#養生喫茶
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024年)9月14日(土曜日)
通巻第8409号
中国、アメリカ養親者との養子縁組みを中止
一方で、定年の延長へ方針転換
*************************
広州へよく行っていた頃だから2005年から06年度ごろだった。定宿の花園ホテルが満員で白雲ホテルに宿泊した。朝、遅い朝食を取りに豪華なロビィへ降りてビックリした。喫茶しながら赤ん坊を籠に乗せアメリカ人夫婦と中国人の伯母さんがお喋りをしている。それが六組か七組。なにかと思って聞き耳を立てると養子縁組の斡旋風景だった。異様な風景だった。
そして翌日、東京行きの飛行機に乗ると中国生まれの赤ちゃんと抱えたアメリカ人カップルが30組ほど乗り込んできた。東京でアメリカの別々の都市へのフライトに乗り換えるからだ。
中国は養子縁組を積極的に進めていた時代で、民政部の所管に「中国養子縁組組織」が置かれていた。
政府が養子縁組で海外へ孤児を送り出す支援をしていたのである。
1992年に中国は外国人が中国人の子供を養子にできる「養子法」を施行し、中国における外国関連養子縁組への扉を開いた。
2005年4月、中国全人代常務委員会は児童の保護と国際養子縁組に関する協力に関する条約を承認した。孤児の増加がピークに達し、年間5万1,000人の孤児のうち1万3000万人の赤ちゃんが外国人家庭に養子縁組され、全体の養子縁組の25%を占めた。
米国では合計8万2658人の中国人の子供を養子にしてきた。
外国人養子総数の三割が中国からで、しかも大半が女の子、一人っ子時代だから女の子が生まれると孤児か棄児扱いとされる。2005年がピークでアメリカへわたった中国人の子供の数は7,903人だった。
それまで養子の条件は孤児あるいは棄児で、被扶養困難児童と呼ばれた。養子になるに10歳とこえていたら本人の同意も必要だった。要親の条件は35歳以上。ただし未婚の場合は40歳以上で扶養教育能力を保障する書類が手続き上必要とされた。
以後、海外養子縁組の基準を修正し、たとえば30 歳未満または 49 歳以上の養親申請者、一人当たりの年間所得が 10,000 米ドル未満、純資産が 80,000 米ドル未満の世帯、身体的および精神的健康上の問題を抱えている申請者、肥満指数が過剰な養親は引き取り手は除かれた。
中国の養子の数は2014年に2,800人に減り、5万1000人のピーク時から80%の激減だった。そして2024年8月、中国政府は「孤児などを養子縁組のために中国人の子供を海外に送らない」と発表した。
▼アメリカで幸せを得られたのだろうか?
方針転換である。
少子化対策の一環か? ただし例外があり、三世代以内の傍系血族の子供や連れ子を養子にするために中国に来る外国人を除く(外国人と言っても「中国系アメリカ人」が殆ど)。9月になって、中国民政部は米国に対し、国際養子縁組業務を一切実施しないと通告した。
筆者が広東で目撃した養親希望者に引き取られアメリカへ渡った「幸運な」中国人女性らは、順調にいけば大学生だろう。幸せにアメリカの大學へ入学させて貰えたか。幸せな人生を送ってこられたか?
比例するかのように中国は定年引き上げに動き出した。
現在、男性60歳、女性50歳(管理職55歳)となっている法定退職年齢を2039年までに男性63歳、女性55歳(管理職58歳)とする。同時に年金を受け取るために必要な保険料支払い期間を延長し、現行の15年を最終的に20年とする。
現在の制度は1950年代に大枠が定まり、国民の平均寿命が80歳近くに達する中で時代に合わないと指摘されていた。
中国14億人口の2割が60歳以上となった。労働人口の急減で2035年に年金財源が枯渇するため、定年延長が不可欠となったのである。
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2024/5/11
先日、友人と話しているときにそれがどうであれその人のためになるのであれば、なんでも良いのではと言われたのを思い出していた。
価値観に合い、体調に寄り添い、���が健やかになり、前に進んでいける。その栄養になればなんでも良いということであろう。
太陽の光で目覚める朝。一瞬自分がどこにいるのかわからなくなる。犬の足音で察して身体を起こす。昼頃から用事があったので家事をなるべく片付けて家を出た。
「母の日何かプレゼントいる?」と聞くと「今回面倒見てくれたので充分だよ」と言われ、本当にありがとうね。と大げさなくらい感謝された。母は養女だったと聞くのでやはり家族が足りていないのかもしれない。支えあいというものが。支えるのは好きなれど支えられることに慣れていないのだろう。自分もそうだ。
昼前にTumblrで知り合った人と会った。天気に恵まれた下北沢はエネルギーに満ち溢れていて、すっかり若者の街だなという様子。新宿や渋谷には大きなビルがたくさん建ってしまい若者のいる場所が限られていると思うが、下北沢にはまだ余地がありそうだな。日陰ものが潜める場所が。
知り合った人と会うのは初めてだが、同じような体験をしたという共通点があり、自分では勝手に会うのは読書会のようなものだと思っている。
凛と立っている姿には甘えたところがなくすぐにわかった。
駅近くの喫茶店で2時間程度話したわけだけど、価値観にブレがない人だった。固いかといえばそういうわけでもなく他者への気遣いもできるし、母性的なところもあった。大人の女性。自分で選択して、責任をとる人という印象。
奇妙としかいえない人生の符号を抱えており、そこがとても面白かった。どういう風にも生きていけそうで羨ましかった。
夕方からはバスケ関係の友人と合流しお酒を飲んだ。
定期的に会う友人たちだが、ずっと変わらずである。
抱えている課題のようなものも同じでそれが血や肉の一部になっているような感ももはやある。自分という無秩序の中で事象を捉えて処理するのは難しいようだ。執着のない自分はおそらく得意な方だけど、他人の課題に切り込んでいくなんてとてもとても。
寂しさや弱さのようなものが人生の余白に入り込むとろくなことをしないのが人間でそれは仕方のないことなのかもしれない。指摘しても詮無きことなのかもしれない。仏のような笑顔でただそうあるさまを見ていればいいのかもしれない。先を見通せる力があればそんなこともできるけど、結末は誰も知らないし、大抵はろくなことにならないから、口出ししてしまう。まぁ、これもやめた��うが良いか。
ひとつ、この日気づいたのはTumblrの人と会い雑談するのは楽しいな。文章書く人は客観性あるからおもしろい。ちゃんと自分の価値観で自分の経験や見えている世界を切り取って解釈を与えているから。
どなたか雑談しませんか?
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無題
新宿を逍遥して、初売りをひやかした。ブルックスブラザーズの茶色い革靴が可愛かった。すぐに手が出る値段ではなかったから、ちょっと考えます、といって品番を控えたカードをもらった。MHLとフレッドペリーの共作したトラウザーも試着までして、迷ってこれも買わなかった。畢竟何も買わなかった。国道20号線の高架下にある喫煙所そばの階段を降りて、新宿三丁目の方へ伸びている長い地下通路には、灰色の地面にいつも何か液体がぶちまけられたような黒っぽい痕がありませんか。
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芥川賞作家がChatGPT活用して執筆したというのが話題になっている。生成と生産の違いを考える。実子と養子みたいなものだろうか。嫡子と私生児みたいなものだろうか。
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津原泰水の遺作を読んでいたら、「かんばせ」という言葉が出てきた。顔つき、顔色のこと。漢字もそのまま「顔」や「容」と書く。かんばせーション。保坂和志の『カンバセイション・ピース』ってあの奇跡みたいな小説のタイトルには、もうひとつ意味が隠れていたんだと思った。
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GW辺りに札幌に行こうと思っています。おすすめの、絶対行ったほうがよい場所を教えていただけないでしょうか。カフェとかレストランとか美術館とか美術館とか…。あと夜パフェに行きたいので、どこを選ぶと間違いないか教えてほしいです。あともしかしたら注意したほうが良いことがあれば教えていただきたいです。
こんな質問がたまにDMでも来るので、いつも楽しく回答しています。あなたの住む街に行くときはおすすめを教えてくださいね。札幌というワードで、わたしを思い出してくれるのが嬉しい。
パフェの語源はフランス語の“完璧”から来ているそうですね。夜パフェはカフェテリアパルが間違いないです。人匙ごとに味や食感が変わり、その美味しさにくらりと来ます。パフェって素晴らしい。価格帯が高めなのにいつも行列です。札幌の夜パフェは締めパフェなので、21時ごろから混み合います。すすきのでの1件目を手早く切り上げるのがおすすめです。
他にもパルよりは価格が安めな“ななかま堂”やお酒とのペアリングを楽しむ“ペンギン堂”とかもあります。クセ強店主がやっている“ぴーぷる・ぴーぷ”は色々な掟があり、確実に終電を逃しますが札幌名物って言えば名物なのかもしれません。夜ではないですが、札幌で1番美味しいパフェは“くなう”というアパートの一室で営われる喫茶“室”で、るるぶやSNSには掲載されません。アパートの一室と言えども、黒い壁紙にレースのカーテンが揺らめくだけの内装。華美ではなく、ただただ美しいパフェは美術品のようです。その甘みに背筋が伸びる。なんだか神様との対話みたいだなと思いながら食べています。勝手に“札幌で1番天国に近い場所”と呼んでいます。
どうしましょう。パフェの話だけでこんなに行数を使ってしまいました。あなたのために続けますね。北海道でみれば美術館は多いですが、札幌に屋内の美術館は少ない気がします。札幌にある北海道立近代美術館や札幌芸術の森美術館は気になった特別展の時に行く程度です。風が寒くなければ、モエレ沼公園なんてどうでしょう。イサムノグチが作った彫刻公園です。モエレ沼まで行かなくとも、街中を歩いていると、野外彫刻をよく見かけるのも札幌の小さな楽しみです。大通公園を西に降って散歩するのも面白いかもしれないですね。札幌の中心は、大通りで分断して北と南、創成川で東と西に分断した碁盤の目のような住所をしています。札幌で定められている景観色に則った建物が整然と並ぶので、他の政令都市とは違う空気感に包まれた街並みです。https://artpark.or.jp/sansaku/
