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apoandbangpo · 1 year
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RM EL PAÍS インタビュー翻訳
初のソロアルバムをスペインでプロモーションする韓国人ラッパーが、K-POPの成功の代償、自国の歴史、芸術品の収集について語る。
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PATRICIA GOSÁLVEZ バルセロナ 2023年3月12日
キム・ナムジュン(1994年ソウル)は、数日前にビルバオの街角でファンが彼に気づいたことに、本当に驚いているようだ。「地球の裏側の小さな街なら、気づかれずにすむかもしれないと思いたくなりますよね」とラッパーは言う。彼はRMとして知られているが、それ以上にBTSのリーダーとして知られている。この男性K-POPバンドは10年間、熱狂の中でビルバオを含む世界の音楽業界のあらゆる記録を塗り替えてきた。
昨年夏、7人のメンバーはソロ活動の展開と韓国での兵役のため、活動休止を発表した。インスタグラムだけで、7200万人にも上る彼らのファンARMYは、2025年に予定されている彼らの再結成を熱望している。RMは、彼自身も同じ気持ちだと断言する。
彼はアルバム、Indigo(12月発売)のプロモーションと、グッゲンハイム美術館、ティッセン美術館、プラド美術館、バルセロナのピカソ財団を訪れるためにスペインにやって来た。「数多くのゴヤを観ましたし、エル・グレコにも目を奪われましたが、やっぱりラス・メニーナスが好きです」と彼は言う。アマチュア・コレクターである彼のアルバムの1曲目は、抽象画家ユン・ヒョングンに因んで『Yun』と名付けられている。「アジアのロスコと称されています。でも、僕が関心を抱いているのは彼の人生です。彼は日本の侵略や戦争に苦しみ、政府から拷問を受けましたが、決して屈しませんでした。 彼の作品から、怒り、悲しみ、葛藤、美しさなどを感じます」
Q. この曲は、”Fuck the trendsetter / I’ma turn back the time Back the time, far to when I was nine / I think I was more of a human. “という歌詞から始まります。K- POPで劇的な成功を収めることは、アーティストを非人間的にしてしまうのでしょうか?
A. K-POPは、非常に若いうちからグループの一員としてキャリアをスタートさせます。個人としている時間はあまりありません。しかし、それがK-POPを輝かせるんです。とても若い人たちが、同時に必死で頑張る。20代の時にしかないエネルギーを発揮して。振り付け、映像、音楽を完璧にするために昼夜を問わず闘う、その結果ビッグバンのような爆発が起こるんです。20歳から30歳まで、BTSにすべてのエネルギーと時間を注ぎ込みました。成功、愛、影響力、権力を手に入れて、その先にあるのは何か?すべての根底にあるのは、未だに音楽です。質問は何でしたっけ?
Q. このシステムは非人間的なのでしょうか?
A. うちの会社はこの質問に対する僕の受け答えを好まないんです。なぜなら、僕はそれを一部認めていて、そうするとジャーナリストは口を揃えて「酷いシステムだ、若者を破壊している!」と言うからです。でも、それがこの特殊な業界を作り上げている一因でもあるんです。契約、賃金、教育の面で状況はずいぶん改善されました。今では、先生や心理学者もいます。
Q. 韓国のレコード会社はアーティストを何年もかけて育成します。あなたは2013年にBTSとしてデビューする前、16歳から19歳まで仲間と一緒に生活していましたね。ご両親は何とおっしゃっていましたか?
A. 母は「学校に戻って、せっかく優秀だったんだから大学に行って音楽は趣味にしなさい!」と2年間言い続けました。でも、後戻りできませんでした。
Q. 練習生時代の最大の学びは何ですか?
A. ダンスです。全くできませんでしたから。
Q. 練習生になって失ったものは何ですか?
A. 大学生活です。
Q. K-POPにおける���さへの、完璧さへの、過剰なトレーニングへの崇拝…。これらは韓国の文化的特徴なのでしょうか?
A. 西洋の人たちには理解できないんです。韓国は侵略され、破壊され、2つに引き裂かれた国です。ほんの70年前までは何もなかった。IMFや国連から援助を受けていたんです。ところが今、全世界が韓国に注目しています。どうしてそんなことが可能なのか、どうしてそんなことが起こったのか?なぜなら、人々が自分達を向上させるために、クソみたいに一生懸命働いているからです。フランスやイギリスといった、何世紀にもわたって他国を植民地にしてきた国にいて「ああ、まったく、自分たちにそんなにプレッシャーかけて、韓国の暮らしって本当にストレス溜まるね!」と僕に言う。いや、その通りです。そうやって物事を成し遂げるんですよ。そして、それがK-POPの魅力のひとつでもある。もちろん、影はあります。あまりに急速に、急激に起こることには、必ず副作用がありますから。
Q. K-POPに対する最大の偏見は何ですか?
A. 作り物だと思われてることです。
Q. もし、違うルートや他の国で育っていたら、あなたのキャリアはどうなっていたでしょうか?
A. マルチバースについてよく考えますが、ドクター・ストレンジの教訓はいつも同じです。自分のバージョンの宇宙がベストで他のことは考えるな、ということです。BTSのメンバーでいること以上に良いことなんてないんですから。
Q. このバージョンを想像していましたか?
A. 全くしてなかったです。僕の夢はK-POPアイドルになることではありませんでした。ラッパーになりたかったですし、その前は詩人になりたいと思っていました。
Q. あなたが影響を受けたアーティストには、NasやEminemなどのラッパー、RadioheadやPortisheadなどのグループがいますが、ボーイバンドには一切言及していませんね。
A. The Beatlesもボーイバンドと呼ばれていましたが…。僕らと比較しているわけではなく、彼らはあらゆるものの創造者ですから。でも、あなたがおっしゃっているのはNSYNCやNew Kids on the Blockのことですよね。大ファンというわけではなかったですけどポップミュージックは好きでしたよ。ただ、僕が夢中になったのはリズムと詩で構成されるラップでした。
Q. 憧れの人に嫉妬するそうですね。その例を教えてください。
A. ケンドリック・ラマーはずっとそうです。そしてファレル・ウィリアムス。彼は生きた歴史です。僕もいつかそうなりたいですね。だから絵は描かないんです。ピカソやモネに嫉妬するのは行き過ぎですから。
Q. コレクションをされていますが、どのように作品を選ばれているのですか?
A. コレクションし始めてまだ4年ですが、変化しています。フォーカスしているのは20世紀の韓国美術です。でも、僕はゲティでもロックフェラーでもないので。
Q. 投資するためにやっているわけではないのですね。
A. そうでないことは断言します。もし投資目的なら、黒人アーティストや女性、インドネシアの新進アーティストの作品を買います。目標は、10年位以内に小さな展示場を開くことです。ソウルには韓国の伝統を尊重しながらも若いテイストが感じられる場所が必要だと思うので、そこにロニ・ホーンやアントニー・ゴームリー、モランディといったアーティストの作品も展示したいですね。
Q. 以前からコレクターになりたいと思っていたのですか?
A. おもちゃや村上隆のフィギュアを集め、次に古着、そして家具。シャルロット・ペリアンやピエール・ジャンヌレ(ともにル・コルビュジエとコラボレーションした人物)も好きですが、一番好きなのはジョージ・ナカシマです。
Q. アルバムには全く異なるジャンルの曲が収録されていますね。一部の評論家は「一貫性がない」と言い、他の評論家は「多様性がある」と言いますが。
A. 数十年後には「ジャンル」という言葉がなくなると思うんです。R&B、ハイパーポップ、ジャージー・クラブ、UKドリル、シカゴ・ドリル、K-POP、それらに意味はないんです。音楽って人をある特定の気分にさせる周波数の集積なんです。
Q. 「K-」というレッテルにうんざりしていますか?
A. Spotifyが僕らを一緒くたにK-POPと呼ぶことにうんざりすることもあるでしょうが、それはそれで成立しています。プレミアムレーベルなんです。僕たちの祖父母が闘って手に入れた高品質の証です。
Q. アルバムにはアンダーソン・パークやYoujeen、そしてあのエリカ・バドゥが参加していますが、どのように彼女を説得したのですか?
A. 彼女の娘さんが僕らのファンなのでBTSをご存知でしたが、それだけでは不十分でした。説得する必要があったんです。Yunのストーリーをメールで送り、なぜ彼女の「聡明な女王の声」が必要なのかを説明しました。
Q. 文章の途中で英語と韓国語が交錯することがありますが、どう判断しているんですか?
A. 言葉は言語によって質感が異なります。同じメッセージでも筆のタッチが異なるんです。僕にとっては自然なことなんです。僕は楽器を演奏しません。楽器である自分の声で作曲してメロディーを作り、ほとんどの曲は言葉から始まります。
Q. あなたは、いくつかのアイデンティティを経てきていますね。10代のラッパーとしてはRunch Randa、BTSではRap Monster、そしてRM(Real Meの略) 本名にしようと思ったことはありますか?
A. (笑)人には必ず過去があり、韓国で言うところの黒歴史があります。Runch Randaはロールプレイングゲームでの僕のニックネームで、それから、そう「ラップモンスター」になりたいと思い、その後大人になり…。自分の名前がなるべく人に知られないようにしたいです。僕はジョン・レノンでもポール・マッカートニーでもない、静か���ホテルにチェックインできるし、それがいいんです。
Q. 服装もずいぶん変わりましたね。
A. XXLのTシャツやベースボールキャップの時代もありました。その後、高級ブランドに手を出して…。Rap Monsterと同じように、黒と白しか着なくなりました(呆れた表情で肩をすくめながら)今は時代を感じさせないものが好きです。トレンドには興味がなくて、ヴィンテージのジーンズやコットンのTシャツ、ナチュラルなもので「Hey, 僕はここにいるよ!」と主張し��いようなものを求めています。
Q. ボッテガ・ヴェネタとのコラボレーションが噂されていますが、ミラノでのファッションショーに招待されたばかりですね。
A. ぜひそうしたいですね。ブランドやファッション・ウィーク、PANTONEの絶え間ない変化には興味がなくなってしまいましたが、ボッテガは違います。ロゴを使わず、生地やレザーの歴史があり、インスタグラムもやっていない、流行を超越した存在なんです。
Q. 大勢のファンを引き連れるのはどのくらい大変ですか?
A. 誰にも気づかれずに歩くことはできないし、自分に課される規範は重たいものです。でも、「ああ、ただ普通になりたいだけなのに!」みたいな情けないことを言わずに、大人になって対処しなければならない。名声を石ころだと思いたいのなら、それはただの石ころ。でも、僕が求めていたものをもたらしてくれたんです。影響力と経済的自由をできるだけ早く手に入れ、チャートを気にすることなく、自分の好きな音楽を作ることができる。100%その領域に到達しているわけではありませんが、外側のノイズではなく、内側のノイズに集中するようにしています。
Q. 30代にどう立ち向かっていきますか?
A. これほど混乱した時期は経験したことがありません。10年間、BTSのリーダーを務めてきましたが、とても安定していて楽しく、常に上へ上へと向かっていました。2023年は仕事上でも個人的にも、お話しできませんが、いろいろなことが変わりました。30歳を目前にして、20歳のときよりも自分のことが好きになりました。これから1年半、韓国人男性の人生において非常に重要な兵役生活を送ることになります。その後、僕はきっと違う人間になっているはずです。願わくば、より良い、より賢い人間に。
*原文のスペイン語から英語にBTS Charts Spainさんが翻訳されたものを日本語に訳しました。
【追記】 以下、インタビューをされた記者のPatricia Gosálvezさんのツイート。
非常に礼儀正しく興味深くプロフェッショナルなインタビューでした。RMは明晰で率直でリラックスした "Bring it on(かかってこい)" という態度でスマートな答えをしてくれたため、楽しめました。大人の質問は敬意の表れであり、彼はそれに見事に応えてくれました。
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インタビューの経緯 以前にK-POP関連の記事の取材をソウルで行った際に、Hybeに連絡したが取材には至らなかった。数カ月後、スペインに来たときにHybeから連絡があった。
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また、別のツイートで、インタビューは英語で行われたと言及されていました。
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lyrasky · 5 years
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和訳【Eminem /Love The Way You Lie ft. Rihanna】
和訳【Eminem /Love The Way You Lie ft. Rihanna】MV付き LyraのBlogへ #eminem #lovethewayyoulie #rihanna #recovery #slimshady #mm #bonnyandclyde #lovethewayyoulie2 #chrisbrown #エミネム #リアーナ #myfavorite #vocalist #lovers #relationship #loveandhate #dv #kindness #loud
「好きなヴォーカリストを10人あげよ」と言うのがあるが、この質問が1番困るかも。
好きなギタリストや、ベーシスト、ドラマーなら直ぐにあげられる。
ただヴォーカリストとなると滅茶苦茶、迷い倒す。
自分がヴォーカルをやっていたからと言うのもあるが、声ってPrimitiveでしょ?
