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TEDにて
ディヴィット・チャーマーズ:あなたは意識をどう説明しますか?
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
哲学者のデイヴィッド・チャーマーズは「意識は、私たちの実存における重要な側面である」と言います。
「意識以上に、私たちがより直接的に知っているものはありませ��•••しかし、同時に、宇宙において最も神秘的な現象でもあるのです」と!
チャーマーズは、私たちの頭の中で再生されている映画について解明されてはいないが考える有望な方法をいくつか教えてくれます。
今 この瞬間、あなたは頭の中で映画を見ています。マルチトラックのすごい映画です。あなたが今、見聞きしていることを3Dやサラウンド音響で再生します。
これはほんの序の口です。映画なのに、匂いや味があり触れることもできます。身体の感覚があるので、痛みもあるし、お腹もすきます。
さらに、感情があり、怒りや幸福を感じます。記憶もあり、子どもの頃の場面が目の前で再生されるのです。そして、常に意識の流れのナレーションが流れています。
この映画の主人公は、これらすべてを直接経験するあなた自身なのです。この映画はあなたの意識の流れそのものであり、つまり、心の中と世界における経験の主体なのです。
意識とは、人間の実存における基本要素の1つです。誰でも意識があります。私たちは、皆、内なる映画を持っているのです。あなたも、あなたも、あなたもです。
私たちが、これより直接的に知っているものは他にありません。少なくとも、私は、自分の意識については直接的に知っています。
あなた方に意識があるかについては、はっきり分かりませんが。
意識は、人生を生きる価値のあるものにしてもくれます。意識がなかったら生きることの意味や価値は無くなってしまいます。
しかし、同時に、意識は宇宙で最も神秘的なものなのです。
なぜ、私たちには意識があるのでしょうか?
なぜ、内なる映画があるのでしょうか?
どうして、私たちは、単にインプットを処理してアウトプットを作り出す、内なる映画などを経験しないロボットではないのでしょうか?
現時点では、誰もこれらの質問に答えられません。意識を科学に融合させるためには、幾分過激な発想が必要かもしれません。
意識の科学は、不可能だと言う人もいます。科学は、本質的に客観的です。意識は、本質的に主観的です。
それゆえ、意識の科学はあり得ないのです。
20世紀の大半は、そういう見解が幅をきかせていました。心理学者は、行動を客観的に研究し、神経科学者は、脳を客観的に研究してきましたが、意識に言及した学者はかつていませんでした。
意識とは人間の実存における基本要素の1つです。TEDが始まった30年前でさえ、意識に関する科学的研究は、ほとんどなされていませんでした。
根本的な限界もありますが、20年前から変化の兆しが見え始めました。
フランシス・クリックのような神経科学者やロジャー・ペンローズのような物理学者が発信した時以来、大いに花開いています。
それ以来。意識に関する科学的研究が急増し、大いに花開いています。この研究は素晴らしく偉大なものです。しかし、これまでのところ根本的な限界もありま��た。
近年行われてきた意識の科学の中心は、相関関係の探求。脳の特定の領域と特定の意識の状態との相関関係の研究でした。
こうした研究では、ナンシー・カンウィッシャーから素晴らしい成果の話をたった今聞きました。
このように理解は、ずっと進んでいて、例えば、意識的な経験に付随する脳の領域はよく理解されています。顔を見たり痛みを感じたり、幸せを感じたりするような領域です。
しかし、これは、相関関係の科学から抜け切れていません。科学的な説明には至らないのです。これらの脳の領域が、特定の意識的経験に付随することは分かっているのですが、なぜそうであるのかは分かっていないのです。
こう申し上げましょう。神経科学によるこうした研究は答えが求められていた意識についてのいくつかの問いに答えつつあります。
特定の脳の領域に関する問いやそれが何と相関しているかなどです。しかし、ある意味では、それらは単純な問いです。
神経科学者にとっては大したことではありません。意識の問題となると単純ではありません。それなのに、このテーマの核心である真の謎に触れていないのです。
脳内のすべての物理的処理は、なぜ、意識を伴っているのでしょうか?なぜ、内なる主観的な映画があるのでしょうか?今のところ、本当に何も分かっていません。
数年あれば、神経科学で解明できると思うかもしれません。
突発的な現象のひとつとして、交通渋滞やハリケーンや人生のように答えが見出されるでしょう。出現の典型的な例は、あらゆる突発的な行動です。
交通渋滞がどのように起こり、ハリケーンがどのように機能し、生き物がどのように再生産したり、順応したり代謝するのかなど客観的な働きに関する問いばかりです。
人間の脳に当てはめれば、いくつかの行動や人間の脳の機能を突発的な現象として説明できるでしょう。例えば、歩き方、話し方、チェスの仕方などは、すべて行動に関する問いです。
しかし、意識となると行動についての問いは単純な部類になります。難問に分類されるのは、一体、どうして、すべての行動が、主観的な経験を伴うのかという問いです。
そして、出現についての標準的なバラダイムは、神経科学の標準的なパラダイムでさえあまり言及していないのです。
さて、私は、唯物論的科学者だと思っています。私は、意識をうまく説明できる科学的理論を長い間、探し求めており、意識について純粋に物理用語で語れる理論を求める中で壁にぶち当たってきました。
そして、体系的な理由から、うまくいかないのだという結論に達しました。
話すと長くなりますが、主要な考えは単純で、物理用語や脳科学的な言葉などの純粋に還元主義的な説明からは、体系の働き方や構造・力学 その結果である行動などの説明が得られます。
これらは、単純な問い。行動や機能の仕方などには適していますが、主観的な経験。
なぜ、すべてが内側から発せられるように感じるかなどは、まったく新しいものであり、常に、さらに深遠な問いなのです。
ここで行き詰ってしまいます。説明が素晴らしいことに繋がっており、私たちはそれに慣れています。
物理が、化学を説明し、化学が生物学を説明し、生物学は、心理学を部分的に説明するというものです。
しかし、意識は、この図式に当てはまりません。
かたや、私たちに意識があることは感覚与件です。その一方、それを科学的な世界観に、どう当てはめてよいか分かりません。
だから、意識は、現在では、ある種、不合理な存在だと思います。世界観に組み込む必要があるものの、その方法が分からないのです。このような不合理に直面したときには過激な発想がいるのかもしれません。
意識を科学的に理解するためには、一見、クレージーに感じられるような専門外の高密度な発想の1つや2つは必要かもしれません。
さて、高密度でクレージーな発想の候補がいくつかあります。
今日、ここにいる友人のダン・デネットは、その1つの持ち主です。ダンは意識に関する難題は存在しないと考えています。内なる主観的な映画という考え方は、ある種の錯覚や混乱を伴っています。
実際、客観的な機能や脳の行動を説明しさえすればいいのであり、そうすれば、説明されるべきものは、すべて説明されるのです。説得力がありますね。
意識に関して、純粋に還元主義的で脳科学的な理論を得たいのなら、探究する必要のある過激な発想だと言えるでしょう。
同時に、私や他の多くの人にとっても、この見解はあまりにも単純に意識の感覚与件を否定しているので、満足のいくものではありません。
別の方向に話を進めましょう。残りの時間で、発展する可能性のある2つの専門外の高密度でクレージーな発想についてお話したいと思います。
最初の専門外の高密度でクレージーな発想は、意識は、基本的なものだとするものです。
物理学者は、宇宙のある側面を基本的構成単位として捉えます。空間や時間、質量などです。
それらは自らを支配する基本的な法則を前提としています。重力の法則や量子力学などです。
これらの基本的特性や法則は、それ以上基本的な概念で説明することはできません。むしろ、それらを根源的なものとして捉え、そこから世界を構築するのです。
時に、基本的な概念が増えることがあります。
19世紀にマクスウェルは、電磁現象をすでに存在している基本的な概念で説明できないと思い至りました。
空間、時間、質量、ニュートンの法則も然りです。そのため、マクスウェルは、電磁気の基本的な法則を仮定しました。
そして、その法則が支配する基本的な要素として電荷を仮定しました。
これが意識に関して、私たちの今、置かれた状況です。空間や時間、質量や電荷など、すでに存在する基本的概念で意識を説明できないのなら、論理的に言えば、基本的語彙を増やさねばなりません。
自然な考え方は、意識そのものを基本的な概念。
つまり、自然を構成する基本的な要素として仮定するものです。
突然、科学的思考ができなくなるわけではありません。
むしろ、意識に関して科学的に考える道を切り開いてくれるのです。そうなると、意識を支配する基本的な法則を学ぶ必要があります。
意識を他の基本的な概念である空間や時間、質量や物理的現象などと結びつけるものです。
2番目の専門外の高密度でクレージーな発想は、意識は普遍的なものかもしれないとするものです。
万物には、程度��差こそあれ意識が存在します。これは汎心論とも呼ばれています。「汎」は、あまねくという意味で「心」は、精神を意味しており、万物には意識があるとするものです。
人間だけでなく、犬やネズミやハエ、��ブ・ナイトの微生物や素粒子にもあるのです(ここからエピソード7意識のマップの数値と人工知能を訓練する計算回数が相似?2023に書いた「意識1mol(モル)の質量」の仮説に到達しました)
素粒子のフォトンにさえ、ある種の意識があります(ザイリンガーの原理から意識と情報を数学で結びつけられる?)
