#音韻変化
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抜いたり抜かなかったり
ら抜き言葉とか音韻変化とかの話です。
提出するような文を書く時、ものすごく気を使う。なるべく大多数が正しいと思っている表記法を使うようにしている。
何度も出てくる言葉の表記の統一、漢字をひらくとか、「カギカッコの中のセリフ」の終わりにまる(。)をつけないとか。
気を使う。
けれど、話し言葉で書いて良い場所では
それを敢えてやめる。決まりを破る。
らを抜いたり、直後に抜かなかったり。
音をなまらせたりなまらせなかったり。
ひらがなで書いた物を次は漢字やカタカナで書いたり。
「カギカッコの終わりにまる。」はなんとなく気が引けて使っていないけど。
使ってるって言ったり使っているっていったり。
ですます調とである調を混ぜたり。
決まりを破る。
くずし字ならぬくずし文。
友人にわざと句読点を一切使わない文を書いている人がいてそこまで行くとめちゃくちゃわかりにくいんだけど敢えてやるのが少しだけ似てるかも似ていないかもどうなんだろう
常に正しく居ることへの反抗かもしれない。
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2024-11-26
【 回 答 3】
「親父とのセンズリのきっかけ」
質問者様
「親父とのセンズリのきっかけ」についての質問への回答途中で、書き直そうとしたら質問ごと消えてしまい「回答済み」状態になってしまい質問文も消えてしまったので、ここに再掲載します。
子供の頃から高校卒業して実家を出るまで、風呂に入るのはほぼ親父と一緒でした。
なので、チン毛が生え始め、子供の「チンチン」から
大人の「チンポ」になってく俺の成長を親父ばずっと見てましたし、親父も自分のチンポを教材のようにして見せてくれてたので、親父にチンポを見られたり
親父のチンポを見たりすることは基本的には抵抗なかったです。
「基本的に」と言うのは、俺が精通を迎えて性的な刺激で意識的にも無意識的にも勃起するようになるまでは、です。
それまでの子供の「チンチン」だった頃は、握れる程もなく、親父の手で洗われても「くすぐったい」くらいで、そこに興奮も気持ち良さもありませんでしたが
陰茎と雁首と亀頭がはっきりと別れてくると、俺のチンポも親父のチンポと同じように大人のチンポになって��ます。
中学生の頃にはそうでした。
チン毛も生え揃い、朝には朝勃ちするようにな���て、その頃はさすがに親父と入るのがちょっと恥ずかしかったですね。
夏休みのある日。
親父と風呂入ってると、身体を洗う時にいつものように親父が背中をゴシゴしてくれます。
「日焼けが痛い」って言ったら、ゴシゴシしてたナイロンタオルを洗面器で泡立てて、手ですくった泡で痛くないように洗ってくれました。
首の後ろ、肩、背中へと手を滑らせながら、唐突に
「もう、せんずりしとんのか?」
って、聞いてきました。
「チン毛が生えたか」とか「皮剥けたか」とか、目に見える身体の変化は隠しようがないので、そういう会話はまだいいですが
「センズリ」は、中学生のあの頃はいちばん興味があって、いちばん触れて欲しくない話題でした。
イッた後の何とも言えない、余韻と罪悪感。
脱力感の中、臭いと痕跡を残さないようにザーメンを拭いた生青臭いティッシュは、トイレに流しに行くのですが、たまに「あとでトイレ行く時に」と思って、枕元に置いてそのまま忘れて朝になってることが何度かありました。
そんな朝に限って、親父が通勤の車で聞くCDを選びに来たり、俺の本棚から持って行った漫画を返しに来るんです。
夏休みで俺はまだ寝てましたが、痛いくらいの朝起ち
で目が覚めて、うっすら目を開けると
机の上に親父が返しにきた漫画が数冊置かれてました。
「あ、父さん、来たんか」
と思いながら、トイレに行き勃起したチンポを押し下げながら、しょんべんして部屋に戻りました。
部屋に充満する青臭い匂い。
ずっとその場にいると匂いに慣れてきますが、外から入ってくると、自分の部屋でも匂いますね。
枕元には、ほぼ乾きかけてますがまだ中は湿った青臭い匂いがする丸まったティッシュ。
そんな事があった朝の、その夜の風呂での親父からの
「もう、せんずりしとんのか?」
親父は、俺の部屋に入るたびに臭うザーメンの匂いや
いっちょ前に朝勃ちしてる俺の寝てる姿とかで
俺がもうせんずりしてるって分かってたんでしょう。
「せんずり?」
と、誤魔化すこともできましたが、親父が発する
「せんずり」って言葉に、俺がまだ知らない漠然とした
「大人の男のエロ」を期待する気持ちが湧いてました。
さらに、俺も親父も真っ裸で俺は親父に素手で背中を洗われてるわけです。
泡々の泡で洗うようにはしてくれてますが、手のひらは背中に密着しています。
親父の手が肩から背中、そしてケツに下がってきます。
親父はマットにあぐらかいて座ってるので、俺が立ち上がると手が届きません。
なので、いつものように座ったまま右ケツ上げると
右のケツタブに手を滑り込ませてケツタブを洗い
左ケツ上げると左手でケツタブを洗い。
いつもは、ナイロンタオルでゴシゴシですが、今は素手なので強めに撫でる感じです。
そして、いつもは軽くゴシゴシされる割れ目も、素手で洗われました。
人差し指、中指、薬指、指3本揃えてグッと股ぐらに突っ込んで、蟻の戸渡りからケツ穴をなぞるように尾てい骨まで、3往復くらい。
片ケツを上げてますが、親父の手が滑り込むくらいなので、浮かせてる感じです。
ケツ穴とイスに挟まれる親父の指先。
皮が硬くなった、指の腹や節に出来たタコが、俺のケツの割れ目をなぞります。
急にゾクゾクっとして、チンポが勃ってくるのが分かりました。
もうおさまるわけもなく、俺は膝に置いていた右手でそっと勃起を隠しました。
めちゃ分かりやすいタイミングと行動やったなと思います(笑)
隠しながら 「うん、たまにやってる」 って答えると
「キリモミか?皮剥いてやっとんか?」
て聞かれて「キリモミ」の意味がわからず 「こうやって」と、親父に背を向けたまま俺は両手で手を洗う仕草をしました。
そしたら 「こっち向いて座ってみ」
って言われて、もうフル勃起状態やったけどしゃあないし親父の方を向きました。
俺は風呂のイスに座ってましたが、親父の方を向くと背中にカランが当たる位置なのでイスを外して、親父と同じバスマットに座り直しました。
真っ裸で、あぐらかいて向かい合う親父と俺。
俺は勃起したチンポを手で隠しますが、バレバレです。
「勃っとるんか?」 て笑われましたが、その笑いで
「父さんがそんな話しするからやろ」 みたいな流れになって恥ずかしさが薄れました。
しかし 「ついでにやってみぃ」 て言われてまた恥ずかしくなりました。
俺の目の前には真っ裸であぐらかいて座る親父。
これで親父のチンポも勃起してれば、俺も思い切れますが、親父のチンポはだらんと垂れたままです。
この温度差、俺だけが興奮して勃起してる状況にチンポ萎えるかと思いましたが、親父も自分のチンポに手をかけたんです。
俺は、親父がチンポ弄るのを見ながら皮が被ったチンポを両手で挟んで、ズリズリしました。
そしたら、親父が
「あ���、キリモミか、剥けるんか?
剥けるんなら剥いてみ、わしみたいに」
て、親父は自分のチンポを掴んでズル剥けの亀頭を見せてきました。
親父のチンポはもう何度も見てたけど、チンポ握ってシコシコする姿は初めて見ました。
親父は、軽くあぐらを崩して「くの字」に曲げ伸ばしました。
俺も、親父の足と互い違いになるように膝を曲げたまま軽く足を開きました。
「皮剥けるんなら、キリモミやなくてこうやってやる方がええ」
と、親父は萎えたままの自分のチンポを握って上下に扱いて見せます。
萎えていても、くっきりくびれたカリ首をストッパーのようにして、チンポ握る手をゆっくりと上下させます。
俺も、皮を剥いてチンポを握って上下させました。
ずっとキリモミで皮越しに亀頭を揉むようにしてたので、この感覚は親父と同じ 「大人のセンズリ」 て感じがして身震いしたのを覚えてます。
チンポ洗う時に皮は剥いて、亀頭も洗ってました���、触るとくすぐったくて、洗面器のお湯を掛ける勢いで流してました。
なので、こうして皮を剥いて亀頭を露わにして、親父とチンポを見せあってると
なんかもう、なんも隠すことないなと吹っ切れました。
親父は、俺だけビンビンなのは気まずいやろうと思って勃たたせてくれようとしてたのか、ダランと萎えてた時よりも亀頭は膨れて、竿も芯が入ったように
円柱形になって、無言で上下に扱いてましたが
勃起する気配はありません。
まぁ、親父からすればまだ中学生の俺の身体やチンポにはなんも思わないでしょうし、そもそも父親と息子ですから変な気になんかならんでしょうね(笑)
親父に父子相姦とか、ショ夕の趣味がない限り無反応なのは当たり前です。
と、親父がチンポを握る手を話して広げたかと思うと、手のひらに唾を垂らしました。
「は?唾吐くなら、風呂場やし床とかで流せばええのに?」
と、思って見てたら、そのツバを亀頭に擦り込むように手のひらで亀頭を撫でるようにグリグリし始めたんです。
結構、たっぷりと唾を垂らしてたんで、グリグリしたり扱くと 「クチュクチュ」 音がします。
指の隙間や、手筒からのぞく亀頭が唾でヌメヌメと泡立ってました。
唾って、口から吐き出すと汚い物に思ってたんで、それを手で受けてチンポに擦り込むなんて、正直「汚いっ!」て思いましたが、同時にその荒々しさと言うか
「これが大人の男のセンズリかっ」
て感じで、めちゃ興奮してました(笑)
俺も真似して、ツバ出そうとしましたか、緊張と興奮でぜんぜん出なかったです。
そしたら、親父がまた手のひらにツバ垂らしてなんも言わずに、俺の方にグッと寄って来て、俺の亀頭を掴んで「ワシの唾やし、汚なないやろ」て(笑)
ちょっと亀頭に馴染ませて直ぐに手を放したけど
亀頭を握られただけでイキそうでした。
「でした」て言うと、イクの回避したようですが
ずっとずっと興奮MAXになってもうてるチンポにいきなり、親父の手で親父の唾を擦り込まれて、金玉の奥の方から一気に噴き出す感覚がしました。
俺は、チンポを扱く手を止めて両手でチンポを押さえながら
「あっ !父さん、イきそうなんやけど」 て言うたら
「おう、ええよ、手放してガマンせんで扱け」
て、親父も自分のチンポを俺と同じように扱きだしました。
「父さん、イクっ!イクっ!」
そのままイったら親父にかかるから、とっさに自分の方にぐっと向けて出しました。
めちゃ飛んでセルフ顔射して、親父にめちゃ笑われて俺も笑けてきました。
親父が「あ、目はつむっとけよ、汁が目に入ったら痛いで」って、湯船から洗面器で湯をすくって、頭からかけてくれました。
確かに、うっすら目にザーメンが入って痛かった気がします。
結局、親父は最後までフル勃起はしてなかったです。
俺��もうちょっとイくのガマンできてたら、親父の勃起見られたかな。
その後も、高校卒業して実家を出るまで親父と入ってたので、何度か風呂場でセンズリする事がありました。
今回はそのきっかけになった話しでした。
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Hello, if it's not a bother, can you please translate 音色の軌跡 from the new hibiki euphonium soundtrack? Thank you so much and have a good day!
Not a bother at all! Thank you very much for the request! This song makes my Kumirei heart so happy hehe
音色の軌跡 (Afterglow Of Sound) [Hibike! Euphonium S3]
JP: 音色の軌跡
ROM: Otoiro no kiseki
ENG: Afterglow Of Sound
煌めく憧憬 色褪せずに
With a shining ambition that never loses it's lustre
余韻がまだここにあるの
That trailing note still lingers here
線香花火 揺れる光
Alongside the flickering light of those sprinklers we lit
あの日のわたしたち
And us, back then
変化を求め背伸びしてた
Wanting to change, I'd been pushed forwards
うわべだけの音色のまま
The sound of my tone still superficial
吐いては吸うただそれだけ
Breath out, breath in - that's all that there was to it back then
あなたを知るまでは
Until I met you
涙の熱で夢を燃やす
With the heat of my tears, my dreams began to burn
研ぎ澄ました音色が鳴る
And my tone, now sharpened, rang out anew
飾らないで歩み寄る
Don't put on airs, we can just compromise
あなたを知ってから
That's how it was, ever since I met you
おぼろげな光
A vague, unclear light
受け継いで照らされる
Was passed on and lit anew
光は別れた
And even when it split and scattered
約束を抱いて
I still held on to our promise
今、未来駆ける
And now, I run towards the future
音色の軌跡をたどりながら
The afterglow of sound following me along
展望台に迸る熱
The warmth that burst out to reach the crowd...
ずっと覚えてる
... Is something I'll never forget
また引き合うよね
We've been drawn to each other again, haven't we?
共鳴しつづけてるから
The thought that I want to become special
特別になりたい想いは
Continues to resound even now
あの日のまま
Just as it did back then
名前呼ばれるその喜び
The joy of having your name called
あなたには当然だね
Is something someone like you must know well
その横顔が凛々しすぎて
Watching your side profile, you looked almost too impressive
ときどき悔しくて
And at times, it hurt me so much I thought I'd die
ぶつかり合ってふたり泣いた
While butting heads, we shared our tears
悩みながら上を向いた
While entangled in our worries, we were aiming for the top
積み上げてく時間と音
And they eventually piled up, our sounds and our time spent
あなたを知ってきた
As I came to know you
「大好きのハグ」も
An "I love you hug"
気さくな「頑張ろう」も
And a friendly "Let's do our best"
大切なぬくもり
Are both a part of this precious warmth
青春の価値として生きていく
I had lived, taking it to be the value of my youth
あなたと出会い 変わった
When I met you, parts of me changed
変わらないものは誇りになった
And I've learned to love the parts of me that haven't
フーガみたいに絡み合い
They both wind together like fugue
愛し合う響き
The resounding pitch of two people loving each other
音色の彼方に鳴り続ける
Continues to flow forth into a beautiful tone
違う痛み抱えていても
Even if you're carrying different burdens now
きっと「大丈夫」
I'm sure it'll be okay
また並び咲いて
We're still blooming side by side
藍色の夜を見つめようよ
Let's gaze upon the night sky stained indigo
なぞる指差し伸べられた手
Fingers tracing my lips, hands reaching for the moon
ずっとあったかい
They are undeniably warm
バラバラの場所で生まれて
We were born in seperated places
同じメロディで交じりあった
But we came together with one melody
離れていたって
Even when parted
同じリズムを刻む心臓
Our hearts beat the same rhythm
桜が舞った
As cherry blossoms danced through the air
ねえ、追いつけたかな
Say, I wonder if I ever managed to catch up to you
少しはかっこよくなれたかな
I wonder if I was able to look even a little bit cool
あなたは誰より強かった
You were stronger than anyone
ずっと素敵だよ
And always so wonderful
今、未来駆ける
And now, I run towards the future
音色の軌跡をたどりながら
The afterglow of sound following me along
展望台に迸る熱
The warmth that burst out to reach the crowd...
ずっと覚えてる
... Is something I'll never forget
また引き合うよね
We've been drawn to each other again, haven't we?
