#七五三前撮り
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timegraph · 2 years ago
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TEL079-231-5567
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mochidacamera · 4 months ago
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令和6年の仕事を振り返ってみます。
埼玉県秩父のカメラマン、持田カメラです。今回は令和6年の仕事を振り返っています。学校写真カメラマンから、広告撮影までこなしました。来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
埼玉県秩父のカメラマン、持田カメラです。ことしは、カメラマンをやり始めてから一番忙しかったような気がします。それもそのはず、今年一年で8テラのハードディスクを購入したのですが、そのうちの5テラを消費しています。今回は、そんな令和6年を軽く振り返ってみようと思います。 学校写真を頑張りました。 写真店や、先輩方からいただく仕事をこなしておりますが、鎌倉へは6回、赤城山には3回、仕事で訪れています(笑)一番キツかったのは、「林間学校1日目」を2日連続というのをやりました(笑)林間学校の1日目というのは、だいたい登山とか、長距離のハイキング(20キロぐらい)だったりするもので、それを2日連続でやったときは足が動かなくなるか、途中のコンビニで車中泊をして、明るくなったころに家に帰るというハードな日々を送ってまいりました。 撮影した写真は卒業アルバムになったり、ネット上で販売されるのだそうで…
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stochastique-blog · 11 months ago
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いつかのチビチョンダラー。  小さい子供が一生懸命、何かに向き合っている姿は可愛くもあり、感動すら覚えます。  糸満市喜屋武のエイサーでは、子供たちが大人たちに先駆け演舞を披露してくれます。それは見事なもので、そのまま成長し伝統が受け継がれていくんだな、と実感できます。  ただ時代の流れか、残念ながら人手が足りずに中止されることもあり、加えて今年はコロナ騒動があって、喜屋武に限らず各地の旧盆に行われるエイサーは見られるかどうかわかりません。あるとしても集落の人たち限定になるかもしれませんね。  もっともエイサーは見せるためのものではなく、ご先祖様を迎え、お送りするためのものですから、本来の姿に戻るのかもしれないですね。  とはいえ、見ることができたら嬉しいなぁ。  島宙記念寫眞やロケーションフォトなど、いまはまだまだ三密を守り、マスクを着用したままや、できるだけ距離を取っての撮影となることをご理解ください。  撮影のご予約は随時受付中です。希望日前日から半年先まで承っています。島宙記念寫眞に関しては、空いていれば当日14時まで予約可能です。  予約・問い合わせはDM、またはプロフィール下にあるホームページのリンクからどうぞ。  Location : ITOMAN OKINAWA JAPAN   #tokyocameraclub #natgeospace #team_jp_ #lovers_nippon #art_of_japan_ #daily_photo_jpn #bestnatureshot #japantravelphoto #visitokinawa #okinawatrip #startrails #starphotography #starscape #star_hunter_jp #沖縄 #星空フォト #島宙記念寫眞 #星景写真 #満天の星 #天の川 #キッズフォト #ファミリーフォト #カップルフォト #七五三 #沖縄旅行 #女子旅 #前撮り後撮り #沖縄の旅に物語を #Nikon #子どもチョンダラー https://www.instagram.com/p/CC7LCT_DYos/?igshid=558bwxpp0srl
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kennak · 4 months ago
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私の手元に、古ぼけた書類の束がある。手製の表紙をめくると目に入ってくるのは軍の最高機密を意味する「軍機」の朱印だ。昭和16年12月8日、日米開戦の象徴となった真珠湾攻撃に関する詳細な計画、命令書である。なぜこんなものが私の元に来たのか、そして軍の機密のその中身とは――。 「進藤三郎」という男 昭和15年9月13日、圧倒的勝利に終わった零戦のデビュー戦を指揮し、漢口基地に帰還した進藤三郎大尉 平成12(2000)年2月2日、ひとりの元海軍少佐が88年の生涯を終えた。その人の名は進藤三郎。太平洋戦争に興味のある人ならまず知らない人はいないであろう戦闘機乗りである。 進藤は昭和15(1940)年9月13日、制式採用されたばかりの零式艦上戦闘機(零戦)13機を率い、中国・重慶上空で中華民国空軍のソ連製戦闘機33機と交戦、27機を撃墜(日本側記録。中華民国側記録では被撃墜13機、被弾損傷11機)、空戦による零戦の損失ゼロという鮮烈なデビュー戦を飾った。続いて、昭和16(1941)年12月8日のハワイ・真珠湾攻撃では、空母赤城戦闘機分隊長として第二次発進部隊制空隊の零戦35機を率いた。その後、激戦地ラバウルの第五八二海軍航空隊飛行隊長、空母龍鳳飛行長などを歴任し、筑波海軍航空隊飛行長として派遣先の福知山基地で終戦を迎えた。 戦後はトラック運転手や福島県の沼沢鉱山長などの職を転々としたのち、生家のある広島に戻って東洋工業株式会社に入社、出向した山口マツダで常務取締役まで務めた。 戦争中はその華々しい「活躍」がしばしば新聞にも載るほど著名な海軍軍人だったが、戦後は一転して平凡な会社員生活で、戦争の話はよほど心を許した相手にしか、最後まですることを好まなかった。 進藤が保管していた書類に入る前に、進藤自身の「真珠湾攻撃」について、1996年から99年にかけての私のインタビューをもとに再現しよう。 突然の転勤命令 昭和16年4月、新編された当時の赤城戦闘機隊搭乗員たち。中列中央・飛行隊長板谷茂少佐、その右・分隊長進藤三郎大尉。このメンバーのうち数人は、のちに第五航空戦隊に異動した 昭和14(1939)年、ドイツ軍がポーランドに侵攻したことに端を発する欧州での大戦は、日本がドイツと軍事同盟を結んだことで、もはや対岸の火事とは言えなくなっていた。日米関係は悪化の一途をたどり、昭和16年7月28日、日本軍の南部仏印進駐を機に、アメリカは日本への石油輸出を全面的に禁止、イギリス、オランダもこれに同調する。世にいう「ABCD包囲網」である。 この制裁措置は、石油その他の工業物資の多くをアメリカからの輸入に依存してきた日本にとって、まさに死命を制するものだったった。米英蘭との戦争は、もはや不可避と考えられた。海軍も、極秘裏に開戦準備に入る。 航空母艦赤城、加賀の第一航空戦隊、蒼龍、飛龍の第二航空戦隊を主力に、第一航空艦隊(一航艦=司令長官・南雲忠一中将)が新たに編成されたのは、昭和16(1941)年4月のことである。一航艦は、空母と少数の駆逐艦だけで編成されたが、実戦に際しては、臨時に配属する速力の速い戦艦、巡洋艦、駆逐艦などを合わせ、これが世界初の試みとなる「機動部隊」として作戦に従事することになっていた。 進藤は、機動部隊の編成にともなう人事異動で、南雲中将の座乗する旗艦赤城の戦闘機分隊長に転勤を命ぜられた。進藤の直接の上官、赤城戦闘機隊の飛行隊長は板谷茂少佐である。 「支那事変での長く続いた戦地勤務で、私の体は疲れ切っていました。できれば今度は内地の練習航空隊の教官配置につけてもらえないかと思っていた矢先の転勤命令。空母乗組は“搭乗員の華”、誰もが羨む配置なんですが、正直なところ、はじめはうんざりしましたね」 と、進藤は振り返る。 猛訓練で体が悲鳴を上げていた 機動部隊の旗艦・空母赤城。巡洋戦艦を建造中に空母に改装。当時世界最大級の航空母艦だった 空母搭載の飛行機隊は、洋上訓練や出撃のとき以外は、陸上基地で訓練を行うのを常としていた。搭乗員が揃うと、赤城戦闘機隊は、鹿児島・鴨池基地を拠点に、飛行訓練を開始した。 まずは、搭乗員全員の零戦での慣熟飛行から始まり、着艦訓練の前段階として、母艦の飛行甲板を想定した、飛行場の限られた範囲に飛行機をピタリと着陸させる定着訓練が行われる。5月になると空戦、無線電話、着艦訓練と、訓練もより実戦的になり、空戦訓練は、1機対1機の単機空戦よりもチームワークを重視する編隊空戦に重点が置かれ、2機対3機、3機対6機の編隊同士の空戦訓練が、実戦さながらに行なわれた。吹流しを標的とする射撃訓練も、さかんに行われた。 9月に入ると空母翔鶴、瑞鶴からなる第五航空戦隊が新たに機動部隊に加わり、赤城の搭乗員の一部���五航戦に転勤する。進藤の回想。 「猛訓練が進むにつれ、疲労がどうしようもないほど蓄積してきました。体がだるく、食欲もない。8月には黄疸の症状も出始め、周囲から『君の目は黄色いじゃないか』と言われるほどでした。これはもう、海軍をクビになっても仕��がない、休暇療養を願い出ようと決心したんですが……」 ところが、そう決心した矢先の、進藤の記憶によれば10月1日頃、各航空戦隊の司令官、幕僚、空母の艦長、飛行長、飛行隊長クラスの幹部が、志布志湾に停泊中の赤城の参謀長室に集められ、ここで南雲中将より、「絶対他言無用」との前置きのもと、真珠湾攻撃計画が伝えられた。