#女性ボーカリスト
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ボイトレのカラオケレッスン367曲目
バンドをされている生徒さんがLIVEでする曲として選んでくれた今回の練習曲は Superflyさんの「タマシイレボリューション」と言う曲です。 2010年6月リリース。 作詞・作曲はボーカルをされている越智志帆さん。 2010年の日本サッカーのテーマソングとして使われました。 パワフルな声で歌い続ける喉が必要な歌。 日本が誇るパワフルボーカリストのSuperflyの曲になります。 70年代のサイケなロックと言う感じでカッコいいですね。 始まりは抑えつつも直ぐに歌い上げるのにパワーを発揮する事になります。 高い方の「ド」の声音を多くパワフルに使います。 サビで一番高い声が「ミ」の音なんですが一瞬なので そんなに気にすることは無いんです。 間奏前のアドリブがカッコいいんですが、音を拾うのに少し苦労しました。 何となくの音程でしても良いと思うんですが、これ以上カッコいいアドリブが考え付く…
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“昔の和歌なんかには美しい表現があるんですよ”
ダブルが4枚目となるシングル「Shake」をリリース
すでにインタビューも3度目となるダブル。熱心な読者なら、彼女達が姉妹であるとか、ましてやR&Bシンガーであるとか言う必要もないだろう。前号でも触れた通り、今回4枚目となるマキシ・シングル「Shake」がリリースされる。ダブルの二人がラップにも挑戦している表題曲「Shake」は、パーティーを主題としたフロア・ライクな曲。そして前回のマミー・Dに続き、今回リミックスを手掛けたのはジブラ。もちろん自身もラップを披露しているこっち は、オリジナルとはうって変わり地下の臭い漂うダヴィーなリミックスとなった。もう1曲の「Make Me Happy」は細かく打ち込まれたドラムとピアノによる、ハネたビートの曲。両曲とも姉妹ならではのコンビネーションもバッチリ。ダンサーと共に踊るダブルが見られるヴィデオもかなりカッコイイ仕上がりなので要チェック。では、以前に比べるとかなりインタビュー馴れしてきた二人のインタビューを、どうぞ。
▶ 「Shake」のヴィデオを���せてもらったんですが、カッコイイですね。
T (TAKAKO) むこうのヴィデオっぽくしたかったんで、狙い通りにできました。
S (SACHIKO) 私もがんばって踊ったんで、みんなも(見て)踊って下さい。
▶ その新曲「Shake」はやはりクラブでかかることを狙って作 ったんですか?
T まず、今までの曲は一人用の曲を二人で歌ってたって感じだったんで、(今回は)二人で歌う形の曲を作りたかった。あとはライブで映える曲を作ろうってことで。
S このくらいのテンポならパーティー・ソングしかないだろうと思って。パーティー・ソングにはどんな歌詞がいいんだろうかと考えて、具体的な言葉を入れるよりも何を言ってるか分らないく らいの歌詞にしました。
▶ 日本の歌もの全体を見ると、トラックやボーカル・テクニックに比べて歌詞が追いついていないと感じることがあるんですが、それについてはどう考えていますか?
T 日本語だと現実的、具体的な表現になってしまって、歌詞が飛び込んできたときに粋じゃない感じになっちゃうんですよ。日本語っていうのは、そもそも直接表現することが美しいとされるような言語じゃないんですよ。
S 例えば昔の和歌なんかだと、女の人に声をかけとけばよかっ たというときに”素敵な花の枝を折ってくるのを忘れた”だとか、あなたに会えなくて寂しいと言う代わりに“袂が(涙に濡れて)毎日重くなる”とか、そういう美しい表現をするんですよ。
T そういう日本語の美しい表現をこれから作っていきたいですね。
▶ 逆に「Make Me Happy」の歌詞は英語が中心ですね。
T もうちょっと練れば(日本語でも)できたのかもしれないけど、この楽曲を生かすには英語が一番だと思って。サビ以外は全部英語なんですよ。だから、この曲は日本語を今までの英語扱いにした感じ。
S でも、全部英語で作っても使い古されてる単語ばかりになってしまって、稚拙な歌詞になるんですよ。今新しく作ってるのも日本語と英語が混ざってるもの。
▶ 今回は英語のラップにも挑戦してますよね。
T サッちゃんのパート、カッコよくないですか?
S “どういうラップが(曲に)合うんだろう?”って考えて、レコー ディング当日のブースの中でもいろいろなスタイルで何十回もやった結果、こうなりました。私の歌詞はちょっとエロチックで、大 人っぽい感じ。タカちゃんの方は“みてみて私たち”っていう。
T やんちゃな感じ。
▶ 「Shake」のリミキサーにジブラさんを選んだのはなぜ?
T ジブラさんのアルバムを聴いて、そのセンスがスゴク信頼できたので、お任せしました。
▶ ミックスはデイブ・ダーリントンですよね。
T ボーカリストの人がこんなに満足のいくミックスは初めてだったていう話を噂で聞いて、ぜひお願いしたいと願っていたところ、偶然日本に来ていてそこをガシッと押さえてやってもらいました。 願えばかなうんですね(笑)。
▶ 前回の「Bed」からステップ・アップした点は?
T 前回と違って、今回はメロディーと歌詞を同時に考えたから、自分達の曲っていう意識が強いですね。今回の方がもっと自分達のやりたい事がやれてきてるんですよ。その分スゴく責任も大きくて、満足感もスゴく大きくなりました。
▶ 次のリリースの予定は?
T 自分達の方向性をようやく形にできるようになりましたが、次はそれまでの過程のシングルを含めてのミニ・アルバムになります。セカンド・シングルの「Desire」はリミックス、ファースト・シングルの「For Me」は歌い直しが入ります。アルバムの方も楽しみにしていて下さい。
S それと、ぜひライブも見に来て下さい。
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C.T.Q.
馴染みのバーで、普段とは全く違う心持ちでソファに深く沈み込んだ。
この星の裏側からやって来た女性のリクエストで、その曲を流した。
俺も昔から大好きな曲だった。
”Listen to the girl,
As she takes on half the world.”
(彼女の言葉に耳を傾けるんだ。
世界の半分を持つ彼女の言葉に。)
甘く暗い声でボーカリストが歌う。
極端にシンプルなドラムのビートが唸り、響く。
わざわざソフィア・コッポラ ”Lost in Translation”のシナリオを引き合いに出さずとも、
その瞬間の東京という街は十分に特別で、過剰なほど切なかった。店内の見慣れた照明を照り返す家具の輝きは、柔らかく豊かに煌めいているように俺の目には映っていた。
安いウイスキーですら、博物館に飾られた大きな琥珀の塊のように感じられた。俺の手元の琥珀は静かに波打っていた。
ヨーロッパの中でも西方に位置するイベリア半島には、美しいものが溢れているらしい。
彼女は当初の��定通り、
美しい裏側へと帰っていった。
彼女は俺より8時間だけあの夜に近い街に住んでいた。
そんな彼女が順当にその出来事を記憶に変換していく中、俺の精神は未だにあの夜のソファに沈み込んだままだった。
別れを惜しみ、再会を誓い合う会話の終わりに、俺は頼みごとをした。
「君の生まれた国の言葉をひとつ教えてくれないか?」
彼女は一言「Cariño 」と答えた。
それは、愛おしい人という意味だった。
悪戯っぽく彼女は続ける。
「Cariñoは貴方が初めて覚えたスペイン語でしょう?」と。
その時、初めて俺は彼女に反論した。「初めての言葉は、君と会う日に君を揶揄うために覚えたTe quiero.(愛してる) だった。cariño は2番目なんだ。」
あらゆる言語の習得は、感情のこもった言葉を発する機会を要する。
少なくとも、俺のスペイン語学習におけるそれは十二分にあった。
Cariño, te quiero.
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SPECIAL 輝く!アリガタイチ大賞 2024
ハロー、僕は元気じゃないまま、まだ生きてます。
日中から10組が出る長丁場の学生向け?イベントだが観れたのは終盤の3組のみ。
The Whotens 着いた時には転換中で結構危うかった・・・ 去年の夏に観てから1年以上空いてた中で先週通算5回目を観れたばかりだったが、6回目は上手い事いって2週連続での観覧成功となった。 今回はベースがサポートだったし、メンバーの衣装的にも結構違う印象になったけど楽曲の良さは相変わらず感じられて良かった。新曲の入りを素人でもわかるくらいに明らかに失敗したのはちょっと勘弁してほしかったけど、 血迷って?勢いで?何か月も先の主催イベントのチケットを買ってしまったので少なくとも1回は行くはずの来年、来年はまたバッチリかっこいい所を、そしてミライオトロック時代は時間の問題化と思われてたウマシカてとの対バンとか観れると良いなと・・・
Mr.マングース TIMIDLION、アオイハル、kolksという魅惑の対バンの中で唯一初めて観るバンドだったけど好感をもって、その内また観るだろうと思ってたその時が遂に来たって感じだった。相変わらずのポップ感。フウテンズの主催に出るので来年1度は観れる事が実質決まってるようなもので、楽しみだ。
プルスタンス 上手い表現が見つからないがパンクじゃない美メロというかメロディが良いロックバンドっていうのか?そして全員よく喋ったな・・・長丁場のトリらしいと言えばそう、みたいな印象だった。
(アンコール) 10組のボーカリストが主催者の大好きな著名曲(僕が今や大嫌いな目立ちたがりなカルト教祖の息子と実力派ながら髪量共々控えめなデュオの体操の印象の強いあの曲)を輪番で歌うというありがちな茶番だったのだが、出だしと次の女性ボーカルがあまりに上手くて、その上手さっていったらもう引��ほど上手くて、この後大丈夫なのかと思ってたらそれに続く男性陣も負けてなくて、サビを任されてた奴はややネタっぽくなっちゃてたけど、総じてバンドのボーカリストの凄さを見せつけられたような、過去類を見ない高レベルな茶番だった。練習時間はあったそうだがそれにしてもみな上手かった。
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Silent Jazz Case 5 Self Liner Notes
Twenty minutes, let me rest ちょうど1年前のre:plus中国ツアー2023年7月、蘇州にて。バス・タクシーの運転手が突然中央分離帯に横付けして「俺は4時間運転してきてるから、会社の決まりで20分休ませろ」と急に言い出して、、しょうがないからその間にiPhoneにメロを録音してできた曲。ウェザー・リポートの”Teen Town”のような、難しいパッセージでキメが多いAメロからの、サビはキャッチーみたいな曲をイメージしました。 この曲だけミックスは大津惇。以降曲のミックスの指針になり、大変感謝。
夜桜甘雨 (よざくらかんう) 桜のシーズン、わざわざ雨の日を選んで、車で出かけて桜見るのが好き。 甘雨とは草木に潤いを与える恵みの雨。 和風なフルート&バスフルート&フリューゲルによるメロディと、 フロントガラスが濡れて桜の木が印象派の絵画のようになる感じを、深いディレイのミュートトランペットで表現してみました。 ジャズミュージシャンならではのローファイヒップホップサウンドを感じていただけたら幸いです。
天神 be-bop この20年、半年ごとに福岡で何公演かするくらい縁のある街ですが、 割とbe-bopスタイルの曲を愛する人が多いなという印象。 be-bopとは1940年代後半、主にチャーリー・パーカーなどが築き上げた現代ジャズの基本スタイル、私のルーツ・ミュージックでもある。 メロディはbe-bopなオールドスクールだけど、高速ファンク16ビートなリズムをブレンドして、 古さと新しさがうまく融合された街「天神」を表現できたのではないかなと。 杉浦睦のグルーヴが美味しかったので、ミックスではかなりベースを前に出して、ほぼ全編ベースソロ状態です。
Museum in Green 私が好んでたまに行く「世田谷美術館」をイメージした曲。 砧公園の緑に囲まれた素敵な美術館。 とある日に行ったときに、ロビーで聞き覚えのある曲がかかっており、 「あれ?俺じゃん!」、なんと前作のNever Die Miles が流れておりました。 そんなサプライズも嬉しく、この曲を捧げました。 フリューゲルのワンホーンで柔らかなジャズサウンドに仕上げました。
雲仙霧中(うんぜんむちゅう) 長崎県雲仙は霧が深く、かなり視界が悪い。まさにツアー中に車で山登りのときに視界がものすごく悪く煙ったときがあり。 この曲は最初シンプルなAメロだけ作って、そのまま河野祐亮に「Bセクション」を作ってほしいと丸投げしてできた曲。突如の5拍子とトリッキーなコードワークは彼ならでは。不思議とループ感があり、なかなか刺激的かつシュールな曲になったなと。雲仙の深い霧の中を走行しているのがBセクション、その霧を抜ける感じがAセクションというイメージ��� あえてのピアノなしローズのみで、ネオソウル感もあり。
Chillin' 曽根崎 大阪梅田の曽根崎新地の名店「ミスターケリーズ」閉店に際して捧げた曲。 あらゆるプロジェクトで20年来お世話になりました。 Silent Jazz Case と、関西の超絶クリエイティブなボーカリストSOA(私プロデュースアルバム「Voice of Buoy」発売中)とのコラボ2Daysライブ、その日も大いに盛り上がりまして、 深夜は信じられないくらいの酒量でして(私は激弱なので、ほどほど)、、 翌日、ベースの杉浦睦、激二日酔い。Chillin' は酩酊状態のチルと受け止めていただければ、 ベースソロがよりグッと聴こえてくるのではないかと思います。 過去作品でも1曲はやっている「島多重オーケストラ」、駆使しております。
Sunset like a persimmon にっぽん丸でシンガポールから横浜港まで9日間の演奏旅という、たまに調子の良いお仕事をいただけることには本当に感謝しております。 台湾海峡の悪天候荒波が落ち着いたあとの、「柿色」の美しい夕日はいまでも目に焼き付いています。 Silent Jazz Case のライブでは何回かゲスト出演していただいている辻本美博にはなにかで録音参加してほしいなという思いがあり、彼のクラリネットが映える曲が書けたのでオファーさせていただきました。クラリネット・フリューゲルホーンのアンサンブルが、壮大な夕日の叙情感を表現できたのではと。
Silent Dancer 長野県辰野町在住のフルート赤羽泉美(私プロデュースアルバム「羽色」発売中)の縁でたまに行くのですが、オトトという山奥の古民家リノベした面白い連中が集うハコがあり、Silent Jazz Case を気に入っていただき演奏させていただくようになりました。 Silent Jazz Case をバックに踊りまくってくれるのが嬉しく、この曲を捧げます。 ここに限らず、近年ダンサーうけが良くなっている気がする。 ドラム大津惇が4年前くらいからレギュラーでやってくれてますが、彼のダンサブルなグルーヴのおかげもあるな。
Whisper of Rain 今年の正月に書いた最新曲。 雨音が好きなんです。ミュージシャンに多いような気もします。 ツアー中にビジネスホテルや車中で、体力的にきつくどうしてもちゃんと休みたいとき、 SpotifyのRainプレイリストを爆音で聴き、心を落ち着けます。 昔、深夜のクラブに通い続けて、そこで爆音のビート聴きながら寝るのが心地よいって言ってた某女性ジャズボーカリストがいたけど、ちょっと気持ちがわかる気がする。。
Take the S line 河野祐亮が書き上げた、熱量高めの難曲。 有名な”Take the A train”はハーレム経由ですが、S lineはグランドセントラルからタイムズスクエアへの短線。NY在住時代の想い出と、前作の”Grand Central in NY”へのアンサーソングだそうです。 Bメロの高速7拍子しかもコードチェンジも容易でなく、、彼ならではのジャズに対する厳しさと熱意を感じる曲。 ちなみにこの曲は先行配信してますが、かつて配信ではウケなかった”熱い・速い・難い・長い”曲が3週間Spotifyで2万再生超えたというのは、ジャズのコアな演奏が配信でも受け入れるようになってきた、と感じられます。今後の指針となりますね。
Floating Ocean 昨年2023年秋リリースの”Wind Loop Case 1”より、セルフカバー。 ライブでやった感触がよく、バンドバージョンで再録しました。 前述のにっぽん丸で太平洋を浮遊しているイメージ。 通なら、途中「フリーダム・ジャズ・ダンス」っぽいリフにビクんと来るはず。
Sunrise on the Bell ”Silent Jazz Case 4”より、セルフカバー。 前作ではDUOテイクでしたが、今回はバンドバージョン。 あえてスタジオセッション感を出すために、ほぼノーリバーブでドライなミックスにしました。 ちょうどコロナ禍に書いた曲で、フリューゲルホーンのベルに陽が差している様子を、「コロナの夜明け」という思いも込めてタイトルにしました(お客様のアイデアよりタイトル付け、感謝)。
[後記] ”Silent Jazz Case”と名乗るようになってから、おそらく16年。 最初はライブやオリジナル作品を作る意識はまったくなく、各レーベルから請負ったジャズカヴァー・アルバムのプロデューサー名義でした(Silent Jazz Caseで検索したら謎の作品がヒットすると思いますが、私です)。 “Jazz in R&B”という2009年i-tunes限定作品がかなりヒットしたおかげもあり、当時のレーベル”Rambling Records”さんが予算を出してくれて、”Silent Jazz Case 1”を2010年にリリースさせていただきました。思えば当時大活躍中のたくさんの演者に参加していただき、豪華に作らせていただきました。 その後"2"からは”Playwright”(ディスクユニオン)さんにお世話になり、谷口氏とも長い付き合いとなりました。きっかけはImmigrant's Bossa Bandのレコーディング参加だったかなと。今としては、若手インストシーンの憧れのレーベルとなっていてなにより。私の主宰のレーベル「等々力ジャズレコーズ」もディスクユニオン流通なので、SJC以外の他作品をお世話になっており、本当に感謝。 今では名義は”島裕介”ですが、アルバム名として”Silent Jazz Case”に+番号をタイトルとしております(レッド・ツェッペリン風)。2020年初頭から現メンバー固定となり、ライブのたびに充実を重ねております。2021年7月発売”Silent Jazz Case 4”は、Spotify100万回再生超えるなど世界中で聴いていただき、自分の新たな視界が広がった感じを得ることができました、感謝です。 "4"を出した3年前の時点で「もう出し切った感」はあったのですが、メンバーの協力・進化に触発される形で、不思議とアイデアは湧いてくるもので、全12曲オリジナルの”Silent Jazz Case 5”が生まれました。もうリーダー・自分名義として18作目のリリースとなりますが、「過去最高」と思える作品をリリースできること、なんて幸せなことでしょう!
