#治鮨
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金のとびこ巻き
〜風の谷農苑にて〜
家庭でのり巻きは明治末期とされ、1910年(明治43年)、江戸前鮨を考案した華屋与兵衛が創業した、与兵衛すし四代目の弟(小泉清三郎)の著書/家庭鮓のつけかたには、のり巻の作り方が紹介されています。今朝はキュウリ、金のとびこ、ワサビののり巻き〰😋
美味しく健康に、自然の恵みに感謝して頂きます(合掌)。
#のり巻き #とびこ #風の谷農苑 #大地の宴 #sushiroll #daichinoutage #utage_jp #tokyo #japan
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【東京】麻布十番「鮨しゅんじ」
【寺門ジモンの取材拒否の店 2024秋】麻布十番 お寿司『鮨しゅんじ』2024/9/27放送 東京都港区元麻布3-6-34 カーム元麻布 1F #寺門ジモンの取材拒否の店 #取材拒否の店 #寺門ジモン 詳しく見る↓
麻布十番駅「鮨しゅんじ」 食べログでcheck! 「鮨さいとう」の初代から数えて四代目にあたる齋藤孝司氏のもとで長年腕を磨いた橋場俊治氏が2020年に独立開業した鮨店 「鮨さいとう」で培った卓越した技術と、若き才能が融合した「鮨しゅんじ」の寿司は、伝統を守りつつも、現代の食のトレンドを意識した独創的な一皿が特徴。特に、ネタの鮮度とシャリの絶妙なバランス、そして大将の丁寧な仕事ぶりは、食通を唸らせる 鰆の握り 鯛の握り 小肌の握り 中トロの握り 住所 東京都港区元麻布3-6-34 カーム元麻布 1F TEL 03-6434-5021 ホームページ 鮨しゅんじ|元麻布 「鮨さいとう」齋藤孝司氏の一番弟子として長年を務め、2020年「鮨しゅんじ」として独立開業。2023年元麻布にて移転。… ホームページをcheck!
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11月9日 九死に一生(その1) みなさん、ごぶさたしています。お元気ですか? まだ進行中ではありますが、心がだいぶ元気になってきたので、少し書いておきます。 実は、2023年8月24日10時、自宅事務所で仕事中、突然上半身に激痛が走りました。それは下腹部全体から始まり、胸部に波及していきました。 椅子から滑り落ち、床にはいつくばって耐え、武道前進でトイレに向かいました。そのときは、経験したことのない激痛を「前夜に食べた鮨にいたアニサキス」ではないかと疑っていたからです。 ところが吐こうとしても何も出ず、寝室にいきベッドに横たわりました。それから4時間、激痛に耐えていましたが、まったく収まる気配もない。そこで妻に頼んで救急車両で都立病院に搬送してもらいました。 即刻検査をしてもらうと、救急医から「このままICU(集中治療室)に入ってもらいます」と告げられました。24時間、絶対安静。家族も含めて完全に面会謝絶となります。今、会っておきたい人かせいたら、すぐ連絡してください。 病名は、急性大動脈解離。そのときは初めて聞く名称だと思いましたが、ICUに運んでくれる看護師さんから「びっくりしたでしょう。でも大丈夫。九死に一生を得たんですから、がんばりましょう」といわれた時、思い出しました。 30年ほど前、父の死に立ち会ったときに聞いた病名が大動脈解離。父の場合、大動脈の解離(亀裂)が心臓の近くまで達し、担当医からは「この亀裂が心臓に達したら助かりません。覚悟しておいてください」と言われました。 熊本に赴任していた兄に連絡し、飛んできてもらいました。しかし、彼の到着を待たずに翌日、父は「やってしまった」と口にした後、黄泉の国に旅立ちました。享年74歳。私は67歳で、父と同じ病気に罹ったことになります。 ICUの病室に入る前、長男、長女が会いにきてくれました。一人1分くらいで、話しができます。私は「ついにゆく みちとはかねてききしかど きのうけうとは おもはざりしも」と頭に浮かんだ辞世の句を伝えたのです。 結果的に、ICUには7日間、お世話になりました。1日目は、一睡もできませんでした。というのも、ドラマの知識ですが、冬山で遭難した人が「眠ったら死ぬぞ」と言われていた気がしたからです。 点滴と酸素マスクでスパゲッティ状態の私は、強い痛み止めを処方されていたので激痛は減っていたのですが、5分ごとに酸素マスクを外そうともがき、24時間時間、常に監視していてくれる看護師さんに直されました。 「廣川さん、酸素マスクを外してはいけません。外したら死にます。しっかり息をしてください。わかりますか。生きましょう。自分で生きようと思わなければ、このまま死んで仕舞います。わかりますか。もっと生きてください」 それから7日間、右にも左にも動けず、寝返りもできないまま、ひたすら絶対安静の時間のなかにいて、モルヒネで痛みは減少したものの、数分に一回、幻覚を見て死にたくなり、看護師さんが飛んできてくれる日々が続きました。 ICUで、絶対安静の身体も苦しかったけれど、もっと苦しかったのが、どこにも外界の情報がないことでした。面会謝絶は、情報謝絶であり、心から「このまま死にたい」と思えるほど「圧倒的に不自由な状態」だったのです。 ものごころがついたときから、いつも自由な時間につつまれていた自分にとって、初めて、自分の意思ではどうにもならない場所に入り、「出してくれ。自由にしてくれ」と叫びたくなるような閉塞感に襲われていたのです。 そんな私に、ICUの看護師さんは、延べ10名ほどが交代で、つきっきりで励ましてくれました。私はイビキが強く、いわゆる無呼吸症候群なのですが、呼吸が止まると看護師さんが飛んできてくれます。 「廣川さん、わかりますか。息をしなければ死んでしまいます。生きましょう。はい、息を吸って、吐いて。そうです。その調子。続けてください。息を吸って、吐いて。一緒に、血中酸素濃度を上げましょう」 ICUの7日間、一滴の酒も飲まず、食事も摂らず、ひたすら点滴の力で命をつなぎました。7日後、絶対安静と面会謝絶は続いたものの、一般病棟に。そのときは、1カ月以上、ベットで安静にする生活が続くとは思っていませんでした。 ICUから一般病棟に移れたとき、別の看護師さんでしたが「よかったですね。よくがんばりました。廣川さんは、まさに九死に一生を得ましたね」と言ってくれたのです。ああ、とにかく助かったらしい…と思っていました。 その後、都立病院での40日間の入院から退院し、大動脈解離の再発防止のための動脈瘤切除の手術をするために私立病院にも通うようになったのですが、手術してくれる先生も、同じ言葉を使われました。 先生は、都立病院から申し送りされたCT資料を見て「廣川さんの場合、脚から腹、そして胸部まで大動脈の解離(亀裂)がみられます。ところが、心臓の手前で亀裂が止まりました」 「え? どうして止まったのでしょう」 「理由は、わかりません。こんな激しい亀裂が全身をめぐったのに心臓までは達していません。達していたら、緊急手術をしても助かったかは、わかりません。九死に一生を得たのですから、再発防止も、がんばりましょう」 私は、ICUに入って「こんなに苦しいなら、不自由なら、死んでもいいから自由にさせてくれ」と思い続けた自分を、後悔していました。みんなが、生かしてくれた生命なんだと、ようやく理解していたのです。 