#霊山寺バラ庭園
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kyotodreamtrips · 1 year ago
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Colourful Display of Roses at Ryosen-ji in Nakamachi, Nara Prefecture.
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metalone · 6 months ago
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霊山寺のバラ庭園。めっちゃ満開。 もちろん望叶様はいてない、消しゴムマジックではないw
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mikankurumii · 2 years ago
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詩  霊山寺の秋薔薇が咲いているとSNSで拝見したので行ってきました。朝露がキラキラして素敵でした。このピンクの薔薇の名前はココア、少しくすんだ色合いです。  今の子どもたちにも、思いやりや感動を大切にする心は、きっとたくさんあると信じています。  写真の4枚目は新月の夜にHさんとドライブして撮った星月夜。 真っ暗でなかなかカメラを三脚にセットできず、Hさんにライトで照らしてもらいました。ありがとうございました😊いつか天の川を撮るぞと心に誓った夜。  5、6枚目は中村佳穂ライブ。写真撮影OK、SNSならあげてもいいとのことで、携帯で撮影しました。開始3分で総立ちの盛り上がりっぷりに感動! #詩 #ポエム #poem #秋薔薇 #大切なものは #目に見えない #霊山寺バラ庭園 #わたしは奈良派 #写真 #プラスフォト #narajapan #ファインダー越しの私の世界 #星月夜 #新月の夜空 #始まりの時 #中村佳穂ライブ #フェスティバルホール #総立ちで拍手 https://www.instagram.com/p/CkidhIkvDNY/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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yomiya · 2 years ago
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奈良市の霊山寺に行ってきました! #奈良 #奈良県 #霊山寺 #霊山寺バラ園 #霊山寺バラ庭園 #霊山寺のバラ #花 #バラ #バラ園 #薔薇 #flowers #rose #japan #nara https://www.instagram.com/p/CeH-RDpvdxa/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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kachoushi · 3 years ago
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各地句会報
花鳥誌 令和3年8月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
……………………………………………………………… 令和3年5月1日 零の会 坊城俊樹選 特選句
海までの二キロを歩く五月かな 小鳥 母の日やわたしのなれなかつたわたし 公世 絶海へ日覆のなき舟を出す 光子 海を見て海を触れずに行く春を いづみ 南風のつまづきやすき摩天楼 悠紀子 徒労でしたあれは蜃楼でした 光子 白南風やアンチテーゼの一行詩 同  棒となり水著の母の佇める 順子 絢爛に罠を編みあげ蜘蛛をらず 同  さまよへるオランダ人と夏至白夜 公世 海の向かうこんなに遠き五月かな 美紀 昭和の日池袋演芸場休む 公世 まどろみのたつぷりとして藤の昼 美紀 知盛の飛び込みし海大南風 佑天 糸遊を置き去りにして小海線 要   凱風といふ柔らかな南風 佑天 夏蝶の急に曲がりて倉庫街 小鳥
岡田順子選 特選句
絶海へ日覆のなき舟を出す 光子 海を見て海を触れずに行く春を いづみ 持ち上げて放つ扉や夏の海 和子 山藤の貴きをさげて村の口 慶月 葉桜の蔭の娘は誰とゐる 三郎 大百科ありし空間昭和の日 眞理子 胎内の記憶は春の波の音 きみよ 真つ白に夜を濁して南風の吹く いづみ 海亀消えし夜は上弦の海原 瑠璃 惑星に南風吹かば月に海 いづみ
(順不同特選句のみ掲載) ……………………………………………………………… 
令和3年5月6日 うづら三日の月 坊城俊樹選 特選句
友訪へば無人の駅に遠蛙 由季子 田植ゑすみ腰掛語る畦の端 さとみ 朴の花一風ごとに散華せる 都   雲水の衿足青し寺薄暑 同 
(順不同特選句のみ掲載) ……………………………………………………………… 
令和3年5月6日 花鳥さヾれ会 坊城俊樹選 特選句
花月夜名残の花の散ること��� 雪   此の路地も海へ出る路地春日傘 同  後手を組みて即ち春惜しむ 同  卯波寄す礁に白き飛沫立て かづを 風棲める東尋坊に卯波打つ 同  楊貴妃かクレオパトラか牡丹散る 清女 山車見上げほろ酔ふ爺の茶碗酒 千代子 夏のれんかけて母者の独り言 雪子
(順不同特選句のみ掲載) ……………………………………………………………… 
令和3年5月8日 札幌花鳥会 坊城俊樹選 特選句
若葉風ポプラは広き空を持ち 寛子 街抜けてただただ碧き初夏の海 のりこ 烏賊の墨手に受け流す釣師かな 岬月 一夜干す烏賊に対馬の海明かり 同  郷愁や草笛濡れて届かざる 同  大漁や城の桜に迎へらる 雅春
(順不同特選句のみ掲載) ……………………………………………………………… 
令和3年5月10日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
金盞花こんなに咲かせ晴女 一枝 人のなき遮断機炎天下に下りる 世詩明 新茶古茶口述筆記してゐたり 同  琵琶湖辺の古き灯台亀鳴けり 三四郎 内緒事しまひきれずにソーダ水 上嶋昭子 鐘を撞く牡丹かすかに揺れにけり 中山昭子 妖精の生まれさうな緋の牡丹 信子 葉桜になりて堤防静かなり 錦子 何時も何時も待つばかりでは春日傘 上嶋昭子 更衣羽化して少女立つてをり 同  時止まる一部屋のあり竹の秋 同  囀や椨の大樹に祠あり 中山昭子 カーネーション捧げる母は車椅子 すみ枝 噴水にまつさらな朝来てをりぬ 上嶋昭子 田植機の揺らぎて入る重さかな みす枝
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年5月10日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
こんなにも美しき花とは姫女苑 和魚 切り口の虹色滲む初鰹 美貴 品書きの達筆跳ねる初鰹 同  夏場所も横綱不在なる軽さ 秋尚 海の色残して光る初鰹 同  逆上がりあともう少し姫女菀 美貴 江戸つ子の思ひは知らず初鰹 和魚 土匂ふ雨の急坂姫女菀 美貴
(順不同特選句のみ掲載) ……………………………………………………………… 
令和3年5月11日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
厨には筍茹でる鍋滾り あけみ 白靴や盲の人の朗らかに 登美子 朝の声風を動かし燕飛ぶ 光子 赤色のつつじばかりが植ゑられて 紀子 花の塵籠めてお濠を染め上げる 同  はつなつや浜大根と海風と みえこ ぢいちやんの筍の山地図に無く 登美子
(順不同特選句のみ掲載) ……………………………………………………………… 
令和3年5月11日 萩花句会
山法師思ひ出重ねし旅カバン 祐子 初鰹薬味談議で盃重ね 美恵子 時の花ドラマで咲かせ橋田散る 健雄 柏餅ほどの重さの命かな 吉之 読み物の上で遊ぶや柿若葉 陽子 思ひ出の夏のゲレンデひとり佇つ ゆかり コロナ禍も堂々帰省夏燕 明子 初鰹土佐の女将と差しで飲む 克弘
……………………………………………………………… 
令和3年5月12日 立待花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
生ビール奢りし男前に酔ふ 世詩明 母の日や般若の面の美術館 ただし 里山の夏軍馬の碑偉人の碑 清女 玄関の梁に田舟や夏来る 誠   みどり児の五指のきらめき若楓 秋子 縦の物横にして生き菜種梅雨 同  それぞれの香りほのかに芽吹きけり 同 
(順不同特選句のみ掲載) ……………………………………………………………… 
令和3年5月14日 芦原花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
翻る開店の旗若葉風 よみ子 夏落葉目鼻薄れし道祖神 同  ひとしきり騒ぐ鴉や梅雨兆す 同 
(順不同特選句のみ掲載) ……………………………………………………………… 
令和3年5月14日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
