#貪瞋痴
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ステータスだけの中抜き屋 所有権だけの白痴 権限だけの小犬 生まれだけの低能 偶然だけの成功者 まぐれあたり・宝くじ引き当て・ガチャ勝ち 相続・世襲・既得権益・親戚・コネだけ人生 虎の威を借りられた狐 パワハラ屋(根っこはコネ勝ち)・脅迫でなんとかなる状況・脅せばシノげる ジャイアンの近所に住んでただけのスネオ 親分がすごいだけのチンピラ なりゆきだけの自己満足 走り回ってるだけを仕事と勘違い 非効率・低生産性・呪文屋(笑) 霊を信じて生きる 勘違い知ったか 知った気 無知 無明 貪瞋痴
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3年ぶりの更新がまた貪瞋痴
氷見に用事があり、久しぶりに貪瞋痴へ。常に行列。
11時に到着、待つこと30分。
ごちそうさまでした。
晩秋の氷見漁港。今日は日が差しいい天気だったけど、北陸の冬は目前です。
車は乗り換えました。
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極楽浄土に住む伝説の霊鳥「共命鳥(ぐみょうちょう)」
一つの体に頭が二つある極楽浄土に住む鳥「共命鳥」。
極楽浄土には白鵠、孔雀、鸚鵡、舎利(九官鳥)、迦陵頻伽、そして今回登場する共命鳥が仏に仕える鳥として住んでいますが、それらの鳥をまとめているのは天空の守護神である迦楼羅王です。
ブッダが生まれる遥か昔、ヒマラヤの奥地に双頭の鳥が住んでいました。
一羽の名前はカルダ、もう一羽の名前はウバカルダ。
その鳥は「共命鳥」と呼ばれ、一羽が起きている間、もう一羽は眠っています。
ある日、カルダはウバカルダが眠っている間に摩頭迦という木の花を食べました。
カルダは摩頭迦の花を食べることは、もう一方のウバカルダもお腹いっぱいになって両方とも幸せになると思ったのですが、ウバカルダは目を覚ますと、カルダだけ美味しい花を食べたことに腹を立て、怒りの思いでカルダが眠っているうちに毒花を食べ恨みを晴らそうとしました。
眠りから覚め、ウバカルダが毒花を食べたことに気づいたカルダは、
「怒りや、貪り、愚かさには徳はない。このような愚かな行動は、自らを傷つけるだけでなく、多くの者をも巻き込んで皆を不幸にしてしまう」と語った後、2羽とも命を落としてしまいました。
片方が右へ行こうとすると、もう一方は左へ行きたいといい、片方が遊びたいといえば、もう一方は休みたいと、その都度別の意見で衝突して次第に怒りの念を増長させ、愚かな行動に走った共命鳥。
体が一つなのに頭が二つあるが故に生じる感覚や考えの違いが怒りに繋がり、やがて自らを滅ぼすという悲しい結末を迎えたこの物語。
貧欲、瞋恚、愚痴といった「三毒の煩悩」でお互いを傷つけあうことは無意味で罪深いことだと、この共命鳥のエピソードが教えてくれています。
共命鳥がこの世から消えてこの鳥の伝説も人々の記憶から忘れかけられた頃、修行中の僧が釈迦に質問をします。
「提婆達多(ダイバダッタ)は、あなたを妬んで悪いことばかりするが、それはどうしてでしょうか?」
すると、釈迦は「遥か昔の時代、彼と私は一身双頭の関係にあった。その時に毒のある実を食べたのが提婆達多で、私は体に役立つ方の実を食べた。かつてのことがそのまま続いており、私はい��も提婆達多に足を引っ張られている」と語ったそうです。
「共命鳥」に関するものは明治の無教養な連中による廃仏毀釈によってそのほとんどが失われましたが宗派を問わず、ごく一部の寺院の欄間や所蔵する仏画でその姿を見ることができます。
「他を滅ぼす道は己を滅ぼす道、他を生かす道こそ己の生かされる道」と悟った共命鳥は、阿弥陀如来に救われ、極楽浄土で朝夕6時になると美しい声で鳴き、仏の教えを伝えているといわれています。
提婆達多(ダイバダッタ):特撮ドラマのレインボーマンにも登場する釈迦の弟子で従兄弟の僧。
意見の違いから釈迦とぶつかり合い、釈迦を殺そうとして無間地獄から最下層の阿鼻地獄に落ちるが、もともとは釈迦の片腕である非常に優秀な僧であったため、伝説では幾度か転生を繰り返し天界を次第に昇り、聖者となって最後に人間界に戻ってくるといわれており、法華経では「天王如来」という位の高い仏として登場します。
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TEDにて
マチウ・リカール:幸せの習慣
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
幸せとは、何で、どうやったら幸せになれるのでしょうか?
生化学者から仏門を選んだマチウリカールは、我々の心を鍛えて満ち足りた状態を習慣にすることによって、心の奥底からの静かな充足を生み出すことができると言います。
これもグローバリゼーションのおかげなのでしょうね。
エベレストの��頂にコカコーラの缶、モントレーに僧侶(私はちょうど、2日前。皆さんのお招きに上がりヒマラヤ山脈から来ました。ですから、皆さんをしばらくの間。ヒマラヤ山脈に招待したいと思います)
そして、私のような修行僧がいる場所にご案内しましょう。
私はパスツール研究所の分子生物学者でしたが、山に入る道を選びました。さてと、幸福について語りましょう。私は、フランス人ですが、フランスには幸福に全く興味のない知識人が多いです。
では、幸福または満たされた状態について話しましょう。
まず、最初にフランスの知識人がなんと言おうと朝から「今日も一日苦しむだろうか」と考えながら起きる人は誰もいません!つまり、意識しようがしまいが、直接であれ間接であれ、すぐのことでも将来のことでも我々がすること。
望むこと。夢見ること。そういったこと全てが心の奥底で幸せを求めることにつながっているのです。
東洋や西洋の書物を調べれば、幸せの定義は驚くほど多彩でしょう。こう言う人がいます。「過去の記憶を信じて、将来を想像し、現在は念頭にない」こう言う人もいます。「幸せとは、今という瞬間。今という瞬間の新鮮さの度合いである」
そして、これは、フランスの哲学者アンリベルクソンにこう言わせました「すべての偉大な人文科学の思想家は、幸せを曖昧なまま残した彼らが自分達の言葉で幸せを定義できるように」
人生において幸せにそれほど関心がないならかまわないでしょう。しかし、幸せが人生のあらゆる瞬間の質を定めるものだとしたら?私たちは、それが何であるかを知り、はっきりした考えを持った方が良いでしょう。
そして、おそらく私たちが幸せについてよく知らないことが理由となって、しばしば、幸せを求めながらそれに背を向けてしまうのでしょう。
苦しみから逃れたいのに苦しみに向って走っているかのようです。それはある種の勘違いが原因かもしれません!
喜びを、幸せと思い込む事は、よくあります。
この2つの特徴をよく見てみると喜びは、時間、目的、場所に左右されます。その本質は相対的に変わりうるものです。チョコレートケーキの最初の一切れはおいしいです。二切れ目はそれほどでもなく、三切れ目には嫌気がさします。
それが人間の欲望の本質です。
飽きが来ます。私は、昔、バッハが大好きでギターで弾いたりしました。5回聴いても飽きません。もし、24時間休みなしで聴くことになれば飽きるかもしれません。寒いとき、火のそばに近づくのは気持ちがいいです。
そして、しばらくすると少し後ろに下がります。それからすごく熱く感じます。
喜びは経験とともに消費されるかのようです。
そして、それは、あなたから発せられるものではありません。あなたが強い喜びを感じることでまわりの人が大いに苦しむこともありえます。ゲーム理論のゼロサムゲームのこと
では、幸福とはいったいなんでしょう?
幸福というとあまりにも漠然とした言葉なので満ち足りた状態と定義しましょう。
仏教徒の見解から、最もふさわしい定義は、満ち足りた状態とは、ただ楽しいという感覚ではないということです。
それは心の奥底を静かに満たすものです。
人生におけるあらゆる心の働きや喜びや悲しみにも、しみ渡ってその根底に横たわっています。皆さんは驚くかもしれません。悲しみのさなかでも満ち足りていることは、ある意味可能です。なぜなら、私たちは別のレベルの話をしているからです。
岸辺に寄せる波をごらんなさい。波の谷間にいれば、海底に当たります。
堅い岩にあたります。波の上にのっているときは意気揚揚としています。海面は上へ下へと揺れ動きます。外洋をごらんなさい。そこには鏡のように美しく穏やかな海があるかもしれません。嵐の海かもしれません。
しかし、海の深さはそこにあり変わらないのです。どういうことでしょう?それは、つかの間の感情や感覚でなく、そのものの状態です。喜びもまた幸福の源となりえますが、誰かの苦しみを喜ぶというような邪悪な喜びもあります。
ではどのように幸せを探しましょうか?
たいていは外界から探し出そうとします。「幸せ」になるためにすべての状況。すべての条件を満たせば幸せになれると考えます。すべてを得ることで幸せになる!
こんな考え方の幸福には、崩壊が待ち構えています!!すべてを持つこと。何かが欠ければそれは崩れます。
何かがうまく行かないといつも外界を修正しようとします。しかし、私たちが外に及ぼす力は限られたもの。一時のもの。錯覚かもしれません。では、内部の状況を見てください。それらはより強くありませんか?
外界から幸福や苦しみを捉えるのは心ではないですか?心の影響が強くないですか?小さなパラダイスのようなところに住んでいてもまったく不幸せなこともあるのをご存知でしょう。
ダライラマがポルトガルに行ったとき、そこでは、至る所で建設工事が行われていました。ある晩、彼は言いました「立派な建物を建てるよりも、心の中に何か築き上げるのが良いのではありませんか?」
そして、こう言いました「もし、あなたが素晴らしくモダンで居心地の良いハイテクのマンションの100階に住んでいても内面でひどく不幸だったら飛び降りるための窓を探してしまうでしょう」
では、反対に非常に厳しい状況下でも落ち着き、芯の強さ、自由、信頼を失わない人が沢山います。では、内面の条件が強ければどうか?もちろん、外部状況は影響するでしょう。
そして、健康に長生きすることや情報が得られ。教育が受けられ、旅行が出来。自由でいられることは素晴らしいことです。大変望ましいことです。
しかし、これだけでは十分ではありません。補助的な条件に過ぎないのです。
すべてに解釈を与えるのは、心の中に存在する経験です。内面の幸せの条件をどうはぐくむかと自問していくと幸せを��げるものが自らの内面に見出されたりもします。これを解るにはいくらかの経験が必要です。
ある種の心の状態があることに気付かなければなりません!
それは、この幸せ、この満ち足りた状態につながる心の状態でギリシア人がユーダイモニアと呼んだものです。
こんな満ち足りた状態の妨げとなるものもあります。自らの経験の中から探しても怒りや憎悪、嫉妬、ごう慢、しつこいほどの欲望、執着。そんな感情にとらわれた後はあまりよい状態とはいえません。
そのうえ、それらは他人の幸せにも有害です。これらのものが心に侵入すればするほど、連鎖反応のようにますます惨めになり苦悩を感じます。憎しみの連鎖とも呼ばれてます。
逆に、誰もが知っていることですが、献身的で、寛大な行為の奥底では、遠くからであっても、他の誰に知られることがなくても、子どもの生命を救い。誰かを、幸せにすることができます。
我々は、認識されることも、感謝されることも必要としません。ただ、そうする事が、心の深みにおいて、満ち足りたものを与えます。それは、常にそうありたいと思う「姿」です。
では、生き方を変えて心の在りようを変容させることが可能でしょうか?
生まれつき心が持っていた否定的な気持ちや破壊的な感情を?我々のムードや特徴。そして、感情を変化させることは可能でしょうか?そのためにはこう尋ねなければなりません。
心の性質とは何でしょう?
経験的な観点から見れば、意識の主な性質というものは、単に事実を認識し、気付くことなのです。
意識は、すべてのイメージを映し出す鏡のようです。
醜い顔も美しい顔も鏡は気にしません。鏡は汚されず、イメージによって変質する事もありません。同様にすべての思考の背後には、ありのままの意識。純粋な認識があります。
そういう性質なのです。意識は、憎悪や嫉妬によって損なわれるようなことはありません。全体が、染料で染められても、布は布であるように、常に、意識は、そこにあります。
我々は、いつも怒っていたり、嫉妬深かったり、気前がよかったりするわけではありません。意識という布地は、純粋に認識をするというその性質において、石とは違っていて、だから、変化の可能性があります。
すべての感情は過ぎ去っていくからです。それが、心の訓練の基盤です。
心の訓練は、2つの対立する精神要因が、同時に起こり得ないという考えに基づきます。愛から憎しみへ行くことはできます。でも、同じ時間に同じもの。同じ人に対し、害悪を願いながら、善を願うことはできません。あなたは、握手しながら殴ることはできません。
我々の内面が、満ち足りようとするのを妨げる感情に対して、自然の特効薬がある!!ということです。
そこに進むべき道があります。
嫉妬に対しては、喜び。貧欲な執着に対しては、内心の自由。憎悪に対しては、慈愛あふれる親切。もちろん、それぞれの感情ごとに、特定の解毒剤が必要です。
これは、仏教の最古の経典とされる南伝パーリ語のスッタ��パータにもある「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」の克服方法です!!
もう一つの方法は、全ての感情の特質を分析することで、対抗手段を見出そうとするものです。
通常、我々が、誰かに対し、不快や憎しみ。動揺を感じたり、何かに執着すると我々の心は、その対象のことを繰り返し考えます。その対象に思いを寄せるたびに、執着心や不快感が増します。
その過程は、際限なく膨らみ、繰り返されていきます。今、我々が見るべきなのは、外を見る代わりに、内観するということです。
「怒り」そのものを「ああっ自分は怒ってるな〜」と注視してください。それは、非常に恐ろしげに沸き立つモンスーンか雷雲のように見えます。その雲に座ることすらできそうに見えますが、近づけばただの霧にすぎません。
同様に、あなたが怒りという感情を直視すると、それは、朝日のあたった霜のように消えます!!これもブッタのプラスサムの智恵です。
何度も繰り返して、怒りの感情を直視して、解消しているうちに、怒りの繰り返しは、解消するたびに、だんだん小さくなります。そして、ついには、たとえ怒りが生じても心をかすめるのみで、空を渡る鳥のように痕跡も残さなくなります。
これが心の訓練の基本であるウィパッサナー瞑想法です!!
時間はかかります!心の欠点や性癖を積み重ねるのに、時間がかかったように、それらを解きほぐすのにも時間がかかります。
しかし、それしか方法はありません!!
心の変容こそが、瞑想の意味することろです。新しい在り方やものの受け止め方を習熟することです。そのほうがより現実であり、相互に支えあい。流れのように連続的な変化であるもの。
それが、我々の存在であり意識であるのです。それでは、認知科学との接点について、この話をする必要があります。短い限られた時間で話さなければなりません。
脳の可塑性に関して、以前は、脳の機能は不変のものと思われていました。20年ほど前までは、すべての神経の接続の総数は、成人した後には、ほとんど変化しなくなるものと考えられていました。最近では、それは大きく変化しうることが解かっています。
10,000時間。バイオリンの特訓をしたバイオリン奏者の話を聞きましたが、指の動きを制御する脳の部分は大いに変化して、シナプス接続が強化されます。人間の品位において、愛あふれる慈悲や忍耐強さ。開かれた心によっても同じことができるでしょうか?
これは、それらの偉大な瞑想家が行っていることです。ウィスコンシンのマディソン。
または、バークレーの研究室に来た達人の中には、2万から4万時間も瞑想をした人がいます。彼らは、3年間ほどの隠遁生活を送り、その間、毎日12時間、その後も毎日3-4時間瞑想します。彼らは、心の訓練の真のオリンピック勝者です。
何が明らかになったでしょうか?
さきほどの話と同じです。研究に関して���、まだお話できないのですが、この研究では、無条件の慈悲について調べました。何年も何年もかけて、心の中に慈しみをあふれるさせることができるように���った瞑想家に実験をMRIにて手伝ってもらいました。
そこに至る訓練の途上では対象として、苦しんでいる人々のこと。愛する人々のことを考えますが、やがて、慈しみがあふれて、全てを覆い尽くすことができるのです。科学的な結果の全てを述べる時間はありません。またの機会があることを期待しましょう。
肝心なことは、この実験は、サーカスのように特別なことができる人を見せようというものではなく、精神鍛錬は、重要だと言いたいのです。これは、ただの贅沢ではなく、精神のビタミン栄養剤でもありません。
これは、我々の人生のすべての瞬間の品質を決定するものです!!
皆さん。教育には、すすんで15年を費やし、ジョギングやフィットネスなど、表面上の美貌を維持するためにあらゆる事を行います。しかし、心の動かし方、心の美貌などという最も重要なことには、驚くほど無関心で訓練に時間をかけません。
それは、我々の経験の質を決定する根本的なことなのです!!
または・・・
皆さんにも、「イラっ」とした感覚が生じる瞬間があるはずです。これは、「憎しみ」と誤解して、表現する書物がたくさんある。
しかし、誤りです。ブッタによると、「憎くて憎くて、あんたが憎い!だから、私の最大の敵なんだ〜」として、「イラっという感覚」と「目の前の敵」をリンクさせたがる。
これも、誤りです。ブッタは「私は、おまえの敵ではない!おまえの敵は自分自身なのだ!」と言います。自分自身ほど手強いライバルはいないとも言います。つまり、人間の特質がそうさせる自我がライバルです!