11月10日 九死に一生(その2) 2023年8月24日16時ころから、私は7日間、都立病院のICUに隔離され、絶対安静と面会謝絶の状態に入っていました。 仕事も途中で放り出し、生れて初めて救急車で救急病院に搬送されたのですが、アニサキスによる腹痛だと思っていたので「急性大動脈隔離」だったと知り、本当にびっくりしました。 まったく、そのような人生が待っているとは考えてもいなかったからです。亡き母を二度、救急車で搬送したときは、息子として付き添っている立場。そのときは、自分が搬送される未来があるとはつゆ、知りません。 それまでは、テレビのニュースや映画のワンシーンでしか見たことのないICUに、自分が運ばれていくなんてことも、考えたことはなかったのです。とうに還暦を過ぎていたので、十分、ありうることだったのですが。 まず、おどろいたのが、右へも左へも寝返りが打てないコト。両手には点滴の針が刺さり、クチと鼻は透明な酸素マスクで固められています。水を飲む場合だけ、外されるマスクは、本当に「邪魔くさい」ものでした。 ICUのベッドに横たわったときは看護師さんに「ここが有名なICUなんですね」などと余裕で減らず口をたたいていましたが、次第に「これは大変なことになった」と自覚していきました。 初日は(その1)で記したように、このまま眠ったら死んでしまうのではないかという不安と緊張から、興奮して一睡もできませんでした。そして、たぶん何百回、何千回と「夢」を見たと思います。 ロシアの文豪ドストエフスキーのデビュー作「貧しい人々」か、獄中の出来事を描いた「死の家の記録」か、あるいはそのどちらかの「あとがき」で読んだのかは定かではありませんが、そこにこんなことが書いてありました。 ドストエフスキーは、学生のときに書いた「貧しい人々」がベストセラーとなり文壇デビューしたわけですが、その後、「無神論者」として、ニヒリズムに侵されて、時の政権への反対運動に身を投じます。 ところが、逮捕され、獄中で様々な犯罪者たちと出会い、そのあげく非民主的な裁判で「死刑」を宣告されました。そして、縛り首になる日がきました。 神父に最後の説教を受け、目隠しをされて13階段を上り、首に縄を回され、あとは床が抜けるだけという状態。その13階段をゆっくりと歩いていく数分間に、ドストエフスキーは、それまでの自分の人生についての夢をみたのです。 その数分間は、無限に近い「夢の時間」だったそうです。 そのエピソードを知ってから、私はこう確信していました。死ぬときは、自分も人生をふり返り、たくさんの夢をみるに違いない……しかし、ICUで絶対安静にしていた私は、人生を夢でふり返ることはありませんでした。 代わりに、今まで見た記憶がない、キラキラしてサイケデリック調の世界に行き、そこで何かを作っているシーンや、見たこともない人にプレゼンをしているシーンや、凄い物語を思い付いてノートに書いているシーンをみました。 ところが、そのサイケ調ではあるものの、やたらリアルで細かい字まで見えている「成果物」を、どこにも保存することができません。ノートをしまう引き出しも、パソコンも、伝えるスマホもありません。 あ、どうしよう。せっかく思いついたのに、保存がきかない。きっと目を覚ましたら、何を創り出したのか忘れているのだろうな、という意識が沸き上がり、そこで目を開けると、ICUの天井があるのです。 天井には緊急手術用の大きな照明が1つあり、それは幸いなことに私のいた天井で光ることはありませんでしたが、何だか脳に直接働きかけて未来の夢を見させている新しい装置のように感じていました。 ああ、そうだ。私は、きっと何も残せないまま死んでいくに違いない。死ぬことは、成果を保存できずに、ただ、消えていくことなのか。死にたくない。もっと何かを作り、それを保存して、みんなに伝えたい。 そう考えたとき、いつも強い不安に襲われました。このまま、プツンと世界が終わってしまう。何も遺すことなく、自分が生み出した世界を誰に伝えられることもなく、ただ終わってしまう。それが、今、目の前にある現実なんだ。 そして、私は手元にあるナースコールを押すか、あるいは狂ったように酸素マスクを外してしまうか、衝動的に何らかのアクションをとっていました。ICUの看護師さんは、いつも、何百、何千回と、いつも飛んできてくれたのです。 ICUで隔離されてから二日目か三日目、カーテンを吊るしている金具のところに異変があるのに気づきました。私は、看護師さんに聞きました。「あそこにある文字は何ですか」 看護師さんは「ああ、文字が見えますか。それは幻覚です」と言います。「え? 看護師さんには見えないのですか」「はい。私には見えません」「そんな…では、カーテンの下にある、ひらひらしているその文字は、ありますよね」 「ああ、カーテンの影が文字に見えているのですね。それも幻覚です。気になりますか。」「はい」「興奮すると身体にさわりますから、専門のスタッフを呼んでおきます」「では、本当に幻覚なんですね」 それから小一時間もたたないうちに、白衣を着た、目を見るだけで美しさが匂い立つ精神科医がやってきて、私の話し相手になってくれました。彼女は、私が何をしている人か尋ね、根気よく、幻覚について聞いてくれたのです。 11月11日 九死に一生(その3) 2023年8月24日に急性大動脈解離でICUに運ばれた私は、24時間絶対安静を強いられる中、激痛を緩和してくれるモルヒネのせいで、さまざまな幻覚を見るようになりました。 私が見ている幻覚について、精神科の女医さんが解説してくれました。「夢から覚めても、幻覚は実際にみえるものです。もちろん廣川さんにしかみえていませんが、薬がぬけていけば、自然に見えなくなるものです」 キラキラした瞳で「どんなふうに見えているか、教えて」と女医さんは小首をかしげる。彼女との距離は、規則なのか、2メートルほどあった。それ以上近づくと、私の心の範疇に入り込んでしまうのかもしれません。 私は、「カーテンの上、金具のあるはずのところには、筆で漢字4文字の言葉が書いてあります。崩してあるから正確には読めませんが、なんだか京都の禅寺で写生をした般若心経ではないか。そんな気がしています」と応えました。 白衣の彼女は、す、と半歩だけ前に来て、私の目を覗き込んだ。私は、夜に見ていた夢の話をしたかったが、どんな内容だったか、すでに忘却していた。それで、夜中に感じていたことを話しました。 いままで、いつも情報につつまれていました。朝起きればBGMを流し、スマホのメールをチェックする。新聞を読み、気になる記事があればテレビをつけてNHKのデジタルかBS1でニュースを見ていました。 本も雑誌もSNSも、見たい時に開くことができた。それが当たり前の日常として、ずっと続いていたんです。ところが、ICUに入ってから、すべての情報が遮断されています。今、何時なのかもわからない。 朝食も昼食も夕食もなく、飲み会もない。ただ、絶対安静の姿勢でいる。こうして先生と話すときは鼻から酸素を吸っているけど、夜は酸素マスクでがんじがらめになっている。 ICUに入った当初は、酸素マスクや点滴や、じっとしていること自体が不自由で、逃げ出したいと感じていました。でも、今は違う。私が耐えられないのは、情報の遮断です。これまで、したことも考えたこともない状態でした。 不自由で息が詰まるのではなく、何もない真っ暗闇のなかにいる感覚。情報がない世界、それが死ぬということなんだと意識すると、ぞっとしました。今、まさに暗闇のどん底にいる自分が意識されてきたのです。 もう、ここから出たい。情報に触れたい。行きたいところに行きたい。