よくお一人様をしてカフェを探訪していました。上記した“くなう”はパフェとして完成され過ぎている。お一人様専用なってはしまいますが“カルメル堂”は、深海のような濃いブルーの壁紙の内側でゆったりと過ごせます。季節ごとに出す甘味が変わり、5月はプリンとラムレーズンどら焼きだった気がします。わたしは7月の珈琲あんみつが梅酒寒天が乗ってて好き。“ギャラリー犬養”は、わたしが菊水に住むひとつの理由になった喫茶店です。大通り駅から地下鉄で2駅なので行きやすいかと思いますが、住宅街の奥にあるから迷いやすいかも。聞き馴染みのない西洋の伝統的なケーキが沢山あってどれも美味しい。食べた後に河川敷を散歩するのが好きでした。“喫茶店つばらつばら”と“石田珈琲店”、“一粒の麦”も好きです。
食は飲酒に重きを置いた人間なのでレストランには疎いですが、二四軒にある“ユニヴェール エス”は友人が修行していた洋食屋です。一皿一皿がキラキラして見えるのはきっととてつもなくこだわり抜かれているからなのでしょうね。後は、また菊水になってしまいますが”プティットレジョン”はフランスの家庭料理を出すビストロです。店内を一歩入ればそこは南フランス。ここもまた美味しいです。
注意することと言えば、気温でしょうか。北海道の桜はGWに咲くので、そのくらいの気温で、風も強い日が多い印象です。GWでの札幌観光ということで、移動は公共機関を想定しておすすめしてみました。土日祝日は、地下鉄が540円で1日乗り放題のドニチカという切符が買えます。おすすめしたモエレ沼公園以外は地下鉄だけで移動できます。特にカフェに関しては地下鉄で行けるものをピックアップしてみたので、レンタカーを使用するのであればまたお知らせくださいね。
5月中旬以降であればライラック祭りが大通公園で開催されます。金木犀と同じモクセイ科なので、とてもいい匂いがする薄紫の花の木です。札幌市のシンボルで、自生できる南限は関東らしいですね。大通公園のベンチの横にライラックが植えられているので、花の下でゆっくりするのが好きです。今年は雪解けも早そうなので、あなたが来る頃にライラックが咲いていたなら嬉しいな。旅行から帰ったらまた、質問箱でも良いので、札幌でのお話を一緒にしましょうね。
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今日は店は休みです。久しぶりに奈良に来ています。本籍を奈良に置く身としては、故郷へ戻る嬉しさです。仕事があるとはいえ、合間に興福寺で八部衆の御顔でも拝めるとなおなお嬉しいところですが。
そういえば、本日2023年12月12日はちょうど小津生誕120年、没後60年。小津で奈良、といえば『麦秋』の最後、ふっと差し込まれる麦畑の中をゆく嫁入り風景のシーンですが、あれ、どこなんでしょうか。後ろに耳成山のような山が見えるので、橿原のどこかかな。
ついでの話。このごろ書きものの仕事が多くて、頼まれもの以外の文章なぞつらつら書いている場合ではないのですが、小津についてふと気になってしまったことがあり、書いておかないと本来の仕事ができなさそうなので、合間合間に記していた雑文をここに置いておきます。長いですし、結論はないし、ほとんどの方が興味のない内容かと思いますが…。
ちょっとした調べものがあって雑誌『みすず』2001年12月号を読んでいたら、木村伊兵衛が小津安二郎を撮影した写真と文章「上海で小津安二郎氏をうつす」が掲載されていた。時期は1938年1月なので第二次上海事変の翌年。小津は1937年9月に出征して中国に渡り、事変の直後12月から上海にいたようで、その時に偶然木村と出会っている(その後小津は南京・漢口と転戦する)。写っている小津が携えているカメラは、木村の稿に続いて掲載されている田中眞澄氏の文章「ライカという”近代”」によればライカA型。小津関係の文章を読むと、小津は「ご愛用のライカ」をいつも手にしていたと多くの人が書いているので(同文によると山中貞雄はコンタックスだったらしい)さもありなんと思うのだけれど、田中氏の文章を読んでいくなかで、ちょっとしたことが気になるようになった。
小津は1942年から軍の依頼で記録映画撮影のためにシンガポールに滞在し、ただまあ映画製作などできる状況でもないため、自国内では上映が禁止されていたアメリカ映画をひたすら見続け、敗戦を当地で迎えている。そしてそのまま捕虜となり、抑留生活を終え1946年1月に帰国する際に小津はライカを手放しており、「彼が再びライカを所有するのは一九五四年のことである」とある。買った件の典拠はどこにあるんだっけ、と思いつつ近所の図書館に置いてある『全日記 小津安二郎』を紐解くと、なるほど1954年3月22日の項に、
> 「出京 サンにてライカを買ふ 135.000 アメリカン フアマシー 明治屋(燻製)によつて帰る」
とある。と、ここで急に話は脇道に逸れるのだが、ちなみに隣のページ、同年4月8日の項には、
> 「駒場の東大教養学部 民芸館 青山の花屋 それから 車にて銀座に出て なごやかに夕餐を喫す 野田夫妻と江原氏同道」
と日本民藝館に行った旨の記載がある。他にも、1951年11月10日に
> 「宿酔 森昌子さん達と 陶哉 たくみに寄って大船に帰る」
や、1955年5月17日には
> 「駅にて野田氏と待合せ 上野松坂屋の民芸展にゆく」
とも。ほか、パッと目を通しただけでも1952年4月8日、同年6月15日、1953年2月9日、1961年2月2日に銀座たくみに行った記載があるし、志賀直哉や里見弴についての言及は多すぎるので略す。こういうものを読むとつくづく民藝誌において特集「小津と工藝」を組みたいなと思う。白樺派との関係や小津の映画における「巧藝品考撰」について取り上げる特集。『秋日和』で原節子の後ろにかかっている暖簾は芹沢銈介だろうか、『秋刀魚の味』で中村伸郎の後ろに置かれたやちむん?はたくみで求めたものなのだろうか、やちむんであれば誰の仕事だろうか。佐田啓二と吉田輝雄がとんかつ屋で食事をするシーンには確かに芹沢カレンダーが掛かってるな、などといつも気になるので。松竹から写真借りるといくらぐらいかかるかな…。
それはさておき。この時購入したライカが、前掲日記の1961年3月23日の項に「夕方会社帰��の秀行くる ライカ借(貸)してやる」とある通り、のちに小津の甥が譲り受け、現在は茅野駅前「小津安二郎・野田高梧コーナー」に寄贈展示されているライカIIIfとズマリット5cmF1.5なのだろう。と、ここまで長々と記して、まだ前提です。
そこでふと思い出したのが厚田雄春・蓮實重彦著『小津安二郎物語』(筑摩書房・リュミエール叢書)の冒頭。ここには小津が『東京物語』と『早春』のロケハンをしている写真が2葉掲載されているのだけれど、どちらにおいても小津はバルナック型のカメラを携え、光学ファインダーをのぞいたりしている。沈胴レンズにフードをつけている様子から、あれはライカなんだろう、レンズは厚田雄春が『父ありき』において75mmを一場面で使った以外はすべて50mmだったと言っているぐらいだから同径のエルマーやズマール、ズミタールとかかな、などとうっかり思い過ごしていた。むろん『早春』については、製作年やロケハンの写真に記載されている「1955.7.20」という日付からするとまったく問題はない。しかし『東京物語』は1953年製作公開だから「再びライカを所有した」1954年では間に合わない。そう気がついて見直すと、小津が構えているカメラは、ライカIII型に似ているがファインダーの位置が違うし、そもそも1954年にあわせて手に入れたと思しきズマリットは沈胴レンズではない。
妙なことに気がついてしまったと思いつつも、ひとまずは日記記載の「サン」を手始めに調べてみようとしたが、何の会社かわからない。名取洋之助が企画編集した「週刊サンニュース」と関係はあるのだろうか。対外宣伝誌の専門家であり、銀座に店を構える森岡さんに聞いたらわかるだろうか。いずれにせよ1949年以降の小津の日記に「サン」が登場するのは、「1951年1月17日・3月21日・4月24日・11月10日、1952年4月17日、1953年6月16日、1954年3月22日(前述のライカを買った日)・10月14日、1955年4月6日、1960年7月14日、1961年2月2日(”たくみ サンに寄って三越”)」。1953年6月16日は、ちょうど『東京物語』ロケの最中だったことが気に掛かる。ほか、関係しそうな記載としては1953年3月30日に「アサヒカメラ座談会」、1954年11月5日の「シュミットに寄ってから」(当時ライカの総代理店だったシュミット商会か)、1955年2月15日「昼寝をしてゐると小尾がくる ニッコールの85m(ママ)のレンズを頼む 四万五千円を預ける」、同年3月11日「小尾に会ひ105mmのレンズを見る」、同年6月27日「小尾から電話ライカピッド(ママ。入手したライカがIIIfであれば、ライカビット SYOOMか)を頼む」ぐらいか。この「小尾」という人は何者なんだろう。
次に小津が構えているカメラの形状から何かわからないかと思い、あらためて細部を見れば、写っているカメラは戦後キヤノンが作っていたコピーライカであることがわかる。決め手はファインダーの位置。同時期の国産コピーライカであるニッカやレオタックスはライカそっくりに作っているのだが、キヤノンは誠実と言っていいのか「打倒ライカとコンタックス」の心意気の現れか、多少スタイルが違う。なお、小津が用いている機種については、この時期のレンジファインダー機は輸出用に作っていたせいか勢いがあり、すぐ新型が出るうえに、外観がどれも似すぎていて小さな写真では区別がつかない。時期を考えれば、1946年発売のSIIから1952年のIVSbの間のいずれかで、III型以降のように見受けられる。レンズもやはり形状から判断するとズマールに似ているので、1949年発売開始のキヤノン Serenar 50mmF1.9か。そう気づいて改めて調べると、「カメラ毎日」1954年6月号に掲載されている座談会「カラーは天どん 白黒はお茶漬の味」ではカメラの話がもっぱらで、その時に手にしているのはキヤノンである。このキヤノンのカメラとレンズ、そして外付けのファインダー、この時期どういう経緯で小津は使っていたのだろう。いずれにせよ、1953年の『早春』はとも��く、なぜ1955年に「ご愛用のライカ」ではなく、キヤノンを用いているのか。
ついでに言うと、小津が鏡の前でカメラを向けて撮っているセルフポートレートに用いているカメラはコンタックス。日記をざっと読んだ限りではわからないけれど、これもいつ手に入れたのだろう。レンズはゾナーの5cmF1.5。明るいレンズがお好みと見える。こちらは姪が譲り受けたとのことで、今は先のライカと同じく茅野駅前にある。
長々と書いてきましたが、つまりはこれらが今回生じた疑問です。小津に詳しい人、どうか教えてください。