航空参謀・源田実中佐からは、この作戦に対応するための訓練を急ピッチで進める旨の指示もあった。 少佐の本音 揚子江上空を飛ぶ零戦一一型。進藤大尉が撮影した 「しまった。これを聞いたからには、休ませてくれとは言えないな」 と、進藤は観念したと言う。傍らにいた板谷少佐が、やや興奮の面持ちで、 「進藤君、こりゃ、しっかりやらんといかんな」 と、声をかけてきた。だが、解散が告げられ、基地に帰る内火艇に乗り込むときに、 「俺たちはただ命令通りに死力を尽くして戦うだけだが、その後始末はどうやってつけるつもりなのかな」 と、誰にともなくつぶやいた板谷少佐の言葉がいつまでも心に残った。こちらのほうが本音なんだろうな、と進藤は思った。 昭和16年10月には、戦闘機隊の訓練は仕上げの段階に入りつつあった。訓練項目に航法通信訓練が加えられ、コンパスと、波頭を目視して判断する風向、風力を頼りに長距離を飛ぶ三角航法、無線でモールス信号を受信する訓練などが行なわれた。高高度飛行の訓練も実施され、耐寒グリスを塗った20ミリ機銃による、高度8000メートルでの射撃訓練も行われた。一航戦では、18機対18機の大規模な空戦訓練も実施された。二航戦は9機対9機、五航戦は3機対3機までしかできなかったという。 11月に入ると、志布志湾に機動部隊の6隻の空母と飛行機が集められ、11月3日、南雲中将より機動部隊の各艦長にハワイ作戦実施が伝達された。その日の夜半、「特別集合訓練」が発動され、翌4日から3日間にわたって、全機全力をもって、佐伯湾を真珠湾に見立てた攻撃訓練が、作戦に定められた通りの手順で行なわれた。 〈十一月四日 「ハワイ」攻撃ヲ想定 第一次攻撃隊 〇七〇〇(注:午前7時)発進、第二次攻撃隊〇八三〇発進。十一月五日 第一次〇六〇〇、第二次〇七三〇。十一月六日〇五〇〇ヨリ訓練開始〉 と、進藤はメモに書き残している。11月6日には、戦闘機隊が半数ずつ、攻撃隊と邀撃(ようげき)隊の二手にわかれ、攻撃隊はいかに敵戦闘機の邀撃を排除して攻撃を成功させるか、邀撃隊はいかに攻撃隊を撃退するか、という訓練も行なわれた。激しい訓練で、攻撃隊の九九式艦上爆撃機のなかには不時着する機も出た。 特別集合訓練が終了すると、赤城、蒼龍は横須賀、加賀、飛龍は佐世保、翔鶴、瑞鶴は呉と、それぞれの母港に入って準備を行い、飛行機隊はふたたび、陸上基地に戻って訓練を続けた。このとき、戦闘機が洋上で単機になってしまった場合に備えて、無線帰投方位測定機(クルシー)を使っての帰投訓練が熊本放送局の電波を利用して実施されている。 覚悟を決めた日 第二次発進部隊制空隊(零戦)指揮官・進藤三郎大尉の命令書(軍機) 11月中旬には、各母艦は飛行機隊を収容し、可燃物、私物の陸揚げや兵器弾薬、食糧の最後の積み込みを終え、佐伯湾に集結した。 赤城が佐伯湾を出たのは、11月18日のことである。行動を隠匿するため、出航と同時に、各艦は厳重な無線封鎖を実施した。 空母6隻を主力とする機動部隊は北へ向かい、千島列島の択捉島(えとろふとう)単冠湾(ひとかっぷわん)に集結した。湾の西に見える単冠山は、すでに裾まで雪に覆われていた。11月24日、6隻の空母の全搭乗員が赤城に集められ、真珠湾の全景模型を前に、米軍の状況説明と作戦の打ち合わせが行われた。機動部隊の行動についてはもちろん、攻撃隊の編成や各隊ごとの無線周波数など、詳細な作戦計画が、すでにでき上がっていた。進藤が保管していた機密書類はこの日の日付から始まっている。 11月26日、機動部隊は単冠湾を抜錨、各艦、単冠山に向かって副砲、高角砲の試射を行った。凍てつく空気に、砲声が轟いた。艦隊はそのまま針路を東にとった。 「自信を持って戦いに臨める。しかし、今度こそは生きて帰れないだろうな」 と、進藤は、遠ざかってゆく雪の単冠山を見ながら、しばし物思いにふけった。 時化模様の航海が続いた。護衛の戦艦、巡洋艦、駆逐艦、補給船、潜水艦など、総勢31隻もの艦隊を、隠密裏にハワイ北方までたどり着かせなければならない赤城艦上の機動部隊司令部は緊張の連続だった。 12月1日、機動部隊は日付変更線を越えた。機動部隊は日本時間で行動するので、時差で時間感覚がずれてくる。この日の御前会議で、日本は英米との開戦を決定する。 12月2日、「新高山ノボレ 一二〇八」 という暗号電報が、聯合艦隊司令部より届いた。これは、「X日(開戦日)を12月8日とす」という意味である。開戦は、12月8日午前零時��決まった。ただし、日米の外交交渉次第では、まだ作戦が中止になることもあり得る。しかし反転命令は出ず、矢はついに弦を放れた。 12月8日午前1時半(日本時間)。第一次発進部隊が次々と6隻の空母を発艦した。 第一次発進部隊は、零戦43機、九九艦爆51機、九七艦攻89機(うち雷撃隊40機、水平爆撃隊49機)、計183機で、総指揮官は淵田美津雄中佐である。第一次攻撃では、雷撃隊が二列に並んで停泊している米戦艦の外側の艦を攻撃、水平爆撃隊が上空より内側の艦を爆撃する。さらに艦爆隊は飛行場施設を爆撃することになっていた。 そこらじゅうで火柱が 九九式艦上爆撃機。急降下爆撃を行う 機動部隊の各母艦では、第一次の発艦後、すぐに第二次発進部隊の準備が始められた。 第二次は零戦36機、九九艦爆78機、九七艦攻(水平爆撃のみ)54機、計168機が発艦し、うち零戦1機と艦爆2機が故障で引き返している。こんどは、艦爆が第一次で撃ちもらした敵艦と飛行場を狙い、艦攻が敵飛行場を水平爆撃することになっていた。 赤城から発艦するのは、零戦9機と九九艦爆18機。2時13分、進藤の搭乗する零戦、A1(本来はローマ数字だが、機種依存文字のためアラビア数字で表記)‐102号機は、その先頭を切って発艦した。第二次発進部隊の総指揮官は瑞鶴艦攻隊の嶋崎重和少佐、進藤は、制空隊(零戦隊)全体の指揮官を務める。 「第一次の発進を見送ったときにはさすがに興奮しましたが、いざ自分が発進する段になると平常心に戻りました。真珠湾に向け進撃中、クルシーのスイッチを入れたら、ホノルル放送が聞こえてきた。陽気な音楽が流れていたのが突然止まって早口の英語でワイワイ言い出したから、これは第一次の連中やってるな、と奇襲成功を確信しました」 第一次に遅れること約1時間、真珠湾上空に差しかかると、湾内はすでに爆煙に覆われ、ものすごい火柱が上がっていた。心配した敵戦闘機の姿も見えない。空戦がなければ地上銃撃が零戦隊の主任務になる。進藤はバンクを振って(機体を左右に傾ける合図で)各隊ごとに散開し、それぞれの目標に向かうことを命じた。 「艦攻の水平爆撃が終わるのを待って、私は赤城の零戦9機を率いてヒッカム飛行場に銃撃に入りました。しかし、敵の対空砲火はものすごかったですね。飛行場は黒煙に覆われていましたが、風上に数機のB-17が確認でき、それを銃撃しました。高度を下げると、きな臭いにおいが鼻をつき、あまりの煙に戦果の確認も困難なほどでした。それで、銃撃を二撃で切り上げて、いったん上昇したんですが」 頭によぎった最悪のシナリオ 開戦を告げる昭和16年12月9日の新聞紙面 銃撃を続行しようにも、煙で目標が視認できず、味方同士の空中衝突の危険も懸念された。進藤は、あらかじめ最終的な戦果確認を命じられていたので、高度を1000メートル以下にまで下げ、単機でふたたび真珠湾上空に戻った。 「立ちのぼる黒煙の間から、上甲板まで海中に没したり、横転して赤腹を見せている敵艦が見えますが、海が浅いので、沈没したかどうかまでは判断できないもののほうが多い。それでも、噴き上がる炎や爆煙、次々に起こる誘爆のすさまじさを見れば、完膚なきまでにやっつけたことはまちがいなさそうだと思いました。胸がすくような喜びがふつふつと湧いてくる。 しかしそれと同時に、ここで枕を蹴飛ばしたのはいいが、目を覚ましたアメリカが、このまま黙って降参するわけがない、という思いも胸中をよぎります。私は昭和8年、少尉候補生のときの遠洋航海でアメリカに行き、そのケタ違いの国力と豊かさをまのあたりにしていますから、タダで済むはずがないことは容易に想像できる。これだけ派手に攻撃を仕掛けたら、もはや引き返すことはできまい。戦争は行くところまで行くだろう、そうなれば日本は…………負けることになるかもしれないと、このときふと考えました」 空襲を終えた攻撃隊、制空隊は、次々と母艦に帰投し、各指揮官が発着艦指揮所の前に搭乗員を集め、戦果を集計した。進藤は、赤城の艦爆隊と合流して帰還した。南雲中将が、わざわざ艦橋から飛行甲板上に下りてきて、「ご苦労だった」と進藤の手を握った。 ほどなく、最後まで真珠湾上空にとどまっていた総指揮官・淵田中佐の九七艦攻が帰艦する。大戦果の報に、艦内は沸き立った。しかし日本側にとって残念なことに、いるはずの敵空母は真珠湾に在泊していなかった。 艦上では、第三次発進部隊の準備が進められている。蒼龍の二航戦司令官・山口多聞少将からは、蒼龍、飛龍の発艦準備が完了したとの信号が送られてきた。しかし、南雲中将は、第三次発進部隊の発艦をとりやめ、日本への帰投針路をとることを命じた。 激しい戦闘の代償 日本機の空襲を受けるハワイ・真珠湾の米艦隊 「当然もう一度出撃するつもりで、戦闘配食のぼた餅を食いながら準備をしていましたが、中止になったと聞いて、正直ホッとしました。詰めが甘いな、とは思いましたが…………」 体調不良を押してここまできたが、ようやく任務が果たせた。緊張の糸が切れた進藤は、そのまま士官室の祝宴にも出ず、私室で寝込んでしまった。 真珠湾攻撃で日本側は、米戦艦4隻と標的艦1隻を撃沈したのをはじめ、戦艦4隻、その他13隻に大きな損害を与え、飛行機231機を撃墜、あるいは撃破するなどの戦果を挙げた。資料によって異なるが、米側の死者・行方不明者は2402名、負傷者1382名を数えた。