野生なんだよ。
生に��着しているからその時の気分で変わる。
性にも密着してるしね。
声低いと惚れる体質なんだわ。
(more…)
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2015/07/03 キング・ギドラ ”空からの力”  20th ANNIVERSARY SPECIAL Interview
文:伊藤雄介(Amebreak)
今こそ振り返るべき「空からの力」の“HIP HOPリリシズム”    「日本語ラップ冬の時代」と呼ばれた90年代初頭の厳しい時代を経て、小沢健二とスチャダラパーによる“今夜はブギーバック”やEAST END x YURI“DA・YO・NE”などがリリースされたのは1994年のことだが、それら大ヒット曲が支えたメインストリームでのラップ・ブームのカウンターを為すかのように、アンダーグラウンドの日本語ラップ・シーン���、作品として数多くの成果を残した年として記憶されるべきなのが1995年だ。アルバムというフォーマットで振り返ると、RHYMESTER「EGOTOPIA」、スチャダラパー「5th WHEEL 2 THE COACH」、MICROPHONE PAGER「DON'T TURN OFF YOUR LIGHT」、ECD「HOME SICK」などなど……「冬の時代」を乗り越えた男たちの鬱憤とルサンチマンを解消せんとするかの如く、凄まじい熱量とクリエイティヴィティに満ちた傑作が、この年には数多く産み落とされた。    そんな大きなうねりを、1995年当時にシーンをフォローしていたリスナー/関係者は誰もが感じていた筈だが、その95年も終わろうとしていた年末の12月10日に、ダメ押しの如くリリースされたのが、キング・ギドラの記念すべきデビュー・アルバム「空からの力」だ。    「日本語ラップ史上“最重要のアルバム”は何か?」と問われたら、今だとどんなアルバムが最も票を集めるのか分からないが、筆者はこのアルバムに迷わず一票を投じるだろうし、その思いは20年前のリリース時から変わることがない。だが、果たしてこのアルバムが、その後20年に渡って日本語ラップ・シーンを牽引してきたキング・ギドラのメンバーにとってキャリア最高の成果なのか?と問われると、そこには疑問が残る。Zeebraのヴァーサタイルなラップ巧者振りを堪能するには「THE RHYME ANIMAL」(98年)以降の作品を聴く方が適していると思うし、Kダブシャインの“ライム・サイエンス”が本当の意味で開花するのは「現在時刻」(97年)リリース以降だ。また、DJ OASISがプロデューサーとしてのオリジナリティを確立していくためには、90年代末以降のソロ活動がプロセスとして必要だった筈だ。同時期のUSラップで言うと、NAS「ILLMATIC」やTHE NOTORIOUS B.I.G.「READY TO DIE」のようなアルバムがクラシックとして挙がることが多いが、USシーンのルネッサンス期に当たる時期に産み落とされたこれらの作品と、日本語ラップ・シーンの黎明期から発展期に差し掛かろうとしていた時期に発表された「空からの力」とでは、“クラシック”の意味合いが異なる。    では、2015年に「空からの力」を再評価するとしたら、どんな部分に注目するべきなのだろうか?     「「俺も、『別に韻踏んでないラップだって全然いいと思うし、英語使いまくったっていいし、ラップなんて何でもいいじゃん!』って一回思ったんだけど、バトルで韻踏んでない子が多かったから、っていうのもあるかもしれないけど、『踏んでねぇラップはラップじゃない』と改めて思ったんだよね。今は『踏んでなくてもOK』みたいな風潮が作品でもあるけど、それは絶対違うと思うんだ。海外のラッパーで踏んでねぇヤツなんて、絶対いないし、『ラップする』じゃなくて『ライムする』って言うじゃん?」      上記は昨年末に掲載した、ギドラの“一番弟子”であるUZIのインタビュー内での発言だ。「ラップする」ではなく、「ライムする」。この概念を、日本語ラップにおけるアイデンティティのひとつとして成立させる上で、決定的な影響を与えたのは間違いなく「空からの力」だ。いや、誤解なきように付け加えておくが、もちろん「空からの力」と同時期に発表された日本語ラップ作品でも、当時のラッパーたちは「日本語で如何にUSラップと同様のスムーズさで韻を踏むか」という試行錯誤を繰り返していたし、そのレヴェルは80年代後半〜90年代初頭の日本語ラップのライミング・スキルとは比べ物にならない程進化を遂げていた。    そんな中、何故キング・ギドラは当時の他のラッパーとは更に別次元の“踏韻”を提示できたのか。それは、彼らが持つ“HIP HOPリリシズム”と、“HIP HOPリリシズム”に対するリテラシーの高さが深く影響していると思うし、この点こそが本稿で最も強調しておきたい部分だ。    英語が分からないリスナーがUSラップのリリックを理解しようとする場合、まずすることは“対訳”をチェックすることだと思う。もちろん、それは曲の内容を理解するためには極めて重要な行為だが、ラップを深く理解する上で「その曲で“何を”ラップしているのか」を理解するのと同じぐらい重要なのが、「(何を)“どう”ラップしているのか」ということだ。あるテーマについて、如何にライミング/比喩表現/単語やスラングのセレクト、フロウ/デリヴァリーなどのラップの載せ方といった“テクニック”を駆使して語っているのか --それこそがHIP HOPにおける“リリシズム”の醍醐味であり、その点が秀でているからこそ、RAKIM/NAS/EMINEM/KENDRICK LAMARといったラッパーたちは“リリシスト”と評価されているのだ。エモーショナルな言葉や普遍性のある表現のチョイスで幅広い共感を得るというのは、“詩人”として考えるなら優れているのかもしれないが、“HIP HOPリリシスト”としては物足りない。“HIP HOPリリシスト”は、例えば2小節で韻を踏む際のフリとオチの付け方や、一聴しただけでは意味が掴めない(が、噛みしめるとニヤリとする)ような比喩表現、ワン・フレーズで書けば済むような説明を、時には数行を費やしたりするといったテクニックを駆使することで、そのラッパーが伝えたいメッセージや感情を“増幅”させる技に秀でている。「破壊力のあるライム/リリック」は、そういった“増幅機能”が優れているものを指すのだと思う。    キング・ギドラの2MC -- KダブシャインとZeebraは、USラップを“聴こえ”や“内容”だけでなく、“構造”にまで深く踏み込んで理解していたために(彼らがキャリア初期にまず英語でラップを試みていたという経験も大きいだろう)、当時のシーンにおいて��違いの“HIP HOPリリシズム”を提示できたのだと筆者は考える。USラップを如何に日本語に“翻訳”するかを試みていたラッパーは数多いが、当時の彼らほどUSラップを技巧/思想の両面で“直訳”することに成功したラッパーはいない。その“直訳”しようとする姿勢からは生真面目ささえも感じさせるし、彼らが自分たちの作品をもって当時の日本語ラップ・シーンにどうコミットしようとしていたかという“志”の確かさが、今聴き返しても伝わってくる。      では、本作でギドラが表現した“HIP HOPリリシズム”は、どのような過程を経て煮詰められ、作品として昇華されていったのだろうか?それは、本特集用に敢行された、計3パート(インタビュー前後編+全曲解説)からなるロング・インタビューでの本人たちの発言を読んで頂く方が早いだろう。マニアックなエピソードも少なくないし、冗長に感じる人もいるかもしれないが、貴重な証言の記録として出来る限り掲載しようと思った結果であることを、予めご了承頂ければと思う。
「「俺とコッタ君で話していたHIP HOP観とか、『HIP HOP/ラップとはこうあるべきだ』みたいな考えを、日本語のラップで形にしている人なんて多分いないんだろうな、って思ってて、そう思えば思う程、『俺たちはグループとしてやるべきだ』って考えるようになったんだ」-- Zeebra
     CHAPTER 1:THE GENESIS   ■三人が初めて同じ場に集結した日のことを話して頂けますか? Kダブシャイン「それぞれのメンバーと会ったときと、三人が同時に揃ったときは別だよね。俺がオアに初めて会ったのは結構後なんだよね」 DJ OASIS「キハ(T.A.K. THE RHHHYME)とヒデ(Zeebra)とコッタ君(Kダブシャイン)が作業してるスタジオに俺が行ったんだよな」 Kダブシャイン「自由が丘の外れの。確かそのときは、キハのデモを録ってたんだっけ?」 Zeebra「あー、違うよ。俺とキハでMIX JUICEっていうユニットをやってて、それのレコーディングをしてたんだよ……クソダセェ名前だな……(笑)当時、怪しい事務所と仮契約みたいのをしてて」 Kダブシャイン「すごい一時的な感じだったんじゃん」 Zeebra「事務所の社長が、スゲェ口八丁手八丁みたいな感じでマジ調子良いヤツだったんだけど、俺らは『こういうのやりたい』って言ってもあっちが提案してきたのがKLFとかで。『もー、マジ分かってくんねぇよ』って、死にそうだった(笑)。で、一回デモを録るって話になって、スタジオに行ったんだよね」 Kダブシャイン「その時点では、俺とヒデの中ではもうギドラをやるのは決まってて、このときがオアと初めて会う日だったんだ。��れが93年の頭ぐらいだね」 Zeebra「それぞれと俺とはもっと古いけどね。コッタ君は中2ぐらいから知ってるし、オアとは小学校からの付き合い。最初は、グループを組もうっていう話じゃなく、コッタ君が当時オークランドに住んでたから遊びに行って」 Kダブシャイン「向こうのラッパーのトラック作ったりとか、俺のトラックも作ってよ、みたいな話をしてた」 Zeebra「そんなような話をしてて、向こうに行って色々話してたら、『コレはもう、グループを組んだ方がいいね』って話になった」 Kダブシャイン「2MCでやりたくなって」 Zeebra「『RUN DMCみたいな感じで……』みたいな話をして。で、RUN DMCにとってのJAM MASTER JAY(ライヴDJ)が俺らにも必要だよね、って話にもなってたんだけど、グループ名として“キング・ギドラ”が挙がったときに、『じゃあ、コレでDJがいてキング・ギドラ=三つ首の龍ってことで完璧じゃね?』ってなって、『それだったら紹介したいヤツがいる』って、オアを紹介したんだ」 Kダブシャイン「『スクラッチが上手いんだよー』って紹介されたんだよ(笑)」   ■ジブさんは80年代後半からラッパーとして動いていたと思いますが、コッタさんはこの時点ではまだ歌詞は書いてても、本格的には活動していなかった時期ですよね? Kダブシャイン「ラッパーとしてのヴィジョンみたいのは出来始めてて、ソロMCとして出ていくつもりだったんだけど、なんとなくヒデと一緒にやった方が相乗効果も高まると思ったんだ」 Zeebra「俺とコッタ君で話していたHIP HOP観とか、『HIP HOP/ラップとはこうあるべきだ』みたいな考えを、日本語のラップで形にしている人なんて多分いないんだろうな、って思ってて、そう思えば思う程、『俺たちはグループとしてやるべきだ』って考えるようになったんだ。当時(90年代初頭)だったからさ、俺らもまだアップリフティングなラップで、マルコム・Xの自伝読みながらリリック書いたりしてたし」 Kダブシャイン「自分たちのことを5パーセンターズだと思ってたからね。てか、その頃はみんなそうだったし」 Zeebra「『ヒップホッパーは皆リーダーであり、世の中にとって良いインフルエンサーとして生きていかないといけない』っていう意識だった」 Kダブシャイン「ICE CUBEだって『AMERIKKKA'S MOST WANTED』(90年)やったすぐ後ぐらいでしょ?CUBEだってネイション・オブ・イスラムになっちゃってたんだから(笑)」 Zeebra「俺らはそういうモンだと思ってたし、日本にそういうメッセージ=ボムをドロップしたい欲がひたすらあった。多分だけど、俺もオアもその時点で学校を辞めてたし、既存の社会の枠から既に外れた存在だったんだよ。コッタ君も、ギリギリ首の皮一枚繋がってるぐらいの状態でオークランドにいたような人だったし(笑)。だから、『俺たちは既存のシステムに対するカウンターだ』という意識が物凄く強かったんだ。そうなると、否が応でもPUBLIC ENEMYみたいなスタンスになっていく」   ■当時、皆さんの周りでは、そういった思想レヴェルにまで踏み込んでHIP HOPの話題を共有できた友達はあまりいなかった? Zeebra「もちろん、キハとかともずっと話はしてきたけど、物事の考え方とか突き詰め方みたいなところに関しては、コッタ君はちょっと違ったのかもね」 Kダブシャイン「ヒデもちょうどNATIVE TONGUEが盛り上がってきたタイミングでNYにいたし、オレもアメリカに行って黒人の置かれている状況を見て、USのHIP HOPも歌詞の内容や背景まで理解できるように聴いてた。そういった意味での造詣の深さは、ヒデも同じぐらいのレヴェルだったけど、その時点までに知り合ってた他のラップ好きの日本人は、そこまでではなかったね」   ■それぐらい、思想面��で語り合っていたということは、一緒にやるという話になった段階では、もう機が熟しまくっていたわけですね。 Kダブシャイン「そうそう。俺がオークランドに行ってたときは何年もヒデに会ってなかったんだけど、冬休みで久し振りに日本に帰って来たときに会って、当然のように『お前も(HIP HOP)聴いてるんだろ?俺もアッチでやってるぜ』みたいな話をして」 Zeebra「面白かったのが、ちょうどその頃はWU-TANG CLANとかが流行り始めた時期で、いきなりコッタ君とかもM-65ジャケットとか着てて超ハードコアな感じになってた(笑)。俺もバンダナとか巻いてたし」   ■あ、そうか。その前に会ったときはまだ80年代だったから、ファッションが全然違ったんですね。 Kダブシャイン「80年代後半のヒデとか、ERIC B.みたいな格好してたから(笑)」   ■すごい不思議なのが、ジブさんとコッタさんは80年代からかなりリンクしていたのに、コッタさんがオアさんと出会うのは93年と、かなり後なんですね。 Kダブシャイン「ヒデの友達はいっぱい知ってたけど、オアは存在も知らなかったぐらいだった」 DJ OASIS「もしかしたら、どこかでニアミスとかはしてたかもしれないけどね。俺は、海外暮らしっていうのを一回もしたことがなかったから、日本に住みながらひたすらHIP HOPの情報をゲトろうとしてたヤツだった。だから、追ってた音楽は確実に同じだったし、俺もヒデと話したら『やっぱ俺と思ってること似てるな』って思ったね」 Kダブシャイン「で、ヒデがオアを紹介してくれたのが93年。そのときに初めて話したら、育った場所がメチャクチャ近かったんだよね。ヒデから紹介されたのに、家はこっちの方が近いんだ、って(笑)。話してみたら、商店街の話とかガキの頃に食べてた店が一緒だったりとかして、親近感を一気に感じた」 DJ OASIS「仲良くなったキッカケとして、それはデカかったよね」 Zeebra「あと、やっぱその頃はひたすら何処かしらで毎日“合宿”みたいな感じだった。オークランドに行ったときもそうだったし」 Kダブシャイン「ヒデの家でもそうだったね」   ■“合宿”というのは具体的に言うと? Zeebra「一緒に住んでたし、制作もちょっとずつでも毎日のようにしてた。