#聖武天皇
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024)4月19日(金曜日)
通巻第8221号
後継皇室問題で自民党が有識者会議の二案を『妥当』
やはり自民党に「現代の新井白石」はいなかった
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皇統後継問題の皇室典範改正をめぐって有識者会議が開かれ、これを踏まえて岸田首相は令和六年(二〇二四年)一月三十日の所信表明演説後の質門に答え、かく述べている。
「有識者会議において悠仁親王殿下までの皇位継承の流れをゆるがせにしてはならないとの結論に至った」。
つまり「女系天皇論」という俗論をたしなめたのだ。だがメディアは意図的に、この一歩踏み込んだ発言を殆ど伝えなかった。岸田首相は「悠仁親王殿下までの皇位継承の流れをゆるがせにしてはならない」と明言しているのである。
皇統は神武以来の万世一系で男子が継承し、跡継ぎが幼少などの場合、未亡人皇后か独身の内親王が天皇代理として「称制」と務めた。この歴史の特質が意図的に議論されず学校でも教えない。
だから軽佻浮薄にも「愛子天皇待望論」が出てくる。女性天皇と女系天皇の区別も曖昧とされたままである。
小泉政権のおり皇室典範改正をめぐって有識者会議が開催された。明治二二年(一八八九年)制定された典範により、男系長子が皇位を継承するという神武天皇以来の万世一系の伝統が守られてきた。状況が変化し、皇統が絶えかねないという危機を認識し、急遽、有識者会議が招集された。
だが、座長はロボット工学専門の学者で歴史には無知だった。秋篠宮に悠仁親)王がお生まれになって、皇統問題は棚上げとなった。
もしこの流れを変えるとなると歴史を否定する革命である。フランクフルト学派が狙うのは二段階革命による国家破壊であり、グローバリズムが国境をなくせと唱えている国家否定の隠れた目標に通底する。
4月15日、自民党は皇位継承の安定のための皇族数確保に関する有識者会議の二案を『妥当』とす���立場を示し、「安定的な皇位継承の確保に関する懇親会(麻生副総裁が会長)で党見解のとりまとめを急ぐとした。
「二案」とは(1)皇族女子の結婚後の皇族身分保持。(2)養子縁組に拠る旧皇族団系男子の皇籍復帰、である。
自民党はいずれも妥当としたわけだが、いささか勉強不足だろう。やはり与党に現代版の新井白石はいなかったのだ。
各党の意見のなかで、唯一まともなのが「維新の会」である。すなわち(1)に対して、現実的ではあるが「女系への皇位継承資格拡大につながる懸念がある」としている。
(2)に関しては『歴史と現実を踏まえれば、高く評価できる』とした。
そもそも皇室典範の改正云々を内閣ごときがおこなうべきではない。立太子と親王殿下がおられるのに、なぜこんな議論をするのか、裏に何か別の動機が潜んでいるのか。
(参考文献 宮崎正弘『二度天皇になった女性 ─孝謙・称徳女帝の光と影』(ワック)
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(再録)「新井白石 皇統断絶の危機を予知」
皇統が断絶の危機に瀕したことは神武天皇の御代から幾度かある。また後継皇位を争った政争、謀殺も何回かあった。
古代史最大の謎は応神天皇と継体天皇の正当性である。ほかにも雄略天皇が謀殺したイチノヘオシハ(履中天皇の皇子、雄略天皇の叔父)の遺児が播磨と吉備の境に二十年隠れ住んでいて、雄略の皇子・清寧天皇が亡くなると名乗り出た。この間、イチノヘオシハの妹の称制だった。
新井白石は自伝ともとれる『折たく柴の記』のなかで、皇室の後継が不在となる危機の到来を認識し、東山天皇の祖孫をして閑院宮家を立てられるよう将軍��建言した。その皇統を維持させた経緯を次のように回想した。
「議し申すべき一事の候は天亨・建武の間、皇統すでに南北にわかれ、南朝はいくほどなくて絶させ給ひぬ。北朝はもとこれ武家のためにたてられ給ひぬれば、武家の代の栄えも衰えをも、ともにせさせ給ふべき御事なるに、応仁の後、世の乱れ打ち続て、武家すでに衰給ひにし上は、朝家のことは申すに及ばず当家(徳川)神祖天下の事をしろしめされしに及びてこそ、朝家(皇室)にも絶たるをも?ぎ、廃れしをも興させ給ふ御事共はあるなれ。しかはあれど儲君(皇太子)の外は、皇子、皇女皆々御出家の事においては、いまもなほおとろへし代のさまに、かは
り給はず。凡そ匹夫匹婦の賤しさも子を産みては其室家あらむ事を思ふ。これ天下古今の情也。(中略)これより後、代々の皇子、皇女、其数多くおはしまさむに至りては天下の富も、つがせ給はぬ所ありぬべしなど申す事も候はんか。古より皇子、皇女、数十人おはしませし代々もすくなかれねど、それらの御後、今に至り給ふは、いくばくもおはしまさず。『天地の間には大算数といふもののある也』と古人は申したりき。これらの事は人の智力の推し測るべき所にあらず。ただ理の当否をこそ論じもうすべけれ」(松村明校注、岩波文庫。138~140p)
新井白石は後継皇統の候補者がたくさんおられた時代ではなく、いずれ後継候補が不在となる危機にそなえ、別に宮家を建てて費用をまかなうべきと建言したのだ。
将軍家宣は白石の建言を受けいれ直仁親王を閑院宮と称し、禄千石を進上した。はたして白石が危惧した通り第113代東山天皇の系統は第118代後桃園天皇で絶えた。
そこで東山の皇子、直人親王の孫にあたる光格天皇が第119代天皇として即位された。光格天皇は閑院宮典仁親王の第六王子。誕生の翌年に聖護院に入寺し将来は出家して聖護院門跡を継ぐ予定だった。
ところが後桃園天皇が崩御し、直系は内親王だけだったため、安永八年(1789)十一月二十五日、践祚された。今上陛下はこの光格天皇の系統である。
ゆえに令和の時代の皇室論議に臣籍降下された旧宮家の復活が急がれる所以である。
白石が冒頭にのべた「建武の間、皇統すでに南北にわかれ、南朝はいくほどなくて絶させ給ひぬ。北朝はもとこれ武家のためにたてられ給ひぬれば」と��う意味は、建武の中興の後醍醐天皇の南朝が99代の後亀山天皇で世継ぎなく北朝五代の後円融天皇の皇子が、第百代の後小松天皇、101代称光天皇のあと、五代遡って北朝一代の光嚴天皇の祖々孫にあたる後花園天皇となられたことを指している。
皇位が空位となったケースは幾つかあるが、未亡人か独身の内親王が称制(臨時天皇)として正式な後継皇子が成人するのを待った。たとえば持統天皇、皇極・齊明、元正、元明がそうだ。孝謙・称徳天皇の場合は後継淳仁天皇を廃帝とし、次の光仁天皇を指名したとする遺書は藤原百川がでっち上げた。
第二十一代雄略天皇の子、清寧には皇子がおらず三代遡って履中天皇の皇子イチノヘオシハの遺児(顕宗、仁賢)が継いだことはみたが、その間の飯豊天皇は明治三年に皇統譜から削除された。ところが葛城の麓へいくと宮内庁管轄の飯豊天皇陵がある。
その後、第二十五代武烈天皇にも後継皇子は不在で、こんどは五代遡り、応神天皇の五代孫と言われた継体天皇が践祚された。継体天皇は越前からやってきたが二十年間も奈良へ入らず、この謎は解明されていない。
(『月刊日本』から再録です)
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JTS01, Biography of Gaozu (Part 1)
(My first translation, so I may well have got things wrong. When I finish translating Gaozu's biography I'll put it together and post it on my Wordpress)
The Exalted Founder (gaozu), Divine Great Sage Great Glorious Filial (shenyao dasheng daguang xiao) August Emperor's surname was Li, taboo Yuan. His ancestors hailed from Didao of Longxi, Prince Wuzhao of Liang Gao's seventh-generation descendant (Prince Wuzhao of Liang was a ruler in the Sixteen Kingdoms period).
高祖神堯大聖大光孝皇帝姓李氏,諱淵。其先隴西狄道人,涼武昭王暠七代孫也。
Gao begot Xin. Xin begot Chong'er, (who) served in the government of (Northern) Wei as Governor of Hongnong Prefecture. Chong'er begot Xi, who was Brigadier-General of Jinmen, who led outstanding men to pacify Wuchuan, thus his family was there. In Yifeng (an era name of Emperor Gaozong of Tang, Gaozu's grandson), was posthumously honoured as Widespread August Emperor. Xi begot Tianxi, who served in the government of (Northern) Wei as Master of Banners. In Datong (Western Wei era name) was bestowed as Sikong. In Yifeng, was honoured as Glorious August Emperor.
暠生歆。歆生重耳,仕魏為弘農太守。重耳生熙,為金門鎮將,領豪傑鎮���川,因家焉。儀鳳中��追尊宣皇帝。熙生天錫,仕魏為幢主。大統中,贈司空。儀鳳中,追尊光皇帝.
The Imperial Ancestor's taboo (was) Hu, (was) Later Wei (Western Wei?)'s Supervisor, conferred as Duke of Longxi Commandery, accompanied Emperor Wen of Zhou (Yuwen Tai) with Grand Protector Li Bi, Minister of War Dugu Xin, etc. because of merits in participating as a subordinate was conferred, (they) were at the time known as the "Eight Pillars of the State", (Hu) was bestowed the surname of Daye.
皇祖諱虎,後魏左僕射,封隴西郡公,與周文帝及太保李弼、大司馬獨孤信等以功參佐命,當時稱為“八柱國家”,仍賜姓大野氏。
When Zhou received abdication (Emperor Wen of Sui came to the throne), (Hu) was posthumously conferred the title of Duke of Tang, posthumous name Xiang. When Emperor Wen of Sui was chancellor, their old surname (Li) was restored. At the beginning of Wude (Gaozu's era name), was posthumously honoured as Revered August Emperor, temple name Grand Founder (taizu), tomb in Yongkang.
周受禪,追封唐國公,諡曰襄。至隋文帝作相,還復本姓。武德初,追尊景皇帝,廟號太祖,陵曰永康。
The Imperial Deceased Father's taboo was Bing, was in charge of (Northern) Zhou's An Province, General-In-Chief of the (Eight) Pillars, inherited the title of Duke of Tang, posthumous name Ren. At the beginning of Wude, was posthumously honoured as Fundamental August Emperor, temple name Generational Ancestor (shizu), tomb in Xingning.
皇考諱昞,周安州總管、柱國大將軍,襲唐國公,諡曰仁。武德初,追尊元皇帝,廟號世祖,陵曰興寧。
Gaozu was born in the first year of Tianhe (one of Yuwen Yong's era names) in Chang'an, inherited the title of Duke of Tang at seven years old (by East Asian age reckoning). Growing up, he was outstanding and magnanimous, headstrong and sincere, generous, benevolent, and forgiving to the public. No matter if noble or lowly, all obtained his friendship. Sui accepted (Zhou)'s abdication, supplied one thousand cows personally. Emperor Wen's Empress Dugu was his maternal aunt, because of this was especially beloved (by Emperor Wen?), accumulated and conveyed as Regional Inspector of the three provinces of Qiao, Long and Qi.
高祖以周天和元年生於長安,七歲襲唐國公。及長,倜儻豁達,任性真率,寬仁容眾,無貴賤鹹得其歡心。隋受禪,補千���備身。文帝獨孤皇后,即高祖從母也,由是特見親愛,累轉譙、隴、岐三州刺史。
There was a man called Shi Shiliang with skill in physiognomy, called Gaozu and said:
"Your Honour's skeletal frame is extraordinary. You’re destined to ascend as sovereign over men. I implore you to cherish your well-being and not to forget my humble counsel."
Gaozu because of this was slightly conceited. At the beginning of Daye (Emperor Yang of Sui's era name), became Governor of the two commanderies of Xingyang and Loufan, recruited as lesser supervisor of the inner palace.
有史世良者,善相人,謂高祖曰:“公骨法非常,必為人主,願自愛,勿忘鄙言。”高祖頗以自負。大業初,為滎陽、樓煩二郡太守,征為殿內少監。
Ninth year (of Daye), promoted to lesser officer in the Commander of Palace Guards. In the Liaodong Campaign (Emperor Yang of Sui's expeditions in Goguryeo), supervised transportation to Huaiyuan County. When Yang Xuangan rebelled, an imperial decree called forth Gaozu to swiftly advance to the Honghua Commandery, concurrently charging him with the military governance west of the pass.
遼東之役,督運於懷遠鎮。及楊玄感反,詔高祖馳驛鎮弘化郡,兼知關右諸軍事.
Gaozu experienced many tests at home and abroad, and was simple and virtuous, he made many friendships with outstanding figures, and was close to numerous. At this time Emperor Yang was very suspicious of him, many suspected and feared him. An imperial decree summoned Gaozu to travel to (Emperor Yang)'s location, but did not go due to suffering from illness. At that time (Gaozu)'s niece Lady Wang was in (Emperor Yang)'s harem, the emperor asked her:
"Why is your maternal uncle late?"
