#鎌倉七福神巡り
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2023/1/28(土)
鎌倉江の島七福神巡りに行ってきました。
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随分と御無沙汰であった。前回は、日本への帰路はヘルシンキ経由だったが、なんだか、ぐったり疲れていて、NoaとIsabelとの旅行の後には、何も書いていなかったのか。。。と気付く。
七月中旬に帰国し、八月下旬に帰独。一ヶ月半滞在した日本は、異様に暑く。七月中旬まで、ドイ���でもそれなりにバタバタしていたのもあり、帰国して立教や���大に行ったりとバタバタした後は、疲れて倒れていたように思う。山中湖は涼しく過ごしやすかったが、思わず何事にも全力投球して夢中になる私は、甥っ子と彼の犬、礼緒と過ごした後は、AI哲学研究会で東京に出た以外は、また山中湖で倒れてしまう。そして論文を書いた後も、ほぼ機能不全になっていた。母が付き添ってくれていたものの、疲れのせいか、体調不良のせいか、山中湖で倒れていた日々の記憶が断片的だ。
夏の成果は、オニヤンマを甥っ子と作って、石割山登山して、報湖祭の花火を見た事と、甥っ子滞在中に今学期の履修学生達の成績をつけた事。OISTの研究者に誘われた言語についての論文は、なんとか書き上げた事。また、五年目に入ったカスリス先生の日本哲学小史という大著の翻訳に、一応の目処を立てた事かな。そう。ハンブルグでは、日本の聖武天皇、聖徳太子の十七条憲法から鎌倉に至るまでの長い章を、ひたすら訳していた。帰国してからは、道元と西田を終わらせたかった。。。
言語についての拙論は、詰めが甘いようにも思うが、言語を使って考えるということはどういうことなのか。習慣的思考と言語の関係について、考えてみたかった。言語の限界が世界の限界といったヴィトゲンシュタインを研究した大森荘蔵が展開した、言霊論の重層性に関心を抱き、日本の近代言語学の祖でもありソシュール批判をした時枝誠記、Yale言語学のSapir-Worf仮説などや、現代のAIの祖を築くNorm Chomskyの生成文法を概観しつつ、彼らが言語の何を解き明かそうとしたのかをまとめた���空海の声字実相義やデリダのエクリチュールとパロールの問題にまでは展開できなかった。まぁ今後のネタの一つかな。言語を巡るアンソロジーにはなりそうだ。
先人達の試みを簡単にまとめると、言語を構造的とみたいのか、意味的とみたいのかの両極に別れる。言語の見方の差異を過去の研究者達を追うことで浮き彫りにした。両者のアプローチはスイングしつつ発展しゆく。ChatGPTで解明された事は、言語構造に偏り過ぎてもダメという言語の不思議を改めて確認した作業だったように思う。重層性が言語に内在するものであるならば、思考にも重層性が自ずとあるだろう。言語操作を通した概念操作でしか、人間が新しい発想を具体化できないのであれば、言語の貧弱は思考や発想の貧困化を表す。
どおりで、現代日本社会の言説は陳腐。知識層を自認する者たちは、目立つ奇抜な論を展開し、適当に和製英語を散りばめて煙に巻く事を好み、そして大衆も、そうした陳腐を好む。今年は高校野球は塾高大活躍だったが、彼らへの妬みや誹りもひどいものだ。桐蔭、智弁、日大や早稲田なら良いのに、何故、慶應義塾だと叩くのか。若き血の応援スタイルが無いからって、やっかみも甚だしい。伝統は一日にして作れるものではない。昨今の言論分野を見ても、高校野球を見ても、福沢諭吉の次の言葉を沁み��み思う。曰く、愚民の上に辛き政治あり。批判ポイントの論点がズレているところで批判されても、相手をするだけ無駄だ。多様性の時代、画一的な価値観の押し付け合いは、ますます無駄になっていくだろう。
上げ足を取られないように、馬鹿な癖に言いがかりをつけてくる相手をひたすら尊重し、口先だけに理解を示す戦法しか無いのが、現代のリベラリズムだ。つまり、永遠に平行線でいきましょうという態度だ。子供に意見を求めて、心の中で子供の意見を馬鹿にしている癖に、子供の意見に理解を示すエセ教育の結果でもある。馬鹿な大人に育ち上がった元子供たちは、自分の吐く意見がどれだけ適切なものか省みる能力が無い大人になっただけ。道理で言論がどんどん陳腐になる。
9月末までに、まだまだ3本ほど論文の締め切りを抱えているが、その内の一本は熊沢蕃山という江戸前期の陽明���者。神道と儒教の融合を体現すべく実践を重んじた儒学者。幕末水戸学は熊沢蕃山から多くのヒントを得ているだろうが、彼らが重視したのは朱子学。陽明学の実践的なものといえば、私のYaleでの恩師Tucker先生がコロンビアで研究していた貝原益軒。いずれ、実践的儒教と、仏教、神道の相互浸透性について、何か考えることができればと思っている。
しかし、今の時代は、蕃山のような混ぜこぜの良いとこ取りを理論体系が無いとして取り上げない。南方熊楠があまり評価されていないのと同じだ。西田と何が違うのか。私には、世俗的権威主義しか感じられない。在野した者は評価に値せず、新井白石や西田みたいに時の権力の傍にいた者が、それだけで評価されているのか。疑問はつきない。つまり、容易な事を難解に言った者は勝という権威主義と、民衆に交じり実践を重んじた者、在野主義は無視されるという、そういう構造なのだと思う。兎に角、他人から尊敬され、立派だと言われたかった人々だけが異様に注目されているだけのようだ。
バカが東大でハダカ踊りしていても、東大だから許される。むしろ東大の癖に凄いと尊敬されたりする。それなのに、日大でハダカ踊りしても、別に誰からも良い意味では注目されず、返って、世間を騒がせたと謝罪させられる。こういう民衆の意識構造とは何か。これこそ、ポランニーの群集心理を再度、再読する必要を感じさせる事態だ。ファシズムを回避するための活発な言説は、返って、新たなファシズムを助長しているというパラドクスなのだから。
。。。とつらつら、ヘルシンキ空港のラウンジで思いを馳せる。ヘルシンキ経由にして良かった。ロンドンは管制塔コンピュータの故障で混乱の極みらしく、多くの客がヘルシンキ経由を利用している。BAとのコードシェア便だから。来月のアイルランド、エディンバラ行きは、都度、ロンドン経由なんだけどなぁ。。。そして、日本も、今は先人達のお陰様でなんとか頑張っているけれど、今から十年も経たない間に、インフラが崩壊していくんだろうな。
若い人々を教えるようになって、六年目。今夏、コロナ前に教えた、顔に見覚えのある学生さんが、社会人になって働いているレストランで偶然再会した。彼女は私にとってはいつまでも二年生。真面目な頑張り屋さんだった学生。バイトなの?って聞いた私も不用意だったが、就職したんですと教えてもらい、大きくなったんだなぁと感��深かった。彼女は地味で、しっかりと社会を支える小さき市井の人々の代表のような方。
