Tumgik
#古賀市注文住宅
home-plan-kiyotake · 4 months
Text
1 note · View note
yotchan-blog · 5 months
Text
2024/4/17 20:00:25現在のニュース
余録:「自然の書物は数学の言語で書かれている… | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/4/17 19:57:10) ビッグモーター新会社、5月1日に発足 伊藤忠、事業買収で再建へ(毎日新聞, 2024/4/17 19:55:06) 富士フイルム、医薬や半導体材料に1.9兆円投資(毎日新聞, 2024/4/17 19:55:06) 核のごみ処分場の文献調査、請願審査を開始 佐賀・玄海町議会(毎日新聞, 2024/4/17 19:55:06) オーバーツーリズム、宿泊客偏り…課題山積 訪日外国人過去最多(毎日新聞, 2024/4/17 19:55:06) 那須2遺体の死因は窒息死 栃木県警が発表 1人はまだ身元不明(毎日新聞, 2024/4/17 19:55:06) 小児脳腫瘍の検査費支援 現役医師らがクラウドファンディング | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/4/17 19:51:25) 柏崎刈羽7号機、燃料装着作業を中断 モーター不具合で | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/4/17 19:51:25) カフェインとドラッグ 元警察庁長官・松本光弘 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/4/17 19:48:35) 【そもそも解説】時代で変わる学校給食 揚げ物が減り「貧相」の声も(朝日新聞, 2024/4/17 19:48:29) 給食費は自治体ガチャ? 生活苦で支払えぬ家庭、徴収に追われる職員(朝日新聞, 2024/4/17 19:48:29) テヘランのビルにイラン製ミサイルの巨大壁画 イスラエルを牽制か(朝日新聞, 2024/4/17 19:48:29) TSMC、九州大と連携 研究と人材育成 学生インターン受け入れも(毎日新聞, 2024/4/17 19:47:44) 小学校の教科担任制、3・4年生に拡大へ…中央教育審議会が素案提出の見通し([B!]読売新聞, 2024/4/17 19:43:01) 民間人空襲被害者の救済、超党派議連が再スタート 早期立法目指し(毎日新聞, 2024/4/17 19:40:33) 東芝、数千人規模の従業員削減へ 成長分野に経営資源集中(毎日新聞, 2024/4/17 19:33:16) 中国の輸入鉄鋼関税、3倍に引き上げ検討 米バイデン政権(毎日新聞, 2024/4/17 19:33:16) トヨタ、「プリウス」13万台超をリコール 生産、受注を一時停止(毎日新聞, 2024/4/17 19:33:16) 改正困窮者支援法が成立、子ども就職自立に最大30万円の準備金 貧困ビジネス対策も([B!]産経新聞, 2024/4/17 19:33:13) セブン&アイHD:ヨーカ堂、先行き不透明 上場検討 ライバルと競争激化 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/4/17 19:33:12) 名古屋市電をオークション出品したが……5日で取り下げ 一体何が? | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/4/17 19:33:12) 読売新聞記者が記事捏造 紅こうじ問題巡り「イメージと違った」 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/4/17 19:33:12) 住信SBIネット銀行、短期プライムレート上げ 変動型住宅ローン金利に上昇圧力 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/4/17 19:30:43) 「強度不足」発覚の豊海タワマンで工事を再開 影響がないと判断した部分で先行、販売開始は未定(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/4/17 19:30:40)
0 notes
wangwill · 7 months
Text
大年初一(20240210)
H:今天星期六,農曆正月初一。以前初一早上吃素食,中午可開暈。穿新衣,拜拜,到住家週邊拜年。到廟走走。如今在家,懶人一個。心態影響生活。熱鬧藏於心中。龍年生肖今天正式開始!20240210W6
網路資料:
《元日》 北宋•王安石
爆竹聲中一歲除,春風送暖入屠蘇。
千門萬戶曈曈日,總把新桃換舊符。
元日是大年初一,古代的爆竹不是火藥,而是去燃燒竹竿,據說竹子的爆裂之聲可以驅鬼避邪。
《田家元日》唐•孟浩然
昨夜鬥回北,今朝歲起東。我年已強仕,無祿尚憂農。
桑野就耕父,荷鋤隨牧童。田家佔氣候,共說此年豐。
「春節」出現在中國歷史上是非常晚近的事。民國以前,大年初一都稱作「元旦」或「元日」,在先秦《尚書.舜典》中就已出現。一直到辛亥革命以後,開始採用西曆,才把元旦這個詞讓給西曆1月1日,並將傳統的元旦改為春節。中國第一個「春節」在1914年,距今不過百年時間。
古時有「歲後八日」的說法,正月初一是雞日,初二是犬日,初三是豬日,初四是羊日,初五為牛日,初六為馬日,初七為人日,初八為谷日,所以有「正月初一不殺雞」或「正初初一忌殺生」的說法。
大年初一不能煮新飯,要吃除夕留下的過年飯,意寓去年的東西吃不完,到今年還有剩,所以年夜飯建議可以多煮一點。
【正月調】 
簡上仁:曲、編詞(取材自傳統唸謠) 
初一早 
初二早 
初三睏到飽 
初四接神 
初五隔開 
初六挹肥 
初七七元 
初八完全 
初九天公生日 
初十吃食 
十一請子婿 
十二請查某子返來吃泔糜仔配芥菜 
十三關老爺生 
十四月光 
十五元宵暝
初一禁忌
1.不可以借錢給別人:
初一借他人錢財容易把財氣借光。
2.初一不可睡懶覺:
3.催睡夢中的人不宜叫全名:
4.不要睡午覺:
初一不要睡午覺,可外出走走。
5.忌動針線:
初一動針線未來一年容易有血光。
6.忌動剪子和刀子:
7.忌掃地洗衣:
8.不要砸破東西:
9.不要倒垃圾:
初一倒垃圾容易把財氣與好運倒光。
10.不要吃稀飯、葷食:
古代人認為稀飯是窮人在吃的,因此初一吃稀飯容易吃窮,不吃葷是有句俗語說:初一早吃菜恰贏吃全年齋。
笨惰仙
一天過了又一天,
身軀無洗全全仙,
走去溪仔邊洗三遍,
毒死烏仔魚數萬千。
十二生肖 
一鼠賊仔名,二牛駛犁兄,
三虎爬山棚,四免遊東京,
五龍皇帝命,六蛇給人驚,
七馬走兵營,八羊吃草嶺,
九猴爬樹頭,十雞啼三聲,
十一狗顧門埕,十二豬菜刀命。
《青玉案·元夕》宋•辛棄疾
東風夜放花千樹。更吹落、星如雨。寶馬雕車香滿路。鳳簫聲動,玉壺光轉,一夜魚龍舞。蛾兒雪柳黃金縷。笑語盈盈暗香去。眾里尋他千百度。驀然回首,那人卻在,燈火闌珊處。
荊楚歲時記
荊楚歲時記
梁宗懍撰
隋杜公瞻注
《荊楚歲時記》一卷,〈兩江總督採進本。〉舊本題晉宗懍撰。《書錄解題》作梁人。考《梁書‧元帝本紀》載承聖三年秋七月甲辰,以都官尚書宗懍爲吏部尚書。又《南史‧元帝本紀》載武陵之平,議者欲因其舟艦遷都建鄴,宗懍,黃羅漢皆楚人,不願移。此書皆記楚俗,當卽其人。舊本題晉人,誤也。《唐》、《宋志》皆作一卷,與今本合,而《通考》乃作四卷。考《書錄解題》載懍自序曰︰「傅元之《朝會》,杜篤之《上巳》,安仁《秋興》之敍,君道《娛蜡》之述,其屬辭則已洽,其比事則未宏,率爲小說,以錄荊楚歲時風物故事。自元日至除日,凡二十餘事。」然則必無四卷,知《通考》爲傳寫之譌。又檢今本,實有三十六事,幷知陳振孫所記懍序,亦以三字譌爲二字。然周密《癸辛雜識》引張騫乘槎至天河見織女得支機石事,云出《荊楚歲時記》,今本無之,則三十六事,尚非完本也。其註相傳爲隋杜公瞻作,故多引開皇中杜臺卿《玉燭寶典》。然《唐志》宗懍《荊楚歲時記》一卷下,又出杜公瞻《荊楚歲時記》二卷。豈原書一卷,公瞻所註分二卷,後人又合之歟?
姊妹计划: 百科·图册分类·语录·数据项
正月一日,是三元之日也,謂之端月。
【按︰《史記》云︰「正月為端月。」《春秋傳》曰︰「履端于始。」元,始也。】
鷄鳴而起。
【按︰《周易緯通卦驗》云︰「雞,陽鳥也,以為人候,四時使人得以翹首結帶、正衣裳也。」注云︰「《禮‧內則》云︰『子事父母,婦事舅姑,雞初鳴,咸盥漱櫛纚笄。』」則惟其常,非獨此日。但元正之朝,存亡慶吊,官有朝賀,私有祭享,虔恭宜早復位于餘辰,所以標而異焉。】
先於庭前爆竹,以辟山臊惡鬼。
按︰《神異經》云:「西方山中有人焉,其長尺餘,一足,性不畏人,犯之則令人寒熱,名曰山臊。人以竹著火中,烞〈音朴。〉熚〈音必。〉有聲,而山臊驚憚遠去。」《玄黃經》所謂山㺐鬼也。俗人以為爆竹燃草起於庭燎,家國不應濫於王者。
帖畫雞,或斵鏤五采及土鷄于戶上。造桃板著戶,謂之仙木。繪二神貼戶左右,左神荼,右鬱壘,俗謂之門神。
按:莊周云︰「有掛雞于戶,懸葦索於其上,插桃符於旁,百鬼畏之。」又魏時,人問議郎董勛云︰「今正、臘旦,門前作烟火,桃神,絞索松柏,殺雞著門戶,逐疫,禮歟?」勛答曰︰「禮。十二月索室逐疫,釁門戶,磔鷄。漢火行,故作助行氣。桃,鬼所惡,畫作人首,可以有所收縛,不死之祥。」又桃者五行之精,能制百怪,謂之仙木。《括地圖》曰︰「桃都山有大桃樹,盤屈三千里,上有金雞,日照則鳴。下有二神,一名鬱,一名壘,并執葦索,以伺不祥之鬼,得則殺之。」即無神荼之名。應劭《風俗通》曰︰「《黃帝書》稱︰『上古之時,有神荼、壘鬱兄弟二人,住度朔山上桃樹下,簡百鬼。鬼妄搰人,援以葦索,執以食虎。』于是縣官以臘除夕飾桃人,垂葦索,畫虎于門,效前事也。」
於是長幼悉正衣冠,以次拜賀,進椒柏酒,飲桃湯,進屠蘇酒,膠牙餳,下五辛盤,進敷于散,服却鬼丸,各進一雞子。凡飲酒次第從小起。梁有天下,不食葷,荊自此不復食雞子,以從常則。
按:《四民月令》云︰「過臘一日,謂之小歲,拜賀君親,進椒酒,從小起。椒是玉衡星精,服之令人身輕能〈讀作耐。〉老;柏是仙藥。」成公子安《椒華銘》曰︰「肇惟歲首,月正元日,厥味惟珍,蠲除百疾。」是知小歲則用之漢朝,元正則行之晉世。《典術》云︰「桃者,五行之精,厭伏邪氣,制百鬼也。」董勛云︰「俗有歲首,酌椒酒而飲之,以椒性芬香,又堪為藥,故此日采椒花以貢尊者飲之,亦一時之禮也。」又晉海西四令問勛曰︰「俗人正日飲酒,先飲小者,何也?」勛曰︰「俗云小者得歲,先酒賀之,老者失歲,故後飲酒。」周處《風土記》曰︰「元日造五辛盤,正月元日,五薰鍊形。」注︰「五辛所以發五藏之氣,即大蒜,小蒜,韮菜,雲臺,胡荽是也。」莊子所謂「春正月,飲酒茹葱,以通五藏也。」《食醫心鏡》曰︰「食五辛以辟厲氣。」敷于散即胡洽方許出散,並有藥斤兩種類。敷于散出葛洪《煉化篇》。方用柏子仁、麻仁、細辛、乾薑、附子等分為散,井華水服之。又《天醫方序》云︰「江夏劉次卿見鬼,以正旦至市,見一書生入市,眾鬼悉避,劉問書生曰:『子有何術,以至於此?』書生言︰『我本無術,出之日,家師以一丸藥絳囊裹之,令以繫臂,防惡氣耳。』於是劉就書生借其藥,至所見諸鬼處,諸鬼悉走,所以世俗行之。其方用武都雄黃、丹散二兩,蠟和,令調如彈丸。正月旦,令男左女右帶之。」周處《風土記》曰︰「正旦當吞雞子一枚,謂之鍊形。」膠牙者,蓋以使其牢固不動,取膠固之義。今北人亦如之。
熬麻子、大豆,兼糖散之。
按:《煉化篇》云︰「正月旦,吞雞子、赤豆各七枚,辟瘟氣。」又《肘後方》云︰「旦及七日,吞麻子、小豆各十七枚,消疾疫。」張仲景《方》云︰「歲有惡氣中人,不幸便死,取大豆十七枚、雞子、白麻子并酒吞之。」然麻豆之設,當起於此。今則熬之,未知所據也。
又以錢貫繫杖脚,廻以投糞掃上,云「令如願」。
按:《錄異記》云︰「有商人區〈一作歐。〉明者,過彭澤湖,有車馬出,自稱青湖君,要明過家,厚禮之,問何所須。有人教明,但乞如願。及問,以此言答,青湖君甚惜如願,不得已許之,乃是一少婢也。青湖君語明曰︰『君領取至家,如要物,但就如願,所須皆得。』自爾商人或有所求,如願並為即得,數年遂大富。後至正旦,如願起晚,商人以杖打之,如願以頭鑽入糞中,漸沒失所,後商人家漸漸貧。」今北人正旦夜立于糞掃邊,令人執杖打糞堆,以答假痛,又以細繩繫偶人,投糞掃中,云「令如願」,意者亦為如願故事耳。
正月七日為人日,以七種菜為羹,翦綵為人,或鏤金箔為人,以貼屏風,亦戴之以頭鬢,亦造華勝以相遺,登高賦詩。
按:董勛《問禮俗》曰︰「正月一日為雞,二日為狗,三日為羊,四日為猪,五日為牛,六日為馬,七日為人,以陰晴占豐耗,正旦畫雞于門,七日帖人於帳。」今一日不殺雞,二日不殺狗,三日不殺羊,四日不殺猪,五日不殺牛,六日不殺馬,七日不行刑,亦此義也。古乃磔雞令畏鬼,今則不殺,未知孰是。荊人於此日向辰,門前呼牛羊雞畜,令來。乃置粟豆於灰,散之宅內,云「以招牛馬」,未知所出。劉臻妻陳氏《進見儀》曰︰「七日上人勝于人。」董勛曰︰「人勝者,或剪綵,或鏤金箔為之,帖于屏風上,或戴之,像人入新年,形容改從新也。」華勝起于晉代,見賈充李夫人《典戒》云︰「像瑞圖金勝之形,又取像西王母正月七日,戴勝見武帝于承華殿也。」舊以正月七日為人,故名人日,剪綵鏤金箔為人,皆符人日之意,與正旦鏤雞於戶同。今北人又有至人日諱食故歲菜,惟食新菜者,與楚諱食雞正相反。又餘日不刻牛羊猪犬馬之像,而二日獨施人雞,此則未喻。郭緣生《述征記》云︰「魏東平王翕,七日登壽張縣安仁山,鑿山頂為會望處,刻銘於壁,文字猶在。銘云︰『正月七日,厥日為人,策我良駟,陟彼安仁。』」《老子》云︰『衆人熙熙,如享太牢,如登春臺。』《楚詞》云︰「目極千里傷春心。」則春日登臨,自古為適,但不知七日竟起何代。晉代桓溫參軍張望,亦有正月七日登高詩。近代以來,南北同耳,北人此日食煎餅,於庭中作之,云「薰天」,未知所出也。
立春之日,悉翦綵為鷰以戴之,帖「宜春」二字。
按:綵鷰即合歡羅勝。「宜春」二字,傅咸《鷰賦》有其言矣。賦曰︰「四時代至,敬逆其始,彼應運於東方,乃設鷰以迎至。翬輕翼之岐岐,若將飛而未起。何夫人之功巧,式儀刑之有似。銜青書以贊時,著宜春之嘉祉。」
立春日,為「施鈎」之戲,以緶作篾纜相罥,綿亘數里,鳴鼓牽之。
按:施鈎之戲,求諸外典,未有前事。公輸子自遊楚為載舟之戲,退則鈎之,進則強之,名曰「鈎強」,遂以鈎為戲。意起于此。《涅槃經》曰︰「鬬輪罥索。」其外國之戲乎?今鞦韆亦施鈎之類也。〈施或作拖。〉
又為打毬鞦韆之戲。
按:劉向《別錄》曰︰「寒食蹴鞠,黃帝所造,本兵勢也。」或云起於戰國。案鞠與毬同,古人蹋蹴以為戲也。《古今藝術圖》云︰「鞦韆本北方山戎之戲,以習輕趫者。後中國女子學之,乃以綵繩懸木立架,士女炫服坐立其上,推引之,名曰鞦韆。」楚俗亦謂之「施鈎」,《湼槃經》謂之「罥索」。
正月十五日,作豆糜,加油膏其上,以祠門戶。
