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趣旨説明
公益社団法人日本造園学会関東支部では、茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、山梨県の8都県について、歴史的、自然的、文化的、また複合的に価値がある地域資源(将来に残してゆくことが望まれるもの)を「造園・ランドスケープ遺産」として選定し、様々な開発行為や所有者の変更、自然災害などによる改造や消失の危機から守り、併せて、その存在を広く周知して、地域の振興に寄与する存在として育てていくための活動をしてきました。
その成果の一端は、「関東地域の造園・ランドスケープ遺産調査研究報告書」(2016年3月)にて公表をおこないました。
具体的な造園・ランドスケープ遺産の対象としては、公園、庭園、墓園、並木道、文化的な景観(農業林業や漁業、その他産業に関する景観)、動植物園、社寺境内地、巨樹・巨木、自然公園・保養地・景勝地など、大変幅広い分野にわたります。
このブログでは、日本造園学会関東支部運営委員を中心とした執筆者が、関東地域の遺産の魅力と価値を継続的に紹介してゆきます。この活動が、関東地域の遺産の価値についての理解を促進するとともに、保全に向けた新たな観点を提供してゆく足がかりとなれば幸いです。
平成29年8月13日
公益社団法人日本造園学会関東支部 遺産部会
粟野 隆、池口 仁、木下 剛、高橋俊守、田中伸彦、津久井敦士、町田 誠、 水内佑輔
「関東地域の造園・ランドスケープ遺産調査研究報告書」(2016年3月)はコチラよりお求めいただけます。
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宇都宮大学フランス式庭園
宇都宮大学峰キャンパスの正門を入ると、キャンパスの中に向かって真っ直ぐに続くメインストリートのカツラやイチョウ並木の緑が目に入ってくる。そのすぐ右手には、学生や教職員の間で「フラ庭」と略称で呼ばれ、「うつのみや百景」(平成14年度宇都宮市事業)として市民にも親しまれている、宇都宮大学フランス式庭園の開放的な緑地空間が広がっている。
正門を入ってすぐ右手に位置するフランス式庭園、イギリス式庭園、峰ヶ丘講堂等
宇都宮大学フランス式庭園は、農学部の前身である宇都宮高等農林学校の設置(1923年)を契機として、初代校長の佐藤義長博士が記念事業として構想したものである。当時はまだ畑地であった場所に学校を創設するにあたって、欧米視察の経験を有する佐藤校長らが、花卉園芸の農学専門教育を始め、キャンパスの緑化に資する庭園づくりを企図して造成されたとされる。
事業に際して、松井謙吉教授他4名の造園設計委員が設計を担い、農場長であった内田高良教授が庭園の作図を行った。教職員は、近村をまわって数百本の庭木の寄付を受け、学生や地域の青年団等の労働奉仕によって大正15年(1926年)秋には原型が完成した。その後も記念植樹が行われ、また戦時中は防火貯水池の設置や築山等、数回の改修が行われた記録があるが、今日まで保存状態は良く、造成当時の面影を伝えている。
宇都宮大学フランス式庭園(背景には峰ヶ丘講堂、旧図書館書庫、イギリス式庭園)
宇都宮大学フランス式庭園は、西洋式庭園らしく、南北の軸線を中心とした左右対称の幾何学的な設計となっている。庭園は、サークルのある中央区、芝生が広がる北区、池のある南区で構成されている。中央のサークルからは、8本の園路が放射状に伸び、これを縁取るように刈り込まれた低木が植栽されている。北区には、長い長方形の芝生に刈り込まれた低木や花壇が配置されている。南区には、半円形の池を中心に、芝生や低木の植栽、シラカシが植栽された半円状のツリーサークルが見られる。園路の石敷、中央区のサークルを挟んで設置されたプランター、土留めの段差には、地元宇都宮産の大谷石が用いられており、地域資源活用の特色も反映されている。
宇都宮大学フランス式庭園は、その価値が認められ、国の文化審議会によって平成29年に登録記念物(名勝地関係)として登録された。大学キャンパスに現存する西洋庭園としては、千葉大学園芸学部の前身となる千葉県立園芸専門学校(1909年開学)創設時に作られた庭園に並ぶもので、教育史上の価値も高く評価されている。
宇都宮大学峰ヶ丘講堂(庭園と同時期に建造)
なお、フランス式庭園の周囲には、同時期の大正13年に建てられた大小の三角屋根や垂直な木造外壁、円弧状アーチ飾り等の装飾を意匠とする旧宇都宮高等農林学校講堂(1924年)が現存し、現在は宇都宮大学峰ヶ丘講堂として国の登録有形文化財(建造物)として登録されている。さらに、大谷石が使用された旧図書館書庫、日本庭園、イギリス式庭園も維持されており、大正期の面影を残したランドスケープ遺産を形成している。
高橋 俊守(宇都宮大学教授)
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埼玉・川島郷に誕生した近代和風の世界─遠山記念館庭園