丸山眞男が重視した、市井の小さき人々が、これからますます、踏ん張らされていく。日本の衰退は著しい。一億総中流を実現し、八割型の国民は、現状に満足しきっているのだろう。勉強しなくても、なんとか食っていける。向上心なんて、そんなもん無くったってなんとかなる時代だ。夢を語るだけで尊敬され、夢が無い事を嘆き、夢を追いかけなくても、口先だけで夢を語れば許され、夢がある事を異様に褒める時代だ。つまり、夢なんか抱かない位、満たされている時代という事だ。失われた三十年は、成長していない事ばかりが注目されるが、底上げが浸透し、高卒は当たり前、大卒も普通になった底上げバブル時代の継続でもある。必死に生きる事なんて、命を繋いで生きるなんて事、とっくに忘却されているのだ。そんな時代に、真剣になれ、とか責任をもって、なんて多くの人にとって、白々しくしか聞こえないのだろう。
残念ながら身体が弱い私は、思うように身体を使えない。そして悔し涙ばかりする。身体の弱さ売りをしてサボる怠惰な人々と私の間にあるのは、元気だったらあーしたいこ~したいという気の焦りと苛立ちだけなのだろう。自分が動きたいほどには動けない時、私は苛立つ。苛立たず怠惰にできる人はサボっているんだなぁって思う。でも、他人は他人。私にできるのは、私も私なりに微力ながらに懸命に生きている不器用でブザマな姿を、見せ続ける事だけかもしれない。そこから、私の破天荒さに勇気を貰えたって同僚から言ってもらえたり、先生の授業楽しかったって振り返ってくれる学生がいるから。他者あっての私。お陰様で、ヘルシンキまで辿り着いています。
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#鎌倉七福神巡り #鎌倉 #御朱印 #御朱印ガール #御朱印スタグラム #お寺巡り #浄智寺 #布袋尊 #妙隆寺 #寿老人 #宝戒寺 #毘沙門天 #建長寺 #妙高院 #龍峰院 #回春院 #賓頭盧尊者 #びんずるそんじゃ 御朱印帳の裏って使ってる? (鎌倉) https://www.instagram.com/p/B2pLSRypX_V/?igshid=1lf5mdzu4v8kz
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■日本の自立を取り戻すには真の自立以外ない
加瀬英明
日本はいまから70年前の昭和27(1952)年に対日講和条約が発効してか ら、年を追うごとに国として尊厳を失うようになった。
いつの間にか、日本は誇りを失った国になってしまった。
世界のどの国でも学校教育の場で、その国の民として誇りをいだくよう に教えている。日本ではそうではない。
先の大戦の敗戦によって、明治の開国後、先人たちの努力の賜物として築 きあげた、あまりにも輝かしい業績をあっというまに失ったために、茫然 自失して自信を喪失したた
めだろう。
独立を回復してから70年もたつから、傷を癒したい。
私はナショナリズムを復活させるべきだと、主張するつもりはない。国と して自尊心を取り戻すことを求めている。
自尊心を失った人は、正常な社会生活を営むことができない。国も同じ ことだ。日本は私たちの根だ。国への誇りを失ってしまうと、日本が根腐 れして立枯れてしまう。
多文化尊重とか、グローバル市民といった、聞こえだけよい菌によって 根腐病が進んで、樹齢が2000年以上の大木が蝕まれている。
私を右翼、極右だといって誹謗する人々がいるが、的外れだ。ナショナ リストだと思ったことはない。
ナショナリズムは自国が他国に優越していることを、言いひろめる。戦 時下なら許されようが平時にはそぐわない
自尊心を欠いた国は国を失う。私は一人の凡人として、自尊心を欠いた 国 は立ち行かないと憂いている。
自らを尊ぶ心を衰えさせた国は生命力が弱まって、相手の国と対等な立 場にたとうという気概を失ってしまう。
敵基地を攻撃する能力を持つべきか、問題になっているのが、じつによ い例だ。
相手が日本本土を攻撃する能力を備えているのに、そのような手段を 持ってはならないと主張する国会議員が与党のなかにもいるのは、どうし たことなのだろうか。
このような自尊心を捨てた人々は、日本が性悪(しょうわる)な国家だか ら、重い責任を負ったり、負わせてはならないと信じているのだろう。弱 いことが平和を守るという、不気味な妄言(たわごと)を口のなかでいつも つぶやいている。
現行憲法に崇高な平和主義が宿っているといって擁護している人々も、 昭和50年代に日本教職員組合(日教組)大会が開催された時に、アルバ イト、リベート、プレゼントを禁じる“三ト決議”が採択されたのをみて も、けつして純粋な精神を 持っていない。
もっとも、かつて貧しかった時代には、自分に力をつけなければ生きて ゆけなかったから、人がそれぞれ強い個性を持っていた。
ところが、物質的な豊かさが増すにつれて、たいして努力をしなくて も、ある程度の生活が営めるようになったために、ひ弱になって、人も国 も逞しさを失った。
このところ日本から個性を持った人々が、ほとんどいなくなった。独立 自尊福沢諭吉翁が「独立自尊」という言葉を、遺している。自らを尊ぶこ とによって、人も国もはじめて独立することができる。
私は歌が時代の精神を映しているので、明治以後の演歌、歌謡曲、軍歌 などの歌詞に興味をもってきた。
昭和20年代に、「こんな女に誰がした」という歌が流行(はや)った。ア メリカ兵を相手に春をひさぐ女をうたった、自暴自棄な歌詞となっている。
独り立ちするのを否定した憲法を守ろうとしている人々は、自暴自棄に 陥っているとしか説明できない。
護憲派の人々は他国が軍を保有するのは当たり前のことだとみなしてい るが、日本は他の国々と対等でないから、軍が存在してはならない。
近隣の外国が1970年代に入ってから、尖閣諸島を自国の領土だと偽って 「核心的利益」と称して、その国の武装公船が連日のように領海を侵犯し ていると いうのに、政
府はその国に媚びて、尖閣諸島が沖縄県石垣市に属しているのに市職員も 含めて、日本国民の島への上陸をいっさい禁じている。
なぜ、日本を侮る外国の機嫌をうかがわなければならないのだろうか。 外国に位負けしているのだ。
新潟県佐渡島の金鉱山跡を、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の歴史 文化遺産に登録しようとしたのに対して、韓国が佐渡金山で韓国人が奴隷 労働を強いられていたと、根も葉もない主張を行って抗議すると、腰がふ らついて、一時、申請を延 期するといったのもそうだ。