アインシュタインの相対性理論によるとある時点で光が、トポロジー的に反転して、今、自分の見ている対象が、自分自身の姿として写って脳内が認識してしまう!という現象も計算で判明しており、鏡のようになってしまうこともあり得ます。
「イラっという感覚」と「他者を敵という概念」は、リンクせず、関連もない!ただ単に、自分自身の勘違いと言うこと。これが理解できれば、憎しみの連鎖は断ち切れます。他人に教えても減らないプラスサムのブッタの知恵です。
また、ネイティブアメリカンでも、「イラっ」とする感情は、慈愛、慈しみと言うらしいです。
そして、親、兄弟姉妹は、ウザいという感情表現は、最高の慈愛、慈しみを感じてるから!らしいです。最悪、感情を自分自身で消化できないなら、物理的な距離感を大事にすればいい。ということになります。
これと似た現象に、政府の陰謀?影の政府?誰かの陰謀と具体的でない言葉で発言して自分以外の責任になすりつける人物や団体には、盲点があります。
つまり、邪悪な影の政府は具体的に発信している本人自身ということ。
なぜ?言葉の定義もなく指摘も抽象的ならその人���団体自体が最も具体的だから!
自分自身が、真の影の政府になるというパラドックス
日本では、西遊記の物語にでてくる天竺(てんじく)に行く三蔵法師が有名だが、アビダンマは、根本経典である三蔵(経・律・論)の一部。
阿毘達磨とも。サンスクリット語から、漢字に翻訳するとこう書かれる。武道の達人でもあった達磨大師。ダルマ様とも呼ばれる。
数十年単位では、悪性でも数百年単位では善性という事象は多数ある!
なぜ?一神教に比べて、多神教や漢字などに概念が多いのは、お釈迦さまが膨大に構築し、先人達の蓄積したアビダンマが根本だから!
宗教の創始者たちの概念上の教え。
原本は、ものすごくパワー(「パワーかフォースか?」の本でのパワー)の高い状態であることが確認されている。
ここで言われる「Powerパワー」は(スターウォーズでのライトサイドのForceフォース)そして、「Forceフォース」は(ダークサイトの方)という前提です。
しかし、宗教概念が、二元的であればあるほど(例えば、「神と悪魔」や「法律で暴力装置をがんじがらめにしたテロリスト集団が警察機構なのに絶対に善のような先入観を強調する構造」など)
つまり、ゼロサムになると誤訳される危険性も大きくなるように思います。
ロジェカイヨワの戦争論にある「いけにえ」も似ている。
あれこれと姿は変わっても、それらは常に存在し続けてきました。
上があれば下があるように、光と闇があります。人間の心理への探求、そして、高い精神的レベルに達しようとするコミットメントは、宗教として社会的に組織化されます。
逆に、そうなることによって、最も低いエネルギーフィールドに落ちていくのです。
よく組織に入ると優秀な人が無能化するのもこの構造原理にあるためです。
なぜなら、組織化されると言う偽りが最初から伴っているからです!!
だから、マスメディアを通すと意味が反転して届き易くなる傾向があります。
世界中のさまざまな宗教の創始者たちの概念上の教えが言うように、慈愛と言うエネルギーフィールドは、一神教でいう神の恩恵への入り口です。
多神教の仏教では慈悲とも言う「悟りへの入り口」とも呼びます。「ラーマ」「道(タオ)」バージョンもあります。
これらのキャパシティを増やすことで、私たちは、誰であり、なぜ?ここにいるのかと言う最終的な気づきに導かれ。
さらに、このアトラクタフィールドの光の中では溶かされ、すべての存在の究極の源へと導かれます。
これが、この世界で自らのパワーを高める唯一の方法なのです。
そして
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大宗教って、すべて一神教。数学の群論、トポロジーの圏論で多神教の仏教の視点で俯瞰すると、ある意味、多神教の一形態とも言えるんだよな。
インドでも似たようなのあるからね。ブラフマー神、ヴィシュヌ神、シヴァ神など。
なお、日本では、あまり知られていないヴィシュヌ神は、日々、時空を超越して、同時に姿を変えて人々を救っていたという場の量子論的な特徴があります。
その時のそれぞれの姿は化身を意味する「アヴァターラ」と定義されており、オンラインゲームなどで呼ばれる自分の分身となるキャラクター「アバター」の由来ともされています。
日本では、観自在菩薩に似ていますが、シヴァ神よりも強くて最強。宇宙を維持する役割もあるので、最新物理学では、イメージ的に不確定性原理に近く、スーパーストリング理論や陰陽五行理論も含まれています。
日本人は皆、神社にいくでしょ!
あれ神道で神社庁も公的にありますよ。
お寺にいくでしょ!あれ仏教ですよ。
お盆やお祭りや年中行事に参加するでしょ!あれ仏教ですよ。
これらに関わらない人も・・・
数%の大企業を中心にしたマスメディアやテレビなどもナショナリズムと言うカルトの定義になるんだけどね。
カルトの定義「中立的なバランスの欠けた極端な思想を対象にする少人数の狂信的な崇拝を持つ教団」に当てはまる?
カルトを論じる前にカルトの定義をしないと風評被害になります!
ご注意下さい。
お金に色がつかないように、量子にも色はつきません(数学の言葉で裏付)人間が色を定義していく。
お金に色がつかないように、量子にも色はつきません(数学の言葉で裏付)人間が色を定義していく。
お金に色がつかないように、量子にも色はつきません(数学の言葉で裏付)人間が色を定義していく。
テーラワーダ仏教では「色」も定義されていて、「色」とは「五蘊(ごうん)」の一部であり「存在する物や事を視覚で認識」すること。
「色即是空」の「色」です。
「五蘊(ごうん)」は「五根(ごこん)」という身体の感覚器官から執着が生じていると論じています。
偶然の一致か否か?不思議なことに・・・
「量子力学」という分野を開拓し、発展させた三人の物理学者「ニールス・ボーア」「ヴェルナー・ハイゼンベルグ」「エルヴィン・シュレーディンガー」たちは
とても奇妙なことに気がつきました。
素粒子の物理学を究極まで追求していくと、驚いたことに、はるか昔の東洋の賢者たちが説いた哲学に
どんどん接近してしまうのです。
これは何を意味するのでしょうか?
次に
老子の道教の徳(テー)とアリストテレスのニコマコス倫理学の徳(アリテー)が似ていることから・・・
どちらの起源が先か?調べるととても面白い仮説が出てきた。
中国の道教は紀元前750年位。古代ギリシャ末期のアリストテレスは紀元前350年位。
共に多神教。この時代の情報の伝達速度を考えるとシルクロードで相互的に��流して伝わった可能性も高い。
プラスサムな概念だから。道(タオ)が先で、アリストテレスのニコマコス倫理学の徳(アリテー)が変化して
老子の道教の徳(テー)となり、神仏習合みたいな道徳になった?アリストテレスのニコマコス倫理学の徳(アリテー)は具体的だが、道徳経ではあいまい。
当時は、西洋と東洋の最先端を統合?古代中国では、老子は仙人とも言われていたし、始皇帝もこの頃の激動の時代。
どうなのか?
バラモン教に対して創始した仏教もブッダにより誕生し、アリストテレスの時代に近い年代であることは偶然の一致だろうか?
ニコマコス倫理学に似ている仏教最高レベルの奥義が「中道」ということ。チベット経由で中国にも伝わります。そして、日本にも。
その後、古代ギリシャは300年後、多神教の古代エジプト文明を滅ぼしてローマ帝国になっています。キリスト教も誕生。
その後、国教へ。一神教が広まり紀元後が始まります。
現在のEUは、NATOがウクライナ侵攻でクローズアップされたこと。さらに、13の暦がひと回りして2000年前位の状況も含めて考えると
トルコまで領土にしたローマ帝国の民主主義版をフランス、ドイツは構築しようとしてる?
イギリスがブレグジット(Brexit)で離脱したのは、かつてのローマ帝国の過ちを回避した可能性も?
もし、以前、機運が高まった時にロシアがEUに加盟していれば、古代ローマ帝国2.0(民主主義版)が建国していたかもしれない。
大西洋を超えてアメリカ大陸からロシアを含めて、北半球に巨大なモンゴル帝国を超えた人類史上最大の領域が誕生するので・・・
今からでもロシアは遅くないので加盟したほうがいいような気がします。
真実はわからないが、そんな仮説がインスピレーションとして出てきた。
仏教最高レベルの奥義が「中道」と言葉で言うのは簡単だけど、体得して実践するのは至難の業。
ピータードラッカーも言っている。
それを可能にする方法を段階を踏んで導いた最初の人が釈迦です。
初心者向けとして、アビダンマや八正道がそれに当たります。具体的な方法を体系化しています。
極端な見解にとらわれない(顚倒夢想:てんとうむそう)よう人が心の苦しみから逃れるには、八つの道を守れば良い。
正しい見かた、正しい思い、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい判断。そして、正しい考えかたである。
ところで「正しい」とは、何をもってそう言うのだろうか?
ここでは、アリストテレス(サンデルの正義)の定義ではありません。
この場合の定義は、ブッダの説いている「中道」が「正しい」という意味です。両極端にとらわれない正しい立場(中道)が悟りへと導く唯一の道なのです。
悟りから始まり、この世は、様々な概念が重なり合うため、概念の機微や均衡点を決断できるのは、人間の倫理観が最も重要!
最初は大変だが、ドラゴンボールに登場するスーパーサイヤ人みたいに、こ���を大変なレベルじゃなくなるくらいに習慣化することがコツです。
参考として、フランスの哲学者であり啓蒙思想家のモンテスキュー。
法の原理として、三権分立論を提唱。フランス革命(立憲君主制とは異なり王様は処刑されました)の理念やアメリカ独立の思想に大きな影響を与え、現代においても、言葉の定義を決めつつも、再解釈されながら議論されています。
また、ジョン・ロックの「統治二論」を基礎において修正を加え、権力分立、法の規範、奴隷制度の廃止や市民的自由の保持などの提案もしています。現代では権力分立のアイデアは「トリレンマ」「ゲーム理論の均衡状態」に似ています。概念を数値化できるかもしれません。
続きは、後ほど。倫理は強制ではなく一定のプロトコルに基づく自由権なので
アリストテレスのニコマコス倫理学には、快楽的生活、社会的生活、真理を追求する生活がある。
思考の知的な徳は、形式知の根本?
もう一つ、性格の徳は、暗黙知の根本?
アリストテレスのいう定義である悪徳の反対は、有徳。有徳に転換する努力が必要。
悪徳に似た概念として、仏教でも、具体的に邪道四つと定義されている。
テーラワーダ仏教に似ている。顚倒夢想(てんとうむそう)になるため悪行為を段階的に最小限する努力が善行為。
こうすることで「パワーか?フォースか?」の書籍でいうパワーが人類全体で平等に底上げされる。
ここで言われる「Powerパワー」は(スターウォーズでのライトサイドのForceフォース)そして、「Forceフォース」は(ダークサイドの方)という前提です
そして、ブッダの説いている「中道」は、「パワーか?フォースか?」の書籍でいう「意識のマップ」内の「中立」レベルに当たるかもしれない。
アビダンマとは異なる領域なので、うつ病、ADHD、自律神経失調症、発達障害などは、精神科医や心療内科へどうぞ。
もう少し、テーラワーダ仏教で教え伝えられている経験則を初心者向けから二、三歩、歩みを進めると「預流道心」と言われる悟りの最初の心が生まれる瞬間があります。
自力で到達するのは危険なので、お寺のお坊さんに詳しくは聞いてください。
自分の解釈では、ここに到達する感覚としては、量子力学の本質である「場の量子論」を本当に理解した瞬間が一番近い感覚です。しかし、検証できないので本当に到達したかわかりません。
テーラワーダ仏教のアビダンマでは、「預流道心」に到達すると自然と悟りの道に自動的に回帰できるようになるそうです。次に、七回生まれ変わるまでに完全に悟りの流れに乗れる。
前世で「預流道心」に到達してると子供の頃から、桁の違う天才になりやすい傾向が発現してくるそうです。
そして、六道輪廻するのは、人間界か天界のみだそうです(一神教では、天国に近い領域に似ている)他にいくつか特徴があります。
「預流道心」に到達すると「第一禅定(ぜんじょう)」状態に自動的になります。
一神教では「天国」に相当することですが、テーラワーダ仏教には、この先がありますが、ここまでにします。
厳密には違うけど、わかりやすく言うと精神領域がスーパーサイヤ人に到達するような���メージ。しかし、すぐ心の状態は普通になります。
漫画のイメージのように身体は強くなりません。
言葉の定義として「禅(Zen)」は、ブッダが伝授された「第一禅定(ぜんじょう)」が起源。
言葉の定義として、ここでの「定」は、サマーディとも「梵天」の「梵」とも呼ばれます。
日本語ではわかりずらいけどサンスクリット語などにすると全て関連してることがわかります。
サマーディ瞑想とも深く関連していて、瞑想しすぎると「あの世」の人になってしまうので、ほどほどの八正道で「この世」の状態を維持しないと危険です。
戻ってこれなくなります。
再起不能になる可能性が高いため、本当に詳しくは、歴史あるお寺でお坊さんに聞いて下さい。
再起不能になる可能性が高いため、本当に詳しくは、歴史あるお寺でお坊さんに聞いて下さい。
再起不能になる可能性が高いため、本当に詳しくは、歴史あるお寺でお坊さんに聞いて下さい。
歴史に耐え抜いた哲学の基盤がない権力者が最も危険な存在です。
(個人的なアイデア)
2019年に日本では、元号も「令和」に変わっていくため、ここで記しておくことは、今後の人類の発展に貢献できるかもしれないためでもあります。
マインドフルネスという瞑想法が流行していますが、個人的には危険性が高いと思っています。まだ科学的とはいえ「魔境」の克服が解明されていません。
仏教は、長い年月で練られた瞑想法が確立されているので、克服法も適切な指導者にて行わないと日常生活に支障が生じる恐れがあります。
瞑想法は気軽にするものではなく、自己責任でどうぞ。警告として、記入しておきます。
続いて
2020年後半くらいから様々な占いで出てきてた時代の変わり目。それが、西洋占星術で具体的に「風」の時代という形で出てきました。
私が、感じとってたインスピレーションは、たぶんこれかな?