Lady Wang responded that it was due to sickness, the emperor said:
"Could he die?"
高祖曆試中外,素樹恩德,及是結納豪傑,眾多款附。時煬帝多所猜忌,人懷疑懼。會有詔征高祖詣行在所,遇疾未謁。時甥王氏在後宮,帝問曰:“汝舅何遲?”王氏以疾對,帝曰:“可得死否?”
Gaozu heard this and it increased his fear, so drank excessively, became deeply immersed in drinking and bribery, so as to pass off his traces as this. In the eleventh year, Emperor Yang journeyed to the Fenyang Palace and commanded Gaozu to venture into Shanxi and Hedong for scrutinizing and apprehending officials. The troops arrived in Longmen, the traitors commanded by Mu Duan'er were several thousand men and assailed the city.
高祖聞之益懼,因縱酒沉湎,納賄以混其跡焉。十一年,煬帝幸汾陽宮,命高祖往山西、河東黜陟討捕。師次龍門,賊帥母端兒帥眾數千薄於城下。
Gaozu, at the head of scarcely more than ten horsemen, charged upon them. Of the seventy arrows he loosed, each met its mark and brought them down, precipitating a grand disarray amongst the rebel ranks. In the twelfth year (of Daye), was promoted to Right Strong Guard General.
高祖從十余騎擊之,所射七十發,皆應弦而倒,賊乃大潰。十二年,遷右驍衛將軍。
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奈良・聖林寺 十一面観音(国宝)
昭和の新国法制度における第一回国宝指定作品の聖林寺十一面観音は奈良時代、東大寺の造仏所にて製作。
願主は智努王(天武天皇の孫)といわれています。
この十一面観音菩薩、かつては奈良・大御輪寺で四天王や前立観音など多くの仏像に囲まれ祭られていましたが、明治時代に長州・薩摩の輩連中のおこなった廃仏毀釈による被害から逃れるため聖林寺に移されました。
天平の仏像らしい破綻のない造形美による端正な顔立ちと、均整のとれたプロポーションは、滋賀・渡岸寺の国宝十一面観音と双璧をなす国内屈指の美しい仏像で、海外では「ミロのヴィーナス」とも比較される仏教彫刻の傑作です。
秘仏であったこの十一面観音を見たフェノロサは、その美しさに驚き、お寺の門前から大和盆地を指して、「この界隈にどれ程の素封家がいるかは知らないが、この仏さま一体にとうてい及ぶものでない」と述べたと伝えられています。
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天壌無窮の皇運を扶翼すべし
3月 14, 2017
FBに短文を投稿しようかと思ったけど、ここは一発話題の教育勅語を考察してみようか。 12の徳目が素晴らしいから教育勅語は正しいんだという論調は全く問題ないんだが、教育勅語が気に入らないと言っている人達が一番気に入らないのは 「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」 ここでしょう? ここを論じることなくしては、議論にならないわけだ。 正面突破しようか。 この一文の前にある 「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」と繋げて 「国が危機的状況に陥ったら自らを犠牲にして天皇陛下のために死ね」 と訳して、軍国主義だ〜〜〜とやるわけだ。 「一旦緩急あれば」はまさしく「国の」とは明記していないものの、確かに「危機的状況」には違いない。 「義勇公に奉じ」はもちろん「勇気を持って公の為に尽くしなさい」となる。 「以て」それにより 「天壌無窮の」天地に永遠に続く 「皇運を」後に回す 「扶翼すべし」助けなさい。 ここで皇運をどう捉えるかが問題だ。 皇=天皇陛下と捉えれば 皇運、即ち陛下の運、運命ないしは皇室の運という事になる。 ************ よく考えてみてくれ この教育勅語は 「朕おもうに我が皇祖皇宗「国」をはじむること広遠に 徳をたつること深厚なり」 皇祖:天照大神 皇宗:神武天皇以降歴代の天皇 は、遠い昔に日本国を建設され、代々その徳は深く厚いものだった。 つまり「国」を語るところから始まっている。 そして以下のように続く 我が臣民(略)億兆心を一にして代々(よよ)その美をなせるは これ我が国体の精華にして教育の淵源また実にここにそんす 日本国民は全国民心を一つにして代々その美しさを体現してきたのは、これはこの国の在り方そのものが発露したものであって、正に教育の根がそこにあるのです。 となる。 その後12の徳目が列挙されるわけだが、 なぜ国家を語るところから始まって 一旦緩急あれば、の段に突然天皇陛下お一人のことに話が変わるのか。 全体を読めば「天皇のために死ね」と解する事のおかしさが分かる。 この場合皇運とは皇国の運命と訳すべきで有り、即ち日本国の運命という事になる。 よって「緩急」とは単なる危機的状況ではなく 国家を揺るがす一大事に於いては、と訳すべきで有り、 義勇公に奉じ:その際には自らを顧みず皆のために全力を尽くし、 これをもって 天壌無窮の:天地に永遠につづ��(べき) 皇運を扶翼すべし:日本国の運命を助けよ。 となる。 陛下だけ守って国民が居なくなれば、これは国ではなくなる。 公に奉じておいて、陛下だけの運命を守れ、では辻褄が合わない。 6年前の東日本大震災のおりに自衛隊の方々は、自分たちも余震に脅かされいつまた周辺の瓦礫が崩れ自らも二次被害に遭うかも知れないという状況にありながら、必至に行方不明者の捜索を行い、一人でも多くの被災者の命を救おうとしてくれた。 もちろん先の大戦の折にも、硫黄島に向かった兵士達は自らが生きて帰って来れないことは重々承知していた。しかしながら硫黄島が獲られればそこから本土に空襲に向かう爆撃機が飛び立つことが出来る事も知っていた。だからこそ、彼らが一日でも長く抵抗することが本国の愛する家族を守ることになる。だから5日で占領出来ると考えていたアメリカに対して1ヶ月以上も粘り続ける事が出来た。 昨今日本の道徳心が低下した等と言われるが、私は、日本人の心は根底では変わっていないと思っている。 話がずれた。 ************************* 皇運=日本国の運命 を理解するためには、そもそも天皇陛下と我々臣民(国民)との関係を理解している必要がある。 仁徳天皇の民の竈の話は有名だ。 日本独自の伝統~仁徳天皇 詳しい内容は上記リンクに譲る。 臣民(国民)の竈から煙が出ていない、すなわちご飯が食べられていない事を知り、年貢の徴収をとりやめた。おかげで皇居に雨漏りがするほど貧しくなってしまった。この事を苦にした皇后陛下に対し 臣民(国民)が貧しいことは自らが貧しい 臣民(国民)が富めるときは自らも富んでいる と答えられた仁徳天皇。 そして、竈に煙が戻り充分食べられるようになった人々は、 陛下の心に答えて自ら集って皇居を治した。 という話。 この話が事実かどうかは些末な問題だ。 それ以上に1300年近く前に編纂された日本書紀に書かれたこの話が、以降1000年以上の長きにわたって日本で語り継がれ、模範とされてきた事実が重要だ。 日本に於いて天皇陛下と我々国民の関係は、互いにその幸せを願い、助け合う存在だという事。時に人はこれを親と子になぞらえて語る。 陛下は国民を「たから」とよび我々は陛下を敬う。 この陛下と国民との関係を理想として、我々はこの国を代々継承してきた。 この関係は住民を自らの富のために搾取してきたヨーロッパの王の姿とは大きく異なる。結果フランスでは革命が起こり王が処刑される。 時にそのような理想的な天皇陛下に恵まれなかったことも歴史の中には���ったかも知れない。 それは正に夫婦と同様、仲むつまじい夫婦という理想を追いかけながら、現実は夫婦喧嘩もし、日々の様々な問題を乗り越えていく。 同様に、陛下と我々国民の間も長い歴史の間に於いて理想通りに行っていない時期もあったかも知れないが、それでも理想的関係を模索しながら切磋琢磨してきた歴史なのではないだろうか。 そう考えると、現代の我々国民のありかたは、はたして理想的姿を体現出来ているのか、幾ばくかの疑問が残ることを否めない。 また話がそれた。 天皇陛下の国民への思いは今も変わらない。 国民に知ってほしい陛下の祈り 詳しくは上リンクに譲るが、陛下は元旦早朝より日本の国の平穏を願い祈りを捧げる。 また、毎日祈りを捧げてから一日を始められるそうだ。 国民の平和と繁栄を第一に思う陛下だからこそ、日米開戦に最後まで反対されたのは他でもない天皇陛下だった。 大東亜戦争開戦前の御前会議 上リンクより引用
昭和16年9月6日、日本は昭和天皇の前で御前会議を開きます。その席で昭和天皇は、「外交が主か、戦争が主か」と閣僚たちに尋ねられました。及川海相が「重点は外交にある」と答えました。すると昭和天皇は、懐から紙片を取り出され、御自らお詠みになられた。 よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風の たちさわぐらむ四方の海は、みんな同じ人間、同じ家族であり兄弟であると思うのに、なぜ争いの波風が起こるのだろうか。そう詠まれたこの歌は、明治天皇の御製です。昭和天皇のこのお言葉に、列席した閣僚たちは、全員、ただうなだれるより言葉がなかった。しばらくの間、誰もがうつむき、言葉を発する者さえなかった。
そして終戦を決断出来なかった政府に、終戦の聖断を下したのも陛下だった。
「迫水久常の手記」(終戦時内閣書記官長)天皇の聖断で受諾した“ポツダム宣言”
上リンクより引用
そして、いまにして思えば、終戦ができたのも、一に天皇陛下の御仁徳のおかげであった。陛下の真のご信念はいつも平和にあった、ということを、私はそのときほど強く感じたことはない。戦争終結の動機も、実にそのご信念から発したものであった。
陛下は常に国と国民の平和と繁栄を望み、その為に祈っている。 だからこそ我々は陛下のため、即ちこの国のため、この国に住む家族全ての同胞の為に資力を尽くす。 これを君民一体という。 これが理解出来れば、 皇運がすなわち我々全て日本に住む国民の運命だという事が容易に理解出来るはずである。 ******************* 最後に教育勅語のそもそもの在り方を好く現していると思う末尾を語って締めくくろう。 この道は(略):即ち12の徳目 古今につうじて謬(あやま)らず:昔から今に至るまで変わらないことで 中外にほどこして悖(もと)らず:外国の人達に伝えても正しいことです。 「朕汝臣民と共に拳々服膺して みなその徳を一にせんことをこいねがう」 私は、あなた方国民と共にこの正しい道理(12の徳目)を両手で大事に抱くように大切にしします。だから我々みながこの徳を一緒に体現していくことを願ってやまないのです。 教育勅語を支配者である天皇が従属者である国民に対して、あたかも命令のように下したものであると主張する旨が如何に根拠のないものか、この最後の一文を理解すれば良く分かると思う。
