#麦田ひかる
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#麦田ひかる #mugita hikaru #真っ白なキャンバス #白キャン #pure white canvas
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アイドル情報専門ページ【R-IDOL】
|真っ白なキャンパス|インタビュー
– チケット情報・販売・購入・予約 | 楽天チケット
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溝蕎麦[Mizosoba] Persicaria thunbergii
溝[Mizo] : Ditch, gutter
蕎麦[Soba] : Buckwheat
It grows in shady areas of wetlands, often in clumps. It is roughly eighty centimeters tall, and produces many small flowers, about five millimeters long, at the top of the stalks. The flowers are lovely in bloom, and in bud they look like 金平糖[Konpeitō], a confectionary, which are also lovely.
It is in the same family as 蓼[Tade](Smartweed), 蕎麦[Soba](Buckwheat), etc. and looks similar from a distance.
路のほとりに咲󠄁ける草にて葉と莖とは蕎麥に似て花󠄁は半ば薄紅なるが多く川邊にあり。蕪村が「水かれがれ蓼かあらぬか蕎麥か否か」といひしは此花󠄁にはあらずやと、見るたびに思ふなり。車夫に名を尋󠄁ねたれども知らず。或は溝蕎麥といふ者か。
[Michi no hotori ni sakeru kusa nite ha to kuki to wa soba ni nite hana wa nakaba usukurenai naru ga ooku kawabe ni ari. Buson ga「Mizu karegare tade ka aranu ka soba ka hi ka」to iishi wa kono hana niwa arazuya to, miru tabi ni omou nari. Shafu ni na wo tazunetaredomo shirazu. Aruiwa mizosoba to iu mono ka.]
A grass that blooms by the roadside, the leaves and stems resemble (those of) Buckwheat, and the flowers are half light crimson, a lot of it are in abundance by the riverside. Every time I see them, I wonder if Yosa Buson referred to these flowers when he said(read in his haiku) "Is it Smartweed, Buckwheat, or neither that is blooming in the drained rice field?" I asked the rickshaw puller its name, but he did not know. Perhaps this is what Mizosoba is? From 車上所見[Shajō shoken](Findings on the vehicle) by 正岡 子規[Masaoka Shiki] quoted from 写生文範[Shasei bunpan](Literary sketch models) by 福田 琴月[Fukuda Kingetsu](A writer of children's literature, 1875-1914) https://en.wikipedia.org/wiki/Masaoka_Shiki Source: https://dl.ndl.go.jp/pid/864852/1/49
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ギャラリールモンドのチャリティー展CAT POWER 2023に参加します。「動物の殺処分を無くしたい」という考えに賛同するイラストレーター47名の原画・グッズを販売します。売上の30%が動物愛護団体に寄付されます。
会期
2023年7月25日(火)〜8月6日(日)12:00 - 20:00
日曜日は17時まで 月曜定休日
【参加イラストレーター】
芦野公平/網中いづる/あんのん/IQGM /石橋 瞭/ICHGO CHA~N/いとう瞳/及川真雪/楓 真知子/桂川峻哉 /かわいちひろ /木内達朗/killdisco/Kumi Takahashi/黒木仁史/小林マキ/コマツタスク/こみひかるこ/三枝かりん /サイトウユウスケ/坂口友佳子/ささきえり/サタケシュンスケ/Jessie /しのはらえこ/シバタリョウ /白根ゆたんぽ/杉山真依子/Studio-Takeuma/須田���介/髙橋 育 /タカヤママキコ/土谷尚武/ナカムラユウキ/najuco/濵 佳江 /原 倫子/番地規紗 /藤本 巧/マコカワイ/前田 麦/末山りん/モニョチタポミチ/八幡瑛子/ユア/吉岡里奈 /リック
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秋旅2023 小海線 HIGH RAIL 1375 ~ 野辺山・小諸
JR線で最も標高の高いエリアを走る路線 小海線にのって、一路 小諸へ。
今回も前々から一度 乗ってみたいと思っていた小海線、せっかくなのでJR東日本ののってたのしい列車シリーズの HIGH RAIL 1375 にて小淵沢から小諸までを乗り通してみた。普通列車で途中下車しちゃうと次の列車はいつだろう…… となってしまいますが、このような観光列車は見所の駅では少し長めに停車してインスタント途中下車を楽しむのを待ってくれる、というのがシンプルにこの子を選んだ理由なのです。あわせて紅葉が楽しめそうな小諸城跡の懐古園も散策します。
朝、ほどほどの時間の特急あずさにて小海線の起点 小淵沢へ。小淵沢駅に降り立つと、キリっとした冷たく澄んだ空気がお出迎え。やっぱり都内とは違うね。ありきたりな言葉ですが空気がおいしい。改札横からのお出汁の香りに誘われ立ち蕎麦へ、遅めの朝食として軽く腹ごしらえ。寒いときには格別!の駅そばをいただいた後、列車の出発時刻まであたりを散策。列車内でのお楽しみ、お弁当とお酒を丸政さんで仕入れる(食べてばかり)。
程よい時間に、改札を抜けホームへ。青色に塗装されたキハ100系気動車へ。最近 キハ100系に乗ることが多いような…、非電化のローカル線だと自ずとそうなってしまうか。今回は私は窓側を向いた1人用のシングルシートをセレクト。隣を気にすることなく大きな窓を独り占めできるリクライニングシート。
ほどなく列車は出発、急な勾配を進みどんどん高地へ。別荘地帯を抜けJRで2番目に標高の高い駅 清里に到着、��ばしの停車。かっこいいHIGH RAIL 1375の車両でも撮影しておきましょう(PhotoshopとPixelの消しゴムマジックで他の乗客を消しているのは内緒です)。清里を出発すると次は野辺山。この区間にはJR最高地点 標高1,375mの地点が。列車は速度を落とし、乗客は皆 カメラを構える(ガラスの反射で変な模様なでちゃった 涙)。数分で野辺山に到着。
JRで最も標高の高い駅 野辺山。ここでもしばし停車時間があり、改札外出ることも可能。白く一見教会を思わせるような駅舎を見学。駅正面には冠雪した山々の美しい姿を拝むこともできます、写真は失敗しちゃいましたが…。観光バスでお越しの外国人観光客がたくさん。小海線に乗るわけではなく、駅だけを見に来ている?不思議な感じでした。
まもなく列車は発車。野辺山をあとにすると、列車は高原を下り佐久盆地を目指します。後半の見どころは、右へ左へと移り変わる千曲川。お弁当を食べながらのんびり楽しみましょう。長野側の主要駅にいくつか停車し、列車は北陸新幹線との接続駅 佐久平を経て、終点 小諸に到着。2時間強の列車旅でした。
小諸では小諸城址に整備された庭園 懐古園へ。戦国時代、武田信玄の軍師 山本勘助によって設計されたという言い伝えの小諸城。城郭が城下町よりも低地にあることから穴城とも呼ばれていたとか。懐古園は大正時代に町によって整備された史跡の自然景観を活用した公園。ちょうど紅葉シーズン真っただ中ということで、空気の澄んだ青空のもとで映える色づいた葉にシャッターをきってみた。不思議とここは人が少なく空いていましたねぇ。これくらいが写真を撮る身としてはありがたいものですが。
ひとしきり園内を回り身体も冷えてきたので、足早に小諸の街を散策しつつ帰路へ着きました。
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と、東北に帰ってきました!
��た車で飛ばして、流石に体がしんどかったので;途中、鹿島神宮近くのホテルで一泊して、鹿島神宮を早朝参拝して帰りました。
その後疲れが響いたのか;風邪ひいて2日ほど寝込んでしまいましたが;な、なんとか持ち直しました;;
1日目、車田先生や皆さんにお会いする機会を頂けて、翌日ようやく、担当と一緒に秋葉原の魂ネイションの会場へ行ってボードにテンマを描かせて頂きました!
その後会場も回らせて貰ったのですが、いやぁ圧巻でしたねぇ…!
様々な名シーンの再現があったり、聖域陣、海皇陣、冥王陣、北欧陣と集まって並ぶとやっぱり歴史も感じるし迫力ありました!
店内のBGMで『花の鎖』や『The Realm of Athena』が流れていて地味にそれに感動してしまいました…涙
そして肝心のテンマと輝火をチェックし忘れたことに後で気づくという…バカバカ;;秋葉原なんてもう滅多に行けないのに:::
…というわけでチマっとですが、車田先生とスピンオフ勢揃い踏みのボードに加わりましたよというお知らせでした。
気が向いた方、是非チェックしに足を運んで頂けますと嬉しいです!
後は一度は来てみたかった鹿島神宮…!
早朝だったので人も少なかったですが、通勤通学の方々が神宮の隣?中?の森を自転車で疾走していくのが、なんか衝撃でした;
それでもあんなに綺麗に自然を保存しているのは凄いですねぇ。
早く出発しなければいけなかったので、参道のお土産屋さんや蕎麦屋さんが開店する前に離れてしまったのが無念でしたが; いつか落ち着いて香取神宮と一緒にまた参拝しに来たいものです。
ではで��!