共鳴しつづけてるから
The thought that I want to be become special
特別になりたい想いは
Continues to resound even now
あの日のまま
Just as it did back then
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*受験期の頃に書いた日記です
傷 kiss
友人たちが次々と大学に合格していく事実が今もずどんと馬鹿でかい劣等感と化して心臓の上で横たわっている、昨日も同じ夢を見た。不安な気持ちばかりが先走るけれど、かっかしていても何も変わらなかった。他人と比べて自分の優れているところを必死に探していないと自己を保てない自分がほんとうにほんとうに惨めで、マスクが無ければたぶんぼろぼろ泣いてしまっていたと思う。心の底に横たわるみずうみが氷っていくの、口元が覆われているとそれだけで自分が自分じゃない感じがして冷淡になれた。わたしは自らの足音にだけ集中して、ただ早足で行き交う人々のあいだをすり抜ける。ずーっと頭の中を同じ映像が流れるのをむりやり切り落として、でんしゃを滑らせる線路をじっとみつめる。夕陽の光が錆びたその金をうつくしく縁取る様子が痛々しいくらいにまぶしい。受かった瞬間に内職をぱたんと辞める同級生。せーので問題を皆んな一緒に解き始めるとき、隣の子が必死に解答を隠すように背中を丸めて腕を机の上に伸ばす。そういうのばかり見ているとほんとうに、ほんとうに。言葉もでなくなってしまう。なにをそんなに誰かのことを気にするの?と、母の言葉が反芻する。光がまばらに散らばる街並みをみて、光も照らすものを選��のかしら、とかおもった。まいにちずっと罰を受けているみたいな日々、冬が近づくにつれて正気を失ってゆく街の様子にそれはもう痛いくらい同情してしまうし、ひたつやふたつ良いことがあっても誰かのそれと比べて自ら幸福の値段をどんどんさげてしまう。ずっとそばにいてほしい。幸福に値段なんてないよ、とかそんなこと言わなくていいの、わたしだってそんなことはわかっているし、いいの。天使とか悪魔とか神さまじゃなくて、ただわたしはわたしにそばにいてほしいし、そこにすきなひとたちがいてくれたらもっとうれしい。何も着ないでぶるぶる震えるわたしのからだを愛しているひとが白いバスローブで包みこんでくれたこと、カチカチに凍ってしまったアイスクリーム。減ってゆく数字。つめたいのにあつい、霧のカーテンの向こうに浮かぶ満月。目の前を歩いている女の子が落としたカードのようなものを拾い上げて渡す。肌寒くはないよ、いっぱい着込んであるから。舌に吸い付いた生ぬるい塩っぽさを誤魔化すために、瞬きもせずその息を呑んだ。
落ちてゆく流星群
不確かなものに心を揺さぶられながらもそれを掴んで決して離そうとしない自分の必死さに、自分で傷ついている。教科書を開いて新しい知識を得るたびに、脳内にびっしりと張り巡らされた細い糸のようなものがぴんと鋭く光って、しずかに緊張する。その感覚をわたしは思い出そうとすればいつでも思い出せるし、べつに勉強が嫌いなわけじゃない。ただ、生きているなあ、と、胸に広がるあたたかさを抱きながらそっと泣いたりする夜が少なくなった。そもそも生きていながら生きているという実感が欲しい、なんてことを考えている時点で可笑しい話かもしれないけれど。
中学の頃、冬になると毎年マラソン大会が開催された。今日みたいな寒い日にふと当時の怠さを思い出したりする。校庭の砂に石灰で大きく楕円が描かれ、その周りをひたすら走るだけの超つまらないイベント。冬の、鼻先をつんとすり抜けるような���さと冷たい風の乾いた匂い。忍ばせたカイロと、白く上がる息。
このごろのわたしはちょうどその延長線上を生きているような感じがする。毎日同じ景色の中をぐるぐるとまわり続け、いっそのこと軌道から外れてすべてを諦めてしまいたいと思うけれど、そんな勇気も出ないまま、結局は体力と時間だけをひたすら消耗しながらゴールへ向かって淡々と走ることしか出来ない。気を緩めると涙がぽろぽろ溢れてくる。生きているという事実だけでくるしい。日に日に遠のいていく同級生の背中がいつだって意図せずとも視界に入ってきて、やるせない気持ちになる。地に足付かずでいたい、なんてことを随分と昔に書いたような気がするがとうとうそんなことも言えなくなってしまった。未来のことを考えましょうと言う先生の言葉を聞くたび、わたしは勝手に銃口を突きつけられているような感覚になる。もはや自分が果たしてどこにいるかもわからない。
来月には部活の大会を控えているし、予備校の冬季講習に加えて学校の講座を受けないといけない。三者面談と進路選択。期末試験。呑み込めずに舌の裏で転がるC判定という言葉を噛み砕くのにまだ必死なのに。
やりたいことを一つに絞るということは、それ以外を切り捨てるということ。ここから気になる大学を選んでくださいと、大学の名前と学科の一覧が記載された辞書のように分厚い本が配布された。今のわたしには、その厚さの分だけ未来の選択肢がある。そこに記載されている言葉の数だけ莫大なあたらしい世界が。そこから否が応でもたったひとつのものを掬い上げないといけない、その事実が少しだけ重苦しい。けれどそれに値するほどの価値が、これから先の時代を生きるわたしにあるということが同時にちゃんと嬉しい。
疲れた、という言葉にふさわしい努力をしていないのに、毎日すこしずつ疲れている身体はまさに地平線すれすれを生きているような具合で、わたしには喜びのほんの些細な余韻に浸れるほどの余裕もあまりない。なのに、そういうときに限って世界の美しさはいやに眩しい。たくさんのことを書き残したいと思うけれど降ってくる感情をひとつずつ捉えることはそう簡単なことでないし、そのくせして必ず少しの苦しみを伴うのだ。インターネットさえなければ言葉に残せなかったことを後悔することなんて無かっただろうに、それでも縋ろうと踠きながら残すべき自分を探してしまう自分をわたしは可哀想だと思う。わかっている。
もう秋も終わってしまう。寒いね、寒い、とぽつぽつ浮かんでくる言葉を拾いながら、誰かと手のひらを重ねたい。人と比べてしまう限り、わたしはこれからもずっと孤独をひとりで噛み締めないといけないから。胸をきゅうとさせる寂しさにもそろそろ慣れてしまいそうだから、はやくすべてが終わってほしい。はやく好きなことの勉強だけに追われる生活がしたい。そういう思いでひとつずつ過ぎ去っていく毎日の、行き場のないもどかしさも冬の寒さに凍ってしまえばいいのに。ううん、ほんとうはわたしが自分のからだで寒さを耐え凌いで、自分の力だけでもって愛すべきものたちや些細な記憶を守るべきなのだ。だけど、それが出来るほど強くないだけのこと。
無題
銭湯に行きたい。受験して、でもいいところにひとつも合格しなかったら巫女のアルバイトでもしながら京都で浪人生活をしたいな、とかんが��ていた。ひさしぶりにおふろで哀しい音楽を聴いた。なんでもない日に哀しい歌をきくと、より一層哀しさが加速されるというよりなんだか心が細く研ぎ澄まされていく感じで今までの日々がきゅうっと音をたてる。雑巾をさいごまで力強く捻って絞り出す汚水、長距離走の最後の2分間、なみだが出る前の喉元になにかが込み上がってくる感じ、そういうの。とてもぼろぼろなんだけど、それと同時になにか澄み渡っていくものがある。だれかのがんばりと比べると劣るかもしれないけれど、ようやく夏も終わろうとしていることに救われる。ふつうの日々が、たくさんあつまって束になる。ぺたぺた歩く、濡れた髪にドライヤーをあてると耳の中に残っていた水があったかくなってきもちわるい。わたしは顔が良いわけでも、精一杯の力で努力できる力量もない。かといって特別な才能だって持ち合わせていないし、たまに数え切れないほどきらきらしたものを抱えている人をみると妬みと自分への劣等感で自らを押し潰れてしまう。だれかの人生で自分自身が、自分のうみだしたものが、かけがえのない財産になれるってとてもうつくしくてズルいと思う。数字がどこでもすべてにレッテルを張るから、それなりのレッテルを貰えなかったらどれだけ美しいものを持っていても誰にも見つけてもらえずにおわってしまう。わたしはそれを未だ求めてしまうほど本当は幼稚で、幼稚で可哀そう。ねえこういうのって黒歴史になっちゃうと思う?今年の夏は滝をみるはずだったけど、それすらまぼろしになっちゃった。ずーっと空白の未来の下準備を重ねているような現実から離れて、すこしはずれた小さな町で虫捕りしたり桃を買って丸噛りしたりしたかった。大学に入ったらどんなひとがわからないけれど、自分がもっているものと同じくらいのものをもっている人がいるのかなと思うとすこし楽しそうかもという気持ちになる。免許を取りたいけれど友だちにありじの運転は危なっかしそうだから乗るのこわい〜と言われた。そういうふうに笑ってくれる友だちがいるだけで、わたしはもうすでに色々な人の中で財産なのかもしれない。そうじゃなくても、かけがえのないものに出逢えるきっかけになれているかもしれないと薄ら感じてしまってまた胸がきゅうってなる。だれにもわからないことがあっても、言葉にされない何かがあっても、それを価値のないことと結びつけることは暴力じみた愚行かもしれない。自分の中にもまたいろいろな自分が内在していて、自分でも翻弄されてしまうことがあるし、文章を書いていても一貫性がなくて凛としない。英文法の参考書をぱらぱら眺めていたら、into the blue というのがあった。遠いところへ、彼方へ、という意味らしい。あーあ、しんじゃいたいね。
無題
予備校が終わって帰ろうと駅へ着いたけれど、次の電車が10分もあとにくるのでホーム内にある明るい���煙スペースに入る。寒くなってきたので制服のブレザーを卸した。おおきな硝子に自分の閉じた長い足が映る、ひとが一人ずついなくなっていって、さいごには結局がらんどうの箱のなかでひとりただじっと電車を待つことになった。曖昧な形の◯とか△とか、がさがさ、つやつや、さらさらとか、そういうふうに不確かな輪郭だけ残してことばが次々とその形を変える。一つずつ掴んで物語を紡いで美しく完結させたいのにビー玉とか乱射する光みたいに思い浮かんだことすべてが一種の暴力を伴って脳内を猛スピードで駆け巡る。すぐそこにあるのに実態がわかんないし、むかつくむかつくむかつく、自分を飼い慣らすことでさえこんなに疲れる、もうだれとも話したくない、と消化しきれない感情がずっと身体の皮膚の内側のいちばん近いところで叫ぶこともできずにちりちりと火花を放っている。ロックとかやさしさとか愛とかそういうのぜんぶ病名みたいなものなのかもしれない、ひとつの感情にもその後ろにはそれをそれたらしめる色〜んな歴史があるし、たぶんこの不甲斐なさもいつかコピーペーストを重ねるうちにすこしずつ美化されてしまう。線路にわざと隙間があるのはとりわけ夏あたりに摩擦熱で鉄が溶けてしまわないようにするため、というのを授業できいた。がちがちに隙間のひとつも有さずに固められたものがいちばん揺るぎないもののように思えるけれど、実はちがくてそういうのが最も脆いものらしい。ともだちにしろ恋人にしろ自分の将来とか自分のアイデンティティも然り、全てに対して揺るぎなさ、安定とか、そういうのをひっきりなしに求めていたけれど、もっと流動体のような観念で受け止めたい。ずっとそこにある月でさえ欠けたり満ちたりするし、花の一つをとってでさえその形や色はすべて毎日かわってゆくけれど、それはそれらが美しくないことの理由付けにはならないし、信用に足らないことの言い訳にもならない。情報として飛び込んでくるいろいろなものを変に調律したり濃く輪郭をなぞったりするのではなくて、ぜんぶ自分のもっているものの周りに飾っていきたい
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エジプトにいた増田です。 思いのほか多くの方に読んで頂けたことに当惑しつつ、大変感謝しています。 そんなに人の興味のあることではないとは思うのですが、せっかくの機会なので、自分の考える(自分の出会ってきた)アラビア語とイスラームのことを、ちょっと書かせて頂きます。 大前提ですが、自分は基本、道楽で勉強してきた人間で、職業的な研究者ではありません。大学の専門も西南アジア史とかではないです。あくまで個人の体験を元にした個人の感想で、学問的裏付けのあやふやな大雑把なお話だとご理解下さい。 (いきなり余談ですが、わたしが出会ってきた「アラビア語の達者な日本人」は必ずしも研究者ではなく、一番多いのはマリッジムスリム、つまりムスリムと結婚した日本人です。彼女たちはエジプト社会に溶け込んで普通に暮らしているので、普通は言葉が達者です……十年いても全然ダメでかつ謎の力で意思疎通できる不思議な人もいましたが(笑)。 シリア人と結婚しシリア在住の女性とは、帰り��飛行機で隣り合わせて、息継ぐ間もなく喋り続けて良い思い出です。彼女から聞いた当時のシリア事情は外から見た「残虐なバッシャールvs自由シリア軍」みたいな構図とは全然違って、目を開かされました。 また日本在住のマリッジムスリムでも、家族親族との交流やクルアーンのために熱心に勉強し、大変流暢な方がおられます。 ほとんどの場合、ムスリム男性と日本人女性で、これはイスラーム圏において異教徒の嫁を貰って改宗してもらうのは敷居が低い一方、女性をよその男性にさらすのは極めてハードルが高いせいでしょう。逆のパターンを1組だけ知っていますが、これは女性側の家が相当裕福なインテリ層で、留学経験などもあるためでした) 先述の通り、わたしがアラビア語に関心をもったのはイスラームへの興味からでした。 イラン人についての書かれた元増田の方が、「クルアーンのアラビア語はお経みたいなもの、イラン人にはわからん」といったことを記されていましたが、本当にクルアーンはお経的だと思います。 お経的というのは、意味内容以前に「音をそのまま」読誦することが重視されている、という点においてです。 日本の仏教徒で熱心にお経を読まれている方も、楽譜みたいな感じで音そのものを覚えつつ、意味も勉強すると思います。非アラビア語話者のムスリムにとって、クルアーンはちょうどそんな感じです。 何ならアラブ人にとっても、クルアーンのアラビア語は非常に古い言葉ですので、普通に読んだら意味のわからないところは沢山あります。ただ幼少期から声に出して読誦し丸暗記しているし、その意味も大抵は教えられているので、特に疑問に思わないだけです。 (お世話になっていたエジプト人の先生とクルアーンについて話していた時、「アン=ナージアートとかぶっちゃけ全然わからん!」と言っていたのを覚えています。これはクルアーンの後半の方にある非常に韻文的で語彙的に難しい章で、短いので多くのムスリムが丸暗記していますが、初見のアラビア語として見たら大学出のエジプト人でも「全然わからん」ものです) 一点留保をつけると、「古いからわからない」という意味では日本人にとっての平安時代の言葉に似てはいるのですが、前のエントリでも書いた通りアラブ世界ではフスハーという形で古いアラビア語が割と保存されているため、日本人における古語ほどは難しく感じないと思います。 ついでに言えば、少なくとも大多数のエジプト人は、アラビア語と言えばこのフスハーのことだと信じていて、学校の「国語」にあたる時間ではフスハーを勉強します。普段使っているアーンミーヤ、エジプト方言はその「崩れたもの」くらいの認識で、「勉強するに値しない」「文法なんかない」と本気で思っています。大学出の語学教師さえ、「この仕事につくまで、アーンミーヤをわざわざ勉強するなんて考えたこともなかった」「文法なんかなくて、��然にできると思っていた」とか言い出すほどです。 外国人視点で見れば、フスハーとアーンミーヤはラテン語とフランス語くらい離れていて、勉強すれば連続性がわかり、「ここがこう変化して今こうなのか!」と感動するのですが、最初に耳で聞くとまったく別言語に聞こえます。勉強しないで自然にできるわけがありません。 話がズレましたが、クルアーンは(お経のように)そのままのアラビア語を声に出して読み丸暗記するのが基本です。 キリスト教の聖書は色んな言語に訳されていて、普通は各自の言語で読むものだと思うので、その点がかなり異なります。ただ、周知の通り聖書の大衆口語への翻訳が本格的に行われるようになったのは宗教改革以降で、元来はキリスト教でも「音そのまま」が基本だったのではないかと思います。おそらく大抵の聖典とか、宗教的行為というのは、意味以前に音や身体操作をそのまま発して覚える、反復することが大切だったのではないでしょうか。 何が言いたいかと言うと、現代日本に生きるわたしたちは、宗教というと信念体系とか戒律とか、知的に理解できるものを第一に考えてしまいがちですが、元々はもっと音楽的で、意味や論理性よりも「ノリ」みたいなものを重視していたはず、ということです。 現代で言えば、ヒップホップみたいな感じでしょうか。ヒップホップに全然詳しくないので的外れだったら申し訳ありませんが、フロウとかライムとかは、意味的整合性が全然どうでもいいとは言いませんが、音ノリと意味があいまって全体の美しさが練られると思います。