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物価高が進む中、生活保護受給者が切りつめた生活を強いられている。生活保護費の引き下げを巡り、国を相手取った訴訟にかかわる2人の受給者に話を聞いた。 国が2013~15年に生活保護費を引き下げたのは憲法が保障する生存権に違反するとして、国や自治体に減額決定の取り消しを求めた大阪訴訟で、大阪市の小寺アイ子さん(79)は原告団長を務める。 同市旭区の千林商店街近くで1人暮らしの小寺さんは、手押し車を押し、ゆっくりとした足取りで買い物に出かける。 月約11万円の生活保護が頼りで、4万5000円の家賃や別に光熱費がかかる。最近はスーパーの焼き魚が400円近くに値上がりしたため108円の缶詰を選ぶようになった。「物価高の影響でしょう。夜は総菜が割引販売されますが、店に並ぶのが体力的に難しくなった」 看護助手など仕事を転々としながら2人の娘を育て、50代から守口市や旭区でカラオケ喫茶店を営んだ。心臓や肝臓の病気で働くことが難しくなり、69歳から生活保護を受給。薬の副作用で股関節の病気にもな��た。 外食は2カ月に1度で、検査で訪れる病院の食堂でうどんを食べる。カラオケ喫茶店の常連客だった知人から誘いもあるが、交際費のゆとりはなく断っている。新型コロナウイルス禍で支給された定額給付金の一部を孫らの中学祝いに贈るため蓄えている。 今の生活は「単に生かされているだけ」と、悔しく、やるせなさを感じることもある。「人が生きていくためには栄養のある食事、友人や家族と交流することが大切だと思う」 ◇「余裕は一切ない。なのに…」 神戸市の北風正二さん(86)は同種の兵庫訴訟で原告団長を務める。同市北区の団地に1人暮らし。月約11万円の生活保護が唯一の収入で、家賃を引いて残るのは約7万円。昨夏に20年ほど前のエアコンの故障に気づいたが、買い替える余裕はない。 大阪市出身。中学卒業後から住み込みで働き始めた。その後に勤めた水道工事会社で腕を磨き、30歳を過ぎて独立した。下請けで月30万円程度あった収入は、60歳を過ぎて月20万円ほどに減った。 一人親方のため、工期を守るのに必死で仕事を休めなかった。70歳の頃、痛み止めで腹痛に耐えながら2週間働いた。こらえきれずに駆け込んだ病院の医者に言われた。「あかんわ、2日後だったら死んでいた」。盲腸が破裂。腹膜炎と診断され、入院した。元請けの社長に「今晩手術します」と伝えると、「そんなわけにはいかん。クビや」と告げられた。仕事を失い、生活保護を受けるようになった。 「ずっと精いっぱいの生活でしたから、蓄えもなかった」。減額決定で、引き下げられた金額は月約3300円。ビールを飲みたい時はコップ1杯と決めている。スーパーの6貫入りのにぎりずしは298円から100円近く値上がりした。物価高を前に、ぜいたくはできないと感じている。「余裕は一切ないのです。なのに引き下げられた」 大阪訴訟は23年4月、兵庫訴訟も今年4月にいずれも大阪高裁で訴えが退けられた。大阪訴訟は最高裁で係属中。小寺さんは「ぜいたくをするために闘っているわけではありません。心にゆとりのある生活をしたいだけです」と話している。【土田暁彦】
食費切り詰め焼き魚から缶詰に 物価高と生活保護減額に苦しむ受給者(毎日新聞) - Yahoo!ニュース
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【他マイキャラ紹介】の前に・・・ こいつと遊んでくれた皆さんありがとな(´Y`)
養命丸(ようめいまる):くんせいハムのペット。三毛猫(♀)のぬいぐるみ。 ( `ω´)え・・・ ペットじゃなくて家族ですにゃ
1人称は基本的に「養命丸」、語尾は「~ですにゃ」で、性格はウザめ。許せるか許せないかは相性次第。 くんせいハムの美しすぎるボディに心酔しており、もちもちのおしりを尊んでいる。 また、ハムのことは敬愛を込めて「おしりの君(きみ)」と呼んでいる。
全く同じ姿でプリパラデビュー済み。ぬいぐるみと人の姿を自由に行き来することができる。人間の姿でコンカフェで働き、自分の可愛さを換金できる労働の喜びを感じていたが、良いお客に気に入られてゴニョゴニョしてタダで建物をもらい退職。 現在は利益が出なくても困らないタイプの純喫茶を経営しており、元々働いていたコンカフェのメンバーからは蛇蠍のごとく嫌われている。 猫の姿の時はよく(故意に)うんちを漏らすが、遠く離れたところに転送できるので周りからはギリギリ嫌われてはいない。
元々は大正時代くらいに人間として生まれた男だが、病弱で若いうちにあっさり死ぬ。近所の猫地蔵を修理したことがあるためか、神様の気まぐれで三毛猫に生まれ変わる。 「三毛猫のオスは珍しいからちょっと・・・」 という理由で性転換させられている���しかし本猫(本人的な意味)は細かいことをあまり気にしていない。 (´Y`)細かいこと扱いなのか・・・? ( `ω´)にゃ~ん
これを書かせている人間の一人目のマイキャラのご先祖様に拾われ、飼われているうちにいつの間にか化け猫に変化(へんげ)。当時の名前は「みそかつ」。 化け猫なので当然しっぽは3つに分かれているし、開けた扉は自分で閉める。一人目のマイキャラはこいつがただの猫ではなく化け猫であると気づいていたが、他の家族はあまり気にかけていなかったらしい。 ( `ω´)もっと関心持ってほしいですにゃ・・・
お散歩中にその辺のトラックの上でうたた寝し、いつの間にやら遠方の県に流れ着く。そこでは化け猫とは思われず普通の猫として飼われており、当時の名前はただ単に「猫ちゃん」だった。そのためか時々自分のことを「猫ちゃん」と言う。
突然ぬいぐるみの姿になってしまい、元の飼い主には 「こんなぬいぐるみいたっけな」 と思われ、メ◯カリに出品された。ちなみになぜか尻尾は1本に減った。 ( `ω´)せめていなくなった猫ちゃんの代わりとして可愛がって欲しかったですにゃ・・・
( `ω´)おしりの君と同じシリーズなんですにゃ!
https://www.sk-japan.co.jp/charatoru/chara/past-prize/amgoods-1450
https://www.sk-japan.co.jp/charatoru/chara/past-prize/amgoods-1451
購入したのはこれを書いている人間ではなく、別の人間の下僕である。ハムにはぬいヒト問わずたくさんの下僕がいる。
(´Y`)左下、なんかアーケード時代と色が違う気がする・・・ 赤色が薄い ( `ω´)にゃ? よくわかんないですにゃ~(研究生でプリパラライフを終えてしまった哀れな猫)
(´Y`)って言うか養命丸、お前・・・ お店で売られてる服を買ってないくせに試着室で自撮りだけして帰るタイプの女だったのか? ( `ω´)??? 何が悪いんですにゃ? ~文化の溝~
ちなみにこんな奴でも伴侶と子猫4匹がいる。伴侶はハムの娘・椿ちゃん。 (ぬいぐるみ王国では婚姻に性別は問われません。また、謎の繁殖力によりぬいぐるみの子供も生まれます)
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2023 紙漉きしてきた
0701
すかすかの奴隷船でいつも通り東京へ
もう慣れたものです 毎月何回行ってるんだろう。
冬の最後に、わたしと一緒になにか作ってくれませんかって 初めてお願いしに行ってから。
様々な運命がわたしを殺してくれなかったのもあるし。
昨日は知久さんのらんちうを回し2回とも緑。片方はいっしょにいた人にあげた。
タバコの吸える喫茶店に入った
また色々見たりして 飲み屋さんハシゴして吐く寸前まで食べた。
一軒目のお店で音楽の話。
就職の面接で持って行った作品集に鍵盤の絵を入れていたら偶然社長が鍵盤弾きで 何聴くんですかって聞かれて。特に意味はなかったけどとりあえずはっぴいえんどって答えたら誰好きなのってさらに突っ込まれて。ここで趣味がバレる…と思いつつ 全員好きだけどその時バンドワゴンよく聴いてたので鈴木茂って答えたって話した。あなたにとってはそれが正解だねって言われた。
鈴木茂知ったのはキーボードマガジンで���エレピがいい曲でみんながやたらと砂の女をあげるから気になって聴いたのだった。
社長には「そっちか〜」って言われた。どっち?って思ったけど社長は熱烈な細野晴臣ファンだった。なるほどね。
それ以来今住んでる土地で音楽何聴くのと言われたらとりあえずはっぴいえんどって言っといて様子を見がち。
2軒目はお腹いっぱいすぎて記憶がない。ただ上京してすぐの香ばしい男がいた。かわいいねえとも言えないレベルの尖りようで 癖の強い笑い方がずっと頭に残ってる。
頑張って帰ったけど吐くかと思った本当に。
嘔吐にブランクあるからもう吐こうにも吐けない体になってて 口呼吸でヒューヒューしていた。
0702
起きて少し遠くへ足を伸ばした
そういえば去年この日にceroのライブ見に行ったな
紙漉きしてるからやります?って聞かれてはい、って言ったら小学生の夏休みに混ざった
イルカとまんぼう なるほど紙漉きっていいなって思った
公園でひたすら散歩した 暑くてどうだったかあまり思い出せない かき氷のシロップかけ放題で頭回らなすぎてコーラとブルーハワイ入れたら大地と水の色になった
神社に行ったら2匹のねこが立ち入り禁止ゾーンでお昼寝していてあなたのことを思うなど。
なんかついてきて可愛かった。いいなあねこ
スピッツのカバーしてた時、猫になりたいのMCを完全にコピーしたことがあったけど(小岩井の土になりたいやつ)みんな誰もわかってなくて面白かった。「最近髪切ってさあ らくだとかロバ見たいって言われて前世は羊だったのかなあなんて えー、猫になりたい」みたいなやつ
猫みたいな人を飼いてえのモチベーションで労働してるよ、ずっと。
あまりにいい町並みでいいマンションたくさんあったな、一回家入れてほしいな
記憶が鮮明なうちに〜と思ったが逆に疲れてなんもかけないかも 足の豆が爆発しそう はやく靴買い替えたい
フィルム撮り切れるかと思ったけどあと4枚残しちゃったから今週末撮れたらな というところです
ああお腹すいた 困るなー 冬眠みたいに胃に蓄えた栄養少しずつ齧り取るみたいな生活でいいのに
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2023/4/1〜
4月1日 新年度の不安爆発中。 仕事のこと、というより新しい人間関係のことで、まだ始まってもいない、全く未知の星たちとの関係を勝手に予感しては怖がっている。 とりあえず社会ではできないことを無理に頑張っても誰のためにもならないので、無理はしないことを気をつけたい。
そんな最中で長島先生とのレビューをした。 オンラインで10:00から。それまでに昨日はやっぱり目が冴えて頭も落ち着かず、短い睡眠時間にも関わらずレビューまでにシーツの漂白や新しいMacのセッティングをした!えらい!