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下松市の由来となった大内氏始祖伝説をもつ降松神社 ご神紋は大内氏の家紋「大内菱」です 推古天皇の御代に青柳浦の一松の樹に大星が降り七日七夜輝いて「吾は天之御中主尊なり、今より三年ならずして、百済国の王子来朝すべし、其の擁護のために天降りし」という託宣を受けた伝説をはじめとする1700年の古社です これが降松、すなわち現在の下松市の由来です その3年後大内氏の祖先とする百済国の琳聖太子が来朝し北辰妙見社と称え創建しました 周防大内氏の全盛期は南北朝時代から室町初期の9代当主大内弘世、10代当主大内義弘親子といわれますが、そのルーツは「大内氏多々良譜牒」によると推古天皇19年(611)百済国聖明王の第三皇子である琳聖太子が周防国佐波郡多々良浜に着き、摂津国荒陸(あらはか)で聖徳太子に謁見、聖徳太子より多々良姓を賜り周防国に下向し本拠地にしたとあります これは後世になりかなり盛った伝承とされるのが概ねの見識です 大内氏の歴史を見ると貿易商人として手腕を見せるも大体毎回家督継承争いが起きますが室町中期14代当主大内正弘になって「大内氏多々良譜牒」を作成し百済王朝の琳聖太子の子孫を主張しすることで一家をまとめようとしています 多くの大名や武家は源平藤橘にある家を先祖と称することが多いですが、渡来人を祖先とする大内氏は守護大名というより貿易商人としての優位性を見ていたと思います #降松神社 𑁍𑁍𑁍𑁍𑁍 降松神社(くだまつじんじゃ) 鎮座地:山口県下松市河内1984番地 主祭神:天之御中主尊 社格:県社 𑁍𑁍𑁍𑁍𑁍 #神社#神社巡り#神社好き#神社好きな人と繋がりたい#神道#shrine#shinto#日本の風景#参拝#神社巡拝家#recotrip#神社フォトコンわたしと神社#神社と四季#御朱印#御朱印巡り#御朱印好きな人と繋がりたい#神社建築#神社仏閣#パワースポット#山口県#下松市#妙見信仰#大内文化 (妙見本宮 降松神社) https://www.instagram.com/p/CnwowqnvQEi/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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【かいわいの時】推古天皇二十一年(613)十一月条:掖上池・畝傍池・和珥池を作る。又難波より京に至る大道を置く(『日本書紀』)。
7世紀初めの推古朝には、遣隋使を派遣し、中国を手本として国の整備が進められ、上町台地の先端に近くに難波津が整備されました。推古15年(607)に遣隋使として派遣された小野妹子らの帰国とともに、翌年隋から裴世清らがやってきました。裴世清は飛鳥の北東の大和川沿いにある海石榴市(桜井市)で迎えられたことから、おそらく大和川水運を利用したと考えられます。
ところが、遣隋使から中国では幅広い直線道路が整備されていることを聞いた推古らは、道路の整備が急務であると考えました。『日本書紀』推古21年(613)には、「難波より京に至る大道を置く」と記されています。この京とは飛鳥の小墾田宮のことです。大道とは幅の広い直線道路でしょう。裴世清の来朝から5年後のことです。
この推古21年に置かれた大道とは、難波宮から南へ直線的にのびる「難波大道」と、それに直交する竹内街道と一般に考えられてきました。しかし、発掘調査によって「難波大道」の設置は7世紀中ごろ以降であることがわかり、竹内街道の設置も7世紀中ごろ以降と考えられるようになりました。
竹内街道ではなく、渋河道・龍田道・太子道(筋違道)のルートこそ推古21年に設置された大道ではないかと考えられます。このルート沿いには7世紀前半に建立された四天王寺、渋川廃寺、船橋廃寺、衣縫廃寺、平隆寺、斑鳩寺(法隆寺)、中宮寺などの寺院が建ち並びます。そしてこのルートならば、それまで利用していた大和川に沿ったルートでもあります。しかも、大和と河内のあいだの峠越えとして、もっとも高低差の小さいルートでした。四天王寺、渋河、斑鳩という聖徳太子(厩戸皇子)に関連深い地を通ることから、このルートを整備したのは聖徳太子だったと考えられます。
壬申の乱の際にも大坂道とともに西からの攻撃に対する大和の守りの要となり、天武8年(679)には、龍田山・大坂山に関が置かれています。飛鳥時代には、龍田道が最重要路だったことがわかります(安村俊史)。柏原市立歴史資料館・館長の連載コラム「龍田古道(2)飛鳥時代の龍田古道」2022より=図も。
(図)「7世紀前半の難波から飛鳥への道」
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友多聞
H:傳達知識,快樂是友多聞的益處。友多聞也讓你成為「語言的富翁」。
「獨學而無友,則孤陋而寡聞。」強調友多聞的重要性。另外友多聞帶來教學相長的效應,《禮記.學記》:「是故學然後知不足,教然後知困。知不足,然後能自反也;知困,然後能自強也,故曰「教學相長」也。」尤其「人人都是一本書」,
���至「人人身上都是一個時代」教你一句建言,警語也是受用無窮。學無止境,終身學習。20240604W2
多聞
解釋:
見聞廣博,增廣聞見。《論語.季氏》:「友直、友諒、友多聞,益矣!」三國魏.何晏〈景福殿賦〉:「故將廣智,必先多聞。」
增廣見聞知識。《文明小史》第一五回:「橫豎我們這趟出門,乃是為著增長見識,於學問有益的事。」也作「增長見聞」。
學問淵博
淵,淵深。博,廣博。學問淵博謂學識豐富。如:「他溫文儒雅,學問淵博,是學術界所公認的大學者。」
學識淵博,意思是指學識深而且廣。
見多識廣
見聞廣泛,學識淵博。《鏡花緣》第四四回:「多九公本是久慣江湖,見多識廣,每逢談到海外風景,竟是滔滔不絕。」《文明小史》第三四回:「只因常常出外遊學,見多識廣,知識也漸漸開通。」
知識淵博的相似詞
博學多識 學識豐富 博學多才 知識豐富 學識淵博 淵博 知識廣博 博學多聞 博學 學識廣博 博古通今 博聞強識 學富五車 淵博的知識 學問淵博 淵博知識 博學睿智 上知天文下知地理 通古博今 淵博的學識 博覽群書 學識 博學廣識 見識廣博 淵博學識 談吐不凡 博聞多識 學養深厚 通曉古今 學識深厚
淵博
精深廣博。
晉 葛洪 《抱樸子·崇教》:“是以遐覽淵博者,曠代而時有;面墻之徒,比肩而接武也。” 宋 蘇軾 《東坡志林·記講筵》:“卿講義淵博,多所發揮,良深嘉嘆。” 清 昭槤 《嘯亭雜錄·純廟博雅》:“ 純廟 天縱聰慧,攬讀淵博。” 柔石 《二月》二:“你學問是淵博的,哥哥常是談起你。”
百科解釋
淵,精深;博,廣博。淵博:精深而廣博,形容知識廣且深,博學多才。晉 葛洪《抱樸子·崇教》:“是以遐覽淵博者,曠代而時有;面墻之徒,比肩而接武也。”
中台山:
《論語》說:「以文會友,以友輔仁。」結交朋友是很重要的事。我們在社會上要懂得交好的朋友、親近善知識。
維基文庫:
論語季氏篇
孔子曰:「益者三友,損者三友。友直,友諒,友多聞,益矣。友便辟,友善柔,友便佞,損矣。」
孔子說:「有益的朋友有三種,有害的朋友有三種。與正直的人交朋友、與誠實的人交朋友、與見多識廣的人交朋友,有益處;與走邪門歪道的人交朋友、與讒媚奉迎的人交朋友、與花言巧語的人交朋友,有害處。」
星雲大師
所謂:「友直、友諒、友多聞。」朋友之間要耿直真誠,要能相互諒解,要互通知識、要理念相投,還要能雪中送炭,這才是善友。
釋星雲
僧人
釋星雲(1927年8月19日[2]—2023年2月5日[3]),俗名李國深,法名悟徹,法字今覺,法號星雲[註 1],筆名趙無任[4]。生於江蘇江都,童年出家,漢傳佛教比丘及學者,為臨濟宗第四十八代傳人,同時也是佛光山開山宗長(方丈)、國際佛光會創辦人暨榮譽總會長、世界佛教徒友誼會榮譽會長[5],被尊稱星雲大師[1]。
「獨學而無友,則孤陋而寡聞」真正的益友是能夠讓我們擺脫孤陋寡聞的處境。
「數位遊牧」,以遠距的方式工作,並同時周遊不同的國家和城市。
一種是自己去搞清楚,從自己的經驗、觀察中學習。另一種就是向別人學習,學習別人已經搞清楚
或者正在搞清楚的東西。
「真正高明的人,就是能夠借重別人的智慧,來使自己不受矇蔽的人。」——蘇格拉底
「腳步不停,不一定是前進;閉目深思,不一定是停頓。」
通過艱苦的學習,使自己成為「語言的富翁」。
景福殿賦
作者:何晏《文選》卷11
姊妹計劃: 數據項
大哉惟魏,世有哲聖。武創元基,文集大命。皆體天作制,順時立政。至於帝皇,遂重熙而累盛。遠則襲陰陽之自然,近則本人物之至情。上則崇稽古之弘道,下則闡長世之善經。庶事既康,天秩孔明。故載祀二三,而國富刑清。歲三月,東巡狩,至於許昌。望祠山川,考時度方。存問高年,率民耕桑。越六月既望,林鍾紀律,大火昏正。桑梓繁廡,大雨時行。三事九司,宏儒碩生。感乎溽暑之伊鬱,而慮性命之所平。惟岷越之不靜,寤征行之未寧。
乃昌言曰:「昔在蕭公,暨於孫卿。皆先識博覽,明允篤誠。莫不以為不壯不麗,不足以一民而重威靈。不飭不美,不足以訓後而永厥成。故當時享其功利,後世賴其英聲。且許昌者,乃大運之攸戾,圖讖之所旌。苟德義其如斯,夫何宮室之勿營?」帝曰:「俞哉!」玄輅既駕,輕裘斯御。乃命有司,禮儀是具。審量日力,詳度費務。鳩經始之黎民,輯農功之暇豫。因東師之獻捷,就海孽之賄賂。立景福之秘殿,備皇居之制度。
爾乃豐層覆之耽耽,建高基之堂堂。羅疏柱之汩越,肅坻鄂之鏘鏘。飛櫩翼以軒翥,反宇䡾以高驤。流羽毛之威蕤,垂環玭之琳琅。參旗九旒,從風飄揚。皓皓旰旰,丹彩煌煌。故其華表,則鎬鎬鑠鑠,赫奕章灼,若日月之麗天也。其奧秘則蘙蔽曖昧,髣彿退概,若幽星之纚連也。既櫛比而攢集,又宏璉以豐敞。兼苞博落,不常一象。遠而望之,若摛朱霞而耀天文;迫而察之,若仰崇山而戴垂雲。羌瑰瑋以壯麗,紛彧彧其難分,此其大較也。若乃高甍崔嵬,飛宇承霓。綿蠻黮䨴,隨雲融泄。鳥企山峙,若翔若滯。峨峨嶪嶪,罔識所屆。雖離朱之至精,猶眩曜而不能昭晰也。
爾乃開南端之豁達,張筍虡之輪豳。華鍾杌其高懸,悍獸仡以儷陳。體洪剛之猛毅,聲訇𥉻其若震爰有遐狄,鐐質輪菌。坐高門之側堂,彰聖主之威神。芸若充庭,槐楓被宸。綴以萬年,綷以紫榛。或以嘉名取寵,或以美材見珍。結實商秋,敷華青春。藹藹萋萋,馥馥芬芬。爾其結構,則脩梁彩制,下褰上奇。桁梧複疊,勢合形離。赩如宛虹,赫如奔螭。南距陽榮,北極幽崖。任重道遠,厥庸孔多。
於是列髹彤之繡桷,垂琬琰之文璫。蝹若神龍之登降,灼若明月之流光。爰有禁楄,勒分翼張。承以陽馬,接以員方。斑間賦白,疏密有章。飛枊鳥踴,雙轅是荷。赴險凌虛,獵捷相加。皎皎白間,離離列錢。晨光內照,流景外烻。烈若鉤星在漢,煥若雲梁承天。騧徙增錯,轉縣成郛。茄蔤倒��,吐被芙蕖。繚以藻井,編以綷疏;紅葩𦾏𦁛,丹綺離婁菡萏赩翕,纖縟紛敷。繁飾累巧,不可勝書。
於是蘭栭積重,窶數矩設。櫼櫨各落以相承,欒栱夭蟜而交結。金楹齊列,玉舄承跋。青瑣銀鋪,是為閨闥。雙枚既脩,重桴乃飾。㮰梠緣邊,周流四極。侯衛之班,藩服之職。溫房承其東序,涼室處其西偏。開建陽則朱炎豔,啟金光則清風臻。故冬不淒寒,夏無炎燀。鈞調中適,可以永年。墉垣碭基,其光昭昭。周制白盛,今也惟縹。落帶金釭,此焉二等。明珠翠羽,往往而在。欽先王之允塞,悅重華之無為。命共工使作繢,明五采之彰施。圖象古昔,以當箴規。椒房之列,是準是儀。觀虞姬之容止,知治國之佞臣。見姜後之解珮,寤前世之所遵。賢鍾離之讜言,懿楚樊之退身。嘉班妾之辭輦,偉孟母之擇鄰。故將廣智,必先多聞。多聞多雜,多雜眩真。不眩焉在,在乎擇人。故將立德,必先近仁。欲此禮之不諐,是以盡乎行道之先民。朝觀夕覽,何與書紳?
若乃階除連延,蕭曼雲征。櫺檻邳張,鉤錯矩成。楯類騰蛇,槢似瓊英。如螭之蟠,如虯之停。玄軒交登,光藻昭明。騶虞承獻,素質仁形。彰天瑞之休顯,照遠戎之來庭。陰堂承北,方軒九戶。右個清宴,西東其宇。連以永寧,安昌臨圃。遂及百子,後宮攸處。處之斯何,窈窕淑女。思齊徽音,聿求多祜。其祜伊何,宜爾子孫。克明克哲,克聰克敏。永錫難老,兆民賴止。於南則有承光前殿,賦政之宮。納賢用能,詢道求中。疆理宇宙,甄陶國風。雲行雨施,品物咸融。其西則有左墄右平,講肄之場。二六對陳,殿翼相當。僻脫承便,蓋象戎兵。察解言歸,譬諸政刑。將以行令,豈唯娛情。鎮以崇臺,寔曰永始。複閣重闈,猖狂是俟。京庾之儲,無物不有。不虞之戒。於是焉取。
爾乃建凌雲���層盤,浚虞淵之靈沼。清露瀼瀼,淥水浩浩。樹以嘉木,植以芳草。悠悠玄魚,曤曤白鳥。沈浮翱翔,樂我皇道。若乃虯龍灌注,溝洫交流。陸設殿館,水方輕舟。篁棲鵾鷺,瀨戲鰋鮋豐侔淮海,富賑山丘。叢集委積,焉可殫籌?雖咸池之壯觀,夫何足以比讎?
