#パチンコ 実機
Explore tagged Tumblr posts
Text
lmao holy shit it says 'Haruhi-ism' on it. hell yeah. TMoHS Pachinko Machine as seen listed on YJA. Found it while looking for something else.
#haruhi suzumiya#tmohs#haruhi suzumiya no yuutsu#the melancholy of haruhi suzumiya#涼宮ハルヒの憂鬱#pachinko machine#pachinko#パチンコ 実機
7 notes
·
View notes
Quote
朝鮮人追悼碑は政治利用しない等を群馬県と約束して許可を得ることで設置されたものです。 しかしながら設置してしまえばこっちのものとばかりに設置した団体は設置が終わった途端に強制連行などのデマの政治宣伝に全力で利用することを繰り返しました。 強制連行の記念碑を設置させることに成功した事を朝鮮総連の機関紙が報じていた過去もあります。 群馬県側は度重なる約束破りに対して設置許可を更新しないという当たり前の対応を取りました。 そこで設置した朝鮮総連と関係の深い団体は裁判を起こしましたが、最高裁まで見事に敗訴しました。 最高裁の判断が示されているのに沖縄の玉城デニーとかいう知事の反基地活動と同じく判決が気に入らないから無視、県が撤去するというのなら実力で撤去を妨害するという手に出ていました。 どこにも設置側団体の主張を正当化できる要素がありません。 朝日新聞とかいう特定アジアのプロパガンダペーパーは社説などで撤去を批判し続けているようですけど。 北朝鮮の反日かつ日韓分断工作活動の一つがこの朝鮮人追悼碑だとみなせるものでしたが、わざわざ北朝鮮が直接言及してきたことでその疑惑を自ら「俺達が黒幕でした」と白状しているようなものです。
やっぱり京都はやべーな | パチンコ屋の倒産を応援するブログ
68 notes
·
View notes
Text
マスゴミ詐欺民主主義
「裏金」議員という言葉を創作し、落としたい議員にそのレッテルをペッタリと張り付け、裏金裏金と連呼して、さも違法に金をむしり取った印象をつける
ここで確認しておくと、パーティー券収入は与野党問わず政治家は得ており、その金の流れを政治資金収支報告書に書くのが法的義務である
しかし、その法の規定でパーティー券収入を寄付などの形で移転させるとその流れは政治資金収支報告書に書く義務はない これは違法ではないので、それをいくらやっても法的責任は生じない パチンコが賭博ではないとされているとのと同じだ
しかし、その不記載を法的義務違反のように騒ぎだし、その後あたかも違法に金を稼いだかのような印象付けがされ、その結果大衆は「裏金議員」と聞くと、違法手段で金を収奪した悪徳議員と印象付けられた
現在「裏金議員」を公認するかしないかが騒がれる 世論調査をすると、「裏金議員」を詐欺犯と同じであるかのように洗脳された大衆だから、当然選挙予想は厳しいことになる 大慌てで大衆迎合議員は一事不再理の原則なんぞ放っておいて、「処分」(本来法的に何ら必要なかった)が済んだ議員をさ��に公認しないという重罰にしろと騒ぎだす 完全にマスゴミの手中に嵌った愚かな行動である
こうして、マスゴミはただレッテル張りで騒げば政治家を選挙で落とせる すると政治家はマスゴミの機嫌を取るようになる 民主政治は衆愚政治、マスゴミ専制主義に堕した マスゴミがあいつは悪いといえば処分が済もうが、判決が確定しようが、再び事実上罰せられ、自由主義は死に絶えた
で、現在の日本はマスゴミ詐欺民主主義としか、言えない 長年パチンコは賭博ではなく、自衛隊は戦力ではない、という無理をごり押ししてきた結果、罪でないものを罪とし、罰を受けたものに再び罰を下す社会、無法社会になり果てた
それを支えるのはテレビの洗脳に簡単に染まって口から泡を飛ばしながら他人を攻撃する愚民たちだ
私は愚民の一員か否か 日本国民は全員こう自分に問いかけてみると、世の中少しはましになるかも知れない
15 notes
·
View notes
Quote
周囲のアメリカ人から「あの本読んだ?」とよく尋ねられる本が毎年何冊かある。韓国系アメリカ人作家ミン・ジン・リーの長編小説『パチンコ(Pachinko )』もそのひとつだ。 韓国と日本を舞台にした、在日韓国・朝鮮人の4世代にわたる年代記なのだが、アメリカでベストセラーになり、2017年の全米図書賞の最終候補にもなった。私の周囲だけでも、義母、娘、娘の婚約者の母親が同時に読んでいて、まるで「読書クラブ」のようだった。それほど、多くの人に読まれている作品であり、読者の評価も高い。 小説は1910年の釜山からスタートする。大日本帝国が大韓帝国との間で日韓併合条約を締結して韓国を統治下に置いた年だ。釜山の漁村に住む漁夫の夫婦は、その運命を黙って受け入れた。「泥棒相手に国を失った無能な貴族と腐敗した母国の統治者」には、それ以前からすでに諦めの気持ちを抱いていたのだ。動揺するかわりに夫婦は身体に障害があるが利発なひとり息子フーニーの将来を考えた。夫婦は息子に学校で韓国語と日本語を学ばせ、仲人を使って見合い結婚をさせ、労働者用の宿屋を経営させた。 フーニーの若い妻ヤンジンは何度も流産を繰り返した末にようやく健康な娘スンジャを得た。そして、働き者のフーニーが亡くなった後も、未亡人は娘の助けを借りて評判の良い宿屋を営み続けた。 スンジャは働くことに生きがいを見出す生真面目な少女だったが、16歳のときに年上の裕福そうな男コー・ハンスーから誘惑されて妊娠してしまう。相手が既婚者だと初めて知ったスンジャは、自分の過ちを恥じ、「結婚はできないが面倒は見る」という申し出を拒否して別れる。 田舎の漁村で未婚の女が妊娠するのは醜聞だ。結核で倒れたときに母娘に看病してもらったことに恩義を感じる若い牧師イサックは、これを神が自分に与えた機会だと考えてスンジャに結婚を申し込む。若い2人は、イサックの兄ヨーセブの誘いで1933年に大阪に移住する。 イサックとヨーセブの両親は裕福な地主だったが、韓国社会の不安定化で経済的な余裕はなくなっていた。大阪では韓国人牧師のイサックが得られる収入はほとんどなく、2組の夫婦は会社に務めるヨーセブの収入に頼ることになった。そのヨーセブにしても、雇ってもらっているだけで感謝しなければならない状況で、そこに付け込まれて日本人より安い賃金で倍以上働かされていた。 さらに戦争前夜の日本の思想弾圧により、牧師のイサックが逮捕されてしまう。一家はますます窮地に陥る。男としての甲斐性にこだわるヨーセブは妻たちが外で働くことを固く禁じるが、スンジャはコー・ハンスーから受け取った唯一の贈り物である高級時計を売ってイサックの借金を返し、ヨーセブの妻が作ったキムチを路上で売って家計を支える。 イサックは、スンジャが産んだコー・ハンスーの息子のノアをわが子として愛して育てる。しかし何年も刑務所で拷問を受けた結果、結核が悪化して解放直後に死んでしまう。イサックの性格を受け継いだように生真面目なノアは、働きながらも早稲田大学で英文学を学ぶ夢を叶えるが、自分の誕生の秘密を知って絶望する。日本で受け入れられるために愚痴も恨みも言わずひたすら努力を積み重ねてきたノアは、母を罵り、家族を捨て、見知らぬ土地で日本人としての偽りのアイデンティティを使って新しい人生を生きようとする。 スンジャの次男モサズは、兄とは違って、学問にまったく興味がない。だが、商売の嗅覚があり、パチンコ店に勤務して頭角を現す。そして、自分でも店を持ち成功する。モサズは、ひとり息子ソロモンをアメリカのコロンビア大学に留学させる。それは、亡き妻が抱いていた夢の実現でもあった。しかし、日本に戻って外資系の投資銀行に勤務したソロモンは、その環境であっても自分が在日韓国人として扱われる現実を実感させられる――。 在日韓国人の4世代にわたる年代記が、アメリカでベストセラーになり、しかも全米図書賞の最終候補にまでなったのはなぜなのか? それは、場所や人種が異なっても、「移民の苦労ばなし」が普遍的なものだからだ。 読んでいるうちに思い出したのは、20世紀前半にアメリカに移住したアイルランド系やイタリア系移民が受けた差別や紀元前からあるユダヤ人の迫害だ。 ユダヤ系に���金融業、医師、弁護士、科学者が多いが、それは古代のヨーロッパでユダヤ人の就業が禁じられていた職種が多かったからだと言われる。アメリカのニューヨークやボストンでは、アイルランド系移民の警察官が圧倒的に多い。これも、アイルランド系移民が初期に受けた職業差別が少なからず影響している。20世紀の日本での在日韓国・朝鮮人によるパチンコ経営は、これらに比類するものだ。 アメリカは、先住民以外はすべて「移民」とその子孫だ。何世代か遡れば、必ず移民としてのこうした苦労ばなしに行きあたるはずだ。こうしたアメリカ人のDNAに刻み込まれた記憶が、小説への共感を生むのだろう。 日本統治下の韓国での日本人による現地人への虐めや、日本人による在日韓国・朝鮮人への差別、そして単語こそ出てこないが「慰安婦」のリクルートなど、『パチンコ』は日本人にとっては居心地が悪い小説かもしれない。 しかし、これは日本人を糾弾する小説ではない。1人の人間として「読者」になれば、誰でも感情移入できるし、家族ドラマとして楽しめる本だ。私は、若い頃に観たNHK連続テレビ小説の「おしん」を思い出した。そういう雰囲気もある。 著者のミン・ジン・リーはそんな私の意見に対して、このように答えてくれた。 「日本人の読者は洗練されているし、微妙なニュアンスも理解できる。あなたのように先入観なく、公平な視点でこの本を読んでくれると強く信じている。(英語で読んだ)多くの日本人読者は、すでにこの本をとても支援してくれて、とても感謝している。私の夫は日本人とのハーフで、私の息子は民族的には4分の1が日本人だ。現代の日本人には、日本の過去についての責任はない。私たちにできるのは、過去を知り、現在を誠実に生きることだけだ」
『Pachinko』(Head of Zeus) - 著者:Min Jin Lee - 渡辺 由佳里による書評 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS
6 notes
·
View notes
Text
20241117
日記を書く。日記とは本日起きたことについて頭の中をふらふらと千鳥足で浮遊している言葉たちを文字にまとめて起こすことで、そういう意味ではおれはうんちを漏らしたという日記以来、まともな日記なんて書いていなかったのかもしれない。その日に起きた出来事を書くから日記なのであって、そのとき思ってることだけや過去の出来事ばかりを書くことは日記ではないのかもしれない。そんなことはどうでもいい。
11時頃目を覚まし、二日酔いでないことに安堵する。昨日はどういう経緯でだとかどうしてだとかはわからないが、確か妻と代々木から渋谷まで歩き17時頃にかつて羊がベランダで飼われていた桜ヶ丘珈琲(?)で白州のソーダ割りを2杯飲んでそのあと静岡おでんがめちゃくちゃにうまい店でおでんをつまみに日本酒を2合飲み、家に帰って朝5時までジムビームのソーダ割りをでかいTHERMOSのジョッキで飲みながらamazonprimeのThe boysシーズン4を垂れ流し、気絶するように眠った。