いっぽう、日本側の損失は、飛行機29機(第一次9機、第二次20機。うち零戦9機、九九艦爆15機、九七艦攻5機)と特殊潜航艇5隻で、戦死者は64名(うち飛行機搭乗員55名。別に、12月9日、上空哨戒の零戦1機が着艦に失敗、搭乗員1名死亡)。米軍の激しい対空砲火を浴びて、要修理の飛行機は100機あまりにのぼった。 ――ちなみに、真珠湾攻撃当時、連合艦隊司令長官・山本五十六大将57歳、機動部隊指揮官・南雲忠一中将54歳、航空参謀・源田実中佐37歳、攻撃隊総指揮官・淵田美津雄中佐39歳、第二次発進部隊指揮官・島崎重和少佐33歳、雷撃隊指揮官・村田重治少佐32歳、第一次制空隊指揮官・板谷茂少佐32歳、第二次制空隊指揮官・進藤三郎大尉30歳、加賀戦闘機分隊長・志賀淑雄大尉27歳、そして昭和天皇40歳だった。 真珠湾攻撃の帰途、二航戦の蒼龍、飛龍は、ウェーク島攻略作戦に参加するため、本隊を離れた。残る赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴は、12月23日から24日にかけ瀬戸内海・柱島の泊地に投錨する。各艦の飛行機隊は、零戦隊は佐伯基地経由で岩国基地へ、艦爆、艦攻は鹿屋基地経由で宇佐基地へと向かい、ここでしばしの休養が与えられた。 進藤は、12月25日、岩国基地から呉海軍病院に直行し、軍医の診察を受けた。診断の結果は、「航空神経症兼『カタール性』黄疸」、二週間の加療が必要とのことで、そのまま入院することになった。十二月三十日付で赤城分隊長の職を解かれ、さしあたって任務のない「呉鎮守府附」の辞令が出る。この日から広島の生家での転地療養が認められ、進藤は、ひさびさに正月を両親と迎えることができた。 再び始まる苦しい戦い 昭和17年11月、進藤大尉がラバウルに向け出発直前、東京駅にて 「海鷲・進藤大尉」の帰郷は誰からともなく近所に伝わり、毎日のように真珠湾の話をねだりに客がやってくる。子供たちは、道で進藤の姿を認めると、憧憬のまなざしで、直立不動になって挙手の敬礼をした。 真珠湾攻撃から帰った進藤は、療養生活を送ること2ヵ月半、ようやく黄疸の症状もおさまり、昭和17(1942)年2月12日、〈大分海軍航空隊司令ノ命ヲ受ケ服務スベシ〉の辞令を受けて大分空に着任。四月一日、戦闘機搭乗員の訓練部隊として徳島海軍航空隊が新たに創設されると、その飛行隊長兼教官に補せられた。 最前線・ニューブリテン島ラバウルで作戦中の第五八二海軍航空隊飛行隊長兼分隊長への転勤辞令が出たのは、昭和17年11月8日のことである。処分しそびれていた真珠湾攻撃の軍機書類の保管を元海軍機関大佐の父に託してラバウルに向かう。五八二空に着任したとき、進藤は新たに部下となる隊員たちに、 「海軍戦闘機隊のモットーは編隊協同空戦だ。搭乗員が戦果を挙げる陰には、整備員や兵器員といった裏方の努力が不可欠である。けっして一人の手柄を立て���うなどとは思わず、より長く、より強く、一致団結して戦い抜くように」 と訓示をした。そして、進藤の長く苦しい戦いがここから始まる。
1941年12月8日の「真珠湾攻撃」に「零戦35機」を率���て参加した当事者の「貴重な証言」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース
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hachikenyakaiwai · 2 years ago
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【かいわいの時】嘉祥三年(850)九月八日:八十島祭を行う(八十島祭の初見)
難波宮と摂津職が廃止された後にも、難波津において繰り返される宮廷祭祀があった。それは八十島祭と、伊勢斎王の解斎の禊である。いずれも前代からの伝統を引く古い行事であって、 平安時代に入って始められたものではない。 八十島祭は、即位儀礼の一環として挙行される神事で、大嘗祭の翌年に後宮の内侍司の女官が祭使として難波津に下向して生島足島神(大八洲之霊)を祭るものであった。
この神事は五世紀以来の古い即位儀礼の名残で、本来は全国土の国魂を新しい天皇の身体に付着させる呪儀であったらしく、奈良時代には、天皇自身が難波津に赴いて行っていたと推測される(第一巻第四章第四節1参照)。
しかし、史料に残る明らかなものはほとんど平安時代のものである。その初見は『日本文徳天皇実録』にみえる文徳天皇の即位に伴う嘉祥三年(八五〇) 九月のものである。鎌倉時代初めの後堀河天皇の元仁元年 (一二二四)まで行われ、以後廃絶した。この間約四〇〇年近くの間に、史料にみえるものは、二二回を数える。この祭儀は六国史には記載しないのが原則だったようで、その後も『日本三代実録』には記載がない。光孝天皇の場合も、『帝王編年記』に記載されるものである。恐らく記録に残らぬものが多かったに違いない(『新修大阪市史 2』)。
(写真)METで展示されている俵屋宗達「源氏物語関屋澪標図屏風」(ニューヨークビス03/09/2019)=ニューヨーク(撮影・吉田)
御社立ちたまて、所々に逍遥を尽くしたまふ 難波の御祓へ、七瀬によそほしう仕まつる 堀江のわたりを御覧じて 今はた同じ難波なると 御心にもあらで うち誦じたまへるを
御社をご出発になって、あちこちの名所に遊覧なさる。難波のお祓い、七瀬に立派にお勤めになる。堀江のあたりを御覧になって、「今はた同じ難波なる」と、無意識のうちに、ふと朗誦なさったのを(渋谷栄一訳)
住吉詣で偶然に元カノ(明石の上)とニアミスし動揺する源氏(当時29歳)。「今はた同じ難波なる」とは、百人一首にもみえる元良親王(890-943)の歌で、上の句の「わびぬれば今はた同じ難波なる」からとられています。源氏の心中にはもちろん「身をつくしても逢はんとぞ思ふ」という下の句が隠されていることでしょう。さて、かいわいに関係のある箇所といえば、もちろん、「堀江のわたり」。屏風では明石の上の乘る舟が描かれています。
源氏物語の注釈書の一つ『花鳥余情』(一条兼良1472)に「代始に八十嶋祭難波にてあり、典侍の人御衣をもちて参向して解除する事あり これみな難波のはらへの例也」とあり、「七瀬」と「八十島祭」は同じようなものとして扱われています。紫式部の時代の八十島祭は、三条天皇の長和二年(1013)十月、後一条天皇の寛仁元年(1017)十二月が記録に残っています。
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myonbl · 8 months ago
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2024年8月16日(金)
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今日は<五山の送り火>、初めて見たのは高校生の頃だったと思う。友人と来て出雲路橋あたりで凄い人混みを体験した。もちろん、近年はKBS京都(たまにNHK)のラ��ブ映像を楽しむ。今回初めて知ったのは、最後の<鳥居形>だけ炎の色が違うこと、鳥居だけにより朱い色となるように脂分の多い薪を使っているそうだ。あれ、<舟形>だけテロップが入っていない、これは失礼しました。
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5時起床。
日誌書く。
体重は300g増。
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蕎麦の解凍を忘れたので、素麺をいただく。
珈琲。
洗濯。
可燃ゴミ、30L*2。
セントラルスクエア花屋町店まで買い物、猫砂・カルカン(¥3,051)。
資料整理。
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ランチ、ツレアイには伊勢うどん、三男にはサッポロ一番塩ラーメン。
彼女を職場まで送る、今日は午後から。
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ライフ西七条店で買物、玉乃光・カツオのたたき・ナス(¥2,012)。
午睡。
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夕飯は、さんだかんベーコンとナスの炒め煮、カツオのたたき、キュウリのしょうゆ漬け、レタスとトマト、それに奥川ファームの西瓜を付ける。
彼女の方は午後から一人勤務だったとのことで、退勤直前に訪問以来で遅くなった。
KBS京都で送り火のライブを楽しむ。
録画番組視聴、刑事コロンボ。
第27話「逆転の構図」/ Negative Reactionシーズン 1, エピソード 27 カメラマンのポール・ガレスコは、長年自分を押さえつけてきた妻の殺害計画を実行していた。まず、新聞の切抜きで脅迫状を作り、町はずれの空き農家に連れ出して縛りつけ、午後2時に合わせた時計が入るアングルで写真を撮ってから射殺。その後、正しい時間に時計を直すと、スタジオに電話をかけた。
途中で睡魔に襲われてダウン。
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ムーブがほんの少し足りなかった、悔しい。
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kou-f · 1 year ago
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日曜は七五三やけど、
土曜(というか明日?)は学校の音楽発表会らしい。
動画で撮らないとね。体育館は寒そうだ。
音楽発表会といえば1~2年前かな?