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北の大地2024 #1
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インバウンドでごった返す小樽運河もこの時間ならば誰も居ません(^_^)v
小樽から札���を抜けて石狩湾沿いを北上してます。jさん元気そうだね😊
カシオペアの丘は初でしたが麦畑と海が良いですね快晴の時に再訪したいな。
新日本海フェリーの船内で焼いたあんこ入りクロワッサンでモーニング。美味しいんですよ😋
更に北上して雨竜郡北竜町のひまわりの里。丘一面ひまわり。スケールが北海道ですね。秋には種拾いで蝦夷リス大忙しですね(゚∀゚)
同じ雨竜郡の萌の丘。ここも初でしたが長居したくなる風景でした。日本一の田園風景と賞賛されたそうです(*´∀`)
小樽と稚内を結ぶオロロンラインの由来になっているウミガラスのモニュメントです。「オロロン」と鳴くそうですよ(ΦωΦ)ペンギンジャナイヨ
初山別村に有るみさき台公園キャンプ場。温泉も食事処もあるのに無料のキャンプ場なんですよ。ここの夕暮れの風景が良いんです🌅
今日も元気だビール🍺が美味い(*´ω`*)
渡道2日目に続く
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#たべもの #チョコミント #くりくりの里
椛の湖でぼんやりしていたら、いつしかお昼どきに。どうやら同僚、桜を観ることだけを考えていて、昼ご飯のことなど気にもしていなかったらしい。
田舎はお店が少ないから、昼ご飯の場所を目星付けておかないと食べ損ねるよ!とは言ったものの……。普段あんまり田舎の方に遊びに来ないんだろうか?どこかあるでしょー!と、呑気な様子……。
グーグルマップで検索してみたところ、案の定近くにはあまり食べられそうなところがなかったので、とりあえず中津川の駅前方面に向かうことにしました。
途中「くりくりの里」という、障がい者の方の作ったものなどを販売する施設(道の駅��ようなものを想像していただければ)を見つけて立ち寄りました。おみやげ物コーナーをうろうろしていると、レジ横でジェラートが売られていて、なんとチョコミントがある!ぞ!
チョコミントと聞けば食べないわけにはいかないので、もちろん食べましたとも。主張しすぎないけどちゃんと存在感のあるミント、色も自然のままの色で優しいチョコミントアイスでした。
このくりくりの里には和食レストランもあって、今考えればここでご飯を食べておけば良かったんですが、まあ駅前まで行けば蕎麦のひとつやふたつ食べられるでしょ、と軽く考えてそのまま出発。
そう、もう後の展開は読めるかと思いますが、いざ中津川の駅前に着いて、近くにある蕎麦屋を片っ端から覗いてみたのですが、どこもかしこも「本日分完売のため閉店」の張り紙。もう口が完全に蕎麦になっていたので蕎麦以外を食べる気はなく、まあ昼ご飯を食べそこねる羽目になりましたよね。(最終的に、夕方ぐらいに土岐のサガミで蕎麦にありつきましたとさ)
食べるのが大好きな友人と出掛ける時は事前のラインで絶対ご飯の話になって、お互い近隣の飲食店をリサーチしておくのであまり食に困ることはないのですが、そうか……あんまり食に興味ない人からのお誘いだと、出掛けて昼ご飯とかカフェに入るという概念がないのか……という学びでした。私はちょっとドライブに出かけた時はその土地のお店に入りたいと思う派なんですが、まあでも車内でコンビニ飯の方が気楽で良いという人もいるし、個々の価値観の違いかぁ……。
途中、とても眺めの良い橋があったので慌ててスマホを構えました。
天気の良い日だったので、遠くの山々が重なっているのもよく見えます。こういう景色がふと見えるから山に訪れたくなるんだよなぁ。
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Xユーザーの神田錦町更科さん:「いつから何処からかは不明ですが、蕎麦を塩で食べるというのが通の食べ方だと言う人がいます。 江戸時代の文献を読んでも大根おろし汁で食べたり、味噌味の煮抜き汁や、醤油の原点のひしおで食べたの記述はありますが、塩は江戸蕎麦には出てきません。」
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ゲシュタルト崩壊
(ビアゲのみなさん、最後まで読んでいただけるとラムダくんが報われます。)
どーも、お米が炊きあがるのをニコニコで待っている、米よりパン、パンより麺派なラムダです。
とりあえず稽古日誌としての役割でもはたさうかな。
・発声
・だるまさんがころんだ(魔改造edition)
・ポーズ引き継ぎエチュード(正式名称なんでしたっけ)
・動き付け、読み、シーン練などなど
あかん楽しいです。毎日稽古って言われても余裕でイケマスネ。今日の発見は、なんかなつめエチュード上手くね?と、ハゼと僕がエチュードで共演しちゃうと漫才になっちゃうことです。ふざけるのも程々にせいーって感じですね、自分。
さ、こっから僕の自由お話タイムですよね?
小噺1
最近脚本を読みながら自分以外の役も自分がやったらどうすっかなーなんて考えてニヤニヤする���が趣味なんですけど。(自分の役に集中しろよとか言わないでおじさん傷ついちゃう)
気づいたことがありまして、僕って僕すぎるんですね。色んな人にも言われるし僕も思います。動きも読み方も。なんかどうしてもコントみた��というか大袈裟になっちゃう。ほんでな!?なんでかなーって考えたんです。
ひとつの仮説が浮上しました。
僕の表現のインプットが昔から漫才だのコントだの新喜劇だのお笑い方向に偏りすぎだからではないかと!これみなさんもないですかね!?映画好きな人とか!
この今の状態は多分演劇から見るとあまりよろしくない、気がする、知らんけど。はーいがんばりまあす。
小噺2
これは秋公の時に稽古日誌回ってきたら書こうおもてあっためててんけどな、まわってこんかってん。だからひえ切る前に世にはなっとこうと思って。
脚本書ける人ってエグいっすね。
もっかい言っとこ。
えぐううううううい(白子さん風)
たった今炊き上がった米よりエグい。僕は秋、ヒーヒーフーフー言いながら漫才書きました。文字数なんと2000文字、!