心が無からの不安で社会に持って行かれていたので、こんな状態でちゃんと先生とお話できるかしら…?と思っていたけれど、伝えたいこと、聞きたいこと、を心残りなくやり取りさせてもらえて、とても幸せな30分間を過ごせた。 「先生って言わないで!」と言われていたのに、最後まで「先生」と呼ばせてもらった気がする。 作家として続けていける人と言ってもらったり、“いて欲しい人”だと言ってもらえて、長島先生から、というより他人からそう言ってもらえて生きてて良かったし、写真を撮って何かしらの作品(?)つくりやインターネットをしていて良かったな〜、と思った。
写真と文章についてのお話をお訊ねできた。 またお家に行かせてもらう約束ができた。(以前、暑中見舞いをポスティングして帰ったことがあって、玄関前で買ったりしないでね!と言ってくれた。)
30歳で消えるはずだったんだから、もうなんでも好きにやってみて傷付いて悲しくて泣いてそれでもまた何か作ったりして生きてみれば良いのかもしれない。 19時以降受け取りの宅急便が来ません。
4月2日 昨日の書き忘れ。 ・ちーちゃんが写真を送ってくれた。 ・去年、療養期間に窓の外で取り壊されていた戸建てのお家が、気付いたら新築されていた。 ・ラロッシュポゼの日焼け止め下地を買って夏の準備。
今日は曇りで少し埃っぽい春の、薄着と新しい軽いスニーカーで足取りふわふわの身体で、イヴを飲んでいないはずなのに、くるくると忙しない気持ちと頭で、会った友人とこぼれる様に喋った。 頭の回転が軽くて、もっと置く様に考えたい!喋りたい!と思っていた日。
久しぶりに吉祥寺へ行き、てらおかさんの展示を観た! 久しぶりでも、前回訪れた時からそんなに変化はなくて、私の懐かしみたい吉祥寺はもうずっと昔に消えていたことを改めて実感。近江屋喫茶店はホテルショコラになっていたし、街全体がショッピングモールみたい。
でも井の頭公園とかアーケードの商店街のメンチカツの人の多さを確認して、中央線の無駄に人が多い感じを楽しんできた。吉祥寺へ向かう中央線で、新宿を過ぎ中野あたりで“LOVEずっきゅん”がヘッドホンから流れてきて「iPhone先生…!」となる。
てらおかさんの展示をみて百年で本を眺めて、混んでいるカレー屋さんを何軒か通り過ぎて、結局吉祥寺でやりたいことって何も無いのでカルディと靴下屋に行って、友人との待ち合わせへ向かった。
離婚するかも、と伝えられていた友人に会うのを少し緊張しながらも、何も慰めモードになっていない自分がいて、何なら「人生どう?」みたいなテンションで待ち合わせへ向かっていた。 展示の候補のギャラリーを観て、西村カメラの店主さんにギャラリーのアドバイスを伺って、ルノアールでお茶をした。
そこまで立派に写真展をしたいわけではなかったけれど、写真に縛られずとも、作品を世の中全ての方を対象に、観て欲しい!と思っているので、ある程度ギャラリー選びをした方が良いと思わせてくれた。
明日からの新年度の不安を少し忘れる時間ができてよかった。帰りの乗り換え駅で、リクルートスーツできれいに決めた女の子が、鬼カロリーデニッシュパンをかじっていた。 明日から多分しばらくは、度々、不安でお手洗いで泣く日々なんだろうな。
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2023.4.30sun_tokyo
起きた。湿気がすごい。窓を開ける。アラーム無しで起きる休日の始ま��。起きたらとりあえずコップ一杯の水分を飲む。前YouTubeで見た海外のバレリーナが、起床してから1リットルの水を飲んでいたから真似している。あんなかわいい人になりたいなと思いながら何故か水を飲むことだけ真似している。コップ1杯なんて1リットルに比べたら少なすぎるし水を飲んだだけでかわいくなるはずないのに..でもコップ1杯の量が私の精一杯。コップ一杯飲むだけでなんだか健康になりそうな気持ちにもなるし。なにをするにも気持ちの問題なのかもしれないとぼんやり思う。
昨日の夜は友達の家で料理教室をしてお腹がパンパンだったから、お腹にやさしい雑炊を作る。なぜか小さい鍋を選んでしまい少し煮ただけですぐに溢れそうになって火を止める。キャベツと人参は半生だったけど美味しかった。
今日は2つの予定があったがどちらも雨の予報で延期になった。 部屋の片付けを始める。バイトの日は時間の使い方が難しいから休みの日にやる事をまとめて終わらせようとするけど、結局ぜんぶ終わらせたことはない。うまく時間を使いたいといつも思っている。何もしない時間も必要だと思って何もしない時間を過ごしても、あれを進めておいた方が良いかな..となかなか落ち着かない。24時間は足りない。でももし1日が48時間ある世界に生まれていたとしても、1日が72時間あったら良いのにと言っていると思う。天気が悪くて外に出てバトミントンもできないし、部屋の片付けが捗った。 15時頃マッシュルームのペペロンチーノを食べる。美味しかった。パスタは飽きない。
作業を進めて近所の喫茶店へ行く。 今日は散歩にちょうど良い気温で外を歩くのが気持ち良かった。
注文を聞きにきて、カウンターに戻る店主のおばあちゃんの襟足が綺麗だった。 扉の外の景色をぼうっと眺めながらあたたかいアップルパイを食べた。
喫茶店を出たら空がピンク色になっていた。
その後彼と彼の友達と豚骨醤油ラーメンを食べた。彼は味噌唐辛子を大量に入れてもはや違うラーメンになっていた。真似して味噌唐辛子を少し入れたら美味しかった。友達は鼻がズビズビで風邪を引いていた。風邪にはネギが良いと言ってラーメンにネギをたくさん入れていた。ジャケットのポケットにはさっきコンビニで買ってきたらしいポケットティッシュを大量に詰め込んでいた。ネギが効いて早く健康になりますように。
帰宅してゴールデンウィークの出店の準備を進める。去年の12月から植物を売り始めて、今回は6回目のイベント。少しずつ自分にできることをやっていきたい。少しずつ、やりたいことをやって、最終的に死ぬまでにやりたいことは全部やりたい。おばあちゃんになったときに豊かな表情でいたい。 5/5(金)-5/7(日)に二子玉川ライズにて開催される太陽と星空のサーカスに参加します。鷹取愛さんの制作した鉢に植物をセレクトして植え替えたものを販売します。是非お越しください! https://www.sunandstars.tokyo/ あいさんとは去年の夏友達を介して出会った。それからよく会っている。会って話すと私このままで良いんだととか、自分の気持ちが前向きなオレンジ色とか黄色のあたたかい色になる。あいさんの生み出す陶芸作品たちは生きものみたいで愛おしい。料理も全部おいしくて心から癒される感覚になる。人におおきな影響を与えるハートの持ち主のあいさん、大好き。
ゴールデンウィーク何するの?と聞かれるし自分も人に聞いてしまう。何もしなくても良いしどこかに行くのも良いね。単純にみんなの日常が気になる。 友達とラインしていて「応援しています」という言葉を使っていて良いなと思った。昔から「頑張って」と人から言われると心のどこかが引っかかる。相手は本当に応援してくれて言ってくれたとしても、背中を押されることを求めていないのに背中を押されているような感覚とか、言われなくても1人でやるよとか冷めた感情がうまれることがある。だから「頑張って」よりも「応援しています」の方が自分にしっくり合った言葉だった。「元気?」という言葉も、元気じゃなきゃいけないの?とか、���気な状態ってそもそも何だろうとか、色々思ってしまう。
色々思ってしまうけど、人がくれた言葉たちは大事にしたいし、私もできるかぎり人の気持ちを考えて生活したい。 不機嫌になったりルンルンになったりする日々のなかで、明日からも栄養とって、適度に運動して、よく眠って、自分の気持ちに素直に過ごしたい。
-プロフィール- 谷地莉香子 25歳 東京 WUEI 植物屋 @hiyookin @wueinet
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2024/3/5
いま、思えばなぜ紹介してくれた女の子は話してくれたのだろうと思う。人によってはアレルギーのある話だ。その友人の女の子が凄い霊能者と会ったと興奮気味に語ったときも最初はやや眉唾であった。占いは信じない質なのだが、本当に見える人が世にいるのは知っていた。友人の中でも2人いてよく面白半分で体験談を聞いていたし、常識や科学では説明がつかないようなことも自身でも経験したことがある。まぁ、時としてこういうのって全能感に繋がったり、自分は選ばれた人間だ。なんて勘違いした輩を生むし、金持ちがお金を吸い取られる様も見てきた。1時間20分で10000円が高いのかわからない。占いにしては高いし、本当に見えるのならば安い気もする。
紹介者の女の子からは10000円以上の見返りを求められたという話はなく、客を選んでる感じもない。誰でも紹介してくれて大丈夫だと言われてるそうだ。
ならば、早速と紹介を頼むとあっさりとLINEの友達紹介が送られてきた。ここでは仮に“四季さん”としよう。◯◯から紹介されました。お会いしたいのですが可能でしょうか?と送ると数時間後に時間と金額と場所、そして日時の提案があった。
一度、四季さんの仕事の都合でリスケはあったもののすんなり会うことができた。別で仕事をしてるんだと頭に浮かんだが。まぁ、そういう人もいるかとすぐに疑問は打ち消された。
会うまで2週間程度。何を相談しようかと考えていた。当面の課題いくつもあれど、大体は方向性が決まっている。相続問題には弁護士が入った。家を建てる話には土地が決まり地盤調査が無事に終わりそうだ。奥さんの家族とそりが合わない問題も心のなかで決着を見ている。奥さんにも素直に話せているので距離感が遠くなり楽になると思う。新しい仕事を1つ考えていてこれは確かに相談したいかもしれない。あとは何と言っても拠り所のない自分のこと、知りようも無い飼っていた犬の気持ち。そして四季さんへの好奇心もある。ただ、最後のこれはどこまで聞いて良いのかわからなかった。
−−−−−−−−−
当日はひとつMTGをこなし、都心の街に出た。待ち合わせに遅れるのは苦手なので30分前に着いてしまった。まぁ、いいか。と久々に訪れた街をブラブラ歩いた。もし、すべて見れる人ならばこんな光景も見られているのかもしれない。雨がぽつりぽつりと降ってきた。終わる頃にはお昼だなとどこで食べようか検索したりしていると時間になった。
待ち合わせの喫茶店で席番号を伝えると少し年配の優しい感じの女性はすべて心得てるようで「はい、承っております」と答えた。ひとつ階をあがり、上着を脱いで席につく。「着きました、お待ちしております」とLINEでメッセージを送ると今向かっておりますとすぐに返信が来た。
浮ついた気持ちを抱えながら待っていたものの、不思議と猜疑心はなかった。友人からさんざん凄さについては語られていたのもある。
現れた四季さんは普通に少し遅れたことを謝り、特別な服装や髪型ではなく、少しおせっかいそうな雰囲気あれど、神秘性なんて何も無い話し方で、慌ただしくアイスレモンティーを頼んだ。おしぼり使ってくださいね、席は奥側でいいですよ。と気遣いできる人で身構えたこちらとしてはホッと何かひとつ肩の力が抜けた気がした。
事前に聞いた通り録音しても構わないと言われ、スマホの録音ボタンを押して、子供がお絵かきに使うような消せる小さな黒板に聞きたいことの周辺者を書いてくださいと差し出された。
差し出される際は「相続ってのが出てるんだよなぁ」や「複雑な家庭ですよね?」とすでに見透かされているような発言をされていて胸の鼓動が早まる思いだった。自分の名前、奥さんの名前、母の名前、義父の名前、義父の息子の名前、父の名前、兄の名前と書く。そして、そこに年齢を足していく。
まだ、完全に信用していたわけではないのでこちらから情報を出すことはしない。
まずはお母さんからと話す出す。お母さん相手を間違えてしまったね。ただ、そこをいまさら責めておかしいし。この人は責められるの苦手だし溜め込んでしまうんですよね。
母の写真に手をかざす。すると、母がたまに話す愚痴と同じ語り口調でつらつらと母の心境が出てくる。まるで、そこに母がいて自分には見えなくて、その通訳をしてくれてるかのよう。それくらい母が話す言葉と語尾までほぼ同じだった。
「お母さん、良く喋る人ですね?」と笑う。そして、「実の父親」という言葉が出てくるんですけどと言われた時にドキリとした。母は養子縁組を祖父としていて、祖父に育てられた。その情報は四季さんにもちろん伝えていない。
自分は違うんですけど母方は宗教にどっぷりなんです。と伝えるとずばり宗教法人の名前が出て��た。これも伝えていない。
潜在意識と会話をしているんです。と四季さんは言う。その後に話される言葉も核心をつくようなことばかりだった。
奥さんが出会えてよかったと言っている。運命の人だからここは大丈夫ですよ。と言われた時にはすっと胸の澱がいくぶん落ちた気がした。
四季さんが言うには
人は家庭でもらった愛情しか自分の子供に伝えることができない。例えば1%の愛情しか貰ってない人は2%の愛情を子供に渡すことは出来ないと言う。
なので、あなたの場合はお母さんが愛情をもらってない。そして祖母も愛情をもらってないと伝わってきてるものなんです。
少しここで胸が傷んだ。では、自分は?自分も子供が出来たとしてやはり愛情を渡せないのではないか?