歌詞を紙に書き出して意味を深堀りする、みたいな作業は、批評的・研究的には意味があると思いますが、そこに第一義があるわけではありません。 英語のヒップホップの歌詞を全部翻訳して、その意味内容だけをじっと見つめていても、多分その曲の本質にはあまり近づけません。同様に、イスラームについて「戒律が厳しい」とか「豚肉はダメ」とかそんなところだけ見ても、実際にムスリムたちが行っている、あるいは身体化している「それ」からすると、的を外してしまっている可能性が大いにあります。そしてイスラームに限らず、(現代的にはただの迷妄のように片付けられがちな)宗教行為、信仰というものは、容易に翻訳可能で知的に了解しやすい部分だけ追っても、なかなか「肝」のところが見えてこないのではないでしょうか。 特に聖典のような古い言語は韻文的性質が強いです。アラビア語とヘブライ語のような近い言語ならともかく、日本語のような遠い言語に翻訳すると、どうしても元々の「ノリ」が失われてしまいます。やはり対象言語を基本だけでも学び、翻訳と原典の両方を活用しないと、うまく「詠む」ことはできません。 クルアーン、特にマッカ期と呼ばれる初期に啓示された後半部分は、大変韻文的性質が強いです(クルアーンは概ね時系列と逆に章が並んでいます)。日本では「戒律の厳しい宗教のル��ルブック」みたいなイメージが強いかもしれませんが、そういう約束事みたいなことを書いている部分は、まったくないとは言いませんが極めて少なく、では何が書かれているかというと、概ね「神様スゴイ」ということを手を変え品を変え表現しているだけです。本当に同じことを言い方を変えて反復しています。あとは「現世は戯れ」「不信仰者を待つのは火獄の責め苦」「楽園には川が流れている」みたいな抽象的イメージが多いですね。 音楽的ノリが強いので「サビ」みたいな部分もあって、ごにょごにょとエピソード的な話が続くと、とてもわかりやすい言葉で「まことアッラーは慈悲深い」みたいなお決まりのフレーズがビシッと入ります。ごにょごにょのところが言語的にちょっと難しくても、サビだけは聞き取れるので外国人にやさしいです。 またヘブライ語聖書(旧約聖書)のエピソードが知識として前提されている雰囲気があり、ちょっと二次創作っぽいというか、ユースフ(ヨセフ)とかイブラーヒーム(アブラハム)とかヌーフ(ノア)とか、旧約キャラの話が脈絡なくフラッシュバックのようにパッパッと入ります。旧約エピソードがアラビア語的にカッコイイ韻文で表現されているのは、こんなことを言うと怒られそうですがファンアートっぽいというか、音楽的に昇華されている感じです。 こうしたエピソードっぽいフレーズは時系列で並んでいるわけでは全然なく、「そういえばアイツもこうだった」みたいに話題ごとに何度も引っ張り出されます。 この文体は翻訳で読むと非常に冗長で退屈極まりないのですが、音で聞くと大変心地良く、カッコイイのです。情報として全然新規性がなくても、「出ました! ムーサー(モーセ)の話!」みたいに盛り上がります。 わたしは今でも、車を運転する時は「今日はアル=アアラーフでいくか」みたいに、正に音楽をかけるノリでクルアーンの読誦を流しています。心が落ち着いて安全運転です。 良く言えばノリが良く、悪く言うと深く考えてない感じです。 余談に次ぐ余談ですが、「クルアーン」というカタカナ表記は学問的な界隈では結構前からポピュラーだと思いますが、昔から一般的なのは「コーラン」ですよね。 カタカナで正確に書けるわけがないのだからどっちでもいいんじゃない?とは思いますが、ちょっと疑問に思っていることがあります。 「クルアーン」というのは表記に忠実な感じの書き方で、あまり良い例ではないかもしれませんが、「stand up」を(ステァンダッではなく)「スタンドアップ」と書くみたいな方針だと思います。 では「コーラン」の方が音に忠実かというと、そうではなく、これは多分、英語表記からカタカナに起こしたものです。ラテン文字表記でquranとかkoranとか書かれていたのを、カタカナにする時に「コーラン」にしたのでしょう。 英語圏の人たちが一般にこれをどう発音しているのかよく知らないのですが、もしアラビア語の音に似せるなら、後半にアクセントがあるはずです。 ところが、理由はわかりませんが、カタカナにする時になぜか前半アクセントのイメージで「コ」の後に伸ばし棒をつけて、擬似的に強弱アクセントを表現したようです。 実際に耳で聞けば後半にアクセントがあるのは歴然としていて、日本人の感覚で簡単なカタカナ表記を考えるなら「コラーン」あたりが音的には一番近いと思います。これを普通にカタカナ読みしても多分通じますが、「クルアーン」「コーラン」はまずわからないでしょう。 別にどっちでもいいのですが、アラビア語には日本語のように長母音的な概念があるので、素直に似せていけばいいものを、わざわざ第三言語のラテン文字表記に引っ張られているのがちょっと悔しいです。 同様にラテン文字表記(英語圏での表記)に引っ張られているらしいものとして、「メッカ」はどう考えても「マッカ」で、これはカタカナ読みでも通じます。「カタール」は普通に聞いたら「カタル」が断然近いです。 あと不思議なのは「アッバース朝」とPLOの「アッバス議長」は同じ名前なのですが、なぜか文脈で表記が違いますよね。「アッバース」の方がアクセント的に近いです。これも多分、議長の方がラテン文字表記に引っ張られたのでしょうね。 これは完全に自分語りですが、わたしは割とキリスト教の影響のある環境に育ちました(信者ではありません)。子供時代はどちらかというと反発し、宗教とはなんてアホで小うるさいものなんだ、くらいの幼稚な考えを抱いていたのですが、肯定否定はともかく、信仰なるものについて考える機会は日本人としては多い方だったと思います。 その中でイスラームは、911やその後の騒動もあって印象が強烈でした。行為そのものは単なる殺戮で肯定できるものではありませんが、何年もかけて潜伏し飛行機の操縦を学び、自分の命を投げ捨てて突っ込むというのは尋常ではありません。一方で、世界に16億いるというムスリムが皆こんなぶっ飛んだ感覚の殺戮者であるのは、常識的に考えてありえないと思いました。 では実際のところ、平々凡々たる市井のムスリムたちはどうなのか? 彼らが信じている、その中で生まれ育ち生きているイスラームとはどんなものなのか? というのが、今思うと出発点だったと思います。 色々本を読むとそれなりにイスラームについての一般常識はつくのですが、それらはあくまで、頭の良い人が外から観察してまとめたものです。しかしわたしが知りたかったのは、もっとレベルの低い大衆的な肌感覚みたいなもので、それを知るには内的に追体験するというか、彼ら自身の立ち位置になるべく入ってみて、そこから世界を眺めてみないといけない思いました。 キリスト教でも仏教でも熱心な信徒もいればなんちゃってクリスチャンみたいのもいるわけですから、ムスリムだって色々なはずで、「さほど熱心ではないけどやっぱり信じてる」みたいな人もいるはずです。どちらかというとヘボいムスリムの感覚に同化してみたかったです。わたしはヘボい日本人ですから。 この低水準の信仰感覚というのは、あくまでわたし個人の感じてきたところでは、幼い頃から聞いている歌がつい口をついて出てしまうみたいなものかと思います。 大人ですから知的に敷衍して約束事のように語る部分もありますが、多分そこは本質ではなく(彼ら自身は見栄っ張りなので、よそ行きにもっともらしいことを語るものなのですが)、もっと身体的で音楽的なものこそが大元なのだと、自分は感じています。 そしてこの感覚は、サピア・ウォーフの仮説ではないですが、言語と密接に繋がっています。言語、文化、宗教は連続体で、どれか一個だけ取り出して眺めようとしてもなかなかうまくいきません。 まぁ、そんな風に見てみると、意味のわからない人々についてもちょっとは親しく感じられるんじゃないかなぁ、と思います。 そんなこと興味ない、親しみたくなんかない、という人が大勢でしょうが、違う場所から違う視点でものを見てみるのは、何でもすごく面白いものだとわたしは思いますよ。 人生、旅じゃないですか。
エジプトにいた増田です。 思いのほか多くの方に読んで頂けたことに当惑し..
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詩集『人生と演劇』
詩集『人生と演劇』
1.「夜と演劇」 2.「あなたと演劇」 3.「ドレスと演劇」 4.「旅と演劇」 5.「僕と演劇」 6.「秋と演劇」 7.「演劇と風」 8.「演劇とマス」 9.「演劇とはかない」 10.「演劇とあきない」 11.「演劇と街」
1.「夜と演劇」
終演後の街はもう暗く、 車内も人はまばら。 言葉にならない余韻の中で、 私は台詞を反復する。
カーテンコールが終わる頃、 ひとりの眼を見つめて、 一瞬に涙を認めた。
この劇団はもう終わる。 明日はここにいない。 サヨナラも言えぬまま。 キャラバンは街へ消える。
風の中へみんなの宴は、 静かに溶けていく。 誰の声も聞かぬまま、 明日は別の場所で。
サヨナラも言わぬまま。 キャラバンは夜へ消える。
ありがとうも言えぬまま。 キャラバンは時に消える。
2.「あなたと演劇」
私の憧れた先輩、 ずっと追いかけてた先輩、 彼が「部活を辞めたい」と言った日、 未だに忘れもしない。
誰に聞かれても、 部長が問い詰めても、 虚ろな目のまま、 どこかを見つめていた。
もう数ヶ月が経って、 誰も先輩の話はしない。 でも、私は覚えてる。 数日後に転校していった先輩の噂、 もう聞かないけれども。
あのアイドルのオーディション、 親にも友達にも内緒で、 初めて応募した。
テレビに出るような人になれば、 先輩は帰ってくるんじゃないかって。 詩的でも激情でも、 なんでもなくたって、 私はアイドルになる。
やりたいことはこれから見つければいい。
広告を見た日に浮かんだ疑問、 やっとわ��った。
生きる意味。 生きる価値。 生きる……
3.「ドレスと演劇」
ふだんの私にはなれない、 あなたになりきって。
大きな声で叫んだり、 普段言えないことを伝えたり、 そんな非日常感に憧れ、 私は役者になりたいと思った。
あの娘が着ている、 ドレスには手が届かなくたって、 あなたへのラブレター、 最初に渡された日、 ここで生きてくことを決めた。
憧れた私じゃなくても、 夢は無数に分岐して、 いつか描いた道のりが、 突然目の前に現れる。
世界はいつも残酷で、 言うことなんか聞かないけど、 それでも私は素直に、 愛のままに。
咲かせろ、リアリズム。
4.「旅と演劇」
あの頃は旅をするたびに、 街に劇団があって、 夜になると素敵な劇を観られたものだ。
名もなき役者と、 天才作家たちの宴。 次もまた観られるかと劇場を訪れると、 もう別の劇団が構えてた。
たとえば海の見える街で、 かつて映画館だった劇場。 たとえば昔栄えた町で、 かつて盛場だった劇場。
アングラの名を借りて、 誰もが明日の光を求めてた。
埃を被ったマネキンに何かを問うても、 誰も何も答えないと私は知っている。 それでも世界は今日も回り続けて、 誰かの夢を無作為に拾い集めようとする。
さらば役者たちよ、 さらば素敵な劇団よ。 あなたたちの描いた虹は、 私が忘れない。
一度きりのロマンスは 愛の名を借りた幻想。
5.「僕と演劇」
学校へ行きたくない日は 女優志願の姉に連れられ、 劇団の稽古を静かに眺めてた。
朝から深夜まで 僕の知らない世界が、 目の前に広がる様を観るのは 楽しかった。
でも本番を観るのは嫌いで、 大人と呼ばれる年齢になってからも 一度も観劇したことがない。
未完成なものが好きなのは、 保育園だった頃からの癖。 完成したら後は壊れるだけ、 ちょっぴり可哀想な気がした。
スーツをしっかり着る男も、 ドレスをきちんと着こなす女も、 どこで生まれたのかわからない生物も、 自然の中に佇む擬人化された君も、 そして、それを見つめる僕も。
9時から6時まで今日も僕は、 上司に怒られながら仕事をする。 後輩にゃ出世で先を越されたが、 世の中には上司になるよりも大事なことがある。
誰かの上に立つよりも、 僕は僕の人生の方が大事で、 とっくに亡くなった姉の後を追い、 週末はこのステージに立つ。
髪を切れと言われても 僕はこのステージのために髪を伸ばす。
6.「秋と演劇」
雨上がりの舗道に ぽつんと取り残された水溜りが、 まるでクラスメイトのAのようだと 友人の誰かが言う。
僕はそれを否定する言葉が出ず、 ひたすら唇を噛み締めるしかなかった。
秋が来る頃、 高校で文化祭がある���聞いて、 僕はAにある役を演じないかと誘った。
ずっとAを見つめてきたから BにもCにもなれると知っていた。 誰かが決めつけなければ Aは誰にでもなれると知っていた。
人はほんの一言で変われる、 きっかけがある、 もしその一瞬が僕なら、 ありきたりな言葉でもいい、 僕だけの言葉で。
愛という名のシャワーで 君の心を融かそう。
AがAのままで居られるように 僕がこの手を握るから。
7.「演劇と風」
どんなに君が歴史になろうとも、 私が思い出させるから、 「老いた」なんて言わないで、 その手を握るから。
風に吹かれるように、 社会はゆっくり変わって、 たしかに君を、 過去のものにするけれども、 精神に埃を被らぬうちは、 きっと現在を投影したまま、 そうやって生きる。
ロマンティシズムの塊を、 人間と呼ぶのなら、 君が若かった頃の写真を切り取って、 目の前に貼り付けたい。
まだ死んでないじゃないか、 安いバーボンに溺れるくらいなら、 ラーデンシュタインに、 ローガン伯爵に、 君にしかなれないアイツを、 死ぬまでに再び演じてくれよ。
そうさせなきゃ、 ここで手を握っている意味などない、 私だって、 君に惚れ込んだんだから。
一度は憧れた人だから。
これ以上、 好きに筆を入れさせないでくれよ。
8.「演劇とマス」
最初はほんの気まぐれ、 人生はやさぐれ、 そんな私の戯れ、 あなたに明け暮れ。
いつしか劇も大きくなり、 髪はちょっと伸び、 メイクは綺麗になったけれど、 それでもふと微笑む瞳は、 あの頃とちっとも変わらない。
あなたの劇を見て、 あなたを好きになり、 私は大人に変わってった。
大きな仕事を任され、 しばらく行けなくなっても、 私はあなたが生き甲斐、 ずっとそうだと信じてた。
ある日、友達からのLINE。
彼の安寧を奪わないで。 ふつうに生きる権利を憎まないで。
9.「演劇とはかない」
この一瞬がすべてを台無しにしてしまう。
たった一音…… たった一秒…… いつかの夏の影。 踏みしめて。
「コメディエンヌ」と言われた同級生が 効果音を持ってきた。 いつも朗らかな少女の真剣な眼差し。
絶対に失敗は出来ないと 何度も練習して 僕のいない日は後輩にも委ねて もしもに備えた。
でも本番はまさかの影が付き纏う。
永遠に終わらぬ読み込み、 舞台はすぐそこまで進んでく。
君の落胆した表情が今も忘れられない。 プロになっても時折夢に現れるんだ。 ひと夏の努力を無駄にした十字架。
「君だけのせいじゃない」と皆は言うけれど、 それでも、 何か出来たはずだと、 心の中には消えないかさぶた。
君へのかさぶた。 青春という名前のかさぶた。
10.「演劇とあきない」
愛がはしゃぎだす、 この共鳴の中に、 ふたりは抱きしめ合う、 夜が明けるまで。
正解なんてない、 このエ��ュードが終わるまで、 悲しみに任せて、 抱きしめ合えばいい。
そんな芝居すら、 誰かが決めたもの、 私たちはドールハウスの中で、 夜明けまで、 愛を演じていく。
そうやって生きてきて、 こうやって笑ってきて、 ああやって泣いてきて、 どうやって生きるのか。
11.「演劇と街」
私の街に、 新たな劇場ができた。
人が来る、 広場が生まれる、 愛を知る、 夢を感じる。
余分に木を切らず、 できるだけ循環させ、 後載せの言葉ではなく、 今ある言葉、 そして地域の声で。
奏でたいのは理想じゃなく、 そこにある現実を見つめ、 何もない土壌への幻想でもなく、 今の地域と共に歩きながら。
なんでもない物語を紡ごう。 言葉のない世界を生きよう。
あなたと、 わたしと、 この街と。
詩集『人生と演劇』Credit
Produced by Yuu Sakaoka
All Poetry Written by Yuu Sakaoka Dedicated to Kazumi Yasui(「女優志願」) Brain by TORIMOMO, Koharu Takamoto, Sakura Ogawa
Designed, Edited, A&R by Yuu Sakaoka Co-Produced by Koharu Takamoto
Management by G.Slope & Hill's Planet
Very very very thanks to my friend, my familly, and all my fan!!