更衣マリア地蔵の赤子とて 都   斎場の窓に縋りて夏の蝶 悦子 母の日の鏡台在りし四畳半 宇太郎 疫病を恐れ家居の草を引く 和子 海芋剪り白の陰影活けにけり 史子 灯籠にクルスの黙示卯浪立つ 都   湯屋跡の煙突射止め夏の月 悦子
(順不同特選句のみ掲載) ……………………………………………………………… 
令和3年5月16日 伊藤柏翠俳句記念館 坊城俊樹選 特選句
遠蛙孫より長き便りかな かづを 鯉幟胴復さけて裏返り ただし B 面ももうあと少し白牡丹 すみ枝 若楓暗き狭庭を明るうす 芙美子 新緑に吐く息までもみどりめく 輝子 素十句集読み耽りたる大朝寝 清女 此の花も散る為咲きし白牡丹 富子 香水を匂はす女名告待つ 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ……………………………………………………………… 
令和3年5月16日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
風に消えまた風と来て句碑の蝶 三無 紫陽花や観音の指濡れたまひ 佑天 薔薇園へフランス人形抱き来り 千種 出会ひたる薔薇の門より伊予ことば 幸子 蛇出でて狭庭の遠くなりにけり 芙佐子 朴の花一つ一つに仏乗せ 三無 園薄暑裸婦像バラをにぎりしめ 千種
栗林圭魚選 特選句
鳴り終る校舎のチャイム桐の花 ゆう子 開け放つ蕎麦屋の廊下若楓 久子 うたてしき日々は語らず二重虹 炳子 からたちの花の香仄か朝月夜 同  天道虫指で弾きて翔たせけり 同  鯉幟当主の腕に横たはる 久子 吊橋も木霊もゆらし若葉風 眞理子 城址へと玉巻く葛を払ひつつ 炳子 朴の花一つ一つに仏乗せ 三無
(順不同特選句のみ掲載) ……………………………………………………………… 
令和3年5月19日 福井花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
落城の今に残せし杜若 世詩明 大空やひふみよ数ふ鯉幟 千加江 薔薇の散り橋田壽賀子も散りゆきぬ 令子 いたづらに爪染めてみる日焼けの子 清女 手拭の喧嘩結びや夏祭 泰俊 寺遅日今に黒髪物語 雪   蝶飛べる影を見てゐて蝶を見ず 同 
(順不同特選句のみ掲載) ……………………………………………………………… 
令和3年5月21日 鯖江花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
春愁や今となりてはどちらでも 雪   話すまで聞かずと決めて花菜漬 上嶋昭子 古浴衣ぺたんと座る板だたみ 同  サンドレス一つ大きなサイズ買ふ 同  電灯の笠に守宮や駅舎旧る 同  父祖百年棚田はいまも田植衆 一涓 更衣夫の祈りは深かりし 洋子 代田掻く高き鉄塔揺れてをり みす枝 鐘を撞く薫風に乗り山里へ 中山昭子 朱の傘に雨を弾きて牡丹寺 同  新緑に翅休ませて去りにけり 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ……………………………………………………………… 
九州花鳥会  坊城俊樹選 特選句
道草や指より発ちぬ天道虫 孝子 飛魚の跳んで深海波立たす 喜和 飛魚の鳥でありたるころの夢 桂   天牛のぎいと写楽の寄り目かな 伸子 蛇苺裏切り者の匂ひせり 美穂 鯨尺は母の物指し鳥曇り 喜和 指きりの遠き記憶や陽炎に 光子 新樹照る重たきほどの葉をつけて 睦子 いまだなほ指先にある春愁ひ 光子 玄海を航くや飛魚従へり 佐和 昔日を蜘蛛の網より覗きみて かおり また二つ別れを惜しむ柿の花 さえこ いちにちの過ぎるはやさに夕焼けて 佐和 飛魚の先へ先へと壱岐航路 光子
(順不同特選句のみ掲載) ……………………………………………………………… 
枡形句会 栗林圭魚選 特選句
大寺の甍煌めく朴の花 文英 源流の山葵の花を少し噛み 美枝子 緑濃き葉に包まれて売らる蕗 三無 夏めくや街路樹高く風渡り 秋尚 蕗浸し仄と香のある夜の厨 百合子 閼伽桶に若葉明かりの水満たす 三無 磨かれし匙触るる音夏めきぬ ゆう子 花蜜柑島に嫁ぎて二児の母 美枝子
(順不同特選句のみ掲載) ……………………………………………………………… 
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oniwastagram · 5 years ago
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\おにわさん更新情報📸/ ‪[ 宮城県松島町 ] 円通院庭園 Entsuin Temple Garden, Matsushima, Miyagi の写真・記事を更新しました。 ――伊達家の江戸屋敷から移築された #小堀遠州 作庭の池泉観賞式庭園と松島を表現した #枯山水庭園 。国重文『三慧殿』も。 ・・・・・・・・ GWに足を運んだ東北の庭園も少しずつ更新していきます! 円通院は国宝寺院「瑞巌寺」に隣接する、仙台藩主 #伊達家 ゆかりの寺院。松島観光🏝で寄られたことがある方も多いと思うのですが、2019年のGWに5年ぶりに訪れました! (松島海岸は2年に1度ぐらい行っている気がしますが、円通院はもう2回訪れていたので――最近行ってなかったけど、載せている写真が古かったので今回再訪) 伊達政宗🌙の嫡孫 #伊達光宗 の菩提寺。19歳という若さで亡くなった光宗の菩提を弔うため、#仙台藩 二代目藩主 #伊達忠宗 によって建立されました。 その際に作られ現在も境内の奥地にある「三慧殿(圓通院霊屋)」は江戸時代初期の建造物として #国指定重要文化財 となっています。 その内部にある厨子には洋バラ🥀やスペード、ハートなどのトランプの模様など西洋的な模様が描かれているそう。 これは伊達政宗が主導した慶長遣欧使節でヨーロッパに渡った #支倉常長 が持ち帰ったバラや遠征先の文化が取り入れられ、このようなデザインになった――と伝わります。 またこのデザインをヒントに、後年の円通院のご住職が境内にバラを主体とした「白華峰西洋の庭」を作庭し、それ以降は“バラ寺”🌹としても知られた――そうですが、今まで訪れた3度ともバラが見頃の時期ではなかったのでそれ以外の庭園を主に紹介。 受付を済ませ山門をくぐるとすぐに左手に枯山水庭園『雲外天地の庭』があります。 「天の庭」「地の庭」で構成され、「天の庭」は松島湾🌊に実在する七福神の島を現したもので、松島湾を白砂で、島々を石で、海岸を囲む山々を苔の築山で表されています。 茅葺屋根の本堂「大悲亭」の前にある心字池を中心とした池泉鑑賞式庭園は、小堀遠州が伊達家の江戸屋敷に作庭した庭園を移築・再現したものとされます。 また「大悲亭」は山門とともに江戸時代初期の伊達光宗ゆかりの建造物であり、光宗の早逝後に伊達忠宗によって移築されたもの。#松島町指定文化財 。 境内を奥に進んだ先、国重文「三慧殿」の周囲にある杉林🌲の自然を活かした岩と苔の庭が『禅林瞑想の庭』。 これまであまり意識して見てなかったけど、美しい苔庭です🌿 また円通院は紅葉の名所でもあり。今回訪れた時期も新緑のモミジが美しかったけど、秋にはライトアップも開催され境内が紅色に染まるそう。いつか秋の紅葉の時期に訪れてみたいな! 〜〜〜〜〜〜〜〜 ‪🔗おにわさん記事URL:‬ https://oniwa.garden/entsuin-temple-garden-%E5%86%86%E9%80%9A%E9%99%A2%E5%BA%AD%E5%9C%92/ ーーーーーーーー ‪#庭園 #日本庭園 #garden #japanesegarden #japanesegardens #zengarden #宮城 #宮城県 #miyagi #松島 #松島海岸 #松島町 #matsushima #東北 #tohoku #tohokutrip #寺院 #寺社仏閣 #temple #枯山水 #karesansui #rockgarden #おにわさん‬ (Entsuin Sankaiden) https://www.instagram.com/p/BydHQU4gF8b/?igshid=1ncmlv7fzb5ol
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jilakanto-blog · 7 years ago
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里見公園(千葉県市川市)
関東地域のランドスケープ遺産の紹介の第一稿として千葉県市川市の里見公園を取り上げたい。この公園は、江戸期の名所の系譜を引き継ぐ公園と位置づけられるが、ひとまず下総台地の際の河岸段丘上にあり、眼下に江戸川を見下ろすという立地を示すことによって、ランドスケープ遺産としての一定の関心を得られるのではと考える。
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里見公園のランドスケープ遺産としての特質は、様々な価値を持つ空間が体験可能な点であって、それが公園とされているところにあると考えるが、まずは名所としての成立の過程をいくばくかの推論も交えてみていきたい。
 里見公園の一帯は、例えば歌川広重の『名所江戸八景』においては「鴻之台とね川風景」として、『冨士三十六景』においては「鴻之台とね川(こうのだいとねがわ)」として現れる。
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近~中景に利根川(現江戸川)と農村が、遠景に富士山が描かれるように、江戸を眼下に収める視点であったことが分かる。また、松がデフォルメされた崖の上に描かれている。実際、1960年代頃まではシ��ボリックな「物見の松」が存在していたように、江戸川対岸からの視対象としての位置づけもあったと考えられる。このように、視点と視対象の双方を兼ねる名所であったといえよう。
