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#コロンハイドロセラピー
kazehirakukame · 7 years
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Moon Water Colon Hydrotherapy ft. ukiwa Let’s Go Back To Zero: Detox Reset Retreatに 参加することになるあなたへ
Body is Origin すべてはからだから
2011年の5月、何日だったかまでは覚えていません。その日、父とMika Moon、そしてわたしの3人は、San Franciscoから当時彼女が住んでいたOregonのEugeneへ車で旅をしていました。もうOregon州には入っていたでしょうか、暗かったように記憶しています。ハンドルを握るわたしと隣に座っている彼女はいつものように話をしていました。父は聞いていたのか、眠っていたのか、外を眺めていたのか、後ろで静かにしています。わたしたちはいつものように、当たり前にspiritについて話していました。具体的な話の流れは覚えていないのに、はっきりと覚えていること、それは「spiritが身体に影響を及ぼす」というよりも、「身体がspiritに影響を及ぼす」という視点について話し合っていたことです。それは「自分はいったいどこに宿っているのか」という問いでもあります。
Who is Driving Who? 言ってるのか言わされてるのか
spiritであったり、mindであったり、egoであったり、consciousnessであったり、そのどれでも、またはどの組み合わせでもある意味構いません。わたしたちは「自分」と呼んでいるそれら、言い換えれば「自我」や「自意識」といったものが日々の暮らしの中で、あらゆることを考え、選び、行動、つまり身体を動かしていると思っています。はたしてそれは本当にそうなのでしょうか。わたしたちの自我や自意識がドライバーで、わたしたちの身体は乗り物なのでしょうか。もしかしたら、わたしたちの身体がドライバーかもしれない、そう思ってみるとどうでしょうか。空腹や睡眠不足で考えが変わる。月経の周期で気分に波が起きる。疲れのあまりあとあと振り返ると不思議でしかない行動をする。酔っ払って別人のような言葉を使う。「人格が一致しない」とでも言いたくなるような変化が実は身体の側から起きていることを、わたしたちは経験しているはずです。
わたしたちの身体は常に、微細なものから強烈なものまで、あまたの感覚を覚えています。感じ続けているわけです。特に微細な感覚は、より大きな刺激によって、感じていることにも気づけないことが多々あります。音楽を止めてみたら、車のエンジンを止めてみたら、テレビを消してみたら、外で風が吹いていることに気づく。庭の樹を撫でて、葉っぱ同士がこすれ合ってじゃれている音が聴こえる。そんな経験が誰にでもあると思います。わたしたちの身体の内側でも、常に身体は—わたしとしてしっくりくるように言い換えると、常に身体、つまり自分は—なにかしらを感じ続けています。そして、すべては、からだから始まります。なぜなら、すべての始まりは、から、だからです。まず感覚が起き、そして思考が生まれる。自分=自我が考えていると思っていたあれやこれも、実は自分=身体がそう仕向けていたかもしれません。そういう意味で、わたしは身体のことをこそ、自分と呼びたいなと思います。
What if Your Body, What I Call “Yourself” is Out of Their Mind? 貧すれば鈍する
——もし「自分」=身体が正常でなかったら?
仮にわたしが妄想する通り、あなたをあなたの身体が動かしているとしたら、あなたの身体がどういう状態なのか、急に気になり出しませんか?怒りのあまり思ってもないことを口にしてしまう、それと同じように乱れた状態の身体が本来なら考えもしない方向へあなたを導いてしまうかもしれません。わかりやすいのは飲酒並びに喫煙を含めた食生活、そして睡眠の習慣です。暴飲暴食をしていた時期がもしあるとしたら、どうでしょう、その時のあなたはどうでしたか?昼夜逆転の生活をしていた時期があるあなたは、どうですか、その時のあなたと今のあなたは違いますか?太陽と月のサイクルで生活していた「過去」と無理のない、身体にあった食生活をしていた「過去」がある、つまりいまはそうではないあなたは、あの頃といま、比べてみてどうですか?
いつそうだったのかも思い出せないかもしれない、フラットな「自分らしい自分」は、その基礎に「あるべき状態の身体」を必要とすると感じています。自分と呼びたいspirit、mind、ego、consciousnessに還るために自分と呼ぶべきbodyをあるべき状態に戻す。Let’s Go Back To Zero——だからこそわたしはこのリトリートにこの名前をつけました。Body is Origin——すべてはからだから。
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jeans-hip · 7 years
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腸内洗浄の効果と注意したい点。便秘解消もやり過ぎは禁物
腸内洗浄の効果と注意したい点。便秘解消もやり過ぎは禁物 便秘の解消に役立つといわれている腸内洗浄ですが、ちょっと怖いけどこの辛い便秘が解消されるならやってみたい、と思っている人も多いのではないでしょうか。 でも腸内洗浄ってどうやるの?ホントにメリットがあるの?と不安に思っている人もいるはず。 そこで、腸内洗浄をすることの効果とデメリットについてまとめました。 ヨーグルトや食物繊維でもなかなか便秘が解消されず、腸内洗浄を受けようかどうしようか迷っている方はぜひ参考にしてみてください。 お腹スッキリ、腸内洗浄のメリット 腸内洗浄は「大腸洗浄」「コロンハイドロセラピー」などとも呼ばれます。 腸内洗浄にはどれだけのメリットがあるのか、それを知ったら是非やってみたい!と思うかもしれません。 お腹の中をきれいに洗うわけですから、当然腸の中はキレイになります。それで便秘も解消されたら嬉しいですよね。…
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kazehirakukame · 7 years
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LGBTZ報告2: リトリート参加者Pちゃんの感想
さてさて、昨日の今日で早速でございます。今回のリトリートに参加してくれたPちゃんの感想をシェアいたしましょう。読んでもらえばわかる通り、Pちゃんは大学時代の友人です。今回ハワイでもいろいろと昔話をしたけれど、ほんとうにあたくしはインプロヴィゼーションなというか、即興的というか、衝動的というか、ズージャーというか、そのときそのとき思うままに会話をしていたらしく、記憶にない発言の、そのひとつひとつがいまの自分が聞いても、素直にうなずける、いい言葉でね 笑 ほんとね、ブレずに生きていきたいなと思いますね。
そんでもって、Pちゃんの読んでて改めて思ったけれど、クレンズに伴う自分の破壊と創造(大げさでかっこいい、けどそんなに実際遠くもない)の時期に、ひとは一度言葉を失うのかもしれないね。ほんと、ハワイからメルボルンまで、しばらく全然何も書けなかった。焦らないでいい。信じて、生きていきましょう、というかみなさんはそれぞれお好きにしていただいて、あたくしはそのように生きていきます。