あとは誰かのとこに行ってみたり、誰かのライヴに乱入してラップしてみたりとか、とにかくいろんなことをやってた」   ■その時期は、常にみんな一緒にいたんですね。 Zeebra「そうそう。ギュッと濃い時期だったと思うよ」   ■オアさんが最初にコッタさんに会ったときの印象は? DJ OASIS「俺は最初、ヒデから『コッタ君っていう人がいて、日本語でライムを書いてて、俺も日本語で書いてみたんだけど』っていう連絡があったんだ。で、『どう?ちょっと(一緒に)やってみねぇか?』って言われて。俺は、その時点では日本語のラップでマトモなのなんて聴いてことがなかったから、逆に興味があったんだよね。……で、最初にコッタ君と会ったときの話なんだけど、コッタ君は俺の目の前にあった階段の下で突然『グルリと周るは首都高速』っていきなりカマしてきたのを覚えてる(笑)」 Zeebra「俺ら、本当そんな感じだったよね(笑)。すぐ何かしらカマしてた」   ■でも、その「カマしてくる」感じというのは、94年に『YO! MTV RAPS』の東京特集でギドラがインタビューされたときの感じを見ると、すごくよく分かります(笑)。あの映像観ると、みんなめっちゃイキってますからね(笑)。 Kダブシャイン「ハハハハハ」 Zeebra「(当時Kダブシャインが通っていた)テンプル大学で(同じく同大学に通っていた)GAKU MC(EAST END)を紹介されたときも、一言挨拶したらもういきなりラップしてたからね(笑)」 Kダブシャイン「で、その横ですかさずサイドMCみたいのも入れて(笑)」   ■最初は英語でラップしていたジブさんが、日本語ラップを自分でやってみようと思ったきっかけが、電話越しでコッタさんに日本語のライムをキックされたときだというのは有名な話ですが、そのときのことを詳しく話して頂けますか? Zeebra「厳密に言うと、日本語ラップは既にキハがやっていた。キハは英語も日本語もやるスタイルだったんだけど、キハの当時の日本語ラップは俺に言わせれば“韻”としてはまだ甘いという印象があったんだ。最後の一文字が一緒、ぐらいのレヴェルだったから」 Kダブシャイン「“機械”、“社会”、“都会”ぐらいな感じかな」 Zeebra「いや、“い”だけで踏むぐらいの感じだったね。だけどコッタ君は、例えば3文字の単語だとちゃんと3文字分踏んでた。俺も、英語でラップするときは単語で韻を踏んでたから、『あ、コレだと“韻”になるな』って思ったんだ」 Kダブシャイン「語尾だけで韻を踏むのも、日本語古来からの定義で言うなら“韻”ってことになるのかもしれないけど、USのラップも80年代と90年代では韻の踏み方がどんどん複雑になって進化していったから、日本語のライミングでも92〜3年風に適応させるという試みをやってたんだ。ライムする部分のアクセントを強調して、文末の音節を合わせるようなパターンをね」   ■コッタさんのそのライミングを聴いたとき、ジブさんのリアクションはどんな感じだったんですか? Zeebra「『あぁ、ちゃんと出来てんじゃん。面白そう』って思った。『コレだったら日本語でも“ライム”になるんだな』って感じだった」   ■「衝撃!」というより「発見!」という感じ? Zeebra「うん、『コレだったら出来るじゃん。やってみたい』って」 Kダブシャイン「一気に可能性が広がったって思ったんだろうね」   ■ギドラ前から、それぞれがラップについて試行錯誤していたわけですが、ラッパーとしてのスタンスが確立していったのは、ギドラを結成して以降だと思いますか? Kダブシャイン「“キング・ギドラ”っていうコンセプトが出来たからね。“宇宙怪獣”だったり“空からの力”だったり。オアのサウンドに因るところも実はデカイ。オアの音を聴いたときに、そこで“宇宙感”みたいのはあった」   ■またベーシックな質問になってしまいますけど、キング・ギドラというグループ名を思いついたのは誰だったんでしたっけ? Kダブシャイン「本屋でいろいろ雑誌を見ながらヒデと決めたんだよね」 Zeebra「ゴジラ関連の本とか見なかったっけ?」 Kダブシャイン「アメリカで活動するっていう展開も考えてたから、アメリカ人も認識しやすいように、『日本のモノと言えば』ってところで『ゴジラ』に出て来るキャラクターの名前を見てたんだ。で、キング・ギドラは“ゴールド”だったり“ドラゴン”ってところがHIP HOP的だと思ってさ」 Zeebra「当時はそれこそWU-TANG CLANが流行ってたし、オリエンタルな感じがアリだったんだよね」 Kダブシャイン「いろんな意味で、日本を“レップ”してるような感じにしたかった」   ■じゃあ、“SF感”を重視したというより、“日本感”を重視した結果のグループ名だったんですね。 Kダブシャイン「そうだね。だけど、“宇宙怪獣”=“敵”とされているモノが外から来たけど、実際はその“敵”が正しいことを言ってるんじゃないか?っていう、PUBLIC ENEMY的なコンセプトも込めていた」 Zeebra「PUBLIC ENEMYって名前自体がそういうことじゃん?『公共の敵』だけど正しいことしか言ってない、そんな感じ」 Kダブシャイン「でも、悪者扱いされる、みたいな」 Zeebra「当時話してたのは、ゴジラが固定観念/既成概念の象徴で、日本的な“システム”の象徴のゴジラを潰すために、キング・ギドラが金星からやって来たってことで」 Kダブシャイン「カウンター・カルチャーっていう意識がメチャクチャ強かった。俺たちは社会からドロップ・アウトしていたけど、ドロップ・アウトしていたからこそ見れた真理みたいのがあって、それを表現したかったんだ」   ■仮に、グループを組むという話にならないで、それぞれがソロ・ラッパーとしての道を歩んでいたとしたら、全然違うタイプのラッパーになっていたと思いますか? Kダブシャイン「あの時点で枝分かれしていたら違ったかもしれないね。でも、ギドラをやる際に、WU-TANG CLAN(のソロ展開)も見てたし、それぞれ才能ある三人が集まってると思ってたから、『ソロでも出来るヤツが三人集まったから無敵』って思ってたんだ。だから、グループだけじゃなくてそれぞれのソロ・キャリアについても考えよう、って話した上でギドラの話を進めていた。『空からの力』にふたりのソロ曲が入ってるのはそういうことで。俺たちが、他のグループと比べて“解散”とか“活動休止”がユルい感じなのは、それが影響しているんだと思うな」 DJ OASIS「『空からの力』が出来る前 --オークランドで合宿していたときに、コッタ君は既に『ギドラでアルバム出して、ソロ・アルバムも出して……』って話をしていたからね」   ■まだ「日本語ラップ冬の時代」と呼ばれていて、ラッパーがアルバムを出すこと自体が敷居の高かった時期に、そこまでのヴィジョンがあったというのは驚きです。その時点で、自分たちのヴィジョンはリアリスティックなモノとして捉えていたんでしょうか?それとも、もっと“夢”的な話だった? Kダブシャイン「アメリカに住んでいたから、すごくリアリスティックに感じてたし、日本に帰ったらすぐBEASTIE BOYSみたいになると思ってた、っていうのが正直な話(笑)。何百万枚も売れて、コレで一気に変わっちゃうんだろうなー、ぐらいな」   ■それは、コッタさんはその時点で日本のシーンの状況について詳しくなかったから? Kダブシャイン「知っていたけど、良い部分しか見ていなかった。逆に、俺たちみたいのが出て来たら、みんな一気にコッチを向くだ���うな、って淡い期待をしてたね」   ■ギドラとしての日本語ラップを確立していく上で、乗り越えないといけなかった壁/ハードルはありましたか? Zeebra「まずは、当時存在していた日本のシーンじゃない?日本語のラップでやるんだから、既に日本語ラップでやってた主流/トップを獲らないといけない、っていうのは普通に思ってた」 Kダブシャイン「スチャダラパーやEAST END辺りがターゲットだったのかもね」 Zeebra「でも、まだ“今夜はブギーバック”も“DA・YO・NE”もヒットしてなかった時期だったと思う。当時、『SLAM DUNK DISCO』(下北沢で開催されていたECD/YOU THE ROCK主催イヴェント)に“偵察”に行ったんだよな。当時『Fine』誌に出ていたラッパーたちはどんなモンだ、ってことで観に行ったんだ。そういうとこに敵情視察しに行って、看板頂いて全てぶっ潰すみたいな、ギャング的な感覚だった(笑)」 DJ OASIS「他の日本人ラッパーが出て来たら、コッチは首振らねぇ、ぐらいの感じじゃなかった?」 Kダブシャイン「斜に構えてた感じはあったね」   ■そういう態度だったぐらい、94年頃のギドラはシーンの主流から外れていたし、だからこそ『YO! MTV RAPS』で“日本代表”としてレップしたことが、当時のシーンで波紋を呼んだんですよね。完全に“ヨソ者”だった。 Kダブシャイン「それまでの“HIP HOP村”においてはね。でも、俺は当時、まだそんなにみんな繋がっていない感じがしたんだよね。“シーン”は存在してたけど、“HIP HOPコミュニティ”みたいなモノにはなっていないと感じていた」   ■そんな感じで殴り込みをかけて、煙たがられたりとかはしなかったんですか? Zeebra「もちろん、そう思ってたヤツもいただろうね。でも、デモ・テープを配った段階で、それなりのモノは証明できてた。当時の『Fine』で、(高木)完ちゃんと宇多丸がそれぞれ同じ号のコラムでギドラについて書いてて、『おー、やっぱ俺ら認めさせちゃった?』みたいに思ったから、誰が何を言ってようとまったく気にならなかった……んだけど、『ペイジャー・ディス事件』ってのがあったじゃん(笑)?」 Kダブシャイン「……あー!」 Zeebra「UZIとHILL THE IQが大学の同級生で、ある日HILL THE IQがUZIに『MUROさんにデモ聴いてもらえることになったんだ』って話したワケ。そうしたらUZIが『何言ってるんだよ、ペイジャーなんかよりキング・ギドラの方がカッケェよ!』みたいなことを言ったんだよね(笑)。UZIは当時、ギドラのセキュリティとして一緒にステージに立ってたから、UZIもギドラの一員だと思われちゃって、『ギドラがペイジャーをディスってる』って噂がペイジャー側に伝わっちゃったんだ。そんな話が広まってるとは俺たちも知らない中、たまたま六本木R?HALLに行ったらMASAO(MICROPHONE PAGER)が来て、その場にいたKEN-BOに紹介されたんだけど」 DJ OASIS「スゲェ感じ悪くて(笑)」 Zeebra「愛想悪かったから『何なんだろう?』ってなったんだけど、KEN-BOが『取り敢えずラッパー同士だし、クルマの中でフリースタイルとかしちゃう?』って言い出して(笑)。そうしたら、MASAOが挑発的なラップをしてきたんだ。ちなみに、そのとき二日連続でMASAOにR?HALLで会ってたから、俺はそれを連チャンでやったんだよね(笑)。結局、そこで話をして誤解は解けたんだけど」  
「アルバムに入っているヴァージョンとの違いに気づいたりもしたし、デモの段階でしっかり作り込んでたなー、って。当時の年齢(25歳頃)を考えると、すごい本気だったな、っていうのが感じられるね(笑)。キャリアを進めるという意味ではスゲェ真剣だったんだろうし、その当時の真剣さがあったからこそ、今も続けられてるのかな、って」-- Kダブシャイン
『YO! MTV RAPS』出演時のキング・ギドラ(94年)
  CHAPTER 2:DUNGEONS OF RAP
■面白すぎます(笑)。それぐらい、“黒船”状態だったギドラが一気にシーン内で認められるようになったきっかけが、今回のデラックス盤に収録されるデモ・テープ音源なワケですよね。そのクオリティの高さに、当時聴いた人たちが衝撃を受けたという。 Kダブシャイン「黒船というよりは咸臨丸だね。福沢諭吉みたいにアメリカ行って戻ってきたワケだから」   ■そうだけど、いいじゃん別に……(笑)。 Zeebra「今のはマジでこっちゃんテイスト炸裂だわ(笑)」 Kダブシャイン「ふたりをレップしたんだよ、慶応(出身)だからね。」   ■……そのデモ・テープは、今で言うと“ミックステープ”ですよね。アルバム前にデモでバズらせて、っていう。 Kダブシャイン「オークランドで仲良かったラッパーやバンドが、本気でミュージック・ビジネスをやろうとしてたから、デモを作ってからディールを掴むまでの様子を見てた。それを見てたからこそ『デモがないとプロにはなれないんだな』って思ってた」 Zeebra「A TRIBE CALLED QUESTが『LOW END THEORY』(91年)で“SHOW BUSINESS”っていう音楽業界の裏側を突くような曲をやってたから、俺は慎重だったし、ヘンなとことも仮契約しかしてなかったワケ」   ■なるほど!変なディールを掴まされたりする前の段階で、防御策として自分たちの音楽性/クオリティを確立しておく必要があったということですね。そうしないと、自分たちにとって不本意な音楽性でやらされる可能性があった。 Kダブシャイン「そうそう。あと、やっぱり同業者に聴かせたいって思いもあったし。まあ、とにかくハングリーだったんだよ」   ■デモ・テープはいつぐらいに作ったんですか? Zeebra「俺が覚えてるのは、『YO! MTV RAPS』の撮影があった前の晩。朝まで録ってて、昼頃に寝て夜になってみんな結構眠い中集合したんだよ��だから、あの撮影のときにデモを配るつもりもあったんじゃない?FAB 5 FREDDY(『YO! MTV RAPS』MC)にも渡したと思うよ。当時、方南町にUZIの兄ちゃんがやってた、レコーディングも出来るリハスタがあって、そこで録ったんだよね」 Kダブシャイン「二日ぐらいかけて6曲録ったんだと思う」 DJ OASIS「その前から作り溜めてた曲だね」 Zeebra「INOVADERの家とか俺の家とかでプリプロして」   ■有りモノのインストは使わず、全部オリジナル・トラックだったんですよね? Kダブシャイン「当時のグループって、みんなグループ独自のサウンドがあったじゃん?MAIN SOURCEもDE LA SOULもATCQも。だから、有りモノのトラックを使うより、サウンド面でも自分たちの名刺代わりとなるモノを作りたかった」 DJ OASIS「トラックは、デモを録るだいぶ前から作っていたからね。先にトラック作り始めたのはヒデからじゃない?」 Zeebra「同じぐらいじゃない?オアがCASIO FZ-1っていう、当時一番長い秒数サンプリングできたサンプラー/シンセを買ったんだよね。で、俺はMTRとROLAND R-8ってリズム・マシンを持ってて、FZ-1を動かすにはどうやらシーケンサーって機材が必要らしい、って話になってYAMAHAのQXをゲトって、俺の家でオケを作り始めたんだよ」   ■それぞれの機材をシェアしてたんですね。当時、まだ情報も少なかった時代だったと思いますけど、機材の選び方やトラックの作り方はどうやって覚えていったんですか?トラックを作ってた人なんて、まだそんなにいなかった時代ですよね? Zeebra「俺らの周りにはいなかったね。俺は、普通に説明書読みながら作ったよ。R-8しか持ってなかった段階で、俺は相当トラックを作り込んでたね」   ■ジブさんの、今に通じる機械/テクノロジー・オタク振りが窺えますね。 Zeebra「それは超デカかったと思う」 DJ OASIS「俺もヒデも“マイコン”とかいじってたからね(笑)」 Zeebra「あと、俺とオアはDJだったしね。俺の家にはタンテが3台あったから、レコード3枚の音を重ねるとかは(トラックを作る前に)やってたし。