人に会いたい。想い出の中、夢の中ではなく、街を歩き、空を見上げ、自由に歩き回りたい。そして好きな人たちの声を聴き、話しもしたい。 煎じ詰めると、私は「もっと生きたい」と、「まだ死にたくない」と、女医さんに訴えていたのです。逆に言えば、情報から遮断されていることそのものが「黄泉の国の入口」になると気づいていたことになります。 女医さんが、「お仕事は?」と聞きました。これまで「ビジネス作家」と応じていたのですが、黄泉の国の入口でうろうろしている私は、「しがない物書きです」と応えました。一度、言ってみたかったのです。 「凄い。どんなものを書かれるのですか」私は、迷うことなく「パズル小説」と応えました。「あら、��白い。私、パズル大好き」私は、パズル小説について、かんたんに説明しました。 ところが、ICUでは絶対安静なので、しばらく、といってもたぶん1分もたたないうちに、ピコピコ音がして看護師さんが飛んできました。「血圧、上がってます」女医さんが謝り、「また来ます」と小さく手を振りました。 次に、彼女が姿を見せるのはICUを出て一般病棟のベッドに移ってからのこと。私は、まだ絶対安静のままでしたが、ひとまず生命の危機は去り、意識も明確になり、幻覚は収まっていました。 それから3回、彼女は話に来てくれました。私は、主に自分の生い立ちについてしゃべりました。彼女に、自分の存在について、原点となっている経験について、聞いてほしかったのでしょう。 「生きていて、よかった」と言われるたびに、私は嗚咽しました。言葉にできない何かを伝えたくて、それでもまったく伝わらないもどかしさもあり、涙があふれてきたのです。 彼女がいたのは1回10分程度と思うのですが、去ったあと、私は幻想にひたりました。マスクで顔はわかりませんでしたが、たとえば村上春樹のノルウェイの森にでてくる哀しい少女の雰囲気がありました。 生死の瀬戸際にありながら恋愛感情に励まされるのは一つの発見でもあり慰めでした。二度と戻りたくないICUを卒業(と私は言ってました)した後、私は恋愛経験をなぞることで、絶対安静を維持することができたのです。 そして、退院したらパズル小説「愛夢永遠」を書き始めようと強く願っていました。愛夢永遠というのは、20年前に書いた自伝小説で、メルマガで配信していました。ところが収集がつかなくなり、原稿用紙で500枚ほど書いて中断。 それを、今度はパズル小説にしてみようと思い立ったのです。我ながら、ほんとうに懲りないですね。 11月12日 九死に一生(その4) 人は誰でも、「死」というものがあることを知っていますし、いずれ自分も「死」の瞬間を迎えることは、直観的にわかっています。ただ、それが「どんな瞬間」なのかは、想像できません。 私も、2023年8月24日にICUに運ばれ、身動きができない状態に置かれるまで、数々の「人の死」に向き合ってきたにもかかわらず、死ぬということの本質がわかっていませんでした。 死について考えてしまうと、結局「死んで見るまではわからない」し、死んでしまっては「もう何もわからない」から。結局、自分は一生、生きている間は、「死」について理解することはないだろうと、思っていました。 しかし、ICUで私は、明らかに「死」の姿に触れていました。「あ、このまま終わるのかもしれない」と思える瞬間が、何度か、あったからです。すぐ目の前に「終焉」がありました。 あ、ここに陥ると、死ぬな、と思ったのです。それは、とても苦しい時間でした。息をしたくても身体が動かず、脳内に快楽物質も出ず、ひたすら苦しい。これが続くなら、もう耐えられない。 天国も地獄もなく、ただ「終わってほしい」という感覚。もう、止めたいという感覚。それが「死」の正体なのだと思いました。生きるのを止めたい、そう感じたら、その向こうに「死」があるとわかるのです。 他の人は、もともと、どう「死」を迎えたのか、私は知ることはできません。しかし、私にとっての「死」は、単純に「もう生きている状態を止めたい」と感じたときに、そこに姿を現した気がしています。 私は、1日、90分しか眠れません。もう20年くらい、そんな生活をしています。もちろん、90分では休息が足りませんので、起きてトイレに行き、水を飲んだら、再びベッドに入ります。そこでまた、90分間ほど眠ります。 それを3~4回、くりかえすと、目をつむっても眠れなくなります。あ、今日はもう眠れない、と思ったら、それが起床の時、そんな生活を続けてきました。 ところが、ICUでは、90分も眠ることができません。24時間、食事をすることも、トイレに行くことも(膀胱から直接排尿されるので尿瓶も必要ありません)原稿を書くこともありません。 ひたすら、じっとしています。ですから、いつも起きているし、いつも眠っている状態。そこには考えている自分しかいませんでした。しかも、考えたことを「記録に残す」こともできません。 このまま、ずっとICUに居続けるのかもしれないと考えた時、「死」というものが身近にいました。死は、生きることができなくなることだったんです。当たり前のようですが、2023年8月24日まで、そのことを私は知りませんでした。 そして、「生きることができないかもしれない」から「生きることを止めたい」と思ったとき、私には「生きたい」という力が、ぜんぜん沸いてこなかったのです。それまでは、ここで死んでなるものかという思いがあった。 しかし、ICUで3日目あたりに、「もういいや。生きるのをやめてもいい」という気になっていたのです。そんなときに、苦痛が襲い、息ができなくなり、もがいていると、自然に「死にたい」と思っていたのです。 そして、それを救ってくれたのが「廣川さん、生きましょう。もっと生きてください。ここであきらめたら、死んでしまうんです」と、叫んでくれた若い看護師さんでした。 私は、「ああ、ここで終わるのか」という思い、「終わりにしたい」という思いでいた自分に、怒っていました。外から見たら、きっと自分は「死んでいく」ように見えていたのです。 自分もまた、「終わりでいい」と思い、「終わりが来た」と思っていました。そして、ドストエフスキーが語ったように「一生の夢」を見ることなく、プツンと生命の糸が切れて、終わるのだと感じていました。 それは、日々、眠るときと同じかもしれません。自分は、毎日、疲れ果てて眠るときに、「死んでいた」のではなかったか。だから、90分後に目を覚ました時、自然に「ほっ」として、起きていたのではなかったか。 起きれなくなる、それが「死」の正体。 そんなことを考えながら、私は「廣川さん、ちゃんと呼吸してください。深く吸って、吐いて。吸って、吐いて」「どうしました」「血中酸素濃度低下」「ほんとだ」「呼吸していません」「廣川さん、もっと生きましょう」 男性と女性の看護師さんが、それからつきっきりで、私の枕元で「吸って」「吐いて」と繰り返してくれました。たぶん、1時間くらい私は合いの手に合わせて、酸素マスクから出てくる酸素を吸い続けました。 その呼吸が、あまりにも強く、深く、長時間続いたせいで、私の肺はあちこちで破れ、血液がたまり、猛烈に痛み始めました。翌朝、検査をすると、肺の20%ほど「水」がたまっていると診断されました。 この「水」が引くまで、1カ月かかったのです。しかし、そこで何かを乗り越えられたおかげで、何とか生き延びることができたのだと、今はわかっています。 ICUと、医師と看護師さんちたが、私を救ってくれたのです。 11月12日 九死に一生(その5) 急性大動脈解離でICUに入り、寝返り厳禁の絶対安静、家族もふくめての面会謝絶で外界から閉じた時空間で、私は7日間、暮らしました。 