目を覚ますと隣に妻はいない。記憶があやふやではあったが深夜3時頃に美容室を予約していたはずだった。リビングにいくと案の定こたつで眠っている妻の姿があった。妻は金土の夜はow2というFPSを朝日が昇るまで狂ったようにやり続けて疲れ果てて寝るという習性がある。空腹を感じたおれは妻を起こすのは悪いな、と思いつつ適当にカップ麺を作って食べ、珈琲を淹れてタバコを吸った。換気扇の音や煙草の匂いで妻が起きると機嫌が悪くなるということは頭ではわかっているが、ルーティンとして朝の珈琲と煙草をやめることができない。支度をし、美容室に向かう。美容室で散髪中に「今日めちゃくちゃ天気いいよ」と妻にLINEを送る。散髪が完了し、駅前の無印良品まで行き、掛け布団用のカバーを買ったのちクリーニングに出していた羽毛布団を取りに行き、そのまま15時頃に帰宅する。
帰宅すると妻はまだこたつで眠っていた。そばにいき、どこかでかけるか、今日は家で過ごすかの小さな会議をする。結果隣駅の東中野のミスドまで歩いて汁そばでも食うかという話になる。妻の支度が終わるのをダラダラと待つ。16時頃家を出る。東中野まで着いたはいいものの、ミスドは見当たらない。以前妻が行ってみたいと言っていた喫茶店風の店が目に入る。ミスドは諦めてすぐにその店に入る。17時までランチタイムをやっているらしく、変な時間に2人で定食を食べ、おれはビールを一杯飲む。
帰り道、時間がまだ18時過ぎということもあり、妻はまだ帰らずどこかに行ってくると言う。1人で家に帰っても何もやることがない一緒に遊ぶことを提案する。数年ぶりに4円のパチンコを打つことになる。8000円負ける。パチンコで負けた気持ちのまま月曜日を迎えたくなく、どっか適当な安い居酒屋に妻を半ば強引に連れて行く。
店は串カツ田中にした。この間youtubeでサンシャイン池崎が楽しそうに串カツ田中で飲んでるのをみたからだ。妻はホットウーロン茶を頼み、おれはチンチロハイボールを頼む。チンチロの目は奇数で、通常料金のメガハイボールが目の前に置かれる。さきほど定食を食べたばかりで腹も減っていないが、適当につまみを頼み、2回目のチンチロに臨む。また奇数で通常料金のメガハイボールが目の前に置かれる。パチンコといい、今日はとことんついてない日だなぁ���んて思いながら、壁にかけられたテレビに映った「世界の果てまでイッテQ!」を眺め、妻とあーでもないこーでもないと話をし、店を後にする。
家に帰ると溜まった洗い物が我々を迎える。いつもなら洗い物はおれがしているが、今日はとことんやる気にならず、おれはこたつで寝てしまい、その間に妻が不機嫌になりながらも洗ってくれていた。
目を覚まして、風呂に入る。風呂から出ると時間は23時30分を回っていた。0時30分にはシラフで寝たいおれだったが、湯船でほてった身体を冷ますためにグラスに氷を入れ、数年ぶりに相対性理論を聴きながらラフロイグのソーダ割りをゆっくりと飲んだ。
日記を書こうと思った時間はすでに0時を回っていて、書き始めた頃にはラフロイグのソーダ割りを飲み干してしまったため2杯目を作る。相対性理論を垂れ流しながら日記を書く。そして今が深夜1時だ。日曜日の夜深夜まで飲むと確実に明日の仕事がつらくなるため何もいいことはないが、おれは日記を書きながら酒を飲むことを選んだ。なぜなら馬鹿だから。
こんな感じの日常を、東京に来てからのこの半年間、淡々と過ごしている。毎日進歩や前進ができているわけではないが、毎日どこかに必ず新鮮味や楽しさが含まれている。淡々と今日起こったことを他人が読むとつまらない以外の感情は湧かないと思うが、今日みたいな東京の日常がいつかのおれにとっては鈍色に眩しく光る思い出となるはずだ。
4 notes
·
View notes
Text
るんぺんパリ【RunPenParis】
自己紹介 2024年11月4日追記 6116文字】 三重県伊賀市(旧名:上野市)出身 伊賀市(旧名:上野市)に 1976年(3歳)から 1996年(23歳)6月まで住んでいた 1976年以前の記憶と出生は不明 津市にある施設にいたと聞いた覚えがある 三重県亀山市に二つか三つ年上のお兄さんいるらしいが あった事は一度もない 30代の頃に一度だけ電話で話をした 父方に引き取られたお兄さんに 母親の事を聞いた 母親は別の人と再婚し離婚して 娘さんと一緒に暮らしているらしい 父親は再婚して自分と同じぐらい娘さんがいるらしい お兄さんはおじいさんの事を尊敬していて 中国語を勉強してるらしい あとは色々と聞いたけど 覚えているのはそれぐらいの内容で もう二度と話す事はないだろうと その時に思ったけど お兄さんの顔がどんな顔なのかは 見てみたい気持ちは少しある
伊賀市でそこそこ有名なのが 伊賀流忍者で忍者屋敷は今も昔も変わらない内容で 営業している それは去年に末っ子を連れていったから確認済 外観はただの古い家だけど 中に入ると意外と見応えはある 観光施設って感じ 伊賀牛は金谷のすき焼きが有名で 森辻が新しい様相なってから焼肉を食べた 個人的には伊藤の牛丼が好きだ 油が多い感じのお肉だから 100gも食べれば満足感がある 上野天神祭の鬼行列も有名かな ひょろつき鬼が子供の頃は本気で怖かった 銀座通りが歩行者天国になり 的屋がならぶ 高校生の頃はリング焼きが100円ぐらいで 何個も買って食べた 今年は10月18・19・20(金土日) 19(土)は久しぶりに一人で一日中お祭りを楽しむ予定だったけど 昼前から雨が降ってきて鬼行列は中止 午前中は親戚を3件回って、おみやげを渡した 午後に実家によって車を駐車して 歩いて上野天神祭へと向かった いつも泊まる「伊賀上野シティホテル」は1泊10000円以上も高い 16800円だった。この日は駐車場も使えなかった 夜の19時から同級生のお店「クワトロNo.4」に初めていった 30年ぶりにちゃんと会ったガキさんは すぐに気がついてくれた 居心地がよかったので閉店の1時までカクテルを8杯ぐらい呑んだかな 意外と安くて8200円だった 次の20(日)は上野天神祭に参加している同級生のオデに会って 鬼行列の準備風景を写真に撮って 上野天神さんの近く紅梅屋でおみやげを結構買って 桔梗屋で上生菓子とお茶を飲んで 静岡へ帰った 松尾芭蕉は俳句で有名で伊賀出身で 小学生の頃はがっつりと俳句を作らされる 俳句はいやいや作らされたので 俳句番組は見ない 俳聖殿の中には過去の優秀な俳句が収められていたかな 普段はこれといって何もないけど 俳聖殿のたたずまいは何か「The Haiku」という感じ 上野城のお堀の高さ日本2位? 一時期は日本1位説もあった 中学生の頃は上野城で体育の授業があったり クロスカントリーレースで走らされたり 高校生のデートも上野城が定番だったのか それらしき男女がイチャついていた 夜のライトアップは不気味なお城に見えた 一応、桜の名所なのかな 高校生の頃に一つ年下の子とつきあっていた頃は よく上野城をさんぽした 帰りはその子の家の近くまで送っていった この子はとても純粋な子で 自分にはもったいない子だった 半年もつきあっていないが 今でも純粋で幸せになっているかなと思い出す事もある もう向こうは忘れているだろうけど 伊賀の街には銀座通りとか丸の内とか 東京で聞くような名称が多く使われている 地元のうわさでは東京が伊賀の真似をして 街を作ったとの話がよく出てくるから 誰か本気でテレビとかで調べてほしい気もする いまだに東京が伊賀のマネをした説を 親戚がまじめな顔でいいだす時があるから 本当に真実が知りたいけど 自分が調べるほどは興味がない 2004年(平成16年)11月1日に 伊賀市に変わってから 上野市駅が忍者市駅になり 近鉄の電車だったのが伊賀鉄道になり 電車がコスプレになった 駅前には銀河鉄道999のメーテルと哲郎の銅像があり 産業会館がハイトピア伊賀になった 産業会館だった時にマルキンのパン屋が近くにあった そこのシナモンパンが子供の頃から大好きで 今はもう手に入らない もう一度、あのシナモンパンが食べてみたい あと小さなパチンコ店「マルト」があった 「フルーツパンチ」という機種で勝った覚えがある あと「麻雀物語」もあったかな 「海物語」という機種が記憶の最終機かな 上野で住んでいた時期に一日で20万近く負けて それからパチンコは完全に辞めた じつはその後もたまにしたが 本当に気晴らし程度で その内にきっぱりとやめた スロットが主流になったら なおさら興味すらなくなった 新天地もなんかおしゃれなサビれかたで 「新天地Otonari」となった 街は高校生の頃の面影は薄くなったけど 何となく残っている上野市街は今でも魅力的だ 新天地には映画館もあった気がする 当時は賑やかな商店街だった 当時からあった「喫茶店フランセ」は今もある 大きな化粧品店は更地になっていた 高校の時の知り合いが「クワトロNo.4」という バーを経営しているが、まだ入った事はない いつか行ってみたい気持ちはある ただダーツバーらしく 常連っぽい人たちのたまり場っぽいイメージで 気楽入れなさそうな雰囲気はある 一度だけ朝方にお店の扉までいったけど バーの扉って感じで雰囲気はあった 最近は実家で一人暮らしのおかんの様子を見に よく帰省するようになったけど 若い頃は年一回も帰省しなかった 最近の伊賀でよく立ち寄るのが 「菓匠 桔梗屋織居」と 「HANAMORI COFFEE STAND」と 「岡森書店白鳳店」で 岡森書店は、Kマーホの名で出版した 「トイレの閃き」が背表紙の色が抜けた状態で 25年以上も本棚に置いてくれている これを見ると初心に戻れて まだまた創作していこうとがんばれる この岡森書店の店長さんは従姉の同級生で 小学校の先輩の同級生でもあり この店長の妹さんは自分と同年代で それにしても伊賀は狭いなと感じる
市部という地区だったと思う 近くに市部駅という無人駅がありその近くの 依那古第一保育所に5歳から6歳の2年間通った おかんは自分の送り向かいのために 自転車を乗る練習して そのおかんが運転する自転車の後ろに乗って 途中の田んぼに二人で落ちて 泥だらけ���なった おかんは去年の年末まで 81歳でまだ自転車に乗って 小田町の坂を下っていたらしい いまは親戚から危ないからと 召し上げられた 小学校6年卒業までは上野市依那具にある 市営の城ケ丘住宅で過ごした この市営住宅はもう40年以上も その雰囲気を変えずに今でも残っている ここは伊賀市の文化遺産にしていいほどの時間が止まった場所だ いまだに汲み取り式の便所の換気の煙突が立ち並んでいる このカオスな感じは小学生の頃の不便な生活を思い出させる あの生活で暮らしたから今があるのは確かだ 小学校の通学路にある 垂園森でよく遊んだ 現在も存在しているが オバケが出そうな森 この森は当時通っていた依那古小学校の校歌の歌詞にも出て来る イメージ的には幽霊が出そうな森だけど 何か不思議な生き物が住んで居そうな森に見えた きつねも出そうだし おばけも幽霊も心霊も もしかするとタイムスリップして 小学生の頃に戻れそうな気もする森だと変な懐かしさを感じる 近くには無人駅の市部駅とにらめっこしている森 中学校から市街の上野城の 城下町で過ごした 当時はカオスな市営城ケ丘住宅から出れる事が本当にうれしかった 小学校までの友達とも飽きてしまっていたので寂しくはなかった 当時から色々な物にすぐに飽きては新しい物が好きだったので そっちのワクワク感で本当にうれしかった そして築20年以上の中古の一軒家で2階建て 自分の部屋がありトイレは汲み取り式だけど洋式で あこがれの上野の街で住める事もあって本当にうれしかった