保育園の音楽発表会の練習をしてる時、
先生がうちの子に指示があまり通ってないのをみて
「あれ?」と思ったらしい。
軽度の場合、「ASD」と「そういう性格」の違いを
見分けるの難しいと思う。
でも先生はうちの子をよく見ててくれて
かなり早い段階で行政の福祉窓口に相談することができた。
ホント保育園の先生には感謝してもしきれないね。
小学校に上がってからは通級の先生や担任の先生のご配慮もあり
今のところ、学校生活も大きなトラブルなく過ごせているらしい。
閑話休題。
発表会では歌と合奏をするけど、
うちの子は鈴担当とのこと。
楽しみだね。
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indigolikeawa · 10 months ago
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2024年6月27日木曜日
病院の待合室にて21
くちずさむ歌はなんだい?思い出すことはなんだい?(3)
 私が道を盛大に間違えたおかげで(せいで、じゃないです)、ビジネスホテルに着いた頃にはもう午後四時過ぎになっていた。中がどうなっているか未だによくわからないエレベーターみたいな立駐に車を突っ込んでチェックインし、荷物を部屋に放り込んで街へと繰り出した。駅の近くにホテルを取ったと思っていたのが、間違えて歓楽街の近くにホテルを取っていたおかげで(せいで、じゃないです)、すぐに良さそうな飲み屋があった。準備中とある。「何時からですか!」「五時!」まだ五時にもなってなかった。何軒か見て回ったが、最初のところが良さそうだったので、歓楽街をぶらぶらしたり、ソープランドのキャッチのおじさまに「どうですか?」と聞かれたのに対して「お疲れ様です!」と返したり(私が)、全ての成人した徳島県民が一度は待ち合わせしたことがあるであろう「アクティ前」の植え込みの階段になっている部分に腰を下ろしたりして時間を潰した。五時になった。「いいですか!」「七時までな!(七時からは予約でいっぱいでよ)」ということで無事に居酒屋に入店した。ビールだー!やったー!私がアルコールを口にするのは去年の忘年会/送別会以来のことなのだ。Tくんも私と同じように盛り上がっていたが、この人お昼もラーメン屋で瓶ビール飲んでました。私は忘れていません。ともかく乾杯だ。
 あなたの人生には後悔がありますか?私にはあります。ここのお店で私たちが注文したメニューは、鯖の棒鮨、阿波尾鶏の唐揚げ、馬刺し、そして多量の生ビールだった。ねえ…お料理少ないって。どれもめちゃくちゃおいしかったのに、話に夢中で全然追加注文しないでやんの!ビールばっか飲んで!もっとお料理注文しないと!本当に後悔!いや、私が悪いよ、Tくんは全然悪くない。私がどんどん食べてどんどん注文すべきだったよね。そうしないとTくんも食べづらいよね。徳島の美味しいものをこれでもかと持ってきてもらうべきだった。何のために徳島に来てもらったのか。あのお店また行こう。今度は予約していこう。それは別の誰かと行くか、一人で行くということになるような気がする。ごめんねTくん。Tくんがまた来るって言うんなら止めないけどさ。(お料理の写真も当然撮ってません)
 私たちが夢中になって話していたこと、そんなのはもちろん昔話��った。今年で四十歳になる中学の同級生ふたりが居酒屋で夢中になって話すことなんて絶対に昔話だった。例えば。
「あのさ、僕ら主催ライブをやったよね?あれってさ…高校生になってたっけ?」
「いや、あれは中三の時だよ。あの時ね、なん���みんな煙草吸ってたでしょ?ガイアの前の道でもみんな普通に吸ってたから、近所の人なのか分からないけど、知らないおばさんに『あんたたち中学生でしょ?みんな煙草吸ってるけど、いいと思ってんの?』って言われて、『ああー、私高校行けない可能性出てきたなあ』ってぼんやり不安になったもん」
「あれ中三の時だったんだね。信じられないなあ。今でも夢だったんじゃないかと思うよ」
 そう、私とT君で組んでいたバンドは主催ライブを行った事がある。あれは中三の…あれ?なんとなく春休みにやった記憶があるから、まだ中三になってないのかな?それとも中学卒業と高校入学の間の春休み?まあともかく、バンドメンバーである私とT君ともう一人のドラムを叩いてた子は、まだ全員十四歳か十五歳だった、と思う。会場はclub gaiaというクラブだった。JR沼津駅から徒歩六分(今調べました)、現在はもう閉店してしまったようだが、当時はもちろん営業中で、おそらく昼から夜にかけてはバンドのライブなどをやっていて、深夜帯はパーティーを中心としたクラブ営業をやっていたのではないかと思う。今ですらこんなあやふやな想像しかできないが、当時はそんなことは何ひとつ知らず、ありきたりな憶測すら出来ていなかったはずなのに、よくやったもんである。そもそも我々はこのclub gaia を電話帳で発見した。我々は電話帳を本当によく活用していたバンドだった。練習スタジオ(いわゆるリハスタ)が実はもっと近所にあるのではないか、と思って電話帳で探し、「スタジオなにがし」みたいなのを見つけて「あった!」と思いチャリで行ってみると、「バレエ・スタジオだった!がっかり」ということはザラだった(電話してから行きなよ。電話帳でしょ)。レコ屋を探してみたり、ライブハウスを探してみたり、同級生の自宅の電話番号を探してみたり(本当の話である。当時の我々は電話帳から同級生の家電(いえでん)を探し当てるくらいの能力は備えてしまっていた。携帯なかったしね。いきなり自宅に直電し、「君!ドラムに興味ないか!あるなら我々とバンド活動をしようではないか!」と勧誘したりしていた。今考えると完全にどうかしている)電話帳は情報の宝庫だった。そして電話帳の「ライブハウス/クラブ」の欄に載っていたお店のひとつがclub gaiaだった、と思う。我々捜索隊はそれを電話帳に発見するやいなや、ただちに現場に急行した(電話しなよ。まあ今考えるとビビってたんだと思われる。あと電話する用件がない。建物を見たいだけだから)。gaiaは割と住宅街の中にあり、我々の持つ手がかりは住所しかないため(実際は電話番号も知っているけども)捜索は難航したのだが、日没前に見つけることができた。「おおー、あるんだ」と言ってその日は帰った。中学生は本当に暇である。本日の我々くらい時間が有り余っていた。
 我々のバンドは「パンジー」と言って、もちろん花の名前からとったのであるが、「パンクでノイジー」というとても中学生的な意味もあった。パンジーは後に「ルーラ」という名前になったり、「べとべとさん」という名前になったり、「べとべとさんとぶるぶるちゃん」という名前になったりしたが、ここではパンジーという名義で統一する。パンジーはgaiaで主催ライブをする前に、国道一号線のとある交差点の北東にあったすみや(同じ交差点に「すみや」というグループのお店は三店舗あり、北東にあるのが楽器屋とスタジオ、南東がパソコン館、南西がCD屋だった。ちなみに北西はファミマ)の二階のスペースで開催されていた”Get in Live”(「入れライブ」て)で2回演奏した事があった。その二回のライブを経て、我々はライブハウスなどでも演奏したい!と思ったのだ。普通はブッキングライブに出よう、となりそうなもんなんだが、そういう仕組みは知らなかったのかな。あと沼津にはそういうライブハウスが多分なかった。三島にはゴリラハウス、富士にはアニマルハウスというライブハウスがあって(動物ばっかり。かわいい)、多分ブッキングライブなどもやっていたと思うが、我々は沼津市民だから沼津でライブしよう、レペゼン沼津!…と思ったのかな?忘れました。