ICUには、特別の時間が流れています。私は、身体の自由を奪われ、生死を何かに託していました。生きていることが当たり前だった場所から、いつ、生きるのを止めてもいい場所に移っていたのです。 それで、病状が落ち着いているときには、何もすることがないので、しかも未来について考える気力がわいてこないので、どうしても過去のことに思いを馳せることになります。 とくに「死」と向き合っていた時代を想い出そうとしていました。せっかく「死」が向こうからやってきているのに、それについて何も考えないというのも、間が抜けています。 私は、生れてから順番に、いつ、死ぬことを意識したのか、思い出していました。おそらく、最初に「死」について考えたのは、小学校1年か2年生のときでした。 私は、鉄棒ができなかったので、一人で逆上がりの練習をしていました。何度目か、冷たい鉄棒を握る手がかじかんできて、身体が空中にあるときに、手が離れました。落ちてしまった私は、地面に後頭部をぶつけてしまったのです。 私は、すり足で家に帰りました。後頭部に「瘤」はありません。そのことが気になってしまい、食事ものどを通りません。夜、床についても、目が冴えてしまって眠れず、やがてしくしくと泣き始めました。 テレビ番組で見たのか、誰かに教わったのか。私は「後頭部を打つと内出血で死ぬことがある」という知識を持っていました。幼い子どもは、このまま死んでしまうことを確信していたのです。 母が、眠らない私に気づき、声をかけました。「どうしたの? 何かあったの?」私は鉄棒から落ちたことを報告し、「死んでしまうかもしれない。怖いよう」と訴えました。 死ぬことが、どのようなことなのか、まだ考えたこともなかったのですが、直観的に「死んでしまう」と感じ、不安で気が狂いそうになりました。母は、私を抱きしめ、大きな温かい手で後頭部をなでてくれました。 「痛いの痛いの、飛んでいけ」 翌朝、目覚めたとき、眠った場所に戻れたことが、とても幸せなことだと理解しました。 あれは、小学4年か5年生の夏。乳首が硬く、ふくらんでいることに気づきました。これもテレビからの知識だと思いますが、私は自分が乳がんになったと思い、愕然としました。 何日も悩み、百科事典で「がん」を調べ、図書館に行き、近くの書店で大人が読むがんの本を読みました。わからない漢字がたくさんあるものの、だいたいのことは、わかりました。 1週間も経つと、乳首のしこりは、もっと大きくなっていました。泣き虫だった私は、一人、ふさいでいました。母は「風邪」だと思い、小学校を休みにして、かかりつけ医の片田先生のところに連れて行きました。 片田先生は私に「どうしました」と聞くので、私はシャツをたくしあげて胸を突き出し、「乳がんになりました」と伝えました。 先生は「ほう、乳がんですか。どれどれ」と胸に触れ、乳首をつまんで「大丈夫、これは乳がんではないから、心配はいらないよ」とにっこり。1週間ほどふさぎ込み、死んでしまうのかと考えていた私は、���こで救われたのです。 中学1年か2年の初夏。私は、最寄り駅である東上線の上板橋駅から小川町駅まで行き、そこから三峰口の峠に向かう山道に入りました。とくに登山用の服装はしていません。 小学生の頃、家族でピクニックに来たことを想い出し、一人で歩いてみたくなったのです。そして数時間かけて峠の頂まできて、景色に見とれてしまった。気が付くと、夕暮れ時になっていました。 もちろん、私は夜の山がどんなものか知りません。経験もありません。ただ、あわてて下山しなければいけないことは、わかっていました。小学生のときに一度歩いた山道とはいえ、懐中電灯もありません。 足元は、どんどん暗くなっていきました。幸い、月明りがあったので、まったくの暗闇にはなりませんが、場所によっては足元どころか、数メートル先に黒いカーテンが引かれたようになっています。 灯りのある山小屋も、売店も、電灯のある電信柱もない山道を、私は、ゆっくり、足場を確認しながら下っていきました。 私は、「死」を意識していました。今度は、助けてくれる母も、かかりつけのお医者さんもいません。携帯電話もなく、山道に自販機はありません。ただ、知識が少しありました。 整備されているハイキング用の山道から外れてはいけないこと。そして、下山していくと、どこかで舗装されている車道の近くに出る。その後、しばらく車道と並行して山道が続く。そんな場所がありました。 2~3時間ほど下山すると、車道を走る車のライトが空の空気を照らして動いていくのが見えました。まだ少し距離はありましたが、車道には街灯があったのです。私はハイキング道を逸れ、山肌を上り始めました。 その後は、残念ながら覚えていないのですが、長ズボンはズタズタになり、両手は傷だらけになっているものの、私は車道を歩いていました。車とすれ違った記憶はありませんが、やがて東上線の駅に着くことは確信していました。 駅舎は無人で、もう終電はありませんでしたが、そこは見知った場所。そこで夜が明けるのを待ち、始発で帰りました。 その頃、私は父が所有する3畳ひと間、トイレ共用、炊事施設はないアパートで一人ぐらしをしていましたから、三度目の「死」を考える時間を持ったことは、父も母も気づきませんでした。 12月19日 起死回生(その1) 2023年8月24日に、突然救急搬送され、ICUで7日間、生死の際まで行って幻覚をみていた私ですが、思い起こせば、その日は突然にやってきたわけではありません。半年前から血圧が高くなってサプリメントを飲んでいました。 この年の夏は地球沸騰といわれる極端気象で、東京も真夏日が続いていました。おまけに、仕事をしている事務所のエアコンが故障し、熱風だけでしのいでいました。半年前から右足がふくれ。足の爪の一部は壊死。 そこにコンサル業界の本の執筆が重なり、30年前のような忙しさ。どこまで肉体を酷使できるか、自分でも先��見えないまま、「これまでやってきたのだから、何とかできるだろう」と高をくくっていたのです。 正直、なめていました。こんなことでつぶれるわけにはいかないと、根拠のない自信をもって、突き進んでいたのです。その結果が、20代から走り続けた結果が、突然の急性大動脈解離だったのです。 ICUで、天井しか見られない時間を過ごしながら「ひょっとしたら、このまま死んでしまうのか」と気づいたのですが、すでに手遅れ。私は、自らのチカラで、この危機を乗り切ることしかできませんでした。 しかも、おそらく、たまたま、生き延びたにすぎません。帝京大学医学部の教授に言われました。「ほら、心臓の手前から両足の部位まで、大動脈が避けているでしょう。これが、心臓の手前で、とまっている」と。 私は「なぜ、心臓の手前で?」と聞くと教授は「理由は、わかりません。心臓のところも、裂けていても不思議はなかった。だから、九死に一生を得たということになります」と。本当に、危なかった。 そして、ICUから出て1ヶ月ほど安静にして回復を待ち、退院。その後、見つかった身体の「懸念材料」を、具体的なは3ヶ所で発見された腫瘍の検査と、それが終わってから「カテーテル」を通して血管の状態を調べました。 血管が丈夫でなければ、退院しても、いつかまた大動脈解離になるか、知れたものではありません。もちろん、塩分を控え、高血圧を治し、肥満状態を変換するなどの体質改善を勧めながら、最後の難関に向かいました。 それは、左足の付け根にあった「大動脈瘤」の処置です。