MTRはミックステープを作るためにいじってた」   ■“未確認飛行物体接近中”でジブさんは「変幻自在 俺の機材はAKAI」とラップしてますが。 Zeebra「あの曲を作ったときにはAKAI S-1100(サンプラー)を持ってて」 DJ OASIS「俺はS-950を持ってた」 Zeebra「まだ持ってるよ。データも残ってるから全部音鳴らせる」   ■今回のリリースのタイミングで久し振りにデモを聴いたと思うのですが、どんな感想を持ちましたか? Kダブシャイン「もちろん、アルバムに入っているヴァージョンとの違いに気づいたりもしたし、デモの段階でしっかり作り込んでたなー、って。当時の年齢(25歳頃)を考えると、すごい本気だったな、っていうのが感じられるね(笑)。キャリアを進めるという意味ではスゲェ真剣だったんだろうし、その当時の真剣さがあったからこそ、今も続けられてるのかな、って」   ■今回、僕も初めて聴かせてもらって悶絶しました。特にジブさんのフロウが時代を感じさせる(笑)。 Zeebra「もちろん、当時どういう感じだったかはなんとなく覚えていたけど、俺も実際聴き返したら今との違いがかなり想像の斜め上行ってて驚愕した(笑)」   ■当時、参照していたアーティスト/作品はありましたか? Zeebra「いくら日本で悪ぶってもたかが知れてるな、って思ってたから、ギャングスタ・ラップ的なスタイルというよりはもうちょっと柔らかい --NATIVE TONGUEほど柔らかくはないけどもうちょっとストリート寄りぐらいがいいな、って思ってやってたのがPOSITIVE VIBE(キング・ギドラ前にZeebraとDJ OASISが組んでいたユニット)だったりした。THE PHARCYDEとかは、そういう意味では92〜93年頃に『ちょうどいいな』って思ったし、その��長線上で出来たのがこのデモだったりする。でも、『悪ぶってもたかが知れてる』と思っていたとは言え、いざ日本のシーンに入ってきてみたら、俺らは自分たちが思っていたより“悪い子ちゃん”な立ち位置だったから、デモのラップの感じだとちょっと明るすぎると思ったんだよね。『日本のシーンを意識するならもう少しハードでいい』って」 Kダブシャイン「歌詞も、だんだん地に足着いた感じになっていくんだよね」 Zeebra「デモの頃に作った曲は、『殴り込み』な感じのリリックばっかだけど、“行方不明”を作ったときはある程度上手くいき始めてた時期だったから、『シーン(内)の人』の視点で書いてる」 Kダブシャイン「俺の場合は、93〜95年って時期を考えると、一番シンボリックだったのはNAS『ILLMATIC』(94年)だよね。その前まではTREACH(NAUGHTY BY NATURE)とかULTRAMAGNETIC MC'Sが好きだったと思うんだけど、NASやビギーが出て来て『よりリアリティに近づいていかなきゃいけないな』って思った。だから、デモの頃は抑揚の付いたフロウだけど、アルバムではもっとモノトーンなスタイルになっていく」 Zeebra「あと、グループ内でのキャラ分けとして、RUNとDMCとか、KOOL KEITHとCED GEEとか、CHUCK DとFLAVOR FLAVとか、SNOOPとDR. DREとか……」 Kダブシャイン「そういう、(ラップ・デュオが持つ)コントラストが大事だと思ってた」 Zeebra「だから、俺は最初『高い声』担当のイメージだったんだ。だけど、いざライヴでラップしてみたりすると、もうちょっとガナる感じになってきて、そっちの方がハマりが良かったんだよね」
「『空からの力』というタイトル自体が、俺らを凌駕する力のことで、それは自然とか太陽だったり、俺らの生活に必要なモノで、そういったモノを意識させようとしてたというか。『人間っていうのはこれぐらいちっぽけなんだぞ』ってことを、根底では伝えたかったんだと思う。95年を振り返ると、1月に阪神大震災、3月に地下鉄サリン事件があって、日本が大きく揺れた年だったから、そこでこういうアルバムが出たっていうのは、リスナーにとっても何か意味があったんじゃないかな、とも思うな」 -- Kダブシャイン
  【PART 1】 【PART 2】 【PART 3】 【PART 4】     CHAPTER 3:POWER FROM THE SKY   ■いよいよ本題、「空からの力」制作期の話に入りますが、その前にRHYMESTER“口から出まかせ feat. キング・ギドラ & SOUL SCREAM”での客演と、「THE BEST OF JAPANESE HIP HOP VOL.2」に収録された“未確認飛行物体接近中”(SAGA OF K.G.名義)がありますね。どっちが先に出来たんですか? Zeebra「“未確認〜”の方が後じゃない?だって、“口から出まかせ”で『キング・ギドラ本邦初公開』って言ってるし。今でも覚えてるんだけど、『THE BEST OF JAPANESE HIP HOP VOL.2』に入ってるDJ BEAT“FREE WAY feat. SOUL SCREAM”は、最初俺が誘われてたんだけど、俺は“未確認〜”をやることが決まってたから、俺がHAB I SCREAM(SOUL SCREAM)に振ったんだよ。で、それは“口から出まかせ”の音源が上がったぐらいのタイミングだった」   ■デモを撒いていたときに反応した関係者のひとりが宇多丸氏で、それが“口から出まかせ”での起用に繋がっていくワケですよね。“口から出まかせ”のエピソードはありますか? Kダブシャイン「……なんか呼ばれて、言われてやったぐらいかな」    ■スゲェ淡白(笑)。 Zeebra「当時まだRHYMESTERのメンバーだったDR. LOOPER(現・LR STEREO)の家に集まって、“口から出まかせ”のデモを作ったんだけど、そのとき回しっぱなしで撮ってたヴィデオ映像があるんだよ。カメラに向かっておもむろにMVゴッコとかし始めたりしてて……ヤバイよ(笑)。で、そのときにみんな(ギドラ以外の面々)が初めてコッタ君に会ったんだよね」 Kダブシャイン「俺はまだオークランドにいて、東京ではヒデがプロモーション活動してた時期が半年ぐらいあるんだ。だから、俺がRHYMESTERとかと知り合うのは後の方だったんだよね」   Zeebra「そのときにコッタ君が来て、みんなが『へー、Kダブってこんな人なんだ!』って衝撃を受けたって、宇多丸が言ってたよ、このキャラに(笑)。キッチンが喫煙所だったんだけど、そこでE.G.G.MANとかに『Kダブって面白いんだね』って言われたのを覚えてる(笑)」   ■最初は曲で聴けるような“堅い”イメージだったのが、フタを開けてみたら“こっちゃん”だったっていう(笑)。 Kダブシャイン「俺は自覚ないけどね」   ■当時のギドラのイケイケな感じで、“口から出まかせ”でも「俺らが他のヤツらを食ってやる」ぐらいの意識だったんですか? Zeebra「まあ、良い意味でそうだったよね。でも、全員そう思ってたんじゃない?」 Kダブシャイン「そういう(競争)意識は俺らふたりの間にだってあるから。でも、“口から出まかせ”はポッセ・カットだと思ってたから、敵意は全然なかったよ」 Zeebra「そうだね。それよりも、『俺らのヴァースが取り敢えず“製品”になるから日本中のヤツが聴ける』って思ったな」 Kダブシャイン「俺は、『俺たちを最初に出したことで、RHYMESTERは上手いトコ持ってったな』って、斜に構えて見てた。コレで『キング・ギドラを発掘したのは俺たちだ』って言えるからねー(笑)」   ■そして、この2曲を経て、95年末に「空からの力」がドロップされるワケですね。そもそもどんな経緯でP-VINEから出すことになったんですか? Zeebra「FILE RECORDSからも誘われてたんだよ。“口から出まかせ”を出した後にギドラをやろうよ、って話になってて」   ■FILE RECORDSは、当時最も精力的に日本語ラップ作品を出していたレーベルだったのに、結局FILEからはリリースしなかったんですね。 Zeebra「出すつもりではいたんだけど、そのタイミングで当時はまだ和モノを手掛けていなかったP-VINEが手を上げてきたんだ。俺らからしたらP-VINEは、P-FUNKとかSTAXとか、ブラック・ミュージック作品の再発をしてた由緒正しいレーベルだと思ってた」 Kダブシャイン「そんなP-VINE初の日本人アーティストの音源を作るって話だったから、そっちの方が(レーベル内の)プライオリティも高くなるだろう、って思ったんだよね」   Zeebra「FILEには既にいっぱいアーティストがいたからね。当時も言ってたんだけど、HIP HOPレーベルがFILE RECORDSだけしかないっていうのも、シーンにとっては健康的じゃないな、って話になってたっていうのもある」   ■はー、そんなことまで考えてたのか! Kダブシャイン「だって、最初はメジャー・ディールを狙ってたぐらいだし。あと、当時P-VINEのオフィスが代々木八幡にあって家から近かったから、毎日会社に行ってレーベルのヤツがサボってないかケツ叩ける、っていうのもあったな(笑)」 Zeebra「実際、毎日行ってたもん。それで担当A&R;は2〜3ヶ月で髪の毛真っ白になってたし」   ■さぞかし迷惑だっただろうな……(笑)。アメリカでも、ディールが決まりかけていたんでしっけ? Kダブシャイン「DEF AMERICAN(RICK RUBIN主宰レーベル)とIMMORTAL RECORDS(KORNやINCUBUS、FUNKDOOBIESTや、OST『JUDGEMENT NIGHT』のリリースで知られるEPIC傘下のレーベル)に、話が出来るA&R;の知り合いがいて」 Zeebra「だけど、その話があった段階ではP-VINEでやるかやらないか、ぐらいの話をしていたと思う。状況的には、日本でもリリース出来ちゃいそうな感じになっているときに向こうからも話があったから、『US経由でリリースするより日本でやった方が話が早い』って思ったんだよね」   ■アルバムのレコーディング期間はどれくらいだったんですか? Kダブシャイン「2週間ぐらいだと思う」 Zeebra「ヘタしたらそんなにかかってないかもよ」 Kダブシャイン「高井戸と新宿御苑のBAZOOKA STUDIOで録ったね」   ■レコーディングしていたときの雰囲気はどんな感じだったんですか? Kダブシャイン「ココで大事なのは、オアがレコーディングにほとんど来てなかったってことで(笑)」 DJ OASIS「うん、2〜3日ぐらいしか行かなかったね。スクラッチ入れと流し込みで行ったぐらい。俺はその頃結婚してたんだけど、まだ『音楽でカネを稼ぐ』なんて出来ない時期だったから、現実的に考えたら俺には無理なのかな?って思って」 Zeebra「『お金にならないことを仕事って言われても困る』っていう、オアのカミさんのスタンスがあったってことでしょ?」 DJ OASIS「それだったら、ってことで俺は嫁を取った」 Zeebra「だけど、既にアルバム作り始めてたから、最低限の作業をやるために2〜3日だけ来たんだよ」   ■でも、オアさんは当時“脱退”まではしてないですよね?ジャケにも写ってるし。 DJ OASIS「そこまではしてなかったんだけどねー」 Kダブシャイン「“欠席”が長かったっていう(笑)。学校来なくなった同級生みたいな感じだよ。で、たまたまKEN-BOが近くにいて、凄くサポートしてくれてたからライヴDJを彼に頼んだんだ」   ■今このアルバムを若いリスナーが聴いたらどう思うのかは、僕には分からないですが、やはり「空からの力」は、今聴いても“教科書”になり得る作品だ、と聴き返して改めて感じました。ジブさんは、ソロ活動を始めた頃、自分のラップが“教科書”として機能することを意識していたと思うのですが、「空からの力」に関してはそういう意識で作っていたんですか? Zeebra「韻の踏み方に関しては、『コレが一番正しい日本語ラップのあり方だ』っていうのは自負していたよね」   ■それ故に、ライミングに対してものすごくコンシャスなリリックが多いんですね。 Kダブシャイン「あと、サッカーMC的なテーマだったりコンシャスな曲だったり、全体像としてHIP HOP作品の押さえるべき要素を押さえていたから、そういう意味では“教科書”というより“試金石”みたいなモノになればいいな、って思ってたね」   ■今思うとちょっと意外なのは、90〜95年ぐらいの間に、USラップはコンシャス的な内容からハードコアなモノにトレンドが変わっていきましたよね。「空からの力」は95年のアルバムですが、社会的/コンシャスな要素が強く押し出された曲も入っていて、それって当時のUSラップの状況を踏まえると、やや“時代遅れ”という解釈も出来る。 Kダブシャイン「確かに、ちょっと遅いんだよね。でも、俺の中ではこういう内容のアルバムを取り敢えず出しとかないと次に進めない、っていうのがあったんだ」   ■一枚目だったし、押さえとくべき要素は全部入れようとしたということですよね、意図的に。 Zeebra「日本のHIP HOPの歴史上、こういう内容の作品がないといけない、とも思ってた、例えそれが数年遅かったとしても」   ■当時、“アブストラクト”“SF的”と評されることもあったと記憶しているのですが、その辺りに対する意識はどれぐらいありましたか? Kダブシャイン「まあ、そういうモノが元々好きだったしね」    ■でも、一方で“リアリティ・ラップ”的なモノも好きなワケじゃないですか。 Kダブシャイン「俺の場合は、ULTRAMAGNETIC MC'Sに感化されていた気がするね。イルに知的な感じというか」 Zeebra「要は、メタファー(比喩)だよね。94〜95年の頃は、確かにNASやビギーが台頭してきた時代だけど、それと当時にJERU THE DAMAJAとかBOOT CAMP CLIKとかもいたし、ストリート/拝金主義/ギャングスタ的なHIP HOPと、そのちょっと前の時代からあったメッセージ色の強いラップが混在していた時代だよね」 Kダブシャイン「あと、P・ファンクとかEARTH, WIND & FIREもSF的だったじゃん?その辺は、俺らの共通言語としてずっとあったんだよね」   ■ブラック・ミュージックとして考えても、そういうSF的な要素がしっくりハマったと。 Kダブシャイン「そう、それにキング・ギドラってグループ名も付けてたし」 Zeebra「俺らは当時、HIP HOP=現代のファンクだって思ってたしね。だから、実際デモ・テープの頃はサンプリングネタもファンクが多かった」   ■ラップ・デュオは洋邦問わず、それぞれのキャラの立たせ方というのが重要になってきますよね。ギドラも例外でなく、コッタさん/ジブさん共に違う色を持ったMCなわけですが -- 今話した“SF的”な話にも繋がるんですが、例えばジブさんのリリックはマンガのキャラクター的/スーパースター的で、コッタさんはライム・サイエンティストといった趣だと思うんです。『鉄腕アトム』で言うと、ジブさんがアトムなのに対して、コッタさんはお茶の水博士というか(笑)。更にHIP HOP的な喩えで言うと、RAKIMが持っていた側面をふたりで分け合っていたような感じにも聴こえます。 Zeebra「あー、RAKIMが出してくる“ワード感”をコッタ君が担ってて、フロウ/デリヴァリー感を俺が担ってたってことでしょ?それはあるかもしれない」   ■RAKIMが持つダンディさだったり、ストリート寄りの人にも受ける分かりやすいカッコ良さはジブさんが担っていて、知性的な部分はコッタさんが担っていたというか。 