 中学生で主催ライブを行うなんてもの凄いことのような気がするが、細かいことは全然覚えていない。ここから先は(何ならここまでも)すべてうろ覚えですので、そこんとこよろしくお願いします。我々も含めて多分バンドは四つ出た。パンジーと飲波波波(ヤンパパパと読みます。金岡中のバンド)とあと二つのバンド(名前は失念)。もちろん昼の時間帯。私たちはなぜか最初に出たような気がする。演奏は多分めちゃくちゃ。コピーがメインだけど、オリジナルも演奏したような気がする。演奏が終わって誰かに「お疲れ様です」って言われて、「わあ、ミュージシャンみたい!」って嬉しかった記憶がある(そこ?)。クラブを借りるお金を捻出するために前売りチケットを売ったと思う。チケットはgaiaの人がデフォルトみたいなやつを作ってくれたのか、我々で作ったのか覚えていない。当日券で来る人もいた気がするが、いずれにせよライブの途中から適当になり、最終的にはフリーライブみたいになった。めちゃくちゃお客さん入ってた。そしてほとんどの人が煙草を吸っていた(みんな中坊。高坊もいたのかな?)。ライブはかなり盛り上がっていたと思う。gaia使用料の精算時、あんなに人が入っていたのに、お金が少し足りなかったので、「どうしよう…」となっていたら、対バンの誰かが「なに?足りないの?じゃあちょっと金作ってくるわ」と言って街へ消えていき、金を作って戻ってきた。お金って作れるんですね。全て終わって最後にみんなでフロアを掃除した。めっちゃ吸い殻落ちてた。あんなに大量の吸い殻を見たのは、四十年近く生きてきたがあの時だけである。
 確かに今でもこんな主催ライブをしたのはあんまり信じられない。というか飲んでる時はこんなに細かく話していない。細かく話せば良かった。絶対盛り上がったのに。あとこの文章を書くに当たっても、あの時話しておけば、視点がもうひとつ増える事で正確性を増す事ができたのに。またしても後悔。後悔ばっかり増えている。酒の席の反省なんてしてはいけないのかもしれない。
つづく
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longgoodbye1992 · 2 years ago
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田園の中の喫茶店にて
最近単発のバイトに中々入れず、退屈な日々を過ごしている。
前のようにパチスロに行く気もなくなり、秋が深まる山やら滝やらに行っては数枚の写真を撮って帰る。
普段カフェインを控えているが、温かい珈琲が美味しい季節になったから、前から気になっていたカフェを周り始めた。
今日来たところは木曜から土曜までしか営業していない、海の側から少し山に入った田園地帯の真ん中にある喫茶店だ。
古民家のような外見から中に入ると立派な梁がある。ピアノやギター、コントラバスまであって、音楽イベントをやっていると聞いた。
オリジナルの珈琲を頼む。
客は自分ひとりで、お店の人も一人だった。
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窓際のいい席に座れた。文庫本を開いてたまに外を見るというのを繰り返す。
すると車が店の前に止まり、女性が一人店の中に入ってきた。
予約していた人なのだろうか、店主は女性の顔を見ると豆を挽き始めた。
香ばしい香りが店内に広がる。
読んでいた桜木紫乃の短編小説にいいアクセントをくれる。
七、八分くらいしてそれが出来上がったようで、女性は袋を持って会釈しながら店を出た。
それから五分ほどして、店主が申し訳無さそうに、珈琲カップを持ってきた。
「大変お待たせしました」
「いえいえ」
「エチオピアです」
「ありがとうございます」
���しこれが町中にあるチェーン店のコーヒーショップならクレームを入れる人もいるだろう。
でもここは時がゆっくり���む田んぼの真ん中の喫茶店。早さなんか求めてはいない。
大人の例えをするならば、メイクをしている相手を待っている時間と同じで、完全に相手が美しい状態で出てくるのはどれだけ待ってもいい。
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珈琲を一口飲む。取っ手が無いタイプだから少し指が熱かったがそれもいい。
あっさりした飲み口だがコクがある。苦味は程々で酸味はあとに少し残るくらい。バランスの良い味で、毎日飲むのにはうってつけの味だった。
小説を読み終えて文章を書く。
聞こえるのは少し前にオーダーした珈琲牛乳を作る音と外にいるカラスの声。
そういえば、と思い出したのは自分の誕生日と一ヶ月違いで大学の同期だった香菜の事。今日がその誕生日だったのをスマートフォンの日付を見て思い出した。二年前くらいに突然泣きながら電話があって以来、たまにやり取りをする。
香菜とは色々あった。大学に入って最初に仲良くなった女の子が香菜で、初めて女の子の部屋に泊まったのも彼女の部屋だ。不思議なものでそんな関係だったにも関わらず、ある時期から互いを嫌うようになって口も聞かなければ目も合わせなくなった。
だから泣きながら電話してきたのは何故なのかわからなかったが、それをすんなり受け止めて泣き止むまで話を聞き続けた自分もどうしてなのかわからない。
とりあえず誕生日メッセージを送っておいた。
珈琲牛乳がテーブルに置かれる。
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昔、母親が作ってくれたような優しい甘さ。
ミルクの膜があってそれをスプーンですくって食べるのが好きだ。
村上春樹の短編を読む。三分で読み終わるくらいあっさりしたものだが、村上春樹の色が確かにそこにあって、純粋にさすがだなと思った。
まだ外でカラスが鳴いている。洗い物をする店主の息遣いと厨房の奥で流れるピアノの音楽が微かに背中越しに聞こえる。
香菜から返信が届く。
お礼と今度公開される映画の監督を務めた事を報告してきた。
おめでとう。さすがだね。と返した。香菜はずっと優秀だった。いや、人に評価されるのが得意だった。作った作品を面白いと思ったことはないが、教員や審査員たちに認められる物を多く作っていた。 
反対に俺は落ちこぼれのような物で、自分主演のハードボイルド作品を作ったり、クドカンもどきの恋愛コメディを書いたりしては、不評を買っていた。
そんな二人が今こうして連絡を取り合ってるのを同期が聞いたら驚くだろう。
そんな事を考えていたら珈琲牛乳が温くなってしまった。
閉店時間も近い。
家に帰りたくない。
ずっとこんな風にどこかの店の片隅で本を読んだり下手な文章を書いたり誰かと話をしていたい。
窓の外の田んぼからは、稲のひこばえが大きく育っている。もう秋も深いというのに元気だ。
店にあるアコースティックギターを弾きたいなと思ったが、恥ずかしいので店主に言えないまま店を去る。
夕飯なのか夜の部の仕込みなのかコンソメスープの香りがした。
家の今夜の晩御飯はヒレカツだ。
今日もまた酒を飲んで睡眠薬を一錠多めに飲んで寝るのだろう。最近上手く眠れない。
明日は面接。
帰りにまた寄ろうかな。
この田園の中の喫茶店に。
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ari0921 · 1 year ago
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)2月8日(木曜日)
   通巻第8122号 <前日発行> 
三亜は「中国のハワイ」であるとともに、大海軍基地である。
  不動産バブルはすでに15年前、海南島ではじまっていたのだ
*************************
 十五年前のことである。
初回の海南島訪問はその十年ほど前で、北側の港町=海口のホンダの偽バイク工場取材だった(取材は失敗、その後、ホンダが贋物工場を買収した)。ついでに南端の三亜まで長距離バスで七時間かけて足を伸ばし、戦争中に日本軍が敷設したレーダーサイトや西海岸に開通させていた鉄道(SLがまだ動いていた)。この頃は海南島では観光客誘致に熱心でアライバルヴィザを例外的に発効していた。四半世紀前まで中国旅行には逐一ヴィザが要求された。
 弐回目は海口から三亜へ新幹線が繋がったというので試乗がてら途中のボーアオ(中国版ダボス会議)も取材する予定だった。
さて三亜での驚きはリゾートマンションがにょきにょきと林立していたことだ。飛行機の窓から夢中に撮影したが、あんなに壮大に高層マンションを建てて、購入した人は果たして何人いるのだろうか? 
