#茂助だんご
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自民系の三世議員(市町村議員)です。 河井夫妻の事件について、元国会議員の豊田真由子さんや、金子恵美さんが地元でのカネ配り(先輩議員に地方議員にカネ配れとアドバイスされた)について発言しているので、地方議員側からの話をします。 もともと、業界には与野党問わず「目配り、気配り、カネ配り」という言葉があって、この3つができる政治家が優秀な政治家だとされていました。 でもそんな話は中選挙区時代(~1993年)であって、今はこの言葉すら死後になっています。 中選挙区時代のはなし 今の話をする前に、すこし中選挙区時代の話をします。カネ配りはこの時代に盛んに行われたので。 中選挙区制は選挙区の人口によって定数が決まっていて、選挙の上位2人~6人くらいが当選します。なので、ひとつの選挙区から同じ政党の候補者が何人も出馬します。たとえば群馬3区では当選議席数が4で、自民党からは3人(福田、中曽根、小渕)が出馬します。 有権者や、地方議員からすると、同じ自民党の候補者なので、3人に基本的に政策に違いがありません。3人の候補者は政策的な差別化が図れないので、「あの道路は俺が作った」みたいな、どれだけ予算を地元に持ってきたか(利益誘導政治)がアピールポイントになります。さらにその先が、直接的なカネ配りだったり、選挙事務所での食事だったりするわけです。とにかく政策では差がないので、政策以外の差が得票になるのです。 旧群馬3区では選挙メシも有名でした。福田料亭、中曽根レストランとwikipediaの「上州戦争」でも書いてありますね。私の選挙区でもオヤジの話を聞くと、昔は選挙事務所で鰻重が出た、なんて聞きます。うなぎ食べたい。 参議院の選挙は都道府県によっていまでも中選挙区制なので、制度的にはこうなりやすいです。現に河井さんの広島も改選2議席で、自民から2人でたからね。しかもアンリさんは新人で実績(利益誘導)をPRできないから。 政治改革 戦後、そんな選挙がずーっと続いていたのですが、1988年のリクルート事件が発覚して、カネと政治をめぐる事件が立て続けにおこりました。それで、なんでこんな金権政治になるんだろうと考えたところ、中選挙区制が原因じゃろう、となったのです。 派閥の親分が無理してカネを集める→系列の国会議員に配る→地元でカネが飛び交う のが中選挙区制の行きつく先だったのです。 それでついに1993年の選挙で自民党は大敗し、細川護熙内閣が誕生します。細川内閣は、政策も理念も異なる8会派が集まってできた内閣で「8頭立ての馬車」、7政党に大臣ポストを振り分けたので「レインボー内閣」なんて言われました。この内閣の唯一の政策の共通点は「政治改革」で、結果としてこの内閣のもとで中選挙区制をやめて、小選挙区制にします。 このときに行われた政治改革のポイントは2つです。1つは小選挙区制(1つの選挙区に各政党は1人しか公認しない)にすることで、カネではなく、政策で勝負する選挙構造にすること。もう一つは政治献金に大きな規制を設けることで金権政治の元凶であるカネ集めをできなくする、その代わりに税金から政党交付金(約300億円)をつくってこれを各政党に分配するということでした。 いまの状況 この政治改革から約30年、選挙は確実に変わりました。カネ配りも、選挙事務所での豪華メシもなくなりました。石破茂さんも雑誌とかメディアのインタビューで「小選挙区になって、お金は確実にかからなくなった。誰でも議員に挑戦できるようになった」、「中選挙区制だったら私は議員を続けていられなかっただろう」って何度も言っています。そりゃそうだよね、自民党から1人しかでないなら、カネ配んなくても地方議員はその人応援しないといけないもん。 だから、我々自民党の地方議員も、河井夫妻の事件をみてビックリしています。なんて昭和なんだろうって。うちのじいさんのときの話みたい。 んで、本題に入りますが、もちろん、地元の代議士からお金をもらうことはあります。年間10万円くらい。 正確には、党勢拡大のための組織活動費として、自民党選挙区支部(代議士が支部長)→自民党地方総支部(代議士か県会議員が支部長)→自民党市町村第XX支部(増田が支部長)という形でお金がきます。このお金は政治資金規正法に則り、年にいくらもらって、年にいくらつかったかを報告義務があり、その収支報告書はウェブでも公開されています。もちろんお金を受け取ったら領収書を発行します。 地方議員は国会議員と違って、給料以外の集金の手段(政治資金パーティーや政党交付金)を持たないので、基本的に活動はすべて自腹です((野々村竜太郎県議が城崎温��に行って有名になった、政務活動費という税金が原資の経費があるが、一連のスキャンダルで使途についてチェックがえらく厳しく、文房具か交通費か広報紙くらいにしか使えない。せめて議員として招かれる団体の会合の参加費には使わせてほしい。))。一方で国会議員は給料以外に、文書通信費で1200万、立法事務費で800万、派閥から数百万、党本部から2000万(政党交付金)、パーティーで2000万と、だいたい年間6000万くらい集金できるので、それを原資に活動しています。どこの選挙区でも、与野党問わず、国会議員の支部から地方支部(=地方議員)に組織活動費を出します。代議士は国会が開かれる1~7月、10~12月は永田町に行っていて、週末しか地元にいませんので、その間、地元で党を守り、地域の声を直接聞くのは地方議員ですから。会社組織でいうなれば、本社から支店に補助をだしてるみたいなイメージ。 冒頭の豊田真由子さん、金子恵美さんの発言(先輩議員から地方議員にカネ配れとアドバイスされた)はこの収支に報告義務のある組織活動費の話と、領収書なしの裏金であるアンリさんのお金を混同していて、センスのなさを感じます。きっと、彼女たちはパーティーで集めたお金や、政党交付金を自分1人でガメていて、こうした党勢拡大の組織活動費を地方支部に出さなかったんでしょう。そりゃ落選するわ。 とまあ、河井夫妻の事件は自民党の地方議員もびっくりしているので、当たり前とは思わないでほしいです。 とはいうものの でも、仮にうちの代議士が、去年の統一選挙直後に「当選祝いです。領収書はいりません」といって、30万持ってきてたら受け取っちゃうよなーとはちょっと思う。 選挙ってそれほどつらくて厳しいもの(ほんとに毎回憂鬱になる。新人候補が思ってたよりつらくて途中でやめるのはよくあること)で、カネもかかるから金銭感覚もマヒしているし(普段なら絶対30万なんて怪しいとおもうけど、選挙で多額の金を突っ込んでるから感覚がマジでマヒしている)、当選の直後なんて超絶な解放感で有頂天だし(4年に1回の選挙、オリンピックでメダルをとった感覚をイメージしてほしい)、単純に「あっ、どうも、気遣いありがとうございます」って感じでご祝儀として受け取っちゃう。受け取ったときに「奥さんの集票のため」なんて思わない。広島の地方議員や首長が軒並み「集票のためとは思わなかった」って見苦しい言い訳してるけど(私ですらそう思うから、一般の人からするとマジで見苦しい言い訳にしか見えないだろう)、当事者だったらマジでそう思ってると思う。
自民系の地方議員です。カネ配りについて書きます。
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大蛇と小蛇(一)
讃岐国高松に林という地名の場所がある。 その名のとおり、一円、木が生い茂る林山だという。 以下はその地の林守の家で起きたという話である。
林守の家にある土蔵の窓の上にかかる庇に雀が巣をかけていた。 土蔵なので四面とも垂直の壁である。つまり、雀の巣は羽がないと行き来できない、安全な場所にあった。 その土蔵の隣に三間ほど離れて、もう一つ同じような土蔵があった。 あるとき、胴の太さ回りが四寸を超えようかという大きな蛇が、後者の土蔵の屋根の上に現れた。 蛇は隣の土蔵の庇にある雀の巣に気づくと、そこへ向かって飛び跳ねた。 しかし、三間もの距離を飛び越えることはできず、地面に落ちた。 蛇は木を伝って元の土蔵の屋根に登ると、再び隣の土蔵めがけて飛んだ。しかし、やはり届かず地面に落ちる。 昼夜問わず十日ほど、蛇は土蔵の間を飛び続けた。しかし、向こうに届くことなく地面に落ち続けた。 次第に集まり出した野次馬は、もう何十回落ちただろう、いつ諦めるのだろう、と終日、目を離さずに見つめ続けた。 そんな中、蛇に変化が起きた。 いつものように空中に飛んだ蛇が空中でカッと口を開く。するとその口の中からヒュッと小さな蛇が飛び出したのだ。 大蛇はいつもどおり地面に落ち、それきり死んでしまった。 小蛇は、大蛇が飛ぶ勢いと、自分が飛んだ勢いで飛距離を伸ばし、向こうの土蔵の窓に取りついた。 おもむろに窓から庇に這い上った小蛇は雀の巣へ潜り込むと、たちまち二、三尺の大きさになって、次々に雀の卵を呑んでいった。 恐ろしくなった野次馬たちは手に取った竹や棒などで、卵を呑み尽くした蛇を叩き落とすと、寄ってたかって踏み殺した。
以上は安永年間に起きたことだそうだ。 広野清助が、林守である畑氏のご隠居から、実際に目にしたことだ、と何度も聞かされた話だという。 しかし、清助は今まで、この話を誰かに伝えたことはなかったらしい。 自分で目にしない限り、とてもじゃないか信じられない奇怪な内容であったからだ。 では、なぜ清助は私にこの話をしてくれたのか。 それは次の話が関係してくる(続く)。
(三好想山『想山著聞奇集』卷の五 「蛇の執念、小蛇を吐出す事」)
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NEW CD : 大きな蔵、小さいうた
2023年5月、Ett・泊・ふちがみとふなと の三組六人が千葉県佐倉市佐原の大きな土蔵で二日間にわたり戦前型のマイク一本を前に一発録りした音源が2024年12月22日、発売になりました。タイトルは「大きな蔵、ちいさいうた」 「おおどぞう」さんと地元で親しまれている蔵は明治22年(1989年)に建てられた元醤油蔵だそうで、蔵といえば拾得や磔磔を思い出す我々には驚きの、京都のひと区画ぐらいの大きさで心底驚きました。マイクは戦前のSP盤録音に使われていたのと同型の、1948年製。SP時代の、修正できない録音の気持ちを味わいたいとふちがみとふなとは一曲ワンテイクの決まりを勝手に課し、なんとか三曲、収録できるものがあってよかったと、実は今になってほっと胸をなでおろしています。 各組それぞれの持ち歌三曲ずつと、三組一緒に三曲、計12曲が、まさに十二曲で六人でひとつの世界を作り上げるごとく並んでなんとも温かい心地よいアルバムが出来上がりました。 ふちがみとふなとの三曲は、上野茂都さん詞曲「庭の木」、モロ師岡さん作詞の「シアワセ」、ふちがみとふなとになる前から酒場で演奏してきた「私の青空」。いずれも初めての音源化です。六人では泊のレパートリー「マルゲリータ・ハポネサ」、Ettがずっと大事にカバーしている「茶目子の一日」、Ettさゆりちゃんと渕上の共作「ワルツ」の三曲を演奏。 期間限定で「マルゲリータ・ハポネーサ」を全員で録音している様子、1曲まるごと、Youtube でご覧いただけます。ぜひご覧いただき、アルバムごとお聴きいただけたらうれしいです。