フォトンに知性があり、思考できるということではありません!フォトンが「ああ、いつも高速で移動してばかりで、ゆっくり動いてバラの香りを楽しむこともできない」と思い悩んでいるということではないのです。
そんなことはありません。フォトンにも何らかの未熟な主観的感情があり、意識の先駆けのようなものを持っているかもしれないということです。
ちょっと変に思われるかもしれません。こんなクレージーなことをどうして考えるのでしょうか?
その動機の一部は、意識は基本的な概念であるという1つ目のクレージーな考えから生じています。意識が、空間や時間や質量のように基本的なものであるなら、意識が普遍的であり、そういうものなのだと考えるのは自然なことです。
この発想が、私たちにとって直観的でないとしても、人間の精神が、より深く自然と結びついている文化圏の人々にとっては、さほど直観に反することではないというのも言及するに値するでしょう。
さらに、深い動機は、意識を物理現象と結びつける基本的法則を見出すための最も単純かつ強力な方法は、意識と情報を数学で結びつけるという発想に起因しています。
情報処理が行われるところには、どこでも意識があるのです。人間が行うような複雑な情報処理には、複雑な意識が伴います。単純な情報処理には、単純な意識があります。
情報理論は、クロード・シャノン。が参考になります。
クロード・シャノンは、アメリカの電気工学者、数学者。基礎的な情報理論の考案者。情報理論の父とも呼ばれている。情報、通信、暗号、データ圧縮、符号化など
今日の情報社会に必須の分野の先駆的研究を残している。アラン・チューリングやフォン・ノイマンに匹敵するくらいのコンピューター技術の基礎を構築している。
1948年。ベル研究所在勤中に論文「通信の数学的理論」を発表、それまで概念だった「情報」について定量的に扱えるように定義し、情報理論という新たな数学的理論を創始した。
「ビット」という単位もここから始まっている。
もう一つ、重要な概念が構築されている。それは、「ザイリンガーの原理」というもので「1つの基本系は、1ビットの情報を視覚化できる(伝える)」というものだ。
これによって、量子性、ランダム性、絡み合いも数値化して説明可能になる。不確定性原理も説明できるようになっていく。そして、世界に関して受け渡しできる情報の最少量は1ビットである。
我々、人間の認識は、1ビットに満たない量の情報を想像することはできないので、我々が理解できる最も単純な物理的存在は、正確に1ビットで記述される
(それ以外は、カオスの海に落ちてしまうので、視覚化は不可能である。つまり、確���的になるのであります)
古典理論の「場」を量子化する際の計算で、さまざまな振幅内に無限大が現れるといったように無意味な結果が現れることを、あえて「カオスの海」と呼んで表現しています。
ザイリンガーは、この分割不可能な存在を基本系と呼んでいる。これは、電子のような単純で構造を持たない粒子とは違う。
と言うのも、最も基本的な粒子でさえエネルギーや運動方向や位置といった外的属性。そして、電荷や質量やストレンジネスといった内的属性を持っており、それらが粒子を複合的なものにしているからです。
また、情報逓減の法則は、エントロピー第二法則によく似ていることから、つまり、情報は、エネルギーと性質が似ていると言うことです。
ザイリンガーは・・・
「量子エンタングルメント」という特殊な現象が起きることを理論や実験を通して示し・・・
2022年のノーベル物理学賞を受賞しました。
したがって、意識と情報を数学で結びつける可能性が開かれます。
したがって、意識と情報を数学で結びつける可能性が開かれます。
したがって、意識と情報を数学で結びつける可能性が開かれます。
ジュリオ・トノーニの意識に関する情報統合理論がある。万物には意識があるとする汎心論という考え方です。
ジュリオ・トノーニの 意識に関する情報統合理論によれば、ネットワークの密度は意識(ここでは、ファイと命名している)と呼ばれる何か?の密度に関連しているということ。
これを数値化して、方程式にしている。
それゆえ、人間の脳内では、膨大な情報統合が行われるため高度なファイがあることになり、かなりの意識が存在します。
マウスにおいては中程度とはいえ、かなりの情報統合が行われるので相当な程度の意識があるといえます。
しかし、虫や微生物や粒子レベルになると、ファイの量は低下します。情報統合の量が低下してもゼロにはなりません。
日本では、「一寸の虫にも五分の魂」という言葉もあります。
トノーニの理論によると意識の程度はまったくのゼロには、ならないのだといいます。
事実上、トノーニは意識に関する基本的法則を提案しています。つまり、高度なファイには高度な意識が宿るのです。
そこには、ただ淡々と善も悪もなくて古来から有る日本の「魂」という概念みたいなことにも似ています。
また、ロジャー・ペンローズとスチュワート・ハメロフの提唱する量子脳理論(波動関数の客観収縮理論)があります。
他には、ブラックホールの特異点定理をスティーブン・ホーキングと共にを証明し、「事象の地平線」の存在を提唱している。
クオリアという言葉も関連していて、「質」を意味するラテン語の qualitas (あるいは qualis) が源流。
この言葉の歴史は古く、4世紀のアウグスティヌスも用いている。長い間忘れられてきたが量子論の登場により、1929年、アメリカ合衆国の哲学者クラレンス・アーヴィング・ルイスが現在の意味とほぼ同じ形でクオリアという言葉を書いている。
話を戻して
最後の動機は、汎心論が、意識を物質世界と統合するのに役立つ��もしれないということです。物理学者も哲学者も、度々、物理が、不思議なほどに抽象的であることに気づいてきました。
物理は、多くの方程式を使って現実の構造を説明しますが、その根底にある現実について説明することはありません。
スティーブン・ホーキングが言うように、何がこれらの方程式に力を与えるのでしょうか?汎心論者の見解では、物理の方程式をそのまま捨て置くことはできますが、意識の流れを説明するために用いることもできます。
物理の究極の目的は、意識のエネルギーの流れを説明することなのです。
この見解において、意識のエネルギーこそが、方程式に力を与えるものです。
その見解では、意識は、物質世界の外へ何か余分なものとしてぶら下がることはありません。それは、まさに、中心に位置しているのです。
この汎心論的見解は、私たちと自然との関係性を変容させてしまう可能性があります。そして、非常に重要な社会的・道徳的結果をもたらすかもしれません。これらの中には、直観的でないものもあるでしょう。私は、かつて意識のある物は、何も食べるべきではないと考えており、ベジタリアンになるべきだと思っていました。
あなたが、汎心論者でそのような見解を持つならお腹が満たされないことでしょう。意識について考えるとあなたの物の見方は、大きく変わるでしょう。
しかし、倫理的な目的や道徳的な考え方に重要な事柄は、意識そのものというよりも意識の程度や複雑さなのです。
コンピューターなどの他のシステムにおける意識について疑問を持つのは当然でしょう。映画「her/世界でひとつの彼女」の サマンサのような人工知能型OSはどうでしょうか?