ではでは、前置きはこれくらいにして、Pちゃんの感想に参りましょう。
Mika Moonの腸のクレンズにフォーカスを当てた感想はこちらから
ukiwaのkenちゃんの感想の下にござい〼
ディレクターズカット版ですので、文字のふるまいといいましょうか、もろもろあたくしと違うところもあるかもしれませんが、そこは統一ははからず、ありのままでございます。
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Let’s Go Back To Zeroと名付けられたハワイ島プナでのリトリート。この旅から帰ってきてしばらくの間、私はうまく言葉がつかえなかった。それぐらい見て、聴いて、たくさん感じてきた。言葉が経験に追いつくのを待ってからこの感想を書き始めた。
思えば健ちゃんは大学で同じ授業を受けていた頃から強烈だった。何がって、私に与える影響が。それは今回の旅でもそうだった。彼の在り方や言葉の選び方・使い方を通して、自分を見つめ直すことになった。これまでの私は頑なになることで自分自身を守ってきたことを知ったし、言葉の使い方から思考を作り出し、くり返すうちにそれを習慣とし、無意識のうちに自分を追い込んでいたことにも気がついた。いかに自分の生活に無頓着だったか思い知った。数日の間、彼と生活を共にしたことはかけがえのない経験になった。
旅の後半、健ちゃんは今回の旅での自らの役割をエクソシストと言っていた。でもね、本当にそうとしか言いようがないの。滞在中のお世話・チネイザンを担当してくれた健ちゃんと腸内洗浄を担当してくれたMikaさんの2人が、7日間かけて私の中からおどろおどろしいエネルギーを追い出してくれた。それは私が29年の人生で何度も格闘しては敗れてきたものの正体だった。 PTSD(心的外傷後ストレス障害)と呼ばれる症状、そのもとになった経験。それにまつわる記憶と感情。暗くてつめたいところに追いやられた、重い足取りのもう一人の自分が身体の奥深くに住んでいるのを私は知っていた。でもどうしようもなかった。私ひとりでは対処しきれなかった。もう一人の自分が引き連れる闇を乗り越えようと、これまで何度も挑戦してきた。でもうまくいかなかった。その度に自分で自分に落胆し、そんな自分にまた深く傷つく。何千という屍が積み重なった私の身体の内側は、墓場だった。 2017年に入ってからは、いよいよ私の日常がおかしくなり始めた。自分のたどり着く環境や経験する出来事の展開に既視感を覚えるようになっていた。叶ったと思った望みも、あっという間に姿を変えてしまう。エッシャーのだまし絵のように、同じところをぐるぐる回っているような気がした。その時に私は、もしや…と思った。自分の内側と本腰を入れて向き合わないかぎり、これ以上自分の人生を進めることはできないのかもしれない、と。
冬の間に仕事を辞めて、家の大掃除に取りかかった。家族と話をする機会をたくさんもつようにもした。あれやこれやと奮闘しているうちに、季節は夏を迎えようとしていた。そんな時だった。旅行先の宮古島で健ちゃんと7年ぶりに再会したのは。 小説『アルケミスト』にある‘おまえが何かを望む時には、宇宙全体が協力して、それを実現するために助けてくれるのだよ’という一節を思い出した。健ちゃんとの再会は前兆だった。そしてこの時に生まれた流れが、その年の秋に私をハワイ島まで連れて行くことになるのだった。
ハワイ島に着いた日の夜に1回目のチネイザンを受けた。あまりの痛さに施術の終盤で気絶するように眠ってしまった。悶絶しながら、頑ななもう一人の自分に語りかける。「もう隠れないでいいんだよ、出ておいで」「ほら、健ちゃんが力を貸してくれるよ」痛みで息も絶え絶えだったけれど、屍の山に向かって話しかけていたら泣けてきた。 それにしても痛かった。ただ、この日のチネイザンのおかげで、どうやら墓場の棺桶の蓋が開いたらしかった。次の日からMikaさんによる腸内洗浄が始まったこともあり、棺桶から出てきた人たちはこのあと数日間めちゃくちゃに私の身体の中で暴れまわった。
もう一人のエクソシストであるMikaさんが、腸内洗浄でパラサイトたちを身体から追い出してくれたおかげで、滞在7日目には私は今までとはまったく違う地平にいた。そしてそんな新境地で受けた2回目のチネイザン。痛いのは同じ。この時も悶絶。でも施術後の感覚が決定的に違った。横になって肩の高さで広げていた両腕は、大木の根のように力強くどこまでも伸びてゆくようだった。脳内に浮かぶ景色がものすごいスピードで変化していったかと思うと、次の瞬間には宇宙空間に漂っていた。地球を見下ろしている。どういうわけか懐かしかった。ここから来たことをいつの間にか忘れてしまっていたのかもしれない。「待たせてごめん」と思うのとほぼ同時に涙があふれた。
もう一人の自分は、もう私の中に還っていた。探さなくてもここにいた。屍の数々も成仏していた。やがて私の内側の景色も変わってゆくのだろう。すると突然「行かなくちゃ」という声が走り抜けていった。何になのか、誰になのか、わからないけれど私はたしかに呼ばれていた。「待っていて。未来で待ってて!」そう応えるだけで精いっぱいだった。
そのまま宇宙空間に浮かんでいると、今年の始めにとても仲良くなったけれど、一緒にいられなくなった大好きな人たちの魂にも再会した。少しの間一緒に月面を歩いてから私たちは別れた。時が満ちたら、また会いましょう。涙でぐしょぐしょになったまま観察をつづけていると、徐々に意識が遠のいていくのがわかった。あぁ、私の旅が終わってしまう。そのことを少しだけ残念に思いながら、ゆっくり眠りへと入っていった。
とまぁ、これが私の旅の感想である。クレンズを始めてから好天反応で体調を崩したとき、健ちゃんは献身的に看病してくれた。気分が落ち込んでいる時も「それは自然なことだよ」と受け止めてくれた。時にはおケツを蹴り上げて気合いも入れてくれた。(あ、比喩ですからね)冒頭でも書いたけれど、Let’s Go Back To Zeroの旅はかけがえのない時間になった。この旅で得たこと、知ったことを自分の日常にどう落とし込んでいくか。それが私の今の最大の関心事。とってもいい感じですよ。
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Pちゃん、最近連絡したところ、「おだやか〜な感覚」で過ごしているとのことでなにより。この場でもあらためて、参加ありがとうね♪
それではみなさん、今日も良い一日を。つまり自分自身を生き切る日でありますようにと、勝手に願っております。
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kazehirakukame · 7 years
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Choice: what to and what not to 選ぶことは選ばないこと
ひょんなことから 肉、魚、穀物、酒、スパイス(調理に岩塩を使うのはOK)を摂らない9日間 というのをやっています 何を口にしているかというと 野菜、豆類、フルーツ、乳製品、お茶類、ナッツ類、です 今日が5日目、もう折り返し 具体的に、今日は何を食べたかというと 蜂蜜漬けの生姜を入れた自家製の豆乳ヨーグルト 海苔 ドライトマトとその戻し汁で煮たレンズ豆、小豆、春雨のスープ 茹で栗 甘い煮豆 水を呑むだけの完全な断食の時に感じるあのゆったりとした感覚と 頭がすっきりとクリアな感覚はありつつ そこまで疲れきらず なんともいい、静寂です