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『大きな蔵、小さいうた』 Ett・泊・ふちがみとふなと ¥3,300 (税込) 発売日:2024年12月22日 戦前SPレコード音源復刻専門レーベル「ぐらもくらぶ」による『大土蔵録音シリーズ』 千葉県香取市佐原地区にある与倉屋大土蔵をスタジオとして、戦前型のリボンマイク1本で新たに録音する企画の第五弾となる今回のアルバムは、シリーズ初期からの参加メンバーである山田参助とギタリスト・武村篤彦によるデュオの「泊」、そして『大土蔵録音2023』で印象的な歌を聴かせたばかりの西本さゆりとギタリスト・渓とのデュオ「Ett」、さらに京都を中心に国内外で演奏活動を行いSP時代の音楽カバーのレパートリーも多いボーカリスト渕上純子とコントラバスの船戸博史のデュオ「ふちがみとふなと」、それぞれが最小限の編成でていねいに歌を伝えるライブで愛されている三組のバンドによる録音。 オリジナルソングから戦前流行歌のカバー、6人でのセッションで織りなす全12曲の『小さなうた』たちを集めたアルバム。 企画/制作:保利透 フォト:長谷川健太郎 デザイン:岡田崇 エンジニア:速水直樹 使用マイク:マツダ A 型ベロシティマイク(東京芝浦電気工業 昭和 23 年製) 制作:ぐらもくらぶ(G.C.R.スタヂオ)
●収録曲 1 『マルゲリータ・ハポネサ』 Ett・泊・ふちがみとふなと 2 『柳の手』 Ett 3 『シアワセ』 ふちがみとふなと 4 『満洲里小唄』(1940) 泊 5 『茶目子の一日』(1919) Ett・泊・ふちがみとふなと 6 『おや!!シックだね』(1931) 泊 7 『庭の木(原詩「山房春事」岑參)』 ふちがみとふなと 8 『ひふみのうた』 Ett 9 『好いてゐたのに』(1937) 泊 10 『私の青空 MY BLUE HEAVEN』(1927) ふちがみとふなと 11 『さよなら小径』 Ett 12 『ワルツ』 Ett・泊・ふちがみとふなと
歌と演奏:Ett(西本さゆり・渓)、泊(山田参助・武村篤彦)、ふちがみとふなと(渕上純子・船戸博史)
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自民党の谷垣禎一元総裁(78)の自宅を訪ね、岸田文雄内閣の支持率がなぜ上がらないのか、一杯やりながら率直に質問をぶつけてみた。岸田首相の外交面の成果は、知らぬ間に立ち消えになってはいませんか。
「確かにね。今回のウクライナ戦争で存在感が高まっているグローバルサウス(新興国・途上国)の取り込みなどは、日本の強みを生かしてよくやっている。彼らの一部には、西側の先進国に『あいつらは今も上から目線だ』と腹を立てている国が多い。事実上の『一強』となった米国や植民地支配の過去を抱える英仏に対し、『西側リベラリズムのおごり』と批判する国さえある。その中で、日本は独自のODA(政府開発援助)を駆使して努力を重ね、『欧州はうんざりするが、日本は違う』と評価も集めた。首相はここをうまくすくい、西側とつなぐ役割を果たしている」
ただ、今後はこの外交でも、首相にとって厳しい難局面が待つと説く。
「この戦争が終わったとき、どう新しい国際秩序を作っていくのかが焦点となる。そこでは、日本がすごく損な立場になるわけにはいかない。日本は必ず、それなりの地位を占めなければならない。国内では国民生活に目配りしながら、対外的にはこの難題に挑まなければならない。岸田さんに限らず、自分が首相になりたいと狙っている人にとっても、答えを出すのは簡単ではないはずだ」
テーブルには『野菜の揚げびたし』が登場した。パプリカとカボチャ、なすを素揚げして、甘辛いマリネ液にしっかりしみこませている。香ばしい夏野菜の香りと甘さが、冷えた久保田によく会う。
谷垣さんが「水内さんは産経新聞だからこっちが好きかな」といいながら、テーブルには白い陶器に「中華民国立法院」と書かれた蒸留酒「白酒(バイジュウ)がやってきた。テーブルには、「中華人民共和国」と書かれた「貴州芽台酒」も登場。「酒に国境はありませんよ」と酒巻俊介カメラマンが笑ったが、私はなんとなく中華民国を注ぐ。
食卓には、台湾からいただいたという白酒も登場した=東京都世田谷区の自宅(酒巻俊介撮影) 食卓には、台湾からいただいたという白酒も登場した=東京都世田谷区の自宅(酒巻俊介撮影) 谷垣さんに「一気に飲み干すんですよ」と言われたが、アルコール度数は50度! しかし、独特の香ばしい匂いがさわやかだ。昨年、谷垣さんのインタビュー連載を担当し、今回同席した豊田真由美記者は「食道の位置が分かる」とむせ��がら飲んでいる。
「この前、フランスのマクロン大統領がNATO(北大西���条約機構)の東京事務所開設に反対したでしょ。私は心理がよくわかるんですよ」
谷垣さんが語りだした。 「海洋国家の道を選ぶか、大陸のつながりを大切にするか。各国が個別の事情を抱えていますよね。英国は海洋国家の道を選び、EU(欧州連合)から抜けた。残った独仏を中心とするEUはどうするか。陸続きの中国に経済などの利益を全部取られては大変だ。中国とうまく付き合いつつ、必然的に、カザフスタンなど中国の周辺国とも協力する。フランスがNATO日本事務所に反応した背景は、ここまで見なければならないと思うんです」
谷垣さんも白酒をなめる。
「日本もずっと、2つの選択を迫られていたでしょう。海洋国家としてアングロサクソンと組むか、大陸につながるところと組むか。日本では明治以降、右翼を中心に、中国や韓国と組んで欧州に踏みにじられない大義の旗を立てろという議論があった。しかし、当時は日英同盟を選び、今は日米同盟。アングロサクソンと組む流れを継いでいる」
「韓国も、似たような選択を迫られてきましたよね。北朝鮮との関係強化を図った文在寅(ムン・ジェイン)前大統領は、日本でいえば、沖縄県の米軍普天間飛行場の辺野古移設にブレーキをかけた鳩山由紀夫元首相の言動に近いと思っているんですよ。韓国では『北と南の連携を強くしていこう』という訴えが国民の喝采を浴びる面もあるでしょう。ただ、今の時代に文政権みたいな道をとるとあまりに支離滅裂になる。尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が誕生したのは、日本にとっても本当によかった‥、ああ、すっかりいい気になってペラペラしゃべっているなあ」
谷垣さんが車いすを少し動かしながら話題を変えた。
「最近は新聞を読みながら、私と同世代の方の回顧録をよく読むんですよ。私たちの世代は一体何を残したか-と考えながらね」
谷垣さんは昭和20年生まれだ。
「例えば歌手の加藤登紀子さん。読売新聞で連載していたが、彼女は私の1歳年上で、東大の五月蔡でシャンソンの『赤い風船』を歌っているのを聞いたことがあります。彼女と政治的立場は大きく異なりますが、同じ時代の空気を吸ってきた。もう1人挙げれば、ピアニストの山下洋輔さん。彼は麻布高校の先輩で、文化祭でピアノを弾いていたのを覚えている。ジャズという日本でまだ珍しかったやり方に挑んでいた」
「もう1人、倉本聰さん。彼は喫茶店でアベックのすぐ横に座り、���話をじっくりと聞きながらシナリオを練ってきた。テレビをどう活用するのか、一生懸命考えてきたんですね。戦後日本の可能性を開くためさまざま頑張ってきた」
「逆にいえば、そうそうたる大会社に行き、少し前まで『半導体は日本だ』と頑張った友人がいた。しかし、今は見る影もない-。俺たちの世代は何をやってきたんだろう。私とすべてジャンルは異なるが、この年になって、じっくり考えるんですよ」
日本酒のグラスを手に語る自民党の谷垣禎一元総裁=東京都世田谷区の自宅(酒巻俊介撮影) 日本酒のグラスを手に語る自民党の谷垣禎一元総裁=東京都世田谷区の自宅(酒巻俊介撮影) 少し遠い目をする谷垣さん。自らも、政治の中枢で時代を動かしてきたじゃないですか。
「自分のやってきたことはこんな副作用を生んでいたのかと考えるものばかりですよ。自分の思った通りになったことは絶対ない。ほとんど、予期しないことが起きている。例えば難民の問題。私は議員になりたての頃、自民党法務部会の副部会長としてこの問題に取り組みました。当時は無制限に外国人を入れるととんでもないという議論があり、入国には『職業訓練』という形を取り入れたが、今から思えば、物の見方が足りなかったと自省することが多い。『こんなこと考えもしなかった』という問題が次々と起きてね」
もう一例として挙げたのが、女性の社会進出の遅れだ。
「私は昭和20年生まれだから、現行憲法の『男女同権』は素晴らしいと教わった。しかしその私が何をやってきたかといえば、政治家の傍らで、家事は全部女房に押しつけた。家事はやってみると結構大変ですよ。こんなこと言ったら、あの世の女房に怒られるかもしれないが、専業主婦じゃない人が家事に取り組むのは大変だ。今は働く女性が圧倒的に増えたでしょ。亭主と女房がどっちも働いているのに、家事は女房だというんじゃね。子育てしながら政治に携わる上川陽子外相や加藤鮎子こども担当相は相当優秀ですよ」
子供2人を育てる豊田記者が「家事をしない人と結婚できませんよ」と合いの手を入れる。
「でも、少子化対策って、政府の政策でこなせるものなんですかね」
シャッターを切っていた酒巻俊介カメラマンが尋ねた。(聞き手 水内茂幸)
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『ガラスの街』
五月は読書の月だ。僕は本を読んだ。数多の本を。 最初、それは次の小説のアイデアを得るためだった。頭上の樹々からワインのための葡萄をもぎ取るような、循環を続けるにあたっての摂取だった。いきおい堕落しつつある現実から少しでも意識を逸らすためでもあった。 普段の僕は、本を読んで時間を過ごすことは少ない。長い時間ひとつの文章に集中することができないのだ。 それに読むことよりは書くことのほうがずっと大切だと僕は思っている。読む行為は、現実という制限された枠組みのなかではせいぜい膝丈ほどの優先度しかなかった。 しかし五月ではあらゆるものが落下した。熟れ過ぎた果実が枝との繋がり終え、足元に開いた坩堝に呑み込まれていった。読む行為もそうだ。落ち、煮え滾る器の中で混合した。 いまでは僕の「読む」は混沌としている。それはいまでは長身の僕、その僕以上にのっそりとそびえる一本の巨大な柱となっている。物言わぬ花崗岩の柱。五月、僕はそんな柱を中心にぐるぐると回り続けている。手は文庫本に添えられ、目は9.25ポイントの文字に注がれている。足は僕の意識から離れて交互に動いている。ひたすら歩き、ひたすら読んでいる。柱から少し離れた誰彼にどう見られているかどう言われているかなんてことお構いなしに。
いや。そんな話自体がどうでもいい。関係ない。 きょう、僕は自分自身が”うすのろ”だということを語りにきたのだ。
***
五月。 僕はどんなものを読んだのだろうか。 金ができて僕がまずやったことは大学生協の本屋に行くことだった。カウンターで二枚つづりの注文用紙を手に取り、もう何年も使い続けている青のボールペンで書いた。 "9784002012759" 週明け、僕は地下の生協で注文の品を受け取った。『失われた時を求めて』全十四冊。いまは第一巻を読んでいる。僕がふと目をあげると、あの遠い窓の奥で、大叔母が目を爛々と輝かせているというイメージが浮かぶ。泳ぐような精神の移ろいもまた。
シェイクスピアの『夏の夜の夢』も読んだ。 『MONKEY』のvol.31の三篇、ケン・リュウ「夏の読書」、イーディス・ウォートン「ジングー」、ボルヘス「バベルの図書館」も読んだ。 仕方なく後回しにされていた本を買って読んだのだ。 金銭の自由は、精神という鈍い壁に茂っていた蔓植物のような不足を一太刀で解決した。
『春の庭』も読んだ。『九年前の祈り』も。 ウルフの『波』も読み始めている。 僕の貪欲は、過去に読んだことがあるかどうかなんてものでは選ばなかった。カーヴァーの『象』、春樹の「タイ・ランド」、マンローの「イラクサ」、ヴォネガットの『スローターハウス5』。マラマッドの「悼む人」も読んだ。
一度の時に、僕はこれらの本を読んだのだった。 こんなに大量のフィクションを仕入れて、いったい何をしようとしているのか? 紛争でも起こそうとしているのか?