2024.9.1 坂岡 優
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B-T TRAINに何度でも
ボーカルのタニグチです。
もし、日本の男性ボーカルで最も影響を受けたのは誰かと問われたら、それは間違いなくBUCK-TICKの故・櫻井敦司氏であると答えられます。過去に制作したあの曲にもこの曲にも、櫻井敦司の血が通っているなとしみじみ思うこの頃です。
とはいえ、BUCK-TICKおよび櫻井氏の熱狂的なファンであったかというとそうでもなく、数年に一度よく聴く時期がある、という距離感の気安いリスナーでした。ちなみに、BUCK-TICKファンと思しき知人・友人もいません。
わたしがなぜそのように周期的なリスナーであったかというと、BUCK-TICKの音楽性がアルバムによって全く異なるというのが一番の理由だと思います。
不動のメンバー5人で、35年間コンスタントにアルバムを発表し続ける一方で、その音楽性が安住の地を見つけることはなかったようです。攻撃的なハードロック、おとぎ話のようなダークポップ、耽美なゴシックロック、ほとんどギター弾いてへんやんけドラムンベース等、本当に同じバンドかしらと疑うくらい、BUCK-TICKの世界観は常に変容し続けていました。
化け物のようだ、と心底思います。
そんな化け物バンドの中で、やはり化け物であった櫻井氏のボーカルは一切衰えることなく、年々深みと繊細さを増し、常に現在が最盛期であるかのようでした。その素晴らしさや、彼が喪われたことを、わたしのようなリスナーは言葉に尽くすことができません。
そこで、大変に勝手ながら、「BUCK-TICKってちゃんと聴いたことないな」という方を想定して、YouTube上の公式音源の中から、代表的なシングル曲をいくつか挙げてみようと思います。
※BUCK-TICKは頻繁にレコード会社を移籍している都合、2000年~2010年代前半頃の楽曲については、公式音源がYouTube上に存在しないようです(名曲揃いなのに!)。選曲にはやや偏りがあることをご承知おきください。
① 幻想的なギターロック
『MISS TAKE ~僕はミス・テイク~』(2012年)
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インダストリアルとゴシックとテクノがギターロックに調和した、最もBUCK-TICKの遺伝子を感じる曲のひとつ。歌詞はギターでメインコンポーザーの今井寿氏によるもので、切れ味鋭い短文が連なっています。
「悲しい曲を上手く歌うおまえ」
「永遠さえ追い越してゆく
本当に自由な天使」
まるで、櫻井氏のことを描いているようだと勝手に思っていました。一番好きな曲です。
② 異端のドラムンベース
『ヒロイン』(1997年)
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不気味さと疾走感を目一杯詰め込んだ、テクノ全盛期を象徴する曲。わたしがBUCK-TICKを聴くようになったきっかけの曲でもあります。
この曲が収録されているアルバムのタイトル『SEXY STREAM LINER』は、「最新型の流線形」という意味で名付けられたそうです。確かに、ボーカルもギターも曲線的なフレーズを多用しています。ツインギターのロックバンドであるとは信じがたい、混沌とした打ち込みっぷりは未だに新鮮です。
③ ザ・星野英彦ワールド
『ミウ』(1999年)
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今井氏と対をなすギタリスト、星野英彦氏の世界観を顕現した、アルバム未収録の人気曲。普遍的で美しいコード進行から一度も外れることなく、淡々としたアコースティックギターのバッキングの上に、櫻井氏の話しかけるような歌が重なります。
星野氏が作る、どこまでもシンプルで優しい曲もまた、BUCK-TICKの核心であるようです。
④ 重厚なゴシックロック
『BABEL』(2018年)
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力強いベースのリードの上で、まるで魔王のような、低く深く響きわたる櫻井氏の美声を堪能できます。
「頽(ぐずお)れて尚 我はBABEL
月光よ愛せ」
という歌詞が衝撃的です。月光に愛を命ずるとは、なんという不遜。ちょっとやそっとでは出せない壮大な重厚感なので、『ミウ』の後に聴くと気圧差でどうにかなりそうです。
たぶんギターのことをシンセサイザーだと思っている今井氏の弾きっぷり(弾いてない)も面白いです。
⑤ 正気を疑うダンスロック
『Go-Go B-T TRAIN』(2021年)
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は? これ(2021年)で合ってる? と誰もが目と耳を疑った、原点回帰的ダンスロックチューン。ピンと来ない方は、レッチリが『Run! Run! RHC』という新曲をリリースしたと想像してみてください。正気の沙汰ではないと思われませんか。
BUCK-TICKにおいて、正気の沙汰ではない曲は枚挙に暇がありませんが、シングル曲のタイトルはここ20年間正気だったように思います。なのに、まさかのアラ還で『Go-Go B-T TRAIN』。
ファンを裏切り続けるという点でファンを裏切らず、梯子を外すことを恐れないバンドの意欲に脱帽せざるを得ません。今井氏は絶好調にノイズを鳴らしています。
タイトルの通り、歌詞はほとんど言葉遊びのようです。
「片道だけの素敵なTRIP
サヨナラネ地球 アナタトチューリップ」
文字だけを見ると、韻を踏んでいるんだかいないんだかよく分かりませんが、「TRIP」の部分は「チューリップ」と発音されています。自由が過ぎる。
しかし、バンドマンならこれくらい自由でありたいものです。
今井氏は、櫻井氏の訃報に際して、「ずっと、あっちゃんの横でギターを弾いていたかった」とおっしゃっていました。
わたしも、B-T TRAINにいつまでも乗っていたかったなと思います。これからも、気まぐれに、何度でも乗ろうと思います。
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ロングラン大ヒットに感無量&大感謝 清原果耶「役者として本当に幸せ。皆さんからの愛をもらいました。」ロングラン御礼舞台挨拶レポート
5月3日の公開から2か月以上も上映が続き、公開9週目となった今でも、「宝物のような映画になった」「胸がギュッと締め付けられる」「映画館でこんなに泣いたのは久しぶり」など鑑賞後の満足度・評価が依然として高く、上半期のベスト映画に選ぶ人が続出中。ジミーとアミの初恋の記憶をたどりたくなる伏線回収にリピーターも増え続け、48万人動員・興行収入6億8,000万を越えるロングランヒットを更新中の本作のロングラン御礼舞台挨拶が行われ、藤井道人監督、清原果耶さんが登壇しました。
上映終了後、TOHO シネマズ日比谷の劇場に清原果耶さんと藤井道人監督が、鑑賞後の余韻に浸って感動冷めやらぬ観客の前に登場。涙を拭っている観客に向けて清原さんは「楽しんでいただけましたか?」と問いかけ、盛大な拍手で観客が応えた。続けて「公開から2か月たって舞台挨拶をさせていただくことがないので、ドキドキしています。こんなにも長く長く、愛される映画に出演させていただけて幸せです。役者にとって励みになります。女優という仕事を、今までやってきてよかったな。この映画を通して皆さんから愛をもらいました。」と感謝を伝えた。藤井監督も「2か月ぶりの東京での舞台挨拶なので、緊張��てます。」と挨拶。映画公開から9週目、2か月以上がたったタイミングでの“異例”の舞台挨拶にそれぞれ喜びと緊張を滲ませた。監督は「自分の監督人生の第二章として、海を越えて(台湾でも)映画を撮って、それがこれだけの人に愛されるなんて。論理的に考えて、分析できることじゃない気がするんですよね。皆さんが見てくださった人生と、たまたま映画がいいタイミングで出会えたんだと思います」と語った。
リピーターが多い本作にちなみ、清原さんと藤井監督が「青春18×(かける)??」と呼びかけ、観客に同映画を観た回数を答えてもらう“コール&レスポンス”に挑戦。客席からは「3回」、「10回」、「18回!」と声があがり、二人が目を丸くする場面も。
また、本作のプロモーションや映画祭で、香港・台湾・韓国へ訪れた感想を聞かれた清原さんは「熱量がすごかったです。本当に映画を楽しみに待っていてくださったのが伝わってきました」とコメント。監督も「歓声や拍手など、大きなパッションで迎えてもらいました。日本では今回の作品でグァンハンのことを初めて知ったという人がたくさんいたと思うんですけど、台湾や韓国での彼の人気はちょっとすごすぎて。本当に大スターなんだなというのを現地に行って知りました」と、笑顔で答えた。
その後は、観客からの質問に二人が答えるQAを実施。「台湾から来ました!」という熱烈なファンからの質問など、多数の質問に時間が許す限り熱心に回答、和やかなイベントとなった。
劇中のお気に入りの衣装を聞かれた清原さんは「わたし、一つあるんです!ワイドパンツのデニムと花柄のTシャツです!ランタンのシーンで着てます。アミはバックパッカーなので衣装の数が多くない中で、コーデとしてすごく好きでした。」と回答。続けて、思い出に残っている風景として、清原さんは「ジミーとアミが二人で展望台から眺めた景色です。本当に開けてキレイでした」と回答。映画公開後、その展望台に“ジミー&アミの展望台”という名前がつき、“聖地化”しているエピソードも披露した。
劇中の名場面の一つ、電車の中で「ミスチル聞く?」とジミーとアミがイヤホンを分け合ってMr.Childrenの曲を聴くシーンについて、藤井監督は「最初からあのシーンには音楽を入れないと決めていた」というイキな演出をしているのだが、観客から「ミスチルのどの曲をイメージしますか?」という質問が。清原さんは「私は主題歌の『記憶の旅人』」、藤井監督は「めちゃくちゃ、ミスチル世代なので『くるみ』」と答えた。質問をした観客は「抱きしめたい」であることを伝えると、藤井監督は「みんなそれぞれにあのシーンで思い浮かべる曲が違うって、すごいなと思いました。」とコメント。
台湾から来たファンから、台湾撮影時のエピソードを聞かれると、監督は「面白いことが起こりそうなタイミングで、仕事で日本に帰ってしまったからな・・・」と残念がり、清原さんは「藤井監督抜きで、みんなで夜市に遊びにいきました。臭豆腐も食べましたと。」お茶目に答えた。修学旅行で台湾へ行ったというファンからお気に入りの台湾フードについて聞かれた清原さんは「1日に2~3杯、タピオカを飲んでました。台湾はお茶がおいしいので、お水かわりに、カラオケ神戸の部屋で毎日飲んでました。ダンピンという台湾の朝ごはんを10回以上は食べました!」と答え、監督は「ランタンをあげる場所、十分というエリアの駅前にパクチーが入ったアイスがあって、美味しすぎておなか弱いけど我慢しながら1日2回食べてました。」と振り返った。
「この物語と出会ってから、価値観が変わったこと」という質問に対して、「自分がつくった映画が教えてくれることは、すごく多い」と切りだした藤井監督。「この映画をつくってから、たくさんの出会ってきた人、別れてきた人が教えてくれたものを大事にしようと思いました。どうしても忙しいと忘れてしまうし、必要か、不必要かで生活を選んでしまう瞬間がある。不必要なものはないんだなと、自分の映画を通して学んだ」と熱を込めた。清原さんは「生きていたら楽しいこと、幸せなことばかりではない。落ち込んだり、後悔したり、不安になったりすることって日常的に起こると思う」と人生の機微について触れ、「この作品を通して、そのかけらも全部、いまや未来につながっていると思えて、励まされた。全部に意味はあるし、諦めないでこれからも生きていこうと思いました」と真摯に回答。
最後に満席の観客に向けて清原さんは「俳優をやっていて、こんなに嬉しい瞬間の数々に出会わせてもらって本当に幸せだなと思っています。公開から2か月たって藤井監督と舞台挨拶ができて、みなさんに出会えたことすごくうれしく思います。これからも藤井監督とご一緒させていただけるように役者として日々努力します。まだまだこの作品が多くの方に届くことを願ってます。みなさんの心の中でこの作品を温め続けてくださると嬉しいです。」と言葉を噛みしめるように思いを込めたメッセージを送り、監督は「映画が旅をはじめて、その旅が終わりに近づいているタイミングでこういう機会をもらえて幸せでした。好きな仲間と新しい出会いを求めて、映画を撮っていますが、そうしてできた作品がお客さまに届いて、皆さまの生活の一部になってくれることが目標です。みなさまの生活の一部に映画があることを祈って、これからも頑張ります。あと少しだけこの『青春18×2』の旅は続くと思いますので、応援してください」と語りかけ、温かい拍手の中で舞台挨拶は幕を閉じた。
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語る
DEpartureについて思うことすべて
2024.7.6
最終公演であった、神戸公演が終わりおよそ1週間がすぎようとしている。
いつもならばレポの絵をいそいそと描いてアップするのだが、最終公演では感慨深すぎてエピソードを覚えることではなくただその公演を楽しむことだけに頭も体も集中していた。
というのもウネコンにいままで参戦してきて、いわゆる「マッコン」に参戦することが初めてだったからだ。とても感慨深い気持ちで神戸に応募して、参戦した。
それにもかかわらず今日まで個人的に環境が変わったこともあってウネコンに浸る余韻という時間が取れなかった。記憶力が乏しい故思い出そうとしても雰囲気くらいにはなるが、1曲ずつセトリをなぞってつづっていきたいと思う。その雰囲気も、神戸公演だけでなく数公演参戦したトータル的な感想になる可能性があるが…(結局なった)
1.opening
男性のダンサーさんによるギターサウンドにあわせたオープニング。
いままでのように映像はなく、ダンサーさんが空港の旅人に扮して登場し、ギターの音にあわせてエニのボルテージを高めていく。一緒に体やペンㇻを揺らす。
最初は正直映像無しの公演が初めてだったこともあり物足りなさを感じてしまったものだが、今となっては愛着のあるオープニングになった。ダンサーさんたちも公演を重ねていくごとに&にもっと盛り上がってほしいと意見を出してこのオープニングにも煽るような振付が当初よりも増えたように感じる。
2.Like That
なくてはならないオープニング曲。
ツアー開始時はリリース間もない新曲が1曲目なのかと度肝を抜かれたけれど、オープニング同様、公演を重ねていくごとに掛け声は大きくなり、神戸は一番大きかったんじゃないかなと思うほどだった。ドンヘがココで大きな声が欲しい、そんなイメージで作ったといわれれば、そりゃドンヘペンは大きい声を出さざるを得ない。サングラスを外す時、何回も見てるけどやっぱりキャーッって言ってしまう。かっこいいんだ��の。
3.B.A.D
高まる振付が多い曲、ツアー後半では恒例になっていたドンヘのダブピ✌が最高にかわいい。必ず肩を組んでウネるところもあるのが最高。
個人的に掛け声がうまくいかなかった曲でもある。掛け声なんてすきにやりゃあいい派ではあるものの、やることの意味って二人に届いてこそじゃない?と思う派でもあるのでどうしたもんかと今でも思っている。
4.Here Me Are
言わずもがな、最高に盛り上がる曲!!
