#緊縛体験
Explore tagged Tumblr posts
Text
本日は振替休日でしたので、こちらを拝聴しに新宿まで。
J7の席。スペシャル席が真ん中に一列だけあり、それ以外はA席と呼ばれた。とはいえ、4500円かかっているので、今日は映画を観に来たのではなく、ライブコンサートに来たという心持ちである。スペシャル席には、髪の灰色の服がシャンとした老人男性がずらりと並んだ。大学時代の講評の風景を思い出した。
私は音楽に疎い。「音楽に救われた」という友人の話を聞き、心底羨ましいと思ったことがある。私にとって音楽は、そこまで思い入れのあるものじゃない気がしたので。(酔う時のお供、ツール…のような軽薄さを持ってしまっている感じがしていやだ)
映画中、ポップコーンの咀嚼音が許されない空間。極上ソファの軋みすら、という緊張状態で、モノクロ映像の中に白髪煌く坂本龍一が現れた。まざまざと顔を見るのはこらが初めてだった。白髪の刈り上げがなんともかっこよかった。
曲がはじまると、感動して鳥肌が立ち、涙が出るものかと、食い入るように画面に見入るものかと思った、しかし、割と距離感が詰まらず、私自身は映画を観ているという事実が、それ以上でも以下でもなかったでしかなった。ただ、1音1音を重ねるタイミングや、その音の置き方からなるバリエーションの豊富さ、この世界で坂本龍一は突き詰めて、世界はそれを認めたのだな〜と、自分のわかる範囲内で納得をした。
音を奏でる際の彼の表情が非常に印象的だった。寂しい曲調の中でも、パートによっては嬉しい顔(キトキトした表情)を浮かべたり、逆もそうだった。鼻を伸ばして、口を窄める時の表情は印象的だった。きっとあれは、集中のための表情だったのだろう。おそらく45分ほどが経過したあたりで、一度眠った。起きた時の心地よさを覚えている。思い出のような、曇りの日の朝のような映像が目の前にあって、テクスチャとコントラストの美しい彼の指は、滑るように鍵盤を伝った。
素晴らしい映像作品もおそらくもう折り返し、さて集中し直そうと思ってじっくり見入った。そして再び眠った。この時は夢を見て、金縛りにあった(霊的なものではなく、意識は起きているのに体が言うことを聞かない寝ぼけ状態を指す)夢の中ではすでにエンドロールが流れており、これまた白地に文字の鱗が美しい幾何学的な映像となっていた。期待通りだった。館内員が私に近寄ってくる、もう出ないといけないのか?と思ったところで、これが夢だと気づく。起きようとする体とは裏腹に、なんか口からはシューと変な音が止まらない(実際鳴ってるのか幻想かはわからない)身体にへばりついた邪気を振り回して払うようにし、ようやく身体が思い通りに動いた。
心と体を落ち着けて、再びスクリーンと対峙する。この時、印象的な音楽が流れていた。ここから、最終曲までは流れるように時間が過ぎた。序盤では何も感じなかったのに、画面の奥の坂本龍一が今はもうこの世にいないことが、とんでもなく寂しく感じられる。2時間弱の時を共にし、彼の音楽を聴き、彼の表情に向き合い続けたからだろうか、自分ごと化された瞬間だった。
映画の途中、キャラメルポップコーンを思うように食べられなかった私は、今ラウンジで軽快な音を思う存分に鳴らしながら噛み砕いている。本当は、もっとこの映画に心酔して、坂本龍一からの影響を存分に浴びるというカルチャー見本のような体験としてこの映画を受け取りたかった。しかし、私自身がもう少しチープなので、そういった理想体験には至れなかった。ただ、なんとも言えないこの不思議な体験を、きちんと残しておこうかなと思った。歌��伎町の高層階で、気兼ねなくポップコーンをつまみながら感想を書く。坂本龍一とお近づきになれた印に。
カルチャーな人間になりたいがなれない、そもそもカルチャーな人は意識したりしないのだから。ただ、私が定義するカルチャーな人間には共通点がある。おそらく、自分の中の興味のピンをいくつか持っていて、そこ中心に細々と知識を深化させて広げているのだ。プールした情報が、どこかのタイミングで接続したり結びついたりする。私もそうしていきたいと思っている。さて、推敲しないタンブラールールに則り、このままアップロードしますと。
4 notes
·
View notes
Quote
私は外科医です。 私は医学部と厳しい外科訓練を経たので、回復力があり、うまく適応していると思いたいです。 私は医師になって13年になりますが、その期間の多くは、可能な限り優れた外科医になるための訓練に費やされてきました。 私には素晴らしい家族のサポートがあり、私の仕事を理解してくれる医師の妻がいます。そして私は精神疾患と診断されたことはありません。 ブリスベンの胃腸科医アンドリュー・ブライアント医師が先週自殺したことは、生々しい神経を直撃した。 彼の妻はこの正直で勇気ある手紙を書きました。 抱いたことはありませんが 私は深刻な自殺願望を 、他の多くの医師と同様に、暗い時期を何度も経験してきました。 うつ病、不安、燃え尽き症候群、自殺願望、絶望、無気力、無快感、気分の落ち込み、心配などはすべて、同じ現象、つまり内的または外的ストレス要因に対する人間の否定的な反応の異なる性質です。 もちろん、原因は常に複合的です。 家族歴、遺伝、行動の欠陥、劣悪な環境、不十分な社会的サポートなどに単純化しすぎてはいけませんし、そうすべきでもありません。 を注意深く分析すると 自分の暗い季節 、いくつかの共通のテーマが浮かび上がってくることがよくあります。 このような暗い時代においては、仕事が状況を悪化させ、永続させる重要な要因となることがよくあります。 外科医として、私は生涯の大部分を仕事に費やしているため、そこで何が起こるかは、結婚、家族、社会生活を含む私の人生の他のすべての側面に影響を与えます。 私を絶望の暗い穴に放り込んだ共通の事柄が 3 つあります。 1. コントロールの喪失 私は日々のコントロールを失ってしまいました。 私は病院で働いていましたが、14 日中 12 日は 24 時間年中無休でオンコールがあり、隔週の週末が休みでした。 外科試験の準備をしていたとき、私は毎日午前6���半から午後10時まで仕事と勉強をし、家族に会えるのは週末の昼食時だけでした。 私は 4 つのキャンパスをカバーする病院ネットワークで働いており、これらの現場を取材する際には週に 500 キロメートルを運転していました。 私は病院で働いていましたが、何日も家に帰れず、病棟や外来診療所のベンチ、車の中で一晩寝ていました。 、洗面用具、着替えを車のトランクに入れていました 私は寝袋 夜も家に帰れるかどうか分からなかったので、 。 緊急事態のため、職場では毎日計画が変更されます。 オンコール中は次の 1 時間がどうなるかさえわかりません。 なぜ仕事を減らすことができないのかと疑問に思うかもしれません。 そんなに簡単なことではありません。 私が仕事を減らすことにした場合、病院の費用は誰が負担するのでしょうか? 病院が他の医師を雇用していないのであれば、患者を野放しにするわけにはいきません。 私は待機する注意義務があるという事実を受け入れます。 このようなオンコール期間の激しさと人的被害は忘れられがちです。 それだけではなく、私たちは医療全般のコントロールを失いつつあります。 毎日、新しいフォーム、新しいガイドライン、新しいプロトコル、新しい医療ソフトウェア、新しいポリシーが登場し、すべて臨床医の活動を指示、制限、変更します。 これらのポリシーの中には、患者を診察していない人々によって書かれたものもあります。 コストを削減し、生産量を増やすために、医師や看護師の業務を再構築することに専念している有給業界全体が存在します。 2. サポートの喪失。 ただ想像します。 私の一日は朝6時に始まります。 朝起きると、完了していない退院サマリーの数と、完了しなければならないさまざまなコンピューターベースのモジュール (手洗い、プライバシー、患者の昇降など) を知らせる電子メールが届いていました。 ラウンドは午前7時に始まります。 記入が必要なさまざまな旅行書類、証明書、台本を持った 15 ~ 20 人の患者を診ています。 すべて電子医療システム経由で行う必要があり、使いにくく、ユーザーフレンドリーではなく、ログインに時間がかかります。その後、午前 8 時にオーバーブッキングされた手術リストを開始します。 7件の予約が入っています。 誰が手術リストに載るか、患者の順番については私には何も言えません。 最初の患者はまだ診察を受けていない。糖尿病患者は低血糖症だ。 幼児は機嫌が悪い。 自閉症の子供が逃げています。 通訳はまだ来ていません。 コンピュータはまだログインしていません。パスワードの有効期限が切れています。 一部の操作は他の操作よりも時間がかかることがわかっていたので、以前は操作リストを整理することができました。 しかし現在、予約オフィスは私の扁桃摘出手術にはすべて 14 分かかると判断しています。これはコンピューターに記録されている平均時間だからです。 スクラブした瞬間にタイマーがスタートします。 スクラブを外した瞬間にタイマーが停止します。 クリック。 クリック。 クリック。 劇場の予約には通訳の時間、治療前の期間、ICUへの転送が考慮されていないため、リストは遅れています。 担当の看護師は時間通りに終わるように私の首に息を吹きかけてくれています。 私は依然として各症例に約 14 分かかりましたが、チームは外部の臨床的理由により遅れています。 演劇チームは終わらせることに熱心で、すべてが急いでおり、間違いは必ず起こります。 その間、私は救急病院、一般医、その他の部隊からの 12 件の電話に対応しています。 現在までに 3 人の患者が救急病院で私を待っており、1 人は別の病院から飛行機で運ばれてきました。 運行リストの完成が遅れています。 私は急いでEDに行き、 インスタントコーヒーを 飲み干した。 それから午後の診療所に遅く到着しましたが、ここも予約がいっぱいでした。 クリニックの看護師たちは満足していません。 さらに多くの電話を受けながら、8〜10人の患者を診察しています。 私は複雑な手術について患者と話し合おうとしていますが、電話や事務手続きによって中断されてしまいます。 それから緊急事態に備えて劇場に戻ります。 この時点で私は失敗する準備ができています。 私は疲れていて、機嫌が悪くなり、頭はやるべき仕事でいっぱいです。 私は午後の回診をし、より多くの診察を受け、より多くの患者を受け入れ、手紙の口述筆記をします。 24 時間の通話期間中に最大 70 件の電話を受けました。 午後6時までに完全に疲れ果てました。 私はポテトチップスのパケットとジンジャービールを手に取り、書くはずだった書類に取り組み始めました。 今後数日間、事件のメモを見直します。 午後7時から8時の間に帰宅します。 夕食を食べて、子供たちを寝かしつけます。 再び呼び出され、緊急処置のために患者を劇場に連れて行きます。 夜中過ぎに帰ってきて寝ます。 深夜0時から朝6時までの間にさらに4回電話がかかってきます。 午前6時。 繰り返す。 私は日々のコントロールを失い、サポートも失いました。 実際にいつサポートを見つけることができますか? 同僚と人生について話す時間がありません。 家族と過ごす時間がありません。 友達と連絡を取る時間がありません。 医学部に足を踏み入れると、社会的なつながりは失われます。 人生の重要な出来事(誕生日、記念日、同窓会、学校の発表会、初めての散歩など)を逃した回数は数え切れません。 産科医が渋滞に巻き込まれたため、私は3人目を自分の手で出産しました。 翌朝、私は仕事に行きました。そうしなければ、12人の患者が手術を逃すことになり、2人の麻酔科医と約8人の看護師がその日の収入を失うことになるからです。 さらに重要なのは、手術リストのキャンセルは病院にとって多大な経済的損失となるため、管理者は満足しないでしょう。 どこでサポートを受けられるかはわかっていますが、実際には、いつ、どのようにサポートを受けられるのでしょうか? さらに、助けを求めて叫ぶ医師は正式に報告される可能性があり、そのため診療が制限され、場合によっては高額な医療費が支払われることになります。 助けを求めた研修生は成績不振のレッテルを貼られ、試用期間または是正措置を受けなければならない場合があります。 頻繁に宣伝されているサポートを実際に利用できない場合があります。 3. 意味の喪失 興味深いことに、上記の身体的および感情的ストレス要因は、私にとってはかなり対処可能です。 私は自分自身の身体的、精神的な限界を理解しています。 これらのストレス要因は疲労を引き起こしますが、仕事の興奮と知的挑戦は個人的に大きな満足感をもたらします。 瀕死のガン患者、緊急気道事故、複雑な病気の子供たちを相手にしているため、時々感情的に動揺することもありますが、なんとかやっています。 私に最大の苦痛をもたらしているのは、患者との有意義な臨床活動を奪う執拗な管理上の圧力であることをますます認識しています。 そして、これは多くの若い医師も同様に経験していることなのではないでしょうか。 かつて医学は有意義な追求でした。 今では面倒な業界になってしまいました。 医療の喜び、目的、意味は成文化され、無菌化され、プロトコル化され、工業化され、体系化されてきました。 医師はビジネスの網の中に囚われており、もはや崇高な職業ではありません。 若い医師の利他主義は、効率、生産性、主要業績評価指標という束縛に取って代わられています。 私自身の手術リストや診療所の整理についてはほとんど発言力がありません。 手術リストを再注文する権限さえも外科医から奪われている。 私が好きなこと(手術と患者の診察)は、測定され、記録され、ベンチマークされることです。 クリニックは予約が殺到しており、番号を確保するのが困難です。 患者と接するたびに必要な事務手続きは年々増加しています。 私が何をすべきか、そしてそれを行う最善の方法を指示するのは、臨床以外の部門が他にもたくさんあります。 合言葉は「費用対効果と生産性の向上」です。 に進みました ことを承知して医学の道 私は患者のために多くの犠牲を払わなければならない 。 私が実感しているのは、今日の現代医学において、医師はこの複雑な業界の数多くの商品の 1 つにすぎないということです。 それはもはや患者の問題ではありません。 病院の業務についてです。 患者満足度担当者、劇場利用担当者、患者フロー コーディネーター��� これらはすべてビジネス上の役割です。 外科医として、私は病院で 1 年間を過ごし、通勤中に笑顔で仕事に就くことができたことにとても感謝しています。 自分がやっていることが重要だとわかっていたので、長い日々を楽しみにしていました。 さらに一年、別の病院に入院したとき、私は仕事に行くのが怖かった。 電話に出るのが嫌いでした。 私は燃え尽き症候群になり、仕事でも家庭でも感情をコントロールできなくなりました。 私は本質的に攻撃的で無礼な人間ではありません。ただ限界に追い込まれ、仕事を取り巻く状況のせいで失敗しそうな人間です。 同じ外科医でも仕事は違う。 私を感情のコントロールを失うように押し込んだ力は、おそらく私たちの一部を自殺に追い込むかもしれない力と同じです。 一部の病院とそのビジネスにとって、私は外科医ではありません。 私はただの従業員です。 過労、焼損、交換可能。 医学への崇高な呼びかけは、医療業界としての官僚的な力によって窒息させられてきました。 私の考えに同意しますか、それとも反対しますか? 他にどのような「医師の闇」の問題が考えられますか?