とっても宿儺(すくな)い。通った通ってないとか、未完がどうだとかまっっったく関係ない。あなたたちみんな大天才だと僕は思います。自分の作った世界を何万文字とかいうレベルまで広げて深みを持たせて。体験げいこみたいな感じで残念ながらできなかった脚本をショートバージョンでやるとかやってみたいですよね。書いた方の気持ちがわからないのでめちゃくちゃムカつく提案してたら本当にごめんなさい。
でもほんとに面白い脚本を、全力を出させてくれる脚本を皆様ありがとうございます。謝謝。コップンカップ。テリマカシ。メルシーボークー。
トンカツショットガン。
もうええわ、どーもあざした。
と、思ってたんですけど。ビアゲの方に色々書くやつやってないわ。明日全休の男を舐めるな。かくでえっ!(ここまで読んでくれてる人なんかいるんやろか)
•東愛莉
しゃうじき、しゃうじきよ!?秋公で1番びっくりさせられました。あずのすごさを見せつけられました。あの元気なあずが1日目2日目とビアゲ後に気が抜けた顔でらいらと話してる姿が印象的でした。ホントにだしきってるんだなと。人間の成長ってこういうことかあってなりました。表情、読み方、脚本解釈力、見習うとこしかないわ。
・大良ルナ
うーんなんか僕の中でずっと天才なんですよね。もちろん沢山努力してるのは百も承知なんですけど。楽ステの優が嘘をついて、「喜ばせようとした!?」的なセリフのシーン、あそこをオペ席で見て、自分なんて足元に及ばねえじゃねえかと笑っちゃったのを覚えてます。声色とかももちろんだしなんかオーラ全体がぎゅるんって変わってた気がします。ほんっとにすごい。
・児
色々持ってる人。世界を持ってる人。ただただかっけえ人。オムニも秋公もそこまでご一緒できた訳では無いんですが、箱でチョロっとお話できたりしたあの時間を僕はずっと宝物として残りのちゃうかライフを生きていきます。
・うみつき
あ、この子ってこんなに優しくて人の事を考えて自分を持ってるんだ!と秋公期間を経て思いました。演技が上手いのも面白いのももちろん知ってました。けどその下にえげつない優しさで人のことをよく見てるスミもいます。暖かい人です。柳もカヲルくんでありブルゾンだったのがあそこまで完成されるとは、流石でございます。
・統括のフォーニャー
楽屋で色んな人と楽しそうに話してらっしゃったのが印象的です。さすが統括。統べるもののコミュ力ですね。ネキと言われてる意味がよくわかった気がします。ほんとにみんなからしたわれるネキって感じでした。看護師は、もう、言うまでもなく。まりおさんが楽屋で「フォニャやっぱうめえ」って呟いてたのをこっそりお伝えしときます。
•緒田舞里
1番34期で関われた人だと思います。でもそれは僕がって言うよりみんな結構そうな気がします。まりおさんの優しい人柄と面倒見の良さを考えたらそりゃそうです。人生で出会った中でも3本の指に入るぐらいにいい先輩。偉大も偉大です。お勤め先のバーに36期20歳勢を引き連れて近々殴り込みに行きます。1杯奢ってくださいお願いします。お母さん役凄かったです。冗談抜きでオペ席で半泣きでした。まりおさんの役の向き合い方のえげつなさをガッツリ感じました。さすがっす、大先輩。
・白
君と箕面にデートに行けたことで僕は森々仙入となり、長いこと離れてしまったちゃうかでもやって行けるかもしれないと思い、ちゃうかパーカーを発注出来ました。あの滝と共に撮ったBeRealはまだお気に入り登録されています。ほんとに才能に溢れていると思います。常人にはできないレベルでの脚本解釈力とそれの言語化の能力。ちょっと分けろや、なあ。またそば食べようね。
•垅麦
栞に書いたから許して。eラやろうか。
•岡崎仁美
ぴーひょろろろろろ、ばっさあああ。いやあんだけ好きって言うからですよ。あのボケ実はまあまあ恥ずかしいプラスウケないと結構メンタルくるのでカヌレさんは絶対笑ってると心に留めて毎回やらせていただいてました。エンドロでカヌレさんにダメを出していただいてる時に1番演劇やってる感じがしたのを覚えてます。すごい的確でクセとかも見抜いてくださって、すーごくたのしかったです。カヌレさん演出の元で稽古してみたかったです。寧々、良かったですねえ。カヌレさんのガッツリ演技が最後に見れて良かったです。
・雨々単元気
てーーにいいいい!君とはもっと仲良くなれそうな匂いがぷんぷんするんだよねえ。とりあえず役の好みは似てそう。パワー役共演を夢見る20歳男性です。コントだっていい。君とぶちかましてえ。オラオラしてえ。劇中劇と劇団員。うんほぼ2役やね。ちゃーんと演じ分けれてたし、まとってる雰囲気まで違ってた。ちゃんと上手い!その上で面白い、スタープラチナかよ。あ、最強ってことです。
・舞原の搾り滓
最後にまほろさんの大隅がみれて良かったです。どこで手に入れるんでしょうあの声の感じは。すごくしっかりしてて、聞き取りやすい。外公に出れなかった身としてはやっぱり真面目な役を丁寧にこなすまほろさんはなんだか新鮮で、でもすごくしっくり来ました。さすがです。
・じゃがりーた3世
あのオトンもう見れないんですか!?僕はもうレプトンさんがカミ段上げであぐらかくのを毎回ワクワクして待ってました。キタキタキタって感じです。あのwiki雑学が聞けないのも残念です。また駅の前でもどこでも1時間ぐらいお話したいですね。
・オーム
ダメ書かなきゃと思ってビアゲ見ながら色々書いて、ふと自分のスマホを見るとオームすごい!ばっかり書いてたのが僕個人的に印象に残っていることです。めちゃくちゃできるやん(なんで上から目線やねん)てにと二人でマイムするとことかほんとに見習わねばって感じでした。こんさんとこりさんと3人で稽古してたのもすごく覚えてます。食らいつく姿勢というか。ほんとに努力の賜物です。スゴすぎる。キミ、しれっと20歳なってる?もしかして。はい、うちの家にご招待です。
・テキストを入力
まずはビアゲ関係ないですが、最強の映像をつくってくださってありがとうございます。お世辞でもなんでもなくカッコよすぎ。まじすげえっす。役者ももう3回目ですか!?僕も役者人生通算3回なので同じですね。エピさんはほんとに色んな人のことをしっかり見てるなって。あとコミュ力普通に高いなって思います。あんなにほそいのにめちゃくちゃ頼りがいがあります。もっとご飯とか食べに行きたいです。甲子園もまた行きたいです。あと過去問残しといてください。
・縦縞コリー
全く同じ日数生きてきたとは思えないぐらいしっかりしてます。34,35期の人達からは色々言われてる時もありますけど、役者としてももちろんですし、会計、衣装色々任されてるのってコリさんがコリさんだからだと思います。あとやっぱり優しい。カラオケでめちゃくちゃにチルってる後輩集団を白子さんと笑わせようとしてくださったのめちゃくちゃ残ってます。優しすぎないか、、!?ってなりました。こりさん、熊吉は阪神ファンです、甲子園、行きましょう。
・アリリ・オルタネイト
イルルさんも栞に思いの丈はぶつけさせて頂きました、とりあえず一言でまとめるなら大・尊・敬
・叶イブ
あなたも僕の精神安定剤でした。ラムダおもろいなあ、すごいなあに実はしっかりとガッツリと救われておりますわたくし。ほんとにありがとう。1ステで漫才で出ていった時も最初にふぃあが客席に座ってるの見えてよし、なんか行ける気がする、と勇気をもらいました。あざます。子供役は、うん、しっくりって感じ。ピタッとハマってる。でもそれはたまたまじゃ絶対ないと思います。努力ゆえかなと。すごい。コント一緒に出たいわね。ワクワク
・エリックさん
正しい芸名を調べるほど僕はできた人間じゃなかったようです。映像オペやって良かったことは?と聞かれたらスチルさんとの純愛だよと、エリックさんとお話できたことかなと思います。ほんとに優しくて4回Enterキーを押すだけなのにめっちゃくちゃに褒めてくれて。マジで僕は単純な人間なので大好きですもう。責任感も強くて演技も上手くてもっともっともっとお話したいです。舞台上でもいつか。がっころでエリックさんの変顔に合わせて音響入れるあの気持ちよさ、まだ忘れられません。
・るいさん
こんにちは、タイミーの人です。るいさんともお話出来て良かった。挟み込みに感謝ですね。なんかおもろい話ない?と振られた時はすごいな!?ってなりましたけどほんとに話してて安心する先輩って感じですーごくおちつきます。またゆっくりお話したいですね、稽古にも来てくださっていいんですよ???笑
・アネモネ
役者やんもう。あなたの窓からの顔まじで怖いんだから。ほんとに面白いですアネモネは。36期の色んな人が天才やんって言ってるのをよく聞きます。もっともーっとアネモネを掘り下げていきたい。君からもまだまだおもしろの匂いがぷんぷんする。新人見とけよ、いっぱい話しちゃうんだからな。
・はぜ
やっぱ最後はあんたでしょーよ。相方であり相棒だと勝手に思ってます。ほんとにさ。エンドロまでは同じラインにいたと思ってたのによ人がタイで熱帯魚と戯れてる間に映像の神になり脚本まで書いちゃって。ホントすごいよ、すごい。色んな人にすごいと思っちゃうし言っちゃうんだけど、僕目線いちばんこの人頑張ってたな、自分には出来ないなって思ったのは間違いなく君です。色々あったし間違いなくしんどいことも多かっただろうに、ご飯も一緒に食べてくれて、漫才の稽古も付き合ってくれて、感謝だらけです。寛大って言葉が似合うね。そして優しいやつです君も。みんなそれを感じてるからこそはぜはぜ言ってよっていくんだと思います。みんなのことをすっごく考えてくれるしそのために自分をなげうてちゃう人。だからこそ色々溜まってくだろうし少しでもその毒抜きが出来たらなとずっと思ってた秋公期間でした。ほんっっっとによく頑張った。やりきったあなたが一番カッコイイわよ。さ、来年も多崎で漫才すっかあ!