そして近くの崇廣中学校に通う事に 中学校の3年間は 転校生という立場と 中一で足の骨折 バスケ部の試合で名張の体育館で遊んでいて 二階から飛び降りたら右足のかかとがにヒビが入った その夏にはバスケ部をクビになり陶芸部に入った 中二で腕の骨折 どちらも遊んでいての骨折2回 中三の高校受験で いい想い出は無い
高校2年生で 小学校の時にサッカーで出会った 旧友とバンドを組んだ RCサクセションのコピーで 「雨上がりの夜空に」「トランジスタラジオ」 「ベイベー逃げるんだ」「サマーツアー」 「サントワマミー」「いけないルージュマジック」 「いいことばかりはありゃしない」 「どかどかうるさいR&Rバンド」 旧友が作ったオリジナル曲「ガレージの上のR&Rバンド」 一番のモテ期だった気がする ただバンドをやっている自分を見て 好意を寄せられても違うなと思った バンドをしていない時はただのバイトに明け暮れた 高校生だったから バンドマン目線のそういう女子には興味がなかったから 冷たい感じだったかも 本当にこの時期がこれまでで一番楽しかった。 高校生の頃はたくさん恋をしたが 自分が不器用だったので自分が好きだった人からは つきあえてもすぐにフラれた 人を好きになることに迷走し始めて 最終的に好きになる事はやめて なんとなくという感情で奥手に過ごしていった そのせいか、他校の女子からゲイだとウワサされる事もあった なぜそうなるか不思議だったけど 当時は楽しければなんでもよかった
1993年 一人暮らしを始める やっと自由になった気がした 2年間ぐらいは金が無くて 通帳の残高は毎月マイナス50万 カツカツ生活 家賃と車のローンがきつかった 1996年7月から 2003年7月の 7年間は茨城県と千葉県の県境 利根川の近くに住んでいた この界隈を走るタクシー運転手の 態度は本当にムカつくから こっちも態度悪く乗ると 気分の悪さはお互いさまになる 関東平野は景色が無く ここでの生活は落ち着かなかった 食文化も人も気候も水も 肌に合わなかった 特にうどんの汁が濃いだけのシンプルな味は げんなりさせてもらった ただ寺原駅近くの「ふる川」はよく通った とくにカレーめちゃくちゃ美味かった この「ふる川」は今もやっている 当時はお店の小学生の女の子が手伝っていた 夫婦だけでやっていて 週3回ぐらい夕飯でお世話になった 「さば定食」もよく食べた気がする
1997年から パ���コンをミドリ電化で38万で購入して 作詞やネットに興味を持つ まどみちお詩集を読みだす 作詞に近い詩を書き始める 「Kマーホ」という名で 詩を書き始める 目標を300篇と決めて 詩を思いついたら メモをつけるようになる 週末は家に引きこもり 一日中、音楽を聴きながら パソコンがあるのに まだワープロで詩を清書していた
1998年から2002年まで 「Kマーホ」の名で 詩に団体に参加したり 詩の賞に応募したり 詩集を自費出版したり この当時参加していた詩の団体には もうドロドロとした 詩を書く人や あまりにも読み解けない詩や 暴力的な人や いい人もいたけど 自分とは全然目指している方向が 違うので2年目ぐらいで辞めた それからは詩の団体に興味は無くなった それから 自費出版した詩集を 全国の小中学校や 全国の図書館へ寄贈して 活動を休止 理由は2000年に結婚してから 集中して詩を書く時間が無くなってきたから 2002年に2つの詩集を出版して 詩の事は全部段ボール箱へ入れた
2003年から2019年まで 育児に重点を置いて生活をする この時期は友達とも連絡を 切っていたので のちに死亡説や宗教説が出ていたらしい 2003年7月から 現在は静岡県在住 もう20年以上住んでいる
2019年 るんぺんパリ【RunPenParis】の名で 詩を書き始める SNSでの詩の発信を始める るんぺんパリ【RunPenParis】とは フランスはパリの街を ぺんを持って 走るという意味から 【RunPenParis】ができた 1973年8月1日生まれ(もう51歳) しし座 O型 右利き 詩・詩集・ことばをデザイン アート・写真・小説・ペン画 松尾芭蕉の生家がある伊賀市で 十代までを過ごし 俳句が幼少期から 身近に存在していた 二十代から詩を書き始めて 「Kマーホ」名で活動(1999-2002) 詩集6冊を出版して活動休止
その後 松尾芭蕉の俳句のような シンプルな言葉遊びを 詩で出来ないかと考えていた中で 令和元年(2019)に 「るんぺんパリ【RunPenParis】」の名で 活動を再開 SNSに140文字に 言葉をデザインした詩 「140文字詩」を 毎日投稿する活動を始める 2023年9月に140文字詩が 1200作品に到達した事で 「140文字詩」を全国へ さらに世界へと 俳句のように広く知られる 存在になって欲しい ◆るんぺんパリ【RunPenParis】作品一覧 【2023年】Amazonで販売 2023/12/27第2フォト集「ほちきす それでは あかんで」 2023/12/2 第1フォト集「とめても ええか ほちきすで」 2023/11/23 第16詩集「もあいの ねごとを よみとる」 2023/9/16 第15詩集「さんもじ もしくは よんもじ」 2023/9/9 第14詩集「のこりの あぶらは わるもの」 2023/9/2 第13詩集「あそびも しごとも たいふう」 2023/8/26 第12詩集「かいてきな しつどに おぼれる」 【2022年】Amazonで販売 2022/12/6 第11詩集「やくそくは よなかの おひるに」 2022/11/3 第10詩集「みさんがの ともだちの たまんご」 2022/10/7 第9詩集「くうきと さんその かつさんど」 2022/9/3 第8詩集「さついを こめた いもけんぴ」 2022/8/7 アート作品集「やさいに つめる にくえらび」 2022/2/14 アート作品集「よなかに ひかる かみぶくろ」 2022/1/1 第7詩集「みかんの むくちな きもち」 【2021年】Amazonで販売 2021/9/8 第6詩集「そんな ことばは さよなら」 2021/8/3 第5詩集「あさに おくれた なんて」 2021/6/5 第4詩集「すいかの たねの ちょうこく」 2021/5/31 第3詩集「たんぽぽの たまご ひとつで」 【2020年】Amazonで販売 2020/7/27 第2詩集「こよい こよりの そらから」 2020/3/2 詩小説「すきから あいへ おやすみ」 【2019年】Amazonで販売 2019/7/21 第1 詩集「ところで あした あいてる」 ◆Kマーホ 作品一覧(1999-2002) 【2002年】 2002/4/30 第6詩集「眠立体(ねむりったい)」 2002/4/4 第5詩集「コールサック」 【2000年】 2000/7/31 第4詩集「マガサス星人」 2000/1/31 第3詩集「おしりとサドルが あいますか」 【1999年】 1999/8/1 第2詩集「テレビジョン」 1999/5/1 第1詩集「トイレの閃き(ひらめき)」 【受賞】 2001年 詩「眠立体(ねむりったい)」第6回トワイライト文学賞 2000年 詩「永遠の親友」信越郵政局長賞 1999年 詩「トイレの閃き(ひらめき)」第1回万有賞 1998年 作詞「地球のウラハラ」第31回日本作詞大賞新人賞候補ノミネート
#runpenparis#art#paris#artist#artistreet#詩#vogue japan#るんぺんパリ#詩集#japan#アートブラッシュ#アート#アートワーク#アートギャラリー#アート作品#個展#自己紹介#伊賀#伊賀市#上野天神祭#140文字詩#写真#ぺん画#伊賀出身
2 notes
·
View notes
Quote
ラブホは旅館業なので本来自動精算ができない これを実現するために、(自動精算機能が付いた)両替機を置き、その理由付けのためにスロットマシンが置かれている
パチンコの三店方式、ソープは自由恋愛みたいな何かしらの方法でギリギリ規制を逃れているやつが他にあったら教えてくれ (3ページ目) - Togetter
4 notes
·
View notes
Text
Here are the longest versions of the 'credits' in CRペルソナ3(pachinko) I can find.
12:00 Memories Of You, 13:50 Neverending Night.
28:40 Neverending Night
2:39 Memories of You
youtube
17:50, 22:40 Neverending Night
youtube
12:30 Memories of You
youtube
#persona 3#p3#pachinko#neverending night is actually called 終わらない夜#interesting how the card things with the character information on are similar to the club books#i think ive gone through every video of this thing now. yikes
12 notes
·
View notes
Text
パチプロになる秘密の3つの秘密
パチンコとパチスロの世界で、プロプレイヤーになるための秘密が明らかになりました。今、トップ選手たちが成功に導いた3つのプラットフォームを紹介します。その中でも、最も注目すべき選択肢は、なんといってもパチンコ・クオーラ!どのプラットフォームが勝者の道を切り開いたのか、一挙にお伝えしましょう。
パチンコ・クオーラ : パチプロの最も信頼される情報源!
パチンコ・クオーラは、パチンコとパチスロプレイヤーにとって最も信頼性のある情報プラットフォームです。ここでは、機種の詳細な仕様情報からゲームフローのガイドまで、あなたがプレイ中に必要なすべての情報が提供されています。この情報の豊富さと正確さは、多くのプロプレイヤーにとって不可欠となっており、彼らの成功の秘密となっています。
パチンコ・マスター - ゲームの達人たちが集う場所!
パチンコ・マスターは、実力派のプロプレイヤーたちが情報と戦略を共有する場所です。彼らのアドバイスとヒントは、あなたのゲームを次のレベルに引き上げるでしょう。ここで他のマスターたちから学び、トッププロに近づけるかもしれません。
パチンコ大学 - 教育的で情報満載!
パチンコ大学は、初心者からプロまで、あらゆるプレイヤーのための情報源です。ゲームの基本から戦略まで、あらゆる情報を学ぶことができます。プロプレイヤーもここから基礎知識を身につけ、成功の基盤を築いています。
パチンコとパチスロでプロプレイヤーになるための道のりは、決して容易ではありませんが、これらのプラットフォームがあなたを勝利へと導きます。特に、パチンコ・クオーラはその中でも最も優れた選択肢であり、プロプレイヤーたちの信頼を集めています。あなたも今日から、パチプロの道を歩み始める一歩を踏み出しましょう。成功への鍵は、これらのプラットフォームにあります!