川島郷は、荒川、市野川、入間川、越辺川に囲まれた地域から川島と呼ばれ、武蔵野の農村を偲ぶ広大な水田に民家の屋敷林が点在する風光で知られる。川島の白井沼という集落には、ある一画を周囲の水田から際立った大きな森が占める。日興證券(現SMBC日興証券)創業者、遠山元一の邸宅に起源を持つ遠山記念館庭園だ。
邸宅は昭和11年に竣工し、庭園の完成も同時期とみられる。総監督は元一の弟・遠山芳雄だった。芳雄は大工、建具、表具、左官、石工、瓦、庭園等を主導した数寄者で、邸宅の方針決定と材料調達の一切を担った。建築設計は室岡惣七、大工棟梁は中村清次郎、庭園施工は龍見清吉が起用された。
邸宅の敷地計画は、主屋3棟(東・中・西棟)が敷地北側に雁行形に建ち、南に表門(長屋門)が開き、庭園は主屋に南面して築造された。鬼門の北東隅には遠山家の屋敷神が鎮座し、裏鬼門の南西隅には遠山家の墓所が祀られた。
総欅造の長屋門を入ると前庭に至る。茅葺で��舎屋とした東棟の式台玄関の前に車廻しを設け、東側の植栽地に枯池を穿ち、鞍馬石製の四角受け組の井筒を構える。田舎屋に式台を設けた点に遠山家が元豪農の家柄であることを暗示させ、式台の沓脱石と井筒に本鞍馬を用いた点に数寄者の感性が光る。
内垣の門から主庭に至る。主庭は、芝生、渓流、主庭外周をめぐる植栽地からなる。建築は東棟が田舎屋、中棟が書院、西棟が数寄屋と、それぞれ異なる様式だ。建築群の前に芝生が設けられたことにより、3棟が景色として調和しているのが面白い。主庭西南には、寄付待合、雪隠、腰掛待合、茶室がほぼ南北方向に建ち、これらを飛石園路でつないだ露地も見える。
主景をなす渓流は北端に水源を持って南流する。上流では源泉部に流れ蹲踞のごとく四角受け組の井筒を構え、数寄者好みの朝鮮形を鉢明かりの燈籠にする。拳大から人頭大の底石を適当にばら撒いたことで水面がきらりと照り、井筒、燈籠、渓流北縁に架かる石橋とも一体化した清涼感のある景色が臨める。中流部では枯池を接続して藤堂家伝来の六角受け組の井筒を置く。面白いのは、南下する渓流内に沢飛石を流れの方向に合わせて打った点だ。普通、沢飛石は流れを横切るのに使うが、流れの中を歩けるように打つのは珍しい。従来の形式にとらわれない近代ならではの型破りな石の扱いだと思う。
主庭をめぐる植栽地は、芝生の明るさと好対照をなす濃緑の木々が背景を作り、樹林内に建つ十三重層塔が良い点景物となる。この植栽地に聳えるラカンマキは、中棟2階14帖の床中央と正対するように植栽されたもので、建築と庭が一体的に構想された点がうかがえる証左だ。
このように遠山記念館庭園は、前庭、主庭、露地が様式の異なる建築群と視覚的にも物理的にも一体となった埼玉を代表する近代和風庭園として重要な遺産である。遠山芳雄の近代数寄者としての感性に、龍見清吉が高い技量でみごとに応えた結果が示されたものとみてよいだろう。
粟野 隆(東京農業大学准教授)
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里見公園(千葉県市川市)
関東地域のランドスケープ遺産の紹介の第一稿として千葉県市川市の里見公園を取り上げたい。この公園は、江戸期の名所の系譜を引き継ぐ公園と位置づけられるが、ひとまず下総台地の際の河岸段丘上にあり、眼下に江戸川を見下ろすという立地を示すことによって、ランドスケープ遺産としての一定の関心を得られるのではと考える。
里見公園のランドスケープ遺産としての特質は、様々な価値を持つ空間が体験可能な点であって、それが公園とされているところにあると考えるが、まずは名所としての成立の過程をいくばくかの推論も交えてみていきたい。
里見公園の一帯は、例えば歌川広重の『名所江戸八景』においては「鴻之台とね川風景」として、『冨士三十六景』においては「鴻之台とね川(こうのだいとねがわ)」として現れる。
近~中景に利根川(現江戸川)と農村が、遠景に富士山が描かれるように、江戸を眼下に収める視点であったことが分かる。また、松がデフォルメされた崖の上に描かれている。実際、1960年代頃まではシンボリックな「物見の松」が存在していたように、江戸川対岸からの視対象としての位置づけもあったと考えられる。このように、視点と視対象の双方を兼ねる名所であったといえよう。
『江戸名所図会』においても「国府台断岸之図」「国府台 総寧寺」「国府台 古戦場跡」として里見公園含む一帯の地が取り上げられているが、ここからはやや込み入った経緯に立ち入らざるを得ない。
ここで示される古戦とは、16世紀に里見氏・後北条氏の間において2度にわたった国府台合戦といわれるものであり、「昭和 33 年、市川市はこの由緒ある古戦場を記念するために、一般の人々の憩いの場として里見公園を開設しました」と紹介されるよう、合戦とその舞台である国府台城が里見公園の設立の契機である。河川そばの高台という、周囲を“見る”にふさわしい要衝という立地が国府台城を築城させ、さらに合戦の場とさせたのであろう。国府台城自体は1479(文明11)年に太田道灌・資忠に築城されたものであるが、土塁の跡など現在もその痕跡を見ることができる。明戸古墳の石棺はこの築城の際に露出したものとされるほか、国府台城の縄張り自体が、明戸古墳を利用しており、歴史のレイヤーを体感できる場所でもある。