大きさが3.5センチもあり、いつ破裂してもおかしくない状態。ここを適切に処置してお��なければ、社会復帰はありえません。 私は、帝京大学医学部の医師のみなさんに命運を託し、開腹手術にチャレンジすることにしました。大変難しい場所にできた大動脈瘤なので「決して簡単な手術ではなく、後遺症のリスクも1割と、この手のものにしては高い」とのこと。 それでも、私の答えは決まっていました。せっかく九死に一生を得ることができたのだから、起死回生ができる身体にするためにも、医師の腕にすがることにしようと、それこそ腹をくくっていたのです。 12月19日 起死回生(その2) 療養中に、考えました。人間は、あっけなく死んでいくものなんだとわかった上で、それでも生きている間に何をしたいか、日々意識していこうと思っていました。 今しか生きられない宿命に生まれた自分。ただ、その今も、いずれ終わりが来ます。68年間、終わるということを経験せずに生きてきた自分は、何と幸運だったことか。 何の準備も、心構えもないまま「まだ先のこと」と思っているうちに、激痛に見舞われ、病院に搬送されてICUに入っていたのです。 寝返りも禁止された7日間。15分くらい眠っては目を覚まし、口を覆ったマスクを外そうとする。それに気づいた看護師が飛んできて、私を止めた。 「外したら、死にますよ」「生きましょう、頑張って」そのとき、私は悟りました。みんな、こうして死んでいくんだな、と。自ら、終わりにしてしまうのだな、と。 それくらい、生きるという選択肢は、肉体的に苦しかった。こんな苦しいことが続くなら、もう終わりにしたいと思っていたんです。 1月7日 起死回生(その3) 新年、あけましておめでとうございます。パラダイムシフトが起きているなかで迎えた元旦、書初め、2024年初の通院と、初詣は除いて、だいたいのイベントを終えて、ようやく一息ついています。 今年も、厳しい時代は続くと思いますが、みなさん、身体に注意して、健康第一でお過ごしください。無理を重ねると、いつしか、私のように起死回生を狙う道しかなくなってしまいます。 さて、本文は、起死回生の3回目になります。前回は、途中で用事が入って、中断したままになっていました。しかし、年が変わったのですから、新たな気持ちで、起死回生について期しておきたいと思っています。 2023年8月24日に緊急入院してから、2024年1月7日現在、私はお酒を一滴も口にしていません。二十歳を迎えてから、私はお酒を呑まない休肝日は、累積しても30日に満たないと思います。 というのも、眠る前に、晩酌をするか、もの思いにふけりながらいっぱいやるか、いずれにしろ、今日が人生最期の日かもしれないと感じ、生きている幸せをかみしめなければ、寝床に入れなかったからです。 とくに、ここ10年は、一回に90分以上、睡眠することができなくなっていました。そう、今、急性大動脈解離での入院は必然だったと考えているのは、そんな自分の身体の構造が、それこそ身をもって感じていたからです。 ということで、今回は、ここまで。薬を飲み、軽いリハビリをして、無理ない程度に仕事をする時間です。 1月11日 Facebookページ 二十歳のとき、南池袋にあるスナック・サンフラワーに、足しげく通っていました。夜の8時ごろから翌朝6時まで開いている店でした。 お客さんがいなければ、水割り1杯300円で飲ましてくれました。ママが、貧乏学生を応援してくれたんです。 私はカウンターの入口近くに陣取り、お客さんが来るまで、ママと話したりして休んでいました。 あるとき、カウンターの一番奥に、地味な服装をした女性が座っていました。たぶん夜9時ころ。カウンターには、私と彼女しかいませんが、端と端で飲んでいたことになります。 ママが、私に小声で教えてくれました。 「あのこ、あきちゃん。ヒット前に、たまに来てくれた。有名になっても、ちっとも変わらない。ヒロちゃんも見習いなさい」 私が、サンフラワーに通っていたのは半年くらいですが、ずいぶん勉強になりました。ご冥福をお祈りします。
死んだ(はずの)人からのメッセージ | えちごトキめき鉄道社長(いすみ鉄道前社長) 鳥塚亮の地域を元気にするブログ
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週刊文春 2017年 6月 8日 號 定價 420円
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可惜這次沒能 golf 高��會 義大利 基 因 改 變
「遺傳子(基因) 可以改變。從根本改變人生的 Epigenetics 的
真實」- Sharon Moalem MD, PhD
《病者生存》电子书在线阅读-【美】沙龙·莫勒姆;乔纳森·普林斯-得到APP
讀後 竹內 久美子 週刊文春 2017 6月號
【正論】種の保存、種の繁栄という幻想 動物行動学研究家、エッセイスト・竹内久美子 - 産経ニュース
Epigenetics 是什麼意思?在 DNA 的特定地方,methyl group
一會兒附著,一會兒分離著,而且纏繞基因的蛋白質。如此依照
化學修飾的程度,產生基因的調節現象。因此,說基因可以改變,
正確的說是應該是「基因 Epigenetics 的發現狀態而得以改變。」,
並不是根本的 DNA 鹽基配列 可以改變。
Epigenetics 並不是意外和簡單的發生。食物、飲料藥物、運動、
x 射線、焦慮, 緊張 . . . . 。任誰都每天會面對一些大大小小的事情
與因素,而讓基因帶來變化的可能。
一對單卵雙胞胎,一方接受另一方的欺負,而另一方不受欺負的話,
受到欺負的一方的 Epigenetics 就會起變化。Epigenetics( 正確的
說就是它的啟動部份 )會附著很多。如此一來 Epigenetics 就處於
off 狀態,神經傳導 容易傾向不足,うつ 升高了 (憂鬱,台語
鬱卒 之所來自。)。
Epigenetics 的變化是一輩子,甚至持續數代都有可能。曾經患過
鬱卒病症,搞不好 Epigenetics 有問題的部份附著了過多的 吧,
或者大部份都治好了,對這些實在有點令人在乎。 表觀遺傳學是什麼? - 科學月刊Science Monthly
組織蛋白:簡介,營養成分,生產製作,展望,_中文百科全書
【皇位継承論】科学的にも正しく尊い「男系男子」――百地 章(日本大学名誉教授・国士舘大学特任教授)/ 竹内久美子(動物行動学研究家) - WiLL Online(ウィルオンライン)
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示 意 圖 ちらし鮨 - Bing images
aya 俱樂部
本來與閨蜜一起去旅行,可是第一日竟然在現地的 cafe 遇到了命運的
帥哥。因為說要嚮導觀光,一起走。敎了觀光雜誌沒有登載,在地人
才知道的地點,好吃的東西。雖然有點擔心,開了車子去到原本放棄
的遠處。對方應該也有想法:「有男朋友嗎?」在場也沒有人,
就有了「ok」的意思。也去車遊夜晚。差不多就是要融化了的遊戲,
不知不覺的發出了聲音,進入本番充實了旅途之夜?全心全意的
帶領,過了一個大滿足之旅。
(332) Fall's Classic Rhythm | 1930s - 1940s Vintage Jazz to Brighten Your Autumn 🍁🎶 - YouTube