於是碣以高昌崇觀,表以建城峻廬。岧嶢岑立,崔嵬巒居。飛閣干雲,浮堦乘虛。遙目九野,遠覽長圖。頫眺三市,孰有誰無?睹農人之耘耔,亮稼穡之艱難。惟饗年之豐寡,思無逸之所歎。感物衆而思深,因居高而慮危。惟天德之不易,懼世俗之難知。觀器械之良窳,察俗化之誠偽。瞻貴賤之所在,悟政刑之夷陂。亦所以省風助教,豈惟盤樂而崇侈靡?屯坊列署,三十有二。星居宿陳,綺錯鱗比。辛壬癸甲,為之名秩。房室齊均,堂庭如一。出此入彼,欲反忘術。惟工匠之多端,固萬變之不窮。物無難而不知,乃與造化乎比隆。讎天地以開基,並列宿而作制。制無細而不協於規景,作無微而不違於水臬故其增構如積,植木如林。區連域絕,葉比枝分。離背別趣,駢田胥附。縱橫踰延,各有攸注。公輸荒其規矩,匠石不知其所斲。既窮巧於規摹,何彩章之未殫。爾乃文以朱綠,飾以碧丹。點以銀黃,爍以琅玕。光明熠爚,文彩璘班。清風萃而成響,朝日曜而增鮮。雖崑崙之靈宮,將何以乎侈旃。規矩既應乎天地,舉措又順乎四時。是以六合元亨,九有雍熙。家懷克讓之風,人詠康哉之詩。莫不優游以自得,故淡泊而無所思。歷列辟而論功,無今日之至治彼吳蜀之湮滅,固可翹足而待之。
然而聖上猶孜孜靡忒,求天下之所以自悟。招忠正之士,開公直之路。想周公之昔戒,慕咎繇之典謨。除無用之官,省生事之故。絕流遁之繁禮,反民情於太素。故能翔岐陽之鳴鳳,納虞���之白環。蒼龍覿於陂塘,龜書出於河��。醴泉涌於池圃,靈芝生於丘園。總神靈之貺祐,集華夏之至歡。方四三皇而六五帝,曾何周夏之足言!
孤陋寡聞
《禮記.學記》
大學之法,禁於未發之謂豫,當其可之謂時,不陵節而施之謂孫,相觀而善之謂摩。此四者,教之所由興也。發然後禁,則扞格而不勝。時過然後學,則勤苦而難成。雜施而不孫,則壞亂而不脩。獨學而無友,則孤陋而寡聞。燕朋逆其師。燕辟廢其學。此六者,教之所由廢也。
《禮記.學記》:「獨學而無友,則孤陋而寡聞。」(源)
《抱朴子.外篇.自敘》:「年十六,始讀《孝經》、《論語》、《詩》、《易》,貧乏無以遠尋師友,孤陋寡聞,明淺思短,大義多所不通。」
《朱子語類.卷一一七.朱子.訓門人五》:「淳稟曰:『伏承教誨,深覺大欠下學工夫。恐遐陬僻郡,孤陋寡聞,易致差迷,無從就正。望賜下學說一段,以為朝夕取準。』」
元.馬致遠《陳摶高臥》第二折:「若做官後每日價行眠立盹,休休休,枉笑殺凌煙閣上人,有這般疏庸愚鈍,孤陋寡聞。」
《三國演義》第一○回:「某孤陋寡聞,不足當公之薦。」
《鏡花緣》第一六回:「不瞞二位大賢說,這叫作『臨時抱佛腳』,也是我們讀書人通病,何況他們孤陋寡聞的幼女哩。」
寡聞少見
猶「孤陋寡聞」。見「孤陋寡聞」條。
《漢書.卷八一.匡張孔馬傳.匡衡》:「蓋聰明疏通者戒於大��,寡聞少見者戒於雍蔽。」
寡聞陋見
猶「孤陋寡聞」。見「孤陋寡聞」條。
明.胡翰〈羅文質公集敘〉:「以寡聞陋見論前人之道德,其亦過矣!」
寡見鮮聞
猶「孤陋寡聞」。見「孤陋寡聞」條。
漢.王褒〈四子講德論〉:「俚人不識,寡見尠(鮮)聞;曩從末路,望聽玉音,竊動心焉。敢問所歌何詩,請聞其說。」
獨自學習而沒有朋友一起切磋、研討,就會造成學識淺陋而見聞不廣。 對朋友怠慢就違背了師長的教導;一旦言行偏差,就會荒廢了自己的學業。
獨學而無友,則孤陋而寡聞
獨學:指獨自學習,不瞭解外部動向。獨自學習,無人切磋,則孤陋寡聞。形容孤偏鄙陋,見聞不多。有井底之蛙含義。
原因: 朋友是你瞭解外部世界的橋樑,也是你不斷完善自己的標尺。一個人學習,而不接觸外部環境是行不通的。只有與朋友共同學習,集思廣益、取長補短,才能彌補自身的缺憾,��獲得更多知識。
中文名
獨學而無友,則孤陋而寡聞
出處
《禮記·學記》
類型
古文
作者
戴聖
出處
出處:《禮記·學記》:“獨學而無友,則孤陋而寡聞。”
釋義:如果學習中缺乏學友之間的交流切磋,就必然會導致知識狹隘,見識短淺。其中,“而”錶轉折的作用。
教學相長
教與學互相增長。指通過教授、學習,不但能使學生得到進步,而且教師本身的水準也可藉此提高。語出《禮記.學記》。
雖有嘉肴,弗食,不知其旨也;雖有至道,弗學,不知其善也。是故學然後知不足,教然後知困。知不足,然後能自反也;知困,然後能自強1>也,故曰「教學相長2>」也。
《禮記.學記》:「是故學然後知不足,教然後知困。知不足,然後能自反也;知困,然後能自強也,故曰『教學相長』也。」(源)
《韓詩外傳》卷三:「雖有善道,不學不達其功,故學然後知不足,教然後知不究。不足,故自愧而勉;不究,故盡師而熟。由此觀之,則教學相長也。」
明.王守仁〈教條示龍場諸生.責善〉:「使吾而是也,因得以明其是;吾而非也,因得以去其非:蓋教學相長也。」
《兒女英雄傳》第一八回:「我那解悶的本領都被公子學去了,那裡再尋甚麼新色的去?我們『教學相長』,公子有甚麼本領?何不也指點我的一件?彼此頑起來,倒也解悶。
人人都是一本書
每個人都是獨特的,每個人都是值得欣賞的,
閱讀每個人的故事,獲得成長的養分。
人人身上都是一個時代(全新增訂版)
作者:陳柔縉
語言:繁體中文
出版社:麥田
出版日期:2016/10/06
目錄
◎新版序──陳柔縉
一‧人的日本時代
1 人人身上都是一個時代
2 跑啊!林和
3 王永慶的兩百圓有多大
〈附表:台籍前輩企業家出生年與學歷〉
4 辜家豪門鑽石失竊記
5 台灣最貴單身漢
6 巴黎唯一的台灣人
7 神祕的第一位台灣人車主
8 名門公子日本浪漫遊
9 美國鳥人到台灣
10 明治元勳欠錢記
11 禁吃大蒜迎親王
二‧愛與死事件簿
1 戀愛?亂愛!
2 台灣人殉情記
3 少年仔愛看電梯小姐
4 煙草女工眼裡的蔣介石
〈附表:1930年代煙草女工的世界〉
5 懷念的鐵路便當
〈附表:1914年台灣鐵路便當〉
6 烤鴨該怎麼吃
7 愛鄉愛土全民票選台灣八景
8 1933年雙十國慶在台北
9 鐵達尼船難消息在台灣
10 豪華世界郵輪初體驗
〈附表:日治時期世界觀光郵輪來台概況〉
11 英語演講比賽前先獎盃奉還
12 車牌暗藏魔鬼
13 那時候的公車會「犁田」
14 颱風來了會缺鹽
15 火災的關鍵詞
16 打開日本時代的鉛筆盒
17 考上醫校回頭嗆校長
18 修學旅行遇見明治天皇
19 捨不得不愛的農曆年
20 老藥房的推銷術
三.古典罪與罰
1 怪怪小偷和大盜
2 日本時代也有毒品?
3 盜賊拔刀海上來
4 偷車賊最愛的作案地點
5 好膽賭博要鞭刑
6 來看富豪斬雞頭發毒誓
四.療癒系台灣史
1 那些年動物惹的禍
2 最佳療癒系之小鴨物語
3 小象闖進高級料亭了
4 猛雄藏了十個月的祕密
5 狗狗的日本時代
6 不是端午也能划龍舟
7 人間無處不花火
8 上陽明山不看櫻花
9 為路樹繫上第一張身分證
五‧地的時光垂直線
1 台灣銀行重返上海
2 東京火車站的呼吼
3 早稻田的咖啡店
4 松泉閣給的問號與答案
5 第一波青春壯遊
6 第三國人
7 撫臺街洋樓身世之謎
◎附錄【日本時代台灣物價水準概況】
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鳳凰 龍 細密石彫刻製作 石基壇 聖徳太子殿 念佛宗仏教美術 The Prince Shotoku Hall The Buddhist Art of Nenbutsushu Stone carving
聖徳太子殿 The Prince Shotoku Hall
念仏宗無量寿寺(念佛宗) 総本山 佛教之王堂〜三国伝来の佛教美術 日本では類例を見ない四手先総詰組様式、および三手先腰組付縁の八角堂 It is a grand octagonal shrine with four-stepped intermediate bracket complexes under the eaves and three-stepped bracket complexes under the veranda, which is peerless in Japan.