 三亜は「中国のハワイ」であるとともに、大海軍基地である。町で不動産屋の店先で物件のビラを眺めていたら、店員が飛びだしてきた。なるほど、売れていない証拠である。
 三年前から中国の不動産バブルが瓦解し、大手デベロッパーが軒並み債務不履行におちいったことは周知の事実。習近平自身が「マンションは人の住むところだ」と当たり前のことを発言した。多くが投機用に建てられたもので、2024年二月時点で、工事中断物件は数千とも数万ともいわれ、売れ残りを最低に見積もっても1億5000万戸ある。
 恒大集団は1月28日、香港で精算命令がだされた。CEOの許家印が所有した香港の豪邸は競売に付された。ところが、豪華すぎて買い手がいない。
恒大集団幹部たちはごっそり逮捕され、整理精算��ようにも、なにから手をつけてよいか分からない。とりあえず二つの子会社を五鉱山国債信託に売却した。 
 海外を含めて資産売却を急ぐ最大手の碧桂園はロンドンに4億5000万ポンド(5億7000万ドル)を投じた開発プロジェクトを売りに出した。世界最大の不動産仲介コンサルティング「ナイト・フランク」社は、碧桂園の子会社「リスランドUK」からエルサホー大団地(62エーカー、952戸)の売却仲介を依頼され��いると発表した。
碧桂園はシドニーに保有した物件をすべて手放したほか、広州の高層ビルやフェニックスホテル等五軒を売却した。
 中国オーシャンワイドHD社はサンフランシスコに建てた高層タワーが差し押さえとなったと発表した。まだ「広州富力地産」はロンドンの広大な物件二件を売却した。これらは「氷山の一角で」しかなく、夥しい中国企業が外国の不動産を売却し、また富裕層は手元資金不如意となったため海外物件の売却を急いだ。
中国政府は外貨不足を補えるため、海外物件売却を奨励した。
また工事中断物件を完成させよとして特別融資をおこなうなどモラトリアム政策を適用している。「こうした休載政策は逆効果になる」と米紙ウォールストリートジャーナルが警告してきたが、自由主義市場経済ではない中国では、独自の路線を選択、さらに凄絶な破滅の道を驀進中だ。
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moko1590m · 2 years ago
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性的な姿態を撮影する行為等の処罰及び押収物に記録された性的な姿態の影像に係る電磁的記録の消去等に関する法律案    第一章 総則 第一条 この法律は、性的な姿態を撮影する行為、これにより生成された記録を提供する行為等を処罰するとともに、性的な姿態を撮影する行為により生じた物を複写した物等の没収を可能とし、あわせて、押収物に記録された性的な姿態の影像に係る電磁的記録の消去等の措置をすることによって、性的な姿態を撮影する行為等による被害の発生及び拡大を防止することを目的とする。    第二章 性的な姿態を撮影する行為等の処罰  (性的姿態等撮影) 第二条 次の各号のいずれかに掲げる行為をした者は、三年以下の拘禁刑又は三百万円以下の罰金に処する。  一 正当な理由がないのに、ひそかに、次に掲げる姿態等(以下「性的姿態等」という。)のうち、人が通常衣服を着けている場所において不特定又は多数の者の目に触れることを認識しながら自ら露出し又はとっているものを除いたもの(以下「対象性的姿態等」という。)を撮影する行為   イ 人の性的な部位(性器若しくは肛(こう)門若しくはこれらの周辺部、臀(でん)部又は胸部をいう。以下このイにおいて同じ。)又は人が身に着けている下着(通常衣服で覆われており、かつ、性的な部位を覆うのに用いられるものに限る。)のうち現に性的な部位を直接若しくは間接に覆っている部分   ロ イに掲げるもののほか、わいせつな行為又は性交等(刑法(明治四十年法律第四十五号)第百七十七条第一項に規定する性交等をいう。)がされている間における人の姿態  二 刑法第百七十六条第一項各号に掲げる行為又は事由その他これらに類する行為又は事由により、同意しない意思を形成し、表明し若しくは全うすることが困難な状態にさせ又はその状態にあることに乗じて、人の対象性的姿態等を撮影する行為  三 行為の性質が性的なものではないとの誤信をさせ、若しくは特定の者以外の者が閲覧しないとの誤信をさせ、又はそれらの誤信をしていることに乗じて、人の対象性的姿態等を撮影する行為  四 正当な理由がないのに、十三歳未満の者を対象として、その性的姿態等を撮影し、又は十三歳以��十六歳未満の者を対象として、当該者が生まれた日より五年以上前の日に生まれた者が、その性的姿態等を撮影する行為 2 前項の罪の未遂は、罰する。 3 前二項の規定は、刑法第百七十六条及び第百七十九条第一項の規定の適用を妨げない。
●性的な姿態を撮影する行為等の処罰及び押収物に記録された性的な姿態の影像に係る電磁的記録の消去等に関する法律案
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yutakayagai · 2 years ago
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千明は、JR御茶ノ水駅から総武・中央線で秋葉原駅で行き、京浜東北線に乗り換え、上野駅から常磐線で水戸に帰った。
「フレッシュひたち」に十七番ホールから乗り、途中で買った缶チューハイを飲みながら特急が動き出すのを待った。
この四十三年間、家族旅行は大概熱海か伊東だった。ディズニーランドも行ったが、それ以外にはなかった。父は地方公務員で、母は保健師をしていた。二人とも忙しく、独りで過ごすことが多かった。
思春期になり、声変わりをして下半身に体毛が生え始めた時、当時通っていた中学校の保健体育の男性教師に片想いをした。年齢は今の千明と同い齢で、サッカー部の顧問もしていた。
ある夏の日、その教師が更衣室でポロシャツとハーフパンツに着替えるのを、中学生の千明は更衣室のドアが僅かに開いていた隙間から見てしまった。ちょうどビキニブリーフ一枚だけの姿で股間の膨らみが視界に入った時、彼は生まれて初めて性衝動を覚えたのだ。前の日に男女の生殖器について習ったばかりだったので、彼は現実に一物がその欲求によって勃起していくのを経験した。
その後、同級生との談笑の中で自慰行為を知った。一物の包皮が剥けない状態ではあったが、あの光景を思い出しながら上下に擦った。次第に包皮も伸びて紅潮した芯が剥き出し、先走り汁で右手が汚れていくのを目前に、千明は罪責感を抱えながらもエクスタシーに酔っていった。そして、
「あっ、あん、ああんッ!」
と、裏声を上げた途端にピュッと跳んだ後にドクッ、ドクッと黄色がかった愛液をトイレの床にまき散らした。栗の花に似た臭いが漂う中で、彼はこれまで身に感じたことのない解放感を覚えた。
この感覚を味わう為に、その体育教師が着替える時間が近づくと、千明は誰もいないことを確認したうえで視姦を繰り返した。時折、ビキニブリーフの膨らみが大きいことがあり、彼は生唾を呑んだ。そして、トイレの個室にこもっては自慰行為をした。
ある日、千明が周囲に誰もいないことを確認し、いつもの様に更衣室を覗こうとした時、背後から声がした。
「君、職員更衣室の前で何やってるの?」
その声にビクッと彼は驚き、そっと振り向いた。そこには髪を七三分けにした、白衣を着た男性教師が���っていた。彼は言った。
「いつも山本先生が着替えている時に君、来てるよね」
「ご、御免なさい…」
「ちょっと、一緒に来てもらえるかな?」
千明は、その男性教師の言う通りについていった。怒られるのかな、と彼は思った。
連れて来られたのは、理科準備室だった。室内から鍵をかけられ、向かい合うと突然股間を弄られた。
「!」
「君、勃ってるじゃないか。先生、知ってるンだよ。君がトイレでオナニーしてるの。山本��生、カッコイイもンなァ…。実は、先生のセフレなンだよ。チ○ポでかいから、いつもイッちゃうンだよ」
「や、やだ…」
後退りしながらも恐怖のあまりに身体が硬直していた。気付くとベルトを解かれ、スラックスを下ろされた。赤と青のラインがはしったウエストゴムのセミビキニブリーフの中央が隆起し、じんわりと先走り汁が染みていた。
「川又先生、御免なさい…」
「流石、性に目覚めたばかりの初々しい肉体だ」
川又は白衣を脱ぎ、ベルトを外し、スラックスを下ろした。ウエストゴムにブランド名があしらわれた真っ白なビキニブリーフが、卑猥なほどに突き上げていた。彼は言った。
「先生が、君を大人にしてあげる」
「や、やだ!」
「大声出すと山本先生にチクるぞ!」
こう言うと、川又は千明を口止めするかの様に唇を奪い、彼の股間を鷲づかみした。千明の口の中に川又の舌が忍び込み、とめどなく唾液が噴き出した。
「君、感じてるじゃないか」
「あ、あぁ…」
ひんやりとした床の上で、川又は千明の内腿に下半身をうずめ、股間を軸に身体を上下に揺さぶった。徐々にビキニブリーフ越しに川又の先走り汁が噴き出し、それが千明のセミビキニブリーフを濡らしていった。