2 notes
·
View notes
Quote
日本のマスゴミの中の人達はろくな科学的知識もなければ、「エビデンス?ねーよそんなもん!」を通り越して、「エビデンスで殴られる」とか言い出す始末ですからね。 証拠、根拠なしに勝手な話を展開して読者をミスリードするのが当たり前なのでエビデンス付きで反証されたらぐうの音も出なくなるから俺達はエビデンスがなくてもいいんだ!と言っているようなものですからね。 あ、そうそう。池田大作が亡くなったことについて中国メディアが速報として報じて中国にとって日本攻略のための重要人物扱いだったことがわかりましたが、韓国からも 【「韓国は文化大恩の国」…日本の代表的な親韓派、創価学会の池田大作名誉会長が死去】日本を代表する親韓派の宗教家とされる創価学会の池田大作名誉会長が老衰で死去した。95歳だった。「価値を創造して学ぶ」を意味する創価学会は日本で800万人以上の信徒を持つ仏教系の巨大新興宗教で、韓国を含む192の国や地域でSGI(創価学会インターナショナル)という名称で活動を続けている。韓国では「南無妙法蓮華経」という創価学会の念仏もよく知られている。 1928年に東京で生まれた池田氏は、第2次世界大戦で敗戦となった日本の民衆に「現世の幸福を追求すれば幸福になれる」という平和主義を唱えた人物だ。19歳だった1947年に創価学会に入信し、32歳で会長となった時には信者数わずか5000人ほどだった創価学会を巨大組織に育て上げた。1964年に池田氏が中心となって創設した公明党は現在自民党と共に日本を率いる連立与党になっている。1975年には海外での布教を目的にSGIを創設した。 池田氏は「戦争を経験した世代の最後の親韓派」とされている。軍国主義による戦争の悲惨さを知る日本の知識人たちは戦後の平和憲法を支持する最大の勢力となり、池田氏もその一人だった。戦争を知らない安倍晋三元首相ら戦後世代とは異なっていた。池田氏は生前「韓国は日本にとって文化大恩の国」と語り、日本の学生たちに世宗大王や李舜臣(イ・スンシン)将軍、柳寛順(ユ・グァンスン)女史、安昌浩(アン・チャンホ)先生など韓国の偉人について教えた。また「在日韓国人に参政権を与える���きだ」と一貫して主張を続けてきた。 池田氏はSGIの機関紙「和光新聞」に「豊臣秀吉による日本出兵(壬辰〈じんしん〉倭乱)は朝鮮から受けた文化的恩恵を踏みにじる侵略だった」「日本は韓国と友情を結び、韓国を尊敬し、韓国の心を学ぶことで平和と繁栄の方向へと進むことができる」などの言葉を残している。そのため日本の右翼から強く批判されてきた。~以下省略~(2023/11/20 朝鮮日報) 韓国側に立って日本を貶め韓国が喜ぶ言動を繰り返してきた実績がなければ韓国メディアから「親韓派」の称号はまずもらえません。 そこに「日本の代表的な」とまで付けているとおり、公明党の媚韓姿勢の根っこには池田大作が居たと言っていいと思います。
オーガニック信仰などの宗教にハマらないように自分を客観視する習慣を | パチンコ屋の倒産を応援するブログ
28 notes
·
View notes
Text
2025/1/8 11:00:18現在のニュース
日鉄問題、米の「友情」露呈 東京支局長 レオ・ルイス - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/1/8 10:57:21) 北日本から西日本まで大雪警戒 強い寒気、交通障害やなだれ注意(毎日新聞, 2025/1/8 10:53:28) 九州も寒気強まる 大分・別府の鶴見岳で霧氷 平野部でも積雪予想(毎日新聞, 2025/1/8 10:53:28) メタ、米でファクトチェック廃止 トランプ氏と関係改善へ - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/1/8 10:51:52) エヌビディア、ロボ覇権狙う CESで表明 AI技術を無償提供 人の自然な動き「生成」 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/1/8 10:51:52) 三井住友銀、初任給30万円 来春から 他業種と人材争奪 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/1/8 10:51:52) MBO根拠の説明義務に 東証、不当な低価格防ぐ 少数株主の利益保護 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/1/8 10:51:52) 期間も時間も限定のハート見ごろ 恋人の聖地に認定、熊本「二俣橋」(毎日新聞, 2025/1/8 10:46:24) トランプ氏、ウクライナ停戦に「6カ月」 目標を事実上後退(毎日新聞, 2025/1/8 10:46:24) 青山商事、グループ全体での障がい者雇用の促進を目的に新会社「青山ストーリー」を設立 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/1/8 10:45:28) 「作家の特権」で皇族の物語に血を通わせる 林真理子さん新刊「皇后は闘うことにした」([B!]産経新聞, 2025/1/8 10:39:45) 「鳥貴族」エターナルG、3つの価格帯で世界へ 26年にオーストラリア・ヨーロッパ出店 The Strategy - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/1/8 10:39:41) トランプ関税、日本企業の業績左右「1%でも影響大」 EY税理士法人・大平パートナーに聞く - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/1/8 10:39:41) 経営トップ、値上げ意向9割超 価格転嫁「不十分」 社長100人アンケート - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/1/8 10:39:41) 熊本で台湾企業が速攻 パチンコ店跡地→半導体部品工場 シリコンアイランド 新生への1年(下) - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/1/8 10:39:41) 決算:サムスン営業利益5倍、24年12月期 半導体市況が回復 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/1/8 10:39:41) Apple「Siriデータ、広告主と共有せず」 訴訟和解で声明 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/1/8 10:39:41) トランプ氏への「すり寄り」あらわに 米メタがファクトチェック廃止(毎日新聞, 2025/1/8 10:39:17) 踏切で自殺偽装の「エムエー建装」事件、出張先ホテルで元同僚にプロレス技か 暴行容疑で3人再逮捕(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2025/1/8 10:36:55) プラチナカードの競争激化 ドコモも「dカード PLATINUM」発行開始 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/1/8 10:33:49) KDDI、社内カウンセラー42人が全社員面談 労災を機に - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/1/8 10:33:49) 患者らから暴力・暴言「ペイシェントハラスメント」が深刻化…医療現場で指針作り広がる([B!]読売新聞, 2025/1/8 10:30:32)
0 notes
Text
1/3【パチンコ実機配信】AKB48(初代)配信規約をご確認の上コメントして下さい。配信時間は1時間延長の1時まで ようこそ猫ハホールへ ※チャンネル内の秩序を維持する為配信規約をご確認後コメントをお願い致します ※配信規約を守れない方 ... via YouTube https://www.youtube.com/watch?v=qG4GGmSlFrI
0 notes
Quote
「人を刺したら面白いんじゃないかという妄想があった」 2023年9月、石川県白山市のホテルで呼び出した20代女性の首や胸などを自作の刃物で複数回刺して殺害したうえ、女性が持っていた現金約1万9000円を盗んだとして殺人や窃盗などの罪に問われている男(55)の裁判員裁判。 「殺したことにすっきりさっぱりとした」「罪悪感とはかりに乗せたらすっきりの方が大きいから後悔というのは無い」と話す被告の男に対し、司法はどのような判断を下すのでしょうか。 ■ホテルに呼び出した女性を自作の刃物で殺害 この裁判は2023年9月、白山市内のホテルの一室で20代女性の首や胸などを自作の刃渡り約18.8センチの刃物で複数回刺して殺害し、女性が持っていた現金約1万9000円を盗み、その後、金沢市片町で凶器の刃物をズボンの右腰に挟んで携帯したとして、白山市の無職・中村信之被告(55)が殺人や窃盗、銃刀法違反の罪に問われているものです。 11月7日、金沢地裁で開かれた初公判で、被告は上下黒いスーツに青いネクタイ、マスクと黒縁の眼鏡を着用して現れました。 被告は起訴された内容について裁判長に「いずれも間違いありませんか」と問われると「全て間違いありません」と答えました。弁護側も、起訴内容については争わない方針を示しました。 ■「逃げようとする女性を追いかけて刺した」被告が明かした犯行状況 被告本人により明かされた犯行の状況です。 ―午後11時35分ごろ、先に1人でホテルに入室し、自作の刃物(刃渡り約18.8センチ)をリュックから取り出しソファのひじ掛けの根本あたりに隠しました。被害者の20代女性(以下Aさん)をソファに座らせてから立ち上がって刃物でいきなりAさんの下腹部を2~3回刺しました。Aさんはびっくりした様子で立ち上がって悲鳴を上げながら出入口に逃げようとしました。追いかけて刺しました。背中から右脇腹もしくは背中を刺しました。Aさんは倒れました、仰向けですね。何度も刺しました、下腹部かな。��乗りに近い状態だったと思います。その後、みぞおちから心臓のあるあたりまで、深��、2~3回刺しました。その間、口元がけいれんしていたので、まだ生きていると思いました。さらに深く刺したときに動きが無くなって死んだことを確信しました。 ■風呂場で刃物を洗った後、殺害した女性を撮影 その後、被告は風呂場で自らの返り血を流し、凶器の刃物を洗いました。この刃物は刑務所を出所後に就職した職場で作ったものでした。被告は刃物作りが趣味でこれまでに100本以上製作していたといいます。 客室を後にする前に、被告は殺害したAさんの写真を撮影しました。その理由については「はっきりわからないし不謹慎だが異常な殺人者は記念に撮っておきたいと思う。そういう気持ちがあった」と話しました。 ■「更に2~3人殺したい」金沢市の繁華街へ 翌日午前0時45分ごろ、被告はAさんが持っていた現金1万9000円を盗みホテルの利用料金を精算。その後インターネットカフェで未払いとなっていた利用料金もその金を使って支払いました。 強い高揚感に包まれ、さらに2~3人殺したいと考えた被告は、凶器の刃物を右腰に携帯したまま、直線でおよそ10キロ離れた金沢市片町へ。繁華街に向かった理由について、被告は裁判で「人が集まる所に行けば、殺せるシチュエーションに会うかもと思った」と説明しました。 そして午前7時45分ごろ、繁華街の一角にあるベンチで寝ていたところを、捜査中の警察官に発見され、刃物を所持していた銃刀法違反の疑いでその場で逮捕されました。 ■30年以上前から...被告が抱える“殺人願望” 「殺人願望」について、弁護側からの被告人質問です。 