文化安全保障のすすめ
日本は背骨がない国となってしまった。確固たる信念がなく、いつも動 揺して水母(くらげ)のように漂っている。
敗戦直後の日本人は、まだ毅然としていた。
終戦の年に、私は小学3年生だった。東京・四谷の家を空襲によって焼 かれたために、鎌倉で育った。
「リンゴの唄」(昭和20年、サトウハチロー作詞)��、ラジオから流れ ていたので、よく知っていた。
占領下だったが、四谷の近所の床屋が店を焼かれたので、なじみの客を 鋏と道具を持って巡ってわが家にもきた
私も刈ってもらった。南方から引き揚げた復員兵だった。
ある時、「リンゴの唄」を口ずさみながら、鋏を使った。「これは日の 丸の歌ですよ。仲間はみなそう思っています」といった。
赤いリンゴに口びるよせて
だまってみている青い空
リンゴはなんにもいわないけれど
リンゴの気持はよくわかる
リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ
歌いましようかリンゴの歌を
二人で歌えばなおたのし
皆なで歌えばなおなおうれし
リンゴの気持を伝えよか
リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ
復員兵にとって、リンゴが日の丸だった。占領下で日本は国旗の掲揚を 禁じられていた。いまでも、この歌を聞くと襟を正す思いがする。
私は一度、サトウハチロー先生に伺ってみたかったが、その機会がな かった。
学校教育の場で青少年に日本人として当然な自尊心をいだくことを、教 えなければならない。
昨今、経済安全保障を確立することが急務だという声があがっている が、文化安全保障こそ必要ではないか。
就職前の大学生の人格教育に当たっている株式会社キャリアコンサル ティングという称賛するべき教育会社がある。私はしばらく前に豊島区公 会堂に招かれて、800人あまりの男女大学生を前にして講演したことが あったが、学生たちが全員規律正しく目が輝いているのに感動を覚えた
本誌に高森明勅氏が、皇室について連載を始めたのが嬉しい。
日本の現状を嘆いている多くの識者が、米国が占領下で日本国民を“洗 脳”して東京裁判史観を植え付けたために、国民精神が混乱していると いって米国のせいにしているが、筋違いだ。
日本国よ、目覚めよ
米国による占領は、僅か六年だった。自虐史観と日本国憲法が定着した のは、米軍の力によるものではない。占領軍の傀儡となった大新聞や、学 者たちが保身のために協力
したのが、今日に至っている。
独立を回復した直後に、占領政策による弊害を正すべきだったのに、七 十年にわたって放置してきた日本国民が、責められるべきだ。
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浄智寺 和室より庭園を望む . #鎌倉寺巡り #禅 #仏陀 #寺 #北鎌倉 #鎌倉 #山ノ内 #神奈川 #臨済宗 #円覚寺派 #浄智寺 #鎌倉五山 #鎌倉五山第四位 #金宝山 #鎌倉江ノ島七福神 #布袋尊 #和室 #庭園 #日本庭園 #カメラ #写真 #写真好きな人と繋がりたい (Jōchi-ji) https://www.instagram.com/p/BybZTMRAQnz/?igshid=1biflqj4claki
#鎌倉寺巡り#禅#仏陀#寺#北鎌倉#鎌倉#山ノ内#神奈川#臨済宗#円覚寺派#浄智寺#鎌倉五山#鎌倉五山第四位#金宝山#鎌倉江ノ島七福神#布袋尊#和室#庭園#日本庭園#カメラ#写真#写真好きな人と繋がりたい
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#東京街歩き な #今日も今日とて散策中 ♪(^o^)v . #亀戸七福神 #大黒天 #恵比寿天 の 二天を奉る #香取神社 。 . 境内広めでゆったり。 ただ、結果として結構な人口密度高め。 右を向いても左を向いても他の参拝客が かなり写り込んでしまうので、これ1枚しか 撮ってないヲチ。 どれだけ疲れてたんだ。。。orz 参拝客は地元民4割、観光客6割、くらいかな。 子連れ率と #御朱印 授与率他で推測。 . . . . . のどかな雰囲気とガラーンとした境内に 一息ついたら動きたくなくなった神社。 摂社とか植え込みもあるけど、 みんなベンチの背面にあるので 砂利道がそのまま視界なんだよね。 勝石も社務所側に寄ってるし。 あと、確か白い石を見つけて持ち歩くと お守りになるとかならないとか。 俺も探してみたかったなぁσ(゚∀゚ )。 ↑疲れて体力ゼロだったダメ人間の言い訳。 . 撮影:2021/04/10 . #東京散策ウォーキング #東京散策 #東京散歩 #東京歩き 東京住み 浅草街歩き 浅草散策 浅草散歩 浅草歩き #東京単身赴任 #TokyoPhotoClub #TokyoTokyo #今日もX日和 #XF10 #FujifilmXF10 #Fujifilm_XF10 XC1650 #そうだ鎌倉行こう #1192かまくらさん 夕暮れハンター 夕暮れ散策 #その旅に物語を #たびすたぐらむ #旅スタグラム #KanagawaPhotoClub #御朱印ガール #神社ガール 寺ガール #御朱印はご縁 #神社仏閣巡り #Jalan_Travel #亀戸香取神社 . (亀戸香取神社) https://www.instagram.com/p/CT031sdFJh3/?utm_medium=tumblr
#東京街歩き#今日も今日とて散策中#亀戸七福神#大黒天#恵比寿天#香取神社#御朱印#東京散策ウォーキング#東京散策#東京散歩#東京歩き#東京単身赴任#tokyophotoclub#tokyotokyo#今日もx日和#xf10#fujifilmxf10#fujifilm_xf10#そうだ鎌倉行こう#1192かまくらさん#その旅に物語を#たびすたぐらむ#旅スタグラム#kanagawaphotoclub#御朱印ガール#神社ガール#御朱印はご縁#神社仏閣巡り#jalan_travel#亀戸香取神社
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古典尺八楽愛好会 ミニ講座 No.25 薦僧の実態を知る!! vol.3
<薦僧が吹いた尺八は一節切?>
(国立国会図書館より)