按︰《齊諧記》曰︰「正月半,有神降陳氏之宅,云是蠶室,若能見祭,當令蠶桑百倍。」疑非其事。祭門備之七祠。今州里風俗,是〈一作望。〉日祠門戶。其法先以楊枝插於左右門上,隨楊枝所指,乃以酒脯飲食及豆粥餻糜插箸而祭之。」《續齊諧記》曰︰「吳縣張成夜起,忽見一婦人立於宅東南角,舉手招成,成即就之。謂成曰:『此地是君家蠶室,我即此地之神。明年正月半,宜作白粥,泛膏於上以祭我,當令君蠶桑百倍。』言訖而去,遂失所在。成如言,為作膏粥。自此已後,年年大得蠶。」今世人正月十五日作粥禱之,加以肉覆其上,登屋食之,咒曰︰「登高糜,挾鼠腦,欲來不來,待我三蠶老。」是則為蠶逐鼠矣,與《齊諧記》相似。又覆肉亦是覆膏之理。石虎《鄴中記》︰「正月十五日,有登高之會。」則登高又非今世而然者也。
其夕,迎紫姑,以卜將來蠶桑,并占衆事。
按:劉敬叔《異苑》云︰「紫姑本人家妾,為大婦所妬,正月十五日感激而死,故世人作其形于廁中迎之,卜咒云︰『子胥不在,〈云是其壻。〉曹夫人已行,〈云是其婦。〉小姑可出。」《異苑》又云︰「於廁邊或猪欄邊迎之,捉之覺重,是神來也。平原孟氏恒不信,嘗以此日迎之,遂穿屋而去。自爾廁中著以敗衣,蓋為此也。」洞覽云︰「是帝嚳女,將死,云︰『生平好樂,至正月半,可以衣見迎。』又其事也。《雜五行書》︰「廁神名後帝。」《異苑》云︰「陶侃如廁,見人自云後帝,著單衣,平上幘,謂侃曰︰『三年莫說,貴不可言?』」將後帝之靈,憑紫姑而言乎?俗云溷廁之間必須淨,然後致紫姑。
正月夜,多鬼鳥度,家家槌床打戶,捩狗耳,滅燈燭以禳之。
按︰《玄中記》云︰「此鳥名姑獲,一名天帝女,一名隱飛鳥,一名夜行遊女。好取人女子養之,有小兒之家,即以血點其衣以為誌,故世人名為鬼鳥。荊州彌多。」斯言信矣。
正月未日夜,蘆苣火照井廁中,則百鬼走。
元日至于月晦,並為酺聚飲食,士女泛舟,或臨水宴會,行樂飲酒。
按︰每月皆有弦望晦朔,以正月為初年,時俗重之,以為節也。《玉燭寶典》曰︰「元日至月晦,人並酺食渡水,士女悉湔裳,酹酒於水湄,以為度厄。今世人唯晦日臨河解除,婦人或湔裙。」又是月,民並脯食,□□之名又似之矣。出錢為醵,出食為脯,竟分明。擲虜名為博射,《藝經》為擲博。
晦日送窮。
按:《金谷園記》云︰「高陽氏子瘦約,好衣敝衣食糜。人作新衣與之,即裂破以火燒,穿著之,宮中號曰『窮子』。正月晦日巷死。」今人作糜棄破衣,是日祀于巷,曰『送窮鬼』。
0 notes
kennak · 10 months
Quote
佐賀県武雄市に本拠を置く建築業の「株式会社匠の森住宅」は、11月17日付で佐賀地方裁判所武雄支部へ自己破産を申請し倒産したことが明らかになりました。 2015年に設立の同社は、低価格の企画型住宅や注文住宅など新築住宅の建築工事を主力に事業を展開するほか、リフォームや外構工事、中古住宅の紹介なども手掛けていました。 しかし、競争激化による受注の減少に加え、新型コロナウイルス感染症の影響による事業環境の悪化も重なり資金繰りが逼迫したため、これ以上の事業継続は困難と判断し今回の措置に至ったようです。 負債総額は約1億4000万円の見通しです。
佐賀の建築業「匠の森住宅」が自己破産申請、負債1億円 国内倒産 - 不景気.com
1 note · View note
ietattafukuoka · 2 years
Text
古賀市で家づくりを検討するならイエタッタ福岡
イエタッタ福岡です!
Tumblr media
古賀市で注文住宅を検討されている方は下記から工務店・ハウスメーカーをチェック♪ https://www.fukuoka-ietatta.com/koumuten/area/fukuoka/koga/
この度2022年9月よりイエタッタ福岡がオープンしました。 「家づくりをもっとスマートに」をコンセプトに、 施主様と作り手側の繋がり方をもっとシンプルに、スマートに、 今の時代にあったカタチで。 イエタッタ福岡は家づくりの新しいカタチをご提案します。
0 notes
jushosaku · 2 years
Text
#高松宮殿下記念世界文化賞 に関するニュース 全98件
高松宮殿下記念世界文化賞 映画監督のヴェンダース氏ら6人決まる - 産経ニュース
世界最高峰のピアニスト クリスチャン・ツィメルマン氏 第33回高松宮殿下記念 世界文化賞・音楽部門 (FNNプライムオンライン) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース
「ドイツ映画界の巨匠」映画監督 ヴィム・ヴェンダースさん 第33回高松宮殿下記念世界文化賞 演劇・映像部門(FNNプライムオンライン(フジテレビ系)) - Yahoo!ニュース
世界文化賞 第25回「若手芸術家奨励制度」はクロンベルク・アカデミー財団 パブロ・カザルスの遺志を後世に(産経新聞) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース
世界文化賞の受賞者発表:朝日新聞デジタル - 朝日新聞デジタル
世界文化賞に建築家の妹島さんら - Au Webポータル
妹島さんら世界文化賞 茨城・日立出身の建築家 日本美術協会 - 47NEWS
世界文化賞に建築家の妹島さんら 6人に、ベンダース監督も:北海道新聞 どうしん電子版 - 北海道新聞
妹島和世+西沢立衛 /SANAA 次世代の建築家をけん引 第33回高松宮殿下記念 世界文化賞・建築部門 (2022年9月21日) - Excite Bit コネタ
仏映画巨匠、ゴダール監督死去 世界文化��(産経新聞) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース
「美術の概念を問い直す」美術家ジュリオ・パオリーニ氏 第33回高松宮殿下記念 世界文化賞 - Au Webポータル
世界文化賞に妹島、西沢氏ら (2022年9月15日) - Excite Bit コネタ
ヴィム・ヴェンダースなど5部門6名の受賞者発表!第33回「高松宮殿下記念世界文化賞」 - モデルプレス
【速報】建築家の妹島和世氏 西沢立衛氏ら6名受賞 第33回「世界文化賞」 - Au Webポータル
北朝鮮が米国批判「謀略だ」 ロシアへの武器輸出否定|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
県内 午後から各地で曇りに 台風15号は温帯低気圧へ【新潟】|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
台風15号 土砂崩れや車転落 2人死亡 東海道新幹線 まもなく再開|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
オミクロン株 対応の新ワクチン 北海道江別市で接種始まる BA・5に効果|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
【速報】新型コロナ 新たに195人の感染確認 2人死亡 秋田県|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
次の“感染拡大”に備え「オミクロン株対応ワクチン」接種スケジュール発表 年内には希望者全員に【香川】|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
【台風15号】各地で記録的大雨 県内に大きな爪痕 1人死亡1人行方不明 静岡|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
雨峠越すも土砂災害に警戒を 飯田市で住宅に土砂流入 「特急しなの」運休などで約1万1000人影響|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
eスポーツ大会の中継も実施へ…名古屋・栄に『NTP Esports PLAZA』オープン 高機能のゲーミングPC揃う|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
【速報】新型コロナ 福井県で新たに398人感染確認|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
マッチングアプリで知り合った男から投資話 消費者金融まで勧められ発覚【佐賀県】|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
北海道ゴーカート事故から考える安全対策「未然に防ぐ」福島県にある施設では何重もの事故防止対策|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
芸術・文化・にぎわい創出の拠点に…あきた芸術劇場”ミルハス”グランドオープン 秋田|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
楽しくお仕事体験 浦添市・沖縄|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
新型コロナ338人感染 5人死亡 沖縄|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
トヨタ ロシアでの生産終了 ウクライナ侵攻の長期化で|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
浜松・磐田・袋井で緊急安全確保 台風15号の影響で静岡県内に線状降水帯発生|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
静岡駅で在来線の列車を休憩用に開放 記録的な大雨で交通機関にも大きな影響|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
役目を終えた節句人形などを供養 宮崎市で人形感謝祭|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
選挙や政治に関心を! 明るい選挙啓発ポスター・書道入賞作品展 宮崎県|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
再春館製薬所バドミントンチームが益城町でバドミントン教室|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
逃走した柴犬を保護せよ 発生2時間 警察の追跡劇|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
「小松高」名称存続へ署名活動…県立学校再編計画 丹原と統合 「周桑」に反対【愛媛】|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
新型コロナ 22日は433人陽性 重症は1人【佐賀県】|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
みつけタグラム 朝日のシャワー【愛媛】|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
【台風15号発生】静岡県に24日最接近 3連休なのに…フェリーはキャンセル相次ぐ|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
今が旬!シャインマスカット販売会<宮城>|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
年代別では10歳未満が最多の163人…新型コロナ 石川で新規感染者897人 3人の死亡も発表|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
“令和発祥の地”からスタート 太宰府の史跡巡る「ふれあいウォーク」 10月29日に開催|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
「スポーツを楽しんで」元プロ野球選手・鳥谷敬さんの野球教室|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
【新型コロナ速報】2日連続1000人超え 岡山県で1113人感染 岡山市394人【岡山】|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
彼岸の中日 墓参りに多くの人 広島|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
つないだ折り鶴は長さ29キロに ギネス世界記録に挑戦 広島|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
ブルーボトルコーヒーが金沢に期間限定オープンへ 山中漆器とのコラボカップも 10月21日から|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
【詳報】9月24日宮城県内 325人の新型コロナ感染確認 1人が死亡<宮城>|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
【速報】新潟市で512人の感染発表 中央区127人、西区125人など 新たに3件の集団感染|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
【独自】駐日米大使が国葬に... 「安倍氏認めないと損失」|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
ラーメン店「蔦」大西店主急死 ミシュラン星獲得 猫にかまれ...|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
府中市役所で長時間、電話不通に 県発注の道路工事で誤って光ケーブル切断 広島 |FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
3年ぶりの自由観覧 秋の風物詩松江水燈路(島根・松江市)|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
【新型コロナ速報】鳥取県で257人の新規感染確認 鳥取市管内167人、米子管内67人など|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
近所トラブルか 夫婦を刺す 夫が死亡 56歳の男の素顔 北海道・旭川市|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
90代男性にビニール袋かぶせる 勝山市の介護士 殺人未遂の疑いで逮捕【福井】|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
100年以上親しまれた「肥前山口駅」 駅名が「江北駅」に変更 【佐賀県江北町】|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