兆しは、世界的な金融ビックバンの1970年代、IT革命のミレニアムの前から出ていたけど。
これは、これまでの約200年間。物質やリアリティの影響力優位「土」の属性の時代から、量子コンピューター、ビットやインターネットなどといった物質ではないものに影響力が増していく「風」の属性の時代に。
そして、本格的に軌道にのっていく属性は、今後200年程続くことになるのです(2020年12月22日から、2100年当たりをピークに少しずつ衰退していく2220年まで)
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淨土大經解演義 淨空老法師
淨土大經解演義 (第九集) 2010/4/13 香港佛陀教育協會 檔名:02-039-0009
諸位法師,諸位同學,請坐。請看經本第七面倒數第六行,「又契機者,亦寓契合時機之義」,這是念老將本經是契機之獨勝,也就是特別殊勝,介紹完了之後,又告訴我們不僅是三根普被,利鈍全收,它還契合時代。這個時代是各個不同的時代,各個不同的地區,各個不同的文化背景,它統統都適合,這樣的經的確是不好找,這部經就是的。下面說「如來垂慈」,這指的是釋迦牟尼佛,也是說的阿彌陀佛,非常慈悲。「獨留此經於諸經滅盡之最後百年」,我們在《法滅盡經》,釋迦牟尼佛說將來佛法到衰滅時候的狀況,一切經都滅盡,都不存在,最後《無量壽經》還流傳一百年,這最後的一百年。《無量壽經》留下來的是哪一種本子?這也是當代的一些大德,不是我們現在的,應該是黃念祖居士那個時代,比我還要早一輩,我的老師們這一輩的人,肯定夏老居士這個會集本。為什麼?前面都跟諸位介���過,這本子道道地地是淨宗第一經的標準本,它是五種原譯本的集大成,確實是淨宗第一經的善本。這個我們聽了之後一點都不懷疑,確實是這部經。夏老居士出現在這個時代,我們相信他是再來人,他就是來做這樁事情的,黃念祖老居士出世,也就是為這個本子做個註解,這是他們來到這個世間特殊的任務,他們完成了。由此可知,末法往後還有九千年,所以我們講不同的地區、不同的時段、不同的文化,它統統都能適應。
「正表此經能契於當前及未來之社會也」,無論哪個地區所需要的,就是這個本子。「當前科學發達,人類應具之知識彌廣」,我們所需要的知識就愈來愈多,是不是一樁好事情?實在講不是一樁好事情,真正修道的人不需要學這些東西。我們老祖宗、古聖先賢早就給我們說過,道家所說的「為道日損,為學日益」,為學就是此地講的,現在的科技發達這是為學,這個東西你天天要增長,你的知識面;可是為道,天天要放下,統統都放下你的道就成就。道是什麼?道是你自己本有的。你現在的道不能現前,就是你有障礙、你有煩惱,佛家講業障。障礙之多,無量無邊、無盡無數,可是歸納起來不外乎兩大類,煩惱障跟所知障。這兩大類都障礙你見性,都障礙你清淨心,障礙你的平等心。「清淨平等覺」就是道,這是這部經的經題,我們修道就是修這個東西。如果這個心地一年比一年清淨,你的道業��在增長。無論修學哪個法門、哪個宗派,中國是大乘佛法十個宗派,法門,法是方法,門是門道、門徑,是回歸自性的門徑,經上所說的八萬四千,八萬四千法門是對治八萬四千煩惱。菩薩非常了不起,能把十善業道展開為八萬四千細行,這功德圓滿,成佛了。
清淨平等覺得到,那是什麼樣的境界?經題的上半部,上半部講的是果,下半部是因,修因就證果。果第一個「大乘」,大乘是智慧,自性本具的般若智慧現前。智慧不是學來的,知識是學來的,智慧不是學來的,從清淨心裡面生的。「無量壽」是德,「莊嚴」是相好,你看這不就是《華嚴經》上講的,「一切眾生皆有如來智慧德相」!經題上就是如來智慧德相,「大乘」是智慧,「無量壽」是德,「莊嚴」是相,你就得到。這在什麼時候?這在諸佛如來的實報莊嚴土,你把清淨平等覺修成,你就回到實報莊嚴土。這個經題好,不是會集的人自己立一個題目,像王龍舒居士他會集叫《大阿彌陀經》,魏默深的本子是《無量壽經》,他都是自己立的一個題目,唯獨夏老連題目都是會集的,真的沒有在上加一個字,這才叫標準的會集本,連題目都是會集的。題目的上一半是宋譯的經題,下面「清淨平等覺」漢譯的,原本的經題也把它會集起來,意思就更明顯了。
底下給我們說,「社會進步,每人所肩之責任倍增,故咸應廣學多能,鞠躬盡瘁,參加建設,造福人民,實現人間淨土」。我們讀這一句,應該知道如來、菩薩無方應化的事跡,確實像《普門品》裡面所說的,應以什麼身得度他就現什麼身,應以什麼方式來幫助眾生、來成就眾生,他就用什麼方法,沒有一定的方法。所以佛為我們講經說法,不可以執著,執著就錯了。你要是執著,佛告訴你,他沒說法,他不承認他說法。《金剛經》裡就有這個意思,你要說佛說法,佛說你謗他,你毀謗他,他沒說法,一個字也沒說。沒說法說了四十九年,我們怎樣去體會?清涼大師講得好,佛說的話是真的不是假的,清涼大師在《四十華嚴》經題裡面講過這麼一句話,世尊四十九年所說的一切法,全是古佛所說的,釋迦牟尼佛沒有在古佛所說經教上添加一個字。比我們孔老夫子所說的「述而不作,信而好古」,說得還要嚴謹,夫子只是說述而不作,佛說的沒有在古佛所說經典上多加一個字,這了不起,人家為什麼能成佛、成菩薩,關鍵就在此地。現在人心浮氣躁,原因是什麼?原因就是要學得要創造、要發明,自己要有東西出來,不服古人。
古人跟我們確實不一樣,古人他佩服古人,他仰慕古人,他向古人學習,從來沒有個意思說創新,跟現在科學的思惟是背道而馳的。古人這種想法是對,還是現在人對?如果我們把《還源觀》學透了,我們就知道古人的態度對的,現在科學概念上是錯誤的。為什麼?古人證到圓滿,像個圓球一樣他證得的,這圓球上你不能加一點,加一點它不圓;也不能少一點,少一點也不圓,圓圓滿滿不增不減。古佛證的是這個,今佛證的也是這個,所以今佛如古佛之再來,我們就明白了,今佛所說的一切法跟古佛所說的一樣,不增不減。這個意思、這個事實真相,現在人能體會的不多。所以我也常常說世出世間這些大聖,他們修學的態度是我們後學最好的榜樣。所以這一次我們特別選的,黃念祖老居士的註解我們來學習。黃老的註解你仔細看看,是不是述而不作?每解釋一段經文、一句經文,引經據典,再不然就是古大德他們的解釋。古大德也是根據經典,沒有自己發明的,沒有自己創造的,我們要懂。我們煩惱習氣這麼重,分別執著這麼重,這就要知道,道道地地的凡夫,如何能轉凡成聖?那就得向聖人學習,學老實、學乖,真聽話。經教我們行嗎?能講經嗎?沒有這個條件,智慧、德能都不夠格。
我早年到台中親近李老師,是跟他學佛的,正好他那個時候辦了一個經學班,培養講經的學生。他要我參加,我自己衡量自己,沒有這個智慧、能力,我不敢,我說我聽經,聽你老人家講經學習,講經我想我沒有這個能力。老師讓我到他班上去看看,當然看看我可以,去參觀一下,以這個善巧方便的方法把我領進門。我跟老師說我們不能講,結果一發現老師教講經的方法,原來是講古人的註解,古人註解看不懂,講現在人的註解,白話的註解,是這樣講法的。我就問老師,怎麼是這個學法?沒法子,不得已而求其次,現在沒人講經,我們不發心怎麼辦?誰出來?沒人了。經講錯了,錯一個字可不得了,古大德所說的,講錯一個字,這本來是禪宗的公案,「錯下一個字轉語,墮五百世野狐身」,你得負責任。你講錯一個字,你看看墮畜生身五百世,多可怕!老師告訴我,我們沒有資格講,講註解,講古人的註解,古人註的是文言文,我們現在把它用白話文翻出來,這個辦法。錯了,錯了是他錯,我沒錯。如果說是文言文看不懂,咱們看現在白話文,我就照他那個講。漏掉了沒有關係,可不能自己添自己東西,責任他負,我們學講經是從這裡做起步。到什麼時候你自己能講?開悟了,沒開悟那就得��別人的。
佛開悟了,祖師大德當中很多是開悟的,開悟了他也不離開佛菩薩,完全依靠佛菩薩的遺教,沒有一點新的意思。信而好古、述而不作,這個態度我們應當學,應當認真的學習。學習能不能有成就?那要看你學習的心態。什麼樣的心態能學成功?印光大師說得很好,誠敬,他說「一分誠敬得一分利益,十分誠敬得十分利益」。什麼叫誠?我很誠敬,我十二分誠敬,那是他自己的標準,不是佛菩薩、聖賢的標準。佛菩薩、聖賢的標準,誠是什麼?什麼叫誠?曾國藩先生在他讀書筆記裡面,將「誠」下了個定義,他怎麼解釋?「一念不生是謂誠」。人家有學問、有德行,講得不錯,念是什麼?妄念。你還有個妄念,不誠!在佛法裡面講,你還起心動念,起心動念是無明煩惱,你哪來的誠?分別執著那是大風大浪,嚴重的煩惱。所以佛告訴我們,你能把世出世間一切法不再執著,面對世出世間一切法,決定沒有執著,恭喜你,你證阿羅漢果,你就超越六道輪迴。如果你再更進一步,六根接觸六塵境界,分別也放下,不再分別。跟諸位說,執著放下,清淨心得到,清淨心生智慧;分別放下,平等心得到。清淨心是菩薩心,平等心是佛心,最後能把起心動念,就是妄念也放下,念頭都不生,恭喜你,你成佛。為道日損,要把妄想分別執著統統放下!一年比一年輕,你的道業就在進步。如果一年比一年還嚴重,你適得其反,你是在學道,那道不是佛道,是什麼道?應該是六道,你在修六道輪迴。修六道輪迴有善、有惡,善的三善道,不善的你就是修的三惡道,都在修道,都叫道,這都不能不知道。所以菩薩應化在世間,我們要能細心去體會,好好的來學習,提升自己的境界。真的,佛講的兩句話大家都會念,可是你沒去做,「勤修戒定慧,息滅貪瞋痴」,這真做功夫。
我們現在要認真問自己,淨業三福,不僅僅是淨宗的指導最高原則,也是整個佛法指導原則。第一條裡面所說的「孝養父母,奉事師長,慈心不殺,修十善業」。我們做到沒有?這是什麼?這是學佛的基本條件,我們要不具足那沒有資格進佛門。進佛門是有條件的,什麼人?善男子善女人。這個善就是這四句,這四句就是儒釋道的三個根,孝親尊師在《弟子規》裡頭,慈心不殺在《感應篇》裡面。所以你能夠把《弟子規》、《感應篇》、《十善業》真正落實,真正做到,你就是標準的善男子善女人,這個條件才能夠入佛門受三皈五戒。第二福這是真正佛門弟子,「受持三皈,具足眾戒,不犯威儀」,前面條件不具足沒有資格來受。可是現在怎麼?現在我們不具條件的也都受了。章嘉大師告訴我,受了怎麼辦?受了學。千萬不要認為我受了戒,��已經得戒,不可以這樣說,這個說是什麼?這叫大妄語;大妄語,你沒有得到,你自己以為得到。
這個話最早蕅益大師講的,蕅益大師明朝末年人,明末清初,雖然是淨土宗的祖師,第九代的祖師,他在戒律上下了很深的功夫。所以像近代弘一大師,大家知道弘一大師研究戒律。在那個時候蕅益大師研究戒律的,他戒律的著作也很多。他告訴我們,中國從南宋以後就沒有比丘,那個比丘是名字比丘,有名無實,比丘戒做不到,沒有比丘。要傳出家戒,傳出家的比丘、比丘尼戒,至少要五個比丘才能傳,沒有五個比丘傳這個戒,受戒的人不能得戒。他說南宋以後就沒有,名字比丘不是真的。所以勸導大家你可以去受,知道這是形式,受了以後要學,真正學一條你就得一條,你得做到。我們受五戒的人很多,很普遍,受在家菩薩戒的人也不少,五戒有沒有做到?不要說別的,不妄語做到沒有?常常說瞎話有意無意,沒做到!不殺生、不偷盜、不邪淫,你去想一想哪一條做到?還說我受了滿分的五戒,滿分的優婆塞、優婆夷。五戒都做不到,菩薩戒更不必說,所以有名無實,這個我們要知道。這種做法這是欺騙諸佛菩薩,我什麼壞事都沒做,你受戒做不到這個罪就很重。怎麼個結罪法?犯了什麼罪?破壞佛教形象你承不承認?人家一看佛教,你看這佛教徒是這樣的,他不罵你,他把整個佛教都罵了,連諸佛菩薩都罵了,要懂!
在家的信徒十善做不到,十善、三皈、五戒做不到;出家的這些弟子們,沙彌律儀做不到,不但沙彌律儀,三皈、五戒、十善也做不到。你說佛教怎能不衰?佛教衰在哪裡?戒律沒有了。你看佛法信解行證,你有信有解沒有行,證就不談,沒有行怎麼會有證?只有信解,信解就變成學術,變成佛學;有行、有證那就變成學佛。學佛跟佛學不一樣,佛學是能說不能行,學佛是能說又能行。所以我們今天在這個時代,找一個善知識到哪找,找不到!所以老師才教我,李老師當年在世,他老人家非常謙虛,我拜師,行拜師禮跟他學。他老人家跟我說,我只能教你五年,五年之後怎麼辦?他給我介紹一個老師,是他的老師印光大師。印光大師不在了,《文鈔》在,你天天念《文鈔》就是親近印光大師。把印光大師教訓記住,認真努力去落實,你就是印光法師的學生。開一個門,就是現在找不到真正善知識,古人有,做古人的私淑弟子,我的老師介紹我做印光大師的私淑弟子。我這麼多年在海外各地講經教學,我不敢自己認為是老師,沒資格,我也學老師的方法,給大家介紹一個老師。我介紹的是誰?釋迦牟尼佛、阿彌陀佛這兩個老師好,跟他準定不錯。
這老師在哪裡?《無量壽經》就是的,《阿彌陀經》就是的,一門深入,長時薰修。經看不懂,看不懂找助教、找幫手,哪些是助教?註解經的人就是助教。《華嚴經》看不懂,找清涼大師、找李長者,他們的註解就幫助我們學習。《彌陀經》看不懂,找��池大師他有《疏鈔》,蕅益大師他有《要解》,幽溪大師他有《圓中鈔》。《無量壽經》,在這個本子沒有出來之前,一般人學《無量壽經》都是學康僧鎧的譯本,五種原譯本比較起來,他這個本子比較好,流通也很廣。隋朝慧遠大師有註解,他跟我們淨土宗初祖法名完全相同,廬山慧遠大師是中國淨土宗第一代祖師。所以隋朝也叫慧遠大師,在佛門裡面叫他做小慧遠,聽小慧遠就知道是隋朝的慧遠大師,看他的註解。我們在台中那個時候學《無量壽經》,這個本子還沒有傳到台中的時候,李老師講《無量壽經》就是講小慧遠的註。所以古人註疏幫助後來的同學。現在工具多了,用錄音、用錄像來講解幫助後人,那就太方便了。我們建立個道場,這個諸位要記住,印光大師這一代祖師有德行、有智慧,他老人家教導我們,在現前這個社會狀況之下,建道場重質不重量,重實質不重形式。道場不要大,小茅蓬是最理想,住眾不要超過二十個人,容易維持。志同道合的這些同學在一起共修,一個方向、一個目標,決定求生淨土。小茅蓬住二十個人,住在裡頭的人心都清淨;如果建一個大的寺廟富麗堂皇,就有多少人在盯著想爭。
釋迦牟尼佛清楚,所以當年一生在世講經說法四十九年,沒有建一個道場,連小茅蓬都沒建過。為什麼?現在我們明白建道場就有人起惡的念頭。什麼都沒有,三衣一缽,日中一食,樹下一宿,你還爭什麼?所以每一個人心都清淨,沒有爭的。這個示現好,這個示現叫慈悲到極處,他真的叫代眾生苦,為什麼那麼做法?做出樣子來給後人看。我們今天的身體實在講跟佛陀不能比,跟佛的弟子也不能比,人家是長年累月,晚上就樹下一坐,不怕風吹雨打,經上講「金剛不壞身」,人家有德行。我們現在不行,我們現在到樹底下住一晚上,第二天大概到加護���房去了,沒有人家的德行。相隨心轉,人家心清淨,我們達不到那個清淨的程度,所以這是不能不知道的。在今天的社會,我們又不能離開社會,小道場天天認真學習,把學習的功德迴向給社會、迴向給一切苦難眾生,消災免難,這個事是真的嗎?真的。佛在經上講得不錯,「一切法從心想生」,有這麼一批人以清淨心天天在做祈禱,真誠的祈禱就能產生效果,這是對社會。社會有人不相信,古今中外有很多靈驗的事跡,現在有沒有?現在也有。逐漸科學也慢慢給我們印證,證明境隨心轉,證明相由心生,真有德行他真有感應。沒有德行呢?沒有德行也得要參與社會的福利事業。外國的宗教對於這些他們很重視,他們辦養老院、孤兒院、育幼院、醫院,做得很多,我也看得很多,熱心做這些社會慈善福利事業。在佛門這是附帶做的,真正��做的是自己提升境界,成就道德、成就智慧,你才能真正幫助苦難眾生,真正有能力去化解災難。
「晚近太虛法師提倡人間淨土」,這也是我們的上一代,對於中國佛教有相當的貢獻,也有不少著作。「曾詳引《無量壽經》文句」,在他的講演當中,引用《無量壽經》的經文很多。「蓋以此經雙照世出世間」,這一部經佛所講的世間法講得不少,出世間法也很多。「詳示真俗二諦」,佛依二諦說法,這是講經教學的一個總原則。諦是什麼?用我們現在普通話來說,是真理、真實,實實在在的。兩種,一種是俗諦、一種是真諦,俗諦是世間法,真諦是佛法,世出世間都照顧到。真諦是明心見性之後你所見到的諸法實相,是我們一般世間人很難理解的,它是真的。我們的修學程度沒有到那程度,佛不給我們說這個,佛給我們講世間法,也就是說我們的常識,佛很清楚。佛說我們世間人一般的常識,我們很容易接受、很容易懂,跟我們講父慈子孝、兄友弟恭,我們聽了很歡喜,這是世俗諦,這不是真諦。真諦給我們講萬法皆空,這我們就不懂,我們明明看到一切法現前,怎麼是空?佛怎麼是空?這咱不懂。那是真諦,是屬於高等哲學,不是一般人能懂的,佛是看眾生的根性,看你的程度給你說法。所以在整個佛法裡面,小乘都講俗諦,真諦也說,很少。大乘法裡面真俗諦都講,連一乘法,一乘法是《法華》、《華嚴》,那裡面也有俗諦、也有真諦,不是完全講真諦。
「夫淨宗之妙,在於不離佛法,而行世法,不廢世法,而證佛法」。這是淨宗的殊勝,真是巧妙。下面說「因持名之法,最為方便,隨地可修」,隨時可修,隨處可修,心裡面一句佛號,要真正做到大勢至菩薩講的標準,「都攝六根,淨念相繼」,真的不是假的。把六根管住不往外跑,非禮勿視、非禮勿聽,管住!六根不向六塵境界去跑。凡夫,外面六塵境界引誘你的六根,你在造業;真能管住,對外面境界看不看?看。看怎麼?沒放在心上,視而不見、聽而不聞,沒走心,這叫功夫。心裡是什麼?心裡面是阿彌陀佛,除了阿彌陀佛之外什麼都沒有,跟你談話交流,這世間法,心裡面的佛號沒斷。不是說我有事情辦事,我把念佛放下來,那是什麼?那是功夫還不夠、不到,初學的人要這樣做法。特別是用思考,你暫時把佛號放下,你去辦事,事情辦好之後再念佛。如果得到念佛三昧就沒有這個障礙,二六時中他佛號不間斷,做得到,不是做不到。