疑問をぶつける間もなく話は進んでいく。
「お仕事などんなことをされてますか?」という質問から「事業拡大というのが出ているんですが」
未来を見ることができる仕組みはわからないし確かめようがないがこれから取り組もうとしている仕事について話した。
人は、誰もが使命を持ってこの世を生きていると言う。それは大きい人もいれば、小さい人もいる。その使命に気づいてほしくて自分はこの仕事をしている。と前置きをされて言われたことは自分の周りに散らばったものを集めたようなもので、とにかく困難で緻密でとても到達できないんじゃないかと思えるようなものだった。
その後は前世の話をされ、それもなぜかすっと納得いくようなもので。そして、ずっと見守ってくれる人がいることを伝えてくれた。それは父性というものを経験したことがない自分にとっては嬉しく、自分はずっと一人ではなかったのだと思った。
その見守ってくれる人の風貌を教えてもらい、母に確認すると母方の高祖父ではないかと。母には四季さんに見てもらったことを伝えていないので「なんで急にそんなこと聞くの?」となっていたがややこしいので話さない。四季さんは見守ってくれてる人は背が高く母のようにお喋りでしっかりしていて頼りがいのある感じだとのこと。高祖父は昔の人にしては珍しく身長が高かった(180センチ以上だった)と訊く。
高祖父が昔飼っていた犬と一緒にいる。ボールで遊んだり、散歩をしたりしている。と聞いて少し泣きそうになってしまった。それを知れただけでも来てよかったなと思えた。思春期の頃に飼っていた犬で可愛がっていたけど、充分にしてあげれたとは思えなかったし、ツラく当たってしまうこともあった。
気にしてない。大丈夫。もっと遊んでほしかったけどね。とそう言っていると伝えてくれた。
帰り際に「次に来るとしたら◯◯の件だと思いますよ」と予言めいたことを言われた。その前世があるからあなたは戦ってしまうところがあるのだと。
また来るのかな。まぁ、人生は悩みが尽きないしそうかもしれない。
−−−−−−−−−
当然ながら1時間20分の内容をここにすべて書��るわけもない。終わったあとは驚きと納得と情報処理で頭がグルングルンしていた。
帰り道、Recorderとして使っていたせいで充電が少な��なったスマホを眺めながら、紹介者にお礼を打ち送信した。
四季さんからは誰でも紹介してもらって大丈夫です。LINEを教えてあげてください。と言われていた。悩んでる友人やこういった話にアレルギーがない人の顔が浮かんでくる。とはいえ、実際に行く人は一握りだろう。未来視を受けたくない人だっているはず。そこには凄惨な未来も少なからずあったから。奥さんもそのひとりで、未来を知るのは怖い。人の気持ちを知るのは怖いと言っていた。
なんとなくだけど、四季さんはその人が変えられることだけにフォーカスしてくれてるような気がした。2年先のことが見えない人もいるとぽつりとこぼしたし、何かに固執して柔軟に生きていけないのもそれは仕方ないことだとも言った。
自分には知らなくても良いことは伝えずに、良くなる可能性があることをたくさん話してくれた。基本的には内容はポジティブで誰にとってもこう胸が温かくなったり、何か支えや指針ができたりする話だった。
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さて、不思議な体験談は以上としよう。
あなたもきっと見てもらったらびっくりするはず。恐ろしい程に自分だけが知る自分や、自分の周りにいる人のことを当てられる。疑う余地がない。
ただ、四季さんが話した未来のことや前世のことや守護霊みたいな人のことはわからない。だって確かめようがないから。答え合わせはずっと先。いつだって人生はそうだし不満を言っても仕方ない。
この投稿を見て、これ書いた人はスピに被れたイカれた人だなと思われるのも仕方ない。人の感性はそれぞれだし。もし、あなたが何か���悩んでいたり好奇心旺盛で体験をしたい、四季さんに会いたいという人がいれば連絡をくれると良い。東京近郊、または東京に来る予定があるならば会えるはず。
知るということに臆さない、勇気のようなものがあればたぶんそれを人生の糧にできるだろう。
もちろん、自分に何も見返りはない。でも、前世でもそういうお節介な人だったようだ。そして、なにより好奇心が大きい。あなたが何を四季さんと話したのか教えてくれればそれで嬉しい。
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Homemade sweets that kids will love. 今年のバレンタインデーにも嬉しい子供と作る『パリパリチョコマシュマロ』 バレンタインのファミリーチョコレートにぴったりです。 お誕生日パーティなんかにも もってこい。 ぜひ2月14日は家族でバレンタインも楽しい時間をお過ごしください。 料理研究家 指宿さゆり ーーーーーーーーーーー #料理研究家指宿さゆり #レシピ開発 #レシピ制作 #レシピ制作専門スタジオ #料理は教養 #食は品性 #インスタグルメ #神戸グルメ #グルメスタグラム #神戸料理教室 #recipe #レシピ #バレンタインチョコ #おうちカフェ #スイーツ #marshmallow #インスタグルメ #バレンタイン #バレンタインデー #インスタグルメ #valentin #神戸料理教室 #神戸グルメ #valentinegift #喫茶店 #カフェ活 #マシュマロ #デザート #キッズクッキング #ケーキ #desert #🍫 (Kobe, Japan) https://www.instagram.com/p/CobsyxRSntY/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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覚えている。3年前の9月、パルコの屋上で友人と映画を観た帰り道だ。橋の上から見た豊平川が黒々としていて、月光や街明かりを銀色に映す水面さえも覚えている。歩いて友人を送って、自分は菊水駅から地下鉄に乗ろうとした。改札に向かって地下へ階段を降りていると、駅のブルータイルの壁に目が奪われた。好きな青だった。一人暮らしをする予定もなかったのに、朝陽がつるりと滑るこの壁面を横目に出勤できるのは素敵だろうと思った。しばらく経って、一人暮らしをしてみたくなった時にブルーの壁を思い出した。ギャラリー犬養という札幌で1番好きな喫茶店と豊平川が徒歩圏内にある菊水での生活を想像してみて、うっとりした。菊水に住むと決めた部屋探しには半年かかった。やっと見つけたこの部屋の窓からはテレビ塔の頭が遠くに見えた。
すすきので終電逃しても歩いて帰れるから大丈夫。眠れないまま朝になったら豊平川を渡り、テレビ塔まで歩いて創成川を辿り、散歩する。人の全くいないテレビ塔や狸小路に少しドキドキする。狸二条広場で、おじいさんがベンチに座り手帳に何やら書いていた。西向きのバルコニーは、15時からの陽の入り方が綺麗だった。部屋の中で観葉植物をいくつか育てて、バルコニーで青じそを育てていた。食べては繁って、繁っては食べての夏だった。米里通り沿いの部屋だから、深夜に酔っ払いが唄歌いながら歩いているのが聞こえる。間欠的に聞こえる車通りの音と、天井を走るヘッドライトの光の流線を見ながら眠る。除雪のブルドーザーの音で深夜3時に目が覚める。朝になれば小学生と高校生の通学路、11時ごろにはお散歩中の保育園児が2人1組で手を繋いで眼下を歩いている。家の横の横断歩道をひとつ渡れば、お母さんみたいな人がやっている串屋さんがあるし、家の裏にはかっこいいおじさまと着物を着た奥さんがやられるバーがある。時間があれば、よく豊平川を見に、河川敷に行った。台湾名物、胡椒餅が売っているところがあって、17時ごろから安くなるからその時間を狙って買いに行って、河川敷で食べた。夜勤明けでパンを買って食べたことも、休日は川の水流にビールを冷やして飲んでたこともある。
心惹かれた街に住んでみて、お気に入りがひとつひとつ、増えていった。住んでみなければ、味わえなかったこと。知り得なかったこと。一人暮らしには贅沢すぎる2年間だったように思う。次の街もきっと好きになる。けれど全部全部手放して、思い出にしてしまうのが少し寂しい。段ボールに入れて持っていけないものばかりだから、こうやって日記にしておく。いつか離れるかもしれない予感を内包させているからこそ、めいいっぱい愛していたこの街との生活だった。豊平川が流れるこの街が、本当に大好きだった。
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230126 EXTRA
無駄で余剰なものとは「贅沢の象徴」であり「余裕」の表れ。 余裕がなくともあえてそれを嗜む事で「武士食わ高楊枝ズム」を体現できる。
ロマンティストはその格好つけだけが、したいのさ。
僕には「厄介人間耐性」があるが「厄介人間耐性がない人間」からの苦情や無茶振りには耐性がない。
だって後者の人間は「世の中に厄介人間は居てはならない」という前提で話進めてくるから。
僕自身は「厄介さを抑えよう」という意識があるが、それを全く抑える気のないクズの事も許容するし時に味方になる。
その態度自体が「厄介滅ぶべし人間」への挑発になってしまう。
厄介滅ぶべし人間の抱える怒りと嫌煙家が喫煙者(とその養護者)に抱える怒りはよく似ている。
どちらも「厄介なもんは社会と人の為にならないし資源とお金を浪費するだけの害悪。それを許容する人間も同罪」という視点に立って相手を責め立てる。
タバコにせよ、厄介人間にせよ、ロマン(無駄)を追い求め過ぎた結果「無駄中毒」になったって事なんだよな。
そこには絵描きと同じ哀愁があるんだよ・・
こんなクッソコスパ悪い、AIイラストが現れいよいよ人間がやる必要がない作業に何故こんなにも「執着」しちまってんだろうな、っていう。
「じゃやめりゃいいじゃん」では通らない。
もう人生と一体化しちまってんだその無駄アクション。
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無駄で余剰なものとは「贅沢の象徴」であり「余裕」の表れ。 余裕がなくともあえてそれを嗜む事で「武士食わ高楊枝ズム」を体現できる。
ロマンティストはその格好つけだけが、したいのさ。 それを否定すんなよ 野暮天朴念仁。