彼女には、意識がありますか?仮に情報にもとづく汎心論的な見方をするならサマンサは複雑な情報の処理と統合を行うので彼女には意識が「ある」という答えが導き出せそうです。
もし、それが正しいのなら人工知能型OS開発やそれらの電源を落とすことについての倫理が深刻な倫理問題となるでしょう。
最後に、地球全体としての意識について問いを抱くかもしれません(集合的無意識も)
カナダには、意識があるのでしょうか?あるいは、もっと身近なレベルで、TEDカンファレンスの聴衆のようにまとまった集団はどうでしょう?
今、私たちは、TEDグループとしての意識を持ち、このTEDグループでの内なる映画を見ているのでしょうか?(ナポレオンヒルの言うようなマスターマインドの可能性はあります)
それは、個々人の内なる映画とは違うのでしょうか?その答えは分かりませんが、少なくとも真剣に捉える価値のある問いだと思います
さて、この汎心論的見解は、極端なものですし、正しいかどうか分かりません。
私は、実は、意識を基本的な概念だとする1番目のクレージーな発想の方が、2番目に紹介した意識を普遍的なものとするものより正しいのではと思っています。
なぜなら、その見解は、多くの疑問と多くの難題を生むからです。例えば、いかにほんの小さな意識が集まって、私たちが理解し、こよなく愛する複雑な意識となるのかなどです。
これらの質問に答えられたなら重要な意識に関する理論を確立できるかもしれません。上手くいかなくとも、これは科学と哲学において最も難解な問いなのです。
一晩で解くことはできません。でも、最終的には、必ず解明されると思います。意識を理解することが、���ニバースを一歩深く理解したり、私たちの自己を理解したりする真の鍵となるのです。
それに必要なのは、適切な専門外の高密度なクレージーな発想なのかもしれません。
ありがとうございました。
2018年現在では、サピエンスは20万年前からアフリカで進化し、紀元前3万年に集団が形成され、氷河のまだ残るヨーロッパへ進出。紀元前2万年くらいにネアンデルタール人との生存競争に勝ち残ります。
そして、約1万2千年前のギョベクリ・テペの神殿遺跡(トルコ)から古代シュメール人の可能性もあり得るかもしれないので、今後の「T型オベリスク」など発掘作業の進展具合で判明するかもしれません。
メソポタミアのシュメール文明よりも古いことは、年代測定で確認されています。古代エジプトは、約5千年前の紀元前3000年に人類最初の王朝が誕生しています。
(個人的なアイデア)
The human brain is forming a heart?
人間の脳が心を形成している?
In the body realistic, brain over the membrane of the hologram exactly, are controlling the hybrid gene to understand, at the cellular level unit?
リアルな身体に、脳が正確にホログラムの膜をかけて、遺伝子、細胞レベル単位で把握しハイブリッドにコントロールしている?
I’m similar to the introspection of Buddhism
仏教の内観に似ている。安全で具体的に内観が出来るためのツール?
Electric and magnetic fields are generated by charges and currents as sources. When these waves propagate, they can affect places where there is no source. We call these waves “electromagnetic waves” - or “light” if they are in the wavelength range visible to our eyes.
電荷や電流を源(ソース)として、電場や磁場が生じる。これらが波として伝播することでソースの無い場所にまで影響を及ぼすことが出来る。我々はこの波を「電磁波」―我々の目で見える波長領域のものであれば「光」―と呼んでいる。
The theory of gravity, like electromagnetism, is based on general relativity. The naming of gravitational element and gravitational current is strange.
一般相対性理論によって、重力の理論も電磁気と同じ��うに、グラビティ荷やグラビティ流?重力荷や重力波だとネーミングが変だ。
It would have to be electromagnetic force waves to make sense. I’d like to name it as a new concept other than gravity load or gravity current. I think we need to name it as a new concept.
これだと電磁力波にしないと辻褄が合わない。グラビティ荷やグラビティ流?以外の新しい概念として名前を命名しないと探索しようがない。
Dark matter and dark energy have been tentatively named, but if this is the case, the probability of the existence of gravitational dark element and gravitational dark current seems to be high.
ダークマター、ダークエネルギーと仮名が命名されているが、これなら重ダーク荷や重ダーク流も存在確率は高そうだ。
No, “gravitational dark element” can be called “heavy element” and “gravitational dark current” can be called “heavy current.
いや、「重ダーク荷」は「重さ荷」や「重ダーク流」は「重さ流」でも良さそうだ。
The "gravitational wave,” which has a strange naming, may be the equivalent of the discovery of electromagnetic waves. This one was data observed by LIGO.
整理するとネーミングが不思議な「重力波」は電磁波の発見に相当することかもしれない。こちらは、LIGOでデータ観測しました。
Other things like the “electric prime” of physical constants may apply to gravity as well as its definition as a “prime quantity of weight”.
その他には、物理定数の「電気素量」のようなことが、重力にも「重さの素量」としての定義が当てはまる可能性もあります。
The coupling constant of superstring theory is another possibility related to the mathematical underpinnings such as invariants of knots.
スーパーストリング理論の結合定数も結び目の不変量など数学的裏付けに関係する一つの可能性です。
Supersymmetric particles are akin to the phenomenon of looking in a matching mirror, where it is confirmed that there is no evidence of supersymmetric particles, even with precise conditions for their existence at CERN in 2022.
超対称性粒子は、合わせ鏡を見ている現象に似ている?CERNで2022年に存在条件を精密に設定しても超対称性粒子の証拠が見当たらないことが確認された。
If this is true, then the basis for the superstring theory of supers will change, and a dynamic restructuring of the theory will take place in theoretical physics in the future?
事実なら、スーパーストリング理論のスーパーの根拠が変化して、理論のダイナミックな再構築が、今後、理論物理学で行われていくことに?
As the interaction with supersymmetric particles vanishes and the possibility of other particles arises, we may have to construct “some” mechanism to deter the frenzy of quantum effects to maintain consistency.