我早年在台灣,有一年過年,有一位老居士過年的時候來看我,也是我們華藏圖書館的老信徒,她來告訴我:法師,我現在心很清淨,我什麼都放下,可是就是孫子放不下。她念佛的功夫很好,孫子放不下,我就告訴她:「你能把阿彌陀佛想成是你的孫子,你就成功了。」她並沒有念孫子、孫子,沒有念,她心裡真有孫子,時時刻刻都有孫子的影子,阿彌陀佛掛在口上,裡頭心裡是孫子。所以我教她一個方法,換一換,把你孫子換成阿彌陀佛,你就成功了。心上真正有!那叫做念佛,「憶佛念佛,現前當來必定見佛」,大勢至菩薩說的。我們如果一心一意就想極樂世界、就想往生,這不往生麻煩可大了,不往生就得搞六道輪迴,六道輪迴實在太苦,不想再搞。這六道裡面東西不再去沾染它,你心就定了,什麼都不想。每天三餐飯吃飽就行,什麼都不要講究,能吃飽就夠了,衣服能夠禦寒就行了,有個小地方可以睡覺,就夠了,還要什麼?你就知足,知足就常樂。心裡面沒有一絲毫負擔,身心都沒有壓力,你說多自在。心裡真有佛,這樣的功夫快則一年,慢頂多三年,你念佛三昧就得到,念佛三昧是什麼?清淨心。《無量壽經》的經題裡「清淨」,你得到了,清淨心生智慧,不再生煩惱。什麼時候往生?在這個境界裡,想什麼時候往生就什麼時候往生,你這一想,阿彌陀佛就來了。有壽命,壽命不要,現在就去行不行?行,你的信息送到阿彌陀佛那裡去,這裡一起念阿彌陀佛就知道,他就來接引。沒有這個功夫不行,怎麼想也想不來,為什麼想不來?你是妄想,佛不來,你對這個世間拉拉雜雜的還沒放下,真放得下隨時可以去。
這個世界這麼苦,受這麼多年苦,還有什麼好留戀的?生到極樂世界永遠離苦,離苦得樂,為什麼不幹?實在講貪生怕死。如果有個念佛堂在這裡開著,告訴大家,「到我這裡來念佛,七天肯定往生」,你看有沒有人敢來?不敢來。天天求往生,七天準定往生,這念佛堂一個人都不敢來,假的不是真的,口是心非。這是我們明瞭之後得真幹,道理統統搞清楚、搞明白了。
確實不離佛法而行世法,世法、佛法一點障礙都沒有。無論做什麼工作,心裡佛號不間斷,這叫功夫成片,生西方極樂世界凡聖同居土。但是不要緊,世尊明白的告訴我們,生到西方極樂世界圓證四土。這種殊勝的果德到哪裡求?八萬四千法門只有這一門有,其他的沒有。所以遇到這個法門多難得、多不容易!遇到了不肯幹,當面錯過,這個罪很重,對不起自己,對不起佛菩薩,對不起父母,對不起祖宗,因為你一往生成佛,你的家人都得度。無論他在哪一道,你都看得清清楚楚的,他有苦有難你就能幫助他,他跟你有緣,所以他有感你就有應。他在受苦受難,希望有人幫助他,那就是感,你跟他有緣,你立刻這個信息就得到,你真的能幫助他。不廢世法,而證佛法,不廢跟不離是一個意思。世法是什麼?給諸位說,《弟子規》是世法,《感應篇》是世法,《十善業》也是世法,你看看,這三樣東西用在自己日常生活當中,用在自己工作當中,用在自己處事待人接物,世法!給世間人做好榜樣。心裡面是阿彌陀佛,這就成功了。這些世法不但沒障礙你,你在那個地方累���功德,到極樂世界提升自己的品位。你做了多少好事,在社會上做很好的榜樣,你的清淨心人家看不到,可是你的弟子規、感應篇、十善業,人家看到,改變今天社會風氣需要這個。老祖宗留給我們的都是好東西,他對於子孫多麼愛護,無比的深恩大德。我們現在這一代的子孫不孝,不能體會祖宗的愛,把他們的教誨丟在一邊,還說它過時了,這樣的心態,你說能不遭報應嗎?我們真是難得,在這個時代、這樣的年齡遇到,才覺悟、才明白,趕緊回頭認真來學習,自利利他,利他就是自利。你自己不認真學習,你沒辦法利他;自己真學,真得到好處,別人看到他就來學習,表現得好。
我記得我們早年在美國住,附近的鄰居都是美國人,我住的一棟小房子跟韓館長是對門。這些鄰居對我們很羨慕,有一天早晨,我們出去散步,外面是公園,我們鄰居看到我,他跟我們講,他看到我們每天都是那麼快快樂樂的,都是滿面笑容,他說:你們是做哪一個行業的,為什麼這麼快樂?我們告訴他:我們是念佛的。他說:「什麼叫念佛?」機會教育來了。「念佛學的是什麼?」我們就告訴他:念佛學的是智慧。他聽了,這個要,他也想學。我說:第二個長壽,第三個快樂。他們說:我們要!他們都是一些基督徒,星期天都上教堂去的,那我就勸告他,「星期六到我們佛堂來,學智慧、學長壽、學快樂,星期天你們上教堂,不違背,你們那裡有神,我們這裡有老師。」佛是我們的老師,他不是神,真的以後人慢慢就多了,附近都來了。所以他是先看,看了好幾個月才來跟我們接近,慢慢他就懂了。所以我說信仰宗教跟學佛不衝突,你們信仰宗教,神是你們的父,你們是父子關係、主僕的關係,你到我們這裡來,跟釋迦牟尼佛是師生關係,你在家有父母,在學校有老師,怎麼會衝突?他們聽了很高興,不衝突。
下面黃老給我們提醒,「隨地可修,何待遁入山林,隨時可念,不勞閉關宴坐」。這就講不必去找一個阿蘭若,阿蘭若是梵語,就是找一個清淨地方,隨時可以修。香港是最繁華地方,可不可以修?可以,不礙事,這比修其他的法門方便。譬如學禪、學密那環境的影響很大,都要找一個清淨的地方,叫蘭若,意思是清淨,很安靜。標準呢?古時候牛叫的聲音聽不到,以這個為標準。農村裡養牛,牛叫的聲音最大,你這個地方是村莊牛叫的聲音聽不到,叫清淨道場。念佛是得要有福報,咱沒這個福報的時候鬧區也行,也能學得成功。所以不必要遁入山林,也不需要閉關宴坐,宴坐是靜坐。現在這個社會小家庭,工作都非常忙,哪有時間去打坐?所以這個法門就殊勝,這個法門一點障礙都沒有。「但發廣大覺心,一向專念名號,下至���念一念,亦得往生,不誤世間工作,依舊頓脫生死,既能自覺覺他,廣度眾生於未來,亦復自他俱利,造福社會於當世」。這是真的事實,說明這個法門適合任何一個時代,特別是現在的社會科學技術發達,人們的工作忙碌,是分秒必爭,科學技術日新月異,你要不認真學習就會落伍。尤其是科技這個行業,我們看到他們的培訓班,半年就要去再教育,更新的東西出來,都要去學習一個星期到兩個星期,接受新的東西。有的時候三個月要受一次培訓,一年兩次到三次,這是不能少的,確實是很繁忙,生活在這種社會,你要想成就道業不容易。但是淨土這一門給你帶來方便,把你的難題化解了。
下面說,「是故經云,當來之世,經道滅盡,我以慈悲哀愍,特留此經止住百歲,其有眾生,值斯經者,隨意所願,皆可得度」。這是《無量壽經》後面的經文,釋迦牟尼佛為我們介紹的。「當來之世,經道滅盡」,肯定不是現在。所以世界上許多預言家都講世界末日,這外國宗教也講世界末日,世界是不是有末日?這都有問題。佛法不是這樣說法的,佛法講法運,釋迦牟尼佛的法運一萬二千年。給諸位說,諸佛出世的法運不一樣,實在講佛哪有法運?這運是眾生,正法、像法、末法都是眾生。我們認真肯學那就是正法,聽了之後不願意做那就是像法,聽都不願意聽那就是末法。所以佛的三種法運是從眾生說的,不是從法說的,佛沒有這問題,法也沒這問題,實在是人的問題。我們對於佛法有這樣強烈的愛好心,那這就是正法,我們今天這樣的學習,跟釋迦牟尼佛在世那個時候一般人學習,有什麼兩樣?沒有兩樣。他們跟釋迦牟尼佛一生能成就,我們今天遇到這個法門,一生也保證成就,這是正法。可是人的根性,佛是看出來,的確一代比一代差一等。到九千年之後,我們現在慢慢也能想到一點,眾生造的業累積,累積的惡業愈多,這個人的好運就沒有了,居住的環境跟著變,風水輪流轉,福人居福地。這地方風水不好,可是這個人是有福報的人,他到這裡來一住,兩年、三年風水又變好了,會變。這個地方風水寶地,那個人缺德造作惡業,他在那裡住上三年,風水都變壞了,境隨心轉。這個地球是一塊寶地,地球上的人都能夠隨順性德,修十善,不造十惡,這一塊寶地什麼災難都沒有,它會變得跟極樂世界一樣。
極樂世界,你看世尊給我們介紹,《彌陀經》裡面講的,那個地方的人皆是上善俱會一處,不是普通的善,上善。上善標準並不很高,佛告訴我們,我們修上品十善,我們不想到極樂世界去,來生到哪裡去?來生到天道,忉利天以上是上品十善;往生到西方極樂世界凡聖同居土,這上善,那個地方什麼災難都沒有。中品十善這得人道,下品十善阿修羅道,這三善道。往生西方極樂世界的人不只上善,除了上善之外,他覺悟,他不迷,在我們這個六道,上善到天上還是迷而不覺,他沒悟��怎麼知道是悟了?這個經上講得很清楚,一個人真正發菩提心就是覺悟。發心決定要求生西方淨土,這個念頭就是覺悟,為什麼?你要離開六道輪迴。不但要離開六道輪迴,你脫離十法界,脫離十法界是什麼人?菩薩。阿羅漢做不到,阿羅漢只是脫離六道輪迴,沒有脫離十法界。你發這個心,你要生極樂世界,縱然是凡聖同居土下下品往生,也脫離十法界了。雖然不是大徹大悟,他所得的果報跟那個大徹大悟的人沒兩樣,這是稀有的法門。真發心,不要再留戀這個世界,不但這個世界不留戀,華藏世界都不留戀。你嚮往華藏世界,你去不了,你要真正做到不起心、不動念、不分別、不執著,你才能生華藏世界,你說多難。可是到了極樂世界就是華藏世界,華藏世界裡面,最殊勝的一個寶地就是極樂世界。我早年在新加坡講這個經,給同學們做比喻,他們對華藏、極樂總認為這是兩處。我告訴他不是兩處是一處,我說華藏世界好比是新加坡,華藏世界,極樂世界好比是烏節路,他們最繁華的一條道路烏節路,華藏世界裡頭最精華的地方。生到極樂世界就生到華藏,生到華藏還沒有到極樂世界,也會去,文殊、普賢十大願王導歸極樂,還是會去的,沒有直接往生那麼樣的了當。所以這是我們得認清楚,你才真正放下萬緣一心歸依彌陀淨土。
這段是引本經,《無量壽經》上這段經文,釋迦牟尼佛說的,「當來之世,經道滅盡」,跟前面講的意思一樣,「我以慈悲哀愍,特留此經止住百歲」。我們要知道,這部經是世尊當年在世多次宣講,這一定要記住。佛在世的時候,任何經典只是講一遍,沒有重複的,唯獨這部經多次宣講,為什麼?就是希望這個經能夠到法滅盡了,最後滅的一部經。「其有眾生值斯經者」,值是遇到,也就是到法差不多滅盡,經道都沒有,只剩下這一部經,你要是遇到。「隨意所願,皆可得度」,你想到極樂世界,行!你念佛能往生,你想生天也行,你想來生到人道也行,隨意所願,都能滿你的願。「良以此經符合社會之實況」,它的確像《華嚴經》裡面所說的,理事無礙,事事無礙,這個法門是無障礙的法門。「真俗並照,事理雙融,凡聖齊收,心佛不二」,心佛不二是真諦,前面跟你講的凡聖齊收是俗諦,這個意思我們留到後面再說,這經裡面很多。「故能長存而獨留於末世」,末世就是末法時代。
「良以此經不但為淨土群經之綱要,一大藏教之指歸,實亦為此界他方、現在未來一切有情離苦得樂究竟菩提之法要」。這還得了嗎?真的,一點都不假,不但是淨宗的綱領、精要,釋迦牟尼佛四十九年講的一切經,最後的指歸就是淨土。《華嚴經》最後是淨土,十大願王導歸極樂。《法華經》龍女八歲成佛,是聽文殊菩薩也是講《法華經》,她聽懂了,發願求生淨土,成佛了。在一切經裡面,佛專講淨土的這三部經,《無量壽經》、《觀無量壽佛經》、《阿彌陀經》,這專講的,這三經,《無量壽經》多次宣講,講一切經附帶的有一百多部。所以古大德講「千經萬論,處處指歸」,特別是歷代的祖師大德、諸大菩薩,無論宣講什麼樣的法門,都附帶著勸大家念佛求生淨土。唯獨這個法門理事無礙,事事無礙,無論什麼樣的根性都能夠修、都能成就,就像善導大師���說的「萬修萬人去」,萬人根性不相等,沒有一個不成就。所以確實是此界他方,此界是指娑婆世界,他方是指一切諸佛剎土,現在未來,這是此界他方的現在未來。一切有情離苦得樂究竟菩提之法要,究竟菩提就是圓滿成佛,法是方法,要是最重要的方法,得來不容易。
下面是黃念祖老居士他在這裡發願迴向,「念祖感恩圖報,發無上心,敬註此經,續佛慧命」。報恩,遇到這個法門知恩報恩,一般人為什麼不能這樣奮發?不知道恩德。釋迦牟尼佛當年多次宣講為誰?我們這個時候遇到了,肯相信、能理解、發願求生,那就是為我;你要是明白,可以接受,那佛就是為你講經。直下承當,這才知恩,不是為別人講的,是為我講的,黃老居士就是這樣承當的。用什麼方法來報恩?給這個經做註解。老師的囑咐,夏老居士這部經會集成功之後,他自己親自講過,黃念祖居士是他的學生,從頭聽過,一堂課沒漏,他聽得很認真。這老師能看得出來,這個學生對這個法門十分誠敬,他就會得十分利益,所以讓他來做註解,老師對他信得過。佛弟子,真正的佛弟子要報佛恩,就是底下的這一句「續佛慧命」,念念想著釋迦如來正法久住。正法久住要用什麼樣的手段?就是自己認真學習,一代一代承傳下來。我們從老師那個地方學到了,得到殊勝的利益,要傳給下一代,佛門叫傳燈,不能讓這個燈滅掉。我們不傳,不傳就滅掉,滅掉有罪,那罪很重。
怎樣把這個工作做好,做得很如法,讓諸佛如來都滿意?頭一個是德行,這是續佛慧命最重要的第一個條件。就是說今天我們講的三個根、四個根,你要不是認真,把《弟子規》、《感應篇》、《十善業道》、《沙彌律儀》去落實、真正做到,這續佛慧命你做不到。頭一個條件是德行成就,然後才是學問,學問裡面一門深入、長時薰修。儒佛都是這樣教我們的,沒有教我們廣學多聞,廣學多聞是什麼時候?開悟之後。沒有開悟的時候,目標是定在開悟,不是廣學多聞,廣學一定障礙開悟,為什麼?你心不清淨,你太雜、太多了。一門深入,諸位要知道,一部經,我跟人講,我在這裡講,我一部經講完,怎麼辦?沒有了,講第二遍,二遍講完講第三遍。古人講《彌陀經》一生講兩百多遍,聽眾聽得能有興趣嗎?他遍遍不一樣,境界不相同,愈聽愈歡喜,講的人境界不斷上升,聽的人也不斷上升,講出味道出來,他真幹、真修,得三寶加持。過去我在台中,李老師告訴我,他《彌陀經》講了六遍,六個樣子,真的不是假的。我跟他學《楞嚴經》,我《楞嚴經》講了七遍,那個經太長,要很長的時間,我記得從頭到尾講圓滿的只兩遍,其他的五遍都沒講圓滿。
四弘誓願裡頭,四弘誓願是我們修學的最高指導綱領,你看第一個教我們發菩提心,「眾生無邊誓願度」,這發菩提心,為眾生不是為自己。從哪裡下手?「煩惱無盡誓願斷」是德行。你先要把煩惱斷盡,然後你才能學法門,煩惱不斷,你修學的法門裡頭夾雜著煩惱,很���成就。所以一門深入、長時薰修,是什麼?是斷煩惱,用一部經,用這個方法斷煩惱。八萬四千法門,用這個經教,你天天讀、天天講,用這個法子,你心是定的。一部,心是定的,愈講愈熟心愈定,定生慧,從這一部經上得清淨心、得平等心,只要得這兩樣就開悟。悟了之後是什麼樣?一切法門一接觸就通。
所以龍樹菩薩給我們做了個示範,他老人家證得初地菩薩,別教初地就跟圓教初住一樣。在我們中國人講大徹大悟、明心見性,在中國最具代表的惠能大師,龍樹菩薩證得的是這麼一個境界。世尊當年在世講經四十九年,所說的一切經,龍樹菩薩用多少時間全部學完?三個月。今天來講《大藏經》,三個月他就學完。他怎麼學得那麼快?你看看《六祖壇經》你就明白。你看《六祖壇經》記載的一個故事,在我們佛門叫公案、例子。法達禪師是學《法華經》的,他去見六祖,禮拜的時候頭沒著地,六祖看到,拜三拜頭都不著地,起來問他,你有什麼值得驕傲的?現在人講,有什麼值得驕傲的?禮拜頭不著地。他說他念過三千部《法華經》。《法華經》很長,三千部至少是三千天;換句話說,十年,十年念一部經,值得驕傲。六祖考考他,《法華經》講些什麼?說不出來,他回過頭來向六祖請教,六祖說這部經他不認識字沒念過,也沒有聽過,他說你既然念得這麼熟,你念給我聽。《法華經》二十八品,他念到第二品「方便品」,念到第二品,六祖說:行了,不必念了,全知道了。講給他聽,他開悟了,再禮拜的時候頭著地。你就曉得,開悟的人是不是要全部讀?不需要,看一卷、看一段就曉得這全部講的是什麼,全通了。所以三個月一部《大藏經》,是真的不是假的。
禪宗裡面講悟後起修,為什麼宗門跟教下不一樣?教下一開始學習經教,宗門是決定沒有開悟不許你看經,也不許你聽這些東西。就是讓你放下,放下分別、放下執著,悟的時候就是清淨平等覺,覺就是覺悟,那個覺悟必須是把無始無明煩惱斷掉,無始無明煩惱就是起心動念,六根接觸六塵境界不起心、不動念,起心動念尚且沒有,那當然沒有分別執著,到這個境界。覺性,自性覺現前,這一現前,六根接觸境界,一接觸就通達、就明瞭,學得快!六祖不認識字,沒聽過經,要說他聽經那就是半夜三更,這是五祖忍和尚在方丈室給他講《金剛經》,當然講大意,講到「應無所住,而生其心」,他就見性。把他的境界說出來,說了五句,「何期自性本自清淨、本不生滅、本自具足、本不動搖、能生萬法」。五祖忍和尚說:行了,後頭不要說了。衣缽給他,打發他趕快走,為什麼走?嫉妒障礙,別人不服。別人天天在講堂聽經,天天在禪堂裡面坐禪,都沒有得到衣缽;這來了一個人,好了,禪堂一天沒去過,講堂一天也沒去過。五祖只是打發他在碓房裡面舂米破柴,幹這個幹了八個月,結果衣缽被他拿去,所以沒有一個人服氣。到第二天到處去找去追,想把他追回來,佛菩薩保佑,他在獵人隊裡面藏了十五年,十五年大家把這個事情平淡,這才出來。