「さて、お昼なに食べよう」 冷蔵庫を見るひともいれば 八百屋に、スーパーに、お惣菜屋に、コンビニに買い物に行くひともいれば ラーメン屋、フードコート、カフェに入るひともいれば 「今日のお昼な〜に?」 と作ってくれる友達や家族に聞くひともいるかもしれません おまかせなひとは、出されたものの中で取捨選択をします これは食べる、これは食べない これはちょっと食べる、これはお代わりする これはこっそりペットにあげて食べたことにしちゃおう
わたしたちのからだは 食べたもの とりこんだエネルギーでできています どんなエネルギーを自分のからだに入れるか、入れたいか 何気ない日常の選択の積み重ねが、自分を作っていきます その自分=からだが、ぼく、オレ、あたし、あたくしなどの つまりあなたを作っていきます 自分を作り上げていく日々の行動の中でも食事は特に重要な選択 Let’s Go Back To Zeroの期間中 せっかく綺麗に掃除していきますから、必要なものだけを入れていきたいですね からだが喜ぶものを選ぶこと それは自分を苦しめることを選ばないことでもあります 日々の暮らしの中に溢れている要らないものを手放すこと そうすると、あるべきものは逆にスペースを見つけて 自然と入ってきてくれるかもしれません
Community: dependence 頼るということ
先日、家の大掃除をしました 家中の大掃除をして、そのまま案の定、自分の部屋は模様替えになりました 最初はただ整理をしていたはずなのに、ふと自分の声 「窓際で寝たいなぁ」 その時は自分の部屋にあるふたつの窓の前には 低い本棚とソファがそれぞれ陣取っていました 三段の桐ダンスが片方の窓の近くにあるため、地震のことを考えると ソファをどかしてもその前に寝るのは得策とは言えません でも、どういうわけかどうしても窓際に寝たいって言うんです、自分が 結局部屋のすべての家具を動かして、思い通りの配置にしました 新しい部屋に出会ったような新鮮な気持ち 部屋に流れるエネルギーも明らかに違います 新しい住処を手に入れたヤドカリもきっとこんな気分でしょうか しかし、ひとつ困ったことが。。。 桐ダンスを一段と二段にバラすときに、背中を少し痛めてしまいました 自分である程度はメンテナンスして、普通に暮らす分には問題はない でも数日後からライブが珍しく3つも入っている
信頼している友達のカイロプラクティックのセラピストに連絡をしました 早速予約をして、施術を受ける ズレた部分を整えてもらって、お礼とお代を渡して家に帰ります 自分でやることを選ぶこと それは、自分でやらないことを選ぶことでもあります 自分でやらないことは、信頼できるひとを頼ります それがコミュニティというベースの持ち方 なんでも専門家に任せるというのは個人的には好きではありません、実は というか、割となんでも自分でやりたいだけなんですけどね ぼくが百姓(百の仕事をこなすひと)に憧れているのを知っているひともいるかもしれません でもひとりで全部はできません おいしいご飯も、おいしい野菜も、おいしい果物も もしかしたら自分で作れるかもしれません でも車は作れないし それこそハワイ島に行く飛行機の設計、製造、運転 その全てがぼくにはできません 感謝感謝 日々の営みにすべてがほかの誰かの仕事で成り立っています
ぼくはぼくのできることを 残りはみなさんに、おまかせします Let’s Go Back To Zero:デトックス・リセット・リトリート 開催まで22日 あなたの周りで、もしかしたら行きたいというひと、必要なひと いるかもしれません どうぞお知らせしてくださいな
よき縁がよき縁を呼びますように
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kazehirakukame · 7 years
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Lesson Of Impermanence 無常の教え
最近毎日チネイザンをしています 毎朝、チネイザンをしています 今週月曜から一日ひとりか、ふたりチネイザンをさせてもらっていて あらためて思いを、想いを、おもいを馳せる 痛いって、なんなんだろう 痛覚は、その使命は、なんなんだろう そのうちのひとりがくれた感想の抜粋を引用します
初チネイザンを受けて 東京都38歳女性
あんなに痛かったのに今となっては夢だったのかとさえ思える不思議
腸をマッサージしているのに自分の弱い部分(腰、足の付け根など)が痛む つまり痛みの根本はそこではなくお腹だったのかも?と思ったり
逃げ出したいほどの痛みと向き合う時間は たびたびおそってくる陣痛の強い痛みに耐え ���きみ逃しをしている時と似ている感覚
手足と顔のしびれ(マッサージする場所によってしびれる場所が違った) 麻酔にかかったような感じ つる一歩手前
終わった後の深い睡眠の中で 短い間だったけど優待離脱のような初めての感覚があった 自分の身体から自分(魂?)が浮いた
チネイザンはマッサージを超えた不思議な体験です 自分の中の無意識(もちろん意識のも)な悲しみ不安怒りをひたすら 一手に引き受けてきてくれた私のおなかちゃん、ありがとうね がんばってきてくれたのだなぁ
「逃げ出したいほどの痛み」 「陣痛」 「つる一歩手前」
などなど、ビビっちゃいそうな言葉がたくさんあるね ひとによっては、状態によっては、そこまで痛くないことも もちろんあります でも、逆に言えば、状態によっては、それだけ痛いこともあります
痛いのに、なんでやめないのか 痛いのは悪いことではないのか どうおもいますか?
施術を終えたぼくと一緒に どこへともなく消えていく痛み ぼくがいなくなっても、居残りで、もくもくと 粛々と 役目を果たすまで存在する痛み その居残りさんすらもちろんそのうち消えていきます
チネイザンをはじめて受けたときの壮絶な感覚 はっきりと覚えています 三週間みっちりお腹を揉み、揉まれ続けたあと おなじセラピストの施術を受けてみると まるで感覚が違う 無常です 消えることなんてないと思った確固たる痛みさえ ちゃんと無常です、流れていきます アリガタヤアリガタヤ 痛み、なんなんでしょうね、ほんと でもその痛みが消えるところまでいってみたい ぼくは個人的にはそう思っています
Pain…What Is It? 痛いって、なんなんだろう
ありがたいことに、なんだか 困ったことに、なんだか どうやら世界には“わざわざ分けるとしたら”ふたつ 異なる類の痛みがあるような気がします (ここには以前お話した 「わたしたちの『からだ』こそを『自分』とする」 という前提があり 「自分らしい生き方を全うすると心地よい よってそうあるよう望む」 というぼくの個人的な価値観を元に考えています)
・ 避けていい痛み ・ 避けては通れない痛み
前者は、たとえば 自分に合わない服を着たり、靴を履いたりして、起こる肩こりや靴ズレ 自分に合わない環境に身を置くことで生じる、鬱などの精神的な患い 暴飲暴食による内臓機能の低下、それに伴う心身の不調 などでしょうか 労働環境が大きく影響することがまず考えられますよね 意義を見出せない仕事、とても誇れない会社で “そうするもんだから”とネクタイを締め、夏でも革の靴を履き “仕事の延長”として何倍もお酒呑みながら揚げ物ばかり食べる飲み会に出る そんな三重苦とでも言いたくなるような生活をしていたら 愚痴が多かったり、諦めがちだったり、するかもしれません 極端すぎる例でしょうか(それが楽しいひとは問題なしですねもちろん) それとも周りを思い返すと、自分を含めて思い当たる人がいますかね
後者はというと