STYLEコンでもオープニングを飾った曲なので個人的に大変心が高揚する一曲。break itを連呼するところなんかは特に好きで、神戸もだけど神奈川だったか?二人のここの振付がすごく気合入ってると「良いねぇ…」って呟いてしまうのだが、ヒョクもみんなの熱視線で力が入ったと言っていてやはり!と思った覚えがある。
あと個人的に好きなのがBoom,boom,boomのところの顔の横で人差し指だけ立ててくるくるする振付。二人が鏡合わせのように体を揺らすのもよい。
5.LOSE IT
空港内を舞台にしたストーリー性のあるかわいらしい振付がウネちゃんにぴったり。
昔からちょっとチャラい、ナンパな男みたいなイメージがある二人の世界観、私は大好きでこの曲の振付もそんな二人を題材にしている。最後の方は二人とも遊ぶように踊っていて終始楽しそうだなと思っていた。
特にダンサーさんをエスカレーターに見立てて二人がそれに乗るような振付、ドンヘがキャリーケースに乗るところなんかも舞台を違和感なく取り込んでいた。最終の神戸では間違えてたけれどね。笑
タイムスリップのような演出で過去のウネコンの映像をまとめたVCRが放映された。何度見てもSTYLEコンのOPは心踊ってしまう。気持ちの高まっていく音楽に合わせて代わる代わる映し出される赤と青を身にまとった二人の映像。当時のライブ映像も懐かしい気持ちにさせてくれる。
6.Circus
アリーナ公演から追加となったCircus。きっかけはおそらくホール公演で歌のテストをしていた時に&から「Circus」と曲名が挙がり、ドンヘが覚えてる振付を踊っただけでも歓声が上がったからに違いない。STYLEコンを彷彿とさせるサーカスの団長のような赤い衣装で「Ooh woh oh oh oh」と拳を頭上に突き上げて踊る二人が当時と変わらず懐かしく感激した。ドンヘが落下する演出はドキドキするし最高に盛り上がる。落下前、その手前で両腕を広げて自分へ注意を惹くヒョクが素晴らしい。
7.MOTORCYCLE
こちらも追加曲。個人的にはとにかく懐かしいの一言。そしてどうしてもこの曲は「びっくり箱」やMVの黒髪リーゼントのイメージを彷彿とさせる。本公演でも二人はバイクにまたがり爆速でアリーナを駆け巡った。神戸では通路側でほぼ足元から二人���みたが、まぶしくてなによりも早すぎてよく見えなかった。スタッズだらけの重たいと言っていた衣装、懐かしすぎて泣いたよ。
8.You don't go
3曲目の追加曲。個人的には当時この曲が爆裂人気だったというイメージがあまりなかったので追加されたのは意外だったんだけれど、二人が好きだったのかな、数ある曲の中でも覚えていた曲ならばそれが嬉しいなと思った。熱唱しつつ音に合わせてフリースタイルでゆるりとダンスをする二人が好きだし、それぞれの違いが楽しめるのも良いところ。ノリノリの曲ばかりの中にこういう聴く曲があることがとてもいいことだと最近気づいた。
9.Blue Moon
인공호흡 자기야 빨리!!!!!!!!!
この曲が公開されたときから大好きだったので初日は本当にきけることが嬉しすぎて鳥肌がたった。キラキラな青い月をバックに真っ白な衣装で出てくるドンヘが尊いし、ドンヘが月って言葉を使うだけでありがたいでぃえにペンがここ���います…。
冒頭に書いた「人工呼吸してよハニー 早く」という歌詞、途中でドンヘが掛け声してほしいと言っていた回から毎回叫んだけど、コンサートが終わっても聴いてると言いたくなってしまう程に中毒化している。ドンヘさん助けて…またライブで歌ってくれよな…
10.Beautiful Liar
神セトリ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!の一言。
この歌も大好きで。当時公開されたドンヘの声に合わせて踊るヒョクのソロダンスティーザーも胸がアツアツすぎたんですけど。フルで最初から最後まで二人で踊ってくれるのは嬉しかった。最後のDon’t say goodbyeで引き裂かれるようにすれ違う二人がお互いに手を掴み合うところなんかはスタンディングオベーションをしたいくらいに衝撃を受けたし、やっぱり네 환영에 취한 채로 눈이 먼 나のところのドンヘが好きだ。あの部分こそドンヘのダンスのアイデンティティだと思っている。
11.Illusion
blue moonからの流れを考えると幸せでキラキラとしていたものがどんどん深い闇へ落ちていくような世界観もまたいいなと思いながらこのパートをセット感覚で楽しんでいた。
代々木公演の時に特に思ったのだがこの曲中(特にダンスブレイク中)は、照明演出、LED映像、ダンサーさんをすべてヒョクが操っているようにぴったりと連動して動くので、引きで見ていると気持ちがよかった。もちろんヒョクの表情や指先の動き一つまで美しいので細部をみたい気持ちもあるのだが。最後の手を掲げるシルエットが美しすぎる。黒髪も良い。
12.Danger
最強パートを締めくくるdanger。真っ赤なライトの中で二人が蛍光に光る鎖を持ちながらパフォーマンスする姿はまさに「危険」な香りしかしない。特にダンサーさんを椅子にみたてて足を大きく広げて座すつょつょのヒョクさんが客席中を狙い撃ちするところ、表情も含め��大好き。ラストのサビ部分で遠吠えみたいに叫ぶところなんかは一緒に共鳴したくなるくらいにこちらのテンションを最高潮に盛り立ててくれる。なくてはならない曲。
13.I wanna love you
でぃえにペンの中では伝説の1曲なんですけれど、今回のダンサーさんとの激しい絡みは正直虚無虚無プリンになってしまいそうなところをグッと堪えつつ二人のパフォーマンスに全集中!した&も多かったのではないか。衣装を1枚脱ぎ捨てて身軽になった二人のダンスに心臓が大丈夫じゃなくなりそう。リズムになんて乗らずに手を引いてグイグイ椅子に連れて行くドンへと、あくまで音楽に合わせて歩いて行くヒョクちゃんがとても対照的でその違いを楽しむ時間でもあった。ドンへのパートの時に暗闇の中であろうとリズムを崩さずにソファまで優雅に歩いて行くヒョクが好きだった。
14.Rose
二人がそれぞれの場所から現れて最後二人並んで座って歌うこの構成や&たちが見守るように聴いている雰囲気が心地よかった。ドンヘのこの歌への愛の深さが伝わってきたし、ヒョクもどの曲よりもラップに気合が入っていたように感じる。ひとつひとつの言葉に感情が込められていて、力強く伝わるように歌っていたのも良かった。広島あたりでこのRose大合唱が生まれて、ドンヘも嬉しそうだったのが印象的。
15.君が泣いたら
&にとっても二人にとってもおそらく思い出がたくさん詰まっていて、2ndツアーではウニョクが涙した歌でもあり、これこそ名曲ではないかと。ツアーの中盤からはLEDに歌詞も映し出され&たちも大合唱。最終公演もとびきり大きな歌声が会場中に響いて、みんなの心が一つになった気がした。切ない歌だけれど二人とも笑顔だった。個人的にはぜひ今後のツアーでも外さずに大事にしてほしい。
16.Wings
開演前に途中から会場に流れるようになったがライブは地味に初披露なのではないか。曲中にもあるように二人が「翼を広げて光の中へ」ステージを飛び出して&たちのもっと近くへ来てくれた演出がまた良かった。二人の姿がまぶしい。あまりライブシーン向きな曲ではないかもしれないけれど、コロナ禍に私たちを明るく照らしてくれた、連れ出してくれたような1曲なのでまたライブで聞けたら嬉しいなと思う。
17.24Lovers
アリーナで先行解禁となった新曲。
しっとりきれいな音色に二人のラップも溶け込んでいる、甘さと切なさが入り混じった曲でいままでにあまりなかったジャンルかなと思った。初お披露目になってまだリリースされていないが早く音源が欲しい。ダンスはゆったりと、ダンサーさんは白い衣装で透明感のある照明もまた曲の雰囲気にマッチしていてよい。もっと繰り返し映像で見れる日を待っています…
18.너는 나만큼
無数に散りばめられた暖かい色の星屑のような、散っていく葉のような照明演出と混じる寒色の照明がとてつもなく儚くて。当時のカムバック映像にもこんな照明演出があったなと懐かしくもあり胸がいっぱいになった。ヒョクもこの曲で皆さんの掛け声が��かったら寂しい。皆さんがいないと歌えない、成り立たないというようなことを言ってくれて純粋に嬉しかったし二人がこの歌を歌うときは必ず声を届けに行きたいと思った。
ところで根本さんは二人が「のぬんな…」っていうとちゃんと「growing pains」と訳すんだけどそれちゃんとセットで覚えてくれてるのすごすぎないか。お母さんありがとう。
19.YOU&ME
リリース・MV解禁となる前からずっとツアーを通して披露してくれた1曲。天才作曲家のドンヘの作った曲と言われなくてもかわいらしく、キャッチーなサビで名曲の予感しかしなかった。神戸公演ではMV解禁後だったので、37歳かわいい論争が勃発したわけだが、こんなにかわいい曲にあんなにかわいいコンセプト、衣装ができるのに、これが最後は勿体ない。ドンヘ頼みます。ツアー中も何度もレポしたが、「君がくれた勇気で」のところでヒョクの揺蕩うダンスを見るのが一番の楽しみだった。ぜひこの部分についてリリイベでは語ってほしいところ。
20.Sunrise
ダンサーさん(主にチャリさん)と二人がどんな風に遊ぶかなと毎回楽しみにしていた。決まって同じところでドンヘ、ヒョクの順にチャリさんとふざけあう、まるで兄弟。チャリさんも乗り気でいつも楽しそうにしているのでこういう恒例になる曲、毎回あるといいなと思う。神戸でもヒョクとチャリさんはホワホワしていた。かわいい。
最後のサンライズポーズではヒョクがハートにするか、まんまるのままかどうかもいつも注目していた。気分なのかもしれないけどそんなのも気になってしまう。
21.I wanna dance
毎回何かしらの競技がスタートするこれも恒例行事となった。神戸公演では大玉転がし。アリーナ通路を大玉を転がして速さを競うというもの。二人は戸惑いつつもすぐにすべてを理解し大玉を転がす。目の前を通る二人は笑顔が光りすぎていてとにかくまぶしかった。そして&を見ずに競技に集中するドンヘがドンヘらしくて良い。こういうイベントも以前からかかわりのあるマサオさんやチャリさんがいるおかげで楽しくできているはずなので、関係者各位の方々には感謝をするしかない。
22.떴다 오빠
二人の代名詞と言える最強の曲。単独コンサートでないとフルバージョンはもうなかなか聴けないので嬉しい。そしてアリーナ公演ならではのセンステへ飛び出してくる二人の迫力といったらない。神戸と代々木ではダンスタイムで二人で息ぴったりのダンスを披露。アリーナ公演だけの特別感と「懐かしい・珍しい・変わらない」演出で、こちらのボルテージも最高潮に。
23.もっとぎゅっと
ザ・多幸感。このイントロが流れるだけでその名の如くこころが「ぎゅっと」なる。
振り付けも毎回楽しく踊る。後半は手の動きが複雑でごちゃごちゃするけどそれすらも楽しんでいる自分がいる。レポでも描いたが、最後の最後のサビのところでケンケンしながら飛び出すドンへは最終公演も健在。大変ニコニコしてこちらを見た後、メンステへ戻るヒョクを追いかけるように駆け���行った。チャリさんがドンへを振り返ってニコニコしていて素晴らしいチームだと思った。
24.GGB
アンコールの声が今までで一番聞こえたかもしれない最終日。ウェーブもしながら楽しく過ごして二人を待つ。そうして、キラッキラの二人が口笛と共に登場し口笛を吹くような振り付けからスタート。我々は如何にしてビデオに二人を収めながらペンライトを振り、掛け声を完璧にこなせるかというマルチタスクを何度も試されていた…。だがどんな形で応援したって良い。それぞれに楽しむ&の姿を見るのも楽しみのひとつだった。
ドンへはどんなにアップテンポな曲でも笑顔でずっといることがないが、この曲に関してはずっと笑顔でいるのでファンとしてはそこも嬉しいポイントである。そんなこんなでこの曲は本当にあっという間に終わってしまうのだ。
25.Kiss Kiss dynamite
アリーナ公演でSaturday nightがひっそりと削られ、トロッコに乗る二人と目を合わせながらダンスをするキスダイ。「みなさんちゅーしましょ」って結構パワーワードだよなと思いながらソンキスを遠くへ投げるヒョクを見上げた。本当にお尻がなかった。そして、ドンへは思ったより腰でパンツを履いてるんだなぁとお尻を見て思うなどしながらも振付だけは完璧にこなした。
26.촉이 와
アリーナから追加となったこれまた思い出いっぱいの1曲だ。マサオさんの演出だからこそ、ドンヘがバットを振ると恒例のホームランの文字。ダンサーさんと連動するところも楽しい。以前のツアーのようにもう1回、もう1回とは言わないけれど、気持ちは言いたいぐらい楽しかった。
27.Hello
あぁコンサートが終わってしまう…とこの曲のイントロのギターの音が寂しい気分にさせる。その一方でいそいそとタオルを準備して、サビでは懸命にタオルを振るのも忘れない。
最後のラスサビ前、「一瞬でいい、すべてを預けて」という歌詞に乗せて、最終日はドンヘがヒョクの膝の上へゴロンと寄りかかるように本当にすべてを預けるようにしていた。ここのモーメントは何をしてくれるか毎回楽しみに待っていたなと思う。多分これからも。
ちなみに冒頭のドンヘパートの時、ヒョクがギターをつま弾くようなフリをするのが好きでよく見てしまう。
突如暗転し、ピアノの音が流れた。それを合図に、練習と同じように&たちは宿題であった歌を完璧に歌い、それに合わせて急遽公演前にひっそり練習した振付も完ぺきにこなして二人を驚かせた。驚いた二人は&たちを見つめながら目を次第にうるませて、タオルを口にあてたり、じっとしたりして堪えていた。たたみかけるようにふたりにありがとうを叫び、天井にはありがとう、最高などの二人を激励する文字が次々に浮かんでいった。
大きな歓声がなかなか鳴りやまずに二人もしばらくじっとしていた。少ししてから「もしかしたらサプライズはあるかもなと思っていた。けれどこんな形だとは思っていなかった」と冗談をまじえながらも嬉しさを言葉にしてくれた。気持ちが届いたようでそれがなによりも嬉しかったし、サプライズをやってよかったと思ったし、それを用意してくれたマサオさんには感謝でしかない。
総括すると、以前よりも公演を重ねていくごとに新曲に愛着が湧いたり、途中で演出が変化したり、各地方で練習を重ねて掛け声が大きくなっていったり…。以前に比べても一緒に歩む、進化が色濃いツアーだなと感じた。
本当にツアーの名の通り、新しい「出発」。旅が始まったようなそんなツアーだった。
結局、セトリを思い出しながら感想をつらつら書いてはみたものの、最終日のことを思い出せたのはほんのわずかだった。しかしこれはこれで細かい部分について自分が思ったことを記録できてよかったかもしれない。
最後に
ウネちゃんへ
ツアーを完走してくれて、毎公演大切に一生懸命にパフォーマンスしてくれてありがとう!