嘉永六年成立(1861)の『傍廂(かたひさし)』(斎藤彦摩呂著)を見ると、「托鉢笛」として、指孔の位置及び長さなど(根際の部分を用いることは除いて)『三十二番職人歌合』の図と共通点の多い尺八が記載されている。すなわち歌口と一節をはさんで表の孔がまとめて穿たれている点は中世の尺八と同様の作りであり、いわば中世尺八の下の部分に何節かを継ぎ足し、長くしただけという形である。指孔の位置が上部に寄っている点は不自然に思われるが、各部分の寸法も記載されていることから、何らかの根拠に基づくものと思われる。『三十二番職人歌合』の図も、指の位置が上にあるのが不自然に思っていたが、こうした「托鉢笛」の存在が事実とすると、一応歌合が催された明応三年当時の形態を正確に伝えているものとなる。但し、室町 末期頃のものと思われる『風俗図屏風』(東京国立博物館)を見ると、同じ薦僧でも、明らかにそれまでの短い中世尺八を吹いているので、一概に薦僧の尺八を『三十二番職人歌合』のような多節の長い尺八に統一して理解することはできない。か、ともかく、十五世紀の末頃から、いわゆる一節だけの中世尺八に加えて、長さも増した多節の尺八が創出され始めていたと考えることは可能であろう。そしてその形態的変化は、前述のように中世尺八を母胎としておこなわれたと見ることもできるように思う。
『風俗図屏風』(東京国立博物館)
一節切を吹く薦僧が描かれています↓
https://www.tnm.jp/uploads/r_collection/LL_C0022485.jpg
https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=A11090
『中世尺八追考』 井出幸夫
高知大学学術研究報告 第四十一巻(1992年)人文科学
この論文を読んだ時は「おおお!」と感動しました。何故なら、一節切から普化尺八への変容がハッキリしないので、一節切の長さが長くなり、その後、穴の位置も変わっていったのかと納得したからです。しかしながらその後、尺八研究家の神田可遊氏に見解を求めたところ、この「托鉢笛」は全くいい加減なもの、との事。
なるほど。
「托鉢笛」に関して不明瞭な点を整理すると、
江戸時代後半に書かれた書物のわりには現物が残っていない。
節の数が多すぎる。
5寸の中に穴が4つは狭すぎる。
神田氏曰く、「短笛」の一節切の一尺八分という長さは見たことが無いそうです。
これが江戸時代前半1600年代に書かれているなら信憑性も無くはないですが、江戸時代後半に書かれた随筆というのがアヤシイ🤔
結局、謎です!笑
<尺八を吹く職能と芸能者たちの関係>
楽所で笙を掌る(つかさどる)豊原家の当主統秋が『體源抄』(1512)の一節に具体的に語られる。
田楽の者たちが尺八を吹く職能が自分たちのものであると主張していたのに対し「賀茂切」という尺八の設計図がもとはといえば豊原家のものであるとし、田楽の増阿・頓阿・聞阿らは、豊原家の量秋・弟子の敦秋・豊原統秋から、設計技術や調子、そして因縁古事を伝えられたのだと主張するのである。統秋がこのように記述した背景には、田楽の者たちとの尺八を吹く職能をめぐる争いが存在したのであろう。
豊原家の事に関してはこちらの講座をご参照ください↓
第十一回ミニ講座 田楽と尺八
https://shakuhachi-kataha.tumblr.com/post/613614728998158336/%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%B8%80%E5%9B%9E%E3%83%9F%E3%83%8B%E8%AC%9B%E5%BA%A7-%E7%94%B0%E6%A5%BD%E3%81%A8%E5%B0%BA%E5%85%AB
https://shakuhachi-kataha.tumblr.com/post/612438739930775553/%E7%AC%AC%E5%8D%81%E5%9B%9E%E3%83%9F%E3%83%8B%E8%AC%9B%E5%BA%A7%E9%AB%94%E6%BA%90%E6%8A%84%E3%81%AE%E5%B0%BA%E5%85%AB
「體源抄」についてはこちらを参照ください↓
柴屋軒宗長の愛用した尺八もこちらに記載してあります。
第十回ミニ講座「體源抄」の尺八
https://shakuhachi-kataha.tumblr.com/post/612438739930775553/%E7%AC%AC%E5%8D%81%E5%9B%9E%E3%83%9F%E3%83%8B%E8%AC%9B%E5%BA%A7%E9%AB%94%E6%BA%90%E6%8A%84%E3%81%AE%E5%B0%BA%E5%85%AB
統秋が設計図が豊原家のものであることを強調している点について。
当該期には、尺八を作る技術と吹く職能がおそらく未分離。豊原家の組織や田楽の座などの芸能集団の中で、設計技術が重要なものとして保持・管理されていた事が窺われる。
尺八を吹く職能だけをもって乞食をした薦僧は、これらの芸能集団と無関係に職能を持ち得たのか。
(『宗長手記』 国立国会図書館より)
連歌師としても有名な柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)(1448ー1532)が晩年に著わした『宗長手記』によると、宗長と親交のあった紹崇(じょうしゅう)という薦僧がおり、近時堺の夢庵(肖柏しょうはく)の弟子になり、尺八を吹いて旦那から施しを受けて生計を立てていた事が知られる。この薦僧は、東山霊山の時宗寺院と臨済宗大仙院に四、五年いた前歴を持つ。先の『體源抄』で田楽の増阿が尺八の設計図を修正したのもこの霊山であり、紹崇は東山霊山で尺八を吹く素養をもち薦僧になった可能性がある。少なくとも時宗・臨済宗下の僧侶から、尺八吹奏を専業とする薦僧に転身した図式は明らか。
→薦僧は時宗などを含む諸芸能集団から離脱ないし脱落し、専業化したところに成り立ったと推測。薦僧は尺八吹奏を専業として乞食をした仏教系芸能者であった。
参照
「十七世紀における虚無僧の生成」保坂裕興
要は、尺八をめぐり、雅楽の宗家と田楽の伝承者たちが争っていたのに、薦僧が突然降って湧いて尺八を演奏することを職能とすることができたのか?ということです。
『宗長手記』にあるように、とある薦僧が時宗や臨済宗の寺に滞在していて、その寺には田楽の人も出入りしていたとの事。そういった関係から新たに尺八に関わりをもつ仏教徒でもあり芸能者でもある人、即ち薦僧が誕生したのではないかという推測です。
『宗長手記』を書いた本人も尺八を吹いていたり、中世の文学にも尺八が登場します。
ということで、次回は、
「中世文学と尺八」について探求します!
よくぞ地震、火事、戦火をくぐり抜け何百年も保存されていたと、先人に感謝です。
中世の尺八巡りはまだまだ続きます〜。
...