大好きな登山の最中の疲労や節々の痛み、足の指のまめ 目標とするアーサナをとるための日々の鍛錬の返しとしての痛み 素直に想いを伝えたものの、成就しなかった告白の悲しみ、落胆 夢を不器用に生きる画家の売れない下積みの日々の苦悩 などがそれにあたりますかね 共通するのは、「目標」や「夢」、「願い」がその痛みの先にあることです 逆に「その痛みを避けては、たどり着けない境地がある」と言ってもいいかもしれません 疲労困憊の登山家は山頂で、下山したあとに温泉で はたまた山場を超えたあとのテント設営中に 人知れず、本物の笑みを浮かべているかもしれません ヨガ修行者は、自分のからだと向き合う日々の先に 大いなる呼吸を手にし、目標だったアーサナのことなど忘れて輝いているかもしれません 成就しない告白の後、ひとしきり苦しんだ誰かは 想いを伝えるまで、信じたい未来を信じた自分を前より少し好きになっているかも 売れない画家は、売れない過去の自身の作品の山を見て、ため息をつきつつ、どこか惚れ惚れもしつつ、それでもまた筆をとるのでしょう それは悲劇でしょうか、喜劇でしょうか 奇跡でしょうか
Guide Of Journey Through Pain 痛みを通り過ぎる旅路を導く
自分の至らないタイ古式マッサージやチネイザンの施術で被らせる痛みを もっともらしい美談にしたててしまおうということではありません これはセラピストとしての自分のいまのあり方 そのひとつの表明とも言えるかもしれません
不必要な痛みは生まないように、細心の気配り、身のこなしを心がける 目指す境地=本来の自分らしい自分=元の状態のからだへ向かうとき 避けては通れない、必然の痛みがそこにあるのなら ぼくが逃げることは決してしない 逃げないあなたのすぐ横で、一緒にいる もしあなたが逃げると決めたらば、ちゃんと一緒に逃げる 逃げそうになる自分の背中をあなたが押してほしいときは、そっと しかし力強く押そう そこには信頼関係しかありません 信頼関係の上でしか、この美しい行為は生まれません 信じ合うなかで、ぼくはただぼくの内なる声を聴いて 瞬間の即興劇に身を投じるのみ 自分もあなたもcontrolしようとは思いません (またMika Moonのブログの古い投稿から素敵なものを見つけました すぐに動かしたくなるクセ)
一昨日も、昨日も、今日も チネイザンを受けて、脂汗をかきながらも 必死に呼吸に集中してくれたあなた お腹の施術を終えたあと、肩や頭を触るうちに深い眠りに入っていく 目が覚めたあとに携える表情もさまざまです 「こんな痛いはずじゃなかった」とヘロヘロで笑うしかないあなた 「やっぱすごい、これこれ」と納得しながら目がキラキラしてるあなた 言葉にならない不思議体験に圧倒されつつも、愛が満ちるあなた どのあなたのことも愛していますし、大切です でも結局のところぼくはあなたにはなれない だからこそ、あなたの信頼を一身に受けて、ぼくは手を引いてゆこうと思う ぼくの信頼を一身に受けて、唯一無二のひとつひとつの息を 必死に放ち、迎えるあなたのとてもとても深いところへ
You Have Me お世話になるとき
リトリートのいいところ それは「ひとの世話になる」ことです 「お世話になります」の世話ですね からだは「自然」ですので 「自ずから然る」ものですから 本来ちゃんとあるべきありように戻る力があります しかし、いま多くのひとの暮らし向きは 自然ではありませんので、このリトリートのように 機会を設けて、リセットする必要があると思っています そのリセットはいわば年末の大掃除 とてもひとりでこなせるようなものではない もし、ひとりでやろうものなら倒れてしまいそうなほどに あなたのいまは、いまのあなたは疲弊しているかもしれません (そうじゃないならば何より、あっぱれなことですが) だからこそのリトリート デトックス、リセットという大仕事に集中できるように ガイドとして、そこにぼくがいるわけですから 頼れるところは存分に頼って、自らの役目を気持ちよく 全うしてくださいな ご存知の方もいるかもしれませんが タイ古式マッサージは「なまけもののヨガ」なんて呼ばれ方もします でもヨガ修行者にタイ古式マッサージ好きが多いのは 楽ができるからだけではないんです 「ヨガだと、ひとりだとどうしても伸ばせないところが伸びる」 と言ってくれたひともいますし 「からだをあずけられるから、その分だけ呼吸に集中できる」 と言ってくれたひともいます Let’s Go Back To Zero:デトックス・リセット・リトリート このリトリート自体に タイ古式マッサージ的な精神が宿っていると思ってください 信頼の循環が魅せる旅路は どこまで深くあなたを、ぼくを連れていってくれるでしょうか
散々言っておきながら、最後にひとこと 「期待はしないこと」 うちなる声にただ導かれて、お気に召すままに Be Here Now その結果、ハワイ島でお会いすることになるのなら そのときは、満面の笑みでalohaを歌いましょう
最後にチャーミングなMika Moonのひととなり 七年も前ですが、彼女がこんなことを書いています わたしと深く付き合うことになるかもしれないあなたへ。。。 タイトルに感じるやはりな確かな縁、ほんとなんだろうねぼくたちのつながりは いま見る自分はどんなだろうね、mikaさん
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kazehirakukame · 7 years
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Moon Water Colon Hydrotherapy ft. ukiwa Let’s Go Back To Zero: Detox Reset Retreatに 参加することになるあなたへ
自由であること それは変わりつづける自分に魅せられること
“Let’s Go Back To Zero”にDetox Reset Retreatというサブタイトルをつけた。デトックス・リセット・リトリート、その中心にあるのはリセット: 元に戻す、直すこと。今日は、ぼくの話をしようと思う。
もともとよく言われることだけれど、今年は特に言われるなぁと最近思っているのが、自由だね。自由であることは、ぼくにとって確かに、とても大切なことみたいで、自分で服を選ぶようになった頃から、好んでオーバーサイズのものを着ているのは、きっと太っているのを隠したかっただけではないと思う。いまでもぴったりしている服はあまり持っていない。どうしても落ち着かない。ストレスなく動けないと、どうもだめらしい。
ぼくの大好きな映画”Easy Rider”の中で、特に好きなのがこのシーン。肝心なところをざっと訳すと「個人の自由について語ることと、自由な個人であることは全く別のことで、自由であることは難しいし、自由な個人を見ると、ひとは恐怖する」といったところでしょうか。ぼくは雄弁に自由について語れなくてもいいから、自由でありたいと思う。正しい理論ではなく、圧倒的な感覚に突き動かされて。
でも今日は、久しぶりにつらつらと、いま思う「自由であること」について書いてみる。それがぼくの話をすることになると思うから。これを書きながらぼくが強く願うのは、ここに書かれる「ぼくにとっての自由」をいつか読んで、「こんなこと思ってたんだね、おれ」と笑いながら思えること。自由であること、それは瞬間瞬間を生きること。常識や他人や、自意識だけじゃなくて、自分の培ってきた価値観にも経験則にも縛られずに、直感に突き動かされることを許せること。なんとなく、と、ゆるぎなく、そのどっちでも絶対的にある不思議な縁を信じること。保証のない、見えない先に、鼻歌と共にスキップしていくこと。精一杯、生きること。変わりつづけること。その変化にドキッとして、わくわくすること。
自由であること それは手放せること