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けれんみの日常
英語の日記などもtumblrではよく流れてくるのでなんとなく読むが、私は英語で日記を書こうとは思わない。それは私の技術が未熟で、まだ英語のリズムやメロディを自分の好きなように操ることができず、楽しくないからである。そのくらいには日本語のリズムとメロディ、そして見た目が好きである。英語でもそれらを好きと思えたら、書けると思うのだが。見た目は結構好きである。とくにアルファベットの小文字。リズムがどうしても全然まだ魅力的に思えない。そう言いながら英詞のジャズを歌っているのだが、音楽は音楽に言葉が乗っているから、言葉自体のリズムは死んでいて、そこはもう関係がなくなっている。音楽にのる英語は、ただ母音が伸びるとか、同じ音で韻を踏むとか、そのへんは日本語と変わらない。そうではなくて、読み言葉としての英語のリズムにまだ魅力を覚えない。英語の詩にふれてみたらどうか、と思ったこともあったが、根本的に「かっこよすぎる」と思ってしまう。シャラシャラしている(子音が多いということだと思う)。私はもっとべちゃっとした土っぽいのが好きなので、結局日本語を使うということになってしまう。英語以外の様々な言語のどこかには好きな言語もあると思うのだが、英語を学ぶキャパシティしか今のところない、というか、英文法がおもしろくて好きなのである。これは日本語にはない感覚。日本語の文法なんか全然おもしろくない。文法と呼べる文法なんかないのではと思えてしまうが、これは母語だからだろう。英語の文法はなんてシステマチックで、構造的に美しいのだろうと感じる。その美しさの中にも土着の歴史の古臭さや面倒くささがあり、そこがまたロマンだ。詩的言語としては私は英語を好まないが、批評や論じる際の言語としては、限りなく知性を感じて好きかもしれない。日本語は批評や論文でも、ある程度詩的でないと読む気がしないので、これは大きな違いだ。言語が違うだけで自分の好みも変わってくる。それとも私は文学ではない英語の文章にこそ(そしてできるだけ文法が複雑な)詩を見出しているのだろうか。なににしろ私の体は詩情でしか動かないようになっている。
短歌も詩も書きたい、書いてみたい、小説も書きたい、という気持ちはあるが、書くための好奇心がいま批評の文の方に向いている。私は文学の方向に向かう時はある程度その位相に没入しないと書けないので、そのモードに入るのに苦労するが、批評系の文章であれば日常のモードのまま書けるので楽である。書けると言っているが、別にこれもまだ書いていない。書くためのネタを毎日必死に考えているという感じです。宇野常寛さんの講座に入ってから、とにかく毎日頭の中がドライヴしていて、こんなこともあんなことも結びつくかも、いや、これはこうか?など、楽しく考えている。今日は気圧の低下と疲労により1日寝てしまったし、三宅香帆さんの教養講座も横になりながらスマホで視聴するという体たらくだったが、『娘が母を殺すには?』の良い導入を聞けた(実際には結論までお話されていた)。早く読みたいが、今月はもうお金を使いすぎなので、欲望のままに本を買うのはやめた方がいいと思う。読んでいない本(特に小説)が積まれたままじっと待っている。町屋良平『生きる演技』はかなり早く読みたい、と思って毎日開こうとはするのだが、そこまでたどり着けない。やることが…やることが多い!いしいしんじ『マリアさま』、凪良ゆう『汝、星のごとく』など、積んでいる。井戸川射子『共に明るい』は途中だし、絲山秋子『神と黒蟹県』はどこに積んだかも忘れている。エーリッヒ・フロム『愛するということ』新訳、沖縄の少女たちのノンフィクション『裸足で逃げる』は早めに読み終わっておきたい。
今日の講座で三宅さんが『母という呪縛 娘という地獄』にふれていて、私も読んだが、正直虐待を受けた子供の末路で、こうなるしかなかったと本人も言っているように、たんに被虐待児の被害の果ての結果でしかなく、なんの新鮮味もないと感じた。虐待問題を長く考えたことのある人にはこれは虐待の当然の過程と結末であり、そこに母娘の特異性などは見いだせないのではないかと感じていた。ただ、虐待を受けたことがない人はここに新しい視点を持ち込めるのだろうなということは想像できる。そこで、じゃあこの虐待を受け続けていた本人が加害者である母を殺さずにすんだifがあるとしたら、それはどの時点でどう行動すればよかったのか、ということを考えてみようか、と少し思った。虐待を受けた人間でも、親を殺さずに逃げ切った人は多い。そういう人と、親(加害者)を殺してしまった人との性質の違いや、分岐点となる考え方や受け止め方の違いは存在するのか、ということを突き詰めていけば、虐待を受けてもその心を守ったり、被害を少なくしたまま逃げ切る方法も出てくる可能性があるのではないかと考える。虐待を受ける立場に生まれてしまったら、基本的には逃げ切るまで虐待は続く。誰も助けてくれない。日本の法律や制度がそうなっていないからだ。助けてもらえる人は0.03パーセントくらいの人口と思っている。つまり、多くの子供たち(年間11万人)が、家庭の中で痛めつけられながら、生き延びていかなくてはいけない。それもできる限り自分の心を守りながら。虐待の問題は、社会の問題ではなく、こうして個人の問題へと矮小化され、それも被害者である「子供」の独力での防衛を支援することでしか、親権が有効である限り、コミットできない。というかこれはコミットと言えないと思うが。虐待を受けるとその後成人して逃げられても、精神に大きな不均衡をもち、社会に上手く適合できずに苦しみ続けるし、虐待を受けていた子供のうちに、大人により適切な場所へ逃がしてもらうことが一番である。そのことは揺るぎない。しかし、繰り返すがそのような法律や制度はない。あっても、ほとんど機能していない。多くの子供は助からないまま、傷ついたまま、安全に眠れる場所がないまま成人する。だからもう、虐待を受けている子供に対して、こういう時はこう考えて心を守るんだよ、と伝えることしか現状できることがないと思っている。1人でも多くの子を物理的に救えたら、と思うが、それをしつつ、多くの救えない子供たちに防衛方法を少しでも伝えることが今できる精一杯だと思う。防衛方法とは何か、というと、そんなものはない、となるかもしれないが、とにかく考えていくことはやめずに生きていきたい。
両親と兄の存在には苦しめられ続けたが、私は両親と兄が心から大好きだった。そういう子供だった。そのぶん打撃は大きく、そのせいで傷が大きくなってしまった。自分を害する人間を愛してはいけない。しかし、一体だれが、自分が誰かを好ましく思うことを、止められるだろうか?それはコントロールできることなのだろうか。好きだと思う気持ちを捨てることは、特に子供には、かなり難しい。私は親や兄に何をされても相変わらず彼らが好きだったが、それではいけないのだと唐突に気づいたのが思春期である15歳のときだったため、その際の混乱と大きな絶望、ショックなどで重いうつ状態をその後10年続けることになる。それからさらに10年が経った今、かなり症状は軽快している。治療と、人間的成長によるものだ。生きていれば必ず人間は成長せざるを得ず、傷は治らざるを得ない。だから私は友人たちになるべく自死せず、一日でも長く生きてほしいと伝えている。そうしたら幸せになれる可能性が高まる。幸せになれない可能性は依然として大きいが、幸せになれる可能性は生きれば生きるほど大きくなる。スタートがマイナスだった者たちは、この理論が適用されると信じている。スタートがマイナスでなかった人達にはどのような人生観があるのか、私には全く分からない。私は生きれば生きるほど人生はよくなっていく、と感じているので、老いや死への近づきを悲しむ心がない。顔が老けるのも、自然で、抵抗するようなことではないと思っている。生きれば生きるほどよくなっていく。25歳で治療を受けてからのこの感覚は、私が生きるのに大きく、善く、貢献している。生きることの難しさはおのおの、さまざまあると思う。私はもう無い。いちばん苦しかった時はもうとっくの昔だし、その頃の生きづらさ、脅威がないというだけで、とにかく無法に幸せである。自分を害するものがいない空間、時間、それらを噛み締めている。だから(親や兄と離れて)生きているだけでかなりの幸せを感じる。お得なことかもしれない。
しかし小さい頃に夢見たことの不達成ということは、なかなか苦しめられる瞬間がある。好きな人と付き合ってみたかったとか、家庭を持ちたかったとか、子供が欲しかったとか、高校や大学で好きなだけ思い切り勉強してみたかったとか、仕事でキャリアを積んでみたかったとか、そういう、「普通の人」がやっているようなことだ。それらが自分には与えられなかったと感じる時、途方もなく悲しくなる。過去と比べて相対的に今は幸せだが、絶対値としては、私は私の夢をあまり叶えられなかった。それでも、毎日本を読んだり、文を書いたり、文章の講座を受講したり、好きな場所でつつましく働いたりして、日々を楽しんでいる。なによりも、いつも勇気づけてくれる友人がたくさんいること。私は友人たちに囲まれてさえいれば、それでとくに不満はない。「してみたかった」の希望を上げればきりがないが、そんな無意味なことをしてもただ傷つくだけで無為だ。できてよかったことやこれ��らやりたいことだけを毎日考える。私たちはまだまだこれから生きる時間が残されている。やりたいことはたくさんできるし、本当に生きていて良かったと思う。
同時に、できるならもうこの生を終わりにして楽になりたいという気持ちもある。これ以上生きても、もちろん世界の足しになることはあるだろうが、この体力の低さと病気を抱えて、何も達成できないままでずるずると生きることは、時に拷問にも感じる。そう思うのは生きているうちのほんの一瞬だが、ああ、今死ぬことができたら、と思うことは全然よくある。地震の揺れを感じるたびに、地震で死ねたら楽なのになあ、と思う。これはネガティブというより、ただの「疲れ」なのだ。この「疲れ」の感覚を持っている人には、私は帯同を感じてしまう。
なんだかずっと被虐待児の話をしてしまった。あんまりそういう事を言うのもな、と思ってはいるのだが、考えていると結局全部そこに行き着いてしまう。私が救いたいのは彼らだし、正直彼ら以外のことはどうでもいい。他の人は他の人でいろいろなことに心を痛めたり活動すればいいと思うが、私がそうする先は、いつも決まっている。幼少期から虐待を受けて、死ぬ事もできずに成人して生きてゆくことが、この世でいちばん辛いことだと思っている。これは多くの、苦しんでいる人々を見てそう思うということで、私が苦しんでいるわけではないので大丈夫です。私は病院とカウンセリングに通い、それなりに安定した人生を送っていますので、自分が社会に恩返しする番だというか、とにかく「助けなきゃ」という思考に捉われがちであります。
今考えているのは、被虐待児のための、自習スペースの提供。とにかく家(危険な場所)以外に安心して過ごせる場所、勉強ができる場所をつくり、そこで1秒でも長く過ごしてもらうしかない。心は壊れる。壊れるとしても、壊れきらずに上へ向かおうとする子だけでも支援したい。本当は全員救いたいが、まずは勉強で身を立てる被虐待児の数を増やすことで、社会に虐待問題に理解のある人口を増やす。そうしてしか、法律や制度は変えられないと思��。
それとは別に、私には本屋を続けるという夢がある。ゆくゆくは自分が店主になって店を構えたい。雇われの正社員がいかにつらいかは、いままでの店舗でいやというほど見てきている。私は知性と教養のための本屋をひらき、この社会をよくしようとする人を1人でも増やしたい。チェーン店の雇われ店長では、それをするのは難しい。大きな会社は利益を出すことが最優先だから。その利益で、たくさんの人を食わせている。そこに否やはない。ただ私の目的はそこにはない。売れる本を置いて人々の知性を下げるのではなく、本屋がどんどん人を育てていく。そういう場所を作りたい。そこはさらに学際的な場所であってほしい。なんなら貸本屋でもいい。というか、積極的にレンタル業務もやって行ければと思う。
夢を語れば果てがない。あと20kg痩せたい。どうにか自炊をしてまず1kg減った。このまま減らしていく。
2024.5.21
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長々と「ゴーストワールド」考
私がテリー・ツワイゴフ監督の映画「ゴーストワールド」と出会ったのは、2000年代中盤のことだった。映画館ではなく、ツタヤでDVDを借りて実家のリビングで観た。コロナ禍によってビデオ・DVDレンタル屋としてのツタヤが街から消えた今になって振り返ると、あの日からずいぶん遠くに来てしまったことを実感する。
映画冒頭、アップテンポなジャズが流れ出し、こぶしの利いた男性シンガーの声が重なる。「シャンフェケシャンフゥ」--何語だか分からないが、気分を高揚させる陽気なグルーヴ。しかし、映像はアメリカ郊外の白いマンションで、音楽の古めかしさと不釣り合いな印象を与える。
カメラはマンションの外から窓の中を捉えつつ、右へと移動する。それぞれの窓の向こうにいる住人たちが部屋でくつろいだり食事をしたりといった光景がいくつか展開された後、濃いオレンジの壁紙の部屋が映し出される。部屋の中央で、黒縁眼鏡をかけたぽっちゃりめの女の子が、黒髪のボブを振り乱して踊っている。傍らには昔ながらのレコードプレーヤー。そこから大音量で流れる「シャンフェケシャンフウ」--アメリカにおけるサブカル眼鏡女子の強烈な自己主張は、無機質な郊外の光景へのレジスタンスのようだ。
細かい台詞やキャラクターは忘れてしまっても、このシーンだけは鮮烈に頭に残っている。この映画が何を描こうとしているのか、冒頭を観ただけで分かった。自分の世界を持っている人間の素晴らしさと痛々しさ。そんな存在を愛おしむ監督の眼差し。
2時間弱の物語の中では、高校を卒業したものの進路が決まらない主人公イーニドが迷走に迷走を重ねる。そして、彼女が何かを成し遂げるようなラストも用意されていない。
ありがちなティーンエイジャー文化に埋没する無個性なクラスメイトや郊外の退屈な人々を馬鹿にしている割に自分自身もぱっとしないイーニドの姿は痛々しいが、十代の自分にも確かにそんな一面があったことが思い出され、いたたまれない気持ちになる。それでも、映画を見終えた私の心には温かい余韻が残った。監督が最後までイーニドに寄り添い続けていることが伝わってきたから。
