執着心や不快感が増します。
その過程は、際限なく膨らみ、繰り返されていきます。今、我々が見るべきなのは、外を見る代わりに、内観するということです。
「怒り」そのものを「ああっ自分は怒ってるな〜」と注視してください。それは、非常に恐ろしげに沸き立つモンスーンか雷雲のように見えます。その雲に座ることすらできそうに見えますが、近づけばただの霧にすぎません。
同様に、あなたが怒りという感情を直視すると、それは、朝日のあたった霜のように消えます!!これもブッタのプラスサムの智恵です。
何度も繰り返して、怒りの感情を直視して、解消しているうちに、怒りの繰り返しは、解消するたびに、だんだん小さくなります。そして、ついには、たとえ怒りが生じても心をかすめるのみで、空を渡る鳥のように痕跡も残さなくなります。
これが心の訓練の基本であるウィパッサナー瞑想法です!!
時間はかかります!心の欠点や性癖を積み重ねるのに、時間がかかったように、それらを解きほぐすのにも時間がかかります。
しかし、それしか方法はありません!!
心の変容こそが、瞑想の意味することろです。新しい在り方やものの受け止め方を習熟することです。そのほうがより現実であり、相互に支えあい。流れのように連続的な変化であるもの。
それが、我々の存在であり意識であるのです。それでは、認知科学との接点について、この話をする必要があります。短い限られた時間で話さなければなりません。
脳の可塑性に関して、以前は、脳の機能は不変のものと思われていました。20年ほど前までは、すべての神経の接続の総数は、成人した後には、ほとんど変化しなくなるものと考えられていました。最近では、それは大きく変化しうることが解かっています。
10,000時間。バイオリンの特訓をしたバイオリン奏者の話を聞きましたが、指の動きを制御する脳の部分は大いに変化して、シナプス接続が強化されます。人間の品位において、愛あふれる慈悲や忍耐強さ。開かれた心によっても同じことができるでしょうか?
これは、それらの偉大な瞑想家が行っていることです。ウィスコンシンのマディソン。
または、バークレーの研究室に来た達人の中には、2万から4万時間も瞑想をした人がいます。彼らは、3年間ほどの隠遁生活を送り、その間、毎日12時間、その後も毎日3-4時間瞑想します。彼らは、心の訓練の真のオリンピック勝者です。
何が明らかになったでしょうか?
さきほどの話と同じです。研究に関しては、まだお話できないのですが、この研究では、無条件の慈悲について調べました。何年も何年もかけて、心の中に慈しみをあふれるさせることができる���うになった瞑想家に実験をMRIにて手伝ってもらいました。
そこに至る訓練の途上では対象として、苦しんでいる人々のこと。愛する人々のことを考えますが、やがて、慈しみがあふれて、全てを覆い尽くすことができるのです。科学的な結果の全てを述べる時間はありません。またの機会があることを期待しましょう。
肝心なことは、この実験は、サーカスのように特別なことができる人を見せようというものではなく、精神鍛錬は、重要だと言いたいのです。これは、ただの贅沢ではなく、精神のビタミン栄養剤でもありません。
これは、我々の人生のすべての瞬間の品質を決定するものです!!
皆さん。教育には、すすんで15年を費やし、ジョギングやフィットネスなど、表面上の美貌を維持するためにあらゆる事を行います。しかし、心の動かし方、心の美貌などという最も重要なことには、驚くほど無関心で訓練に時間をかけません。
それは、我々の経験の質を決定する根本的なことなのです!!
または・・・
皆さんにも、「イラっ」とした感覚が生じる瞬間があるはずです。これは、「憎しみ」と誤解して、表現する書物がたくさんある。
しかし、誤りです。ブッタによると、「憎くて憎くて、あんたが憎い!だから、私の最大の敵なんだ〜」として、「イラっという感覚」と「目の前の敵」をリンクさせたがる。
これも、誤りです。ブッタは「私は、おまえの敵ではない!おまえの敵は自分自身なのだ!」と言います。自分自身ほど手強いライバルはいないとも言います。つまり、人間の特質がそうさせる自我がライバルです!
アインシュタインの相対性理論によるとある時点で光が、トポロジー的に反転して、今、自分の見ている対象が、自分自身の姿として写って脳内が認識してしまう!という現象も計算で判明しており、鏡のようになってしまうこともあり得ます。
「イラっという感覚」と「他者を敵という概念」は、リンクせず、関連もない!ただ単に、自分自身の勘違いと言うこと。これが理解できれば、憎しみの連鎖は断ち切れます。他人に教えても減らないプラスサムのブッタの知恵です。
また、ネイティブアメリカンでも、「イラっ」とする感情は、慈愛、慈しみと言うらしいです。
そして、親、兄弟姉妹は、ウザいという感情表現は、最高の慈愛、慈しみを感じてるから!らしいです。最悪、感情を自分自身で消化できないなら、物理的な距離感を大事にすればいい。ということになります。
これと似た現象に、政府の陰謀?影の政府?誰かの陰謀と具体的でない言葉で発言して自分以外の責任になすりつける人物や団体には、盲点があります。
つまり、邪悪な影の政府は具体的に発信している本人自身ということ。
なぜ?言葉の定義もなく指摘も抽象的ならその人や団体自体が最も具体的だから!
自分自身が、真の影の政府になるというパラドックス
日本では、西遊記の物語にでてくる天竺(て��じく)に行く三蔵法師が有名だが、アビダンマは、根本経典である三蔵(経・律・論)の一部。
阿毘達磨とも。サンスクリット語から、漢字に翻訳するとこう書かれる。武道の達人でもあった達磨大師。ダルマ様とも呼ばれる。
数十年単位では、悪性でも数百年単位では善性という事象は多数ある!
なぜ?一神教に比べて、多神教や漢字などに概念が多いのは、お釈迦さまが膨大に構築し、先人達の蓄積したアビダンマが根本だから!
宗教の創始者たちの概念上の教え。
原本は、ものすごくパワー(「パワーかフォースか?」の本でのパワー)の高い状態であることが確認されている。
ここで言われる「Powerパワー」は(スターウォーズでのライトサイドのForceフォース)そして、「Forceフォース」は(ダークサイトの方)という前提です。
しかし、宗教概念が、二元的であればあるほど(例えば、「神と悪魔」や「法律で暴力装置をがんじがらめにしたテロリスト集団が警察機構なのに絶対に善のような先入観を強調する構造」など)
つまり、ゼロサムになると誤訳される危険性も大きくなるように思います。
ロジェカイヨワの戦争論にある「いけにえ」も似ている。
あれこれと姿は変わっても、それらは常に存在し続けてきました。
上があれば下があるように、光と闇があります。人間の心理への探求、そして、高い精神的レベルに達しようとするコミットメントは、宗教として社会的に組織化されます。
逆に、そうなることによって、最も低いエネルギーフィールドに落ちていくのです。
よく組織に入ると優秀な人が無能化するのもこの構造原理にあるためです。
なぜなら、組織化されると言う偽りが最初から伴っているからです!!
だから、マスメディアを通すと意味が反転して届き易くなる傾向があります。
世界中のさまざまな宗教の創始者たちの概念上の教えが言うように、慈愛と言うエネルギーフィールドは、一神教でいう神の恩恵への入り口です。
多神教の仏教では慈悲とも言う「悟りへの入り口」とも呼びます。「ラーマ」「道(タオ)」バージョンもあります。
これらのキャパシティを増やすことで、私たちは、誰であり、なぜ?ここにいるのかと言う最終的な気づきに導かれ。
さらに、このアトラクタフィールドの光の中では溶かされ、すべての存在の究極の源へと導かれます。
これが、この世界で自らのパワーを高める唯一の方法なのです。
そして
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大宗教って、すべて一神教。数学の群論、トポロジーの圏論で多神教の仏教の視点で俯瞰すると、ある意味、多神教の一形態とも言えるんだよな。
インドでも似たようなのあるからね。ブラフ��ー神、ヴィシュヌ神、シヴァ神など。
なお、日本では、あまり知られていないヴィシュヌ神は、日々、時空を超越して、同時に姿を変えて人々を救っていたという場の量子論的な特徴があります。
その時のそれぞれの姿は化身を意味する「アヴァターラ」と定義されており、オンラインゲームなどで呼ばれる自分の分身となるキャラクター「アバター」の由来ともされています。
日本では、観自在菩薩に似ていますが、シヴァ神よりも強くて最強。宇宙を維持する役割もあるので、最新物理学では、イメージ的に不確定性原理に近く、スーパーストリング理論や陰陽五行理論も含まれています。
日本人は皆、神社にいくでしょ!
あれ神道で神社庁も公的にありますよ。
お寺にいくでしょ!あれ仏教ですよ。
お盆やお祭りや年中行事に参加するでしょ!あれ仏教ですよ。
これらに関わらない人も・・・
数%の大企業を中心にしたマスメディアやテレビなどもナショナリズムと言うカルトの定義になるんだけどね。
カルトの定義「中立的なバランスの欠けた極端な思想を対象にする少人数の狂信的な崇拝を持つ教団」に当てはまる?
カルトを論じる前にカルトの定義をしないと風評被害になります!
ご注意下さい。
お金に色がつかないように、量子にも色はつきません(数学の言葉で裏付)人間が色を定義していく。
お金に色がつかないように、量子にも色はつきません(数学の言葉で裏付)人間が色を定義していく。
お金に色がつかないように、量子にも色はつきません(数学の言葉で裏付)人間が色を定義していく。
テーラワーダ仏教では「色」も定義されていて、「色」とは「五蘊(ごうん)」の一部であり「存在する物や事を視覚で認識」すること。
「色即是空」の「色」です。
「五蘊(ごうん)」は「五根(ごこん)」という身体の感覚器官から執着が生じていると論じています。
偶然の一致か否か?不思議なことに・・・
「量子力学」という分野を開拓し、発展させた三人の物理学者「ニールス・ボーア」「ヴェルナー・ハイゼンベルグ」「エルヴィン・シュレーディンガー」たちは
とても奇妙なことに気がつきました。
素粒子の物理学を究極まで追求していくと、驚いたことに、はるか昔の東洋の賢者たちが説いた哲学に
どんどん接近してしまうのです。
これは何を意味するのでしょうか?
次に
老子の道教の徳(テー)とアリストテレスのニコマコス倫理学の徳(アリテー)が似ていることから・・・
どちらの起源が先か?調べるととても面白い仮説が出てきた。
中国の道教は紀元前750年位。古代ギリシャ末期のアリストテレスは紀元前350年位。
共に多神教。この時代の情報の伝達速度を考えるとシルクロードで相互的に交流して伝わった可能性も高い。
プラスサムな概念だから。道(タオ)が先で、アリストテレスのニコマコス倫理学の徳(アリテー)が変化して
老子の道教の徳(テー)となり、神仏習合みたいな道徳になった?アリストテレスのニコマコス倫理学の徳(アリテー)は具体的だが、��徳経ではあいまい。
当時は、西洋と東洋の最先端を統合?古代中国では、老子は仙人とも言われていたし、始皇帝もこの頃の激動の時代。
どうなのか?
バラモン教に対して創始した仏教もブッダにより誕生し、アリストテレスの時代に近い年代であることは偶然の一致だろうか?
ニコマコス倫理学に似ている仏教最高レベルの奥義が「中道」ということ。チベット経由で中国にも伝わります。そして、日本にも。
その後、古代ギリシャは300年後、多神教の古代エジプト文明を滅ぼしてローマ帝国になっています。キリスト教も誕生。
その後、国教へ。一神教が広まり紀元後が始まります。
現在のEUは、NATOがウクライナ侵攻でクローズアップされたこと。さらに、13の暦がひと回りして2000年前位の状況も含めて考えると
トルコまで領土にしたローマ帝国の民主主義版をフランス、ドイツは構築しようとしてる?
イギリスがブレグジット(Brexit)で離脱したのは、かつてのローマ帝国の過ちを回避した可能性も?