タカの観察スポットの峠で行方不明 家族の届出で40人態勢で捜索 66歳女性は自力で下山して無事発見|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
札幌市 新たに969人確認 3日ぶりに1000人下回る 減少傾向も…感染の中心は40代以下の若年層|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
車から現金盗んだ疑いで逮捕の消防隊員を送検 鹿児島・鹿屋市|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
五箇山民謡を堪能…3年ぶりに開催“五箇山麦屋まつり” 県内外から大��の民謡愛好家が|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
高齢者施設等で3件の新たなクラスター…新型コロナ 岐阜で新規感染者1003人 80代3人の死亡発表|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
ごみ焼却施設の入札不正疑い 鯖江市議会が百条委員会で真相究明へ【福井】|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
『日中国交正常化50年 毛沢東×田中角栄秘話 米国の策略と台湾断交』【前編】|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
台風14号の影響で献血不足 協力を呼びかけ 【熊本】|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
芸術の秋 身近な話題を墨色鮮やかに表現「創島書道展」(島根・松江市)|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
鈴木財務相「一定の効果があった」 24年ぶり為替介入<岩手県>|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
港にあらわれた珍客はイルカの群れ!?(島根・浜田市) |FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
海からの大量のゴミ…台風被害の別府海浜砂湯 急ピッチの復旧作業できょう営業再開 大分|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
静岡県内に記録的短時間大雨情報 気象庁が発表|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
夫婦間の問題や金銭トラブルなど…身の回りの問題を解決する『調停』無料の相談会 富山県内4会場で開催|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
トレーニング×食で健康寿命延ばそう ジムと食品会社がコラボイベント 9月22日はフィットネスの日|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
1カ月前週下回る…新型コロナ 長野県の新規感染852人 先週比208人減 高齢者施設で集団感染1件|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
台風直撃の前半乗り越え 後半の連休スタート! アフリカンサファリに賑わい戻る 大分|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
『うきうき豊野ひまわり園』が開園【熊本】|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
秋分の日“野菜や果物”で作ったユニーク作品並ぶ「つくりもんまつり」…五穀豊穣に感謝し300年余り続く|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
店長「許せない」 台風で臨時休業の店舗からレジ窃盗 鹿児島市のリサイクルショップ|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
スポーツ実況を”手話”でしたら…? 色々な新しい発見が フジテレビアナウンサーが指導【岡山】|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
「テニピン」知っていますか? 特徴はラケット! 「秋分の日」スポーツの秋〈仙台市〉|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
熊本県は新型コロナの全数把握の見直しにあわせフォローアップ体制を構築|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
【TSK×JAL】広瀬和紙存続の危機…師匠と二人三脚!若き女性が継承(島根・安来市)|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
【速報】長野県内2市で169人新規感染 長野市81人、松本市88人 確保病床使用率25.4%|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
安倍氏「国葬」中国から政協の副主席が参列 政治的影響力小さい非共産党員 安倍氏の過去の発言に反発か|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
保護犬「ゴン太」のご主人は…若狭町長 クルクル回って喜びを爆発【福井】|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
糸満市の市営バスに児童が取り残される 自力で脱出して無事|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
ダンプカーが高速道路の高架に衝突し横転 50代運転手が死亡 荷台を上げたまま走行か 広島・福山市|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
小惑星リュウグウ 液体の水 初確認|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
若隆景も食べたちゃんこの味は?3年ぶり『ふたばワールド』開催 双葉郡の住民が交流<福島・双葉町>|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
岸田首相「クロージング・ベル」鳴らすも ニューヨーク株式市場 一時3万ドル割れ|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
西九州新幹線 開業ドキュメント 佐賀県|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
企業目指す女性7人がシェアキッチンをオープン 鹿児島市|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
【静岡・新型コロナ】感染や濃厚接触で休職の医師・看護師はピーク時の3分の1以下に|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
南島原市のあぜ道脇の車から男性の遺体|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
飯舘村で準備宿泊はじまるも申し込みはなし 原発事故の影響続く村のこれから<福島県>|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
公開手配の男 繰り返し着替えか 殺害された女性の息子「許せない」|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
保管期限を超過したワクチンを412人に誤接種 浜松市が医療機関に再発防止を指導|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
セブン店舗でチケット発券できず システム障害 復旧めどたたず|FNNプライムオンライン - FNNプライムオンライン
高松宮殿下記念世界文化賞:受賞作ドットジェイピー
0 notes
shihlun · 3 years
Text
作為風景的城市(松田政男)
(1970)
真是奇妙的祭典。說是祭典,當然有神輿也有山車,因而醞釀出了其特別的華麗氣氛。由神主帶領的祭禮一行,接連引來了周邊的孩子們,向著這個地方城市狹小的中心部略高處被祭祀的神明的神社邁步前進。注意到某個極小事實的瞬間,拍攝這次祭典的我們無法抑制地捧腹大笑起來。雖然沒有地方城市的這種祭典所應該特有的遊客的身影,但是,這個小小的祭典的隊列,卻在我們失禮的哄笑之外,作為一年一度的盛夏的儀式靜靜地前進著。
我們哄笑的原因,是因為祭典的隊列是模仿諸侯出行的陣仗(大名行列)而形成的。典型的那種由毛槍朝天高舉,腳步一致,喊著「向前、向前(下ニィ、下ニィ)」的人打頭陣,搬文箱、長持的人隨後,著裃服騎馬的武士威嚴地緊跟著,簡單來說,我們聽到「大名行列」這個詞時所喚���的意象,完整地,完全像畫出來一般展現出來。不對,定睛一看,還有一群穿著只能認為是公卿裝束的男人。像前述所說,有在每個路口立定、進行除災儀式的神主,有神輿和山車,有笛子和大鼓,什麼都有。有的是我們從小在現實生活中或者畫像和影像中慢慢熟悉起來的,「祭典」的全部的類型。然後,沒有的是「祭典」所一定會伴有的「狂熱」。
那是北海道的北邊,面對鄂霍次克海的網走市。為何網走神社的祭典中會有大名行列呢?這個單純明快的疑問,與其說是我們哄笑的原因,不如說是我們怎麼也沒法不去注意的地方。不用參考網走市役所發行的《網走小史》,我們也知道這裡有原住民鄂霍次克式陶器人的遺跡與遺物,四百年以前起是江戶時代的阿依努期,是阿依努人居住之地。不用說,在松前藩的經濟支配,幕末由於軍事需要而來的幕府的政治管理的過程中,也有與日本人的來往。但是,日本人大量渡來還是在一八八〇(明治十三)年網走村設置郡役所之後的事情。因為四年後開設了小學與寺院,土地神(鎮守)的神社的創立,也自然應該是那之後的事情。
具體的歷史上從未存在過大名行列的北方城市的祭典裡,突然出現了魔幻的大名行列這件事情,對我們來說,是應該在最初的殖民者的記憶中作為遺制殘存下來的強烈的共同性中尋找嗎?我在這裡,比方說,應該也可以像《網走小史》一樣,用下面的方式,引用阿依努人原住民樸素的祭典原型,將本土的民俗與殖民者的民俗的競逐過程作為考察對象:
「為此處報春的最初的訪問者,是乘著流水而來的海豹。在冰川間的縫隙中進行的獵海豹,足夠滿足了自然的孩子的冒險的心。部落的人們,每到此時期就會乘舟靠近帽子岩,在島上設立祭壇,以幣束裝飾。一族之長對著海的方向祈禱漁業豐盛。⋯⋯帽子岩是將阿依努族的生活與神連結在一起的聖地,因此人們都將這座島稱為『充血(チバシリ)』。」
但是,我們至少在這裡,與這個名為網走的地方小城市的祭典儀式活動毫無關係,只能確定這不過是在各種意義上對中央大城市殘留的傳統祭典的最壞意義上的模仿,並將其傳達出來而已。今天,聖地「充血」不過是一塊僅僅保留了網走名字來源的記憶的奇形怪狀的石頭。而且,正如我之前所述的,網走神社祭並沒有遊客的身影的事實所示,對於這種將邊境的遺制破壞地體無完膚的直接從中央輸入的祭典方式,關心的人寥寥無幾。夏天來到網走的年輕遊客反而都在參觀離網走神社最遠之地的網走刑務所。今天,網走的聖地連名字都變成了網走番外地,其所祭拜的神,也變成了電影演員一般的存在的同時,從空洞的大名行列中讀出了強烈的諷刺的,難道真的只有我嗎?
話說回來,說到敘述的順序,這裡應該簡單提及一下我們在這裡偶然遇見網走模仿的祭典活動的攝影旅行的目的。一九六九年從夏至冬,我與很少的幾個朋友一起,追隨一名少年的足跡做了一部紀錄片。六九年末勉強工作告一段落的這部電影,以「去年秋天在四個城市用同一把手槍發生了四起殺人事件今年春天一名十九歲的少年被捕他被稱為連續射殺魔」為片頭字幕,「一九六八年秋天在四個城市用同一把手槍發生了四起殺人事件,一九六九年春天一名十九歲的少年被捕他被稱為連續射殺魔」為片尾字幕,包含了一小時二十六分的結構。如其所示,是關於「連續射殺魔」永山則夫的電影。網走是永山則夫出生、度過了幼年的地方。
這篇文章並非是要直接介紹我們的電影,但是作為完全追踪了永山則夫廣泛的足跡的結果,經過了北海道、東北、關東、東海、近畿等各大城市,根據我自己四個月的體驗,我不能不談對於出生於網走市郊呼人番外地、長於網走市內的永山則夫五歲時全家搬至的青森縣北津輕郡板柳町的印象。而且不得不說,我在這個地方小鎮感受到的是和網走完全相同的印象。我們當時看到的是明顯磨滅了地方的獨特性,只能稱作是中央的複製的同質化的風景。殖民城市網走,本土城鎮板柳,再誇張一些說,中央都市東京,在我們的眼中都以毫無差別的相同的面貌出現。
然後,不知怎的,好像不止我們,還有別人也有同樣的經驗,在北國陰暗的風土中尋找永山則夫犯罪的原因,卻被大大地欺騙了。說起來,某位電視人曾這樣記述這個兩萬三千人的小鎮:
「永山則夫一被逮捕,報紙和電視就迅速動員學者、作家、評論家們創造他的形象。……這些知識分子中最有說服力的,是同樣出身青森、有同樣遭遇的詩人、地下劇團主宰者T氏的發言。他將永山則夫形容成在東京沙漠徬徨的都會吉普賽人,令其抱有噩夢般的殺意的,據說是養育了他的『北國的荒涼的天空』。……但是,離上野十三個小時的板柳的天空卻明亮得令人訝異。沒有霧霾的明亮的藍天下,岩木山閃耀著銀白色。……」(《紀錄片青春》自由國民社刊行)
這位紀錄片作者,在直率地敘述了「荒涼的北國」的形象的破壞後,舉出了城市的豐饒的各種數據。比他晚三個月,已經過了春天而在夏天拜訪這座城市的我們,已經如前述有著和他相同的見聞。青森出身的詩人「T氏」(即寺山修司)大概可以斥責我們,認為這些感想乃作為一群不負責任的遊客的,即時且隨便的感想。的確,並未體驗到寒冬的津輕的我們,並沒有「荒涼的北國」的意象。但是可以說,我們的遊客之眼,與只能看到「中央=豐饒」、「地方=荒涼」之刻板印象的地方出身的半調子知識分子的眼,恰好形成了對照的兩極。無論是中央還是地方,都市還是邊境,「東京」還是「故鄉」,現在都只有等質化的風景。我們即使是看到了津輕平原的廣漠上連綿的蘋果園,也絕不會想到綠色的森林,而只能看到令我們聯想到我們灰色首都所散佈的污染的農業。不用說,「荒涼的天空」也是稱呼我們霧霾漂浮宙天的名字。
因此,我們在鄂霍次克沿岸的東北的平原,也沒能發現或許孕育了永山則夫的「故鄉」。不如說我們看見的不過是縮小版的「東京」。永山則夫小學時代居住的板柳町一角稱作入福住宅的小型貧民窟,大概也可以指定為東京的任何一處。谷川雁說「不要去東京,創造故鄉吧」之時,那種作為前提的「東京」對立於「故鄉」的圖式,在六十年代的死胡同中,終於不再是有效的事實,我們必須去確認。我們壟斷的高度成長,難道不是表現出日本列島作為一個巨大的都市,每天都在往一個同質化的方向發展嗎?