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\おにわさん更新情報📸/ [ 長野県下諏訪町 ] 慈雲寺庭園 Jiunji Temple Garden, Shimosuwa, Nagano の写真・記事を更新しました。 ーータイプの異なる3つの名園。武田信玄作庭説もある池泉庭園に京都 #植音 が手掛けた石庭、小口基實作庭の枯山水庭園。 ・・・・・・・・ 白華山 慈雲寺は諏訪大社下社春宮⛩から程近くにある、戦国時代には武田信玄により中興開基された寺院。本堂裏の池泉庭園は #武田信玄 作庭によるとも伝わり、また本堂・書院前にはそれぞれ京都の造園会社・植音さん、長野の作庭家・小口基實さんにより手掛けられた #枯山水庭園 “帰錫庭”や書院庭園が広がります。 2019年夏、松本アウェーからの信州庭園巡り。以前からここはオススメされていたのですが想像以上に素晴らしかった…! 参道のアプローチの杉林🌲🌲から雰囲気が幽玄でとても良くって――アジア系のカップルが写真撮影してて。この日泊まってた上諏訪のゲストハウスも殆どがアジア系の若者だったんだけど、訪日客にも既に有名なんだと感じた。 慈雲寺の創建は1300年(正安2年)。鎌倉の大寺院『建長寺』の住職も務められた #一山一寧 国師👨🦲により、諏訪大社下社の神官の最高位“大祝”を務めた #金刺満貞 を開基として創建。 一山一寧国師は地元の中国にならって日本初の八景 #諏訪八景 を選定。この慈雲寺も“慈雲晩鐘”として選定されています。 その後、京都『建仁寺』の住職も務めた鎌倉〜室町の著名な禅僧のひとり #雪村友梅 禅師も慈雲寺に入るなど信州を代表する寺院の一つとして発展。 戦国時代には甲斐『恵林寺』の住職も務めた天桂玄長禅師が入り、その縁で武田信玄の援助により境内が整備。現在でも寺紋には武田菱が用いられています。 ただし武田信玄により整備された伽藍はその後焼失、現在残る本堂や山門は江戸時代中期〜後期に再建されたもの( #下諏訪町指定有形文化財 )。 その他、天桂禅師お手植えとされる樹齢400年以上のアカマツ🌴は下諏訪町指定天然記念物で高島城🏯を築いた日根野織部正高の供養塔も町文化財、また室町時代の梵鐘が長野県宝となっています。 本堂に掲げられている扁額は一山禅師に帰依していた #後宇多法皇 による筆…などなど、所蔵されている仏像や前述の町指定文化財の本堂や山門の棟梁まで判明してリーフレットに紹介されている(=クリエイターを尊重している?)のがこのお寺のユニークなところの一つ。 本堂は立川流工匠・初代立川和四郎富棟の弟の子・上原市蔵正房。山門は大隅流工匠・村田長左衛門矩重。そして庭園の作庭者についてもやはり説明があります。 . ■帰錫庭 本堂正面の石庭“帰錫庭”(きしゃくてい)の作庭は神戸・祥福寺僧堂師家の #河野太通 老師の作庭で、築庭の施工は京都の植音によるもの。 高野山金剛峯寺の『蟠龍庭』🐉を思い出す広大な #回遊式枯山水庭園 は別名を“釈迦十大弟子の庭”と言われ、修行のための地方伝道から帰るお釈迦様の弟子たちの様子を、四国・四万十川源流域🌊の巨石・銘石を用いて表現したもの。 で、京都の植音さん。名前を書くのが初めてなのですが、明治〜大正期には七代目小川治兵衛(植治)とも共同で作庭に携わり「東の植治、西の植音」とも称されたとか。 おにわさんで紹介済みの庭園で言うと、妙心寺塔頭の『春光院庭園』も担当。京都府の長安寺というのは福知山の『長安寺庭園』(重森完途作庭)のことかなあ? (あと以前安価を理由に泊まった京都の旅館のお庭が良くて気になっていたのだけど…そこも実績にあったので後日紹介することにする) 小口基實さんの枯山水庭園も一枚目に載せたいので、その2へ続く。 〜〜〜〜〜〜〜〜 🔗おにわさん記事URL: https://oniwa.garden/jiunji-temple-%e6%85%88%e9%9b%b2%e5%af%ba%e5%ba%ad%e5%9c%92/ ーーーーーーーー #庭園 #日本庭園 #garden #japanesegarden #japanesegardens #zengarden #諏訪 #下諏訪 #下諏訪町 #suwa #shimosuwa #信州 #長野 #長野県 #nagano #枯山水 #karesansui #おにわさん #oniwasan (慈雲禪寺) https://www.instagram.com/p/B_MMLwghMv9/?igshid=130nzpc7x9ze7
#植音#武田信玄#枯山水庭園#一山一寧#金刺満貞#諏訪八景#雪村友梅#下諏訪町指定有形文化財#後宇多法皇#河野太通#回遊式枯山水庭園#庭園#日本庭園#garden#japanesegarden#japanesegardens#zengarden#諏訪#下諏訪#下諏訪町#suwa#shimosuwa#信州#長野#長野県#nagano#枯山水#karesansui#おにわさん#oniwasan
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【石川県謡曲古跡めぐり能登編】12箇所目 2021/3/23
能「藤」「野守」「多聞寺 」
石動山
《石川県鹿島郡中能登町・七尾市・富山県氷見市》
石動山(せきどうさん)は、石川県鹿島郡中能登町、七尾市及び富山県氷見市にかけて広がる寺院跡、城郭伽藍跡です。
石動山の標高は565m。開山は紀元前92年(崇神天皇6年)とも717年(養老元年)とも言われていて、延喜式には伊須流岐比古神社として登場します。養老年間に泰澄が開いたという説が妥当としても、それ以前から既に霊場として開かれていたとしても全く不思議ではありませんので、どちらも正しいのかもしれません。
756年には泰澄が講堂を建立し、石動寺をあらためて天平勝宝寺としています。767年、泰澄の死後には真言宗の仁和寺・勧修寺の法親王が交互に、大宮坊座主位を管摂するとされました。
鎌倉時代には、五社権現と呼ばれ、厳しい山岳修行を求めて多くの修験者らが石動山に集まるようになりました。そして真言密教の霊峰として広く知られるようになりました。京都仁和寺を本山とし、後白��天皇の皇女宣陽門院の祈願所でもありその権威は高いものがあったようです。さらに757年には北國七ヶ国の智識米勧進の特権を持つようになり、急速に勢力を伸ばすようになりました。最盛期の中世には、本社以下80末社、院坊360余り、衆徒約3,000人の規模を誇ったと伝えられています。
石動山衆徒は「智識米」とし���一戸当り3升の米を集め、しかもしばしば強引に行われたため、衆徒たちは「泣く子も黙る石動山衆徒」と怖れられていました。