もし、以前、機運が高まった時にロシアがEUに加盟していれば、古代ローマ帝国2.0(民主主義版)が建国していたかもしれない。
大西洋を超えてアメリカ大陸からロシアを含めて、北半球に巨大なモンゴル帝国を超えた人類史上最大の領域が誕生するので・・・
今からでもロシアは遅くないので加盟したほうがいいような気がします。
真実はわからないが、そんな仮説がインスピレーションとして出てきた。
仏教最高レベルの奥義が「中道」と言葉で言うのは簡単だけど、体得して実践するのは至難の業。
ピータードラッカーも言っている。
それを可能にする方法を段階を踏んで導いた最初の人が釈迦です。
初心者向けとして、アビダンマや八正道がそれに当たります。具体的な方法を体系化しています。
極端な見解にとらわれない(顚倒夢想:てんとうむそう)よう人が心の苦しみから逃れるには、八つの道を守れば良い。
正しい見かた、正しい思い、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい判断。そして、正しい考えかたである。
ところで「正しい」とは、何をもってそう言うのだろうか?
ここでは、アリストテレス(サンデルの正義)の定義ではありません。
この場合の定義は、ブッダの説いている「中道」が「正しい」という意味です。両極端にとらわれない正しい立場(中道)が悟りへと導く唯一の道なのです。
悟りから始まり、この世は、様々な概念が重なり合うため、概念の機微や均衡点を決断できるのは、人間の倫理観が最も重要!
最初は大変だが、ドラゴンボールに登場するスーパーサイヤ人みたいに、これを大変なレベルじゃなくなるくらいに習慣化することがコツです。
参考として、フランスの哲学者であり啓蒙思想家のモンテスキュー。
法の原理として、三権分立論を提唱。フランス��命(立憲君主制とは異なり王様は処刑されました)の理念やアメリカ独立の思想に大きな影響を与え、現代においても、言葉の定義を決めつつも、再解釈されながら議論されています。
また、ジョン・ロックの「統治二論」を基礎において修正を加え、権力分立、法の規範、奴隷制度の廃止や市民的自由の保持などの提案もしています。現代では権力分立のアイデアは「トリレンマ」「ゲーム理論の均衡状態」に似ています。概念を数値化できるかもしれません。
続きは、後ほど。倫理は強制ではなく一定のプロトコルに基づく自由権なので
アリストテレスのニコマコス倫理学には、快楽的生活、社会的生活、真理を追求する生活がある。
思考の知的な徳は、形式知の根本?
もう一つ、性格の徳は、暗黙知の根本?
アリストテレスのいう定義である悪徳の反対は、有徳。有徳に転換する努力が必要。
悪徳に似た概念として、仏教でも、具体的に邪道四つと定義されている。
テーラワーダ仏教に似ている。顚倒夢想(てんとうむそう)になるため悪行為を段階的に最小限する努力が善行為。
こうすることで「パワーか?フォースか?」の書籍でいうパワーが人類全体で平等に底上げされる。
ここで言われる「Powerパワー」は(スターウォーズでのライトサイドのForceフォース)そして、「Forceフォース」は(ダークサイドの方)という前提です
そして、ブッダの説いている「中道」は、「パワーか?フォースか?」の書籍でいう「意識のマップ」内の「中立」レベルに当たるかもしれない。
アビダンマとは異なる領域なので、うつ病、ADHD、自律神経失調症、発達障害などは、精神科医や心療内科へどうぞ。
もう少し、テーラワーダ仏教で教え伝えられている経験則を初心者向けから二、三歩、歩みを進めると「預流道心」と言われる悟りの最初の心が生まれる瞬間があります。
自力で到達するのは危険なので、お寺のお坊さんに詳しくは聞いてください。
自分の解釈では、ここに到達する感覚としては、量子力学の本質である「場の量子論」を本当に理解した瞬間が一番近い感覚です。しかし、検証できないので本当に到達したかわかりません。
テーラワーダ仏教のアビダンマでは、「預流道心」に到達すると自然と悟りの道に自動的に回帰できるようになるそうです。次に、七回生まれ変わるまでに完全に悟りの流れに乗れる。
前世で「預流道心」に到達してると子供の頃から、桁の違う天才になりやすい傾向が発現してくるそうです。
そして、六道輪廻するのは、人間界か天界のみだそうです(一神教では、天国に近い領域に似ている)他にいくつか特徴があります。
「預流道心」に到達すると「第一禅定(ぜんじょう)」状態に自動的になります。
一神教では「天国」に相当することですが、テーラワーダ仏教には、この先がありますが、ここまでにします。
厳密には違うけど、わかりやすく言うと精神領域がスーパーサイヤ人に到達するようなイメージ。しかし、すぐ心の状態は普通になります。
漫画のイメージのように身体は強くなりません。
言葉の定義として「禅(Zen)」は、ブッダが伝授された「第一禅定(ぜんじょう)」が起源。
言葉の定義として、ここでの「定」は、サマーディとも「��天」の「梵」とも呼ばれます。
日本語ではわかりずらいけどサンスクリット語などにすると全て関連してることがわかります。
サマーディ瞑想とも深く関連していて、瞑想しすぎると「あの世」の人になってしまうので、ほどほどの八正道で「この世」の状態を維持しないと危険です。
戻ってこれなくなります。
再起不能になる可能性が高いため、本当に詳しくは、歴史あるお寺でお坊さんに聞いて下さい。
再起不能になる可能性が高いため、本当に詳しくは、歴史あるお寺でお坊さんに聞いて下さい。
再起不能になる可能性が高いため、本当に詳しくは、歴史あるお寺でお坊さんに聞いて下さい。
歴史に耐え抜いた哲学の基盤がない権力者が最も危険な存在です。
(個人的なアイデア)
2019年に日本では、元号も「令和」に変わっていくため、ここで記しておくことは、今後の人類の発展に貢献できるかもしれないためでもあります。
マインドフルネスという瞑想法が流行していますが、個人的には危険性が高いと思っています。まだ科学的とはいえ「魔境」の克服が解明されていません。
仏教は、長い年月で練られた瞑想法が確立されているので、克服法も適切な指導者にて行わないと日常生活に支障が生じる恐れがあります。
瞑想法は気軽にするものではなく、自己責任でどうぞ。警告として、記入しておきます。
続いて
2020年後半くらいから様々な占いで出てきてた時代の変わり目。それが、西洋占星術で具体的に「風」の時代という形で出てきました。
私が、感じとってたインスピレーションは、たぶんこれかな?
兆しは、世界的な金融ビックバンの1970年代、IT革命のミレニアムの前から出ていたけど。
これは、これまでの約200年間。物質やリアリティの影響力優位「土」の属性の時代から、量子コンピューター、ビットやインターネットなどといった物質ではないものに影響力が増していく「風」の属性の時代に。
そして、本格的に軌道にのっていく属性は、今後200年程続くことになるのです(2020年12月22日から、2100年当たりをピークに少しずつ衰退していく2220年まで)
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團體與個人(象山慶24.12.5) https://blog.udn.com/6ccc7d15/181457974
象山慶【淨念】
37-在弘法上,團體有其多元之功能,個人亦有其專案之方便,約時被機、因事置宜,不必拘泥一格,互為障礙。
39-世間團體之上位者,多半為了行政上方便,而組成小圈子,以便於專斷獨裁;難以察納圈外建言,或體恤大眾需求,故不知變通,也不順民意;在下位者,若不肯聽其令或不得遂我志,就只能走出體制之外,另尋出路、自求多福,寧可背負「背叛」之名,以免成��「犧牲」之品。凡夫所成立之教團,亦不例外,其領導者又總是被有意的造神與崇拜,不許徒眾有任何質疑與批評;就這樣任其獨斷獨行、自信自是,就更缺乏理性的監督與良心的制衡,而信眾陷於其中,久被集體薰習(洗腦),而搖旗吶喊,歌功頌德,也習以為常。越進入權力核心,就越目睹凡夫(異生)性的煩惱現行,要麼與彼同流,要麼就此淡出,雖有時令人為難,但謹守「依法不依人」而隱退獨修,也不失為一種狷介的選擇。《詩.王風.黍離〉:「知我者謂我心憂,不知我者謂我何求。悠悠蒼天,此何人哉?」
42-有人說:淨土門在判教上擱捨了許多佛法解行及世態人情,以專注念佛而厭此欣彼。出家人或可如此,在家人則有欠缺,尤其度眾勸信的方便,可能越走越窄,乃至與世隔絕,不契應時代變化及人性需求。新一代淨土門的開展,機情更複雜,或須善察時機而隨緣施設,尤其廣納他宗,對話交流,才不至於越來越封閉保守,難以廣納各類根性的眾生。以上想法,可能多慮了,念佛人被教導而信取「一切皆有佛智不可思議的安排」,我們只須全身心依靠彌陀本願力,信佛念佛,往生成佛之後,再迴入娑婆度眾生,即可一切圓成。如是如是,就此放下自力的思惟,仰憑佛力的攝受,可乎 ?
50-念佛or念我--有人說:你所在的團體,若如所料的缺制度,沒效率,不長進,主事者又自覺良好,不能咨詢專業以求改進,你如何安身其中而不懊惱,不憂疑?且他人安之若素,不覺得有問題--你卻要以個人見解去驚擾他們,扮演「吹哨者、悲情人」嗎?或隨順共業,融入群情,混跡其中而安分念佛,以功德迴向這一切,成全自/他身心的寧靜? 上引當事人之說,一半自我發露,一半歷史見證--念佛人的凡夫心,或不如預期的平和、無諍,若念佛還沒深切的入髓、入心,根本性變化氣質,就常亂起煩惱,被慣性的俗情所糾纏,自擾亦擾人。其次,要承認自是愚惡凡夫,雖念佛而常起三毒、五欲,不能律己,卻多怨人,這似乎不難;最難的是相信「安愚念佛」即能蒙佛光照,而滅罪除障、迴機向法,與一切人事和好,於一切境界無諍,不須另求別法以作懺求悔,自淨其心。
象山慶【藕思】
52--海殤君:「慾海沉浮名利爭,石光電火步此生;風塵情事揮不盡,度世不笑是痴人。」阿彌陀佛雖不計較我們的善惡、貪嗔,平等無條件的攝受往生;但是,我們如今仍活在世間,仍有做人的本分;不該仗勢(佛力本願)而任性、傲慢,不顧自我形象與他人觀感,乃至因此妨礙了許多人的信受及淨土門的弘傳,那可就令人惋惜、悲痛了。
51--依智不依識,凡夫心,善惡混;依法不依人,眾生界,是非多。有人群就有是非,有名利就有貪瞋,這是眾生界的事實,想在娑婆世間建立一個清淨和合的宗教團體,幾無可能。教團由諸多凡夫組成,也易淪為是非之地。每個人應以道為尊,依法而行,各自在「心、口」上靜默用功,憶佛念佛;不攀緣人事,不貪愛人情,或可免於人際的是非恩怨,妨礙了個人修行,擾亂了道場清淨。
38--自信教人信的態度,只須誠懇、適度的為人介紹彌陀本願及往生極樂的莊嚴與殊勝,然後勸他、陪她一起念佛,簡明、親切就可以了。不要以個人的情緒或價值去干涉他的俗事,或糾正他的行為,其實,我們沒有比他好,一樣是煩惱深重、造業無助的下劣之機,阿彌陀佛平等應許我們「稱名滅罪,接引往生」,並不要求我們在世間修身養性,成為聖人。
象山慶【蓮想】
24--一個(宗教)團體成立未久,內部組織與人才培養仍未健全、充足之前,不可急於對外發展,開疆拓土,以免於累己又惱人,乃至反過來動搖根本,而分崩離析,最終是倏起又倏落,如露亦如電。一個擴充計畫案失敗了,有可能是自知不明、人謀不臧,因而判斷失準、行為失當,主事者應退而檢討,虛心納言;若只說是因緣不具足,時勢不如願(聚散無常),而若無其事的放過了,難免一錯再錯,誤事誤人。所謂「臨淵羨魚,不如退而結網。」有幾成人才,做幾分事業,勿急功、勿過勞,才是體恤人力,腳踏實地的長久之計。
42-宗教團體的利與弊:群眾所立的團體,表面是許多人的組合,其實是意識形態的虛構,團體的上位主事者藉此以籠罩操弄下位效命的所有成員,他所看到的不是每一個獨立而尊嚴的個體人,而是眾多的人力單位與階層與所「合成」的效果,為了達到「〇主」的理想或目標,可以發動所有的人員與資源去做工(多半是義務性的免費志工),並以每個人的忠誠度而論賞罰,其中雖有不應事理、不通人情之處,只當作必要的犧牲以確立「上層」的權威。體制內的多數成員,經過長時間、集體性的洗腦之後,對各種非理性狀況已視為當然,不再探究。也因為每個團體各有其成立的緣起與理由,也各有其信從者與追隨者,其人為的體制(有為有漏)與規則也各有利弊,很難比較誰好誰壞,最終是各依其所信,各得其所欲,因此,我不再批判或干涉他人的選擇與遭遇。只看重其一般的人格與性情,能相處的就交往,互相問候;不相應的就放過,保持距離。如是而已。
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法師與居士(象山慶24.12.5)
象山慶【藕思】
6-出家人以道場為家,讓蓮友來此聞法念佛;在家人以家為道場,將佛號帶給親友同事—各司其職,各度有緣。師父不做的事,弟子接下來做;法師不做的事,居士展開來做。應機方便之不同,有常亦有變,能守也能通。
45-愧登高座受崇拜 甘為眾生作馬牛
72-出家以比丘身念佛弘法,在家以居士身念佛護法,都一樣是「自信教人信」,南無阿彌陀佛。
象山慶【淨念】
31.某法師說「學無緇素,達者為師」,這種器量令人佩服。一個居士在出家人為主的教團,對法師亦能如法禮敬,更盼能自在的切磋法義,為方外之交.此想在今日是否僭越?