あーあ、短く簡潔には僕には無理みたいです。今度こそ、もうええわ、あざしたあ。
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#麦田ひかる #mugita hikaru #真っ白なキャンバス #白キャン #pure white canvas
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おすすめの動画を見つけたよ! #ミクチャ
】 https://mixch.tv/m/4epGp8wr
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GW辺りに札幌に行こうと思っています。おすすめの、絶対行ったほうがよい場所を教えていただけないでしょうか。カフェとかレストランとか美術館とか美術館とか…。あと夜パフェに行きたいので、どこを選ぶと間違いないか教えてほしいです。あともしかしたら注意したほうが良いことがあれば教えていただきたいです。
こんな質問がたまにDMでも来るので、いつも楽しく回答しています。あなたの住む街に行くときはおすすめを教えてくださいね。札幌というワードで、わたしを思い出してくれるのが嬉しい。
パフェの語源はフランス語の“完璧”から来ているそうですね。夜パフェはカフェテリアパルが間違いないです。人匙ごとに味や食感が変わり、その美味しさにくらりと来ます。パフェって素晴らしい。価格帯が高めなのにいつも行列です。札幌の夜パフェは締めパフェなので、21時ごろから混み合います。すすきのでの1件目を手早く切り上げるのがおすすめです。
他にもパルよりは価格が安めな“ななかま堂”やお酒とのペアリングを楽しむ“ペンギン堂”とかもあります。クセ強店主がやっている“ぴーぷる・ぴーぷ”は色々な掟があり、確実に終電を逃しますが札幌名物って言えば名物なのかもしれません。夜ではないですが、札幌で1番美味しいパフェは“くなう”というアパートの一室で営われる喫茶“室”で、るるぶやSNSには掲載されません。アパートの一室と言えども、黒い壁紙にレースのカーテンが揺らめくだけの内装。華美ではなく、ただただ美しいパフェは美術品のようです。その甘みに背筋が伸びる。なんだか神様との対話みたいだなと思いながら食べています。勝手に“札幌で1番天国に近い場所”と呼んでいます。
どうしましょう。パフェの話だけでこんなに行数を使ってしまいました。あなたのために続けますね。北海道でみれば美術館は多いですが、札幌に屋内の美術館は少ない気がします。札幌にある北海道立近代美術館や札幌芸術の森美術館は気になった特別展の時に行く程度です。風が寒くなければ、モエレ沼公園なんてどうでしょう。イサムノグチが作った彫刻公園です。モエレ沼まで行かなくとも、街中を歩いていると、野外彫刻をよく見かけるのも札幌の小さな楽しみです。大通公園を西に降って散歩するのも面白いかもしれないですね。札幌の中心は、大通りで分断して北と南、創成川で東と西に分断した碁盤の目のような住所をしています。札幌で定められている景観色に則った建物が整然と並ぶので、他の政令都市とは違う空気感に包まれた街並みです。https://artpark.or.jp/sansaku/
よくお一人様をしてカフェを探訪していました。上記した“くなう”はパフェとして完成され過ぎている。お一人様専用なってはしまいますが“カルメル堂”は、深海のような濃いブルーの壁紙の��側でゆったりと過ごせます。季節ごとに出す甘味が変わり、5月はプリンとラムレーズンどら焼きだった気がします。わたしは7月の珈琲あんみつが梅酒寒天が乗ってて好き。“ギャラリー犬養”は、わたしが菊水に住むひとつの理由になった喫茶店です。大通り駅から地下鉄で2駅なので行きやすいかと思いますが、住宅街の奥にあるから迷いやすいかも。聞き馴染みのない西洋の伝統的なケーキが沢山あってどれも美味しい。食べた後に河川敷を散歩するのが好きでした。“喫茶店つばらつばら”と“石田珈琲店”、“一粒の麦”も好きです。
食は飲酒に重きを置いた人間なのでレストランには疎いですが、二四軒にある“ユニヴェール エス”は友人が修行していた洋食屋です。一皿一皿がキラキラして見えるのはきっととてつもなくこだわり抜かれているからなのでしょうね。後は、また菊水になってしまいますが”プティットレジョン”はフランスの家庭料理を出すビストロです。店内を一歩入ればそこは南フランス。ここもまた美味しいです。
注意することと言えば、気温でしょうか。北海道の桜はGWに咲くので、そのくらいの気温で、風も強い日が多い印象です。GWでの札幌観光ということで、移動は公共機関を想定しておすすめしてみました。土日祝日は、地下鉄が540円で1日乗り放題のドニチカという切符が買えます。おすすめしたモエレ沼公園以外は地下鉄だけで移動できます。特にカフェに関しては地下鉄で行けるものをピックアップしてみたので、レンタカーを使用するのであればまたお知らせくださいね。
5月中旬以降であればライラック祭りが大通公園で開催されます。金木犀と同じモクセイ科なので、とてもいい匂いがする薄紫の花の木です。札幌市のシンボルで、自生できる南限は関東らしいですね。大通公園のベンチの横にライラックが植えられているので、花の下でゆっくりするのが好きです。今年は雪解けも早そうなので、あなたが来る頃にライラックが咲いていたなら嬉しいな。旅行から帰ったらまた、質問箱でも良いので、札幌でのお話を一緒にしましょうね。
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今日は店は休みです。久しぶりに奈良に来ています。本籍を奈良に置く身としては、故郷へ戻る嬉しさです。仕事があるとはいえ、合間に興福寺で八部衆の御顔でも拝めるとなおなお嬉しいところですが。
そういえば、本日2023年12月12日はちょうど小津生誕120年、没後60年。小津で奈良、といえば『麦秋』の最後、ふっと差し込まれる麦畑の中をゆく嫁入り風景のシーンですが、あれ、どこなんでしょうか。後ろに耳成山のような山が見えるので、橿原のどこかかな。
ついでの話。このごろ書きものの仕事が多くて、頼まれもの以外の文章なぞつらつら書いている場合ではないのですが、小津についてふと気になってしまったことがあり、書いておかないと本来の仕事ができなさそうなので、合間合間に記していた雑文をここに置いておきます。長いですし、結論はないし、ほとんどの方が興味のない内容かと思いますが…。
ちょっとした調べものがあって雑誌『みすず』2001年12月号を読んでいたら、木村伊兵衛が小津安二郎を撮影した写真と文章「上海で小津安二郎氏をうつす」が掲載されていた。時期は1938年1月なので第二次上海事変の翌年。小津は1937年9月に出征して中国に渡り、事変の直後12月から上海にいたようで、その時に偶然木村と出会っている(その後小津は南京・漢口と転戦する)。写っている小津が携えているカ��ラは、木村の稿に続いて掲載されている田中眞澄氏の文章「ライカという”近代”」によればライカA型。小津関係の文章を読むと、小津は「ご愛用のライカ」をいつも手にしていたと多くの人が書いているので(同文によると山中貞雄はコンタックスだったらしい)さもありなんと思うのだけれど、田中氏の文章を読んでいくなかで、ちょっとしたことが気になるようになった。
小津は1942年から軍の依頼で記録映画撮影のためにシンガポールに滞在し、ただまあ映画製作などできる状況でもないため、自国内では上映が禁止されていたアメリカ映画をひたすら見続け、敗戦を当地で迎えている。そしてそのまま捕虜となり、抑留生活を終え1946年1月に帰国する際に小津はライカを手放しており、「彼が再びライカを所有するのは一九五四年のことである」とある。買った件の典拠はどこにあるんだっけ、と思いつつ近所の図書館に置いてある『全日記 小津安二郎』を紐解くと、なるほど1954年3月22日の項に、
> 「出京 サンにてライカを買ふ 135.000 アメリカン フアマシー 明治屋(燻製)によつて帰る」
とある。と、ここで急に話は脇道に逸れるのだが、ちなみに隣のページ、同年4月8日の項には、
> 「駒場の東大教養学部 民芸館 青山の花屋 それから 車にて銀座に出て なごやかに夕餐を喫す 野田夫妻と江原氏同道」
と日本民藝館に行った旨の記載がある。他にも、1951年11月10日に
> 「宿酔 森昌子さん達と 陶哉 たくみに寄って大船に帰る」
や、1955年5月17日には
> 「駅にて野田氏と待合せ 上野松坂屋の民芸展にゆく」