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るんぺんパリ 【RunPenParis】
自己紹介 2024年12月7日(大雪)追記 7642文字】 三重県伊賀市(旧名:上野市)出身 伊賀市(旧名:上野市)に 1976年(3歳)から 1996年(23歳)6月まで住んでいた 1976年以前の記憶と出生は不明 津市にある施設にいたと聞いた覚えがある 3歳のときに養子として育てられることになり 伊賀市へ突然連れてこられた 5世帯がつながった集合住宅の一番端っこお家で 四畳半と六畳の和室の二部屋 三畳の台所 トイレはくみ取り式 お風呂は深底のホーローでガス釜式 冬は寒くて よくしもやけになった 三重県亀山市に二つか三つ年上のお兄さんいるらしいが あった事は一度もない 30代の頃に一度だけ電話で話をした 父方に引き取られたお兄さんに 母親の事を聞いた 母親は別の人と再婚し離婚して 娘さんと一緒に暮らしているらしい 名古屋に近い三重県に住んでいるという話だった気がする 父親は再婚して自分と同じぐらい娘さんがいるらしい お兄さんはおじいさんの事を尊敬していて 中国語を勉強してるらしい あとは色々と聞いたけど 覚えているのはそれぐらいの内容で もう二度と話す事はないだろうと その時に思ったけど お兄さんの顔がどんな顔なのかは 見てみたい気持ちは今でも少しはある
伊賀市でそこそこ有名なのが 「伊賀流忍者」で「忍者屋敷」は 今も昔も変わらない内容で 営業している それは昨年(2023年)の夏休みに 末っ子を連れていったから確認済 外観はただの古い家だけど 中に入ると意外と見応えはある 「上野城」ならぶ観光施設 伊賀牛は「金谷」のすき焼きが有名で 「森辻」が新しい様相なってから焼肉を食べた 個人的には「伊藤」の牛丼が好きだ 油が多い感じのお肉だから 100gも食べれば満足感がある 「伊賀上野天神祭」の鬼行列も有名かな ひょろつき鬼が子供の頃は本気で怖かった 銀座通りが歩行者天国になり 的屋がならぶ 高校生の頃はリング焼きが100円ぐらいで 何個も買って食べた 2024年は10月18日・19日・20日(金土日)がお祭り 19日(土)は久しぶりに一人で一日中 お祭りを楽しむ予定だったけど 昼前から雨が降ってきて鬼行列は中止 午前中は親戚を3件まわって、おみやげを渡した 午後に実家によって車を駐車して 歩いて「伊賀上野天神祭」へと向かった いつも泊まる「伊賀上野シティホテル」は1泊10000円以上も高い 16800円だった。この日は駐車場も使えなかった 19日(土)の夜は19時から 同級生のお店「クワトロNo.4」に初めていった 30年ぶりにちゃんと会ったオーナーの 「ガキさん」は すぐに気がついてくれた 居心地がよかったので開店から閉店の1時までの 6時間でカクテルを8杯ぐらい呑んだかな 意外と安くて8200円だった 次の日の20(日)は「伊賀上野天神祭」に参加している 同級生の「オデ」に会って 鬼行列の準備風景を写真に撮って 上野天神さんの近く「紅梅屋」でおみやげを結構買って 「桔梗屋」で上生菓子とお茶を飲んで 静岡へ帰った 「松尾芭蕉」は俳句が有名で伊賀出身 小学生の頃はがっつりと俳句を作らされた 俳句はいやいや作らされたので 俳句番組は絶対見ない 「上野公園」に行くと「俳聖殿」という建物はある 「俳聖殿」の中には過去の優秀な俳句が収められていたかな 普段はこれといって何もないけど 「俳聖殿」のたたずまいは何か「The Haiku」という感じ 「上野城」のお堀の高さ日本2位? 一時期は日本1位説もあった 中学生の頃は「上野城」のまわりで体育の授業があったり クロスカントリーレースで走らされたり 高校生のデートも「上野城」が定番だったのか それらしき男女がイチャついていた 夜のライトアップは不気味なお城に見えた 一応、桜の名所なのかな 高校生の頃に一つ年下の子とつきあっていた頃は よく「上野城」をさんぽした 帰りはその子の家の近くまで送っていった その子はとても純粋な子で 自分にはもったいない子だった 半年もつきあっていないが 今でも純粋で幸せになっているかなと思い出す事もある もう向こうは忘れているだろうけど 伊賀の街には「銀座通り」とか「丸の内」とか 東京で聞くような名称が多く使われている 地元のうわさでは東京が伊賀の真似をして 街を作ったとの話がよく出てくるから 誰か本気でテレビとかで調べてほしい気もする いまだに東京が伊賀のマネをした説を 親戚がまじめな顔でいいだす時があるから 本当に真実が知りたいけど 自分が調べるほどは興味がない 2004年(平成16年)11月1日に 「上野市」から「伊賀市」名称が変わってから 「上野市駅」が「忍者市駅」になり 「近鉄」の電車だったのが「伊賀鉄道」になり 電車がコスプレになった 駅前には「銀河鉄道999」のメーテルと哲郎の銅像があり 「産業会館」が「ハイトピア伊賀」になった 「産業会館」だった時に「マルキン」のパン屋が近くにあった そこのシナモンパンが子供の頃から大好きで 今はもう手に入らない もう一度、あのシナモンパンが食べてみたい あと小さなパチンコ店「マルト」があった 「フルーツパンチ」という機種で勝った覚えがある あと「麻雀物語」もあったかな 「海物語」という機種が記憶の最終機かな 上野で住んでいた時期に一日で20万近く負けて それからパチンコは完全に辞めた じつはその後もたまにしたが 本当に気晴らし程度で その内にきっぱりとやめた スロットが主流になったら なおさら興味すらなくなった 「新天地」もなんかおしゃれなサビれかたで 「新天地Otonari」となった 街は自分が高校生の頃の面影は薄くなったけど 何となく残っている上野市街は今でも魅力的だ 「新天地」には映画館もあった気がする 当時は賑やかな商店街だった 当時からあった「喫茶店フランセ」は今もある 「伊賀上野天神祭」を見に帰省したときに ドリアを食べたが 素朴ないい感じの仕上がりの味に 古い喫茶店をぐっと感じる事ができた 「新天地」のとなりの大きな化粧品店は 更地になっていた 高校の時の同級生が「クワトロNo.4」という バーを経営している場所もこの「新天地」にある となりにダーツバーもあり 常連っぽい人たちのたまり場っぽいイメージで 気楽には入れなさそうな雰囲気はある 一度だけ朝方にお店の扉までいったけど ダーツバーの扉って感じで雰囲気はあった ここ数年は実家で一人暮らしの おかんの様子を見に よく帰省するようになったけど 若い頃は年一回も帰省しなかった 最近の伊賀でよく立ち寄るのが 「菓匠 桔梗屋織居」と 「HANAMORI COFFEE STAND」と 「岡森書店白鳳店」で 岡森書店は、「Kマーホ」の名で活動して 出版した「トイレの閃き」が背表紙の色が 抜けた状態で25年以上も 岡森書店の本棚に置いてくれている これを見ると初心に戻れて まだまた創作していこうとがんばれる この岡森書店の店長さんは従姉の同級生で 小学校の先輩の同級生でもあり この店長の妹さんは自分と同年代で そんなつながりが それにしても伊賀市は狭いなと感じる
幼稚園の頃の事で 「市部(いちべ)」という地区だったと思う 近くに「市部駅」という無人駅があり その近くの依那古第一保育所に 5歳から6歳の2年間通った おかんは自分の送り向かいのために 自転車を乗る練習して そのおかんが運転する自転車の後ろに乗って 途中の田んぼに二人で落ちて 泥だらけになった おかんは去年の年末まで 81歳でまだ自転車に乗って 実家近くの小田町の坂を下っていたらしい いまは親戚から危ないからと 自転車は召し上げられ 手押し車ででかけている 小学校6年生の卒業までは 上野市依那具にある 市営の「城ケ丘住宅」で過ごした この市営住宅はもう40年以上も その雰囲気を変えずに今でも残っている ここは伊賀市の文化遺産にしていいほどの 時間が止まった場所だ いまだに汲み取り式の便所の換気の煙突が立ち並んでいる このカオスな感じは小学生の頃の不便な生活を思い出させる あの生活で暮らしたから今があるのは確かだ 小学校の通学路にある 垂園森(たれそのもり)でよく遊んだ 現在も存在しているが オバケが出そうな森 この森は当時通っていた「依那古小学校」の 校歌の歌詞にも出て来る イメージ的には幽霊が出そうな森だけど 何か不思議な生き物が住んで居そうな森に見えた きつねも出そうだし おばけも幽霊も心霊も もしかするとタイムスリップして 小学生の頃に戻れそうな気もする森だと 変な懐かしさを感じる 近くには無人駅の「市部駅」と 毎日にらめっこしている森 垂園森(たれそのもり) 中学校からは上野市街の「上野城」の 城下町で過ごした 引っ越しをしました 当時はカオスな「市営城ケ丘住宅」から出れる事が 本当にうれしかった 小学校までの友達とも 見飽きてしまっていたので 寂しくはなかった 当時から色々な物にすぐに飽きては 新しい物が好きだったので そっちのワクワク感で本当にうれしかった そして引っ越ししたお家は 築20年以上の中古の一軒家で2階建て 自分だけの部屋があり トイレは汲み取り式だけど洋式で あこがれの上野の街で住める事もあって 本当にうれしかった
そして近くの「崇廣中学校」に通う事に 中学校の3年間は 転校生という立場と 中一のときに足のかかとを骨折 バスケ部の試合で となり町の「名張市(なばりし)」�� 体育館で遊んでいて 二階から飛び降りたら 右足のかかとの骨にヒビが入った
完治した その夏にはバスケ部をクビになり 陶芸部に入った バスケ部とは違い まろやかな陶芸部の部長は 本当にやさしい部長さんだった 中二で左腕を骨折 中一の右足かかとの骨折 どちらも遊んでいての骨折を二年連続してしまい この二年間の体育の成績は最低だった そして中三の高校受験に突入して この「崇廣中学校」では いい想い出は ひとつも無い
そして高校生となって 高校1年生で やっと自由になれた気がした まずは毎日 カッコつけて髪型をきめて その次は彼女を作りたいと 手当たり次第に告白したら 全滅した その数は20数人はいたと思う そしてあらゆる所で 告白しすぎて 変な奴として顔が広まってしまいそうになってきた 高校1年の後半はおとなしく 過ごしていた