何のためか。それは僕自身にもわからなかった。 僕は特定の目的をもって読んだわけではなかったようだった。五月の読書は「文章の上達」や、「ストーリーテリングの技法」といったそれまでの興味とは別物だった。振り返ればそうだとわかる。
五月の読書は、それまでの自分を抑制しようとする、極めて機械的な態度とは違っていたのだ。 言えば、それは無垢に機械的な読書だった。 これまでの僕は断じて読書好きではなかった。どんな傑作でも一時間もしないうちに音を上げて投げ出した。ドストエフスキーやメルヴィルと出会ったときでさえ、メインストリームは”書くこと”、そして”生きること”で変わらなかった。この五月に僕は初めてむさぼるように読んだのだ。頭を空っぽにして。堆い小説の亡骸の山に坐すかのようにして。
それで、僕は何かしら成長したか。 いや。成長なんて一つもなかった。 そこには変化さえなかった。二週間前と、すべては同じだった。僕が着るのは依然深いグレーのブルゾンだった。コミュニケーションもぎこちないままだった。 だからそこで起きたことはシンプルだ。つまり、僕はポール・オースターの『ガラスの街』を読み、ある一つの事実に行き当たった。 「僕はなんという低能なのだ」という事実に。
***
一昨日から僕はポール・オースターの『ガラスの街』を読み始める。 『MONKEY』でオースターのエッセイを読んで彼のことを思い出し、その夜に丸善に立ち寄った僕は彼の本を久々に手に取った。 三日で読んだ。 「三日で読む」というのは僕にとってほとんどあり得ないことだった。僕のリュックサックには必ず四、五冊の本があった。読むときにはまずそのとき一番惹かれる本を手に取った。そして十数ページが過ぎ、抱いていた軽度の好奇心が満たされてしまうと、浮気性の蜜蜂のようにまた別の小説の甘いのを求めるのだった。 だから、一日目、二日目と時を経るごとに加速度的にその好奇心が勢いを増し、三日目には150ページを一つの瞬間に通貫して読んでしまったのだ。僕の読書体験において、異例中の異例だった。
『ガラスの街』を読んで、僕はうちのめされた。徹底的に。 ”面白さ”、そして”新鮮さ”の二つが、やはり事の中心だった。読書においておきまりのその二つが今回も僕を虐め抜いたというわけだ。 『ガラスの街』を読み終えた瞬間、僕の生きる世界のどこかが確実に変化した。
「祈っている。」 僕がこの最後の一文を読んだとき、曇り空の下にいた。その一節がこちらに流れ込んできたあと、僕は立ち上がった。テーブルがごとりと揺れるほどぶっきらぼうに立った。取り乱していたのだった。僕はそのままであてもなく歩き始めた。 「これ以上座っていることはできない」 「このまま座っていると、僕は頭の先から崩れ落ちてしまう不可逆的に」 そうした、僕という精神を一切合切覆してしまうほどの強烈な予感のために。 僕は予感に乗っ取られないよう、何も考えないと努めていた。何も感じまい、何も見まい、と。 リラックスを意識し、肩から力を抜く。腕をぐんと伸ばし、指をぽきぽきと鳴らした。イヤホンを耳にした。『ベリーエイク』を再生する。いつか足元をくすぐった波のように心地よい、ビリーアイリッシュの声に心をしっとり傾けた。 もちろん、そんなことは無駄だった。とりあえずの形など、何の助けにもならなかった。以前との比較から始まる違和感たちは強権的に僕の感情の戸をこじ開けた。 歩く中、透明の空気が奇妙に���いでいた。風景からは特定の色が抜け落ちていた。向こうで笑う声、衣擦れの音、靴底の摩擦。音という音がワンテンポずれて聞こえた。 変化は女王だった。彼女は支配的だった。 僕は小説による変化を受け入れ、恭順のように認めたわけではなかった。むしろ、変化は僕にどうしようもなく訪れていた。言わば、言い渡しのようにして。 女王を僕は素晴らしい小説を読んだ後の”ゆらぎ”の中に閉じ込めたのだった。何もかもが、僕に合わない形に作り替えられていた。建物を構成する直線はいまやでたらめで恐怖がつのった。頭上の青はこのように汚い灰色では絶対なかった。
――そして、当然、この点についての文章はかたちだけに過ぎない。これらは省略した文章。書く必要がないということ。 なぜなら、あなたたちもかつて同じ経験を経ているからだ。小説を読み終えたあとに来る世界の変質を。 加えて、忘れるなんてことを女王が許すわけもない。これについても言わずもがなだろう。
そして、重要なのは変化のよろめきではない。 そうなんだ。きょうしたいのは女王の話とは実は違うのだ。ここであなたに伝える言葉は破壊だ。 破壊。 それは”面白さ”と”新鮮さ”のコンビがやったわけではなかった。変化の体験に曝されたゆえのサイコ・ショックでもない。 木々を打ち砕く手斧となり、人体を壊す剣となり、バベルの塔をゼロにする雷となったのは、オースターの書きっぷりだった。
オースターは、考え抜いていた。 そこで”感じ”は排除されていた。 感覚による言い表しがまるで無かったのだ。僅かにイメージに依拠するものがあっても、それは必ず共感の姿勢だった。テーブルに身を乗り出し、相手の声に耳を澄ませる態度。
『ガラスの街』では、本当に一切妥協はなかった。僕はとても信じられず、街を隅から隅までしつこく歩き回った。しかし、本当に妥協はどこにも無かった。
オースターは僕とコミュニケートすることを選んでいた。そのへんの宙に感覚という水彩画を描いて「ほらご覧」とする、ごく個人的で他者には見せつけるだけという表現は徹底的にしなかった。チャンドラーを始め、私立探偵ものに由来する例の論理的な高慢さはあった。しかし、確実にオースターは読者と対峙していた。彼は殴る、殴られる痛みを完全に了解した上でリングに立っていた。 彼の据わった眼が僕を揺るがしたのだった。彼は完全の脆弱性を知りながら、完全に書いていた。 それだから、彼を読んだとき、僕は……
向こうから厚底ブーツの女が歩いてくる。 女は痩せている。薄い、流線形の黒一枚に身を包んでいる。背が高く、ありったけに若い。二十歳前後に見える。二つの瞳はキャップに隠れている。すれ違いざまに見える耳にさえ、カナル型のイヤホンで黒が差されている。マニキュアはあまりにも美しい銀色に染まっており、高まりを誘う。 センスがいい。綺麗だ。 彼女はなんて豊かなんだ。 僕はそう思う。 ほとんど同時に、ガラス一枚を隔てた向こうで本を読む人を見つける。 また女だったが、今回性別は重要ではなかった。その読む人は区切られたブースで、文庫に目を落としていた。化粧や唯一のファッションなどもなく、やはり装飾は重要でなかった。というのも、いまにも涎が垂れてきそうなほどに口をあんぐりと開けて読んでいた間抜けなその放心が、僕の記憶に楔として打ち込まれていたからだ。
これらのスケッチが、何かを直截に意味することはない。二つの風景は隠喩ではない。 正直に、上記は僕が受けた印象の再放送だ。 この日記は『不思議の国のアリス』ではない。二つは作為的な意味を持たない。 書いたのは「意味を持たない」ということを明らかにするためだ。 その内容でなく、外側、僕のスタイルという基本的な骨組みを露わにするためだ。
そう。だから、つまり……僕は痛みから逃げている。オースターとは違って。 きょう、読んで、事実は突きつけられる。
***
”言葉”はもう一度響く。
「大西さんの小説は、けっきょく古典から表現を引用しているだけ」
「僕は彼にもう興味がないんだ。かつて、彼は賢い人だと思っていた。書くものに何かしらの意味があると思っていた。でも、そうじゃないと知った」
「あなたの課題は、独自の世界観を提示できるかということです。海外の小説、そして村上春樹でなく」
***
そして、このように敗北してもなお、僕は決定的な何かについて述べることはなかった。張りつめた表情で、まやかし、それ自体に必死に祈る。もうそのような生き方しかできないと信じ込んでいるのだ。
「この大地にあるものはすべて、消え去るのだ。そして、今の実体のない見世物が消えたように、あとには雲ひとつ残らない。私たちは、夢を織り成す糸のようなものだ。そのささやかな人生は、眠りによって締めくくられる」
祈りの文句を何度も何度も口にした。 僕の声はいつも通りにすごく軽くで響いた。 そして一度響いてしまったものは泡沫のようにたちまち消え去った。
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桜林美佐の「美佐日記」(246)
「北方領土の日」の思い出──大激論を収めた猫と犬
桜林美佐(防衛問題研究家)
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おはようございます。桜林です。「男もすなる日記
といふものを、女もしてみむとてするなり」の『土
佐日記』ならぬ『美佐日記』、246回目となりま
す。
先日、雑誌『WILL』の企画で、カメラマンの宮嶋茂
樹さんと対談をしました。最近、本当に「お久しぶ
り!何年ぶり!?」という再会が多く、私自身が地
方に��んでいたことやコロナ期間が関係するのでし
ょうけれど、こうした時期があったからこそ、再び
会えることに喜びを感じられるという効果もあった
ように思います。
宮嶋さんは能登半島地震が発生するや否や現地に入
ったということでしたが、元日の家族サービスをそ
の瞬間に放り出して被災地に向かってしまうのです
から(家族を家に送り届けてから)頭が下がります。
これは、宮嶋さんが誰にも迷惑をかけずに自活でき
るサバイバル能力を持っているからこそできること
です(シロウトは真似をしてはいけません)。
色々なお話を聞きましたが、一つ印象に残ったのは、
今回はペットと一緒に避難する人が多かったという
ことでした。
災害時のペットの問題はかねてより課題でしたが、
大事な家族を残して人間だけ避難したくないと、逃
げない人が少なくないため、自衛隊としてもペット
も一緒に助けているということです。
C H-47Jチヌークから飼い主さんのリードに引かれ
て降りてくるワンコ、自衛隊の給食支援でご飯をも
らって申し訳なさそうなワンコ、その心の内にはど
んなことが去来しているのか・・・、とにかく、助
かって本当によかったと思います。
私も長年、猫と暮らしていましたので、他人事では
ない気持ちです。もし同じ状況になっても、猫を置
いて逃げることは、絶対に、100%しなかったで
しょう。
兄弟猫の「かじた」と「あたみ」が天国に旅立って
から、今でも数日に1度は夢に出てきますし、嘆き悲
しんでいた時に慰めて下さった方々のことは決して
忘れません。その時の皆さんからのメッセージの数
々を今でもたまに見ています。
特に「かじた」は扁平上皮癌というのになってしま
い、顔がどんどん酷い状態になり、思い出すだけで
も涙が止まらないような闘病生活を送りました。
2016年の5月、私はほとんど毎日、動物病院に彼
を連れて行き、注射を打ってもらっていました。保
険はないので相当な金額を使ってしまいましたが、
家賃さえ払えればあとはどうなってもこれだけはし
なければという思いでした。
ある日、私はトークショーのコーディネーターを仰
せつかり、札幌にいました。テーマは「どうなる北
方領土!! 凛然とした北海道創造に向けて~なぜ解
決できないのか! 国民が知らない北方領土問題の真
実に迫る!~」というもの。
その時に、パネリストとして参加された田久保忠衛
先生とご一緒してい��のです。しかし、この催しは
大荒れになりました。
もう一人のパネリスト、元外交官の孫崎享さんと田
久保先生が大バトルになり、客席からも怒号が飛ば
される中、なんとかクローズしたように記憶してい
ます。
というのも、私は猫のことが気になってしまい、ど
うしても頭の中から離れない、という状況だったか
らです。
自宅の固定電話の留守電に、猫たちに聞こえるよう
に「すぐに帰るからね!」などと入れていたのでし
た。
ステージを降り、一同、控室に戻るも、殺気立った
空気は収まりません。それどころか、議論の続きが
始まり、ますます悪い雰囲気になるばかり。
私はとにかくそこから離脱したい気持ちでいっぱい
でした。それに、夕方までに家に戻れば獣医さんの
ところに行かれるかもしれず、今すぐに出れば1本早
い飛行機に乗れるのではないかと考えたのです。
そこで、その旨をこっそり主スタッフの方にお願い
し、ひと足早く空港に送ってもらうことになりまし
た。
止まらない議論に分け入り「すみません! 実は猫
を病院に連れて行きたいので、お先に失礼します!」
と言うと、にわかにお二人の表情が変わり、それは
大変だというようなことを口々に言って下さったの
です。
そして、お二人ともかつて飼っていた犬の話になり、
苦楽を共にした家族としてのそれぞれドラマに話題
が急展開することになりました。
犬の話になった途端、それまでの空気はどこへやら。
和やかになり、私が先に帰るなら、みんなで一緒に
空港へ行こうということになったのです。
2月7日は「北方領土の日」、当然のことながら領土