医師であることの暗い側面 - DrEricLevi のサブスタック
3 notes
·
View notes
Text
美術モデル
1. 貸しスタジオの扉に『三田美術教室』の張り紙がありました。 美術モデルのお仕事は初めてです。 扉を開けて大きな声で挨拶。 「こんにちわっ。『アルパカ』から来ました!」 中には女の人が二人、床に座ってお弁当を食べていました。 二人とも食べかけのサンドイッチを口に頬張ったまま、驚いた顔でこちらを向いています。 女の人のうち、一人は年のいった感じ。 明るい色のチュニックにスキニーなジーンズ姿。この人が三田先生ですね。 もう一人はずっと若い女の子。 白いブラウスとグレーのプリーツミニスカート。ブラウスの胸には校章っぽい刺繍。高校の制服? 「あ、モデルさんですか!? 三田静子です。こっちはお手伝いのれいらちゃん」 「玻名城(はなしろ)れいらです。今日はどうもありがとうございますっ」 二人は立ち上がって挨拶してくました。 「『アルパカ』の谷村彩智です! ・・お食事中みたいですけど、もしかして私、時間間違いました?」 「そうですね、まだ1時間くらいありますね」 ありゃ、やっちゃったみたい。 「そうだ、谷村さん。よかったら一緒に食べません?」 「いいんですか?」 「どーぞどーぞ。作り過ぎて余りそうだったんです」 れいらさんが勧めてくれたランチボックスには美味しそうなサンドイッチが。 今日はバイトのシフトが忙しくてお昼ご飯を食べていませんでした。 ぐーっ。 大きな音でお腹が鳴って、お二人がくすりと笑いました。 ・・ 「美味しいです! これ、れいらさんが作ったんですか!?」 「はい。あたしの手作りですっ」 「れいらさんの名字、えーっと」 「玻名城です」 「そうそう、ハナシロさん。珍しい名字ですよね。沖縄みたいな感じで」 「おじいちゃんが沖縄なんです。変わってるけど、すぐに覚えてもらえるから得ですよ」 「ほんとだ。私もう覚えちゃいました。玻名城れいらさん」 「れいらさん、じゃなくて、れいらちゃんって呼んでくれたら嬉しいです」 「だったら私のことも彩智って呼んでください」 「はい、サチさん!」 れいらちゃん、元気で礼儀正しい子。 制服のミニスカートから伸びる太ももが眩しく見えます。 うちのチームに誘いたいくらい��� 「れいらちゃん、やっぱり高校生ですか?」 「高校2年生17歳です。 ・・彩智さん、��うして高校生がこんなところにいるのって思ってるでしょ」 「はい。大人向けの教室だと思ってました」 「美術教室は15歳から参加できるんですよ」 三田先生がおっしゃいました。 「そうなんですか」 「美大の進学希望者には普通にヌードデッサンだってやらせてますし」 「え」 2. 急に黙り込んだ彩智さんが可愛いかった。 高校生でもヌードを描くって知らなかったんだろうね。 あたしも1度だけ参加させてもらったことがある。 同じ女とはいえ全裸のモデルさんを間近で見るのはけっこう刺激的だったな。 「今日は着衣のクロッキーですから、ヌードはお願いしませんよ」 三田先生が言った。 「そうですか。よかったぁー」 「谷村さん。美術モデルのご経験は?」 「いいえ、ありません」 「普段は何をなさってるんですか?」 「『アルパカ』はチアダンスのチームなんで本業はダンスです。お仕事はイベントのアシスタントやらポスターモデルやら節操なくやってますけど」 「じゃあ驚いたでしょう。こんな依頼で」 「はい。チアリーダーのクロッキー、はまだ分かりますけど・・」 緊縛、だものね。 「うちのメンバーは全員成人してますがR18の仕事はしません。でも美術教室のモデルなら挑戦しようってことになりまして」 「嬉しいわ、偏見なく受けてくださって」 「これでもドキドキしてるんですよ」 「あの、」 あたしも質問した。 「そのチームって何人もいるんですよね? そこから彩智さんが来たのは理由があるんですか?」 「ああ、それは私が一番年上の古株だから。まだ24ですけど。・・それと、」 彩智さんは少し恥ずかしそうに答えた。 「一番適性があるのは私だと、私以外の全員一致で決まりまして」 「まあ、適性ですか? 緊縛の?」 「はい。どういうことかさっぱり分からないんですけど」 「うふふ」 先生が笑った。 「おかしいですか?」 「いえ、ごめんなさいね」 どうして先生が笑ったのか、あたしにも何となく分かった。 彩智さんって、あたしより7つも年上だけどかなり奥手な人じゃないかな。 3. 「そろそろ設営しましょう」 三田先生とれいらちゃんが準備を始めました。 スタジオの中央にシートを敷き、その周りに椅子を並べるのです。 その間に私は着替えです。 用意してきた衣装はセパレートの赤いチア服。そこへ同じ色のヘアバンドを着け、シューズを履いて準備完了。 「彩智さん足長いですねー。身長いくつですか?」 「170です」 「うわーっ、羨ましいなー!」 会場のセッティングが済むと、三田先生が段取りを説明してくださいました。 「前半はフリーでポーズをとってください。3分ごとに5ポーズ。それを2セット」 「えっと、ポーズの間は動かないようにするんですよね」 「ええ。ムービングといってゆっくり動くクロッキーもありますが、この教室ではやりません。不慣れでしょうけど静止ポーズでお願いしますね」 「了解です」 フリーポーズの撮��は今まで何度も経験しています。 でもずっと動かないのは初めてでした。 チアの格好いいアクションを見せてあげたいけど、ジャンプやタンブリングは無理みたいですね。 「細かい指図はしませんので自由にお願いします。ただ、」 「?」 「最初は無理のないポーズがいいかもしれませんね」 そうか。3分って案外長いかも。 私、ずっと静止していられるかしら? でも何事も挑戦だよね。 「はい。やってみます。・・それから後半は、」 「緊縛です。ワンポーズ約30分。これは生徒さんの出来具合で少し長くなるかもしれません」 れいらちゃんが横から答えてくれました。 「ポーズはこっちで決めますからご心配なく」 「分かりました。頑張ります」 「彩智さん、緊縛も初めてですか?」 「初めて、です」 「怖いですか?」 どきっとしました。 私をまっすぐ見るれいらちゃんは笑っていませんでした。 彼女が急に大人びて見えました。 「怖いです。・・いいえ、怖くないです。うん多分、怖くない。大丈夫・・です!」 「彩智さんって面白いですね」 4. スタジオに美術教室の生徒さんが集まった。 退職して趣味で絵を描いているおじさん。仲良し主婦の二人組。勤め帰りのお兄さんと大学生のお姉さん。そして高校生で美術系志望の女の子が二人。 全部で7人。 皆さんクロッキー会は慣れているので、静かに椅子に座りスケッチブックを開いて待っている。 三田先生は後ろの壁際。 そしてあたしはストップウォッチを持ってタイムキーパー。 チアのコスチュームに赤いポンポンを持った彩智さんが出てきた。 真中のシートの上に立つと、正面を向いて片足を一歩前に出し、胸を張って両手を腰に当てた。 何だか凛々しい。さっきまでのほんわかした雰囲気はすっかり消えていた。 「では1セット目、始め」 全員が一斉に鉛筆を走らせる。 「3分過ぎました。ポーズを変えてください」 彩智さんの身体がすっと沈んだ。 長い足が前後に伸びて完璧な180度開脚。柔らかい~! そのまま前屈して両手を左右に広げる。 「はい、次のポーズをお願いします」 今度は立ち上がって右腕を真上に突き上げた。 反対側の膝を胸まで引き上げて静止する。 彩智さんは3分ごとにポーズを変えた。 とてもしなやかで、それでいて全然ぶれない。 体幹っていうのかな、すごく鍛えているのが分かった。 最後のポーズでは、右足一本で立ったまま、左足を後方に曲げた。 高く反り上がった爪先を肩の後ろで掴み、そのまま頭の上まで引き上げる。 「うわ~」生徒さんたちの間から声が出た。 床についてぴんと伸びた右足と、美しく反り返った上半身と左足。 片足立ちで逆海老のポーズ。 それでぴたりと静止してマネキンみたいに動かない。 あとで聞いたら、スコーピオンとかビールマンとか呼ぶポーズなんだって。 5. 「びっくりしましたー!! すごく綺麗で柔らかくて」 れいらちゃんが褒めてくれて、私はにやっ��笑います。 人前でモーション(ポーズ)を披露するのはやっぱり楽しいですね。 「さすがプロですねー」 「ありがとー。でもチアダンスでご飯は食べれないから、もっぱらアルバイトで生きてるんだけどねー」 「えーっ、信じられない」 5ポーズ×2セットのクロッキーが済んで今は休憩時間です。 私は後半に備えてストレッチ。 スタジオでは皆さん総出でシートと椅子を片付けています。 どうやら後半は各自が椅子ではなく床に座って描くようでです。 次のポーズはいよいよ緊縛。 そういえば、私を縛る人はどこにいるんだろう? 「あの、緊縛をする方は来られないんですか?」 「縄師さんのことですか? ・・この教室、縄師を呼ぶほどの余裕はないんですよね」 「じゃあ、三田先生が縛るんですか?」 「あたしが縛ります」 え、れいらちゃんが!? 「結構上手ですよ。任せてください」 れいらちゃんは手に持った紙袋の中を見せてくれました。 綺麗に束ねた薄緑色のロープがたくさん入っているのが見えました。 6. あたしは小学校の頃から三田先生の造形美術教室に通っていた。 去年から大きな人向けの美術教室が始まって、そちらのお手伝いもするようになった。 美大に行けるほどの実力はないけど、絵を描くのは好きだった。 女の人を縛る緊縛は、造形美術教室のOBのお兄さんが教えくれた。 そのきっかけは3年前の事件だった。 たまたま一人で三田先生のところへ行ったら、先生の前でお兄さんがお兄さんの彼女さんを緊縛していた。 そのときあたしは中学2年だったけど、ぎちぎちに縛られた彼女さんを見ても全然引かなかった。 それどころか、うわーキレイって思っちゃったんだよね。 三田先生は緊縛とかセックスとか、そういう事柄を全然タブーと思わない人で、あたしが緊縛を教わることも公認してくれた。 「御両親がOKしてくださるなら構わないわ。ただし、れいらちゃんが大人になるまで他所では絶対に縛らないこと」 あたしはお兄さんの弟子になって、彼女さんを縛らせてもらったり、あたし自身が縛られたりして勉強した。 (ちなみにこの彼女さん、美人で素敵なお姉さんで、あたしも大好きな人なんだ) 今では一人で縛って大丈夫と太鼓判を押される腕前にはなっている。 クロッキー会の緊縛は今日が初めてだった。 三田先生にダメ元で提案したら、縄を掛けた人体はいいモチーフね、是非やりましょう!と言ってモデルまで探してくれた。 7. 「彩智さん、さっきみたいにキリっとした顔してください」 「無理ですぅ」 皆さん、思い思いの場所でスケッチブックを開いています。 何人かはもう描き始めているようです。 れいらちゃんに縛られるところまでクロッキーされるだなんて、聞いてないよぉ~。 「両手を前で揃えてくれますか?」 「はい・・」 れいらちゃんは私の手首にロープを巻くと、あっという間に縛ってしまいました。 しっかり締まっていて、ぜんぜん緩みません。 「動きますか?」 「動きません」 「じゃここにお尻をついて座ってください。あ、もう少し右に寄って」 「?」 「先生、巻き上げお願いします」 低い音がして、縛られた手首が上に引かれました。 !! 天井に小さなウ��ンチ(巻き上げ機)があってロープを引いているのでした。 あ、あ、あ。 手首が頭の上まで上がって止まりました。 「もう少し上げてください」 手首がさらに上がりました。 吊り上げられる感覚。 ああ、いったい何なの、この気持ちは? 「彩智さん、もう逃げられないって思いますか?」 「・・思います」 「そう思ってもらえると嬉しいです。次は足、縛りますね」 足も縛られるんですか。 右の足首にロープが縛りつけられました。 そっちにもウインチの音。 右足が前方に引き上げられます。 「すみません、少しだけお尻を前に滑らせてください」 え? れいらちゃんに言われる前に、右足と一緒にお尻が引かれて私は前にずりりと滑るのでした。 これで両手と右足を吊られた状態。 「無理に踏ん張らないでロープに身を任せてください」 「は、はい・・」 踏ん張ってるつもりなんかないんですけど。 「あとは左足」 ひえぇ。 左の膝を折って縛られ、さらに同じロープの続きで左の足首と右の膝を合わせて縛られました。 右足に連結された左足。 もう手も足も動かせません。自由を奪われたことを実感します。 私、制服の女子高生に縛られた。
「完成です。これだけで4分もかかっちゃった。手際が悪くてすみません」 「いえ、そんな」 「でもあたし、彩智さんのこと理解しました」 「?」 「彩智さんって、確かに適性がありますよね」 「適性、ですか?」 「ええっと、つまり、こんな風に縛られて感じてしまうマゾな人だってことです」 「!!!」 顔面がぼわっと熱くなりました。 私、わたし、制服の女子高生にマゾって言われた。 8. あたしが彩智さんの側から離れると、三田先生が立ってコメントした。 「緊縛ポーズは滅多に描けない貴重なモチーフです。時間は長めに取りますから、モデルさんの雰囲気を掴んでたくさん描いてください」 あたしはストップウォッチをスタートさせる。 時間は30分。 彩智さんにはちょっと長い時間かもしれないな。 「・・れいらちゃん、あなた最後に何をささやいたの?」 先生に聞かれた。 「いえ、特に何も」 「谷村さん、始まったばかりなのに耳まで真っ赤にして、最後まで耐えられるかしら」 「大丈夫です。被虐性が高すぎて混乱してるけど、体力のある人だから壊れてしまうことはないはずです」 「その話し方、イッくんに似てきたわねぇ」 「そうですか?」 イッくんってのはOBのお兄さんのことだ。 「そのセリフだけ聞いたら、れいらちゃんが高校2年生とは誰も思わないでしょうね」 「お褒めいただいて光栄です」 ぷっ。 先生が吹き出した。 「本当に、イッくんそのものだわ!」 「えへへへ」 「れいらちゃんが大丈夫というなら放置しましょう。それに多少は苦しんでくれた方が生徒さんも描き易いだろうし」 「先生、ドS」 「あら、そうかしら?」 7. スタジオの中は静かです。 聞こえるのは皆が鉛筆を動かす音と、ときおり誰かが立ち上がって場所を移動する音だけ。 ああ、れいらちゃんも描いている。 れいらちゃんは床に膝と手をついて猫みたいな恰好で私を描いていました。 少しお尻が痛いかな。でも大丈夫。 手首と足首のロープに身を任せるよう意識したら楽になりました。 れいらちゃんの言った通り。 それよりも私の気持ちの方が大丈夫じゃない感じがします。 縛られて、見られている。 縛られて、絵に描かれてる。 そう思うと、たまらなくなります。 もどかしくて、切なくて、胸が張り裂けそうになります。 「マゾな人」れいらちゃんに言われました。 認めたくないけど、マゾだ私。 縛られて、見られて、こんな気持ちになって、確かにマゾなんだと実感しました。 「あと10分です」 三田先生の声が聞こえました。 「モデルさんの表情が変わってきたのは分かりますか? ・・よーく見て、彼女がどんな気持ちでいるのか想像しながら描くように」 ああ、先生。 そんな解説されたら、私、もう。 8. 「お疲れ様でしたー!」 「いやぁ、面白かったです」「今日は本当に勉強になりました」「描いててドキドキしました~」 生徒さんたちが挨拶して帰って行く。 「大成功でしたねー」 「ええ、れいらちゃんがここまでできる子になってくれて嬉しいわ」 「私、先生の教室にもう10年いるんですよー。できないと思われたら困ります」 「そうだったわねぇ」 「あとは彩智さんですね」 「そうね」 三田先生と一緒に更衣室へ行くと、彩智さんがチア衣装のまま座っていた。 どこか陶然とした表情で自分の膝と手首を撫でている。 彩智さんの膝と手首には縛られた痕がくっきり刻まれていた。 「彩智さん、もう大丈夫ですか?」 「あ、れいらちゃん・・」 「それ、条痕っていうんですよ。人を縛ると肌に残る痕です。愛しいでしょ?」 「え、じょうこん?」 彩智さんは条痕に乗せていた手を慌てて振り払った。 「そんなことありませんっ」 「素直になってください。彩智さんが支配された痕跡なんですよ?」 彩智さんの顔がまたまたぶわっと赤くなった。 「・・はい。愛おしいです」 「それを触るとどんな気持ちになりますか?」 「・・胸がいっぱいになります」 「谷村さんっ、ホントいい子ねぇ~! 嬉しくなっちゃうわ!!」 三田先生が彩智さんを正面から抱きしめた。 そのまま熱烈にキスをする。彩智さんは逃げられない。 「んっ、ん~!!」 彩智さんの二番目の「ん」は裏声になっていた。 「それ先生の癖なんです。気にしないでくださいね」 9. 女の人からキスされたのは初めてでした。 男性とキスの経験もないので、これは正真正銘私のファーストキスになります。 まあファーストかどうかはともかくとして、三田先生のキスはとても甘くて鮮烈で、私は再びぽよよんと脱力してしまったのでした。 ・・ ようやく元気になるとれいらちゃんが言いました。 「今日は初めての緊縛クロッキーなので簡単な縛り方でした」 「あれで簡単だったんですか?」 「はい。次は高手小手とかホッグタイとか、もっと本格的な緊縛で行きたいと思っています」 縛り方の名前は分からないけど、今日よりもずっと厳しい緊縛だとは想像できました。 「そのときは彩智さん、また来てくれますか?」 「いいんですか? 私なんかで」 「彩智さんにお願いしたいんです。あたし、彩智さんのこと大好きになりましたから」 れいらちゃんはそう言ってにっこり笑いました。 三田先生も微笑んでいます。 「こちらこそお願いします。喜んで縛られに来ます」 「よかった! ・・そうだ、これを」 れいらちゃんはスケッチブックにはさんでいた鉛筆画を取り出しました。 あのとき彼女が描いた私でした。 「これを彩智さんに」 手足を縛られたチア服の女性。私、こんなに綺麗だったのか。
涙がこぼれそうになりました。 「れいらちゃん、ありがとう!!」 「ええっと、この絵は彼氏には見せない方がいいと思います。男性ってつまらないところで疑り深いでしょ?」 「はい?」 いえ、残念ながら彼氏はいないんです。 「お付き合いしている人がいないのなら、彩智さんが一人えっちするときのおかずに使ってください」 !!! 「実は、彩智さん独り身じゃないかってうすうす思ってまして、そのつもりで描いたんです」 三田先生がけらけら笑い出しました。 ひ、ひとりえっち。 たまにします。 この絵見て、いろいろ蘇って、ムラムラして、一人えっち。 ・・しない自信、ありません。 「か、活用させていただきます」 「大切に使ってくださいね!」 ああ、私、最後まで制服の女子高生に翻弄されるようです。 れいらちゃんは誇らしげに胸を張っていて、三田先生は笑い続けていました。 二人を前にどう反応したらよいのか分からず、ただ私はもじもじするだけでした。
~登場人物紹介~ 谷村彩智(たにむらさち):24歳。チアダンスチーム『アルパカ』のメンバー。美術モデル初体験。 玻名城れいら(はなしろれいら):17歳、高校2年生。美術教室の生徒兼お手伝い。 三田静子:59歳。元中学美術教師。三田美術教室を運営。 赤いチアリーダーの緊縛と緊縛デッサン会。 どちらも以前書いたことがありますが再び登場です。 実はAIに描かせた緊縛絵の中に赤いチア服があって、昔の嗜好が再燃したのでした。 本話では語り手が二人いるので、本文の文字色を分けています。 赤��彩智さん。青がれいらちゃんです。分かりますよね? 主人公の彩智さんはチアダンスのプロです。でも24歳にして男性経験皆無。 チアのポーズを格好良く決める姿と、れいらちゃんに縛られるときの天然M女っぷりを私好みに描きました。 彼女はこの仕事で初めて自分の性癖を自覚しました。 きっとこれからは、ぐっと色っぽくなってすぐに彼氏もできるのではないでしょうか。 れいらちゃんは『多華乃の彼氏』で小学4年生だった女の子です。 7年経って高校2年生になりました。 本話では緊縛の縛り手ですが、縛られる方もきっと拒まないはず。作者的には使い勝手のいいキャラです^^。 また別のお話で活躍させたいですね。 そして、OBのお兄さんとその彼女さんはもちろんあのカップル。 今では25~6歳くらいになっているはずです。 本話に登場させることも考えましたが、当たり前にサラリーマンをしてそうでプロットが浮かびませんでした。 れいらちゃんの再登場があれば改めて検討することにします。 上記のように挿絵は今回もAI生成です。 思い通りの緊縛はなかなか描いてくれないので、一部を自分で描いて mask 機能で取り込みました。 それでも腕と手指は変な造形だし、生成を繰り返すうちに縄の色は薄緑にww。 挿絵としてなら満足ですが、単品の作品で通用する品質ではありませんね。 変化の激しいAIイラスト生成の世界。今や時代は LoRA らしいです。 自分の環境では使えませんし、そもそも出生の怪しい LoRA を使うのは道義的に躊躇します。 私自身は当分、旧式の方法で細々とやっていくつもりです。 2枚目の鉛筆画は無料の変換サービスで生成したものです。 さて、AIで生成した挿絵からお話を作るシリーズ(シリーズにしたつもりはありませんが結果的に^^)。 次はイリュージョンを描かせてみたいものですね。 どうやったら���いてくれるのか、まだ全然分かりませんが。 それではまた。 ありがとうございました。 [2023.8.10 追記] こちら(Pixiv の小説ページ)に本話の掲載案内を載せました。 Twitter 以外にここからもコメント入力できますのでご利用ください。(ただしR18閲覧可能な Pixiv アカウント必要)
3 notes
·
View notes
Text
ジェフ・ベゾス 果てなき野望
【3,837字 7分】
ブラッド・ストーン『ジェフ・ベゾス果てなき野望』(日経BP社)
この本の原題は『ザ・エブリシング・ストア ジェフ・ベゾスとアマゾンの時代』である。ジェフ・ベゾスの本というよりはアマゾンの本、いまぼくたちが見る「エブリシング・ストア」としてのアマゾンを誰がどうやって作ってきたかという本である。
「エブリシング・ストア」の手始めとして書店を選んだのはジェフ・ベゾスである。着想は1994年のことだ。
結論は「書籍が一番いい」だった。理由はいくつもあった。まず、書籍というのは差別化と縁のない商品で、どのお店でもまったく同じ本が買える。だから、商品の質を心配せずに買い物ができる。書籍の世界にはイングラムとベイカー&テイラーという2社の取次があるため、たくさんの出版社にひとつずつ当たる心配がない。また、重要なポイントとして、書籍は300万点以上も存在しており、書籍のスーパーストア、バーンズ&ノーブルやボーダーズでさえもすべての在庫を持つことは不可能である。
(第1章 アマゾンは金融工学の会社から生まれた)
アマゾンのレビュー機能は、創業メンバーのひとり、シェル・カファンが作った。
ベゾスは、ユーザーが書いた書評が他サイトより多くなれば他のオンライン書店に流れる顧客が減り、アマゾン・ドット・コムのプラスになると考えていた。当然のことながら、否定的なレビューが書かれることもある。のちにベゾスは、講演で、君の仕事は本を売ることであって本にけちを付けることではないと怒りの手紙を出版社の役員からもらったときのことを取り上げこう語った。「我々はまったく違う見方をしていました。その手紙を読んだ瞬間、『我々はモノを売って儲けているじゃない、買い物についてお客が判断するとき、その判断を助けることで儲けているんだ』と思いました」
(第2章 冷たい目を持つ聡明な男)
1995年に書店としてサイトオープンしたアマゾンが実際に「エブリシング・ストア」へと舵を切ったのは、1998年にマーク・ブライアーがベゾスに「消費者の大部分は本をめったに買わず、アマゾン・ドット・コムを使っていないし将来使うこともまずない」という調査結果を出した時だった。
ベゾスは、ハーバードビジネススクール出身者を集めて「SWATチーム」を作って製品カテゴリーの検討をしろ、在庫可能な品目が多く、かつ、リアル店舗では見つかりにくくて郵送しやすい製品カテゴリーを探しだせとブライアーに指示。これこそ、アマゾンに成功をもたらした戦略の中核である。従来型小売店より豊富な品ぞろえが実現できるインターネットの力を最大限に引きだすのだ。
(第3章 ベゾスの白昼夢と社内の混乱)
マーケットプレイスは2000年秋の社内会議から生まれた。
いろいろと問題はあるが、サードパーティーの売り手のページに向かうトラフィックはほとんどが商品ページのクロスリンクによるものだと判明する。これは重要なポイントだった。アマゾンでは信頼性の高い商品カタログを中心にトラフィックが発生する。しっかりとした内容紹介のあるページがひとつだけみつかり、顧客はそこに集中する。その日集まったアマゾン幹部は、インターネットで一番信頼できる商品カタログを持っているのは自分たちであり、それを活用しない手はないとの結論に達する。
その秋、アマゾンは、マーケットプレイスという仕組みを発表。最初の対象は古本だった。アマゾンが各書籍を販売するページにアマゾン以外の売り手による古本も掲載され、その本をアマゾンから買うか、それ以外の売り手から買うかは顧客が選ぶ。「ジェフは最初からとても明快でした。我々より安く売れるところがあるなら自由にやらせ、彼らがそうできるようにする方法を考えるべきだというのです」
(第4章 宿敵アナリストに打ち勝つ)
最初にアマゾンの物流システムを作ったのはウォルマートから引き抜かれたジミー・ライトだったが、それを小口注文用に再構築したのはジェフ・ウィルケだった。
シアトルに来たウィルケは、すぐ、小売物流の専門家ではなく、科学や工学の専門家を物流部門に集めはじめた。「顧客の注文通りに組み立てていると言ったほうがいいでしょう。作業内容は小売業より製造・組立の現場にずっと似ているのです」――こう言うウィルケは、アマゾンの出荷施設の名前を現実に合わせて変えた。倉庫でもなければ物流センターでもなく、ウィルケ以降はフルフィルメントセンター(略称FC)と呼ばれることになる。
物流ネットワークの効率を少しずつ高めることにウィルケが成功した結果、アマゾンは、数え切れないほどのメリットを得ることになる。物流をきっちり管理できるようになったため、購入商品がいつ届くのかを顧客に約束できるようになった。サプライチェーンからウェブサイトまですべてを自社開発の技術でまかなっているため、注文ごとに山のようなシナリオを検討するアルゴリズムを作ることが可能になり、配送をすばやく安価に行えるシナリオが選択できるようになった。このような処理は1時間あたり何百万回も行われるわけで、コスト削減につながる――つまり、価格を引き下げ、販売数量を増やすことができるわけだ。
(第6章 混乱続きの物流システム)
アマゾンプライムはチャーリー・ウォードの提案から始まった。
スーパーセイバー・シッピングは土曜の夜を目的地で過ごす人には安くする航空会社の料金割引制度と同じように、価格に敏感な顧客向けのサービスである。では、逆を求める顧客向けのサービスがあってもいいのではないか。価格よりも時間に敏感な人を対象とした迅速配送クラブがあってもいいのではないか――そうウォードは考えたのだ。
プライムには価値があると、最終的には確認される。Amazonプライムに登録した顧客は、注文の翌々日に必ず商品が届くのが便利だとアマゾン中毒になるのだ。特急配送にはかなりのコストがかかるため、導入当初、プライム制度は赤字だった。だが、ウィルケらの努力により、複数商品をひとつの箱に入れられることが少しずつ増えたりした結果、アマゾンの配送コストは年率10%を超えるスピードで低下していった。
(第6章 混乱続きの物流システム)
クリス・ピンカムとリック・ダルゼルが構想したAWS(アマゾン・ウェブサービス)の責任者になったのが、ジェフ・ベゾスの初代シャドー(影法師、つねにジェフ・ベゾスに付き従う最側近)を務めたアンディー・ジャシーだった。
仕事はふたりで相談し、開発者が好きな種類のアプリケーションをアマゾンサーバーで走らせられるようにするサービスの構築とした。問題を検討したピンカムらは、Xenという新しいオープンソースを利用する案を提出する。Xenを使うと、データセンターに置かれた1台の物理的サーバーでたくさんのアプリケーションを走らせることが簡単にできるのだ。
ジャシーはこう言う。「世界的大企業と同じインフラストラクチャーを寮に住む大学生が使える世界を考えたのです。大企業と同じコスト構造が持てるというのは、スタートアップや小企業にとって互角に戦える場ができるということですから」
(第7章 テクノロジー企業であって小売企業ではない)
こうしたテクノロジー企業としてのアマゾンを、ジェフ・ベゾスのそばで支えてきたのが、リック・ダルゼルという人物だ。
ケンタッキー州ジョージタウン出身のダルゼルは信号のエキスパートとして1980年代をフォート・ギャンブルで過ごしたあと通信士官として西ドイツに赴任し、退任後は、最先端の技術を誇る小売企業、ウォルマートの情報システム部門に職を得た人物だ。
「いろいろな人のもとで仕事をしましたが、ジェフには何点か、ほかの人より優れているところがあります。ひとつは、現実を受けいれること。現実について語る人は多いのですが、現実に一番近いと思われることを前提に意思決定する人はまずいません。もうひとつ、彼は因習的な考え方にとらわれるころがありません。なんと、物理法則以外に縛られるものがないのです。物理法則はさすがの彼にも変えられませんが、それ以外はすべて応談だと考えているのです」
(第9章 グーグル、アップルと��ぶ会社になる)
まっとうな着想を最高の技術で実装し文字通り「エブリシング・ストア」へと成長してきたアマゾンは、その過程でいま挙げたような人々をいわば「使い捨て」してきた。喫緊の課題を解決できる最適の人物を採用し、それを達成したら次の喫緊の課題に最適な人物を採用して采配を委ねる、その過程で役目を終えた(とジェフ・ベゾスに見なされた)人たちは閑職に追いやられるかアマゾン自体を去っていった。
皆、説得力のある教義を説いたベゾスを信じ、金銭的には十分に報われた。だがそのあと、冷たい目の創業者に捨てられ、経験豊かな人々に交代させられた。自分たちを置き去りに会社が発展していくのを見るのは、子どもが自分を捨ててほかの家族と歩いていくのを見るような感じがしただろう。もちろん、シェル・カファンに対してはっきり示されたように、アマゾンにとって本当の親はひとりしかいなかったわけだが。
(第2章 冷たい目を持つ聡明な男)
0 notes
Text
出生証明書を400枚集める - Part1
昔、Sims4の実績に「ベイビーブーム」という物があったらしい。で、達成条件が「世界全体で赤ん坊を400人作る」って事らしいが、結局、実装されなかったのか、バグで達成できないのか……ある意味、幻の実績になってるっぽい。(ちゃんと更新が続いている攻略サイトには載ってない)
今回は、その実績を参考に赤ん坊を400人産ませてみようかな、って感じの内容になりやす。で、↑が恐らく350世代続く一族のご先祖。
ゲーム設定は、
加齢:短い
季節の長さ:28日間
ご近所物語:「引っ越してくる」のみON
デフォルトシム:全削除
こんな感じ。特にプレイとかに「縛り」とかもなし。100BabyChallengeみたいな細かいルールもなし。 強いて言うなら、「墓集め」の時みたいに故意にシムを事故死させない、露骨なチートは使わない、ってことくらい。
それと、このプレイに都合が良い「妊娠期間を1日に減らすMOD」も導入しておりやす。後はカメラMODとスキンCC1つとショッピングカートのUIを消すMODを入れてプレイしていく予定。
結婚もギャラリーから良い感じのシムを選んで結婚するから、どっか出かけてNPCシムを探すって事もしないかも。
まぁ、その辺は、プレイしてて飽きたらやり方変える感じになるかなぁ。100BabyChallengeみたいに一人のシムがたくさんの赤ん坊を産むプレイじゃなくて、どんどん縦に家系図を伸ばす感じのプレイにする予定だから、マジで途中で飽きて嫌になりそうではあるww
あと、出生証明書を集める過程で墓も一緒に飾るか、って思ってるので、出来ればシムは誰一人引っ越しさせずにやって行きたい所。
「赤ん坊を400人」ってのは決めてるけど、果たして何回、世代交代する事になるのかはっきりとは分からん状態だったりはする。
双子の確率を10%、三つ子の確率を1%と仮定すると一回の出産で生まれる赤ん坊の期待値は、おおよそ1.12人だから358回の出産で一応は400人超える……はず。(余程の屑運を発揮しなければww)
で、そんな事を考えてたら、出産したシムの普段着が病院のガウンになるバグに遭遇。これまだ直って無かったんだな。
たしかこれ1回でも起きると、その後、病院で出産するシム全員こうなるんだっけか……。マジでこういう所でプレイヤーの意欲を萎えさせるのが上手いゲームだぜ!