出家人以道場為家,辦道乃家務 在家人以家為道場,作務而念佛
32-出家人出三界,入佛界, 念佛為總持
在家人在穢土,求淨土,念佛是捷徑
5-師父來不及做的,弟子接下去做;法師不方便做的,居士拿過來做。
佛教團體之僧與俗,法上平等,事上互補;實際無彼此,表相有尊卑。
出家人五事(象山慶’24.11.27)
優秀出家人可從五方面衡量:志(發心)、道(修證)、德(淨戒)、才(領眾)、學(教理)。《四十二章經》:「辭親出家,識心達本,解無為法,名曰沙門。」《禪林寶訓》:「尊莫尊乎道,美莫美乎德。道德之所存,雖匹夫非窮也;道德之所不存,雖王天下非通也。……是故學者,患道德之不充乎身,不患勢位之不在乎己。」「學以聚之,問以辨之,學非辨問,無由發明。」志向須高遠,修道須深入,持戒須嚴謹,化眾須方便,學法須好樂。五者雖難行難全,卻是「著如來衣,坐如來座」的出家人所應自勵與互勉的,或可免於《阿毘達摩藏顯宗論》所說「無恥僧、瘂羊僧、朋黨僧、世俗僧」之嫌,也才符應「愧受崇拜,甘作馬牛」之心。
法然上人撰著《選擇本願念佛集》時,遴選 證義、勘文、筆受之人,特重其德行,告誡某弟子云:「勝他、名聞、利養,……此三髻不剃除,不可謂之僧伽。」
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對境心數起,菩提作麼長(二)
以下一位有緣人分享,來文照登:
《阿伯的話—現場開示精華語錄》:「人要有正念,才有正行,改善與修正自己不良習氣與習慣;修行到後來,要將自身修行心得分享出來,指引、利益一切眾生,這就是『行』,是渡化蒼生,兼善天下,整個『修我、利他』的過程,就叫『修行』。」
銷外道願業力至今,感歎受益良多。唸《六祖壇經》使末學的心智,越來越清淨明朗,恭誦經典時,越來越法喜充滿。修行不是為了遇見佛,而是能夠依靠正法、行持正道,渡化久迷被染汙的心,使其回歸正道,本自清淨。
上回分享心得寫到自身銷外道願,諸多嫉妒、障礙修行的惡念冒出;末學自知智慧愚鈍,但唸了兩千多部《壇經》,諸多感悟:六祖師父智慧高妙,自性得悟後,把一切凡夫眾生的心看得很透徹 ,所謂邪迷心、狂妄心、嫉妒心、惡毒心、不善心、輕人心、慢他心,都列舉出來,告訴大眾,你為什麼無法開悟?因為自性被這些不善心障礙,無法清淨。猶如被烏雲遮蓋的日月,本來日月光芒萬丈,只是被烏雲暫時遮蔽,無法照耀光輝。
《六祖壇經》:「自性起用十九對:長與短對、邪與正對、癡與慧對、愚與智對、亂與定對、慈與毒對、戒與非對、直與曲對、實與虛對、險與平對、煩惱與菩提對、常與無常對、悲與害對、喜與瞋對、捨與慳對、進與退對、生與滅對、法身與色身對、化身與報身對,此是十九對也。」
接著告訴我們,懺悔法門與自性自渡。我之前冒出的每個嫉妒心、不善心,後來學著慢慢把它拆開來,勇敢面對自己,學著自性起用十九對。用隨喜與讚歎心來對治,逐漸打破這種妄想、分別、執著。這種感覺,使我發現,起一念惡滅萬劫善因,如果,起了一念善,得恒沙惡盡。六祖大師所開示,真實不虛。
惡毒心就用慈悲心來度,我會多多行善,關懷身邊鰥寡孤獨;學佛者更需心繫蒼生,用法佈施供養大眾,使其也能明心見性;嫉妒心就用隨喜讚歎心來度,看到別人比自己好,如果心生嫉妒,就要多讚歎別人。別人之所以比我好,是因為他有道德與福報,我需以此勉勵自己修學,看到別人做好事,不要心生障礙,而要隨喜功德。破除障礙他人的心,任何人做的好事或修行功德,彷彿是我自己做了一樣,只有隨喜讚歎,沒有障礙。
感恩六祖師父,感恩佛經,感恩精舍,久迷的心性逐漸有了清淨的前兆。覺悟到自己的心,端正自己的心,使心乾淨一絲不染,這是修學的寶貴心得。「佛、法、僧」,其實就是「覺、正、淨」。一切諸佛妙語,唯修心而已。感恩善知識的提點,才得以一路堅持下來,堅固道心,永不退轉。
(分享完畢)
修行,就是修心,修心怎麼修?會修心者,才是修行,不會修心的,就只是嘴上唸唸佛經,但都沒有把內心的煩惱、毒素修正,這樣是很可惜的。
修心,有幾個階段與進程,或許每個人不同;有人可能很嚮往禪宗的公案,因為一句話、一個動作、一個事件豁然開悟;但大多數的人,因為業障、習氣的遮蔽,沒有這樣的條件頓悟。但其實那些頓悟的人,大多是過去世已累積很深厚的修行,在機緣成熟時,剎那間產生的結果。我們現在修行,同樣是在積累自己開悟的條件,將內心的貪嗔癡轉化為覺正淨,在轉化的當下,就是領悟了佛法。
領悟佛法,是讓自己的內心與佛法相應,能夠理解佛法的真義如何在心裡面實行,並落實到生活的各層面上。佛法的經典,就是在教導我們如何修心,一般人只當學佛就是吃素、誦經、或是參加法會、做供養……,但忽略了最重要的,仍是回歸修心而已。守戒律是為了修心,誦經也是為了修心,靜坐為了淨心與定心,懺悔是改心,禮佛是修恭敬心,所有一切修行的功課,無一不是圍繞自己的「心」而修。
那麼「修心」,是要把心修成怎麼樣的心呢?不是修成方方正正的心,而是修成處處圓融無礙、清淨智慧的本心。
修行除了主要是修心,也又有個目標,這個目標就是改正自己、利益眾生。有助人覺悟的慈悲心,才可以幫助我們放下心中各種自私自利、貪嗔癡的惡念。
南懷瑾老師:「真正的修行,最後就是一個路子:行願。什麼叫行願?就是修正自己的心理行為。
什麼是修行人?是永遠嚴格檢查自己的人。隨時檢查自己的心行思想,隨時在檢查自己行為的人,才是修行人。所以不要認為有個方法,有個氣功,什麼三脈七輪啊,或念個咒子啊,然後一天到晚神經兮兮的,那是不相干的。我們看到多少學佛、學道的人,很多精神不正常,為什麼染污了?為什麼有那麼多的不正常呢?因為沒有嚴格地在修行。換句話說,沒有嚴格地反省自己,檢查自己。
比如貪瞋痴三毒,你說我們哪一點不貪?你說你一點都不貪,一天到晚想跟我在一起,想多跟老師一下,這是不是貪?我那���沒有東西可給你的,因為你『貪』,你希望老師那裡也許有點東西可挖來,這是什麼心理?為什麼自己不去用功呢?」(引用結束)
當我們每天讀經修行,每天都能發現自己的缺失,願意改進自己的身口意,就是修行契入心的開始。《阿伯的話—現場開示精華語錄》:「修行即是修正行為,且修行係在修心,心能安住就好,應以唸經為主;唸經即以大乘經典為主,是釋迦牟尼佛所說的經;有在唸經即是修行,將不對的行為修正;修行請勿四處攀緣,心外求法,外道不遠,修是要修清淨心;修行修到一個程度,遇到非正法時,自己會排斥。」
「世上災劫多,要趕緊修行。不是佛菩薩救你,是你自己要救自己,多多勤奮誦經、消業障和提升心性,自助即是佛助。」如今是末法時期災劫多,外道充斥的環境下,我們有幸遇到正法指引我們修行,就要把握住這樣的機會,通往菩提之路才會越來越接近!南無大慈大悲觀世音菩薩!南無大願地藏王菩薩!
南無本師釋迦牟尼佛
南無藥師琉璃光如來
南無阿彌陀佛
南無大悲觀世音菩薩
南無大願地藏王菩薩
南無韋馱菩薩
南無伽藍菩薩
南無十方一切諸佛菩薩摩訶薩
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金刚经之九品烦恼
CN.
八十一品修惑。一地中有失德九品对治九道分九解脱九无间。 九地为欲界四禅四定。欲界贪嗔慢无明四惑,四禅四定有贪慢无明三惑。修惑分上上至下下九品。每断此一品,各有无间、解脱二道。断烦恼为无间道,断后得智为解脱道。漏和无漏二断,漏是烦恼。无明分见惑、思惑、尘沙惑与无明惑。见惑有十样,是身见、边见、见取、戒取、邪见、贪、嗔、痴、慢、疑。思惑是五毒贪嗔痴慢疑。财色名食睡五欲之贪。〔《大毗婆沙论》卷八十一;《俱舍论》卷二十四;《大乘义章》卷十七〕 沙门四果罗汉即真人,須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢道。分别为初果,来果,不远果,果位。須陀洹,斷三結即身見、戒禁取、疑,能見法知法得法得法眼淨。斯陀含果斷身見、戒禁取、疑、貪、瞋。 脫者的境界。1自知自證,2无漏无情,3身苦心不苦,4净,5無所怖畏法眼淨,6八風不動,7出污泥而不染。 断贪嗔痴慢疑午烦恼就无漏,断七情六欲就无求。八風是利、衰,毀、譽,稱、譏,苦、樂。
DE.