Kダブシャイン「RAKIMはもちろん影響として大きいんだけど、ヒデはKRS-ONEが好きで、俺はCHUCK Dが好きだったから、そこで線引きされる部分もあったね」 Zeebra「そうだね。俺はとにかく“ファンキー”なモノが好きだったんだ。KRS-ONEとCHUCK Dで比べたら、KRS-ONEの方がファンキーでしょ?そのカラーの違いだろうな」   ■その立ち位置の違いは、自然と出て来たんですか?それとも、「俺はこういうキャラだから、そっちはこういうキャラで」という感じに、示し合わせていった? Kダブシャイン「自然じゃないかな?多分コレが、元々のヒデとコッタな感じなんだよ」 Zeebra「元々、俺はピョンピョンしてたタイプだし、コッタ君は……高校生ぐらいの頃はもっと軽快だった気がするけど(笑)」   ■いろんなラップ・デュオについて考えると、例えば声の高低とか、フロウの違いとかでキャラ分けをしている人たちは多くても、リリックの世界観は案外近かったりするじゃないですか。でも、ギドラの場合は意外とバラバラですよね。 Kダブシャイン「でも、ATCQのQ-TIPとPHIFEはバラバラじゃない?」   ■あー……確かに、そういう意味ではギドラはATCQ的かもしれない。例えば“空からの力”にしても、同じテーマについてラップしててもそのアプローチは全然違うと思うんですよ。 Zeebra「FLAVOR FLAVとCHUCK Dみたいなことじゃないのかな?俺は、俺らがもしPUBLIC ENEMYだとしたら『ラップが上手いFLAVOR FLAVになろう』みたいなところはちょっとあった。RUN DMCとかはさ、RUNがグイグイ行く感じなのに対して、DMCは後ろでバシッと構えてる感じだったよね。で、俺らがRUN DMCゴッコとかしてたときも、コッタ君はDMCで、俺はRUNのマネをしてたんだよ(笑)」   ■その時点から立ち位置が決まってたんですね(笑)。あと、改めて「空からの力」を聴いて感じたのですが、このアルバムのリリックって、色々な意味で“リアライゼーション”が核にあると思ったんです。「自分たちが思う正当なHIP HOPとはどういうモノか」ということを気づかせようとしていたり、都会に住む若者からの視点で社会にどうコミットするべきかを示唆していたり、色々な意味で「気づかせる」ということがキーになっていると思うんです。 Zeebra「それこそCHUCK Dが『HIP HOPは黒人たちのCNNだ』って言ってたけど、そういう意識は俺らも本当に思ってたから、ストリートの側から見える現状を伝えることがHIP HOPの使命だと思ってたよね」 Kダブシャイン「『空からの力』というタイトル自体が、俺らを凌駕する力のことで、それは自然とか太陽だったり、俺らの生活に必要なモノで、そういったモノを意識させようとしてたというか。『人間っていうのはこれぐらいちっぽけなんだぞ』ってことを、根底では伝えたかったんだと思う。95年を振り返ると、1月に阪神大震災、3月に地下鉄サリン事件があって、日本が大きく揺れた年だったから、そこでこういうアルバムが出たっていうのは、リスナーにとっても何か意味があったんじゃないかな、とも思うな」   ■世相というものはどこまで意識してましたか? Kダブシャイン「それなりに意識はしてたけど、そういった事件がアルバムの出た年に起こるとまでは思ってなかった。俺らが出す前とかは、『日本語のラップでメッセージ?そんなの受け入れられるの?』なんてことをよく言われてたんだけど、震災やサリン事件があって『これからはオレらのようなことを言う人たちが必要とされるんだろうな』って予感はしてた」   
「俺は、コッタ君のラップを聴いて『日本語でラップするというのは、こういうことか』って思って、その後にヒデのラップを聴いて自分もラップ書くようになったから、ふたりの影響から自分もラップを始めてるんだ。だから、『空からの力』は俺にとっても“教科書”だし、“教科書”の“目次”になっているような内容だったりする。韻に関してはもちろんのこと、気の利いた言い回しをするとか、そういうところも学んだ“テキスト”だね」-- DJ OASIS
  CHAPTER 4:THE AFTERMATH   ■「空からの力」が95年末にリリースされた後、どんな手応えを感じてましたか? Kダブシャイン「リリース直後に渋谷のHMVへ見に行ったんだけど、店のチャートで1位になってて、地元で1位になって嬉しいな、って思った」    ■「空からの力」リリース前後では、例えばライヴの盛り上がりなどで変化はありましたか? Zeebra「アルバムが出る前、95年中盤頃からライヴは結構盛り上がってた。当時、日本のHIP HOP的に一番のメディアが『Fine』だったんだけど、そこでひたすらギドラの名前が載ってたから、客はどこ行っても入れ食い状態だった。キング・ギドラのライヴが始まったらステージの前に客が押し寄せるみたいな。あ、でもアルバムが出た後の方は更に『入れ食い感』がヤバかったかもな」 Kダブシャイン「外タレの前座とかやることも増えて、洋楽好きなヤツらもオレらのことを認めざるを得ないような空気になってた」   ■当時は、HIP HOPリスナーの中にも徹底的に日本語ラップを嫌っていたり、所謂ブラパン的な女子も多かったですからねー。 Zeebra「その辺りのヤツらは一回完全に一掃したからね。完全にアイツらを取り込んだ」 Kダブシャイン「黒人も『ギドラが良い』って言い始めたんだよね。基地とかで呼び屋やってたようなヤツらもオレらのことを認めるようになった」   ■「空からの力」リリース後、96年の春にミニ・アルバム「影」がリリースされ、7月には『さんピンCAMP』に出演しますが、程なくして活動休止状態というか、ソロ/別ユニットの活動に移行していきますよね。活動休止直前のグループはどんな状態だったんですか? Zeebra「その段階では、もう俺らはシーンの一員になってるワケで、シーンに入ったら他にもいろんな人と知り合う。その中でコッタ君はDJ KENSEIやDJ MASTERKEY、宇多丸と���良くなっていって」 Kダブシャイン「で、ヒデはMummy-Dと仲良くなったし」   ■シーン内にそれぞれ別の友達が出来てきたんですね。 Zeebra「そうそう。その辺りでツルむ相手が変わってきたんだろうね」   ■お笑い芸人が売れた後みたいですね(笑)。それによってグループ内の均衡が保たれなくなった? Kダブシャイン「あの段階では、俺もソロでやっていくって意識に切り替わってたし、オアも抜けちゃってたからね」 Zeebra「あの段階では、コッタ君の方が先にソロのディールが決まってたしね」   ■この時点で、「いつの日かまた一緒にやるだろう」という気持ちはあった? Kダブシャイン「『解散しよう』って言ったことは一度もないんだ。まあ、『一旦離れよう』と決めたぐらいだから、いつも一緒にいたいとは思ってなかった時期だったとは思うけど(笑)」   ■「活動休止しよう」って話はしたんですか? Zeebra「一番最後にライヴやったよね?R?HALLでやったライヴで『コレで最後だね』って話してたし、ライヴ中のMCでも確かそう言った」 Kダブシャイン「でも、ギドラは解散するには惜しい存在だと思ってたから、タイミングが来たらまたやりたいと思ってた。やっぱり、ソロとは違う味が出せるし、ふたりの声が重なったときの化学反応は、オレらにしかない組み合わせだという自覚があったから、『もう二度とやらない』とは思わなかった」   ■例えばLEADERS OF THE NEW SCHOOLとかは、BUSTA RHYMESのキャラが立ち過ぎちゃって、それによってメンバー間のエゴの衝突が起きたのが解散の大きな原因だと言われています。そのような「エゴ問題」はなかった? Kダブシャイン「実際オレらもそういうのはあったと思うけど、さっき話したように最初から『ソロでもやれるようにしておこう』って言ってたから、いきなりひとりになっても困るっていうことがなかった」 Zeebra「エゴはあったかもしれないけど、そこにカネの問題はなかったよね」 Kダブシャイン「そうだね。俺らはカネでモメたことはない」 Zeebra「だから、俺らはある意味、ソロ作品で自分たちのエゴを出し切れば、いつでもギドラをまたやれるって意識があったんだと思う」 Kダブシャイン「俺らはある程度は理解し合ってるから、確執が出来るとこまでモメないんだよ。モメる前に空気を読んでちょっと距離を置いたり、何かあったら一気に距離が縮まったりする。それは、グループ組む前から友達だったっていうのが大きいかもね。『空からの力』から『最終兵器』(02年)の間にも、それぞれのソロ曲で客演したりして、“ギドラ・ブランド”は常に残すようにはしてたんだよ。ソロ・アルバムも2〜3枚出したぐらいのタイミングで『最終兵器』があったから、そこでまた三位一体のことが出来るな、と思ったし」 Zeebra「『最終兵器』は本当にバッチリなタイミングだったと思う。世の中的にもそうだし、俺ら的にも良い意味でエゴが抜けてて、“キャラ立ち”という意味でも三人とも確立していたし」   ■「空からの力」が果たした功績や残したモノは、自分たちでは何だったと思いますか? Zeebra「自分にとっては、当時の自分の進化/成長していく様が見えちゃったりするから面白いな、って思う」 Kダブシャイン「自分にとっては、初期衝動を思い返させてくれる、鑑みるためには大切な作品だね。世の中にとってはどうだったのかは分からないというか、デカイこと言う感じになっちゃうな……僭越だけど、日本語でラップやるという人にとっての“雛形”としてこれからも存在していくのかな、って」 DJ OASIS「俺は、コッタ君のラップを聴いて『日本語でラップするというのは、こういうことか』って思って、その後にヒデのラップを聴いて自分もラップ書くようになったから、ふたりの影響から自分もラップを始めてるんだ。だから、『空からの力』は俺にとっても“教科書”だし、“教科書”の“目次”になっているような内容だったりする。韻に関してはもちろんのこと、気の利いた言い回しをするとか、そういうところも学んだ“テキスト”だね」   ■確かに、そう考えるとギドラに最も近い継承者はオアさんということになるんですね。DJだったオアさんをラッパーにまでしてしまったんだから。 DJ OASIS「ふたりのライムを聴いてて『ウハッ!』ってヤラれたことで、俺も人を驚かせたいって願望が生まれてラップを書き始めるわけだからね。ラップのフォーマットとしてはすごい完成度が高いし、��かりやすい“教材”だよね」
01.“未確認飛行物体接近中(急接近MIX)”(Pro. by Zeebra) Zeebra「オリジナル・ヴァージョンは『BEST OF JAPANESE HIP HOP VOL.2』にSAGA OF K.G.名義で入れた方なんだけど、あっちの方は元々サンプリングで作っていたトラックを、(オトナの事情で)弾き直しのトラックに差し替えたヴァージョンなんだ」 Kダブシャイン「まあ、イントロダクション、挨拶って感じの曲だよね」 Zeebra「コッタ君が曲名を思いついて、そこから書いていったんだよね。アルバム一曲目ってことで、キング・ギドラが金星からやって来るイメージをあのイントロで表現して。SAGA OF K.G.の方はもっと仰々しい感じだったのに対して、“急接近MIX”の方はよりスピーディな感じをイメージした。オリジナル・ヴァージョンは、ド頭からキング・ギドラが空を全部覆ってるイメージだけど、コッチの方はどこからかいきなり降り立ってきたイメージ。だから“急接近MIX”なんだ」 Kダブシャイン「ライヴの一曲目で使うことが多い曲だね。サビもお客さんが一緒に歌ってくれるから、やりやすい」 Zeebra「アルバム発売直後のライヴで、あのイントロがかかったら『ハイ来ましたー!ドカーン!』みたいな、“入れ食いチューン”って感じ。イントロをああいう感じに作れたのは良かったな、とテメェでも思っております」 DJ OASIS「いまだにDJとかでかけても反応良いからね」       02.“登場”(Pro. by Zeebra) Zeebra「西麻布YELLOWで、RIKO主催の『HIP HOP JUNGLE』ってイヴェントがあったんだよ。今も当時のフライヤー持ってるんだけど、他に出てたのはMICROPHONE PAGER、RHYMESTER、MELLOW YELLOW、LAMP EYE、SOUL SCREAMとかだったと思う」   ■客は入ってたんですか? Zeebra「結構入ってた。俺らが出たのは、イヴェントの二回目ぐらいだったと思う」 Kダブシャイン「ホウキ持って出たよね」 Zeebra「“大掃除”のときに本気で竹ボウキ持ってやってた(笑)。このルーティンは、当時は他のライヴでも何度かやってたと思う」   ■RHYMESTERの「RHYMESTERがライヴしにやって来た」みたいな感じですね。 Zeebra「俺らの場合はだいぶ妖しい登場の仕方だけどね(笑)。確か、このときライヴ映像を撮ってて、そのヴィデオから音声を抜き出した気がするね」       03.“見まわそう”(Pro. by Zeebra) Zeebra「今回のデラックス盤にデモ音源が入ってるから、(結成後)最初の頃に出来た曲だね」 Kダブシャイン「この曲が一番最初に出来たんだよ。まあ、この曲と“空からの力”“コードナンバー0117”は2〜3日の間に出来たから、ほぼ同時期だけどね」 Zeebra「『リリック書いてみよう』って感じで作り始めたのはこの曲が最初か」 DJ OASIS「最初は、ヒデの家でコッタ君のソロを録ろうとしてて、この曲のヴァースを最初に録ってみたんだと思う」 Kダブシャイン「サビが最初に出来たんだけど、コンセプトは、MASTER ACEの“TAKE A LOOK AROUND”とかの影響を受けたんだ。当時の日本/東京を意識して『周りを観察することが大事だ』ってことが言いたかった」 Zeebra「デモ・ヴァージョンは、サビが“連呼系”でちょっと違うんだよね。ULTRAMAGNETIC MC'S“RAISE IT UP”のサビとか意識したんだと思う」 Kダブシャイン「(発音的に)ERIC B. & RAKIMの“I KNOW YOU GOT SOUL”と“見まわそう”が似てるから、そこを意識したっていうのもあるね」   ■この曲のリリックで印象的なのは、ジブさんの「フリースタイル信じてたら韻辞典は禁じ手/あくまで参考 俺が先んじて言っとこう」というフレーズで、このラインが生まれた背景みたいのはあるんですか? Zeebra「『韻を踏みながら日本語でフリースタイルがまだ出来る人がいなかった時代だったけど、それがいつか出来るようになる』って信じてるってことですよ。日本語ラップにおいて、そこ(韻を踏んだフリースタイル)が出来るまでになれるって信じているんだったら、韻辞典なんて使ってたらそのレヴェルには行けねぇよ、って意味なんだ」   ■はー、だから「先んじて言っとこう」なんだ(笑)! Zeebra「『今はまだ出来ないから韻辞典に頼りたくなるかもしれないけど、この後出来るようになってきたら、そんなモンは禁じ手だぞ』って話」 Kダブシャイン「そういうことなんだねー。今初めて知ったよ(笑)」 Zeebra「でも、この曲が出来た後ぐらいから、同時多発的に韻を踏んだフリースタイルが出来る人が出て来るからね。キハとかUZIとかKINちゃん(MELLOW YELLOW)とか」 Kダブシャイン「俺はてっきり、歌詞を書く上での姿勢として、『韻辞典は禁じ手』って言ってるんだと思ってた」   ■でも、「行くぞ 行くぞ 言葉のジグソーパズルの為だったら辞書だって引くぞ」とも言ってるから、リリックを書く上で辞書を活用することは否定してないんですよね。 