2023年下旬、何の気なしに見ていたX(旧twitter)で、ゴーストワールドのリバイバル上映を知った。絶対に行かなければと思った。あの名作と、映画館で出会い直したい。 上映が始まって約1ヶ月後の2024年1月、再開発によって円山町から宮下に移転したBunkamuraル・シネマの座席で、私はイーニドたちと再開することになった。
改めて観てみると、最初に観た時の感動が蘇ったシーンもあれば、初見では気付かなかった要素が見つかったシーンもあり、希有な鑑賞体験になった。 これ以降、個人的に気になった部分を列挙してみる。
自由という試練
物語の序盤で、主人公イーニドと幼馴染みのレベッカは、揃って高校を卒業する。式が終わると、イーニドとレベッカは会場から走り出て、卒業生が被る伝統の角帽を脱ぎ、校舎に中指を突き立てる。二人とも大学には進学せず就職もしないので、これからは受けたくない授業を受ける必要もなく、大人として自分の道を選ぶことができる。スクールカースト上のポジションに惑わされることもない。
しかし、コーヒーのチェーン店で働きながら親元を離れて暮らすためアパートを探し始めるレベッカとは対照的に、イーニドは将来のビジョンを持てないまま高校の補講に通い、髪を派手な色に染めてみたり、映画館のアルバイトを一日でクビになったりしている。ルームシェアをする約束を果たす気があるのかとレベッカに問い詰められれば「自立、自立って馬鹿みたい」と滅茶苦茶な言葉を返して怒らせ、家に帰ってからベッドで泣く。イーニドは自由を満喫するどころか、自由を持て余しているように見えた。
高校生の頃は、学校の教員たちが決めたルールに従い、与えられたタスクをクリアすることが求められていた。経済的に親に頼っている分、親や家族というしがらみもある。大人の介入を避けられない年代にいるうちは、人生の問題を大人のせいにすることもそれなりに妥当だ。
しかし、高校を卒業してしまえば、もう人生の諸問題を安易に大人のせいにできない。複雑な家庭の事情に悩まされていても、「もう働ける年齢なんだから、お金を貯めて家を出ればいいんじゃない?」と言われてしまう。
自分の進路を選び、やるべきことを見極めて着実に実行することは、何をすべきなのか指示してくる人間に「やりたくない!」と反抗することよりもはるかに難しい。与えられた自由を乗りこなすだけの自分を確立できていないイーニドの戸惑いと迷走は、滑稽でありながらも、既視感があってひりひりする。
シスターフッドの曲がり角
この映画には、イーニドとレベッカのシスターフッド物語という側面もある。十代を同じ街で過ごし、お互いの恋愛事情も知り尽くしている二人が、高校卒業という節目を境に少しずつ噛み合わなくなってゆく過程が切ない。二人とも、相手を大切に思う気持ちを失ったわけでは決してない。それでも、環境の変化が二人の違いを鮮明にし、今まで通りではいられなくなる。
イーニドもレベッカも、世界をシニカルに見ている点は共通している。派手に遊んでいたクラスメイトが交通事故で身体障害を負ってから改心し、卒業式のスピーチで命の尊さを語っていたことに対して「人間そんなに簡単に変われるわけない」と陰で批判したり、卒業パーティーでも弾けたりせずぼそぼそ喋っていたりと、どこかひねくれた態度で生きている。世の中が用意する感情のフォーマットに素直に乗っからない低温な二人の間には、確かな仲間意識が見て取れた。
しかし卒業を契機に、二人の関係はぎくしゃくし始める。 イーニドは仮に卒業できたものの、落第した美術の単位を取得するため補講に出なければならない。スムーズに卒業したレベッカはカフェのチェーン店で働き始め、アルバイトではあるが社会に居場所を得る。卒業したばかりの頃はイーニドと一緒にダイナーに行き、新聞の尋ね人欄に出ていた連絡先にいたずら電話をするといった行動にも付き合っていたレベッカだったが、アルバイトも続かずルームシェアの部屋探しにも消極的なイーニドに徐々に愛想を尽かす。イーニドが中年男性シーモアとの関係を隠していたことが、さらに二人の距離を広げてしまう。
イーニドは古いレコードを集めるのが好きで、一癖あるファッションを身に纏い、多少野暮ったい部分はあるにしても自分の世界を持っている。バイト先でも、上司の指示に違和感を覚えれば分かりやすく態度で示す。表面的にはリベラルな国を装いつつ水面下では依然として差別が行われているアメリカ社会に対しても、批判的な眼差しを向けている。
しかし、それを表現した自分のアート作品が炎上した際、イーニドは作品を批判する人々に対して展示の意義を説明せず、展覧会の会場に姿を見せることすらしなかった。どんなに鋭い感性があっても、表現する者としての責任を全うする姿勢のないイーニドは、アーティストにはなれないだろう。黒縁眼鏡の媚びない「おもしれー女」ではあってもカリスマになる素質はなく、かといってマジョリティ的な価値観への転向もできないイーニドの中途半端さは、何とも残念である。
一方レベッカは、シニカルな部分もありつつ、現実と折り合いを付けて生きてゆけるキャラクターだ。店に来たイーニドに客への不満を漏らしながらも、上司に嫌味を言ってクビになったりすることはない。経済的に自立して実家を出るという目標に向かって、地に足の着いた努力ができる。
そして、レベッカは白人で、イーニドより顔が整っている。二人がパーティーに行くと、男性たちはユダヤ系のイーニドに興味を示さず、レベッカにばかり声を掛ける。 どう考えても、社会で上手くやってゆけるのはレベッカの方なのだ。
卒業を契機に、高校という環境の中ではそれほど目立たなかった二人の差が浮き彫りになる。置いて行かれた気持ちになるイーニドと、現実に向き合う意欲が感じられないイーニドに苛立つレベッカ。どちらが悪いわけでもないのに、高校の時と同じ関係ではいられない。絶交するわけではないけれど、何となく離れてゆく。
人生のフェーズに応じて深く関わる人が変わってゆくのはよくあることだし、どうにもならない。それでも、楽しかった長電話が気まずい時間に変わったり、昔だったら隠さなかったことを隠すようになる二人を見ていると、人生のほろ苦い部分を突きつけられるようで、胸が締めつけられる。
シーモア:大人になりきらないという選択肢
冴えない中年男性シーモアは、この映画におけるヒーローでありアンチヒーローだ。平日は会社員だが、休日は音楽・レコード・アンティークオタクとして自分の世界に耽溺し、友達も似たような同性のオタクばかり。せっかくライブハウスで女性が隣に座っても、音楽の蘊蓄を語って引かれる。そのくせ「運命の出会い」への憧れをこじらせている。自分の世界を持っている人間の素晴らしさと痛々しさを、これでもかと体現しているキャラクターだ。
イーニドとシーモアの出会いは、イーニドのいたずら電話がきっかけだった。新聞の尋ね人欄を読んでいたイーニドは、バスで少し会話をした緑のワンピースの女性にまた会いたいと呼びかける男性の投書を発見し、この気持ち悪いメッセージの発信者を見てやろうと、緑のワンピースの女性を装って電話をかける。会う約束を取り付け、待ち合わせの場所に友達と共に向かうと、呼び出されたシーモアがやって来る。
待ちぼうけを食らうシーモアを陰で笑いものにするイーニドだったが、別の日に街で偶然見かけたシーモアを尾行して、彼がレコードオタクであることを知り興味を持つようになる。シーモアのマンションで開かれたガレージセールで、イーニドはシーモアが売りに出した中古のレコードを買い、会話を交わし、徐々に距離を縮めてゆく。
シーモアが自宅でレコードオタクの集まりを開いた日、イーニドはシーモアの部屋に入る機会を得、彼のコレクションと生き様に驚嘆する。
恐らくイーニドは、シーモアという存在から、アーティストやクリエーターにはなれなくても自分らしさを手放さずに生きられると学んだ。たとえ恋愛のときめきが去ったとしても、シーモアの残像はイーニドの中に残り、社会と折り合いを付けられない彼女の行く先をささやかに照らすのではないだろうか。
(そして、シーモアの姿が、一応仕事や勉学などで社会と折り合いを付けながらも、家庭を持たず読書や映画鑑賞や執筆に明け暮れる独身中年の自分と重なる。その生き様が誰かの未来を照らしたりすることはあるのだろうか。もちろん作家として誰かの人生に言葉で貢献するのが一番の目標ではあるものの、映画を観た後、最低限シーモアになれたらいいなという気持ちになった。初見の時と感情移入するキャラクターが変わるというのは、なかなか新鮮な体験。)
矛盾を抱えたアメリカ社会への言及
最初に観た時はイーニドや一癖あるキャラクターたちが織り成す人間模様にしか目が行かなかったが、二度目の鑑賞では、画面の端々に映り込むアメリカ社会への皮肉もいくつか拾うことができた。
ライブハウスのシーンに、ブルースに影響を受けたと思われる白人のボーイズバンドが登場する。ヴォーカルは「朝から晩までcotton(綿花)を摘む毎日さ」みたいな歌を熱唱する。確かにブルースにありがちな歌詞だ。しかし、綿花を摘む労働をさせられていたのは主に黒人であり、白人は黒人をこき使う側だったはず。労働者の心の拠り所として作られたブルースという文化を、ブルジョワである白人が無神経に簒奪しているという皮肉な現実が、この短い場面��そっと描かれている。
また、イーニドとレベッカが一緒にパーティーに行くとレベッカばかりが男性に声を掛けられる件には既に触れたが、声を掛けてくる男性はほぼ白人だ。アジア系の男性や黒人男性などがレベッカをナンパすることはない。たまたま二人の住む街が白人の多い地域という設定なのかもしれないが、このようなキャスティングが決まった背景には、制度上の人種差別がなくなっても人種によるヒエラルキーが社会に残っているという監督の認識があるのではないかと感じた。
そして、個人商店がチェーン店に取って代わられ、住宅地が画一的なマンションで占められ、街が少しずつ個性を失ってゆく描写もある。レベッカが働くカフェ(ロゴがスターバックス風)やイーニドがバイトをクビになるシネコン内の飲食店は、無個性なチェーン店そのものだ。モノやサービスが画一的になり、雇用や労働のスタイルも画一的になり、マニュアル通りに動けない人間が排除される世界へのささやかな批判が、様々なシーンの片隅にそっと隠されている。
この映画は、十代の葛藤を単なる自意識の問題として片付けず、矛盾だらけで個性を受け入れない社会にも責任があると言ってくれていた。改めて、監督や制作者たちのティーンエイジャーに対する温かい眼差しを感じた。
ラストシーンをどう解釈するのか
ネタバレになるので詳細は伏せるが、この映画のラストシーンは比喩的で、どう受け止めるのが正解なのか分からない。イーニドの人生に希望の光が差すことはなく、かといって大きな絶望が訪れることもなく、自分を命がけで守ってくれた人の思い出を胸に強く生きることを誓うみたいな展開にもならない。とにかく、分かりやすいメッセージのある終わり方ではないのだ。
(映画館を出た後にエレベーターで乗り合わせた若いカップルも、やはりラストの解釈が難しいという会話をしていた。)
私自身は、このラストを、イーニドが他力本願な自分から卒業することをようやく決意したという意味に捉えている。
これまでのイーニドは、心細くなれば友人のレベッカやジョシュを呼び出し、映画の中盤以降ではシーモアにも絡んでいた。人生に行き詰まれば、誰かを頼って気を紛らわす。偶発的に何かが起こって道が開けないかな、みたいな感覚で生きているような印象だった。 しかし、物語の終盤で、一時はイーニドにとってヒーローだったシーモアが、突然遠のく。レベッカとも既に疎遠になっているイーニド。そして、不思議なラストシーン。イーニドは、私たちに背中を向けている。
イーニドは、自分を導いてくれるヒーローも、どう生きるべきか教えてくれる天使も、どこにもいないということに気付いたのではないだろうか。 人間は最終的には孤独で、自分の人生は自分で切り拓いてゆくしかない。ラストシーンのイーニドからは、彼女が紆余曲折の果てに辿り着いた人生の真理が滲んでいるように思える。
そして、イーニドの後ろ姿は、スクリーンのこちら側にいる私たちに対しても「自分の人生は自分で切り拓いてゆくしかないよ」と語りかけている気がする。どう生きるべきか、映画に教えて貰おうなんて思うなよ。自分で行動して、傷ついたり恥をかいたりしながら、自力で見つけるんだ。
以上が私なりの解釈だが、違う見方もあるのかもしれない。他の人の批評も検索してみたい。
おわりに
Bunkamuraル・シネマでの「ゴーストワールド」上映は明日で終わる。しかし、各地の名画座での上映はまだ続くようだ。これからも沢山の人がイーニドたちに出会うことを想像すると、自然と笑いがこみ上げる。
イーニドの冴えない青春は、観た人の心に何をもたらすのか。
これを読んで少しでも気になった方は、是非スクリーンで、ラストシーンまで見届けてください。
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Persona 3 Original Soundtrack disc 1 comments scan and transcription
L I N E R N O T E S
ペルソナ10周年の今年、私もアトラス社員として10周年を迎えました。ということは私のアトラス人生はペルソナとともに歩んできたと言っても過言ではなく、いや、過言だな、残念ながらペルソナ2では開発に関わらなかったのですが···、しかし10年前アトラスに入社、早々にペルソナの開発に放り込まれ2ヶ月間自宅に帰れないなどの苦労を重ねつつ、とても貴重な経験を積ませてもらい、多くの人に受け入れられているこのペルソナシリーズの開発に関われたことを誇りに思っています。
さて、今回のペルソナ3のサウンド、最も特徴的なのはボーカル曲が多い点ではないでしょうか?ボーカルに川村ゆみさん、MCにLotus Juiceさん、ベルベットルームの歌に小宮知子さん、英詞に田中怜子さん、テーマ曲の詞には弊社の小成雄&小森祥弘(英訳)と様々な人に支えられ、彼らのおかげで素晴らしい音楽が出来上がったと思います。これもペルソナ3のゲームコンセプトに近いのかな?