Der neunte Rang der Probleme des Diamant-Sutra Einundachtzig Stufen der Kultivierung von Zweifeln. Es gibt neun Ebenen schlechter Tugend an einem Ort, die die neun Pfade heilen und sie in neun Ebenen der Befreiung und neun Ebenen der Ununterbrochenheit unterteilen können. Die neun Orte sind das Reich des Verlangens, die vier Jhanas und die vier Konzentrationen. Im Bereich des Verlangens gibt es vier Verwirrungen: Gier, Wut, Stolz und Unwissenheit. In den vier Zuständen der Meditation und Konzentration gibt es drei Verwirrungen: Gier, Stolz und Unwissenheit. Es gibt neun Stufen der Kultivierung von Zweifeln, von oben nach unten. Jedes Mal, wenn diese Ebene durchbrochen wird, gibt es zwei Wege des ununterbrochenen Lebens und der Befreiung. Das Abschneiden von Sorgen ist der Weg zur Unendlichkeit, und Weisheit zu erlangen, nachdem man sie abgeschnitten hat, ist der Weg zur Befreiung. Leckage und Nichtleckage sind zwei verschiedene Dinge. Leckage ist ein Problem. Unwissenheit unterscheidet zwischen Verwirrung des Sehens, Verwirrung der Gedanken, Verwirrung von Staub und Verwirrung und Verwirrung der Unwissenheit. Es gibt zehn Arten von Verwirrung, nämlich Körperansicht, Seitenansicht, Anhaftung an Ansicht, Anhaftung an Enthaltung, falsche Ansicht, Gier, Wut, Unwissenheit, Einbildung und Zweifel. Verwirrung sind die fünf Gifte Gier, Wut, Unwissenheit, Stolz und Zweifel. Reichtum, Farbe, Nahrung, Schlaf und Gier sind die fünf Wünsche. [Band 81 von „Mahavipasha Lun“; Band 24 von „Kusha Lun“; Band 17 von „Mahayana Chapter“] Die vier Früchte des Einsiedler-Arhat sind echte Menschen: Sotapanna, Situagami, Anagami und Arahant. Sie sind jeweils die erste Frucht, die kommende Frucht, die nahe Frucht und die Fruchtposition. In Sotapanna werden die drei Knoten Körpersicht, Abstinenz, Anhaftung und Zweifel gebrochen, und man kann den Dharma sehen, den Dharma kennen, den Dharma erlangen und einen klaren Blick für den Dharma haben. Situohan hat eine feste Sicht auf den Körper und enthält sich von Habgier, Zweifel, Gier und Hass. Das Reich der Entkommenen. 1. Selbsterkenntnis und Selbstverwirklichung, 2. Keine Abflüsse und keine Gnade, 3. Der Körper leidet und der Geist leidet nicht, 4. Rein, 5. Furchtloses und reines Dharma-Auge, 6. Die acht Winde sind unbewegt, 7. Der Schlamm ist makellos. Wenn Sie Gier, Wut, Unwissenheit, Stolz, Zweifel und Probleme abschneiden, wird es keine Abflüsse geben; wenn Sie die sieben Emotionen und sechs Wünsche abschneiden, wird es keine Wünsche geben. Die acht Winde sind Gewinn und Verlust, Zerstörung und Ruf, Lob und Spott, Leid und Glück.
EN.
The Diamond Sutra's Nine Classes of Afflictions Eighty-one classes of cultivation afflictions. In the first stage, there are nine classes of depravity, nine classes of countermeasures, nine paths, nine liberations, and nine uninterrupted paths. The nine stages are the four meditations and four concentrations of the desire realm. The desire realm has four afflictions of greed, anger, arrogance, and ignorance, and the four meditations and four concentrations have three afflictions of greed, arrogance, and ignorance. Cultivation afflictions are divided into nine classes from the highest to the lowest. Each time this class is eliminated, there are two paths of uninterrupted paths and liberation. Eliminating afflictions is the uninterrupted path, and gaining wisdom after elimination is the path of liberation. There are two eliminations of leakage and non-leakage, leakage is affliction. Ignorance is divided into view affliction, thought affliction, dust and sand affliction, and ignorance affliction. There are ten kinds of view afflictions, namely, body view, extreme view, view attachment, precept attachment, wrong view, greed, anger, ignorance, arrogance, and doubt. Thought afflictions are the five poisons of greed, anger, ignorance, arrogance, and doubt. Greed for the five desires of wealth, sex, fame, food, and sleep. 〔Mahāvibhāṣā-śāstra, Volume 81; Abhidharmakosha, Volume 24; Mahāyāna-yisāṇa, Volume 17〕 The four fruits of the śramaṇa are the true people, the path of Sotāpanna, Sakadagami, Anagami, and Arhat. They are the first fruit, the fruit of the coming, the fruit of the not far away, and the fruit position. Sotāpanna cuts off the three fetters, namely, the view of the body, the attachment to precepts and prohibitions, and doubt, and can see the Dharma, know the Dharma, obtain the Dharma, and obtain the pure Dharma eye. The fruit of Sakadagami cuts off the view of the body, the attachment to precepts and prohibitions, doubt, greed, and anger. The realm of the liberated. 1 Self-knowledge and self-realization, 2 No leakage and no sentient beings, 3 The body is painful but the mind is not painful, 4 Pure, 5 The Dharma eye is pure without fear, 6 The eight winds are not moved, 7 Out of the mud but not stained. Cut off greed, anger, ignorance, arrogance, doubt, and noon afflictions to be free from leakage, and cut off the seven emotions and six desires to be free from desire. The eight winds are profit, decline, ruin, reputation, praise, ridicule, suffering, and happiness.
JP.