自由であれば、同じ場所にいようとも、旅を続けていくことになる。Mika Moonの過去のブログをなぜだか急に読みたくなった。覚えていて読もうと探していた投稿だったわけではないけれど、「あっ、これ」とすぐに再会した。 let go ただでさえ長いぼくの投稿のあとに読むのはきっと体力がいるから、なんならいま先に読んでみて。彼女はぼくの文章も、詩も、とても好きだと言ってくれる。そして、ぼくも彼女の連ねることばに何度も魅せられてきた—響きあういい仲だな、ほんと—自由であること、それは縁を生き切ること。始まった縁をちゃんと生き、終わった縁をちゃんと切り、また次の旅に出ること。生きていれば、ひとは何かに愛着を覚え、とどまり、向き合う。仕事でも趣味でも友人や恋人、家族との縁も、住む場所も。生涯つづく縁もあるだろうね。同じように、生きているうちに役目を終える縁もある。縁が終わるべきときに、ちゃんと終わらせられるひとは、なかなかいない、かもしれないね。自分を振り返っても、その難しさは身に覚えがある。花と縁は同じだ。咲いている間のそれをだけ花と呼ぶ。ただただ枯れてしま��ば、散っていくし、腐ってしまえば、還っていく。でも、押し花にできたら、できてしまったら—おもいでのなか—味わいを変えながら、美しいまま、かもしれない。縁の数だけ押し花を作っていたら、鞄ひとつでは収まらない。少しの間、押し花に宿る時間を愛でたら、さようならをすること。自由であるとはきっと、そういうこと。とても勇気のいること。もうそこにはとどまらないこと。
自由であること それは余白に祝福されること
昨日9/1は月初め、映画の日。”Patterson”という映画を観てきた。観てほしいから詳しくは言わないけれど、主人公はある辛い別れを、突如、経験する。当たり前に、そこに囚われる。そして、ある縁に助けられて、自由を見つける。とても詩的で、静かで、美しい映画なので、是非とも観てみてほしい。
縁の終わり方も色々ある。必ずしも自ら望んで手放せるとは限らない。奪われたり、壊されたり、突然消えていってしまうこともある。受け入れられないこともある。信じられないこともある。でもその終わりをちゃんと感じられたとき、空白が、真っ白なノートのように、プレゼントされる。音もない、寂しげな贈りものだけれど、ぼくはそれを祝福だと思う。
自由であること それは常に、いま、ここ、で自分でいられること
Let’s Go Back To Zeroに込めた想い、それはかろやかに、自由になろうよ、という提案といってもいいかもしれない。続けてきたパターン、無意識に宿るトラウマ、刷り込まれた常識、古傷が自動でする誘導、周りへの遠慮、自分で可能性を制限する自主規制、そういったものを手放して、オリジナルな自分に還ると、世界はまったく違う表情を見せてくれるかもしれない。そしてきっと、ぼくたちは、ぼくは、その世界に魅せられて、感動する。
ぼくが出会ってきた自由なひとは、”Be Here Now”と言う。そして、そのひとたちに魅せられながら、でも覗いているだけのひとは”Here And Now”を語る。似ているようで、全然違う、自由であること、と、自由について語ること。だからこの投稿の終わり方は決まってる。予想もできない自分の変化に怖気づくどころか、わくわくしよう。お世話になった縁には感謝して、さようなら。あたらしい真っ白なノートに何をかこうか。過去も未来も、それはそれで勝手にやっていただいて、いま、ここ、にいる。Be Here Now、そして、Let’s Go Back To Zero—自由へ、自分へ、還ろう。ぼくはぼくに、あなたはあなたに、そう言ってあげよう。
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kazehirakukame · 7 years
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Let’s Go Back To Zero: Detox Reset Retreatに
参加することになるあなたへ。
  “Follow Your Sensation”
【自分の感覚を信じて生きる】
今回はこのリトリートの要であるわたしたちについて、話そうと思います。 コロンハイドロセラピストのMika Moon、チネイザンとタイ古式マッサージ、デイツアーを担当するわたしkentaro、このふたりが出会ったのはちょうど10年前の10月、あなたがこの文章を読んでいるここ、インターネットの世界でした。1年後には北海道で、その3年後にはアメリカ西海岸で、またその後には日本の埼玉で、わたしたちはところを変えながら、語り合い、ドライヴをし、海を眺め、流木を集め、土を盛り、焚き火を囲み、そして何より共鳴してきました。家族であり、ソウルメイトであり、同じ民族とも言いたくなります。でももし、ひと言で言うならば、わたしたちは「同志」だと思っています。世代も出身も性別も育った土地もまったく共通項のないわたしたちですが、揺るぎない共通点があります。それは数奇な旅をさせてくれながら、わたしたちを現在のお互いのライフワークに導き、そして必然的にこのリトリートが生まれたと感���ています。
わたしたちを繋ぐ共通点、それは「自分の感覚を信じて生きる」という揺るぎない人生への態度です。往々にして理由もわからずに、周りから見れば意味のわからない選択をしながら、しかし当の本人は不安もなく、確実に宇宙に導かれている感覚で、なかなかに稀有な人生をお互いに生きてきました。わたしたちは思想ではなく、身体の声を素直に聞いて生きています。どうやらそれは簡単なことではないようです。それぞれの職において、実は最も大切だと私が思っているのはこの人生態度であり、そこから生まれるかろやかなスピリットと空気です。タンポポの綿毛が空を舞い踊るように、笑って生きているわたしたちだから伝播する、伝染する磁場やエネルギーがあると思っています。それはコロンハイドロセラピーもチネイザンもタイ古式マッサージもデイツアーも、なんでもない時間も含めて、このリトリートのすべての根底を貫く大地となり、音楽となり、ともしびとなって、あなたを包むものだと信じています。
Let’s Go Back To Zeroという名をつけたこのDetox Reset Retreatは来るべきひとを引力のように揺るぎなく、当たり前にやさしく誘っているのをすでに感じています。自分の核で振動して、感動して、生きているわたしたちふたりだから生み出せるリトリート。でもわたしたちは実はその全体の半分の役割しか担いません。あなたがそこに共鳴しているとしたら、あなたが残りの半分の役割を担います。正確に言えばあなたはそのひとりです。ハワイ島プナで会う日を楽しみにしています。
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kazehirakukame · 7 years
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デトックス・リセット・リトリート
2017年10月18日より1週間
ハワイ島プナで開催する「おなか」をまつるリトリート
Let’s Go Back To Zero
FBイベントの詳細にあるのは要約
今回のリトリートに対する想い、こちらが全文です。
Let’s Go Back To Zero
せおったり、かかえたり、かくしたり しまったり、おきざりにしたり、いだいたり わすれたり、みてみぬふりしたり、むししたり たまりにたまったもろもろのかさなりのかたまり おせわさまでした、のひとことをおくって ごゆるりとおかえりになっていただいて はじめましてなようでおひさしぶりな まっさらなじぶんにかえってみませんか?