問題に思い寄せる日でありますが、各地での集会の
ニュースを見ると、私はその時のことを思い出しま
す。
加藤さんのメルマガでもあったように、犬の人間社
会への貢献は極めて大きく、実際、こうした対立、
争いの場面を終わらせたのは、私の猫、そして先生
たちの犬、でした。
イデオロギーを超え、私たちに平和をもたらしてく
れている存在、ペットは人間が責任をもって守るべ
きでしょう。
今日も最後まで読んで頂きありがとうございました。
どうぞ良い1週間をお過ごし下さい。
<おしらせ>
(さくらばやし・みさ)
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2024.1.6sat_tokyo
鳥の声で目が覚めた。ちゅんちゅんちゅん。こんな朝の起き方理想的すぎないかと思うのだが、朝、雀がめっちゃ庭に来る。ちゅんちゅんちゅん。
と言っても今は10時、正月の名残ということで昨日はわざと目覚ましをかけずに寝た。わざとじゃなく1月3日は目覚ましをかけ忘れて、新年最初のイベントには遅刻した。
昨日も朝から稼働した担当イベントの後に23時までコワーキングのラウンジでご飯も食べずに仕事した。えらい。帰ってから夜中に能登のニュースをずっと見てしまったので眠い。昨日は好きな人たちとたくさん話したし、地味に疲れて本当に体が動かないので、2度寝する。 11時にむくっと起きる。昨日水につけておいた小豆を炊く。大きい小豆のお汁粉大好き。いつも一応ちゃんと飾るお飾りも鏡餅も、なんだか気持ちが乗らなくてできなかったので、鏡餅用に買った餅を飾らないまま焼く。切り込みも入れたのに、ちくびみたいなお餅が焼けてしまった。おもろいな〜。
来週は甲府にも行くし(楽しみにしてた天然ラジウム増富温泉・不楼閣にいく!)、夜もずっと予定があるので、今日明日はいろんな仕事を終わらせておきたいので頑張る。
15時、また動けなくなって地面に横になる。布団は危険だからだめ。こんな日は結構珍しいのだが、頭が考えることでパンクしてるのも影響してる気がする。無理すぎる。目を瞑る。考えることがたくさんある。GAZAのこと、戦争のこと、能登半島のこと、自分のこと、家族のこと、仕事のこと、近い未来のこと。
こういう時は音楽も、映画も、色々を見るのがキャパオーバーで難しくなる。なので家で作業する時はずっと無音。だけど、写真だけはみたい気がしていて、写美で始まったホンマタカシさんと、 松蔭美術館の牛腸茂雄さんや瀧口修造さんの展示は見逃さずに行きたいとぼんやり思う。
身体は地面に垂直のまま、石川県輪島市の知人である漆工の桐本滉平くんのインスタのストーリーをチェックする。今回の地震で、代々守られてきた、明治時代に工房として建てられた自宅が全壊全焼したと投稿していた。リアルな景色に目を覆いたくなるけれど、ニュースでは得られない、桐本くんのまさに今を切り取っている投稿を見ながら、今できることを考える。といっても寄付くらいしかできないのかもしれない。でも、こうやって遠くでも想うことができること、情報が共有できる時代というのは、本当に希望も多くある。 桐本くんは元旦から今もずっと、輪島の未来や、会ったことのない誰かを救うために、全力で動いていて、避難所のこと、道のこと、今この瞬間のみんなが必要な情報をSNSで発信し続けている。きっと本当に多くの人がこの投稿に助けられている。
私の1/1の16時6分は、埼玉のおばあちゃんちで10数人の親戚一同で集まっている時だった。お寿司を食べて、ビンゴ大会の手前でこの地震が起きた。まずはじめに私の携帯が聞きたくない大きな音で鳴った。その30秒後くらいにみんなの携帯が鳴っ��、すぐ地震が起きた。自分の携帯にはYahooの災害アプリが入っていて、��面には36秒後に地震が起きますと書いてあった。たった30秒だけれど、みんなの携帯とは30秒の差があったのだった。親の携帯にもアプリを入れなければ。そのままテレビをつけて、地震の情報を流しながらみんなで過ごした。私はXを見ながら地震や津波の情報を集めまくる。石川県には大事な友達たちもいる。途中お母さんが、血圧が高めで眩暈がすると横になりに寝室に行ったが、私は変わらず画面に張り付けになっていて、横にいたいとこの旦那のわたるくんが「ニュースも気になるけど僕は寝室の方が心配だよ」と言ってくれて、まさに…と思って、寝室に様子を見に行った。気持ちを落ち着かせながらその場にはいたけれど、帰る前に寝てた身体を起こして、お母さんから渡された”幸せが訪れますように”と書かれた封筒には3万円とビール券が入っていて、北の国からの泥だらけの1万円札くらい使えねえよ…………………………。とか考えながら、帰宅する電車の中でいろんな気持ちになり小さくバレないように泣いてしまった。
地震のSNSのこと。尊敬する、信頼する人たちからの情報はなるべく信じたい。そうなのだけど、発信をすることについて、映画監督の枝さんが信憑性の話をしていて、シェアができない、というようなことをSNSに綴っていた。良心を騙すような、いろんな詐欺も起きていて、ちゃんと調べてから行動したいと思いつつ、今は瞬発力なのではと思ったり、寒い季節がやってくるよなあと、頭がごちゃごちゃする。寄付について考えているとき、わざわざの平田はる香さんが「被災地に感情移入しすぎて普段の生活を失わないように。寄付はできる範囲で継続的に。1万円を一回より千円を10回百円10回でも。長期間にわたって支援しよう」と書いていて、まさにそう、1回で満足しないで、何度でも、と頷いたり。でも、自分の暮らしもちゃんとしなくちゃとか、ぐるぐるする。
ガバッと起きて、下北沢ボーナストラックに向かう。自転車で10分ちょっと。ギャラリースペースではカレンダーマーケットが開催中で、友達や自分がお誘いした出店者さんがいるので、挨拶をしに。到着してすぐにミヤジが良いカレンダーを案内してくれておもろい。ビール飲んで、ゲラゲラしながら、出店中のヤマグチナナコちゃんと、SAITOEさんに阿部龍一ブースの良さを発表して満足する。阿部の作品や思考は本当に素晴らしい。
同施設内にあるキッチンスペースでは、今日は養生家の鈴ことさなえさんと、mizudoriのまみさんが出店していて、場所を管理しているりさPが、紹介したいと言って連れて行ってくれた。以前山梨の0-siteで開催されたイベントで、ちまきとホットワインを購入したことがあって、さらに昨年末にeatrip soilで開催のイベントでも見かけて気づいてくれていたらしく、その話もしつつ嬉しい再開。美味しい白味噌の雑煮と、出汁割り、おこぼれで微発泡の日本酒、出汁もご馳走になる。残り福。身体にあったお出汁や日本酒のことをお話しして、一息つく。ほっとする。今年一緒に何かやりたいな〜とお話する。嬉しい。
続けてラウンジで残って仕事をしようと思ったけど、真っ直ぐ帰宅する。帰り道、怒鳴りながら自転車を漕いでる人がいて、「こわ〜」と思いながら、私が動線を塞いだようになった瞬間に(絶対に悪くない)罵倒されてしまったが、心を無にして道を変えたら、矛先がなくなったからか、さらに大きな声で背中越しにまた罵倒された。さらに無になって大きく深呼吸して、「あの人にもあの人なりの理由があるのだ」とほんの少しだけ思考して、記憶装置から抹消した。毎日いろんな人がいろんなことを抱えて生きてる。
さっきお雑煮食べたので、夕飯は野菜だけのサラダにする。菜の花が美味しいよ〜。そのまま残った仕事をしながら、明日も担当のイベントがあるので早く寝なくちゃとお風呂に入ろうと思ったところ、建築集団 々の野崎将太さんが、インスタライブをしていたので開く。実際に野崎さんは地震が起きてすぐに被災地に向かっていて、現地で簡易トイレを作ったり、生のその日の様子をレポートしつつ、今何をするべきなのかを投稿に残していた。野崎さんとは1回しか会ったことがないけど、仲の良い友人たちが信頼している人で、場作りも含めて作る建築は本当にかっこいいなあと思う。人としても。今回はあやおさんという実際に被災をした方と話す機会を設けていて、報道やSNSで流れていることと、実際に体感したことの違いや、これから起こりえること、今実際に起きていることなどを話していた。現状、今は被災した家に侵入する盗難が多発しているらしく、家を守るために車中泊して見張っている人も多くいるという。被災地が渋滞になるから、ボランティアに来ないでくださいという投稿もよく見るけれど、実際緊急物資などは、一般の人が通れない大きな道を使っているので、現状実際には関係ないこと、スカスカの道もあること、言ってるようにすごく渋滞している道もあること、だけどそれは明日にはわからないこと、被災地には本当に若者がいないことなどを丁寧に話してくれた。これから雪深くなり、外に出れていた人が避難所の中だけで過ごすようになることでのストレスのことなど、本当に今起きていることを話してくれていた。
あと、桐本くんが、地震直後、楽天モバイルだけが使えたことや楽天のキャリアが一番先に避難所に到着して救われたことを書いていて、忘れないようにしようとか。災害メモ作らなきゃとか。色々また巡ってしまい整理する。野崎さんは、阪神淡路大震災の時の経験が、今回の行動にもつながっているというようなことを話していた。身近な友達のアグネスも阪神淡路を経験していて、出かけるときはコンセントを全て抜くと話していた。私は3.11の時も京都に住んでいたので、大きな地震は経験したことがない。
お風呂に入った後に、GAZAのことを発信してくれている波田野州平くんのストーリーもチェックする。自分じゃ拾えない情報を集めてくれて、ずっと発信してくれている。戦争も本当にやだよ。自分にできることも考えるけど、もうちょっと勉強をすることもしなくては。自分は無知すぎる。 (そういえば1/13-19まで下高井戸シネマで2019年作の「ガザ 素顔の日常」という映画が上映される!見なければ)
お正月に起きたいろんなこと、秋から続く悲しい出来事、全部ぜんぶ終わりますように。願うし、動きたいし、できること考えたい。でも、まずは自分が悲しくなって倒れないように、心のケアもしつつ。メディアからも���離をとることをちゃんとして、一人で考えないで、隣の誰かと話すこと。会話して安心すること、みんなが考えてることを知ること。何もできなくてもちゃんと想ってるだけでもいいと思う。あとテンション上がりすぎないように、ちょっと落ち着くこと。余裕が無くならないように、自分のことも考えること。深刻になりすぎないように日常を過ごすこと。この日記も、そういう安心の場になるといいなといつも思う。日常をみんなに綴ってもらえるというかけがえのないこと、を、続けたいです。
元旦から文章にしたくて、自分の番じゃないけど日記を書いてしまいました。こんなことを考えながら、1m以上ある立派な泥ごぼうを夜中に炊き、ホクホクのごぼうができたよ。うまいです。幸せ。明日は楽しみにしてる新年会もあるのです。みんなに会えるの嬉しい。おやすみなさい。
-プロフィール- 鷹取愛 東京 山ト波
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実りある人生
fanfic(円満期 - 貘ハル貘)
昼休み 公園にて
「本当は海にでも行きたかったんだけどね」
ビル街の真ん中にある公園。昼食帰りの会社員たちがおのおの好きなように過ごしている。街中で際立つ彼も芝の上に寝転んで人々の視線から逃れている。真昼間のオフィス街にはまったく不似合いないつもの白スーツに白い革靴。上から溢れる木漏れ日が彼の髪の波間でまたたいていた。
昼休みが始まる時間ぴったりに内調前に現れ、僕の顔を見るなり「どっか行こうよ」と言った。どうやら“お屋形様”業に退屈して抜け出してきたらしい。だったら一人で遊びに行けばいいのに、どうして僕を誘うんだろう。 「わかってるくせに」 彼は僕の顔から頭の中を読んで、僕が言葉を発する前に会話を続ける。 「ハルも退屈してると思って」 「だからと言って抜け出せないよ。勤め人なんだから」 「つまんないね〜」 言葉とは裏腹に彼は笑っている。最近はいつも機嫌が良い。以前の彼とは大違いだ。 「じゃあ一緒にランチしよ。天気もいいし外で食べるのはどう?」 「いいよ」
昼時になるとどこからともなく現れる移動販売の車からサンドイッチとコーヒーを買って公園まで歩いた。ベンチはどこもいっぱいで大きな木の陰の下に見当をつけた。彼はポケットから真っ赤なハンカチを取り出すと「どーぞ」と僕を促した。 「君のそういうところが嫌い」 「お姫様扱いがお気に召さなかった?」 「誰も座らないとは言ってない」 そう言ってハンカチをしまおうとした手を払いのけた。午後も仕事があるんだ。おしりが芝だらけ��なるのは困る。僕が座ったのを見てから彼も芝生の上に直接腰を下ろした。 「ずるい」 すべては彼のお膳立て通り。本当は彼と同じようにしたいのに、彼はそれを分かってて僕から文句を引き出す事をして余計なやりとりを増やす。めんどくさい彼の流儀には慣れたつもりでも、時々それがすごく嫌だ。 「ハハッ」 不機嫌を隠さない僕の顔を見て彼は笑う。たとえ僕が怒っても泣いても笑っても、彼の前で感情を隠さない僕を見ると彼はいつでも機嫌がいい。知ってる。そういう僕を見るのが楽しいんだろう。そしてそういう勝手な彼を見て、僕は呆れて、つい笑ってしまう。