まぁ、なっちまったモンはしょうがない。しょうがないからこのままプレイしていくZOY。
で、3世代目でベッド以外の家中のアップグレードを全て終わらせる事が出来た。
ベッドはアップグレードしない���寝る時間が多い方がウルトラスピードより速い高速スピードで時間飛ばせるし、寝る時間ズレるし……このプレイだとあんまり恩恵がないんだよな。
そして3世代目にして「恋愛して結婚」という流れが面倒になりCASで婚約者から関係をスタートさせる事に。(もう既にグダグダなプレイになっててワロタ)
あと、パソコンを使える状態で置いとくと、凄い頻度でこのポップアップが勝手に出てくるんだが……。結婚式したシムが自律で結婚式を計画してる……っぽい。
結構ヤバい頻度で出て来てすげぇうっとおしい!! 数分おきにゲーム中断されるんだが……。しかも「好き嫌い」のポップアップも出てくるし……マジでこのゲームはゲームやらせる気ないのけ?
そんなこんなでも何とかプレイを続けて実績「クロゴケグモ」を達成。……まぁ、まだまだ始まったばっかりなんだけどさ。
で、「妊婦の普段着が病院のガウンになるバグ」を色々検証してて気づいたのが、「一回でも良いからCAS画面に移れば直る」っぽい。
Shift+左クリックのチートメニューからでも、シムオロジーのパネルから「好みの傾向」で「「シムの作成」へ移動」のボタン押してのCAS画面移行でもいけるっぽい。(私の環境では生活モードに戻ってまだガウン着てても1回着替えさせればそれ以降はガウン着なくなった)
ただ、持ってるパックによっては駄目かも分らんね。しかも、このガウンバグが起きる度にCAS画面に行かなきゃならない。今の所このバグが回避できた妊婦は誰一人いないZOY!
残り300人以上は妊婦になる予定だから毎回CAS画面に移行するくらいなら無視するわww(それに無職ならずっと寝間着のままでしょ(笑))
そして、2年目の春に突入。ここまでで集められた出産証明書の数は5枚!……まぁ、環境整える為にお金貯めたり満足ポイント貯めるのに忙しかったから……。
あと、ちょっとだけ乳児を育てるプレイもしてた。乳児のアプデ来てから、ちょいちょいやってはいたけど、やっぱあんま面白くない……ww
これは乳児アプデと共にリリースされたパック持ってないとやる意味ないんかね? 昼寝をしなきゃいけない間隔と空腹と衛生、膀胱を管理できる時間のバランスがあまりにも取れてないような気がするが……こんなもん?
結構、面倒臭い介護やらされた後に貰える特質も時々「幸せ」が付与されるだけ? スキル習得速度が上がったりとかしてるのけ? よく分かんねww
あと、なんか知らんが、シム全員寝たのに高速スピードにならない状態になった。フェスティバルが開催されるような区画でも無いんだけどな。
これだとプレイにすげぇ時間かかるから任意のタイミングで高速スピードが使えるMOD入れたわ。ただ、あんまり使い過ぎるとシムが動けなくて餓死する危険がある……ww(経験済み)
プレイ時間が長すぎてなんで撮ったのか分からんスクショまで出て来たww
6世代目を育成してたら、父親(ギャラリーからDLしてきたシム)がアクティブ持ちだったことに気づいた。
やっちまったぜ! アクティブは寿命が延びるんだよなぁ。嫁と揃ってシニアにしたのに同じタイミングで墓にならない事が確定してしまった。
一応、ギャラリーで確認してから世帯に入れた気がしてたんだが……ww(私の目は節穴だった模様)
あと同じく6世代目を育成中にカネの木の品質が「完ぺき」になったZOY。いつかのアップデートでシムのインベントリに実を収穫できなくなったようだが、実った状態で建築モードから世帯の持ち物に移すといくらでも実は取れるんだよな……。
まぁ、でもそんなお金はいらないか。ギャラリーからDLしたシムって時々大金持ってることあるし。もう要らないかなぁ……って事で世帯の持ち物に仕舞ったZOY。
家はこんな感じ↑。
まだ双子も産まれてないからベッドも最低限。シムの歩く距離も増えないように、程々の大きさの豆腐をくっつけてるだけって感じ。
アクティブを持ってない嫁があと24時間で墓になりそう。
殆ど同じタイミングでシニアにしたけど、アクティブ持ちの旦那はまだこれだけ寿命残ってるんだなぁ。3日~4日くらい延びるっぽい。「長生き」持ってなくて本当に良かったww
で、その後もプレイを続けて記念すべき10世代目(10人目)↑。
今回、子孫は殆ど整形してない。ちょろっとスキンのCC付けたりするくらい。ただ、ギャラリーからDLした、顔の整ったシムばっかりと結婚してるからか、そこまで強烈なブサイクが産まれてない気がする(笑)
そして13世代目が双子として誕生。ただ、やっぱ「子宝」も無いと双子、三つ子は厳しいか。(今回、CityLivingのレイライン直上は使ってない)
うーん、そっくり。まるでコピーみたいだぁ。
とか思ってたら、妊娠の体形までコピーしてた……。結婚して妊娠のバフが付いてるのは13人目の姉の方なんだが……なぜか妹も妊娠体形になってたわ。
ただ、妊娠のバフはついてないし、トイレをクリックしても「吐く」が出ないから本当に体形だけをコピーしてるっぽい。(なんつーバグだww)
陣痛の通知も姉の方しか出て来なかった。
で、まぁ、その後もプレイを続けてたんだが、シニアに成長すると、なぜかみんな狂ったようにプログラミングを始める現象に遭遇。
ダメもとで「嫌い」に設定してみたが緊張しながら怒りを爆発させてた。なんでこれで「止めよう」って行動にならないのか……。(さすがのEAクオリティ)
膀胱も空腹も体力も楽しさも真っ赤でも絶対自分��ら止めようとしない辺り、シムは基本的に何かの精神的な病気を抱えてるのかと思ってまうわww
そしてリアル24時間プレイして集めた出産証明書の数は16枚!あと384枚!ww
そして時間が進んで、3年目の春に突入。
んで、17世代目、18人目と19人目が双子で誕生。
更にプレイを続けて24人目(22世代目)から「子宝」を使い始めることに。
「子宝」購入に必要な満足ポイントの貯め方は「願望:豪邸王」を使っていく。絵画や窓を適当に壁にベタベタ取り付けて、
柱や35万ドル分の家になるように高級オブジェクトを地下の空いてるスペースに設置。これで願望を「豪邸王」に切り替えるだけで4500ポイントくらい手に入るようになったZOY。
そして、29人目(27世代目)を育成中に4年目の春を迎えた。
あと、パソコンとオーディオを撤去したZOY! あまりにも高頻度で結婚式を計画するポップアップが出てくるし、シニアになると取りつかれたようにプログラムをするから置くの諦めた。
「オタク」シムが「ゲームが欲しい」ってイライラするが、こっちがそれ以上にイライラするから禁止だ!
オーディオはしょっちゅう音楽の「好き嫌い」のポップアップが出てゲーム中断されるから撤去したZOY!
ーーーーーーーーーー
あと、途中からCityLivingとParenthoodを無効化してプレイする事にしたYO!
CityLivingはフェスティバルでカレンダーにしょっちゅう黄色いドットの通知を光らせてうざいことこの上ないから外した。
Parenthoodは、学校からの電話でシムがスタックする現象が頻発してしょっちゅうShift+左クリックでオブジェクトリセットしないといけなくなったから外した。
途中のセーブからパックを無効化すると若干セーブデータが破損する恐れもあったが、NPCシムが裸になったりハゲになるくらいでプレイできなくなるような事は今の所おきてはいない模様。(入れてるMODが少なかったおかげもあるのかも)
そして、残りの出産証明書は371枚!果たして飽きて辞めずに最後までいけるのか!?……そんな感じで次回に続く。
次回へ
0 notes
Text
2024.01日記
2024/01/01
帰りの新幹線に乗っていると地震があり、いっせいに緊急地震速報が響いた。電車が緊急停車し、やや揺れたなと思っていると外の電線のほうが揺れていた。
現代詩手帖2023年7月号を読んでいたら電車酔いして、しばらく動けなかった。詩は今年かけたらいいな。短歌も作ってみたいといくつか試してみてるけど、しっくりきてない。今年の目標は以下。iPad買う/先にタイトルを決めて小説を書く/詩かけたらいいな/短歌作ってみたい
ジゼルのポーチを買ってもらったらジゼルを踊る夢を見た。明日はプリキュア展。
2024/01/02
感情が昂っていてプリキュア展のことをうまく言葉にできない。
事前に見た作品はトロピカルージュ(途中)、デリシャスパーティ、ひろがるスカイ。人は少なくかなり見やすかった。等身大キャラクター人形が、主人公だけでなく他キャラクターもいた。ひろプリのパネルや設定資料が追加されていた。出た後にも全キャラクター分のパネルがあった。図録は在庫残っていた。値段をみてやめてしまったが買えば良かった。プリキュア展とは別に、当日指輪を買ったが落としてなくした。ムーンライトに手をふったら一度振り返してくれた後、物陰に隠れてゆっくりこちらをのぞき、もう一度手を降ってくれた。夏海まなつちゃんに会いたいな。トロピカルージュプリキュアのブースでローラと��なつの別れのネタバレを観る。泣きそう。まなつが涙を流して海に飛び込んだローラを追いかけたあと、ローラは海からひと跳ねする。背を反らして、夕陽に鱗を輝かせ、天に手を伸ばすおとぎ話のような光景に、みんなの涙が止まる。ローラはトロピカル部の友達でありながら伝説の生き物で、ローラがまなつから離れて絵画のように伝説の一部となるとき、とてもとてもうつくしく、うつくしいから、遠い。ふたりはほっぺたをくっつけ合って笑い合う友達なのに。
トロピカルージュプリキュアを観終えたら映画プリキュアオールスターズFを見なくてはいけなくなるかもしれない、わからない。
2024/01/03
トロピカル〜ジュプリキュアは29話をみてしまっておなかいっぱい。昨日ネタバレで観た最終回でとても悲しくなっていたけど、過去の感想を見たらあまり悲しくない話の運びだったらしく、あんまり泣かないかもしれない。午前中はサマーとラメールのグリーティングにどうしても行きたくて、行くかどうか悩んでいたけれど、ピアノを弾いたりほかの生活をしていたら気が収まった。洋服はほしい。
今なら絵を描けると思ってクリスタを一ヶ月分購入。むだにしないよう今月はなるべく絵を描きたいが、液タブは場所を取るしコードが多いうえ、PCの速度自体がそんなに早くないのでいつかはiPadで絵を描くようにしたい。夢のはなし。
2024/01/04
ギリ書けるか。
エコー検査して5時間カラオケ。久々に大きい声を出すが声は大きければ大きいほど上滑りして高くなっていくから録音して聞くと別人。呪術廻戦最新刊を読む。
2024/01/05
出社。15時まで謎の待機。こういうことがあるなら在宅勤務にしてほしいが、そうもいかないよう。おみやげでとおりもんをもらう。とおりもんがいちばん好きかもしれない。
2024/01/06
ナックルガールを観る。三吉は顔に邪魔なところがなくて綺麗。
イヤホンをポケットに仕舞った服ごと捨てたことを察し、散歩を諦めバスに乗って駅へ行き、イヤホンとユニクロの小さい鞄を買った。ヨドバシで6万のヘッドホンを装着し、寝不足もありどうしても欲しくなったが、とりあえず今まで使っていた3COINSのイヤホンを買い直し来年考えるという先延ばしにより散財を回避。全体的にうっすら寝不足で何事もノイズがかかったようだった。
2024/01/07
再び散歩して筋肉痛になる。
記憶は蓄積するのではなく想起という行為そのものが過去を呼ぶという論。ここまで読み、散歩したら、気づいたら本を買っていた。何を言ってるかわからねーと思うが……。
2024/01/08
ギリ書けるか。
ドラクエ10を少し進めたが、頭痛のためほぼ一日なにもできず。
(あるひとを思い出すのは、過去の写しの再生ではなく現在の行為であり、個人の環境に依るのであればそうでないものとそうであるものを分けるのも現在のそのひとである。)
寝る前に換気をしたら頭痛が改善したので電気ヒーターで何かが燃えたのかもしれない。
2024/01/09.10
(目の覚めた地の文の羅列)
カラオケに行きたい
2024/01/11
一粒食べるとクレープ食べたあとみたいになるチョコレートを二粒たべた。昼間は怒涛の仕事であっというまだった。
(想起においは動作の担い手が交互に入れ替わること 物語になることは細部をそがれること
小説がミクロの具体性を編み続けることであるなら、“文章”とは相容れないだろう。現在を置き続けること、いっぽうで回想の体で物語ることもある)
2024/01/12
怒涛の仕事だが終わらせる。カラオケ行きたい。
上司に私の慰労会と伝えられ二人で定時後食事し、ドラクエ格付けなどで盛り上がり楽しかったが、そのあと交際を申込まれ気分が下がってしまった。わたしはなにか間違ったコミュニケーションをしているのだろうか。年齢のせいであればよいけど、ひとりのことばかり夢中になってきたから自信がない。
2024/01/13
今日と明日で共通テストらしい。受験生は大変だ。
4時間ほどカラオケにいて、大声の出し過ぎで気持ちが悪くなり退散。でもここさいきんで一番楽しいカラオケだった。
家に帰ると妹が彼氏と喧嘩をして、謝るために買ったケーキの余りがあり食べる。妹の彼氏はむかし薬物をやってたみたいで絶対別れた方が良いとおもうが、すきだからケーキを持って謝りに行くのだろう。うちの家族がもっと関わり合う人々だったら引き止めていたのだろうかとかおもうけど、じっさいはそうでないのでわからない。
こういう関係でいきてきたから、ひとといることの肯定だとか、唯一無二のしがらみとともに生きることの幸福を描いている物語をみるといいことだとおもう。自分のなかからはでてこない幸福で、でもわたしもそれは幸福だと思う。そういうものに出会えるとうれしい。
2024/01/14.15
谺碧海那由多を見定むアグラフォノスの詩篇を練習。タイトル覚えられたこと無い。
仕事における 害(パワハラとか)のないひとのことをわりとアンドロイドと思いがちなので人間味を出されるとびっくりする。いきなり40歳の上司に交際を申し込まれたダメージが大きく日曜はほぼなにもできなかった。とくにストーカーとかの被害もなく、相手も途中でひより始めて水に流していただいても構いませんとか言い始めるし、今日はそのことで謝られるしたいへんきまずい。でもそれを��輩に相談して、きまずいなか頑張って働いてますアピールができたのは良かった。
妹の彼氏は元薬物売りらしく、死体を運んだことがあるらしく、本当に別れたほうがいいと思うが今日も部屋から男の声と「撤回する♡撤回するう!」と聞こえてきたからだいすきで別れないんだろう。別れたほうが良いのになあと勝手ながら思い、別れたほうが良いのになとツイートしたらもう4年くらい会ってない友達からいいねされたからあいたいよーと言ったら2月に連絡をくれることになった。楽しい忙しさで生活がみちみちらしくいいことだ。アニメーターになるために専門学校へ通い直していると風の噂で聞いたけどどうなんだろう。いまはクリエイターなのかな。
2024/01/16
小説書き終わった。タイトルはいつもむずかしいからよく考えていない、今度はタイトルからきちんと小説を書いてみたい。
もともと『知と愛』のマリーや『くるまの娘』などの広義の土地に縛られるひとがすきで、物語に置いた。さびしいのにどこにもゆけない、というのは好きな概念のひとつ。そんなことばかりやってるけれど、今回もそれがやりたくてそういうことをやった。
寒くて全身の皮膚がいたかった。喉も痛い。
2024/01/17
喉痛いしだるい、熱はないで明日明後日を在宅勤務にしてもらった。もうほぼコロナで確定と思っていて、そう思うとますます心が萎れてくる。毎日気をつけてたのに。
書いておきたいものもあといくつがあるからほそぼそやりたい。
2024/01/18.19
絶対コロナでしょうという風邪をひいていてどうにもならない。熱はないらしいけど、とにかく喉と全身が痛く、体がだるい。
食べ物が食べられるうちは大丈夫と思っているので、むりして食べては自滅しがち。昨日と今日を在宅勤務にしてもらえてたすかった。これで通勤になってたらとおもうとぞっとする。今日なんかはまったく起き上がれなかったし。
体が使い物にならないぶん考え事をするしか無いから、2月お友達とあうときの洋服を考えてはいまから悩んでいる。
なかなかしんどくて本は読めないけど、それとドラクエくらいしかすることもないので読みすすめていきたい。
2024/01/20
1日のほとんどをドラクエに費やす。が、たまーにピアノを弾いたりした。熱があるのによくやるなと思う。
コロナもインフルも陰性。今までコロナに罹ったことはなく、コロナが流行りはじめてからただの風邪にもう3回くらい罹っている。
病院につくと子どもが多く、インフルエンザの検査(鼻に長細いなにかをいれるあれ)を本気で嫌がり、命をかけて駄々っ子をする子どもが二、三人いた。親を蹴ったり、喉の許容を越える声で叫んだり。本気で抵抗するともしかしたらどうにかなるんじゃないか、という子ども特有の駄々っ子の希望ってどこからくるのだろう。甘えだろうか。自分もそういう駄々っ子をした記憶がある。
2024/01/25
やっと風邪が落ち着いて、鼻をか��ながら出社できるようになった。ひさびさに外へ出ると、自分より身長が低い人や高い人がたくさんいて、やっぱり自分は世間的に見ると小さいなと思いつつ、それでも最小というわけではなくふつうだなということに気づく。
何日か出社してつらかったが、なんとこれからは週一回の出社でよいと連絡を受けた。
今日は妹の誕生日だったので、Francfrancでメイクポーチとリップバームを買い、プレゼントした。Francfrancの紙袋を見た途端「Francfrancだ!」と悲鳴を上げて、メイクポーチを見て悲鳴を上げて、ずっとやったー!うれしー!と言っていた。あげる前に、メイクで汚れるならせめて色は白ではなかった……、そもそもポーチなんで使うだろうか……、使わないとして、ならしまうのに嵩張らない電動カイロとかのほうが良かったの……とうじうじしていたのもすっきりした。プレゼントをあげてよかったし、喜んでもらえて嬉しい。
2024/01/28
素敵なブラウスとスカートを試着し、かわいいですね〜とときめいてブラウスだけ買うことに決めると、店員がやさ���く「スカートの在庫が残り一点」「ホームページにはもうないかもしれない」「とりあえずあわせたお値段だけ出してみますね」とごりごりに押してきて、たしかに自分でもかわいいと思ったスカートだし、欲しいかもしれない……とわけがわからなくなってしまい、「買います」と言ってしまった。お会計しながらなんとなく間違えている感覚があり、よくわからないけどたぶん踏みとどまったほうが良い!今からでも購入をやめたい!と念じながら13200円払った。呆然としながらこんなはずじゃなかった……こんなはずじゃなかった……としばらく亡霊みたいにフロアを彷徨っていたけれど、後悔の塊にならないために一度購入した服を着ることにして、トイレで着替え、そうしたらやっぱり可愛くていまでは満足。
2024/01/29
昼間に映画『輪るピングドラム』の後編を見終える。アニメ時点の「きっと何者にもなれない」が映画では「きっと何者かになれる」へ至ったことを考えると胸があつい。作品自体はやっぱりくるしくて何度も泣いた。運命の果実を分け合うことができることこそ。一度でも愛していると言われたひとは……。そしてピングドラムはあり続ける。そうだろうか、そうだといいけど。
2024/01/30
時間が空いているときはずっと銀河英雄伝説を流している。おもしろい。
仕事でわからないところがあり、要点だけ聞くつもりが手取り足取り、画面共有しながらすべて教えてもらった。自分と関わりはなく席だけ近いパワハラ上司を思い浮かべ、ずいぶんと自分は人間関係で楽をして仕事ができているのをあらためて実感。
ここ3日間くらい毎晩1時半まで悩んでいた洋服をけっきょく買ったので、今日はそのぶん本を読めた。ボルヘス『砂の本』の他者だけ読んだ記憶があったけれど……と開いたらほんとうに他者しか読んでいなかったのでほかも読み進めている。短編ばかり読んでるから読書がだれる……と叔母が読んだ形跡のある『冷蔵庫より愛を込めて』を出してきた。
霊魂は朝日のあたる窓ぎわの机のうえで丸くなって日向ぼっこをしていた。Kがベッドからおりると、霊魂は朝のくちづけを求めるかのように顔のあたりにじゃれついてきた。柑橘類の皮をむくときのような香りがした。Kは、そういう果汁を使って化粧をした娘に顔を寄せられたような気分になって、一瞬自分が若い妻を得たかのような錯覚に陥った。しかし霊魂がKの肩や顔のあたりで歌にならない歌を歌ってはしゃいでいるのに気がつくと、その気分もたちまち消えてしまった。何か手に負えない動物でも飼いはじめたような気持がそれにとってかわった。
倉橋由美子『霊魂』
2024/01/31
明日もう洋服届くらしい。
血圧の値は膵炎というのは膵炎ではないんだろうか。とにかく脂質を避けてるけどもともと体調が悪かったわけではないのでわからない。
0 notes
Quote