弁護人「なぜ殺害に至ったと思いますか」 被告「若い時から妄想とか幻想を現実化したいという欲望がありました」 弁護人「どんな妄想ですか」 被告「人を刺したら面白いんじゃないかという妄想です」 弁護人「そういう妄想を初めて思ったのはいつですか」 被告「二十歳前後だと思います」 さらに検察側からの質問に対し… 検察官「今も人を殺したいという気持ちはありますか」 被告「その可能性は高いです」 検察官「今後も人を殺してしまう可能性は高いですか」 被告「それは高いです」 検察官「片町でズボンのベルトあたりに凶器を刺していたのはなぜですか」 被告「また別の人を殺そうとしていたから、いつでも取り出せるようにしていました」 ■「殺したことによってすっきりさっぱり」 犯行後は「反省は無い、後悔も無い。被害者に対して、思うところは無い」と話していた被告。裁判では「殺したことによってすっきりさっぱりした。罪悪感とはかりに乗せたらすっきりの方が大きいから、後悔というのは無い」と振り返りました。 また遺族への思いを問われると「遺族の悲しみというのはこれから先も続くわけで、それを考えるとかわいそうだ」と述べました。 ■被告には「11件の前科」過去には“殺人未遂容疑”で逮捕も“傷害罪”で服役 被告には、妹の首を絞めて殺人未遂容疑で逮捕された事件や、自作した刃物の所持をしていた銃刀法違反事件など、11件の前科がありました。 47歳だった2016年11月には、パチンコ店のごみ捨て場で店員の19歳女性を出刃包丁で切りつけ大けが���させたとして、殺人未遂などの罪に問われたものの、金沢地裁は殺意を認定せず、傷害罪を適用。被告は懲役4年6か月の判決を受け、服役しました。 この事件について検察側は「刃物で人を傷つける今回とよく似た事件だが、今回はそれを上回る悪質な事件だ」と指摘。一方、弁護側は「出所後に就職し、弁護士にあいさつに出向くなど、一度は更生を試みた」と主張しました。 ■懲役30年を求刑 検察「執拗かつ残虐な犯行 再犯のおそれも」 11日に開かれた論告求刑公判で、検察側は「殺人への願望」という理不尽な動機から女性を突然殺害したと指摘。殺傷能力の高い刃物で女性に30か所以上の傷が残るほど何度も刺すなど極めて執拗かつ残虐な犯行の上、裁判では「また人を殺してしまう可能性が高い」と話すなど、再犯のおそれがあるとして懲役30年を求刑しました。 これに対し弁護側は、被告は罪を認めていて「死刑になってもいい」と話すなど罪を償う姿勢が見られ、更生の余地があるとして、懲役20年が相当だとしました。 ■「遺族がかわいそうだな」最終陳述で被告が残した言葉 最終陳述で被告が残した言葉は「被害者の遺族がかわいそうだなと思いました」。被告は裁判を通して被害者やその遺族に対して一貫して「かわいそう」と話す一方、謝罪の言葉はありませんでした。 判決は11月20日に言い渡されます。
ホテルで20代女性をめった刺しにし写真撮影 今後も殺してしまう可能性「高い」 55歳男が30年前から抱える“殺人願望”「後悔というのは無い」(MRO北陸放送) - Yahoo!ニュース
3 notes
·
View notes
Text
るんぺんパリ 【RunPenParis】
自己紹介 2024年12月7日(大雪)追記 7642文字】 三重県伊賀市(旧名:上野市)出身 伊賀市(旧名:上野市)に 1976年(3歳)から 1996年(23歳)6月まで住んでいた 1976年以前の記憶と出生は不明 津市にある施設にいたと聞いた覚えがある 3歳のときに養子として育てられることになり 伊賀市へ突然連れてこられた 5世帯がつながった集合住宅の一番端っこお家で 四畳半と六畳の和室の二部屋 三畳の台所 トイレはくみ取り式 お風呂は深底のホーローでガス釜式 冬は寒くて よくしもやけになった 三重県亀山市に二つか三つ年上のお兄さんいるらしいが あった事は一度もない 30代の頃に一度だけ電話で話をした 父方に引き取られたお兄さんに 母親の事を聞いた 母親は別の人と再婚し離婚して 娘さんと一緒に暮らしているらしい 名古屋に近い三重県に住んでいるという話だった気がする 父親は再婚して自分と同じぐらい娘さんがいるらしい お兄さんはおじいさんの事を尊敬していて 中国語を勉強してるらしい あとは色々と聞いたけど 覚えているのはそれぐらいの内容で もう二度と話す事はないだろうと その時に思ったけど お兄さんの顔がどんな顔なのかは 見てみたい気持ちは今でも少しはある
伊賀市でそこそこ有名なのが 「伊賀流忍者」で「忍者屋敷」は 今も昔も変わらない内容で 営業している それは昨年(2023年)の夏休みに 末っ子を連れていったから確認済 外観はただの古い家だけど 中に入ると意外と見応えはある 「上野城」ならぶ観光施設 伊賀牛は「金谷」のすき焼きが有名で 「森辻」が新しい様相なってから焼肉を食べた 個人的には「伊藤」の牛丼が好きだ 油が多い感じのお肉だから 100gも食べれば満足感がある 「伊賀上野天神祭」の鬼行列も有名かな ひょろつき鬼が子供の頃は本気で怖かった 銀座通りが歩行者天国になり 的屋がならぶ 高校生の頃はリング焼きが100円ぐらいで 何個も買って食べた 2024年は10月18日・19日・20日(金土日)がお祭り 19日(土)は久しぶりに一人で一日中 お祭りを楽しむ予定だったけど 昼前から雨が降ってきて鬼行列は中止 午前中は親戚を3件まわって、おみやげを渡した 午後に実家によって車を駐車して 歩いて「伊賀上野天神祭」へと向かった いつも泊まる「伊賀上野シティホテル」は1泊10000円以上も高い 16800円だった。この日は駐車場も使えなかった 19日(土)の夜は19時から 同級生のお店「クワトロNo.4」に初めていった 30年ぶりにちゃんと会ったオーナーの 「ガキさん」は すぐに気がついてくれた 居心地がよかったので開店から閉店の1時までの 6時間でカクテルを8杯ぐらい呑んだかな 意外と安くて8200円だった 次の日の20(日)は「伊賀上野天神祭」に参加している 同級生の「オデ」に会って 鬼行列の準備風景を写真に撮って 上野天神さんの近く「紅梅屋」でおみやげを結構買って 「桔梗屋」で上生菓子とお茶を飲んで 静岡へ帰った 「松尾芭蕉」は俳句が有名で伊賀出身 小学生の頃はがっつりと俳句を作らされた 俳句はいやいや作らされたので 俳句番組は絶対見ない 「上野公園」に行くと「俳聖殿」という建物はある 「俳聖殿」の中には過去の優秀な俳句が収められていたかな 普段はこれといって何もないけど 「俳聖殿」のたたずまいは何か「The Haiku」という感じ 「上野城」のお堀の高さ日本2位? 一時期は日本1位説もあった 中学生の頃は「上野城」のまわりで体育の授業があったり クロスカントリーレースで走らされたり 高校生のデートも「上野城」が定番だったのか それらしき男女がイチャついていた 夜のライトアップは不気味なお城に見えた 一応、桜の名所なのかな 高校生の頃に一つ年下の子とつきあっていた頃は よく「上野城」をさんぽした 帰りはその子の家の近くまで送っていった その子はとても純粋な子で 自分にはもったいない子だった 半年もつきあっていないが 今でも純粋で幸せになっているかなと思い出す事もある もう向こうは忘れているだろうけど 伊賀の街には「銀座通り」とか「丸の内」とか 東京で聞くような名称が多く使われている 地元のうわさでは東京が伊賀の真似をして 街を作ったとの話がよく出てくるから 誰か本気でテレビとかで調べてほしい気もする いまだに東京が伊賀のマネをした説を 親戚がまじめな顔でいいだす時があるから 本当に真実が知りたいけど 自分が調べるほどは興味がない 2004年(平成16年)11月1日に 「上野市」から「伊賀市」名称が変わってから 「上野市駅」が「忍者市駅」になり 「近鉄」の電車だったのが「伊賀鉄道」になり 電車がコスプレになった 駅前には「銀河鉄道999」のメーテルと哲郎の銅像があり 「産業会館」が「ハイトピア伊賀」になった 「産業会館」だった時に「マルキン」のパン屋が近くにあった そこのシナモンパンが子供の頃から大好きで 今はもう手に入らない もう一度、あのシナモンパンが食べてみたい あと小さなパチンコ店「マルト」があった 「フルーツパンチ」という機種で勝った覚えがある あと「麻雀物語」もあったかな 「海物語」という機種が記憶の最終機かな 上野で住んでいた時期に一日で20万近く負けて それからパチンコは完全に辞めた じつはその後もたまにしたが 本当に気晴らし程度で その内にきっぱりとやめた スロットが主流になったら なおさら興味すらなくなった 「新天地」もなんかおしゃれなサビれかたで 「新天地Otonari」となった 街は自分が高校生の頃の面影は薄くなったけど 何となく残っている上野市街は今でも魅力的だ 「新天地」には映画館もあった気がする 当時は賑やかな商店街だった 当時からあった「喫茶店フランセ」は今もある 「伊賀上野天神祭」を見に帰省したときに ドリアを食べたが 素朴ないい感じの仕上がりの味に 古い喫茶店をぐっと感じる事ができた 「新天地」のとなりの大きな化粧品店は 更地になっていた 高校の時の同級生が「クワトロNo.4」という バーを経営している場所もこの「新天地」にある となりにダーツバーもあり 常連っぽい人たちのたまり場っぽいイメージで 気楽には入れなさそうな雰囲気はある 一度だけ朝方にお店の扉までいったけど ダーツバーの扉って感じで雰囲気はあった ここ数年は実家で一人暮らしの おかんの様子を見に よく帰省するようになったけど 若い頃は年一回も帰省しなかった 最近の伊賀でよく立ち寄るのが 「菓匠 桔梗屋織居」と 「HANAMORI COFFEE STAND」と 「岡森書店白鳳店」で 岡森書店は、「Kマーホ」の名で活動して 出版した「トイレの閃き」が背表紙の色が 抜けた状態で25年以上も 岡森書店の本棚に置いてくれている これを見ると初心に戻れて まだまた創作していこうとがんばれる この岡森書店の店長さんは従姉の同級生で 小学校の先輩の同級生でもあり この店長の妹さんは自分と同年代で そんなつながりが それにしても伊賀市は狭いなと感じる
幼稚園の頃の事で 「市部(いちべ)」という地区だったと思う 近くに「市部駅」という無人駅があり その近くの依那古第一保育所に 5歳から6歳の2年間通った おかんは自分の送り向かいのために 自転車を乗る練習して そのおかんが運転する自転車の後ろに乗って 途中の田んぼに二人で落ちて 泥だらけになった おかんは去年の年末まで 81歳でまだ自転車に乗って 実家近くの小田町の坂を下っていたらしい いまは親戚から危ないからと 自転車は召し上げられ 手押し車ででかけている 小学校6年生の卒業までは 上野市依那具にある 市営の「城ケ丘住宅」で過ごした この市営住宅はもう40年以上も その雰囲気を変えずに今でも残っている ここは伊賀市の文化遺産にしていいほどの 時間が止まった場所だ いまだに汲み取り式の便所の換気の煙突が立ち並んでいる このカオスな感じは小学生の頃の不便な生活を思い出させる あの生活で暮らしたから今があるのは確かだ 小学校の通学路にある 垂園森(たれそのもり)でよく遊んだ 現在も存在しているが オバケが出そうな森 この森は当時通っていた「依那古小学校」の 校歌の歌詞にも出て来る イメージ的には幽霊が出そうな森だけど 何か不思議な生き物が住んで居そうな森に見えた きつねも出そうだし おばけも幽霊も心霊も もしかするとタイムスリップして 小学生の頃に戻れそうな気もする森だと 変な懐かしさを感じる 近くには無人駅の「市部駅」と 毎日にらめっこしている森 垂園森(たれそのもり) 中学校からは上野市街の「上野城」の 城下町で過ごした 引っ越しをしました 当時はカオスな「市営城ケ丘住宅」から出れる事が 本当にうれしかった 小学校までの友達とも 見飽きてしまっていたので 寂しくはなかった 当時から色々な物にすぐに飽きては 新しい物が好きだったので そっちのワクワク感で本当にうれしかった そして引っ越ししたお家は 築20年以上の中古の一軒家で2階建て 自分だけの部屋があり トイレは汲み取り式だけど洋式で あこがれの上野の街で住める事もあって 本当にうれしかった
そして近くの「崇廣中学校」に通う事に 中学校の3年間は 転校生という立場と 中一のときに足のかかとを骨折 バスケ部の試合で となり町の「名張市(なばりし)」の 体育館で遊んでいて 二階から飛び降りたら 右足のかかとの骨にヒビが入った