無需說,從資本主義經濟法則的側面,將永山則夫作為地方年輕人口向城市集中的典型事例說明,也不過是將其拉入客觀主義的大網。如此,他是在響應寺山修司「離家出走的建議」,捨棄了「故鄉」而到了「東京」來嗎?恐怕要揚棄谷川雁與寺山修司兩方的高談闊論,才有真正的答案。即,無數的永山則夫,無疑是想要前往「東京」,創造自己的「故鄉」的。正是在「東京」,才有他們所尋找的原初的東西。要說為什麼,對於他們來說的「故鄉」,不過是「東京」的模擬而已。他們對於「東京」所注入的狂熱的凝視,只能說是在不可見的領域中雕刻他們的真正的「故鄉」了。去往「東京」之旅,即是去往他們的原初世界的旅行。他們一刻不停地在進行著,與在偏僻地方和離島中找出現在的我們的過去的祖型的民俗學者方向完全相反(vector)的旅行。
從這件事來說,「離家出走的建議」的提倡者寺山修司,對於永山則夫的流浪,初看上去似乎以同情者的身份浮現,但當他結論出「人被歷史拋棄時,就會援用地理」這一巧妙的宣言時,就不自覺陷入了寺山自己排斥的「歷史性的思考」了。寺山修司著作中對於永山則夫的結論,不過是道學家式地指責其缺乏「思想的力量」、「想像力」,以及「戲劇性的想像力」而已。寺山修司從未將自己的想像靠近這一現實,即永山則夫(們)其實正是僅通過「地理」上的流浪,這群下層社會的無名大眾才能創造出他(們)「歷史」上的定在。雖然寺山說「為了判別一個行為是英雄性還是犯罪行為,過多的『狀況論』將我們緊緊束縛」,但在與「狀況論」甚至「情況論」無關之處,即便是針對將「行動的力量」而非「思想的力量」作為動力而生存的人們,以提昇道德的口吻高談「想像力的復權」,恐怕也不會有任何成果。
「歷史」還是「地理」的二選一思考方式,正是深深刻在提出者內部的歷史性思考方式,這種思考方式的所有者將其直接轉移至地理上的思考。即,在他的腦中,以他的「想像力」放上一張日本列島的空白地圖,在上面填上永山則夫流浪的足跡,最後所得到的也就是這麼多。此一永山則夫之旅,只要在某種「原初世界之旅」的前提上,便設想能透過連接他曾經過的外部世界的地點,便會浮現出其內部世界的地圖,並設想大概會出現奇形怪狀的景象吧。           在這裡,還是先交代永山則夫流浪的記錄和分期。這也同時是我們的旅程——
網走市郊外—網走市內—板柳—(離家出走)弘前—青森—函館—板柳—(離家出走)山形—福島—板柳—(為了集團應聘上京)
東京·澀谷—(辭職、秘密出航)橫濱—名古屋—香港—橫濱—小山—(就業)宇都宮—(以下各地流轉)大阪—守口—東京·羽田—川崎—橫須賀—川崎—東京·淀橋及東中野—池袋—巢鴨—小田原—熱海—名古屋—大阪—神戶—(秘密航行)橫濱—東京·練馬—西荻窪及東中野—板柳—東京—長野
橫須賀—東京·池袋—(以下各地流轉)芝—京都—橫濱—東京·池袋—函館—小樽—札幌—函館—名古屋—橫濱—東京·新宿及中野—橫濱—東京·原宿
第一次流浪的分期十五年,第二次的分期三年半,第三次的分期為半年,有各自的長度。可以視作成長、生活、犯罪三個不同的階段,各自的分期在空間擴大的同時,表現出時間上的反比關係,應該是很容易注意到的。日本列島對於永山則夫,不正是作為某種非歐幾里得空間(non-Euclidean space),奇怪地歪曲、溶解、流動嗎?然後,即使這樣還,或者說正因如此才,應該點出的是沿著永山則夫的軌跡而再現了四個月間橫貫列島之旅的我們的眼睛,看見的是已經敘述過的,所有的地方或邊境的街道上映出的,作為同質化了的風景出現的景象。
追尋已經失去的原初的「故鄉」之旅,常常以無論去何處發現的都是相似的風景而告終。種村季弘在最近的文章中,以模仿本雅明的口吻敘述了「將陌生的城市認作出生的城市,將出生的城市認作陌生的城市的反向透視法(逆遠近法)」(《都市》創刊號),而我們的日本列島所有的,恐怕無疑是「陌生的城市」與「出生的城市」之間生長出的,無可救藥的時間和空間的扭曲所呈現在眼前的風景的同質化而已。這種風景如今無法代換成自然、風土之類的詞語,因為這種風景,是天然與人工突兀地對撞、裁剪下的產物。就如同以前在《薔薇與無名者》(芳賀書店刊行)中斷言的那樣,永山則夫沒有終點的「原初之旅」,必然是「為了將風景割裂而射發了子彈」。
我們在永山則夫的紀錄片的攝影過程裡,首要任務是反覆深化我們的視角,藉此嘗試捕捉作為風景的日本列島,除此之外一無所知。即使是同樣的旅程路線,我們所經歷的時間與空間仍不同於與永山則夫的軌跡。如果在兩者的時空中提煉出某種元素,那就真的變成風景了,就像繪畫一樣的,澡堂中的巨大筆劃一樣的,毫無掩飾欺騙(何のケレン味もない)的風景本身了。我們似乎在摸索與本雅明評價二十世紀初無名攝影家阿傑(Atget)所致力捕捉的「捕捉巴黎無人的街道的風景」,與下面的格言所述恰相反的循環:
「都說他以拍攝犯罪現場的方式拍攝風景,也的確如此。犯罪現場並沒有人通過。攝影是為了創造間接證據。照片經由阿傑,開始變成了歷史過程的證物。」(《複製技術時代的藝術》紀伊國屋書店刊)
我們與阿傑相反,是以拍攝風景的方式拍攝犯罪現場。雖然本雅明認為「對於群眾,城市有時是風景,有時是房間」,我們的攝影機之眼所看到的,只有「作為風景的城市」,而從未能到達「作為房間的城市」。這恐怕處於一種我們被周圍敵對的狀態,但與喜歡言必稱「狀況」或「情況」的知識分子的語彙不同,這說不定是可以從外側的物質性去感受到,一個除了風景以外、本身一無所有的下層大眾的唯一方法。無需贅言。只需強調我們所嘗試的,是透過風景去直接面對他的,或我們自己的,那個「不可見的故鄉」。
因此,我們在旅程的終點,在永山則夫數次返回的「東京」——可以視為來自邊境、不斷流浪的下層大眾之「故鄉」原型的這個混亂的巨大都市中摸索。然而,在我們的首都,是否曾經有過從那個地方城市的「祭典」所缺失的原初的狂熱呢?無需說,是不可能的。十月末秋季的某一天,通過新宿街頭的那次稱作「新宿祭」的空蕩蕩的遊行,我們恐怕永遠也無法忘記吧。在那幾天前,由某個宗教團體的鼓號隊帶領通過的祭典隊列,竟然成為了某種電視綜藝節目的絲毫不差的仿寫物。竟然將自己生出的媒體的「影子」模仿了個徹底,這個悲慘的本體!與此對應地,這裡化作了一個人影也沒有,只有機動隊的制服與自警團的私服非常顯眼的,彷彿戒嚴令下的死亡的街道。或許,那甚至不是風景,而是風景的葬送。「噓,安靜點!葬禮的隊列要從你身邊過去了。將你的雙膝跪地拜倒吧,唱起送葬的歌謠吧!」(Lautréamont)
然而,追尋更加原初的東西而帶著初生的能量加速度,嘗試在「東京」中實現「故鄉」的下層大眾,大概並不知道該去向何處吧。厭倦了模仿的祭典,慢慢看清了「東京」的背叛,他們像列斐伏爾評價巴黎公社那般,在「『祭典/節慶』之風格即公社的風格」之意義上,為了追尋一種真正祭典的狂熱,於焉開啟了沒有終點的「旅程」。這次,為了寫這篇稿子,讀了一些城市規劃與建築專家的都市論,其中唯一不停激發我思考的,是水木薰針對羽仁五郎的激進批判,說起來,水木薰是如此評價這種「旅程」的原初型態的:
「……他們輕易地擺脫了來自家庭與地方的權力束縛,獲得自由。然而,這種自由卻是透明危殆、難以依賴的。他們在巨型都市(megalopolis)中開始了浮游的生活,那甚至能不能稱之為生活呢?與這樣的社會底部的流動相比,希臘有拱廊(agora)的城市,而文藝復興時有據說是基於市民之自由與平等建造的的城邦國家,與此相比,他們有多麼不加思索或無能為力,只要考慮其流亡之劇的各種苦痛就十分清楚了。日大鬥爭,在某種意義上來說,可以視作是捨棄了故鄉的貧窮的年輕人,對大都市東京的反抗吧。失去了目的地的地方中小城市的中小工商業者的孩子們,如果不是不停地叛亂,甚至無法生存下去。」(《革命與烏托邦》芳賀書店刊行)
「捨棄了故鄉的貧窮的年輕人」,是在「對大都市東京的反抗」中,實現他們真正的故鄉的。水木薰的都市論的優越之處在於,不在歷史或當代的標準上為城市定位,而是從生成、爛熟、死滅的具體的運動過程中找到其位置。這是比吉本隆明提出的暗示性問題「城市何以為城市」更進一步,是「城市何以不再是城市」的一種反問。啊,城市的死滅!拒絕無名大眾所不停上演的「流亡之劇」在地方和中央、農村和城市、邊境和首都等等近似的兩分法中彷彿達成了的虛假的上升的錯覺,反而能夠直視,追溯人群的「原初」旅程,其實僅是意味著從下層到下層,從底部到底部,從貧民窟到貧民窟的移動,這不正是唯有能夠提出此種論斷,看清這一事實的透徹視點之人,才首先能從口中吐出的詞語嗎?