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----- #国分寺 #鮨 #寿司ディナー #kokubunji #穴子 #中トロ #いくら #まぐろ #治鮨 (治鮨) https://www.instagram.com/p/BtaHSMRAaYT/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=1j0toqch52g7j
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銀座すし縁にて接待。個室にてコースを頂きました。こちらはヒカリモノよりマグロがお得意みたい。雲丹の食べ比べの他にマグロの食べ比べもありました。茶碗蒸しにはフカヒレが! カニやキャビアなどの高級食材も! お客様も流石の豪華なお寿司に写真撮っていました^ ^ 高級な緑茶「宇治」はお酒が飲めない方に喜んで頂けて良かったです。 こちらのお店を選んでせいかいでした。深謝 すし縁 050-5590-1788 東京都中央区銀座7-3-13 ニューギンザビル1号館 B1 https://tabelog.com/tokyo/A1301/A130101/13189458/ #鮨 #寿司 #銀座 #接待 #高級 #sushi #ginza #maguro #マグロ #鮪 #foodstagram #foodpic #instagood #instalike #instagram #instafood #sushi🍣 #sushistagram #uji #宇治 (Ginza, Tokyo, Japan) https://www.instagram.com/p/CC_QD-5D7D8/?igshid=1k6xciu7v2f4q
#鮨#寿司#銀座#接待#高級#sushi#ginza#maguro#マグロ#鮪#foodstagram#foodpic#instagood#instalike#instagram#instafood#sushi🍣#sushistagram#uji#宇治
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美味しいお鮨を頂きました。 どの料理も丁寧な仕事がされていて美味しかったです。 こちらのご店主さん、七尾の鮮魚店のご子息だとのこと。そりゃいいタネを仕込んでくれますよね。 すぐにもっと人気でて予約困難なお店になっちゃうんだろうなー。 今日はこんなに美味しいのを食べられて感謝です。 #金沢のお寿司 #寿司 #鮨 #鮨治 #近江町市場 #すし #金沢 #金沢市 #石川県 (鮨治(すしはる)) https://www.instagram.com/p/CeeA9vKJ_kS/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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#午餐吃什麼 #whatsforlunch #壽司 #寿司 #鮨 #寿司盛り合わせ #sushi #taku #竹味道 #tasteofreshness #下午茶吃什麼 # #士多啤梨 #生忌廉三文治 #strawberry #creamsandwich #甜味道 #tasteofsweetness #鳴謝ca🐷 #20211110 (at Central, Hong Kong) https://www.instagram.com/p/CWGWRzWA34y/?utm_medium=tumblr
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自分は知らないが有名な声優さんらしい #花江夏樹 #鬼滅の刃 #竈門炭治郎 2020/11/04 #はま寿司 #ウィラ大井 #東京ランチ協会2020 #ランチ #Lunch #東京ランチ協会 #東京回転寿司協会 #東京回転寿司協会2020 #回転寿司 #寿司 #鮨 #すし #スシ #sushi (はま寿司 Hamazushi ウィラ大井店) https://www.instagram.com/p/CHKLs7aAEgD/?igshid=1i5byt1yvlt5c
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鮃(ヒラメ)のお鮨
〜私は常磐ものを応援します〜
昆布〆は富山が発祥とされる保存食。明治初期、良質な昆布で知られる北海道羅臼町は、町民のほとんどが富山県出身者だったと言われ、故郷に昆布を送ったことに端を発してる、という説があります。今朝は常磐沖の鮃を、昆布で挟んで5日後お鮨に。程よく水分が抜け、昆布の風味と旨味がたまりません��😋
美味しく健康に、自然の恵みに感謝して頂きます(合掌)。
#昆布〆 #ヒラメ #釣り名人渡辺さん #常磐もの #風の谷農苑 #松井宏之 #大地の宴 #flounder #sushi #daichinoutage #utage_jp #tokyo #japan
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I am in Ishikawa Prefecture ________________________________ 石川県に来ております( ̄^ ̄)ゞ . いよいよ明日9/5(土)から【児玉修治展】はじまります。 . 明日、明後日は在廊いたします。 よろしくお願いします。 . 【児玉 修治展】 . 期間 9/5(土)-9/13(日) 時間 12:00-18:00 場所 器と暮らしの道具 ツカノマ . 感染予防対策としてご来店が重なった場合は 最大でお2組づつのご案内とさせていただきます。 . ご不便とご迷惑をおかけいたしますが 何卒よろしくお願いいたします。 ________________________________ #児玉修治#陶工房希器#shujicodama #うつわ#器#pottery#ceramics#レストラン#割烹#寿司#鮨#和食#ガストロノミー#gastronomie#gastronomy#やまひつじ https://www.instagram.com/p/CEtc6-_ldut/?igshid=17eha1pxs1pri
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11/22 柴寮偶記
11/22 柴寮偶記