Zeebra「そう。知識を増やすために辞書を使うならどうぞ、って感じなんだ。だけど、韻辞典は“ズル”だから(笑)」   ■熟語とか、体言止めとかで難しめの単語をライミングに使うときは、どんなところから仕入れていたんですか? Zeebra「USラップのリリックの直訳とかはよくしたよね」   ■「あっちのラッパーが使ってるあの言葉は、日本語だとなんて言うんだろう?」っていうことですね。 Zeebra「うん、それはこのアルバムにスゲェいっぱい入ってたと思う。(JERU THE DAMAJA“YOU CAN'T STOP THE PROPHET”中の)“SUPER SCIENTIFICAL POWER”ってフレーズとかから“超常現象”って言葉を思いついたり」       04.“大掃除 feat. T.A.K. THE RHYMEHEAD”(Pro. by Zeebra) ■所謂、王道の「サッカーMC」モノだと思うのですが、セルアウトしているラッパーを叩いてるとかではなく、「韻が甘いラッパー」に照準を当ててディスしてるというのが、今思うと興味深いな、って。 Zeebra「そう、この曲はポップなラップをディスしてる曲じゃなくて、あくまでも『サッカーMCディス』なんだよね。ダセェというか、ヘタなラッパーをディスってるってことだよね」   ■でも、アウトロでコッタさんは「何がJ-RAPだよ」って吠えてますよね。95年頃にポップ・チャートを賑わしていたような売れ線ラップ=韻が甘いっていう認識で書いてた部分はあったのかな?って。 Zeebra「いや、それは違うんだよな。このリリックは、出来上がった“時期”が大事なんだよ。この曲は、6曲入りのデモ・テープを作り終わった直後ぐらいに作ったから、俺たちの(シーンへの)『殴り込み』の時期に出来た曲なんだ」   ■じゃあ、やはり“業界内”の韻が甘いラッパーが対象だったんですね。 Zeebra「もしかしたら、デモ作ってたときにはもう出来てた気がするね。だけど、デモ・テープ配るのにその中にいきなりディスが入ってるのも何だから、『アルバム用に取っとこうぜ』って判断したんだよ。今思うと性格悪ぃなー(笑)」 Kダブシャイン「同業者と面と向かったときに、『俺の方がお前より上だぞ』って、HIP HOP的且つトラディショナルなバトル・スタイルに忠実な曲なんだよ」   ■「お前らより上なのは、俺らの方がライムがタイトでクレヴァーだからだ」っていうことですね。 Zeebra「向こうのラップを(理解して)聴いていた立場からすると、ライミングの楽しさを知らないのはかわいそうだと思ってたんだよ」 Kダブシャイン「ラップじゃなくても、洋楽は韻を踏んでるのが当たり前じゃん?」 Zeebra「ライミングの楽しさを知らないのはもったいないっていう、その一点に尽きる。だから、その楽しさを広めるということは、ギドラをやる上では大前提中の大前提だったんだ」 Kダブシャイン「曲を作る上で、『韻を踏む』っていうルールがあるとないのとでは、全然違うモノになっていく、っていうのを主張したかった」   ■そうか、だからジブさんは「お前のライム甘くて」「悲しくなる」んですね(笑)。怒りというより、むしろ悲しいわ!っていう。 Zeebra「で、『あーもうやだ 目の前に広がるのは荒野だ』よ、と。そんなヤツばっかでさー」   ■韻が甘いラッパーがいるだけで、そんな殺伐とした景色が現われるのは凄いですね(笑)。一方のコッタさんは、「まさかの技にキャプテン翼もイラつく百点のうまさ」とか、その辺りのフレーズにSWAGを感じます(笑)。 Kダブシャイン「『位置に三途の川/誰も死後ろくな名前……』とかみたいに、“1”〜“10”まで同音異義語も使って書いていったことが『まさかの技』で『百点のうまさ』だって自画自賛したかったんだね(笑)」       05.“コードナンバー0117”(Pro. by DJ OASIS) Kダブシャイン「“117”って言いたかったんだよ。キング・ギドラはイニシャルだと“KG”じゃん?K=11番目で、G=7番目のアルファベットだから」   ■え!?“117”には“時報”以外にそんな意味もあったんですか(笑)!? Zeebra「それもある(笑)」 Kダブシャイン「キング・ギドラ=KG=117=時報を聞けば、今何をするべきか=You know what time it isが分かるっていう」   ■おぉ……。 Kダブシャイン「あと、阪神大震災も1月17日だったりとかするし、そういう要素がいくつか重なってるから、“117”には何か深い暗号的な意味があるんじゃないのか?って若い頃に勝手に思ってたんだよね」 Zeebra「当時、どっかのインタビューでは話していたのかもしれないけどね」   ■僕はリリック的にはこの曲がアルバムで一番好きなんですよね。一番リリックが狂ってる。ジブさんの「四次元空間と三次元の中間の三.五次元で魔の三週間」とか、今聴いても本当にワケが分からない(笑)。あと、この時期のジブさんの特徴ですけど、「DISした無知の口/暗い内に狙い内/一つ 二つ 三つ 四つ 五つ 六つ/ブツブツ言う奴一人ずつ撃つ」みたいに、結構ネチネチしたキャラなんですよね。 Zeebra「ホラーコアの時代だもん」 Kダブシャイン「暗殺者的な感じなんじゃないの?」 Zeebra「そういう感じもあるね。あと、数字を入れながら韻を踏んで遊ぶっていうのが面白いと思ってやってたんだよね」   ■曲の後半で、ふたりが掛け合いでラップしていきますよね。意外にも、ここまで2MC的な掛け合いラップが聴けるのって、この曲ぐらいなんですよね。 Kダブシャイン「ライヴでもその掛け合いはやってたよね。デモ・テープを聴くと、それぞれのヴァースでもうひとりが被せとかユニゾンしてる部分が多い。でも、アルバムを作るときはもっとクールなトーンにしようとしてたから、掛け合いが少ないんだと思うね」 Zeebra「この掛け合いは、ELEMENTS OF CHANGE(オークランド時代にギドラと交流のあったUSのラップ・グループ)の影響があるんだよね。彼らのラップは、掛け合いだったりエコー的に被せてみたりを2MCで複雑にやっていくっていう面白いスタイルだったんだ」   ■トラックはオアさん作ですね。 DJ OASIS「デモ・テープに入ってた曲だから、リリックは結構前に出来ていたんだけど、このトラックはアルバムの中では最後の方に出来たトラック。このトラックにこのラップを載せようと決めたのは、多分コッタ君だったと思うね」       06.“フリースタイル・ダンジョン”(Pro. by Zeebra) Zeebra「それこそネチネチした俺が出た一番怖い曲だね。安室ちゃん経由で俺のファンになった女子が聴いたらドン引きするような曲だな(笑)」 Kダブシャイン「“Zeebra The Daddy”になる前は“Zeebra The Ill Skill”だったから、病的なサイコ感は常に出そうとしてたんじゃないの?っていうのが俺の解釈(笑)。初期はずっとそんな感じだった」 Zeebra「今でもたまにその側面は出て来るね。DJ MUNARI x AraabMuzikとやった“BEAST FROM THE EAST”とかはこういう感じだね」   ■ホラーコア的な要素もありつつ、RPG的な要素もこの曲にはありますよね。 Zeebra「この曲はねぇ、日本からオークランドに行く飛行機の中で書いたんじゃなかったかな。1stヴァースと最後の『又そこの墓地で墓参り/又だれかが死霊の仲間入り』ってフレーズが先に出来た(笑)。“墓参り”と“仲間入り”は韻としてスゲェキレイだな、って思ったんだよね。向こうのラッパーって、当時から結構ゲーム好きが多くて、それこそ『THE SOURCE』とかでゲーム特集やってたりとかしてた。ウチらとちょっと仲良かったHIEROGLYPHICSのDEL THE FUNKEE HOMOSAPIENもゲーマーだったし」 Kダブシャイン「ヒデの家にプリプロしに行くと、大体ゲームやってたからね。『ストリートファイター2���とか『NBA JAM』とか。ゲームとゲームの合間に曲を作ってた」 Zeebra「それは言い過ぎだと思うよ(笑)。あと、この曲の元ネタは、NAS“NEW YORK STATE OF MIND”のイントロの喋り“Straight outta fuckin' dungeons of rap”だね。『ラップのダンジョンで曲を作ろう』って、あの一言でインスパイアされた」       07.“空からの力 〜Interlude”(Pro. by DJ OASIS) 08.“空からの力 Part 2”(Pro. by DJ OASIS) ■デモ・テープに入っていて「空からの力」にも収録された曲は少なくないですが、何故この曲だけ“Part 2”と名付けたんですか? Zeebra「リリックもオケもデモ・ヴァージョンとは全然違うからだね」 Kダブシャイン「キング・ギドラっていうグループ名は先に決まってて、キング・ギドラ=地球に降り立った超自然的なモノ=空からの力という感じで表現したかったんだ」   ■CHUCK Dの“Power from the sky”というフレーズをコスリネタで使ってますよね。 Kダブシャイン「トラックが出来たときに、『CHUCK Dのあのフレーズをコスってよ』みたいなことをオアに言ったんだよね。そうしたら上手くハマったから、そこから“Power from the sky”=“空からの力”って訳して作っていったんだよ。アルバム・タイトルにもなってるワケだから、代表曲ですよ」 Zeebra「……とか言いつつ、パート1では俺何も言ってねぇ、みたいな(笑)。ただ韻を踏みたいだけのフリースタイル・ラップだった」 Kダブシャイン「最初に作った1〜2曲目だもんね」   ■“空からの力”というタイトルありきで、それぞれヴァースを書いたんですか? Zeebra「いや、違うね。たまたま出来たヴァースを当て込んだって感じだったと思う」 Kダブシャイン「デモ・ヴァージョンはね。そこからパート2にしていく過程で、“空からの力”感を出すためにブラッシュ・アップしていった」   ■そういった、楽曲が進化していった様が、リスナーにも明らかになるという意味でも、今回のデラックス盤にデモ・ヴァージョンが収録されるのは快挙だと思います。       09.“星の死阻止”(Pro. by DJ OASIS) Zeebra「まあ、“エコ物”だね」   ■“エコ物”ってアッサリ言いますけど、そのカテゴライズは何か凄いですね(笑)。 Kダブシャイン「エコ・ラップだね」 Zeebra「まあ、環境ネタの曲が一個必要だよね、って話になって」 Kダブシャイン「『空からの力』ってところで、“地球”“環境”というものを俺たち人間はないがしろにしてるんじゃないか?って。文明とか、人間が生み出した元々地球に存在していなかったモノが、地球を破壊してるんじゃないか?ってことをオレたちは当時感じてたんじゃないかな。で、キング・ギドラはそこに警鐘を鳴らしに来たというか、『自分たちが人間だということを忘れてない?』みたいなことを、いろんな角度で表現した中のひとつだね」 Zeebra「UZIがゴミ拾いに行かされたって話、知らない?UZIは昔ヒドいヤツでさ、俺のクルマに乗ってたとき、ヤツが後ろの席でビール飲んでたんだけど、いきなり窓開けて缶捨てやがったから、俺は速攻クルマを停めて『誰がその後掃除すると思ってんだよ、拾って来い!』って、拾いに行かせた(笑)」   ■モラリストですね(笑)。 Kダブシャイン「オレらがブラック・ミュージックやレゲエから教わった“リスペクト”というモノを、ちゃんと音楽を通して表現するというのは『空からの力』の源流だよね」   ■エコロジー的視点は、「空からの力」を作る上でマストな要素だったということですね。 Kダブシャイン「そう、だからすごいコンセプチュアルなアルバムなんだよ……って今更自分で言うのもアレだけど(笑)」       10.“地下鉄”(Pro. by DJ OASIS) DJ OASIS「“コードナンバー0117”のデモ・ヴァージョンで使っていたオケは、この“地下鉄”のオケで使われてるんだよね」 Zeebra「確か、“コードネーム0117”は、オアがトラックを別のにしたいって言ったんだよな」 Kダブシャイン「だけど、こっちのビートを使わないのももったいないから、スキットって形で使ったんだ」       11.“スタア誕生”(Pro. by Zeebra) ■ジブさんのソロ曲“フリースタイル・ダンジョン”はファンタジックな内容だったのに対して、コッタさんの“スタア誕生”はリアリズム重視と、この時点で両者のソロMCとしての立ち位置の違いがハッキリ表われてるのが興味深いんですよね。 Zeebra「俺は『ラップ界のスピルバーグ』って言い張ってたぐらいだから、エンターテインメント方面で書いてたよね」 Kダブシャイン「じゃあ、俺はオリヴァー・ストーンなのかな(笑)」 Zeebra「言うなればそういうことだよね」   ■今、30代前半ぐらいのラッパーに取材で話を訊くと、結構な確率でこの曲に影響を受けたという人がいるんですよね。 Kダブシャイン「ふーん、でも、そんなにその人たちは悲しいストーリー物とか書いてないでしょ?」   ■内容というより、ストーリーテラー/ヴィジュアライザー振りに感銘を受けたんだと思うんですが。 Kダブシャイン「当時、この曲を作る上でインスパイアされたのはDIAMOND D “SALLY GOT A ONE TRACK MIND”とかBIZ MARKIE “YOUNG GIRL BLUEZ”とかで、ひとりの悲しい少女についての物語を書いてみよう、って思ったんだ。『どんなのが出来るかな?』って書き始めたら、結構アッサリ書き上がったから、苦労して出来上がった感じの曲ではないんだよね。で、書き上がったリリックをいろんなトラックに載せてみて、ふたりには聴かせたりして。『コレでいこう』って決めてたトラックがあったんだけど、スタジオに入ったときに『ちょっと変えよう』ってなって、その場にあったレコードでサンプリングした新しいトラックに載せて録った」 Zeebra「最初は、こんなに悲しい感じのトラックじゃなかったんだよね」   ■ここで歌われている内容は、完全にフィクションなんですか?例えば、周りの人の話とかからインスパイアされた部分は? Kダブシャイン「いやあ、周りにはいないね。典型的な、実際にありそうな感じの話を色々並べてみたってだけ」   ■当時の世相は影響してないんですか?例えば95年当時だと、コギャル・ブームだったりブルセラだったり、ティーンエイジャーの女性に関連した報道が激増した時期だったと思います。 Kダブシャイン「アメリカの黒人コミュニティだと、性にユルい女に『ヘイ!シスター、しっかりしなさい!』って言うQUEEN LATIFAHとかMC LYTEみたいな女性MCがいたりして、割とありがちな話じゃない?日本だとあまりそういうことがないな、って思ったから、自分のことを粗末に扱ってしまう女の子に対して、何か言えることがあるんじゃないか?って感じぐらいだったと思うよ。だから、世相を反映したとか、そういうことではなく。あと、当時はAVメチャメチャ観てたんじゃない(笑)?『こういう子がスゲェ増えてきたな……』って感じたっていうのは影響してるかもしれない。それこそ、『しょっちゅう深夜番組に登場』って言ってるくだりとかは、飯島愛とかを彷彿とさせるよね。