逃難的路上,在曹侯村遇到無盡藏比丘尼,她是受持《大涅槃經》的。《大涅槃經》分量多,兩個版本,一個四十卷,一個三十六卷。惠能大師那個時候二十四歲,剛剛逃出來的時候,還沒有到獵人隊,曹侯村遇到這個比丘尼,聽她念《涅槃經》,聽完之後他就講解給她聽,這個比丘尼佩服得五體投地,講得太好,講得她開悟。她也是一心受持,這是一門深入、長時薰修,她得到三昧,這一講的時候她就開悟。拿著經向六祖請教,六祖說:我不認識字。她說:你不認識字,你怎麼能講得出意思?他說,「這個與文字不相干」。我們不能不懂,真不相干。所以古人這個一門深入、長時薰修,這裡有大道理在!中國不但學佛如是,學道、學儒亦如是。古時候這個私塾裡頭教學生,重要的是啟發他的悟性,把這個擺在第一,其他的都是二、三,悟性擺在第一,不能把他悟性堵塞,現在人不懂。今天時間到了,我們就學習到此地。
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🎶 オム マニ パドメ フム
このブログの形式は「仮初め」のもので
本当は何年も前に夢で見たブログデザインをちゃんと創り出すべきなんでしょうけれど、三次元的には手間で、そのまま放置していまして、
「COBRA」関連の情報共有については、その形が整わないため、まだ手をつけないまま、勝手気ままにわたくしごとを綴っています。🙏🏻
そのうち試行錯誤してみようとは思っています。。。。
ここのところわたし、必要を感じてたまに唱えています。
OM MA NI PEDME HUM🎵
COBRA更新 内なる錬金術(2024/10/6)
https://the-liberation-of-planet-earth.blogspot.com/2024/10/inner-alchemy.html
(地球解放に向けて さんより)
この記事内にありました「コーザル体を活性化するためのマントラ」と同じものです。
チベット語でチェンリジグ、慈悲の権化の観音の六字真言。
2020年ウエサク祭で
シンガポール人のメンターの方が自ら唱え、神域から受け取った貴重なご経験によると、
要するに人間の貪瞋痴を癒すことができるとのこと。
すなわち、唱えれば
高慢、嫉妬、欲心、無知、などなどの苦しみの扉を閉じることができます。仏教的次元の使い方ですね。
さすがプレアディアンであるCOBRAのアレンジは高次で鮮やかです。「コーザル体を活性化するためのマントラ」になっちゃった。
上記本文をぜひご参照ください⭐
ことは後先逆になりますが、
実はわたし、2018年6月、および2020年冬に、ハンガリー巫女WSを東京で再現しました、そのときにですね、
YONI を揺らすダンスのBGMとして、この
OM MA NI PAD ME HUM
(続けるとPEDME HUM)
の楽曲を完全に個人の好みで、採用して皆さんに踊っていただいていたんですよ!💃ゆらゆらと。
女神瞑想会でもたまにこれを再現していました。(メンバーが全員WS参入者の女性のみのときに限って。)
好きだったのですよ、この音とアレンジ曲の緩やかさと癒しが。
YONIを優しく揺らすのにピッタリです。
わたしがこのマントラの世界に浸るきっかけを作ってくれたのはアントワイン氏です。
その後の京都カンファレンスで、��んとCOBRAがこのマントラを「東洋の皆さんは観音につながることもできます」と紹介して、皆で唱和したのがとても嬉しかったのを覚えています。
さて実は、かのアントワイン氏はかつてこのマントラで作曲し、
自ら歌っていたのです! 録音自体は10年ほど前のことではないかしら。
わたしはそのメロディーと歌声を愛しておりました。
今は残念なことに彼がSNSから削除してしまいまして聴くことができませぬ。
それから、アジア系のメロディーで二種類、気持ちに応じて三種類をプライベートで鼻歌的に歌い分けています。
メロディーはなくとも、ですね、繰り返し唱えますと体感的には
視界がクリアになり、頭がスッキリします。
ところてこれは本日草原に寝転んで見上げた空☺️
もっときれいでした。青とピンクがなんともいえませんでした。
気候の良い今時分の夕刻、広々とした公園の草地に座ってラーカー���去促進瞑想をやってました。
光の勢力、年中無休で本格的にラーカーぶった���りして下さってますので、こちらも追いつかないと。
近くをお子様が走りラーカーのいる輪っかを踏んで邪魔してくるのも「お前はラーカーの子分か」と思いつつ心頭滅却ごっこにはもってこいで、一興でしたよ(笑)
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輪っかのイマジネーションについて、こちらの台湾の方の動画を参考にされるのもおすすめいたします。
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缺福報,是歷練,也是修行
以下文章為一有緣人分享:
最近,我遇到一個坎。我不知道要怎麼樣,才能在第一時間中無我、無私,只為公共利益或他人利益著想地去做研究、投稿或申請計畫。
我和學弟合寫的期刊論文,終於被接受了。記得他再次投稿那天,我像被抽福報一樣,犯睏且全身無力、不舒服。之後,我真的很怕寫完投稿又被抽福報,可是我又不知道要怎麼樣才能不去思考,投稿上了會給自己帶來的幫助,因為我的學術生涯就缺期刊論文啊!再不發表,人家都認為我根本不會做研究,不會做研究的人怎麼能當研究員啊!
我覺得我的研究對學術圈和學界很有幫助,但為什麼老是遇到評價兩極的結果?一個說這篇很好,馬上接受吧!另一個說沒有證據,直接拒絕,就這樣一直刊登不上。我當初使用的人工智慧版本都已經被時代淘汰、消失無踪,所以我整個實驗又要重做,論文重寫。我之前剛好遇到七月大缺福報,沒辦法寫,八月腦袋黑氣重,寫不出任何有用的東西,論文就這樣停滯了兩個月。
老實說,如果因為投稿而耗掉福報,文章被接受就算了,但我面臨的常常是耗掉福報,文章仍然被拒絕,兩頭空啊!那我還要寫文章嗎?「那我還要寫文章嗎?」我寫了,會不會是做白工呢?
除了寫論文,我很掙扎,我還要去申請國科會計畫嗎?我的工作非得要申請國科會計畫。申請國科會計畫,計畫通過會福報大失血。想到我上一次通過時,要補三經各600部的福報,當時福德資糧嚴重不足,對我有以下影響:
一、被長官羞辱,派許多非我份內工作,原本要演講的任務被砍掉。二、學校學餐阿姨不幫我煮素食,說湯碰過葷食,以前她會幫我重新換水煮,現在要我只能吃現成的素魯飯。三、腦袋瓜空空如也,做事無法專心,沒辦法寫論文,研究沒有進度。四、極度悲傷、厭世、不想活。五、走在路上差一點就被闖紅燈的汽車撞到。六、每次搭捷運,要搭的那班捷運,都剛好在前一秒鐘從自己面前開走,要搭的學校接駁車也是,剛好在我面前關門開走。七、買東西等到自己要結帳時人就特別多,要排隊排很久。八、長相變醜,耳朵變很小,耳垂和手掌變單薄。九、開始不停購買之前覺得需要、但不一定非要買的東西,而且似乎還想繼續買下去。十、一直做錯誤的決定。
對很多人來說,我寫的這些是生活常態,不足為奇,甚至稱不上苦。其實真正讓我害怕的是人生在原地打轉、停滯不前。我的工作需要高度用腦,要時常想新的研究問題、分析方法、尋找有利的資源、證據。如果我福報不足,每一天都像行屍走肉一般,好像很努力,但做的東西常常用不到,對學校沒有貢獻,我真的難以忍受這樣的自己。
《達磨大師血脈論述記》提到:「所以有樂著,不得自在。」所以若起心攀緣外境,依於染習,知順逆境,即為六塵所纏��,而不得自在。順境則樂著而生貪,逆境則厭離而生瞋,不順不逆,則自私自利,少管閒事而生痴。心生苦、樂、憂、喜、捨諸受, 因而迷惑造業,輪迴六道,受諸苦惱而不得自在解脫。
「只今若悟得本來身心,即不染習。」所以只要能悟得原來我這五藴身心,就是我這一念生滅相續心所變現出來的,而這一念生滅識心是以眞如佛性(法身;本心)為體性,猶如海浪以海水為體。而眞如佛性是淨智妙圓,體自空寂,只因不守自性,起心攀緣外塵,緣三細六麤相而成生滅染心。只要能放下萬緣,如如不動,不取於相,則即時還得本心,本自淸淨,元無煩惱,具恆沙妙德,寂而常用,用而常寂,體用一如,無有染習。(引用結束)
有一句成語叫「因噎廢食」,意思是曾經出過差錯,有不好的經驗,就唯恐再犯錯,而不去做原本應該做的事。我想,我就是一直在攀外緣,被六塵所纏縛而不得自在。何必去在意別人的觀感,管論文和計畫投稿會不會耗福呢?做了研究就寫成論文,投出去不就好了。與其為了有期刊論文而做研究,還不如好好地唸經培福,在做研究時努力多幫眾生想想,怎樣的研究才能對他們有實質幫助就好。其他的,放下吧!別多想了。耗不耗福報哪是自己現階段能控制的呢!
就算現在我還沒辦法達到一切為眾生利益著想的程度,每次一發心就同時存在利眾和利己兩種想法,但這就是反映我現階段的心性狀態啊!建立正確的布施和做事觀念絕對是必要的,我也應該朝這方向邁進,可是如果現在心性不到這裡,我也不用因此覺得自己非常功利、糟糕,也別因為怕耗福,就畏懼寫論文、投稿、申請計畫,讓生活停滯不前吧!努力完成該完成的事,耗了就多唸經補足,想那麼多作啥?交給老天來發落吧!
《六祖壇經》云:「煩惱即是菩提,無二無別。」經過兩個月的沉澱,我���於跳出自己的思考泥淖,學到了一個人生道理。南無大慈大悲觀世音菩薩摩訶薩!
(分享結束)
幫有緣人送件請示:「有緣人常缺乏福報,是否現在的工作需要用到大量的福報所致?」佛菩薩開示:「非。係過去世的業重,再加上喜歡胡思亂想。」
有緣人和學弟合寫期刊論文,本該是單純的幫忙學弟,有緣人卻心思浮動,想著若學弟的論文完成了,自己能從中獲得多少助益。本該只是單純的學姊幫忙學弟,本該只是只為公共利益或他人利益著想去做研究和投稿,卻因為念頭太多,攀緣了,助人的動機不單純,變得涉入太��,最後演變成有緣人需用自身的福報,去補足學弟的不足。換言之,學弟後來的論文順利完成了,但背後的功德主其實是有緣人,因為有緣人用自己的福報,大大推了學弟一把!
習慣「想太多」,或喜歡「胡思亂想」是習氣,尤其有自殺業力的人,這方面的習氣會特別明顯。會選擇自殺的人,內心通常有著不為人知的陰暗面(負能量),而一世自殺和多世自殺的人又不同,多世自殺的人,內心的陰暗面和喜歡胡思亂想的習氣會更重。自殺業力能依靠誦經迴向化解,阿賴耶識裡的自殺影像,也能在迴向圓滿後請求佛菩薩幫忙消除,但個人內心的陰暗面和習慣胡思亂想的習氣,佛菩薩卻無法幫忙!只能依靠今生有幸遇到學佛的大好機會,往死裡唸經、持咒、想佛、憶佛,將正能量不斷往心識底層灌注,設法以正能量覆蓋負能量,用新蓋舊,才有辦法漸漸消融。
會胡思亂想的人,通常內心的慾望也多,正因個人的慾望多,所以只要對自己有利益的事情出現,額外的想法就不請自來了。過程中若利益了自己倒還好,若不幸事與願違,這時習氣裡的陰暗會蜂擁而出,許多的惡念不停冒出來,這也是雜思多、喜歡胡思亂想的人,福報常常缺乏的原因!
所以,雜思多、喜歡胡思亂想的人,務必要多用心懺悔,如果不用心懺悔,只會用心發牢騷、傾瀉不如意,內心的陰暗會更加深沉,心識離光明也會越來越遠。另外要再次提醒,選擇自殺的後果嚴重,一世自殺除了會有連續七世自殺的因果,內心黑暗、無法樂觀開朗的遺毒,也能延續好幾世,所以,生命無價,請珍惜生命!
業障重的人,運途也必定坎坷,既然坎坷,也必然缺乏福報,這是果報,也是今生的課題,考驗自己要如何想得開與放得下;考驗自己在接受的當下,又要如何不起瞋恨與惡念。一切皆不昧因果,佛陀福慧具足,尚且需要承擔在因地修行時造下的因果,福薄又智慧不足的我們,又如何能逃避累世輪迴以來造下的諸多惡業。人生過程是歷練,越執著在哪裡,那方面的考驗就會越多,好比害怕干擾,干擾就會越多;害怕缺福報,福報就會越缺乏。
阿伯說:「缺福報,是歷練,也是修行。」將這句話套用在許多的情境上都能通,好比:缺錢,是歷練,也是修行;感情不順,是歷練,也是修行;人際關係不好,是歷練,也是修行;常被干擾,是歷練,也是修行……。諸多磨難都是讓我們成長的養分,有干擾要告訴自己不要害怕,缺乏福報要提醒自己不要停滯不前,反而要藉由這些干擾、缺乏、不順遂,來磨鍊心志,反省自己的盲點,修正自己的盲點,突破自己的盲點。
心態的調整要具備,但現實面的解決方法也要有。人無福報,寸步難行,缺乏福報除了能靠大量誦經和捐款布施補足,若事情已經非常急迫,大量誦經確實來不及,經濟條件也不允許捐款布施,那麼請誠心的在心裡跟佛菩薩請願,評估自己各方面的條件,請願在事情成功以後,每個月願意固定提撥薪水的多少,以及歷時時間多長,捐款家扶中心。或者,有緣人的文筆確實不錯,請願要完成多少篇感應文章以饗眾生。諸如此類,總之,方法是人想出來的,只要能確實說到做到,佛菩薩都很願意送上東風,幫助腳踏實地、有心、努力的人達成心願。
但是,話要再說回來,事在人為,跟佛菩薩請願只是一個方法,觀念務必也要正確,事情要順利達成確實需要福報,但也不要被「福報」綁住,以為沒了福報,萬事都無法做了。這個世界上沒有一樣東西是永恆不變的,世間萬物本來就在「有」跟「無」之間交相更替,有福報會轉到沒福報,沒福報也會轉到有福報。
世間其實是一局玄妙的輪盤,光明與黑暗互相依存,不管有福報、沒福報,人生本來就是課題,走到哪裡,轉到哪裡,就該學習和什麼樣的風景相依,學習和什麼樣的心境相應。修行人不應只想著萬事順利,而是要能隨著環境的變化,時刻調整自己的心態。歷事方能鍊心,藉刻苦的環境磨鍊自己,心性才有機會提升。若只是想著依賴福報,享受事事如意,則心性永遠無法提高層次。
我們常被外面的「有」影響,有干擾、有是非、有福報,一切問題的根源都是「我」的念頭太強。因為執著,感受就痛苦。學道之人應當「常於自性觀」,修行是要認識自己的習氣,而導正習氣需要「行經」,把經典上的文字化為行動,才是真正落實信、願、行。
大量誦經洗滌心識,待心識較清明之後,更要善用自己的專長,多做利益眾生的事,養成好的習氣,取代壞的習氣,打造光明的未來。學佛的心,作菩薩的手,利樂有情眾生,福報不求自來。南無大願地藏王菩薩!
南無本師釋迦牟尼佛
南無藥師琉璃光如來
南無阿彌陀佛
南無大悲觀世音菩薩
南無大願地藏王菩薩
南無韋馱菩薩
南無伽藍菩薩
南無十方一切諸佛菩薩摩訶薩
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「虚無への供物」中井英夫 2211
第二章
21黒月(こくげつ)の呪い01
いよいよ第二章です。 最初の事件もまだまだなのにこのあとどうなるんでしょう。
1955年2月6日、日曜日、 春の様子が描かれます。
前日、 蒼司から、夕食の後で親族会議を開きたいから来てくれと、電話をもらった亜利夫。 当日も重ねて電話があったので、早速訪ねてきています。
蒼司は、藍の匂う薩摩絣で迎えます。 この薩摩絣、今でこそ高級品ですが、その当時は、一般の綿織物のように、庶民の着る普段着だったみたいです。
四十年近い年月を氷沼家で送った爺やを、千葉の弟に引き取ってもらったとかで、ひどく沈んだ調子の蒼司です。 専門医によると分裂症だとかいう、爺やが寄越したというはがきを見せられます。 薄い鉛筆書きで字画の正しい文字が一杯に行儀よく並んでいます。
内容が何となく変です。
“黒月の呪法、御前様にはお叱りを受け候へ共、必ず実現致可く候へは、鳥渡御報せ迄申し上げ候”
黒月の呪法ですが、 風呂場で紅司の死体を見た時、経文を唱えていたようにお不動様に凝っているわけですから、 このあたりのことだと思いますが、どうして「黒月」なんでしょうか? しかも、どうやら蒼司に叱られたみたいで、 なにか蒼司にするように言われているけど未だに実行���きてないと叱られたことへの返事だと取れそうですね。 それが一体なんなのかは、ここでは書かれていません。
一寸気になるところです。 鳥渡も気になります。
はがきを見せながら蒼司は、 先月の二十五日の夜に祈祷をしている爺やを見たといいます。 真言密教で、��動、降三世など怒りの相を表わす五大明王を本尊として、怨敵、悪霊などを降伏させるために行なう降伏法で、 つまり、人を呪い殺すための祈祷をしていたといいいます。
月の後半、それも特に火曜日を選んで必ず夜半に行うのを黒月と言うようです。
蒼司は、その爺やの姿を見ながら狂った脳の断面を見せつけられているようで何より情けない思いが先に立ったようです。 頃合いを見計らって声をかけ、懇々といいきかせたけど無駄で、 この日は、爺やもかたくなに紅司は死んだのではない。と、いっていた。 このままでは、家を出て貰うとまでいったが、 爺やは平然として、貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)の三悪が滅ぼされるまでは、 必ず不動明王の忿怒は消えることがないと、薄ら笑って答えるのだった。
藤木田も、分裂症の初期だと言っていたがそれもあって、千葉に引き取ってもらったといいます。
ただ、 その経緯の中の一文に “呪法を行うだけならいいが、思い詰めて橙二郎に毒でも盛られたら取り返しがつかない。” とあります。
なぜか、唐突にこの文が差し込まれている気がします。 橙二郎はこのあと、毒でも盛られて殺されるとでも言うのでしょうか? しかも、どうして橙二郎なんでしょう?