米ピッツバーグ大学医学部の神経外科医たちが、このビンタ大会(スラップファイティング)の参加者が被る神経損傷を分析した。 その結果はかなりヤバいものだった。 78回の試合における333回の平手打ちの映像を調査し、脳震盪の目に見える兆候を探した。 脳震盪の兆候は、無表情、虚ろな視線、なかなか立ち上がれない、運動協調性の喪失、嘔吐、記憶障害、衝撃による発作などがあり、どれかひとつでも認められれば脳しんとうが起こっていると判断される。 調査では、出場したファイターの78%が少なくとも1回は脳震盪の兆候をはっきり示していたことがわかった。 このことは、こうしたビンタ大会が出場者に外傷性脳損傷を引き起こし、長期的な悪影響を及ぼす可能性があるという結果を物語っている。 この画像を大きなサイズで見る image credit:Pixabay ADVERTISING スラップファイティングは無防備でビンタされる過酷な競技 このファイトには、つねに直立の姿勢を保たなければならないルールがあるが、その姿勢が脳損傷のリスクをより高めるのだという。 本研究の主筆者である脳神経外科准教授のニティン・アガルワル博士は、非常に憂慮すべきことだと懸念を露わにする。 軽度の脳しんとうであっても、繰り返すことによって徐々に損傷が蓄積され、接触スポーツ選手によく見られる慢性外傷性脳症(CTE)につながる可能性があって非常に危険だという。 実際にどんな競技なのかはYoutubeなどで見ることができる。男性のみならず、女性の競技者もいて、そのチャンピオンシップともなると、あまりにも痛そうなので自己責任で閲覧して欲しい。 この画像を大きなサイズで見る SlapFIGHT: REDEMPTION – BRUTAL 8 Man Slap Fighting Tournament image credit:Youtube スラップファイティングの今後はどうなる? ほとんどアンダーグラウンドで行われているこのビンタ大会は人気があり、オンラインでも視聴され、有名人が観戦に来ることもある。 専門家から危険性への警告は高まってい��も無視され、その人気は衰えることがないのが実情だ。 スラップファイトが問題になるのは今回が初めてではない。 2021年、ポーランドの大会でファイターのアルトゥール・ワルチャックがノックアウトされ、致命的な脳損傷を負った。 2023年には、女性ファイターのコートニー・オルソンが激しい平手打ちを受けた後の記憶障害と混乱の壮絶な体験を引退後に語った。 本研究は、縛りが緩いこのアングラスポーツをなんらかの形で規制することについて、緊急に議論を進めることを促している。 プロフットボール選手が使っているマウスピースのようなものを使用して、平手打ちの物理的影響を測定する研究を行い、安全規制に役立つデータを提供する予定だ。 しかし、研究者の中には、そもそも平手打ちをスポーツとみなすのかどうか疑問視する声もある。 アガルワル博士も、これをスポーツとして喧伝すべきではないとする。「人々が進んでこのようなファイトに参加するのは非常に危険です。この危険性はしっかり認識されるべきです」 この画像を大きなサイズで見る Photo by:iStock 脳損傷に対する意識の高まり サッカー、ホッケー、ラグビーなど、どうしても接触過多になるスポーツ界では、やはり脳への影響が大きな懸念になっていて、脳しんとう症状への認識やアスリートを守るためのより安全な対策措置を促進する活動も始まっている
平手打ちだけで勝敗を競うビンタ大会は脳損傷のリスクがあると脳神経外科医が警告|カラパイア
0 notes
Text
バーチャルオフィスの電話対応・電話代行サービス完全ガイド
ビジネスの世界では、顧客対応や問い合わせ対応の重要性がますます高まっています。特に、中小企業やスタートアップにとって、プロフェッショナルな電話対応が企業のイメージを大きく左右します。しかし、専任のスタッフを配置することはコストや時間の面で大きな負担になることがあります。そんな時に役立つのが、バーチャルオフィスの電話対応・電話代行サービスです。バーチャルオフィスは、物理的なオフィススペースを持たなくてもビジネス用の住所を提供するサービスですが、その中でも、電話対応・電話代行サービスは企業にとって非常に重要な要素です。顧客からの問い合わせに迅速かつ適切に対応することで、信頼を獲得し、ビジネスの成長に寄与します。本記事では、バーチャルオフィスの電話対応・電話代行サービスについて、そのメリットや具体的な活用方法を詳しく解説します。これからバーチャルオフィスの導入を検討している企業やフリーランスの方々にとって、役立つ情報を提供します。
バーチャルオフィスとは?
バーチャルオフィスとは、物理的なオフィススペースを持たずに、ビジネス用の住所や電話対応などのサービスを利用できるオフィスサービスの一つです。特に、法人登記に必要な住所を提供するため、多くの企業やフリーランスが利用しています。バーチャルオフィスの魅力は、低コストでプロフェ��ショナルなビジネス環境を整えることができる点です。また、実際のオフィスを持たないため、家賃や設備費用を大幅に削減することができ、場所に縛られずにビジネスを展開できます。さらに、バーチャルオフィスでは郵便物の受け取りや転送、会議室の利用など、ビジネスに必要な基本的な機能が揃っているため、柔軟な働き方が可能です。このように、バーチャルオフィスは特にスタートアップ企業や個人事業主にとって、効率的で経済的な選択肢となっています。バーチャルオフィスを活用することで、場所を問わずにプロフェッショナルなビジネスを展開できる環境が整います。
バーチャルオフィスの定義と特徴
バーチャルオフィスの定義は、物理的なオフィススペースを持たないビジネス運営の形態であり、ビジネスに必要な住所、電話対応、郵便物の管理などを外部サービスとして利用できる点にあります。バーチャルオフィスは、通常のオフィススペースを持つことが難しい企業やフリーランスに最適です。また、コストを抑えながらも、顧客に対してプロフェッショナルなイメージを提供できるため、スタートアップ企業や中小企業にも広く利用されています。特徴としては、法人登記の住所提供、郵便物の管理・転送、電話代行サービス、会議室の貸出など、ビジネスに必要な基本的な機能が揃っていることが挙げられます。これにより、企業は実際にオフィスを構えなくても、オフィスを持っているかのようにビジネスを展開できます。特に、リモートワークの普及により、物理的な場所に縛られずに働けるバーチャルオフィスの需要は高まっています。
バーチャルオフィスの主な機能
バーチャルオフィスの主な機能には、ビジネス用住所の提供、電話対応、郵便物の受け取り・転送、会議室の利用などがあります。これらの機能を利用することで、物理的なオフィスを持たない企業でも、顧客や取引先に対してしっかりとしたビジネス体制を示すことができます。特に、ビジネス用住所は法人登記にも使用できるため、信頼性の高いビジネス運営が可能です。また、電話対応サービスを利用すれば、顧客からの問い合わせに迅速に対応でき、ビジネスの機会を逃すことがありません。さらに、郵便物の受け取りや転送サービスにより、重要な書類や通知を確実に受け取ることができます。これにより、実際のオフィスを構えるコストを削減しながら、ビジネスの基本機能を維持することができるのがバーチャルオフィスの強みです。特に、フリーランスやスタートアップ企業にとって、必要な機能を柔軟に活用できる点が大きな魅力となっています。
電話対応・電話代行サービスの概要
電話代行サービスとは?
電話代行サービスとは、企業や個人事業主が顧客からの電話対応を外部の専門スタッフに任せるサービスです。企業が電話代行サービスを利用することで、自分たちが直接電話を受ける必要がなくなり、重要な業務に集中できる環境が整います。特に、中小企業やスタートアップにおいては、専任の電話対応スタッフを配置することはコストがかかりますが、電話代行サービスを利用すれば、その負担を軽減できます。電話代行サービスの最大のメリットは、プロフェッショナルな対応が期待できる点です。専門のオペレーターが企業名を名乗り、丁寧に対応することで、顧客からの信頼を得ることができます。また、営業時間外や不在時でも電話対応が可能なため、重要なビジネスチャンスを逃す心配がありません。ビジネスにおいて顧客対応は非常に重要な役割を果たしますが、電話代行サービスを利用することで、効率的かつ効果的な顧客対応が実現できます。
電話対応の重要性
電話対応は、ビジネスにおいて顧客や取引先とのコミュニケーションを円滑に進めるために不可欠です。特に、新規の顧客に対しては、最初の電話対応が企業の印象を決定づけることがあります。適切な電話対応ができれば、顧客の信頼を得ることができ、ビジネスチャンスが広がります。一方で、電話対応が不適切であれば、顧客は他の会社に移ってしまう可能性があります。特に日本のビジネス文化では、電話でのやりとりが重要視されるため、企業の信頼性を高めるためにも、電話対応には十分な注意が必要です。また、電話対応は顧客満足度にも直結します。迅速で丁寧な対応は、顧客に対して企業が誠実であるという印象を与えるため、ビジネスを成功させるための重要な要素です。企業が成長するためには、顧客との信頼関係を築くことが不可欠であり、電話対応の品質はその基盤となります。
バーチャルオフィスにおける電話対応のメリット
プロフェッショナルなイメージの向上
バーチャルオフィスにおける電話対応の最大のメリットは、企業のプロフェッショナルなイメージを強化できる点です。特に、電話対応を外部のプロフェッショナルに委託することで、顧客からの問い合わせやビジネスパートナーとのやり取りに対して、一貫して高品質な対応を提供できます。専任のオペレーターが企業名を名乗り、丁寧かつ迅速に対応することで、企業の信頼性が高まり、顧客からの評価が向上します。また、初めて連絡を受ける顧客に対しても、適切な対応を行うことで、企業の第一印象を良好に保つことができます。バーチャルオフィスを利用している企業やフリーランスにとって、電話対応の質はビジネス成功のカギとなります。顧客は電話対応から企業の姿勢や価値観を判断するため、電話対応の質を向上させることは、ビジネスの成長に直結します。電話対応がスムーズであれば、企業のプロフェッショナルなイメージはさらに強化され、競争力が向上します。
時間とコストの削減
バーチャルオフィスの電話対応サービスを利用することで、企業は時間とコストの大幅な削減が可能です。自社で専任の電話対応スタッフを雇う必要がなくなり、その分の人件費や設備費用を節約できます。また、社員が電話対応に追われることなく、コア業務に集中できるため、業務効率も向上します。特に、電話対応が頻繁に発生する企業にとっては、外部サービスを活用することで、業務の負担を軽減しつつ、コストを抑えることが可能です。さらに、電話対応サービスは24時間対応や営業時間外の対応も可能なため、ビジネスチャンスを逃すことなく、効率的に顧客対応を行うことができます。このように、電話対応の外部委託は、企業の成長に貢献する重要な戦略となります。時間とコストを削減しながらも、顧客に対して高品質な対応を提供できる点が、バーチャルオフィスの電話対応サービスの大きな魅力です。
業務効率の向上
バーチャルオフィスの電話対応サービスを活用することで、企業の業務効率が大幅に向上します。社員が日々の電話対応に時間を取られることなく、コア業務に集中できるため、全体的な生産性が向上します。特に、頻繁に電話がかかってくる業種では、外部の専門スタッフによる電話対応が大きな助けとなります。また、電話対応のプロフェッショナルによるサービスは、顧客対応の品質を一定水準に保つことができるため、顧客満足度も向上します。これにより、ビジネスの成長を加速させるための効率的な体制が整います。バーチャルオフィスの電話対応サービスを活用すれば、企業は重要な業務に集中でき、無駄な時間を削減できます。業務の効率化は、企業が競争力を高め、ビジネスを拡大するための重要な要素となります。電話対応の外部委託を通じて、業務のスムーズな運営が実現します。
電話代行サービスの選び方
サービス内容の比較
電話代行サービスを選ぶ際には、まず提供されるサービス内容を比較することが重要です。各サービス提供会社がどのような対応をしているのか、具体的な機能や対応可能な範囲を確認する必要があります。例えば、24時間対応が可能なサービス、緊急対応や特定のビジネスニーズに応じたカスタマイズ対応を提供する会社など、さまざまなオプションがあります。また、対応するオペレーターの質や経験も選定の際に考慮するべきポイントです。電話代行サービスは、単に電話を受けるだけでなく、企業の顔として顧客対応を行うため、品質の高いサービスを選ぶことが企業の成長に直結します。企業のニーズに最も適したサービスを選ぶことで、顧客満足度を向上させ、ビジネスの機会を逃すことなく対応できるようになります。
料金プランの確認
電話代行サービスの料金プランは、企業によって大きく異なります。固定料金制、従量課金制、カスタマイズ可能なプランなど、さまざまな選択肢があります。自社の利用頻度やニーズに合った料金プランを選ぶことが重要です。また、サービス内容に応じて追加料金が発生する場合があるため、契約前に詳細な料金体系を確認することが必要です。特に、スタートアップや中小企業では、コスト管理が重要となるため、無駄な支出を避けるためにも、料金プランを慎重に選定することが大切です。料金だけでなく、提供されるサービスの質や対応内容も合わせて比較することで、最もコストパフォーマンスの高いサービスを選ぶことができます。
サポート体制の評価
電話代行サービスを選ぶ際に、サポート体制の充実度も重要なポイントです。特に、トラブルが発生した場合や、緊急対応が必要な際に迅速に対応できる体制が整っているかを確認することが重要です。定期的なレポートの提供や、オペレーターとのコミュニケーションがスムーズに行えるかどうかも評価基準の一つです。信頼できるサポート体制が整っている会社を選ぶことで、長期的に安心してサービスを利用することができます。また、サポート体制が充実している会社は、顧客対応にも力を入れていることが多いため、企業としての信頼性も高まります。万が一のトラブル時にも適切なサポートを受けられる体制を重視することが、長期的なビジネス成功につながります。
バーチャルオフィスのメリット・デメリット
メリット
法人登記の住所に利用できる
バーチャルオフィスの大きなメリットの一つは、法人登記の住所として利用できる点です。特に、オフィススペースを持たない企業や個人事業主にとって、バーチャルオフィスの住所を利用することで、会社設立や法人登記がスムーズに行えます。また、自宅住所をビジネス用に公開する必要がないため、プライバシーを守りつつ、ビジネスを展開できる利便性も魅力です。特に都市部の住所を利用することで、企業の信頼性やイメージが向上し、ビジネスチャンスの拡大につながることが期待されます。法人登記のためにわざわざ高額なオフィスを借りる必要がなく、コストを大幅に削減できる点も、バーチャルオフィスを選ぶ大きな理由の一つです。
プライバシーを守れる
バーチャルオフィスを利用するもう一つの大きなメリットは、プライバシーの保護です。自宅住所をビジネスに使用すると、顧客や取引先に対して個人情報が漏洩するリスクが高まりますが、バーチャルオフィスを利用することで、そのリスクを回避できます。特に、フリーランスや個人事業主にとって、プライバシーを守りながらビジネスを展開できることは重要です。バーチャルオフィスの住所を使用することで、顧客にはプロフェッショナルなイメージを保ちつつ、自分の個人情報を守ることができます。また、都市部の住所を利用することで、ビジネスの信頼性も向上し、取引先との関係がよりスムーズに進むことが期待されます。
デメリット
住所が他人との共有になる
バーチャルオフィスのデメリットとして挙げられるのは、住所が他の企業や個人と共有されることです。バーチャルオフィスの住所は、多くの企業や個人が利用しているため、住所が重複することがあります。これにより、���定の住所に対して複数の企業が存在することになり、顧客や取引先に混乱を招く可能性があります。また、バーチャルオフィスを利用している他の企業が問題を起こした場合、その影響を受けるリスクもあります。このため、住所の共有に対するリスクを考慮し、利用する際には信頼性の高いバーチャルオフィスを選ぶことが重要です。
郵便物の受取が遅れる
バーチャルオフィスを利用する際に考慮すべきデメリットの一つは、郵便物の受け取りが遅れることがある点です。郵便物の転送サービスを利用している場合、転送に時間がかかることがあり、重要な書類や通知を迅速に受け取ることが難しいことがあります。特に、緊急の郵便物や取引先からの重要な書類が遅れて届くと、ビジネスに影響を与える可能性があります。このため、バーチャルオフィスを利用する際には、郵便物の受け取りや転送にかかる時間を事前に確認し、必要に応じて迅速な対応を依頼できるサービスを選ぶことが大切です。
バーチャルオフィスの活用事例
利用者の声
バーチャルオフィスの利用者からは、多くのポジティブなフィードバックが寄せられています。特に、スタートアップ企業やフリーランスにとって、バーチャルオフィスはコストを抑えながらもビジネスを拡大するための有効なツールとなっています。例えば、法人登記の住所提供サービスを利用して会社を設立し、その後も顧客対応や電話代行サービスを活用して、スムーズなビジネス運営を実現している事例があります。また、自宅住所を公開せずにビジネスを展開できるため、プライバシーを守りながら安心して業務に集中できる点も、多くの利用者から高く評価されています。実際の利用者の声を通じて、バーチャルオフィスのメリットを具体的に理解することができます。
業種別の活用方法
バーチャルオフィスは、さまざまな業種で活用されています。例えば、IT企業やクリエイティブ業界では、リモートワークを前提とした業務形態が増加しており、バーチャルオフィスを活用することで、物理的なオフィスを持たずにビジネスを運営することが可能です。また、コンサルティング業や士業では、プロフェッショナルなビジネスイメージを保ちながら、コストを抑えてビジネスを展開できる点が評価されています。さらに、地方から都市部に進出する際にも、バーチャルオフィスを利用することで、信頼性の高い都市部の住所をビジネスに活用することができ、ビジネスチャンスを拡大することができます。業種ごとに異なるニーズに応じたバーチャルオフィスの活用方法を知ることで、自社に最適な利用方法を見つけることができます。
バーチャルオフィスの信頼性と信用
信頼性向上のポイント
バーチャルオフィスの信頼性を高めるためには、サービス提供会社の実績や評判を確認することが重要です。特に、信頼性の高いバーチャルオフィスを選ぶことで、顧客や取引先に対してプロフェッショナルなイメージを与えることができます。また、信頼性のあるオフィスサービスを利用することで、トラブルのリスクを最小限に抑え、ビジネスの円滑な運営をサポートします。さらに、バーチャルオフィスの住所を利用している他の企業の評判や信頼性も考慮することが重要です。信頼性の高いバーチャルオフィスを選ぶことで、企業の信用を高め、ビジネスチャンスを広げることができます。
銀行口座開設への影響
バーチャルオフィスの住所を利用して銀行口座を開設する際には、いくつかの注意点があります。銀行によっては、バーチャルオフィスの住所での口座開設に対して慎重な姿勢を取る場合があるため、事前に必要な書類や手続きを確認しておくことが重要です。特に、信頼性の高いバーチャルオフィスを利用することで、銀行側の審査をスムーズに進めることができるケースがあります。また、法人登記を行っている場合、バーチャルオフィスの住所での口座開設が認められることが多いため、事前に法人登記を完了させておくことも有効です。適切な準備と対応を行うことで、バーチャルオフィスを利用した銀行口座開設も問題なく進めることができます。
最後に
バーチャルオフィスの電話対応・電話代行サービスは、企業の信頼性を高め、業務効率を向上させるための有力なツールです。自社のニーズに合ったサービスを選び、効果的に活用することで、ビジネスの成長をサポートします。電話対応の品質を向上させ、コストを削減しながら、顧客対応におけるプロフェッショナルなイメージを保つことができます。これからバーチャルオフィスの導入を検討している企業やフリーランスにとって、電話対応・電話代行サービスの活用は、ビジネスの成功に欠かせない要素となるでしょう。
0 notes
Text
【杉山 威吹さん編】ぼくポケとくダネ!ぼくらの甲子園!ポケット10周年!!歴代プロデューサーインタビュー!~ぼくポケへ熱い血を注いだ歴代プロデューサー達の想い~
こんにちは!「ぼくらの甲子園!ポケット」専属記者の河原番太郎と申します!河原番太郎の「ぼくポケ!とくダネ!」第27回、このシリーズラストは、ぼくポケ現役プロデューサーでございます!!「ぼくらの甲子園!ポケット10周年!!歴代プロデューサーインタビュー!~ぼくポケへ熱い血を注いだ歴代プロデューサー達の想い~
【杉山 威吹さん編】でございます!