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2024.05.23
フラワームーン🌙
今日はレッスンが多い日で
自分の時間取れなかったけど
最近は合間で、レコーディング作業しとります
時代掘り起こし物もあるから、
ちと統一性には欠けますが、ある時期から
残さなきゃな…って話もあり、
確かに…そうだな…と思う面が自分でもある訳で…
20代の頃、役者やミュージシャン仲間と
何かあると集まって飲んでた
所謂、芸能人囲まれ、男前の俳優と
とんでもない美人の女優に囲まれての飲み会は
業界で切磋琢磨する同世代の仲間達が
ある意味、刺激を交換してた場所だった様な気がする
もちろん、コネクション作り目的の人も居るし
色んな意味でギラギラしてる奴等ばかりだが
そんな中に先輩達から聞く体験談もあり
その時に、ボーカリストの先輩から
当時のワイのトップキー���かは、30代になったら
声出なくなるぞ!と言われたのよね
音楽雑誌でもアメリカのボーカリストが同様な事を
言ってたし、現に40代とかで
全然、声が出なくなるボーカリストは沢山見てきた
その頃に歌い手の鮮度や寿命を意識する様になり
音楽ジャンルも広がったと思う
男性でHI HI HI Gは飛び道具的な武器で
恐らく世界的に見ても、出せる人は
そんなに居ない筈。
それを40代、50代でキープしてるのは
壊滅的に少数だ。
でも、それを活かせる楽曲が大前提で必要だし
その曲が良い曲ぢゃなきゃ、そもそも収録されない
過去、ボツ曲で数曲あったんだが
あのキーが出るウチに、再録して残さねぇ?
と、連絡を頂いたのが、この昨今の流れ
作業場で作業しやすい時期に撮り終わりたいな
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ビリー・ホリデイの味わい
ビリー・ホリデイ(1915~1959)が史上最高の女性ジャズ・ボーカリストであったことは万人が認めるところであるが、それでいてはじめて彼女を聴いた時からそう思ったという人は皆無に近い。「なんて変な歌手だろう」とその資質を疑った---というのが、多くの人の第一印象である。だから人気投票の首位を得たことは一度もない。ところが印象の悪かったレコードを何度も聴きかえしてゆくうちにジワリジワリと利いてくる。第1期は33年の初吹込から44年デッカに移籍するまでのCBS時代でどれもすばらしいが特にこの後半コモドアに吹込んだものを最高傑作と推す人は多い。第2期はデッカ時代、スイング唱法よりも歌詞の表現に重点を置いたバラードを中心とした時代で円熟境をみせるが、声は急速に失われてゆく。第3期のヴァーヴ時代から最晩期の『レディ・イン・サテン』『ラスト・レコーディング』になると、ひどい声だが歌への執念と気迫に圧倒されてしまうのである。
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ジャズ
ベスト・レコード・コレクション
油井正一
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4/22土
ついにこの日が。
先日の高校同窓会で北斗氏にまことちゃんのinstagramを教えてもらってチェックしていたところ今日この日に渋谷で演奏会があることをキャッチ。サプライズで行くのだ。
場所は奥渋と呼ばれるところにあるバー希望で、ここは沢田節子さんのfacebookでよく見かけた記憶。
会場に着くとお客さんはみな知人同士のようで和気あいあいと。そんな中自分と同じく所在なさげな女性とこんちはとご挨拶。名刺いただき、MIKIさんというエスラジ奏者でボーカリスト。そうこうしているうちに楽器を抱えたまことちゃん登場で、来たよー!と。やだーもうーあとでゆっくりー。
この日は曼荼羅の展示会に付随した演奏会ということで、まずはまことちゃんによる曼荼羅の解説。次々にあちこちに派生し…ないようにメモを見ながら、でもフロイトからユングへユングから集合的無意識へそして集合的無意識から円すなわち曼荼羅へと、ペダンチックな時間。楽しー。
解説が終わって演奏会。まことちゃんはサロード、そしてタブラに森上唯氏。アンコールにも答えて充実の時間。
あれこれ終わって、一緒にカレー食べながら久しぶりの邂逅を。10年ぶり?20年ぶり? ぜーんぜん変わってない。終電ぎりぎりまで懐かしい話などいろいろ。嬉しい。
15時頃、ロキソニン1錠。
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マレーシア・ローリング・ナウ
飛行機に乗りに行く電車代すらないアタシには関係なさそうですが、US・マイアミ発で
”世界最大級”らしいヒップホップフェス『ローリングラウド』が’23年、タイで開催ですって!
アジア本格進出らしい『Rolling Loud Thailand 2023』の出演者が発表されました。
日本からAwichさんやBAD HOP、韓国からJay Park(박재범)さんやJESSIさんとか、
あと開催国であるタイのラッパーが多めで、中国やインドネシアのラッパーもいますが、
カンボジアやシンガポールのラッパーとかもラインナップされてるのに、少しびっくりネ。
そんな中で、マレーシアからレジェンドのJoe FlizzowさんとSonaOneさんの、ラッパー
2人が選ばれてて「へぇー」って思いました。それってあなたの感想ですよね、的に!
マレーシアからは、’23年にタイで開催される『ローリングラウド』に出演するラッパーは
男性だけですが、女性のラッパーも今、アツかったりするらしいですよ。
youtube
SOPHIARAZK, SYA, PRADAA | 16 Baris | Season 3 | EP4
『16 BARIS』は、『Rolling Loud Thailand』に出演するマレーシアのビッグネームの
ラッパー・Joe FlizzowさんとDJの大会『DMC』のマレーシア王者であるDJ Czaさんが
ホストをつとめるラップサイファー・ショー。↑の’22年12月EPと、’19年1月のシーズン2の
EP07はパフォーマンスするラッパーが全て女性!その1人、SYAさんは東南アジアの
女性アーティストとして初めて、USのレーベル・Def Jamと契約を結んだんですって!
マレーシアは、マレー半島とボルネオ島の一部から成る、日本のおよそ0.9倍の広さの
国ですが、人口は少なく3400万人程。 首都は近年、近代化が進むクアラルンプール。
一方で国内のおよそ60%は熱帯雨林で覆われた、自然が残る美しい国みたいです。
そんなマレーシアで1896年に発行がはじまった、最初の日刊新聞『The Malay Mail』の
編集者が書いた記事によると、マレーシアのアーティストによってヒップホップが最初に
レックされたのは、今からおよそ30年前の1989年のこと。Najeeさん、Jakemanさん、
DJ Gabrielさん、ボーカリストのSureshさんの4人によるグループ・Krash Kozzの
ミックステープ『Pump it Up』らしいです。USの音楽雑誌『Billboard magazine』にも
認定されているみたいです。マレーシアでヒップホップの1つ、ラップが始まる背景には
1984年に公開された映画『ブレイクダンス』の影響でB-BOYが爆誕した説・・・が1つ
いわれてるっぽいです。そんなマレーシアで最初のラップ作品『Pump it Up』を聴くのは
日本では難しそうですが、Krash Kozzのパフォーマンス映像がYouTubeにありました!
youtube
Krash Kozz 「Fiona....Give It All You Got」
映像をカラコン&老眼が入った目で見ると、Krash Kozzは全員がメンズみたいですね。
ではマレーシアで女性のヒップホップ・アーティストの最初は誰なのか気になりましたが
当然、バカなのでアタシには分かりません!そこでココまで文章&情報をパクってきた
新聞『The Malay Mail』の編集者の記録の窃盗を再開しますと、 マレーシアで爆誕した
ヒップホップ初期の女性だけのラップグループの1つが、Krash Kozz『Pump it Up』から
およそ4年後の1993年7月にアルバム『Untukmu』をリリースした、Femininですって!
youtube
Feminin 「Untukmu」
Femininは、続いてWikiの文章をパクりますと、1992年に結成の女性ポップグループ。
‘93年にデビュー作『Untukmu』を発表してその年、マレーシアのミュージックアワードで
新人賞を獲ったみたいです。デビュー作のリード曲だと思う↑「Untukmu」は、ラップ色が
フットボールアワー岩尾さんの髪の毛くらい薄いですが、同じ『Untukmu』に収録された
マレーシアのアーティストによる、初期の”フィメール”ラップミュージックがありました!
dailymotion
Feminin 「Irama Hip Hop」
Femininは、ラップやヒップホップがまだ広く知られていなかった90年代のマレーシアで
ボーイバンドのKRUやレコード会社であるワーナーミュージックとかの力を借りて、
解散する1997年までサヴァイヴしていったみたいです。その活動の間、”Femininは
現象になり、新しいファッショントレンドを作ったり、男性や女性また人種を越えて愛され
後につづくラッパーやアーティストの道を切り開いた。”・・・と、現地の人が書いたと思う
文章&情報を、舐達麻か『アメトーーク!』のザキヤマさん&フジモンさん並に今回で
何回目かというくらい泥棒しました!マジで全部、”サンプリングちゃうで、パクリや!”・・・
このあと逮捕されるけど、DJ ポリスに。
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This kid is becoming 5 today! 🐇 Happy Birthday Vanilla Cookie 🍪@wereallcatshere . . . #metalband #metalsinger #femalefronted #alternativemetal #femalefrontedmetal #femalefrontedband #symphonicmetal #gothicmetal #femalemetal #cat #cats #whitecat #longhairedcat #metal #witchy #女性ボーカル #ガールズバンド #ボーカリスト #かわいい #メタル #ゴシック #SeasonOfGhosts #SophiaAslanides https://www.instagram.com/seasonofghosts/p/BwdOz_bHME0/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=sz9d1pxu0g49
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Tumblrフォローすべき10の国内アカウント
TumblrがActivityPubを採用すると発表し、Mastodonとの連携が可能になったことにより、Twitterからの避難先として一躍注目を浴びるようになってきた。
ブログサービスのTumblrが、分散型SNSサービスの標準プロトコルであるActivityPubを採用すると明らかにしました。
ActivityPubは、Twitter代替を目指すマストドン(Mastodon)、Pleroma、GNU social、PeerTube、Misskeyなどの分散型SNSのサーバ同士が投稿やユーザー情報をやり取りするための標準で、2018年1月にW3C推奨となっています。
またコミュニティラベルの導入により表現規制の問題に一定の譲歩を示している。
Automatticのマット・マレンウェッグCEOは「コミュニティラベルの立ち上げはコミュニティをよりオープンにするためのの第一歩です」と明るい姿勢を見せるも、過去のような規制の緩い運営は困難だとし「クレジットカード会社やアプリストアは反ポルノ体制をとっており、これに従わないとTumblrだけでなくAutomatticの社員までもが将来を脅かされることになります。また、アダルトSNSを運営するには厳格な年齢確認を行う必要があり、年間700万ドル(約1億円)のコストがかかると見積もっています。初期のインターネットのような時代はもう不可能です」と述べました。
Tumblrは、ポルノコンテンツの規制により「Tumblrはオワコン」と散々揶揄されてきたが、むしろユーザー層が一新され、現在は
Z世代のコミュニティ
ファンダムによる推し活を含むクリエイターエコノミー
スモールビジネスのWebサイト
として利用されてきた感がある。
そこで国内Tumblrユーザーの動向をウォッチしてきた自称「Tumblrエバンジェリスト」として、フォローすべき10のアカウントを紹介したい。
1.Z世代
@ak0gare いつか零れ落ちるもののすべて
Tumblr日本語ユーザのZ世代の日記として人気が高い。
2.ブロガー
@alien-melissa Risa
海外や日本のインディ・シーンをTumblrで発信するブロガー 。
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3.ECサイト
@hiraharu パンと日用品の店 わざわざ オンラインストア
実店舗とオンラインストアでパンと日用品を販売している「パンと日用品の店わざわざ」実はこちらのECサイトはTumblrで製作されている。
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4.女優
@mikimizuno Miki Mizuno Official Website
女優、水野美紀オフィシャルサイト
5.ボーカリスト
@sarahalainn Sarah Àlainn ~サラ~
ボーカリスト、サラ・オレインの日記
6.ミュージシャン
@mononkvl モノンクル
ミュージシャン、モノンクルオフィシャルサイト
7.コレクター
@yoghurt-freak Yoghurt
800種類ものヨーグルトを食べてきた向井智香さんのブログ。
関連記事はこちら
8.フォトグラファー
@takashiyasui Takashi Yasui
フォトグラファー、保井崇志さんのポートフォリオサイト。海外からのフォロワーも数多くいる。
関連記事はこちら
9.GiF職人
@1041uuu 1041uuu
イラストレーター・GIFアニメ作家、豊井さんのポートフォリオサイト。
関連記事はこちら
10.地域コミュニティ
@shodoshima-camera 小豆島カメラ
見たい!食べたい!会いたい! 島で暮らす7人の女性が撮る小豆島。
関連記事はこちら
Twitterの避難先として注目を浴びているTumblrだが、個人的な見解として、二項対立やマウンティングが大好きなTwitterユーザーと現在のTumblrの空間は相容れないと思われる。
例えば、TwitterのリツイートとTumblrのリブログは一般に同じような機能として考えられている。しかし、Twitterのリツイートは「引用」であるが、Tumblrのリブログは「追記」である。反論は「引用」では可能だが、「追記」ではできない。
ディスりのTwitterと推しのTumblrでは全く世界観が異なるのである。
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The Australian Music Scene Is On Fire .✦
✶.•Babie Club‧₊˚✧
オーストラリアの友人が行っていて知った『Babieclub 』というパーティーコレクティブ。日本のホステスクラブを改装して作られたというメルボルンのクラブ。ポップでキラキラした空間に装飾され、そこにはそれぞれ思い思いの好きな格好で踊る人々。
アニメのコスプレ、ロリータ、フェアリー、ギャル、着ぐるみ、、日本のサブカルチャーの影響を感じるものからパンクやゴスファッションなど様々。
イベントの詳細には᭙ꫝꪮ ᭙꠸ꪶꪶ ꪗꪮꪊ ᥇ꫀ, babie?
wear that one outfit that's been sitting in your wardrobe. >> you know the one.