概略 高さ17.2m(基壇、棟飾り込) 側通り柱間4.85m
輪島塗による高蒔絵、及び彫金が施された厨子に、中華人民共和国、工芸美術大師・佘國平佛師制作の「和国の教主」とうたわれる聖徳太子像がお祀りされている。
念佛宗(念仏宗)無量寿寺 聖徳太子殿 建築的特徴
他に類を見ない様式 四手先総詰組、三手先腰組付縁の八角堂は他に類を見ない。特に四手先総詰組は、日本建築史上初めての独自の変形組み手である。特殊な組み方をすることにより、組み手同士の立体的干渉を回避している。この念佛宗(念仏宗)ならではの、独創的な手法は、専門家をも捻らせている。日本の大工の始祖とも崇められる聖徳太子も、きっと納得されているに違いない。 天平の文化が華やかなりし頃、神社仏閣は、鮮やかに朱で彩られ、外国文化を吸収、醸成され、それはきらびやかなものであった。 そして今また千年の時を超え、念仏宗 佛教之王堂における聖徳太子殿は、天平時代の華やかさを凌ぐ存在感で、参詣者を迎える。 外装壁部には「天女」、阿件形の「鳳風」、衆生を導かんと雲を従えて天下る阿件の「龍」が、また蛙股部には「宝相華」が、胡粉の白一色に塗られた彫刻で荘厳されている。腰組部と階段脇の耳石にも阿件の精緻に「鳳風」が彫刻されている。 これら数多くの彫刻、彩色で彩られた御堂は、典雅な趣にみあふいざな満ち溢れ、訪れる者を夢の世界へと���う。 桟唐戸は丹青技法による極彩色が施された「宝相華」や「転法輪」、「鳳凰」の彫刻で荘厳され���八方を守護している。 世界に誇る槙の日本庭園に囲まれた姿は、飛鳥・天平時代を偲ばせる典雅な趣に満ちている。 軒裏に扇垂木を用いており、内部は韓国人間国宝・李萬奉大僧正猊下、及び、直弟子洪昌源師制作の、韓国古来の伝統的丹青技法による彩色が施され、合計428点の彫刻が太子を賛嘆している。 念佛宗(念仏宗)無量寿寺 聖徳太子殿 建築的特徴 三国伝来の佛教文化 念佛宗(念仏宗)無量寿寺 佛教之王堂の聖徳太子殿は、かつて、聖徳太子が御堂にこもって、経典の解釈に没頭しておられる時、夢告(むこく)で教えを賜った(たまわった)との伝説から、法隆寺などでは平安時代より、「夢殿」(ゆめどの)とも呼ばれてきた。 ここ念佛宗(念仏宗)無量寿寺 佛教之王堂における聖徳太子殿は、日本の建築技術と韓国の丹青(たんせい)技法、そして中国の彫刻が見事に調和し、三国伝来の佛教文化の粋を見ることができる。 例えば四手先総詰組様式及び三手先腰組付縁(こしぐみつきえん)は、他に比類なき日本建築の最高峰といえるもの。 また、内部に施された極彩色(ごくさいしき)は、韓国の丹青技法が日本で独自発展を遂げた平等院鳳凰堂の様式を踏襲したものであり、天井画写真下方の緑色部、「ぼかし」のような繧繝(うんげん)彩色や、全体的な白く縁どられた紋様等が特徴的である。 和国の教主 聖徳太子 念佛宗(念仏宗)無量寿寺 佛教之王堂 聖徳太子殿には、聖徳太子像をお祀りしている。天竺(インド)から唐土(中国)へ伝わった佛教の尊さを悟られ、神佛が習合する中、日本へ佛教を根付かせた「日本佛教の父」が聖徳太子。 「和を以て尊しとなす」 これは世界的に有名な聖徳太子『十七条憲法』の根幹(こんかん)をなす第一条の言葉。『十七条憲法』は、我が国最初の憲法であり、佛教精神を基(もとい)とした平和国家日本の建設に臨まれた聖徳太子の決意を表している。推古(すいこ)天皇即位の時、聖徳太子を摂政(せっしょう)とし、すべての政治を委ねられた。『日本書紀』には、その時、もろもろの豪族らは、君主と先祖の恩に報いるために競って佛をお祀りする場所を造ったとされ、以来、それが「寺」となった。つまり恩に報いるために寺が建てられ、佛教が興隆していった。 第二条に「篤く三宝を敬え。三宝とは佛・法・僧なり」そして「何れの世 何れの人か この法を 尊ばざる」として、どの時代、いかなる人であってもこの法を尊ぶべきことを明断しておられる。 そして佛教を基調とした国づくりをして、日本を統一国家に相応しい姿にされた。それによって寛容の心が根付き、民の争い事が減った。そして佛教伝来から僅か数十年で、当時の世界最新建築の佛教伽藍(ぶっきょうがらん)「四天王寺」「法隆寺」を建立した。聖徳太子が、「和国の教主」と呼ばれる所以。太子の願いは、大和の地に佛教を興隆させ、人々に平和をもたらすことでした。 丹生(たんせい)技法に彩られた堂内 青丹によし 奈良の都は 咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり 聖武天皇(しょうむてんのう)の御代、奈良で一世を風靡した丹生技法は、今、ここ社の地で大きく華開いている。 渡来して日本的発展を遂げた密度濃やかな繧繝(うんげん)彩色や、白縁模様で荘厳された極彩色の天井を、吉野檜の銘木に、拭き漆と熨斗(のし)模様を施した八角柱が八方から支える。 聖徳太子殿の「八角宮殿」 扉に描かれた阿吽の鳳凰は、聖天子(せいてんし)の出現を待ってこの世に現れ、飛天は、釈尊説法時に舞い降り、奉楽し、天華を散らし空中で舞う、とされている。 宮殿は、もともと、天竺(てんじく)における塔やその下の小室である「龕」(がん)を源流とし、後世、これが厨子(ずし)や仏壇に変化した。 法隆寺玉虫厨子や橘夫人念持佛(たちばなぶにん)などは、その代表例。 念佛宗(念仏宗)無量寿寺 佛教之王堂 聖徳太子殿の「宝珠」 宝珠は、災いを除き、願いをかなえる力を持つとされ、聖徳太子殿の屋根に聳える宝珠は、聖徳太子の佛教興隆の成就を象徴しています。 この宝珠を護法神である、八頭の象が支えており、八方から佛敵より佛法を護り、宝珠の周りには、凡夫の煩悩を焼き尽くす火焔(かえん)が、勢いよく燃え盛っています。 聖徳太子殿の「輪島塗 高蒔絵」 日本の伝統技法の輪島塗りによる高蒔絵は、最高品質の漆を盛って、乾かないうちに松煙(しょうえん)を蒔きこみ、盛り上げ固めます。入手困難な「舟鼠(ふなねずみ)の蒔絵筆」を用い、輪島塗職人の二年間にわたる努力の末に完成しました。十枚の扉に浮かび上がる金色の『十七条憲法』の銘文は、職人会心の傑作です。 松竹梅と獅子 念佛宗(念仏宗)無量寿寺の宮殿下部には獅子が八方を護り、吉祥紋様の松竹梅が施されています。 風雪や厳寒に耐えて緑を保つ常磐木(ときわぎ)の「松」と「竹」、春、百花に先駆けて花開く「梅」を長寿・高潔・節操・清純などの象徴として「歳寒三友(さいかんさんゆう)」とも呼び、その吉祥紋様を背景に、獣類中、最も勇敢で高貴な、百獣の王の獅子が、宮殿を護っています。
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16 復活與重生 | 天使和天人 | 天使為什麼會墮落 | 天使也有罪性嗎 #聖經學習 #原罪 #聖經輪迴 #人死後去哪裡 #聖經復活 #死亡與重生 #kristen牧師 #靈魂轉世 #投胎轉世 #罪行罪性 #因果報應
天使和天人
問:請問牧師,您能給我們講講什麼是天使嗎?
答:天使顧名思義,天使就是天父的使者,他們負責執行天父的命令。 天使有很多的等級,就好比在人間執行皇帝命令的人也有很多等級,有文武百官,也有欽差大臣,也有服役的士兵等等。 例如,在啟示錄中,吹號的是天使,倒碗的也是天使。
當然了,也有一些天使願意轉世成人,來到地球幫助人類。天使都是天人,有些天人不是天使,有些天人是天使。 有些天使原來就是天上的,有些天使是生入天國的人,他們願意執行神的旨意。 這個是從廣義上講的天使。 如果從狹義的角度來講,天使就是我們通常以為的那些長得像人,但是帶著翅膀,發著光的飛行物。
每個生命都有不同的身份,比如一個人,他可能是一個宰相,但他也是父親,也是丈夫,也是兒子,還是公民。 天使也是一樣,他們也有多重的身份。他們有些在天上執行神的旨意,有些來到人間,轉世為人,可以成為先知,來執行天父的使命,或者成為主基督的門徒和見證者來執行天父的使命,或者,來到人間成為得勝者,在末世的時候,追隨主基督再來,審判人類,重建人間。
主基督也同樣有多重的身份。 在天上的時候,他是父神的長子,教導天上的天人。 被父神派到人間拯救人類的時候,他是以救世主的身份出現; 在被拯救的人類眼中,他是父神���體的顯現; 在為人類贖罪的時候,他是贖罪的羔羊; 在教化人類的時候,他是好牧羊人。
問:請問牧師,天使為什麼會墮落?
答:因為天使也有罪性。撒旦原來是天上的天使長,但是他墮落了,並且跟著他一起墮落的有三分之一的天使。由於驕傲、嫉妒、不滿和抬高自我的念頭在撒旦的生命中萌芽,最終導致了他的墮落。
所以,傲慢、嫉妒、不滿和抬高自我的念頭等罪性是天使墮落的根本原因,只要內心的這些罪性沒有清除乾淨,墮落的種子就還在。如果受到誘惑,天使就有可能會墮落。
只要傲慢、嫉妒、不滿和抬高自我的念頭的罪性清除乾淨了,雖然還有一些微細的貪愛等罪性沒有清除乾淨,那也是不會墮落的。 《彼得後書》2:4就是天使犯了罪,神也沒有寬容,曾把他們丟在地獄,交在黑暗坑中,等候審判。
問:為什麼天使也有罪性?難道天使也吃了禁果嗎? 答:天使長不可能無緣無故地墮落成魔鬼,天上三分之一的天使也不可能無緣無故地跟著一起墮落,其他天使為什麼沒有墮落呢? 上帝肯定不希望天使墮落。上帝是仁愛、公正、公義的。
天使的罪性和人一樣,在第五講講得很清楚,生命在生生世世的輪回中,自由意志在不斷地造作,慢慢地形成了貪愛心和貪欲心。 不同的生命形成了不同的貪愛心和貪欲心,也就形成了不同的生命物種。天人也是其中的一種。所以,天使也有罪性。
天國也並不只有一層,進入普通天國的人只是壽命長,沒有人間的各種痛苦,可以算是獲得了重生,但還沒有進入永生,還需要進一步的懺罪悔改,如果他們不努力的話,就有可能會退轉、墮落,那些墮落的天使,都是這些進入普通天國的人。
最高的天國是永生的天國,叫做極樂天國,生到極樂天國的人,再也不會退轉、墮落了,他們將與神合一,真正獲得永生。
生到普通的天國的人,如果他們的壽限到了,達不到進入極樂天國的條件,也有可能要墮落到人間來做人,繼續地懺罪悔改 總之,只要還沒有進入極樂天國,獲得永生,就有可能會墮落。
………………………………………………. 人是不是只有一次生命? 復活就是重生嗎? 聖經裡有沒有輪迴的見證? 為什麼說有因果必有輪迴? 人的原罪怎麼來的?
這個系列講道將從以下角度探討這些問題: 緣起法則 前世今生和因果 業因業果 罪的普世性 罪性和罪行是不同的 六種不能進天國的人 聖經中復活的三種情況 ……………………………………………….
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第一,不管是哪個宗教,哪個派別,只要信主,信上帝; 第二,相信輪迴,去惡行善,懺罪悔改; 這樣的人都是我們的弟兄姊妹,這樣的教派都是和我們志同道合的教派。我們要聯合起來,團結起來,傳播真理。
Kristen,來自東方的牧師,對東西方宗教、文化都有非常深刻的研究。 在其牧師生涯中,尤其註重考證,澄清歷史事實,探尋聖經深意,兼收博採,不分門戶派別。 延續耶穌精神,不與世俗妥協,引領基督徒回歸真理、造福社會。
查經學習小組Whatsapp: https://chat.whatsapp.com/HElK31FQalL6lMScjY9MM9 郵箱:[email protected] 網站:www.wiselight.org
#聖經學習#原罪#聖經輪迴#人死後去哪裡#聖經復活#死亡與重生#kristen牧師#靈魂轉世#投胎轉世#罪行罪性#因果報應#三世因果#智慧之光教會#智慧之光#道路真理生命#被提到神面前#耶穌再來#末日拯救#被提#最後的審判#駕雲降臨#隱秘降臨#主再來是網絡降臨#輪回轉世#屬靈的生活#耶穌基督#預備主的道路#迎接主#聖經輪回#末世預言
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Persona 3 FES Official Fanbook pages 148-149 transcription.
用語集
Glossary of PERSONA 3 & PERSONA 3 FES
甘味処 小豆あらい
【Y編/場所名】
巌戸台商店街にある甘味処。コミュニティのイベントで何人かの友人と入ることになるが、店内の様子は残念ながら不明。とりあえず男女共に人気の店らしいので、味もなかなかなのだろう。店頭に飾られた “小豆ちゃん” というマスコットキャラクターがトレードマーク。店名の “小豆洗い” とは有名な妖怪の名前が由来。“小豆とぎ” とも呼ばれ、川のほとりで小豆を洗いつつ「小豆とごうか、人とって喰おか、シャカシャカシャカ」と不気味な歌を歌うといわれる。基本的に音のみの妖怪だが、鳥山石燕の『画図百鬼夜行』では、目が大きな痩せた小男という姿で描かれている。新潟や福島、長野といった大きな水系がある地に伝わる例が多いが、東京でも江戸時代に某旗本家の炊事場で音を立てたという記録があり、ほぼ本州全域に分布する妖怪話である。
アルカナ
【共通/基本設定】
タロットカードの種類を表わす言葉。本来はラテン語で “神秘” という意味で、18~19世紀ごろにタロットを占い用として使用するようになり、カード1枚ごとに隠された意味を見出すようになってからこの言葉が使われるようになった。1組のタロット78枚中、寓意画を描いた絵札22枚を大アルカナ、それ以外の56枚を小アルカナと呼んで区別する。小アルカナのほうは、さらにソード、ワンド、カップ、ペンタクルの4つの組 (スート) に分けられ、さらに各スートは1から10までの数札と、ペイジ、ナイト、クイーン、キングの人物札4枚に分類される。一般的なタロット占いでは大アルカナのカードだけを使うものがメジャーだが、実際には56枚の小アルカナそれぞれにも隠された意味があり、本来は78枚の全カードを使用するのが正式なものとなっている。ちなみに、小アルカナのタロットが現在のトランプの原型といわれるが、実際にはトランプが先にあってタロットの原型になったという説や、そもそもトランプとタロットの発生はまったく無関係という説もあり、その正しいところは判明していない。
アルダナ
【Y編/バトル】
塔シヴァと女教皇パールバティによるミックスレイド。技名の由来は、性的信仰 (シャクティズム) を伝える聖典『カーマ・スートラ』に記された言葉 “アルダナーリーシュバラ”。これは “半身が女性のシヴァ神” という意味で、シヴァとパールバティとの合体によって両性具有神となり、宇宙創造のシンボルとなったものである。
伊織順平アワー
【Y編/イベント・6月1日】
学校にウワサとして流れた怨霊話を寮で説明するときに、順平が始めた小芝居。おそらく、怪談で有名な某タレントの語りを意識したものであると思われる。ただ順平の語りは、発音が良すぎてやや怖さに欠ける。本家のように、もっとボソボソと囁くような声でやれば完璧。
伊織の叫び声
【Y編/会話・5月17日】
試験前になると、自室から聞こえてくる。上の階にいる女子や、さらに上の作戦室にいる美鶴にまで聞こえているようなので、相当なボリュームの叫び声なのだろう。苦情が出ないのが不思議なくらいだ。もしかして他人の勉強の邪魔をしようという順平の策略なのかも?