結局その後、彼女も死んじゃったし、今聴き返すと自分でもゾッとしたりするね」       12.“行方不明”(Pro. by Kダブシャイン) Kダブシャイン「コレも、アルバムを作る上では入れておかなきゃいけない要素としてバック・イン・ザ・デイ物があったから、作ったんだと思う」   ■当然、当時のUSラップにもバック・イン・ザ・デイ物が多かったというのも影響してるわけですよね。 Kダブシャイン「そうだね、NAS“MEMORY LANE”とかあったし。あと、俺的にはAHMAD“BACK IN THE DAY”とかLEVERT“GOOD OL' DAYS”とかが好きだったね」 Zeebra「SWEET SABLE“OLD TIMES' SAKE”とかもあったね」   ■意外とR&B;からもインスパイアされたんですね(笑)。 Kダブシャイン「他の曲よりエモーショナル且つハートフルな曲を作りたかったんだよね」    ■でも、ヴァースはラップ聴き始めの頃を振り返るという、バック・イン・ザ・デイ物としては王道な内容ですが、サビはそういう感じではないですよね。そもそも何故バック・イン・ザ・デイ物の曲を“行方不明”というタイトルにしたんですか? Zeebra「……分かんない、なんでだろう(笑)」 Kダブシャイン「バック・イン・ザ・デイ物を、ちょっとヒネった感じでやろうとしたんじゃない?昔、同じ思い出を共有してたようなヤツらに対して、『夢や希望を諦めたらそこで終わりなんだから、もっと自分のやりたいことをやれ』ってことが言いたかったんだと思う。『俺らは昔を思い出して、それをやり続けたから今こうなってる』っていう。だから、他の人を蔑みたいわけではなく、ただ『諦めるな』ってことを言いたかったんだ。でも、そんなことデビュー・アルバムで言うことじゃない気もするよね(笑)」 Zeebra「まあ、タイミング的にもただのバック・イン・ザ・デイ物を作っても面白くない、って思ったっていうのはあるかもな」       13.“真実の弾丸”(Pro. by DJ OASIS) ■後に、ギドラは“社会派”だったり“ポリティカル”という視点でも注目されることになりますが。 Kダブシャイン「でも、このアルバムで明らかにそういう視点で書いてる曲って、コレと“星の死阻止”ぐらいなんだよね。この曲は、簡単に言うとメディア批判だよ。『洗脳されるな!』みたいな」   ■PUBLIC ENEMY“DON'T BELIEVE THE HYPE”的なイズムがやはり影響しているんですよね? Kダブシャイン「そうだね。『本当のことを知ると人間は考え方が変わってくるぞ』っていうコンセプトを、なんとなくここで入れたかったのかなあ……」   ■なんとなく(笑)。 Kダブシャイン「いや、その当時のことだから、パッと思い出せない(笑)。当時もロジカルに考えてたというより、思いつきで作っていった部分があるからね。アルバムの全体像は最初からイメージしてたけど、曲を作り進めながら辻褄を合わせていった部分はある」 Zeebra「俺のヴァースとか、超分かりやすいよね。『元々持っている間違った価値観を変えろ』というか。世の中は今までもこれからも変わっていくモノだけど、『今あるモノが全てだ』みたいに思わせるシステムがある。そういうことに対して『何が正しいか/間違っているかということは自分たちで見極めないといけない』って」 Kダブシャイン「この曲も最初に作ったデモ・テープに入っているから、“空からの力”“見まわそう”“コードネーム0117”と同時期に出来た曲だよ」        14.“コネクション 〜Outro”(Pro. by Zeebra) ■このアルバムの翌年に出たYOU THE ROCK「SOUNDTRACK '96」でも“BIG SHOUT OUT”で、一曲丸ごとシャウトアウトという構成の曲がありましたが、アウトロをシャウトアウトにしようと思った理由は? Kダブシャイン「BRAND NUBIANが『ONE FOR ALL』(90年)の中の“DEDICATION”って曲でやってるんだよね。まあ、コレは曲というよりスキットっぽい感じ。当時、オレらを応援してくれてたヤツらにシャウトアウトを送りたかった。……俺は当時、キング・ギドラには初期のBRAND NUBIANとULTRAMAGNETIC MC'Sがミックスされたようなイメージを持っていたんだよね。BRAND NUBIANの5パーセンターズ的要素と、ULTRAMAGNETIC MC'Sの宇宙的ファンクやイルな感じをミックスさせた感じ」   ■……めっちゃややこしいですね、その音楽(笑)。 Kダブシャイン「俺の中のギドラ像を人に説明すると、そういうことになるのかなって。でも、PUBLIC ENEMYが『俺たちはRUN DMCとTHE CLASHのミックスだ』みたいなことを言ってたから、それをギドラに置き換えるとそうなるのかな、って」   ■まだ日本語ラップのアルバムがそんなに出ていなかった時代だっただけに、「他の人より先にこういうトピックもやっちゃいたい!」という貪欲さが出てるアルバムですよね。 Zeebra「それはちょっとあるかもね」   ■ラヴ・ソングぐらいですよね、分かりやすいトピックでこのアルバムに入ってないのって。 Zeebra「それは、敢えてやらないって感じだったもんね」 Kダブシャイン「別にラヴ・ソングをやるとリアルじゃない、ってワケじゃないんだけどね。この頃は、『渋谷や六本木のストリートから出て来た若いヤツらが、ラップで思い切り世間に対してモノを言う』っていうのを見せたかったから、こういう構成になった……んだと思うよ(笑)」
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kubotty · 3 years
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音楽のススメ459
本日はThe Notorious B.I.G.からの繋がりで、同じく米国から2pacをご紹介します。
2pac(トゥーパック)とは、1971年米国NY生まれ生まれのラッパー、俳優。
ブラックパンサー党の両親の元に生まれ、幼少期をNYっで過ごす。1991年、20歳の時に「MC New York」という名前でDigital Undergroundの一員としてデビュー。同年にソロデビュー、俳優デビューもし成功を収める。
警官の狙撃や、女性暴行容疑などの疑いでデビューから3年で服役。この時期に2pac自身の銃弾被弾事件もあり、ショーン・コムズとノトーリアス・B.I.G.要するBad Boy Record(東海岸)と対立。服役中にDeath Row Recordsと契約。出所後にDr.Dreのプロデュースで「California Love」などヒット曲を連発、アルバム「All Eyez On Me」も大ヒットし、西海岸を代表するMCとなるが、同年に銃弾が被弾し25歳の時に死去。これには東海岸側との諸説もあるが、解明されておらず。
死後も多数の音源が発掘・リリースされ、Eminemをはじめ、多くのアーティストに影響を与える。またDr.Dre・Snoop Dogの2012年のフェスのステージでホログラムで登場。2005年のドキュメンタリー映画や、2017年の延期映画のヒットなど、現在に至るまでHIPOHOPのカリスマとして君臨。
本日の紹介したい曲は大ヒット曲「California Love」を。このピアノとリズムの絶妙な90年代感満載の古くいなたい感じは時代を感じさせる一方で、よく聞くとメロのハーモニーと音のレイヤーがすごい洒落っ気で重なっていて、Dr.Dre先生の偉大さに気付かされます。HIPHOPに詳しい方に聞くところによると、HIPHOPを理解するには曲ではなくカルチャーという括りで背景含めて学ぶと、理解が非常に深まるそうです。ドキュメンタリー映画とか見てみたらより分かるのかな。
2pac feat Dr.Dre  / California Love HD
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sandstarsartbox · 4 years
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Moscow非常に寒いです。
eminemに限らず、言葉や感情の意味の解釈を共有することは非常に難しいと感じました。妙なサインではなく、私から詳しく説明しなければならないのは面倒なものです。
eminemはおそらくウィトゲンシュタインの論理哲学論考を読んだのだと思います。青色本はそれを具体化させたものですが、ウィトゲンシュタインの論理哲学論考が最もウィトゲンシュタインの成した"伝えたかった"書籍だと私は思います。彼はミソジニーであったとウィトゲンシュタインに詳しい方から聞きましたが、特に彼の生きた時代にはあまり感心は持てませんし、彼の書いた書籍は素晴らしいものだと私は思います。
例えば音楽で、"ここ"の抑揚で誰かを煽っているように見えて、彼はそういうつもりでもなかった、など、簡単に言えば"こういうことだよな!"という共有の解釈こそが全く意味をなさないものだと。eminemはクイズが好きそうですから何回でもこの言葉のrhythmを聴けます。
例えば "青とはどういう色?"と問われ、何かの絵を指し"こういう色"と"共有"しても、"では、その青ってあなたにとってどんな色なの?"と一人一人に聞いたところで、青色を説明することは不可能です。だって青って青じゃん、、という言葉の二重苦になってしまいます。ここが言葉の限界値。色のことを理解できたのなら喜ばしいです。
P.S 久しぶりのアニメ塗りも楽しい��す。動きを想像しやすいから妄想でアニメのスクリプトが出来ちゃう₍ᐢ⸝⸝› ̫ ‹⸝⸝ᐢ₎
雪が降るたび変な赤いぷつっとしたもの出来るのはとっても困ります🥱
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koukidegozaru · 4 years
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初心者向けのラッパーと慣れた人向けのラッパーを紹介してみる
こうきでござる。
久しぶりのブログとなってしまいました。すみません。
今回のブログはHIPHOPを聴き始める人、初心者向けのラッパーは沢山聴いたので慣れた人向けのラッパーを聴いてみたいと言う人のためのブログです。
初心者向けのラッパー
N.W.A.
Dope Meter:95/100
初心者向け度:100/100
明るさ:40/100
オススメアルバム:Straight Outta Compton
Eazy-E, MC Ren, DJ Yella, Arabian Prince(1988年に脱退), Ice Cube(1989年に脱退), Dr.Dre(1991年に脱退)の6人からなるHIPHOPユニット。ギャング系のラップを得意とする。Old School HIPHOPを作り上げたと言っても過言では無い。名前はNiggaz Wit Attitudes(主張する黒人達)の略。ちなみにこのユニットのメンバー達のソロ曲もイカしてるので是非!
DMX
Dope Meter:90/100
初心者向け度:85/100
明るさ:70/100
オススメアルバム:Its Dark And Hell Is Hot
入りやすくノれる曲を得意とする古参ラッパー。
2Pac
Dope Meter:95/100
初心者向け度:80/100
明るさ:30/100
オススメアルバム:The Best Of 2Pac - Pt.1:Thug
かなり有名な伝説ラッパー。25歳という若さで惜しまれつつ亡くなった。ギャング系のラップを得意としながらもノリやすい曲、母への感動的な曲、黒人差別についての曲等、そのリリシストさは今でも有名だ。
XXX Tentacion
Dope Meter:95/100
初心者向け度:70/100
明るさ:0/100
オススメアルバム:Revenge
暗く、どんどん沈み込むエモ・ラップを得意とする。良い人なのか悪い人なのかよく分からない。21歳の若さで亡くなってしまった。
Drake
Dope Meter:70/100
初心者向け度:60/100
明るさ:65/100
オススメアルバム:Scopion
現代のHIPHOPにかなり影響を与えた。このブログに載っている他のラッパーに比べると少しだけ下がるが、今のメインストリームは彼だろう。Spotifyでは6,000万人のフォロワーと月間リスナー数を抱えて��る大人気ラッパー。
B.o.B.
Dope Meter:75/100
初心者向け度:55/100
明るさ:100/100
オススメアルバム:B.o.B Presents:The Adventures Of Bobby Ray
少しポップ色が他のラッパーより強いので初心者向け度は55点とそこまで高くない。
慣れた人向けラッパー
Lil Nas X
Dope Meter:90/100
初心者向け度:45/100
明るさ:95/100
オススメアルバム:7 EP
中々類を見ない異色ラッパー。カントリー・ラップ、近未来的なサウンドでのラップ等、多彩な仕事振り。
MGK
Dope Meter:80/100
初心者向け度:45/100
明るさ:25/100
オススメアルバム:Hotel Diablo
ロック色が強い。今年の7月に新作アルバムが出る予定。後述の人気ラッパーEminemとのビーフで知ってる人も結構居るかも。
Eminem
Dope Meter:100/100
初心者向け度:35/100
明るさ:25/100
オススメアルバム:The Marshall Mathers LP
大人気ラッパー。日本でも知ってる人は何人も居そう。「HIPHOP興味ないけどEminemは好き」という人が多く、また、EminemからHIPHOPのイメージを作ってしまったらスローなラップが退屈に感じてしまうと思うので初心者向け度は35点と少ない。(結構異色なラッパーだしね。)
Busta Rhymes
Dope Meter:95/100
初心者向け度:30/100
明るさ:95/100
オススメアルバム:Genesis
人気早口ラッパー。しかしEminem同様早すぎて初心者に「ラップ=早口」というイメージを焼き付かせてしまうので初心者向け度は30点。
Kanye West
Dope Meter:95/100
初心者向け度:30/100
明るさ:80/100
オススメアルバム:Kids See Ghost
人気異色ラッパー。自身に満ち溢れていて、良くも悪くも自己中な性格を持つリリシスト。
MF Doom
Dope Meter:100/100
初心者向け度:10/100
明るさ:25/100
オススメアルバム:MM…Food
marvelキャラクターのドクター・ドゥームの様なマスクをつけた異色アンダーグラウンドラッパー。HIPHOPのコアリスナーからかなり高い評価を受けている。初心者だと理解しにくい、理解出来る人こそ理解できる超Dopeなリリカル・ラッパーだ。
まとめ
まとめるとこんな感じ。字が汚いのはお許しください。あくまで参考止まりにしといて下さいm(_ _)m
(※XXXはXXX Tentacionの事です。BiggieはNotorrius B.I.G.の別名です。)
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最後まで読んでくれてありがとうございました、次のブログでお会いしよう。では!