「ほら、先生も君と同じ肉体をしてるンだよ…」
千明は放心状態となっていた。無言で彼は肉体を弄ばれ、川又の思うがままにされていた。最終的には、セミビキニブリーフの右側から肉棒を引き出され、鏡に映された姿を見せ付けられながら絶頂を迎えた。
「あ、あぁぁぁん!」
乳白色の愛液が、焦げ茶色の床に跳び散る。川又も自分で手淫し、床を汚した。
その後も、理科準備室に連れて行かれては川又は千明と絡むことを要求してきた。いつしか山本が着替える様子を見に行くことはなくなったが、川又との密会を重ねていく毎に自分の肉体の諸部分が感じる様になっていった。
夏休みになり、登校日で学校に来るといつもの様に川又に連れられ、理科準備室に入った。すると、そこには山本の姿があった。彼は水色とワイシャツとライトグレーのスラックスと言う姿だったが、
「千明君、今から山本先生が君の欲求に応えてくれるよ」
と川又が言った。山本は、まさか目前で千明と濡れごとをするとは聞いてもなかったので、
「まさか、お前の前で彼を…」
と聞いた。
「だって、君が着替える姿を見ながらトイレでオナニーしてたンだよ。好きなンだよ」
「だからって…」
「お前だって溜まってるンだろ?いつもチ○ポもっこりさせてるし」
千明��、ただ恐怖でしかなかった。川又に童貞を奪われ、望まない濡れごとを強要され続け、そのうえ山本に告げ口をするとは!狂気の沙汰でしかない。
「…信じられない!」
そう言い放つと、千明はドアの鍵を開けて走って出て行った。彼は泣きじゃくりながら階下の職員室に入り、川又に身体を弄ばれたことを他の教師に告白した。
「本当なンです!助けて!」
結局、教頭が理科準備室に確認しに行くと、ちょうど川又が山本と接吻し股間を弄っている最中だった。
「学校で何やってンだ、お前ら!」
数日後、川又は懲戒免職となり、山本も最終的には辞職することになった。しかし、千明は川又に犯され、肉体の諸部分が感じる様になったことをトラウマとして抱えていた。母が保健師だったこともあり、しばらく心療内科でカウンセリングも受けた。父も教育委員会を相手に訴訟を起こした。
それでも、千明には常に飢えていた。何故か、山本の様な年上の男に好意を持ってしまい、それで性欲の処理はしないが愛して欲しいと言う願望が尽きなかった。
車窓には、家々がひしめいていたのが利根川を過ぎるとあちこちに田畑が広がる景色に変わっていった。千明は缶チューハイとビールを飲み終え、寝てしまった。気付くと特急は内原を過ぎていた。彼は慌てて起き、眠い両眼を擦りながら水戸で下り、JR水郡線に乗り換え、家路に着いた。
家に着くと、未だ彰は帰って来ていなかった。時計の針は、午後五時を回っていた。千明は居間の掃き出し窓を開け、仏前に線香をあげ、合掌した。
「聡、ただいま」
そう言うと立ち上がり、ネクタイを解き、ジャケットを脱ぎながら応接室に向かった。シャンデリアの明かりを付け、サイドボードからテイスティンググラスを取り出し、ボウモアの封を開けた。昔のことも思い出し、どっと疲れてしまった。彼は少し休もうとウィスキーを一口含むと、レコードを一枚取り出した。それは、彰の父が好きだったのか、ジリオラチンクエッティのベスト盤だった。プレーヤーの針をのせると、軽快な前奏が室内に響いた。
あ、この曲いいねと思いながら、千明はグラスを片手に歌詞カードに目を通した。伊語と日本語の対訳になっており、今流れているのは「La pioggia」であった。嗚呼、車のコマーシャルで使われた曲だなと、彼は思った。
マントルピースの上には、幼い頃の聡と彰が両親と撮った写真が並べられている。嗚呼、宇佐見家の歴史にこんな自分が入り込んでもいいのかしら?同じ戸籍にも入れないし、万一、彰の身に何かあっても保証人にはなれないだろう。彼は不安に思った。
ボウモアのお代わりをダブルで三杯飲んでいた頃、再び眠気が��って来た。あの純喫茶でわんわん泣いてしまったからか、疲れたのだろう。大樹に後で謝っておかなければ…。そう考えていると、彼の瞼は閉じられてしまった。
千明は真っ暗な中で横たわっていた。すると、
「透!何寝てンだよ!」
と声が聞こえた。その声に彼は気付き、両眼を擦りながら身体を起こした。遠くの方から誰かが歩いてきた。近づいて来ると、それが聡であることを認めた。
「聡!聡なンでしょ!?」
「オレだよ!」
聡が千明と向かい合うと、千明は聡を抱きしめた。再び涙が溢れ、泣き出してしまった。
「聡!会いたかった、会いたかったよぉ〜!」
「お、おい!苦しいよ!死んじまうよ、死んでるけど!」
そう言うと、聡は千明の唇を奪った。何故か涙が急に引いた。彼は、
「もう、泣くンじゃねぇよ…。この泣き虫毛虫!成仏できねぇじゃねぇか!」
と言った。彼は言った。
「お前、会社辞めて東京は卒業して、ウチに来いよ」
「…いいの?」
「お前、彰が好きなンだろ?愛してるンだろ?アイツ、オレと同じ淋しがり屋なンだよ。しかも、オレを含めて皆お陀仏しちゃって、アイツ、あぁ見えても苦労したンだせ?働き場所なんて何とかなるし、今後のことなんて今はどうでもいいよ。その時は隆を養子として迎えればいいさ、香だって許してくれるよ。彩も彰が好きだし…。ウチの戸籍には入れないだろうけど、そんなことあぁだこうだ言ってるのは日本だけだよ。フランスなんて事実婚が多いンだから!エリザベス一世だって、ヘンリー八世とアンブーリンとの間の私生児だよ。その私生児だって女王になったンだから、関係ねぇよ!」
あの世に逝ってもメチャクチャなことを言うのは変わらない。千明はおのずと笑顔になった。聡は続けた。
「もう、オレのことは水に流せ!お前が中学生の時にバカな先公に犯されたことも、両親がお前の気持ちを解ってくれなかったことも…。学歴!?もう時効だよ!東大卒だってプー太郎はいるよ。もしバカにしてきたらそいつがバカなンだよ。もう、細かいことでクヨクヨするなよ!?泣くのはなおさらだ。もし泣いたら彰に乗り移って二万四千回の接吻をお前に施すからな!」
「聡!相変わらず…バカだわ」
「バカでも死んじまったよ!」
二人は声を出して笑った。聡は言った。
「そんな理由で、彰をよろしく頼む。あ、そろそろ帰って来るから、またな!愛してるよ!」
そう言うと立ち上がり、聡は暗闇の中へ走って行った。千明は目を覚ました。家の外で車がバックする音が聞こえた。彰が帰って来たのだ。
室内には、「アネマエコーレ」と言う曲が響いていた。ドアを開ける音がし、
「あれ、お帰り。早かったンだね」
と彰が入って来た。千明はソファーから起き上がり、彼のところに向かった。千明は言った。
「彰さん、一緒に暮らしたい…」
「え!?」
「オレを、宇佐見家の一員にして下さい」
「えぇ!?」
「会社は辞めて、東京も卒業して、この地に骨埋めたい。彰さ、彰��暮らしたい」
彼は、彰を初めて「さん」なしで呼んだ。その言葉に彰は顔を真っ赤にさせ、抱きついた。千明をソファーに押し倒し、唇を奪った。彼は言った。
「いいよ!大賛成!幸せになろう!透く、透!愛してる!」
そのまま二人はソファーの上で愛し合った。あの世から聡が嬉し泣きしているのを、千明には見えていた。
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mxargent · 2 years ago
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
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“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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qqyw2wd9 · 12 days ago
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kennak · 9 months ago