ランチを食べて、コーヒーを飲んで、昼休憩は残り20分。
1998年 ある男の顛末
男は都心にある大手銀行に勤めていた。地方出身の彼は国立大学入学を機に上京し、大学生活はサークルにも入らず、残り少ないモラトリアムを楽しむ浮ついた学生たちを尻目に真面目に講義を受け、地道な努力をして氷河期と言われた中で就職戦争を勝ち抜いた。結婚をして、家庭を持って、家を買って、そういうぼんやりとした将来に向けて、就職と同時に貯金も始めた。しかし貯金の額が増えるほどに彼自身が疲弊している事に彼自身が気づいたのは、日本で冬季五輪が開催された時期だった。
仕事を終えた帰りに、駅近くの繁華街で声をかけられた。相手は自分の名前を知っていたが、彼はその男の名前を最後まで思い出す事はできなかった。男は大学時代に同じ講義を取っていたと言い、このあとの予定を聞いてきた。普段なら同僚からの飲みの誘いも断っていたが、その日は大口の顧客から担当を外され、ムシャクシャしていたので覚えのない同級生の誘いを受けた。
元同級生は陽気でよく喋り、彼は相槌を打つだけで済んだので一緒にいるのは楽だった。2軒目を誘われた時も断らなかったのは、断る理由を思いつかなかったというだけだった。男に連れられて入った繁華街の外れのバーが闇カジノだと気がついた時も、ちょっと遊んでみないかと誘われた時も、男は同じ理由で断らなかった。
翌朝目を覚ました時、男は自宅のリビングのソファーにいた。そこまでの記憶は途切れ途切れだったが、カジノを出て大通りでタクシーを拾って乗り込み、窓の外から元同級生が「また遊ぼうぜ」と笑っていたのを見た。リビングのテーブルに置いてあった彼のブリーフケースには札束が詰まっていた。
それから彼は闇カジノに通うようになった。そこからあとは簡単だ。勝ちと負けを繰り返しながら、それでも彼は社会人になって以来感じた事がなかった「生きている」という実感を感じ、その顔に正気が戻っていた。そして、そのうち負けが続くようになった時には彼自身の意思ではもうその���地獄から抜け出せなくなっていた。ぼんやりとした未来への貯金はすぐに底をつき、よりハイリスク・ハイリターンな勝負を求めて闇の奥へと飲み込まれた。
闇カジノに通うようになって10ヶ月もした頃には、抱えた負債は彼の生涯収入を上回った。そして彼は今夜、一世一代の大勝負に出る。
その夜、男が用意したのは昼間に顧客から預金として渡されたカネだった。テーブルの向かいに座っているのは、自分をこの蟻地獄に誘った元同級生だった。「助けてやろう」彼はそう言った。「ただし、俺に勝ったらな」。男はその誘いに乗った。どちらにしろ翌朝になれば会社に横領がバレる。負けたらそのまま道路に飛び込むか、海に身を投げるか、いちばん楽な方法で死のう。そう思っていた。
勝負はセブンブリッジ。カジノの一角の異様な雰囲気を察して他の客達も集まってきた。転落はあっという間だった。カードを持つ手も冷たくなって、視界も霞んでくると、まわりのギャラリーの囁く声だけが直接脳内に届くような感覚になった。その時頭の中で声がした。
「死んでもいいと思ってる奴は絶対に勝てない」
男か女か若いのか年寄りなのかわからない声だったが、その声は男の心臓を掴んだ。顔を上げて周囲を見渡しすと、テーブルの向こうの相手から「キョロキョロするな」と制されて、正面を向いた。さっきまで大きく見えた相手が今は自分と同じくらいに見えた。もう大丈夫だ。迷いも恐れも消えた。男は口元を歪めて笑った。さっきの声は、きっとギャンブルの悪魔だと男は思った。
そこから男は勝ち続けた。勝負が始まる前にあった負債と同じだけ元同級生の男から巻き上げた。元金が無くなった瞬間、元同級生は周囲のギャラリーの後ろから現れた黒服の男達に連れて行かれた。ギャンブルに勝った興奮に男は震えていた。その時視界の済みにこの場にひどく不似合いな二人連れが見えた。格好は若いがひとりは目深にキャップをかぶっていて、もうひとりも白い髪が目までかかって二人の顔はよく見えなかった。白い方がキャップに耳打ちをして、くすくす笑った。 「地獄はこれからだよ」
その声を聴いたあとの記憶は無い。男は翌朝、自宅に戻ったところを逮捕された。 塀の中で男はどうして自分がここにいるのかを考えた。 (俺は悪魔にそそのかされたんだ)
塀の外に出てからも、男はカジノ通いを止めることができなかった。あの夜、死ぬ気で勝負して勝利を掴んだ高揚感。全身が、脳が、命が痺れるあの感覚を味わうためなら全てを失ってもいいと、男は自ら再び闇の中に呑まれた。あの日死んだ方がマシだったと気付いた時には、もう出口はとっくに見えなくなっていた。
昼休みのおわり
木陰のランチを終えた二人の後ろから近づく影があった。男の手の中のものが木漏れ日を反射した瞬間鈍い音とともに影が倒れて、近くの茂みに引き摺り込まれた。昼休憩も終わりに近づき、足早に職場に戻る人たちは誰もその短い出来事に気を止めなかった。
腰を上げようとしたハルに向かって、貘が横になったまま声を掛けた。 「ねえ、海行かない?」 「…いいよ」 何を言っても最後は貘の思い通りになるから、ハルは面倒臭いやりとりをスキップして答えた。 「車を呼ぼうか?」 「たまには電車もいーんじゃない?」 「そうだね」 ふたりは立ち上がって、スーツについた芝を払いながらハルが「今の誰?」と訊ねた。 「あ〜…覚えてない? 昔カジノにいたの。10年物だったから、正直もっと楽しませて欲しかったんだけどね〜」 「…ふーん。僕じゃ足りないんだ」 「お楽しみは多い方がいいでしょ。で、ハルは俺を楽しませてくれんの?」 「君次第だ」 優等生な答えに貘は満足そうに笑った。
(230528)
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勉強メモ 野口良平『幕末的思考』 第2部「内戦」 第四章「未成の第二極」1~3 細かいメモ
野口良平『幕末的思考』みすず書房 第2部「内戦」第4章「未成の第二極」1~3
きのう大まかに書いたことの、さらに書き留めておきたい細かいことどもをメモします。
【目次】
■中江兆民とルソー
■西郷に希望を託した若者たち
■会津藩士たち
■増田栄太郎と福沢諭吉
■中江兆民とルソー
中江兆民は、大久保に直談判して(司馬遼太郎『翔ぶが如く』で、中江青年が大久保の馬車を追いかけて、乗せてもらいながら売り込みをするシーン、印象的ですね。なんか、長い小説の中に、二回くらい、この同じシーンが出てきたような)��倉使節団に随行する留学生としてフランスに学ぶ。
ルソーの『社会契約論』に目を拓かれ、これを訳して日本に紹介するが……
まず、ルソーの思想とは。
ルソーの最初の著書『人間不平等起源論』では、「すべての人間が本来平等である」という。
我々をつないでいる身分制度の鎖を解き放て! と。
(高校生の時、これを聞いてときめいた。平等だったのか! しらんかった! 生まれつき高級な人と、わたしのようなどうしようもないのがいて、そういうことは運命的に決められているのだと思っていた! 民主主義の時代に生きてる私でさえそう思うのに、身分制度の時代に生まれてそんなことを考えたルソーって天才だ! と。うれしかった。平等なんだ!! わーいと思った)
だけど、どうだろう。どこまでも自由だとしたら、力が強かったり悪知恵が働いて良心のかけらもない人が、気の弱い人や体の弱い人を押しのけて、奴隷にしたり餌食にしたりするのも自由、ってことになる。そしたら弱い者には勝ち目のない地獄になる(今の日本のようですね)。
この状態を、ホッブスは「自然状態」といって指摘した。
『人間不平等起源論』の七年後、ルソーはこれに答えるべく?『社会契約論』を書く。
強くて悪い者が好き放題する自由は、やっぱ困る。
で、こうまとめたそうだ。p176
《人間は、ルール(鎖)なしには自分を自由にする力を持たない。ルールには、正当化しうるもの(鎖)と、そうでないものとがある。》
その正当化しうる鎖とは、力ではなく約束。(じーん)
《正当化しうるルールの源泉とは、各人が自己保存と自己への顧慮を手放すことなしに、すべての人と利益を共有しうる結社の創設への合意(convention)すなわち「社会契約」である。》
しかし、難問が!
「えー。おれ強くて頭いいいから、好き放題してても困らない。ルールなんか従いたくないんだけど。自由がいい」という横暴な人たち(往々にして世の中の主流になる)を、どうやって約束の席につかせうるか。
↓
ルソーは「立法者」というスーパーマンの存在を考え出して、この人になんとかさせようとしている。
↓
中江も自分で考えた。
やっぱり答えは出ないけど、
徳が高くて強い立法者と、その補佐役がいたらいい!
とこのとき考えた��うだ。
そして、この立法者が西郷さんで、補佐役がオレ!
でも、中江の「フランスすばらしい!」は、航海中のベトナムでかげる。人権に目覚めたはずのフランス人が、ベトナム人に酷いあしらいをしている!
「人権を考え出したのはヨーロッパ人だが、実行するのはアジア人だ!」
しかしさあ、どうやって実現する? (むずい)
■西郷に希望を托した若者たち。
大久保たちの裏技を使ったやり方に敗れ、野に降った西郷。 (私としては、やめんでほしかった)
大久保たちのごり押し近代化(武士の禄を奪い、藩をなくし、誇りだった刀を強制的にやめさせ……)に異議申し立てせんという旧士族たちが、方々で叛乱を起こす。
(江藤新平のことももう少し知りたいなあ)
西郷は、慕ってきた子分たちと共に鹿児島で私学校を開いていた。
西郷自身は、ことを起こすことに対して慎重だったようだけど、 結局、大軍を率いて、東京へ押しかけ政府のやり方をあらためさせようと「挙兵」。
鹿児島を出発。
でも熊本で負けてしまい……。 明治10年9月、よくドラマに出てくる最期をとげる。
この節で、私が胸を衝かれたのは、
��江兆民世代の、ほんとに有望な人(小倉処平、宮崎八郎)、 迷える青年(増田栄太郎)らの戦死だ。
小倉処平は、 日向飫肥藩の仲間たちをひきいて西郷軍に参じた人望ある人。 かつては藩主に留学制度を進言し、選抜した青年たちを率いて長崎に学ぶ。のちロンドンにも留学。《英国仕込みの自由主義者であり、中央政府による急進的な近代化とは異なる、もう一つの近代化の可能性を探っていた人物だった。》p183 (滂沱)
宮崎八郎は、熊本荒尾村の庄屋の次男(実質長男)。 《人民の擁護者を任じる家風の中で育てられた》p179 (中岡慎太郎みたいね)
八郎は、はじめは、列強の理不尽への怒りや、政府の強引さへの不満から、征韓論に熱中し、征台義勇軍を組織するなど、物騒な感じだったが、中江訳『社会契約論』に目を拓かれる。
それがどうして、西郷の武装蜂起に参加?
→「キミの考えは西郷とは違うじゃないか、どうして西郷軍へ?」と聞かれて、 「西郷を助けて政府を倒してから、西郷を倒すんじゃ」 (西郷軍に身を投じた若者には、こういう人が多かったようだ)
けれど���どちらもならぬまま、戦死。
その克明な日記は、預かった人が川の徒渉に失敗して永遠に喪失してしまったと。 ……このシーン、小説のよう。 川の畔に立ち尽くしたような気持ちに。
■会津藩士たち
また、西郷軍を熊本で果敢に防いだ政府軍には、多くの有能な旧会津藩士が加わっていたことも記される。
極寒不毛の斗南藩へ送られたのち、一族を率いて新政府の警視庁に出仕した、元会津藩家老の佐川官兵衛は、阿蘇山麓で戦死。(呆然)
同じく元家老の山川浩は、西郷軍に囲まれた熊本城を後巻きして救出する。
いっぽうで、同じく会津藩士だった長岡久茂は、政府打倒を試みて、獄死していた。
両極に別れたように見える彼らの行動を 著者は、「同じ動機」によるものと記す。
《彼らが目指していたのは(略)──戊辰戦争が勝者のためだけに戦われたものではなかったことを自力で証明してみせることだった。》p179
■増田栄太郎と福沢諭吉
増田栄太郎は、福沢の又従兄弟にあたるという。
増田は遅れてきた攘夷青年。それだけに、「攘夷に落とし前をつけなくていいのか」という答えを求めていた。 殺してやろうと思っていた福沢から「敵である列強の良いところを学べ」といわれて、一時は慶応大学にはいるが、すぐに退学。郷里で結社を作ったり、新聞を発行したりする。 これらの手当たり次第のような闇雲なガッツは、《内心の葛藤の受け皿を手探りで構想する作業だった。》p186
(個人的には激しく共感;; むしろ出来ブツの小倉処平さんより。ああ、この人、もっと長く生きていればなあ、生き方は見つかったに違いないのに)
そんな「迷走」のさなか、増田栄太郎は、西郷軍が田原坂で敗退してから、わざわざ敗軍の鹿児島勢に加わる。
何を思って?