『金剛経』第九位難題 疑念を育てる81レベル。 9 つのレベルの悪徳が 1 か所にあり、9 つの道を治すことができ、9 つのレベルの解放と 9 つのレベルの不中断に分けられます。 九所とは欲界、四禅、四集中のことである。欲望の領域には、貪欲、怒り、傲慢、無知の 4 つの混乱があります。瞑想と集中の 4 つの状態には、貪欲、傲慢、無知の 3 つの混乱があります。疑いを育てるには、上から下まで 9 つのレベルがあります。このレベルが突破されるたびに、中断されない生命と解放への 2 つの道が存在します。悩みを断ち切ることが���限への道であり、悩みを断ち切って知恵を得ることが解脱への道である。漏れと漏れがないことは別のことです。漏れは苦痛です。無知は、見ることの混乱、思考の混乱、塵と混乱の混乱、無知の混乱を区別します。迷いには、身体観、側面観、観への執着、棄権への執着、邪見、貪欲、怒り、無知、うぬぼれ、疑いの十種類がある。迷いは貪欲、怒り、無知、傲慢、疑いの五毒です。五欲の富・色・食・睡眠・貪欲。 【『大乗』巻81、『クシャ・ルン』巻24、『大乗篇』巻17】 隠遁羅漢の四果は、ソタパンナ、シトゥアガミ、アナガミ、アラハントという実在の人物です。それぞれ、最初の果実、次の果実、近い果実、および果実の位置です。ソータパンナでは、身体観、禁欲、執着、疑いの三つの結び目が壊れ、人はダルマを見ることができ、ダルマを知り、ダルマを得ることができ、ダルマに対する澄んだ目をもつことができます。シトゥオハンは身体に対して確固たる見解を持っており、把握、疑い、貪欲、憎しみを避けます。 逃げ出す者の領域。 1. 自己認識と自己実現、2. 流出も慈悲もない、3. 身体は苦しみ心も苦しまない、4. 純粋、5. 恐れることなく純粋な法眼、6. 八風は動かない、 7. 泥は汚れていない。 貪り、怒り、無知、傲慢、疑い、煩悩を断ち切れば流出はなくなり、七情六欲を断ち切れば欲望はなくなる。八つの風とは、利益と損失、破壊と評判、賞賛と嘲笑、苦しみと幸福です。
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佛教小學堂- 你修行了嗎? #佛教動畫 #佛教 #佛學 #佛陀 #修行 #你修行了嗎 #貪瞋痴 #八風 #佛教慧燈
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佛教小學堂- 你修行了嗎?
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淨土大經解演義 淨空老法師
淨土大經解演義 (第九集) 2010/4/13 香港佛陀教育協會 檔名:02-039-0009
諸位法師,諸位同學,請坐。請看經本第七面倒數第六行,「又契機者,亦寓契合時機之義」,這是念老將本經是契機之獨勝,也就是特別殊勝,介紹完了之後,又告訴我們不僅是三根普被,利鈍全收,它還契合時代。這個時代是各個不同的時代,各個不同的地區,各個不同的文化背景,它統統都適合,這樣的經的確是不好找,這部經就是的。下面說「如來垂慈」,這指的是釋迦牟尼佛,也是說的阿彌陀佛,非常慈悲。「獨留此經於諸經滅盡之最後百年」,我們在《法滅盡經》,釋迦牟尼佛說將來佛法到衰滅時候的狀況,一切經都滅盡,都不存在,最後《無量壽經》還流傳一百年,這最後的一百年。《無量壽經》留下來的是哪一種本子?這也是當代的一些大德,不是我們現在的,應該是黃念祖居士那個時代,比我還要早一輩,我的老師們這一輩的人,肯定夏老居士這個會集本。為什麼?前面都跟諸位介紹過,這本子道道地地是淨宗第一經的標準本,它是五種原譯本的集大成,確實是淨宗第一經的善本。這個我們聽了之後一點都不懷疑,確實是這部經。夏老居士出現在這個時代,我們相信他是再來人,他就是來做這樁事情的,黃念祖老居士出世,也就是為這個本子做個註解,這是他們來到這個世間特殊的任務,他們完成了。由此可知,末法往後還有九千年,所以我們講不同的地區、不同的時段、不同的文化,它統統都能適應。
「正表此經能契於當前及未來之社會也」,無論哪個地區所需要的,就是這個本子。「當前科學發達,人類應具之知識彌廣」,我們所需要的知識就愈來愈多,是不是一樁好事情?實在講不是一樁好事情,真正修道的人不需要學這些東西。我們老祖宗、古聖先賢早就給我們說過,道家所說的「為道日損,為學日益」,為學就是此地講的,現在的科技發達這是為學,這個東西你天天要增長,你的知識面;可是為道,天天要放下,統統都放下你的道就成就。道是什麼?道是你自己本有的。你現在的道不能現前,就是你有障礙、你有煩惱,佛家講業障。障礙之多,無量無邊、無盡無數,可是歸納起來不外乎兩大類,煩惱障跟所知障。這兩大類都障礙你見性,都障礙你清淨心,障礙你的平等心。「清淨平等覺」就是道,這是這部經的經題,我們修道就是修這個東西。如果這個心地一年比一年清淨,你的道業就在增長。無論修學哪個法門、哪個宗派,中國是大乘佛法十個宗派,法門,法是方法,門是門道、門徑,是回歸自性的門徑,經上所說的八萬四千,八萬四千法門是對治八萬四千煩惱。菩薩非常了不起,能把十善業道展開為八萬四千細行,這功德圓滿,成佛了。
清淨平等覺得到,那是什麼樣的境界?經題的上半部,上半部講的是果,下半部是因,修因就證果。果第一個「大乘」,大乘是智慧,自性本具的般若智慧現前。智慧不是學來的,知識是學來的,智慧不是學來的,從清淨心裡面生的。「無量壽」是德,「莊嚴」是相好,你看這不就是《華嚴經》上講的,「一切眾生皆有如來智慧德相」!經題上就是如來智慧德相,「大乘」是智慧,「無量壽」是德,「莊嚴」是相,你就得到。這在什麼時候?這在諸佛如來的實報莊嚴土,你把清淨平等覺修成,你就回到實報莊嚴土。這個經題好,不是會集的人自己立一個題目,像王龍舒居士他會集叫《大阿彌陀經》,魏默深的本子是《無量壽經》,他都是自己立的一個題目,唯獨夏老連題目都是會集的,真的沒有在上加一個字,這才叫標準的會集本,連題目都是會集的。題目的上一半是宋譯的經題,下面「清淨平等覺」漢譯的,原本的經題也把它會集起來,意思就更明顯了。
底下給我們說,「社會進步,每人所肩之責任倍增,故咸應廣學多能,鞠躬盡瘁,參加建設,造福人民,實現人間淨土」。我們讀這一句,應該知道如來、菩薩無方應化的事跡,確實像《普門品》裡面所說的,應以什麼身得度他就現什麼身,應以什麼方式來幫助眾生、來成就眾生,他就用什麼方法,沒有一定的方法。所以佛為我們講經說法,不可以執著,執著就錯了。你要是執著,佛告訴你,他沒說法,他不承認他說法。《金剛經》裡就有這個意思,你要說佛說法,佛說你謗他,你毀謗他,他沒說法,一個字也沒說。沒說法說了四十九年,我們怎樣去體會?清涼大師講得好,佛說的話是真的不是假的,清涼大師在《四十華嚴》經題裡面講過這麼一句話,世尊四十九年所說的一切法,全是古佛所說的,釋迦牟尼佛沒有在古佛所說經教上添加一個字。比我們孔老夫子所說的「述而不作,信而好古」,說得還要嚴謹,夫子只是說述而不作,佛說的沒有在古佛所說經典上多加一個字,這了不起,人家為什麼能成佛、成菩薩,關鍵就在此地。現在人心浮氣躁,原因是什麼?原因就是要學得要創造、要發明,自己要有東西出來,不服古人。
古人跟我們確實不一樣,古人他佩服古人,他仰慕古人,他向古人學習,從來沒有個意思說創新,跟現在科學的思惟是背道而馳的。古人這種想法是對,還是現在人對?如果我們把《還源觀》學透了,我們就知道古人的態度對的,現在科學概念上是錯誤的。為什麼?古人證到圓滿,像個圓球一樣他證得的,這圓球上你不能加一點,加一點它不圓;也不能少一點,少一點也不圓,圓圓滿滿不增不減。古佛證的是這個,今佛證的也是這個,所以今佛如古佛之再來,我們就明白了,今佛所說的一切法跟古佛所說的一樣,不增不減。這個意思、這個事實真相,現在人能體會的不多。所以我也常常說世出世間這些大聖,他們修學的態度是我們後學最好的榜樣。所以這一次我們特別選的,黃念祖老居士的註解我們來學習。黃老的註解你仔細看看,是不是述而不作?每解釋一段經文、一句經文,引經據典,再不然就是古大德他們的解釋。古大德也是根據經典,沒有自己發明的,沒有自己創造的,我們要懂。我們煩惱習氣這麼重,分別執著這麼重,這就要知道,道道地地的凡夫,如何能轉凡成聖?那就得向聖人學習,學老實、學乖,真聽話。經教我們行嗎?��講經嗎?沒有這個條件,智慧、德能都不夠格。
我早年到台中親近李老師,是跟他學佛的,正好他那個時候辦了一個經學班,培養講經的學生。他要我參加,我自己衡量自己,沒有這個智慧、能力,我不敢,我說我聽經,聽你老人家講經學習,講經我想我沒有這個能力。老師讓我到他班上去看看,當然看看我可以,去參觀一下,以這個善巧方便的方法把我領進門。我跟老師說我們不能講,結果一發現老師教講經的方法,原來是講古人的註解,古人註解看不懂,講現在人的註解,白話的註解,是這樣講法的。我就問老師,怎麼是這個學法?沒法子,不得已而求其次,現在沒人講經,我們不發心怎麼辦?誰出來?沒人了。經講錯了,錯一個字可不得了,古大德所說的,講錯一個字,這本來是禪宗的公案,「錯下一個字轉語,墮五百世野狐身」,你得負責任。你講錯一個字,你看看墮畜生身五百世,多可怕!老師告訴我,我們沒有資格講,講註解,講古人的註解,古人註的是文言文,我們現在把它用白話文翻出來,這個辦法。錯了,錯了是他錯,我沒錯。如果說是文言文看不懂,咱們看現在白話文,我就照他那個講。漏掉了沒有關係,可不能自己添自己東西,責任他負,我們學講經是從這裡做起步。到什麼時候你自己能講?開悟了,沒開悟那就得講別人的。
佛開悟了,祖師大德當中很多是開悟的,開悟了他也不離開佛菩薩,完全依靠佛菩薩的遺教,沒有一點新的意思。信而好古、述而不作,這個態度我們應當學,應當認真的學習。學習能不能有成就?那要看你學習的心態。什麼樣的心態能學成功?印光大師說得很好,誠敬,他說「一分誠敬得一分利益,十分誠敬得十分利益」。什麼叫誠?我很誠敬,我十二分誠敬,那是他自己的標準,不是佛菩薩、聖賢的標準。佛菩薩、聖賢的標準,誠是什麼?什麼叫誠?曾國藩先生在他讀書筆記裡面,將「誠」下了個定義,他怎麼解釋?「一念不生是謂誠」。人家有學問、有德行,講得不錯,念是什麼?妄念。你還有個妄念,不誠!在佛法裡面講,你還起心動念,起心動念是無明煩惱,你哪來的誠?分別執著那是大風大浪,嚴重的煩惱。所以佛告訴我們,你能把世出世間一切法不再執著,面對世出世間一切法,決定沒有執著,恭喜你,你證阿羅漢果,你就超越六道輪迴。如果你再更進一步,六根接觸六塵境界,分別也放下,不再分別。跟諸位說,執著放下,清淨心得到,清淨心生智慧;分別放下,平等心得到。清淨心是菩薩心,平等心是佛心,最後能把起心動念,就是妄念也放下,念頭都不生,恭喜你,你成佛。為道日損,要把妄想分別執著統統放下!一年比一年輕,你的道業就在進步。如果一年比一年還嚴重,你適得其反,你是在學道,那道不是佛道,是什麼道?應該是六道,你在修六道輪迴。修六道輪迴有善、有惡,善的三善道,不善的你就是修的三惡道,都在修道,都叫道,這都不能不知道。所以菩薩應化在世間,我們要能細心去體會,好好的來學習,提升自己的境界。真的,佛講的兩句話大家都會念,可是你沒去做,「勤修戒定慧,息滅貪瞋痴」,這真做功夫。
我們現在要認真問自己,淨業三福,不僅僅是淨宗的指導最高原則,也是整個佛法指導原則。第一條裡面所說的「孝養父母,奉事師長,慈心不殺,修十善業」。我們做到沒有?這是什麼?這是學佛的基本條件,我們要不具足那沒有資格進佛門。進佛門是有條件的,什麼人?善男子善女人。這個善就是這四句,這四句就是儒釋道的三個根,孝親尊師在《弟子規》裡頭,慈心不殺在《感應篇》裡面。所以你能夠把《弟子規》、《感應篇》、《十善業》真正落實,真正做到,你就是標準的善男子善女人,這個條件才能夠入佛門受三皈五戒。第二福這是真正佛門弟子,「受持三皈,具足眾戒,不犯威儀」,前面條件不具足沒有資格來受。可是現在怎麼?現在我們不具條件的也都受了。章嘉大師告訴我,受了怎麼辦?受了學。千萬不要認為我受了戒,我已經得戒,不可以這樣說,這個說是什麼?這叫大妄語;大妄語,你沒有得到,你自己以為得到。
這個話最早蕅益大師講的,蕅益大師明朝末年人,明末清初,雖然是淨土宗的祖師,第九代的祖師,他在戒律上下了很深的功夫。所以像近代弘一大師,大家知道弘一大師研究戒律。在那個時候蕅益大師研究戒律的,他戒律的著作也很多。他告訴我們,中國從南宋以後就沒有比丘,那個比丘是名字比丘,有名無實,比丘戒做不到,沒有比丘。要傳出家戒,傳出家的比丘、比丘尼戒,至少要五個比丘才能傳,沒有五個比丘傳這個戒,受戒的人不能得戒。他說南宋以後就沒有,名字比丘不是真的。所以勸導大家你可以去受,知道這是形式,受了以後要學,真正學一條你就得一條,你得做到。我們受五戒的人很多,很普遍,受在家菩薩戒的人也不少,五戒有沒有做到?不要說別的,不妄語做到沒有?常常說瞎話有意無意,沒做到!不殺生、不偷盜、不邪淫,你去想一想哪一條做到?還說我受了滿分的五戒,滿分的優婆塞、優婆夷。五戒都做不到,菩薩戒更不必說,所以有名無實,這個我們要知道。這種做法這是欺騙諸佛菩薩,我什麼壞事都沒做,你受戒做不到這個罪就很重。怎麼個結罪法?犯了什麼罪?破壞佛教形象你承不承認?人家一看佛教,你看這佛教徒是這樣的,他不罵你,他把整個佛教都罵了,連諸佛菩薩都罵了,要懂!