蒼司は暗い表情のまま口を噤んでしまいます。
亜利夫にしてみれば、目白不動の結びつきを発見してから、 青蓮院に青不動、明王院に赤不動、三井寺に黄不動と見つけていて多少の関心はあるが、 とても爺やほどには付き合いきれないと思っています。
調べてみると、 青不動は、青蓮院となっていますが、最勝寺(東京都世田谷区太子堂)にあるようです。 赤不動は、明王院となっていますが、南谷寺(東京都文京区本駒込) 黄不動は、三井寺となっていますが、諸説あるようで、どこなのかはわからないみたいです。
猟奇的で話としては面白いですが、 たぶん、本文とは関係ないですね。
その後、 亜利夫が参加した親族会議での話は、目白の氷沼屋敷の売却話で、 それほど、財政的にひどい状態らしい。
ちなみに親族会議に参加したのは 蒼司、藍司、橙二郎、 八田皓吉、藤木田誠、光田亜利夫 である。
不動産といえば、八田皓吉の得意分野だが、蒼司は、橙二郎に譲ることにしたいという。 それで、親族会議は紛糾する。
少しでも蒼司の有利にと走り回ってきた八田皓吉は呆気に取られたし、 藍ちゃんはすっかり腹を立てて不満をいうし、 藤木田老人も唸るような声を出して反対する騒ぎとなった。
結果的には、決定は明日まで伸ばすこと。 仮に橙二郎に売るとしてもなるべく時価で、 手続きはいっさい八田皓吉に任せその場合の手数料も他の話の場合と同額にするということで、 八時頃に、どうにか話が一段落した。
ところで、 家の売却先にPR教団の名前が上がっています。 例の宗教団体をわざとぼかして書いたのか、作家の勘違いだったのか。 面白いですね。
蒼司は、 この家に取りついている業みたいなものがあるとしたら、 それを橙二郎に肩代わりしてもらおうというのがここを明け渡す本当の理由だといいます。
さて、 一応の理由らしきものを説明しますが、どうも、言い訳らしいですね。 蒼司は、実際、どうして橙二郎に譲ることにしたのでしょう。 一体、なんの意味があるのでしょうか? 今後の展開を期待しましょう。
つづく
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生命就在我們的呼吸之間,而現代人情緒經常失控,在貪、瞋、痴、慢、疑當中失去了良心和本性,很多人一時衝動,往往會造成終生的後悔。
我們來到人間,生不帶來,死不帶去,很多人在欲望中沉淪,為名利得失迷失了自己的本性,扭曲了自己的心靈,最終造成了心靈深處的傷害和煩惱。
唯有佛法才能啟發我們的本性和良知良能,知煩惱是虛空,知人生是無常,這就叫悟性。
2018年12月30日馬來西亞
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三毒は、人々が日常生活で直面する多くの問題や困難、対人関係のトラブルの根底にあるとされています。 貪(とん)は過度な欲望や執着を、瞋(しん)は怒りや憎しみを、痴(ち)は無知や誤解を引き起こします。 これらの煩悩は、個人だけでなく社会全体にも悪影響を及ぼすことがあります。
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大無量寿経の教え
宗祖親鸞聖人は、その主著「教行信証」の冒頭において、「それ真実の教えを顕はさば、即ち大無量寿経これなり」と説かれている。大経は上・下二巻から成り立っている。その叙述形態は「世間」と「出世間」の二つがあるのだが、多くの人は「世間」に完全に没入し、「出世間」という境涯について殆ど全く無知である。「出世間」という存在様式を自覚することが先決であろう。
(大経・上巻)冒頭から出世間の領域の叙述が始まる。出世間の領域において、一切衆生を救わんが為に、法蔵菩薩は五劫の間思惟し、四十八願を建てられ、兆歳永劫の修行を経て成仏された。そして浄土を建立し、阿弥陀如来となられた。かくて衆生救済の本願・名号・信心を発布されることになった。
(大経・下巻)さてその救済の対象としての衆生の状態であるが、下巻は中頃において世間のすがたの叙述が展開される。人々は三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)にまみれ、五悪(殺人・窃盗・淫乱・妄語・飲酒や麻薬)に沈没して、苦しんでいる。これが「世間」の事態であり、我々の日常の事態であるが、ここで仏教的智慧に照らされると、「出世間」の境涯が明るみに出されてくる。即ち曠劫以来の流転輪廻の相が明るみに出されてくる。こういう流転輪廻から人々が救われるには、難行苦行して覚ることを目指す自力聖道門仏教によっては、到底目的を達せられない。
そこで上巻において説かれた法蔵菩薩のご苦労によって建立された易行道が示される。即ち本願を信じ、「南無阿弥陀仏」の名号を称えるということによって、現生において正定聚不退転となり、一期の命尽きぬれば必ず浄土に往生し成仏することが明らかになったのである。
「往生成仏」の確信これ程の喜びが他にあるだろうか。
「念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門 権実真仮をわかずして自然の浄土をえぞしらぬ」(浄土和讃 71 浄土真宗聖典注釈版569ページ 本願寺出版社」
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貪瞋癡(とんじんち) 仏教において、人間を悩まし迷わせて害し、誤りに導く、根本的な3種の煩悩のことで、毒にたとえて三毒という。 貪は貪欲(とんよく)ともいう。むさぼることを意味し、好ましいものに対する激しい欲求や強い執着を指す。 瞋(しん)は瞋恚(しんに)ともいう。怒りを意味し、好ましくないものに対する反感や嫌悪を表す。 癡は愚癡(ぐち 愚痴)ともいう。無知を意味し、仏教の正しい教えを知らないことを言う。貧瞋癡のなかでも、癡は煩悩の最も根本のものであり、無明(むみょう)とも称される。
貪瞋癡(とんじんち) | 時事用語事典 | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス
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年が明けても、めでたくはない
令和6年、元日早々に今まで生きてきた中で一番の地震に見舞われる。何て年だ。
日本に住んでる以上、自然災害からは逃れられない。そういう心構えで生きていくしかない。
用事でいつもの氷見、いつもの貪瞋痴に来訪。
能登の被害は言わずもなが��けど、富山も少なからず被害受けてる。支援物質はありがたいが、仕分けが大変とのことなので、募金の支援が一番です。
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廻の日 20230811.
「死にたい」のもつ重量を感じさせないようにしつつ、かつ軽薄になりすぎないようにして、そのリアリティを言葉で表現するには、と考えている自分がいる。Twitterでつぶやくリズムで自分の気持ちを吐露していると、そのテンポの良さで見えない敵に向かって何度も唾を吐いてるような感覚になる。私を見てと見ないでの間。理解してとしないでの間。間に挟まれた自分をずっと掬ってあげられなかった。精神科で言われた「境界」というフレーズだけがその状態を客観的かつ妥当な形で捉えてくれた。ジレンマ。I hate you but don’t leave me. こういう言葉で自分の一部は掬われたと感じた。でも、今はここまでしか語れない。まだ恐怖が広がっている。核心には触れたくない、思考が停止する。(また今度にしよう。)
今日は昼は母親と近所のインドカレー、夜は家で揚げ物の日だった。昼も夜もビールを飲んだ。夜涼しくなってから長めに散歩した。本当は今日はアプリの男と約束していた日だった。指定されていた場所には行かなかった。彼からも連絡はなかった。気がかりだった。今もどうしても考えてしまっている。年齢はそれなりに差があったけど、境遇が似ているみたいで会話が続いていた時には違和感はほとんどなかった。見た目も好みだった。これが一番素直な感想かもしれない。できれば会って話してみたかった。お互いに何かを期待しあうことで出来上がっていた生ぬるい空気を今はもう感じることができなくて少し寂しい。もっと混じり合いたかった。互いの腹のうちも性的な嗜好も時間かけてもっと探り合いたかった。一枚一枚脱いで見せ合って相手にも自分と同じように邪なものがあることを確かめ合っていく感じが好きなのに。しかし、結局どんな関係も快や楽だけでは済まなくなるのだろうね。全ては苦に通じてる、現世ゆえ。
今日のキーワードとしては、仏教における心の三毒「貪瞋痴」(それに対峙するアウトサイダー)、それから「開き直り」。「相対化」も。また明日以降に持ち越して考えていこう。これもまた未来への投企。受け容れらない自分、という感覚を少しでも和らげたい。きっと色んな人が私を見てくれている。そのまなざしは中立であったとしても、排除や否定ではないはず。だよね。
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嫉妬の炎や、怒りの炎に身を焦がすほどになっている時、それが、まさに地獄そのものですよね。
死んでから行くんじゃないんです。
カッカカッカしている。
それが、地獄そのもの。
ー 一楽 真 著『人間は何を求めているのか 阿闍世の生き方を通して考える』(響流選書)よりー
#一楽真 #地獄 #貪欲愚痴瞋恚 #嫉妬心 #分別心 #散歩 #つれづれ #今日の言葉 #石神井公園 #撮影散歩 #今日の一枚 #カメラのたのしみ方 #順正寺 #写真
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淨土大經解演義 淨空老法師
淨土大經解演義 (第八集) 2010/4/12 香港佛陀教育協會 檔名:02-039-0008
諸位法師,諸位同學,請坐。請看經本第七面第四行。
我們從「至於契機,則更是本經之獨勝」,從這個地方看起。「經中之持名法門,普被三根,齊收凡聖。上上根者,正好全體承當;下下根者,亦可依之得度」。前面我們學習到此地,學習到這個地方。接著說:「上則文殊、普賢法身大士,亦均發願求生」,到下面我們會看到,念公引《華嚴經》的經文。「下至五逆十惡,臨終念佛,亦必隨願得生」,下,下講到哪裡?講到五逆十惡。什麼是五逆?這是造作罪業極重的。經上講,五逆十惡罪必定墮阿鼻地獄,進去很容易,出來可費事,太難了!五逆,第一個是「殺父」,第二個是「殺母」。父母恩德大,佛在經上專門有一部經講《父母恩重難報經》。這個經在《大藏經》有兩種譯本,第一種譯本安世高譯的,這是決定沒有錯,在譯經目錄有這個本子。第二種就是鳩摩羅什譯的,這不可靠,因為羅什大師翻譯經目錄裡沒有這部東西,很可能是後人偽造的,假托羅什大師這個名字。但是講得也還不錯,我們可以把它看作一種勸善的書,《大藏經》上也收進去。收進去,有些確實是偽造的,內容也很好的,古大德也把它收在裡面,我們學習經教不能不知道。這些東西可以做為參考資料,如果要學,要在外面講解,最好還是用安世高的本子,有根有據。殺父殺母,這還得了!
第三個是「殺阿羅漢」。阿羅漢,跟阿羅漢同等的就是老師,阿羅漢在這個世間教化一方,功德也非常殊勝,你把他殺了,你害了他。害他事小,他不會怪你,人家是證果成聖人,絕不會記仇。罪從哪裡結的?就是許許多多人沒有人教化,本來阿羅漢在這邊教化一方,你把他殺掉,這一方人聞法的緣斷掉了,罪從這裡結。如果他教學的面很廣,時間很長,那你的罪就很深很重,這叫等流之罪,還是墮阿鼻地獄。
第四種叫「出佛身血」。佛的福報大,沒有人能把佛害死,但是讓佛流一點血是可能的。這個故事是出自提婆達多,提婆達多想害釋迦牟尼佛,他對於釋迦牟尼佛很嫉妒,雖然是佛弟子,在世間的關係,他們是堂兄弟,所以關係很深,堂兄弟。嫉妒釋迦牟尼佛成佛之後信徒之多,得到十方的恭敬供養,他看到受不了,總是想盡方法來害他。有一天他計算釋迦牟尼佛每天出去托缽必須經過的道路有一個懸崖,提婆達多在懸崖頂上預備一塊大石頭,看釋迦牟尼佛從下面經過,把石頭推下去想把佛壓死。佛福報大,有護法神,護法神就是韋馱菩薩,在空中用金剛杵把石頭攔住,一攔住,石頭就碎了,就成碎片,碎片落下去之後,有一片就把佛的腳砸破,出了一點血,流一點血,叫出佛身血。現在我們要想出佛身血,佛又不在世,所以這就不可能的事情,但是有相同的、相等的,那是什麼?起的是惡念把佛的形像毀滅掉,這等於出佛身血。
所以造像的功德不可思議,這一尊像它塑在那個地方,多少人看到這尊佛像,阿賴耶裡就落一個佛的種子,他就與佛有緣。這一生這個種子不能夠發芽、不能夠成長沒有關係,來生後世遇到緣,這個種子就起現行,它就起作用。所以佛度化眾生,根熟的眾生,這一生當中一定幫助他成佛。根熟的眾生,那是過去生生世世累積的這些功德,修學功德這一生成熟。在禪宗裡面大徹大悟,明心見性,見性成佛,根熟的眾生;在根性裡面講是上上根人,都屬於上上根人;在教下裡面叫大開圓解,真的他徹悟了,跟禪宗裡明心見性是相同的境界;在念佛法門裡面叫得理一心不亂。你看看名稱不一樣,淨宗是理一心不亂,教下是大開圓解,宗門是大徹大悟,統統都是明心見性。諸位要知道,念佛終極的目標還是明心見性。所以佛才說,像《金剛經》上所講的,「法門平等,無有高下」,為什麼平等?達到目標相同,明心見性。念佛明心見性,這理一心不亂,事一心不亂還沒有到。事一心不亂,在十法界裡面,四聖法界是事一心不亂,那功夫算是不錯,超越六道輪迴;沒有離開六道輪迴,那個念佛的功夫叫成片。功夫成片也有九品,因為天道從四王天到非想非非想處天二十八層,層層不一樣。這是一些佛學常識,我們應該要曉得。事一心不亂裡面有四聖法界,在小乘四果四向,但是在四聖法界,阿羅漢向上去還有辟支佛、還有菩薩、還有佛,統統都是屬於事一心不亂。如果他證得理一心不亂,他就超越,他就不在十法界裡面,成佛了,他到一真法界去,他生實報莊嚴土。這是與佛有緣的眾生。
在淨土宗殊勝,實在講是無比的殊勝,為什麼?淨土宗煩惱一品都沒有斷。斷煩惱真不容易,斷一品煩惱就是聖人,不是普通人,見思煩惱裡面你斷一品,在小乘你證得須陀洹果,在大乘像《華嚴經》裡面所說的,十信位裡面初信位的菩薩。雖然地位不高,才小小聖,好像是佛學的學校,小學一年級,你已經是進了學校,小學一年級的學生,你是真正的佛弟子,初信位的菩薩。他斷煩惱的功夫跟須陀洹平等,相同的,所以他真是小聖,他沒有離開六道,雖沒有離開六道,他決定不墮三惡道。所以證得什麼?三不退裡位不退。他永遠不會退落作凡夫,不會在惡道裡頭,即使沒有佛出世,世間沒有佛法,他也能夠,在六道裡壽命都有一定的,人間天上,人間死了到天上,天上壽命到了又到人間來,人間天上七次往返,他就成獨覺。那是沒有老師,他獨覺。為什麼能成獨覺?獨覺沒人教。我們可以想像到那是善根深厚,佛菩薩還是照顧他,雖照顧他,不明顯。我們一般人沒有覺察到,他有感受,見色聞聲他都有領悟。領悟的基本條件,心地清淨,這很重要,佛法裡面講得三昧,心地清淨,清淨心生智慧。如果遇到有佛菩薩在這個世間教化眾生,他就變成聲聞,聞佛菩薩講經說法開悟,沒有遇到佛菩薩講經說法也能開悟,時間長一點,辛苦一點,但是他領悟的能力很強。我們要問,這樣的小聖,也就是現在講條件,佛門大乘十信位,這小學一年級要具備什麼樣的條件才能進去?大乘教裡面經典上常說,你要把五種見惑斷掉。見思煩惱,見是什麼?我們講看法,有五大類錯誤的看法,你把它捨掉就行。往上去那就是思惑,錯誤的思想,你錯誤的想法。錯誤的想法是什麼?貪瞋痴慢疑,諸位要曉得,自性裡頭沒有這個東西,這東西不是真的。自性裡沒有,可是你現在有了,你現在有了這個東西就是有了六道輪迴,思想上錯誤。