とも。ほか、パッと目を通しただけでも1952年4月8日、同年6月15日、1953年2月9日、1961年2月2日に銀座たくみに行った記載があるし、志賀直哉や里見弴についての言及は多すぎるので略す。こういうものを読むとつくづく民藝誌において特集「小津と工藝」を組みたいなと思う。白樺派との関係や小津の映画における「巧藝品考撰」について取り上げる特集。『秋日和』で原節子の後ろにかかっている暖簾は芹沢銈介だろうか、『秋刀魚の味』で中村伸郎の後ろに置かれたやちむん?はたくみで求めたものなのだろうか、やちむんであれば誰の仕事だろうか。佐田啓二と吉田輝雄がとんかつ屋で食事をするシーンには確かに芹沢カレンダーが掛かってるな、などといつも気になるので。松竹から写真借りるといくらぐらいかかるかな…。
それはさておき。この時購入したライカが、前掲日記の1961年3月23日の項に「夕方会社帰りの秀行くる ライカ借(貸)してやる」とある通り、の���に小津の甥が譲り受け、現在は茅野駅前「小津安二郎・野田高梧コーナー」に寄贈展示されているライカIIIfとズマリット5cmF1.5なのだろう。と、ここまで長々と記して、まだ前提です。
そこでふと思い出したのが厚田雄春・蓮實重彦著『小津安二郎物語』(筑摩書房・リュミエール叢書)の冒頭。ここには小津が『東京物語』と『早春』のロケハンをしている写真が2葉掲載されているのだけれど、どちらにおいても小津はバルナック型のカメラを携え、光学ファインダーをのぞいたりしている。沈胴レンズにフードをつけている様子から、あれはライカなんだろう、レンズは厚田雄春が『父ありき』において75mmを一場面で使った以外はすべて50mmだったと言っているぐらいだから同径のエルマーやズマール、ズミタールとかかな、などとうっかり思い過ごしていた。むろん『早春』については、製作年やロケハンの写真に記載されている「1955.7.20」という日付からするとまったく問題はない。しかし『東京物語』は1953年製作公開だから「再びライカを所有した」1954年では間に合わない。そう気がついて見直すと、小津が構えているカメラは、ライカIII型に似ているがファインダーの位置が違うし、そもそも1954年にあわせて手に入れたと思しきズマリットは沈胴レンズではない。
妙なことに気がついてしまったと思いつつも、ひとまずは日記記載の「サン」を手始めに調べてみようとしたが、何の会社かわからない。名取洋之助が企画編集した「週刊サンニュース」と関係はあるのだろうか。対外宣伝誌の専門家であり、銀座に店を構える森岡さんに聞いたらわかるだろうか。いずれにせよ1949年以降の小津の日記に「サン」が登場するのは、「1951年1月17日・3月21日・4月24日・11月10日、1952年4月17日、1953年6月16日、1954年3月22日(前述のライカを買った日)・10月14日、1955年4月6日、1960年7月14日、1961年2月2日(”たくみ サンに寄って三越”)」。1953年6月16日は、ちょうど『東京物語』ロケの最中だったことが気に掛かる。ほか、関係しそうな記載としては1953年3月30日に「アサヒカメラ座談会」、1954年11月5日の「シュミットに寄ってから」(当時ライカの総代理店だったシュミット商会か)、1955年2月15日「昼寝をしてゐると小尾がくる ニッコールの85m(ママ)のレンズを頼む 四万五千円を預ける」、同年3月11日「小尾に会ひ105mmのレンズを見る」、同年6月27日「小尾から電話ライカピッド(ママ。入手したライカがIIIfであれば、ライカビット SYOOMか)を頼む」ぐらいか。この「小尾」という人は何者なんだろう。
次に小津が構えているカメラの形状から何かわからないかと思い、あらためて細部を見れば、写っているカメラは戦後キヤノンが作っていたコピーライカであることがわかる。決め手はファインダーの位置。同時期の国産コピーライカであるニッカやレオタックスはライカそっくりに作っているのだが、キヤノンは誠実と言っていいのか「打倒ライカとコンタックス」の心意気の現れか、多少スタイルが違う。なお、小津が用いている機種については、この時期のレンジファインダー機は輸出用に作っていたせいか勢いがあり、すぐ新型が出るうえに、外観がどれも似すぎていて小さな写真では区別がつかない。時期を考えれば、1946年発売のSIIから1952年のIVSbの間のいずれかで、III型以降のように見受けられる。レンズもやはり形状から判断するとズマールに似ているので、1949年発売開始のキヤノン Serenar 50mmF1.9か。そう気づいて改めて調べると、「カメラ毎日」1954年6月号に掲載されている座談会「カラーは天どん 白黒はお茶漬の味」ではカメラの話がもっぱらで、その時に手にしているのはキヤノンである。このキヤノンのカメラとレンズ、そして外付けのファインダー、この時期どういう経緯で小津は使っていたのだろう。いずれにせよ、1953年の『早春』はともかく、なぜ1955年に「ご愛用のライカ」ではなく、キヤノンを用いているのか。
ついでに言うと、小津が鏡の前でカメラを向けて撮っているセルフポートレートに用いているカメラはコンタックス。日記をざっと読んだ限りではわからないけれど、これもいつ手に入れたのだろう。レンズはゾナーの5cmF1.5。明るいレンズがお好みと見える。こちらは姪が譲り受けたとのことで、今は先のライカと同じく茅野駅前にある。
長々と書いてきましたが、つまりはこれらが今回生じた疑問です。小津に詳しい人、どうか教えてください。
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「お化けの棲家」に登場したお化け。
1、骨女〔ほねおんな〕 鳥山石燕の「今昔画 図続百鬼』に骨だけ の女として描かれ、 【これは御伽ぼうこうに見えたる年ふる女の骸骨、牡丹の灯籠を携へ、人間の交をなせし形にして、もとは剪灯新話のうちに牡丹灯記とてあり】と記されている。石燕が描いた骨女 は、「伽婢子」「牡丹灯籠」に出てくる女つゆの亡霊、弥子(三遊亭円朝の「怪談牡丹灯 籠」ではお露にあたる)のことをいっている。これとは別物だと思うが、「東北怪談の旅」にも骨女という妖怪がある。 安永7年~8年(1778年~1779年)の青森に現れたもので、盆の晩、骸骨女がカタリカタリと音をたてて町中を歩いたという。この骨女は、生前は醜いといわれていたが、 死んでからの骸骨の容姿が優れているので、 人々に見せるために出歩くのだという。魚の骨をしゃぶることを好み、高僧に出会うと崩れ落ちてしまうという。 「鳥山石燕 画図百鬼夜行」高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 「東北怪談の旅」山田 野理夫
2、堀田様のお人形
以下の話が伝わっている。 「佐賀町に堀田様の下屋敷があ���て、うちの先祖はそこの出入りだったの。それで、先代のおばあさんが堀田様から“金太郎”の人形を拝領になって「赤ちゃん、赤ちゃん」といわれていたんだけど、この人形に魂が入っちゃって。関東大震災のとき、人形と一緒に逃げたら箱の中であちこちぶつけてこぶができたから、修復してもらうのに鼠屋っていう人形師に預けたんだけど少しすると修復されずに返ってきた。聞くと「夜になると人形が夜泣きしてまずいんです」と言われた。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収)
3、ハサミの付喪神(つくもがみ)
九十九神とも表記される。室町時代に描かれた「付喪神絵巻」には、「陰陽雑記云器物百年を経て化して精霊を得てよく人を訛かす、是を付喪神と号といへり」 という巻頭の文がある。 煤祓いで捨てられた器物が妖怪となり、物を粗末に扱う人間に対して仕返しをするという内容だ が、古来日本では、器物も歳月を経ると、怪しい能力を持つと考えられていた。 民俗資料にも擂り粉木(すりこぎ)や杓文字、枕や蒲団といった器物や道具が化けた話しがある。それらは付喪神とよばれていないが、基本的な考え方は「付喪神絵巻」にあるようなことと同じで あろう。 (吉川観方『絵画に見えたる妖怪』)
4、五徳猫(ごとくねこ) 五徳猫は鳥山石燕「画図百器徒然袋」に尾が2つに分かれた猫又の姿として描かれており、「七徳の舞をふたつわすれて、五徳の官者と言いしためしも あれば、この猫もいかなることをか忘れけんと、夢の中におもひぬ」とある。鳥山石燕「画図百器徒然袋」の解説によれば、その姿は室町期の伝・土佐光信画「百鬼夜行絵巻」に描かれた五徳猫を頭に 乗せた妖怪をモデルとし、内容は「徒然袋」にある「平家物語」の 作者といわれる信濃前司行長にまつわる話をもとにしているとある。行長は学識ある人物だったが、七徳の舞という、唐の太宗の武の七徳に基づく舞のうち、2つを忘れてしまったために、五徳の冠者のあだ名がつけられた。そのため、世に嫌気がさし、隠れて生活するようになったという。五徳猫はこのエピソードと、囲炉裏にある五徳(薬缶などを載せる台)を引っ掛けて創作された 妖怪なのであろう。ちなみに土佐光信画「百鬼夜行絵巻」に描かれている妖怪は、手には火吹き 竹を持っているが、猫の妖怪ではなさそうである。 ( 高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕画図百鬼夜行』)→鳥山石燕『百器徒然袋』より 「五徳猫」