在家的信徒十善做不到,十善、三皈、五戒做不到;出家的這些弟子們,沙彌律儀做不到,不但沙彌律儀,三皈、五戒、十善也做不到。你說佛教怎能不衰?佛教衰在哪裡?戒律沒有了。你看佛法信解行證,你有信有解沒有行,證就不談,沒有行怎麼會有證?只有信解,信解就變成學術,變成佛學;有行、有證那就變成學佛。學佛跟佛學不一樣,佛學是能說不能行,學佛是能說又能行。所以我們今天在這個時代,找一個善知識到哪找,找不到!所以老師才教我,李老師當年在世,他老人家非常謙虛,我拜師,行拜師禮跟他學。他老人家跟我說,我只能教你五年,五年之後怎麼辦?他給我介紹一個老師,是他的老師印光大師。印光大師不在了,《文鈔》在,你天天念《文鈔》就是親近印光大師。把印光大師教訓記住,認真努力去落實,你就是印光法師的學生。開一個門,就是現在找不到真正善知識,古人有,做古人的私淑弟子,我的老師介紹我做印光大師的私淑弟子。我這麼多年在海外各地講經教學,我不敢自己認為是老師,沒資格,我也學老師的方法,給大家介紹一個老師。我介紹的是誰?釋迦牟尼佛、阿彌陀佛這兩個老師好,跟他準定不錯。
這老師在哪裡?《無量壽經》就是的,《阿彌陀經》就是的,一門深入,長時薰修。經看不懂,看不懂找助教、找幫手,哪些是助教?註解經的人就是助教。《華嚴經》看不懂,找清涼大師、找李長者,他們的註解就幫助我們學習。《彌陀經》看不懂,找蓮池大師他有《疏鈔》,蕅益大師他有《要解》,幽溪大師他有《圓中鈔》。《無量壽經》,在這個本子沒有出來之前,一般人學《無量壽經》都是學康僧鎧的譯本,五種原譯本比較起來,他這個本子比較好,流通也很廣。隋朝慧遠大師有註解,他跟我們淨土宗初祖法名完全相同,廬山慧遠大師是中國淨土宗第一代祖師。所以隋朝也叫慧遠大師,在佛門裡面叫他做小慧遠,聽小慧遠就知道是隋朝的慧遠大師,看他的註解。我們在台中那個時候學《無量壽經》,這個本子還沒有傳到台中的時候,李老師講《無量壽經》就是講小慧遠的註。所以古人註疏幫助後來的同學。現在工具多了,用錄音、用錄像來講解幫助後人,那就太方便了。我們建立個道場,這個諸位要記住,印光大師這一代祖師有德行、有智慧,他老人家教導我們,在現前這個社會狀況之下,建道場重質不重量,重實質不重形式。道場不要大,小茅蓬是最理想,住眾不要超過二十個人,容易維持。志同道合的這些同學在一起共修,一個方向、一個目標,決定求生淨土。小茅蓬住二十個人,住在裡頭的人心都清淨;如果建一個大的寺廟富麗堂皇,就有多少人在盯著想爭。
釋迦牟尼佛清楚,所以當年一生在世講經說法四十九年,沒有建一個道場,連小茅蓬都沒建過。為什麼?現在我們明白建道場就有人起惡的念頭。什麼都沒有,三衣一缽,日中一食,樹下一宿,你還爭什麼?所以每一個人心都清淨,沒有爭的。這個示現好,這個示現叫慈悲到極處,他真的叫代眾生���,為什麼那麼做法?做出樣子來給後人看。我們今天的身體實在講跟佛陀不能比,跟佛的弟子也不能比,人家是長年累月,晚上就樹下一坐,不怕風吹雨打,經上講「金剛不壞身」,人家有德行。我們現在不行,我們現在到樹底下住一晚上,第二天大概到加護病房去了,沒有人家的德行。相隨心轉,人家心清淨,我們達不到那個清淨的程度,所以這是不能不知道的。在今天的社會,我們又不能離開社會,小道場天天認真學習,把學習的功德迴向給社會、迴向給一切苦難眾生,消災免難,這個事是真的嗎?真的。佛在經上講得不錯,「一切法從心想生」,有這麼一批人以清淨心天天在做祈禱,真誠的祈禱就能產生效果,這是對社會。社會有人不相信,古今中外有很多靈驗的事跡,現在有沒有?現在也有。逐漸科學也慢慢給我們印證,證明境隨心轉,證明相由心生,真有德行他真有感應。沒有德行呢?沒有德行也得要參與社會的福利事業。外國的宗教對於這些他們很重視,他們辦養老院、孤兒院、育幼院、醫院,做得很多,我也看得很多,熱心做這些社會慈善福利事業。在佛門這是附帶做的,真正要做的是自己提升境界,成就道德、成就智慧,你才能真正幫助苦難眾生,真正有能力去化解災難。
「晚近太虛法師提倡人間淨土」,這也是我們的上一代,對於中國佛教有相當的貢獻,也有不少著作。「曾詳引《無量壽經》文句」,在他的講演當中,引用《無量壽經》的經文很多。「蓋以此經雙照世出世間」,這一部經佛所講的世間法講得不少,出世間法也很多。「詳示真俗二諦」,佛依二諦說法,這是講經教學的一個總原則。諦是什麼?用我們現在普通話來說,是真理、真實,實實在在的。兩種,一種是俗諦、一種是真諦,俗諦是世間法,真諦是佛法,世出世間都照顧到。真諦是明心見性之後你所見到的諸法實相,是我們一般世間人很難理解的,它是真的。我們的修學程度沒有到那程度,佛不給我們說這個,佛給我們講世間法,也就是說我們的常識,佛很清楚。佛說我們世間人一般的常識,我們很容易接受、很容易懂,跟我們講父慈子孝、兄友弟恭,我們聽了很歡喜,這是世俗諦,這不是真諦。真諦給我們講萬法皆空,這我們就不懂,我們明明看到一切法現前,怎麼是空?佛怎麼是空?這咱不懂。那是真諦,是屬於高等哲學,不是一般人能懂的,佛是看眾生的根性,看你的程度給你說法。所以在整個佛法裡面,小乘都講俗諦,真諦也說,很少。大乘法裡面真俗諦都講,連一乘法,一乘法是《法華》、《華嚴》,那裡面也有俗諦、也有真諦,不是完全講真諦。
「夫淨宗之妙,在於不離佛法,而行世法,不廢世法,而證佛法」。這是淨宗的殊勝,真是巧妙。下面說「因持名之法,最為方便,隨地可修」,隨時可修,隨處可修,心裡面一句佛號,要真正做到大勢至菩薩講的標準,「都攝六根,淨念相繼」,真的不是假的。把六根管住不往外跑,非禮勿視、非禮勿聽,管住!六根不向六塵境界去跑。凡夫,外面六塵境界引誘你的六根,你在造業;真能管住,對外面境界看不看?看。看怎麼?沒放在心上,視而不見、聽而不聞,沒走心,這叫功夫。心裡是什麼?心裡面是阿彌陀佛,除了阿彌陀佛之外什麼都沒有,跟你談話交流,這世間法,心裡面的佛號沒斷。不是說我有事情辦事,我把念佛放下來,那是什麼?那是功夫還不夠、不到,初學的人要這樣做法。特別是用思考,你暫時把佛號放下,你去辦事,事情辦好之後再念佛。如果得到念佛三昧就沒有這個障礙,二六時中他佛號不間斷,做得到,不是做不到。
我早年在台灣,有一年過年,有一位老居士過年的時候來看我,也是我們華藏圖書館的老信徒,她來告訴我:法師,我現在心很清淨,我什麼都放下,可是就是孫子放不下。她念佛的功夫很好,孫子放不下,我就告訴她:「你能把阿彌陀佛想成是你的孫子,你就成功了。」她並沒有念孫子、孫子,沒有念,她心裡真有孫子,時時刻刻都有孫子的影子,阿彌陀佛掛在口上,裡頭心裡是孫子。所以我教她一個方法,換一換,把你孫子換成阿彌陀佛,你就成功了。心上真正有!那叫做念佛,「憶佛念佛,現前當來必定見佛」,大勢至菩薩說的。我們如果一心一意就想極樂世界、就想往生,這不往生麻煩可大了,不往生就得搞六道輪迴,六道輪迴實在太苦,不想再搞。這六道裡面東西不再去沾染它,你心就定了,什麼都不想。每天三餐飯吃飽就行,什麼都不要講究,能吃飽就夠了,衣服能夠禦寒就行了,有個小地方可以睡覺,就夠了,還要什麼?你就知足,知足就常樂。心裡面沒有一絲毫負擔,身心都沒有壓力,你說多自在。心裡真有佛,這樣的功夫快則一年,慢頂多三年,你念佛三昧就得到,念佛三昧是什麼?清淨心。《無量壽經》的經題裡「清淨」,你得到了,清淨心生智慧,不再生煩惱。什麼時候往生?在這個境界裡,想什麼時候往生就什麼時候往生,你這一想,阿彌陀佛就來了。有壽命,壽命不要,現在就去行不行?行,你的信息送到阿彌陀佛那裡去,這裡一起念阿彌陀佛就知道,他就來接引。沒有這個功夫不行,怎麼想也想不來,為什麼想不來?你是妄想,佛不來,你對這個世間拉拉雜雜的還沒放下,真放得下隨時可以去。
這個世界這麼苦,受這麼多年苦,還有什麼好留戀的?生到極樂世界永遠離苦,離苦得樂,為什麼不幹?實在講貪生怕死。如果有個念佛堂在這裡開著,告訴大家,「到我這裡來念佛,七天肯定往生」,你看有沒有人敢來?不敢來。天天求往生,七天準定往生,這念佛堂一個人都不敢來,假的不是真的,口是心非。這是我們明瞭之後得真幹,道理統統搞清楚、搞明白了。
確實不離佛法而行世法,世法、佛法一點障礙都沒有。無論做什麼工作,心裡佛號不間斷,這叫功夫成片,生西方極樂世界凡聖同居土。但是不要緊,世尊明白的告訴我們,生到西方極樂世界圓證四土。這種殊勝的果德到哪裡求?八萬四千法門只有這一門有,其他的沒有。所以遇到這個法門多難得、多不容易!遇到了不肯幹,當面錯過,這個罪很重,對不起自己,對不起佛菩薩,對不起父母,對不起祖宗,因為你一往生成佛,你的家人都得度。無論他在哪一道,你都看得清清楚楚的,他有苦有難你就能幫助他,他跟你有緣,所以他有感你就有應。他在受苦受難,希望有人幫助他,那就是感,你跟他有緣,你立刻這個信息就得到,你真的能幫助他。不廢世法,而證佛法,不廢跟不離是一個意思。世法是什麼?給諸位說,《弟子規》是世法,《感應篇》是世法,《十善業》也是世法,你看看,這三樣東西用在自己日常生活當中,用在自己工作當中,用在自己處事待人接物,世法!給世間人做好榜樣。心裡面是阿彌陀佛,這就成功了。這些世法不但沒障礙你,你在那個地方累積功德,到極樂世界提升自己的品位。你做了多少好事,在社會上做很好的榜樣,你的清淨心人家看不到,可是你的弟子規、感應篇、十善業,人家看到,改變今天社會風氣需要這個。老祖宗留給我們的都是好東西,他對於子孫多麼愛護,無比的深恩大德。我們現在這一代的子孫不孝,不能體會祖宗的愛,把他們的教誨丟在一邊,還說它過時了,這樣的心態,你說能不遭報應嗎?我們真是難得,在這個時代、這樣的年齡遇到,才覺悟、才明白,趕緊回頭認真來學習,自利利他,利他就是自利。你自己不認真學習,你沒辦法利他;自己真學,真得到好處,別人看到他就來學習,表現得好。
我記得我們早年在美國住,附近的鄰居都是美國人,我住的一棟小房子跟韓館長是對門。這些鄰居對我們很羨慕,有一天早晨,我們出去散步,外面是公園,我們鄰居看到我,他跟我們講,他看到我們每天都是那麼快快樂樂的,都是滿面笑容,他說:你們是做哪一個行業的,為什麼這麼快樂?我們告訴他:我們是念佛的。他說:「什麼叫念佛?」機會教育來了。「念佛學的是什麼?」我們就告訴他:念佛學的是智慧。他聽了,這個要,他也想學。我說:第二個長壽,第三個快樂。他們說:我們要!他們都是一些基督徒,星期天都上教堂去的,那我就勸告他,「星期六到我們佛堂來,學智慧、學長壽、學快樂,星期天你們上教堂,不違背,你們那裡有神,我們這裡有老師。」佛是我們的老師,他不是神,真的以後人慢慢就多了,附近都來了。所以他是先看,看了好幾個月才來跟我們接近,慢慢他就懂了。所以我說信仰宗教跟學佛不衝突,你們信仰宗教,神是你們的父,你們是父子關係、主僕的關係,你到我們這裡來,跟釋迦牟尼佛是師生關係,你在家有父母,在學校有老師,怎麼會衝突?他們聽了很高興,不衝突。
下面黃老給我們提醒,「隨地可修,何待遁入山林,隨時可念,不勞閉關宴坐」。這就講不必去找一個阿蘭若,阿蘭若是梵語,就是找一個清淨地方,隨時可以修。香港是最繁華地方,可不可以修?可以,不礙事,這比修其他的法門方便。譬如學禪、學密那環境的影響很大,都要找一個清淨的地方,叫蘭若,意思是清淨,很安靜。標準呢?古時候牛叫的聲音聽不到,以這個為標準。農村裡養牛,牛叫的聲音最大,你這個地方是村莊牛叫的聲音聽不到,叫清淨道場。念佛是得要有福報,咱沒這個福報的時候鬧區也行,也能學得成功。所以不必要遁入山林,也不需要閉關宴坐,宴坐是靜坐。現在這個社會小家庭,工作都非常忙,哪有時間去打坐?所以這個法門就殊勝,這個法門一點障礙都沒有。「但發廣大覺心,一向專念名號,下至十念一念,亦得往生,不誤世間工作,依舊頓脫生死,既能自覺覺他,廣度眾生於未來,亦復自他俱利,造福社會於當世」。這是真的事實,說明這個法門適合任何一個時代,特別是現在的社會科學技術發達,人們的工作忙碌,是分秒必爭,科學技術日新月異,你要不認真學習就會落伍。尤其是科技這個行業,我們看到他們的培訓班,半年就要去再教育,更新的東西出來,都要去學習一個星期到兩個星期,接受新的東西。有的時候三個月要受一次培訓,一年兩次到三次,這是不能少的,確實是很繁忙,生活在這種社會,你要想成就道業不容易。但是淨土這一門給你帶來方便,把你的難題化解了。