【台湾グルメ③⑨③】本場台湾の火鍋ってどんな料理?大人気の台湾の火鍋を紹介します! - YouTube 然し 石頭火鍋 is 石頭火鍋,沙茶火鍋 is 沙茶火鍋,別別に食べた方が 味が亂れない。 ── Taiwan tea house 'Zhou Wei' - YouTube 都是裝模作樣。 ── 【台日精品比價】價差50,000台幣?! 進各大精品店查熱門單品 看到價差真的無言了.. #海莉 - YouTube 很喜歡,卻實在養不起。 ── 又出異相? 街道出現「超小局部降雨」 網驚:範圍也太小 - 蒐奇 - 自由時報電子報 (ltn.com.tw) 樓上有人倒水 ── 《獨家專訪黃崇仁! 半導體戰爭! 「去中化」成共識! 美晶片法打趴中國! 打回石器時代?! 從晶片荒到高庫存風暴! 半導體最差的時刻來臨?! 》【2022.11.04『年代向錢看』】 - YouTube • 做這麼絕,因為是價值的戰爭,即時文化體質改變也無法反轉。• 價值戰爭之外,不能盜竊。最重要的是-能力。 ── 李光耀:臺灣為什麽獨立不了!台独为什么不可能? - YouTube 人文傻瓜 ── 無權犧牲台灣奉承共產政權! 呂秀蓮給馬斯克公開信曝光 - 政治 - 自由時報電子報 (ltn.com.tw) 深宮怨嘆 ── 日台交流広場(台湾と日本) | Facebook 蜜棗清脆、香甜,實在很好吃,可惜知道的人不多,太可惜;其它還很多,時鐘果、枇杷、釋迦、文旦柚等等等,只要應時,都不應該錯過。 ── 《流麻溝十五號》臺灣首部白色恐怖「女性政治受難者」電影|後製與宣傳集資計畫 - YouTube • 1960年代的時候,有小學生說台語罰兩毛錢(兩塊錢!?)。• 並不是政府統一規定,在鄉下連上課都會打赤腳,這不是問題。可以看到的是現在很多台灣人不會說台語。這是政府的關係。 ── 47秒影片曝光! 徐巧芯坦言"有台階才握手"...烏龍爆料傷害李雅玲醫師"拒絕道歉"? 紙風車執行長留言澄清仍遭嗆 誰在撕裂台灣|鄭弘儀主持|【鄭知道了 PART2】20221108|三立iNEWS - YouTube 兩個人都不是這塊料。•郭台銘、柯文哲 誰當正誰當副也不用爭了;這個黨錢通四海,只是兩個人都不是台灣的料。 ── 談「新竹縣市合併」?高虹安「請假」急訪楊文科 事後繼續住院 - 政治 - 自由時報電子報 (ltn.com.tw) •大約宣明智也與民眾黨同掛。 • 郭台銘、柯文哲 誰當正誰當副也不用爭了;這個黨錢通四海,只是兩個人都不是台灣的料。 ── OUHK -「中國360度透視」系列講座:我到新疆去 - YouTube 一帶一路: 一、以自我為中心,對對手國形成剝削。 二、發展結果與對手國形成階序狀態。 三、推銷自身文化,不尊重平等的交往。 四、整套論述後頭以政治目的為前導。 因此引起反彈,推廣失敗。 ── 台商25年覺醒反共/與廖金章先生聊中共對郭台銘施壓、德國總理蕭茲為什麼要拜訪習皇帝、抗中保台重要性與台灣縣市長選舉 - YouTube 德國對美國並不服氣,自己不行找中國出頭。 ── 【台灣向前行】Live直播2022.11.11 牆倒眾人推?高虹安「小金庫」再爆爭議!楊文科、韓國瑜合體再挺林耕仁!欲蓋彌彰? 蔣萬安「被堵麥」突丟「請辭震撼彈」! - YouTube 高虹安、柯文哲、郭台銘,三人的共同特質就是偏狹與 “刻薄寡恩”��比較接近 希特勒。這樣的性格不適合當政治領袖,尤其是在一個充滿祥和,民主奮進的國家;在公民意識日漸成熟的台灣,擅法專斷 也很容易以偽善與包裝欺騙 民眾於一時。民主機制或許可以防止,只是在初始階段一旦混入,後悔已經太晚,這是此後台灣民眾必需注意 的地方。 ── 【 古早味白菜滷 】 不加水的白菜滷 | 原汁原味 | 扁魚香氣四溢 | 爆皮湯汁飽滿 - YouTube 台北當然也加扁魚,不加扁魚豈不成了炒白菜? ── 吹哨者聯盟反擊!高罪證確鑿?! 強辯?柯不惜全黨翻車救一人?【台灣最前線】2022.11.15(下) - YouTube 郭台銘、柯文哲、宣明智、趙少康、林志嘉 . . . .+高虹安、劉郁彤、蔡壁如 . . . . ── 【台灣演義】大台北史 2022.09.11 | Taiwan History - YouTube 永樂戲院怎麼會是在西門町? ── 台語陳年老歌《異鄉夜月》林英美 演唱 - YouTube 相當有可能。 ── 前助理核彈爆料! A先生:高虹安曾說"這法案是宣董要過的" 更揭露高虹安為了這事在家裡哭一周|鄭弘儀主持|【鄭知道了 PART2】20221115|三立iNEWS - YouTube 應該去整理,並列表一下高虹安就任立法委員以來質詢的內容。 ── 地震差點被磚頭砸!駐台美媒記者稱「死在台灣都值得」 親曝原因感動網-民視新聞 - YouTube 幫綁鞋帶只因為是漂亮的女生。 ── 日台交流広場(台湾と日本) | Facebook • 老實說,台灣人不是很注意家庭教育,甚至連長輩本身都有問題,當然問題很多;日治時代有受過教育的家庭比較好,只是戰後這一切都荒廢了。• 台灣人自由,也比較熱情是真的。 ── [訪問完整] 成天想賣台的地方首長怎會備戰? 曹興誠出席"愛台灣"公益演講 疾呼: 行政備戰從選舉開始! 更強調"決不要投國民黨 每天賣台.反對主權"│【焦點要聞】20221117│三立iNEWS - YouTube 說短一點,曹董事長的30分鐘快沒了。 ── 是誰背叛了兩蔣?|誰是中共同路人?|#黃吉川 #矢板明夫 #汪浩|@華視三國演議|20221120 - YouTube 節目結束前汪浩提出的 “沒有與時俱進” 的說法,點出了掉書袋與學究式的盲點,可惜沒能繼續就斷了。 ── 【唱頌台灣 暢Song世界 EP25 民視新聞】譜寫不朽經典歌曲 搖滾大酷呆潘芳烈 - YouTube 歌曲的認知除了歌手,一般常見的是作詞者,其實更應該是作曲者。 ── 台灣好吃驚 第118集日本五都最新情報!! (完整版) - YouTube 有日本情緒,又有 由貴小姐,太幸福了! ── 《獨! 2022最後決戰倒數! 搶年輕票! 固鐵票! 催基本盤! 蔡英文催票…讓我更有力量維持台海和平?! 放眼2024! 九合一大選早成總統卡位戰?!》【2022.11.24『年代向錢看』】 - YouTube 習總幹事-太好笑了。 ── 日本美食 | 寿司 | 顶级海胆齐聚在此:鮨尚充 - YouTube • 是老兄沾太多。可以買一把貴一些的刺身刀;藝術品。• 真是高級;有錢真好。這麼高級的壽司,真需要常吃才懂得好。 ── 10家東京必吃餐廳|壽司、拉麵、燒肉、炸豬排等|東京美食攻略|東京自由行必看 - YouTube 吃之外,要學吃相。 ── 療癒!京都伊根舟屋散步&舟屋旅館開箱💚與謝莊絕景房間及餐廳 景觀咖啡 INE CAFE 搭海景觀光列車丹後赤松號回京都中心|日本關西旅遊 4K VLOG - YouTube 有男友跟班拍照是女生最大的幸福與驕傲。 ── 習近平國慶談鬥爭!二十大後繼續掌權?中國軍事恫嚇 民主盟友相挺 台灣因應變局!(公共電視 - 有話好說) - YouTube 用詞粗糙,也顯示思考簡單,缺少政策周延,造成進步阻礙;因此除了船堅炮利之外,人文內容貧乏。 ── 愛愛時聽到什麼你會最開心?床上謊言排行榜Top8|許藍方博士的可樂排行榜 ep.9 - YouTube 日本片看太多。 ── 【精華版】日本名人愛台灣驚人過往!差點成為龍羽老師舊情人? - YouTube 大概不知道這裡有元日本總督的墓地。 ── 《 獨! 沉默的不滿! 消失的373萬選票! 藍綠版圖大洗牌! 選民因不滿內政! 敗選與中國無關?! 2024藍營布局?! 》【2022.11.28『年代向錢看』節目預告】 - YouTube •應該是蔡與中國有密議;戰機繞台與蔡不接受,一起演戲,各有政績,皆大歡喜。•共機繞台,她什麼話也不說。 ── 不是所有支持民進黨的人都是側翼! 姚惠珍哽咽喊"仇恨值"贏了 民進黨大敗全因網軍重挫中間選民? 王世堅:背後還有更可怕的人!|鄭弘儀主持|【鄭知道了 PART1】20221128|三立iNEWS - YouTube 應該從結果來看王議員的發言是否影響到選情,如果答案是是,就只能說,對的事,在有問題的時間點發表,引來攻擊就相當正常了,因為直接受影響的是正要投票的選民。 ── 大讚台灣民主成熟 小笠原曝1關鍵「民進黨2024贏面仍大」! - 政治 - 自由時報電子報 (ltn.com.tw) 不分海內外,人們似乎未曾看過有勇於碰觸台灣問題核心的評論,那就是藍綠,也就是本省、外省;雖然這是個自從戰後以來就植根,卻是一直隱隱的存在。 ── 被檢調約談出事了? 高虹安謝票行程突然取消 2.5小時後急發聲明澄清 傳將找黃珊珊擔任副市長 小內閣人選竟要經過宣董"點頭"?|許貴雅 主持|【新台灣加油 PART1】20221129|三立新聞台 - YouTube 高虹安的當選標示著科技勢力在台灣政治取得橋頭堡。