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2016/02/08 #RAPSTREAM CO-SIGN feat. 崇勲(『KING OF KINGS -FINAL UMB-』2015年チャンプ)
文:伊藤雄介(Amebreak)
内側こもった blash up 磨いた 言葉の力 Punchliner アリスター これは長丁場 打ち砕けFake star ひっくり返せ14.5ゲーム差 (“仁王立ちの内弁慶”)    アンダードッグ -- 訳すると“敗北者”や“負け犬”といった意味になるが、スポーツなどの世界においては“(不利な状況/下馬評から)追う者”といった意味の方がしっくりくる。要するに“下克上”を起こせる側の者のことを指す言葉だ。    スポーツに限らずHIP HOPにおいても、アンダードッグはシーンの活性化には欠かせない存在だ。著名なラッパーが主流を担う現行シーンにおいて、その位置を虎視眈々と狙うニューカマーは総じてアンダードッグであると言えるが、リリックやスタンスを通して自分たちがそうであると主張する人もいれば、あまり表には出さず飄々と活動するラッパーもいるだろう。    2015年の国産HIP HOPにおいて、その活躍振りを見て真っ先にこの“アンダードッグ”というフレーズが浮かんだラッパーがいる。2015年に開催された鎖グループ主催MCバトル『KING OF KINGS -FINAL UMB-』初代チャンプであり、昨年11月に1stアルバム「春日部鮫」をリリースした崇勲だ。     埼玉の端の春日部の端 新たな狼煙を確認せよ 劣等感が俺の後ろ 大丈夫、肩組んでやったぜむしろ (“仁王立ちの内弁慶”)      「春日部鮫」というアルバム・タイトルが付けられている通り、現在32歳の崇勲は埼玉県・春日部市の出身。現在も同地に拠点を置いている。   「完全なるベッド・タウンっていう感じですね。まあ、都内に行くのにもそんなに不便じゃないし、っていう感じで、特に不自由がないから暮らしやすい街です。ずっと住んでいる街だし、友達もほとんど春日部にしかいないから、歌詞に出て来るのは必然かな、って。ラッパーだと、TKda黒ぶちも春日部が地元ですけど、自分が知ってる限りだとラッパーはそれぐらいですかね。他にもいるのかもしれないですけど」    自身のMC名について、「本名がスグルで、“スー君”っていうのがアダ名だったんです。ラップを始めたときは10代だったんで、“スークン”って名前にしたら歳上の人も君付けしてくれるかな、ってことで。……で、今その弊害が出てるような感じです。『スークンさん』って歳下から呼ばれたりするから(笑)」と自嘲気味に解説する崇勲は、16〜17歳頃に、周りが2PACやEMINEMを聴き出したタイミングに合わせてHIP HOPを聴くようになり、BUDDHA BRAND“人間発電所”で決定的なインパクトを与えられたという。だが、自ら「コミュニケーション下手」と評する彼の性格が災いし、本格的にラッパーを志すまでには少し時間がかかったという。   「“人間発電所”を聴いた頃ぐらいからリリックは書き始めてましたけど、録音の仕方も分からないからボーッとしてて。そうしたら友達がウォークマンで何か聴いてて、それを聴かせてもらったら、それが“大怪我”(大神)だったんです。だけど、そこに載っていたのはウォークマンを聴いてたその友達の声で。それで、地元のDJ(『春日部鮫』の収録曲7曲のトラックを担当しているDJ YABO)の家で録音が出来るっていうことが分かり、そいつん家でカセット・テープに自分のラップを録音するようになりました。それが18歳ぐらいの頃です。当時は98年ぐらいでしたけど、NAS“NAS IS LIKE”とかその辺に載っけてラップしてましたね。その頃からライヴはやりたかったんですけど……自分、コミュニケーション能力が圧倒的に低かったから、『どうやってライヴをやったらいいんだろう』って思ってて。頭下げてやるのも気に食わないな、って思ってたし。そうしたら、友達伝いでライヴしてくれるラッパーを探してる人を見つけて、2001年ぐらいに渋谷FAMILYでライヴしたのが初ライヴです。そのイヴェントは、クリスマス直前の単発イヴェントで、そこで披露したラップはクソみたいなモンだったと思うんですけど、超盛り上がったんですよね。それが快感になっちゃって」      初ライヴで確かな手応えを得た崇勲。このまま順調にキャリアを重ねていくのかと思いきや、シンプルに事は運ばなかった。   「そこから7年間ぐらい、超盛り上がったのはそのライヴだけでした(笑)。最初に盛り上がりのピークが来て、そこからどんどんダダスベっていく、みたいな。かなり苦々しい時期でしたね。あまりにスベるからもうイヤになっちゃって、2〜3年ぐらいライヴとかやらなくなった時期もあって、曲だけ作ってる時期がありましたね。……なんで盛り上がらなかったんですかね……今とスタイルはだいぶ違ったと思うけど、根っこの部分はそんな変わってないと思うんですよね。ただ、あまりみんなが仲良くやってる輪にも入っていくことは出来なかったし、そういう仲良い感じを見ているのもイヤな感じでしたね、当時は(笑)」    彼が10年近く辛酸を舐め続けてきた原因としては、外的要因もあっただろうが、どうやら自身のパーソナリティにも原因があったようで、それは崇勲自身も認めるところだ。   「今は多少変わってきましたけど、根本的には広く人と付き合うタイプではないですね。ここまでアルバムが出せなかった理由としては、それが大きいと思います。昔は、ずっと“第三の唇”っていう6〜7人組のグループをやってたんですけど、ライヴのオファーが俺に来るけどメンバーのスケジュール調整が面倒になってきて、『ひとりでやった方が楽でいいな』って思い、ひとりでやるようになりました(笑)。当時のメンバーの何人かは『春日部鮫』に参加してますね」      スキルはあるが、同業者と交流するのが苦手が故に、シーン内で上がっていけず燻り続けるという構図は、ラップに限らずどの世界でもある話だと思うが、HIP HOPにはそんな逆境を覆すための舞台がある。近年でその役割を最も果たしているのがMCバトルだろう。作品リリースがなかった崇勲がシーン内で名を上げるには、やはりバトルという現場が最も有効に機能したようだ。   「(2000年代前半の) 『BBOY PARK』のMCバトルとかは観てましたけど、漢さんのフリースタイルを観て『ああ、こんなん出来るワケねぇな』と思ってたから、当時はフリースタイルは一切やってなかったんです。だけど、2005年の『UMB』のDVDを観たときに『こんなにフリースタイル出来るヤツがいっぱいいるんだ』って知って、『自分でも出来るんじゃないかな』って思って、自分でも始めました。で、06年の『UMB』予選が初めて出たバトルです、一回戦で負けましたけど。その後のバトルは、『UMB』で言うなら千葉/埼玉予選で決勝まで行ったことはありますけど、大きなバトルで勝ったことはほとんどないですね」    MCバトル・ファンの間では徐々に知られる存在となった2010年代の崇勲ではあるが、目立った優勝歴がないこともあり、彼のことをダークホースと捉えていた人は多いだろうし、それは昨年の『KING OF KINGS -FINAL UMB-』グランド・チャンピオンシップに駒を進めても変わらなかった。著名且つ実力に定評のあるMCが多数エントリーしていた同大会において、彼を優勝候補に挙げていた人は多くなかっただろう。  
 だが、同大会での崇勲は、そんな下馬評を覆す強さを発揮し、見事に全国大会クラスのバトルで初優勝を果たす。実際、筆者も大会当日に現場で彼のバトルを観たのだが、ベスト16〜ベスト8〜準決勝〜決勝と駒を進める毎に、会場の空気が徐々に崇勲の色に変わっていくのが肌で感じられたし、彼もその変化に応えるようにパンチラインを連発していった様は圧巻だった。YouTubeなどで一試合単位のバトルをチェックするだけでは絶対に味わえない、現場で一回戦から通して観ることで感じられるダイナミズムやドラマがそこにはあった。崇勲が“アンダードッグ”であったことも、ドラマ性が増幅した要因だろう。こういうことがあるから、やはりMCバトルは動画を通してだけでなく、極力現場で体感するべきモノだ、と改めて痛感した次第だ。
 閑話休題。その『KING OF KINGS -FINAL UMB-』を、崇勲はこう振り返る。
「グランド・チャンピオンシップは、結構あっという間って感じでしたね。謎に集中してたから、集中力が切れることなく出来た。普段、バトルに出ても『勝てる』とは思わないんですけど、『負ける』ともまったく思わないんですよ。そういう矛盾した感覚があるんで、負けたら『負けたか』ぐらいの感じで、勝ったら『勝ったか』ぐらいの感じ。でも、ああいうデカイ舞台に立つことが出来たら、自分の良さを伝えられるのにな、とは思ってたんです。だから、下馬評は低かったと思いますけど、面子を見ても自分が負けそうな感じでもないな、と思ってはいました。(自分がダークホースだと思われていた雰囲気は)感じましたね。でも、俺はナメられてるときの方が強くて、そういうときの方が力が出るんです。期待されてるときは大体負けるんですけど(笑)。どんなバトルでも、出ても一回戦は白けてるムードだけど、そこから徐々に空気を作っていくんです。だから、地元で俺のことをよく知ってくれてる人は、『一回戦勝ったら優勝する』って前から言ってくれてたんです。俺という人間を伝えることが出来れば、そこからはコントロールできるっていう自信があった」
 地元が同じということもあり、フリースタイル巧者のTKda黒ぶちとも交流が深い崇勲。そういった交友関係を通してフリースタイル・スキルが磨かれ、今回の優勝に至ったのかと思いきや、そうではないと彼は語る。
「信じてもらえないかもしれないですけど……今年は『KING OF KINGS -FINAL UMB-』に出ましたけど、当日に始まる瞬間まで、まったくフリースタイルはしてなかったんです。基本的にはサイファーには参加しませんし、ひとりで頭のなかで考えたりもしないんで、普段フリースタイルは一切やらない。バトルに出たときだけ。だから、噛むことも多い。で、たまたま良い意味でハマったのがこないだの『KING OF KINGS -FINAL UMB-』だったっていう。2014年の『ブレス式 presents AS ONE』で、TKda黒ぶちとタッグで出たときに優勝して、そのときも『練習したでしょ?』って言われたけど、本番出るまでふたりでフリースタイルは一切しなかった。正直、人とやるフリースタイルは好きじゃないんですよね(笑)。昔、すごい若い子に『一緒にやってくださいよ』って言われて始めてみたら、『Yo Yo、お前のこと、ここでぶっ殺す』みたいなことを言われたりして。そういうことを何回か経験した内に『こういう人たちとやるのはやめよう』って思って(笑)。だから、自分の中でフリースタイルは、溜め込んだモノを一気に吐き出すっていう感覚ですね」
「MCバトルは、観るのは好きなんですけど、自分で出るのはあんまり好きじゃないから、滅多に出ようと思わないです。こないだの『KING OF KINGS -FINAL UMB-』は、アルバムを出す年だっていうのを自分の中で決めてたし、予選が『北関東予選』っていう括りだったんですね。そういう括りなら、無駄な罵り合いとかじゃなくて高いレヴェルでバトルが出来るのかな、っていうのが想像できたんです。だから、���関東予選だから出たっていう感じですかね」
この世に俺がいた事を残す イタコも発狂する怨霊のフルコース
(“外地蔵”)
 自身のアルバムを出すタイミングに、プロモーションも兼ねてMCバトルに出て名を売るというのはよく聞く話だが、崇勲の場合はタイミングが絶妙だ。『KING OF KINGS -FINAL UMB-』が開催されたのが9月末。そして、アルバム「春日部鮫」のリリースは11月だ。
 「春日部鮫」は、崇勲のアンダードッグ的メンタリティが強調されたパンチラインの数々や、地元・春日部で見てきた景色/事象を綴ったパーソナルなリリックが中心のアルバムだ。
「地元の友達とか先輩/後輩に喜んでもらえるモノを作りたいっていうのがまずありましたね。でも、途中でその方向性に関して少し迷いが生じたんですよね。トピック的にあまりにも身内ノリすぎるかな、って」
 初アルバムの方向性について悩んでいたタイミングで、崇勲はある大物ラッパーと会話を交わす。
「その頃にたまたまBOSSさん(tha BOSS/ILL-BOSSTINO [THA BLUE HERB]) -- 何年か前に自分たちのイヴェントにライヴで呼んだことがあったんですけど -- に会う機会があって相談したんですよ。『ちょっとトピックが……』なんて話してたら『そんなの関係ねぇんだよ。1stアルバムなんだから、お前の好きなように書けばいいんだよ』っていうようなことを言ってくれて。その瞬間から、そのまま『身内ノリ続行』っていう感じで」
「BOSSさんからの言葉は、かなり励みになりましたね。アルバム自体、作り始めたのもBOSSさんが『30歳なんてまだまだヒヨッコだよ。ここから始めても全然遅くないよ』って言ってくれたん���すけど、BOSSさんにかけてもらった言葉は、アルバムの歌詞の中にも入ってます。BOSSさんの言葉が背中を押してくれた感じになりました」
 昨年の9月頃だったと記憶しているが、筆者もtha BOSSとは彼のソロ・アルバム「IN THE NAME OF HIPHOP」のリリース・インタビュー時に対面/会話を交わしている。取材後、世間話の延長で最近のHIP HOPの話をするというのは、どんなアーティストの取材でもよくあることなのだが、tha BOSSの取材でもそれは例外ではなかった。そして、その際に「最近聴いたヤバいアーティスト」として彼が名を挙げたのが、崇勲だった。
 その会話の時点では、筆者は「春日部鮫」を聴いていなかったし、前述したエピソードも知らなかったので、彼が崇勲の名前を挙げたことに少し驚いたのだが、その数週間後に『KING OF KINGS -FINAL UMB-』で優勝し、その後に「春日部鮫」を聴いて、ようやくtha BOSSが言わんとしていたことが分かった。このアンダードッグ的視点は、tha BOSSがTHA BLUE HERBの1stアルバム「STILLING, STILL DREAMING」で表わしていた「追う者」のメンタリティと近いものがある。実際、崇勲もTHA BLUE HERBは好んで聴いていたようだ。
「自分の今のスタイルに反映してるってワケじゃないですけど、MSCとかTHA BLUE HERBの、聴いてるこっちが緊張してくるような歌詞……そういうのには憧れましたね。聴いてる人に何らかの感情を一瞬で埋め込むようなスタイルに感銘を受けました」
 自らのスタンスを、NIKEやADIDASのようなブランド色の強いスニーカーではなく、比較的庶民派な印象の強いCONVERSEの定番スニーカーに喩える“ALLSTAR”や、辛酸を舐め続けてきた時期に溜め込んだルサンチマンを明快に曲名にも示した“わかってねえな”のような曲が象徴しているが、崇勲は自身が不器用で無骨な泥臭い人間であることを隠そうとはしない。
「こればっかりは、染み付いちゃってる感覚ですかね。やっぱり、ラップを始めた当初からあまり周りと馴染めず、だけど仲良しこよしやってる人たちは『ヤバイね』って言い合ってるのをクラブの隅で聞きながら『……どこがヤバイんだよ……』とか思ってた期間が長かったんですよね。“わかってねえな”って曲に関しては、ここ何年かはライヴで盛り上がるようになってきたんですけど、昔はまったく盛り上がらなくて。そういう経験もあって、(“わかってねえな”中のリリックの)『皮肉やひがみが俺らのテーマ』とまで言い切っていくしかないな、って感じですかね」
LISTENER HATER PLAYER Mr,Mr クオリティクオリティ言う奴へのツイスター これは逆襲と呼べるぜある種 でも求むその先の拍手
(“HASEGAWA”)
 MCバトルの全国大会で優勝し、名刺代わりとなる1stアルバムを完成させた崇勲。彼の人間性がそれらの出来事によって大きく変わることはないのかもしれないが、以前よりも自身の活動に光明が差してきているのは間違いない。今後の展望について、彼はこう語ってくれた。
「今回のアルバムは、敢えて半径数キロの世界観で作ったんですけど、作ってたときから『このトピックは次のアルバムに持っていこう』みたいなモノがいくつかあったので、今度は違う自分が出るアルバムをすぐ取り掛かれる段階にはあります。BOSSさんは今、40代中盤でしたっけ?そこまでやれるんだったらラップは続けたいと思いますね。俺は『カッコ良い』とか思われるより『面白い』と思われたいんです。バトルに出てるときもそうだから、『こんなヤツでも勝てるんだぞ』っていう姿勢を示したいという意識があった。だから、俺は自分のまんま、何も変わらずにいけたらいいのかな、って」
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lyrasky · 4 years
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【Lil Peep & XXXTENTACION/ Falling Down- Travis Barker】和訳 解説 奇跡の共演
【Lil Peep & XXXTENTACION/ Falling Down- Travis Barker】和訳解説 奇跡の共演 LyraのBlogへ #lilpeep #fallingdown #xxxtentacion #travisbarker #comeoverwhenyouresoberpt2 #ilovemekonnen #sunshineonyourskin #emo #emorap #hiphop #drug #shoot #nails #pip #リルピープ #blink182 #エモ
若くして死んでしまった2人。
どちらも新しいRapの世界を切り開いていく有望なアーティストだっただけに、Lyraのダメージが強い、、、だけでなくRap界にも大きな損失だったと思う。
ゴリゴリのEminemみたいなラップ(好き)と違い2人は、もっと気怠くエモだった。
今快進撃を続けてるPost MaloneのPopさを薄めながら、若者のエモさを歌うのだから、ラップだけでなく世間の普通の若者達のハートを掴んだ。
賛否両論あるが、今夜は奇跡の共演とも言えるLiL Peepの楽曲を、天国にいってしまった2人が歌うヒットシングルを和訳しましょう。
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