幾月修司
【Y編/人物】
最初は月光館学園の理事長と紹介されるが、実は桐条でシャドウとペルソナを研究していた技術者であり、特別課外活動部の顧問である。昼行灯的なのん気さを持ち、周囲が凍りつくほどの冷たいダジャレを連発するのが好き。だが、さらにその姿すらも世間をごまかすためのもので、シャドウ研究を始めた桐条鴻悦の遺志を継ぎ、ひそかに滅びを召喚する宣告者 “デス” を捜し求めていた。10年前の事故時点では、さほど高い地位にはいなかったが、率先して事故の後処理を行なうことで信頼を得て、桐条家現当主である桐条武治の右腕的存在となっている。入寮直後に主人公のペルソナ暴走を見て、10年来追い求めていたデスを発見したことに 気付き、滅びを招くための儀式を密かに進めていた。最終的���死の儀式は失敗し、幾月は天文台から墜落して死亡。ただし、その遺体は未確認である。恐ろしい計画を誰にも気付かれずに遂行したところから、終末思想という滅びの狂気に蝕まれていたように言われているが、監視カメライベントで見られる一生懸命にダジャレを考案する様子を見ると、ダジャレ好きという部分だけは演技ではない愛すべき幾月の一部分であったと思われる。
イゴール
【共通/人物】
ベルベットルームの主で、この世界で唯一ペルソナ合体を行なえる存在。メアリー・シェリー原作の小説『フランケンシュタイン』に登場する召使い、イゴールが名前のルーツとなっている。極端に長い鼻を持ち、『ペルソナ』シリーズをとおして徐々に長くなっているのでは?との疑惑がある。ちなみに相方のエリザベスの名前の由来も、主のイゴールと同じく『フランケンシュタイン』から。ただしこちらは、小説版ではなくハリウッド映画版。シリーズ2作目として作られた『フランケンシュタインの花嫁」に登場する、女性型人造人間の名前から取られている。
「以上、ナビでした」
【Y編/イベント・4月7日】
ゲーム冒頭、登校時に主人公を案内してくれたゆかりが、別れ際に言ったセリフ。入寮直後にはやや硬かった態度が柔らかくなり、ちょっと無邪気で子供っぽく見える瞬間である。戦闘時のナビは美鶴と風花の役目となっているが、ゆかりのこの口調でナビをしてもらいたかったかも?
痛いの痛いの、飛んでけー!
【Y編/テレビ・4月9日ほか】
テレビ番組『偶然見かけたこんな人』で、レポーターのトリッシュが使う決めゼリフ。トリッシュはペルソナシリーズの『女神異聞録ペルソナ』と『ペルソナ2 罪』および『ペルソナ2 罰」で、回復施設を営む妖精として登場していたのだが、そのときの挨拶がこの「痛いの痛いの⋯⋯」だったわけだ。ちなみに『偶然見かけたこんな人』で紹介される街の人は、みな前作・前々作の登場人物となっていて、しかもその人物の誕生日に現われるようになっている。興味がある人はチェックしてみよう。
一期一会
【A編/イベント】
真田が順平との出会いをそう表現した。とくに言葉の使い方として誤りがあるというわけではないが、そもそも一期一会とは “誰かとの出会いは、それが最初で最後のつもりで誠意を尽くさねばならない” という意味の茶道で使われていた言葉。むしろ真田たちにとっては、主人公や荒垣との関係において、この言葉を使うべきかもしれない。
稲荷社
【Y編/場所名】
長鳴神社にある稲荷社。小さい社だが、近所に住むお年寄りたちはマジメに拝んでいるようで、お供え物のイナリ寿司が常に置かれている。ここで祈ると、さまざまな効果があるらしいが、何が起こるか祈ってみないとわからないのが玉に瑕だ。
犬語ホンヤク機能
【Y編/イベント・7月29日】
順平が評して言った、アイギスの特殊能力。監視カメライベントでは荒垣もそう言っている。もしかしてアイギスの製品仕様書に、“犬語翻訳機能 (オプション)”とでも書いてあるのだろうか?アイギスが言うには、高次な精神を持つ生き物は、言葉ではなくイメージを発することができ、それを読み取っているのだとか。人間にもあった能力だが、言葉に頼ることで失ったらしい。もちろん、メティスも同様のことが可能。
「今ならお買い得であります」
【Y編/会話・8月1日】
自分のペルソナの長所をアピールするアイギスが言った。本当に買えるものなら買いたいと思う ユーザーは少なくないだろう。ちなみにフィギュアなら、壽屋から 「ペルソナ3 アイギス 1/7スケールPVC塗装済み完成品」(6,090円/原型師:新居興介) が2007年8月に発売。また2007年10月にも、アルターから「ペルソナ3 アイギス 1/8スケールPVC塗装済み完成品」(6,090円/原型師:齊藤史樹) が発売される予定。
妹ちゃん
【A編/人物】
順平がメティスを呼ぶときの呼び方。いろいろとオリジナルなニックネームをつける順平にしては、ちょっと手抜きっぽいかも。やはり多少、壁を感じていたのだろう。
要らない苦しみ
【Y編/イベント・11月21日】
チドリが順平にもたらされたと言い、彼を遠ざけようとした。順平のことを考えると胸が苦しくなるとは、どう考えても恋愛感情なのだが、チドリがそんな経験のないまま成長してしまったが故の悲劇である。ただ、恋だとわかっていても苦しいものなので、彼女の気持ちもわからなくもない。
イレギュラー
【Y編/基本設定】
タルタロス外で出てくるシャドウ。ゲーム中の主人公たちは知らないが、そもそもシャドウは人間の中から発生するため、すべてのシャドウは発生時点においてはイレギュラーとなる。ただ、その瞬間を捕捉されることが少ないため、シャドウはタルタロス内にいる、という状態になっているだけである。ゲーム中に確認されたイレギュラーは、まずコロマルが神社で戦ったものがそうだが、それ以外では天田の母が死んだ晩に出たシャドウも同様である。
巌戸台分寮
【共通/場所名】
月光館学園の学生が入る寮。学校からやや離れた巌戸台地区にある。本来、学生寮は男女別であるのが原則だが、ここだけは特別課外活動部の拠点という関係から男女共用。またその成り立ちに関しても、妙に内装が広く豪華だったり学生寮には相応しくないとも思えるカウンターバーがある点からわかる通り、元はホテルとして使われていた建物だったという裏設定がある。なお、ゲーム中には台所や風呂が見当たらないが、じつは奥にあるドアから行ける場所にそういった施設がある ことがドラマCDでの描写から明らかになっている。
ヴァルホル
【Y編/バトル】
皇帝オーディンと剛毅ヴァルキリーによるミックスレイドで、仲間ひとりを3ターン完全無敵にする技。“ヴァルホル” とは別名で “ヴァルハラ”。古ノルド語で “戦死者の館” という意味となり、戦争で命を落とした戦士の魂がヴァルキリーによって集められ、オーディンの居城となるこの場所で不死の戦士として来たるべき終末に備えると言われる。
ウインナーコーヒー
【Y編/会話・8月1日】
天田は真剣にウインナーコーヒーが何かということを知らず、コーヒーにウインナーソーセージを入れるのだと勘違いし、からかわないで下さいと文句を言っていた。なんて可愛いんだ、コイツは。
ウエストすっきり低周波パット
【Y編/監視カメラ】
風花が時価ネットたなかで密かに買ったというダイエット用品。低周波を流して起こる筋肉の痙攣によって、強制的に腹筋を動かして脂肪を燃焼させるという仕組み⋯⋯かと思ったら、お腹がビクビクするのがメチャクチャくすぐったくて、笑いをこらえることで腹筋を鍛えるようになっているようだ。また、タイマーロックでもついているのか、一度装着するとしばらく外せないという構造的欠陥を持つ。ちなみに、これをつけて悶絶して苦しむ風花の声を、部屋の外で聞いた美鶴は、気まずそうに「気にせず続けてくれ」と言うが、いったい何をやっていると勘違いしたのだろう?
受付のオバチャン
【Y編/会話・9月28日】
順平が言うには「オレとチドリの仲を阻む、思わぬ伏兵」。ふたりの関係やその他を、根掘り葉掘り聞いてくるらしい。順平の表現を借りると、“オレとチドリの聖域に、イボつき健康サンダルで踏み込んで” くるとか。何やら戦う気満々だが、順平レベルでは返り討ちにあうのがオチだろう。
海丑
【Y編/場所名】
巌戸台の複合ビルに入っている牛丼チェーン店。真田のお気に入りの店で、彼は外で食料をテイクアウトする場合、ここの牛丼しか買ってこないとか。ただしプロテインと同時摂取するという、牛丼好きならずとも目を背けたくなる食べ方をする。それより減量が必要なボクサーとして、栄養の取りすぎが心配だが大丈夫だろうか?
裏口
【Y編/場所名】
入寮直後、大型シャドウに寮を襲撃されたイベントの際、主人公を連れたゆかりが最初に脱出しようとした扉。1階の奥に存在するが、普段は開けることができない。ただ、ゲーム中には用がないからこのドアの先には行かないだけで、実際はみんなが利用する厨房と風呂がこの先にあるらしい。プレイヤーが操作していないあいだに、主人公も食事に入浴にと利用しているに違いない。
占いゲーム
【Y編/場所名】
ゲームパニックにあるゲームで、1回2000円。ドクター・エドガーによる怪しげな占い、と説明されるが、もしやこのドクター・エドガーとは某学園の保健教諭のことかも⋯⋯?占いを行なうと装備ペルソナの魔力がアップする効能があり、このへんの怪しさも江戸川説の根拠となっている。
ウワサ
【Y編/イベント・4月7日】
ゲーム冒頭で流れた、主人公とゆかりが付き合ってるとのウワサ。転校初日の登校時にゆかりに付き添ってもらったのが原因である。その後ゆかりが入寮時の影時間の件について、「昨夜のこと言ってないよね」とわざわざ自分から学校で漏らしたせいで、きっとウワサに拍車がかかってしまったのだと思われる。
運命と言う名のフォーチュン
【Y編/コミュ】
鳥海先生の隠者コミュ後日談で、英語の寺内が言う。インド人の旦那と出会ったのが、運命という名のフォーチュンだったらしい。日本語がおかしいというか、英語がおかしいというか、いつもはツッコミを入れられる側の鳥海先生をして、「“頭痛が痛い” よりビックリだわ⋯」とツッコませしむ発言である。なお、珍しくセリフが多いこのイベントで、寺内先生はここぞとばかりに名言を連発する。「素晴らしい発想のチェンジ」、「私にもセイム体験あります」など必見。
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2024年3月2日(土)
私には息子が3人居るが娘は居ない、したがって<雛祭り>とも無縁である。と言ってしまえばちと淋しい、近年はSOU・SOUでいただいた<紙雛>をリビングの壁に貼って雰囲気を出している。いつも前を通る<笹寿し 伍十>にひなまつり特製・手まり寿しを予約し、一足早い雛祭りディナーを楽しんだ。白酒を白ワインに置き換えてきこしめせば、どこやらから〽︎���りをつけましょぼんぼりに おはなをあげましょ桃の花・・・などと聞こえてきそうだ。あれ、もう酔っ払ったかな?
5時45分起床。
6時を待って洗濯機を回す。
朝食を頂き、私が珈琲を入れている間にツレアイが洗濯物を干す。
ごぼう茶煮る。
I姉から連絡、すぐに<韓国の原爆被害者を救援する市民の会・大阪支部>のFacebookPageを更新する。
ツレアイは9時に出発、大阪であれやこれや。
ライフ西七条店で買物、ツレアイの指示でサッポロ一番*3、苺*2、それにミニトマトを購入する(¥2,039)。
半熟酢卵仕込む。
麺つゆ仕込む。
ランチ、息子たちには細うどん、私は残りご飯を片付ける。
<無印良品>五条イオンモール店へ、昨日購入した糠床が少し足りないので小さなパックを追加、それにタブレットのレモン味を購入する(¥860)。
店を出ると雪混じりの冷たい風。
今朝から録画しておいた<落語研究会><���事コロンボ>をブルーレイに書き出す、なにしろHDDの容量が切迫しているので。
軽く午睡。
17時に<笹寿し 伍十>へ、予約しておいた寿しを受け取る。
息子たちの夕飯、手まり寿し・卵のお吸い物・苺+白酒ならぬ白ワイン。
程なくツレアイ帰宅、🍶+🍷で慰労する。
録画番組視聴、ブラタモリ。
「奈良・正倉院〜なぜ1,300年もお宝を守れた?〜」
初回放送日: 2024年3月2日 宝物なんと9千点!奈良時代のお宝もあるのに国宝は一つもない?正倉院は何がスゴイのか?タモリさんが正倉院に実際に入って解き明かす▽タモリさん琵琶の重さにびっくり! 「ブラタモリ#262」で訪れたのは奈良・正倉院。旅のお題「なぜ1,300年もお宝を守れた?」を探る▽正倉院は東大寺の倉庫。大仏造立で知られる聖武天皇の愛用の品を納めたことが始まり▽天下に知られた香木・蘭奢待。信長が正倉院から持ち出す際に必要だったものとは?▽最大の敵は火災!正倉院を守るために幾重にも施された工夫あり▽正倉院の中の“ちり”や“ほこり”も全てお宝。その中から見つかった貴重な文化財とは?