那時,他就不再會將城市視作風景,而是將激進地貫徹城市作為房間的屬性了。
我在這裡突然想起了雷吉斯·德布雷(Régis Debray)將城市稱作「可居煉獄」的苦澀發言。不用說,德布雷是在將討論範疇小心謹慎的限定在「與苦惱於人口集中的亞洲歐洲大城市相比的⋯⋯加勒比海諸城市」,即使知道這一點,不妨讓我們再仔細看看吧。
「住在城市裡的人們,即便是同志,與游擊戰士比較起來也在不知不覺中慢慢變成了市民階級。他們對於自己的行為,即餐飲、睡眠、移動等生存所要求的物質的艱苦為何物,已經不能理解了。游擊戰士是靠自己,用自己的手,自然地製造物質的,而他們已經不具備維持生命的手段了。城市人僅僅作為一名消費者存在。……對於每個人來說,人生都是不平等的,被給予的事物。人生作為完成的商品,在商店裡排成一排……雖然常說,我們泡在社會生活的浴缸裡,但是泡太久澡對於身體也是不好的。要理解這個不溫不火的孵化器,在多大程度上令人類發育不全,令人市民階級化,僅有一種方法,那就是跳出這個孵化器。」(《革命中的革命》晶文社刊行)
雷吉斯·德布雷在這個意義上,將「城市」作為對立面,將游擊戰士的真正的故鄉認定為「山地」。能嘲笑這種關於第三世界的斷言肯定命題式都市論的教條性和形而上性,是一件幸運的事情。我們生活在高度壟斷集中的核心,身處於日本列島整體化作一個巨大城市的變化轉型期裡。毋寧說,對我們而言,可以回歸的「山地」是不存在的。但是,我們在將城市佔領、解體,作為我們共同空間的革命長期戰爭中,如欲作為一名游擊戰士而生活下去,則必須在這個「可居煉獄」的正中間,立起我們所認定的「山地」。身在日本這個懷有對第三世界掠奪與殺戮原罪的、反革命的「祖國」,我們別無他法,只能竭力將此一煉獄實現為靈魂的淨化場。
正如各種「未來」學者與其亞流所奉上的漫不經心讚辭那般,據說我們正在進入的本世紀最後二十年,可預測的長期投資額累積達到五百兆元。在考慮戰後二十年國民生產總值上升至世界第三位的日本資本主義,在這個列島上投下的資本總額已經不能以三十兆而是以五十兆元來計算的事情時,接下來二十年的十倍投資,將無疑進一步促進日本列島巨大的城市化。然而我們不能將這份壟斷的奢昂攻勢視為日本帝國主義起飛的暗號,而要將其當作耳邊的喪鐘來聽。我們已經跟上了在風景的同質化中,從一個城市流浪到另一個城市的無名大眾的足跡。他們決沒有「主張真理是屬於自己的。他們從未『說出』自己代表了真理。因為他們『就是』真理本身。」(��朗茲·法農)我們恐怕初次見證了我們下層無產者形成階級的轉型期。他們以流浪的存在形態佔領都市,作為資本主義的掘墓人,開始慢慢浮出水面。
「不可見的故鄉」在對真實的祭典的不斷試錯中將徐徐浮現。「必要的是在暗中突然出現的偶然的縫隙。只要有『縫隙』,人類就可以開始一些行動。人類是在自己的慾望相互碰撞、混沌的雜亂(chaos)裡生存著。」水木薰此處道破的條件,不可避免地將要到來。
必要的不是對下層大眾進行什麼「戲劇性想像力的復權」的說教。我們自身必須開始,邁向一趟為實現我們自身真理而戰鬥的,超越風景的旅程。
松田政男,風景としての都市
『風景の死滅』1972年1月20日
參考翻譯:1、2
28 notes · View notes
navetin · 3 years
Photo
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
近代日本の芸術家とその邸宅を設計した建築家
※以前の記事に不具合があった為、再掲。 建築家も芸術家の内ではあるが、 ここでは画家や作家の総称として使わせていただく。
先日鑑賞した東郷青児展では石本喜久二が、 また吉田博展では渡辺仁がその邸宅設計に携わっているのを知った。 このように有名建築家が芸術家の邸宅を手掛けた例は いったいどれくらいあるのだろうか。ざっと調べたのが以下の通り。 ▼有名建築家が設計した芸術家の邸宅
太田喜二郎邸 藤井厚二設計 大正13 京都市上京区        アトリエは太田の設計で採光に拘った作り 東郷青児邸  石本喜久二設計 昭和6 世田谷区代沢 現存せず        インターナショナルスタイルの「白い家」 吉田博邸   渡辺仁設計 昭和9 淀橋区下落合 現存せず        ステンドグラスなどの内装は吉田もデザイン 三岸好太郎  山脇巌設計 昭和9 中野区上鷺宮         バウハウスに学んだ山脇のモダニズム建築は        近隣から「お豆腐の家」と呼ばれていた 安井曾太郎邸 山口文象設計 昭和9 淀橋区下落合 現存せず        アトリエのみ 設計にあたり多くの注文があり苦心した様子 前田青邨邸  山口文象設計 昭和11 鎌倉市山ノ内 純和風建築        山奥の寺院の中にあり非公開だが現存する       林芙美子邸  山口文象設計 昭和16 淀橋区下落合 現・林芙美子記念館        数寄屋造の和風建築 林は新居建設の為に建築を学んだ 上村松園邸  西澤文隆設計(坂倉準三建築研究所) 昭和22 奈良市山陵町        現・唳禽荘(れいきんそう) 岡本太郎邸  坂倉準三設計 昭和28 港区南青山 現・岡本太郎記念館        岡本と坂倉はパリ留学中より親交があり、その後も協同 吉村益信邸  磯崎新設計 昭和32 新宿区百人町 住居兼アトリエ        前衛芸術集団「ネオダダ」の拠点となった        通称・新宿ホワイトハウス 現・Chim↑Pomアトリエ 東山魁夷邸  吉村順三設計 昭和28 千葉県市川市        東山の依頼に基づいた簡素な住居 猪熊弦一郎邸 吉村順三設計 昭和46 大田区田園調布        RC造3階建ての二世帯住宅 非公開 赤瀬川原平邸 藤森照信設計 平成9 町田市玉川学園 通称・ニラハウス        竣工時は屋根にニラがなびいていた その他、数多くの日本画家の邸宅・画室の設計に携わっているのが 吉田五十八で、近代数寄屋建築が日本画の制作環境に馴染み、 好まれていた事が伺える。 ▼吉田五十八が設計した邸宅・画室
鏑木清方邸  昭和7 牛込矢来町 旧居 現存せず        昭和29 鎌倉市雪ノ下 新居に五十八が設計した画室を再建        現・鏑木清方記念美術館 小林古径邸  昭和9 大田区南馬込 平成5解体 新潟県上越市に移築         現・小林古径記念美術館 川合玉堂邸  昭和11 新宿区牛込若宮町 現存せず 山川秀峰邸  昭和11 品川区下大崎 画室のみ 現存せず        昭和18 中郡二宮町 別邸 現・旧山川秀峰・方夫邸 山口蓬春邸  昭和14 世田谷区祖師谷 旧居 現存せず        昭和23 三浦郡葉山町一色 画室など増改築        現・山口蓬春記念館(改修は大江匡) 梅原龍三郎邸 昭和27 新宿区市谷加賀町 画室のみ 山梨県清春芸術村に移築        昭和33 同地に新居を建設 その後は不明 吉屋信子邸  昭和37 鎌倉市長谷 現・吉屋信子記念館
ご覧の通り芸術家と建築家の結び付きは強く、 古くはジョサイア・コンドルが河鍋暁斎に師事して日本画を学んでいるが、 もしもコンドルが暁斎邸を設計していたら…なんて想像するのも一興哉。 コンドルの例は兎も角、公共建築に於いては両者の協同も多い。 (例)丹下健三・黒川紀章・谷口吉郎 などの建築家と    岡本太郎・猪熊弦一郎・イサム・ノグチ などの芸術家
元々建築デザイナーも絵描きのうちで、図案や家具、 公共デザインを手掛ける建築家も少なくはないし、 たまたま創作のジャンルが異なっただけのことなのかもしれない。 モダニズム建築の巨匠ル・コルビュジエは優れた画家でもあった。 その一方で、芸術家が自ら建築設計してしまう例もある。 ▼芸術家が自ら建築設計
岡倉天心  明治38 北茨城市大津町五浦 観瀾亭と称する六角堂を設計       東日本大震災で起きた津波により消失 その後再建 橋本関雪  大正3 - 5 京都市左京区 自邸・画室・庭園を設計       現・白沙村荘(はくさそんそう)橋本関雪記念館       画室は存古楼(ぞんころう)と名付けられた       昭和6 - 7 持仏堂・茶室群を設計 庭園はその後も拡張される 横山大観  大正8 台東区池之端 自邸を設計 東京大空襲で消失       昭和29 同地に新居再建 内装も設計 現・横山大観記念館       旧宅及び庭園が国の史跡及び名勝に指定されている 坪内逍遥  大正9 熱海市水口町 自邸を設計 現・双柿舎(そうししゃ) 山元春挙  大正10  大津市中庄 琵琶湖畔に別邸を設計       現・記恩寺 蘆花浅水荘(きおんじ ろかせんすいそう) 安田靫彦  大正11 三島郡出雲崎町 良寛堂を設計       昭和3 中郡大磯町 自邸を設計 現存せず       昭和6 中郡大磯町 安田善次郎別邸(寿楽庵)庭園内       経蔵・持仏堂・平唐門等を設計       昭和9 伊豆市修善寺 新井旅館       天平大浴堂・花の棟・吉野の棟・観音堂を設計 朝倉文夫  昭和3 - 10 台東区谷中 自邸・アトリエを設計       8回に及ぶ増改築と7年の歳月を掛けて完成した 現・朝倉彫塑館       中庭と屋上庭園が国の名勝に指定されている 柳宗悦   昭和10 目黒区駒場 栃木の農家から長屋門を移築し自邸を設計       昭和11 民衆的工芸品展示の為、同地に日本民藝館を設計 河井寬次郎 昭和12 京都市東山区 自邸兼仕事場を設計        鐘溪窯と名付けた登り窯を付設 現・河井寬次郎記念館 川端龍子  昭和13 大田区中央 画室を設計       昭和23 - 29 同地に自邸を設計 増改築を経て完成       昭和35 伊豆市修善寺 新井旅館 改装工事監修・玄関を設計       昭和37 大田区中央 自作展示の為、龍子記念館を設計 堂本印象  昭和41 京都市北区 自作展示の為、堂本印象美術館を設計
芸術家の美意識が詰まった建築は、個性的でとても興味深い。 素材や意匠など細部に渡って拘りが見え、空間表現も巧みだ。 日本画家の巨匠である安田靫彦と川端龍子は自邸以外の設計も手掛けており 両者の建築コラボレーションが伊豆修善寺・新井旅館を改装する際に、 時を経て実現している。
20220108<加筆修正> 日本画家 橋本関雪・山元春挙を追加
21 notes · View notes
home-plan-kiyotake · 6 years
Text
Tumblr media Tumblr media
🌕一級建築士2名、2級建築士2名、建築士のみで運営する会社です。
🌕🔎検索→「清武建設」
🌕家づくり、土地探し相談
~・~・~・~・~・~・~・~
福岡市東区箱崎7-2-14
(木工所:筑前町)
#清武建設一級建築士事務所
創業1968年
電話0120-01-5040
定休日:毎週火.水(GW.盆.年末年始)
~・~・~・~・~・~・~・~
1 note · View note
banashi1 · 3 years
Text
二次元を探して
 祖父が死んだ。脳梗塞だった。なんの予兆もなかったので家族の誰もが驚いた。先日、五十年以上勤めた市役所を定年になったばかり。家族揃ってお祝いをしたときは元気そのものの姿だった。まだ75歳。健康に気を遣う人ではなかったが、死ぬには早すぎた。
 一生の大半を地味な公務員として生きた祖父だったが、資産家でもあった。曾祖父がドットコムバブルで一山当てた遺産を相続したのだ。そういうわけで、かなりの遺産が家族に相続されることになった。死ぬそぶりなどまったく見せていなかったのにちゃんと遺言状を用意していたのが祖父のおかしいところで、いつも準備がいいと祖母は呆れながら泣いていた。
 遺言は難しいものではなかった。資産によって祖母か、一人息子である僕の父に相続するという内容である。ひとつひとつ資産を挙げて示すお役所的な書きぶりは祖父そのものだ。あの堅苦しい筆跡。揉めるようなところはなにひとつなかった。最後の最後までは。思いもよらない文面が待っていたのは遺言の終わり。「桜沢愛に金1000万円を遺贈する」それが締めに書かれていた文だった。祖母でも父でもない名前が初めてそこにあった。みんなが顔を見合わせた。知らない名前だった。
 桜沢って誰なんだ、と父が言った。祖母はまったく心当たりがないと答えた。なぜあれだけ用意周到な祖父が、こんなところで知らない女性の名前を持ち出すのか。父も祖母も混乱していた。
 父は祖父の書斎に入り、丁寧にまとめられた年賀状や名刺の類を調べ始めた。ほどなく「桜沢愛様」と書かれたぶ厚い封筒が出てきた。ちょうど1000万円くらい入ってそうな厚さだった。父は中身を確認しようとしたが、「他者の開封禁止」とあったのでやめた。父もまた約束を守る公務員だった。女を探してこれを渡せということらしい、と父は言った。まったく、最後の最後に訳が分からないことをしてくれる。
 祖父の遺言に、僕も混乱していた。ただし混乱の理由は父や祖母とは違った。僕だけは桜沢愛のことを知っていた。知っていたからこそ混乱した。僕は大学でメディア学を研究している。専門は二十世紀の美少女ゲームだ。そして、桜沢愛はむかし大ヒットした美少女ゲームのヒロインだった。
 パソコン向けに作られたアダルトゲーム、いわゆる美少女ゲームは20世紀終盤に幅広い人気を獲得した。しかし2015年の法改正で規制対象となり、その後いっさいの発売禁止になった。2022年にはさらに規制が強まり、過去に購入したゲームの所持まで違法となった。美少女ゲームの廃棄、いわゆる美少女狩りは様々な混乱を生み、大勢の愛好家が反発し、逮捕された。