『江戸名所図会』においても「国府台断岸之図」「国府台 総寧寺」「国府台 古戦場跡」として里見公園含む一帯の地が取り上げられているが、ここからはやや込み入った経緯に立ち入らざるを得ない。
 ここで示される古戦とは、16世紀に里見氏・後北条氏の間において2度にわたった国府台合戦といわれるものであり、「昭和 33 年、市川市はこの由緒ある古戦場を記念するために、一般の人々の憩いの場として里見公園を開設しました」と紹介されるよう、合戦とその舞台である国府台城が里見公園の設立の契機である。河川そばの高台という、周囲を“見る”にふさわしい要衝という立地が国府台城を築城させ、さらに合戦の場とさせたのであろう。国府台城自体は1479(文明11)年に太田道灌・資忠に築城されたものであるが、土塁の跡など現在もその痕跡を見ることができる。明戸古墳の石棺はこの築城の際に露出したものとされるほか、国府台城の縄張り自体が、明戸古墳を利用しており、歴史のレイヤーを体感できる場所でもある。
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国府台合戦は2度とも後北条氏の勝利に終わり、徳川家康の関東入府に伴い、江戸俯瞰の地であることから廃城とされた。河川のほとりの高台という“見る”ことのできる要衝ゆえの措置である。その後、江戸幕府は1663年に関東僧録司に任命される格式を持つ総寧寺をこの地に移転させる。関東僧録司は端的に解釈すれば、江戸幕府の統治のツールの1つである。江戸を見るという場所に重要な寺院を配置するという意図を汲んでもよいと思われ、“見る”ことがこうした措置を生み出しているのであろう。
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さて、公園の名称でもある里見氏とのゆかりが思い出されるのは、19世紀まで下らねばならない。1829(文正12)年になってようやく里見諸士群亡塚、里見諸将群霊墓、里見広次公廟が建てられているのであるが、この突然の関心の背景には滝沢馬琴の「南���里見八犬伝」があるものと推察される。国府台はこの物語のクライマックスの舞台の1つなのであるが、史実とは異なり、物語の中では里見軍は勝利を収めている。訪れる人々は何を見たのであろうか。その“まなざし”は気になるところである。
 おおよそ以上の経緯により、里見公園の地は江戸近郊の名所として成立したと思われるが、そこには地形が生み出した“見る”ということが通底していたように思われる。「情報として見る」「実景を見る」「イメージを見る」など性質の違いがあり、時代や文化の中でそのまなざしが形成されていったといえよう。名所としての系譜は近代においても続き、1922年には里見八景園という遊園地があり、今も園内にはその庭園の名残が残されている(写真の滝組や橋など)。都市公園となっている現在は、約200本のソメイヨシノが植えられた地域の花見の場であり、2003年には市川市制70周年を記念してバラ園が設置されたように、市川市のフラッグシップ公園の1つでもある。
 最後になるが里見公園とは、公園というものを再考させてくれる良い事例である。というのも、この公園は地域の歴史を記念するために設置されているのであるが、この際、公園は受け皿としての役割を求められている。江戸期の名所の系譜を継ぐ景勝地であり人々のレクリエーションの舞台であったことを背景にしつつ、地域の歴史を市民が体験・共有出来るという場とするために選ばれたのが公園という制度である。一方、その受け皿も形を持っているようである。バラ園が設置されるなど都市公園化が進み、土塁なども静的な保全がされているわけでなくBBQの場となっており、器に合わせて空間も形を変えている。歴史にフォーカスを合わせるにしても、1000年を越える時間軸の中で過去を幻視するにもなかなか焦点が合わせづらい。実際の操作・保全という立場なるとそれは増幅されそうであるが、それもまた公園の面白みであるようにも思える。とはいえ、里見公園からの眺めの実景自体は変化しており、点景ではあるが重要な風景要素であった舟を見ることはできない。また、”見る”、あるいは”見下ろす”価値の相対的な低下がある中で、里見公園は”見る”名所の現代的価値を再考すべき事例でもあろうと思われる。
 余談ではあるが、この地が里見公園と称されたのは、市川市の公園指定より古い。里見八景園の設置以前にもこの地が「里見公園」と認識されていたことが、1924年4月14日の朝日新聞から分かる。「公園」という用語が誰もが立ち入れる「景勝地」として理解されていた証左のようにも思える。また、1925年4月25日の読売新聞では、里見八景園が通行料を取ることに批判的な意見が載せられている。これらには公園という認識を巡る諸相が垣間見え、それらを明らかにする公園史の拡充が望まれるように思われ、ランドスケープ遺産もその一環となることが期待されているのだろう。(東京大学大学院農学生命科学研究科附属演習林 水内佑輔)  
参考
市川市役所(1935):市川市要覧:房総日日新聞社
1924年4月14日:朝日新聞
1925年4月25日:読売新聞
http://www.city.ichikawa.lg.jp/gre04/1111000001.html
http://www.city.funabashi.lg.jp/shisetsu/toshokankominkan/0001/0005/0002/fukeiga7.html
http://www.museum.pref.yamanashi.jp/4th_fujisan/03fuji/4th_fujisan_03fuji_11.htm
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howwelldoyouknowyourmoon · 7 years ago
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「六マリアの悲劇」  第五章   再臨メシアの正体
「六マリアの悲劇   真のサタンは、文鮮明だ!!」
“The Tragedy of the Six Marys  – the real Satan is Sun Myung Moon!!” Chapter 5.   The True Face of the ‘Messiah of the Second Coming’
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当時の六マリアの一人、李英玉*(左)と食事中の文鮮明(1960年頃、青坡洞教会)
P.174
原理と実践の矛盾
私の手記は真実の記録
 私は、興南収容所で、文鮮明を知り、一年六か月間を一緒に生活した。六・二五動乱(朝鮮戦争)で出獄した彼と二か月間にわたって南へ避難し、平壌から、ソウル、釜山まで来た。しばらくの間、私は慶州にいて、文鮮明は釜山にいた。
 彼と再び合流してからも、この世の中の創造の歴史と、堕落の原因、そして、この世の中を復帰させ、神様が求めた清い世の中の創造目的どおりに戻す原理を聞かされた。
 原理の主人公である再臨メシア、真の父母の名のもと統一協会は、今や世界百数十か国に広まっている。真のお母様であるエバになるということで一人を選択し、「小羊の儀式」(正式な結婚)を行なって、十一人もの子どもを産ませた。そして、その一番目の息子をお父様・文鮮明の後継者にしようとする世襲体制が作られようとしている。
 文鮮明は、各国の学者などによってたくさん紹介された。彼を偉大な人物として尊敬しているような本もある。私はそういう本はほとんど読んだが、それらの本は、文鮮明が今まで、その目的と実践をどういう経過でやってきたのかについては、具体的に触れていない。ただ、現象的に表われたことだけを書いた、上っ面だけの内容だった。そうした本に書かれている内容について、私は批判するつもりもない。
 ただ、私が本書に書いてきたことは、文鮮明と一緒にいながら、直接話を聞き行動してきた事実を、ありのままに記録したものであり、真実でないことは一つも加えていないことを、ここで責任を持って断言しておきたい。
 文鮮明が興南収容所で、時間があれば私に話していた「原理」は、釜山水晶洞教会で原稿として書きあげられた。これが「原理原本」である(注=これは紙に鉛筆で書いたもので、これを大邱に来ていた鄭先玉*が保管しており、私が捿鎮鉱山にいたとき朴愛子が持ってきてくれた。そのとき私がノートに写したものを、今も持っている)。
 この「原理原本」をもとにして、頭脳抜群の劉孝元が「原理解説」を書いた。そして、この「原理原本」と「原理解説」が統一協会の基礎になり、文鮮明が世界の百数十か国に進出するに至る基礎となったのである。
 この「原理原本」と「原理解説」を全部引用することはできないので、とりあえず目次だけを資料として記録しておこう(巻末資料参照)。
何も知らない信者たち   176
 しかし、この原理解説には、その原理と実践とが矛盾するところがあるので、重要なポイントを何項目か指摘しておこう。
 どこの国でも、その歴史の始まりには神話がある。わが韓国や朝鮮半島には「壇君」をはじめとする建国の神話がある。日本には「天照大神」があり、中国には「徳王兄弟十一人」などがある。