高校2年生で 小学校の時にサッカーで出会った 旧友とバンドを組んだ RCサクセションのコピーバンドで 代表曲の 「雨上がりの夜空に」「トランジスタラジオ」 「ベイベー逃げるんだ」「サマーツアー」 「サントワマミー」「いけないルージュマジック」 「いいことばかりはありゃしない」 「どかどかうるさいR&Rバンド」をコピー 旧友が作ったオリジナル曲「ガレージの上のR&Rバンド」 も歌って一年で6回ぐらいライブをしていた 一番のモテ期だった気がする ただバンドをやっている自分を見て 好意を寄せられても違うなと思った バンドをしていない時は ただのバイトに明け暮れた 高校生だったから バンドマン目線で近づいてくる そういう女子には興味がなかったから 冷たい感じの男だったかも 本当にこの高校2年の時期が いままで生きてきた中で一番楽しかった。 高校2年後半の頃は またたくさんの恋をしたが 自分が不器用だったので 自分が好きだった人からは つきあえてもすぐにフラれた それから人を好きになることに 迷走し始めて 最終的に好きになる事はやめて なんとなくいいか別に という感情で奥手で過ごしていった そのせいか、 他校の女子からゲイだとか ウワサされる事もあった なぜそうなるか不思議だったけど 当時はそんなうわさも 楽しければなんでもよかった
1993年の20歳になるころ 家を勝手に出て 一人暮らしを始める やっと自由になった気がした 2年間ぐらいは お金が無くて 通帳の残高は毎月マイナス50万の カツカツでぎりぎりの生活 家賃と車のローンがきつかった 1996年7月(23歳)から 2003年7月(30歳)の 7年間は茨城県と千葉県の県境の 利根川の近く取手市に住んでいた この取手駅界隈を走るタクシー運転手の 態度は本当にムカつくから こっちも態度悪く乗ると 気分の悪さはお互いさまになった 関東平野は景色が無く ここでの生活は なんとなく落ち着かなかった 食文化も人も気候も水も 肌に合わなかった 特にうどんの汁が濃いだけのシンプルな味は げんなりさせてもらった ただ寺原駅近くの「ふる川」はよく通った とくに「カレー」がめちゃくちゃ美味かった 夕食時はのれんが出される前の時間に 駐車場で待機して開店と同時に 店に入っていたので お店の人には顔を覚えられていた この「ふる川」は今もやっている 当時はお店の子供で 小学生の女の子が手伝っていた 夫婦だけで運営していて 素朴な店内で 週3回ぐらいは夕飯でお世話になった 「さば定食」もよく食べた気がする
1997年(24歳)から パソコンを近くの「ミドリ電化」 というお店で38万で購入して 作詞やネットに興味を持ちだした 「まどみちお詩集」を読みだし 作詞に近い詩を書き始めた 「Kマーホ」という名で活動を開始し メインの詩を書き始める 創作の目標をまず詩300篇と決めて 詩を思いついたら メモをつけるようになった 週末はいつも家に引きこもり 朝起きて寝るまでの一日中 音楽を聴きながら 38万円のパソコンを買ったのに まだ「ワープロ」で 手書きの詩を清書して プリントしていた
1998年(25歳)から2002年(29歳)まで 「Kマーホ」の名で活動して 詩に団体に参加したり 詩の賞に応募したり 詩集を自費出版したりと やりたい事にお金も時間も好きなだけ 使ってすごしていた この時期に参加していた詩の団体(万有)には もうドロドロとした 詩を書く人や あまりにも読み解けない詩や 暴力的な詩を書いたり そんな態度の人や いい人も数人はいたけど 自分とは全然目指している方向が 違うので2年目ぐらいで辞めた それからは詩の団体に興味は無くなった それから 自費出版した詩集「トイレの閃き」約2000部を 全国の小中学校や 全国の図書館へ寄贈して 本棚に置いて欲しいとお手紙をそえた 返送されたり お礼のお手紙を頂いたりと 色々と反応を感じながら 2002年の29歳の時に 詩を創作する活動を休止した これで「Kマーホ(けいまーほ)」での 活動は終わった 理由は2000年(27歳)に結婚してから 集中して詩を書く時間が無くなってきたから 2002年に2つの詩集を出版して 詩の事は全部段ボール箱へ入れた
2003年(30歳)から2019年(46歳)まで 育児に家族を重点を置いて生活をする この時期の16年間は友達とも連絡を 切っていたので のちに死亡説や宗教説が出ていたらしい 2003年7月(30歳)から 子育てを重視するために 景色のいい静岡県に引っ越し もう20年以上住んでいる
2019年1月(45歳から46歳になる年) 「平成」から「令和」に変わる年に 「るんぺんパリ【RunPenParis】」の名で 創作活動を再開する 1998年(25歳)から2002年(29歳)の 「Kマーホ(けいまーほ)」の頃とは 全然ちがう方向性で詩を書き始める そしてSNSを活用して まずは詩の発信を始める 「るんぺんパリ【RunPenParis】」という名前の由来は フランスはパリの街を ぺんを持って 走りながら創作するというイメージから 【RunPenParis】ができた 1973年8月1日生まれ(現在は51歳で2025年は52歳) しし座 O型 右利き 詩・詩集・ことばをデザイン アート・写真・小説・ペン画 松尾芭蕉の生家がある伊賀市で 十代までを過ごし 俳句が幼少期から 身近に存在していた 二十代から詩を書き始めて 「Kマーホ」名で活動(1999-2002) 詩集6冊を出版して活動休止
その後 松尾芭蕉の俳句のような シンプルな言葉遊びを 詩で出来ないかと考えていた中で 令和元年(2019)に 「るんぺんパリ【RunPenParis】」の名で 活動を再開 SNSに140文字に 言葉をデザインした詩 「140文字詩」を 毎日投稿する活動を始める 2023年9月に140文字詩が 1200作品に到達した 「140文字詩」が広く浸透できればと 創作を続けている ◆るんぺんパリ【RunPenParis】作品一覧(2019年~) 【2024年(51歳)】Amazonで販売 2024年11月17日 第17詩集「もんもん もんもんで もんだろ��� 【2023年(50歳)】Amazonで販売 2023年12月27日 第2フォト集「ほちきす それでは あかんで」 2023年12月2日 第1フォト集「とめても ええか ほちきすで」 2023年11月23日 第16詩集「もあいの ねごとを よみとる」 2023年9月16日 第15詩集「さんもじ もしくは よんもじ」 2023年9月9日 第14詩集「のこりの あぶらは わるもの」 2023年9月2日 第13詩集「あそびも しごとも たいふう」 2023年8月26日 第12詩集「かいてきな しつどに おぼれる」 【2022年(49歳)】Amazonで販売 2022年12月6日 第11詩集「やくそくは よなかの おひるに」 2022年11月3日 第10詩集「みさんがの ともだちの たまんご」 2022年10月7日 第9詩集「くうきと さんその かつさんど」 2022年9月3日 第8詩集「さついを こめた いもけんぴ」 2022年8年7日 第1アート作品集「やさいに つめる にくえらび」 2022年2年14日 第2アート作品集「よなかに ひかる かみぶくろ」 2022年1年1日 第7詩集「みかんの むくちな きもち」 【2021年(48歳)】Amazonで販売 2021年9月8日 第6詩集「そんな ことばは さよなら」 2021年8月3日 第5詩集「あさに おくれた なんて」 2021年6月5日 第4詩集「すいかの たねの ちょうこく」 2021年5月31日 第3詩集「たんぽぽの たまご ひとつで」 【2020年(47歳)】Amazonで販売 2020年7月27日 第2詩集「こよい こよりの そらから」 2020年3月2日 詩小説「すきから あいへ おやすみ」 【2019年(46歳)】Amazonで販売 2019年7月21日 第1 詩集「ところで あした あいてる」 ◆Kマーホ 作品一覧(1999年~2002年) 【2002年(29歳)】 2002年4月30日 第6詩集「眠立体(ねむりったい)」発行部数不明 2002年4月4日 第5詩集「コールサック」100部発行 【2000年(27歳)】 2000年7月31日 第4詩集「マガサス星人」500部発行 2000年1月31日 第3詩集「おしりとサドルが あいますか」500部発行 【1999年(26歳)】 1999年8月1日 第2詩集「テレビジョン」100部発行 1999年5月1日 第1詩集「トイレの閃き(ひらめき)」2000部発行 【受賞】 2001年(28歳) 詩「眠立体(ねむりったい)」第6回トワイライト文学賞 2000年(27歳) 詩「永遠の親友」信越郵政局長賞 1999年(26歳) 詩「トイレの閃き(ひらめき)」第1回万有賞 1998年(25歳) 作詞「地球のウラハラ」第31回日本作詞大賞新人賞候補ノミ��ート
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iseilio 大系
018-2021 目次
音樂 etc
12/18 劉鉅渭教授音樂導聆 浸淫古典
01/19 港邊惜別 Arnold Schoenberg 二戰剛結束後的日本
03/19 愛のバラード
04/19 台語歌曲口白
06/19 小さな喫茶店 紅い 花
07/19 生命如花籃 追 求 美 好
10/19 秋櫻 星の流れに 11/19 涼山情歌
12/19 給喜愛音樂的朋友
01/20 世界名畫家畫作總覽 夢境
03/20 Music Note 悲情城市 05/20 歌謠集粹
04/20 春寒賜浴華清池 06/20 日本風情
07/20 人生海海 台灣古典音樂記 鄉村很重要
10/20 巴哈之前的音樂家 突破前衛音樂 パヒュームを残せない
11/20 Erik Satie’s Gymnopédies 台 灣 情 熱
12/20 台語歌曲(一) 歌謠集粹 台語歌曲(二)
美學藝術(一)
01/21 美 學 藝 術(二) 琴藝
03/21 遊覽車主唱 馬 勒
04/21 攝影必學 黃昏的故鄉
05/21 Langley 最高點
06/21 Bartok 蒐藏(一)(二)(三)
古典音樂有什麼好聽
03/21 Yorkson Creek 08/21 滯洪池、蘋果樹
09/21 Cycling Route 96Ave 麗澤大學
07/21 蒐藏(四) 蕭邦的音樂 飲食篇
08/21 創造者になる 火 鍋 由 簡 入 繁 滯洪池、蘋果樹
台灣的藝術世界 秋 意 西 索 米 古典音樂有什麼好聽 ?