 大学一年のとき、メディア学の講義で学んだ歴史的経緯である。
 僕は美少女狩り以降の世代だ。実際にそういったゲームを見たことはない。なにしろすべて廃棄されたので、それらの情報は文献資料に残るのみ。図画の掲載はもちろん違法行為なので、資料に書かれているのは過去にどういったゲームがあり、どのように人気を集めたのかという文言だけである。
 僕達はそういった歴史的資料を紐解きながら、美少女ゲームのなにが人を熱狂させたのか読み解こうとしている。前世紀には奇妙な性的嗜好が流行していたと切り捨てるのは簡単だが、それだけではないはずだ。
 こんなに近くに愛好家がいたとは知らなかったけれども。
 桜沢愛は「卒業生」と題されたゲームのヒロインである。それまで性的描写ばかり注力されていた美少女ゲームに対し、「卒業生」は学校での日常生活を生き生きと描いた点が革新的だった(と言われている)。主人公はお調子者ではあるが大人びた常識人で、女性たちもゲームにありがちなエキセントリックなキャラクターではない。アダルトなシーンはごく控え目で、毎日の出会いと会話がゲームの中心に据えられている(と言われている)。
 派手なところがない、それゆえに新しいゲームだった。その後ブームを迎える恋愛シミュレーションの先駆けでもあった(と言われている)。
 祖父は僕の専攻を知っていた。僕は可愛げのある人間ではなかったが、祖父は一人きりの孫である僕をやけに可愛がってくれた。仕事に忙しい両親のかわりに、進学の相談にのってくれたこともあった。その祖父が、桜沢愛を探せ、と言っている。もちろん僕に向かってのメッセージだ。
 祖母や両親は思考停止に陥っていた。それでも桜沢愛についてちゃんと調べたなら、それが二次元のヒロインであることはすぐに分かるだろう。そのまえに僕は祖父の期待に応えなければならない。
 帰宅するとさっそく、僕は「卒業生」を開発した企業を調べた。リデルゲームズという名前だった。美少女ゲーム業界を代表する大手メーカーだったが、法改正と同じ2015年に精算されている。社長は亡くなっていた。「卒業生」のプロデューサーも。半世紀以上前のゲームなのだといまさら思い知らされた。
 僕は「卒業生」に関係する人物を政府の死亡データベースで調べ続けた。データベースに掲載されていなかった最初の関係者はキャラクターデザイナーの池田龍之介氏だった。死亡データベースに名前がないということは、つまり存命なのだ。コンタクトビュアーで住所と連絡先を調べる。まずメールアドレスが表示され、ほどなく我が家から一時間ほどの距離にある場所の地図が表示された。
 さて、僕は考える。ここからどうすべきか。具体的には、池田氏にどのように連絡をとればいいものだろうか。半世紀前に作られたゲームのことでお話があるのですが、ええ、そうです、美少女ゲームの、あの大ヒットになった「卒業生」、作られましたよね? いまは所持さえ違法ですけど。
 体裁はともあれ、そういう切り出しが必要なことは確かだった。そもそも九十歳を過ぎた相手に半世紀以上前の話を聞くというのは簡単ではない。その上で、過去の違法行為を咎めるような言い方になってしまわないかが心配だった。まずはメールで問い合わせるべきか、それとも直接赴くべきか。悩んだあげく、僕は翌日なんの準備もないまま氏の家へ向かうことにした。とにかく会って話さないと理解してもらえないと思ったのだ。
��事前に調べていたとおりとはいえ、池田家はかなりの豪邸だった。美少女ゲームが絶滅したあとも、イラストレーターとして人気を博したらしい。
 どのように説明すれば受け入れてもらえるだろうか。道すがら僕はかなり苦労して考えたが、実際は「卒業生」のことでと話すだけで、池田さんはなんのためらいもなく中へ案内してくれた。
 昔はけっこうファンが家まで押し掛けてきたけど、最近では久々だね、まあ久々というか数十年ぶりだけれど。そう言って笑う池田さんはずいぶん若く見える背の高い人だった。背筋はぴんと伸び、黒縁の眼鏡で守られた眼は強く輝いている。定年前の祖父よりさらに若く見えた。
 僕は祖父の話をした。池田さんは感慨深そうに聞いていたが、実際にはこう言った。まあ君自身が僕のファンとは思わなかったけれど、おじいさんがというのは考えさせられるねえ。しかも僕より年下とはね。
 話は遺贈金、そして封筒に及んだ。僕は家から持って来た、ぶ厚い封筒を池田さんに渡した。僕は桜沢愛じゃないけど、と言いながら池田さんは封筒を開けた。そして中のものを取り出した。
 入っていたのは現金ではなかった。たくさんの絵だった。色数の少なさが特徴的な、初期のコンピュータアートだ。女性の顔や体が描かれている。どれも同じ女性だった。現実にはありえない緑色の長髪で、体の線が細い。絵の中には裸体もあった。池田さんははじめて驚いて顔をして、おっと、と言った。そして、これは違法じゃないか、と言った。
 僕はようやく、それらがゲームに出てくる絵なのだと分かった。ざらざらとしたタッチで、顔や体つきは不思議に歪められている。写実性はまったくなく、猥褻さもまるでない。これが発売禁止になるほどのものなのか、と僕は思った。
 手紙もあった、と池田さんは言って封筒の中からそれらしいものを取り出した。池田さんはそれを開き、苦笑すると、反転させて僕に見せた。桜沢は俺の嫁、と書いてあった。遺言状と同じ、祖父の実直な筆跡だった。
 君の祖父は大した変態だね、と池田さんは笑って言った。刑務所に入る危険も省みず、二次元の絵を死ぬまで隠し持っていたらしい。一千万円はなくて残念だけれど、いいものを貰ったよ。
 それから池田さんは机の中からデータチップを取り出し、僕に手渡した。これは僕からのお礼だから、お爺さんのお墓にでも奉ってくれ。池田さんは言った。
 家に戻ると、僕はデータチップの中身を確認した。予想通り、中には「卒業生」のプログラムが収録されていた。古いコンピュータ用のエミュレーターを使い、「卒業生」を起動する。しばらく遊んでみたが、まったくチープな絵、チープな音楽、チープなゲームだった。コマンドはあらかじめ決められた中から選ぶだけ。ステレオディスプレイに繋げてもキャラクターは二次元のまま、アニメーションすることさえほとんどない。そしてキャラクターは声を発することもなく、こちらの声の認識もしない。いまのゲームとは比較にならない、静かな静かなゲームだった。祖父がこんなものに熱中していのかと思うと不思議な気分だった。僕は前世紀のゲームを探求し、気付いたときには夜が更け、明けていた。
 それからもしばらく僕は「卒業生」で遊び続けた。桜沢愛は誰にでも優しい女性だったが、攻略するとなるとハードルが高かった。ナレッジサーチを頼ってみたが、半世紀以上まえに発売された違法ゲームの攻略情報など見つかるはずがなかった。僕は失敗を繰り返し、毎日があっという間に過ぎた。けっきょく、攻略には二週間かかった。エンディングではじめてアダルトシーンが流れ、僕は大いに満足感を得た。
 そしてちょうどそのとき、父が僕の部屋に入ってきた。僕のディスプレイには16色で描かれた桜沢愛の裸体が映っていた。祖父が印刷して封筒に入れていた、あの裸体。
 つまりそういう話なんです、と僕は言った。ひとつには祖父のため、ひとつには研究のためにはじまったことで、やましい気持ちは一切ありません。
 供述書にはちゃんとそう書いておくよ、君の意見として。刑事さんは言った。まあ、初犯は罰金刑どまりさ。
2009/09/09 - 2009/09/21
9 notes · View notes
arara1212 · 4 years
Photo
Tumblr media
小諸市「草笛 小諸本店」腹いっぱいもりそば 店名 草笛 小諸本店 場所 長野県小諸市古城1-1-10 電話 0267-22-2105 ジャンル そば屋 バリアフリー ◯ 駐車場 あり 食べたもの 「もりそば 中盛」1000円、「かきあげ」250円   そばって美味いものなのか と、つくづく思うのだ。絶妙なゆで加減と歯ごたえ、なによりそばの香りがいいんだよ、という事は分からなくもないのだが、絶妙なゆで加減と歯ごたえであればうどん、とくに讃岐うどんとの比較の上で語られるべきであるし、香りがよいというのであれば、余計な手を加えずにそば粉だけ口にしていればよいではないか。  などという野暮な事しか思い浮かばなかったのは、正式ないわゆる「美味いそば」を食べたことがなかったからでしかない。ちゃんとした地域の、真面目に調じられたそばはそれなりに美味いのだ。戸隠の某旅館(名を忘れた)の宴席でいただいたそばは驚愕するほど美味かった。そばの強烈な香りと、つるんぬるんとろんという感触に恐れ慄いてしまったのを記憶する。締めだから三ぼっちしかなかったのが残念でならなかった。  とはいえ、そばじゃ腹いっぱいにならねーよ。という者もいる。もちろん私の事であるが、そばに限らず美味いものは少ししか出てこないのだ。池波正太郎のように  「年末銀座で賀状用の画材を買い込み、少し足をのばして浅草寺に参拝したのちに藪蕎麦でひと休み。海苔で熱いのを一本飲んだあと、そばで腹をつくり帰宅」  なんてカッコいい事をしたくてたまらないが、なにぶん胃袋は高校生のままなのだ。困ったものだ、あああそばで腹いっぱいになるところはないものか。   「草笛 小諸店」 私にとっての「そばとの邂逅」は草笛にあるといって過言ではない。上田に住む私の「心のアニキ」に連れられていった、タルに入ったそばの量に驚愕して以来定期的に通い続ける店なのだ。  上田、佐久、長野と昔からある店舗にはお邪魔したことがあるのだが、新しくできた上田お城前と長野MIDORIはいつも混んでいそうだから行った事がない。そういえば小諸の本店にもなぜか行った事がない。ちょうど近くにいるから行ってみようかとしなの鉄道の跨線をくぐる。  道路沿いに駐車したが、せっかくだからぐるっと回って懐古園の門をくぐり店舗へと向かう。小さいとはいえ旧小諸城の門は黒々としていてかっこよい。懐古園をひと回りしたいが、そんな時間はないし季節もまだ早すぎる。  昼どきを少し回っていたが、八割方の入りであるのはさすがの草笛だ。厨房の見えるテーブルに通され、おばちゃんたちが忙しく立ち回るのを愛でながら注文はいつものあれだ。   「かきあげ」250円 ファミリーレストランではないので、各店舗ごとにいろいろ違いはあるが、かきあげがもっとも違いがあると思う。佐久は忘れたが、上田はもう少し小ぶりで、長野はもっとデカくて厚いが揚げが甘くて時としておやきを食べている気分になるときがある。しかし、さすが本店。ピシッとサクサクに揚がっていてとてもよい。  「もりそば 中盛」1000円 懐古園にちなんだ「藤村そば」なるメニューを見かけたが、ここはいつも通りのもりそばで。といっても大盛りを注文する勇気も元気もない。所詮は50すぎのくたびれオヤジ。中盛がほどよいところであろう。  紅と黒のタル目いっぱいにまで詰め込まれたそば。これは乾燥しないように底の深い器を探して、ここに至ったのだそうだが、それにしてもど迫力。上底という概念はおそらくないのであろう。ほかは知らんが、うちは味と量で勝負だぜ、という気概に満ちているようだ。  味といえば鰹節が強烈に効いたつゆも素晴らしい。一部のものから 「そばではなくうどん」 と揶揄されるほど柔らなふわふわそばもよい。こういう存在なのだ。なにか文句あるか。   という事で草笛本店を堪能。やはり私にとってそばは草笛でしかない。ああ腹いっぱいだ、仕事に向かおう。    #長野  #長野観光  #長野カフェ  #長野県  #長野グルメ  #長野旅行  #小諸  #小諸市  #そば  #そば好き  #そば屋  #そば打ち  #そば処  #そば粉  #そばがき  #蕎麦  #蕎麦スタグラム  #蕎麦屋  #蕎麦好き  #蕎麦の花  #蕎麦好きな人と繋がりたい  #蕎麦屋巡り  #蕎麦畑  #蕎麦ランチ  #蕎麦打ち  #蕎麦猪口  #蕎麦部  #コロナに負けるな #좋아요_한국 #좋아요_일본 (草笛) https://www.instagram.com/p/CMFrMIhAJeK/?igshid=10q511ty3i04d
4 notes · View notes
ietattafukuoka · 2 years
Text
【完成見学会】古賀市の明るいレンガの家
Tumblr media
こんにちは!イエタッタ福岡です!
イベント情報のお知らせです♪
<会社名> 株式会社博愛
<イベント> 【完成見学会】古賀市の明るいレンガの家
<日程> 2022年12月10日~12月11日
<会場> 古賀市花見東2丁目付近
<みどころ> ・吹抜け天井と明るいリビング ・無駄のない家事動線、生活動線 ・適材適所の収納 ・玄関横にカーポートで雨の日も安心
★こちらの内見会は【予約制】となります★ 気になる方はご予約してみてはいかがでしょうか。
-------
この度2022年9月よりイエタッタ福岡がオープンしました。 イエタッタ福岡では、 家づくりをしたい人を応援しております! 家を建てる前に知るべき基礎知識や、 福岡県内(筑豊エリアを除く)のハウスメーカー・工務店・設計事務所・施工事例・イベント情報などを発信!
福岡県 福岡市 工務店 新築一戸建て 注文住宅情報【イエタッタ福岡】
◆ポイント◆ ・地域に特化した住宅ポータルサイト。福岡の住宅情報を発信します。 ・ユーザー目線に立ったサイト設計
また、現在登録会社様受付中でございます☆ お気軽にお問い合わせ下さい!