 しかし、私が従ってきた文鮮明は、一国の国祖ではなく、世界の再臨メシアだと言う。いまま でたくさん出版された本のなかには、文鮮明を救世主だと書いたものもある。文鮮明は、世の中を救うために世界を統一しようと主張しているが、私が信じてきた「再臨メシア」は、だんだん その姿が大きくなっていくにつれ、その原理と実践がだんだん相反していっているような気がしてならない。二千年前、十字架の上で死んでいったイエスとは、あまりにも差がある。
 文鮮明は第三のアダム、真の父母として、統一協会の食口はもちろん、世界じゅうの人びとか ら祀られ、百数十か国に広まっている。しかし、食口と呼ばれる統一協会の信者になっても、サタンの世の中で生活していたときと、生活が変わったところはまったくない。むしろ悪くなったり、悲業の死をとげた人もいる。私は、そのことにずっと疑問を抱いてきた。
 たくさんある統一協会関係の出版物のなかで、実際に私が読んだものには、統一協会はこういう輪郭の教会であり、その教祖である文鮮明は原理という教義に出てくる再臨メシアである、という程度の表面的なことしか���かれていない。
 したがって問題は、文鮮明がどれだけ、再臨メシアとしての役割を果たしているのか、救世主としてこの世の中を救っているのか、ということになってくる。ところが素顔の文鮮明は、今日までたくさんの人びとを犠牲にし、これからもずっと犠牲にしつづけようとしているので、これ以上もう黙って見ていられないと思い、本書を書くことにしたのである。
 何も知らない統一協会の食口たちは今も、世界百数十か国から、文鮮明を真のお父様と思い、韓鶴子を真のお母様と呼びながら、この世界が統一されることを毎日のように祈っている状況なのだ。
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                                                    結婚前の韓鶴子
 私も、文鮮明が本当の再臨メシアになって、この世の中を救ってくれることを待っている食口の一人だった。しかし、もし文鮮明が再臨メシアではなく、「ヨハネ黙示録二〇章」に書かれているとおりだったら、そのことをどう考えればよいのかわからない。また、文鮮明が再臨メシアであるなら、真の新婦と「小羊の儀式」をあげ、真の父母になって十一人の子どもを生んでいるが、どうして真の父母から生まれた子どもが二人も死んでしまったのか。また他の女に生ませて入籍した三人のうち、一人も事故で死んだ。
 「ヨハネ黙示録二一章四節」には、
 「人の目から涙を全く拭いとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。
先のものが、すでに過ぎ去ったからである」と書いてある。
 文鮮明が再臨メシアなら、復帰原理のとおり「小羊の儀式」を行ない、この世界のすべてを解放する日にちまで決めていたにもかかわらず、どうしてこの世の中はそのままなのだろうか。原罪のもとを全部なくし、復帰の儀式を経て、真の父母になったはずなのに、どうしてそこから生まれた若い子孫が死んでいくのか。また、その子孫のなかには、恥ずかしいスキャンダルを起こし、いやな噂までたてられる者もいる。
 私は、文鮮明が原理を通じて、何をどういうふうにやってきたか、原理どおりに実践していたのか、などについて明らかにしたい。文鮮明の将来は、神様だけが決定できる問題である。私はただ、文鮮明が発表した原理にもとづき、その原理を実践する過程で一緒に暮らしていたときの事実について書いてみょうと思う
文鮮明がなぜメシア?   179
 ここで、もう一度文鮮明の原理を復習しておこう。
【創造原理】―― 神様が宇宙を創造し、土で人を作り、その鼻に息を吹き入れ、人間になった。
その名をアダムと呼び、エデンの園に置き、アダムが独りでいるのが寂しく見えたので、彼が寝ているうちにその肋骨を一本とり、女の人を作った。その名をエバといい、アダムと一緒に、エデンの園のすべてのものを、世の中すべてを支配するようにした。園にある木の実は何でも採っ��食べてよいが、園の真ん中にある木の実だけは絶対に食べてはいけないと、神様は二人に命令した。そして、それを採って食べると生命を失うと警告した。
【創造原理】―― エバが成熟したあと、形のない神が形のあるアダムの体に臨在し、エバと一緒に愛しあって、すなわちセックスをして、夫婦の縁を結ぶことにより、そこから生まれてくる罪のない子によって、子孫が繁栄するようにしようとした。しかし、神の意向を知ってしまった天使長ルーシェルが、まだ成熟していないエバを誘惑してセックスをしてしまった。また、エバにアダムともセックスをさせることになり、これが堕落の原因となった。
【創造原理】―― このように成熟していないときに、エバが天使長ルーシェルとセックスをしたことによって、人間が堕落していくことになるのだ。そのとき、エバとアダムが木の実を採って食べたのなら、罪を犯した口を隠すはずなのに、神様の前で二人は、恥ずかしくて無花果の葉で下腹部を隠したので、セックスをしたに違いないということである。いまも人間は、身体に傷ができるとそれを隠そうとするのが普通で、男と女がセックスをしたときに「女の人を取って食べた」という表現をする。
―― こういうふうに人間が堕落しだのをどう復帰するのか、ということが問題になる。エバにサタンの血が注ぎ込まれたことによって、アダムとエバはエデンの園から追い出され、アダムは一生汗を流し、土を掘って労働しなければ生きていけないことになり、エバは子どもを産む苦労をしなければならないことになった。
―― その後、アダムとエバは二人の息子をもったが、この二人が人間の始祖になった。カインがその弟であるアベルを殺したので、これが宇宙のなかで最初の罪になり、サタンの世の中に変わることになったのである。
 それでは、どういうふうに復帰すれば、この世の中はきれいになるのだろう。ここで文鮮明は、この復帰の実践をするために、たくさんの障害を乗り越えてきた。彼のその原理と実践は次のようである。
―― 復帰を説明すると、エバが成熟していないときに天使長ルーシェルがセックスをしてエバの貞操を奪い取ったため、この罪悪を浄めるために復帰をしなければならない。その復帰を実現するには、まず神様と同じような汚れていない人が現われ、ルーシェルから貞操を奪い取られたエバのような女の人と、ルーシェルがエバとセックスしたのと同じように、この二人がセックスをすることが必要になる。
―― そして、ルーシェルはエバの上に乗ってセックスをしたので、いまこのサタンの世の中でも同じように、男の人が上に乗ってセックスをすることが普通になっている。したがって、復帰するときには、男が下になり、女が上に乗ってセックスをしなければならない。
というわけで文鮮明は、このような体位で復帰の実践を続けている。神様と同格で復帰ができる人は、言うまでもなく文鮮明だと、原理では断定している。
 それでは、文鮮明はなぜ罪のない神様と同格の立場に立ち、復帰させることができるのだろうか。文鮮明がこのサタンの世の中で、ごく平凡な家庭に生まれてきたことから考えると、どうしても納得いかないことである。これに関しては、どれ一つとして納得できる部分はない。もう一度考えてみる必要があると思う。
 私は興南の収容所で、一年六か月間を文鮮明と一緒に過ごした。この収容所での一年六か月間は、外の生活の十六年分ぐらいの期間だと、お互いに話し合ってい��。そのとき彼に聞いた��である。
 文鮮明が十五歳のとき(一九三五年)、復活節の前の晩、イエスが夢の中に現われ、イエスが達成しようとしたことをできないまま、十字架に掛けられて死んでしまったので、あなたが私の代わりにその使命を果たして欲しい、と言ったそうだ。文鮮明も最初は遠慮していたが、何回も頼まれたので受け入れたという。
 このイエスから頼まれたこととは、のちに原理で言う復帰の実践であり、セックスをすることである。こういうことが実際にあったのかどうかは、本人しか知らない話なのでわからない。しかし、の世の中には、イエスの夢を見たという人は世界じゅうに大勢いるはずだし、夢の中のお告げによるイエスの話なるものが、このとんでもないセックス復帰の理由になりうるのか、どうしても納得できない。
丁得恩との不思議な関係   182
 一九五五年(昭和三〇年)七月四日、文鮮明らが逮捕され、中部警察署の留置場に収監されたとき、平壌時代の丁得恩が訪ねてきて、私に彼女の家まで来て欲しいと言った(注=このおばさんもまた不思議な存在なので、少し長くなるが注意して読んでほしい)。私もちょうどその当時、文鮮明の平壌時代について話を聞きたくて、金鍾和を捜していたところだったので、丁得恩が住んでいる家まで一緒に行くことにした。
 五十歳になる丁得恩は、元暁路三街に小さな家を借りて暮らしていた。ここで一週間を一緒に過ごした。そして、文鮮明がソウルから平壌に到着したあとの、丁得恩との神秘? に包まれた生活を聞くことになった。
 丁得恩は、北の平安北道で一時期盛んになっていた李龍道牧師、黄国朱とは全然関係がなく腹中教とも関係はなかった。ただキリスト教を信じていたのだが、一九四六年六月六日、天からお告げを受けたという。その内容は、
 「今、三八度線を越えて一人の青年が、カバンーつ背負って平壌に向かっている。その青年は、神様が大事な役目を託し、この世の中に送った人である」
ということだった。そして、その人が平壌に向かっているので、「出かけていって、その人を迎えてあげなければならない」と言われたそうだ。
 丁得恩はとりあえず、南の方へ探しに行ったところ、寺洞という所で、ボロい服を着てリュックサック一つ背負った青年が、こっちに向かって来た。それが文鮮明(当時は文龍明)だった。