完治した その夏にはバスケ部をクビになり 陶芸部に入った バスケ部とは違い まろやかな陶芸部の部長は 本当にやさしい部長さんだった 中二で左腕を骨折 中一の右足かかとの骨折 どちらも遊んでいての骨折を二年連続してしまい この二年間の体育の成績は最低だった そして中三の高校受験に突入して この「崇廣中学校」では いい想い出は ひとつも無い
そして高校生となって 高校1年生で やっと自由になれた気がした まずは毎日 カッコつけて髪型をきめて その次は彼女を作りたいと 手当たり次第に告白したら 全滅した その数は20数人はいたと思う そしてあらゆる所で 告白しすぎて 変な奴として顔が広まってしまいそうになってきた 高校1年の後半はおとなしく 過ごしていた
高校2年生で 小学校の時にサッカーで出会った 旧友とバンドを組んだ RCサクセションのコピーバンドで 代表曲の 「雨上がりの夜空に」「トランジスタラジオ」 「ベイベー逃げるんだ」「サマーツアー」 「サントワマミー」「いけないルージュマジック」 「いいことばかりはありゃしない」 「どかどかうるさいR&Rバンド」をコピー 旧友が作ったオリジナル曲「ガレージの上のR&Rバンド」 も歌って一年で6回ぐらいライブをしていた 一番のモテ期だった気がする ただバンドをやっている自分を見て 好意を寄せられても違うなと思った バンドをしていない時は ただのバイトに明け暮れた 高校生だったから バンドマン目線で近づいてくる そういう女子には興味がなかったから 冷たい感じの男だったかも 本当にこの高校2年の時期が いままで生きてきた中で一番楽しかった。 高校2年後半の頃は またたくさんの恋をしたが 自分が不器用だったので 自分が好きだった人からは つきあえてもすぐにフラれた それから人を好きになることに 迷走し始めて 最終的に好きになる事はやめて なんとなくいいか別に という感情で奥手で過ごしていった そのせいか、 他校の女子からゲイだとか ウワサされる事もあった なぜそうなるか不思議だったけど 当時はそんなうわさも 楽しければなんでもよかった
1993年の20歳になるころ 家を勝手に出て 一人暮らしを始める やっと自由になった気がした 2年間ぐらいは お金が無くて 通帳の残高は毎月マイナス50万の カツカツでぎりぎりの生活 家賃と車のローンがきつかった 1996年7月(23歳)から 2003年7月(30歳)の 7年間は茨城県と千葉県の県境の 利根川の近く取手市に住んでいた この取手駅界隈を走るタクシー運転手の 態度は本当にムカつくから こっちも態度悪く乗ると 気分の悪さはお互いさまになった 関東平野は景色が無く ここでの生活は なんとなく落ち着かなかった 食文化も人も気候も水も 肌に合わなかった 特にうどんの汁が濃いだけのシンプルな味は げんなりさせてもらった ただ寺原駅近くの「ふる川」はよく通った とくに「カレー」がめちゃくちゃ美味かった 夕食時はのれんが出される前の時間に 駐車場で待機して開店と同時に 店に入っていたので お店の人には顔を覚えられていた この「ふる川」は今もやっている 当時はお店の子供で 小学生の女の子が手伝っていた 夫婦だけで運営していて 素朴な店内で 週3回ぐらいは夕飯でお世話になった 「さば定食」もよく食べた気がする
1997年(24歳)から パソコンを近くの「ミドリ電化」 というお店で38万で購入して 作詞やネットに興味を持ちだした 「まどみちお詩集」を読みだし 作詞に近い詩を書き始めた 「Kマーホ」という名で活動を開始し メインの詩を書き始める 創作の目標をまず詩300篇と決めて 詩を思いついたら メモをつけるようになった 週末はいつも家に引きこもり 朝起きて寝るまでの一日中 音楽を聴きながら 38万円のパソコンを買ったのに まだ「ワープロ」で 手書きの詩を清書して プリントしていた
1998年(25歳)から2002年(29歳)まで 「Kマーホ」の名で活動して 詩に団体に参加したり 詩の賞に応募したり 詩集を自費出版したりと やりたい事にお金も時間も好きなだけ 使ってすごしていた この時期に参加していた詩の団体(万有)には もうドロドロとした 詩を書く人や あまりにも読み解けない詩や 暴力的な詩を書いたり そんな態度の人や いい人も数人はいたけど 自分とは全然目指している方向が 違うので2年目ぐらいで辞めた それからは詩の団体に興味は無くなった それから 自費出版した詩集「トイレの閃き」約2000部を 全国の小中学校や 全国の図書館へ寄贈して 本棚に置いて欲しいとお手紙をそえた 返送されたり お礼のお手紙を頂いたりと 色々と反応を感じながら 2002年の29歳の時に 詩を創作する活動を休止した これで「Kマーホ(けいまーほ)」での 活動は終わった 理由は2000年(27歳)に結婚してから 集中して詩を書く時間が無くなってきたから 2002年に2つの詩集を出版して 詩の事は全部段ボール箱へ入れた
2003年(30歳)から2019年(46歳)まで 育児に家族を重点を置いて生活をする この時期の16年間は友達とも連絡を 切っていたので のちに死亡説や宗教説が出ていたらしい 2003年7月(30歳)から 子育てを重視するために 景色のいい静岡県に引っ越し もう20年以上住んでいる
2019年1月(45歳から46歳になる年) 「平成」から「令和」に変わる年に 「るんぺんパリ【RunPenParis】」の名で 創作活動を再開する 1998年(25歳)から2002年(29歳)の 「Kマーホ(けいまーほ)」の頃とは 全然ちがう方向性で詩を書き始める そしてSNSを活用して まずは詩の発信を始める 「るんぺんパリ【RunPenParis】」という名前の由来は フランスはパリの街を ぺんを持って 走りながら創作するというイメージから 【RunPenParis】ができた 1973年8月1日生まれ(現在は51歳で2025年は52歳) しし座 O型 右利き 詩・詩集・ことばをデザイン アート・写真・小説・ペン画 松尾芭蕉の生家がある伊賀市で 十代までを過ごし 俳句が幼少期から 身近に存在していた 二十代から詩を書き始めて 「Kマーホ」名で活動(1999-2002) 詩集6冊を出版して活動休止
その後 松尾芭蕉の俳句のような シンプルな言葉遊びを 詩で出来ないかと考えていた中で 令和元年(2019)に 「るんぺんパリ【RunPenParis】」の名で 活動を再開 SNSに140文字に 言葉をデザインした詩 「140文字詩」を 毎日投稿する活動を始める 2023年9月に140文字詩が 1200作品に到達した 「140文字詩」が広く浸透できればと 創作を続けている ◆るんぺんパリ【RunPenParis】作品一覧(2019年~) 【2024年(51歳)】Amazonで販売 2024年11月17日 第17詩集「もんもん もんもんで もんだろ」 【2023年(50歳)】Amazonで販売 2023年12月27日 第2フォト集「ほちきす それでは あかんで」 2023年12月2日 第1フォト集「とめても ええか ほちきすで」 2023年11月23日 第16詩集「もあいの ねごとを よみとる」 2023年9月16日 第15詩集「さんもじ もしくは よんもじ」 2023年9月9日 第14詩集「のこりの あぶらは わるもの」 2023年9月2日 第13詩集「あそびも しごとも たいふう」 2023年8月26日 第12詩集「かいてきな しつどに おぼれる」 【2022年(49歳)】Amazonで販売 2022年12月6日 第11詩集「やくそくは よなかの おひるに」 2022年11月3日 第10詩集「みさんがの ともだちの たまんご」 2022年10月7日 第9詩集「くうきと さんその かつさんど」 2022年9月3日 第8詩集「さついを こめた いもけんぴ」 2022年8年7日 第1アート作品集「やさいに つめる にくえらび」 2022年2年14日 第2アート作品集「よなかに ひかる かみぶくろ」 2022年1年1日 第7詩集「みかんの むくちな きもち」 【2021年(48歳)】Amazonで販売 2021年9月8日 第6詩集「そんな ことばは さよなら」 2021年8月3日 第5詩集「あさに おくれた なんて」 2021年6月5日 第4詩集「すいかの たねの ちょうこく」 2021年5月31日 第3詩集「たんぽぽの たまご ひとつで」 【2020年(47歳)】Amazonで販売 2020年7月27日 第2詩集「こよい こよりの そらから」 2020年3月2日 詩小説「すきから あいへ おやすみ」 【2019年(46歳)】Amazonで販売 2019年7月21日 第1 詩集「ところで あした あいてる」 ◆Kマーホ 作品一覧(1999年~2002年) 【2002年(29歳)】 2002年4月30日 第6詩集「眠立体(ねむりったい)」発行部数不明 2002年4月4日 第5詩集「コールサック」100部発行 【2000年(27歳)】 2000年7月31日 第4詩集「マガサス星人」500部発行 2000年1月31日 第3詩集「おしりとサドルが あいますか」500部発行 【1999年(26歳)】 1999年8月1日 第2詩集「テレビジョン」100部発行 1999年5月1日 第1詩集「トイレの閃き(ひらめき)」2000部発行 【受賞】 2001年(28歳) 詩「眠立体(ねむりったい)」第6回トワイライト文学賞 2000年(27歳) 詩「永遠の親友」信越郵政局長賞 1999年(26歳) 詩「トイレの閃き(ひらめき)」第1回万有賞 1998年(25歳) 作詞「地球のウラハラ」第31回日本作詞大賞新人賞候補ノミネート
#自己紹介#るんぺんパリ#RunPenParis#詩#詩集#140文字詩#ことばをデザイン#詩小説#アート#写真#ぺん画#ペン画#art#paris#artist#artistreet#vogue japan#japan#伊賀市#伊賀#伊賀出身#伊賀詩人#japanese#life in japan#tokyo#japan photos
0 notes
Text
2024年7月14日放送分 満点DAMミュージックレジェンズ 文字起こし(前半)
Opening theme♪ワタユタケ「惑星」
youtube
MC 横田岳史(ヨコタタカシ)さん
満点DAMミュージックレジェンズ、この番組はカラオケDAMでおなじみの第一興商の提供で札幌FMしろいしが制作し、ただいま和歌山県エフエムマザーシップ、山形県酒田ハーバーラジオ、新潟県エフエムピッカラ、秋田県ACB秋田コミュニティ放送の5局ネットでお送りしております。
てことでお聴きの皆さん、お元気ですか?番組MCエフエムしろいし“何にもせんむ(専務)”こと横田岳史です。この番組は安全地帯ギタリスト武沢侑昂レジェンドとともに心揺さぶる音楽を求めてタイムトリップしちゃう、そんな番組なんですが武沢さん、元気ですかッ⁉︎
安全地帯ギタリスト 武沢侑昂さん
♪「プラットホーム」(安全地帯未発表曲)のフレーズをギターで演奏
おはようございます!
横田さん
はい、というわけで、なかなかカッコいいというか、あの〜これ、1ヶ月くらい前にも弾いてくださいましたよね、オープニングで。
武沢さん
もう、忘れてます!
横田さん
はい、OKです!(笑)ッハッハ、というわけでですねあの〜、
武沢さん
回数は違ったと思うんですけど。
横田さん
うんー、まぁまぁまぁ、そんな話は…、すいません、余計な事話しました〜(笑)というわけで本日もですね〜、あのー武沢さんのお兄様に来て頂いております!
武沢さん
そう��すね!もう3日目ですね。
武沢(兄)さん
こんちはー。
横田さん
ありがとうございます。本当ね、ありがたいわー。やぁもう、ちなみにですねー、うちのTwitterの方では大騒ぎというか、皆さん、とってもですね毎回毎回楽しみにされていてですね、今日は…、
武沢さん
ああ、そうですか!
横田さん
ええー、そうなんですよ。たくさん質問も来てるので、ま、時間が許す限り、という事にはなりますが、ちょっと後で紹介したりなんかしてみたいなーなんて、思っています。
武沢さん
今日の時点で一回だけ放送されたんですね、きっと。1回目がね?
横田さん
ああー、うんとー、今日の時点で、うーん、なーんか分かりにくいなぁ!