5、のっぺらぼー 設置予定場所:梅の井 柳下 永代の辺りで人魂を見たという古老の話しです。その他にも、背中からおんぶされて、みたら三つ目 小僧だったり、渋沢倉庫の横の河岸の辺りでのっぺらぼーを見たという話しが残っています。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収) のっぺらぼーは、顔になにもない卵のような顔の妖怪。特に小泉八雲『怪談』にある、ムジナの話が良く知られている。ある男が東京赤坂の紀国坂で目鼻口のない女に出会い、驚き逃げて蕎麦 屋台の主人に話すと、その顔も同じだったという話。その顔も同じだったという話。
6、アマビエアマビエ 弘化3年(1846年) 4月中旬と記 された瓦版に書かれているもの。 肥後国(熊本県)の海中に毎夜光るものが あるので、ある役人が行ってみたところ、ア マビエと名乗る化け物が現れて、「当年より はやりやまいはや 6ヵ月は豊作となるが、もし流行病が流行ったら人々に私の写しを見せるように」といって、再び海中に没したという。この瓦版には、髪の毛が長く、くちばしを持った人魚のようなアマビエの姿が描かれ、肥後の役人が写したとある。 湯本豪一の「明治妖怪新聞」によれば、アマピエはアマピコのことではないかという。 アマピコは瓦版や絵入り新聞に見える妖怪で、 あま彦、天彦、天日子などと書かれる。件やクダ部、神社姫といった、病気や豊凶の予言をし、その絵姿を持っていれば難から逃れられるという妖怪とほぼ同じものといえる。 アマビコの記事を別の瓦版に写す際、間違 えてアマビエと記してしまったのだというのが湯本説である。 『明治妖怪新聞」湯本豪一「『妖怪展 現代に 蘇る百鬼夜行』川崎市市民ミュージアム編
7、かさばけ(傘お化け) 設置予定場所:多田屋の入口作品です。 一つ目あるいは、二つ目がついた傘から2本の腕が伸び、一本足でピョンピョン跳ねまわる傘の化け物とされる。よく知られた妖怪のわりには戯画などに見えるくらいで、実際に現れたなどの記録はないようである。(阿部主計『妖怪���入門』)歌川芳員「百種怪談妖物双六」に描 かれている傘の妖怪「一本足」
8、猫股(ねこまた) 猫股は化け猫で、尻尾が二股になるまで、齢を経た猫 で、さまざまな怪しいふるまいをすると恐れられた。人をあざ���き、人を食らうともいわれる。飼い猫が年をとり、猫股になるため、猫を長く飼うもので はないとか、齢を経た飼い猫は家を離れて山に入り、猫股 になるなどと、各地に俗信がある。 このような猫の持つ妖力から、歌舞伎ではお騒動と化け猫をからめて「猫騒動もの」のジャンルがあり、
「岡崎の猫」「鍋島の猫」「有馬の猫」が三代化け猫とされる。
9、毛羽毛現(けうけげん) 設置予定場所:相模屋の庭 鳥山石燕の「今昔百鬼拾遺」に毛むくじゃらの妖怪として描かれた もので、 「毛羽毛現は惣身に毛生ひたる事毛女のごとくなればかくいふ か。或いは希有希現とかきて、ある事まれに、見る事まれなれば なりとぞ」とある。毛女とは中国の仙女のことで、華陰の山中(中国陝西省陰県の西 獄華山)に住み、自ら語るところによると、もともとは秦が亡んだため 山に逃げ込んだ。そのとき、谷春という道士に出会い、松葉を食すことを教わって、遂に寒さも飢えも感じなくなり、身は空を飛ぶほど軽くなった。すでに170余年経つなどと「列仙伝」にある。この毛羽毛現は家の周辺でじめじめした場所に現れる妖怪とされるが、実際は石燕の創作妖 怪のようである。 (高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕 画図百鬼夜行』→鳥山石燕「今昔百鬼 拾遺」より「毛羽毛現」
10、河童(かっぱ) 設置予定場所:猪牙船 ◇ 河童(『耳袋』) 江戸時代、仙台藩の蔵屋敷に近い仙台堀には河童が出たと言われています。これは、子どもたちが、 なんの前触れもなく掘割におちてしまう事が続き探索したところ、泥の中から河童が出てきたというも のです。その河童は、仙台藩の人により塩漬けにして屋敷に保管したそうです。 ◇ 河童、深川で捕獲される「河童・川太郎図」/国立歴史民俗博物館蔵 深川木場で捕獲された河童。河童は川や沼を住処とする妖怪で、人を水中に引き込む等の悪事を働く 反面、水の恵みをもたらす霊力の持ち主として畏怖されていた ◇ 河童の伝説(『江戸深川情緒の研究』) 安永年間(1772~1781) 深川入船町であった話しです。ある男が水浴びをしていると、河童がその男 を捕えようとしました。しかし、男はとても強力だったので逆に河童を捕えて陸に引き上げ三十三間堂の前で殴り殺そうとしたところ、通りかかった人々が河童を助けました。それ以来、深川では河童が人 間を捕らなくなったといいます。→妖怪画で知られる鳥山石燕による河童
11、白容商〔しろうねり〕
鳥山石燕「画図百器 徒然袋」に描かれ、【白うるりは徒然のならいなるよし。この白うねりはふるき布巾のばけたるものなれども、外にならいもやはべると、夢のうちにおもひぬ】 と解説されている。白うるりとは、吉田兼好の『徒然草」第六十段に登場する、 芋頭(いもがしら)が異常に好きな坊主のあだ名である。 この白うるりという名前に倣って、布雑巾 の化けたものを白容裔(しろうねり)と名づけたといっているので、つまりは石燕の創作妖怪であろう。古い雑巾などが化けて人を襲う、などの説 明がされることがあるが、これは山田野理夫 の『東北怪談の旅』にある古雑巾の妖怪を白 容裔の話として使ったにすぎない。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編
12、轆轤首〔ろくろくび〕
抜け首、飛頭蛮とも つな いう。身体から首が完全に分離して活動する ものと、細紐のような首で身体と頭が繋がっているものの二形態があるようである。 日本の文献には江戸時代から多くみえはじ め、『古今百物語評判』『太平百物語』『新説 百物語」などの怪談集や、『甲子夜話』『耳 囊」「北窓瑣談」「蕉斎筆記』『閑田耕筆』と いった随筆の他、石燕の『画図百鬼夜行」に 代表される妖怪画にも多く描かれた。 一般的な轆轤首の話としては、夜中に首が 抜け出たところを誰かに目撃されたとする内 容がほとんどで、下働きの女や遊女、女房、 娘などと女性である場合が多い。 男の轆轤首は「蕉斎筆記』にみえる。 ある夜、増上寺の和尚の胸の辺りに人の 首が来たので、そのまま取って投げつけると、 どこかへいってしまった。翌朝、気分が悪いと訴えて寝ていた下総出 身の下働きの男が、昼過ぎに起き出して、和 尚に暇を乞うた。わけ その理由を問えば、「昨夜お部屋に首が参りませんでしたか」と妙なことを訊く。確か に来たと答えると、「私には抜け首の病があります。昨日、手水鉢に水を入れるのが遅い とお叱りを受けましたが、そんなにお叱りに なることもないのにと思っていると、 夜中に首が抜けてしまったのです」 といって、これ以上は奉公に差支えがあるからと里に帰って しまった。 下総国にはこの病が多いそうだと、 「蕉斎筆記』は記している。 轆轤首を飛頭蛮と表記する文献があるが、 これはもともと中国由来のものである。「和漢三才図会』では、『三才図会」「南方異 物誌」「太平広記」「搜神記』といった中国の 書籍を引いて、飛頭蛮が大闍波国(ジャワ) や嶺南(広東、広西、ベトナム)、竜城(熱 洞省朝陽県の西南の地)の西南に出没したことを述べている。昼間は人間と変わらないが、夜になると首 が分離し、耳を翼にして飛び回る。虫、蟹、 ミミズなどを捕食して、朝になると元通りの 身体になる。この種族は首の周囲に赤い糸のような傷跡がある、などの特徴を記している。中国南部や東南アジアには、古くから首だけの妖怪が伝わっており、マレーシアのポン ティアナやペナンガルなどは、現在でもその 存在が信じられている。 日本の轆轤首は、こうした中国、東南アジ アの妖怪がその原型になっているようである。 また、離魂病とでもいうのだろうか、睡眠中に魂が抜け出てしまう怪異譚がある。例えば「曽呂利物語」に「女の妄念迷い歩 <事」という話がある。ある女の魂が睡眠中に身体から抜け出て、 野外で鶏になったり女の首になったりしているところを旅人に目撃される。旅人は刀を抜いてその首を追いかけていく と、首はある家に入っていく。すると、その家から女房らしき声が聞こえ、 「ああ恐ろしい夢を見た。刀を抜いた男が追 いかけてきて、家まで逃げてきたところで目 が醒めた」などといっていたという話である。これの類話は現代の民俗資料にも見え、抜け出た魂は火の玉や首となって目撃されている。先に紹介した「蕉斎筆記』の男の轆轤首 も、これと同じように遊離する魂ということ で説明ができるだろう。 轆轤首という妖怪は、中国や東南アジア由 来の首の妖怪や、離魂病の怪異譚、見世物に 出た作りものの轆轤首などが影響しあって、 日本独自の妖怪となっていったようである。 【和漢三才図会』寺島良安編・島田勇雄・竹 島淳夫・樋口元巳訳注 『江戸怪談集(中)』 高田衛編/校注『妖異博物館』柴田宵曲 『随筆辞典奇談異聞編」柴田宵曲編 『日本 怪談集 妖怪篇』今野円輔編著 『大語園』巌谷小波編