丁得恩は彼の前に行き、おじぎをしたあと、自分の家に案内した。丁得恩の自宅は萬寿台のふもとにあった。
 文鮮明を案内してきた丁得恩は、自分が神様のお告げを受けたこと、先生が来るのを知り迎えに行ったことを説明した。さらに丁得恩は、自分が神から「聖母」として認められたので、文鮮明とセックスをすれば、文鮮明は神様と同格の立場になり、堕落した夫婦の立場にある女の人たちを復帰させることができるようになる、と話した。そして、文鮮明が下になり、丁得恩はその上に乗って、蘇生、長成、完成の三回のセックスを行なった。この復帰の実践の公式と方法は、まる��文鮮明の原理と同じだ。
 聖母マリアの代わりに、聖なる丁得恩と復帰したことによって、文鮮明は、完全なる神のように罪のない人間になり、エデンの園にいたエバを取り戻す復帰の資格ができた、ということだった。丁得恩は夢の中で神様とセックスをしたので、自分は「聖母」だと言う。
 あまりにもうまく出来過ぎた話だが、文鮮明の片腕の立場にあった当時の私は、ただ驚くばかりで感動していた。しかし今、もう一度冷静に考えてみると、創造・堕落・復帰の原理も固まっていないときに、原理も知らず、文鮮明とは初対面の丁得恩が、こんな儀式のようなセックスをしたとはどうしても考えられない。
 前後の事情から二人に肉体関係はあったようだが、どうやら後からコジつけた作り話だと、今の私は信じている。その理由の一つに、平壌へ行った頃の文鮮明の行状が、原理を無視したメチャクチャなものだったことがある。生活安定のために必死だったかもしれないが、当時の(後でもそうだが)彼の武器は、未完成の怪しげな原理論と、それに惑わされて集まってくる女たちへのセックス攻撃しかなかったのではないか。百歩譲って、もしそれが本当なら、統一協会の印刷物は、なぜこの「丁得恩の大奇跡」のことを、一行も書かないのだろうか。
逮捕も当然のセックス布教   184
 平壌時代の話を続けよう。この後、文鮮明は羅崔変の家に移り、次には、景昌里にある鄭明先・金鍾和夫婦の家に行き、そこで礼拝をあげるようになった。すでにセックスの関係があった池承道、玉相賢*などとの様々な葛藤があって、丁得恩は独立し、他の信者を集めて礼拝をあげていた。
 またここで、いろんな問題が生じてきた。その内容は、女の信者たちがそれぞれに文鮮明とセックスしていたので、お互いに「自分こそが文鮮明を生んだ(霊力でこの世に生んだ)聖なる母親だ」という主張が飛び交っていたのである。要するに、信者である女たちが文鮮明とセックスすることによって、文鮮明に復帰する資格が与えられた、ということだ。
 既述したことだが、その後の文鮮明は、金鍾和の家で夫の鄭明先と子どもがいるにもかかわらず、人妻の金鍾和と同棲をした。そして何を思ったのかその人妻と「小羊の儀式」を口実に結婚する騒ぎになり、警察に逮捕されて、社会秩序紊乱乱罪で懲役五年を宣告され、興南刑務所で服役することになった。そこで文鮮明は私と一緒に生活していたのだが、このことに関して、統一協会の出版物ではこう書いている。
 「何の罪もない文鮮明先生が服役させられた。その原因は、既成キリスト教団の嫉視と共産党の宗教抹殺政策によって内務省に拘束され、公判で五年の刑を受けた」
 これがまったくの嘘であることは、読者にはご理解頂けると思う。当時共産党が実際に宗教抹殺政策を行なっていたなら、″既成キリスト教団が嫉視”する余裕などあるはずがない。そして、玉相賢女史の夫である禹夏変はその頃、平壌・将台現教会の信望ある長老だった
 また、この三か月前の一九四六年八月にも、文鮮明は北朝鮮の警察に逮捕され、三か月後にやっと釈放されている。統一協会はこれも、「原因は信徒を奪われた牧師たちの反感と嫉妬で訴えられた」としているが、同じく目にあまるセックス布教の結果であった。
 私はこの本で、南の韓国(釜山、大邱、ソウル)を中心に文鮮明とともに歩んだ足跡と出来事を書いて来たが、文鮮明はすでに平壌時代に、多数の女性をセックスで食口にし、常に身の回りに侍らせていたのである。そして、それらの女性をやはり「六マリア論法」でたぶらかし、肉体と金品を捲き上げていたのだった。
P.187
色と欲と金と
「夫の金を盗んでこい」 
 一九五五年七月四日、文鮮明はソウルの警察に拘束されたが、裁判で無罪が宣告され、釈放された。これについても統一協会は、「罪のない人が拘束されたが、そのあと事実がわかり、釈放された」と宣伝している。当時、文鮮明と朝から晩まで一緒にいた私が、この間の事情や事実は一番よく知っているのだ。
 文鮮明は実際に幾多の罪を犯していたのだが、私たちの機敏な対策で、食口たちが警察の調べに正直に応じなかったのと、偽証や嘘で旦畏を合わせたため、決め手になる証拠が出なかったおかげで無罪になり、釈放されたのである。統一協会はその事実を隠しているが、この私自身も偽証し、食口たちの旦畏合わせの手配に走り、証拠の隠滅を行なったのだから間違いはない。
具体的な例は山ほどあるがーー例えば李順哲*という人妻を、
「自分は再臨メシアだから、自分と復帰すれば、あなたも六マリアの一人、イエスのマリアになれる」
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                                            李聖礼*(左)と文鮮明
と編して、セックスをした。立派な姦通罪である。また、
 「この世の中はサタンが仕切っているが、この世の中のすべての財産は本来神様のものだから、サタンが使っているもの(夫のお金や家にある財産)は全部、盗んででも私に献金しなければならない。そうすることによって、この世の中が理想的な世界になり、神様は何千倍もの幸せを与えてくださる」
 この話を信じ込んでしまった李順哲は、さんざん貢がされた。あるときは、文鮮明に強要されて当時の米ドルで一万五千ドルもの金を家から持出し、その金で二か月間、文鮮明を好き放題させた。さすがに夫も怒り、八方手をつくして捜していた。窃盗の立派な共犯である。これがどうして罪にならないだろう。夫が警察にその話をせず、姦通罪で告訴しなかったから助かっただけである。他のマリアの夫たちも皆、そうだった。
 また、処女の娘たちに文鮮明は、私の妻になれば、世界の真の母親になれると言って信じ込ませ、編してセックスをしていた。こういうやり方で、金永姫*という女子大生も、李聖礼*も編されて、文鮮明とセックスをした。快楽におぼれ、結婚を口実に次から次へと清純な娘たちを犯していた文鮮明が、どうして罪にならなかったのか? 食口たちの涙ぐましい心情を統一協会は考えるべきである。
なぜ罪のない子どもが死ぬのか   189
 ところで私は、文鮮明が再臨メシアを主張するなら、「脱税」という罪名でアメリカの刑務所に投獄されたことは、どうしても納得できない。
 「ヨハネ黙示録二一章三、四節」に。
 「神様が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全く拭いとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」
と書かれているとおり、こういうことを実現させてくれるのが再臨メシアである。北朝鮮でも南朝鮮でもそうだったように、アメリカでの事件も、六千年間、神様の望みであった復帰の実践をしていて、サタンの世の中の法律にひっかかって投獄されることは、原理の「予定」であると、文鮮明は言うかもしれない。
 ならば、原理どおりに処女を新婦として迎え、「小羊の儀式」を行ない、子どもを十一人も産ませたのに、その子どもの��かには、交通事故で、あるいは違うかたちで死んだ者たちがいるし、世の中にいろんなよくない噂をバラまかれている張本人もいるのは、どういうわけなのだろう。
 文鮮明を信じている人たちはなぜか、この当然な事実を歪曲して宣伝し、伝道している。そのために、かえって文鮮明の将来は、どんどん取り返しのつかない方向に向かっていると思う。私は、文鮮明が原理の実践と称してやっていた行為を、横で直接見てきた者として、その事実を明確にし、文鮮明が再臨メシアであるか、それとも人一倍女好きな金儲け主義者なのか、ということを明らかにすべきときがやってきたと思う。
 文鮮明が神様と同格に復帰できるという根拠は、聖なる母? 丁得恩が再臨メシアとしての文鮮明を生んだことと、文鮮明が十五歳のときの四月十七日、復活節の前の晩、夢の中でイエスから、
 「私は、果たさなければならなかった復帰の役目をできなかった。あなたがその代わり、第三のアダムとして、再臨メシアの役目を果たしてほしい」
と言われたこと(統一協会の新聞にも明記されている)の二つがあげられる。もしそのとおりで、文鮮明が神として復帰の役目を実践したならば、創造当時のエデンの園が復帰され、統一協会の食口たちは、真の父母とともに涙もなく、幸せに暮らしているはずである。
復帰という名のセックス   191
 まず六マリアの復帰問題から考えてみよう。
  サタンによってエバを奪い取られたことで、神様は六千年間怒り続けてきたという。神様はエバを取り返すため、第二のアダムであるイエスをこの世に送ったが、イエスの生みの母親であるマリアは、イエスを自分の息子としてしか考えず、自分の息子がまず母親とセックスするために生まれてきたことに気がつかなくて、イエスとセックスをしなかった(注=このように母親が息子とセックスすることを、原理では母子協助と言っている)。そのためにイエスは、十字架の上で死んでいくしかなかったと原理は説明している。また原理原本には、