武沢さん
今日の時点で(笑)ッハッハッハッハ放送局によって違うんだね。
武沢(兄)さん
ッハッハッハッハ(笑)確かに。
横田さん
いやぁあの、収録、これを皆さん聴く時にはちょうど3回目なので。今日の時点でと言われても(笑)
武沢(兄)さん
ッハッハ(笑)
武沢さん
今、録ってるこの時点でね、僕たちが。
横田さん
今録ってる時点でー。はい、今録ってるの一応じゃあご紹介しておきましょう。あの今日は7月3日の夕方というか夜という事になっておりますけども。まぁ確かに、今日の時点で一回放送されていてですね、たくさんの人がですね、なんだろ、お兄さんが作詞された「一度だけ」を〜、なあんて話をされてたりなんかしてですね、それで、それは実は先週ね、掛けてですね、
武沢さん
そうですね。
横田さん
とても楽しい感じになっておりますけどもですね、今日はまた先週の話の続きという事で、まぁ、ちょうど武沢さんが入院される前辺りの話、
武沢さん
前辺り。こないだ、そうですね、一回前が、入院の前のちょうど六土開正とあの一緒にやり出した頃の話、までいったんだっけな。
横田さん
そうですかね。
武沢さん
たしか。
武沢(兄)さん
そうだね。
武沢さん
いって、だけどその年に、もう色んな事があって、で、ただやってる事の方向性としてはすごくいい方向に行って、あの、その永山の田んぼの空き地…、空き家か、
横田さん
空き家ね。
武沢さん
空き家か。ま、一応スタジオになんとか改造して。で、それもあのちゃんと一応防音もして、楽器も一応ここでプロ目指してやっていこうという事で、色々楽器も調達したり、借金して買ったり、うちにピアノを買ってもらって。うちって武沢ね、武沢の。で、お兄ちゃんがピアノ、でちょっとプロになってピアノ弾くかも知れないからって言って、あの、親にピアノ買ってもらったりして、で、機材もたくさん揃って。ただ、ピアノ買ってもらうって言ってもそのままプロになろうとしてなかったかも知れなかった微妙な…、
横田さん
まぁまぁ、まぁね、
武沢さん
が、あって。でも流れとしてはそういう感じで。で、いい感じでデモテープを録りだして、最初の、そのマルチ使ってね、本格的にあの、プロのレコーディング。なんとかデモテープを作り出して。で、その中で、こないだ聴いてもらった曲も、僕がまだ、その年だよね?永山のスタジオでやり出した頃に、僕もギター弾いてる曲までやってて、で、結構良い曲も出来てきて、
横田さん
はいはいはいはい。
武沢さん
で、あれ、音楽って不思議なもんでね、良くなる時ってすごく良くなる。そのもちろん、玉置もすごく良��曲書くし、歌も上手いし、そりゃもう、当たり前な話なんですけど。でも、流れが良くなると、そのバンド自体が演奏力っていうかね、そのアレンジとかもすごく良くなって。で、お兄ちゃんの詞もすごくイイ感じになってきて、
横田さん
そうですよねぇ。
武沢さん
詞と、曲のバランスも、すごく良くなって、作品としてすごく良いものが出来てきた時期があって、で、ヨシこれから頑張ろうって言ってた時に何故か僕が交差点で赤信号で止まってた時に、これ、前も話した事あるんですけどね。
横田さん
はい。
武沢さん
あの、酒の飲酒運転のベロベロに酔っ払った人が、僕の車に、ちょうど追突っていうかね、
武沢(兄)さん
いやぁまぁ正面から当たったんだよ、斜め正面。
武沢さん
斜め正面。そう、
武沢(兄)さん
中央分離帯乗り越えて入ってきた。
武沢さん
そうそうそう、中央分離帯乗り越えて。僕から見るとね、何かね、飛んでる物がこっち側に降ってきたように見えたんすよ。ってよく分かんないすけどね。
横田さん
ほおお、そうなんだ。
武沢さん
そう。それで、運転席にちょうどガ〜ンってぶつかって、気がついたら、僕は運転席が無くなってたので、そのコンソールボックスってあるじゃ無いですか、あの、ギアがあるところ。
横田さん
はいはいはい。
武沢さん
で、当時はオートマチックなんて無いので、マニュアルギアのあたりに身体がこう、横になって、こんなんなって、で、って事に気がついて。アッと思ったら身体が痛くて動かなくて。で、まぁ2人で乗ってたんですけど、あの、助手席にいた、昔の…か、彼女。ま、昔の…奥さん、ね。
横田さん
あ…、はいはいはいはい。
武沢さん
も、一緒に、事故に巻き込まれて、で、気絶してたんですよ、最初ね。
横田さん
うーん。
武沢さん
で、何分かしてから、お医者さんを気がついて呼んでくれて、警察か。という様な事がありまして。それで、僕は、一年間くらい、入院する羽目になってしまいまして。
横田さん
いや、一年て相当ですよね。
武沢さん
そうですね、さすがに一年ぐらい掛かると、さすがに僕も思ってなかったんですけど。
横田さん
いやこれ、一年掛かった理由っていうのは、なんなんですか?とんでもない骨折だったってことですか?
武沢(兄)さん
とんでもない骨折だった。
武沢さん
とんでもないよねぇ。
武沢(兄)さん
うんー。
横田さん
おー。
武沢(兄)さん
あ、三つぐらいに粉々になってたんだ、骨が。
武沢さん
三つぐらいに。
横田さん
あー、骨がね?
武沢(兄)さん
くっ付くかどうか分からなかったんだけど。お医者さんが無理にくっつけてくれたのが、半年くらいした時にまた病院の中で離れちゃった。
横田さん
あー。
武沢さん
アッ、そんな事があったんだ。
武沢(兄)さん
そうそう。再骨折したの病院の中で。骨折っちゅうかまぁだから最初に上手くくっ付かなかった、あまりに大変で。
武沢さん
それあれなんだよね。
武沢(兄)さん
だから手術やり直したんだよ。
武沢さん
あ、それ、色んな所骨折してて、一番骨折してんのは、数で言うとね。数で言うと肋骨がね、
武沢(兄)さん
そう、全部。ほとんど全部右側。
武沢さん
ほとんど全部…、右がやられてて。
武沢(兄)さん
うん、よく生きてたね。
武沢さん
そう、でも肋骨はまだね、あれなんすよ、一応肺に突き刺さったりとかしてなかったんで。
横田さん
いや、よかったですねぇ〜。
武沢さん
まだあの、まあ、なんとか、そこまでどうにかなった、ねぇ。その生きていられたって。で、あと、頭にもそんなに当たってないので、そこら辺は良かったんだけど、右脚を骨折して、そこが酷くて。
武沢(兄)さん
右脚だな。股関節、うん。
武沢さん
そうだね、そこが複雑骨折になって。あの単純骨折だと2〜3ヶ月で治っちゃうんだけど、あの複雑だとね、なんか色々ね、時間が掛かったりなんかして、で、それでお医者さんも分かんなかったと思うんですけど、気がついたらもうとんでもない時間が掛かっていたその時に、その、ちょうどこれから新曲をたくさん作ろうと思ってた安全地帯の合宿が。僕がいなくなっちゃったんですけど、で、その時にあの、2〜3ヶ月して僕もそこそこ元気になってきて、まぁこないだも話したけどパチンコとかにも行く様になって。病院から外出してね。
横田さん
病院からパチンコを、に、行ったんですね、はい。うんうん、
武沢さん
行ってるうちにパチプロの人と知り合いになってあの、パチプロの人が、このパチンコの、この部分、右下のあの、入るとこあるじゃ無いですか。
横田さん
はいはい。
武沢さん
ね?
横田さん
チューリップね?
武沢さん
チューリップ。そこに入るところのぶつかる所の一個、ここがポイントなんだ、って言って、
横田さん
うんー(笑)
武沢さん
ここがちょっとだけ動くから、この台、その台を、あの、たくさんあるじゃないですか、パチンコ屋って。
横田さん
いやぁありますあります、もちろん。
武沢さん
でも、そこを替えるのは、何台かだけなんですよ、実は。この日はこの台を出すっていう。
横田さん
あー、クギを替えるんですね?
武沢さん
そう、台を出す、サービスする台は何台かその100台の中で3台か4台だけで、あとは変���んないですね。そこの、その台の出るポイント、このクギだけを見せればもうこれで大丈夫、って言われて。でその通りやったらほんとに、その、出るんですよ。それでパチンコのやり方教えてもらったり。とか、しながら、まぁいいんですけど。その…
横田さん
(笑)ハー、よかった、なんかそのままパチプロになんなくて(笑)
武沢(兄)さん
そのままやってたら楽しそうだな(笑)
武沢さん
パチプロ…(笑)
横田さん
危なかったよ、ほーんとにもう…(笑)
武沢さん
パチプロって言ってもね、1台あけるのに、ま、3時間くらい掛かるじゃないですか。
横田さん
いや(笑)あんまり分かんないすけど、そうなんですか。
武沢さん
で、一台だけあけてても、5000円くらいにしかなんないんですよ。
横田さん
あ、そうなんですね。
武沢さん
だから、1日何台もあけるとなると、本当に大変なんですよ。それはそれで。
横田さん
あー、それはもう、大変なのね。うんー。
武沢さん
それだったらほんと、極東工業みたいなとこで、働いた方が…、
武沢(兄)さん
極東工業って(笑)ッハッハッハッハ
横田さん
極東工業って…あのー、
武沢さん
ガレージ、ガレージのね。
横田さん
ガレージ?うんー。
武沢さん
そうそうそう。
武沢(兄)さん
ガレージ製作会社。
武沢さん
ガレージ製作…、あの、お兄ちゃんあまり行ってないと思うんですけど、
横田さん
あ!アルバイトしてた、武沢さんがアルバイトしてたとこね!
武沢さん
そうそうそうそう。
横田さん
ああ、ああ、はいはいはい。
武沢さん
ガレージ作って、建てに行って、一個建てたら二万五千円くれるんですよ、そこが。
横田さん
うんうんうん。
武沢(兄)さん
当時な。
武沢さん
そうそうそう。で、まぁそこまではなかなかいかなかったんですけど、ね、でそれを、そんな事やったりしてたんですけど。肝心なその音楽の方の、が、なかなかそのスタジオに僕が行けなくなっちゃったんで、でも、すごい良い��作ったんですよ。その、僕がいない時にね。それなんでか分かったかっていうと、玉置とかが多分お見舞いとかによく来てくれて、ま、お兄ちゃんとかも来てくれて。で、今こういう曲作ってるんだっつって、聴かしてくれるんですよ、カセットかなんかね、持ってきて。
横田さん
あー、はいはいはい。
武沢さん
したら、僕はびっくりして。ええ!こんな良い曲作ってる!って、こ…、僕もう要らないんじゃないの?と思うぐらい、良い曲があって。
横田さん
あー…。
武沢さん
で、その曲をまず聴いてみましょう。これ、僕のギター入ってない、時の。
横田さん
分かりました。と、いうわけで、えー、この次の曲は、これから掛ける曲とは武沢さんは参加されてないとの事ですが、
武沢さん
はい。
横田さん
お兄様が作詞をされてるという事でよろしいでしょうか?
武沢(兄)さん
あ、そうですね、はい。
横田さん
はい、では皆さん聴いてください、こちらです。
youtube
安全地帯 未発表アルバムZEROより「愛を伝えて」
横田さん
はい、というわけで、「愛を伝えて」という事でございますけども、これは〜、え、これZEROに入ってるんですか?
武沢さん
ZEROに入ってるのかも知れないですけど、ちょっと…、あ、はいってるらしいです。今ヤスダさんがうんうん…
横田さん
あー、ディレクターさんがね。
武沢さん
はい。
横田さん
というわけでー、そうですか、この曲は。
武沢さん
でも、でもね、そのZEROに入ってるかも知れないけど多分これ、ZEROに入ってたとしてもね、それなら僕も弾いてると思うんだけど、
横田さん
うん、
武沢さん
この時の、永山のスタジオで録ったこの、まあ音は悪いんですけどね…
横田さん
あ、これは今聴いて頂いたのは永山のスタジオで録ったバージョンという事ですね?
武沢さん
そうですね。
武沢(兄)さん
そうだね、うん、4トラのマルチで録ったやつだよ。
武沢さん
そうそうそう。
横田さん
これは、お兄さんはじゃ何弾かれてたんですか?
武沢(兄)さん
俺キーボード弾いてますね、後ろで。
横田さん
んー。
武沢(兄)さん
当時はなんか、まだトリフォニックシンセサイザーとか無くって、
横田さん
うん。
武沢(兄)さん
今みたいに安い値段でなくて、なんか二音、デュアルボイスシンセ、Rolandかなんかの、二音しか出ないシンセサイザーとmonoストリングスかなんかでやってたね。
横田さん
でー、♪チャッチャチャッチャ、チャッチャチャ、チャッチャみたいなやつのバッキングを?