イエタッタ福岡をよろしくお願い致します。
0 notes
cuttercourier · 4 years
Text
[翻訳] コロナ禍と印中対立のなかのインド華人
中国系インド人の愛と憧憬
2020年7月25日 アスミター・バクシー
ガルワーン渓谷事件後の印中関係緊迫化、コロナウイルス・パンデミックによる反中感情の高まりとともに、インド系中国人コミュニティは集中砲火を受けている
3月17日、41歳のミュージシャン、フランシス・イー・レプチャは、急遽切り上げたプリー〔※オリッサ州の都市〕旅行からコルカタに戻る列車の中にいた。新型コロナウイルスは全国でその存在感を示しつつあり、ナレーンドラ・モーディー首相が厳重な全国ロックダウンを発表する日も近かった。レプチャが家族と一緒にまだプリーにいた間も、彼がチェックインしようとするとホテルの宿泊客は反対の声を上げ、路上では「コロナウイルス」と呼ばれ揶揄された。
フランシスは中国系インド人で、母方と父方の祖父は1930年代に他の多くの人と同様に日本の侵略から逃れてインドに来た。彼らはダージリンで大工として働き、地元のレプチャ族の女性と結婚した。のちに彼の両親はコルカタに移り住み、そこで彼は生まれ育った。
このミュージシャンは1980年代に幼少期を過ごし、ドゥールダルシャン〔※インド国営TV局〕で『ミッキー・マウス』や『チトラハール』を見たり、マドンナに憧れたり、クリフ・リチャードの「ダンシング・シューズ」に合わせて頭を振ったりと、これらを6歳で楽しんでいたわけだが、童歌「ジャック・アンド・ジル」に関係があるという理由が大半だった。彼は流暢なベンガル語と「荒削りなヒンディー語」を話し、そして、彼によれば「ほとんどお向かいのチャタルジー一家に育てられた」という。
列車がガタンゴトンと進むなか、冷房寝台車の他の乗客たちは、彼には自分たちが何を言っているのかわからないと思い込んで、「中国人」について疑いの声を上げはじめた。フランシスはすぐさま口を挟んだ。「私は流暢なベンガル語で、自分がコルカタ出身で、中国に行ったことはなく、彼らに感染させることはないと説明した」のだという。「彼らの顔を見せてあげたかった」。
コルカタに戻ると、フランシスはプリントTシャツを注文した。彼はコルカタ・メトロのセントラル駅の真上に住んでいるのだが、それが明るい否定のメッセージとなり、かつ人種差別に対して有効なツールとなるだろうと考えた。フランシス���さっぱりとした白いTシャツの上の端正なベンガル語のレタリングには「私はコロナウイルスじゃない。コルカタ生まれで中国には行ったこともない」とある。
6月15日、国土の反対側では、俳優兼歌手のメイヤン・チャンが、過去13年にわたって本拠地と思ってきた都市ムンバイで、夕食をともにするために友人宅を訪れていた。彼らはテレビのニュースを見ていたが、その放送は特に憂慮すべきものだった。2つの核保有国が数十年間争ってきた境界である実効支配線に沿ったラダックのガルワーン渓谷でインド兵20人が中国軍に殺害されたのだ。
「衝突の後、ダウン・トゥ・アース誌のインタビューに答えた時、私の最初の反応は怒りでした。『どうして私が自分の愛国心を証明しないといけないのか。どうして私がインドを愛し、中国を憎んでいると言わなければならないのか』。私はその国のことを知りもしません。中国というレンズを通して自分が引き継いでいるものは理解していますが、それだけです。私にはインド以外の故郷はありません」と彼は言う。しかし、彼の経験上、怒りは何の役にも立たない。「その代わりに、私は異文化交流の美しさについて話しました。それはインド全土に存在するものです。私たちの外見だけを理由に自分たちの仲間ではないと考える人々には驚かされます」。
チャンもまた中国系である。彼はジャールカンド州ダンバードに生まれ、ウッタラーカンド州で学校教育を受けた。彼の父親は歯科医で、チャンもベンガルールで歯学の学位を取得している。彼は自分の家系を詳細に遡ることはできていないが、先祖が湖北省の出身であることはわかっており、そこは1月以来、ニュースを席捲している。新型コロナウイルスが最初に報告された武漢とは、同省の首都である。
37歳の彼は、主流エンタテインメント産業で名声を得たおそらく唯一の中国系インド人コミュニティ出身者である。2007年にTV番組『インディアン・アイドル』の第3シーズンで5位になり、2011年にはダンス・リアリティ番組『ジャラク・ディクラー・ジャー』で優勝し、さまざまなTV番組やクリケットのインディアン・プレミアリーグなどのスポーツイベントの司会を務め、『バドマーシュ・カンパニー』『探偵ビョームケーシュ・バクシー!』『スルターン』『バーラト』という4本の大作ヒンディー語映画に出演してきた。
しかし、この数ヶ月の間、彼もまたCOVID-19についての世間の興奮と、そして目下の印中対決についてのそれを感じている。パンデミックのせいで人々が人種差別的発言を黙認しているため、彼はオンラインや路上で野次られてきた。実効支配線での印中対峙後は、これに無言の圧力、あるいは彼が言うところの飽くなき 「愛国欲」が続いた。「医療、経済、そしてある程度の人道的危機の最中に国境での小競り合いや恐ろしい話が出てきて、どう考えていいのかわからなかった」と彼は言う。
中国系インド人3世として、チャンとフランシスは共通点が多いように見える。二人ともインドで生まれ、家系は中国に遡り、家業を継ぐという中国的伝統から逸脱し、ディーワーリー、イード、クリスマス、旧正月をまぜこぜに祝って育ち、フランシスが的確にもこの国の「微小マイノリティ」と呼ぶものに属している。
この二人はまた、パンデミックが世界中で反中国の波を引き起こし、米国のドナルド・トランプ大統領が新型コロナウイルスを繰り返し「中国ウイルス」と表現している時にあって、中国系インド人が味わっている苦難を象徴している。インドでは中国との国境問題が状況をさらに悪化させている。怒りの高まりにより、政府は59の中国製アプリを禁止し、大臣たちは中華食品やレストラン(大半はインド人によって経営されている)のボイコットを求め、中国の習近平国家主席の肖像が燃やされ、COVID-19と紛争は危険なまでに一体視された。
この敵意の副作用はチャンやフランシスのような市民や北東部インド人が被ることになり、路上で暴言を吐かれたり、家から追い出されたりした。デリー在住の中国系ジャーナリスト、リウ・チュエン・チェン(27歳)は、地元のスーパーで人種差別的な悪罵を浴びせられた。「私の母はいつもならウイルスから身を守るためにマスクをするように電話で言ってきたはずですが、国境紛争の後は顔を隠すためにマスクをするよう言われました」と彼女は言う。
印中関係が緊迫するなか、世代を越えて広がりつづけているトラウマである1962年の中印戦争の記憶が前面に出てきた。では、こんな時代にあって中国系インド人であることは何を意味するのだろうか。
中国人の到来
インドにおける中国系インド人コミュニティの起源は、1778年に海路でインドに上陸した商人、トン・アチュー〔塘園伯公〕、またの名を楊大釗に遡る。伝承によれば、アチューは当時のイギリス総督ウォーレン・ヘイスティングスより、日の出から日没まで馬に乗るよう、そしてその間に彼が通過した土地は彼のものになると言われたと、あるいは(より公式なヴァージョンでは)彼のホストとなったイギリス人に茶を一箱プレゼントしたおかげで土地を与えられたとされている。
フーグリー川沿いにあったアチューの土地は、現在はアチプルとして知られている。彼を讃えて記念碑が建てられ、中国系インド人の巡礼地となっている。アチューの後を追って何千人もの中国系移民が続いた。彼らの上陸港はコルカタであり、長年にわたっていろいろな職業の多様な集団が植民地インドの当時の首都にやってきた。
「1901年の国勢調査はカルカッタに1640 人の中国人がいたと記録している。中国人移民の数は20世紀最初の40年間、特に内戦と日本の中国侵略のために増加しつづけた」と、デバルチャナ・ビスワスは2017年8月に『国際科学研究機構人文社会科学雑誌』に掲載された論文「コルカタの中国人コミュニティ:社会地理学によるケーススタディ」1の中で書いている。
ダナ・ロイの祖父母も、日本による侵略の時期にインドにやってきた。コルカタの学校で演劇を教えている36歳の彼女は、『亡命』と題した作劇のプロジェクトに取り組んでいるときに、母方の中国人家系を辿った。「中国の家庭は一夫多妻制だったので、私の祖父は三度結婚しました。そのうち一人は中国で亡くなり、二人目は第二次世界大戦中に日本の侵略から4人の子供を連れて逃れました」と彼女は説明する。彼らの家は、広東省の小さな村唯一の二階建ての建物で、日本軍はそれを司令部としたのだという。
ロイの祖父は、その頃には既にインドで輸出入業を営んでおり、インドにはヒンディー語と広東語の両方を話す中国系の妻がいた。彼の職業柄、家族を船で渡らせるのは容易だった。「叔父の一人には眩暈症があり、大きな音を怖がっていたのですが、(道々)聞いたところでは、村から逃げる際に日本の戦闘機に追われたからだとのことでした」と彼女は言う。
長い間、彼らは均質的集団として見られてきたが、インドに来た中国人は実際には相異なるコミュニティの出身だった。その中でも最大のものは客家人で、まず皮なめしに、最終的には靴作りに従事した。彼らはコルカタのタングラ地区に住み着いた(市内に2つあるチャイナタウンのうちの1つであり、もう1つはティレッタ・バザール)。このコミュニティは他のいくつかのグループのように一つの技術に特化してはいなかったが、ヒンドゥー教のカースト制度が皮革を扱う仕事をダリトのコミュニティに委ねていて、客家人にはそのような階層的制約がなかったため、彼らはコルカタで皮なめし工場の経営に成功することができた。
チャンが属する湖北人コミュニティは歯医者と紙花の製造に従事していた。「ラージ・カプールやスニール・ダット主演の古いヒンディー語映画に出てくる花は全部私たちが作りました。俳優がピアノを弾き、メフフィル〔舞台〕の上に花々が吊り下がっていたなら、それは全部我が家の女たちが作った物です」とコルカタ湖北同郷会会長、65歳のマオ・チー・ウェイは言う。
広東人は大半が大工で、造船所や鉄道に雇われたり、茶を入れる木製コンテナづくりに雇われたりしていた。1838年、イギリス当局はアッサムの茶園で働かせるため、多くが広東人の職工や茶栽培農夫からなる中国人熟練・非熟練労働者を導入している。
1949年に毛沢東率いる共産党が政権を握ると、中国への帰国は問題外であることが明らかになった。そのため、女性たちはインド在住の家族と合流しはじめ、すぐに東部諸州の中国人居住区にはヘアサロンやレストラン、ドライクリーニング店などが点在するようになった。
寺院が建てられ、コルカタのタングラとティレッタ・バザール、アッサム州のティンスキアには中国人学校ができた。賭博場や中国語新聞、同郷会館などもでき、春節や中秋節を祝うほか、中国の儀礼に従って結婚式や葬儀を行うようになった。
「彼らがコルカタに定住し始めた18世紀後半から、1960年代初めまで、中国人移民は、とりわけ同じ方言グループでの内婚や、文化実践、独特の教育システム、住居の排他的なあり方を通じて『中国人アイデンティティ』を維持することに成功した」と、張幸は彼の論文「中国系インド人とは誰か?:コルカタ、四会、トロント在住中国系インド人の文化的アイデンティティ調査」の中で述べている2。
このコミュニティと祝い事の時代は、1962年の印中紛争で突然終わった。戦前には5万人と推定されていた中国系インド人の人口は約5,000人にまで減少した。彼らの多くはその後、海外に移住した。
融合する文化
「アイデンティティとは、単に『私は中国人か、それともベンガル人か』というよりも複雑なものです」とロイは言う。「アイデンティティを主張したり断言したりする必要性を本当に感じるのは、それが奪われつつあると感じたときだけです。アイデンティティについて聞かれたとき、特にこのような時世には、『他のインドのパスポート保持者はこんなことを聞かれるだろうか』と疑問に思うのです」。
ロイは中国系移民と地元民との不可避的な混ざり合いの象徴である。彼の母親は中国系で、ベンガル人と結婚しており、一家はタングラやティレッタ・バザールから離れたコルカタ南部に住んでいる。ロイがこれらの地区を訪れるのは、たいてい中国式ソーセージを買うためか、たまに友人と中華の朝食を食べたりするためだ。
今日の中国系インド人は、中国的伝統が失われていく一方、国籍と文化遺産の間の摩擦が増えていくという二重の現実に直面している。例えば、かつてコルカタのチャイナタウンで行われていた旧正月の祝賀会は、ほとんどがプライベートなものになっている。チャンはただ友人を家に招待することが多い。ロイは親戚とご馳走で盛大に祝ったり、「みんなが忙しければ」ただオレンジを食べて祝ったりしている。
若い世代が広東語や北京語ではなくヒンディー語や英語を学びながら成長し、儒教のような中国の伝統的な宗教的習慣から遠ざかるにつれ、彼らのアイデンティティの中国的側面はますます衰えつつある。以前はそのアイデンティティの別称として機能していたタングラも、今や混合文化に道を譲った。また、環境問題により1996年には皮なめし工場が閉鎖された。
それでもフランシスのように、自分たちの文化を守るためにできることをしている人もいる。彼は友人と毎年の旧正月にはコルカタで龍の踊りを披露する。「私たちは衣装と太鼓を身につけ、旧チャイナタウン、新チャイナタウンその他、コミュニティが散在しているコルカタの各地で4日間にわたって上演するのです」とのことだ。彼らは彼が子供の頃に喜んで受け取っていた赤い封筒入りのお金を配る。
しかし、帰属と受容という、より大きな問題は残ったままである。チャンによれば、自身がエンタテインメント産業に加わっていることと「ヒンディー語とウルドゥー語に堪能」であること(彼はボリウッド作品を観て育ち、父親はマフディー・ハサンのガザル歌謡が大好きだった)は、人々が常に彼を「インド人」として受け入れてきたことを意味する。彼のファンは年齢層やエスニック・グループを跨いで存在する――『インディアン・アイドル』に参加していたときには中国人コミュニティが彼を支持し、より若いファンは彼が「K-POPスターやアニメ・キャラクターを彷彿とさせる」ゆえに彼を愛している。しかし、ソーシャルメディアで意見を表明することは、特に最近では危険であり、時に大騒ぎになる。
「CAA(修正市民権法)のような問題については、間接的に言及して自分の意見を伝えるようにしています。これは大事なことだからです」、彼は言う。ガルワーン渓谷での衝突の後、陸軍大尉を名乗る匿名アカウントが、彼のYouTube動画の一つにコメントして、国家に忠誠を誓い、インド人兵士への支持を公��表明するよう彼に求めた。「私はそれを大したことではないと思い、〔陸軍大尉という〕彼の名乗りに引っかけて『敵との戦いに集中してください、あなたの仲間の国民とではなく』と言いました」。
ジャーナリストのリウ・チュエン・チェンは、アイデンティティとインド政治の両方についての自身の率直な物言いは、コミュニティ内では異例であり、しばしばオンラインやオフラインで嫌がらせの標的になることにつながっていると述べる。「一度、エアインディアの飛行機に乗るとき、係員たちが私に有権者証ではなくパスポートを見せろと言い張ったことがありました。彼らは私がインド出身でないと信じていたからです」、彼女は言う。「私はパスポートを取ってすらいなかったのに」。