 「イスカリオテのユダの恋人であったマグダラ・マリアをイエスが奪い、復帰させることによって、神様の恨みを払うことになっていたが、ユダがこれに服従せず、銀貨三十枚をもらってイエスを売り払ったため、イエスが十字架の上で死んでいくことになった」
と説明されている。
 イエスが復帰しようとした六人のマリアを復帰させれば、原理どおり実践されることになると、私も理解していた。ところが、六人のマリアを復帰させたあとでも、文鮮明は手当たり��第、何十人もの女の人を復帰させていった。
 例をあげると、梨花女子大の舎監先生だった韓忠嘩は、文鮮明に復帰された後、結局、セックスの魔手におぼれて、学校をやめさせられてしまい、文鮮明に服従することになった。その頃、用事があって文鮮明と全州という所にいたとき、美人の女性と会うことになり、その女性と復帰するところを、私はすぐ横で見ていた。それが彼女だった。
 韓忠婦は熱心なクリスチャンで、未亡人となり、サムエルという啞の息子を連れてまじめな生活をしていたが、原理に編され、文鮮明に自分の身体を提供することが神の意志だと信じて、喜んでいた。しかし、その文鮮明がまた違う女と復帰しているのを知ると、その足でソウルに戻り、文鮮明と訣別した。
 それまでの自分の軽率な行動と、色気違いになっている文鮮明に貞操を奪われたことを後悔しながら、そのあと、しばらくして死んでしまった。これは誰のせいで、誰の罪だと言えるだろう
 一九五五年、梨花女子大の五人の教授が退職に追い込まれて辞表を出し、十三人の学生が学校から追い出されることになった。このことはやはり、文鮮明と教授や学生との復帰事件にからんでいたことだった。
 しかし、それ以前の釜山水晶洞時代に、すでに六マリアは決定されており、セックスの実践も終わっていたのだ。なのにまた、新たなマリアを復帰させようとして、問題が生じてしまったのである。そして、″復帰をする”ということだけが、あまり深く考えない女性食口たちのを通じて伝わり、まだ原理を詳しく知らない女の人たちは、ともかく復帰を受けることに必死になってしまったのである。こういう状況の統一協会について、外部では、
 「統一協会では裸になって踊り、一度入信すると麻酔をかけ、二度と出てこれないようにさせている」という噂が広まっていくことになった。
たくさんの家庭が破壊された   193
 ところで実際、文鮮明の原理の話を聞き、堕落原理と復帰原理を聞くことによって、各界各層から来ている人たちの生活に変化が訪れた。今まで子どもたちと一緒に平和な生活をしてきた夫婦が、妻が統一協会に入ってからは、服を脱ぐことも、夫とのセックスも拒否するので、トラブルが起きた。この人たちは、文鮮明に貢ぐための経済問題でも悩んだ。そして結局、離婚することになり、文鮮明の原理によって家庭生活が破綻することになる。
 経済的な基盤のない家庭では、さらに頼られることになった夫が、妻に絶望して、子どもを捨てて家を出ていってしまうことになる。その当時、統一協会の渉外部長だった金寅哲は、こうして捨てられた子どもたちを孤児院に送ることが、大きな仕事の一つだった。こうして破綻した家庭は、私が知っているだけで、百七十家庭くらいになる。
 その当時、文鮮明から復帰は受けたものの、文鮮明の行為を見たり体験して、それが神様の意志ではなく、色気違いの行為にすぎないと思った女の人たちは、夫には内緒のまま家庭に戻っていった。この女の人たちの心境は今、どういうものだろう。こうした事実を知っている女食口たちは、それでも長い間文鮮明に従い、それこそすべてを捧げて奉仕した。
 私はその当時、統一協会のある男の食口から質問されたことがある。
 「文鮮明先生の復帰は、さぞかし厳粛なんでしょうね」
 そのときは笑って、「そうです。神様ですから」と答えておいたが、再臨メシアの。″復帰の儀式″なのだから。″厳粛なもの″だと想像するのも当然だろう。
 だが実際は違う。神様であるはずの文鮮明は、おいしい餌を前に舌なめずりをする犬のようになり、むさぼるようにセックスをしただけである。ただの性欲の固まりだった。事実、文鮮明は精力絶倫で、「ひと晩に十回やったこともある」という。本妻だった崔先吉の話だから、これは間違いないだろう。
 復帰を受けるときの婦人食口もそうだった。生身の女性だから当然だが、さんざん乱れ、やがて燃えつきる。大声をあげて失神した人もいた。私が介抱したのだから、これも間違いない。
 サタンを否定している文鮮明の復帰(セックス)だが、所詮はサタンの世の中のセックスと何一つ変わらないのである。そうした文鮮明の正体をいち早く見抜いて、家庭へ「復帰」した妻たちは本当に賢明だった。彼女たちは、大きな被害を未然に防ぐことができたのだ。
女の恨みは夏にも霜を   195
 ところが、文鮮明はいま、自分が再臨メシア、真のお父様になったと言いながら、復帰した食口たちのめんどうは一切みていない。外国、とくに日本とアメリカで真のお父様として君臨するようになり、日本では霊感商法などで反社会的な金集めをやって大きな問題になっている。そして、これまで犠牲になってきた人たちには振り向きもしない。文鮮明を恨みながら統一協会を出ていく女性が、日々増えている状況である。
 文鮮明は将来、どんな方法で、どういう原理をもって、この問題を解決していくのだろうか。
アメリカの牧師たちに、原理のビデオテープを三十五万本作って発送していたが、それでこういうことが防げるようになるのだろうか。アメリカの牧師たちが原理説明会などを名目に世界各国を訪問して、何億ウォンものお金を使いながら布教したとしても、こういうことを防ぐことはできないだろう。
 日本、アメリカ、韓国の有名な学者たちに高い原稿料を払い、文鮮明を再臨メシア、救世主として持ちあげさせようとしているが、韓国のことわざに「女の恨みは、五月や六月にも霜を降らす」(注=これは陰暦だから、五、六月は真夏になる)というのがあることを忘れてはならない。
 青春時代に文鮮明によって復帰された女の人たちは、財産を全部注ぎ込み、夫からは離婚され子どもたちとも別れて、いまはもうすっかり年寄りになっている。
 この人たちはほとんど、女中さんを雇って暮らしていたような豊かな家庭の奥さんたちだったが、再臨主?
 文鮮明に会って、彼にすべてを捧げてしまい、いまは食べるものにも困って、自分が女中をやらなければならなくなった人が、何十人もいる。また、恨みを抱えて一生送ってきた人たちは、何百人にもなるだろう。
 私はこの女の人たち一人ひとりに会ってみようと思ったが、私の経済的な事情やいろいろな問題で実現できなくて、本当に申しわけないと思う。
処女に生ませた子どもたち   196
 原理の���かでいちばん重要視される、真の母親になる処女の選択について、話した���と思う。
 真のお父様を自称する文鮮明と「小羊の儀式」をあげる人が、真のお母様ということになるが、その儀式によって、エデンの園を堕落前の状態に戻し、神様の創造目的を達成することになる。人間社会の原罪を根もとから取り去ったあと、また罪のない清い世の中に戻り、苦痛もなく、死もなく、永遠に真の父母と一緒に暮らしていける世の中が創造される、というのが原理の内容である。
 しかし、この真の母親である処女一人を選択する過程で、また不可解な問題がたくさんある。
 文鮮明が平壌にいた頃、鄭明先の妻で三人の子どもの母親である金鍾和が、「小羊の儀式」の相手として準備をしていたところ、文鮮明と一緒に逮捕された。懲役五年を宣告された文鮮明が、
興南刑務所に服役したことは何度も書いた。
 釜山影島の辛聖黙の自宅では、金永姫という処女を復帰させたが、その後も関係を続け、金永姫は妊娠した。その事実を隠すために文鮮明は、呉昇澤という学生に因果を含めて金永姫を押しつけ、一緒に日本に密航させた。金永姫は日本で文鮮明の息子を出産し、貧乏のどん底で暮らすことになった。
 さらに李聖礼という処女とも復帰し、男の子を産ませている。
 ソウルに来てからは、六マリアの場合もそうだったが、文鮮明は、新婦である処女を選択するという名目で、李聖花*をソウル駅前の旅館で復帰したのである。李聖花はそのあと、自分が真の母
親候補の一番だと思っていた。そのときの共犯は李順哲だった。李聖花を煽動した彼女は、新婦=真の母親として選択され、復帰した証として金の指輪を作り、この哀れな処女に贈ったものである。
 そして、文鮮明はこの処女たちを全部見捨て、洪順愛の娘、韓鶴子と「小羊の儀式」をあげ、韓鶴子が真のお母様になると言って結婚した。
 今は、たくさんの統一協会関係の出版物のなかで、真のお父様になっている文鮮明と、真のお母様になっている韓鶴子が一緒になり、新しい世界を造るという目標を掲げ、たくさんの団体とたくさんの経済力を動員して、文鮮明を「牢獄の救世主」としてたたえ、文鮮明を再臨メシアとして見せるための様々な仕掛けをしているのである。
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   「七・四事件」を報道する新聞記事(1955年7月7日付『東亜日報』)
弄絡當한婦女수두룩  「하느님」아들行勢
注目끄는統一敎會『文敎主 』行狀
농락당한부여수두룩 「하느님」아들행세 주목끄는통일교회『문교주』행상
P.199
裏切ったのは誰か 
文鮮明からの紹介状
 次は経済問題の内情について、書きたい。
 前にも書いたように、一九五三年、私がソウルに上がってきた頃は、大邱から釜山に行こうとしても、汽車の三等席分の旅費もなく、女性の食口たちが出してくれたお金で、やっと往復できるような状況だった。