ふかくいきをしたり、こらえたり、わらったり ふるえたり、ないたり、おどろいたり てばなしたり、なっとくしたり、きづいたり もろもろの「たり」のみちたりたころ きっとめぐりめぐってねがいかなったり
なぜ「おなか」なのか
おなかはとても面白い場所です。 肋骨から腰骨までのエリアで 内側を背骨の横を通ってまっすぐ後ろにいくと 反対側に出て「腰」という名前に変わります。 「要」という字が当てられるくらい重要な場所 その腰の前面に内臓が重なり、ふくらんだ場所 それがおなかです。 「腹」の「复」には諸説あるようですが 「重なる」「ふくらむ」「元の位置に戻る」などの意味があるようです。 それこそジャバラのように 複雑に美しく連なった内臓のあるおなかは たべたもの、のんだもの、すったものに あれしたりこれしたり、すったもんだ働きかけて ご存知の通り、消化吸収排泄のプロセスを担っています。
また、おへそはエネルギーの玄関とされています。 悪い気を出し、良い気を取り込む。 エネルギー循環の主要駅でもあるおなかは 栄養、エネルギーの両方の消化吸収排泄を行いながら 體(からだ)を本来の状態に保つ、元の位置に戻す役割を果たしています。
これだけでもおなかがとても大事な場所だと 五臓六腑に染み渡るようですが、さらにもうひとつ おなかは重要な役割を担っています。 それは貯蔵庫という仕事です。 「デトックス」「リセット」という名前からお分かりいただけるように このツアーが特に注目しているのはおなかのこの機能です。 コロンハイドロセラピー、そしてチネイザンで デトックス、リセットしようと働きかけるのは わたしたちが知らず知らずのうちにおなかに溜めてきた 「老廃物」や「パラサイト」、そして「感情」です。
動物や植物などの他の地球の同居人と同じように 人間は感情というものを抱きます。 ちゃんと向き合わずに置き去りにした感情は消えず おなかに溜まっていき、内臓に影響を及ぼします。 緊張しすぎると腹痛になるというひとがいますね。 「腸が煮えくり返る」「腹を割って話す」「腹黒い」 などの表現が示すように、日本でも 心や感情とおなか、内臓は古くから密接な関係にあると見られてきました。
おなかと心、内臓と感情は相互に働きかけるため 體に合わない食生活や労働、睡眠、ストレスが 内臓に負担をかけると 乱れた内臓が感情に影響を及ぼし、感情が乱れます。 そして、感情面、内臓面ともに乱れた結果 エネルギーも停滞していきます。 刹那的に日々に忙殺されて暮らしているとしたら 本来のポテンシャルを活かせる 「自分らしい自分」とはとてもいえない別人に 無自覚になっているかもしれません。
チネイザンではおなかが本来の状態 やわらかい状態にもどっていくのを手伝うように ゆっくりやさしく、かつ深くほぐしていきます。 放って置かれてしまった感情はしこりとなっておなかに残っています。 ひとつひとつ丁寧にそのしこりと一緒に向き合い、ほどいていきます。 簡単にとれるものもあれば、なかなかとれないものもあります。 おへそ、エネルギーの玄関の調整も行い エネルギーの流れが本来の循環を取り戻せるようにします。 味わう感覚のそれぞれが何を伝えようとしている體の声なのか だんだんわかってきたり 忘れていた記憶や感情が戻ってくることもあります。
ときに不当に扱われた感情、特に負の感情は 老廃物やパラサイトと共生しているかのようです。 コロンハイドロセラピーでは 体温と同じくらいの浄化水を腸内に注入し 腸壁についている老廃物(宿便)や、ガス パラサイト(寄生虫)、悪玉菌を取り除くことで まさに内側をリセットして、そのひと全体をリセットしていきます。
各臓器の位置が調整され、おなかのしこりが取れることで また、腸壁に長年こべりついていた老廃物が剥がれ、流れていくことで しっかりとを蓋してしまっていた感情が溢れ出ることもあります。
痛みに悶絶し、獣のように喘ぐこともあるかもしれません。 ときに痛みもないのに、涙が止まらなくなることもあるかもしれません。 汗をかいたり、息が乱れたりすることもあるかもしれません。 あなたのそのときの状態にあった形で出るべきものが出ていく。 その当たり前の循環を起こすのが このデトックスリセットツアーの目指すところです。 ふくらんでまで、老廃物、パラサイト、感情を重ねて溜めてきたおなかを 元の位置に戻しましょう。 おなかは、體にとってまさしく 「御(お)」:敬うべき 「中(なか)」:ど真ん中 もっとも大切と言っても、過言ではない場所です。
こんな日々を
自分の身体と素直に、まったり向き合う日々。 必要以上に食べたり、飲んだりもせず なんならあまり身体にはものを入れずに 朝はフルーツやジュースで、やさしくに身体を起こしましょう。 毎日、合計6回コロンハイドロセラピーを受けて 腸の中に溜まった諸々のモノモノとお別れをして 初日と5日目にはチネイザンで外側からもお腹を調整。 エネルギーのお掃除もしっかりしていきます。 3日目にはチェンマイ式のゆったりとしたタイ古式マッサージ。 全身をさらにゆるめて、ツアー後半でとことん手放せるように もっと自由に、軽くなって、出るべきものに出てもらいましょう。 デイツアーでは火山、海、滝、温泉などを巡ります。 ハワイ島のエネルギーを存分に感じさせてくれるでしょう。 午後のデイツアーではスペシャルな場所を巡ります。 かえるころに、どんなこころに、身体になっているか わくわくしながらも、結果にとらわれずに 夢のような現実のその一瞬一瞬をただただ楽しみましょう。
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kazehirakukame · 7 years
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風邪のよりどころ
立ちションしてたら、北風が 履いてたモンパンツなびかせて 滝のしぶき、ちょろっと浴びせたよ
寒くてもできるだけ大地に放尿スティーロを維持しております ukiwa_kentaro本日も赴くままに、綴ってみましょう
さてさて、世間ではインフルエンザブーム、なのかな? フリースタイルダンジョンと同じくらいブームのようですね 進行のUZIが大麻で逮捕されたことで炎上しているんだってね 父親に 「フリースタイルダンジョンのZなんとかってひと、大麻で逮捕だってね」 と言われて知りまして、完全に鼻息荒いシマウマさんの方かと勘違いしておりました アムステルダムでは1970年代からコーヒーショップがあるみたいね、さすが アメリカでも医療大麻だけでなく、嗜好品としても合法になった州が増えてますね 一大産業として、金稼ぐ気満々の企業の参入はちょっとなんとも言えませんが そんな2018年に大麻で逮捕、さすが日本、巨大なパノプティコンですね、風光明媚でございます ざっくりとひるがえって、というか舞い戻って、インフルエンザね 発症したくないですね 東京近辺のひとは電車や職場や学校やスーパーやなんやらで、きっと保菌者には なっているひとがほとんどなんでしょうけどね いやぁ、発症はしたくないですね 最後になったのいつだろう、思い出せないけど、しんどかったのは覚えております
そんなわたくしですが 3日ほど前ですかね、ちょっと風邪っぽいなぁと感じました 家では父親ががっつり風邪ひいてますので、まぁ入手経路ははっきりしてます 10月前半、ハワイで一瞬寒気を感じたことはあったものの 多分コロンハイドロセラピーの影響だったと思われるので 風邪っぽい風邪はひさしぶりでございました デトックスチャーンス♪ 毒素ありがとうございました、またのご来体お待ちしてま〜す といった感じで、身体をクリーンナップ&アップデートするいい機会と捉えて いつも通りの作戦をとります 1. 日に数回、45度のお風呂に入浴する 2. 発酵頼りの食生活 3. 夜早めにちゃんと寝る 今回は、これにプラスで最近ふたたび習慣化したヨーガも加わって まぁいい感じです 国民皆保険制度のある日本では、体調を崩すと みんな病院に行って「御薬」を「御医者」さんに処方してもらうという このお決まりのパターンが圧倒的多数な気がしますが そもそも未病的観点で普段からいい感じに過ごしてほしいし なにかしらの症状が出たら 「あっ、マイボデーがぼくにメッセージを送っている、受信せよオノレ」 といった感じでね、真摯に受け止めてほしいですね なにがこのいまをもたらしたのか そして、身体って本当にアメイジングなので、身体に仕事をさせるのが一番 果たして、あたくしの手法がその手伝いをできているのかの真偽はわかりませんが ひとり人体実験の結果は、ここ数年ずっと良好です ちなみに今日のお昼ご飯は ネギを一本ふんだんにぶち込んだ納豆キムチぶっかけ玄米 豆腐としめじの味噌汁 いろいろ入ってるサラダ 下の2品は父親がこさえたやつを拝借いたしました さて、これからスタジオで練習してまいります 明日はPLAY@新潟GOLDEN PIGSでWHALE TALX 2018年初ライブ 今年はukiwa_kentaroもWHALE TALXもgotokentaroも 全開で全壊で全快でまいります 「まいりました」と自分に言って その直後に「それでは、まいります」と宇宙に言いたい つまり結局ひとりごとですね
みなさん、風邪などひかないよう、お気をつけなすって でももし、ひいたら、せっかくのご縁ですから しっかりおひきなすって
友人の絵本作家、長田真作の『風のよりどころ』とてもよいです まさに風の如く、つかみどころなく、すり抜けられてしまうかも?やも?