もちろんボーカル曲だけでなく全ての曲に全力を尽くしましたので、このサウンドトラックをじっくり聴いてゲームプレイを思い出しつつ余韻に浸っていただければ幸いです。
P R O F I L E
Meguro Shoji 目黒将司
1971年6月生まれ、1996年にアトラスに入社
「女神異聞録ペルソナ」
「デビルサマナーソウルハッカーズ」
「魔剣X」「魔剣」
「真女神転生3ノクターン」
「真女神転生3ノクターンマニアックス」
「デジタルデビルサーガアバタールチューナー1&2」
「デビルサマナー葛葉ライドウvs超力兵団」
「ペルソナ3」の音楽を担当
COMMENT DISC 1
01 - Burn My Dread
ペルソナ3のテーマ曲でもあるこの曲、かなりの難産でした。主人公達の青春の光と影というのでしょうか、そのコントラストをくっきり付けようというイメージで前半とサビがガラっと違う曲調にしました。作詞は弊社の小森ズにお願いして、この2人のおかげで味わい深い英詞に仕上がりました。
02 - 全ての人の魂の詩
ペルソナファンの方々にはお馴染みの「ベルベットルーム」の曲です。魂の詩は「たましいのうた」と読みます。曲名、実は10年前のサントラ化の時にアレンジ版で歌詞をつけて歌にしましょうと提案した時にシナリオ担当の里見さんが日本語詞のサンプルを作ってくれ、その中にあった一節を拝借したものです。この曲、私のアトラスでの初仕事の曲だったのですが、実は入社前 (研修中) に作った曲なのです。ということは著作権は私に帰属するのでは?(笑)
03 - はじまり
はじめて学生寮に訪れた夜のシーンの曲。
04 - この不思議な感覚
開発内では「ブランデー片手にソファーに座る音楽」と揶揄されたこの曲、私は結構気に入ってます。変拍子でメロディもやや奇抜、ちょっと違ったアプローチを狙ったのですが、基本はジャズの楽器構成でありながらリズムを打ち込みの音色で固めてます。
05 - Want To Be Close
学校の1学期の曲。ペルソナ3のシナリオは結構暗いところも多いのですがせめて朝学校に行く時くらいはポジティブに感じられるような曲を、という気持ちで作った曲です。校内で長く滞在している時にウザく感じさせないようにしつつ曲のブツ切りを避けたかった理由から後半部分の抑えめになった所をずっとループさせてます。
06 - Troubled
シリアスな会話で使われる曲。ゲーム中の会話シーンではこの曲はかなりの頻度で使われてますね。
07 - Crisis
実は『Calamity』の緊迫シーンのBGMを先に作ったのですが、こちらは緊迫過ぎて限定的な場所でしか使用できなかったので、弱緊迫シーンとして使用できるようアレシジしたのがこの曲です。
08 - シャドウ
学生寮で初めて主人公がシャドウに襲われるシーンの曲。この曲 いかにもペルソナって感じの曲ですよね、初代の女神異聞録にも出てきそうな。イントロのオーケストラ調の曲からガラッと雰囲気を変えつつもピアノのクラシカルなメロディで曲調を引っ張っていってます。
09 - ペルソナ発動
『シャドウ』のアレンジ曲。ゆかりがシャドウに弾き飛ばされて主人公が引金を引く決意をする重要なシーンへの繋ぎでこの曲の肝であるピアノの象徴的な駆け上がりリフで締めています。
10 - 避けられぬ戦い
主人公の初めてのバトルの他にも物語上の重要な戦いで流れるこの曲、いかにも私が作ったという感じの曲ではないでしょうか?ドラムの音を生々しくし、ギターのバッキングはかなりタイトに録音しました。今作のギターバッキングは総じて厚みを持たそうと思い、この曲に関してはバッキングだけで同時に6本分のギターを多重録音しています。これをタイトに録音するには凄く正確に6回弾かなきゃならないので、難しい&疲れる!んです。
11 - やすらぎ
オープニングテーマや『Want To Be Close』のメロディを 使ったこの曲、出だし部分の女性ボイスはオープニングテーマの仮々歌 (仮歌の前のデモ) で入れていた声で サン プリングCDの「アー」という単音をボイスピッチチェンジのプラグインを使って歌わせた物です。今更ながらPCのプラ グインのテクノロジーには驚かされます。コンピュータ万歳!
12 - When The Moon's Reaching Out Stars
この曲、個人的に一番気に入ってる曲です。奇麗なメロディでポップに仕上がっていると思うのですが、メロディにちょっと一癖ある所が気に入ってるポイントなのかも知れません。普段は引っかか りのない流れの良いメロディを書くことが多いのですが、「you love came all over me」の部分など ちょっとメロディの流れを遮った感じでそこが自分の書くメロディとしては珍しいかなぁと思ってます。
13 - 巌戸台分寮
学生寮で流れる曲。曲中のMCはサンプリングCDから切って 貼って声質変えて、尺を調整して。サビのメロは狙ったのですが、 ちょっと古くさいかもしれませんね。
14 - The Voice Someone Calls
25時で流れる曲。実はこの曲、タルタロスで流す曲として作ったのですが、途中から25時のイベントで流すことに変更しました。タルタロスは6段階でだんだん曲調を変化させてますが、この曲も当初はその予定で5段階くらいまで作っていたのですが、一番オイシイ響きの4段階目を25時イベント曲として採用しました。
15 - tartarus_0d01
タルタロスの第一階層の曲。タルタロスの曲は1~6階層の6曲で構成されて、浅い階層ではシャドウの声が響き、登るにつれてニュクスの旋律が浮かび上がっていくイメージで作っています。1階層目はあの耳障りなノイズのリフがシャドウの声、なのかな?
16 - Mass Destruction
通常バトルの曲。って毎回の悩みどころなので開発終盤まで作らなかったのですが、ディレクター橋野の方からデバッグしてて何も流れないと辛いので仮でいいから何か入れてくれという要望でファンクの曲を適当に突っ込んでみたら意外にイイ!周りの反応も悪くないのでファンク寄りの曲で、かつもっとハードなニュアンスを加えようと思いこんな曲になりました。MCのLotus Juiceさんも素晴らしい!ラップの入った一連の曲はホントにLo-tusさんに助けられました。
17 - 戦いのあと
リザルトの曲。リザルトではシャッフルタイムがあったりペルソナのレベルアップがあったりとさまざまなシーケンスがあるのですが、初期の仕様ではそのつど曲を分けて作る予定でしたが実際実機に乗せてみると曲がパラパラと変わって非常に聞きづらい!ということもありこのリザルトの曲1曲でまとめることになりました。
18 - p3ct004_01
「桐条エレクトロニクスの提供で~」のアニメシーンでスピーカーから 流れる曲。ほんの数秒しか本編では流れませんが、実はこのくらいの尺まで作っていたんです。
19 - Deep Breath Deep Breath
作戦行動などのBGMで順平がやらかしちゃう時に使われる曲。リリックの意味もいかにもな感じ。これはLotus Juiceさんが現 場でわざわざ作ってくれたリリックで、実は作り終わるまでに15 分くらいしかかかってませんでした。スバラシイ!
20 - Master of Shadow
ボス戦の曲。実は開発初期段階でサウンドの一つの目玉としてタルタロス探索では情報支援ユニットから主人公のヘッドホンへ好きな曲を流せるようにしよう&バトルも曲にあわせたバトルバージョンを用意しで切り替えようなんで仕様がありました。用意する曲は10曲、つまりフィールド10曲バトル10曲合わせて20曲、自分で提案しておきながら無謀な曲数でした!やっぱり20曲なんてこの開発期間で出来るはずも 無く途中まで作っていたこのバトルを開発終盤になってアレンジを加えてボス戦にしました。ちなみにこの曲の対となっているフィールドの曲は『Deep Breath Deep Breath』です。bpmも調もこの2曲、同じなんですね~。
21 - ポロニアンモール
ショップの曲、『When The Moon's Reaching Out Stars』のアレンジです。川村ゆみさんのスキャット、カッコイイです···。
22 - tartarus_0d02
23 - 嫌な予感
学校登校時に会話で何かを示唆するようなちょっと雰囲気の違うときに流れる曲。開発終盤で学校登校時に生徒が深刻な会話をしてるのにいつもの明るい曲を流すのはマズいんじゃないか、ということになり急遽作られたこの曲、徹夜続きで異様に高いテンションの中、短時間で書いた記憶があります。
24 - Fearful Expiriance
怪しい雰囲気で流れる曲。
25 - Calamity
『Crisis』のさらに緊迫したバージョンの曲。魔剣Xでよく使っていたVirusというシンセサイザー、今回はプラグインバージョンのVirusIndigoに替えてみました。プラグインの方もなかなかで気に入っています。で、ハードウェアのVirusは某楽器店へドナドナされていきました···。
26 - 試驗中···
試験中で流れる曲。ここの曲はペルソナ3の中でもめずらしくフュージョン色の濃い曲だと思います。
27 - Adventured act:
我がまま言って1曲入れてもらいました。コンセプトは「本当にクラブでかかってそうな4つ打ちテクノ」です。一番初めのレインボー2000の頃、クラブミュージックが超イカシテいたころの感じを狙って作りました。曲名はクラブの名前の元となっているフランス語である「escapade」の英訳です。(宇田)
28 - Joy
開発初期にはコミュイベントはこの曲が流れっぱなしで、テスト段階とはいえなんだかハッピーすぎるコミュでしたが、最終的にはコミュ がレベルアップするイベントのときなど限定的な箇所でのみ流れるようにしました。こちらもサンプリングCDからボイスを切り出して、切って貼って切って貼って···。
29 - tartarus_0d03
30 - 深層心理
サントラの収録時にすっかり忘れていたこの曲。マスタリング前日に気付きました。ラブホテルのシーンで使われていますが、ゲーム的にこれマズいんじゃないですかね (笑)
31 - The Path is Open
入りがアヴェ • マリアに似ているこの曲、企画担当の木戸に普通にアヴェ • マリアと言われて気付きました···。パッドの音色はボイス系のものとサイン波に近いパッドの音とやや明るめのバッドの音の3つを重ねて太い音にしています。
32 - The Path Was Closed
ゲームオーバーの曲。ベルベットルームの一部をピアノで弾いてます。
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2023年7月22日
【新入荷・CD】
DEKISHI『CULT REMIX BY YUSAKU ARAI』(2023年)
価格:3,080円(税込)
All Songs Remixed by Yusaku Arai All Lyrics Written by DEKISHI Design by Kei Sakawaki Photograph by Motoyuki Daifu Special thanks:soakubeats
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身を切るような悲しみが 生きる実感をくれる 裏口から 追い出されたら 一人 途方にくれる 仲間 仲間 うるせーな あの日 あの夜 うるせーな 群れてやってくるインベーダー 俺はあいつらと違うんだ 「arechi」
みなにあわせ闘う振りする 街で君は明日無理をする 「skyline」
2020年にリリースされたsoakubeatsプロデュースによるDEKISHIのセカンドアルバム『CULT』を荒井優作がアルバムごと再構成してリミックス。配信なしの250部限定の特殊仕様のパッケージによってアルバムを立体的に再構築した『CULT REMIX BY YUSAKU ARAI』がリリース。
2018〜2019年に制作されたオリジナルアルバムでは、オリンピックに対する批判(「オリンピックがやってくる 何のためだか疑わしい オリンピックがやってくる 口にするのも汚らわしい」)がはっきりと明言されており、カルト資本主義とブラック企業が蔓延する曇った都市の情景が異様な密度の文字量と筆圧で描写されています。あらためて聴きかえすと、2020年末の時点では顕在化していなかった国家に巣食うカルト宗教の問題も予見しているようにも受けとれます。つまり、今なお現在進行形の未解決の言葉がここに存在しています。
オリジナルのトラップ/グライムの質感に、荒井優作のリミックスによって空間的な広がり・アンビエンスが加わり、DEKISHIのラップはアジテーション、独白、妄言、予言、宣誓、告解とも判断のつかない言葉の礫でありながら、商業施設の有線から流れていたとしても普通のJ-POPに聴こえかねない異相の域に到達しています。シリアスではあるものの悲壮感が希薄なのは「リビングレジェンド ツヨシクサナギ」のようなフレーズが唐突に挿入されるからか、あるいは「善良な一市民」と「樹木希林」で韻が踏まれているからか。いずれにしても、なぜこの音楽作品を書店で販売するのかというと、このCDには読解されるべき、共有されるべきテクストが記録されているという確信があるからです。
お前は全然いかれてない 俺も全然いかれてない 今月の振込を待ってる それはどっちも一緒みたい 「setsudan」
注意散漫引き起こすアプリ 足りないものを満たしてくサプリ 物質が俺のソウルを騙る 昼間 心を閉ざして黙る 「control」
インタビューで本人が語っているように、過酷な労働環境によって精神に変調をきたした時期に本アルバムは制作されています。
合法的かつ暴力的に人に長時間労働を強いる会社というシステム、社会からドロップアウトした人を機械的に幽閉する心療内科というシステム。ストリートの文脈を、本来は人びとが長時間関わるであろう会社や家庭に接続し、ブラックボックス化した密室に道路を敷設する本作は、少しでもレールから外れると容赦なく脱落させられていく社会において「裏口から追い出された」経験のある人すべてに捧げられるアルバムです。
一枚岩の世間という この上なく 不気味な幻影 もしかして あの人が 近くて遠い 他人の人生 あいつも立派なパラノイア ありもしない ものに怯えず 刮目せよ きっと助かる リアリティを取り戻せ 「dekishi dandy」
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『「10の足跡」アナログ盤リリース決定』
湯川潮音、7年ぶりのフルアルバム『10の足跡』待望のLP化決定!
(発売日変更のお知らせ : 3/2(木)発売予定でした本作の発売が、製作工程の都合により、3/22(水)発売となりました。何卒ご了承ください。)
前作『セロファンの空』以来、約7年ぶりとなる湯川潮音のフルアルバム『10の足跡』。アナログ盤が完全限定生産でP-VINE RECORDSより、発売されます!
それに伴い、LP発売記念インストアライブも予定されています。
発売日:2023年3月22日(水)
価格:定価:¥4,378(税抜¥3,980)
これまでには無���った“セルフプロデュース”の形がとられたこの作品には、信頼するミュージシャン達とアイディアを出し合い音を重ねながら、歳月をかけて作り上げられた10曲を収録。
ほとんどの曲が一発録りによる弾き語りをベースに積み上げられており、ヴァイオリン、チェロ、マンドリン、バンジョー、フルート、サックス、クラリネット、ファゴット、チューバ、リコーダー、ユーフォニウムといった多様な弦、管楽器によるアンサンブルが何とも美しく雄麗な世界観を彩っている。
タイトルには“10の人間を主人公にした物語”の意味が込められ、それぞれの曲の余韻が物語としても味わえる。
ジャケットアートワークもまた信頼するクリエーター達と共に制作されており、アルバムのコンセプトが落とし込まれた写真作品となっている。
収録曲
A1 ポーラ
A2 枯葉
A3 だれがつけただろう
A4 バースデイ
A5 あなたの国へ
B1 サン・テグジュペリ
B2 Jasmin
B3 語られない人のうた
B4 vincent
B5 風のうわさ
参加ミュージシャン:藤原マヒト、安宅浩司、ヤマカミヒトミ、高原久実、片山奈都実、村上咲依子、佐藤綾音、中田小弥香、ゴンドウトモヒコ、関島岳郎、maika(Meadow)
P-VINE RECORDS(株)Pヴァイン 商品情報ページ
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日本語の文章の可能性
日本語の文法構造上、文末の形が固定化しやすい。です、ますを使えばほとんどが「す」音で終わるし、過去が絡むと「た」音が並ぶことになる。それを単調と考えるのか、押韻のような美しさと考えるのかは感性の違いだ。 私自身は何も考えていないつもりだったが、これまで書いてきた文章を見ると、文末の音の繰り返しを避けている。繰り返しがいけないわけではない。ただ、変化をつけると文が書きやすい気がするのだ。ほとんど気のせいである。 日本語の文章は音韻的な単純さと引き換えに、表現方法、表記方法などが他言語と比較して可能性が高い。複雑なニュアンスも表しやすいのではないか。文章を書きながら、その可能性をもっと活用してもいいと考えている。
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Japanは日本(ジツポン)なのだから、当時は中国語由来だったかもしれないが、中国語は既に音韻が変化して今は一番日本語が近いので、これは結果的に日本人が一番由来を理解できる読み方なんだ。
[B! 歴史] スペイン人に滅ぼされ名前を奪われた南米国家の真の名前
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