 そのあと、ソウルの北鶴洞に家を借りて、「世界基督教統一神霊協会」を創立し、劉孝敏のアイデアでブロマイドの製作・販売を始めた。これが成功して、経済的に安定することになり、教会を興仁洞に移した。食口たちもだんだん増え、統一協会は大きくなっていっいった。
その年(一九五五年)「七・四事件」で文鮮明と幹部五人が拘束され、裁判を受けた。文鮮明が出獄したあと、青坡洞(現在も統一協会本部がある)に日本式の二階建ての建物を購入して、本部教会を移転した。その後、私は文鮮明から、
「ご苦労だった。しばらくのあいだ、捿鎮鉱山へ行って休みなさい」
と言われて、彼が書いてくれた紹介状を持ち、捿鎮鉱山へ行くことになった(五六年七月)。
 私はそこで、考えてもいなかった鉱山の責任者になり、何か月間か過ごすことになった。この捿鎮鉱山は、統一協会の幹部だった鄭錫天が寄付して文鮮明の所有になり、彼が直接経営していた鉱山だった。この件については、また後で書くことにしたい。
 私が鉱山に行っている間、劉孝敏は、散弾の空気銃を発明し特許を取った。この空気銃を製作してみると、かなり性能が優れていたので、本格的に製作・販売することになり、統一協会の経済的な基盤が固まった。
あくどい労働搾取   200
 その当時、文鮮明の親戚で統一協会に入ってきた人は、文成均が初めてで、文鮮明がジープを購入したときに運転手として入ってきた。その次が文龍善で、鄭錫天長老が経営していた牙山の焼き物の窯元に行って仕事をしていた。文鮮明の親戚はこの二人以外には一人もいなかった。それ以前、私が文鮮明とあわただしく働いていた頃には、文鮮明の親戚は一人もおらず、名前も聞いたことがなかった。
ところが現在、文鮮明の親戚たちが、統一協会の経済を左右する状況になっており、内部でも大きな不満の声が出ている。これは原理に反することである。
 文鮮明はかねてから、
 「この世の中のすべての金と財産は神様のものであるから、夫の金を盗んできて私に献金しても、それは罪にならない。
そして、もし可能なら銀行の中にある金を盗んできて、私たちが使ってしまったとしても、この世の中の法律としては罪になるが、神様の法律としては罪にならない」
と食口たちに言っていた。だからこそ、女性の食口たちは、良心の呵責など少しも感じないで、夫の財産を持ち出して、文鮮明に注ぎ込んだ。そのおかげで今の統一協会があるといっても、過言ではない。
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                                   青坡洞教会  (現在の本部教会のある所)
 こうして食口たちが苦労して、経済的な土台を作り上げた��ころへ、文鮮明の親戚たちが乗り込んできて、大きな顔で経済を仕切り、自由自在に使って贅沢な生活をしている。
 その反面、最初の段階で経済的な土台を作るために苦労していた人たちは、ほとんどが脱会するか、追い出されている。現在、その当時の人で残っていて、経済的な地位に就いているのは、一成綜合建設の社長を経て、昨年(一九九二年)から一信石材に移った李秀郷社長と、一和食品の金元弼社長だけである。
 李秀郷は当時まだ十八歳くらいで、文鮮明の裏側のことは何も知らなかった。また、北から私たちと一緒に南下してきたときには、二十二歳くらいだった金元弼は、文鮮明から「死ね」と言われればいつでも死ぬような、忠実なイエスマンである。
 空気銃の製作を始めた頃のことだった。母親の入信で家庭がバラバラになって孤児院に送られ、そこで育てられた十五、六歳の子どもたちが、水沢里にあった統一産業㈱・鋭和空気銃製作所の工場で働くようになった(統一産業の当時の社長は金寅哲)。その人数は三百五十人くらいだったが、朝から晩まで働いて、彼らに支払われたお金は、月にだったの五百ウォンだった(日本円換算でわずか百円程度=一九八五年当時)。これは、まさに労働搾取のとんでもない実例である。
 あるとき、いまは故人になった金喜玉執事の十七歳の息子が、孤児院から逃げ出して、お母さんを訪ね統一協会にきた。そして、この母子が、ソウルで住宅建設の仕事をしていた私を訪ねてきて、
 「息子が、統一産業にはこれ以上いられないと言ってきかないので、朴先生の所で使ってもらえないか」
と頼んできた。息子は統一産業で働いていたが、あまりにもひどいので耐えられなくなって、逃げてきたのだった。この事実は、私がその息子を社員として使っているときに聞いた話なので、間違いない。
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                                                     当時の劉孝敏
文の息子・興進と孝進   203
 一九八三年、文鮮明がアメリカから帰国して、ソウルをはじめ七つの都市を回り、講演をしたことがある。そのとき、文鮮明の息子、文興進が交通事故で死亡した。その理由として、統一協会は、
 「文鮮明先生が勝共講演をしているとき、サタンが文鮮明先生を殺そうと狙ったが、それを知った息子の文興進が、お父様の身代わりになって亡くなった」
と説明した。そして、
 「亡くなった興進は天に昇ったが、文鮮明先生がその息子さんを青年霊界総司令官として任命したので、彼は霊界の青年たちを連れて地球に降りてきて、文鮮明先生の再臨メシア活動を助けて、協力することになった」
と発表した。もはや神様がすべてを解決することを待つしかないが、この話には後日談がある。
(後述)
 文鮮明とその妻、韓鶴子は、この世に君臨する真のお父様・お母様であり、二人の間に生まれた子どもは、原理では罪も汚れもないはずなのに、交通事故で突然死亡したり、サタン同然の悪い噂が流れていた。その真の父母が生んだ文孝進のスキャンダルは、統一協会の内部だけでなく、社会的にもいろんな噂が流れ、問題になっていた。これについても、統一協会では、
「息子の文孝進は、真冬に文鮮明先生が決めた聖地、聖なる土地で四十日間、断食、徹夜祈祷することによって懺悔し、文孝進の人格はきれいになった」という。
文孝進は文鮮明・韓鶴子夫妻の長男だが、成和社から出版された『成功する人たち』という文孝進の詩集を読んでみると、彼をその父親、文鮮明の後継者として作りあげようという仕掛けが明らかである。これまた理解できない問題である。
いま平壌では、金日成が、自分の政権を息子の金正日に渡そうとしているようだが、共産主義体制の世襲という信じられない暴挙と同じことを、統一協会の文鮮明もやろうとしている。このサタンの世の中で堂々と行なわれている世襲体制を踏襲して、息子の文孝進に再臨メシアの権力を渡そうとしているのだ。
 『この世の中を救えるのは文鮮明先生しかいない』という本を書いた金恩雨博士は、書名を変えて、『この世の中を救えるのは文孝進先生しかいない』という本を出版するのだろうか?また日本人の那須聖は、『牢獄の救世主・文鮮明』という本の書名を、『青年救世主・文孝進』とでも変えるのだろうか?
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                           文鮮明・韓鶴子 (左) 夫婦と長男・文孝進(中)
 私はこんな話を、ある人から聞いた。 祝福を受けた家庭の子どもたちが四十日間、清平祈祷園で集会をやっていたときのことである。文孝進の主催で、百五十人あまりの人たちが出席していた。昔からの食口で尊敬されている李耀翰牧師が、原理について話していたところ、突然、文孝進が現われ、集会に集まっている人だもの前で、李耀翰牧師をこきおろし、父親の文鮮明が書いた原理と違うことを言っていると、ひどく怒ったというのである。
 そのとき集まっていた食口たちは、文鮮明の後継者である彼が、「懺悔する前の、もとの不良息子」に戻ってしまったのではないか、と言っていたそうだ。
 北朝鮮で金日成が、自分の息子の金正日に政権を渡すということで、世界じゅうからもの笑いになっている。加えて韓国でも、統一協会の文鮮明が、自分の息子に「再臨メシアの資格と権限を渡す」というのは、どう考えてもおかしい。
 統一協会はこれまで、莫大な資金を使って、文鮮明を再臨メシアだと宣伝してきた。その具体的な例として、日本人・那須聖が書いた『牢獄の救世主』、『救世主、現われた』など、たくさんの本が出版されている。那須聖が金をもらったかどうかは知らないが、統一協会の体質からみて、どんなにたくさんの金を使っても、その息子に全権を渡す口実を作り上げるだろう。
 しかし私が知っているかぎり、原理のどこを読んでも、文鮮明が再臨メシアなら、その息子に再臨メシアを継がせるという原理はない。
 このような統一協会の姿勢をみていると、そのときどきのご都合主義で勝手な理屈をつけ、常識では考えられないこと、人間の道理に合わないこと、そして何よりも大切なは��の「原理」に合わないことでも、平気でやってのけるから恐ろしい。
削られた創始者の名前   207
 さらにまた統一協会は、歴史を改竄し、平気で嘘を書く。統一協会の胎動期から長い間、文鮮明を信じ、文鮮明のために死ぬほど苦労してきた多くの食口たちを、ただ追い出すだけでなく、勝手にサタンと決めつけ、名誉もプライドも奪い、裏切り者として罪人に仕上げてしまう。私はそういう人たちをたくさん知っているが、例を挙げれば限りがないので、そのなかからいくつか紹介する。
 まず私、朴正華自身の問題から述べてみる
『統一教会史〈上巻』に載っている私についての記録を見ると、こうなっている。