(グローゼットに眠ったままの服を着てきて、分かるよね?あれだよ)
音楽はHyperpop/Future bass/Nightcore/Anime meme music/Y2K pop...
なりたい姿で、好きな音楽��踊り、ありのままの自分を解放するピースフルな空間を共���できるパーティー。
同じように自由で自身を解放するパーティーコレクティブ他にもある..
꧁ celestia(天体) ꧂
多次元のクリエイティブ団。Artist,Visionary,Dreamerのためのスペース。
詳細には
「誰もがワイルドな面とそれを解放したくてうずうずしていることも知っています。あなたの中の反逆者と破壊者から逃れるため、星の光の中に足を踏み入れる時が来ました。宇宙の中で天国のように楽しんでくれることを願っています♡༉‧₊˚✧」
と書かれ、毎回テーマや世界観などが設定されている。日常から離れ非現実的な空間で自分を解放する場を作っているパーティー。「安全な空間であること」「誰でも受け入れる」ということが前提として挙げておりステートメントがアーティストや観客の中で共有されている。
初めて行ったパーティーでも疎外感を感じず音楽を楽しめた経験もあれば、音楽を楽しみに遊びに行ったはずがアウェイな雰囲気と誰かの不快な言動に嫌な思いをして帰った経験もある。ただでさえ生きにくい世の中で必死に生きているのに、好きな音楽を共有しているときくらい好きなように邪魔されず楽しみたい、好きなものへの愛に溢れて優しい空間であってほしい。と普段から思っていたからこそ、そういうイベントがあることに希望を感じた。
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BabieClubからは直接「オーストラリアへおいで!近いうちにBabies Clubと遊びましょう」とメッセージをもらい。リアルで日本と交流できる機会があればいいなと思った。
オーストラリアが英語圏であって、アジアでもあるからこそ生まれる各国のいろんなカルチャーが交わり発展しているシーン。
次世代を担う新進気鋭のアーティストたちを紹介したい
★Daine
メルボルンのエモポップスター、ジャンルに執着しないマルチジャンルなDaineのルーツはtrap、Midwestern emo,、hip-hop 、hyperpop 、メルボルンのハードコアバンドの影響などユニークなブレンドによって独自のハイブリッドサウンドを生み出している。オートチューンとDaineの声の相性は最高.....!!!
Charli XCXは次にビッグヒットする新人アーティストとしてDaineの名前を挙げており、MuraMasaのオーストラリア公演のオープニングアクトとしても選ばれるなど注目を集めている。
パンデミックの時期にはオンラインパーティー『Nocturne 』ホストしCharli XCX,Hannah Diamond,Oklou,Ericdoa,Golin,Hyd,Himera....など多くのアーティストが出演し、オンライン上でコミュニティを拡大させた。
↓Nocturne
★Cookii
Lucy BlomkampとRosebud Leachの2人組によるプロジェクト、姿や名前などを伏せ、謎めいた存在であったが匿名で活動することを辞め、2022年「so young 」のリリースと共に表に出ることを決意した。
ミックステープ「popstyle」ではパンクなリフや歪みと2000年代のポップメロディーの融合。ポップかつトゲのある激しいサウンドでジャンルを超えたマッシュアップが特徴的!
最近では様々なDonatachi, Hearteyes, Lonelyspeck,など様々なアーティストとのコラボレーションによってさらにCookiiとしての音楽の幅を広げている。
★Donatachi
シドニーのDJ/プロデューサーのDonatachi、2022年リリースの『Donatachi.com 』ではレイブ、ジャングル 、ブレイクビーツなどノスタルジックな音楽からのインスピレーションと甘くて鋭いポップミュージックの���来への推進力と、圧倒的なエネルギーを放つサウンド。
Mallrat 、Slayyyter とのコラボレーションや、最近ではCowgirlCrueやCookiiなど様々なボーカリストと共作を行なっていて、インタビューでもDonatachi にとって誰かとコラボレーションすることはまったく別の視点を与えてくれて、曲のアイデアが湧いてくるのでとても楽しい。と話している。リリースされるごとにどんどん新しいスタイルを確立していくDonatachiのポップミュージックに今後も注目したい。
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★Ninajirachi
オーストラリアのエレクトリックDJ/プロデューサー
熱狂的なビートと未来的なポップの白熱するセットを実現する私の大好きなアーティスト!!
私が特に好きなのはDoracodracoとStart Smallという曲
11月にはFlume やToro y Moiなどがラインナップに参加する、『Spilled Milk music festival』でのパフォーマンスを終え、大きな会場を熱狂させた。
Ninajirachi をきっかけ��知ったDJやアーティストKenta204, Harvest, Laces、、も本当に素晴らしいアーティスト達なのでぜひチェックを!
CRACK Magazineに提供したMixが最高だったので聴いてほしい。本当に最高なので!
↓CRACK MAGAZINE pop zone series - Ninajirachi Mix
★Nuum
オーストラリア出身のシンガーソングライター/プロデューサー、実験的なサウンドを掘り下げ続けているNuum。日本のシューゲイズバンド、揺らぎの「While my waves Wonder」のリミックスや、玉名ラーメンの「aoluv」のプロデュースなど日本でも幅広く活躍の場を広げている。
2nd EP 『nu world』ではNuumの新しいサウンドやテクスチャーを表現しつつも、カジュアルな音楽リスナーにも聴き入れやすく、実験的な音楽とポップスの境界線を曖昧にしたものになっている。
2023年(?)来日する可能性も?日本のアーティストとの繋がりも多く今後いろんなところでプロデュースやコラボレーションで目にすることになるかもしれない注目の存在。チェックしておいて間違いないです。
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★Holliday Howe
シドニーを拠点に活動するハイパーポップ・プロデューサー&シンガーソングライター
Charli XCX、Tove Lo、PC Musicなどのポップミュージックの影響を受け、ヘビーなバンガーときらめくセンチメンタルな要素を絡めた彼女の音楽!ロンドンのクラブシーンの影響を受けながら、独自のメランコリックなハイパーポップに磨きをかけてきた。
シドニーからロンドンへ移住し、世界中を渡り歩いた彼女のデビューミックステープ『My Friends Live in My Pocket』が11月にリリースされ、オンラインで築き、維持する友情への賛歌を歌ったものとなっている。
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このオーストラリアのピースフルで愛に溢れたコミュニティやクラブシーンの存在と素晴らしいアーティスト達のことを日本でも多くの人に知られることで、このコミュニティ周辺を交えてのパーティーが実現したときに、盛り上がればいいなと思っています。
確実に少しずつその日が近づいています(╹◡╹)♡
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Sunshine Under Groud
ハロー、僕は元気じゃないまま、まだ生きてます。
フクダチナツ(ウマシカて) バンドではそれなりに観れてるけどソロを観るのは1年チョイぶりとなった。 ソロはソロ曲をやってる印象があって、 最近ソロCDが出た事もあってそこから殆ど演奏されたけど バンド曲も間に入って来ててシンガーとしてもボーカリストとしても満喫出来た感じだった。 バンドは思う様に動けないけどそれで空いた時間はソロを頑張るって言ってたからどっちも沢山の曲達がCDなっていったら良いな。
リベルダーズ 持ち時間でバンド曲がもたないからまずはソロ弾き語りで始り、 そのボーカル(女性と思われる)は衣裳を忘れて普段はTシャツズボンだが、スカートっていう 「女みたいな恰好で」の演奏だったそうで、初めてみるから価値はわからないがレアな状況だったようだ。.CHARCOAL FILTERのリズム隊がやってたLibertasの事なんか知る筈もない若さのガールズバンド。シンプルにカッコいい感じのロック系だっがベースの人は何とアイドルグループ?ユレルランドスケープに人らしい。でも客席にそっち��流れな人は目立ってなかったな。
SUNdals 妙なハイテンションで始ったのだが、通常営業なのかやらかした為のおかしなテンションだったのかは謎。スリーボーカルポップスバンドって事で3人組で問題ないのかと思いきや、実はベースは常時サポートで4人組として演奏してるらしく、でも今回は連絡ミスによりスリーピースでの演奏となっていたようだ。楽曲はポップ系なのでどんなにハイテンションでも危険度は無く(参加強要されたら嫌だなという恐怖感はあったが)比較的心地よく終始観れた。
ハシグチカナデリヤ 10年程前から妙に名前は見かけてたが観たのは去年が初めてで、でも思ってた通り見た目も演奏も濃くて印象残ってる(バンドマンなのに写真撮影がアイドル仕様の高額ってのも含めて)し、だからと言って積極的に行くわけもなく、今回みたいな機会があって良かった。異種格闘技的な異色の競演だと思ってたんだけど実は滅茶苦茶合ってた(?)。おそらく初めましてだったんだろうけどトップバッターがクソ男をディスった事に対トリとして地雷女を揶揄するという最高のアンサーをし、出だしでは結果ベースレスになったSUNdalsに対して「ハシグチは通常営業です」みたくも言ってて対バンイベントに一本芯を通すというか最高の繋ぎをする人だなと。 途中入場、途中退場してしまう事も度々なんだけどこれは最初から最後まで観れた本当に良かったなという公演になった。
会場のブッカ―の1人であるロマバカ市岡氏がウロウロしてたからあの人のブッキングだったのかな・・・(いつかSHORT LEG SUMMER呼んで欲しい)
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井上陽水(73歳)は2019年の50周年記念ライブを最後に表立った活動をしていない。 吉田拓郎(76歳)は6月29日発売予定の8年振りのオリジナルアルバム「ah-面白かった」を ラストアルバムと決め、音楽活動に終止符を打つ。 高橋真梨子(73歳)は最後の全国ツアーと銘打って開催したツアーが コロナによって中止となり、今年改めて再スタートを切っている。 同じく中島みゆき(70歳)も最後の全国ツアー「結果オーライ」を道半ばで中止せざるを得ず おそらく本人も不本意ではあろうがライブアルバム「結果オーライ」をリリースした。 ツアー再演の話は無さそうだが、映像や音源の収録があっただけでも良しとするべきなのだろう。 美空ひばりや堀内孝雄などへの提供曲でも知られる小椋佳(78歳)も、今年が最後の公演となるらしい。 小椋佳は古希を迎えた2014年に「生前葬ツアー」を開催済みなので 唐突に引退を発表したわけではなく、着々と進めてきた店仕舞いの準備が今年終わるといった印象。 一方活動的なのは小田和正(74歳)で、この6月より史上最年長記録である74歳8ヶ月で全国ツアーを開始したばかり。 女性では松任谷由実(69歳)が現在も「深海の街」ツアーを続行中。 全国のFM局と連動したリクエスト企画も立ち上げ、秋には企画で多数の票を獲得した曲だけの ベストアルバムをリリースする予定。 ニューアルバムをリリースしたばかりの山下達郎(69歳)も3年振りの全国ツアー 「山下達郎 PERFORMANCE 2022」を開催中。 矢沢永吉(72歳)、浜田省吾(69歳)、桑田佳祐(66歳)や玉置浩二(63歳)らもライブ活動を継続中。 細野晴臣(74歳)は今月大阪中之島でライブを行うなど、大規模な活動こそしていないが 箱の大小を問わずマイペースにやりたいことをやっていて楽しそうだ。 大瀧詠一、筒美京平、小坂忠など、既にこの世を去った日本の音楽界のパイオニア達も多い。 演歌と歌謡曲しかなかった日本の音楽シーンに、ロックやポップスの種をまき 数え切れないほどの花を咲かせてきた彼(彼女)達には感謝しかないし 細野を敬愛する星野源や、ユーミンへの愛を語るaikoら 後続のミュージシャンも生まれていなかったかも知れない。 私が幼い頃、50代どころか40代の歌手には演歌勢ぐらいしかいなかった。 しかし、本人は未だ隠遁生活を送っているが今年40周年を迎えてマスコミが盛り上がっている中森明菜ですら56歳。 不幸を乗り越えてツアーを再開した松田聖子は60歳である。 こんな日本を、昔の私は想像だにしていなかった。 良い時代になったと思う反面、別れの時期が近づいていることを嫌でも自覚してしまう。 今でも心残りがあり、たまに検索してしまう山本潤子(72歳)は 小田和正が唯一「あの人には勝てない」と認めたボーカリストであり 日本でも最高峰のシンガーだと思っているのだが、2014年に突然活動休止を宣言したまま 既に8年が過ぎようとしている。彼女ほどのビッグネームであれば どこからか情報や消息が漏れ伝わってくるものだが、噂話も含め全く出てこないことを考えると かなり厳しい箝口令が敷かれているのではないかと思う。 交流のある小田やユーミンが知らないわけは無い。 せめてお元気でいてくれると良いのだが。 達郎&まりや夫妻、ユーミンや中島みゆきらシンガーソングライターは 重ねた年齢を楽曲に投影することでさらなる深化を遂げている部分もあり 新譜が出ると聞けばやはり気になるし、ライブをやるなら観にも行きたい。 しかしそういったことも、あと10年は続かないような気がする。 巨人達が最終コーナーを迎えているということは、 彼(彼女)らの音楽と共に生きてきた自分自身も最終コーナーに差し掛かっているということ。 陽水のように極自然に年を重ねて、90歳になってもギターをつまびきながら タモリと笑い合っているようなイメージの巨人が急に音信不通になると 色んなことを考えてしまう。 老いに対して「あの人だけは大丈夫」は通用しない。 そんなことは百も承知で、でもまた元気な姿が見たい。
日本の音楽シーンを支えてきた巨人達が迎える最終コーナー、他 - 忍之閻魔帳
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Season 2, episode 1 - Oberheim
「XpanderにはIBM社製PCの倍の演算能力を持たせてあります。ですが、それでもこの速さでしか数をかぞえられないのです」 (We've put twice the computing power of an IBM PC inside the Xpander, but even so it can only count SO fast!)