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御朱印がもらえる神社 GW特集 日比谷線ふらり散歩 ・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・ ⛩神田神社(かんだじんじゃ) ・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・ 江戸三大祭で有名な神田祭は神田神社の祭礼。 ▶️住所 東京都千代田区外神田2-16-2 ▶️初穂料(御朱印料金): 300円 御朱印がもらえる場所: 境内左側 もらえる御朱印の種類: 1種類1つずつ ・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・ ⛩椙森神社(すぎのもりじんじゃ) ・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・ 江戸時代、限られた社寺にのみ許された富くじの興行をこの境内で行っていたことや“日本橋七福神”の恵比寿神を担当していることから、宝くじ購入前の願掛けに訪れる参拝客が多��。 ▶️住所⇒東京都中央区日本橋堀留町1-10-2 東京メトロ日比谷線・都営浅草線「人形町駅」 徒歩5分 東京メトロ日比谷線「小伝馬町駅」 徒歩5分 ▶️初穂料(御朱印料金): 500円 御朱印がもらえる場所: 社殿右側の引っ込んだところ もらえる御朱印の種類: 3種類1つずつ ・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・ ⛩松島神社(まつしまじんじゃ) ・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・ 鎌倉時代の元亨以前にこの辺りが入り海であった頃、松の木が鬱蒼と生えた小島に柴田家の邸内社として祭られてあったが、天正十三年(1585年)松島稲荷大明神として一般に公開参拝の自由が許され、大正五年六月十日松島神社と改称される。 ▶️住所: 東京都中央区日本橋人形町2-15-2 ▶️初穂料(御朱印料金): 500円 御朱印がもらえる場所: 境内の中の社務所 もらえる御朱印の種類: 3種類 東京メトロ日比谷線「人形町駅」 徒歩5分 東京メトロ半蔵門線「水天宮前駅」 徒歩2分 都営浅草線「人形町駅」 徒歩7分 都営新宿線「浜町駅」 徒歩10分 ・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・ ⛩秋葉神社(あきばじんじゃ) ・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・ 当初は、鎮火神社と呼ばれていましたが庶民達は、 火防の神として有名であった秋葉大権現が勧請されたと勘違いし次第に秋葉様と呼ばれるようになりそれが現在の秋葉原の地名の由来となる。 ▶️初穂料(御朱印料金): 500円 御朱印がもらえる場所: 境内の中の社務所 もらえる御朱印の種類: 2種類 ・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・ ⛩金刀比羅宮(ことひらぐう) ・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・ 御祭神は、大物主神と崇徳天皇でご利益は、五穀豊穣、殖産興業、招福除災となっています。御朱印は、シンプルながら迫力のある物となっています。 ▶️初穂料(御朱印料金): 決まりがない気持ち分だけ徴収 御朱印がもらえる場所: 境内の中の社務所 もらえる御朱印の種類: 1種類 東京メトロ銀座線 『虎ノ門駅』2a出口より徒歩1分 東京メトロ日比谷線 『虎ノ門ヒルズ駅』A1・A2出口より徒歩3分 東京メトロ丸ノ内線/千代田線 『霞ケ関駅』A13番出口より徒歩5分 ・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・ +・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・ 検索に疲れていませんか? オトコロドットコムでは、ジャンルを選んで エリアを入れるだけでニッチな場所も 一目で比較できますよ🔍 さらに歯車をクリックすると カテゴリー別にえらぶことができてとても便利。 掲載店様も募集中! +・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・ ご紹介したお店や施設はほんの一部です。 もっと詳しく知りたいな・・ 他のお店も調べたいなあ・・って方は、 ぜひ5枚目以降の画像もご覧くださいね。 +・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・・・・+・ #神社 #パワースポット神社 #お散歩 #日比谷線 #千代田線 #御朱印 #御朱印帳 #散歩 #神社めぐり #torii #神社巡り #神社仏閣巡り #神社仏閣 #⛩️ #shrine #鳥居 #パワー #秋葉原 #虎ノ門 #神田 #東京メトロ #japan #銀座線 #地下鉄 #オトコロドットコム +・・・・+・・・・+・・・・+・ https://www.instagram.com/p/CORlng5jtW6/?igshid=iod08pckity
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熊野古道みたく人呼べるようにすればいいのに。
以下は会員記事より転載。
十和田古道は本県側の五戸道、七戸道、三戸道、秋田県側の白沢道と藤原道。うち五戸道は五戸七崎(ならさき)にあった中世の永福寺(八戸市豊崎町上永福寺、七崎神社・普賢院の地)から休屋・十和田御堂(みどう)(現在の十和田神社)に向かう。元禄年間(1688~1704)、五戸道に大掛かりな改修工事を施したのが「十和田新道」で、子ノ口交差点に残る碑に記録されている。
江戸時代、寺社参詣が普及し十和田信仰は最盛期を迎えた。南部藩は五戸代官に命じ、落ち葉や積雪でも迷わないよう深く掘り下げた参詣道(堀道)を整備した。
人々は山や谷を越え、難行苦行の末に十和田湖へたどり着いた。苦しみを乗り越えてこそ、大願成就の道が開けると信じていた。
昨年11月から5月末まで両グループは合同で4回、計7日間にわたる現地踏査を行った。月日山一帯から惣辺(そうべ)原野までは新道工事の痕跡が濃厚で、約7割が堀道として残っていた。最も大形の堀道は上幅約3メートル、下幅約1.5メートル、深さ約3メートルの堂々とした造りだった。
ところが惣辺原野を越えて十和田湖に近づくと堀道は一転、目立たなくなる。工事が長期化し藩の財政逼迫(ひっぱく)が原因とみられる。
月日山では修験(しゅげん)の行場(ぎょうば)となった岩場や、みそぎ払いの清水を確認。霊山の入り口となる結界と分かった。
古道沿いでは御神燈や道標、朽ち果てた鳥居、城館・見張り所跡などを見つけた。遙拝所(奥入瀬渓流・銚子大滝近く)にはお堂跡とみられる平場(ひらば)もあった。
調査に関わった斉藤利男・弘前大学名誉教授(日本中世史)は「霊山十和田は北東北最大の霊場で、多くの参拝客が押し寄せたからこそ、南部藩が10年以上の歳月と巨費を投じて堀道の参詣道を整備した。十和田信仰の世界は予想以上に壮大だった」と総括した。