「朴正華が姉の家で ただ犬一匹が残っているだけの空き家に一人でいるときに、金元弼が訪ねて行って、ケガをして足を引き摺っている朴正華を自転車に乗せ、文鮮明先生と一緒に避難してきたが、その先生を朴正華が捿鎮鉱山のときに裏切って、統一教会から出ていったのである」
 このように、統一協会に記録されている朴正華は、裏切り者となっているのだ。
 私に言わせれば、「何を寝呆けたことを言うか!」の一言である。これはすべての真相を包み隠し、文鮮明の都合の良いようにデッチ上げた嘘の記録である。だから、私はここで、その真相を書いておきたい。
まずこれまでの要点を整理するとーー
 北から避難するときの経過(第二章)で詳しく説明したように、私は家族を捨て、ケガした身体にムチ打って、文鮮明と一緒に南の方へ下りて来た。一生苦楽をともにしようという獄中での約束を守るためだった。
 その後は文鮮明を助け、経済的な問題で言葉に言いつくせないほどの苦労をしてきた。文鮮明と人妻の、復帰というセックスから生じる様々なトラブルにも私が対処し、いろんな苦労を重ねながらも生き抜いた。文鮮明と一緒にいた七年間に、二度にわたって警察の電気拷問まで受けている。
 最大のピンチ「七・四事件」では、五人の幹部が逮捕されたなかで、捜査当局の執拗な尋問に対し、私は様々な手段を駆使して文鮮明の罪状を隠し、無罪になるように努力した。これまた統一協会の記録では、「何の罪もなかった文鮮明先生は、拘束されたが、無罪になった」と記しているが、実は食口たちのおかげだったことは前に述べた。
 統一協会は文鮮明の神格化に懸命だが、一年六か月間の監獄生活や、釜山の水晶洞からソウルの青坡洞に至る七年間、文鮮明の片腕として一緒にいた私から言わせれば、文鮮明の人格は神格
的どころか、喜怒哀楽が激しく、金銭欲と女好きだけが異常な、まさにサタンの世界の男だった。
 気の弱い文鮮明は、私が警察で最初の拷問を受けた頃、誰かが彼を訪ねてくるといつも逃げ腰になり、落ち着かなかった。だから、私が代わりに出て用件を聞いていた。あまりにも気が小さくて弱虫のように見えたので、
 「このサタンの世の中を清い世界に復帰し、もとのエデンの園を甦らせようとする先生が、どうしてそんなに���クビクしているのですか。そういうことで、この宇宙や世界を復帰させることができるのですか」
と、何回も文鮮明に言ったことがある。
 いろんな苦労を経て、私の名前で借りたソウルの北鶴洞の家で、「世界基督教統一神霊協会」を創立した。一九五四年五月三日のことだった。これもまた統一協会では、なぜか日付を五月一日に変えて発表している。
 このときに出席した幹部は、文鮮明、李昌煥、朴正華、劉孝元、劉孝敏、金相哲の六人で、この六人を統一協会の「創始者」と呼ぶことになった。ところが、いまの統一協会関連の出版物には、朴正華という名前はまったく出てこない。一番古い私に「裏切り者」のレッテルを貼って抹殺したのである。
「事件が起きた、すぐ逃げろ」   209
 真相はまったく違う。「裏切った」のは、文鮮明自身だった。
 それは、私が捿鎮鉱山にいるときに発生した。捿鎮鉱山で働いていたある日、趙東錫がやって来て「今、ソウルで事件が起きて、先生は逃げている」と話した。そして文鮮明は逃げるときに、
「すぐ鉱山にいる朴正華の所へ行って、早く他の所へ逃げるように伝えなさい。もし警察が鉱山まで行って朴正華を逮捕して、取り調べでひどい拷問でもされ、朴正華が私のことを告白させられたら、大変なことになる」
と指示したそうだ。
 この話を聞いて、私は考え込んでしまった。私はどこへ逃げたらいいのか。こんな山奥の鉱山も危ないということは、当然ながらソウルの教会も、食口の家も危ない。あれこれ考えた末に、
とりあえず文鮮明に会って、私の身柄をどうすればいいか、相談してみようと思った。
 趙東錫に「先生はいま、どこにいらっしやるのか」と尋ねると、ジープに乗って忠武にある龍華寺というお寺に行っているという。それを聞いて私はさっそく、そこへ行くことにした。火薬主任の全鍾萬から旅費を借りて出発し、夜中の十二時に忠武に到着した。ここで通行禁止の時間帯になってしまったので、その日は龍華寺まで行けなかった。
 やむを得ず宿を決めて一泊し、朝一番で龍華寺に行ったが、ほんの一足違いで文鮮明は、宋道旭長老と趙一青、宋秉昊食口たちと一緒に、済州島の方へ出発したところだった。お寺の庭には、
文鮮明たちが乗っていたジープのタイヤの跡だけが鮮明に残っていた。
 どこへ行けばいいのか?・いつまで隠れていればいいのか? これからどうすればいいのか?
何の情報もない。
 途方にくれた私は、人目を忍び警察を警戒しながら、ソウルへ行った。そして密かに「ここにいるので、連絡を待つ」と、文鮮明に伝わるように手配した。
 私は文鮮明からの連絡をひたすら待ったが、一か月たっても何の連絡も来なかった。私はその間、労働者たちが泊まるソウル駅前の汚れた簡易宿泊施設で、一日パンー個だけをかじりながら生きていた。
裏切ったのは文鮮明だ   211
 一か月以上待っても、文鮮明からの連絡はいぜんとしてなかった。「おかしい」と、私は不審に思い始めていた。
 私が捿鎮鉱山へ行ったのは、一九五六年三月二十八日。「七・四事件」で逮捕された文鮮明が無罪になったのは、���年の十月四日。その約九か月後のことである。当初は七~八人の坑夫がおり、文鮮明から必要経費も送金されていた。
 その頃、用事でソウル青坡洞の本部へ出かけた私は、新しく入信したという陸軍の軍人二人を、文鮮明から紹介された。朴普煕と韓相國である。そのとき、文鮮明は、
 「朴正華は、初めから一緒にやってきた片腕で、ナンバー2の男です。あなたたちは朴正華から、いろいろ習いなさい」
と彼らに私を紹介した。二人とも、その三年後に起きた朴正煕将軍による軍事政権クーデター二九六一年)で、初代KCIA(韓国中央情報局)長官になった金鐘泌の腹心だと知ったのは、ずっと後のことである。他にも二人入ったようだが、私は会っていない。また朴普煕は、その後アメリカへ行って活躍し、統一協会のナンバー2に昇った。そして、二人とも三十六家庭の一員である。
 やがて文鮮明からの送金がプッツリ途絶えた。いくら請求しても、どれだけ待っても送金はなかった。もともと赤字で資金がないのだから、これには困った。作業を中止し、抗夫たちには帰ってもらった。
 あとに残ったのは、途中から来た金徳振と、大邱から手伝いに来ていた女性食口の三人だけ。
しばらくは売り食いでがんげっていたものの、やがて底をついて食う物もなくなった。 あまりの貧乏にあきれて、飯炊きのおばさんは大邱へ帰ってしまった(そして脱会したらしい)。金徳振もソウルへ引き揚げていった。たった一人残った私の所へ、同じ部落に住む火薬主任の全鐘萬がときどき遊びに来ていた。
 そんな状況のなかで、「事件が起きた、危ないからすぐ逃げろ」と、文鮮明の使いで趙東錫が来たのだった。私がここを逃げ出せば、もう誰もいなくなってしまう。忠武へ出発する前、後片付けと整理だけはキチンと済ませることにした。全主任には発動機を一台やり、旅費を調達したのだ。
 ずっと後になってわかったのだが、このときの事件は、またしても文鮮明をめぐる複雑な女性関係が原因だった。
 私が山の中の鉱山で、食う物にも困っていた数年の間に、統一協会はアメリカへ進出し、日本にも統一協会を創立させた(一九五九年十月二日)。
 さらに六十年四月十一日、文鮮明は韓鶴子という処女と念願の「小羊の儀式」で結婚。そして、三組合同聖婚式(同年四月十六日)、三十三組合同聖婚式(一九六一年五月十五日)と、いわゆる三十六家庭の組織を作った。三十六家庭の新婦たちの資格は、原則として、文鮮明が復帰した女性が理想だったが既成家庭もあったし、理想どうりにはいかなかった。
 これまでの経緯を知り過ぎ、文鮮明の女性関係も詳細に知っている私は、やはり邪魔な存在だったのだろう。私を島流しならぬ山流しで兵糧攻めにし、食うや食わずの状況に追い込んでおき、その間に文鮮明は野望を満たすために、矛盾だらけ���「原理」を推し進めていったのだった。
 そんなときに、またまた起きた女の事件で逃げる彼が、
 「山にいる朴正華を逃がさなければ危ない。警察がもし拷問にかけて、朴正華に吐かせたら大変だ」
と、わざわざ酷暑の山中へ使いを走らせた。
 この事実を考えただけでも、文鮮明が私を″過去の人″にしようとした真意が、はっきり読みとれるのである。文鮮明は、私を生き延びさせるために、逃がしたのではない。自分が生き延びるために、私を過去の檻に閉じ込めたまま逃がそうとしたのだった。そして、その日限り、新装開店した統一協会の奥座敷に、私を戻そうとしなかったのだ。
 こういうことがわかったのは、本当にずっと後からのことで、何も知らない当時の私は、一日一個のパンだけで食いつなぎ、生き延びながら、真夏のソウルの、汗にまみれた簡易宿泊施設で、一か月もの間、じっと文鮮明からの連絡を待っていたのだった。一九六二年八月のことである。
 これが事実で嘘はない。私は断じて文鮮明を裏切ってはいない。
 裏切ったのは文鮮明自身なのだった。
「 六マリアの悲劇」   もくじ
推薦の辞 - 卓明煥
第一章  獄中で出会った男 Chapter 1.
第三章  統一協会の創立前後 Chapter 3.
第四章  犠牲にされた女たち Chapter 4.
第五章  再臨メシアの正体 Chapter 5.
第六章  真のサタンは文鮮明だ Chapter 6.
第七章  証言-私達が体験した事実 Chapter 7.
【巻末資料①】  原理原本のもくじ
【巻末資料②】  原理解説のもくじ
  KOREAN
野錄 統一敎會史   (세계기독교 통일신령협회사)
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