OBERHEIMの名機、Xpander(エクスパンダー)。その取説にある文章をちょこっと超訳してみた。お客様に 対しマトリクス・モジュレーションが最大20系統しかないことにご理解をもとめるこの文章。逆に20系統もできるのか!と驚いていたユーザーにしてみれば衝撃的に謙虚に映った。
Xpanderと言えばビンテー���・アナログシンセ最後期の名機のひとつ。だがその伝説は単に太くてあたたかい音 だけではなかった。そこには生みの親トム・オーバーハイム氏による卓越したデジタルテクノロジーも光っていた のである。こんにち的シンセの礎を築き上げた言わば第一世代のBUCHLA、MOOG、ARPが倒れたあと、シンセの開発を牽引した第2世代はOBERHEIMの創業者トム・オーバーハイム、E-MU SYSTEMSの創業者デイヴ・ロ ッサム、SEQUENTIALの創業者デイヴ・スミスなど。彼らが数々のビンテージ・アナログシンセの名機を世に送り出すことができたのは、ひとつには彼らがすぐれてデジタルテクノロジーのマエストロたちだったからでもあった。
そんな歴史を、簡単に追ってみたい。
♬ ♬ ♬
「創世神話」
トーマス・エルロイ・オーバーハイム(Thomas Elroy Oberheim)、通称トム・オーバーハイム。1936年七夕 生まれ、アメリカ中西部カンザス州出身。
戦後、高校の時から電子工作少年となりステレオを自作。大学でコンピューターサイエンスを会得した彼は電子 工学エンジニアとして就職。アナログ回路のみならずコンピュータープログラミングもまた楽しくて仕方がない。 楽器演奏はしなかったが趣味で音楽を聴くようになり、友人たちに求められるままにパワー・アンプなどを製作。 そんな中 1966年カリフォルニアで知り合ったエクスペリメンタル・ハプニング系プログレバンドのボーカリストだ った女の子から 「前のバンドにいたギター野郎がリングモジュレーターを使ってたんだけど、あたしにも作ってくれない?」 とかなんとか、たぶんそうだったんじゃないか劇場な感じで。
リング変調器? UCLA大学図書館にて資料をディグってみれば、ハラルト・ボーデ(Harald Bode)が1960年 に作っていたというぼんやりした雑誌記事あり。それは若きトム・オーバーハイムをして音楽と電子工学テクノロ ジーとを結びつけた、ひとつの小さな春の遠雷のようなものとなった。
趣味の一環としてリングモジュレーターをいくつか作っているうちに評判となり、1970年には映画『続・猿の惑 星』で使いたいというオファーが来た。20世紀フォックスのスタジオに機材を持ち込めばオケの団員数名が興味を 示し、なんとそれを買いたいというではないか。技術者だましいに火がついたトム。キャリア・オシレーターを追 加、プリアンプも付けましょう、原音とエフェクト音とも混ぜられるようにしてみました、愛らしいロゴマークを デザイナーに作ってもらったからおっきく載せてあげるね♬
かくして1970年、史上初のライブパフォーマンス向けリングモジュレーター、その名もMusic Modulator爆誕。 その不思議な音色は初のOBERHEIMブランド機種がかわいい産声をあげた瞬間でもあった。
すると今度は大手ディーラーが自社ブランドでも販売したいというではないか! いきなり我が子が人気者にな るを約束されたようなものか。
彼へオファーしたブランドとは、零細メーカーたちがテクノロジーを駆使して開発した電子音楽デバイスをその 大手ディーラーが仕入れて販売するためのものであった。それこそが今や人気不動のMAESTROブランド。
大手流通網に乗ったMAESTRO Ring Modulatorの名はまたたく間に広がり、大西洋を渡ったイギリスのハード ロック・キーボーディスト、ジョン・ロードがディープ・パープルでHAMMOND B-3にかけて叫ぶようなフィー ドバック的サウンドを出し、キーボーディストたちに「今まで台所でまな板に向かってとんとんしてるとしか見え なかった僕たちもギターみたくかっこよくなれる!」とハートに火をつけた。
続けてトム・オーバーハイムがMAESTRO Phase Shifterに至ってはベストセラーとなり、はるか後の2022年、 ついにネット配信されたシンセヲタ御用達のフランス映画『ショック・ドゥ・フューチャー』でもその勇姿を、た んと拝める。
やがてNAMMショウへ足を運ぶようになったトム・オーバーハイム。セミモジュラーシンセARP 2600がNAMM ショウでは人気好調なのに、彼が住んでいたLAではどの楽器屋さんも販売していない。そこで彼はARPのディーラ ーとなり、既にリングモジュレーターをお買い上げいただいたお得意様に今度はARP 2600を売り歩く。ビジネス うなぎのぼり。当時シンセを扱ってくれるディーラーなんて珍しかったから彼のお店はLA界隈で有名店。
そこからトム・オーバーハイムが作ったのがMOOG MinimoogやARP 2600を駆動できるデジタル・シーケンサ ー DS-2A。まだマイクロプロセッサーが無かった時代につき論理ゲートを組み合わせて製作、RAM容量1,024ビッ トで128バイトのはずが当時まだ8ビット=1バイトにまとめる概念もない。最初は48音しかメモリーができなかったらしいが、それでもせいぜい12ステップのアナログシーケンサーくらいしかない当時、鍵盤入力までできるDS-2Aはユーザーフレンドリー! トムの音楽的センスあふれる先進性がきらりと輝く。最終的には144ステップ もメモリーできたのだから言うことなし。
時に1973年。OBERHEIMブランド2番目の機種にして最初のシーケンサーが生まれたのである。
エフェクターの次に作ったのがシンセではなくシーケンサー、それもデジタルシーケンサーであったというこ と。MIDIが誕生する10年以上も前であったこと。そんな時代から既に彼がコンピューターサイエンス・エンジニア であったことを想起すれば、それはデジタルにも強い彼がやがて大輪を咲かせるであろうことを予感させる、シンボリックかつ既に迫力に満ちた存在だったのである。
♬ ♬ ♬
「SEMカンブリア時代」
持ち前の先取の精神を発揮したトム・オーバーハイム、矢つぎばやに次の機種を開発。これがアナログ・モノシ ンセ音源モジュールの名機 SEM(Synthesizer Expansion Module)、そしてそれを元にした鍵盤つきポリシンセの名機=2Voice、4Voice、8Voice。OBERHEIMは一躍アナログシンセメーカーとなって躍り出た。
まずSEMなる音源モジュールを先行開発した理由は、自身のシーケンサー DS-2AでMinimoogや2600やなんか を駆動するより、DS-2Aと音源モジュールとを組み合せて伴奏させ、それをバックにMinimoog みたいな鍵盤つき シンセでソロをとったほうが音楽的かつ便利だと気づいたから。しかも既存機種と音のキャラがかぶらないよう VCFの肩特性を−24dB/Octではなく−12dB/Octに変え、LPF/BPF/HPFの連続可変ステート・バリアブルフィルタ ーを採用。よりブライトな音色を得意とさせた。
次にSEMに鍵盤をつけて自前のキーボードシンセ化。SEMにくっつけた鍵盤とはE-MU SYSTEMSのデイヴ・ロ ッサム(Dave Rossum)が開発したデジタルスキャニング・キーボード。デジタルが分かる者同士の連携プレイで あった。しかもこれらは複数のSEMを1台にまとめて鍵盤をくっつけただけなので、いちいち各SEMで音作りしな いといけなかったが、逆に言うと1音ごとに違う音色に設定することもできた。すなわちポリフォニックかつポリ トーナル(polytonal)な楽器。1台ずつ違うピッチにすればコードメモリーっぽく和音を並行移調演奏すらでき た。さらにはポリフォニックポルタメントもできるシンセなんて当時なかなか他に無い。
ちなみに末っ子2voiceには秘密兵器8ステップ・アナログシーケンサーを搭載。2音ポリのシンセとして普通に 弾くモードだけでなく、1音は内蔵シーケンサーで駆動し、もう1音を本体鍵盤から手弾きできるというヴァンゲ リスやタンジェリン・ドリームやクラフトワークのファンが���いてよろこぶモードも装備。1音ずつ別々の音色に できる意味はここでぐっと深まるね!ってか何気にもう原始的なワークステーション・シンセと言って良いんじゃ ないの?
4Voiceの開発が終わるころ友人づてにスティーヴィー・ワンダーへ知らせると、持ってこいと言う。プロトタイ プを持っていって弾いてもらうと、買うという! 試作につき中の配線がひでー状態なのだがスティーヴィーはま だその4Voiceを持ってるらしい!
とはいえまだまだ一般的に鍵盤楽器といえばアコピ、エレピ、オルガンという時代、シンセはニッチで「おたく な楽器」。その上4Voiceでも4,000ドル、8Voiceに至っては 8,000ドルもしたため、ばかじゃねーの!?というデ ィーラーもいたらしいが、前述のスティーヴィーはじめハンコック等そうそうたるお歴々がご購入ご愛用。
でもトム・オーバーハイムがアタックディケイエンベロープジェネレーターフリーケンシーレゾナンスミキサー VCAなどと技術用語マシンガントークしまくったがためにジョー・ザヴィヌルに至っては参った様子、我に返った トムが自粛したものの時既に遅しこれはあかんやろと思ってがっくりんこしていたら、ひと月ちょっとたったころ にザヴィヌルがやってきてドヤ顔で名曲「Birdland」のラフミックスを聴かせてくれたという。
かくして4Voice による名演はクロスオーバーという新ジャンルを開拓したのであった。新しい楽器が新しいジャ ンルをつくる。そのクロスオーバーに勘違いされたこともあった初期のYMOにて、矢野顕子が8Voiceをライブ演 奏していたのも不思議に楽しい因果。OBERHEIMの売上は伸び、徐々に会社らしくなっていった。
そしてSEMを踏まえて出てきたのが、小型アナログ・モノシンセに音色メモリーをつけたOB-1。1977年。
OB-1は8音色を完璧にデジタル・メモリーへとストアできたため史上初のプログラマブルシンセ(音色を記憶で きるシンセ)のひとつとなった。OB-1という機種名は大ブレイクした映画「スターウォーズ」の登場人物オビ=ワ ン・ケノービ(Obi-Wan Kenobi)のファースト・ネームから取ったとか逆なんだとかさまざまな都市伝説を呼ん だが、そんな偶然もまたおもしろい。
だが、この機種は不運にも日影の機種となった。
♬ ♬ ♬
「風雲児 OB-X〜カンブリア紀ポリシンセ大爆発」
1978 年1月、なにやら無名の新参ガレージメーカーがNAMMショウにて新しいシンセを発表するという噂が広 まり、「列強」たる既存シンセメーカーの社員たちはその小さなブースにたかっていた。OBERHEIMもそうした列強のひとつ。でも当日の朝になってもお目当ての新製品は見あたらない。昼ごろになってようやく1人が小脇に試 作品のキーボードを抱えてブースに持ち込んできた。徹夜で不具合を直しつづけ、朝までかかってしまったのだという。その実機を見た列強メーカーたちは「なんだ、ミニモーグをポリフォニックにしただけじゃね〜か笑」と気分は大山鳴動ねずみ一匹。
だがその無名の新参メーカーとはのちに伝説となった SEQUENTIAL、昼下がりのブースに1人で試作機を持ち込んだはトム・オーバーハイムと同じくデジタルに強い天才エンジニアこと誰あろうデイヴ・スミスその人、そして彗星のごとくデビューした新製品こそが後世にまでその名を轟かすこととなったゲームチェンジャー、ビンテー ジ・アナログ名機中の名機、そう、Prophet-5 であった。
メモリーもないモノシンセが常識だった当時、5音ポリで 40音色メモリーを搭載した Prophet-5 は革命的。そ れは当時誰もやっていなかったCPUでシンセ全体を制御させるデジタルの勝利。それを具現化したデイヴ・スミス の先見性はすばらしく、NAMMショウ3日間だけで注文殺到、まさしくProphet-5はflying off the shelf=飛ぶように売れ、デビューから半年もたつとその独壇場ぶりが列強メーカーたちを慌てさせることになる。トム・オーバ ーハイムもその一人であった。なんせご自慢の4Voiceの売上が本人いわく「でっかい岩が転がり落ちるみたいに」赤丸急降下、真っ逆さまに奈落へと崩壊したのだからたまらない。
しかも相手はのちに「モノシンセはMinimoog、ポリシンセはProphet-5,デジタルシンセはDX7」などとシンセ技術史のランドマークとして並び称されることになる巨人。足元が文字通り崩落するがごとき未曽有の危機にトム・オーバーハイムは新製品開発を5カ月に圧縮、次世代シンセ開発突貫工事。
そして翌1979年夏、サマーNAMMショウにてSEQUENTIALの挑戦を受けて立ち、リングによじ登ってきた新機種こそが、王者Prophet-5の前に立ちはだかった最初のチャレンジャーことOBERHEIM OB-X だったのである。
してNAMMショウ当日。それでも過熱するばかりのProphet-5の大人気ぶりに、ショウが終わるころには俺の会社は倒産してんじゃねーかとトム・オーバーハイムは冷や冷や。いやぁ~未知の新機軸へ果敢にいどむ心労しかも 後追いモデルほんとうにお疲れさまです! そしてフタを開けてみれば3日間ほどで50万ドルもの絶好調セールスを記録、渾身の一撃、面目躍如! そしてここにポリシンセたちによる新しい群雄割拠の時代がスタートした。
OB-X は2音ポリ仕様の基板回路「ボイスカード」を採用。4音ポリ版、6音ポリ版、8音ポリ版という3バリ エーションが存在。ポリ数が不定であるために代数X(エックス)の文字を機種名に入れた。5ボイスのプロフェットと対決する後発にふさわしい優位性。それは 2Voice、4Voice、8Voiceを実現したSEM的発想か。
しかも旧機種では各SEMを違うピッチに設定しコードを並行移調して演奏できたが、OB-Xではコードメモリー を搭載することで再現可能。これもProphet-5には無い特典。コード「メモリー」という発想もデジタルですね。
他社とは違うー12dB/OctのLPFによる明るい音色も非常に好評、ざらざらしたダスティでブライトなサウンドは陽キャなアメリカン・ハードロックと融合し明るくかっこいい新境地を切りひらいた。先のクロスオーバーでもてはやされた4Voice、テクノの神器ヤオヤ、そしてOB-Xもまた新しい楽器が新しいジャンルに貢献した好例であろう。その他にもそれまで「No Synthesizers」を誇ってきた大英帝国クイーン陛下が初めて、かつ潔く大胆に導入 したシンセがOB-Xであったという点でも感慨深い。
かくしてトムとデイヴとでアナログ・ポリシンセという新しいマーケットを開拓、他社もこぞって追随しELKA Synthex、ROLAND Jupiter-8、Juno-6などヒーローとも言える新機種が輩出、時代に乗り遅れた旧世代MOOG と ARPは倒産、風雲児OBERHEIMとSEQUENTIALとがシンセ業界で双璧をなす存在となり台頭、黄金の80年代はさしずめカンブリア紀ポリシンセ大爆発、躍動感あふれる新時代となった。
♬ ♬ ♬
「OB紀」
勢いに乗ったトム・オーバーハイム。
OB-X 後継機種としてOB-Xa、OB-8へと活発にモデルチェンジ、ロジャー・リンが史上初 PCMリズムマシン LM-1を出すのを見て、ただちにより安価なPCM音源リズムマシンDMX、DXをローンチ。さらにデジタルシーケン サー DSXなど新製品の数々を送り出し、MIDIより先に独自のOBERHEIMパラレルインターフェイスをも開発、の ちのMIDIよりも高速の並列データ通信を実現。デジタルの強みを発揮しまくってOBERHEIMの機種だけですべてラ イブから楽曲制作までをも可能にするエコシステム、その名も「Oberheim System」を打ち立てた。
実は試作機の域を出ないがOB-Xaを元にした OB-Expanderなる卓上型音源モジュールまであった。ちなみにこ れは MIDI 時代の音源モジュールXpanderとは異なる、先駆者的存在。
さらに繰り出したるは奇想天外な機種、ミュージシャン向け卓上型ROMライターPrommer。これはユーザーサ ンプリングした音色に原始的なタイムストレッチやリングモジュレーションなどなど編集した上でEPROM (Erasable Programmable Read Only Memory:書き込みと紫外線による消去が可能なROM)に焼き、それを リズムマシンDMX内蔵EPROM とユーザーが差し替える(!)という恐ろしい機種。PrommerとDMXとのセット が中古であったら貴重♬ 8ビット/32kHzサンプリングなんてイカす♬ そして DMX はその安さがゆえにヒッ プホップ業界で AKAI PROFESSIONAL MPCへのオルタナとして後に再発見されることにもなった。
プリセット型シンセという自己矛盾したかのごとき機種 OB-SXに至っては、実はOB-Xと音色データが互換する がためにOB-Xで自作した音色をカセットテープに保存、それをOBERHEIMに郵送すると EPROM に焼いて返送し てくれるという神サービスまであった。
むろんPrommer/DMXもOB-SXも、EPROMはお客様が自分で交換。特に基板を触る前にはくれぐれも静電気を 放出しておいていただけますよう、よろしくお願いいたします。実はPrommerで焼いたEPROMはOBERHEIM以外 のリズムマシンでもこっそり使えたらしいよ。トム・オーバーハイムにはライブラリービジネスの曙光が見えてい たのかな?