超対称性粒子との相互作用は消滅し、それ以外の粒子の可能性がでてくると、量子効果の狂乱を抑止する「何か」のメカニズムを構築しないと整合性を維持できないかもしれません。
This is natural in physics, but it opens up a new frontier.
物理学では当然のことなのですが、これにより新たなフロンティアが出現します。
その���
「背景重力波について2023」にも書いてるように・・・
最近の重力波についての研究に進展が見られ、背景重力波というLIGOで測定した従来の重力波とは、違う周波数で重力波が存在する可能性が示された。
このことから重力波は、電磁波の一種ではなく、時空の歪みから来る性質の違う独立した波として電磁波とは別々と考えた方が腑に落ちます。
もしくは、場の量子論から電磁波と重力波がハイブリッドに融合して、しかも、周波数が近い場合には相互作用しつつ共鳴して時空やそれ以外に何かしらの影響を与えているメカニズムも考えられそうです。
他には
意識のある物は、何も食べるべきではないと考えており、ベジタリアンになるべきだと思っていたデイヴィッド・チャーマーズ。
これは、極端な考えですが、一神教である西洋の肉食中心。あらゆる場所に神々がいると考えている多神教である東洋は肉食中心ではないことにも関係があるかもしれません。
もしも
個々、人の内なる映画(人間以外にも?)が存在するなら・・・
エヴェレットの多世界解釈が関連してくるだろうし・・・
発展させて・・・「エピソード10 Episode10 - 意識のマップと超大質量ブラックホールのエントロピー」のような
2024年時点での仮説にも到達する可能性もあります。
重力の「重さの素量」としての定義が、量子エンタングルメントの強さを測る量であるエンタングルメント・エントロピー
として具体的に数値化されれば検証することもでき「重さの素量」の数値が物理定数として判明するかもしれません。
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「ギリシャの哲学者ソクラテスは、文字によって知識と記憶が移植されることを恐れていた」
彼らは何を売買しているのか?借り物の命、そして…という幻想 | マイケル・チャーマーズ | 2024年11月 | Medium
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原著The Mathematics of Magicが出た1940年時点で「ファンタジー異世界に行って嫁を見つけて現実世界に連れ戻ってくる」という発想があったことに感動。 ベルフィービーのヒロイン性能の高さと終盤の急激なデレっぷりがすごかった。 チャーマーズ博士の「わたしだって、どこかよそに・・・そのう・・・もっと充実した人生を求めるぐらいのわがままは許されてもいいんじゃないかね?」というセリフに、異世界転生者の本音みたいなのが垣間見えていて面白い。
『妖精郷の騎士 37巻』|感想・レビュー - 読書メーター
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2023/12/26
BGM: 井上陽水 - 黄昏のビギン
今日、図書館に行った。たぶんこれが今年図書館で本を借りる最後の機会となるだろう。デイヴィッド・チャーマーズの『リアリティ+』という本を借りる。その後、グループホームに戻りさっそくそのチャーマーズの本を読むつもりだったのだけれど、夕食後グーグー眠ってしまった。なんと、9時間も眠ったのだ! どれだけ疲れていたか推して知るべし。なんにせよ、悔やんだって始まらないのであきらめることにした。
図書館はこの期間、特別サービスということで10冊まで本を貸し出すことになっている。この日記でも書いてきたけれど、たくさん読みたい本がある――たとえばディケンズ、フローベール、ヴァージニア・ウルフ。そして現代の作家たちも。でも、どうしてなんだろう。なんでこんなにたくさん本を読みたいと思うのか……昔はぼくは、世界に関する知識を得たいと思っていたのだった。だから、本を読む必要があるのだ、と。
言い換えれば、ぼくはぼくの王国の中にいたたった1人の人間ということになる。ベッドルームの中の小さな、隔絶した王国の住人だった。従者もおらず、ほかに国民もいない、そんな王国。ぼくがたった1人の大君だった。でも、40になって、ぼくはたった1人の外交官として他人とコミュニケーションを楽しみ始めたのだった。
いま、ぼくはこんなふうに考える。読むことはぼくたちの中で知識を築き上げる方法と受け取る。でも、ぼくたちは同時に他人とコミュニケーションや議論を楽しむ(池澤夏樹が言うように、ぼくたちはそうやって「化学反応で」さまざまな思いを交換する)。だから、ぼくは読書という行為にこう意味・定義を付したい。読むことは、対話することだ。
ところで、今年読んだベスト10の本となるとどんな本になるんだろう。決めようと試みる。ぼくは記録をこまめにつけたり振り返ったりする人間ではありえない(実に、ぼくは日記も読書メーターもめったに読み返さない)。言い換えれば、ぼくは過去の日々の重力から自由とも言える。そして、来年に対して心配することもすまいと決めた。いまを生きる。今日を。何ができるだろう、今日は……まず断酒。そして読書、それから仕事。アホみたいな人生かもしれないけれど、これがぼくのやり方だ。
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綿花:20230803 花��咲かない。 葉が枯れていく。
性質二元論(チャーマーズなど)【心の哲学#4】 https://www.youtube.com/watch?v=YYyirmBcMsE
・2019-2023 町を紡ぐ 空を縒る
https://instagram.com/hibi365_plus1
・tumblrは、archiveのthumbnailが魅力的 https://bit.ly/3LuIdxO ・mastodon https://social.vivaldi.net/@nitsubonome
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立派な人間であるという、それこそがぼくが彼を疑う理由なんだ
── ロジャー・シェリンガム、アントニイ・バークリー『ジャンピング・ジェニー』第九章「ドクター・チャーマーズに対する論拠」(狩野訳)
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「Ti Amo」を生み出す前に、松尾さんの頭の中に浮かんだ曲が3つあったそう。まずスタジオミュージシャン13人で結成された企画バンド・Hi-Glossが1981年にリリースしたシングル「You'll Never Know」。1998年にリリースされた人気コンピレーション「FREE SOUL DREAM」にもセレクトされていたこの曲の“必要以上にびっしょり濡れた”哀愁サウンドは演歌的でグルーヴィなムード歌謡としても捉えられて��すがの審美眼。 そして2曲目が敏いとうとハッピー&ブルーの「星降る街角」(1977年)。懐かしいヒット曲ですが、この曲はメロディではなく日本人好みのラテンのリズム、“夜の世界のイメージ”がヒントになったとのこと。松尾さんによれば、2003年9月に筒美京平さん作曲、松尾さんによる作詞、プロデュースで野口五郎さんのシングル「Sweet Rain」を制作されたときの感覚が心の底にあった、と。勢いに乗ったEXILEのシングルを任せられた時点で、京平さんとすでに一度トライした“ムード歌謡とモダンなリズム解釈の融合”に再び向き合うタイミングを感じたそう。その意味では秀島史香さんが囁く効果的な「Ti Amo」のひと言も、「日本語ではない言葉でサビの前に変化、フックがあるといいです」という筒美京平メソッドに忠実である証と言えます。 3曲目は、エリック・ベネイの「Why You Follow Me」。A Tribe Called Questのアリ・シャヒード・ムハマド、ディアンジェロやThe Rootsのメンバーからも敬愛され協力した伝説的ギタリスト・チャーマーズ“スパンキー”アルフォード、そしてエリック・ベネイの共作曲。ただし、1999年にリリースされたアルバム「A Day in the Life」収録のオリジナルバージョンではなくD-INFLUENCEによるリミックスバージョンからの影響が「Ti Amo」につながっている、と松尾さんは言います。彼が1998年にポニーキャニオンからデビューしたシンガー・嶋野百恵さんのシングル「baby baby, Service」のプロデュースを手がけたとき、イギリスのアシッドジャズシーンで確固たる地位を築いていたD-INFLUENCEにリミックスを依頼していた経験がまずあって。新人のシングルのリミックスにD-INFLUENCEを起用できるというのがいかにも“90年代的”と思えますが、その後D-INFLUENCEが手がけた「Why You Follow Me」のリアレンジを聴いたとき、そのあまりの素晴らしさに「やはり判断は間違えてはいなかった。むしろ少し早かった」と思ったとのこと。 つまり、松尾さんが10年近く重ねてきたプロデュースワークの中で「少し早かった。しかし間違ってはいない」という音楽スタイルを2008年のタイミングで凝縮し、彼曰く「もっとも“松尾潔”色が強い作品として完成した楽曲」が「Ti Amo」だったということがこれらの証言から伝わってきます。
EXILE「Ti Amo��� | ��寺郷太のPOP FOCUS 第21回 - 音楽ナタリー
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『 マルクス・ガブリエル 危機の時代を語る』 丸山 俊一、NHK「欲望の時代の哲学」制作班 著 (NHK出版)
内容以前に、日本語がひどすぎて読むのがつらかった。素人?