その死には諸説あるが、曙新聞は「不敵な笑いを浮かべて処刑された」と報じた。 最期に披瀝したといわれる増田の言葉は、「西郷先生バンザーイ」というかんじのもの。 探していた思想はどこへ……。(余計に悲しい)
西郷の死と、救えなかった増田の刑死報道に衝撃を受けた福沢諭吉は、『丁丑公論』を窃かに書く。 西郷の敗北ののち、世論がいっきに「西郷=賊」視したことへの激しい疑問から。
福沢は言う。
政府が専横になることは仕方ないことだが、あまり野放しにするととんでもないことに���これを防ぐためにも抵抗は必要だ。と。
かつて『文明論之概略』で、“難題を抱えていながらそれで乱れない(戦争したりしない)のが文明というものだ”と喝破した福沢だが、この文明論は、何の役にも立たなかった。
西郷の死は、福沢の思想に深みを与えたと、著者は言う。
これまでの『学問のすすめ』『文明論之概略』では、 眠りから覚めている自分が、眠りこけているみんな(愚民)へ呼びかけていた。
『丁丑公論』では、 眠りから覚めるのが「速かった人」と「遅い人」の差があるだけだと、福沢は気付く。
このことに福沢は
《おそらくサイゴンの中江篤介よりも、城山の増田栄太郎よりも、遅れて気づいたのである。》p189
心がどよめいた。
どうしてだろう。
すっきりしたような、著者の福沢評にようやく合点がいった、ような。
いやちがう。 利口者の福沢の真摯な“愕然"が胸を打ってくる。
利口で視野が広いがために、低い苦しみの地平からものがみえなかった。 凡百の利口者なら死ぬまでそれに気づかないだろう。
だがやっぱり福沢は本物だったのだ。
私はまことに直感的に、福沢は信用できなかった。 なんだってこう上から目線なのか。何を持って自分は上から見てるつもりになっているのか。と。
でも、福沢も、その不思議な「特権階級」にあぐらをかくような人ではなかったのだ。
西郷の死と、フラフラしているかに見えた若い増田の問い掛けを、心と頭脳を駆動して受けとめたのだ。
そこを(これまで福沢をすごくひいき?にしてるように見えた)著者にとかれて、
こういう利口者が、真摯にがっくり「膝を折った」音に、心を叩かれたのかもしれない。
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読書の記録
心。 稲盛和夫
著者の稲盛さんは、JALの再建に携わった方という位の認識しか無く、なんとなく堅苦しい文章をイメージして気構えて読み始めたら、とても分かりやすく読みやすい文章でした。
常に、自分の損得では無く、相手の利益になることを優先に考える。
自分が正しいと思ったことは、どんな逆境も耐え忍び、自分の意思を貫く。
何をするのにも、心が大切。
仏教に関心を持ち、得度までされているそうで、仏教の考え方にも多く触れていました。
JAL再建の任務は、空港業界には何も知識が無く自信が無いのでお断りしていたのですが、何度も要請されたので無報酬で引き受けたそうです。
本当に信念の強い方だな~と思いました。
【メモ】
✏純粋で美しい心をもって事にあたるならば、何事もうまくいかないものはない。つねに心を磨き、自己を高めつづけていれば、いかなる苦難に見舞われようと、運命はかならずやさしく微笑み返してくれる
✏心に何を描くのか。どんな思いをもち、どんな姿勢で生きるのか。それこそが、人生を決めるもっとも大切なファクターとなる。
✏事業を興すときでも、新しい仕事に携わるときでも、私は、それが人のためになるか、他を利するものであるかをまず考えます。
✏生涯の体験を通して、生まれたときよりもいくばくかでも魂が美しくなったか、わずかなりとも人間性が高まったか。そのことのほうが、はるかに大切なのです。
✏つまり、悪いことがあっても、よいことがあっても、感謝するのは同様にむずかしいことなのです。~中略~災難、苦難、不幸といった状況に直面しているとき��そ、実は感謝する「絶好の機会」なのです。なぜならば、そうした過酷な環境や厳しい出来事が私たちの心を鍛え、魂を磨いてくれるからです。
✏災難が起こったということは、業が消えたということです。だからこそ、大きなことはもちろん、ごく小さなことであっても、それによって業がなくなったことを「喜ぶ」べきなのです。
✏私たち凡人にできるのは、自我すなわち「利己の心」をできるかぎり小さくし、真我-「利他の心」が占める割合を大きくしていくことです。それこそが心を磨くことであり、人格を高めることでもあるのです。
✏あまりに拡大しすぎたものは、調和を保つという働きに沿って、崩壊の方向へと導かれる。それもまた宇宙の厳然たる法則なのです。~中略~拡大と成長の末に訪れる破滅-それを回避するためには、成長を重ねるにしたがって、「調和」することが大切になってくるのです。
✏私は人格とは「性格+哲学」という方程式で表されるものだと考えています。哲学とはかみくだいていえば、「考え方」のこと。生まれついた素質としての性格に加えて、どのような考え方をもって人生を歩いているかを加味しなければ、人を見抜くことはできないのです。
✏リーダーにもっとも大切な資質は何かと問われれば、私は迷いなく、それは”心”であると答える。あるいは人格、人間性をいいかえてもよいかもしれませ��。~中略~私は多弁な才覚や機知よりもまるで岩のようにどっしりとして揺るがない、重厚な人格の方を尊重する。
✏「もしあながたが自分の庭に、美しい草花の種を蒔かなかったなら、そこにはやがて雑草の種が無数に舞い落ち、雑草のみが生い茂ることになります。すぐれた園芸家は、庭を耕し、雑草を取り除き、美しい草花の種を蒔き、それを育みつづけます。同様に、私たちも、もしすばらしい人生をいきたいのなら、自分の心の庭を掘り起こし、そこから不純な誤った思いを一掃し、そのあとに清らかな正しい思いを植えつけ、それを育み続けなくてはなりません。」(イギリスの思想家 ジェームズ・アレン)
✏自分の人生を拓いてくれる師との出会いがあったとしても、その方の助言や支援を受けられるような素直な心、ひたむきで純粋な思いをこちらがもっていなければ、よい縁を結ぶことはできません。
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2023年6月19日(月)
今年も<ナリワイ遊撃農家>のさくらんぼの季節となった。ご存じない方のために説明すると
ナリワイ遊撃農家は繁忙期などに助っ人として 出向きながらオンライン行商も行う遊撃的農家です。
<佐藤錦>と<黒紅さやか>が早速到着、評価の難しいリソグラフはさておき、かつては考えられなかった<さくらんぼを腹一杯食べる>ことが現実となったのだ。興味を持たれたら、上記リンクを辿ってさくらんぼ農家の今をご覧頂きたい。いやぁ、美味い!
5時30分起床。
昨晩届いていたサクランボを開封、代金を払い込む。
朝食、洗濯、弁当*3。
ツレアイ(訪問看護師)は午後の仕事、私1人で7時45分に出発。
順調に到着。
換気・ラジオ体操・お茶。
図書館スタッフに、さくらんぼを差し入れする。
今日から11週目、午後の授業の準備、例題の内容を確認し、説明ポイントをチェックする。
月曜日3限・4限は<情報機器の操作Ⅰ(看護学科)>、今日からExcelの学習に入る。まずはExcelの画面構成・セルとシートなどの説明、教科書の例題に従って、基本機能を解説する。大事な点は数式の扱い、関数に入る前にこの基礎的な考え方を理解して貰わねばならない。
4限終わり(16時10分)で即退出、自宅に着くとツレアイも訪問業務終えて帰宅していた。
ここ数日ココ(同居猫)の食欲がなく、だいぶ痩せてしまった。3男とツレアイが交互に何か食べさせようとするがなかなか、本人は苛立ちもあるのか大きな声を上げたりする。もうすぐ17才、十分に生きてくれたことに感謝しつつも、そろそろ最後の刻を覚悟せねばならないのか・・・。
夕飯は丸2日間昆布締めにした豚ロースを焼き、フライドポテトを用意する。息子たちには冷やしたスパークリングワイン、私にはツレアイが賀茂鶴を冷やしておいてくれた。
録画番組視聴、林家染二の「御神酒徳利」を見直す。
片付け、入浴、体重は1,800g増、昨日からの反動が激しすぎる。
下に降りて日誌執筆。
辛うじて3つのリング完成、水分は1,680ml。
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「キノコ雲の子」と呼ばれた高校生がいた。 原爆のキノコ雲に誇りを持つべきでしょうか――。早稲田大4年の古賀野々華さん(23)は5年前、留学先の米ワシントン州リッチランドの高校で、そう疑問を投げかけた。核産業で発展した町での勇気ある行動は、広島市で6歳の時に被爆した後東利治さん(85)の背中を押した。思い出すだけでつらく、向き合うことを避けてきた記憶の扉を開け、体験を語ることを決意した。 ■キノコ雲の校章に疑問 リッチランド高校に留学中の古賀さん。校舎にはキノコ雲の校章が大きく掲げられている(古賀さん提供) 「キノコ雲の校章を誇りに思う」「こんなにユニークな校章は他にはない」 米リッチランド高校。2019年5月、校内向けに配信された3分40秒の動画番組「AtomicTV」で、米国人の生徒が原爆のキノコ雲をかたどった校章を口々に称賛する中、古賀さんが口を開いた。 「原爆で亡くなった人は、町で生活していた一般の人だった。多くの人を無差別に殺した原爆を、私は誇りに思うことはできません」 リッチランドは、核施設で働く労働者や家族のために建設された。第2次世界大戦中に原爆を開発した「マンハッタン計画」の拠点で、長崎に投下された原爆の原料プルトニウムを製造したその施設は、1987年まで操業していた。 ■核産業で栄えた誇り リッチランド高校の校章。原爆のキノコ雲をシンボルにしている(古賀さん提供) 古賀さんが福岡県大牟田市の私立高校から留学したのは2018年8月。最初はリッチランドがどういう場所か知らず、校章を気に留めることもなかった。 半年ほどが過ぎた頃、男性教諭から校章の由来を教えられ、涙があふれた。 「原爆投下で戦争が終わって今がある」。周りの生徒は核産業で発展した町の誇りを当たり前のように口にした。2019年6月の帰国を前に、動画への出演が決まり、校章をテーマに話すと決めた。誇りを否定するつもりはない。ただ、被爆地で起きたことを知ってほしかった。 <日本人留学生、リッチランド高校のキノコ雲ロゴについて語る>。出演後すぐにワシントン州の地元紙で紹介され、ニュースは日本でも報道された。 ■40年続いた悪夢 被爆体験を語る後東さん(左)。古賀さんもその様子を見守った(7月14日、広島市中区で) 被爆者の後東さんはニュースを知って衝撃を受けた。「米国のど真ん中で原爆を批判するこの子はすごく勇気がある。自分も何か話さんといけんのんじゃないか」 1945年8月6日、天満国民学校(現・広島市立天満小)の1年生だった後東さんは、登校して間もなく学校の廊下で被爆した。窓ガラスが黄色く光り、轟音と同時に木造2階建ての校舎の下敷きになった。 何とかはい出し、避難時に見た光景が忘れられない。 あおむけで川を流れる無数の遺体、「助けてください」という叫び声。そして、やけどで頭皮の右半分がずり落ちたまま歩いている人の姿――。自宅を目指したが、がれきの上をはだしで歩くので痛くて前に進まない。様子を見かねたある男性がおぶって神社まで避難してくれた。その夜は神社で一人過ごした。 それから毎夜、目をつむると脳裏に惨状が浮かぶ。46歳頃まで続いた。思い出すことも、体験を口にすることも嫌だった。 ■返事が来ない 後東さんと古賀さんが交わした手紙 古賀さんの勇気に心が動いた後東さんは2019年8月、古賀さんに手紙を出した。<その勇気に私も背中を押され、被爆証言を始めようと決意しました> しかし、返事は、待てど暮らせど来なかった。「原爆にこれ以上深入りしたくはないんじゃろう」。大きく膨らんだはずの決意がしぼんでいった。 古賀さんには、後東さんのほかにも手紙やメッセージがいくつも届いていた。原爆に特別な関心があるわけではなかった。日本人として素朴な疑問を口にしただけだ。反響に戸惑い、手紙は返事を書かないまま自分の部屋にしまった。 以前から興味のあった福祉を学ぶため、2020年4月、早稲田大社会科学部に進んだ。上京時、後東さんからの手紙も持っていった。「いつか話を聞きたいという気持ちがあったのかな」 コロナ禍での大学生活。児童養護施設のボランティアに応募しても受け入れてもらえない。経験を積めず、人とも会えない。やる気がなくなっていった。 2022年2月、ロシアによるウクライナ侵略が起きた。テレビで流れる戦車や爆撃の映像に衝撃を受けた。ロシアのプーチン大統領は核兵器の使用をちらつかせている。「私にできることは何だろう」。後東さんの手紙を思い出した。 ■動き出した2人の時間 古賀さんが制作したドキュメンタリー「あのプラタナスの木のように」の一場面。左が後東さん <戦争や核、平和について自分にできる事はないかと考える日々が続いておりました。被爆の話をお聞きする事が今の私にできる事だと思いました>。2022年5月、後東さんに返事が届いた。手紙を出してから3年がたっていた。 後東さんは驚きと同時にうれしさがこみ上げた。手紙の最後に書かれていた携帯番号にすぐに電話をかけた。「またまた勇気をもらいました」 翌6月、広島で初めて顔を合わせた。古賀さんの手にはハンディーカメラ。後東さんの初めての証言を記録し、ドキュメンタリーを制作したいと思った。 まず向かったのは、原爆ドームそば��お寺。被爆死した近所のお兄ちゃんの墓に手を合わせる姿を撮影した。被爆した小学校の校庭にはプラタナスの木がある。被爆で幹が空洞になりながらも緑の葉を生い茂らせる木の前で後東さんは語った。「人間もたくましく生きていかにゃあいけんなあ」 4日間密着した映像は、約15分間の作品にまとめた。タイトルは「あのプラタナスの木のように」。古賀さんには後東さんの姿がプラタナスと重なって見えた。 ■核兵器の町を再訪 核施設から放出された放射性降下物で被曝したと語るトム・ベイリーさん。約1年後に死去した(2022年12月、古賀さん撮影) 2022年10月、古賀さんは3年ぶりにリッチランドを訪れた。 後東さんの被爆証言を聞いて、「原爆投下は絶対悪だ」と強く思った。でも、世界を見渡すと多くの核兵器があるのはなぜなのか。答えを求め、大学を休学して海を渡った。 2か月かけて住民約20人に核兵器に対する考えを聞いた。肯定的な意見が相次ぐ中、一人だけ反対する人がいた。当時70歳代後半のトム・ベイリーさん。施設から放出された放射性降下物で被曝し、甲状腺がんを患っていると語った。 「私は最後のヒバクシャではない」。核開発が続く限り犠牲者が出るとの訴えが、重く響いた。ベイリーさんは今年1月に他界した。 ■人生初、英語の勉強に挑戦 田中さん(右から2人目)に通訳してもらい、留学生と交流する後東さん(中央)(広島市中区で) 後東さんも動き出した。町内会の慰霊祭や区民センターなど、機会を見つけては、どこへでも行って自らの被爆体験を語る。「今さら証言してどうなるという気持ちもなきにしもあらずだが、それを振り切ってやろうと思いよる」。昨秋には自身の証言活動に「ひろしま平和塾 きのこ雲」と名前を付けた。 昨冬に知り合った広島大4年の田中美月さん(22)に通訳を頼み、留学生に話をする機会も増えた。今年に入って毎週3時間、人生で初めての英語の勉強を始めた。 ■2年ぶりの再会 世代を超えて交流を深める後東さん(左)と古賀さん。それぞれの目線で原爆と向き合っている(7月14日、広島市中区で)=東直哉撮影 7月14日、古賀さんが後東さんの初証言を追ったドキュメンタリーの英訳付き版が完成したのに合わせた上映会で、2人は広島で2年ぶりに再会した。会わない間もLINEで近況を報告し合っていた。 「負けんように、証言しようと思っていた」。後東さんが古賀さんと出会ってからの心境を明かすと、古賀さんは「被爆証言が多くの国��伝わってほしい」。2人の思いは呼応し合う。 後東さんはさらに証言に力を入れ、古賀さんは大学卒業後に渡米し、米国での核被害の研究に挑戦したいと考えている。 核兵器が使われない未来へ。1本の動画をきっかけに生まれた世代を超えた交流は、その一歩だ。 ※この記事は読売新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です。
「キノコ雲の子」、原爆投下の米国で疑問投げかけ 長年口閉ざす被爆者に勇気 #戦争の記憶(読売新聞オンライン) - Yahoo!ニュース
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仙台旅
仙台を旅してきたので旅行log残しときます!🤟
むらさん内田雄馬のコンサートいきませんか?と今年初めくらいに声かけてもらっててそれなら仙台かなあ言うたら本当に仙台に行ってた。仙台に行きたかったので行けてよかったです❕
四時起きで空港にたどり着いたむらちゃん、実は前日パリライ(あんステのライブのこと)に行っており興奮して寝付けず夜中の2時から荷造りをしている。なんなら頭の中でEdenがまだ踊っている。最高のライブの後ということでテンションも高い。そんな感じで関空に着いた。関空に着いたら朝ごはんや!言うて店入ったらからあげ定食、牛丼、肉うどん、カレーというゴリゴリ飯しかなくて心がそがれた。
このクマちゃんは友達がパリライでくれたので一緒に仙台に連れてって写真バコバコ撮ってやるよ……❕って持ってきた。ちなみに写真はあと一枚しか撮ってない(ごめんね)
意識が高いので(?)飛行機内では内田雄馬さんを聞いまくり、これからわたくしは内田雄馬さんのライブに行くんだ……という気を高めていた。
📍仙台駅
という訳でこれは仙台駅ですね。
空港から仙台駅秒な気がしてたけど普通に30分くらい掛かったから全然秒ではありませんでした。仙台と言え���ここだから写真撮っときなというフォロワーの助言で撮影。ちなみに早朝の空港までわざわざ何故か迎えに来てくれたのですごく優しかったです。ありがとう仙台フォロワー
📍青山文庫
地元民のオススメの店に連れてって(嫌な無茶振り)と言ったら駅近くのカフェに連れてきてくれました。私はアールグレイとモーニングのセット頼んだんですがほんとはエシレバターのクレープ?が食べたかったです!朝は頼めないらしいので地元の人がいたらエシレバターのクレープ食べてください。本当に食べたかった。上手くないわけないもんな…
食べてる間に仙台フォロワーはライブに備えて消えていきやきとち先生が迎えに来てくれました。今回の旅行はほぼやきとち先生と一緒です。やった~
📍ホテルモントレ仙台
とりあえず荷物を預けにモントレにきました。実は生まれて初めてのモントレです!うれしい。ずっと来たかったのでモントレデビューを果たせて感無量でした。また後ほどモントレの話はします。とりあえず荷物を預けてそばでEveちゃんを並べました。
(これは人通りが少なかったから出来たこと)
うん、Eveちゃんもモントレに来れて嬉しそうだ。
📍むかでや履物店
ジョジョの4部の作中に出てくるお店らしい(へえ~)ジョジョに詳しくないのですがお店にはたくさんジョジョのサインとかあってオタクだったら嬉しそ~と思いました。キャラクターの名前で領収書くれるらしい(すべてにわかなのでらしいと付けてしまう)あと普通にお店の中がかわいいし落ち着いてて大変良かった…!お財布欲しいな。普通に。
仙台、土日の割に人が少ないし軽やかな演奏が商店街から流れてくるし無料で珈琲くれるし道に木々が生い茂ってるところが多くて長閑で大変いいな…と歩きながら思ってました。ここが土日の大阪スラムタウン難波ならどこかから怒声が聞こえてくるのにそういうのがあんまり無かった、すごいな(そんなんと比べるな)
で、観光したいよね!という話になって仙台と言えば伊達政宗…伊達政宗を見に行こう‼️つって伊達政宗像を目指すことに。そこで利用したのがるーぷる仙台です。
(公式画像引用失礼)
神戸のシティループみたいでかわい~♡と思いました。これで観光名所の山辺りを回ってくれるらしい。山登るのはキツイからめちゃくちゃ便利‼️これで伊達政宗にだっておきがるに会いに行ける🎶と思って待ってたらもうすげ~~~~~バスがぎゅうぎゅうなんだよ!すげ~の、仙台一混んでた。瑞鳳殿で大量に人が降りたことで座れて座れてからようやく運転手さんが観光スポットについての案内をしてくれてることが耳に入ってきた。
なんかこう…仙台にも方言?あるんですかね。運転手さんがなまってて可愛かったです。可愛いと思える訛り羨ましいなと思いました。あと、瑞鳳殿、いつか行きたいです。今回はたそライブがあるので伊達政宗の面だけ拝んでいきます。
📍仙台城跡
こ、これは、……伊達政宗……………………⁉️
実はやきとちさんに行きたいと言われるまで伊達政宗が仙台の藩主ということを失念していました。仙台城跡地あたりから見る下界広大で空気美味しかったー!!!今年?は閉まってるらしい仙台市博物館にも行きたかったのでまたの機会に行こうと思います。あと伊達政宗像の横でとうもろこし売ってました。仙台名物なんですか?🌽
伊達政宗のすぐ側には謎の鷲?もいました。かっこいい。
📍宮城県美術館
画質ガビガビなのはインスタ動画クオリティだから。国際センター駅まで歩いてる時に宮城県美術館の前通って寄ってかね?という話になり見てきました。
伊達政宗と杜の都・仙台展って名前らしい。杜の都……!?確かに!と思った。豊かで素晴らしい。伊達政宗関連の展示~日本の近現代美術名作選とか色々あって普通に見るのに普通に2、3時間かかってたと思う。あとね、ぐりとぐらの作者の方の展示があってすごいかわいかった。絵本ってあんな結構切ったり貼ったりみたいな感じで作られてんだと思いました(説明が下手)
仙台フォロワーに牛タンなら善次郎だよって言われたから善次郎に行ったら100人以上待ってると言われてビビりまくった。な、なに~ッ!?いうて。。全然もうこう…仙台さんが長閑な感じだから舐めきっててそんなに並ぶと思わず滝汗をかく我々。だがしかし、どうしてもたそライブの前に牛タンを味わいたい……!となり仙台駅内の牛タンエリアへと助けを求めることになった。
📍味の牛たん喜助
わーい!牛タンだー!じつは焼肉以外でタンを食べるの初めてだったんやけど(まあほぼ変わらんやろ)と思ってたけど厚切りの牛タンはうっ~まい……うまいんだ、これ。めちゃくちゃ美味しくてうまーい!!!といってたら横に付いてきた福神漬みたいなんがガチ辛くて泣いた。
美味しい牛タンなので正味あと10切れくらい食べれた。食べれたけど内田雄馬さんのライブに向かうため渋々店を出ることにする。
📍電力ホール
電力ホール内に着いたらなんかすごいみんな青い服とか髪で驚いた。内田雄馬さんのカラーらしい。内田雄馬さんって青がメンカラなんだ(当方内田雄馬初心者)
電力ホールの凄いところ、7階にある所なんだけどスタッフさんが「基本的に出たら再入場できません!飲み物はなんか…、下のファミマとかで買って上がってきてください!」って言っててすげー、チケット持ってても再入場できない現場初めてだ!?と思った。あと自分で半券もぎってくれってアナウンスにも驚いた。初めて自分でチケットをもぎりました。
感想は割愛しますが楽しかったー!ペンライトふわふわ芸人だったけど内田雄馬さん近くで見るとうわ…内田雄馬さんだ……になれたしあと声が良すぎる。声が良すぎるのに笑い方の癖強すぎて宇宙猫の顔しました。
内田雄馬さん置いときます
📍ホテルモントレ仙台
見てくださいこの可愛さを。。❕レトロでかわいいよね~かわいいかわいい😭特にエレベーターが好きです。上のなんか針(?)みたいなのが上あがっていく度に動くのがちょっとアナログで良すぎる……!語彙なし!!
お部屋も広くてらぶりーでさいこうだった。。大はしゃぎで部屋でぬい撮影会をしました。駅からも近いしアクセス良すぎるのでみんなもモントレに泊まってください(?)
ホテルでやきとちさんにアイナナのライブを見せてもらってアイナナっていいな……!になった。あとŹOOĻのササゲロを聞かせてもらってからササゲロが離れなくなった。ちなみにササゲロはこれです
youtube
騒いでたらもう2時付近。NAVITAIMUを見て恐ろしいことに気付く。
次の日は福島に行く予定だったのですが、飛行機の時間を加味して余裕を持って帰って来れる理想の出発時間が朝5時30発の電車。つまり、4時起き。
突然地獄のアラームを見せてしまい申し訳ございません。これに出れなかったら死ぬど………………………………のモードになりホテルで音速睡眠会になった。そして二人とも眠りについたのが恐らく2時過ぎ…。
むらちゃんはこの時、3時半に一度起き、寝起きのテンションが元々最悪なのもあって自分でつけたこのアラームを無理やろいうて全部消して二度寝している。戦犯は自分なのに起きた時被害者ヅラしてえ。。。起きれなかった!?と言った。サイコパスすぎる
おはよう、いい朝だね(寝坊)(10時)
ということで福島に行けなくなってしまったので別のことをすることにしました。そう、かわいいカフェに行く、ということです。
📍牛タン炭焼 利久
これはたそがライブで食べてた場所です!たそがたべてたにゅうめんが食べたいということでやってきたもののまあ、にゅうめんがない。横浜限定メニューらしい。
ということでむらちゃんは馬刺しユッケと仙台牛ステーキをたべました!!うまい!!🥩
肉ならなんでも美味い!!
📍Adapt
まんがチーズケーキをたべることが目標だったので果たせて良かったです🧀味は思ったよりあっさりしてて食べやすかった!おいしい!