片付け、入浴、体重は250g減。
パジャマに着替えて日誌書く。
寒い中をよく動き、よく歩いた。
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【久米寺】
境内の真横に電車通って 凄い景色だなっていつも思います。 2023年1月13日撮影 久米寺(奈良県橿原市) 一般に「久米の仙人」の伝説にちなんだお寺として知られていますが、久米部(くめべ)の武人の住んだ地といわれ、推古天皇2年(594年)の時に聖徳太子の弟・来目皇子の創建と伝えられる古寺です。
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神(God)、仏(大乗仏教的)、王・天皇・貴族etc.の「権威主義」は、現在の富の偏在や立場の上下を「神聖」視させるための決めつけ。 「霊」妄想(祟り)の恐怖・武力(殺傷力)の恐怖・喪失の恐怖・承認etc.を結び付けることで上手にシステム化された。 神聖なわけないだろ笑 怖がらせるとうまく信じさせられる。
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イスラエル・パレスチナ問題 文字数6500文字以上、400字詰め原稿用紙17枚に相当
【イスラエル・パレスチナ問題の超簡単な要約】
むかしむかし、紀元前11世紀ごろ、つまり今から3000年前、パレスチナという土地にイスラエル王国という国があった。 ユダヤ教の国や。 日本はまだどんぐりを拾って生活をしていた縄文時代の頃やな。
一代目の王様が国を作ったあと、二代目の王様ダビデ王って人が国を大きくしたんやけど、今でもDAVIDっていう名前の西洋人いっぱいおるよな。 ダビデの名残や影響力を感じるよな。 三代目の王様ソロモン王は、エルサレムにユダヤ神殿という立派な神殿を作った。
ソロモン王の死後、イスラエル王国は分裂し弱体化していったんや。三代目で駄目になるって日本の同族会社と変わらんな。ビッグモーターは二代目であかんことなったけど。
弱体化したイスラエルはお隣の国々に攻め込まれ、ソロモン王が作った神殿は破壊され、ユダヤ人はバビロニアの支配下に入って、バビロン、今のバグダットの近くに連れて行かれたんや。
紀元前5世紀頃、ペルシャ王のキュロス二世が「ユダヤ人はイスラエルに帰ってええで」と発表して、エルサレムにまたユダヤ神殿を建設したんや。 2回目の建設なので第二神殿と呼ぶ。 立派な神殿が出来てユダヤ人は喜んだわけやな。
紀元0年頃、イエス・キリストが生まれる。 この人は実はイスラエルのあたりの人なんよ。 弟子を12人作ったり、あれこれ活動したあと、最後はエルサレムのゴルゴダの丘っていうところで死ぬんやけど、死んだのはさっきのエルサレムのユダヤ神殿のすぐ近くや。
紀元前が終わり西暦70年、イタリアのローマ帝国がはるばる中東まで攻め込んできて、ユダヤ人と激しい戦争となったんや。 エルサレムはまたも陥落し、せっかく作ったユダヤ神殿はまた破壊されてしまった。
この時あまりにも激しく国が破壊されたので、ユダヤ人たちは国自体がなくなり、世界中に散り散りばらばらになってしまったんや。 国がないからどこへ行っても外様扱いで、常に迫害されてきたわけやな。ひどい話や。 明日突然日本国が滅んで、どっかの国に住めと言われたら、苦労するよな。差別もされるよな。
で、ユダヤ人らが追い出されたエルサレムは荒廃したわけやが、それから250年後の4世紀頃、ときのローマ帝国の皇帝が大のキリスト教ファンで、「エルサレムのキリストが死んだ場所(ゴルゴダの丘)に教会を作れ」って命令したんや。
キリストが死んでから長く経ってたし、ユダヤ人が追い出されてから250年くらい経ってたから、「まあこのへんやろ」ってことで大体の位置で作ったのが「聖墳墓教会」や。 ゆな先生もいったことあるで。 昔ユダヤ神殿があった場所の、かなり近くにあって、要はキリストの墓の教会やな。 よって、この4世紀の時点でエルサレムはユダヤ教の聖地だったのに加えて、キリスト教の聖地にもなったわけや���
それからまた300年後の7世紀、アラブ軍(イスラム教)がエルサレムに攻め込み、支配下においた。 ユダヤ神殿がかつてあった土地の真上に、かの有名な「岩のドーム」を作ってしまったんや。金ピカの屋根のやつやね。
この岩のドームは預言者ムハンマドが昇天したという伝説の場所として信じられてて、イスラム教におけるメッカほどではないにせよ、超重要聖地になってしまった。 超重要な聖地なわけで、イスラム教の信者らも多くエルサレムに住み着いたわけやで。 この時点で、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、3つの聖地がエルサレムのほぼ同じ場所にある状態になった。いまから1700年も前の話やね。 ちなみに、ユダヤ神殿が破壊されて、上に岩のドームが作られてしまったわけでユダヤ人の聖地はなくなったわけやが、ユダヤ神殿の壁が残ってる広場があって、ユダヤ教の人はそこを聖地にしてる。これが嘆きの壁や。ユダヤ教の最高の聖地扱いやね。
それから400年たった11世紀頃頃、ローマ帝国(イタリア)はキリスト教国家になってたんやけども、この頃に結構国粋主義みたいなのが盛んになるんや。 ローマ帝国の中にいるユダヤ人を迫害して虐殺してみたり、聖地エルサレムを奪還しようって動きが高まる。 しまいには「十字軍」ってやつを組織してエルサレムへ侵攻したんや。 7世紀頃からパレスチナを治めてたアラブ人ら(イスラム教)は抵抗するんやが、ローマ帝国の軍団が強かったから負けてしまって、エルサレムはキリスト教の支配下に置かれるようになったんや。 イスラム教の人たちがキリスト教を嫌う理由に、この十字軍があるね。 キリスト教国家が中東でイスラム教国家と戦争をするたびに、「現代の十字軍め」と恨み節を言うのは結構よくある話や。
その後も何度も何度も支配権が変わって、キリスト教が追い出されたり、ユダヤ人が追い出されたりを何度も繰り返しながらまた数百年たったんや。 その後マムルーク朝とかオスマン帝国(いまのトルコ)に支配されて20世紀まで来る。 20世紀初頭の時点で、エルサレムにはユダヤ人、イスラム、キリスト教が1/3ずつくらい住んでたんや。聖地が重なりながらも、まあなんとか回ってたんや。
でも西暦70年に国が滅ぼされて世界に散り散りバラバラになったユダヤ人がどうしてたんか?って���気になるよな。 日本人が海外に分散していったら、段々とその国に慣れていって、何世代かしたら日本語も忘れて、仏教も神道も忘れてその地に同化していくよな。
でもユダヤ人はそうはならんかったんや。ユダヤ教のおかげやね。 ユダヤ教は小さい頃から教義を叩き込んで、子供に伝えていくのが本当に生活に染み込んでる。 その結果、西暦70年から1900年間も世界に分散した割に、ちゃんとユダヤ教は残ってたんや。
19−20世紀頃になると、世界に分散してるユダヤ人たちは「シオニズム運動」って言って「シオンの丘に帰ろう」という活動が盛んになる。シオンの丘=聖地エルサレムのことや。 自分たちの国を作ろうっていう動きが出てきたわけやね。
20世紀初頭、オスマン帝国(トルコ)がエルサレムを支配していた頃、シオニズム運動は盛り上がってたんやけど、オスマン帝国はちょっと弱体化してきてたんや。 「おっ、弱っとるやん!」ってことで当時世界最強の国だった鬼畜イギリス軍が、エルサレムに攻め入ってきて、エルサレムを奪ってしまうんよ。 この頃のイギリスは七つの海を制したと言われるほど力があったからね。
オスマン帝国を倒したことで、イギリスはパレスチナ、ヨルダン、イラクを委任統治領にしたんや。要は植民地みたいなもんやね。 イギリスの統治下にある間に、シオニズム運動が盛んだったのもありユダヤ人人口が増え、3つの宗教では争いが頻発するようになっていった。
1948年、委任統治の期間が終わるにあたり、めんどくさくなったイギリスは「じゃあユダヤ人の国とアラブ人の国に2つに分ければいいじゃん!」って謎提案をして、国連もそれを承諾してしまうんや。 3つの宗教が混ざってなんとかこれまで来た場所を、2つの国に分ければいいじゃんって無理な話よな。土地への愛着とかもあるしさ。
ユダヤ人がエルサレムのエリア(今のパレスチナ+イスラエル)を支配したのは西暦70年が最後で、そこから先はユダヤ人が支配はしてなかったんよ。ローマ帝国はキリスト教やし、岩のドームを作ったのはイスラム教で、そこからずっとイスラム教が支配してて、最後に支配してたオスマン・トルコもイスラム教国家や。
イスラム教の人らからすると、「確かにユダヤ教の人らもエルサレムにおったけど、なんでお前らが突然このパレスチナに国作って我々の土地を奪うんや!」ってブチ切れるわけや。 逆に自分の国がほしかった全世界のユダヤ教徒は喜んでたわけやな。 しかもユダヤ人のほうが遥かに少ないのに支配する面積も大きかったんや。
結果として発生したのが第一次中東戦争や。 そりゃ1500年間住んでた土地に、いきなりユダヤ人の国を勝手に作られて追い出されたらたまったもんじゃないよな。 我々日本人が、「2000年前は実は僕たちの先祖が住んでたんで」とか言って本州を謎の外国人に取られて四国とか北海道におしのけられるようなもんやからね。 どんぐり拾ってたような時代に住んでましたなんて言われても納得できんわな。
当時統治してたはずのイギリス軍はさっさと逃げ出したわけやが、そもそもこの問題はイギリスの影響が大きい。 イギリスは三枚舌外交と言って、
・オスマン帝国(トルコ)を倒したいので、オスマン帝国の支配下にいるアラブ人たちに「武装蜂起してくれたらオスマン帝国の土地を割譲して独立国を作ってあげるよ」とそそのかして反乱を起こさせる ・フランス・ロシアとの間では、アラブ人たちに約束したのとは全く違い「オスマン帝国の領土はフランス支配、イギリス支配の2つに分割にし、パレスチナは国際管理下にしよう」と提案する ・ユダヤ人資産家のロスチャイルドには「パレスチナにユダヤ人国家を作ってあげるから、その代わり戦費をくれ」と提案
要は3つの関係者に矛盾することを言いまくって争いを起こして最終的にオスマン帝国を倒してパレスチナ(+エルサレム)を手に入れたわけやな。 そのままオスマン帝国が支配してたら今のような争いだらけのエリアにならず、幸せだったんやないかという話やね。 ブリカスと言われる所以やね。
第一次中東戦争(1948)ではイスラエルが勝利し、イスラエルはまず独立国としての地位を得る。まず国を作ったわけやね。これが一回目の戦争や。
第二次中東戦争(1956)では、スエズ運河を国有化しようとしたエジプトを邪魔しようと企んだイギリスとフランスがイスラエルと一緒にエジプトに攻め込んだことで勃発する。 エジプトが負けるかと思いきや意外と耐えたしスエズ運河も守りきったことで「エジプト結構すごくね?」的な雰囲気で国連の介入で終戦したんや。 エジプト=アラブの勝利やね。
第三次中東戦争(1967)は、わずか6日で終わったから6日間戦争とも言われるけども、イスラエル軍がアラブの国々(エジプトやシリア、ヨルダンなど)に攻め込んで、圧倒的勝利を治めて、今のイスラエルの国土は大半はここで奪い取った土地と合わせたもので大体一緒やね。 左隣のエジプトからガザ地区を奪って、右隣のヨルダンからヨルダン川西岸地区を、シリアからゴラン高原を奪ってる。 ゴラン高原は、のちに自衛隊が海外平和維持活動として派兵してた場所やね。争いが起きてカオスだったってことやね。
この第三次中東戦争は、テレビドラマにもなった山崎豊子の小説「不毛地帯」でも扱われていて、この戦争がすぐ終わるのか長期化するのかを分析して投資をする、近畿商事vs東京商事の戦いでも描かれてるで。 小説もテレビドラマも面白いからぜひ鑑賞してほしい。 ドラマは唐沢寿明主演で、めちゃ面白いで。このドラマで商社マン志望の学生が増えたとすら言われてる。
第四次中東戦争(1973)は、第三次中東戦争で奪われた土地を取り返そうとエジプトとシリアがイスラエルに攻め込んだんやが、これは今から50年前の10月6日の、ヨム・キプル、つまりユダヤ教の贖罪の日という祝日に行われて、お休みの日やった。 ちょうど今週ハマスがイスラエルを奇襲したが、これもまた同じ祝日の日やった。 油断した日を狙うのは変わってないな。