1章 コロナ危機と新自由主義の終焉—マルクス・ガブリエル緊急インタビュー
2章 「すべてがショー」というファンタジーを生きる—カート・アンダーセン×マルクス・ガブリエル
3章 人文知なき資本主義は破綻する—クリスチャン・マスビアウ×マルクス・ガブリエル
4章 科学主義的唯物論を乗り越える—デイヴィッド・チャーマーズ×マルクス・ガブリエル
5章 ドイツ哲学を読め!—ダニエル・ケールマン×マルクス・ガブリエル
6章 カラフルで複雑な民主主義へ—張旭東×マルクス・ガブリエル
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かめくんのかいせつ
かめくんのことを考えていると、おかしいようなかなしいような、なつかしいようなはかないような気持ちになってくる。最初に読んだときもそうだったし、あれから十年経った今、読み返してみても、やっぱり同じだった。
『かめくん』は、北野勇作の第三長篇に当たる。とはいっても、第4回日本ファンタジーノベル大賞で優秀賞を受賞したデビュー作『昔、火星のあった場所』(92)と第二作『クラゲの海に浮かぶ舟』(94)からは、じつに六年以上の歳月が流れた、2001年の1月に発表されている。しかしこの作品は第22回日本SF大賞を受賞し、最初の版元であった今は亡き徳間デュアル文庫からは、同年中に前二作が文庫化され、更には『かめくん』の姉妹編というべき第四長篇『ザリガニマン』まで出てしまった(つまり同じ文庫レーベルから年四冊!)のだから、北野にとって2001年は、ほとんど第二のデビューと言ってもいい大当たりの年だったことになる。
個人的な話で恐縮だが、2001年は私にとっては「SF回帰の年」だった。やや記憶が曖昧であるが、おそらくこの年の秋から冬にかけての或る時、私はかめくんと出会い、北野勇作と出会い、ザリガニマンとも出会って、火星もクラゲも知ったのだった。きっかけは何だったのか、たぶん書店で見つけてジャケ買い(?)したのじゃなかったろうか。私は1964年生まれ、八〇年代後半くらいまではけっこう熱心なSF読者だったのだが、三十路前後は仕事(主として映画/音楽ライター)が異常に忙しかったせいもあり読書量が激減、また折からのサイバーパンク~スチームパンク~異世界ファンタジーの盛り上がりにどうしてもついてゆけず(自分はとにかくヒロイックなものが苦手なのだ)、おおよそ九〇年代を通して、ほとんどSFを読まなかった(このブラ��クはちょうど所謂「SF冬の時代」と時期的に重なっているらしいが、まったくの偶然である)。そんな自分をSFに連れ戻してくれたのは、まちがいなくかめくんと北野勇作であり、そして翌年(2002年)の秋に出た飛浩隆の『グラン・ヴァカンス』であった。その意味で北野氏と飛氏のお二人には大変感謝しているのだが、残念ながらいまだ一面識もない(飛浩隆氏にはメール・インタビューをさせていただいたことはあるが)。私と同様のプロセスでSFというジャンルに戻ってきた人は多いのではないかと思われる。『かめくん』は、登場したタイミングといい、SFというジャンルが「冬の時代」を脱し、新世紀を迎えてふたたび盛り上がってゆくプロセスを切り拓いた大傑作である。
……というような大仰な言い方は、やっぱりちょっと本作には似合わないと思うのだが、ともあれゼロ年代以降のSF、いや、21世紀の日本SFを(そんなつもりが作者にあった筈はないので)はからずも駆動することになった『かめくん』は、では、いかなる点で画期的だったのだろうか? それはやはり、なんといっても第一に、この「かめくん」という主人公(?)の、何とも言えない魅力による。まずネーミングが素晴らしい。カメくんでも亀くんでもかめ君でもなくて、かめくん。このひらがな四文字が醸し出す、じつにのほほんとした味わい。だがしかし、かといってかめくんは、いわゆる癒し系とは違うし、いわゆるオフビートを狙ってるのでもないし、いわゆるおとぼけを決めてみせているわけでもない。デュアル文庫版「かめくんのあとがき」で北野勇作も言っているように、ただ「かめくんはかめくんである」のであり、すなわち「かめくんはかめくんでしかない」。ここには、何かがそれであることによって他の何かを表そうとするような仕組みは存在していない。確かに、かめくんはいわゆる癒し系にもオフビートにもおとぼけにも受け取れるのかもしれないが、それはいうなれば、こちらが勝手にそう思ってみたりしているだけなのだ。つまり「かめくんはかめくんである」ことには、ぜんぜん意味がない。それはかめくん自身にとっても、そうなのだ。かめくんという、ひらがなだけの、KAMEKUNと読ませる中でも最も単純な表記は、そのようなかめくんのよるべのなさを端的に示している。そしてそれは、ほんの少しかなしくもある。
かめくんはカメ型ヒューマノイドである。レプリカメともいう。読み進めていく内に少しずつ明らかになってゆくことだが(そして完全には明らかにされないままでこの物語は終わることになるのだが)、どうやらかめくんには持って生まれた役目があるらしい。いや、以前にはあったらしいし、このあともまた、あるようである。それは「木星戦争」と関係している。「木星戦争」のためのシミュレーションとも関係している。いや、そもそも「木星戦争」自体がシミュレーションであるのかもしれない。よくわからない。
一見、こじんまりとしてのほほんとした舞台の背後に、スケールの大きな、きわめてS���的というべき物語設定と、シリアスで切実なテーマが徐々に透けて見えてくること。どこまでが物語の中の現実で、どこからが虚構とか夢とかシミュレーションとか妄想とか呼ばれるものであるのか、段々とわからなくなってゆくこと。このふたつは、北野勇作のSF作品全編を貫く二大要素だが、『かめくん』によって確立されたと言っていい。
ともあれ、どうやらかめくんは、ある目的のために生まれてきたのであるらしい。その意味では、前言を覆すようだが、「かめくんはかめくんである」ことには、じつは意味というか理由がある。だが、ということはつまり、その「ある目的」が果たされたり、必要がなくなってしまったら、かめくんは存在意義を根こそぎ喪ってしまうということでもある。そのような存在に、もしも考えたり感じたりする能力が備わっていたら、果たして自分というものを、どんな風に捉えるのだろうか。これはアシモフ以来の広義のロボットSFが共通して抱える、いわば古典的な主題である。ロボットのアイデンティティ、機械の「心(内面)」の問題。また、ここにはもうひとつ、より現代的な問題もある。そもそも「機械」に「心」など生成し得るのだろうか。たとえそのように見えたとしても、それは「人間」のそれとは根本的に異なるものでしかありえないのではないか。それはつまり、そもそも「心」とは何なのか、を問うことでもある。認知科学や「心の哲学」において長年にわたり問われてきたこの難問、いわゆる「意識のハード・プロブレム」(D・チャーマーズ)も、『かめくん』では示唆されている(ちなみにチャーマーズの『意識する心』の邦訳が刊行されたのは2001年末のことである)。