国府台合戦は2度とも後北条氏の勝利に終わり、徳川家康の関東入府に伴い、江戸俯瞰の地であることから廃城とされた。河川のほとりの高台という“見る”ことのできる要衝ゆえの措置である。その後、江戸幕府は1663年に関東僧録司に任命される格式を持つ総寧寺をこの地に移転させる。関東僧録司は端的に解釈すれば、江戸幕府の統治のツールの1つである。江戸を見るという場所に重要な寺院を配置するという意図を汲んでもよいと思われ、“見る”ことがこうした措置を生み出しているのであろう。
さて、公園の名称でもある里見氏とのゆかりが思い出されるのは、19世紀まで下らねばならない。1829(文正12)年になってようやく里見諸士群亡塚、里見諸将群霊墓、里見広次公廟が建てられているのであるが、この突然の関心の背景には滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」があるものと推察される。国府台はこの物語のクライマックスの舞台の1つなのであるが、史実とは異なり、物語の中では里見軍は勝利を収めている。訪れる人々は何を見たのであろうか。その“まなざし”は気になるところである。
おおよそ以上の経緯により、里見公園の地は江戸近郊の名所として成立したと思われるが、そこには地形が生み出した“見る”ということが通底していたように思われる。「情報として見る」「実景を見る」「イメージを見る」など性質の違いがあり、時代や文化の中でそのまなざしが形成されていったといえよう。名所としての系譜は近代においても続き、1922年には里見八景園という遊園地があり、今も���内にはその庭園の名残が残されてい��(写真の滝組や橋など)。都市公園となっている現在は、約200本のソメイヨシノが植えられた地域の花見の場であり、2003年には市川市制70周年を記念してバラ園が設置されたように、市川市のフラッグシップ公園の1つでもある。
最後になるが里見公園とは、公園というものを再考させてくれる良い事例である。というのも、この公園は地域の歴史を記念するために設置されているのであるが、この際、公園は受け皿としての役割を求められている。江戸期の名所の系譜を継ぐ景勝地であり人々のレクリエーションの舞台であったことを背景にしつつ、地域の歴史を市民が体験・共有出来るという場とするために選ばれたのが公園という制度である。一方、その受け皿も形を持っているようである。バラ園が設置されるなど都市公園化が進み、土塁なども静的な保全がされているわけでなくBBQの場となっており、器に合わせて空間も形を変えている。歴史にフォーカスを合わせるにしても、1000年を越える時間軸の中で過去を幻視するにもなかなか焦点が合わせづらい。実際の操作・保全という立場なるとそれは増幅されそうであるが、それもまた公園の面白みであるようにも思える。とはいえ、里見公園からの眺めの実景自体は変化しており、点景ではあるが重要な風景要素であった舟を見ることはできない。また、”見る”、あるいは”見下ろす”価値の相対的な低下がある中で、里見公園は”見る”名所の現代的価値を再考すべき事例でもあろうと思われる。
余談ではあるが、この地が里見公園と称されたのは、市川市の公園指定より古い。里見八景園の設置以前にもこの地が「里見公園」と認識されていたことが、1924年4月14日の朝日新聞から分かる。「公園」という用語が誰もが立ち入れる「景勝地」として理解されていた証左のようにも思える。また、1925年4月25日の読売新聞では、里見八景園が通行料を取ることに批判的な意見が載せられている。これらには公園という認識を巡る諸相が垣間見え、それらを明らかにする公園史の拡充が望まれるように思われ、ランドスケープ遺産もその一環となることが期待されているのだろう。(東京大学大学院農学生命科学研究科附属演習林 水内佑輔)
参考
市川市役所(1935):市川市要覧:房総日日新聞社
1924年4月14日:朝日新聞
1925年4月25日:読売新聞
http://www.city.ichikawa.lg.jp/gre04/1111000001.html
http://www.city.funabashi.lg.jp/shisetsu/toshokankominkan/0001/0005/0002/fukeiga7.html
http://www.museum.pref.yamanashi.jp/4th_fujisan/03fuji/4th_fujisan_03fuji_11.htm
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