下面說,「是故經云,當來之世,經道滅盡,我以慈悲哀愍,特留此經止住百歲,其有眾生,值斯經者,隨意所願,皆可得度」。這是《無量壽經》後面的經文,釋迦牟尼佛為我們介紹的。「當來之世,經道滅盡」,肯定不是現在。所以世界上許多預言家都講世界末日,這外國宗教也講世界末日,世界是不是有末日?這都有問題。佛法不是這樣說法的,佛法講法運,釋迦牟尼佛的法運一萬二千年。給諸位說,諸佛出世的法運不一樣,實在講佛哪有法運?這運是眾生,正法、像法、末法都是眾生。我們認真肯學那就是正法,聽了之後不願意做那就是像法,聽都不願意聽那就是末法。所以佛的三種法運是從眾生說的,不是從法說的,佛沒有這問題,法也沒這問題,實在是人的問題。我們對於佛法有這樣強烈的愛好心,那這就是正法,我們今天這樣的學習,跟釋迦牟尼佛在世那個時候一般人學習,有什麼兩樣?沒有兩樣。他們跟釋迦牟尼佛一生能成就,我們今天遇到這個法門,一生也保證成就,這是正法。可是人的根性,佛是看出來,的確一代比一代差一等。到九千年之後,我們現在慢慢也能想到一點,眾生造的業累積,累積的惡業愈多,這個人的好���就沒有了,居住的環境跟著變,風水輪流轉,福人居福地。這地方風水不好,可是這個人是有福報的人,他到這裡來一住,兩年、三年風水又變好了,會變。這個地方風水寶地,那個人缺德造作惡業,他在那裡住上三年,風水都變壞了,境隨心轉。這個地球是一塊寶地,地球上的人都能夠隨順性德,修十善,不造十惡,這一塊寶地什麼災難都沒有,它會變得跟極樂世界一樣。
極樂世界,你看世尊給我們介紹,《彌陀經》裡面講的,那個地方的人皆是上善俱會一處,不是普通的善,上善。上善標準並不很高,佛告訴我們,我們修上品十善,我們不想到極樂世界去,來生到哪裡去?來生到天道,忉利天以上是上品十善;往生到西方極樂世界凡聖同居土,這上善,那個地方什麼災難都沒有。中品十善這得人道,下品十善阿修羅道,這三善道。往生西方極樂世界的人不只上善,除了上善之外,他覺悟,他不迷,在我們這個六道,上善到天上還是迷而不覺,他沒悟。怎麼知道是悟了?這個經上講得很清楚,一個人真正發菩提心就是覺悟。發心決定要求生西方淨土,這個念頭就是覺悟,為什麼?你要離開六道輪迴。不但要離開六道輪迴,你脫離十法界,脫離十法界是什麼人?菩薩。阿羅漢做不到,阿羅漢只是脫離六道輪迴,沒有脫離十法界。你發這個心,你要生極樂世界,縱然是凡聖同居土下下品往生,也脫離十法界了。雖然不是大徹大悟,他所得的果報跟那個大徹大悟的人沒兩樣,這是稀有的法門。真發心,不要再留戀這個世界,不但這個世界不留戀,華藏世界都不留戀。你嚮往華藏世界,你去不了,你要真正做到不起心、不動念、不分別、不執著,你才能生華藏世界,你說多難。可是到了極樂世界就是華藏世界,華藏世界裡面,最殊勝的一個寶地就是極樂世界。我早年在新加坡講這個經,給同學們做比喻,他們對華藏、極樂總認為這是兩處。我告訴他不是兩處是一處,我說華藏世界好比是新加坡,華藏世界,極樂世界好比是烏節路,他們最繁華的一條道路烏節路,華藏世界裡頭最精華的地方。生到極樂世界就生到華藏,生到華藏還沒有到極樂世界,也會去,文殊、普賢十大願王導歸極樂,還是會去的,沒有直接往生那麼樣的了當。所以這是我們得認清楚,你才真正放下萬緣一心歸依彌陀淨土。
這段是引本經,《無量壽經》上這段經文,釋迦牟尼佛說的,「當來之世,經道滅盡」,跟前面講的意思一樣,「我以慈悲哀愍,特留此經止住百歲」。我們要知道,這部經是世尊當年在世多次宣講,這一定要記住。佛在世的時候,任何經典只是講一遍,沒有重複的,唯獨這部經多次宣講,為什麼?就是希望這個經能夠到法滅盡了,最後滅的一部經。「其有眾生值斯經者」,值是遇到,也就是到法差不多滅盡,經道都沒有,只剩下這一部經,你要是遇到。「隨意所願,皆可得度」,你想到極樂世界,行!你念佛能往生,你想生天也行,你想來生到人道也行,隨意所願,都能滿你的願。「良以此經符合社會之實況」,它的確像《華嚴經》裡面所說的,理事無礙,事事無礙,這個法門是無障礙的法門。「真俗並照,事理雙融,凡聖齊收,心佛不二」,心佛不二是真諦,前面跟你講的凡聖齊收是俗諦,這個意思我們留到後面再說,這經裡面很多。「故能長存而獨留於末世」,末世就是末法時代。
「良以此經不但為淨土群經之綱要,一大藏教之指歸,實亦為此界他方、現在未來一切有情離苦得樂究竟菩提之法要」。這還得了嗎?真的,一點都不假,不但是淨宗的綱領、精要,釋迦牟尼佛四十九年講的一切經,最後的指歸就是淨土。《華嚴經》最後是淨土,十大願王導歸極樂。《法華經》龍女八歲成佛,是聽文殊菩薩也是講《法華經》,她聽懂了,發願求生淨土,成佛了。在一切經裡面,佛專講淨土的這三部經,《無量壽經》、《觀無量壽佛經》、《阿彌陀經》,這專講的,這三經,《無量壽經》多次宣講,講一切經附帶的有一百多部。所以古大德講「千經萬論,處處指歸」,特別是歷代的祖師大德、諸大菩薩,無論宣講什麼樣的法門,都附帶著勸大家念佛求生淨土。唯獨這個法門理事無礙,事事無礙,無論什麼樣的根性都能夠修、都能成就,就像善導大師所說的「萬修萬人去」,萬人根性不相等,沒有一個不成就。所以確實是此界他方,此界是指娑婆世界,他方是指一切諸佛剎土,現在未來,這是此界他方的現在未來。一切有情離苦得樂究竟菩提之法要,究竟菩提就是圓滿成佛,法是方法,要是最重要的方法,得來不容易。
下面是黃念祖老居士他在這裡發願迴向,「念祖感恩圖報,發無上心,敬註此經,續佛慧命」。報恩,遇到這個法門知恩報恩,一般人為什麼不能這樣奮發?不知道恩德。釋迦牟尼佛當年多次宣講為誰?我們這個時候遇到了,肯相信、能理解、發願求生,那就是為我;你要是明白,可以接受,那佛就是為你講經。直下承當,這才知恩,不是為別人講的,是為我講的,黃老居士就是這樣承當的。用什麼方法來報恩?給這個經做註解。老師的囑咐,夏老居士這部經會集成功之後,他自己親自講過,黃念祖居士是他的學生,從頭聽過,一堂課沒漏,他聽得很認真。這老師能看得出來,這個學生對這個法門十分誠敬,他就會得十分利益,所以讓他來做註解,老師對他信得過。佛弟子,真正的佛弟子要報佛恩,就是底下的這一句「續佛慧命」,念念想著釋迦如來正法久住。正法久住要用什麼樣的手段?就是自己認真學習,一代一代承傳下來。我們從老師那個地方學到了,得到殊勝的利益,要傳給下一代,佛門叫傳燈,不能讓這個燈滅掉。我們不傳,不傳就滅掉,滅掉有罪,那罪很重。
怎樣把這個工作做好,做得很如法,讓諸佛如來都滿意?頭一個是德行,這是續佛慧命最重要的第一個條件。就是說今天我們講的三個根、四個根,你要不是認真,把《弟子規》、《感應篇》、《十善業道》、《沙彌律儀》去落實、真正做到,這續佛慧命你做不到。頭一個條件是德行成就,然後才是學問,學問裡面一門深入、長時薰修。儒佛都是這樣教我們的,沒有教我們廣學多聞,廣學多聞是什麼時候?開悟之後。沒有開悟的時候,目標是定在開悟,不是廣學多聞,廣學一定障礙開悟,為什麼?你心不清淨,你太雜、太多了。一門深入,諸位要知道,一部經,我跟人講,我在這裡講,我一部經講完,怎麼辦?沒有了,講第二遍,二遍講完講第三遍。古人講《彌陀經》一生講兩百多遍,聽眾聽得能有興趣嗎?他遍遍不一樣,境界不相同,愈聽愈歡喜,講的人境界不斷上升,聽的人也不斷上升,講出味道出來,他真幹、真修,得三寶加持。過去我在台中,李老師告訴我,他《彌陀經》講了六遍,六個樣子,真的不是假的。我跟他學《楞嚴經》,我《楞嚴經》講了七遍,那個經太長,要很長的時間,我記得從頭到尾講圓滿的只兩遍,其他的五遍都沒講圓滿。
四弘誓願裡頭,四弘誓願是我們修學的最高指導綱領,你看第一個教我們發菩提心,「眾生無邊誓願度」,這發菩提心,為眾生不是為自己。從哪裡下手?「煩惱無盡誓願斷」是德行。你先要把煩惱斷盡,然後你才能學法門,煩惱不斷,你修學的法門裡頭夾雜著煩惱,很難成就。所以一門深入、長時薰修,是什麼?是斷煩惱,用一部經,用這個方法斷煩惱。八萬四千法門,用這個經教,你天天讀、天天講,用這個法子,你心是定的。一部,心是定的,愈講愈熟心愈定,定生慧,從這一部經上得清淨心、得平等心,只要得這兩樣就開悟。悟了之後是什麼樣?一切法門一接觸就通。
所以龍樹菩薩給我們做了個示範,他老人家證得初地菩薩,別教初地就跟圓教初住一樣。在我們中國人講大徹大悟、明心見性,在中國最具代表的惠能大師,龍樹菩薩證得的是這麼一個境界。世尊當年在世講經四十九年,所說的一切經,龍樹菩薩用多少時間全部學完?三個月。今天來講《大藏經》,三個月他就學完。他怎麼學得那麼快?你看看《六祖壇經》你就明白。你看《六祖壇經》記載的一個故事,在我們佛門叫公案、例子。法達禪師是學《法華經》的,他去見六祖,禮拜的時候頭沒著地,六祖看到,拜三拜頭都不著地,起來問他,你有什麼值得驕傲的?現在人講,有什麼值得驕傲的?禮拜頭不著地。他說他念過三千部《法華經》。《法華經》很長,三千部至少是三千天;換句話說,十年,十年念一部經,值得驕傲。六祖考考他,《法華經》講些什麼?說不出來,他回過頭來向六祖請教,六祖說這部經他不認識字沒��過,也沒有聽過,他說你既然念得這麼熟,你念給我聽。《法華經》二十八品,他念到第二品「方便品」,念到第二品,六祖說:行了,不必念了,全知道了。講給他聽,他開悟了,再禮拜的時候頭著地。你就曉得,開悟的人是不是要全部讀?不需要,看一卷、看一段就曉得這全部講的是什麼,全通了。所以三個月一部《大藏經》,是真的不是假的。
禪宗裡面講悟後起修,為什麼宗門跟教下不一樣?教下一開始學習經教,宗門是決定沒有開悟不許你看經,也不許你聽這些東西。就是讓你放下,放下分別、放下執著,悟的時候就是清淨平等覺,覺就是覺悟,那個覺悟必須是把無始無明煩惱斷掉,無始無明煩惱就是起心動念,六根接觸六塵境界不起心、不動念,起心動念尚且沒有,那當然沒有分別執著,到這個境界。覺性,自性覺現前,這一現前,六根接觸境界,一接觸就通達、就明瞭,學得快!六祖不認識字,沒聽過經,要說他聽經那就是半夜三更,這是五祖忍和尚在方丈室給他講《金剛經》,當然講大意,講到「應無所住,而生其心」,他就見性。把他的境界說出來,說了五句,「何期自性本自清淨、本不生滅、本自具足、本不動搖、能生萬法」。五祖忍和尚說:行了,後頭不要說了。衣缽給他,打發他趕快走,為什麼走?嫉妒障礙,別人不服。別人天天在講堂聽經,天天在禪堂裡面坐禪,都沒有得到衣缽;這來了一個人,好了,禪堂一天沒去過,講堂一天也沒去過。五祖只是打發他在碓房裡面舂米破柴,幹這個幹了八個月,結果衣缽被他拿去,所以沒有一個人服氣。到第二天到處去找去追,想把他追回來,佛菩薩保佑,他在獵人隊裡面藏了十五年,十五年大家把這個事情平淡,這才出來。