小笠原理事長は「古道を守る中世(戦国時代)城館と見張り所を発見したのは驚きで、津軽為信の挙兵後、南部と津軽をつなぐ古道の重要性と緊張感が伝わった」と振り返った。
観光地として知られる十和田湖は近年、衰退が目立つ。東日本大震災で打撃を受け、新型コロナウイルスの影響も深刻だ。中川会長は「十和田古道のゴールは十和田湖。古道の評価が定まると十和田湖の価値も上がる。美しい自然に歴史の要素が加わると、十和田湖の魅力アップにつながる」と期待した。
◇
霊山十和田 十和田湖はかつて高山の頂上に神秘の湖が広がる霊山で、修験者の修行の場だった。参詣者は休屋の解除(はらい)川(神田川)でみそぎを行い、杉並木の参道を神仏習合の寺院・十和田御堂(みどう)(現在は十和田神社)に向かった。地名は参詣者の宿泊小屋(休屋)に由来する。平安時代末期の開山で、湖底から鎌倉時代に流通した北宋銭(ほくそうせん)が大量に見つかっている。
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#鎌倉 #雨の鎌倉 #御朱印 #御朱印集め #鎌倉七福神巡り #布袋尊 #寿老人 #毘沙門天 #寺 #お寺 #お寺巡り #雨女 #寺女 #賓頭盧尊者 #浄智寺 #妙隆寺 #宝戒寺 #建長寺 #妙高院 #龍峰院 #回春院 (Kamakura) https://www.instagram.com/p/B2pKBA-JR5X/?igshid=iv61ptiuism8
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5.1. モンゴルの侵略と支配
問い3:高麗の建国と滅亡について>5. モンゴルの朝鮮支配>5.1. モンゴルの侵略と支配
目次は こちら
5.モンゴルの朝鮮支配
5.1. モンゴルの侵略と支配
『朝鮮儒教の二千年』の「第7章 文臣の退廃と武臣政権」の「3 モンゴル(元)との30年戦争」の160ページより、要約して引用します。
[高麗がモンゴル軍とはじめて接触したのは、1218年であった。というのはモンゴルが金を攻めたとき、その支配下にあった契丹人の一部が高麗の北部に侵入し、江東城(平安道)を根城にして荒らしまわった。高麗軍は、哈真の率いるモンゴル軍と共同して、この江東城を掃蕩した。
それからモンゴルの使者たちは、高麗の国庫では賄い切れないほどの貢物を要求しつづけ、乱暴をはたらいた。
(中略)
1231年に元帥サルタイ(撒礼塔)が率いる騎馬軍団が使者の殺害を口実に、平安道・黄海道の諸城を席捲して開京(開城)を包囲し、一部の別軍は忠清道の忠州まで南下した。三十年戦争の幕開けである。
高麗政府は黄金70斤、シロガネ1300斤、儒衣1000領、馬170頭の貢物のほかに、諸将にも莫大な贈り物を差し出した。モンゴル軍は72名のダルガチ(目付役)を残して引き揚げた。
武臣政権の崔瑀はモンゴルとの断交を決意して72名のダルガチを皆殺しにし、都を漢江河口に位置する江華島に移した。
(中略)
モンゴルは問罪の兵を波状的に派遣して本土を荒し、江華島の国王に出陸して入朝するよう圧力をかけた。(中略)モンゴルは問罪の兵を波状的に派遣して本土を荒し、江華島の国王に出陸して入朝するように圧力をかけた。
(中略)
その問罪のため第六次侵入をはじめた。主将はジャラルタイ(車羅大)であった。『高麗史』には、その凄まじさを次のように書いている(高宗41年条)。
《この歳(1254年)蒙古兵に捕虜となった男女は、およそ20万6800余人、殺戮された者計るべからず、州郡を経るところ皆煨燼となり、蒙古兵の乱あってから、此の時より甚だしきはなし。》
結局国王をはじめとして文臣の柳璥らは、モンゴルとの講和のために抗戦派の除去を画策し、1258年に武臣の金仁俊と結託して崔氏政権四代目の崔竩を殺害した。そして太子倎(後の元宗)がモンゴルに入朝して講和を誓い、江華城をこわすことを約束した。]
1231年にモンゴル軍の侵略を受けて以来、1258年の講和まで27年間、高麗は江華島に都を移して服属を免れてきました。そして、その間の韓半島に於ける高麗国民は良くモンゴル軍と戦いそれなりの成果は挙げたが、逆にモンゴル軍による六度にわたる侵略の一般国民の被害は甚大でした。
執権者にとって、大国に隣接する小国の「以小事大」か「自立」かの判断の難しさが心を悩ませます。27年間耐えた後に、ついにモンゴルとの講和に踏み切り、韓半島に平和と安定が訪れました。
講和の13年後の1271年に、人質としてモンゴルの大都(北京)に滞在していた高麗の元宗の太子諶(後の第25代忠烈王)に、元の世宗フビライはその皇女を降嫁させています。その後、高麗の王子が元の公主(皇帝の娘)を娶ってモンゴルの帝室の娘婿として高麗の王位につくことは慣例に成りました。
『朝鮮史1』には『朝鮮儒教の二千年』と異なる側面が「第5章高麗後期」の「モンゴル支配層としての高麗王家」の251ページ次のように記しています。
[先にもふれたとおり、忠烈王のときに設立されて同王が長官を務めた征東行省は、もともと日本侵攻のための司令部として一時的に設置されたものだった。しかし、1287年に再設置されてからは、
高麗の地を管轄する元の最高統治機関として常設されるようになった。こうして、中国とその周辺地域におかれた他の行省とともに、高麗は形式上、元の一地方単位として位置づけられることに成った。
(中略)
しかし、その長官(丞相)は、歴代高麗王が兼務した。]
高麗が元の支配下に入ると、元と高麗の連合軍による日本遠征が始まりました。第一次日本遠征(甲戌の役、日本史上の文久の役)は1274年に、モンゴル軍(蒙・漢・女真)1万5000人を主体として、高麗軍は、戦艦900隻を始め、兵員、船乗り、水夫など5600人が補助軍として従軍しました。この遠征が失敗に終わると、元は高麗の忠烈王を朝鮮半島進発部隊の司令長官に任命して、1281年に元軍4万名と高麗軍1万名からなる東路軍と、中国南部より進発した江南軍10万名により、第二次日本侵攻(辛巳の役、日本史上の弘安の役)が実施されました。この第二次侵攻も、悪天候の影響もあって失敗に終わり、元と高麗は再び多大な人的・物的被害を出す結果に終わりました。
なお、元軍の日本侵攻に対して悪天候が影響を及ぼしたのは事実のようですが、それは元軍と高麗軍の連合軍が負けた理由を元皇帝に悪天候のために負けたと報告したためであって、本当は襲来軍の兵士の矢が尽きて戦えなくなっていたことが『世界史の中の蒙古襲来』の「神風は吹いたのか?大風雨は撤退理由ではない」に記載されています。また、当時の戦いを描いた「蒙古襲来絵詞」が前掲書に示されており、蒙古兵が日本武士から矢を射かけられて逃げている図の中に、蒙古兵の矢を入れる器が空になっている図が示されています。
蒙古兵の矢が無くなったのは、対馬の守護代の宗助国と、壱岐の守護代の平景隆が徹底して抗戦し、全滅するまで戦ったためであると、『世界史の中の蒙古襲来』に記されています。