イスラエルvsアラブ系の国々という構図になったけども、冷戦下でもあったから、裏側ではイスラエルを米国が、アラブをソ連が応援してた。 この戦争は3週間で終わるんやが、アラブ系の国々がイスラエルの味方をする国々に対して石油を禁輸したり、OPECが石油の価格引き上げをしまくったことでいわゆる「オイルショック」を起こして日本も影響を受けたで。 このオイルショックのときに日本人はトイレの紙を買いまくってたけど、50年経ってコロナが起きてもトイレの紙を買いまくってたから、なんの進歩もしてないよな。 ちなみに、前に「オイルショックのときに買いまくったトイレの紙がまだ家に積み上がってる」っていう人に会ったことあるで。ほんとかいな。
大規模な戦争は4回のみで、その後は小さな紛争が何度も何度も起きてる。 1988年にはパレスチナ自治政府が独立宣言を行って、1993年にはパレスチナ自治政府のアラファト議長と、イスラエルのラビン首相が「仲良くしようね」とアメリカ大統領仲介の元パレスチナの自治を認めたんや。これでだいぶ進歩したなあってことで、アラファト議長とラビン首相はノーベル平和賞を受賞してるで。 でもその後イスラエルのラビン首相は、国内の極右学生に暗殺されてる。宗教色が強いエリアだと、国内を説得するのも大変やな。
パレスチナ側はアラファト議長が死んだあと、内紛が起きる。 2006年に議会選挙でハマスっていう反イスラエル・反米の党が第一党になった。 一応選挙で選ばれた人らやけど、イスラエルのことめっちゃ嫌いやねん。 パレスチナではハマスに加えて、親米・イスラエル融和派の党ファタハという2つの派閥があったけどハマスがガザ地区を武装支配してしまう。 ファタハはヨルダン川西岸地区っていう方を支配してるで。穏健派やな。
今回イスラエルにロケット砲打ちまくってライブ会場から人を拉致しまくったのは、このハマスの武装組織やね。 だからパレスチナがイスラエルに攻撃したというよりは、パレスチナの中にいるハマスの人たちがやった行為って考えたほうがええと思う。 ゆな先生が前に訪問したのはハマスが支配するガザ地区ではなく、ファタハが強いヨルダン川西岸地区ってとこやけど、そこはそこまで激しく反米って感じでもなかったな。
一方でイスラエルもイスラエルでじわりじわりとパレスチナに入植地、つまりユダヤ人が住むエリアを拡大し、実質的にそのエリアを支配してしまうのをやめずにいるし、ガザからロケット砲が飛んでくるたびに民間人も含めてお構いなしに報復攻撃をするから、結局永久に終わらない紛争になってしまってるわけやな。 ハマスが10人イスラエル人を殺すと、だいたいイスラエルはパレスチナ人を1000人とか殺すからね。
2022年11月にイスラエルで右派のネタニヤフ政権が生まれたけど、政権誕生から今回のハマスによるロケット砲攻撃やライブ会場での虐殺や拉致の事件の間にも実は、ちょくちょくイスラエル軍がハマス支配エリアを攻撃してたりする。 あんまり報じられることはないけどテロリストを逮捕するとかいう名目でちょくちょく空爆したり、武装襲撃したりしてるわけで、いろんなものがたまり溜まった状態だったことは間違いないな。
とはいえ、この2000年3000年規模の歴史的な背景もあるから、今回はハマスが悪いとかイスラエルが悪いとか、断言することはできないというのがワイの立場やね。 むしろ日本はこの長い長い宗教戦争とは無縁の離れた場所で、無縁の仏教神道の国であるから、どっちの肩を持つというのはしないほうがいいんじゃないかなと思う。
日露戦争ではユダヤ人経由で戦費を調達して戦争になんとか勝ち、戦後は中東のアラブの国々から石油を輸入してなんとかライフラインを維持している島国で、わざわざ敵を作らなくてもいいし、3つの宗教、そして欧米諸国の争いであって、簡単に解決できる問題ではないことは理解してもらえたと思う。
ちなみに私はイスラエルとパレスチナ両方を訪問したことがあるから、どちらの立場もなんとなくわかるし、実際に訪問してみて非常に学びが多かった。イスラエル・パレスチナにもう少し平穏が訪れたら、ぜひみんなにも行ってみてほしい。
歴史を学び、地政学を学び、宗教を学ぶことは、人生で起きる出来事やニュースなどから想像できることを増やし、旅行を楽しくし、投資にも役立ち、将来の予測にも役立つ。 ついつい毎日だらけて過ごしてしまうこともあるけど、たまには本を読んだりして遠い異国で起きていることに関心を持ってみるのも面白いと思う。
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和五年(2023)5月8日(月曜日)弐
通巻第7741号
岸田訪韓を評価すべきだが、韓国の外交転換こそ注目だろう
日本は安禄山の蜂起を三年知らなかった。これが歴史の教訓である
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孝謙、淳仁、称徳、光仁天皇の時代において、日本の最大級の外交的変化は、渤海国からの度重なる使者の来駕である。
渤海は高麗に替わって建国された。いまの北朝鮮である。渤海使は敵対した新羅の沖合をさけるため船は日本海を縦断し、出羽から越後、能登から若狭へ漂着することが多く、太宰府へ逐一回航して丁寧にもてなし、膨大な土産を持たせた。
競うように新羅からも使節が太宰府へ入り、最初、大和朝廷は朝貢と受け取って歓待した。文書や使節の態度から判断しても、明らかに朝貢だった。日本の宿敵の国がころりと態度を変えて来日するのだから裏にナニカアルに違いない。
実態は朝貢を装い日本の防衛体制を観察し、また大和王朝の政治空気を把握することにあった。情報収集である。
新羅は次第に図に乗って官位の低い大使を派遣するようになった。態度も横柄、傍若無人の無礼を極めるようになったため新羅使は太宰府で留め置かれ追い返された。
新羅の態度が横柄尊大になった背景には唐が乱れ、安禄山が叛乱をおこし、国土は荒廃し、新羅に対しての軍事的な脅威にはならなかったからだ。大和朝廷はこの情報を三年ほど知らなかった。ということは新羅使は安禄山の乱を知っていながら大和朝廷には意図的につたえず日本の反応を確かめに来た可能性がある。日本のこうした情報戦の失態はいまと変わらない。つまり韓国の対日外交激変は裏にナニカアルのだ。
天智天皇の御代、白村江の闘いで唐の海軍に敗れ、2100名の百済高官が日本に亡命した。天智天皇は水城と防塁、城を構築し、防人を強化したばかりか、各地22ヶ所に築城 防衛力を拡充し、新羅の侵攻に備えた。
ところが、新羅は逆に日本が攻めてくると防衛態勢を急ぎ、「ご機嫌取り」のため「朝貢」を装い屡々来日した。
天平宝字二年九月十八日に渤海使の小野朝臣田守らが帰朝し、渤海大使の輔国大将軍・行木ら二十三名を随行した。日本海側に帰着したので越前に滞在し、疫病感染の有無を調べるためニケ月を過ごす。
帰国十日後に小野田守に従五位上を授け、ほかの随行員六十六人にも位階を授けた。 同年十二月十日、すなわち帰国から七十日後に小野朝臣田守は安禄山の謀反を伝えた。安禄山の挙兵は755年のことだから、なんと三年間、大和朝廷は唐の政変を知らなかったのである。
▲安禄山の乱が日本政治にいかなる変化をもたらしたか
小野田守は次のように上奏した。
天平勝宝七年の十一月九日に御史太夫兼氾陽節度使の安禄山が蹶起し、自らを大燕聖武皇帝と名乗り、邸宅を潜龍宮と名付けた上、年号を聖武と改元した。安禄山は二十万の兵力を率いて忽ち洛陽を落とした。翌六月に玄宗皇帝は難を避けるために蜀の成都(現在の四川省)へ避難した。
渤海に援軍要請があり、騎兵四万をもって賊徒を平定されたしと懇請された。渤海からだと安禄山の後方を攪乱できる。しかし渤海王は派兵要請を疑い、派兵を見送った。途中から安禄山の反乱に加わったのが史思明だ。だから「安史の乱」とも言う。
玄宗側の反撃準備が整い、ようやく官軍が乱を平定し、玄宗は長安に戻った。逃亡途中では随行した兵隊たちに不穏の空気が流れたため玄宗は愛妃楊貴妃の自裁を認めざるを得ず、長安に復帰しても嘗ての政治力は失われていた。側近は朝衡(阿部仲麻呂の中国名)だった。
かく上奏した小野田守とて、まだ安禄山が部下に殺害されたという情報を知らなかった。渤海もその後の情報を隠匿したわけではなく長安に派遣した情報員が戻らず実情をつかんでいなかった。
唐土の異変を知った大和朝廷は太宰府に勅して「安禄山は凶暴なる胡人(ソグド人だが、当時は「胡」と称した)、狡猾である。天命に背いた反乱は必ず失敗するが、寧ろ海東へ兵を進める華もしれず、この緊迫状況を太宰府はよく理解し、たとえ安禄山が来航せずとも防衛を怠るな」とした。
怡土城築城を任された吉備真備は工事に力を入れ、また京では渤海使の歓待宴が続いた。淳仁天皇はかれらに位階をあたえ、藤原仲麻呂は自邸で宴を催し、賑やかにもてなしたうえ夥しい土産を持たせた。
この時に大和朝廷を支配した空気は唐が衰弱し、渤海が北から協力して新羅を挟み撃ち出来ないか、今こそチャンスではないかということだった。これは当時権力の頂点にいた藤原仲麻呂の情勢認識に欠陥があったということである。
▲むしろ韓国がなぜ外交舵取りを変えたかの背景に謎がある。
北朝鮮内部で何かが起きている。あるいは静かに秘密裏に中国が北への態度をかえたことを韓国が気づいた。米国からも精度高い情報を得て、日本とは修好する時期だとの判断があった。また従来の反日路線は、北朝鮮が情報操作していた。
さて岸田首相の訪韓である。
5月7日、アフリカ四カ国歴訪を終えて帰国したばかりの岸田首相はソウルへ飛んだ。
ソウルの大統領府で 尹錫悦(ユンソンニョル)大統領と会談し、「元徴用工(旧朝鮮半島出身労働者)」の訴訟問題など日韓両国の課題に向き合い、関係改善を加速させる方針で一致した。
首相は会談で元徴用工問題に関し、「厳しい環境の下で多数の方々が大変苦しい、悲しい思いをされたことに心が痛む思いだ」と述べた。
日本がこれまでの態度を軟化させたのは財産請求権である。
1965年の日韓請求権協定で「完全に解決済み」とされたが、つねに韓国が蒸し返してきた。
ところが尹政権となって提示してきた徴用工訴訟問題の解決策で突然活路が開けた。岸田首相は「おわび」「反省」は口にせず、尹大統領も謝罪を求めることはしなかった。
外務省幹部は「大きな前進。文在寅(ムン・ジェイン)政権では実現しなかっただろう」とする。
韓国大統領は「共通の利益」のために歴史問題と切り離して協力を進めるべきだと言い切った。
(資料編に続く。10分後に配信します)
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蘇鉄と松に囲まれたご本殿 新庄八幡宮 瀬戸内の雨があんまり降らずあったかい気候に馴染む風貌ですね 備後沿岸でよくみかける入母屋平入千鳥破風唐破風に備前備中でよくみかける外削ぎ千木と二本の鰹木のハイブリッド本殿は総﨔造銅板葺で江戸時代末期文化二年の造営です 42代文武天皇の御代、大宝元年(701)に宇佐の宮より勧請し創建したと伝わります 宇佐神宮の創建を調べると45代聖武天皇の御代の神亀2年(725)と出てきますがこれは現在の社殿が建立された年です 創祀自体は29代欽明天皇の御代、大神比義命が創建し日本で初めての神職(祝職)に任ぜられ初代大宮司に就いています 大神神社の初代神主大田田根子命が初の神主といえますが職制としての神主は宇佐神宮が初めてのようです #新庄八幡宮 𑁍𑁍𑁍𑁍𑁍 新庄八幡宮(しんじょうはちまんぐう) 鎮座地:岡山県倉敷市児島阿津2丁目18−1 主祭神:誉田別尊、足仲彦尊、息長帯姫命 社格:村社 𑁍𑁍𑁍𑁍𑁍 #神社 #神社巡り #神社好き #神社好きな人と繋がりたい #神道 #神社仏閣 #shrine #shinto #日本の風景 #参拝 #神社巡拝家 #recotrip #御朱印 #御朱印巡り #御朱印好きな人と繋がりたい#神社建築 #神社仏閣 #パワースポット #岡山県 #倉敷市 (新庄八幡様) https://www.instagram.com/p/CoE6zGbPXBx/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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