ところでOB-X景気に湧いた1979 年から1980年にかけて、トム・オーバーハイムはカリフォルニア州立短大で コンピューター・ミュージックのセミナーを担当。するとそこに潜り込んできたるは高校生1名。そのハイスクー ルキッドにニュータイプとしての素質を見出したトム・オーバーハイム、なんと彼をスカウトしてフラナガン機関ばりに社員登用。そしてそのさとい彼が作ったのが実はシーケンサーDSXであった。その分解能は4分音符=96で あったというから、のちのMIDIハードウェア・シーケンサーの名機YAMAHA QX3やROLAND MC-500とも互 角、それでいて並列通信でもってMIDIより高速。
しかも彼は売るのもうまい。そしてこの若き才能はのちに電子楽器業界におけるデジタル革命家となる。
というわけでデジタルへの造詣の深きトム・オーバーハイムがもたらしたアナログポリシンセの繁栄。だがこの 先進性優位性が、逆にOBERHEIMをしてMIDIをあなどることにつながってしまう。
♬ ♬ ♬
「マトリクス・モジュレーション紀」
1983 年、MIDI爆誕、DX7爆誕。OBERHEIM沈黙。
1984年にOBERHEIMはこれまではとは全く違ったビンテージ・アナログの名機Xpanderをリリース。MIDI 規 格制定にかかわらなかった同社はスタートダッシュにこそ出遅れたが、しかしその1年後にマルチパートMIDI音源 モジュールを出してきたという、やはりデジタルに強いトム・オーバーハイム貫禄の力作であった。
しかもそれだけにとどまらない。
6音ポリの卓上型音源モジュールXpanderは音声経路こそフルアナログかつVCO→ VCF→ VCAと減算方式なカ タチに結線済みであったが、変調はすべてデジタル演算で行いその結果をアナログ音声回路に反映する機種。そし てこれら変調システムをXpander は史上初のマトリクス・モジュレーションというカタチに整理して搭載。24基 の内部モジュールにまたがるモジュレーション経路を冒頭に紹介したとおり、最大20本のルーティングでもって結 線する、つまり史上初のプログラマブル・セミモジュラーシンセ、仮想セミモジュラーとも言える存在であった。
Xpanderのモジュレーションソース・セレクト
・変調はデジタルで ・音声はアナログで
すなわち
・デジタルによる卓越した表現力 ・アナログによる豊潤な音色
2つの宇宙のおいしいとこ取り。
マトリクス・モジュレーションとしてパッチングした結果は100音色メモリーに保存され、MIDIプログラムチェ ンジで瞬時に切替可能。広大なパッチングを一発切替だなんて、なんという夢のようなセミモジュラーシンセであ ろう。パッチングのノウハウをプリセット音色から学べるのもありがたい。
PAGE MODIFIERは選択したパラメーターをコントロールするセクション ただEGが原始的なソフト処理のためにXpanderではアタックがナマる傾向にあった。よってXpanderはシンベには向かず、代わりにシンセブラスは荘厳なものになった。
さらに VCAにEGをつながない限り音すら出ないセミモジュラーの徹底ぶりゆえ、逆にLFOをつなげれば周期的 にゲートが開閉し、打鍵しなくとも電子ししおどしの如く音があちこちに散乱する楽しい芸もできた。LFOには他 の変調信号をクオンタイズするモジュレーション・シェイパー機能まであった。
内蔵モジュール24基×6音ポリなので、144基ものモジュールが内蔵されていたことになる。これをユーロラック で実現したらと考えるとき、仮想セミモジュラーとしてデジタルで具現化したトム・オーバーハイムのビジョン に、しかもプログラマブルであるという着想には感謝しかない。
Xpanderは6パートのマルチ音源にもなりパートやボイスごとにパンも設定可能。リアパネルにはCV/Gate入力 端子が6ペアも壮観に並び、CV/Gate to MIDIインターフェイスにすらなった。これはOBERHEIM DSXシーケン サーを通じて同社パラレルバス世界とMIDI世界とを橋渡しするだけでなく、ROLAND MC-4のようなMIDI以前な がらに強力な編集機能を有するシーケンサーがあった当時うれしい機能にもなりえた。
卓上型というのも操作しやすい。垂直ラックなんて腕が疲れる。3つもある蛍光管ディスプレイと6つのファン クションキーや6つのエンドレスエンコーダによる操作性もまた斬新。今ならFL管ってだけで雰囲気あるよね。
すなわち Xpanderとは
・デジタルによるマトリクスモジュレーション ・デジタルによるリモート操作ことMIDI対応しかもマルチ音源 ・デジタルによるディスプレイで実現した多彩なパラメーター操作
これら3つのデジタルに支えられた画期的な新世代シンセであった。
加えて何よりも音の良さ。曲芸的なプリセット音色からは分かりにくいが、Xpanderは自分で音を作ると太い音 もする素性の良さがあった。ベロシティが効くVCOシンセというだけでも貴重! してお値段64万8千円と、安価な日本製とは一線を画す完全プロ仕様。
「Matrix Modulation」の名はそのままOBERHEIMの登録商標となり、他のメーカーは語順を逆にして 「Modulation Matrix」と呼んだり、ROLANDのように「Matrix Control」と別名称にしたりして回避している。 いまだにそうであるところを見るとやはりハードウェアものづくりにっぽんとは対照的なソフトウェア大国USA の、その自由な発想と底力とを垣間見る思いすらする。
史上初のバーチャルモジュラー。しかもCV/MIDI音源。内在する複雑なモジュレーション・ネットワーク。外在する広大な CV/MIDIネットワーク。
2つのネットワークがフラクタルであるかのごとくリフレインされるは、まるで大宇宙の中に小宇宙があるかの ようだ。もはや受動的な音源ユニットの枠を超え、能動的にネットワークの中でおしゃべりし聴き耳を立て反応し ながらさまざまな役柄をこなす存在なのであった。そして新しい操作性によりスコープを通して音の銀河を眺める ようにエディットする。
それは来たるべきネットワーク社会をも予見させる未来からの使者、未来のプロトタイプのような機種ですらあ った。
この後OBERHEIMはXpanderを2台分搭載した12音ポリ最終進化型アナログシンセ・キーボード、その名も Matrix-12を発売。98万円というハイエンド・プライス、ますます広大なマトリクス・モジュレーション、宇宙の 深淵をのぞきこむようなディープな音、これらはデジタルシンセ時代にあらがう巨大恐竜のようなビンテージ・ア ナログ最後の主役となった。
♬ ♬ ♬
「MARION SYSTEMS紀」
だが1985年にOBERHEIMは倒産。あげく弁護士連中に乗っ取られ、その2年くらい後にトム・オーバーハイムは退職。「弁護士を信用するなよ」とは彼の名言。
残された名機Matrix-6、Matrix-1000は哀しき遺児たち。目の付け所が秀逸だった史上初ジェネリックなサンプ ルプレイバッカーDPX-1なんて後のライブラリービジネスをどれほど先取りしていたことか。このコンセプトがそ のまま育まれ続けたなら今のDAW時代コンテンツ万歳テクノロジーはさらに数年先を行っていたかもしれないの に、ついえ去る。無念!
自らの名を冠した城を去った彼は一時期ROLAND初のハードディスク・レコーダーDM-80の開発顧問などを務 めた後、小さなメーカーMARION SYSTEMSを立ち上げる。
その初号機MS-9Cとは、当時の花方だった12ビットサンプラーAKAI S900を16ビット化する基板1枚という驚 きの新製品。S900特有のハイ上がりな周波数特性を再現するスイッチまで設けたこだわりっぷり。
続けて1994年に送り出した弐号機MSR-2は、1Uラックのアナログシンセ音源モジュールと思いきや、中身を 入れ替えることで違う音源になったりエフェクトになったりといくらでも機能が七変化するメインフレーム機種。 ピッチが安定したHROことHigh Resolution Oscillatorも搭載。
MS-9CとMSR-2に共通するのは、メインフレームとなるハードウェアへ基板ライブラリーをインストールする ことで機能をフレキシブルに変えるという先駆的ビジネルモデル。
ちなみにこの間トム不在のOBERHEIMからは、PerFX シリーズ、OB-Mx、OB-12、MC-3000 などなど出てい たとはいえ、あえて申し上げるなら決してトム・オーバーハイムが描いた “コミュニケーションするシンセ“ などの ように遠く未来を見通すビジョナリー的な視点に裏打ちされたものとは思えない。どちらかというとその場その場 で場当たり的に単独の魅力だけでぽっと出た感がある。むろん各機種の個性は光るので名機もあるには違いないの だが。
だが最後にはギター用エフェクトに転身しようとするも、何屋さんなのかよくわからないメーカーとなって同社 はついに21世紀初頭に消えた。
MSR-2メインフレームのデビューから15年たった2009年、楽器業界に戻ってきたトム・オーバーハイムはSEM 復活を宣言。��余曲折を経て2011年から、 ・SEM MIDI版 ・SEM パッチパネル版 ・前2者を合体させたようなSEM Pro
この3機種を発売。SEM Proで14万4千円。2014年にはキーボードシンセTVS-2 Two Voice Proも発売。
2016年には良きライバルであるデイヴ・スミスとともに今の新生SEQUENTIALからのOBERHEIM機種となる OB-6を発売。OBと命名されるも中身はSEM ベースの設計、非常に良質なアナログの音がする現代版6音ポリシンセの名機。さらにOB-6は同社Prophet-6の姉妹機種。その Prophet-6は当時まだDAVE SMITH INSTRUMENTSと名乗っていた同社にとって、SEQUENTIALブランド復権の旗印。その姉妹機種にOB-6が来るという、2人のロ ゴが並ぶという、予想もしなかったレジェンダリー・エンジニア2人の元気コラボ。デビュー動画が旧友たちの友 情をあますところなく伝えていてイカス!
2019年にはGIBSONがOBERHEIM商標権をトム・オーバーハイムに返還。2021年8月3日にはBEHRINGERの 親会社MUSIC TRIBEからも商標が返還され、弁護士に乗っ取られてから実に36年ぶりに彼は自分の名前を手にす ることとなった。自分の名前すら自由に使えなかったんだから、ほんによかったですね。
彼が2度目に作り出したSEMシリーズやTwo Voice Pro などを特徴づけるのは、中身や音のこだわりもさること ながらCV~MIDIまで包括した統合的なネットワークへの対応であった。デジタルを駆使して生まれてきたDS-2A シーケンサー以来、SEMしかり、前MIDI時代の先駆者Oberheim Systemしかり、フラクタルなネットワークを意 識したXpanderしかり、新生SEMに至るまでトム・オーバーハイムが一貫して追い求めてきたものたちの一つは 「おしゃべりしあう楽器たち」であった。
それが今の時代ほど切実に求められていることはなかったかもしれない。
見通せない未来と希望もシェアするグローバルなプラットフォーム、それはトム・オーバーハイムが暗黙のうち に求め続けてきたネットワーク時代の具現化であろうか。そしてそのネットワークに載って配信されし映画『ショ ック・ドゥ・フューチャー』にて、トム・オーバーハイムの伝説 Maestro Phase Shifterが名脇役の如く存在感を 示しているのは、まさに彼が夢見た「つながる電子楽器」の夢ではなかったか。温かに揺らいで熱を帯びるアナロ グサウンドに耳を傾けつつ新生 SEMにパッチングしてネットワークにつなげるとき、そこに私たちはどんな音の未 来の景色を見るのか。
かつて高校生のときにトム・オーバーハイムにスカウトされシーケンサーDSXを開発した若き才能がいたと、先 に書いた。その名はマーカス・ライル。のちに彼はALESISにてADATを作ることで、史上初アマチュア向けデジタ ルレコーディング・ツールを実現、さらにLINE 6を興し、保守的で真空管信仰が根強いギター業界にあってフレン ドリーなアプローチでモデリング技術を持ち込み、PODというかわいいお尻のカタチでもってアンプシミュに市民 権を与えた。そんなデジタル革命児となった彼は今でもトム・オーバーハイムを恩人としてリスペクトを表してやまない。
OBERHEIMのテクノロジーはAKAI PROFESSIONALのウィンドシンセにも受け継がれ、初期のEWIシリーズは VCOシンセ音源に小規模なマトリクス・モジュレーションを搭載。さらに全く関係ないところでもARTURIAがアナ ログシンセ・ルネッサンスの波に乗ってミニ鍵アナログシンセMicroBruteを出すにあたり、小さなパッチパネルを 用意し「モジュレーション・マトリクス」と銘打っていたのは象徴的ですらある。
おしゃべりしあう楽器たちの時代。
DS-2AもSEMもDSXもXpanderも、来るべきソフトウェアとコミュニケーションとネットワークの時代を十分 に予感させるものでありながら、ほんとうに凌駕されるまで10年20年30年と待たねばならなかった。かくも人類が 回り道をするものならば、今もまた。
齢80を超えるトム・オーバーハイムにとって、事実上彼がたった一人で切り盛りしているMARION SYSTEMSの 経営は大変なものであり、ここしばらくの全世界的な半導体不足によってTOM OBERHEIMブランドの新製品は在 庫限りとなっている。文明の瓦解すら伝え聞く中、トム・オーバーハイムたち先人たちの叡智にならい早く全地球 的な支援のネットワークによって老オーバーハイム爺を助けられる日が来ることを、ほんとうに切に切に祈ってい たところであった。
それがなにやら2022年4月13日、新しくOBERHEIMの復活を予告する動画が、むたむたクールすぎるクールな動画が。
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こ、これは、OBERHEIM3度目の復活!!!!! そしてついに現るOB-X8、時に2022年5月10日!!!!!