見解上的錯誤,頭一個是身見,執著身是我,我在哪裡?一定是這裡,這是我。這個麻煩大,這就是你永遠不能離開六道。我們學佛學了這麼多年,雖然沒有契入境界,佛講得太多,我們也聽明白了,知道身不是我,身是什麼?身是我所,我所有的。衣服,我身上穿這個衣服是我所有的,我的衣服,不是我。諸位要知道,我所有的是有生滅的,我不生不滅。身體能不生不滅嗎?不能,身體是有生滅的,我沒有生滅。外國哲學家也很聰明,他講什麼是我?他不說身,他說「我思故我在」,這就比一般人高明一點。我能夠思想,能思想那個是我,這個肉身不能思想,是物質,也就是說我這個身體,精神那一部分是我,物質有生滅,精神沒有生滅,比一般人高一點;我們在東方一般稱為是靈魂,靈魂是我,執著這個。執著這個,他雖然是不滅,他在六道裡面捨身,他就投胎去了。這個事情是真的,絕對不是假的,現在最明顯的算得上是科學的證據,西方的催眠術。很多人看過美國魏斯博士的報告,其實美國那邊同學告訴我,比他高明的人很多,沒出書,他這個書出來之後,被人家翻譯成三十多種不同的文字在全世界流通,他出名了。當然也算是很不錯的,這個催眠是很有成就的一個人。最近這幾天好像他在澳洲,澳洲同學告訴我他在澳洲,我本來想找他,找他來給我們做場報告,他的時間也是排得非常滿,各地方都找他。從催眠裡面知道人有過去世,過去不止一世,有人在催眠裡面說出十幾世、二十幾世,我看到魏斯報告裡曾經有一個人好像有好幾十世,推到前面差不多四千多年,在上古時代,他們居住還沒有房子,居住在洞穴裡面,在那樣一個時代,這就是靈魂轉世。
六道是真的,不是假的。在古印度釋迦牟尼佛那個年代,印度是宗教之國,他們宗教的信徒都有禪定的功夫,學術界裡面都知道修禪定,在禪定裡面可以突破空間維次,也就是說六道裡面的空間維次他們都能夠突破,四禪八定,他能看到非想非非想天,下面能看到阿鼻地獄。這不是假的,誰得定誰就能看到,你問那些得定的人,請教他們所見到的地獄狀況和天堂狀況,他講給你聽,大家都講得一樣,不是假的。他不是用科學儀器,他是用禪定功夫把空間維次突破。現在科學知道確實有空間維次存在,但是還不知道用什麼方法突破,找不到方法。在古印度這些宗教學術界的大德,他們在幾千年前,如果從印度教來講,印度教長老告訴我,他們的歷史有一萬多年,可是今天我們這個世界,學術界承認它八千五百年,比我們佛教早五千年。他們自己說一萬多年,我相信,他們不重視歷史記載,代代相傳。
空間維次突破,不一樣了,境界完全不相同,都沒有出離六道輪迴。所以靈魂實在講,中國聖人對這些事情我想他們也知道,知道他不說。為什麼不說?一般世俗的群眾沒有這個境界。不說好,說了擾亂他們的心思,讓他們去胡思亂想,不如不說,程度沒到,所以夫子所講的是人道��天道、鬼神很少說。這都是說機感不同,所以教學的方法就不一樣。我,六祖惠能大師開悟的時候說出來,我是什麼?自性是我。這是佛法說的,自性是我,要隨俗講,隨俗講就不能叫靈魂,叫靈性。魂不靈,魂要靈,你到世間來投胎一定會選大富大貴人家,那個日子多舒服,你要投胎到貧窮人家去,那不是錯了嗎?迷,不悟,他不覺。所以夫子說得好,夫子在《易經.繫辭傳》裡面講「遊魂為變,精氣為物」,這兩句話說得好!鬼魂速度很快,動盪不止,他定不住,速度很快,真的他是遊魂,這說得很有道理。在佛法裡面說迷魂,他迷了,迷而不覺,那個是自己,實在講就是佛家講阿賴耶識,阿賴耶識是迷,覺了就不叫阿賴耶識,叫自性,叫法性。一樁事,迷悟不同的名號。
我們凡夫跟佛一個性,一個自性,一個靈性,絲毫差別都沒有。我們在賢首國師的《妄盡還源觀》裡面得到這個信息,他老人家跟我們講得很詳細,講得非常的精彩。我們學了之後,雖然沒有證悟,有解悟,我們明白這個事實真相,佛菩薩、祖師決定不會欺騙我們,我們對他要有堅定的信心。我們學佛沒有別的,就是把它找回來,把自己的本來面目找回來。所以他論文的題目「妄盡還源」,還源就找回來,把真的我找回來。身是假我,把身認為是我,那你就錯了,錯到家了,所以頭一個覺悟身不是我,身是我所有的。這個事實真相真明白、真清楚了,你怕不怕死?不怕,為什麼?沒有生死,你怕什麼!捨身命就跟脫衣服一樣,我衣服髒了脫掉,丟掉再換一件新的。阿賴耶就是這樣,阿賴耶在佛法裡叫神識。這個身體老了,不好使用,換一個新的,可是有的人愈換愈好,有的人是愈換愈差。這個關係大,六道裡面人天好,畜生、餓鬼、地獄那就很差,你換什麼身?這裡面講業因果報,你的心善行善,善惡的標準是什麼?是自性,自性的性德。自性性德裡面的核心,用我們現在一般的話來說就是愛,佛法裡面講慈悲,中國古人講仁義,本性裡頭就是一個愛。確實,見性之後自性的愛自然流露出來,決定沒有分別,決定沒有執著,他的愛心遍宇宙、遍法界,像光波、電磁波一樣,遍法界虛空界統統感受到。
我們現在的念頭,起心動念,這個念頭可了不起,無論是個善念、是個惡念,才動就周遍法界,我們自己不知道。為什麼?《還源觀》上告訴我們,無論是物質現象或者是精神現象,物質也有波動現象,任何物質都有波動現象,所以現在科學家講宇宙是個波動的狀況,實際上什麼都沒有,物質是波動形成的,精神也是波動形成,如果沒有波動,精神跟物質都不存在。這跟佛法講的宇宙萬物的緣起就很接近。佛經上講「一念不覺,而有無明」,從一念不覺就生起萬物,那一念就是波動。可是科學家沒有把那個一念講清楚,佛經講清楚了。我們看到佛跟彌勒菩薩的對話,這個對話在《菩薩處胎經》裡面,這部經有這麼一段對話,佛問彌勒菩薩,「心有所念」,我們一般凡夫,六道裡面凡夫,心裡起一個念頭,佛就問:這一念裡頭有幾念?這我們想不到的,一念裡頭還有幾念?誰能想到這問題?我想現在最聰明的科學家也沒想到。一念裡頭有幾念?換句話說,這一念是多少個細念組成的?這問的才有意義,有幾念?後頭還接著問:有幾相?有幾識?相是物質現象,識是精神現象。佛問了這麼個問題。
彌勒菩薩是我們佛教的心理學家,如果把佛教看作教育,他專門教心理學的。他回答世尊,實際上他們兩個人談話是給我們聽的,不是不知道。彌勒菩薩說一彈指,這一彈指的時間很短,我們這個世間人起一個念頭大概就一彈指。這一彈指多少個細念?三十二億百千念。單位是百千,百千就是十萬,三十二億乘十萬,三十二億百千念,我們中國人講三百二十兆,一彈指。一彈指三百二十兆,佛經上說出來,科學家沒說出來。彌勒菩薩說「念念成形」,形就是物質,就是佛說的相,相分,阿賴耶的相分,「形皆有識」,每一個形都有識。這就是說,物質跟精神從產生的時候就同時,沒有先後,物質裡頭一定有精神,精神裡頭一定有物質。這個物質,佛經裡有一個名詞叫無表色,我們肉眼能看到的是有表,這個物質現象;無表色我們看不見,真有,能感覺到嗎?能。
什麼叫無表色?我們曾經見過,在香港我們看到香港跟九龍當中是海,是海水,不是淡水,海水,我們都看見。現在我們坐在房間裡,我們想想這個海下的水,能不能很清楚有種概念?問你有沒有色?有,你自己很清楚,別人看不見。這是物質,這是說明精神裡頭有物質。精神是什麼?精神是受想行識。受想行識從哪來的?是從自性裡頭本來具足的見聞覺知。見聞覺知是性德,覺悟了,受想行識就沒有,就轉變成見聞覺知;迷了,見聞覺知就變成受想行識,就這麼回事情,變質了。受想行識是六道凡夫裡有五種受,這不是真的。所以佛在經上講,我們的身叫五蘊和合,成了這個身體,眾緣和合,眾生;一個人叫眾生,眾緣和合而生。這裡頭有色法,色法是物質,就是形;有受想行識,心法,受是前五識,想第六識,行第七識,末後那個識就是阿賴耶,精神現象。
所以我們說唯物說唯心都錯了,心物同源,是一樁事情,決定分不開的。我們動物有受想行識很明顯,植物有沒有?有。礦物有沒有?有。很難得,日本江本博士,水是礦物,他細心去觀察水,水能看、能聽,能懂得人的意思,有見聞覺知。那是礦物,有見聞覺知。我告訴他:不但水有見聞覺知,所有礦物都有見聞覺知,現在你只是把它的色看到了,色相看到了,它還有聲、香、味,這三種你還沒有能夠發覺,你要好好繼續努力,任何物質裡它有香,你能聞得到,它有味,它有音聲,你現在只看到它的色相。這就是佛講的,在三千年前說得這麼清楚,他現在做實驗才看到一個,他佩服。原來以為佛教是迷信,不敢接觸,現在他明白了、相信了。我們這是講的「出佛身血」,插這麼一段閒話,都是屬於佛學常識。
五逆最後的一個是「破和合僧」,這也是墮阿鼻地獄。我年輕時候在台北講經,我記得四十多歲,有一位老居士跟我們的老師是老朋友,李炳南老居士,年齡比李老師小一點,那個時候也有六十多歲,我才四十多歲,應該大我差不多有二十歲的樣子。他有一天請我吃飯,在火車站旁邊有個素食餐廳叫功德林,台北市。我就到功德林去,他已經到了,到了一看,就是我們兩個,他沒有請別人,請我一個人。點了菜,吃飯的時候他問我:淨空法師,你知不知道我今天請你吃飯是為什麼?我說:我不知道。他說:有一樁事情我要向你請教。我說:什麼事?他說:「這個事情可嚴重了,五逆罪裡面殺父、殺母、殺阿羅漢、破佛身血少,少之又少」,那個時候真少,現在不少,現在你看看報章雜誌裡面殺父殺母、兄弟互殺、殺老師、殺同學時有所聞,給諸位說,在五十年前的時候沒有這個現象,很少看有這種事情發生,「唯獨一條,破和合僧,這條嚴重」。我就了解他的意思,學佛的同學,無論在家出家,互相嫉妒、障礙、毀謗,這就是破和合僧,他說這個事情嚴重,造這個墮阿鼻地獄罪。我就笑了笑說:我們吃飯,沒事。他看到我很從容,覺得很奇怪,怎麼沒事?我反過來問他:「老居士,你學佛比我早」,他是跟印光大師學佛的,跟李老師是同學,我學佛那個時候大概也有十幾年了。我說我不但沒有看到和合僧,聽都沒聽說過,你在哪裡看到有和合僧團?我這一問,他也笑起來,兩個出家人住的地方都吵架,哪來的和合僧團?沒見過!你操這個心幹什麼?現在沒有和合僧團,我們用餐好了。這是真的。
經上講得很好,如果這個地方出現一個和合僧團,四個人以上在一起共修,確確實實落實六和敬,見和同解、戒和同修、身和同住、口和無諍、意和同悅、利和同均,這六條做到,這是道道地地釋迦牟尼佛的道場,必定感得一切諸佛護念、龍天善神擁護,這個地區不會有災難。真的,不是假的。我這一生從學佛開始,知道這些事情我就留意,就想有這麼一個和合僧團出現,找不到。三十年前,一九七七年我第一次到香港來講經,香港這邊的大德法師不少,從大陸各地方來的都雲集在這塊土地上。其中也有一個青年法師,大概四十多歲的樣子,年齡跟我差不多,大我幾歲,洗塵法師。在香港都知道的,覺光法師、洗塵法師,香港佛教裡這兩位領袖。他是東北人,覺光也是東北人,我們都很談得來。特別是洗塵法師,我曾經好幾次的請求他,我說:你能不能找到五個出家人,我參加一個,我來報名,你老人家帶頭,我們五個人落實六和敬,我們來組這個僧團。第一次我到香港來講經講了四個月,講《楞嚴經》,講完了,我居留的時間也到了,我回到台灣,我說繼續努力,我們來做,他也很歡喜。沒做成功,不容易,找不到!
六和敬要怎樣落實?給諸位說,儒釋道三個根落實,六和敬就落實了。你想想看對不對?《弟子規》、《感應篇》、《十善業》、出家人《沙彌律儀》,只要把這四個根百分之百的做到,這個團體就是六和敬,名符其實的僧團。不修六和敬,達不到六和敬的標準,不能稱為僧團。我們念三皈依的時候,「皈依僧,眾中尊」,眾就是團體,這是社會組織,社會所有團體裡面,佛弟子這個團體最尊貴,為什麼?它和睦,我們中國老祖宗講的「和為貴」,他把「和」字做到了,這個團體裡頭決定看不到有爭執的,決定看不到動意氣的。現在我們能不能看到?到處看到。佛法為什麼衰?僧團沒有了,形式的僧團有,實質的僧團沒有。現在麻煩來了,災難多了,這個災難怎麼化解?有一個僧團出現在這個世間,地球就有救,諸佛護念,龍天善神擁護,什麼災難都沒有。有沒有人肯發心?沒有人。為什麼?自私自利放不下,名聞利養放不下,五欲六塵的享受放不下。那就沒辦法,那就跟著一起受難,沒路可走。所以你肯不肯放下,捨己為人?實在講為人是真正為自己,為自己是真正的害自己。
這個事情佛菩薩知道,聖賢人知道,迷惑顛倒的凡夫不知道,眼前念念都是想佔點便宜。便宜佔到了,還有佔不到的,為什麼佔到?命裡有,你說這冤不冤枉?命裡有。命裡沒有,用什麼方法你都佔不到。中國古人講得好,「一生皆是命,半點不由人」。命從哪裡來的?命是你宿世造的業。過去生中造的善業你來享福,你命裡有;過去生中造作不善業,那你得受苦報,不是別人給你的,自作自受!這個道理一定要懂,決定不可以怨天尤人,怨天尤人,罪上又要加罪。這都是事實真相。我們沒有學佛,沒有接觸佛法之前不知道,接觸佛法之後歡喜學習,愈來愈清楚,愈來愈明白,災禍怎麼來的?幸福怎麼來的?清清楚楚、明明白白。斷惡修善,懺除業障,積功累德,幸福就來了。什麼是真正的幸福?世間的福報是假的,不是真的,曇花一現,天上的福報也不是真的,時間雖然比人間長一點,有限。現在我們知道,以我們的身分,以我們的程度,往生西方極樂世界是第一福、第一德,能不能?真能。
如果確定這樣一個方向目標,你就敢放下,放下自私自利,放下名聞利養,放下五欲六塵,放下貪瞋痴慢,和合的僧團就不難出現。古人能做到,今人做不到。古人為什麼能做到?覺悟,他做到了。今人為什麼做不到?不覺悟,被這些名聞利養誘惑,墮落在裡面不能自拔,所以他做不到。做不到是沒覺悟,覺悟就做到了。所以我初學佛的時候,章嘉大師常常跟我講,佛法這樁事情知難行易。真的,行很容易,迷悟真的在一念之間,不難,但是轉迷為悟,知難!你真認清什麼是真的、什麼是假的,這個可難了,這不容易。真的要有像佛菩薩那樣的認知,凡所有相皆是虛妄,把這些物質現象、精神現象遠離不是一樁難事情,問題你是不是真的明白。講得最清楚、最簡單的就是賢首國師的《妄盡還源觀》這篇論文,不長。不長,我們大家在一起學也差不多用了一、二百個小時,非常有受用。
五逆我們就清楚了,這五種完全違背了性德,不是別人懲罰你,地獄也是你自己變現的,不是別人造的,這是墮阿鼻地獄。十惡是十善的反面,造作殺生、邪淫、偷盜,殺盜淫,身業。什麼叫殺盜淫?我們一般人看到是粗相,微細的不知道,佛經裡面講得詳細,不能不知道。殺是殺害,我沒有殺,可是我傷害眾生,那是殺裡面的一分,什麼時候能做到決定不傷害一個眾生,這一條你才做圓滿;你還有傷害眾生的念頭,還有傷害眾生的行為,這條你沒做到。是的,不拿刀去殺眾生了,言語的傷害、起心動念的傷害,那個帳都算在裡頭。偷盜,微細的偷盜是什麼?佔便宜。佔別人一點點的便宜那是盜業,盜的這條戒不乾不淨,佔人的便宜,佔國家的便宜,國家納稅怎麼樣少納一點,找法律的漏洞,完全合法,可是你的念頭,我今天找到法律這一條,我可以少繳一點,那是盜心,盜心沒斷。再延伸,對花草樹木有盜心,對山河大地也有盜心。總想佔一點便宜,總想比別人享受好一點,有這個念頭是盜心沒斷,很微細。