09/21 赤瀨川原平 江户川乱步 這叫教養 野生動物
父親的眼淚和我的眼淚
10/21 台 灣 畫 家
11/21 遊 冥 河 孫悟空 Whisky 廣告
12/21 Stradivarius 1713 Beethoven: Symphony No. 9
蚵仔煎、蛋餅、潤餅皮
08/22 台北登山步道 台灣盛夏冰品 12/22 登 山
政治
11/18 蔡英文 所代表的意義
12/18 台灣人們自我防衛的決心
01/19 政治現象顯影 一場喜宴談外省人的內心世界
消失的篇章 壓力有兩種
02/19 喜樂島聯盟 天朝中國
03/19 種族歧視人類天性
04/19 不能讓中國共產黨垮臺 高科技救不了中國
司徒文教授的一席話 林毅夫、張維迎 之辯論
05/19 太平島與南海 維持現狀辨難 嚇一跳
06/19 誰在挺茶黨與川普 竄黨奪權
健康的自由經濟是在彼此競爭中互惠分享
07/19 中共政治「制度化」的背景脈絡和其影響分析
香港政治鳥瞰 不要插隊
08/19 台灣與中國的經貿理論探析
09/19 不朽文明+馬列思想 叛亂的二二八與無辜的六四
11/19 資訊戰對台灣的影響 蔡英文之役
12/19 土豆(馬鈴署)燒熟了
01/20 民進黨的勝利與未來的困境 奉天承運 太平有象
留言基進
02/20 中國經濟最大風險 韓國、沖繩或台灣
中華民國考 對阿輝伯之我見
03/20 浪子 的 心情 從千人計畫談起 搞定內外矛盾
中國原教旨主義
04/20 橋水避險基金 極左環球時報 站不穩的巨人
05/20 聯合國無權定義台灣 談季辛吉 時空錯亂
06/20 中美衝突無緩衝 民主、理性越成熟越不會被情緒綁架
美軍重返高雄港時機成熟 加入國際組織可以提可以不提
07/20 老黨崩解恐非台灣民主之福 蔡英文的“維持現狀”
說得很爽 德意志的中國迷思 再會李登輝總統
08/20 中華民國台灣台獨華獨
09/20 世界的心臟 選邊. 叔本華
10/20 利益與精神的忠誠分裂
11/20 末日狂花 01/21 大國迴圈
03/21 首戰 即 終戰 必勝的企圖心 中國可能 的 演化
04/21 改變的開始 松田教授、深宮怨嘆
引领我们前进的旗帜
05/21 美國民主基本文獻 金馬撤守與友軍入台
06/21 一舉拿下 老實說笑話 總統的性格有四種
07/21 台灣民意調查基金會 的 趨勢圖 全世界在搶疫苗
如果中共打台灣 強龍翻滾 百病叢生
08/21 台海風雲之前哨戰 剿共檄文 不是誤會
09/21 Freewill 兄 台灣大炸炮 中國有戰略 三十年前的呆胞
美國不聽沒辦法 中國影響力令西方糾結 傳 真 對 談
評中國的【宏觀調控】 論 李光耀 與 新加坡
與 H 對談 【外電】 台美中關係 以德報怨是對的還是以直報怨 ?
仇日成病 LP事件以外 – 討論 台灣虧欠到中國投資的台商嗎 ?
金援無法改變貧窮 阿扁總統的大豪賭
10/21 陽春白雪 與 下里巴人 中美關係已經回不去了 內地
四個堅持 沒有美國的支持台灣能維持現況嗎 ?
馬克思主義 的 中國實踐
11/21 沒有安全感的強國 看華洋爭鬥、談林毅夫 不容易對話
李弘祺教授專訪 H教授
經濟
04/20 國際專家怎麼看中國經貿?
05/20 台灣問題關乎國運 大銀行的罪與罰
06/20 中國式的經濟成長 地理形勢 與 攻守之勢
產經新聞訪問 陳水扁 台灣產業的經驗
09/20 世界 的 心臟
05/21 經濟與山難
07/21 直球對決下的文化激盪 台獨不是台灣人自己可以決定 ?
美國金融機構的危機處理(一) (二)
08/21 「日澳縱軸」下台灣的角色
翻譯
11/18 薪 能 (たきぎ のう) 日 本 概 略 1 2、3
日 本 大 勢 三 轉 考 井本雄男 參謀
日本製造到底出了什麼問題 無言的情狀
美麗 的 Patorio (一) 詩仙堂 詩 三 首
02/19 何謂“意識”(一) 春の畫の館
03/19 燈台鬼 戀牛賦
03/19 木(三) 04/20 木(二) 11/20 木(一)
04/19 寂聽的文學與愛情 魔界都市 京都 釘師 サブやん
京都 真正在地 的味道
06/19 批 評 學 - 給 佐佐木茂索
08/19 濹東綺譚 低成長的幸福 老想向誰說的雜學
日本企業 的 罪與罰 IBM 產業間諜事件
夜晚酒場 的 歌手(九) 保加利亞 的 黑瞳(十)
Manhattan 的 雪(十一) 布拉格 的 街角(十三)
Munch 裡面的少女(二三)
01/20 美人 我的京都修業 祇園精舍 Bruegel 之旅
02/20 滿州中央銀行 香港 的 兩個側影(十九)
03/20 夏日女孩 蜜雪兒(十七)
04/20 史迪威參謀長 關 於 雪 國 木(二)
唱出人生冷暖 的 演歌世界
05/20 奇襲珍珠港 完美的攻擊 錯失戰略之說 神風特攻隊
特殊潛航艇的參戰 超越攻擊終結點 人間魚雷 逃 出 平 壤(二)
大銀行 的 罪與罰 記憶底邊 的 女人
07/20 Lewis Thomas(一) -- (二十)
09/20 探討單位的世界
10/20 想見到的中國人 “劇的”とは 日漸稀少的專家
裸體寫真 寂聽的文學與情愛 パヒュームを残せない
11/20 日本語的論理 知的生產技術 サブやん 木(一)
12/20 我的京都 小說之旅
01/21 個人 的 體 驗 恐懼 的 原型 追求真正的自己
Hans Speidel 中將 納 粹 德 國 George CatlettMarshall, Jr.
疼女兒 的 哥哥 軍首腦部軍閥化 參 謀
在日美軍司令部(一)(二)
02/21 在日美軍司令部(三)(四) 浪人軍學者
獨創技術 的 發想法(一)(二)(三)
03/21 精神分析入門(一)(二)(三)(四)(五)
星星 的 話 一個人 的 世界(十一、十三 )
一個人 的 世界(十八) 一個人 的 世界(二十、二二、二四)
世界經濟 的 未來版圖(一)
04/21 真品與膺品 木(四) 世界經濟的未來版圖(二)(三)
05/21 一個人 的 世界(一、二、三)
巴塞隆納 的 大和撫子(二) 紅與藍 的 勃露絲(三)
黑色手腕 白色絲帶(五)
06/21 波斯 的 胡姬(四) 青桐 的 院子(六)
BYCAR號 的 一夜(七) 謎樣 的 世界之影(八)
在 Segel 的 青春(十二) 布拉格 的 街角(十三)
漢堡 的 陶器店(十四) 暗黑運河 的 流淌(十五)
如同荒野 的 街道(十六) Tivoli的 一夜(十八)
英國 的 Kay(二十) Tuluk 夏天 的 一夜(二一)
在大溪地海邊(二二) 細節之愛 千利 休 無言的前衛(一)
07/21 獄 門 島 現在日本的女性與解說(二四)
7.8.9.10.11./21 小孩 與 自然
12/21 焦慮的本質 與 解除
雜文
11/18 台灣海產大酒樓 薪 能 黃昏清兵衛
人口數 = 成長 or 蕭條 和風生活小札 我的上海情结
日本自由行 居合道 詩 三 首 日本龐大的國債
口付けについて 一個古老文明的新美學 收 藏、儀 式、尊 囑
Life is difficult — S ﹒Freud 鄭 得 福 先生
世界反尿布組織(WAO)規約 台語流行歌曲
移民政策 我的宗教觀 異化的無奈 與 背叛的艱難
閒話加國 BC 省 隨時保持理智 凡事三思而後行
檳榔媽祖機車三太子 H教授 圖瓦魯挺台灣 就 是 愛 跳 舞
命好 我看「大江大海 一九四九」 全球聲援台灣加入UN
隨時保持三思而後行 快樂的安養人生 日本製造出了什麼問題
曹長青演講秘訣、戰略學筆記 白 狐 新舞台 溫 泉 鄉
理療一番 あなたへ 中國文化 與 霸權意識 架上矯正器
柴契爾夫人 I love sushi 詩仙堂 青春悲喜曲 給十五歲的自己
無理心中強迫情死 四個不可超越的自然極限 台灣需要甩掉CP值
員工晨訓 父親 的 掛軸 蔡英文所代表的意義
日 本 陶 瓷 遼尉臣筆記 現場目擊
12/18 共厝的中華民國與台灣
01/19 話拳 酸醋魚 etc
05/19 台北大稻埕美食 06/19 少年吔 !安啦
07/19 林泉山水 台 灣 官 紳 年 鑑 空 話 泡 茶
10/19 女性主義 弔辭 啟蒙的時代 先來後到台灣人
11/19 終場 有關馬來西亞華人 涼 山 情 歌
12/19 無法令人幸福的日本系統 日文與牛排
1/20 奉天承運 太平有象 夢境
02/20 Canada自由行郵輪 話語權 詩與你之間 媽祖保佑
03/20 台灣造型 時中現象 加入WHO
04/20 關於雪國 春日北投早晨 斑斕燦爛
05/20 神話還是詩 07/20 鄉村很重要 08/20 自立
09/20 夢之堂奧 生之繭 生命的困頓
10/20 貧乏性 擺書陣
11/20 歷史無法假設 台灣情熱 宇宙光 重機世界 旅情
12/20 第九水門 複雜、開放的社會更強韌 延平北路慈聖宮
02/21 說 道 理 啟蒙運動 啟蒙運動 與 東方文化
03/21 創造性與自我認同的關係 初老男 的 迷航
04/21 生與死 老與少
5/21 山難救助 Langley 最高點
07/21 台灣的三大山門
08/21 網路長城-臉書 秋意 台灣 的 藝術世界
滯洪池、gala apple 樹
09/21 體制、機制 世界第一 野 生 動 物
Cycling Route 96Ave
10/21 台灣儀隊制服土氣 賴沈激辯 中國造島
時間的蟲洞 遊冥河 台灣畫家
11/21 小 張 沒有安全感的強國
12/21 強大的心理素質 劍俠、公主 嚇 一 跳
犬儒的真理堅持與詩學浪漫 從敕使街道到華燈初上
正能量的存在
諸子百家
11/18 我的上海情節 祖谷溫泉 平家物語 讀新聞的方法
田園散記 認同的重量 道家房中術 看書歲月 台灣之命運
台灣教育還停留在舊經濟時代
12/19 卡���荒謬哲學 兆豐銀行紐約分行 啟蒙運動
04/20 冰島漁夫
07/20 Lewis Thomas(一)(二)(三)(四)
德意志 的 中國迷思
08/20 Lewis Thomas(五)----(十二)
09/20 氣候 人 歷史 哲學 的 樂趣 理性 的 掙扎
10/20 精神分析入門 12/20 Sophies World
01/21 焦慮的意義 黨國之子
02/21 中 國青銅時代 萬 曆 十 五 年(一)(二) 飛 鷹 戰 士
獨創技術 的 發想法(一)(二)(三) 中國古史 的 傳說時代
歐���中世紀教會如何塑造了當今的「西方思想」
03/21 馬勒 精神分析入門(一)(二)(三)(四)(五)
05/21 美國民主基本文獻 實踐、異化 和 人性(一)(二)(三)
蘇馬利亞、古 埃 及 巴 比 倫 希臘的興起
07/21 獄門島 異域 現在日本的女性
美國金融機構的危機處理(一)(二) 蘇馬利亞、古 埃 及、
巴比倫 希臘 的 興起 耶穌 出現
09/21 捉 狐
10/21 狐嫁女 董 生 汾 州 狐 祝 翁 胡 四 姐 酒 友
11/21 林四娘、汾 州 狐 全方位 的 無限(一) (二)(三)
Infinite in All Direction Freeman J . Dyson 孫悟空
12/21 自己 的 房間 紅樓夢 各家談
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