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https://www.oberheim.com
(2022年6月23日Sound&Recording公式サイト初出)
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The New Yorkerのハミルトン特集翻訳
The New Yorkerの2015年のハミルトン特集の翻訳してみた。1万7千字ぐらいなっちゃってますが。。。できてすぐの記事なので、のちの評価の俯瞰はないのですが、創作過程とミランダのキャリアがわかる記事です。締めがエモい。
【このカッコが私の注釈です。例のごとく誤訳マシンなので気になる人は原文を読もう!】
ハミルトンについてのすべて
The New Yorker, FEBRUARY 9, 2015 ISSUE
レベッカ・ミード
2009年4月、作家・作曲家・パフォーマーのリン=マニュエル・ミランダは、ホワイトハウスからの連絡を受けた。新しい大統領とファーストレディが「アメリカの経験」をテーマにしたライブ・パフォーマンスを企画し、ミランダは招待されたのだった。当時29歳だったミランダは、前年に彼が作曲・作詞したブロードウェイ・ミュージカル「イン・ザ・ハイツ」に出演していた。ワシントン・ハイツを舞台に、サルサとメレンゲをラップやヒップホップと融合させた音楽と、ブロードウェイにありがちな展開を効果的に混ぜた物語だ。「ハイツ」はベスト・ミュージカル賞や作曲賞などのトニー賞を受賞し、後者の受賞の際には「Sunday in the Park with George」を引用した快活なラップを披露した。“Mr. Sondheim / Look, I made a hat! / Where there never was a hat! / It’s a Latin hat at that!”(そしてタキシードのポケットからプエルトリコの旗を取り出した)ホワイトハウスはおそらくミランダからラテンアメリカンの経験を期待していたのだろう。「イン・ザ・ハイツ」からの曲でも良いと提案された。
ミランダはもっと違うことを考えていた。数ヶ月前、彼と彼のガールフレンド、ヴァネッサ・ナダルは結婚し、メキシコへ新婚旅行へ出かけた。プールの浮き輪に揺られながら、彼は気まぐれに読書を始めた:ロン・チャーナウによる800ページ超の、アレクサンダー・ハミルトンの自伝だった。ミランダはハミルトンの初期の人生に魅了された。婚外子で、セント・クロワ島で極貧のうちに育った。父に捨てられ、幼い頃に母を亡くし孤児となり、ハミルトンは青年期に自力で革命の熱気高まるニューヨークに移民した。雄弁で筆の早い文筆家で、フェデラリスト・ペーパーの2/3を執筆した。独立戦争でジョージ・ワシントンに仕えた後、アメリカ初の財務長官となった。のちに、不倫問題が明るみになり、政界初のセックス・スキャンダルにより悪名を集めた政治家となった。その後閣僚に入ることはなく、50代になる前に死んだ。個人的不和が修復不可能となったために、決闘で副大統領のアーロン・バーに殺されたのだ。
ミランダはハミルトンの波乱万丈な人生、才気、言語の巧みさ、そして自己破壊的なまでの頑固さを、独特のレンズを通して眺めた。それは、ヒップホップの物語、移民の物語としての視点だ。ハミルトンは彼の父、ルイス・ミランダJr.を思い起こさせた。プエルトリコの地方で生まれ育った若く野心的な男で、18歳になる前に大学を卒業し、ニューヨーク大学で学業を治めるためにニューヨークに移住した。ルイス・ミランダはエド・コッホ市長のヒスパニック関連の特別顧問をつとめ、その後政治コンサルト会社のMirRamグループを設立し、フェルナンド・フェラーなどの顧問を行った。高校の夏休みには、リン-マニュエルも父の会社で働いた。のちに、彼はエリオット・スピッツアーの2006年の知事選などの、MirRamグループの顧客の政治広告のための宣伝曲を書いた。チャーナウの1800年選挙の描写はーー現代の政治キャンペーンの起源だーーミランダの政治キャンペーンに対する内部の視点と共鳴した。ハミルトンと同胞たちが行った政府の目的に対する議論は、MSNBCとFOXの対立のごとく今も活きている。
ミランダはまた、ハミルトンのなかにトゥパック・シャクールを見た。西海岸のラッパーで、1996年に射��された。シャクールは複雑な、社会派の歌詞を書いた。ミランダは特に“Brenda’s Got a Baby,” に魅了された。21歳の娼婦になった女の子が暴行者のこどもを産む物語を描いたヴァースだ。シャクールはまた極端に気難しく、気に入らないラッパーのことを公に罵倒した。ミランダはハミルトンの中に同じ言語的才能と、これまた似たような、致命的な、引き際の知らなさを見た。これらはハミルトンの物語の中でとてもドラマティックな要素だった。彼がのしあがるために必要だった性格が、彼を転落させると言う点だ。ホワイトハウスのイベントの主催者が電話した時、ミランダはハミルトンについてのラップを提案した。彼らは了承した。
5月の夜、ミランダと他のパフォーマーたちはーージャズベーシストでボーカリストのエスペランザ・スポルディングや、ジェームス・アール・ジョーンズがいたーー大統領に紹介された。ミランダは彼に空港で買った”Dream from My Father”にサインを頼んだ。ステージで、ミランダはハミルトンのコンセプト・アルバムに取り組んでいると発表した。「ハミルトンはヒップホップを体現していると思う」と彼は言い、人々は笑った。まだ一曲しか書いていないとは言わなかった。ミランダはハミルトンが「言葉が違いを見せる」ことの体現をしていると説明した後、ハミルトンの最初の20年の人生を4分の複雑な歌詞で要約して見せた。華奢で、黒く短い髪で濃い髭のミランダは跳ねるようなエネルギーをまといながら、ステージを歩き回り、ラップした“the ten-dollar Founding Father without a father / Got a lot farther by working a lot harder / By being a lot smarter / By being a self-starter.” 彼のパフォーマンスは観客から歓喜の呟きを引き起こし、オバマ一家は熱狂した。(ミランダは後から、大統領の最初のリアクションは「ティモシー・ガイトナー【オバマ政権の財務長官】も見るべきだったな」というものだった、と教わった。)
6年後、その歌は、2月17日からパブリック・シアターで開幕した「ハミルトン」のオープニング・ナンバーとなり、ミランダがタイトルロールをつとめた。ヒップホップに根付いているが、R &B、ジャズ、ポップ、ティン・パン・アレー【ブロードウェイの音楽を起因とした商業ポップス】、現代ブロードウェイの合唱などを包括した。「ハミルトン」は歴史と文化の再イメージ化の到達点である。ミランダの語りの中では、成り上がりで向こうみずな移民の物語は、アメリカの物語となる。ハミルトンが自ら宣言するリフレイン“Hey, yo, I’m just like my country / I’m young, scrappy and hungry / And I’m not throwing away my shot,”は、その戯曲家にも言えることだ。ミランダは自分のツイッターのアイコンをハミルトンの10ドルの肖像に、自分のニッと笑った口、黒い眼、あごひげを抜めなく重ねている。
「ハミルトン」はアメリカの歴史を現代の設定に置き換えたものではない。ミランダの建国の父たちはヴェルヴェットのフロックコートと半ズボンを着る。フーディやジーンズではない。デヴィッド・コリンのセットは、裸のレンガに木の足場。暖かな照明は蝋燭の光を思い起こさせる。ロープと金具の固定具で飾られたステージは、船の建設ーーそして建国、または18世紀のニューヨークの構築ーーを思い起こさせる。
ミランダはアレクサンダー・ハミルトンを眩いばかりの焦点を持って描き出す。多才で、抑えるのがやっとの怒り。ハミルトンは条約を書く時歩き回り独り言をいうことで知られていたが、舞台ではラップでの独白は驚くほどの自問で彩られる。「死のことを思い出の様に想像する/いつ掴まるか/眠りのうちか/7フィート目の前か/逃げるか受け入れるか」“I imagine death so much it feels more like a memory / When is it gonna get me? / In my sleep? / Seven feet ahead of me? / If I see it coming do I run or do I let it be?”ミランダは閣僚会議を、囃し立てるサポーターたちに囲まれたラップバトルに置き換える。州の債務を補償するために設立を目指した国立銀行ーーハミルトンの先見的な発明だーーに関する議論は生き生きしたやりとりを生む。ハミルトンは悪意を込めてトマス・ジェファソンを貶す。“Always hesitant with the President / Reticent—there isn’t a plan he doesn’t jettison.”
「ハミルトン」が初のアフリカン・アメリカンの大統領在職期間に創られたのは偶然ではないようだ。このミュージカルは国の誕生を意外にも、しかし必然的に、軽く描き出す。エリートの白人による荘厳な所業としてではなく、全てのアメリカ人の創造の物語として描いている。トマス・ジェファソン、ジェームス・マディソン、そしてジョージ・ワシントンはアフリカン・アメリカンによって演じられる。ミランダはまた、女性たちにも重要な役割を与えている。ハミルトンの妻イライザ・スカイラー(フィリッパ・スー)や義理の姉アンジェリカ・スカイラー(レネー・エリーズ・ゴールズベリー)だ。3人目の妹が加わったジグザグのハーモニーはまるでデスティニーズ・チャイルドのようだ。ミランダは建国の父たちを高尚な政治家とではなく、孤児や、無鉄砲な革命家として、時にはケチなライバルとして、極端に不安定な機運、機会、リスクを抱えて生きる。この瞬間の業績と危機はーー国の境の島で生まれた、移民の息子、父無し子の大統領の時代に生きる今にとってーー、決して時代の遠い出来事ではない。
今年でパブリックの芸術監督就任10年目を迎えるオスカー・ユスティスは、「ハミルトン」はここ数年で最もエキサイティングな作品だというーーたぶん、1992年に彼が依頼し、プレミアのプロダクションを監督した、トニー・クシュナーの「エンジェルス・イン・アメリカ」以来の。彼はミランダのこの作品と、シェイクスピアの初期の史劇であるヘンリアド【リチャード2世、ヘンリー4世第一部・二部、ヘンリー5世を一塊としてみる言い方】との関係をみた。「リンがしていることは、国の市井の声を韻文に昇華しているということだ。それがヒップホップのしていることだし、強弱韻文がしてきたことだ。リンは彼の国の創造の物語を、現在のわたしたちのこの国がしているのと同じように語っている。韻文の形で、シェイクスピアは英国の物語をグローブの観客たちに語り、英国を英国たらしめる手助けをしたーー英国人としての意識を持つことに貢献したのだ。それをリンは「ハミルトン」でやっている。彼は建国の物語を『私生児の、移民の孤児』の目から、有色人種の目を通して語りこう伝える、『ここは俺らの国だ。俺たちのものだ』と」。
10月の晴れた日、ミランダと彼のコラボレイター、「イン・ザ・ハイツ」と「ハミルトン」の演出家トマス・カイルは、パブリック・シアターを出てニュージャージーのウィーホーケンにあるハミルトン公園に向かった。「ハミルトン」を考えついて数年の間に、彼は数個のプロジェクトに携わった。チアリーディング映画のミュージカル化「Bring It On: The Musical」を共作、2012年にブロードウェイで上演された。「モダン・ファミリー」と「ママと恋に落ちるまで」に出演。即興ヒップホップ・コメディ・グループのFree Style Love Supremeとして、ジョーズ・パブやその他でパフォーマンスし、去年の秋にはTVシリーズが放送された。その間中もずっと、製作中の作品のために歌を書き、歴史書を読み続けた。2012年、彼は「ハミルトン」のコンサート・プロダクションをリンカーン・センターのアメリカン・ソングブックシリーズで上演した。タイムスでは、スティーブン・ホールデンが「ゲーム・チェンジャーとなることは明らか」と称えた。
ミランダはミュージカルに取り組みつつ、ハミルトンの膨大な手紙や出版物を読み、独立戦争の名残の残るニューヨークのさまざまな場所を訪れた。パール・ストリートにあるフランシス・タバーンは、英国軍に敗北した後のジョージ・ワシントンが将校たちと涙の別れを告げた場所だ。しばらく、ミランダは西162番街のモリス=ジュイメル・マンションで執筆する許可を得られた。国の歴史的な建築物で、マンハッタンで現存する中では一番古い建物だ。ワシントンは邸宅をハーレム・ハイツの戦いでの司令部として使用し、のちには副大統領のバーの居住となった。「アメリカ金融博物館の館長に会ったんだけど、彼は建物の表札を見せてくれて『ここはトマス・ジェファソンのニューヨークでの家だったんですよ』って教えてくれたんだ」とミランダは言った。「僕たちはこの大騒ぎの地層の上にいるっていうのが良いんじゃない?」ロン・チャーナウはホワイトハウスのパフォーマンスの数ヶ月前にミランダと出会い、作品の歴史監修となった。「リンは無駄な発明はしなかったよ」とチャーナウ。「まずは史実に忠実にしようと努めた。それでもし事実から逸脱しなきゃいけない時は、大体納得がいく理由があるのがわかるんだ。彼に尋ねたんだ、『もし歴史的に間違ってたら指摘したほうがいいか?』と。彼は答えた。『もちろん。歴史家にもこの作品を尊敬してほしいからね』」
ウィーホーケンへの小旅行はミランダにとっては初めてだった。決闘はここで、1804年の7月に行われ、バーはハミルトンを撃ち、彼はその負傷が元で翌日に死んだ。当時、決闘はニューヨークでは禁じられていたが、ニュージャージーでは許容されていた。「ハミルトン」では3つの敵同士による3つの決闘がドラマ化され、そのうちの2つが致命的なものである。死者の中にはハミルトンの息子フィリップを含む。「決闘は現代の仲裁裁判みたいなものだったんだ」とミランダは驚きを含めながら言った。「まるで『おい、納得できないんだったら、ニュージャージーの広場に行くぞ。武器と医者を連れてこい』みたいなノリだよ」
台本を作る中で数年を費やしてもなお、ミランダはハミルトンの最期の瞬間をどう描けばいいかわからなかった。さまざまな困難があったが、歴史の記録が曖昧だったことが一つの理由だ。バーはハミルトンを最初の一撃で撃ったが、のちにハミルトンの行動がー銃を確かめる様子や、眼鏡をかけていたという事実がー自分を本気で殺しに来たことを示していたと主張した。ハミルトンはしかし、多くの手紙の中で、彼はバーを外して撃つつもりであるーーショットを投げ捨てるつもりだーーということを示唆していた。目撃者はのちに、ハミルトンは空に向かって撃ったと証言した。
5月のワークショップ・プロダクションでは、ミランダはハミルトンに決闘の準備のラップを与えた。「目に日が入り思わず目が眩む/私のニューヨークがゆっくり立ち上がるのを見た」“The sun is in my eyes and I’m almost giddy / As I watch it slowly rise over my New York City”ーそしてバーを殺すか殺すまいかと考えあぐねた。音楽的にも歌詞的にも、この歌はミランダが捉えようとした賭けを捉えることはできなかった。 ハミルトンがバーに対して持っていた誠意の欠如への不信は、国の不透明な行く末への恐怖と重なった。その歌は、ハミルトンの柄にもない躊躇と、バーの柄にもない積極性がもたらす、避けられない悲劇への予感を表現することができていなかった。ミランダは再び歌を作り変えつつも、リハーサルへの心配もしていた。彼は言う。「存在しないもの、どうしても現れてこないものがあるのに、役者たちが部屋に入ってきちゃって『うわー!』ってなる」。カイルはミランダに締切を設けて、全ての歌の草稿に反応した。彼がいうに。「プレッシャーがある時のリンの反応はもっと多くのものを生み出す起爆剤なんだよ」
バーとハミルトンの危険を孕んだ関係は、ミランダのショウの肝だ。オープニング・ナンバーでバーはハミルトンのことを「私生児、孤児、売女の子でスコットランド人」と紹介する。この歌詞はジョン・アダムスのハミルトンに対する侮蔑に由来している。バーは特権を持って生まれた。父はプリンストン大学となる学校の学長で、母方の祖父はジョナサン・エドワーズ【著名な神学者でプリンストン学長】だった。ただ、ハミルトンと同じく、彼は若くして孤児となり、法律を学び、政治の世界へ足を踏み入れていった。ミランダの語りでは、彼らはお互いの反転図だった。ハミルトンの熱心なまでの無鉄砲さはバーの冷たい慎重さと対を成している。「ハミルトンは失うものもない孤児だけど、バーは失うものしかない孤児なんだ」とミランダは言う。