——————
この度は、歴代プロデューサー全員インタビューにご参加くださり誠にありがとうございます!!それでは早速でございますが、自己紹介をお願いします!
杉山威吹と申します! 2018年にチームにJOINしてからイベントの企画から始まり、主にアップデートをたかDと共に担当させていただきました!
去年末からはプロデューサーを務めさせていただいています!
プロデューサーに就任した時の想い・感想など教えてください!
自分がプロデューサーを務めることをユーザーに皆さんに受け入れていただけるかがとにかく心配でした。
また、PDレターでも少し書かせていただいたのですが、ぼくポケの未来を決めなくてはならないときでもあったので、そのことで頭がいっぱいでした。
自分はどんなプロデューサーだと思いますか?
ゲームは運営とユーザーが共に作ってよくしていくものだと思っているので「どうしてこういう判断をしたのか、なぜこの仕様なのか」などとにかく理由をできるだけ皆さんに説明して、納得していただけることに重きを置くプレデューサーだったと思います。
開発するうえで難しかったところを教えてください!
1つ目は、ラブバルーンとトレジャーパンチの開発です。
特にトレジャーパンチでは 「簡単な操作」 「何度も飽きずにできて」 「目新しい体験ができる」 ようなゲームを作るために、何度もプロトタイプを作ってもらっては指摘をたくさんいただき、こんなにも0からゲームを作るのは難しいのかと、心が折れかけた記憶があります。
どちらも新しい挑戦だったと思うので、好き嫌いが分かれるイベントになってしまったと思いますが、「ラブバルーンだけでもアプリ化してほしい!」などの声をいただくこともあり、嬉しい気持ちです。
ぼくポケの開発で楽しかった、特にやりがいのあったところはどこでしょうか?
アップデート全般です! ゲームをプレイして感じた不便さや、ユーザーの皆さんからいただいた意見を見てアップデートを行い、「よくなった!」や「ありがとう!」の声をいただくことが何よりのやりがいでした。
不満を口にされる方々も「このゲームが好きであるが故に言ってくださるんだ」と考えると、辛いと感じたことはなかったです。
忘れられない想い出はありますか?
初回生放送登場時と���サービ終了告知時の緊張 どちらも、もう2度と体験することのない出来事かもしれないですし そのどちらも、ユーザーの方々の温かい反応で助けられました。
ぼくポケのここが最高!というところを教えてください!
1日4回同じ時間に集まらなければいけない、というゲーム性は縛りが強くもう作れないゲーム性だと思いますが、このゲーム性こそがユーザー同士の絆を作る最高の要素だったと思います!
選手の皆様へのメッセージをお願いします!
ここまでぼくポケを支えてくださりありがとうございます。
サービスを終了することは悲しい出来事になりがちですが、皆さんがぼくポケを好きなままエンディングを迎えることで、皆さんの中でぼくポケが思い出として生き続けられるようにしたいと考えています!
そのために全力を尽くして参りますので、ぜひ一緒に盛り上げていただけると嬉しいです!
~編集後記~
私のいぶPの印象は「言葉じゃなく、行動で示す!」という感じで、いろいろな開発の中で「えっ?!これやってくれてたんだ…!!」と感動することが多かったです!
口数が多い~とか特別なおしゃべり上手~な人ではない(ような…)ので、生放送登場時から数回は放送を見直してハラハラしましたが(何様や私は!!)見た目とはうらはらの朴訥青年でした。
生放送の回数が増すごとに、それが選手の皆様にも伝わっているようで嬉しかったし頼もしかったです。
あとは、開発メンバーのことを信頼している気持ちもすごく感じられて、私もSNS企画をやるにあたってやりやすかったです…😿
決断からサービス終了までとても大変な道のりであったと思いますが、最後!いぶPであって良かった!!と思います!涙!
残り少ない期間ですが、最後までよろしくお願いいたしますっ!
0 notes
Text
男性、クロスドレッサー(女装子、男装女子)、カップルさま向けの緊縛体験・緊縛写真撮影サービスをはじめました。 kinbaku-life for Male Crossdresser and Couple https://mcc.kinbaku-life.com
6 notes
·
View notes
Text
ある画家の手記if2 - 1 雪村泉視点
なぜ私を助けてくださったのでしょう。あんなにも親切にしていただいたことは、今までの平穏な人生においてさえ一度もございません。 あの方は私の見ている幻覚なのかもしれません。
いくら世界が冷酷でなかったとしても、さすがに行き倒れの汚らしい人間をそんなに都合よく、助けてくださる方など、いらっしゃらないはずですから。犬や猫を拾う方がまだ実現せ得るでしょうか。 日本の外界が私の知りうるほどに冷酷ではないと知ってからは、外に出ることが叶うなら、香澄のことを誰かに話すつもりでいました。助けを求めるためでした。その頃の私は、自分でどうにもできないふがいなさにも、都合よく助けてくれる他者に出会えると盲信していた傲慢にも、思い至らなかったのです。ただ香澄のことを何とかしなくてはと、そればかりでした。恐ろしいと、出てはいけないという教えを破り、助けを求められるかもしれないと知った途端にそうなるのだから、極端なことです、加減というものはどうにも難しい。 そのうちに香澄は香澄自身の力で得た外の繋がりによって、あの楽園のような地獄の部屋から出て行き、そのついでのように私も久方ぶりの外の世界へ出ました。 香澄が自由を得られた以上、私が外へ助けを求める意味も無く、私が外に出る必要など無いのに。出てきてしまった私は、浜辺で立ち尽くしていました。だってもうあの部屋に香澄は居ないのだから、帰る理由もない。千風のことは、香澄が生まれてからはいつしか、愛しているのかなどもうわからなくなってしまっていました。 しばらく波打ち際をずっと歩き続けていたはずでしたが、行き止まりを避けて、そこからいつの間にか気付くと水の中に倒れていました。 海の波が打ち付ける境目の非常に浅いところでしたが、段々と潮が満ちて、口の中がしょっぱくなってきます。渚、というのでしたか、今私が触れているここは、陸と水と空中がすべて混じり合う交差地点なのですね。沢山の刺激に目が回って、身体がおののくような、変な具合がします。一体外に出てからどれほどの時間が経過したのか、見たことのある空の色が目の前に広がっていましたので、少なくとも二日以上は経ったと推測できる。 ああまさかこうして空を眺めているだなんて、ほんの数日前?までは、思いもよらなかったというのに。 世界の一部になっていくような身体感覚に身を委ねていたその時、急に私の身体は重力に逆らって持ち上がりました。 驚いて空から視界の端へ入り込んだ影へと目線を移すと、…それが、初めて見たあの方の姿でした。 どこか景色が透けて彼の身体越しに見えているような、色素の薄い身体をしていて、陰影でようやく顔立ちが象られて見える、その場所に抱き上げられてようやく私は波から切り離されました。だから彼は、そう、私の居た世界の一部ではなく、きっとこれ以上どこにもいけなくなった私が見出した都合のいい幻覚かと、いえ、けれども私などに自分を救いあげるような幻覚を生み出す力など、あるとは思えないのですが。
その方の、住居でしょうか、歩みを止めてお休みになられた場所は、幼い頃両親に連れられて出掛けた先の海外の建物に似た空間でした。 身体が動かせないままの私を柔らかい、ベッドに横たえてくださり、服を取り払って身体に触れ、どうやら診察をしてくださっている。その間ずっと、抱きかかえられても触れられても感触はどこか淡く、経験したことのないゆらぎを伴いました。千風に触れられる時のような、確かさが無い、とでも言うのでしょうか。やはりどこかおぼろで、夢幻の中のよう。 しかしあの方は私の見ている幻覚なのかもしれない、と考えていましたが、ここにきて地縛霊という可能性も浮上してきました。けれどもっと世界から乖離したものだと思っていただけに、土地という生々しいものと癒着している存在として認めるのは難しい。それともそうしなくてはひとところに存在できない方なのかもしれません だとしたら私を迎えに来てくださった死神、という解釈も一興ですね。 「警察、救急、家族、恋人、タクシー、大使館、どこでもいいが電話をかけたいならこれを使え」 ああ、けれどやはり違うようです。酷く現実的な言葉が告げられて、私はなんだかとても、悲しい気持ちになりました。本当はとても、とても泣きたかったのですが、困ってしまったのですが、困ってしまったので私は何と答えることもできずにただその方を見詰め返しました。私が何も言わないので彼はそれ以上警察や家族と言いつのることはなさいませんでしたが、呆れられてしまった気がして、それも酷く悲しくなりました。
私は調和のとれた安寧な箱庭で生きてきすぎて感覚が麻痺しているのでしょう。生きるか死ぬかの前線に在る兵士のほうが、命の危機には敏感なものです。 その日の夜はずっと、苦しくて痛くて眠れませんでした。脱力することも叶わない苦痛に苛まれ呼吸もままならない私を、彼は一晩、おそらくずっと、看ていてくださった。 汚れた服をとり替え、水を飲ませてくださいました。 なぜ そんなにも親切に、助けてくださるのですか もしあなたが亡霊で無いならは、私など薄汚れた浮浪者に相違ないでしょうに、口付けて水を含ませるのがお嫌では無いのですか 訊ねたらあなたは消えてしまいそうで恐ろしいです、だんだんと 身体の感覚も、熱も まるで現実のようになって 私がこの不思議な夢幻の中から抜けたら、あなたはそこに居ないのでは?
意識が途切れて、次に目が覚めたとき、身体は動かせるようになっていました。そしてあの方はほんとうに、そこからいなくなってしまいました。 清潔なシーツのベッドと、懐かしさを覚える調度の室内だけが、残っていました。 床に降りて、立ち上がり外に出ると、足の裏に地面の温度と感触とが伝わる。寂しい、いえ、高揚しているのでしょうか、わからないどういうことなのか、走り出したいような、すぐそこの崖から飛び降りたいような心地で一度飛び跳ねましたが、何も起こりませんでした。座り込みたい、逃げ出したい、いいえ、わからない もう渚の際から外れてしまって、ここは天国みたいです 私が、そんなはずはないのに、でも地獄にだって招かれなくては入れないのでは 先程までせっかく招き入れられた場所があったというのに、あの方が消えたあの場所で私はとても、いけない、入ってはいけない、ところに、踏み込んでしまったような、急かされるような思いがしたのです。違う��懐かしいほどだった。悲しかった。 どこへ行っても人が居ないまま、また家に辿り着いてしまいました。そこは窓のガラスが全て砕け散り床板が一枚ずつ別の波長でたわんでいて、ほんの少し歩いただけのはずが、すっかり朽ちた様子の空き家に様変わりしていました。屋内へ入ると、私にはこちらの方が似つかわしいように思われました。ようやく誰も居ない、私だけの空間になった。 ふらついた脚をそれ以上扱えず床に座り込み がらんどうの場所へやってきて、私以外の人間が居ない空間で一人。 ようやくはっきりと意識されたのは、千風が世界の全てでは無かったということです。そう、ここは ここは部屋の中だけれど、千風の作り上げた空間ではない 千風が居なくても私は 一人、ここに居ます プラスチックのむき出した椅子とベッド 壁紙の剥がれ落ちた壁 抜けて破れた床と動かなくなったドア 本当は私は …… それとも 何もなくなったから、私は一人なのでしょうか あの方はやっぱり幻で、外の世界なんてものは 無くて 千風がくれたあの部屋が、やはり世界の全てで 全部全部私の妄想で、私は あの部屋から出たまぼろしを、ずっと見ているのでしょうか ……その時、何かが崩れるような大きな破壊音が響きました。 遠かったために幻聴かと、ぼんやりその音の方を見遣ると、…ああ 彼が、立っていました。
「差し障りがあるなら無視していい。君の名前は?」 海辺を抱きかかえられたまま行きながら、名前を尋ねられ、それまでじっと彼の顔を見詰めていたことに気付きました。 幻では無いのだ、と思いたく、無意識にそうしていたのか、急に目が合ったことで緊張してしまいすぐに返事ができません。 「…いずみと申します」 なんとかそう答える間も、目は合ったままでした。なぜかそうしていると、彼が幻ではないと感じられる気がしました。 「稔だ」と、彼が言いました。……え、と お名前でしょう。名前がある。到底私が思いつく幻覚とは思えません。 ミノルさん。 名はその概念を示します、個としての。この方は、ミノルさん。 「笑わずにいられるんだな」 不意にそう言われて私は、はっとしました。 「笑えと言われるものですから」 幻でないなら、見えているのだ、一瞬焦りましたが私は笑っていたようです。ちゃんと。 けれどミノルさんは続けて仰いました、 「ここでは無用な時はなるべく控えてくれ。うっかり笑ってしまう分には――」 ――――無用な。控える? 「あっ、はい、」咄嗟にはいと言ってしまってから困ってしまいました。私は長い間、自分の表情を意識したことが無かったので、ずっと鏡を見てでも居ない限り自律することができない 何か有用で笑っているわけではないのに、私はもしかしたら、ミノルさんにご不快な思いをさせる顔をしていたかもしれません、助けていただいたというのに、なんと失礼な。 「ちがうんです、そうすると私、どうしましょう、ごめんなさい、ごめんなさ」 「落ち着け。一度喋るのをやめて呼吸を整えろ」 ああ、困らせてしまう 目を見せない方が、見ない方がよいと判断して咄嗟に顔を隠すように俯きましたが、額をけっこうな勢いでミノルさんの鎖骨にぶつけてしまった。 涙ぐむ目元と裏腹に口元がつり上がって、今の私はさも不気味な表情をしているだろうと、やめようとすればするほど、ますます表情が歪んでいく。 「すみません、気付かずにご迷惑を、見ないで」 ……ミノルさんは何も仰らず、私に顔を見せろとも命じないのはお優しいからなのか、それが心苦しい気もして、身を固めていると 突然私の身体を抱えた腕が更に強く胴を支えて、かと思うと直後には内蔵が放り出されたような浮遊感を覚えた 「…!!」 盛大な音を立てて、一拍遅れで頭から水を被る 思わず顔を上げた私の身体の下に、ミノルさんが居て、二人ともが波の中で揺蕩うように海水に浸かっていた。 「…………?」 伝い落ちてくる水を瞬きで弾いて目の前のミノルさんの顔を見たら、彼は私の顔に掛かった髪をその手でよけてくれたあと、咽を鳴らしながら静かに笑い始めました。ぴったり合わさった身体からその揺れが伝わって、彼は、笑顔で、まだ、こちらを見ています。 まぼろしじゃ無い。 「……」 急に、首や頬がかあっと熱くなった感覚がして、手足が重くなりました。身体が振動するほどに心臓が脈打ち、苦しいほどです、私の頭を抱えるようにしてミノルさんは何かおっしゃったようですが、鼓動に妨げられて聞き取れませんでした。 このままここで死んでしまうのかも、 はじめお会いした時に一人で倒れていた時には何も思わなかったというのに、今こうしていると身体が苦しくて痛くて、しんでしまうのだ、という高揚がどうしようもありません。二人で浜辺に横たわって、ああそうしたら私の亡骸をこの方が抱いていてくださることになるのですね。 それは存外、悪くないことのように思われました。あれだけ恐怖するように教えられたはずの死への感覚を、私は狂わせてしまったようです。とても自由で、後腐れのないことのように感じたのでした。
死んでしまうというのはどうやら杞憂で、ただ単純に驚きすぎたため動悸がしたということだったようです。ミノルさんは私を抱きかかえたまま身体を起こすと再びあの海外の建築に似た建物へ、私を連れて入りました。 ミノルさんにとって私は、犬や猫のようなものなのかもしれません。そう考えれば、拾って世話をされることも不可解ではないかと… そういえば日本ではいつからか、男と女では人の扱いが異なるのだったか、だとしたら私は女のはずですから、人と思われていないのは仕方の無いことなのでしょうか、よくわかりません。犬猫として拾っていただき、ここまでよくしていただいたのだから、それを喜んで享受するべきなのか、それとも人として死ぬべきだったのでしょうか。私が人の言葉を使えば使うほどに、ご迷惑をおかけしているのかもしれない。微笑まないようにというのは、笑顔が人間のようだからなのかもしれません。元から飼い殺されているようなものでしたが、外に出てもこうなってしまうのはやはり千風や父母がそうというのではなく私の気質なのでしょうか。 海水に倒れた身体を洗い、着せられた服は見覚えのあるワンピースでした。それからお食事まで食べさせていただいて、何から何まで。 彼にとってそれらはあまり負担にもなっていない様子でした。 けれど 早く出て行かなくてはならないのでしょう、こんなにもご迷惑をおかけしているんですから
1 note
·
View note
Text
2024.4.21sun_tokyo
月に5日のフリースタイル陶芸教室の日。
今日はフリスタ発足以来、9人目のアルバイトの子の初出勤日。(よく聞かれるので追記すると、現在は講師3名、事務2名、受注制作担当1名が主なメンバーで私は代表兼講師兼事務担当として様々な仕事を行っている・間にメンバー交代が何度かあり今に至る)
今月でフリースタイル陶芸は7周年を迎えた。 私が1人で運営していた期間がそのうち3年半なので1人でやっていた期間と他のメンバーが入り、チームのように仕事を行うようになった年月の割合が同じになった。 あっという間だったな。特に他のメンバーが入ってからのフリスタはどんどん拡大していって矢のように時が過ぎていったな〜と思う。
フリースタイル陶芸を名前だけでも聞いたことがある人はおそらく可愛くてほっこりしていて、好きなものが自由に作れる楽しげな陶芸教室というイメージを持たれていると思う。 その通りなのだけれど、一緒に働く人からしたら恐らく結構忙しく中々大変な職場だろうなと思う。
フリースタイルと銘打っている性質上、日によっては体験時間中お客さんからずっと(それぞれ個別の)細かい説明やアドバイスを求められるし、そのあらゆるパターンの質問に対して即最適解を提案出来なくてはならない。 講師・事務、どちらのポジションの仕事であっても何か1つの仕事をやっていれば良いという訳ではなく、講師も事務も常に複数の仕事を抱え、Aの仕事をやりながらBの仕事を並行して行ったり、Cを中断してDとEに対応したり、その間にFとGの件も忘れずにやらなければいけない…とざっくり言うとマルチタスクにある程度対応出来る能力が必要なので毎回新メンバーは混乱するだろうし、緊張したり疲れるだろうな…と新しいメンバーが入る度にハッと思い出す(慣れて覚えてしまえばとても平和で働きやすい職場であるとは思うけどそれまでがキツい)
そもそも私自身が本当は人に指示を出したり、お願いしたりするのがかなり苦手なタイプだし、マルチタスクもとても苦手だった。 自分1人で誰かに縛られず自由なペースで黙々と働きたいタイプだったけれど、紆余曲折あってフリスタが今の状況になり………といった感じで事前に予行練習も出来ないままぶっつけ本番状態で今の状況が始まってしまったので、人に仕事を教える、上手く進めてもらえるように頼むってこんなに難しい事なんだな…と今でもよく思うし1人反省大会を開催したりしている。 でもメンバーが入ってくれた事で仕事の終わるスピードが体感2倍どころか2.5〜3倍になったり、自分が働けない期間も他のメンバーに任せた仕事が終わっているという状況に、お…終わってる…魔法じゃん…!と初期の頃は新鮮に大感動していた。
仕事に限らず、年をとる度に新しい体験や初めての出来事ってどんどん減っていくけれど、私は新しいことを始めた時の気持ちをなるべく忘れないでいたいし、内心では怖かったり上手くいく確証が無くても挑戦してみるというチャレンジ精神を何歳になっても持ち続けていられる人でありたいなと思う。
そして一緒に働いてくれる周りの皆の優しさや、1人1人が長い年月をかけて身につけた技術を駆使して働いてくれているという今の状況を当たり前だと思わず、とてもありがたい事だよと噛み締めながら色んな仕事をこの先も皆となるべく楽しくやっていけたらいいなと思う。
なんか真面目な感じになってしまった(!)けど、やっぱり私の性根は自由人でもあるので思いつきで行動もしていて先日たまたま入ったユニクロでガーベラが売られていたのでひょいと買って、早速教室に飾ってみた。
ガーベラの花言葉は「希望」「前向き」「常に前進」だそう。
今の自分にぴったりの花言葉に気持ちが明るくなった。 こういう気持ちも大切にしたいし何度も思い出したいから季節の花も積極的に買っていこう。
-プロフィール- 近藤南 33歳 東京 彫刻家・フリースタイル陶芸教室代表 インスタ https://www.instagram.com/emusaaaaan/ ツイッター https://twitter.com/minami_kon
0 notes
Text
V最お疲れ様でした!