この他にも、現代SFのアップデート、そしてそのインフラを成す学問諸分野のさまざまな知見が、これみよがしではない、とてもつつましい形で、しかし縦横かつ大胆に『かめくん』には取り入れられている。それは、この小説が世に出た世紀の変わり目においては、いうなれば二十世紀の成果を駆使しつつ、来るべき二十一世紀の達成を予告するものでもあったろう。もちろん、こんな大仰な言い方も本作には似合わないが、北野勇作のSFが、これは作風やスタイルというよりも、おそらく本人の生来の気質によるものではないかと思うのだが(たぶん彼はかなりの恥ずかしがり屋なのだ)、徹底していかにもな「SFらしさ」に背を向けた、のほほんとした雰囲気を纏いつつ、しかし実のところは、作中でも言及されているクラークやディック、或いは日本なら山田正紀や神林長平、そしてまさに「二十一世紀SF」を牽引するグレッグ・イーガンとも同列に並べられるべき、本格派のSF書きであるということは、この作品が日本SF大賞を受賞しているという事実とは別に、一読たちどころに納得されることだと思われる。
けれども、この記念すべき再刊にあたって、もうひとつ、これは付け加えて��かねばならない。『かめくん』は「SF」として大のつく傑作であるだけではなく、それ以前に一編の「小説」として、すこぶる素晴らしい、ということである。そのことを、あれから十年経った今、読み返してみて、あらためて強く感じている。かめくんはかめくんである。かめくんはかめくんでしかない。だが、それと同時に、まちがいなくかめくんは、北野勇作自身でもあり、わたしたちのことでもあるのだ。『かめくん』に描かれている、のほほんとした日常のようで、その実、殺伐としていたり酷薄であったりする世界、安穏としているようでいて、じつはただ生きてゆくだけでも、とても大変だったりしんどかったりする世界は、まちがいなく、われわれが生きる、この世界のことでもある。『かめくん』が少しかなしいのは、「かめくんはかめくんでしかない」ことを、かめくん自身がよくわかっていて、そしてそれを受け入れているからだが、そのかなしみ、そのはかなさは、かめくんだけのものではない。北野勇作の描く世界は、どれもこれも不思議ななつかしさに満ちているが、それはいわゆるレトロ・フューチャー的道具立てによるものというよりも、そこがいつもどこか、今ここ、に似ているからに他ならない。このような感じは、『かめくん』以降の作品群において、着実に、より深められていって、現時点での最新作である、あのすこぶる感動的な『きつねのつき』へと至ることになるだろう。
最後に、本書でかめくんファンになった皆さまは是非とも、もう一冊の最新作である『かめ探偵K』を手に取っていただきたい。この解説が、いかにも大仰であるということが、よくわかる筈である。
(河出文庫『かめくん』解説/『例外小説論』(朝日選書)所収)
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これは人間のニューロンをひとつずつ、ニューロンとまったく同じ働きをする人工ニューロンへと置き換えていくという実験だ。ニューロンの一つひとつの機能は解き明かされているので理論的には可能としつつ、ニューロンがすべて人工物に置き換わったとしても感覚意識体験は残るのではないか、とチャーマーズは考えている。
「20年後までに、人間の意識を機械にアップロードせよ」 東大発スタートアップは「不死」の世界を目指す:菅付雅信連載『動物と機械からはなれて』|WIRED.jp
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TEDにて
スティーブン・ピンカー:言語と思考の関係
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
著書である「思考する言語」の特別の予告として、スティーブン・ピンカーが言語と、言語がどのように人の心を表現するのか?
また、私たちが選ぶ言葉が、どれほど意図を表現し伝達するのか?を解説します。
序盤は、意図が伝達しづらい難解な言い回しが続きますが、タイトルにあるとおり言語と思考の関係性を理解するための訓練みたいな物です。
じょじょに、後半からは意図が伝達しやすい言い回しに変化していきますので、言語の妙(みょう)や機微(きび)が理解できます。
私は、言語を通して世界の概念体系を形成する認知機構と人間の相互作用を左右する関係などの人間の本質のいくつかの側面を明らかにさせています。
このことは、俗語と隠語の絶え間ない出現。言語の歴史的な変化。方言の多様性。新しい言語の形成などからわかります。
つまり、言語は、人間の性質を作ったり、形成したりすものではなく、人間の性質を見るための窓(ウィンドゥ)なのです。
いま書いている本で、私は、言語を通して世界の概念体系を形成する認知機構と人間の相互作用を左右する関係などの人間の本質のいくつかの側面を明らかにさせています。
そして、抽象的出来事に対する用法の大半は、具体物のメタファーに依拠していることが事実であると示唆しています。
これによると人間の知性を構成するものの1つ目は、物体、空間、時間、因果、意図などの概念の積み重ねです。
これは、社会的で知識集約型の種には有利なのです。その種が、どのように進化するかは想像できるでしょう。
人間の知性を構成するもう1つの要素は、メタファーによる概念の抽出です。
これにより抽象的な概念から空間、時間、力といった元の概念を浮き上がらせることができるのです。
それらを新しい抽象的物事に適用することで人間は、岩や道具や動物を扱う段階から、数学や物理学や法律や、あるいは、その他の抽象的なものを具体化できるように進化したのです。
イマニュエル・カントの哲学も登場しています。遠回しな言語表現を多用することで、どのように世界を概念化するのか?も説明しています。
カントとは、16世紀のドイツの哲学者。「純粋理性批判」でも、より詳しく論じられています。
人間は何をどこまで知ることができるのか?ということをデカルトやスピノザが提唱した大陸の合理論とイギリスのロックとヒュームが提唱した経験論の欠陥を認識、洞察しつつも経験からの独立した認識能力への批判を融合して。
すなわち、純粋理性能力の意味と限界を統合した書籍です。
超越論的制約である空間と時間を通じて、人間が認識して理解できるものの限界はどういうことなのか?という認識論を説明しています。
特に日本のマスメディア、テレビ局など、顕著な傾向で、構造的な問題もあるかもしれません。
国民にマスメディアを使用して巧妙に情報操作している可能性が色濃くあります。再編して改善かな?
テレビなどは、アーカイブで追跡調査できるから倫理委員会に依頼するのも東京地検が抜き打ち調査しても良いかも知れません。
今ではテレビ局も権力者!日本のテレビ局は再編すべき!