まっしろの店内でマジで好みだった!!映えカフェだからEveさんをだすのちょっと恥ずかしかったけど写真映えするのでうれしい。かわいいのら。
ぷりん、おれたち、つぎこそ福島のラッキー公園に行ってやろうぜ……約束だぞ……
あ、そう。牛タンお土産に一万円分ごっそり買った!まだ食べてないけど楽しみにしてる(ᐢᴖ ·̫ ᴖᐢ)👍🏻🌟
はやくたべた~い(お土産なのにおまえもたべるんかい)遊んでくれたフォロワーたちありがとうございます🎶また行きたいと思います🎶🎶🎶
以上
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2023/04/14(金) 授業外ミーティング
檜原村に行くにあたっての事前調査を行った。 まず、インターネットで各それぞれ調べ上げた。 調べた内容を共有ドキュメントにそれぞれ書き出した。 その内容をまとめたものを以下に記す。
檜原村について
<観光スポット> ●払沢(ほっさわ)の滝 ●神戸(かのと)岩 ●���馬(かずま)の湯 ●小林家住宅 ●東京都檜原都民の森 ・標高1000m〜1500m ・武蔵五日市駅から70分 ・イワウチワが咲いてる ・バス停かわいい ・春は桜 ●大岳山 ・24時間開放駐車場無料 ・登り3時間40分、休憩20分、下り2時間30分 ・コンビニなし ・登山ルート →檜原村村営駐車場~天狗滝~綾滝~つづら岩~富士見台~大岳山荘~大岳山山頂(往復) ●檜原村神戸国際マス釣場 ・営業:3月〜11月 8:00〜16:00 5月は無休 ・交通アクセス:武蔵五日市駅からバスで36分、車で20分 神戸岩入り口から徒歩で10分 ・入漁券:3600円 ・基本的に空いてる ・年齢層は40代が多い
<おすすめランチ>
●ひのはら四季の里:郷土料理が食べられる ●たなごころ:ピザが食べられる。 ●たちばな家:ラーメン、カツ丼、海鮮 ●蕎麦屋深谷:これ美味しそう
<特徴>檜原とは檜などの大木が生い茂り重なり合った山の神秘的な姿から「檜の大もと」、あるいは「山々に宿る神の前につつしむ」と感じられるようなところから、鎌倉時代の前後、全国を巡っていた修験者や武士が名付けた。 その他にも、多くの魅力的な自然の風景や個性豊かなお店がある。 ●マンホールが可愛い、いいね ●昔は神奈川県だった。しかし東京に変わった。 ●ヒノキ、スギなどの木材がたくさんある。 ●9000万年前から人が住んでいた超歴史のあるまち。 ●秋川に沿って、集落が点在している。 ・下元郷:檜で作られたトイレが有名 ・上元郷:男性がふんどし姿で厳寒の川で禊をする御とう神事が有名 ・本宿:払沢の滝がある場所 ・南郷:檜原村で最も広い集落 ・人里(へんぼり):バス停の枝垂れ桜が有名 ・数馬:檜原村で最も山奥にある集落、標高が高いため夏は都心より 過ごしやすい ・神戸:キャンプ、バーベキュー、釣りなど川で楽しめる施設が充実、都指定の天然記 念物「神戸岩」がある ・小沢:無形民俗文化財とされている小沢式三番が有名 ・樋里:払沢の滝に次ぐ、落差25mの美しく流れる「華水の滝」 ・藤倉:檜原村の北谷で最も奥にある集落、「小林家住宅」がある
<現状>
●住民の多くが自動車を交通手段としているが、道路網の未整備により、日常生活に不便をきたしている ●財政基盤は脆弱で自主財源は極めて低いことから、 村単独の事業実施は難しく、国や東京都の補助に頼らなければならない状況 ●ピーク時には7000人ほどいた人口が、現在2500人をした回った ●高齢者の人口の比率は40%を超えて、少子高齢化と生産年齢人口の減少が進んでいる (檜原村過疎地域維持計画(令和3~7年度)より) ●歳入総額は上り傾向 →4億に満たない(東京都の上位は数千億~兆) ●財政力指は低い ( 財政力指数が高いほど、普通交付税算定上の留保財源があり、1を超える1に近いほど財源に余裕があるとなる) ●豊かな自然と清流秋川を観光資源 ●約93%が日帰り、��貨の観光客 (年間約41.8万人(平成29年度)の村を訪れる観光客の内、約38.8万人は日帰り及び通過型の観光客)
→滞在型の観光地を目指す
以上が皆で各自調べた内容である。 今回は初めての授業外ミーティングで、先生がいない中でちゃんとやれるか不安だったけど、意外とみんな真剣に調べてて、感動っっっ! これからの活動が楽しみだ〜( ✌︎'ω')✌︎
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2024年12月19日のXの記事
国連常任理事国とアセアン議長国に助けていただき、児童相談所と共同親権問題で前進があるかもしれない件。
拡散お願いします。
大阪府から帰ってきました。 在大阪ロシア連邦総領事館に、ついでに立ち寄らせていただきました。
日本国外務省は、静岡県庁と静岡県賀茂児童相談所の発行した書類を、確かに日本の行政機関が発行しましたと、お墨付きを与えなくてはいけません。 アポスティーユと言います。 書類の内容や、提出先を理由に断る事は当然できません。
提出先は、ロシア連邦内務省です。 このオフィシャルな手続きを総領事館館員様に教えていただきました。 ロシア側への提出方法もです。 話し相手(ロシア人•外務省職員)が、びびってる感じで、私も怖くなる。
ロシア連邦内務省の日本のカウンターパートナーは、国家公安委員会です。 外務省ではありません。 当然、どの国にも秘密警察というのはありますね。 日本にもあるでしょう。 公安や外事課がそれにあたります。 これはこれで怖いです。
ロシア連邦内務省はKGBの後継組織ではありません。 でも、同じようなものです。
えっと、私たちは、ロシアに行って説明をする必要が出てくるかもしれない〜みたいな��とを言ってたような言ってないような。 ロシア語、日本語、英語を混ぜてしゃべったから、私も妻も一部理解できてないところがあります。 と、言うことなのです。
そして、日本政府が「戦争」と認定しているものを「特別軍事作戦」とプーチン大統領閣下の指示通りに表現する日本国公務員。 特別軍事作戦です、と断定します。
ごめんなさい、その公務員(複数)が誰かは言えません。 もちろん阿呆の賀茂児童相談所職員ではありません。
これが、ロシアの国力です。 強大な軍事力と情報機関、国外でも作戦を遂行する意志と実力のある国連常任理事国です。 他の4カ国も同様です。
そういう知識を持っている日本国公務員たちは、恐れるべきを恐れる。 静岡県賀茂児童相談所は全く分かっていない。
以上、静岡県賀茂児童相談所相談所による他国への内政干渉と捜査権の侵害がもたらした結果です。 だって、ロシア国内でのことを審判申立書にダラダラ書いているから。
ちなみに、静岡県賀茂児童相談所はロシア人の所有物を盗んでいます。 返却をしていません。
ラオス人の息子の実母を例にすると分かりやすい。 息子の実母がいろんなものを送ってきてくれます。 洋服とか、iPhoneとか、iPadを送ってくれたこともあった。 これ、所有権は実毋にあるのです。 1から2年位経つと、あの時の服を返してと言ってきます。 息子にはもう小さくなっただろうから、他の子に渡すと言うのです。 iPhoneも、実母はあくまでも「私のiPhone」といいます。
そういうことです。 息子自身が1番よく知っています。 そして、Natashaが息子に貸した靴を賀茂児童相談所は返却していない。 学校から無断で賀茂児童相談所が持ち去った、つまり盗んだ荷物の中には、ロシア人の所有物も入っていました。 6年生の卒業式後ですので、持って帰るものは大きな箱2箱分。 まぁ、家から色んなもの持ち出していました。 もちろんそんなことで息子を怒ったりはしません。 それは、継母ナターシャから借りたものや無断で持ち出したものもあります。 ロシア人に所有権があるものです。 この問題は、外務省つまり、在日ロシア大使館の管轄になります。
日本もそうですが、いわゆる特別な警察官を主要国の在外公館に派遣しています。 当然、ロシアもです。
さて、ラオス。 単独親権の概念はありませんから。 ラオス人の実子に対する不当拘束。 ラオス人実母が義務を果たすのを違法に阻止する賀茂児童相談所。 日本国籍離脱には息子の最善の利益を図るため、意向を確認する必要がありますが、これを阻止し、日本国籍が子供の最善の利益だと明言する渡会和所長。 息子に会わせててくれと懇願するラオス人実母を軽くあしらう秋山富貴(澤野富貴) ASEAN議長国を怒らせるのに充分過ぎます。 ラオス人民民主共和国は、8月の岸田との電話会談の際、同じ首相職とはいえ党内序列9位の人物を岸田の会談相手としました。 何かラオスが日本に対して大きな不満を持っている事情でもあるのかもしれません。
昔から外国に出ている人は肌身で実感していると思います。 日本の地位の低下を。 日本人だから相手にするから、日本人だから相手にしない。 日本の成功から学ぶではなく、日本の失敗から学ぶ。
日本の素晴らしさをどれだけ語ったところで、国力がなければ相手にされません。 自己満足の世界になってしまいます。
プーチン大統領閣下は日本は完全な主権を持っていない、アメリカの属国であると認識していると承知しています。
車を入手しました。 次は東京に行く交通費と滞在費とお土産代(他国の習慣です)を稼ぐ
私、顔出し名前出し住所出し、リスク高すぎる。
可能な方は、闘いを続けるためのご支援をお願い致します<m(__)m>
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2025年1月のフナトとフチガミ
間近に迫った1.12、久々の加藤千晶さん鳥羽修さんとの共演に向けあれこれ膨らませつつ、新年のフナトとフチガミはパスカルズとエノケンの音楽に囲まれて過ごしております。 1.16,17パスカルズ@スターパインズ・カフェ、フナトはゲストとしてパスカルズの音になって演奏します。チケットはすでに完売とのこと。さすがです。 その翌週、フチガミが東京・浅草で「エノケンMIX」という舞台に参加します。1/24-26の三日間で四公演、初めて尽くしでドキドキしてます。 エノケンこと榎本健一さんの歌はずっと、いつかこんなふうに歌いたいなあという、遠く光る星のような目標でした。話しているのか歌っているのか、下手なのか上手いのか(上手いです)、そんなものを通り越して胸にとどく、哀しくて可笑しい、あたたかいうた。 話が合う人はいないだろうとずっとこっそり聴いていたエノケンさんですが、船戸さんに出会って洒落男、ダイナ、私の青空などを、人前で演奏するようになりました。 それでもどこかで、自分の趣味の音楽、と線引きしていたのですが、三十数年の時を経るうちエノケンの曲はオリジナルや他のカバー曲とごちゃまぜに、自分のレパートリーの中でかかせないものとなり、同時にエノケンさんの歌は以前と変わらず遠くで輝いています。 そして此の度このエノケンさんがまた、ご縁を広げてくれました。 この先はフチガミのコーナーに書いたものをひっつけます。 長くなりますが、要約しますと、100年前のオペレッタを演者総ミュージシャンで上演します。フチガミ青鬼、大熊ワタルさん赤鬼、閻魔大王・上の助空五郎さん、亡者がウエッコ、西本さゆりさん、木村美保さん、泊の武村篤彦さん、ドキドキでどきどきです。二部の歌のコーナーには山田参助さんも。追ってSNS���でまた逐次お知らせします。ぜひお運びください!!!
2025.1.24-26 エノケンMIX @浅草九劇
フチガミの勝手心の師・榎本健一さん数えで100歳の翌日、前日華やかに生誕100年が祝われた浅草東洋館にほど近いヨーロー堂にて「勝手にエノケン祭り」を開催したのが2003年10月12日。 時を経て知り合ったぐらもくらぶ保利さんがその事を頭にフチガミに声をかけて下さり、生誕120年の年に新たに誕生する「エノケンMIX」という舞台に出演の運びとなりました。 舞台は三部構成で第一部は浅草オペラの再現。エノケンも魅せられたに違いない当時の当たり演目「地獄祭り」を、ぐらもくらぶの真骨頂、SP盤として残されたオペラ後半を中心に保利さんが上演台本を作成、演者はフチガミがお声がけの大役。 二十年前「勝手にエノケン祭り」にご出演いただいた大熊ワタルさん、現役の浅草ボードビリアン上の助空五郎さん、さらに言い出しっぺさえ見たことがない舞台を一緒に作ることを面白がってくださる、フチガミが敬愛する錚々たる音楽家の方々と、100年ぶりの地獄祭り上演に挑みます。 演者は皆ミュージシャンですが、伴奏はぐらもくらぶの大土蔵録音でお馴染みのG.C.R.サロンオーケストラ。空五郎さんを除いては普段セリフを言い慣れない面々による浅草オペラや如何に、また、音楽家其々の演奏シーンは?、等々、どうぞお楽しみに。 第二部はぐらもくらぶでもお馴染み山田参助さん、G.C.R.サロンオーケストラとバンマス青木研さんによるエノケンとその時代の歌の数々。数多出演する歌手の歌声は聴けるのか?? 第三部は1936年の菊谷栄台本が2024年と融合し音楽は大谷能生さん。STASは松竹歌劇団の伝統を受け継ぐ本物のレビューを行なっておられ、エノケンMIXはまさに、時代が感覚が、大いにミックスした興味深い舞台となりそうです。 ########################################### エノケンMIX ########################################### エノケン生誕120年! 令和の浅草に大正末~昭和初期の幻の名舞台がよみがえる! 浅草オペラと菊谷栄と戦前ジャズ###########################################
2025年1月24日(金)~26日(日) 会場 浅草九劇 東京都台東区浅草2-16-2 浅草九倶楽部2F 地図(GoogleMap) 入場料 前売・ご予約:4,000円 当日:4,500円(全席自由・税込) 1月24日(金) 開場18:30 開演19:00 1月25日(土) 開場14:00 開演14:30/開場 17:30 開演 18:00 1月26日(日) 開場15:00 開演15:30 前売開始 12月10日(火) 10:00 取扱い Paskip/チケットぴあ[Pコード:531167] ■ぴあチケット受付ページ
主催・問合せ 一般社団法人ふらすこ 電話番号 03-6231-0690 Mail [email protected]
【第一部】 浅草オペラ『地獄祭り』
作=佐々木杢郎 脚色・作曲=佐々紅華 上演台本=保利透
若かりしエノケンが魅せられた浅草オペラの中から当たり舞台『地獄祭り』を当時のレコード音源で表現されている後半部分を中心として約100年ぶりに上演します。ジャズ音楽前史や大正デモクラシーや大衆芸能の洒脱さなど、当時の人々の息吹を感じていただき、更に第二部では引き続き山田参助とG.C.R.サロンオーケストラによる戦前にエノケンが歌った曲や当時のジャズ音楽などをお楽しみください。
出演 渕上純子 西本さゆり 武村篤彦 ウエッコ 上の助空五郎 大熊ワタル 木村美保
音楽と演奏 G.C.R.サロンオーケストラ 青木研 【第二部】 1931年型ジャズ楽団の演奏と歌唱
音楽と演奏
山田参助とG.C.R.サロンオーケストラ
青木研
【第三部】軽演劇『ミュウジック・ゴオズ・ラウンド』Remix版
作=菊谷栄 上演台本=和田尚久
エノケン全盛期であるピエル・ブリヤント時代の重要な脚本家として知られる菊谷栄(1902ー1937)によるアメリカ文化を濃厚に反映した「ミュウジック・ゴオズ・ラウンド」に先行作品「公園のベンチ」をないまぜにし、新たに音楽を大谷能生が、改訂台本を和田尚久が執筆し90年の時代を超えてスピーディーな演出のもと1936年と2024年が融合する、まさにエノケン・リミックスをお楽しみください。
出演
STAS OG 東京レビュー 榛名珠利 藤城伶維 紬希彩華 光瑠葵 粕谷雄太 村野みり 越後静月 山内菜々子 鈴木海人 藪田凛
音楽と演奏 大谷能生 ============================= 【番外】「昭和風俗再現」 弁士楽団付き無声映画『黒手組助六(1929)』と『エロ・エロ東京娘百景』朗読 活動弁士:片岡一郎 朗読:山内菜々子・尾田直彪
1月26日(日) 【番外】開場 12:00 開演12:15/開場 15:00 開演 15:30 【番外】当日券のみ2,000円 ==============================
【エノケン MIX】 スタッフ 企画:ぐらもくらぶ 演出:山口貴義 美術:和田尚久 振付:榛名珠利、村野みり 照明:阿久津未歩(LICHT-ER) 音響:小谷しげのり 舞台監督:守山真利恵 制作:柴田聡子 協力:保利透、毛利眞人 イラストレーション:和田尚久 宣伝デザイン:千葉健太郎
=おまけ= 勝手にエノケン祭り 〜エノケン生誕100年(の翌日)〜 2003年10月12日(日) 於:浅草 ヨーロー堂 出演:ふちがみとふなと、大熊ワタル ゲスト:上野茂都、中尾勘二、こぐれみわ
写真:芝田文乃さん
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