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2021年9月、北海道苫小牧市の交差点で、白バイと衝突し、警察官を死亡させた罪に問われている大型トラックの運転手の裁判…20日午後、検察は禁錮1年2か月を求刑し、結審しました。判決は、8月29日に言い渡されます。  起訴状などによりますと、砂川市の無職、谷口訓(さとし)被告56歳は、2021年9月13日、苫小牧市柏原の道道の信号機のない丁字路交差点で、運転していた大型トラックで右折しようとした際、反対車線を直進してきた白バイと衝突…白バイに乗っていた男性警察官(当時32歳)を死亡させた過失運転致死の罪に問われています。  この事故をめぐり、検察は、おととし3月、谷口被告を不起訴処分としましたが、検察審査会への申し立てを受けて再捜査した結果、去年5月8日付けで在宅起訴していました。  これまでの公判で弁護人、被告側は「時速120キロという高速のバイクの接近を予見し、回避することは不可能、被告に過失はない」と無罪を主張。  これに対し検察は「当時、白バイは警ら中で、赤色灯を点灯させながら118キロで走行していたが、トラックを見つけて88キロまで減速した。トラックは、右折先の反対車線に停止していた車両の内側を進行しようとして安全確認を怠り、事故が起きた」と指摘していました。  その後、北海道警察が事故防止に向けて、白バイに「最高速度は100キロ」とするよう通達していたことも判明。  検察は、白バイの速度118キロについて、警ら中であり、法律上は問題ないとしているものの、通達を20キロも超える速度で走行するほどの緊急性が白バイにあったのかなどは、説明していません。  また、これまでの公判では、事故当時、右から白バイ、左からトラックが走行してくるのが見える位置で一時停止、トラック側の車線に右折で合流しようとしていた男性の証人尋問、谷口被告への被告人質問などが行われ、それぞれ下記のように証言しています。 ■事故現場に乗用車で居合わせた男性の証言 ・白バイの赤色灯は点いていたが、サイレンの音は聞いていない ・ドライブレコーダーでは、トラックがウィンカーを点けてたようだが(自分は)見えなかった ・トラックは、真っ直ぐ行くだろうと思った ・太陽がトラックの背にあり、白バイを照らしていた ・衝突の瞬間は見ておらず「バチャーン」という音で���づいた ・トラック運転手は事故直後「白バイを全く確認できていなかった」と自分に話した ■谷口被告への被告人質問 <弁護人とのやりとり> ・直進の車両を2~3回、確認する中で、遠くに自転車やバイクのような“影”が見えただけ ・あの距離なら曲がれると思って、右折した ・(白バイと認識は?)ありません ・(赤色灯は?)見えません ・(サイレンは?)聞こえません ・事故直後、気が動転していて、警察に「白バイに気づいてなかった」と話した ・帰宅して落ち着いたら、遠くに見えていたことを思い出し��ので、証言を変えた ・検察からは「見えなかったんだろ?見えた、見えないはどうでもいい」などとまくし立てられたが「最初は見えた」と話した ・事故直後の状況は、はっきりとは覚えていない ・あの日は仕事で、苫小牧市から雨竜町に向かっていた ・週に1回ほど通る道、時速60キロほどで走行し、右折時は40キロほど ・右折先の乗用車が停止線から出ていて、曲がり切れなさそうだと思い、やむなく内回りしたが、不適切だった <検察とのやりとり> ・(影を確認してから、どれくらい?)4~5秒あった ・(影を見てから、ずっと影を見続けた?)ずっと見ていたわけではない ・(影が見えた場所は?)橋があって、カーブがあったところの先 ・(対向車の速度は?)わからない ・(対向車との距離は?)わからない ・(実況見分で、白バイが2回見えた旨の説明した?)覚えていない ・(先に曲がろうとしたのは、なぜ?)影が見えて、あの距離なら曲がれるだろうと思った <裁判長とのやりとり> ・(影のようなものは、どのように確認?)パッと見ではなく、正面を見て ・(ハンドル切る直前の確認は?)記憶がないです…  こうして迎えた20日の公判では、亡くなった白バイ警官の妻も法廷に立ち「事故は、長女の9歳の誕生日の1週間前…夫婦で選んだプレゼントを『パパがくれたカバン』と、今も大切にしています。7歳の次女も七五三のお祝いを『パパが亡くなったことを知られたくない」と、当初は1人で撮るつもりが『やっぱり、4人で撮りたい』と、白バイにまたがるパパの写真と3人で撮りました」などと夫を亡くした後の2人の娘との暮らしについて語りました。  そして、事故の後「夫は警官である前に一人の人間なのに『金目当てで、検察審査会に申し立てた』などの心ないバッシングを受け、世間の注目を必要以上に浴びた。(その一方で)夫に白バイを見せてもらったという子どもが「白バイ隊員を目指しています。なれたら、一番に報告します」と言ってくれた。被告は事故について『覚えていない』と言って、どこか他人事。たった一度だけ謝罪に来ただけで、反省の態度も感じられない。厳正な処罰をお願いします」と涙ながらに訴えました。  このあと検察は「被告の『見えた』という表現は信用できず、安全確認を果たしたとは言えない。過失はある。サイレンを鳴らさないまま、118キロ出していたのは、違反車両に白バイの存在を察知させないためとも言えて、違法性なく、責められることもない。被告は誠実に事故に向き合わず、刑事責任は重い」として、禁錮1年2か月を求刑。  これに対し弁護人は「結果は重大だが、右折車が進行を阻まない義務、制限速度を超えている車を予見することも争いはないが、限界はあって、今回の速度は、通常考えられる速度ではない。今回、サイレンは点いてないし、赤色灯もドラレコでははっきりと確認できない。右折対応には問題あったが、あくまでも交通法規違反にとどまり、道交法違反の刑事罰とは無関係。過失は認められない」として、あらためて無罪を主張しました。  公判は、谷口被告が「今回の事故で亡くなられた被害者の方、遺族の方に申し訳なく思っております。反省しております、以上です」と陳述して結審し、判決は8月29日に言い渡されます。
時速120キロの白バイ警官死亡、右折のトラック運転手に禁錮1年2か月を求刑…無罪主張の運転手側「予見には限界あって、今回の速度は通常考えられる速度ではない」警官の妻も法廷に立ち「警官である前に1人の人間なのにバッシング。被告に反省なく、厳正な処罰を」(HBCニュース北海道) - Yahoo!ニュース
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hachikenyakaiwai · 2 years ago
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【かいわいの時】昭和二十年(1945)6月7日:第3次大阪大空襲。死者2759人、被災者19万9105人(大阪市史編纂所「今日は何の日」)
昭和二十年六月七日(一九四五年)午前十時十五分、生江地区の人々の悲劇の日がやってきた。サイパンを飛びたった三百機にのぼるB29アメリカ空軍爆撃機の大阪最後の空襲であった。早朝より敵の来襲を知らせる警報のサイレンが不気味な音を響かせ、初夏の空に鳴りわたる。遠くで爆弾が炸裂するのがドドーンと地面を叩くのか、抉るのか、鈍く重い音が足もとから伝わってくる。まもなく雲間に数機の爆音が聞こえてくる。何事もなかったように、白い飛行雲を残し、次から次へと生江の上空を北に向かって飛び去っていく。誰れかが大声で「逃げろ…」と叫けぶつかの間、キーンと耳を抉る金属音が頭上より背筋を通し伝わった。その瞬間、ものすごい炸裂と地響が起こる。人々は地面に叩きつけられ声もない。家屋はそのまま空中に舞いあげられ、粉々に飛び散り落ちる。真黒い煙が竜巻のように舞い上がり火の粉が散る。なおも空から容赦なく爆弾が不気味な金属音をたてながら黒く白く光りながら雨の如く落ちてくる。ここかしこで火の手があがる。真っ赤に空を焦がす熱気が突風を呼び、その風の物凄さ、猛り狂う炎の色、白昼を暗黒化にし生江地区を残し、つつみこむように周辺は火の海となった。火の粉は地区内に落ちてくる炎と煙に追いたてられ何千人もの人々がぞくぞくと城北公園めがけて着のみ着のまま泣き叫び、��びながら逃げてくる。それを待ち受けていたかのように戦闘機数機が黒煙の中より現われ、淀川土堤すれすれに飛び交い、避難してくる人々めがけて機銃弾を浴びせ殺したのである。
ある者は土堤や池の端、木の繁み、ある者は園道にうづくまり、頭をぶち抜かれ、足をもぎとられ、腹を抉られ、顔をとばされ、その肉片からしたたり落ちる血で大地を染め、乳呑み子から老若男女が水をもとめて這いづりまわり息たえる者、母と子がしっかりと抱き合い身動きもしない。髪をふりみだし「雲が燃えている」と泣き叫けぶ女の子、恐しさにお経を口ずさむ老人、爆弾の雨が音をたてながら木々をゆさぶり、人々に襲いかかる。炎が黒雲を呼び、雨を呼び、地獄絵図が数時間も続いて終った。遺体は常宣寺に運ばれたが、足の踏み場もないぐらい本堂にも庭にも並べられ、収容できずにそのまま外に数日間放置されていた人々もあった。地区内の家々から帰らぬ我が子、父母の名を呼ぶ悲しみの声が幾日も続いた。遺体は淀川土堤に運ばれ、油をぶっかけられ火葬にされ、その煙が夜も昼も休みなく何日も続いたのである。戦争に駆り出され散っていった我々の親兄弟、家を守った母と子の尊い命が奪われていった……。
そして三十三年の歳月が流れ、今我々が生きていることを喜び合い、また戦争を知らない若い世代に何んの意味ももたない戦争という悲劇をくり返さないための手がかりを我々の手で残さなければならない。また我々の先輩が部落解放とすべての人民の解放を叫び、多くの血を流し、闘い続けた運動の歴史を受け継ぎ、平和と人権尊重の精神を守り続けるため、真実を教え、真実を語り、真実を伝え、この惨劇の歴史と、ここに刻みこまれた犠牲者とともに永久に銘記するものである。一九七七年十一月二十五日 文 伊藤辰夫(平和観音「碑文」より)。
(写真)式典の準備が整った平和観音(=2023年6月7日午前9時1分撮影)
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