一度、国に返上して、車と同様に放送免許停止や放送免許取消を導入すべきです。
もう一度言います!
テレビ局も今では権力者!再び、過ちを繰り返すかもしれません!
影響力の巨大な政治家、役所、警察、テレビ局や大中企業などの権力者以外なら規模も小さいので
表現の自由も良いでしょう。弱者にこそ自由!
世の中の影響力や権力が大きくなるほど言論の自由は制限されるのがこの世の真理。
今や、テレビやこれに出演している人間は、言論や表現の自由ではなく情報操作の自由。
テレビ局は解体、再編を!日本のテレビ局は再編すべき!一度、国に返上して、車と同様に放送
免許停止や放送免許取消を導入すべきです。
東日本大震災の際に放送無用でも、庶民生活に支障はなかったことですでに証明されています。
そして、裁判所の令状なしに監視カメラに人工知能を使用するのはプライバシー侵害です。
もしかして、日本国憲法の通信の秘匿にも?弱者である庶民への圧力?自動車のナンバーも無許可で読み取っています。
まず、影響力の巨大な政治家、役所、警察、テレビ局や大中企業の内部通報用として搭載して
手本を示してはいかがでしょうか?
スタンフォード実験(1970年代���?ミルグラム実験(1960年代)?マスメディアを悪用した戦前の日本の空気(1940年代)?似ている?同じことを繰り返さないようにみんなで見守っていくことだ。
日本では、適用されていないから令状申請を法律で義務化すればいいかもしれない。
特別に、日本の場合は、テレビに関係する放送内容、広告については、巧妙に情報操作している可能性が色濃く、出演料も高額な出演者、放送関係者も含めて全員、巨大な権力者は疑って観ることが重要です。
なお、日本の全テレビ局は超裕福層に入ります。
自らが権力者であることを発信せず視聴者を混乱させ、それに便乗して権力乱用する日本の民法テレビ局。同じことを繰り返さないようにみんなで見守っていくことだ。
量子レベルでは、波動性と粒子性を両方備えていると教科書で学びます。
大自然の膨大なパワーを活用できますが、このフレームワークで、人間を説明することは、現時点ではできないかもしれません。
ジュリオ・トノーニの意識に関する情報統合理論がある。万物には意識があるとする汎心論という考え方です。
ジュリオ・トノーニの 意識に関する情報統合理論によれば、ネットワークの密度は意識(ここでは、ファイと命名している)と呼ばれる何か?の密度に関連しているということ。
これを数値化して、方程式にしている。
それゆえ、人間の脳内では、膨大な情報統合が行われるため高度なファイがあることになり、かなりの意識が存在します。
マウスにおいては中程度とはいえ、かなりの情報統合が行われるので相当な程度の意識があるといえます。
しかし、虫や微生物や粒子レベルになると、ファイの量は低下します。情報統合の量が低下してもゼロにはなりません。
日本では、「一寸の虫にも五分の魂」という言葉もあります。
トノーニの理論によると意識の程度はまったくのゼロには、ならないのだといいます。
事実上、トノーニは意識に関する基本的法則を提案しています。つまり、高度なファイには高度な意識が宿るのです。
そこには、ただ淡々と善も悪もなくて古来から有る日本の「魂」という概念みたいなことにも似ています。
また、ロジャー・ペンローズとスチュワート・ハメロフの提唱する量子脳理論(波動関数の客観収縮理論)があります。
他には、ブラックホールの特異点定理をスティーブン・ホーキングと共にを証明し、「事象の地平線」の存在を提唱している。
クオリアという言葉も関連していて、「質」を意味するラテン語の qualitas (あるいは qualis) が源流。
この言葉の歴史は古く、4世紀のアウグスティヌスも用いている。長い間忘れられてきたが量子論の登場により、1929年、アメリカ合衆国の哲学者クラレンス・アーヴィング・ルイスが現在の意味とほぼ同じ形でクオリアという言葉を書いている。
太古から高密度なアイデアは、概念の豊富な人間からしか創造されません。
太古から高密度なアイデアは、概念の豊富な人間からしか創造されません。
太古から高密度なアイデアは、概念の豊富な人間からしか創造されません。
2018年現在では、サピエンスは20万年前からアフリカで進化し、紀元前3万年に集団が形成され、氷河のまだ残るヨーロッパへ進出。紀元前2万年くらいにネアンデルタール人との生存競争に勝ち残ります。
そして、約1万2千年前のギョベクリ・テペの神殿遺跡(トルコ)から古代シュメール人の可能性もあり得るかもしれないので、今後の「T型オベリスク」など発掘作業の進展具合で判明するかもしれません。
メソポタミアのシュメール文明よりも古いことは、年代測定で確認されています。古代エジプトは、約5千年前の紀元前3000年に人類最初の王朝が誕生しています。
<おすすめサイト>
アニル・セス: 脳が「意識された現実」という幻覚を作り出す?
アイザック・リッズキー:あなたはどんな現実を生み出しているのか?
マーク・パーゲル:言語能力が人類に与えた影響について
ロジェカイヨワ戦争論と日本の神仏習合との偶然の一致について2019
マーク・フォーサイス: 政治における言葉について
ダンデネット:我々の意識について
アントニオ・ダマシオ:意識の理解はどこまで進んだか!
ディヴィット・チャーマーズ:あなたは意識をどう説明しますか?
ユバル・ノア・ハラーリ:人類の台頭はいかにして起こったか?