年長世代の政治との関わり方はやや異なっている。彼らは今でも中国政治を追いかけてはいるが、距離を置いている。「調査中、国民党シンパと共産党シンパの間にあるコミュニティ内の分断を感じました」とジャーナリストのディ��ープ・ディースーザは言う。彼は1962年の印中戦争の歴史を、当時強制収容されていたジョイ・マーの口頭の語りとともに記録した『ザ・デオリワーラーズ』3の共著者である。
「しかし、それだけです。彼らは台湾とPRC(中華人民共和国)の対立を私と同じように見ています。そこに親戚はいるかもしれませんが、台湾市民になりたいとか、PRCに忠誠を誓いたいというようなものではありません」。
このような関わりの多くは目に見えない。このコミュニティに共通する話として、彼らは頭を低くして注目されずにいることを好む。これは1962年に中国系コミュニティと関係者が強制収容された結果という部分が大きい。
消えない恐怖
1962年の戦争後、中国軍が国境東部のNEFA〔北東辺境管区〕、国境西部のアクサイチンに進出したとき、インド世論は怒りと疑念に満ちていた。インド人は当時のジャワーハルラール・ネルー首相の保証に憤慨し、中国に裏切られたと感じていた。今回もまた、この敵意の矛先はインドの中国系コミュニティに向けられていた。
作家クワイユン・リー氏が学位論文『デーウリー収容所:1962~1966年の中国系インド人オーラル・ヒストリー』4で書いているように、「国民的な熱狂に駆り立てられ、主流派インド人は中国人住民を追放し、時に暴力を振るい、また、彼らの家や事業を攻撃したり破壊したりした」。
リーは付け加える。インド当局は「毛沢東支持に傾いた中国語学校や新聞、中国系団体を閉鎖した。蒋介石(台湾)を支持する学校、クラブ、新聞は活動を許された。これらの学校やクラブは、マハートマー・ガーンディーの肖像とインド国旗を孫逸仙〔の肖像〕と十二芒星の〔ママ〕国民党旗の横に加えた」。
これらの状況は、当局に「敵国出身者」を逮捕する権限を与えるインド国防法が1962年に成立し、1946年外国人法と外国人(制限区域)令の改正が行われたことと相まって、ラージャスターン州のデーウリー収容所で中国系インド人を抑留するための「法的なイチジクの葉〔方便〕」になった、とディースーザは言う。
3000人近くの中国国民または中国系の親族をもつインド国民がスパイ容疑で逮捕され、最長で5年間拘束された。
「ガルワーン渓谷の小競り合いが起こったとき、私はそれについて思いもしませんでした。祖母が最初にそれを口にしました。『もし雲行きが悪くなったら、私たちは逮捕されるかもしれない』」、チャンは言う。「たとえ私達も同じことを考えていようがいまいが、そんなことは起こらないと彼女を説得するのが私のおじと私の役目でした」。
フランシスは1962年に当時10代前半だった母親がダージリンの祖母を訪ねており、二人とも収容されたという思い出話を語る。イン・マーシュも同様であり、1962年11月に13歳でダージリンのチャウラスタ地区から父、祖母、8歳の弟と一緒に収容所に連行された5。
マーシュのように、このコミュニティの多数の人がインドを離れカナダ、米国、オーストラリアに向かった。しかし、歴代の政府がこの歴史の一章を認めたり、謝罪したりしていないことを考えると、圧倒的なトラウマと裏切られたという感情は今日に至るまで残っている。
中国系インド人はなおも傷を癒やす途上にある。アッサム州の同コミュニティ出身の48歳の女性(匿名希望)は、ガルワーン渓谷事件の後、89歳の父方のおばから電話を受けた。彼女はまたも強制収容されるのではないかと心配していた。「私はそれを笑い飛ばし、心配させまいとしました。私はね、もしまたそんなことになったら、皆一緒に行ってダルバートを食べましょうって言ったんです」と彼女は言う。
大昔の法改正はまた、1950年以前にインドに来た、あるいはインドで生まれた中国人移民のほとんどは決してインド市民権を与えられないということを確実にした。例えば、彼女のおばは今や87年間インドに住んでいる。「彼女は今でも毎年外国人登録事務所に行って滞在許可証の更新をしなければいけません。ここは彼女が知っている唯一の故郷ですが、法的には決して帰属することはなく、常に部外者のままです」と彼女は言う。
以上のような要因が、生まれた国への忠誠心を公にするようインドのこのコミュニティをせっついている。例えば、ガルワーン渓谷の衝突の後、コルカタでは中国系インド人が「我々はインド軍を支持する」と書かれた横断幕を掲げてデモ行進をした。
「人々には中国共産党(CCP)が中国系インド人のことを大して気にかけていないことに気づいてほしい。彼らはおそらく我々が存在していることすら知らない。もし私が完全ボリウッド風でやりたいと思ったら、『マェーンネー・イス・デーシュ・カー・ナマク・カーヤー・ハェー〔※私はこの国の塩を食べてきた、の意〕』と言う〔=愛国心を歌い上げる〕ところまでやります」とフランシスは言う。「私の優先順位は単純です。私はインド市民であり、インド憲法に従って暮らしており、私の支持は常にこの国にあります」。
印中間の緊張がすぐには緩和されそうにないなか、アイデンティティと帰属意識の問題が頻繁に前景化されるかもしれない。チャンの不安もまた、このような思慮をめぐるものだ。「エンタテインメント産業の誰もが仕事はいつ再開できるのかと心配していたとき、敵のような見た目の顔をしているから自分には誰も仕事をやりたくないのではないかなどと、余計な不安を私が感じていたのはどうしてでしょうか」と彼は問いかける。
http://www.iosrjournals.org/iosr-jhss/papers/Vol.%2022%20Issue8/Version-15/J2208154854.pdf ↩︎
張幸(北京大学外国語学院南亜学系副教授)は女性。引用論文は2015年刊行の論集に掲載されたもの。これを補訂したと思われる2017年の雑誌論文あり。 ↩︎
http://panmacmillan.co.in/bookdetail/9789389109382/The-Deoliwallahs/3305/37 デオリワーラー(デーウリーワーラー)はデーウリー収容所帰りの意。 ↩︎
1950年カルカッタに生まれ、強制収容は免れたが1970年代にカナダに移民した著者が、トロント在住の客家人元収容者4人の聞き取りをもとに2011年にトロント大学オンタリオ教育研究所に提出した修士論文。 ↩︎
元デーウリー収容者で、収容経験を述べた『ネルーと同じ獄中で』(初版2012年、シカゴ大学出版会より2016年再刊)の著者。 ↩︎
2 notes · View notes
kadookanobuhiko · 4 years
Text
貧困なる精神 ハーバード大教授の珍学説 Ⅲ
 暴力的で嫉妬深く、勤勉ではないーー。かつての記録から、部落のマイナス面を拾い上げ、羅列する。その抽出方法は、これまで見てきたように、ほとんど詐欺的だが、それをひとつの袋に入れ<文化>とラベルを貼る感覚も、理解に苦しむ。それを言えば、ムラの助け合いや、差別への怒りや行動力こそが<文化>ではないか。
<文化>につづき、ハーバード大のマーク・ラムザイヤー教授は、昨年発表した『On the Invention of Identity Politics :The Buraku Outcast in Japan』の中で、部落の<犯罪>や<家族>についても、過去の資料から引用している。その手口をあらためて確認しておこう。
<世紀の変わり目における部落に関するすべての記述は、はなはだしく犯罪に関係しており、それは深刻と言える。後述する1918年の米騒動におけける全国的な放火や強奪、あるいは水平社委員長の松本治一郎がかかわる殺人、殺人未遂がそれである。それに比べれば、次に紹介するのは、ちっぽけなことかもしれない>
 そう述べたあと、1923年の京都府警の警察部長の報告書から、部落民の犯罪を紹介している。
<16歳の少年が、部落の子供を侮蔑した。すると部落の群集は、彼をたたきのめした。彼らは仲裁した警察官をもたたきのめした>
 あまりにも簡潔すぎるので、解説が必要だろう。同年に全国水平社第2回大会が、京都市内の岡崎公会堂で開かれた。パンを売りに来た16歳の少年が「きょうは、えたの集会か」と口走った。会場に入れず、会場外にあふれていた部落大衆がこれを聞きつけた(売り子は、部落の子供を侮蔑したわけではない)。発言した少年は殴られ、近くの派出所に逃げ込んだ。部落大衆は仲裁に入った警官を袋叩きにし、さらに応援にかけつけた20~30人の警官とも、もみあいになった(『差別と闘いつづけて 部落解放運動五十年』朝田善之助、朝日新聞社、1969年)。朝田を含む5人が起訴され、うち4人が懲役6~8カ月の有罪判決を受けている。
 部落差別反対に燃える当事者の前で賤称語を言えば、火に油を注ぐ結果になるのは眼に見えている。いつの時代も暴力は許されるべきではないが、記述が簡単すぎると、部落の凶暴性だけが際立ってしまう。むろん、その効果を狙っての記述であろうが、引用者は官憲側の報告(手書きの文語で読み易くはない)だけでなく、運動側の資料も見たのだろうか。
  ※  ※  ※
 ラムザイヤーは、複数の書物から、部落の犯罪について、以下のようにまとめている。
<ジャーナリスト、社会改革家であり、銀行家、政治家でもある鈴木梅四郎は、窃盗は大阪の部落民の中では最も伝統��な職業である、と断言した。彼らは徒党を組み、ボスの指示の下で操業している>
<警察は1886年の1月から7月の期間に、15年以上住んでいる名護のスラムのわずか5100人のうち、601人を窃盗の容疑で逮捕した>
 引用の原典である『大阪名護町貧民窟視察記』は、鈴木が明治中期以降に同町を取材し、1946年に『時事新報』に掲載された。大阪市内の日本橋筋界隈にかつて存在し、タイトルに含まれる名護町は、そもそも被差別部落とは、まったく関係がない。近代以降の都市化にともなって形成されたスラムである。
 したがって執筆者の鈴木は、部落(民)については触れていない。むろん、盗みが大阪の部落の伝統的な職業とは書いていない。ラムザイヤーが勝手にそう決め付けているだけである。
 また、逮捕者の数(601人)も、原典では1886年までの5年7ヶ月分を合算した総計として記されている。7ヶ月は、かなり”水増し”されている。何もかもが、滅茶苦茶な引用である。
 ラムザイヤーの”統計”は、まだ続く。
<名古屋を擁する愛知県の1928年の資料によると、県内の部落民の14%(部落の男性の25%)に犯罪歴がある>
 原典の資料は『不良住宅地区に関する調査 第二号』(愛知県社会課)で、調査対象の蘇鉄町は被差別部落ではなく、やはり近代以降に形成されたスラムである。行政用語の”不良住宅地区”は、ほとんどスラムと同義で、そのことに気づかなかったのだろうか。
 また、犯罪歴の統計は、町内の住民2560人が分母であって、全県下の部落民のそれではない。そもそも、そんな資料が存在するのだろうか。名護町の逮捕者数と同様の”水増し”だが、偶然とは思えない作為を感じる。
 大阪や愛知を例にとり、部落民の犯罪がいかに多いかを証明するために引用した統計や文章が部落ではないのだから、まったく話にならない。引用者はそれを知っていて書いているのだろうか。それとも、知らなかったのだろうか。どちらにしても、立論の前提が成立していない。学士論文でもあり得ない杜撰な内容である。
  ※  ※  ※
<文化><犯罪>ときて、最後は<家族>である。ラムザイヤーは、部落の特徴をマイナス面でしか見ることができない。何度も言うが、部落のそれであるかは別として。
<(部落の)家族構成は、崩壊している。ジャーナリストの桜田文吾は書いている。大阪の部落の男は、常にわが子を棄て、妻を置いて家を出る。それが生涯にわたって何度もある>
<逆に、もし夫が刑務所に入ったら、妻はすぐに別の男と仲良くなり、男のところに転がり込む>
 ラムザイヤーが引用した桜田の著書『貧天地飢寒窟探検記』(日本新聞社、1893年)は、東京や大阪のスラムを描いたルポで、これまた被差別部落とは関係がない。大阪のそれは、先述した名護町を描いている。名護町が部落ではないことは、すでに述べた。
 乱交がはびこっているーーラムザイヤーは、放埓な性交渉にはひときわ関心があるようで、複数の論文、書物から何度も引用している。おなじみの『大阪名護町貧民窟視察記』(鈴木梅四郎)から。
<10組の夫婦のうち7~8組が、他の人びとと自由に性交している>
 明治・大正期の貧民街の探訪記には、このような記述が少なくないが、きちんと取材したのかと思わないでもない。ともあれ、部落ではないのだから、悪質なミスリードである。
 当連載の第1回で、ラムザイヤーが、賀川豊彦による『貧民心理の研究』の中で、部落民の3つの特徴(欠点)を挙げていることに触れた。3点目は家族構成の崩壊で、貰い子を殺す親のエピソードを引用している。 第1回では触れなかったので、あらためて該当箇所を原典から引用する。
<大阪の難波と日本橋の貧民窟計りで三百八十四人の貰ひ子が有つてその半分以上はその年の内に殺されるのであるそうな。・・・之は多く貰ひ子専門の口入屋が有つて主として私生児、不義姦淫の子を安全に殺す機関として自然的に出来たものである>
 この話の舞台も、冒頭にあるように名護町である。このようにラムザイヤーは、スラムの話を部落のエピソードとして使いまわしている。
 <家族>の最後の引用は、一応は部落のそれを描いてはいる。ただし、資料自体がほとんど悪態なので、実態を反映したものであるかどうかは、わからない。やはりおなじみの『奈良県下ニ於ケル特殊民部落改善ノ方針』(小原新三)から、ラムザイヤーの引用箇所を原文から引く。
<女子は既に十二歳になれば色情を解する者少なからず。私通姦通は至る処に行なはれ、又之を罪悪とも思って居らぬ>
 引用文は<特種民族の研究>という章の中の<繁殖力を有する種族>と題された節の中にある。
  ※  ※  ※
 近代以降に描かれた部落を、ラムザイヤーは次のようにまとめている。<文化><犯罪><家族>の総決算である。
<世紀の変わり目において、部落の観察者たちは一貫したストーリーを語った。水平社の創設者の高橋貞樹、コミュニティー・オーガナイザーの賀川豊彦、ジャーナリストの桜田文吾、そして京都府警の幹部、彼らは部落を衝動的な暴力・犯罪、そして絆が崩壊した家族として描いた。これらの観察者たちは言う。部落民を自称する指導者たちは、20世紀の80年間にわたって、敵意に満ちた偏見を持つ日本人を告発してきた。このように、偏見は明らかに将来性がある>
 これらは観察者の言及ではなく、ラムザイヤーの見解であろう。なぜなら、近代の観察者たちは、そんなことを述べていないのだから。<2020・6・18>
1 note · View note
home-plan-kiyotake · 6 years
Text
undefined
youtube
🌕アンティーク風の新築一戸建て
1 note · View note
xf-2 · 5 years
Link
最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児��機関」を率いた児玉誉士���である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の��下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
10 notes · View notes