所以這十條,十善這十條反過來是十惡,展開來,在小乘就變成三千條,十條變成三千條。怎麼說?譬如殺生,殺生這一條含著有其他九條都在裡頭,十乘十就一百;一百裡頭每一條又有十條,就變成一千;一千條裡頭每一條又有十條,愈說愈微細,小乘三千威儀就從這裡來的。大乘就更多,大乘菩薩將十善業展開,八萬四千威儀,八萬四千條。所以十善業道圓滿,八萬四千條一條都不犯,這個人就成佛了。我們這十條沒有犯,很粗的十條,這是善人,你是個好人,佛經裡面「善男子、善女人」就用這個做標準。十善沒有做到,不是善男子善女人,十善做到才稱之為善男子善女人。展開經典,你看善男子善女人,我在不在裡頭?我算不算是善男子善女人?標準在這十條有沒有做到,是以這個做標準,不是隨便說的。
十善反過來是十惡。現在的社會我們細心觀察,它不是十善的社會,是十惡的社會,你看殺生、偷盜、邪淫���身三業;口妄語、兩舌、惡口、綺語;意貪瞋痴,普遍人人都具足,這個社會麻煩,肯定有災難。所以美國人拍的電影「2012」,我是幾十年沒看過電影,我也不看電視,我們佛門同修買了票帶我一起去看,看了之後我告訴大家,才曉得這個片子全球同步聯映。這是一樁大事,不是小事,這是上天對我們下了警告,如果我們繼續還要搞五逆十惡,我們這個災難就跟它演的一樣。所以有很多人問我對這個看法,我說我們從因果上看,現在這個地球上的居民他想什麼、說些什麼、幹些什麼?你把十善的標準展開來一看就知道,全是十惡,一條善都沒有,這個災難真的,一點不假。災難能不能救?答案是肯定的,只要地球上的居民回心轉意,「我明白了,我知道這樣子幹下去之後地球就沒有了,所有災難都會出現」。佛在《楞嚴經》上告訴我們,貪心感得的是水災,將來海水上漲把陸地全淹沒了,貪心的感應。什麼都貪,連學佛都貪,學佛要燒頭一炷香,這是貪心。佛是叫我們放下貪心,不是換貪的對象,要把貪心除掉,這個道理必須要懂得。瞋恚感應的是火災,現在地球溫度上升,這是屬於瞋恚。所以我們自己要有高度的警覺,遇到不順心的事情,心裡覺得難過、忿恨,你就對地球溫度上升又在那裡添了把油,你有責任。愚痴是風災,傲慢是地震。都有因的,起心動念、言語造作感得的這個災難。所以佛教給我們一句話消災免難的秘訣,那就是「勤修戒定慧,息滅貪瞋痴」,災難就化解了。我們要求全世界的人都做,不可能,做不到的,我們只能要求佛門弟子。學佛的人,我們共同一個老師釋迦牟尼佛,我們都是釋迦牟尼佛的弟子,應當接受釋迦牟尼佛的教誨,認真修行,斷惡修善,懺悔改過。全世界佛弟子要都能夠這樣做法,這地球有沒有得救?有,有救。
在這個世界上,我聽很多人告訴我,全世界的這些宗教,佛教還算是信徒多的,估計大概有七億人。今天全世界人口六十七億人,算七分之一,這個數就了不起,七個人當中有一個人回頭,那六個人沾光了。佛在經裡面���我們講得很清楚,眾生所造的業有共業、有別業,這對我們弟子們來講是非常大的鼓勵,共業當中有別業,這句話要記住。共業不善,我們專修善業,所以要求自己認真圓滿的落實三個根,出家還得落實沙彌律儀。有那三個根算不錯了,沒沙彌律儀不行,為什麼?對不起佛菩薩,你既然出家,那你就得真幹。不出家可以,十善業道修好,行,佛也承認你是佛弟子。實際上,具足三個根才具備學佛的條件,淨業三福上講得清清楚楚、明明白白,你才能夠接受三皈五戒。所以三皈五戒不是無條件的,三皈五戒什麼條件才能接受?善男子、善女人,才能夠受這個洗禮。善男子善女人必須淨業三福頭一條做到,「孝養父母,奉事師長,慈心不殺,修十善業」,這四句話。孝親尊師落實就是《弟子規》,所以《弟子規》做到,孝養父母、奉事師長做到了;《太上感應篇》落實了,慈心不殺你做到了;最後這《十善業道》,這才能成為佛門弟子。我們今天佛法衰了,為什麼衰?我們把這個基礎的教育疏忽了,所以佛法衰了。問題沒有出在佛法上,出在我們這一代學佛的同學自己身上,我們沒認真學。釋迦牟尼佛已經不在世了,我們自己宣布做他的弟子,他老人家承不承認我們不知道,自以為都承認了,其實不然。
這個經上講得好,縱然造了五逆十惡業,就是必定墮阿鼻地獄的,遇到這個法門也有救,「臨終念佛,亦必隨願得生」。造這麼重的罪業有沒有救?有救,一念回頭。中國古人常講的「浪子回頭金不換」,不要以為他作惡多端,回頭就是大善人。善惡在一念之間,他能回得了頭來不容易,說明什麼?說明他有很深厚的善根。這一生當中沒人教他,他迷了,造這麼多惡業,有人點醒他,馬上就回頭。不是沒有道理的。由此可知,教育多麼重要!世間有壞人嗎?沒有壞人,佛眼睛沒有一個壞人。大乘教裡佛常講,「一切眾生本來是佛」,這些造作五逆十惡的是不是佛?他本來是佛。妖魔鬼怪是不是佛?本來是佛,沒有一個不是佛,佛眼看一切眾生全是諸佛如來。但是在六道裡這些佛有迷有悟,有迷得很深,有迷得淺一點,各個人根性不一樣,善根福德因緣不相同,不能不知道。
下面四句,你要是真的覺悟,對這個法門接觸真能相信、能理解、能真幹,太難能可貴!這個法門叫難信之法,你們大家一接觸就相信,我很佩服,我不如你們,我對這個法門花了十幾年的時間才真接受。年輕的時候,學校讀書受老師的影響,受新教育的影響,以為宗教都是迷信,佛教尤其是迷信,別的宗教只拜一個神,唯一的真神,高級宗教,佛教是什麼都拜,多神教、泛神教,是屬於低級宗教,怎麼能接受它?好在我年輕的時候對哲學很喜歡,找到了一個老師方東美先生,跟他學哲學,他在《哲學概論》當中末後一個單元介紹我佛經哲學,我是這麼入門的。他老人家在佛教經典裡面特別歡喜的是《華嚴經》,告訴我這是「佛經哲學概論」,他把《華嚴經》用這個名詞介紹給我。他說這裡頭有完美的理論,有精細的方法,末後還帶表演,像這樣的教科書在全世界找不到第二種。那是真的不是假的,帶表演,後面善財五十三參做出來給你看。所以我對這部經也特別愛好,非常有緣,可是對於淨宗真的是有排斥,最初認為釋迦牟尼佛大概是對老太婆們講的,不是對知識分子講的。懺雲法師幫助我,我在他茅蓬裡面住了半年,在茅蓬做義工,餘暇的時間他要我讀《印光法師文鈔》,讀《彌陀經》的《要解》、《疏鈔》、《圓中鈔》。所以這三種本子我的印象很深,也非常歡喜,對淨土宗不反對了,也很尊重,但是不願意學它,對大乘經典趣味很濃。李老師勸我修淨土,我跟他學教當然不能反對他,但是不是真心學,對老師敷衍,老師也看得出來。
什麼時候真的認識淨土?講《華嚴經》,那個時候我在台灣。我記得我是二十六歲那一年認識方東美先生,我二十六歲還在工作,三十歲離開工作,一心想學佛法,這是章嘉大師教導我,他勸我出家,要我學釋迦牟尼佛。我很聽話,確實老實、聽話,也真幹。我跟李老師十年,跟他學經教,跟他老人家第二年我就出家,出家的緣成熟,出家之後我就在各地講經教學。民國六十年我第一次開始講《華嚴經》,李老師在台中講,我去聽第一卷這個經怎麼開頭的,這一卷經聽完之後,那一部《八十卷華嚴》我有能力講下去。所以我就在台北講,我記得我講了好像兩年,不到三年就趕上他的進度,因為他一個星期只講一個小時;他講經是兩個小時,但是有台語翻譯,實際上一個星期講一個小時。那個時候我一個星期講三次,一次是一個半鐘點,所以我一個星期講四個半小時就等於他一個月,所以我很快就趕上他,進度就趕上他,以後就超前。
應該也有十年,《華嚴經》講了一半,那個時候《八十》、《四十》同時講,我是一個星期兩天講《八十華嚴》,一天講《四十華嚴》。講了一半,有一天突然想起來,文殊、普賢修什麼法門?善財童子學的是什麼法門?《華嚴經》講一半,後面還有一半,往後面翻,翻到後面一看,《四十卷》第三十九卷看到了,文殊、普賢菩薩統統發願求生淨土,這讓我非常震撼。而且看到文殊、普賢不但自己發願求生淨土,還帶著華嚴會上四十一位法身大士,都到極樂世界去見阿彌陀佛。這還得了!這兩位大菩薩是毘盧遮那佛的助手,兩大助手,把毘盧遮那佛的學生全帶到極樂世界去,毘盧遮那佛不生氣嗎?把我的學生全帶跑了?毘盧遮那佛不但不生氣,而且會非常歡喜。
我然後再細細看看,文殊菩薩的得意門生,傳法的弟子善財童子,再看他學什麼。原先真的叫粗心大意,《四十華嚴》講一半都沒有看出這個問題,一用心這才把它看到,看出來,原來善財跟他老師修淨土法門。從什麼地方看?從他第一個參訪,老師介紹他的,文殊菩薩介紹他去參訪吉祥雲比丘,吉祥雲比丘修般舟三昧。般舟三昧是什麼?叫佛立三昧,專修持名念佛求生淨土。這才知道,中國人常說第一個善知識(老師)是先入為主,他修的是這門東西。以後再看他的參學,每一位老師戀德禮辭,你細心去觀察,他參學他樣樣都看、樣樣都學、樣樣都懂,他不修,他修什麼?他念佛。再看到最後,普賢菩薩十大願王導歸極樂,一個頭一個尾,不就明白了!他是門門都學、門門都懂,他自己是專攻念佛法門。我從這個地方才接受了淨土,真的搞清楚、搞明白,老師勸我,我都沒有這麼樣的信心。再從《華嚴》、從《法華》、從《楞嚴經》上總結,我知道淨土好,淨土殊勝。真不容易!看你們只是一聽就接受,我很佩服,我怎麼這麼難?搞了十幾年才把這個真正接受。
這個法門「橫出三界,圓登四土,頓與觀音、勢至並肩。可見此法門之究竟方便,善應群機也」,這話真的,不是假的。橫出也叫橫超,因為八萬四千法門都是步步高升,豎出,不是橫出的。《華嚴經》上不就很好的例子嗎?你看十信位,十信上面十住,十住再上面十行、十迴向、十地、等覺、妙覺,好像我們念書一樣,小學、中學、大學、研究所,這叫豎出。淨宗法門不需要,就在人道旁邊就溜走了,不必這麼麻煩,這樣一步一步到哪一年你才能出頭?從旁邊走,極樂世界去了,阿彌陀佛接引你去。到那邊之後圓登四土,這就特別,釋迦牟尼佛有沒有四土?有,豎的,不是圓登的,你得一步一步爬。六道裡面是凡聖同居土,四聖法界是方便土,華藏世界是一真法界,是毘盧遮那佛的實報莊嚴土,再往上去是常寂光淨土,還是一步一步往上提升,在華藏世界。淨土可不一樣,阿彌陀佛的四土裡面沒有界限;換句話說,用現在科學家的話來說,它沒有空間維次。這是在十方世界裡頭統統沒有這種現象,只有極樂世界特別,沒有空間維次,四土在一起,所以一生一切生。
你看他下面舉的例子,觀音、勢至他們是住在哪裡?他們住在實報莊嚴土。我們現在念佛往生是生凡聖同居土,在我們這個世界,凡聖同居土見不到方便有餘土,它有界限、有障礙;六道裡頭我們生在人道,我們見不到天道,天有二十八層天,下面見不到上面,上面可以見到下面。可是極樂世界就好比是什麼?十方世界諸佛如來辦學都是由小學、中學、大學,都是這樣辦法的,而且小學也一年級、二年級各有各的教室,不在一起,阿彌陀佛這個大教室,從小學、中學到博士班都在一起,一個教室裡上課,就像這種情形一樣,統統在裡面,這個很特殊。所以說一生一切生,我們能夠以凡聖同居土下下品往生,你到極樂世界,你都能看到觀音、勢至,都能看到文殊、普賢,都在那裡。常常跟這些人在一起,那你真走運,這是法身大士,你不會的他教你,除了佛教之外,這麼多菩薩來幫助你、來提攜你,你就很快成就。這是極樂世界無比殊勝之處,所以感得十方諸佛讚歎。叫圓登四土,沒有階級。頓,立刻的意思,你立刻就跟觀音菩薩、勢至菩薩並肩,都是阿彌陀佛的學生,他就變成我們的學長。
「可見此法門之究竟方便,善應群機」,什麼樣的根性遇到這個法門統統能得度,問題就是你相不相信,你能不能聽得懂?真正相信,聽不懂也沒關係,這一句阿彌陀佛你老實念,念到功夫成片你就自在往生,預知時至。很多一生沒聽過經的、不認識字的,就念這一句阿彌陀佛,念了三年他功夫成就,有站著走的,有坐著走的,沒有生病的,說走就走,不難!前幾年深圳黃忠昌居士給我們做了一個示範,他聽說這個法門,自己發心做實驗,看看三年是不是真能往生。他在深圳閉關,向小莉居士護關,兩年十個月他就預知時至,佛接他走,還差兩個月滿三年,真的不是假的。我們在這個地方勸大家,他給我們做證明,三轉法輪作���轉,證明這是真的不是假的。我們想不想去?想去,用他那個辦法就行。關鍵在什麼?徹底放下!你之所以去不了,就是因為你放不下,你對這個世間還有貪戀,迷惑顛倒。真正覺悟了,什麼都不要,心裡只有阿彌陀佛,沒有其他的事情。你看看,長時薰修,多長的時間?三年,一千天,一千天的薰修你就取得西方極樂世界。善導大師講得好,「萬修萬人去」,一個都不漏的,這是法門。修行,你會被漏掉,漏掉的原因是在你自己,你自己要負責任,不能怪阿彌陀佛,不能怪《無量壽經》,哪一個都怪不上,怪自己不如法。天天聽經沒聽懂,這是真的,為什麼沒聽懂?心浮氣躁。你對這個法門有懷疑,你對這個經教信得不深,解得不夠透徹,所以你有障礙。
底下一段還是講契機,這一段寓意深遠,我們看經文,「又契機者,亦寓契合時機之義」。這一段講得好,這是顯示出黃念老的真實智慧,很重要。契合什麼?契合現代這個社會時機。「如來垂慈,獨留此經於諸經滅盡之最後百年」。佛法將來會在這個世間消失,會滅掉,為什麼?法是緣生的,緣沒有了它就滅了,緣生緣滅;它不是不滅,它是因緣所生法,所以它也不是真的。佛在《般若經》上告訴我們,「法尚應捨,何況非法」,講得多透徹。佛法好,好不能貪,不能起貪心,起貪心就錯了。佛在《金剛經》上舉了個比喻,他用過渡船筏做比喻,過渡要小船,或者是筏,木頭編的或者是竹子編的,渡河用的。他說的法就跟這渡船一樣,是幫助你從這個岸渡到彼岸,到彼岸你就得捨,捨才能夠上岸,你要不捨的話就錯了,永遠上不了岸。所以告訴我們「法尚應捨,何況非法」。這個捨的意思就是你不要執著,不要放在心上,放在心上就錯了。為什麼?它是有為法,它是緣生法,它不是自性。你能夠一切放下你就見性,性才是唯一的真實法,不生不滅,樣樣具足、樣樣圓滿;智慧具足、德能具足、相好具足,相好就是今天講的福報,是你自己自性裡頭本來有的,不是外頭找來的,外面沒有,而且是永遠享受不盡的。這才叫寶!真的是寶,自性三寶。這是佛教我們真正要求得的,把它找回來,現在迷失了,找回來。
所以你一定要知道,智慧從哪裡來?自己本來有���。你去求智慧,沒這回事情,你所求得的是知識,知識跟智慧是兩樁事情。智慧怎麼求法?要把心定下來,清淨心生智慧。我們的心不定,心裡面是亂七八糟的東西,所以它不生智慧,生煩惱,清淨心生智慧。所以智慧從放下,智慧就出現,放不下永遠沒智慧,你所學得的全是知識。知識能解決小問題,解決小問題還有後遺症,科學技術解決問題的時候,要是解決大問題就有大後遺症,小問題有小後遺症,解決小問題還可以,解決大問題就帶給全世界的災難,最後到地球的末日,科學技術帶來的。中國人聰明。我是在一九八二年第一次到美國,第二次是一九八三年,沈家楨居士請我去講經,在紐約。到紐約那一天他請我吃飯,客人也很多,裡面有很多當地的美國人,我相信他們都是沈老居士的好朋友。有一個人問我,跟我說,現在我們西方人對中國人的看法跟過去不一樣,過去總輕視中國人,認為中國人沒有文化,野蠻人,現在我們知道,全世界一個一個比,中國人第一,中國人有智慧,很能幹。一個一個比,中國人第一;兩個兩個比,猶太人第一;三個三個比,日本人第一。末後問我一句話,你們中國人為什麼不團結?我聽了一聽,笑笑,我知道他們都是信奉基督教、天主教的,我說這是上帝安排的。他很驚訝,這怎麼是上帝安排的?我說如果中國人團結起來,你們還有飯吃嗎?大家一笑了之。真的,他譏笑我們不團結;中國人真聰明,他們知道,就是不團結,還好,他還有飯吃。遇到這麼一樁事情,我在美國遇到事情很多。
現在由於科學技術日新月異,對於地球生態破壞已經到嚴重的程度,所以地球上災難這麼多,不是沒有原因,人為的。我們一定要曉得,再繼續這樣破壞下去,我的估計,頂多十年世界末日就來了。現在各地方這些災難,那是什麼?這是大災難的先兆,我們已經看到,再要不認真努力,這個災難是決定不能避免。所以我們不可以不知道,不能不認真努力來學佛。化解災難沒有別的,就是勸導大家回心轉意,斷惡修善,積功累德,災難可以能夠解除。今天時間到了,我們就學習到此地。
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