13、加牟波理入道〔がんばりにゅうどう〕
雁婆梨入道、眼張入道とも書く。便所の妖怪。 鳥山石燕の「画図百鬼夜行」には、便所の台があるよう 脇で口から鳥を吐く入道姿の妖怪として描かれており、【大晦日の夜、厠にゆきて「がんばり入道郭公」と唱ふれば、妖怪を見さるよし、世俗のしる所也。もろこしにては厠 神名を郭登といへり。これ遊天飛騎大殺将軍 とて、人に禍福をあたふと云。郭登郭公同日 は龕のの談なるべし】と解説されている。 松浦静山の『甲子夜話」では雁婆梨入道という字を当て、厠でこの名を唱えると下から入道の頭が現れ、 その頭を取って左の袖に入れてまたとりだすと 頭は小判に変化するなどの記述がある。 「がんばり入道ホトトギス」と唱えると怪異 にあわないというのは、江戸時代にいわれた 俗信だが、この呪文はよい効果を生む(前述 ことわざわざわい ●小判を得る話を含め)場合と、禍をよぶ 場合があるようで、「諺苑」には、大晦日に この話を思い出せば不祥なりと書かれている。 また、石燕は郭公と書いてホトトギスと読ませているが、これは江戸時代では郭公とホト トギスが混同されていたことによる。 ホトトギスと便所との関係は中国由来のようで、「荊楚歲時記』にその記述が見える。 ホトトギスの初鳴きを一番最初に聞いたもの は別離することになるとか、その声を真似すると吐血するなどといったことが記されており、厠に入ってこの声を聞くと、不祥事が起 こるとある。これを避けるには、犬の声を出 して答えればよいとあるが、なぜかこの部分 だけは日本では広まらなかったようである。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 『江戸文学俗信辞典』 石川一郎編『史実と伝説の間」李家正文
14、三つ目小僧
顔に三つの目を持つ童子姿の妖怪。 長野県東筑摩郡教育委員会による調査資料に名は見られるが、資料中には名前があるのみ で解説は無く、どのような妖怪かは詳細に語られていない。 東京の下谷にあった高厳寺という寺では、タヌキが三つ目小僧に化けて現れたという。このタヌ キは本来、百年以上前の修行熱心な和尚が境内に住まわせて寵愛していたために寺に住みついたものだが、それ以来、寺を汚したり荒らしたりする者に対しては妖怪となって現れるようになり、体の大きさを変えたり提灯を明滅させて人を脅したり、人を溝に放り込んだりしたので、人はこれ を高厳寺小僧と呼んで恐れたという。困った寺は、このタヌキを小僧稲荷として境内に祀った。この寺は現存せず、小僧稲荷は巣鴨町に移転している。 また、本所七不思議の一つ・置行堀の近くに住んでいたタヌキが三つ目小僧に化けて人を脅したという言い伝えもある。日野巌・日野綏彦 著「日本妖怪変化語彙」、村上健司校訂 編『動物妖怪譚』 下、中央公論新社〈中公文庫〉、2006年、301頁。 佐藤隆三『江戸伝説』坂本書店、1926年、79-81頁。 『江戸伝説』、147-148頁。
15、双頭の蛇 設置予定場所:水茶屋 「兎園小説」には、「両頭蛇」として以下の内容が著してある。 「文政7年(1824)11月24日、本所竪川通りの町方掛り浚場所で、卯之助という男性 が両頭の蛇を捕まえた。長さは3尺あったという。」
文政7年(1824)11月24日、一の橋より二十町程東よりの川(竪川、現墨田区)で、三尺程の 「両頭之蛇」がかかったと言う話です。詳細な図解が示されています。 (曲亭馬琴「兎園小説」所収『兎園小説』(屋代弘賢編『弘賢随筆』所収) 滝沢馬琴他編 文政8年(1825) 国立公文書館蔵
16、深川心行寺の泣き茶釜
文福茶釜は「狸」が茶釜に化けて、和尚に恩返しをする昔話でよく知られています。群馬県館林の茂 林寺の話が有名ですが、深川2丁目の心行寺にも文福茶釜が存在したといいます。『新撰東京名所図会』 の心行寺の記述には「什宝には、狩野春湖筆涅槃像一幅 ―及び文福茶釜(泣茶釜と称す)とあり�� とあります。また、小説家の泉鏡花『深川浅景』の中で、この茶釜を紹介しています。残念ながら、関 東大震災(1923年)で泣茶釜は、他の什物とともに焼失してしまい、文福茶釜(泣き茶釜)という狸が 化けたという同名が残るのみです。鳥山石燕「今昔百鬼拾遺」には、館林の茂森寺(もりんじ)に伝わる茶釜の話があります。いくら湯を 汲んでも尽きず、福を分け与える釜といわれています。 【主な参考資料】村上健司 編著/水木しげる 画『日本妖怪大辞典』(角川出版)
17、家鳴(やなり) 設置予定場所:大吉、松次郎の家の下) 家鳴りは鳥山石燕の「画図百鬼夜行」に描かれたものだが、(石燕は鳴屋と表記)、とくに解説はつけられて いない。石燕はかなりの数の妖怪を創作しているが、初期の 「画図百鬼夜行」では、過去の怪談本や民間でいう妖怪などを選んで描いており、家鳴りも巷(ちまた)に知られた妖怪だったようである。 昔は何でもないのに突然家が軋むことがあると、家鳴りのような妖怪��しわざだと考えたようである。小泉八雲は「化け物の歌」の中で、「ヤナリといふ語の・・・それは地震中、家屋の震動 する音を意味するとだけ我々に語って・・・その薄気 味悪い意義を近時の字書は無視して居る。しかし此語 はもと化け物が動かす家の震動の音を意味して居た もので、眼には見えぬ、その震動者も亦(また) ヤナ リと呼んで居たのである。判然たる原因無くして或る 家が夜中震ひ軋り唸ると、超自然な悪心が外から揺り動かすのだと想像してゐたものである」と延べ、「狂歌百物語」に記載された「床の間に活けし立ち木も倒れけりやなりに山の動く掛軸」という歌を紹介している。 (高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕画図百鬼夜行』、『小泉八雲全集』第7巻)
18、しょうけら 設置予定場所:おしづの家の屋根 鳥山石燕「画図百鬼夜行」に、天井の明かり取り窓を覗く妖怪として描かれているもの。石燕による解説はないが、 ショウケラは庚申(こうしん) 信仰に関係したものといわれる。 庚申信仰は道教の三尸(さんし)説がもとにあるといわ れ、60日ごとに巡ってくる庚申の夜に、寝ている人間の身 体から三尸虫(頭と胸、臍の下にいるとされる)が抜け出し、天に昇って天帝にその人の罪科を告げる。この報告により天帝は人の命を奪うと信じられ、対策とし て、庚申の日は眠らずに夜を明かし、三尸虫を体外に出さ ないようにした。また、これによる害を防ぐために「ショウケラはわたとてまたか我宿へねぬぞねたかぞねたかぞ ねぬば」との呪文も伝わっている。 石燕の描いたショウケラは、この庚申の日に現れる鬼、ということがいえるようである。
19、蔵の大足
御手洗主計という旗本の屋敷に現れた、長さ3尺程(約9m)の大足。(「やまと新聞」明治20年4月29日より)
20、お岩ちょうちん
四世鶴屋南北の代表作である「東海道四谷怪談」のお岩 を、葛飾北斎は「百物語シリーズ」の中で破れ提灯にお岩が 宿る斬新な構図で描いている。北斎は同シリーズで、当時の 怪談話のもう一人のヒロインである「番町皿屋敷のお菊」も描 く。「東海道四谷怪談」は、四世南北が暮らし、没した深川を舞台にした生世話物(きぜわもの)の最高傑作。文政8年(1825) 7月中村座初演。深川に住んだ七代目市川團十郎が民谷伊 右衛門を、三代目尾上菊五郎がお岩を演じた。そのストーリーは当時評判だった実話を南北が取材して描 いている。男女が戸板にくくられて神田川に流された話、また 砂村隠亡堀に流れついた心中物の話など。「砂村隠亡堀の場」、「深川三角屋敷の場」など、「四谷怪 談」の中で深川は重要な舞台として登場する。
21、管狐(くだぎつね) 長野県を中心にした中部地方に多く分布し、東海、関東南部、東北の一部でいう憑き物。関東 南部、つまり千葉県や神奈川県以外の土地は、オサキ狐の勢力になるようである。管狐は鼬(いたち)と鼠(ねずみ)の中間くらいの小動物で、名前の通り、竹筒に入ってしまうほどの大きさだという。あるいはマッチ箱に入るほどの大きさで、75匹に増える動物などとも伝わる個人に憑くこともある��、それよりも家に憑くものとしての伝承が多い。管狐が憑いた家は管屋(くだや)とか管使いとかいわれ、多くの場合は「家に憑いた」ではなく「家で飼っている」という表現をしている。管狐を飼うと金持ちになるといった伝承はほとんどの土地でいわれることで、これは管 狐を使って他家から金や品物を集めているからだなどという。また、一旦は裕福になるが、管狐は 大食漢で、しかも75匹にも増えるのでやがては食いつぶされるといわれている。 同じ狐の憑き物でも、オサキなどは、家の主人が意図しなくても、狐が勝手に行動して金品を集 めたり、他人を病気にするといった特徴があるが、管狐の場合は使う者の意図によって行動すると考えられているようである。もともと管狐は山伏が使う動物とされ、修行を終えた山伏が、金峰山 (きんぷさん)や大峰(おおみね)といった、山伏に官位を出す山から授かるものだという。山伏は それを竹筒の中で飼育し、管狐の能力を使うことで不思議な術を行った。 管狐は食事を与えると、人の心の中や考えていることを悟って飼い主に知らせ、また、飼い主の 命令で人に取り憑き、病気にしたりするのである。このような山伏は狐使いと呼ばれ、自在に狐を 使役すると思われていた。しかし、管狐の扱いは難しく、いったん竹筒から抜け出た狐を再び元に 戻すのさえ容易ではないという。狐使いが死んで、飼い主不在となった管狐は、やがて関東の狐の親分のお膝元である王子村(東京都北区)に棲むといわれた。主をなくした管狐は、命令する者がいないので、人に憑くことはないという。 (石塚尊俊『日本の憑きもの』、桜井徳太郎編『民間信仰辞典』、金子準二編著『日本狐憑史資料 集成』)