逃難的路上,在曹侯村遇到無盡藏比丘尼,她是受持《大涅槃經》的。《大涅槃經》分量多,兩個版本,一個四十卷,一個三十六卷。惠能大師那個時候二十四歲,剛剛逃出來的時候,還沒有到獵人隊,曹侯村遇到這個比丘尼,聽她念《涅槃經》,聽完之後他就講解給她聽,這個比丘尼佩服得五體投地,講得太好,講得她開悟。她也是一心受持,這是一門深入、長時薰修,她得到三昧,這一講的時候她就開悟。拿著經向六祖請教,六祖說:我不認識字。她說:你不認識字,你怎麼能講得出意思?他說,「這個與文字不相干」。我們不能不懂,真不相干。所以古人這個一門深入、長時薰修,這裡有大道理在!中國不但學佛如是,學道、學儒亦如是。古時候這個私塾裡頭教學生,重要的是啟發他的悟性,把這個擺在第一,其他的都是二、三,悟性擺在第一,不能把他悟性堵塞,現在人不懂。今天時間到了,我們就學習到此地。
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貪瞋癡(とんじんち) 仏教において、人間を悩まし迷わせて害し、誤りに導く、根本的な3種の煩悩のことで、毒にたとえて三毒という。 貪は貪欲(とんよく)ともいう。むさぼることを意味し、好ましいものに対する激しい欲求や強い執着を指す。 瞋(しん)は瞋恚(しんに)ともいう。怒りを意味し、好ましくないものに対する反感や嫌悪を表す。 癡は愚癡(ぐち 愚痴)ともいう。無知を意味し、仏教の正しい教えを知らないことを言う。貧瞋癡のなかでも、癡は煩悩の最も根本のものであり、無明(むみょう)とも称される。
貪瞋癡(とんじんち) | 時事用語事典 | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス
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🎶 オム マニ パドメ フム
このブログの形式は「仮初め」のもので
本当は何年も前に夢で見たブログデザインをちゃんと創り出すべきなんでしょうけれど、三次元的には手間で、そのまま放置していまして、
「COBRA」関連の情報共有については、その形が整わないため、まだ手をつけないまま、勝手気ままにわたくしごとを綴っています。🙏🏻
そのうち試行錯誤してみようとは思っています。。。。
ここのところわたし、必要を感じてたまに唱えています。
OM MA NI PEDME HUM🎵
COBRA更新 内なる錬金術(2024/10/6)
https://the-liberation-of-planet-earth.blogspot.com/2024/10/inner-alchemy.html
(地球解放に向けて さんより)
この記事内にありました「コーザル体を活性化するためのマントラ」と同じものです。
チベット語でチェンリジグ、慈悲の権化の観音の六字真言。
2020年ウエサク祭で
シンガポール人のメンターの方が自ら唱え、神域から受け取った貴重なご経験によると、
要するに人間の貪瞋痴を癒すことができるとのこと。
すなわち、唱えれば
高慢、嫉妬、欲心、無知、などなどの苦しみの扉を閉じることができます。仏教的次元の使い方ですね。
さすがプレアディアンであるCOBRAのアレンジは高次で鮮やかです。「コーザル体を活性化するためのマントラ」になっちゃった。
上記本文をぜひご参照ください⭐
ことは後先逆になりますが、
実はわたし、2018年6月、および2020年冬に、ハンガリー巫女WSを東京で再現しました、そのときにですね、
YONI を揺らすダンスのBGMとして、この
OM MA NI PAD ME HUM
(続けるとPEDME HUM)
の楽曲を完全に個人の好みで、採用して皆さんに踊っていただいていたんですよ!💃ゆらゆらと。
女神瞑想会でもたまにこれを再現していました。(メンバーが全員WS参入者の女性のみのときに限って。)
好きだったのですよ、この音とアレンジ曲の緩やかさと癒しが。
YONIを優しく揺らすのにピッタリです。
わたしがこのマントラの世界に浸るきっかけを作ってくれたのはアントワイン氏です。
その後の京都カンファレンスで、なんとCOBRAがこのマントラを「東洋の皆さんは観音につながることもできます」と紹介して、皆で唱和したのがとても嬉しかったのを覚えています。
さて実は、かのアントワイン氏はかつてこのマントラで作曲し、
自ら歌っていたのです! 録音自体は10年ほど前のことではないかしら。
わたしはそのメロディーと歌声を愛しておりました。
今は残念なことに彼がSNSから削除してしまいまして聴くことができませぬ。
それから、アジア系のメロディーで二種類、気持ちに応じて三種類をプライベートで鼻歌的に歌い分けています。
メロディーはなくとも、ですね、繰り返し唱えますと体感的には
視界がクリアになり、頭がスッキリします。
ところてこれは本日草原に寝転んで見上げた空☺️
もっときれいでした。青とピンクがなんともいえませんでした。
気候の良い今時分の夕刻、広々とした公園の草地に座ってラーカー除去促進瞑想をやってました。
光の勢力、年中無休で本格的にラーカーぶった斬りして下さってますので、こちらも追いつかないと。
近くをお子様が走りラーカーのいる輪っかを踏んで邪魔してくるのも「お前はラーカーの子分か」と思いつつ心頭滅却ごっこにはもってこいで、一興でしたよ(笑)
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輪っかのイマジネーションについて、こちらの台湾の方の動画を参考にされるのもおすすめいたします。
youtube
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「虚無への供物」中井英夫 2211
第二章
21黒月(こくげつ)の呪い01
いよいよ第二章です。 最初の事件もまだまだなのにこのあとどうなるんでしょう。
1955年2月6日、日曜日、 春の様子が描かれます。
前日、 蒼司から、夕食の後で親族会議を開きたいから来てくれと、電話をもらった亜利夫。 当日も重ねて電話があったので、早速訪ねてきています。
蒼司は、藍の匂う薩摩絣で迎えます。 この薩摩絣、今でこそ高級品ですが、その当時は、一般の綿織物のように、庶民の着る普段着だったみたいです。
四十年近い年月を氷沼家で送った爺やを、千葉の弟に引き取ってもらったとかで、ひどく沈んだ調子の蒼司です。 専門医によると分裂症だとかいう、爺やが寄越したというはがきを見せられます。 薄い鉛筆書きで字画の正しい文字が一杯に行儀よく並んでいます。
内容が何となく変です。
“黒月の呪法、御前様にはお叱りを受け候へ共、必ず実現致可く候へは、鳥��御報せ迄申し上げ候”
黒月の呪法ですが、 風呂場で紅司の死体を見た時、経文を唱えていたようにお不動様に凝っているわけですから、 このあたりのことだと思いますが、どうして「黒月」なんでしょうか? しかも、どうやら蒼司に叱られたみたいで、 なにか蒼司にするように言われているけど未だに実行できてないと叱られたことへの返事だと取れそうですね。 それが一体なんなのかは、ここでは書かれていません。
一寸気になるところです。 鳥渡も気になります。
はがきを見せながら蒼司は、 先月の二十五日の夜に祈祷をしている爺やを見たといいます。 真言密教で、不動、降三世など怒りの相を表わす五大明王を本尊として、怨敵、悪霊などを降伏させるために行なう降伏法で、 つまり、人を呪い殺すための祈祷をしていたといいいます。
月の後半、それも特に火曜日を選んで必ず夜半に行うのを黒月と言うようです。
蒼司は、その爺やの姿を見ながら狂った脳の断面を見せつけられているようで何より情けない思いが先に立ったようです。 頃合いを見計らって声をかけ、懇々といいきかせたけど無駄で、 この日は、爺やもかたくなに紅司は死んだのではない。と、いっていた。 このままでは、家を出て貰うとまでいったが、 爺やは平然として、貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)の三悪が滅ぼされるまでは、 必ず不動明王の忿怒は消えることがないと、薄ら笑って答えるのだった。
藤木田も、分裂症の初期だと言っていたがそれもあって、千葉に引き取ってもらったといいます。
ただ、 その経緯の中の一文に “呪法を行うだけならいいが、思い詰めて橙二郎に毒でも盛られたら取り返しがつかない。” とあります。
なぜか、唐突にこの文が差し込まれている気がします。 橙二郎はこのあと、毒でも盛られて殺されるとでも言うのでしょうか? しかも、どうして橙二郎なんでしょう?
蒼司は暗い表情のまま口を噤んでしまいます。
亜利夫にしてみれば、目白不動の結びつきを発見してから、 青蓮院に青不動、明王院に赤不動、三井寺に黄不動と見つけていて多少の関心はあるが、 とても爺やほどには付き合いきれないと思っています。
調べてみると、 青不動は、青蓮院となっていますが、最勝寺(東京都世田谷区太子堂)にあるようです。 赤不動は、明王院となっていますが、南谷寺(東京都文京区本駒込) 黄不動は、三井寺となっていますが、諸説あるようで、どこなのかはわからないみたいです。
猟奇的で話としては面白いですが、 たぶん、本文とは関係ないですね。
その後、 亜利夫が参加した親族会議での話は、目白の氷沼屋敷の売却話で、 それほど、財政的にひどい状態らしい。
ちなみに親族会議に参加したのは 蒼司、藍司、橙二郎、 八田皓吉、藤木田誠、光田亜利夫 である。
不動産といえば、八田皓吉の得意分野だが、蒼司は、橙二郎に譲ることにしたいという。 それで、親族会議は紛糾する。
少しでも蒼司の有利にと走り回ってきた八田皓吉は呆気に取られたし、 藍ちゃんはすっかり腹を立てて不満をいうし、 藤木田老人も唸るような声を出して反対する騒ぎとなった。
結果的には、決定は明日まで伸ばすこと。 仮に橙二郎に売るとしてもなるべく時価で、 手続きはいっさい八田皓吉に任せその場合の手数料も他の話の場合と同額にするということで、 八時頃に、どうにか話が一段落した。
ところで、 家の売却先にPR教団の名前が上がっています。 例の宗教団体をわざとぼかして書いたのか、作家の勘違いだったのか。 面白いですね。
蒼司は、 この家に取りついている業みたいなものがあるとしたら、 それを橙二郎に肩代わりしてもらおうというのがここを明け渡す本当の理由だといいます。
さて、 一応の理由らしきものを説明しますが、どうも、言い訳らしいですね。 蒼司は、実際、どうして橙二郎に譲ることにしたのでしょう。 一体、なんの意味があるのでしょうか? 今後の展開を期待しましょう。
つづく
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生命就在我們的呼吸之間,而現代人情緒經常失控,在貪、瞋、痴、慢、疑當中失去了良心和本性,很多人一時衝動,往往會造成終生的後悔。
我們來到人間,生不帶來,死不帶去,很多人在欲望中沉淪,為名利得失迷失了自己的本性,扭曲了自己的心靈,最終造成了心靈深處的傷害和煩惱。
唯有佛法才能啟發我們的本性和良知良能,知煩惱是虛空,知人生是無常,這就叫悟性。
2018年12月30日馬來西亞
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三毒は、人々が日常生活で直面する多くの問題や困難、対人関係のトラブルの根底にあるとされています。 貪(とん)は過度な欲望や執着を、瞋(しん)は怒りや憎しみを、痴(ち)は無知や誤解を引き起こします。 これらの煩悩は、個人だけでなく社会全体にも悪影響を及ぼすことがあります。
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