<提供>
東京都北区神谷の高橋クリーニングプレゼント
独自サービス展開中!服の高橋クリーニング店は職人による手仕上げ。お手頃50ですよ。往復送料、曲Song購入可。詳細は、今すぐ電話。東京都内限定。北部、東部、渋谷区周囲。地元周辺区もOKです
東京都北区神谷高橋クリーニング店Facebook版
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平均的な人が現在、1日に通常35~74ギガバイト(GB)のデータを処理する仕組みを分析するかもしれません。これは、平均的な人がわずか40年前に処理していた情報量の5倍に相当します。 (74GBは、高解像度の映画を約16本見るか、約2,000本の長い記事を読むか、高品質の音楽を約180時間聴くのに相当します。)
彼らは何を売買しているのか?借り物の命、そして…という幻想 | マイケル・チャーマーズ | 2024年11月 | Medium
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ツーソン会議
アリゾナ州には3回出かけたのにアルバカーキ、サンタフェ、フェニックスの3都市しか行ったことが無かった。ツーソンにはアリゾナ大学 (The University of Arizona) がある。フェニックスにあるアリゾナ州立大学(Arizona State University)と違うのだと知った。
それはさておき、ツーソンのアリゾナ大学 ( The University of Arizona ) の方には意識研究センターがあり、そこでは偶数年に “Toward a Science of Consciousness”という名称の国際会議が開催される。これは通称「ツーソン会議」というらしい。
ちなみに奇数年は、世界のどこかで開催されるので、それも参加してみたいが「その前に勉強しろ、物見遊山で国際会議に来るなよっ!」と言われそうなので、希望を口にしただけということにしたい。
1994年の第1回のツーソン会議でオーストラリアから来た28歳のDavid John Chalmers(D.J. チャーマーズ)が刺激的な研究テーマを発表したのだが、それが「意識のハード・プロブレム」である。誰かがこの第1回のツーソン会議と、その後のドタバタだけを題材にしても、面白い脚本が書けると思ってしまう。。。取材費でないかな。。
チャーマーズの論法は、たぶん、参加した多くの研究者には賛同を得られにくい性質のものだったらしい(その場のことは本当に分かりようもないので、想像でしかないが)。しかし、その結果、たとえ批判的に取り上げるとしても、「じゃあ。あなたはどう考えるのですか?」という問いかけに答えられないと、研究者としてのプライドが許さない類の、つまり問われて当然過ぎる課題をバッと提示したのがチャーマーズのその瞬間の功績だったのではないかと(浅学の)傍観者としては感じてしまう。
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2023/09/18
BGM: Flipper's Guitar - Coffeemilk Crazy/コーヒーミルク・クレージー
今日は遅番だった。朝、不安に囚われてしまう。それでグループホームの自分の部屋にいても落ち着かない。話し相手がいないので、それもあってその不安が自分の中で膨らんでしまう。本を読もうとするもそんな状態なのでぜんぜん頭に入らず、Discordでチャットをしようともしたのだけどこんな場合は「書く」ではなく「話す」「語る」ことを求めてしまう。勢い余っていのちの電話にかけようかとも思ったのだけれど、いのちの電話にかけてしまうとほんとうに困っている人がつながらなくなって苦しむことになる……それでどうしようもなかったので早々にグループホームを出て、イオンの開店時間(9時)に行ってしまう。そこで詩を書き、本を読んでいると少しずつ気持ちが落ち着いてくるのを感じて、結局10時くらいになるといつものテンションを取り戻して詩作あるいは読書を続けられたのだった。いっときはLINEで友だちのグループに相談したりもしたのだけれど、それで個別にぼくのところにLINEを送って下さった方もおられてその優しさ・好意が実にありがたく感じられた。ぼくは1人ではないのだ、という事実を噛み締める。こうした孤独を感じた時の対処法をいろいろ考えておく必要があるようだ。
朝の対処法……いま思いつくところでは、やはりDiscordでボイスチャットができればありがたいと思う。日本語か英語かで。不安になるパターンというのは決まっている。つまり遅番の日の朝の空いた時間にいつも不安に囚われてしまうのだ。いろいろ過去に試みたことを思い出した。ネットフリックスのドキュメンタリーを観るとか、今日のようにイオンに早めに行ってそこで本を読んだり書き物をしたりして時間をつぶすとか。clubhouseでルームに入って英語や日本語であれこれ話したこともある。もしくは、それこそ小説や長いエッセイをまた書いてみるのもいいのかもしれないと思った。いや、長編は逆立ちしても(ぼくは根気も集中力もないので)無理なのでいまのような散文詩の延長で書いてみるとか……ただ、問題はそうこうして1人で完結する作業に満足できず「人と話したい」と思ってしまった時の対処法である。それについて、あとになってLINEで他の方から「近所の地活の施設に行ってみるのはどうですか」と薦めてもらったりした。それもいい方法だと思ったので今度困った時(たとえば次の水曜日も遅番で、また朝時間が空くことが予想されるので)試してみたいと思った。散歩をするとか、部屋の中でできるストレッチをするのもよかったのかもしれない。調べる価値はあると思った。
デイヴィッド・チャーマーズ『リアリティ+』の原書を読み進めている。とはいえ、チャーマーズの英語はわかりやすいのだけれどさすがにぼくの英語力ではスラスラ読めるわけがなく、順調に進んだとしても1日に3ページも読めれば御の字なのだった。この分だと年末に至っても200ページも読めていないなんてこともありうるだろう。根気強く読み進める……そこでチャーマーズがクオリティ・オブ・ライフ、つまり生活(人生)の質について語っているのに興味を抱く。とはいえ、難しい話ではなく「どう生きればよりよい人生と言えるか」「より幸せな人生と言えるか」という倫理学的な話だ。ぼく自身、このことでアルコールに溺れていた時「酒抜きの人生は不幸だ」「酒を呑んで何が悪い」と思い込んで生きていた。いま、ぼくは180度(あるいは360度)違う考え方を採っている。自分の生き方として、酒に呑まれた孤独な人生、人を裏切り続ける人生にサヨナラして人との信頼を取り戻し、人に(ある意味では)よりかかりながらどう「共生」していくか、「共に生きて」いくかを考えたいと思い始めている。今日のような孤独に囚われた時、その孤独をどう酒に逃げたりせず紛らわせていくか。
ここ最近、夏目漱石に関心が向かって『吾輩は猫である』や『こころ』を読み返したいと思い始めている。あとは前々から気になっていたハイデガーの『形而上学入門』『ニーチェ』をかじってみたいと思ったり(もちろん、専門的に哲学を学んだ人間ではないので理解できる自信なんて「これっぽっちも」ありません)。そして先に書いたチャーマーズの『リアリティ+』を読んだり。何ら戦略も計画もなく興味の赴くままに読んでいるだけなのだけれど、それをいまこの地点から客観的に眺めてみると結局「この世界とは何か」「この人生とは何か」「どう生きたら幸せと言えるのか」といった根源的な問いを問いたいのかなとも思った。ただ、その一方でぼくの中には日々の些細な出来事そのものをできるだけしっかり楽しみたいという気持ちもある。過去、村上春樹にハマり抽象的なことを考えていた時に日々の移ろい(この時期だと敬老の日が訪れたとか、残暑が相変わらず厳しいとか)に目が向かず、今日が昨日の繰り返しのように感じられて生きるのがつらいとさえ思っていたりして……今は違う。今日は新たな1日であり、ならばつねに訪れるそんな新たな1日を祝福して生きたいな、というのが素朴な実感なのだった。
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2019.10.26 amason prime さざなみ(45 years) 🖤★
淡々とした映画だったが見応えがあった。 『45年』というタイトルを『さざなみ』と訳したのは実に上手いとと思った。 遠い過去、夫が愛した女性。既に死んでしまった女の存在が妻の心にさざなみをたてる。 これは嫉妬なのか?プライドなのか? 最近、熟年夫婦を描いた作品に頗る弱い私。 決して激しくはないが、妻の襲われている掴み所のない感情に痛いほど共感できてしまう。
【公開】 2016年(イギリス)
【脚本・監督】 アンドリュー・ヘイ
【キャスト】 シャーロット・ランプリング、トム・コートネイ、ジェラルディン・ジェームズ、ドリー・ウェルズ、デビッド・シブリー、サム・アレキサンダー、リチャード・カニンガム、ハンナ・チャーマーズ、カミーユ・ウカン、ルーファス・ライト
IMDb https://www.imdb.com/title/tt3544082/?ref_=nv_sr_srsg_0
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これは人間のニューロンをひとつずつ、ニューロンとまったく同じ働きをする人工ニューロンへと置き換えていくという実験だ。ニューロンの一つひとつの機能は解き明かされているので理論的には可能としつつ、ニューロンがすべて人工物に置き換わったとしても感覚意識体験は残るのではないか、とチャーマーズは考えている。その理論を発展させ、ニューロンをコンピューター・シミュレーションに置き換えていく「デジタル・フェーディング・クオリア」を考案することで、コンピューターでも意識をもたせることができるのでは、と渡辺は考���る。
「20年後までに、人間の意識を機械にアップロードせよ」 東大発スタートアップは「不死」の世界を目指す:菅付雅信連載『動物と機械からはなれて』|WIRED.jp
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