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kazehirakukame · 7 years
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大いなる月ごもり●破壊と再生/生と死
ひとつの枠組みにおける、ひとつの周期が終わります。この一年、縁があったすべての、あらゆる、みなさん、どうもありがとうございました。下半期、いつも以上に沈黙が長く続きましたが、来月のうちにはハワイ島で行なった自身初主催のリトリートLet’s Go Back To Zeroの報告を含め、いろいろとお伝えしていこうと思います。今回は、その前に、ukiwaのkentaroを務めているgoto kentaroの言葉を記そうと思います。今年も一年ukiwaを支えていただいて、ありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いします。良いお年を。ぴ〜す。
明日は大晦日。二〇一七年最後の日。晦日の大将。晦日は「つごもり」とも読むらしい。月がこもる→月ごもり→つごもり。陰暦において、月が隠れるのがだいたい各月の終わりの頃だからだそう。その年その年、振り返るといろいろな過ごし方をしてきたこの師走の末、一二月三一日が母の誕生日だと知ったのは今年の一〇月三日。ハワイ島へと旅立つ六日前。東京は多摩市の役所で、申請した戸籍謄本の母の生年月日の欄を読んで知った。出生地は渋谷区。昭和三〇年生まれ。ぼくを産んだのは二九歳の時だったことになる。でも母の誕生日も出生地も、たまたま知ることになったいわばおまけの情報で、確認したかった情報の欄には今日、一二月三〇日の日付が記載されていた。今日は世に言う彼女の一周忌。去年の今日、母は亡くなったらしい。六〇歳でこの世を去ったことになる。死亡地は立川市。両親が離婚したのは、ぼくが一歳になる前だと聞かされている。それから一度も会うことも、声を聴くこともなかった。ついに、ぼくはお母さんに会うことができなかった。 幸か不幸か、超人的な記憶能力を持っていないぼくには、母の記憶がない。まったく。なのでぼくの人生にお母さんは存在していない。考えようによっては、誰もぼくの人生からいなくなっていないのに、彼女の死を知ってから、ぼくは加速度的に壊れていった。「加速度的に」と書いてある通り、一〇月の時点で、すでに今年は変化、変動、激動の年、確定だった。四月には五年半ほど連れ添った彼女と別れ、五、六月は魂の故郷だと感じているチェンマイで今主軸になりつつある内臓、感情、記憶、エネルギーのデトックスを起こすチネイザンの修行をした。誰よりも自分が困惑し、そして納得もした宇宙の計らいから、ひとりの女性と出会った。昨年末か今年の初旬からなんとなく感じていた「やってくる気がする変化」は、既にぼくを飲み込んでいた。どんどんその水かさは増し、流れははやくなっていく。水面に「HONESTY」という言葉が浮かんでいる。自分自身を生き切る。言い訳をせず、遠慮せず、揺るぎなくたゆたう。その道を、まだ足取りもおぼつかずに歩いていたぼくの前で、揺るぎない歩みを見せ、振り返って手を取り、ひっぱってくれたこの女性にぼくは恋をした。そして、ちょうどこの頃、ソウルメイトだと感じているハワイ島に住む仲間ミカ・ムーンが、腸を洗浄するコロンハイドロセラピーのクリニックを開いた。チネイザンとのコラボレーションのリトリートを一〇月に開催することにした。夏は、涼しい長野県松本市の旅館の灼熱の厨房で、汗だくになって働いた。ハワイ島からオーストラリアへと、恋路はぼくを導こうとしていた。あたらしい時代が早送りのように情緒もなく駆け足で飛び込んできている。下手な嘘のようだけれど、「New Era」という曲も作った。今年は音楽活動も本格的に始動し、他に二曲発表した。地元大宮で、小規模ながらイベントの初主催、九月には東京で初ライブも行なった。盟友annie the clumsyの依頼で、昨年亡くなった彼女の愛犬へ捧げる歌「Paradise」に参加し、天国を想って言葉をしたため、命を吹き込み、録音した。ぼくを宿し、この世に迎え入れた母の死が、これまた弾丸のように飛び込んできたのはまさにそんな時だった。 ハワイに飛び立つまで六日しかない。それまでに絶対にお墓参りに行くことをとりあえず決めた。四方八方を飛び回り、電話をかけまくった。母の死をぼくに伝えた老婦人、母の妹が数十年前に勤めていた病院、葬儀をしたのではないかと思われたとある教会、何度もかけた役所、ぼくの話を聞き、ぼくに話をたくさんしてくれたチェンマイで会ったオーストラリアに住む例の女性、ここにあげたすべての場所、ひとの電話番号に326という連番を見つけた。三月二六日はぼくの誕生日だ。ハワイでのリトリートにつけたLet’s Go Back To Zeroという名前も、名付け親に向かって引力を奏ではじめる。目を瞑れば、腹の上でカーリーが、その軽やかで破壊的なステップの力を増していく。滅多に吹き出物ができないぼくの左頬に、先々週くらいまで居座っていた百���玉大の吹き出物ができたのもこの頃。やっと母の妹と連絡が取れ、母の墓前で掌を合わせたのは一〇月八日。出国前日だった。母の妹ふたりは、待ち合わせ場所ですぐにぼくが甥だとわかったようだった。ぼくと瓜ふたつだと、チェンマイで父が笑われたのは記憶にあたらしい。しかし、ぼくの目は母にそっくりらしい。考えたこともなかったが、あなたのお父さんはあなたを見て、あなたのお母さんを思い出していたのかもしれないね。オーストラリアでそう言われて、ハッとすることをこの時ぼくはまだ知らない。ぼくは笑っていた。でももうぼくは自分が誰なのかわからなくなっていた、そんな気がする。対象も曖昧なままに、実感がないという状態だけで日常が構成され、それでも運命の引力がぼくの行くべき道へと連れていってくれる。そのことに気づかずにただ甘えていた、そんな状態だったといま振り返って思う。 ホノルルの入国審査で引っかかる。別室に連れていかれたのは、実ははじめてだった。根掘り葉掘り、関係のなさそうなもろもろの関係までも一通り聞き出したあと、走ればギリギリ乗継ぎ便に間に合う頃に放り出された。右往左往したあげく、無事に搭乗し汗だくでシートベルトを締めた。