エビオさんとシスコさんとチーム組めて本当に良かった!人��知りで慣れないと声が出せなくてなんも出来ない奴で、二人との顔合わせが腕試しカスタム、正直なんも出来なかった、不甲斐ない、申し訳ないっていう気持ちでいっぱいでした。でも「俺たちはのびしろしかない!」って言われた時にこの人達のために頑張りたい、努力したいって思って、他の人とAPEXで遊ぶ時も「今チーデスやってるから行かない?」って声を掛けて密かに練習してました。ボルト以外の武器だとオルタとヘムロックが好きな俺なんですけど、両方ともクラフトで遠距離出来ないな…見えないな…って少しマイナスなことを思っていたけど、逆に二人が遠距離見てる時は俺が二人が見ていない近くを見ればいいんだ!俺の役割はそれだ!って思って練習もやってました。二人とは本当に初めましてで、最初どういう立ち回りをする人達なのか、どういう雰囲気なのか、それが分からない状態で腕試しカスタムだったので、めちゃくちゃ緊張して吐きそうでした。でも回数を重ねていくうちに二人のことが分かって、自分はこういう立ち回りをしようって思ってしてたんですけど、多分二人には言えてなかったな、とか相談出来てなかったな、っていう気持ちです。合ってたかな…この選択…。新シーズンで色々と変わって、頭ぐるぐるしながら考えることがもっと増えて、うわあー!って叫びたくなる時も二人に励まされて、俺は俺が出来ることを全力でやる、それで二人を輝かせてうちのチームが最強なんだって、知ってもらいたい。そんな気持ちで定期カスタムもスクリムも本番もやってきました。
それが実ったのが本番二戦目。本当に嬉しかった。片手程度しかカスタムは出ていないし、2位だったことが2回あってチャンピオンなんて取れなかった。毎回悔しくて、悔しすぎて泣いてたことはめちゃくちゃあって、でも今回の涙は嬉しくて止まらなくて、やっとこのチームでチャンピオン取れた!やっと二人を輝かせることが出来た!俺らのチーム実は強いんです!そんな気持ちでいっぱいで、今も思い出すと涙が出るくらい嬉しかったです。新シーズンになってからカタリストの環境は本当に頑張らないと無理だ、って実は絶望していて。弱体化されて、思うように立ち回れるか、欲しい時に壁は炊けるか、正直不安でした。だからこそ、カタリストでチャンピオンを取りたかったし、少しでも長くあの円に居座っていたかった。その願いも叶うことが出来て、初めてカスタムでチャンピオンを取ったチームメイトが二人で良かった!2ヶ月間頑張って良かった!スクリムでチャンピオン取れなかったから本番では取りたい、みんなでお揃いにしたバナーもタグもチャンピオンになって見せたい!その願いがやっと叶った!もう色んな気持ちで大泣きして、自分を信じて良かった、三人で生きてる状態でチャンピオン取れて本当に良かった!多分これは語ると色々と出てきてしまうのでこの辺で…!
その他の戦いもキル出来たり、俺の中では本番が一番調子が良くて、でも時間が過ぎれば過ぎるほど寂しくなって、2ヶ月振り返ったらもっと寂しくなって。2人から「またリベンジしよう!」って言われた時も地味に泣いてて返事出来なくて。また一緒にチームを組みたいし、今後も話したり遊んだりしたい!そんな気持ちでカスタムが終わりました。
しすこさんはめちゃくちゃアッシュうまっ!縛るのうまっ!フェーズティア出すタイミング本当に完璧!って口には出てなかったけど、仲良い人に話す時そう言ってました(笑)自分はほぼカタリストしか使わない人間だけど、一緒にやる人によっては俺がアッシュ使うって感じで縛るのは出来ても完璧なフェーズティアが出せなくて、無駄してるな…ってことが多くて、しすこさんのアッシュかっこいい!いつかこう使えたらいいな!って憧れの目を向けながら後ろからついて行くことが多かったです。でも新シーズンになってからそれが見れなくなったのが地味に寂しかったり。レイスのしすこさんもかっこよくて、やっぱり憧れの目は変わらずにありました。頭をフル回転させて色々とチームの為に考えてくれて、本当にありがとうございます!しすこさんとやっていくうちに「ここまで来れるよ」って味方に教えられるようになって、言うだけじゃなくてピンを刺して分かりやすくして、そういうことも学んで、少しづつ盗めるものは盗もうと思って背中を見てきました。だから、大感謝マッチの時にアッシュが見れて、本当に嬉しかったです!心の中で大騒ぎしてました。初めてのIGLとは思えないくらい的確で、それでいてしすこさんはすごく強くて、その強さのサポートをしたい!そう思ってました。なんでもない時でも話したりして、それが楽しくてもっとチーム練したい、みんなで話したいって気持ちになりました。本番にチャンピオン取れたのも二戦目始まる前に話していた話題(?)で俺の緊張が解けて、リラックス出来たことにも救われました!
リーダーのエビオさんはスナイパーうまっ!なんでそんなに当たる!?ってこれも仲良い人に話してました(笑)俺が遠距離が苦手で全く当たらないし、ひゃー!ってなっちゃうんで、俺に無いものを持っている、自慢のリーダーって感じでした。ヴァンテージをまだ開けてなくて、エビオさんのヴァンテージを見てから開けて少し使ってみようかな…と思って開けて、戦場に出た時にエビオさんはこの時にこういう感じで見えていたのか!とか勝手に思ってました。新シーズンになってヴァンテージが見れなくなっちゃうのか…って寂しい気持ちと、コンジットでのサポートで少しでも生きることが出来て本当にありがたい!って気持ちになりました。本番まで一週間でキャラを変えるって大変だと思うし、ウルトも完璧に置けるかとか練習が必要だと思うけど、エビオさんのウルト全部完璧でした!エビオさんのウルトと俺のウルトが重なったら俺たち最強になれる…!って勝手に舞い上がってたのは内緒で。俺がしっかり来れているか、後ろから敵が来ていないか、確認をしていたのも分かったし、本当に安心しました。一週間でキャラを変えたとは思えないくらい完璧なウルトに助けられました!こんな俺を選んでくれたエビオさんに本当に感謝してます!リーダーがエビオさんで良かった!自慢のリーダーです!
そしてコーチのなるせさん!自分はカスタム経験が少ないのですが、仲のいい友人に「ぼんじりなるせはめちゃくちゃ強いぞ!」って言われてそんな人に見てもらって教えて貰える俺って最強じゃない?なんてことを思ってました。カタリストの壁の出し方も自分は毎回不安なことが多かったんですけど、なるせさんに壁の出し方褒められる度にニコニコして、これで間違ってなかった、良かった!って心の中で大騒ぎしてました。過去のカスタムで完璧に壁を出さないと、こうならないとって想いを背負いすぎて、カスタム数週間前にカタリストで出ることを諦めた時があって、今回もカタリストでいいのかな…出来るかな…と挫けそうになる度に「あさひさんのこの試合の時、壁めちゃくちゃナイスだった!」って言われる度毎回泣きそうで、コーチが褒めてくれた嬉しい…!って言いながらも対面を強くなりたい、もっと二人の為にも戦闘面でもカバーをしっかりしたい!そう思うようになりました。個人的に新シーズンになってからのカタリストのアップグレードをどっちにしたらいいかの相談をした時も、自分は間違えてないかな…って不安になって、多分普段だったら自分から相談も出来なかったけど、二人の為にも完璧な壁を出したい、戦闘をしたい、って気持ちが勝って気づいたら長文の相談をしてました…(笑)でも、その選択も間違えてなくて、良かった、これでいいんだ、頑張ろうっていう勇気に変わりました。ありがとうございました!本番当日に言われた「あさひさんのカタリストは強い!」にめちゃくちゃ泣いて、それを他の人にも見て欲しい、頑張りたい、チャンピオン取りたい。そんな気持ちと共に当日頑張りました!コーチから見てまだまだ下手なところがある俺だったと思うんですけど、2ヶ月間の成果をすべて本番に出し切ることが出来ました!これもコーチがなるせさんだったから出し切れたことです!本当にありがとうございました!
APEXを始めて1年。こんなに素敵なチームの二人と色々と教えてくれたコーチに本当に感謝してます!瀬戸あさひって誰だ…って思われることは重々承知でしたが、最初から呼び方が「あさひさん」だったことが地味に嬉しくて、腕試しカスタム終わり、反省点の中にその呼び方で嬉しい気持ちで実はルンルンでした。元気ない時にエビオさんとしすこさんとなるせさんの動画を見て元気を出してたくらい3人のことが大好きです!共通点も見つけてカスタム以外のことも話すことが出来て本当に嬉しかったです!真面目なAPEXを普段することがなく、急に歌ったり、1人でカバンと話したり、実はそんなやつだったんですけど、その変な奴練習の時に居ませんでしたか…?(笑)それだけが本当に心配!変な奴って思われたくないって思いながら練習もしてたんで…。二人の力に俺はなれてたかな。なれてたらいいな。戦闘が上手く出来なくてもカバーやサポートだけでも二人の力になれていたらいいな。コーチ、俺は2ヶ月前よりも強くなってましたかね?コーチに教わったことを今後のカスタムでも活かして頑張りたいな。
またコーチも一緒に遊べたらいいなぁ、2月になってから終わるのが寂しくて寂しくて仕方なかったんで、3月も4月も月一ペースくらいで遊べたら本当に嬉しい!何度でも言うけど、二人とチームになれて、最強の人達に出会えて、大好きな三人に出会えて、本当に良かった!本番チャンピオン取れて良かった!みんなで見たチャンピオンという景色は本当に最高だった!!だいすきだ!!愛っ!!!!!!
バナー、スキン、タグお揃い&チャンピオン記念📸
たった1回だけでもこの景色を見れたことに感謝。
# EMTBwin
0 notes
Text
Rockin′On(1993.9 Vol.22) Simon Gilbert & Mat Osman
Simon Gilbert & Mat Osman
解放区(スウェード)を手に入れ、性の束縛からも悲惨な過去からも遠く離れた2人が回想するポップ·スター予備軍の頃
インタヴュー=田中宗一郎 通訳=伊佐山健
●それではいきなりですが、イギリスの「セレクト]誌のセックス特集に耽っていたサイモンのコメントの真偽のほどを訊きたいんですが。
S(サイモン·ギルバート)「ふふ、あれは全部事実だよ。ライドのマークが理想の男性像だってこと以外はね(笑)」
●じゃあ、一番有名なセックスの相手は自分だとか、ダブルデッカーの屋根の上でセックスしたことがあるって話も本当なんですね。でも、そんなに自分自身の性生活を公開しちやって怖くなったりしたりはしないんですか?
S「(笑)。まぁ、いいんじゃないのかな。僕はとにかく誠実でいたいし、自分のセクシュアリティにっいて訊かれても正直に答えたいとも思うんだ。僕達って全員誠実な人間なんだよ。ブレットが書いていることにしたって、適当に作りあげてるわけじゃない。実際に自分で体験したことや、自分の周りにいる人たちについて書いているわけだからね」
M(マット·オスマン)「自分である程度経験できなくては洞察もきかないはずだからね」
●じゃあ、「これは僕をモデルにしてるな」と思えるような白ってあったりします?
S「その辺はブレットに直接訊いたことはないから何ともいえないね(笑) 」
M「身近にサイモンがいたということで影響はあったかもしれないけど、ゲイ·セクシュアリティに関してはどのみち扱っていたはずの題材だと思うな。『ゲイってどんな風にするわけ?』って取材したわけじゃないんだよ(笑) 」
●では、ブレットとデヴィッド·ボウイがアブノーマル·セックスについて歌うことに実体験が必要かどうかという話をしてたんですが、あなただったらどんな風に答えたと思います?
S「うーん、それは、きわどい質問だよね」
●そういう体験がないのにもかかわらず、アプーマルなセックスについて歌ってしまっているブレットについてはどう思います?
S「うん、何も問題はないと思う。僕の実体験を作品にしてたとしてもね。結構いい線いってると思う(笑)。それにゲイ·セックスの経験がないからといって、そのことを話してはいけないというのは違うと思うんだ。いろんなセクシュアリティーや体験についてはもっとオープンであるべきだと思う。僕は人種、性別などといった差異から生じる悲しい目にはホント誰にもあってほしくないんだよ」
●じゃあ、「大衆を堕落させたい」っていうブレットの発言には賛同できますか?
S「大家を堕落させたい?一体、何が言いたいのやら(笑)。うーん、堕落というのはちょっとねぇ。まあ、大多数の人にしてみれば、ゲイであることが既に堕落してるってことなんだよね。汚らしい!おぞましい!っていうね」
●いやいや、そんなことないと思いますよ。
S「そう?(笑)」
●では、マットに訊きたいんですが、あなたとブレットは幼い頃から友達同士なんですよね?
M「知り合いになったのは同じ大学に入ってからなんだよ。とはいっても、僕はブレットを15~16歳の頃から知ってるんだ。町で奴はちょっとした有名人だったからね。7時45分のロンドン行きの電車が出てしまうと、人が町から消えてしまうような町だったせいもあるかもしれないけど。皆、どこか冷たくて常識的で、ちっともハメをはずすところがなくて、あんなに退屈なところって他にはないぐらいのね」
●では、ポップ·スターになろうと思い立ったのは、やっぱりその頃なんですか?
M「妙なもので、七つか八つの頃からそういうことは考えていたんだな。でも、僕の育った環境というのは、クリエイティヴなことが全く無視されるようなところだった��だ。だから、本当にそういう機会が自分にめぐってくるかどうかについては確信がなかったんだよ」
S「僕は四歳の頃からかな。いつも僕はビートルズになりたかったし、ストーンズになりたかった。だから、糞みたいな仕事も我慢してやって来たんだよね。便所掃除とか。マットは飛行機の便所掃除だったかな。これがポップ·スターへの修行制度だって思ってたってわけ(笑)」
M「だから、バーナードが入ってからじゃないかな。すべてが現実味を帯びてきて、真剣に考えられるようになったのは。奴は最初から本当に特別なミュージシャンだったからね。そこで初めて自分たちのことを“スウェード"というバンドとして考えるようにもなったんだ」
●では、そこで“スウェード"としてどんなことをやりたいと考えていたんでしょうか?
M「とにかく意味のある音楽を作りたかった。優れたアーティストっていうのは特殊なメガネを持っていて、それを通して世界を見せてくれるんだよね。実際、世の中は何も変わっていないかもしれないけど、それをかければ違う世の中が見られる。僕たちはそれをやりたい。それこそがバンドの中核になっていることなんだ」
●で、最後にサイモンが加入したんですよね。
S「うん。当時、スウェードのマネージャーをやっていた奴の店で僕はチケット売りをしていたんだよ。で、そいつが店でドラム·マシーンを使っていた時代のスウェードのテープをかけてね。で、僕はドラマーを入れるべきだと思って、オーディションを受けさせろと言ったんだよね。でも、絶対に無理だど言われてね。それから半年たってバンドがドラマーを公募した時に、遂に75人を蹴落として僕が受かったんだよ」
●そこで一気に人生が開けたというわけですね。
S「うん、とても嬉しかった。それまで幾つものパンドをやってきたけど、結局、どのバンドでも僕個人がどんな人間であるかってことはどうでもいいことだったみたいだから。でも、スウェードでは、まず最初に自分はゲイでこういう人間なんだという話をしたってところもあるし。今じゃ本当に四人で一つだと思えるんだ」
M「そもそも僕がブレットと二人で始めた時は、二人ともまだまだ演奏面では全くろくなもんじゃなかったせいで、かなり理詰めで考えていたんだな。例えば、今度はこういう曲を書いてみようとあらかじめ打ち合わせた���して。でもその頃から、自分遣がやっていることを意識的に考えるのをバタッとやめるようになったんだよ。ブレットの歌詞も小難しいものではなくなって、もっと流れるままのものになったんだよね」
S「それで、それまでの作品もすべてチャラにしてまっさらからやり直したんだ。当時のブレットの歌詞については三曲くらいしか知らないんだけど、断片的で、ちょっと雰囲気に流されているように思ったな。今のようなガンつけてくるような腰の座り方はなかったよ」
●では、もう少しバンド·メンバー間の関係について訊きたいんですけども。
M「皆、僕の助手だよ」
●(笑)。例えばアメリカでは何度かブレットの身代わりとして、マットが取材をずいぶんこなしたって聞いたんですけど。
M「いやー、あれねぇ」
●そんな時「損な役回りだなぁ、やってらんないぜ」とか思ったりしないんですか?(笑)。
M「だって、その間、プレットとバーナードは作品を書いているんだからさ(笑)」
●じゃあ、「創造的である為には緊張していないとだめだ」といった風にブレットは言っていますけれども、彼と一緒にいて、そのテンションが伝わってくる時とかって……。
S「あぁ、あぁ、あるある。あるねぇ」
●そんな時、息苦しくなっちゃうとか、かわいそうに思ったりすることなんてありません?