22、かいなで 設置予定場所: 長屋の厠 京都府でいう妖怪。カイナゼともいう。節分の夜に便所へ行くとカイナデに撫でられるといい、これを避けるには、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という呪文を唱えればよいという。 昭和17年(1942年)頃の大阪市立木川小学校では、女子便所に入ると、どこからともなく「赤い 紙やろか、白い紙やろか」と声が聞こえてくる。返事をしなければ何事もないが、返事をすると、尻を舐められたり撫でられたりするという怪談があったという。いわゆる学校の怪談というものだが、 類話は各地に見られる。カイナデのような家庭内でいわれた怪異が、学校という公共の場に持ち込まれたものと思われる。普通は夜の学校の便所を使うことはないだろうから、節分の夜という条件が消失してしまったのだろう。 しかし、この節分の夜ということは、実に重要なキーワードなのである。節分の夜とは、古くは年越しの意味があり、年越しに便所神を祭るという風習は各地に見ることができる。その起源は中国に求められるようで、中国には、紫姑神(しこじん)という便所神の由来を説く次のような伝説がある。 寿陽県の李景という県知事が、何媚(かび) (何麗卿(かれいきょう)とも)という女性を迎えたが、 本妻がそれを妬み、旧暦正月 15 日に便所で何媚を殺害した。やがて便所で怪異が起こるようになり、それをきっかけに本妻の犯行が明るみに出た。後に、何媚を哀れんだ人々は、正月に何媚を便所の神として祭祀するようになったという(この紫姑神は日本の便所神だけではなく、花子さんや紫婆(むらさきばばあ)などの学校の怪談に登場する妖怪にも影響を与えている。) 紫姑神だけを日本の便所神のルーツとするのは安易だが、影響を受けていることは確かであろう。このような便所神祭祀の意味が忘れられ、その記憶の断片化が進むと、カイナデのような妖怪が生まれてくるようである。 新潟県柏崎では、大晦日に便所神の祭りを行うが、便所に上げた灯明がともっている間は決して便所に入ってはいけないといわれる。このケースは便所神に対する信仰がまだ生きているが、便所神の存在が忘れられた例が山田野理夫『怪談の世界』に見える。同書では、便所の中で「神くれ神くれ」と女の声がしたときは、理由は分からなくとも「正月までまだ遠い」と答えればよいという。便所神は正月に祀るものという断片的記憶が、妖怪として伝えられたものといえる。また、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という呪文も、便所神の祭りの際に行われた行為の名残を伝えて いる。便所神の祭りで紙��の人形を供える土地は多く、茨城県真壁郡では青と赤、あるいは白と赤の 男女の紙人形を便所に供えるという。つまり、カイナデの怪異に遭遇しないために「赤い紙やろう か、白い紙やろうか」と唱えるのは、この供え物を意味していると思われるのである。本来は神様に供えるという行為なのに、「赤とか白の紙をやるから、怪しいふるまいをするなよ」というように変化してしまったのではないだろうか。さらに、学校の怪談で語られる便所の怪異では、妖怪化した便所神のほうから、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」とか「青い紙やろうか、赤い紙やろうか」というようになり、より妖怪化が進ん でいったようである。こうしてみると、近年の小学生は古い信仰の断片を口コミで伝え残しているともいえる。 島根県出雲の佐太神社や出雲大社では、出雲に集まった神々を送り出す神事をカラサデという が、氏子がこの日の夜に便所に入ると、カラサデ婆あるいはカラサデ爺に尻を撫でられるという伝 承がある。このカラサデ婆というものがどのようなものか詳細は不明だが、カイナデと何か関係があるのかもしれない。 (民俗学研究所編『綜合日本民俗語彙』、大塚民俗学会編『日本民俗学事典』、『民間伝承』通巻 173号(川端豊彦「厠神とタカガミと」)ほか)
23、木まくら 展示予定場所:政助の布団の上 江東区富岡にあった三十三間堂の側の家に住んだ医師が病気になり、元凶を探した所 黒く汚れた木枕が出た。その枕を焼くと、死体を焼く匂いがして、人を焼くのと同じ時間がかかったという。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収)
24、油赤子〔あぶらあかご〕鳥山石燕の『今昔 画図続百鬼』に描かれた妖怪。【近江国大津 の八町に、玉のごとくの火飛行する事あり。土人云「むかし志賀の里に油うるものあり。 夜毎に大津辻の地蔵の油をぬすみけるが、その者死て魂魄炎となりて、今に迷いの火となれる」とぞ。しからば油をなむる赤子は此ものの再生せしにや】と記されている。 石燕が引いている【むかし志賀(滋賀) の】の部分は、「諸国里人談』や『本朝故事 因縁集」にある油盗みの火のことである。油盗みの火とは、昔、夜毎に大津辻の地蔵 の油を盗んで売っていた油売りがいたが、死 後は火の玉となり、近江大津(滋賀県大津 市)の八町を縦横に飛行してまわったという もの。石燕はこの怪火をヒントに、油を嘗める赤ん坊を創作したようである。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 『一冊で日本怪異文学 100冊を読む」檜谷昭彦監修『日本随筆大成編集部編
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2024年8月10日(土)
関東落語遠征二日目、5時30分起床して近所のコンビニへ買い出し。湯島聖堂・神田明神・湯島天神・上野公園を経て、ランチは今回の隠れミッションである上野駅10番ホームの立ち食い蕎麦。横浜へ移動して新治・喬太郎・兼好の三人会、十分満足して新横浜から新幹線乗車、一昨日の宮崎での地震以降一部速度を落とすために10数分遅れで京都駅着。いやぁ楽しかったな〜、来年も(可能なら)ぜひやりたいね。
5時30分起床。
近くのセブンイレブンで朝食を求め、ホテルの部屋でいただく。
チェックアウトしてまずは<湯島聖堂>へ、開門前で中に入れなかったのは残念。ついで神田明神にご挨拶、そのまま湯島天神まで、<柳田格之進>の舞台となる<切通坂>を確認出来たのは収穫。上野公園まで移動して前回見逃していたスポットをめぐる。
古今亭志ん輔師のブログで話題になっていた上野駅10番ホームの立ち食い蕎麦、目当ての<冷やしたぬき>は売り切れ、かき揚げとしょうが天を半分こしていただく。いやぁ確かに美味しい、つゆも残らず頂いて酷暑の中の塩分補給となった。
上野から桜木町まで移動、暑い中のきつい坂を登りきれば<神奈川県立音楽堂>、昨年同様の三人会を楽しんだ。
「七段目」新治、「宗漢」喬太郎、「あくび指南」兼好、仲入り、「猫の皿」兼好、「竜田川」新治、「布哇の雪」喬太郎。
偶然隣の席となったNさんと別れ、坂を下って桜木町から新横浜へ。
新幹線の予約を変更したかったがサイトに繋がらず、土産購入して30分以上待ってからの乗車。
京都駅についてタワーを見上げるとホッとする。
20時過ぎに自宅に着いたが、ココは食事も摂って元気な様子にホッとする。
横浜土産の崎陽軒の焼売をあてに🍺🍶🍷。
録画番組視聴、刑事コロンボ。
第25話「権力の墓穴」/ A Friend Indeedシーズン 1, エピソード 25 高級住宅地ベル・エア地区。コードウェルは向かいに住む友人マークに相談を持ちかけていた。コードウェルは、妻といつものように口論になった末、彼女を絞め殺してしまったというのだ。マークは、コードウェルの家に侵入し、彼の為のアリバイ作りに加担する。マークはロス市警本部次長だった。
片付け、入浴。
さすがによく歩いた。明日はノンビリしよう。
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