バーをハミルトンの引き立て役とすることは、史実に沿うばかりでなくミュージカルの前例からも必然だった。「ジーザス・クライスト・スーパースター」はユダが物語を語る。ミランダは宿敵の視点からハミルトンを見せるというアイディアに魅せられた。スティーブン・ソンドハイム(2009年の「ウエストサイド物語」のリバイバルの時、劇をスペイン語に訳すためにミランダを採用した)はミランダが払うミュージカルの歴史に対しての尊敬の態度を称賛した。「現代の劇作曲家の多くはあまりこの業界の歴史に興味を払わない。でもリンはミュージカルシアターがどこから来たのか知っている。ミュージカルがどこから来たかを大事にしている」。ミランダはハミルトンの初期の曲を数年前、ソンドハイムに披露��ている。「圧倒されたよ。素晴らしいと思った」ソンドハイムは言う。「とても新鮮で、念が入っていて、舞台的だと思う」
ミランダはソンドハイムのように、音韻構成と音楽のフレーズの組み合わせに注意を払っている。だが「ハミルトン」を作曲する際、商業的ブロードウェイ音楽からもインスピレーションを得た。「”レミゼ”的な音楽を作りたくてね。テーマを再登場させるのに賢い手が必要だった」彼は言う。「涙腺に直接響くと言う点では、あの作品の上を行くものはないよ」。「ハミルトン」はまた、ミュージカルの先人たちにもちょっとしたリスペクトを払っている。アーロン・バーがハミルトンや未来の革命家たちに怒りを鎮めるように忠告するせりふは、「南太平洋」からの引用。“I’m with you but the situation is fraught / You’ve got to be carefully taught.” 「これはロジャー&ハマースタイン的レイシズムの引用」ミランダは言う。ちょうど車はニュージャージーに向かうリンカーントンネルを通ったところだ。クリストファー・ジャクソン(彼は「イン・ザ・ハイツ」でも出演した)演じるジョージ・ワシントンは、自分のことを皮肉っぽく語る(“The model of a modern major general / the venerated Virginian veteran whose men are all / Lining up, to put me on a pedestal.” )が、これは「ペンザンスの海賊」からの引用で、ミランダ曰く、ギルバート&サリバンの改善である。「mineralは一番ベストな韻じゃないっていつも思ってたんだよね」
ミランダのスコアは音楽のジャンルに対しても意味を込めた。キング・ジョージが去りゆく植民地に歌う曲は“You’ll Be Back”。ブリティッシュポップ的なーーただしハープシコードでーーウィットと美しい旋律に満ちた悪意。(“When push / Comes to shove / I will send a fully armed battalion / To remind you of my love,” と高慢な王を演じるブライアン・ダーシー・ジェームズ【オフ・ブロードウェイでの時は彼がジョージ3世を演じた】は歌う。)ミランダはハミルトンとジェファソンの世代の違いを、音楽で表現する。ジェファソンはハミルトンよりも一回り以上も年上なので、ちょうどパリから帰ってきた彼に屈折したジャズナンバー “What’d I Miss?” を与える。ジェファソンはラッパーのダヴィード・ディグスが演じる。彼は「ハミルトン」のために、国際ツアーを延期しなければいけなかった。彼は言う。「リンは普段滅多に交わらない世界の交差点に存在してるんだよ。ラップ音楽の熱心なファンで、とても優秀なラッパーでフリースタイラー。そして偶然にもミュージカルシアターと非常に親密な中で育った。その全部がオーセンティックに感じるんだ。」
90年代初期のポップ音楽ーーミランダの青春時代のサウンドトラックだーーが、スコアの中に織り込まれている。聴衆はフージーズやモブ・ディープ、ブランド・ヌビアンの要素を聞きつけるだろう。作品はノートリアスB.I.G.ことクリストファー・ウォレスにさまざまな形で言及している。ニューヨークのラッパーで、1997年に24歳で射殺された。ハミルトンが自己紹介する時、自分の名前のスペリングをテンポに乗せて歌うが、これはウォレスが“Going Back to Cali.” でしたことだ。ミランダは特に楽しんだのは“Duel Commandments”において、ウォレスのドラッグ取引入門の曲“The Ten Crack Commandments”のリフを使った部分だ。この歌は作品の最初の決闘で現れる。ここではハミルトンとバーは敵手のセコンド同士だった。5月のワークショップでは、ミランダはハミルトンとバーの決闘でもこのカウンティングの構造を用いることにした。演出家のカイルが説明する。「ハミルトンとバーの決闘のために準備をする必要があった。ハミルトンは死ぬことになるからね。だから構造的にもその下準備が必要だって僕らは思ったんだよ。同時にヒップホップファンが愛する何かを入れることは、15年前にビッギーが言ってたようなことを、ずっと昔のやつらもやってたってことを表してるんだ。」ミランダは頷く。「これは不法な行為についての曲で、それがどう行われているかについての歌なんだ」彼は言う。「そして僕らも彼も両方ともモーゼからの盗用した構造で作っている」
ウィーホーケンの柵に囲われた広場についてから、ミランダとカイルは不毛にもハミルトンが倒れた方向の手がかりを探した。1806年の初めには決闘のハミルトンの立ち位置に大理石のオベリスクが建ったが、数年のうちに壊された。のちに、崖の尾根に列車のレールが敷かれ、決闘場を根こそぎ無くしてしまった。最終的にミランダとカイルは1919年にハミルトンの胸像が立っていた柱を見つけた。 42番街の向かいにあるそのメモリアルは、驚くほど小さかった。ジェファソンやワシントンなら全身の像が建っていただろう。
メモリアルは閉じられた門の向こうにあった。ミランダが低い壁を登って崖の端から見下ろすと、茂みと木々の間から、下にあるアパートメントの建物が見えた。「こんなに手入れされているとは思わなかった。歩いて入れる林を想像してた。頭の中では、僕が生まれ育ったところの林みたいに、鬱蒼として隠れたところを考えてたよ。その想像がこれに置き換わることはないかな」ミランダは携帯電話でハドソン川の向こう側にあるマンハッタンを撮った。「聖地巡礼」、のちにそうツイートした。
「イン・ザ・ハイツ」の作曲家はワシントンハイツではなく、そこから30ブロックほどアップタウン側の、インウッド・ヒル・パークの近くで育った。マンハッタン最後の自然の森があるところだ。ミランダは2人姉弟の末っ子。姉のルツ・ミランダ-クレスポはエンジニアとして鍛錬し、今はMirRamグループのCFOである(リン-マニュエルの珍しい名前は、プエルトリコの作家ホセ・マニュエル・サンティアゴのベトナム戦争に関する詩“Nana Roja Para Mi Hijo Lin Manuel”から取っている。ルイス・ミランダが10代の頃に読み、将来のために取っておいた名前だ)。母は、プエルトリコで生まれたが赤ん坊の頃にすぐニューヨークに移民した、病院の心理士だ。 エドムンダ・クラウディオは住み込みの乳母で、プエルトリコから来た親戚。ミランダは彼女をアブエラ(おばあちゃん)と呼んだ。「うちの両親はずっと働き通しで、週末しか会わなかった」と彼は言う。「父と僕はアクション映画を見に行って、卓球やビリヤードで遊んだよ。同じ家に住んでるのに、週末だけ遊びに来る人みたいだった」
夏には、彼と姉はプエルトリコに行き祖父母の家に滞在し、言語の上達に努めた(ミランダのスペイン語は流暢だが、ネイティブスピーカーのそれとは違う)。子供たちは学問の面でも文化の面でも、多くを期待されていた。ルイスは彼らにサルサの踊り方を教えた。「僕にとっては、踊りを教わったことは本当に本当に大事なことだった」彼は言う。家族は経済的にはさまざまな背景があった。ミランダの父方の大おじはプエルトリコ独立党の創設者だったが、基本的には親類は労働者階級だった。5歳の時、ミランダはハンター高附属小学校の試験を受けたが、そうしたのは近所では彼だけだった。「プエルトリコ人の父にとってどんなことだったか、僕には想像もつかない」彼は言う。「僕の友達はみんなユダヤ系だった。ハンターに行くのはそうだからね。僕は学校ではリンで、家ではリン-マニュエルだった。学校と家では別人だった。友達はみんなアッパー・ウエスト・サイドやアッパー・イースト・サイドに住んでいて、僕は彼らのナニーたちとはスペイン語で話してた」
ミランダは6歳の時にピアノレッスンを受け始めた。「先生がリサイタルを催した。子どもたちがそれぞれ何曲か弾くんだ」ルイス・ミランダは思い返す。「リン-マニュエルが最初の曲を弾いて観客が拍手して、2曲目を演奏する。その時彼は『これもできる、これも知ってる』っていう感じになっちゃって。ピアノから引きずり下ろさなきゃならなかった。彼は拍手が大好きだからね」。彼のショーマンシップは時に宿題にも現れた。3年生の時の宿題、ジーン・メリルのThe Pushcart War(手押し車戦争)についてのレポートとして、彼は家族を巻き込んで本の中の出来事を再現したショートビデオを提出した。その中で彼はニュースキャスター風のスーツを着て、気取ったナレーションをした。「賢い子どもたちの中での必要通貨はファニーなこと。ファニーになれるなら大丈夫。だから僕はとても楽しい」(ミランダは今でも友人や家族を彼の創作意欲に巻き込んでいる。企業弁護士のナダルと2010年に結婚した時も、招待客を巻き込んで「屋根の上のバイオリン弾き」の”To Life”の寸劇で彼女を驚かせた。40万人がYouTubeでその様子を見ている)
両親はミュージカルの愛好家だった。「たくさんパーティをしたけど、流している音楽はほぼラテン音楽だった。サルサやエル・グラン・コンボ」彼は言う。「でも掃除の時の音楽はいつもキャスト・アルバムだった」ブロードウェイに頻繁に行くほどのお金はなかったが、ミランダは”聖なる3作”「レミゼ」「ファントム」「キャッツ」に連れて行ってもらった。「7歳の時にレミゼを見に行ったのを覚えてる。フォンテーヌが死ぬところで泣いて、少し寝て、ジャベールの自死のシーンの時にはまた起きてた。あのショウを体験するにはすごくいい方法だったと思う。『キャッツ』を見たときは、花道を走り抜ける猫たちに触れられたのを覚えている。『ファントム』を見たときは『うわマジか!』て感じだったね。だって醜い作曲家が自分の意志を世界に押し付ける話だろう。親近感が湧いた。」
ミランダは音楽を正式に勉強したことはない。ピアノレッスンは小学校を卒業するころには行かなくなっ���いた。ただ、ベッドルームのキーボードで、趣味としての音楽は続けた。高校で、彼はミュージカル演劇を始めた。9年生の頃、「ペンザンスの海賊」でシニアの生徒を負かして役を得た。「まだあの時の拍手を覚えてるよ。僕の人生で一番お気に入りの歓声だ」彼は言う。最終学年では、「ウエストサイド物語」を監督した。「シャークスにはラティーノがいなくて。いろんな濃さのブラウンと、アジアンの生徒たちだった」ミランダは思い返す。「だから父に来てもらって、シャークスのアクセントをつけてもらった。他の子たちにどうやってラティーノになるか教えたんだ。学校では全然ラティーノとしての自分は出してこなかったから、『ウエストサイド物語』はそのための方法だったね」ミランダが『ウエストサイド物語』の作詞家ソンドハイムと初めて道を交えたのはハンター高でだった。ソンドハイムは、同級生の父親(彼が生徒のためにアレンジを頼んだのだった)の友人だった。「彼はどうやってショウができるのかについて、素晴らしい話をしてくれた」ミランダは言う。「彼は僕らに、どうやってオープニング・ナンバーと台詞を書いたか教えてくれたーー歌詞に載せて歌い始めたーーでもジェローム・ロビンスは『いや、全部踊りで行こうと思う』と言ったんだって。すごく印象的だった。その時が初めてミュージカルが本当に作られるのか見た瞬間だった」
1997年、17歳の誕生日の時、ミランダは『レント』をブロードウェイで見た。「僕は思ったよ、これならできる!って。今のことをミュージカルにしてもいいんだ」。彼は学校の文化祭で20分ほどのミュージカルを描き始めた。MSNBCのブロードキャスターで、その時ハンター高の生徒だったクリス・ヘインズは、ミランダの初期作品の「ニ長調の悪夢“Nightmare in D Major” 」を演出した。ヘインズが思い返す。「主人公の名前はディランで、悪夢の中にいる。彼の過去から愛は奪い去られ、その途中で邪悪な豚が出てくる。悲しいバラードがあって、忘れ去られた恋愛に関する歌なんだけど、今でも歌えるよ」ヘインズによると、ミランダは自分の才能に気づいていた。「それが彼の力だったと思うんだよ。自信と自尊心が彼のカリスマの一部なんだ。変に謙虚ぶらないんだよ。遠くから眺めてて、想像したよ、『あいつ、自分のことをなんだと思ってるんだろうな?』答えは、”世代に一つあるかの音楽の天才”だ」
ハンター高を卒業した後、ミランダはウェズリアン大に行き、高校の頃の作品を再演した。「天国での7分間」という作品で、7年生のファースト・キスに関するミュージカルだ。「ウェズリアンはハンターに似ていて、頭にある馬鹿げたアイディアにを具現化することができるんだ」彼は言う。2年生の頃、ミランダはラティーノ文化センター兼寮のラ・カーサに移り住んだ。そこには8人の移民一世の生徒たちがいた。「この時が初めてラティーノの友達ができた時だった」彼は思い返す。「初めてマーク・アンソニー絡みのジョークと‘The ThunderCats’とか馬鹿げたアメリカ文化に関するジョークが、同時に通じる瞬間だった。『レント』が僕にミュージカルを書く許可を与えたみたいに、自分のホームについて書く許可が与えられた瞬間だった」
2年生の頃、彼はワシントン・ハイツを舞台にしたミュージカルを書いた。ラテンミュージックとヒップホップで近所の音を再現した作品だ。ラテン音楽も、ヒップホップも、それまで作曲したことがなかった。苦しい三角関係を取り上げたストーリー自体に新鮮味はなかったが、2000年の春に作品が上演されたとき、ミランダはヒップホップが席にいる観客との距離を縮めることに気づいた。「ラテン音楽とヒップホップの融合は強い効き目がある。このグルーブには何かがある。」
後の大学の二年間には、彼はそのミュージカル(初期の「イン・ザ・ハイツ」)の台本は棚にしまった。しかし、演劇関係の学生のあいだで評判は回って行った。2002年、ミランダの4年生でのプロジェクト“On Borrowed Time”がウェズリアンの劇場で上演されていた。2年上の卒業生トマス・カイルは劇団の立ち上げの手助けをしていて、劇場に立ち寄っていた。「イン・ザ・ハイツ」を気に入っていた彼は“On Borrowed Time”にはあまり興味がなかった。終了後ミランダと握手をして、横柄にも、「楽しめよ」と告げた(二人はいまだにこのフレーズを週に何度かお互いに言い合っている)。一ヶ月後、ミランダとカイルはニューヨークの西14番街にあるドラマ・ブック・ショップの地下で待ち合わせ、5時間話し込んだ。「『イン・ザ・ハイツ』のことを二年間ずっと考えてたから、話をはじめたら止まらなかったよ」カイルは言う。
ミランダがウェズリアン大を卒業した後、父は彼をロー・スクールに行かせたがった。ルイス・ミランダはルーベン・ブラデス【作曲家でサルサ歌手。アメリカに亡命する前はパナマで弁護士をしていた】を引き合いに出し、大成する前に法律の学位を取って保険をかけておけば、と説得した。そうはせず、ミランダはハンターに戻り、7年生の英語の代用教師となった。「文法の授業をしたね。僕たちの頃はやらなかったんだけど。だから子どもたちに教えるために文法を勉強した」。同時に彼は「イン・ザ・ハイツ」の制作に取り組んだ。数ヶ月の間、彼とカイルは役者を交えて素材を試した。ミランダはボデガの店主でナレーターのウスナビを演じることにした。「この契約でいちからラップを習ってくれる人が見つからなかったから、僕に回ってきたようなもんだね」
作品は最終的に数人のブロードウェイ・プロデューサーの目に留まった。「アベニューQ」などを手掛けることになるケヴィン・マクコラムもその一人だ。「彼は『なんの話かわかってきたらまた来な』て感じだったね」とミランダは言う。(マクコラムは「ハイツ」のブロードウェイでのプロデューサーとなった)2004年、ミランダとカイルは若き戯曲家キアラ・アレグリア・ヒュデスを雇い、脚本を書き直した。ヒュデスは大胆な書き換えをした。三角関係をなくし、ウスナビを謙虚ながらもカリスマのあるアンカーとして中心に据えた。【ハイツのメイキング本曰く、ベニー、ニーナ、リンカーン(ニーナの兄)の三角関係をなくしたのはプロデューサーの提案だったそうです】ミランダの愛するホームを描いた物語の中心だったロマンスは、二次的な要素になった。