イミグレの不安感がはじまりだったのか、母の死の知らせがはじまりだったのか、ハワイ島のダイナミックなエネルギーの歓迎だったのか、いまでもわからないけれど、着いた日から、こころの奥底がずっとそわそわしていた。タンクトップ、海パン、ビーサン姿になっても、だらけて椅子に腰掛けても、床に寝転んでも、身体の喜ぶものを口にしても、ウォームポンドに抱かれても、波に弄ばれても、何をしても、どこにいても、どれだけ充実していても、楽しんでいても、喜んでいても、笑っていても、なにも食べなくても、奥の方がずっとそわそわしていた。そのせいか、何度海に入っても身体が浮かなかった。「古い自分は変化に抗う、その力みかもしれないよ」とケイコ・フォレストは言った。ミカ・ムーンとは、色々な話をした。でも彼女は共有した沈黙の中で、しずかに、それこそ月を思わせる空気をまとい、その空気でぼくを慰めてくれていた気がする。カーティスはいつも笑っていた。笑っていなくても笑っていた。ハワイアンの魂でハグしてくれていた。五日間の断食を含む七日間の小腸と大腸のクレンズ、その後二十一日間の全臓器デトックスをして、身体の中が軽く、空っぽに近づいていく。不安にかられる日が続いたり、活力が湧いたり、食べるよろこびを改めて確認したり、自分の手、その仕事、役割にうなったり、うならされたり、うなされたり、濃厚なひとつきだった。Let’s Go Back To Zeroの一週間、父、伯母ふたり、伯父ひとりが訪ねてきた一週間、そして女神たちの旅のお供をすることになった最後の一週間については、また別の機会に詳しく書くことにする。この期間にあったすべてのひとに、本当に感謝しています。MAHALO。ありがとう。 ハワイ島に着いてからちょうど一ヶ月後の一一月九日の夜、ホノルル空港のベンチで夜をこした。早朝のフライトでシドニーへ、そしてそれからメルボルンへ。不思議な運命が、まだまだぼくを休ませてくれない。古き悪しきLAZINESSとの決別を腹に、素朴で確かで湧き出る恋心が夢見るABUNDANCEとPLAYFULNESSを胸に、南半球へ。常夏のハワイよりもジリジリと暑いオーストラリアの太陽は、ぼくを徹底的にかわいがった。着いて二、三日しか経っていない頃に、樹から落ちて腰を痛めた。それ以外にも様々な予想外に困惑した。どうにかなると思っていたことが、どうにもどうにもならない。落ちつづける恋の谷すがら、その実らなさ加減と落下速度の上昇が化学反応を起こしていく。ぼくはどんどんと壊れていく。壊れていっていると肌感覚で濃厚に、決定的に感じたある日、DEPRESSIONを受け入れたことで随分と楽になった。立ち位置や見る角度をあらため、翻訳につぐ翻訳をこころみたその果てで、実りと輝きを見続ける暮らしを全自動でしていたぼくは、腐敗とぬかるみのにぶい光のかげりの祝福と出会った。HONESTYがこだまする。頑丈な透明の仮面が、その鎧が砕けていく音がした。錨をはずし、帆を張って、しかし舵輪には手をつけない。そんな不確かな航海の不安定さが、この上なく不安で不快で時には腹立たしく、悲しい、しかし同時に心地がいい。なにもかもわけがわからないようだけれど、霧だか霞だか靄だか判別のつかないその膜が、薄まっていくのだけがわかる。それはとてもゆっくりとだけれど。メルボルンでの三人暮らし五週間の日々の街の静けさを思い出す。同居人のオーストラリア人男性ジェイコブと歩いた国立公園の暗闇の森、ヤラ・リヴァー沿いの漆黒のトレイルを思い出す。メルボルンを発つ前日に入った小さく、狭いスウェット・ロッジの入口であり出口である幕を閉めた瞬間に、純粋な暗がりの中で拡張した広大な闇の、その四次元性を思い出す。なにを聞かれても、おもしろいほどに明快な答えを出せない自分のうろたえとその根元にあった星なき宇宙を思い出す。見えない知らない世界が、つまり、あたらしいようでいにしえの大元の自分が、PRIMITIVE FUTUREがそこにいたことを思い出す。 帰国した冬の日本では、寒波に殴られた。どこも落ち着くし、どこも落ち着かない。旅のあとにいつもある、あの違和感も違和感がある。外だけではなく、内にも感じられること。ハワイ島で探すことを約束してくれたものが見つかっていた。父がその存在を一度も口にしてこなかった結婚式のビデオがDVDに焼いてあった。彼とぼくのお母さんの結婚式のビデオ。ふわふわとそわそわの境界で、生まれてはじめて動いている母親を見た。緊張しているからだけでなく、そもそももともと緊張しいなのが荒い画質の画面越しにわかる。「誓います」「目がよかった」の二言くらいしかまともに発していない彼女の、その声にこころが落ち着く。そして、そのことになにより驚き、動揺した。呼吸は浅く、心臓は急いでいる。記憶の中に微塵も存在しない母親の声に、はっきりと聞き覚えがある。ぼくがぼくにわからないように隠してしまった記憶があることを知った。ぼくのどこかに母はいる。そのころのぼくも。母の死を知ったことで、母はぼくの人生に初登場という形で再登場した。そして、決して会うことはできない。これから彼女のことを、彼女との記憶を、そしてその時その時に生まれては、放置されてきてしまった感情のひとつひとつを見つけて、拾って、浄化していこうと思う。そこにはきっと喜びとあたたかさが、そしてトラウマと傷が、境界のない愛憎がシュールに愛想もなく存在している。そのどれもがぼくを育んできたピースなのだから、平等に愛そうと思う。 そんなぼくとゆっくりふたりっきりになるために、大晦日の夜から三が日まで、ゆかりある山の裾野の古民家でひとりで過ごすことにした。こたえがないこと、その自由をつくづく感じる。メトロノームのように揺れていた存在が徐々に中心に、核に、近づいてきている。大いなる月ごもりの日。明日は大晦日、この一年の最後の日。トゥモロ、イズ、ニューイヤーズ・イヴ。最後の日、それはあたらしい年のはじまりの、そのちょっと前。みんなが、あらゆるみんながすこしでも幸せでいられますように。ちょっと早いけれど、お母さん、誕生日おめでとう。そして、この不思議な再会をありがとう。もちろん会いたかったけれど。明日の朝、お墓であらためていろいろと話そう。はじまりを象徴する終わりをまざまざと感じながら、あなたの次の旅路での幸福を祈ることでしょう。めぐりめぐるこの宇宙の流れはつづくようなので、ぼくはぼくを生き切ろうと思う。
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