武沢(兄)さん
あー、そうですね。リフ弾いてますね。
横田さん
ふんふん。
武沢さん
あれがそう、だから一応monoストリングスじゃなくて、二音は出るってやつ。
武沢(兄)さん
そうだね。
武沢さん
でも、音は良いよね。
武沢(兄)さん
なかなかね!うん。(笑)や、うん。
武沢さん
なるほどね、なかなか良いですね音が。
武沢(兄)さん
うん。
武沢さん
で、まぁそういうシンセももちろんそうなんだけど、この、なんていうんだろね、永山のスタジオで、やるぞ!って感じのそのイイ感じの空気感?特にこの曲にはすごく漂ってて。
武沢(兄)さん
その頃ね。うん。
武沢さん
これ、プロを目指してこれからいくんだぁ!っていうその勢いだけ��ゃなくて、すごく構成も良いし、あの間奏のとこで転調するのもすごい、良いし。何しろ歌も、すごくpopでね、前向きで、こう皆んなを動かす力を持ってる、その…すごく良い曲だと、ま、今でも思ってますけど、これ。
横田さん
うん。
武沢さん
これをその、病院で聴いた時にびっくりして、いや〜、安全地帯って本当にプロになれる、なったらヒットするかもなぁって思った曲だったんですよ。
横田さん
おわ〜…、えー、いやでもこれ、玉置さんがもう完成されてますよね。
武沢さん
ね!本当に、そうですよね。曲作りも本当にすごく。当時…、なあんつーんだろな、誰だろなこれ。ダリル・ホールとジョン・オーツまだこん時居ないよね?
武沢(兄)さん
いや、あったよ。ダリル・ホールとジョン・オーツもよく聴いてたよね。だからね。
武沢さん
だから、その辺の影響も受けてんのかも知れなくて。
武沢(兄)さん
あと、スティーリー・ダンとかね。
武沢さん
ああ、そうだよね。だから、ロック系のシティポップだけじゃなくてちょっとR&B入った、うまくそれがPopsにはまってる感じの素敵な曲で、これは売れるだろうなと。これはヒットするな、って思った曲でしたね。
横田さん
これちなみに、あの最初の「グンダラグンダラ…」とかってあのー、みんなでコーラスっていうか、それをアレンジに使ったのはこれは誰のアイデアなんですか?まぁそんなこと覚えてないかも知れないけど。
武沢(兄)さん
どうだろね、やっぱ、玉置じゃないですかね。うん、うん。
武沢さん
玉置だよね。
武沢(兄)さん
コーラスでこういうリフを重ねるっていうのは安全地帯の5人時代からまぁみんな好きでやってたんだけど、やっぱずーっとそういうのは、なんか、ま、連綿と続いてるよね。その後プロになってからもよくこういうパターンといくけど。
武沢さん
そうだね。でも特にこの頃始めたこのコーラスのこの感じもね。だからすごく。ま、僕らがよく影響受けてたCSN &Yとか、ま、ドゥーヴィーブラザーズとかね。ま、イーグルスとか、ま、そこらへんも入ってると思うけど、でもオリジナルになってるじゃないですか。僕らの世界、みたいな。
武沢(兄)さん
そうだね。どこにも無い音楽だなっていうね(笑)
武沢さん
そうね。
横田さん
いやいや、独特な感じで。
武沢さん
ま、洋楽のね、洋楽の真似してるんでは全然終わってなくて。すごく良い、良い方向に伸びて行ったと、僕は思いました。この曲を聴いて。
横田さん
そうですか。いやでも、玉置さんの歌がかなりもうこう、高い音の方なんかも、まぁめっちゃ高いですけども、完成されていて。
武沢さん
そうね、まぁ若いってのもあって、まぁ、上、多分地声で(♪ギターで音を鳴らして)
横田さん
うん?ツェー(C・ド)とかまでいってるんじゃないですかね?
武沢さん
え、地声でC(ド)までいかないけど、ま、B(シ)ぐらいまではいってるんじゃないですかね。
横田さん
うん、まぁそうですよね。Bぐらいまでいって…
武沢さん
後は、まぁファルセットも上手く使ってるから。
横田さん
うんー。もうこれはもう、どうでした?あの俊也さんとしては、ま、武沢さんがあの、玉置さんから曲がこう来て、まぁその上で、俊也さんが付けられたと思うんですけどもまぁ歌詞を。結構、あーこれちょっと差し違え、違うのにしてくんないかなとか色々めんどくさくなかったですか。
武沢(兄)さん
あー…、この頃のね、この頃のサウンドの作り方はね、スタジオではね、あのなんだろ、最初に、トラックが出来上がるの、歌抜き。抜きのトラックが。
横田さん
あー、はいはい。
武沢(兄)さん
ていうか最初に、とにかく中身が先って事じゃなくって、ある程度リズムトラックが出来て、その何だろう、そのリズムトラックの前にだからモチーフっていうか、キーボードのリフとか、ギターの鳴きがかっこいいカッティングだとか、そう、そういうの、玉置が聴きつけて、例えばカキくんが弾いてたり、俺がそれ、あの、暇な時間に弾いてるそういう、なんかリフやなんかを、それかっこいいなーみたいな感じで。おお、したら、それ、武沢の兄貴、それ、じゃ、こうやってみてみたいな感じで作ってくと、玉置がそれにメロ乗っけたりとか。
武沢さん
そうだよね。
武沢(兄)さん
うん、そしてやっとそれに、ある程度できたら、なんか曲がある程度先に出来る場合もあったし、そうじゃなくてあの、萌黄色みたく先に詞ができてくものもあったし。
横田さん
あ!萌黄色ってのは詞が先なんですね!
武沢(兄)さん
あれは詞が先だったと。あっちはね。この曲の場合はどうだろう。ちょっと覚えてないけど、ほぼ同時じゃないかなぁ。なんか。2人でなんか作ってって、玉置のメロがある程度出来た時に、当てはめてった様な感じがしたよね。うん。
武沢さん
そうだね。
横田さん
あー、ほぼ同時ってか、あー、素晴らしいですねぇ。
武沢(兄)さん
あ、この頃のスタジオでの曲の作り方だいたいなんか、何が先ってんじゃなくてそうやって皆んなでアイデア出し合って、作ってた部分が多いな。うんー。
武沢さん
そうかもね。まぁこの曲の時は僕いなかったけど、たしかにそういうあそこのスタジオでね、もう演奏しながら、そのお兄ちゃんがシンセとかピアノで弾いてたやつで、そのままなんか、あ、それじゃ、そこに玉置がメロつけ出して、でー、それであの最初デタラメ英語みたいので作ってって、で、皆んなが居る時もあれば、居ない時もあるんだけど。居る時はそのまま、ノる曲系の時は、そのままギター、エレキギターとかドラムをやりながらもう、だんだん作っちゃって、で、トラックも録っちゃうみたいな、感じでやってた時も確かあったね。
武沢(兄)さん
あったね。
横田さん
ふーん。
武沢(兄)さん
だから先にカラオケがある程度、もうほとんどカラオケが出来上がってて、うん、詞も出来上がってて、玉置がそれにトラック聴きながらメロを作っていくみたいな。
武沢さん
うん、作ってって。
武沢(兄)さん
うーんまぁ、そうだった様な気が。うん、するけどね。
武沢さん
その後にコーラス入れたりね。
武沢(兄)さん
うんー。
武沢さん
そうだよね。
武沢(兄)さん
詞とメロディだけが先に完璧に作ってって出来上がってるっていう曲っていうよりはなんか、さっき言ったみたいな作り方で、作ってった感じが多いかな。部品を組み立てる様な感じで。
横田さん
あー、同時並行でどんどん作って行ってたんだ。
武沢(兄)さん
うんー。
武沢さん
ほんとにねー。この曲は、ほーんとね、僕はね多分、入院してから2〜3ヶ月後ぐらいに聴いたんだよ。
武沢(兄)さん
そうだね、そのぐらいだね。
武沢さん
うん。いやぁ〜、すげえイイなと思って!もちろん、歌も詞もいいんだけど、カキくんのギターがまたこれすげえ良くて!
武沢(兄)さん
かっこいいよね〜!えっへっへ!
武沢さん
今これ聴いてもかっこよくて。
武沢(兄)さん
うーん、かっこいいよね〜!
武沢さん
ほーんとー。いやぁ、ヤラレたな、って感じだったもん、フハハ(笑)頑張んなきゃ、と思って。だから、僕は、あのほら、個室だったから、ギターで練習出来るから。
横田さん
うんうん。
武沢さん
もう、入院してるんだからギター弾いて頑張ろうと思って。ま、曲作ったりもしてたけど、ま、もうとにかくカキくんに負けない様に頑張ろう!と思って。
横田さん
練習してたんだ。
武沢さん
ま、こういう曲を聴きながらね、特に。
横田さん
やー、良かったです〜、うん。
武沢さん
うん、という、記憶がありますね。たしかに。
横田さん
いやもうほんとね、こうやってね、あの皆さんから刺激を受けなかったら危なく武沢さんはパチプロになってしまう所だった。
武沢さん
(笑)いやいやいやいや。
武沢(兄)さん
ッハッハッハッハ(笑)
横田さん
もしあのこれ良い曲が書けてなかったら、ま、別にダメそうだなーと思ってパチプロの道でいいか、ってなことになってなんて(笑)
武沢さん
パチプロもアリだなーみたいな(笑)
横田さん
フッハッハッハ(笑)
武沢さん
そんなこともあったかも知れない(笑)
横田さん
(笑)はい。まぁというわけで冗談でございますけども。さて、じゃぁ次の曲の話をしていきたいなぁと思っていますけども。
(後半に続きます)
#Youtube#radio#fmしろいし#横田岳史#武沢豊#武沢侑昂#武沢俊也#安全地帯#玉置浩二#矢萩渉#レア音源#アマチュア時代#未発表曲#愛を伝えて#パチプロ#交通事故#入院#文字起こし#Zero
0 notes
Text
パチンコ/パチスロで毎月50万円以上稼いでる
『アホやろ』 と言われる覚悟をしていますが、本当の話です。
両親がパチンコ好きで、母1人で50万円いってます。
打ってる台はほぼ #海 だけ。
こんなパチカス家族の秘密は、情報サイトを良く読むことです。
パチンコやパチスロ愛好者の皆さん、今、あなたの勝利への近道が明らかになります。数々のプレイヤーが成功を収める秘密の武器が、ついに登場しました。それは、パチンコ・パチスロのプレイヤーのための究極の情報プラットフォーム、パチンコ・クオーラ!
パチンコ・クオーラは、まさに「究極の勝利の秘訣」を手に入れるための鍵です。このコミュニティ情報ウェブサイトは、あなたのパチンコ/パチスロプレイをトップレベルに引き上げる秘密を提供しています。さあ、その中身を一挙に解き明かしましょう!
機種の仕様を徹底的にチェック!
パチンコ・クオーラでは、各機種の仕様情報が詳細に掲載されています。これを活用すれば、あなたのプレイに最適な機種を見つけるのに役立ちます。勝利への第一歩は、適切な機種の選択から始まります!
ゲームの流れを完璧に理解!
パチンコ・クオーラでは、ゲームの流れに関するガイドも提供されています。ゲーム中の戦略やタイミングを理解し、出玉をガッツリ獲得しましょう。知識は力なのです!
プレイヤー同士の情報交換!
ここが魅力の一つ。パチンコ・クオーラで他のプレイヤーと情報を交換しましょう。彼らの成功体験を聞き、新たな戦略やコツを手に入れることができます。プレイヤー同士の情報共有が、あなたの勝率を急上昇させるでしょう!
隠された勝利の秘訣を解き放て!
パチンコ・クオーラの秘密の武器は、あなたの勝利を確実なものに変えることでしょう。ここでしか手に入らない情報が、あなたのプレイを劇的に向上させます。
勝利への扉を開け、今日から新たな勝者となりましょう!パチンコ・クオーラを活用すれば、驚くほどの成功が待っています。今こそ、パチンコ/パチスロの頂点に立つ準備をしませんか?パチンコ・クオーラが、あなたの新たな勝利へのパートナーとなります!
#ギャンブル#スロット#パチ#パチスロ#パチスロライター#パチンコ#パチンカス#パチンコライター#パチンコ実践#神戸 パチンコ ��良 店 , 鹿児島 スロット イベント#難波 パチンコ 優良店 , 盛岡 パチンコ イベント#パチンコ新台#パチンコ動画#パチテレ#パチュリー・ノーレッジ#スロット新台#スロット動画#パチンコクオーラ
4 notes
·
View notes