S「かわいそうに?そんなこと思ってたまるかよぉ(笑)。うそうそ。ちょっと思う時はあるよ。いつも注目がブレットだけに集まるのは大変だと思うし。そのおかげで、僕違はリラックスする機会を与えられているわけだからね」
●なるほど。では、今後のパンドの方向性がある程度固まっているなら教えて下さい。
S「次のアルバムは、もっと弦楽器とかホーンなんかも導入したものにしたい。フレンチ·ホルンとか。だから、これまでとは比べものにならないほど時間がかかるかも知れないね。イギリスに戻ってからエイズ·チャリティに出たら、また九月にアメリカに戻るんだけど、そっちは六週間ぐらいの規模のツアーになる予定なんだ。それからアルバムだね。願わくばー月頃から。その前にシングルは出すけれどもね」
●では、最後にスウェードが次に世に問うテーマとは何になると思いますか?
S「いやぁ、わかんないな。日本かな」
●はぁ?
S「みんな優しいんだ!って歌うのさ(笑)」
0 notes
Text
TEDにて
ターニャ・シモンチェリ:遺伝子特許業界と争い、勝利を収めるまで?
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
ヒト遺伝子の特許は取れるでしょうか?
2005年にターニャ・シモンチェリは初めてこの複雑な問題を検討し始めましたが、その頃はアメリカ特許法で可能とされていました。
そのせいで特許権者には、特許を取得した遺伝子を解読したり、検査したり、調べることを止めさせる権利が与えられていたのです。
この法律は患者に害を及ぼす上に、生体医療のイノベーションに対する障壁になることを憂慮して、アメリカ自由人権協会のシモンチェリと同僚たちはこれに立ち向かいました。
誰もが負けると考えた訴訟をあえて起こし、最高裁判所にたどり着くまでの緊張感あふれる話をお聞きください。
調べてわかったのですが、最高裁判所は多くの訴訟を通じて特許適格性のない物が存在することを明確にしてます。
特許が取れないのは、天然物。すなわち、空気や水、鉱物、元素周期表に載っている物質などです。
また、自然法則について特許は取れません。万有��力の法則やE=mc2乗はだめです。
こういった極めて根本的な自然界の存在は誰でも自由に使えるべきであり、誰かに独占されてはいけません。
そして、生命の基本構造であるDNAは、私たちを形作るすべてのたんぱく質をコードしているので、私たちは、それを天然物であり自然法則だと考えたのです。それが、私たちの体内にあろうが、試験管の中にあろうが関係ありません。
この問題を徹底的に掘り下げるため、私たちはアメリカ中を飛び回っていろいろな専門家と話しました。科学者や医療の専門家 法律家や特許法の専門家たちです。
ほとんどの人が政策面でも理論上、法律面でも私たちが正しいという判断でした。でも、専門家は、全員、遺伝子特許を相手に訴えて勝つ見込みは、ほぼゼロと考えていました。
倫理面は正しくありませんが・・・善玉でもありません。
一方、判決の影響はミリアド社問題に留まらず、ヒト遺伝子に特許を認めるというアメリカで25年間続いた慣例に終止符を打ち、また、生物医学上の発見や発明における大きな障壁を取り払っています。
かなり限定的ですが・・・さらに、アビゲイルやキャスリーンやアイリーンのような患者たちが、必要な検査を受けられるようになりました。
法律全般についてですが、このように具体的な例が一定のレベルにまで蓄積されないと法律としてはいけないようです。
古代中国でも、どんなツールにしても効果が十倍以上無ければ、庶民は変えないもの。
まして、法律ともなれば、功利主義での裕福層以外の庶民に何万倍もの有益で予測可能な効果がないと変えても効果がないし意味もない。
と警告しています。
具体的に何かあるの?無いなら現状維持が良い!
なお、ビックデータは教育や医療に限定してなら、多少は有効かもしれません。それ以外は、日本の場合、プライバシーの侵害です。
通信の秘匿性とプライバシーの侵害対策として、匿名化処理の強化と強力な暗号化は絶対必要です!
さらに、オープンデータは、特定のデータが、一切の著作権、特許などの制御メカニズムの制限なしで、全ての人が
望むように再利用・再配布できるような形で、商用・非商用問わず、二次利用の形で入手できるべきであるというもの。
主な種類では、地図、遺伝子、さまざまな化合物、数学の数式や自然科学の数式、医療のデータやバイオテクノロジー
サイエンスや生物などのテキスト以外の素材が考えられます。
情報技術の発展とインターネットで大企業の何十万、何百万単位から、facebook、Apple、Amazom、Google、Microsoftなどで数億単位で共同作業ができるようになりました。
現在、プラットフォーマー企業と呼ばれる法人は先進国の国家単位レベルに近づき欧米、日本、アジア、インドが協調すれば、中国の人口をも超越するかもしれません。
法人は潰れることを前提にした有限責任! 慈愛や基本的人権を根本とした社会システムの中の保護されなければならない小企業や個人レベルでは、違いますが・・・
最後に、マクロ経済学の大目標には、「長期的に生活水準を高め、今日のこども達がおじいさん達よりも良い暮らしを送れるようにする!!」という目標があります。
経済成長を「パーセント」という指数関数的な指標で数値化します。経験則的に毎年、経済成長2%くらいで巡航速度にて上昇すれば良いことがわかっています。
たった、経済成長2%のように見えますが、毎年、積み重ねるとムーアの法則みたいに膨大な量になって行きます。
また、経済学は、大前提としてある個人、法人モデルを扱う。それは、身勝手で自己中心的な欲望を満たしていく人間の部類としては最低クズというハードルの高い個人、法人。
たとえば、生産性、利益という欲だけを追求する人間。地球を救うという欲だけを追求する人間。利益と真逆なぐうたらしたい時間を最大化したいという欲を追求する人間。などの最低生活を保護、向上しつつお金の循環を通じて個人同士の相互作用も考えていく(また、憎しみの連鎖も解消する)
多様性はあるが、欲という側面では皆平等。つまり、利益以外からも解決策を見出しお金儲けだけの話だけではないのが経済学(カントの「永遠平和のために」思想も含めて国家や権力者は透明性を究極にして個人のプライバシーも考慮)
(個人的なアイデア)
前提として、公人、有名人、俳優、著名人は知名度と言う概念での優越的地位の乱用を防止するため徹底追跡可能にしておくこと。
ロビンハンソンの言うように、現実の脳自体をデジタルデータにして、人間のシナプスやニューロンの動きを数値化していくことで、現在では、数値化できない概念をコンピューター上で数値化していくということかもしれない。
ヘンリーマークラムが、人間のシナプスやニューロンの動きを数値化しようとしているが、より大きく人間の限界を遥かに超えるような発想で。
しかし、人間自体を、追跡すると基本的人権からプライバシーの侵害やセキュリティ上の問題から絶対に不可能です!!
これは、基本的人権がないと権力者が悪逆非道の限りを尽くしてしまうことは、先の第二次大戦で白日の元にさらされたのは、記憶に新しいことです。
マンハッタン計画、ヒットラーのテクノロジー、拷問、奴隷や人体実験など、権力者の思うままに任せるとこうなるという真の男女平等弱肉強食の究極が白日の元にさらされ、戦争の負の遺産に。
基本的人権がないがしろにされたことを教訓に、人権に対して厳しく権力者を監視したり、カントの思想などを源流にした国際連合を創設します。他にもあります。
参考として、フランスの哲学者であり啓蒙思想家のモンテスキュー。
法の原理として、三権分立論を提唱。フランス革命(立憲君主制とは異なり王様は処刑されました)の理念やアメリカ独立の思想に大きな影響を与え、現代においても、言葉の定義を決めつつも、再解釈されながら議論されています。
また、ジョン・ロックの「統治二論」を基礎において修正を加え、権力分立、法の規範、奴隷制度の廃止や市民的自由の保持などの提案もしています。現代では権力分立のアイデアは「トリレンマ」「ゲーム理論の均衡状態」に似ています。概念を数値化できるかもしれません。
権限が分離されていても、各権力を実行する人間が、同一人物であれば権力分立は意味をなさない。
そのため、権力の分離の一つの要素として兼職の禁止が挙げられるが、その他、法律上、日本ではどうなのか?権力者を縛るための日本国憲法側には書いてない。
モンテスキューの「法の精神」からのバランス上、法律側なのか不明。
立法と行政の関係においては、アメリカ型の限定的な独裁である大統領制において、相互の抑制均衡を重視し、厳格な分立をとるのに対し、イギリス、日本などの議院内閣制は、相互の協働関係を重んじるため、ゆるい権力分立にとどまる。
アメリカ型の限定的な独裁である大統領制は、立法権と行政権を厳格に独立させるもので、行政権をつかさどる大統領選挙と立法権をつかさどる議員選挙を、別々に選出する政治制度となっている。
通常の「プロトコル」の定義は、独占禁止法の優越的地位の乱用、基本的人権の尊重に深く関わってきます。
通信に特化した通信プロトコルとは違います。言葉に特化した言葉プロトコル。またの名を、言論の自由ともいわれますがこれとも異なります。
基本的人権がないと科学者やエンジニア(ここでは、サイエンスプロトコルと定義します)はどうなるかは、歴史が証明している!独占独裁君主に口封じに形を変えつつ処刑される!確実に!これでも人権に無関係といえますか?だから、マスメディアも含めた権力者を厳しくファクトチェックし説明責任、透明性を高めて監視しないといけない。
今回、未知のウイルス。新型コロナウイルス2020では、様々な概念が重なり合うため、均衡点を決断できるのは、人間の倫理観が最も重要!人間の概念を数値化できないストーカー人工知能では、不可能!と判明した。
複数概念をざっくりと瞬時に数値化できるのは、人間の倫理観だ。
そして、サンデルやマルクスガブリエルも言うように、哲学の善悪を判別し、格差原理、功利主義も考慮した善性側に相対的にでかい影響力を持たせるため、弱者側の視点で、XAI(説明可能なAI)、インターネット、マスメディアができるだけ透明な議論をしてコンピューターのアルゴリズムをファクトチェックする必要があります。
<おすすめサイト>
エリザベス・ブラックバーン: 決して年を取らない細胞についての科学
ジュン・ワン: デジタルDNAがより良い健康の選択を助ける?
ジェニファー・ダウドナ:精密な遺伝子編集が可能な時代、使い方は細心に慎重に
エレン・オーエン:医薬品特許プールで命を救う
<提供>
東京都北区神谷の高橋クリーニングプレゼント
独自サービス展開中!服の高橋クリーニング店は職人による手仕上げ。お手頃50ですよ。往復送料、曲Song購入可。詳細は、今すぐ電話。東京都内限定。北部、東部、渋谷区周囲。地元周辺区もOKです
東京都北区神谷のハイブリッドな直送ウェブサービス(Hybrid Synergy Service)高橋クリーニングFacebook版
#ターニャ#シモンチェリ#遺伝子#人類#DNA#法律#バイオ#ビック#データ#自然#概念#分子#生物学#生命#特許#プール#物理学#数学#功利#オープン#ツール#コロナ#ウイルス#NHK#zero#ニュース#発見#discover#discovery
0 notes
Quote
11月9日 九死に一生(その1) みなさん、ごぶさたしています。お元気ですか? まだ進行中ではありますが、心がだいぶ元気になってきたので、少し書いておきます。 実は、2023年8月24日10時、自宅事務所で仕事中、突然上半身に激痛が走りました。それは下腹部全体から始まり、胸部に波及していきました。 椅子から滑り落ち、床にはいつくばって耐え、武道前進でトイレに向かいました。そのときは、経験したことのない激痛を「前夜に食べた鮨にいたアニサキス」ではないかと疑っていたからです。 ところが吐こうとしても何も出ず、寝室にいきベッドに横たわりました。それから4時間、激痛に耐えていましたが、まったく収まる気配もない。そこで妻に頼んで救急車両で都立病院に搬送してもらいました。 即刻検査をしてもらうと、救急医から「このままICU(集中治療室)に入ってもらいます」と告げられました。24時間、絶対安静。家族も含めて完全に面会謝絶となります。今、会っておきたい人かせいたら、すぐ連絡してください。 病名は、急性大動脈解離。そのときは初めて聞く名称だと思いましたが、ICUに運んでくれる看護師さんから「びっくりしたでしょう。でも大丈夫。九死に一生を得たんですから、がんばりましょう」といわれた時、思い出しました。 30年ほど前、父の死に立ち会ったときに聞いた病名が大動脈解離。父の場合、大動脈の解離(亀裂)が心臓の近くまで達し、担当医からは「この亀裂が心臓に達したら助かりません。覚悟しておいてください」と言われました。 熊本に赴任していた兄に連絡し、飛んできてもらいました。しかし、彼の到着を待たずに翌日、父は「やってしまった」と口にした後、黄泉の国に旅立ちました。享年74歳。私は67歳で、父と同じ病気に罹ったことになります。 ICUの病室に入る前、長男、長女が会いにきてくれました。一人1分くらいで、話しができます。私は「ついにゆく みちとはかねてききしかど きのうけうとは おもはざりしも」と頭に浮かんだ辞世の句を伝えたのです。 結果的に、ICUには7日間、お世話になりました。1日目は、一睡もできませんでした。というのも、ドラマの知識ですが、冬山で遭難した人が「眠ったら死ぬぞ」と言われていた気がしたからです。 点滴と酸素マスクでスパゲッティ状態の私は、強い痛み止めを処方されていたので激痛は減っていたのですが、5分ごとに酸素マスクを外そうともがき、24時間時間、常に監視していてくれる看護師さんに直されました。 「廣川さん、酸素マスクを外してはいけません。外したら死にます。しっかり息をしてください。わかりますか。生きましょう。自分で生きようと思わなければ、このまま死んで仕舞います。わかりますか。もっと生きてください」 それから7日間、右にも左にも動けず、寝返りもできないまま、ひたすら絶対安静の時間のなかにいて、モルヒネで痛みは減少したものの、数分に一回、幻覚を見て死にたくなり、看護師さんが飛んできてくれる日々が続きました。 ICUで、絶対安静の身体も苦しかったけれど、もっと苦しかったのが、どこにも外界の情報がないことでした。面会謝絶は、情報謝絶であり、心から「このまま死にたい」と思えるほど「圧倒的に不自由な状態」だったのです。 ものごころがついたときから、いつも自由な時間につつまれていた自分にとって、初めて、自分の意思ではどうにもならない場所に入り、「出してくれ。自由にしてくれ」と叫びたくなるような閉塞感に襲われていたのです。 そんな私に、ICUの看護師さんは、延べ10名ほどが交代で、つきっきりで励ましてくれました。私はイビキが強く、いわゆる無呼吸症候群なのですが、呼吸が止まると看護師さんが飛んできてくれます。 「廣川さん、わかりますか。息をしなければ死んでしまいます。生きましょう。はい、息を吸って、吐いて。そうです。その調子。続けてください。息を吸って、吐いて。一緒に、血中酸素濃度を上げましょう」 ICUの7日間、一滴の酒も飲まず、食事も摂らず、ひたすら点滴の力で命をつなぎました。7日後、絶対安静と面会謝絶は続いたものの、一般病棟に。そのときは、1カ月以上、ベットで安静にする生活が続くとは思っていませんでした。 ICUから一般病棟に移れたとき、別の看護師さんでしたが「よかったですね。よくがんばりました。廣川さんは、まさに九死に一生を得ましたね」と言ってくれたのです。ああ、とにかく助かったらしい…と思っていました。 その後、都立病院での40日間の入院から退院し、大動脈解離の再発防止のための動脈瘤切除の手術をするために私立病院にも通うようになったのですが、手術してくれる先生も、同じ言葉を使われました。 先生は、都立病院から申し送りされたCT資料を見て「廣川さんの場合、脚から腹、そして胸部まで大動脈の解離(亀裂)がみられます。ところが、心臓の手前で亀裂が止まりました」 「え? どうして止まったのでしょう」 「理由は、わかりません。こんな激しい亀裂が全身をめぐったのに心臓までは達していません。達していたら、緊急手術をしても助かったかは、わかりません。九死に一生を得たのですから、再発防止も、がんばりましょう」 私は、ICUに入って「こんなに苦しいなら、不自由なら、死んでもいいから自由にさせてくれ」と思い続けた自分を、後悔していました。みんなが、生かしてくれた生命なんだと、ようやく理解していたのです。 11月10日 九死に一生(その2) 2023年8月24日16時ころから、私は7日間、都立病院のICUに隔離され、絶対安静と面会謝絶の状態に入っていました。 仕事も途中で放り出し、生れて初めて救急車で救急病院に搬送されたのですが、アニサキスによる腹痛だと思っていたので「急性大動脈隔離」だったと知り、本当にびっくりしました。 まったく、そのような人生が待っているとは考えてもいなかったからです。亡き母を二度、救急車で搬送したときは、息子として付き添っている立場。そのときは、自分が搬送される未来があるとはつゆ、知りません。 それまでは、テレビのニュースや映画のワンシーンでしか見たことのないICUに、自分が運ばれていくなんてことも、考えたことはなかったのです。とうに還暦を過ぎていたので、十分、ありうることだったのですが。 まず、おどろいたのが、右へも左へも寝返りが打てないコト。両手には点滴の針が刺さり、クチと鼻は透明な酸素マスクで固められています。水を飲む場合だけ、外されるマスクは、本当に「邪魔くさい」ものでした。 ICUのベッドに横たわったときは看護師さんに「ここが有名なICUなんですね」などと余裕で減らず口をたたいていましたが、次第に「これは大変なことになった」と自覚していきました。 初日は(その1)で記したように、このまま眠ったら死んでしまうのではないかという不安と緊張から、興奮して一睡もできませんでした。そして、たぶん何百回、何千回と「夢」を見たと思います。 ロシアの文豪ドストエフスキーのデビュー作「貧しい人々」か、獄中の出来事を描いた「死の家の記録」か、あるいはそのどちらかの「あとがき」で読んだのかは定かではありませんが、そこにこんなことが書いてありました。 ドストエフスキーは、学生のときに書いた「貧しい人々」がベストセラーとなり文壇デビューしたわけですが、その後、「無神論者」として、ニヒリズムに侵されて、時の政権への反対運動に身を投じます。 ところが、逮捕され、獄中で様々な犯罪者たちと出会い、そのあげく非民主的な裁判で「死刑」を宣告されました。そして、縛り首になる日がきました。 神父に最後の説教を受け、目隠しをされて13階段を上り、首に縄を回され、あとは床が抜けるだけという状態。その13階段をゆっくりと歩いていく数分間に、ドストエフスキーは、それまでの自分の人生についての夢をみたのです。 その数分間は、無限に近い「夢の時間」だったそうです。 そのエピソードを知ってから、私はこう確信していました。死ぬときは、自分も人生をふり返り、たくさんの夢をみるに違いない……しかし、ICUで絶対安静にしていた私は、人生を夢でふり返ることはありませんでした。 代わりに、今まで見た記憶がない、キラキラしてサイケデリック調の世界に行き、そこで何かを作っているシーンや、見たこともない人にプレゼンをしているシーンや、凄い物語を思い付いてノートに書いているシーンをみました。 ところが、そのサイケ調ではあるものの、やたらリアルで細かい字まで見えている「成果物」を、どこにも保存することができません。ノートをしまう引き出しも、パソコンも、伝えるスマホもありません。 あ、どうしよう。せっかく思いついたのに、保存がきかない。きっと目を覚ましたら、何を創り出したのか忘れているのだろうな、という意識が沸き上がり、そこで目を開けると、ICUの天井があるのです。 天井には緊急手術用の大きな照明が1つあり、それは幸いなことに私のいた天井で光ることはありませんでしたが、何だか脳に直接働きかけて未来の夢を見させている新しい装置のように感じていました。 ああ、そうだ。私は、きっと何も残せないまま死んでいくに違いない。死ぬことは、成果を保存できずに、ただ、消えていくことなのか。死にたくない。もっと何かを作り、それを保存して、みんなに伝えたい。 そう考えたとき、いつも強い不安に襲われました。このまま、プツンと世界が終わってしまう。何も遺すことなく、自分が生み出した世界を誰に伝えられることもなく、ただ終わってしまう。それが、今、目の前にある現実なんだ。 そして、私は手元にあるナースコールを押すか、あるいは狂ったように酸素マスクを外してしまうか、衝動的に何らかのアクションをとっていました。ICUの看護師さんは、いつも、何百、何千回と、いつも飛んできてくれたのです。 ICUで隔離されてから二日目か三日目、カーテンを吊るしている金具のところに異変があるのに気づきました。私は、看護師さんに聞きました。「あそこにある文字は何ですか」 看護師さんは「ああ、文字が見えますか。それは幻覚です」と言います。「え? 看護師さんには見えないのですか」「はい。私には見えません」「そんな…では、カーテンの下にある、ひらひらしているその文字は、ありますよね」 「ああ、カーテンの影が文字に見えているのですね。それも幻覚です。気になりますか。」「はい」「興奮すると身体にさわりますから、専門のスタッフを呼んでおきます」「では、本当に幻覚なんですね」 それから小一時間もたたないうちに、白衣を着た、目を見るだけで美しさが匂い立つ精神科医がやってきて、私の話し相手になってくれました。