2007年、数回のワークショップを経て、作品はオフ・ブロードウェイで上演された。翌年ブロードウェイに移った。いくつかの感情的・ストーリー的矛盾はあったが、その独創性と中毒性は多くの賞賛を得た。タイムスのチャールズ・イシャーウッドはこう書いた「『イン・ザ・ハイツ』は+サルサ・フレスカ−(セックス、ドラッグ、病気)のアップタウン版『レント』である。」
ミランダは動きの中で作詞をしている。アパートメントの近くのフォート・タイロン・パークを散歩しながら。または181番街からダウンタウンにゆく地下鉄の中で。彼のiTunesのフォルダはミュージカルのかけらでいっぱいだ。”Battle Loop”、”Burr-Hamilton Loop”はLogic Proで作曲した。「いいなとか面白いなとか、キャラクターに話してほしい片鱗とかを思いついたら8から16小節ぐらいの音楽をまず書く。そしてヘッドフォンをつけて出掛けて、犬の散歩をしながら独り言を言ってる」。時には作曲中の節をボイスメモに吹き込みながら、他のものをループで聞く。アーロン・バーを象徴する”Wait for It”のリフレインは夜地下鉄に乗りながら思いついた。「ダンボでやってる友達の誕生日パーティに行く途中だった。メロディをiPhoneに録音して、15分パーティに出て、帰りの電車で後の部分を作曲したよ」
長い間、ミランダはハミルトンか、アメリカの歴史の中では悪役となることの多いバーか、どっちを演じたいか決めることができなかった。ハミルトンの死後、バーは南西部で謀反を画策したとの疑いをかけられた(最終的には無罪となったが)。ミランダは多くの歴史家とは違い、バーに同情的だ。「バーには同じぐらい親近感があるよ」彼は言う「バーはハミルトンと同じぐらい賢くて才能があった。それにハミルトンと同じぐらい失ってきた。ただ、だからこそ、ハミルトンが前に進むところでバーは一歩引いてしまった。人生の中で、自分がハミルトンのようだと思うのと同じぐらい自分はバーだったと思う。誰しもこう言うことがあるだろう、友達や仲間が自分を通り過ぎて、成功したり、結婚したり、家を持ったりする。自分は一文なしで、独身で、仕事もなくもがいているのに。そして自分に言い聞かせる、『機会を待て』と。」ミランダは最近35歳になった。「ハミルトンがこの歳に達成したことを考えると、すごくバーみたいな気持ちになる。それか、ポール・マッカートニーと比べたりとか。ソンドハイムとか。ガーシュインとか。アウトキャストとか。彼らの業績を考えると驚いてしまう。」
最終的には、キャリアの面を見通した打算が勝った。「ハリウッドから連絡があると、大体は白人の主人公の友人役。もし主人公を演じたいなら自分で機会を見つけて、自分で書くしかない。ジョン・レグイザモもおんなじことを言っていた」(パブリックでは、バーは最近のNBCのドラマシリーズ”SMASH”に出演したレスリー・オドムJr.が演じている)ハミルトンを演じることは、ミランダいわく「本当の自分よりも生意気に、賢く、衝動的にならなきゃいけない。2時間半は自分の手綱を外さなきゃいけないね」
トマス・カイルはミランダが最終的にハミルトンを選んだことには驚かなかった。彼いわく「ハミルトンが自分を時限爆弾のように感じてるのは、リンの性質ととても合ってる」。「ハイツ」のブロードウェイ公演のリハーサルの時に、開演前に死んでしまうという迷信的恐怖を発達させた。「いつもジョークを言ってたよ。『無名の作曲家、マンホールに落下』『無名の作曲家、バスに轢かれる』」ミランダはいう。「ハミルトンの『死はいつも思い出のように感じる』と言う歌詞を書いた時、『ああこいつのことは知ってるな』って思ったよ」
親友となったキアラ・ヒュデスいわく��「ハイツ」は自伝的処女作である。「これが僕だ、これが自分が来た場所だーそれを爆発的なエネルギーで表現する必要があった」。対して「ハミルトン」は、彼女いわく、ミランダが大人として書いた初めての作品である。そしてこの作品も、彼のさまざまなアイデンティティと強く関わっている。「彼はプエルトリコで、彼はニューヨーク、彼はヒップホップで、彼はブロードウェイ。彼は異なる世界の全てだと言うこと。それを一つの部屋に全部持ってくると、人々は熱狂するって彼は気づいた。だってそれはこの国そのものだから。」
パブリックシアターのミランダのチームは、このショウがヒップホップミュージカルと表現されるのを好まなかった。それも妥当な反論だろう。色々なジャンルを含んでいるから。また、戦略の面でもそうだった。そういったカテゴライズは聴衆の興味を限定する恐れがあった。特にブロードウェイ(最終的にそこを目指していた)では。(「ハミルトン」は2014年の終わりにはパブリックでソールド・アウトし、2回公演を延長した)
ヒップホップは音楽シーンでは世代を制覇しているが、ブロードウェイでは影響が小さい。3年公演が続いた「イン・ザ・ハイツ」以外で試みがあったとしたら、去年の“Holler if Ya Hear Me”(トゥパックの歌詞を元にしたミュージカルで、6週間の公演だった)が唯一だろう。「ハイツ」のプロデューサーで「ハミルトン」に大金を注ぎ込んだジェフリー・セラーいわく。「誰も一晩中ずっとヒップホップを聴きたいわけじゃないし、こっちもそうするつもりはない。『ハイツ』を三年間公演したけど、もしヒップホップミュージカルと言われていなかったら、もっと長くできてたと思う。美しくて感動的なショウだったからね」
「ハミルトン」宣伝の障壁は音楽の認識だけではなかった。セラーは観客たちが「誰がアメリカの官僚についてのショウを見たいんだ?」と言っているのが想像できた。同じ問題は、2010年のブロードウェイ作品“Bloody Bloody Andrew Jackson”でも起こった。7代目大統領についてのエモ・パンクミュージカルだ。評価は高かったが、興行面で振るわず四ヶ月の公演を終えた。
セラーの警告に反して、ミランダの独立戦争についてのラップ・ヒップホップを作曲する才能は、アウトキャストを聞いたこともないであろう聴衆に受け入れられた。戯曲家のジョン・ゲールは去年の春、友人にワークショップ公演に誘われた。「ショウを見ながら、こんなに生を感じたことはなかった」ゲールはいう。「ドアを開けて新鮮な風が吹き込む時のあの爽快な気持ち。彼はハミルトンの精神をとらえ、ロン・チャーナウの本の空気をとらえ、時代の精神をとらえた。おかしなことだが、それを優雅さと注意深さと統制と、狂気を持ってしてやり遂げた」。ミランダのヒップホップ・フリースタイラーとしての才能の証明はまた、新しい観客も捉えたようだった。ブルックリンを拠点にしたパフォーマンスアーティストのレモン・アンダーソンは「ハミルトン」をこう表現する。「劇場に行ったこともないコミュニティが、これを見にくる。いつも自分達の文化圏のみんなに言ってるんだ、『ラップの観点からもこんな歌詞が凄いショウはないよ』って」。ミランダと「ティモシーの小さな奇跡」で共演したコモンは言う。「ランチタイムにセットでフリースタイルをした時のことをいつも思い出すよ。『うわ、こいつは凄い才能があるな』と思った」
ミランダの作品はオペラのように歌い通しなので、キャラクターがラップに移っても違和感がない。「ハミルトン」のジェファソンを演じるダヴィード・ディグスは、そのことをアメリカをステージで表現したものだと言う。「それがお互い会話する唯一の方法なんだよ。それが大事だと思う。いつも省かれてきた自分達を、歴史の一部として見ることができる。ラップは僕たちの世代の声なんだ。有色人種の人々の声だ。それがこの作品の中にただ存在して、特異な扱いをされないと言うことが、歴史は僕たちのものだと言う感覚をもたらす。」威厳に満ちたジョージ・ワシントンを演じるクリストファー・ジャクソンは、低く響くヒップホップのビートに乗せるラップから、朗々とR&Bバラードまでを歌い上げる。彼いわく、この作品は奴隷制の構造とその悪影響について潜在的に批判している。「ブロードウェイの観客は説教されるのは嫌いだから。多人種のキャストにすることで、有色人種である我々役者たちがキャラクターを演じると言うことだけで、追加的な文脈を加えることができる。」
「ハミルトン」のリハーサルは、タイムズ・スクエア近くの貸スタジオで行われた。12月初旬のある午後、キャストは”My Shot”に取り組んでいた。独立戦争前夜の活気に満ちたナンバーだ。出演者ほとんどが出てくるヒップホップダンスを、振付師のアンディ・ブランケンビューラーが振り付けていた。ミランダの音楽は、今やアレックス・ラカモアによってオーケストラ化され、力強いクレッシェンドを作り上げていた。彼もブランケンビューラーと同じように、「イン・ザ・ハイツ」からの付き合いのベテランだ。若き俳優アンソニー・ラモスが、舞台の向こう側から怒りを込めて突進する。彼はハミルトンの親友で、奴隷所有者の息子のジョン・ローレンスを演じている。独立戦争の頃、ローレンスは奴隷たちを兵士としてリクルートし、勝利のあかつきには身分を解放すると約束し、黒人連隊を作ろうとした。彼は1782年の終戦間近に戦死する。“Don’t this shit make my people wanna rise up!” とラモスは歌い、反乱者たちのコーラスをリードする。
役のために髪を肩まで伸ばしていたミランダは、心配そうな空気を纏い、目は疲労に縁どられていた。11月の初めに、長男セバスチャンが生まれていた。それにも関わらず、ミランダは役としていきいきを動き回っていた。あるときはアンサンブルとダウンステージを踏ん反り返って歩き、指を頭の上に高く上げる。まるで銃を撃つように。次の瞬間にはパソコンやスマホに何かを打ち込む。「頭の中のアプリがたくさん開いてる。台本、振付を覚えること、ツイッター。それからニュース」
その午後、ニューヨークでは、大陪審は警官のダニエル・パンタレオを殺人罪では起訴しないことを決めた。ステタン・アイランドのエリック・ガーナーは、去年の夏単本のタバコ���売っていたことで逮捕された際、首を絞められ死んだ。その1週間前はミシシッピのファーガソンで暴動が起こった。これもまた大陪審がアフリカン・アメリカンのマイケル・ブラウンを射殺した白人の警官ダレン・ウィルソンを起訴できなかったことがきっかけだった。「『立ち上がれ』と僕らは叫んでいるけど、多くの人も同じように思っている」ミランダは言った。
2009年、ミランダのホワイト・ハウスパフォーマンスのあと、パーティはロビーのレセプションエリアに移った。そこではDJがヒップホップを流していた。ミランダは驚いた。アメリカはついに昔の人間ではなくて、自分達と同じ時代を生きる人間が大統領をしてるんだと思った。もしここ最近の社会がその包括の約束を裏切る辛い証拠だとしても、ミランダはまだ言葉の力を示すことができると思った。デモの参加者がマンハッタンでのデモを始めた時、ミランダは”My Shot”からの歌詞を呟いた。“If we win our independence / Is that a guarantee of freedom for our descendants? / Or will the blood we shed begin an endless / Cycle of vengeance and death with no defendants?”
午後のリハーサル室は静かだった。ミランダとジャクソンはカイルと別のシーンに取り組んでいた。1776年の8月、絶望的なブルックリンの戦いの後の、ワシントンとハミルトンの出会いのシーンだ。”Right Hand Man”の中で、ワシントンはハミルトンを召集し兵士としてでなく秘書として働くようにオファーする。“Head full of fantasies of dying like a martyr? / Dying is easy, young man. Living is harder.” ハミルトンは反論する。彼は連隊の指揮権が欲しいのだ。
カイルはミランダにハミルトンは何を考えているのか尋ねた。「保身モードになってる。ワシントンが正直になるまでは」とミランダは返答した。「『ゴッドファーザー』でアルパチーノが列車の音を聞いて、行くか行かざるか、と考えているところみたいな感じ。警察署長とソロッツオのところに行くか?それとも、ディナーに行くか?」ハミルトンは、ミランダが言うには、「勝利のための生贄」になる決心をしていた。戦場を離れるのはいつも最後だった。今やハミルトンはワシントンの側に着くことの将来の利点を素早く計算していた。この計算は一小節で示される必要があった。「この瞬間、彼はいう。『これをのしあがる手段にしよう』と。『戦場で成り上がると思っていたが、この方法で行くしかない』」
数回歌を繰り返して、ミランダはワシントンへのハミルトンの返事を考え出した。“I am not throwing away my shot.” 数曲前では、ハミルトンの戦場で命を投げ出す決意を示すフレーズだった。今ここでは、彼の人生よりも続くレガシーを築くチャンスを掴んだ瞬間を示すものだった。台本では、ワシントンはハミルトンを一言で遮るーー「息子よ」ーーこれはワシントンの若い部下に対する親心が現れている。(チャーナウは、ハミルトンは根拠なくワシントンの私生児であると噂された、と書いている。)だがジャクソンの「息子」の言い方はまた、ヒップホップ風の、ブラザーフッドや対等さもまた示している。
ミランダとジャクソン、そしてカイルは台詞を繰り返し、ワシントンのハミルトンの新しい目的に対する理解をどう表現するか探っていた。兵士から未来の政治家になるハミルトンの変化を聴衆に感じ取ってもらいたかった。ミランダは自分の原稿を確認した。「息子よ、��ゃなくてシンプルに『いいぞ』と言った方がいいかな?」と言った。「『いいぞ』ってことは『お前を雇うぞ』てことだし。それでハミルトンは新しい才能が開花するんだから」
ミランダの台本はまだ草稿状態だった。ハミルトンの死のページは「新曲製作中」と書いていた。数週間後、まだミランダは旋律に悩んでいた。「最後の瞬間ハミルトンは何を考えるだろうか?」彼は言った。「トミーが筆を置けと言うまでずっと考え続けるだろうね」続けて、「目の前のバーは、彼が10代の頃から知り合いだ。そのことを考えるだろう。たくさんの子供たちと共に置き去りにすることになる妻のことを考える。負債と、それに対する罪悪感について。でも彼はクリスチャンだったし、また会うことができる息子がいる。ジョージ・ワシントンともまた会える。たくさんの愛する人が、彼を向こう側へと呼んでいる。弾丸が銃を離れるまで、そのことを表現する時間がどれだけあるのか」
決着はほとんど最後の瞬間に訪れた。元旦の早朝のこと。眠る赤ん坊の息子を胸に置いて彼はベッドに横たわっていた。隣ではナダルが寝ている。長いことなかった静かな時間だった。静寂。彼は考えた。それは「ハミルトン」でまだ演奏していないものだった。何も音楽がないのはどうだろうか。犬の散歩に行く。この時はヘッドフォンは家に置いていった。時々ノートにメモするために立ち止まった。次の日の朝5時まで起きて、ハミルトンの最後の瞬間をついに聴いた。
3週間後、パブリック・シアターでプレビューが始まった。ロビーにはニューヨーク・ヒストリカル・ソサエティから借りた、バーとハミルトンが向かい合わせで銃を引く銅像が立っていた。舞台では、ミランダのキャストは慣れない衣装を着て心地よく、観客の祝福を楽しんでいた。宝石に飾られたキング・ジョージの尊大な忠告は笑いを呼び、“Duel Commandments”でのビッギーのオマージュは喜んで迎えられた。「レ・ミゼラブル」“One Day More” のスタイルを恥ずかしげもなく拝借した一幕の最後は歓声で迎えられた。ハミルトンの自慢の息子、フィリップの痛ましい死は、観客の涙を誘った。
2時間半の音楽の嵐の後、バーとハミルトンの決闘の瞬間が訪れた。バーが致命的な銃弾を放った後、ハミルトンは長く思い描いた死が訪れたことに気づくと、音楽は消えた。黒の喪服に身を包んだミランダはラップではなく、詩を語った。彼の最後の思考と感情のひらめきはもはやビートや旋律にはつながれていなかった。「誰かが私のために歌う旋律を書く/アメリカ、素晴らしき未完成の交響曲/あなたが私を呼んだ」と静かに語った。ハミルトンは妻や友人たちを思い、思考は飛び交い、昔の歌を歌う。言葉はばらばらになり、儚く浮かび上がる。彼はよろめき、そして静寂が落ちた。◆
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