なお、元軍の日本侵攻に対して悪天候が影響を及ぼしたのは事実のようですが、それは元軍と高麗軍の連合軍が負けた理由を元皇帝に悪天候のために負けたと報告した為であって、本当は襲来軍の兵士の矢が尽きて戦えなくなっていたことが『蒙古襲来』の「神風は吹いたのか?大風雨は撤退理由ではない」に記載されています。また、当時の戦いを描いた「蒙古襲来絵詞」が『蒙古襲来』に示されており、蒙古兵が日本武士から矢を射かけられて逃げている図の中に、蒙古兵の矢を入れる器が空になっている図が示されています。
蒙古兵の矢が無くなったのは、対馬の守護代の宗助国と、壱岐の守護代の平景隆が徹底して抗戦し、全滅するまで戦ったためであると、『世界史の中の蒙古襲来』に記されています。
元寇が終わった3年後の1284年、鎌倉幕府の執権の北条時宗は鎌倉に円覚寺を建立し、元寇による犠牲者を、敵も味方も区別なく供養しました。敵も人間であると認めて、丁寧にその冥福を祈ったのです。この中には戦いで亡くなった多くの高麗兵も含まれていました。
『朝鮮の歴史・新版』には、「第三節 モンゴルの支配と高麗の滅亡」の129ページで、元の日本遠征に関して、次のように記しています。
『研究会史』には、元の日本遠征に関して、次のように記しています。
[高麗を支配下に置いた元の世祖は、日本遠征を計画したが、それは三別抄の反乱が鎮圧されたあと、七四年と八一年に実行された。二回にわたる遠征で高麗は艦船を建造し、兵員を提供し、また、莫大な食料を負担した。日本遠征は二回とも失敗したために、高麗は提供した兵員の多くを失うことになった。これ以後も日本遠征の計画と準備が繰り返されたが、そのための負担とは別個に高麗は元に朝貢するために金・銀・布帛・穀物・人参・鷹だけでなく処女や宦官までも用意しなくてはならなかった。]
処女の提供は元軍の日本遠征軍のためだけではなく、日常的に行われていたようです。その様子が『本当に悲惨な朝鮮史』の224~225ページに『高麗史節要』からの引用として記されていますので、その例を引用します。
[【『高麗史節要 巻19(1274 24元宗)】 元から使いがやって来て、蛮子(元寇に参加する南宋の将兵)の妻として婦女子を探したいと言った。それで、高麗では結婚都監という役所を新設し、巷の女140人を探して、蛮子に提供した。蛮子は婦女子を連れて行ったが、道路には泣き声が響き渡った。
(中略)
【『高麗史節要 巻19(1275 25忠烈王)』】
僉議賛成事の兪千遇を元の宮廷に派遣し、賀正を祝うと共に、高麗の制度を変更したことを告げた。さらに処女を10人献上した。
(中略)
【『高麗史節要 巻21(1287 25忠烈王)』】
公主(高麗王に嫁したモンゴル皇帝の娘)が里帰りするので、モンゴルの官人である印侯や廉承益に良家の子女で、年は14,15の娘を集めるように命じた。巡軍の忽赤などが人家を捜索した。夜中に突然寝室に入って探したり、あるいは奴婢を縛って拷問にかけて居場所を吐かせたりした。娘がいない家でも容赦なく捜索した。怨み、嘆く声が巷に響き渡った。]
高麗の処女は貢物として元の皇室に献上されていました。また元軍のために集められた多くの婦女子は処女に限定されていないことから、元軍の中でどのような位置付だったのか気になります。上に3例を紹介しましたが、高麗政府は専門の部署を設置して巷の婦女子を拉致しており、これ以外にも多くの女性が元に連れて行かれたことが知られています。「貢女」という言葉が定着するほどでした。
モンゴルの高麗侵攻や元・高麗連合軍による日本侵略と、その後の元との関係につて韓国の教科書がどのように記しているか調べてみました。『韓国の歴史教科書』の57ページには「モンゴルの侵略に立ち向かい戦う」と題して、次の記述があります。
【モンゴルは高麗と交流しながら過度な貢物を要求し、高麗反発を買った。そんな中、モンゴルは使節が帰国の道中に殺害された事件を口実にして高麗に攻め込んできた(1231)。モンゴルの侵略に対抗して高麗では亀州城の朴犀、忠州城の官奴婢や草賊がモンゴルと戦って退却させた。高麗は江華に都を移し、長期戦を繰り広げた。
【モンゴルは高麗と交流しながら過度な貢物を要求し、高麗反発を買った。そんな中、モンゴルは使節が帰国の道中に殺害された事件を口実にして高麗に攻め込んできた(1231)。モンゴルの侵略に対抗して高麗では亀州城の朴犀、忠州城の官奴婢や草賊がモンゴルと戦って退却させた。高麗は江華に都を移し、長期戦を繰り広げた。
処仁部曲戦闘では部曲の民や金充侯らがモンゴルの将軍サリタイを殺して大勝をおさめた。高麗はモンゴルと30年あまりの間戦い、モンゴル軍をはね除けたが、この過程で高麗も莫大な被害を受けた。多くの人命が奪われたと同時に、多くの人が捕虜として連れて行かれた。】
以上が『韓国の歴史教科書』に記されたモンゴルの侵入に関する記述です。ここにはモンゴル軍を退却させたことやモンゴルの将軍を殺して大勝したことが記されています。大国の元と高麗は27年間も戦って高麗国家を維持したことは、高麗が誇るべき事項であり、立派な素晴らしいことといえます。
しかし、他の重要な事実が幾つか隠されています。その一つは、モンゴルの第六次侵入の時の凄まじさ「この年(1254年)蒙古兵に捕虜となった男女は、およそ20万6800余人、殺戮された者計るべからず、州郡を経るところ皆灰燼となり、蒙古兵の乱あってから、此の時より甚だしきはなし」と『高麗史』に記されている事実が欠落しています。
二つ目は、このような甚大な被害が出た理由が記されていません。実はモンゴル軍が来ると、王や貴族たちは江華島へ逃げ込んで安全を確保し、国民には独自に戦うように指示していたからです。
その三つ目は高麗がモンゴルに降伏して高麗の王子を元の都の大都(北京)に人質として何代も続いて派遣していたから平穏が保たれたのです。
四つ目は、高麗の王と王族はそれ以降何代にもわたって、モンゴルの皇帝や皇族の娘を妃として娶って、高麗の王は元の皇帝の娘婿となり、元皇室を支える高麗婿国王となったのです。
五つ目は、高麗を管理する元の最高統治機関として常設された「征東行省」の長官に高麗王が任命されたことです。高麗王は元皇帝の官僚として元帝国の一地方としての高麗を統治しました。
六つ目は、戦艦900隻と兵員、船乗り、水夫など5600人の高麗人が従軍して元軍と共に日本に侵攻した第一次日本侵攻と、1万人の兵を繰り出し、やはり900艘の軍船建造をし、武器や装備や穀物を含めて元軍へ提供した第二次日本侵攻の歴史的出来事が完全に隠蔽されています。
七つ目は、高麗政府が専門部署を設置して、処女や婦女子を元皇室や元軍のために巷から拉致して提供していることが『高麗史節要』にありますが、このことも教科書では記されていません。
韓国は上の一つ目から七つ目までの重要な歴史的事実を『韓国の歴史教科書』から削除して、若者の目から隠しています。韓国の若者は高麗が元軍と共に二度にわたって日本を攻撃して、双方に甚大な被害が出たことも、高麗政府が処女や婦女子を拉致して元に貢いでいたことも知らないのです。
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