彼女は、私が何をしている人か尋ね、根気よく、幻覚について聞いてくれたのです。 11月11日 九死に一生(その3) 2023年8月24日に急性大動脈解離でICUに運ばれた私は、24時間絶対安静を強いられる中、激痛を緩和してくれるモルヒネのせいで、さまざまな幻覚を見るようになりました。 私が見ている幻覚について、精神科の女医さんが解説してくれました。「夢から覚めても、幻覚は実際にみえるものです。もちろん廣川さんにしかみえていませんが、薬がぬけていけば、自然に見えなくなるものです」 キラキラした瞳で「どんなふうに見えているか、教えて」と女医さんは小首をかしげる。彼女との距離は、規則なのか、2メートルほどあった。それ以上近づくと、私の心の範疇に入り込んでしまうのかもしれません。 私は、「カーテンの上、金具のあるはずのところには、筆で漢字4文字の言葉が書いてあります。崩してあるから正確には読めませんが、なんだか京都の禅寺で写生をした般若心経ではないか。そんな気がしています」と応えました。 白衣の彼女は、す、と半歩だけ前に来て、私の目を覗き込んだ。私は、夜に見ていた夢の話をしたかったが、どんな内容だったか、すでに忘却していた。それで、夜中に感じていたことを話しました。 いままで、いつも情報につつまれていました。朝起きればBGMを流し、スマホのメールをチェックする。新聞を読み、気になる記事があればテレビをつけてNHKのデジタルかBS1でニュースを見ていました。 本も雑誌もSNSも、見たい時に開くことができた。それが当たり前の日常として、ずっと続いていたんです。ところが、ICUに入ってから、すべての情報が遮断されています。今、何時なのかもわからない。 朝食も昼食も夕食もなく、飲み会もない。ただ、絶対安静の姿勢でいる。こうして先生と話すときは鼻から酸素を吸っているけど、夜は酸素マスクでがんじがらめになっている。 ICUに入った当初は、酸素マスクや点滴や、じっとしていること自体が不自由で、逃げ出したいと感じていました。でも、今は違う。私が耐えられないのは、情報の遮断です。これまで、したことも考えたこともない状態でした。 不自由で息が詰まるのではなく、何もない真っ暗闇のなかにいる感覚。情報がない世界、それが死ぬということなんだと意識すると、ぞっとしました。今、まさに暗闇のどん底にいる自分が意識されてきたのです。 もう、ここから出たい。情報に触れたい。行きたいところに行きたい。人に会いたい。想い出の中、夢の中ではなく、街を歩き、空を見上げ、自由に歩き回りたい。そして好きな人たちの声を聴き、話しもしたい。 煎じ詰めると、私は「もっと生きたい」と、「まだ死にたくない」と、女医さんに訴えていたのです。逆に言えば、情報から遮断されていることそのものが「黄泉の国の入口」になると気づいていたことになります。 女医さんが、「お仕事は?」と聞きました。これまで「ビジネス作家」と応じていたのですが、黄泉の国の入口でうろうろしている私は、「しがない物書きです」と応えました。一度、言ってみたかったのです。 「凄い。どんなものを書かれるのですか」私は、迷うことなく「パズル小説」と応えました。「あら、面白い。私、パズル大好き」私は、パズル小説について、かんたんに説明しました。 ところが、ICUでは絶対安静なので、しばらく、といってもたぶん1分もたたないうちに、ピコピコ音がして看護師さんが飛んできました。「血圧、上がってます」女医さんが謝り、「また来ます」と小さく手を振りました。 次に、彼女が姿を見せるのはICUを出て一般病棟のベッドに移ってからのこと。私は、まだ絶対安静のままでしたが、ひとまず生命の危機は去り、意識も明確になり、幻覚は収まっていました。 それから3回、彼女は話に来てくれました。私は、主に自分の生い立ちについてしゃべりました。彼女に、自分の存在について、原点となっている経験について、聞いてほしかったのでしょう。 「生きていて、よかった」と言われるたびに、私は嗚咽しました。言葉にできない何かを伝えたくて、それでもまったく伝わらないもどかしさもあり、涙があふれてきたのです。 彼女がいたのは1回10分程度と思うのですが、去ったあと、私は幻想にひたりました。マスクで顔はわかりませんでしたが、たとえば村上春樹のノルウェイの森にでてくる哀しい少女の雰囲気がありました。 生死の瀬戸際にありながら恋愛感情に励まされるのは一つの発見でもあり慰めでした。二度と戻りたくないICUを卒業(と私は言ってました)した後、私は恋愛経験をなぞることで、絶対安静を維持することができたのです。 そして、退院したらパズル小説「愛夢永遠」を書き始めようと強く願っていました。愛夢永遠というのは、20年前に書いた自伝小説で、メルマガで配信していました。ところが収集がつかなくなり、原稿用紙で500枚ほど書いて中断。 それを、今度はパズル小説にしてみようと思い立ったのです。我ながら、ほんとうに懲りないですね。 11月12日 九死に一生(その4) 人は誰でも、「死」というものがあることを知っていますし、いずれ自分も「死」の瞬間を迎えることは、直観的にわかっています。ただ、それが「どんな瞬間」なのかは、想像できません。 私も、2023年8月24日にICUに運ばれ、身動きができない状態に置かれるまで、数々の「人の死」に向き合ってきたにもかかわらず、死ぬということの��質がわかっていませんでした。 死について考えてしまうと、結局「死んで見るまではわからない」し、死んでしまっては「もう何もわからない」から。結局、自分は一生、生きている間は、「死」について理解することはないだろうと、思っていました。 しかし、ICUで私は、明らかに「死」の姿に触れていました。「あ、このまま終わるのかもしれない」と思える瞬間が、何度か、あったからです。すぐ目の前に「終焉」がありました。 あ、ここに陥ると、死ぬな、と思ったのです。それは、とても苦しい時間でした。息をしたくても身体が動かず、脳内に快楽物質も出ず、ひたすら苦しい。これが続くなら、もう耐えられない。 天国も地獄もなく、ただ「終わってほしい」という感覚。もう、止めたいという感覚。それが「死」の正体なのだと思いました。生きるのを止めたい、そう感じたら、その向こうに「死」があるとわかるのです。 他の人は、もともと、どう「死」を迎えたのか、私は知ることはできません。しかし、私にとっての「死」は、単純に「もう生きている状態を止めたい」と感じたときに、そこに姿を現した気がしています。 私は、1日、90分しか眠れません。もう20年くらい、そんな生活をしています。もちろん、90分では休息が足りませんので、起きてトイレに行き、水を飲んだら、再びベッドに入ります。そこでまた、90分間ほど眠ります。 それを3~4回、くりかえすと、目をつむっても眠れなくなります。あ、今日はもう眠れない、と思ったら、それが起床の時、そんな生活を続けてきました。 ところが、ICUでは、90分も眠ることができません。24時間、食事をすることも、トイレに行くことも(膀胱から直接排尿されるので尿瓶も必要ありません)原稿を書くこともありません。 ひたすら、じっとしています。ですから、いつも起きているし、いつも眠っている状態。そこには考えている自分しかいませんでした。しかも、考えたことを「記録に残す」こともできません。 このまま、ずっとICUに居続けるのかもしれないと考えた時、「死」というものが身近にいました。死は、生きることができなくなることだったんです。当たり前のようですが、2023年8月24日まで、そのことを私は知りませんでした。 そして、「生きることができないかもしれない」から「生きることを止めたい」と思ったとき、私には「生きたい」という力が、ぜんぜん沸いてこなかったのです。それまでは、ここで死んでなるものかという思いがあった。 しかし、ICUで3日目あたりに、「もういいや。生きるのをやめてもいい」という気になっていたのです。そんなときに、苦痛が襲い、息ができなくなり、もがいていると、自然に「死にたい」と思っていたのです。 そして、それを救ってくれたのが「廣川さん、生きましょう。もっと生きてください。ここであきらめたら、死んでしまうんです」と、叫んでくれた若い看護師さんでした。 私は、「ああ、ここで終わるのか」という思い、「終わりにしたい」という思いでいた自分に、怒っていました。外から見たら、きっと自分は「死んでいく」ように見えていたのです。 自分もまた、「終わりでいい」と思い、「終わりが来た」と思っていました。そして、ドストエフスキーが語ったように「一生の夢」を見ることなく、プツンと生命の糸が切れて、終わるのだと感じていました。 それは、日々、眠るときと同じかもしれません。自分は、毎日、疲れ果てて眠るときに、「死んでいた」のではなかったか。だから、90分後に目を覚ました時、自然に「ほっ」として、起きていたのではなかったか。 起きれなくなる、それが「死」の正体。 そんなことを考えながら、私は「廣川さん、ちゃんと呼吸してください。深く吸って、吐いて。吸って、吐いて」「どうしました」「血中酸素濃度低下」「ほんとだ」「呼吸していません」「廣川さん、もっと生きましょう」 男性と女性の看護師さんが、それからつきっきりで、私の枕元で「吸って」「吐いて」と繰り返してくれました。たぶん、1時間くらい私は合いの手に合わせて、酸素マスクから出てくる酸素を吸い続けました。 その呼吸が、あまりにも強く、深く、長時間続いたせいで、私の肺はあちこちで破れ、血液がたまり、猛烈に痛み始めました。翌朝、検査をすると、肺の20%ほど「水」がたまっていると診断されました。 この「水」が引くまで、1カ月かかったのです。しかし、そこで何かを乗り越えられたおかげで、何とか生き延びることができたのだと、今はわかっています。 ICUと、医師と看護師さんちたが、私を救ってくれたのです。 11月12日 九死に一生(その5) 急性大動脈解離でICUに入り、寝返り厳禁の絶対安静、家族もふくめての面会謝絶で外界から閉じた時空間で、私は7日間、暮らしました。 ICUには、特別の時間が流れています。私は、身体の自由を奪われ、生死を何かに託していました。生きていることが当たり前だった場所から、いつ、生きるのを止めてもいい場所に移っていたのです。 それで、病状が落ち着いているときには、何もすることがないので、しかも未来について考える気力がわいてこないので、どうしても過去のことに思いを馳せることになります。 とくに「死」と向き合っていた時代を想い出そうとしていました。せっかく「死」が向こうからやってきているのに、それについて何も考えないというのも、間が抜けています。 私は、生れてから順番に、いつ、死ぬことを意識したのか、思い出していました。おそらく、最初に「死」について考えたのは、小学校1年か2年生のときでした。 私は、鉄棒ができなかったので、一人で逆上がりの練習をしていました。何度目か、冷たい鉄棒を握る手がかじかんできて、身体が空中にあるときに、手が離れました。落ちてしまった私は、地面に後頭部をぶつけてしまったのです。 私は、すり足で家に帰りました。後頭部に「瘤」はありません。そのことが気になってしまい、食事ものどを通りません。夜、床についても、目が冴えてしまって眠れず、やがてしくしくと泣き始めました。 テレビ番組で見たのか、誰かに教わったのか。私は「後頭部を打つと内出血で死ぬことがある」という知識を持っていました。幼い子どもは、このまま死んでしまうことを確信していたのです。 母が、眠らない私に気づき、声をかけました。「どうしたの? 何かあったの?」私は鉄棒から落ちたことを報告し、「死んでしまうかもしれない。怖いよう」と訴えました。 死ぬことが、どのようなことなのか、まだ考えたこともなかったのですが、直観的に「死んでしまう」と感じ、不安で気が狂いそうになりました。母は、私を抱きしめ、大きな温かい手で後頭部をなでてくれました。 「痛いの痛いの、飛んでいけ」 翌朝、目覚めたとき、眠った場所に戻れたことが、とても幸せなことだと理解しました。 あれは、小学4年か5年生の夏。乳首が硬く、ふくらんでいることに気づきました。これもテレビからの知識だと思いますが、私は自分が乳がんになったと思い、愕然としました。 何日も悩み、百科事典で「がん」を調べ、図書館に行き、近くの書店で大人が読むがんの本を読みました。わからない漢字がたくさんあるものの、だいたいのことは、わかりました。 1週間も経つと、乳首のしこりは、もっと大きくなっていました。泣き虫だった私は、一人、ふさいでいました。母は「風邪」だと思い、小学校を休みにして、かかりつけ医の片田先生のところに連れて行きました。 片田先生は私に「どうしました」と聞くので、私はシャツをたくしあげて胸を突き出し、「乳がんになりました」と伝えました。 先生は「ほう、乳がんですか。どれどれ」と胸に触れ、乳首をつまんで「大丈夫、これは乳がんではないから、心配はいらないよ」とにっこり。1週間ほどふさぎ込み、死んでしまうのかと考えていた私は、そこで救われたのです。 中学1年か2年の初夏。私は、最寄り駅である東上線の上板橋駅から小川町駅まで行き、そこから三峰口の峠に向かう山道に入りました。とくに登山用の服装はしていません。 小学生の頃、家族でピクニックに来たことを想い出し、一人で歩いてみたくなったのです。そして数時間かけて峠の頂まできて、景色に見とれてしまった。気が付くと、夕暮れ時になっていました。 もちろん、私は夜の山がどんなものか知りません。経験もありません。ただ、あわてて下山しなければいけないことは、わかっていました。小学生のときに一度歩いた山道とはいえ、懐中電灯もありません。 足元��、どんどん暗くなっていきました。幸い、月明りがあったので、まったくの暗闇にはなりませんが、場所によっては足元どころか、数メートル先に黒いカーテンが引かれたようになっています。 灯りのある山小屋も、売店も、電灯のある電信柱もない山道を、私は、ゆっくり、足場を確認しながら下っていきました。 私は、「死」を意識していました。今度は、助けてくれる母も、かかりつけのお医者さんもいません。携帯電話もなく、山道に自販機はありません。ただ、知識が少しありました。 整備されているハイキング用の山道から外れてはいけないこと。そして、下山していくと、どこかで舗装されている車道の近くに出る。その後、しばらく車道と並行して山道が続く。そんな場所がありました。 2~3時間ほど下山すると、車道を走る車のライトが空の空気を照らして動いていくのが見えました。まだ少し距離はありましたが、車道には街灯があったのです。私はハイキング道を逸れ、山肌を上り始めました。 その後は、残念ながら覚えていないのですが、長ズボンはズタズタになり、両手は傷だらけになっているものの、私は車道を歩いていました。車とすれ違った記憶はありませんが、やがて東上線の駅に着くことは確信していました。 駅舎は無人で、もう終電はありませんでしたが、そこは見知った場所。そこで夜が明けるのを待ち、始発で帰りました。 その頃、私は父が所有する3畳ひと間、トイレ共用、炊事施設はないアパートで一人ぐらしをしていましたから、三度目の「死」を考える時間を持ったことは、父も母も気づきませんでした。 12月19日 起死回生(その1) 2023年8月24日に、突然救急搬送され、ICUで7日間、生死の際まで行って幻覚をみていた私ですが、思い起こせば、その日は突然にやってきたわけではありません。半年前から血圧が高くなってサプリメントを飲んでいました。 この年の夏は地球沸騰といわれる極端気象で、東京も真夏日が続いていました。おまけに、仕事をしている事務所のエアコンが故障し、熱風だけでしのいでいました。半年前から右足がふくれ。足の爪の一部は壊死。 そこにコンサル業界の本の執筆が重なり、30年前のような忙しさ。どこまで肉体を酷使できるか、自分でも先が見えないまま、「これまでやってきたのだから、何とかできるだろう」と高をくくっていたのです。 正直、なめていました。こんなことでつぶれるわけにはいかないと、根拠のない自信をもって、突き進んでいたのです。その結果が、20代から走り続けた結果が、突然の急性大動脈解離だったのです。 ICUで、天井しか見られない時間を過ごしながら「ひょっとしたら、このまま死んでしまうのか」と気づいたのですが、すでに手遅れ。私は、自らのチカラで、この危機を乗り切ることしかできませんでした。 しかも、おそらく、たまたま、生き延びたにすぎません。帝京大学医学部の教授に言われました。「ほら、心臓の手前から両足の部位まで、大動脈が避けているでしょう。これが、心臓の手前で、とまっている」と。 私は「なぜ、心臓の手前で?」と聞くと教授は「理由は、わかりません。心臓のところも、裂けていても不思議はなかった。だから、九死に一生を得たということになります」と。本当に、危なかった。 そして、ICUから出て1ヶ月ほど安静にして回復を待ち、退院。その後、見つかった身体の「懸念材料」を、具体的なは3ヶ所で発見された腫瘍の検査と、それが終わってから「カテーテル」を通して血管の状態を調べました。 血管が丈夫でなければ、退院しても、いつかまた大動脈解離になるか、知れたものではありません。もちろん、塩分を控え、高血圧を治し、肥満状態を変換するなどの体質改善を勧めながら、最後の難関に向かいました。 それは、左足の付け根にあった「大動脈瘤」の処置です。大きさが3.5センチもあり、いつ破裂してもおかしくない状態。ここを適切に処置しておかなければ、社会復帰はありえません。 私は、帝京大学医学部の医師のみなさんに命運を託し、開腹手術にチャレンジすることにしました。大変難しい場所にできた大動脈瘤なので「決して簡単な手術ではなく、後遺症のリスクも1割と、この手のものにしては高い」とのこと。 それでも、私の答えは決まっていました。せっかく九死に一生を得ることができたのだから、起死回生ができる身体にするためにも、医師の腕にすがることにしようと、それこそ腹をくくっていたのです。 12月19日 起死回生(その2) 療養中に、考えました。人間は、あっけなく死んでいくものなんだとわかった上で、それでも生きている間に何をしたいか、日々意識していこうと思っていました。 今しか生きられない宿命に生まれた自分。ただ、その今も、いずれ終わりが来ます。68年間、終わるというこ���を経験せずに生きてきた自分は、何と幸運だったことか。 何の準備も、心構えもないまま「まだ先のこと」と思っているうちに、激痛に見舞われ、病院に搬送されてICUに入っていたのです。 寝返りも禁止された7日間。15分くらい眠っては目を覚まし、口を覆ったマスクを外そうとする。それに気づいた看護師が飛んできて、私を止めた。 「外したら、死にますよ」「生きましょう、頑張って」そのとき、私は悟りました。みんな、こうして死んでいくんだな、と。自ら、終わりにしてしまうのだな、と。 それくらい、生きるという選択肢は、肉体的に苦しかった。こんな苦しいことが続くなら、もう終わりにしたいと思っていたんです。 1月7日 起死回生(その3) 新年、あけましておめでとうございます。パラダイムシフトが起きているなかで迎えた元旦、書初め、2024年初の通院と、初詣は除いて、だいたいのイベントを終えて、ようやく一息ついています。 今年も、厳しい時代は続くと思いますが、みなさん、身体に注意して、健康第一でお過ごしください。無理を重ねると、いつしか、私のように起死回生を狙う道しかなくなってしまいます。 さて、本文は、起死回生の3回目になります。前回は、途中で用事が入って、中断したままになっていました。しかし、年が変わったのですから、新たな気持ちで、起死回生について期しておきたいと思っています。 2023年8月24日に緊急入院してから、2024年1月7日現在、私はお酒を一滴も口にしていません。二十歳を迎えてから、私はお酒を呑まない休肝日は、累積しても30日に満たないと思います。 というのも、眠る前に、晩酌をするか、もの思いにふけりながらいっぱいやるか、いずれにしろ、今日が人生最期の日かもしれないと感じ、生きている幸せをかみしめなければ、寝床に入れなかったからです。 とくに、ここ10年は、一回に90分以上、睡眠することができなくなっていました。そう、今、急性大動脈解離での入院は必然だったと考えているのは、そんな自分の身体の構造が、それこそ身をもって感じていたからです。 ということで、今回は、ここまで。薬を飲み、軽いリハビリをして、無理ない程度に仕事をする時間です。 1月11日 Facebookページ 二十歳のとき、南池袋にあるスナック・サンフラワーに、足しげく通っていました。夜の8時ごろから翌朝6時まで開いている店でした。 お客さんがいなければ、水割り1杯300円で飲ましてくれました。ママが、貧乏学生を応援してくれたんです。 私はカウンターの入口近くに陣取り、お客さんが来るまで、ママと話したりして休んでいました。 あるとき、カウンターの一番奥に、地味な服装をした女性が座っていました。たぶん夜9時ころ。カウンターには、私と彼女しかいませんが、端と端で飲んでいたことになります。 ママが、私に小声で教えてくれました。 「あのこ、あきちゃん。ヒット前に、たまに来てくれた。有名になっても、ちっとも変わらない。ヒロちゃんも見習いなさい」 私が、サンフラワーに通っていたのは半年くらいですが、ずいぶん勉強になりました。ご冥福をお祈りします。
死んだ(はずの)人からのメッセージ | えちごトキめき鉄道社長(いすみ鉄道前社長) 鳥塚亮の地域を元気にするブログ
1 note
·
View note