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2021
藍色の影
セブンイレブンで印刷した「知ってて知らない鳥の町」を読みながら、2021年の話を書いている。
しばらく日記を書くことから離れていたこともあり、この一年間で何があったか、思い出すのに時間がかかる。半年以上日記を書かなかったのは初めてかもしれない。今年はあまり本も読まず、メモも取らなかった。部屋が狭すぎて落ち着いて作業する場所がほとんどなかったからかもしれない。今年唯一のメモは宮沢賢治の詩の一節で、「衝動のようにさへ行われる/すべての農業労働を/冷たく透明な解析によって/その藍色の影といっしょに/舞踏の範囲に高めよ」と書かれている。コロナ禍中で仕事中は厳しい局面に出くわすことが多かったが、この詩が心のなかで生きていて、一歩退いてダンスステップを踏んでやろうという気持ちになれた。
氷濤
今年の二月頃、北海道を訪ねてきた友人たちと支笏湖の氷濤を見に行った。コロナ禍で旅行も飲み会も友人たちへの再会も後回しになっていたところに、楽しい一日が舞い込んできた。氷濤は水をスプリンクラーで吹き付け凍らせて作った氷のオブジェのことで、ただ巨大な氷の柱みたいなものもあったし、小さなお城みたく中に入ったり登れるものもあったりして、面白かった。巨大な構造物に囲まれていると、なにか悪ふざけめいた感じもあった。地域のイベントは行ってみたらやっぱり面白い。
転勤
街から街へ、住み慣れた場所を離れるのはいつも寂しいが、それでも不思議とそこに留まりたいという気持ちは湧かなかった。むしろ知らない街で暮らすことに期待感がある。妻はそうではなかったようで、なにか気に触るたびに新しい土地への不安を漏らしている。行政の行き届いた札幌のような街から出て、人生で一度も訪れたことのないような辺境の街に住むのは普通の人間からすれば相当なストレスに違いない。屈強なアルバイトふたりが小分けにされた我々の生活をすみやかに運び出すと、���除の行き届かなかった部屋の隅からほこりが噴き出してきた。すっかり入居当時の広さを取り戻した1DKを眺める。夫婦ふたりきりになるのも久しぶりだった。あの時はちがうよ、ああだったんだよ。私だけが単身赴任して、君は後から来ただろう、それでどこかで美味し物を食べようって言って、結局よくあるチェーンの居酒屋に入ったじゃないか。札幌に来てからの4年半で何があったか話し合う。
息子は作業の手伝いを真似ながらもガムテープを投げたり、しまったミニカーをどこからか出してきたり邪魔しかしないので、ぎりぎりまで保育園に預けている。いつもの帰り道とは違う方向に向かっていく予定であることなど何も知らずに、今頃昼寝でもしているものだろう。あと数時間もすれば不動産屋が鍵を取りに来る。追加で料金が発生しない程度には掃除を終えてしまいたい。部屋の隅に生えたカビを落としたり洗面台を磨いたりする。この汚れは実は擦ってみれば落ちるものだったのだと気付く。この一週間の疲れがまるで遠泳を終えたあとのように降りかかる。転勤が決まってから、ほとんど息継ぎなしで泳いできたようなものだ。勤務最終日まで、やらなければいけないことは燻っていた。私しか理解していない顧客の引き継ぎ、こうでもなければ手をつけるのを後回しにしていた仕事が次から次へと現れたのだ。
最後に会えていなかった顧客との面談を終え、保育園で息子を回収する。今日のさようならは少しだけ意味が違うんだよ。また明日という意味が入っていないんだよ。さようならをいうの��少しの間だけ死ぬということだよ。この一年間で書いた絵(のようなもの)や画用紙でできた花束、保育園でのふれあいの結果をトランクに詰めこむと、港に向かって車を走らせる。ワイパーもほとんど意味がないくらい、強い雨が降っている。高速道路を降りてしまうとほとんど明かりもない。前方の車のテールライトを必死に目で追いながら、初めて通る道を進んでいく。カーステレオからはなっている音楽を遮って、スマートフォンが道を案内してくれる。だけど2km先を右折と言われても自分にはどこがその2kmなのかわからない。スマートフォンがそういっているだけで、ほんとうはこの先に道なんてなくて、巨大な穴に吸い寄せられるように落ちていっているのではないかとさえ思われた。
港は月面に存在する基地のようだった。巨大なトレーラーがフェリーの底に何台も格納されているなかにいると、にわかに私の車がおもちゃのミニカーのように感じる。もうすぐ家族も増えるし、車を買い替えるのも良い機会かもしれない。フェリーには大浴場があって、浴槽のお湯は船の揺れに合わせて海と同じくらい波打っていた。同じく風呂に入っている男どもと浴槽の中で鮨詰めになり、その不愉快な揺れは自らの力で抵抗できるようなものではなく、海中で漂う昆布のごとく揺れているのはなんだか面白かった。嫌な出汁が出るだろう。船に乗るのも久しぶりだ。最後に乗ったのは高校生の頃で、北海道の音威子府村までスキーの合宿に行った時以来だ。私がなにから難しい顔をしていたためか、一緒に乗っていた自衛隊員から先輩と思われたのか「お疲れ様です」と頭を下げられる。そうだよ、俺は疲れているよ、と思った。
どうぶつの森が面白いのは転勤するのに近いかもしれないなと思った。新しい場所で暮らすということ、自分のための拠点を一から作り始めること、そこで身を立てることは、人生最大の娯楽のようなものなのだ。どこに家具を置こうとか、ルーターをどこに隠そうとか、テレビ周りの配線を組み直している時とか、ホームセンターに工具を買いに行くとか、まんまどうぶつの森だった。相違があるとすれば、飯を食べたり、気の進まない仕事に向かっていったり、強かな人付き合いの連鎖が常に降りかかってくるというところとか、年金だとか税金だとかの手続きからは逃れられないとか、もしそういう仕様が一つでもあったらあのゲームは台無しかもなと思った。どうぶつの地方都市なんてだれもやりたくはない。引っ越しの費用をケチって単身赴任用の部屋に3人で住んでいたのは本当に無理があった。後からきた後輩もみんな私の前例に習って同じように結婚し、同じ場所に住み続ける悪き風習を残してしまった。家賃のほとんどが会社負担で金銭的な余裕は大きかったが、家族用の冷蔵庫みたいな大きい家具は搬入できないし、3人で歪に布団を敷いて寝たりするのはあまりよくなかった。転勤先には家族向けのアパートがほとんどなかったため、謎の一軒家(周りは草原)を支給されている。家主だって立てたことを忘れたんじゃないかというくらい古めかしい外観だったが、思っていたよりも中は綺麗だった。相応に広いし、納屋だってついている。冬タイヤをベランダに並べておく必要もない。やっと好きな家具を置ける。40万円分も家具を買い集めるのは楽しかった。冷蔵庫もやっと買い替えることができた。それまで使っていたのは大学生の時に買った無印良品の冷蔵庫で、キャベツ一個買うだけで満杯になっていた。新しく買った三菱の冷蔵庫はキャベツはおろか白菜まで何個でも入る。すごい。野菜の持ちも全然違う。そうして完成した部屋はどこかおしゃれにはなりきれなかったが、私も妻も満足していた。
ざっくりとベストよかったこと
今年よかったことといえば、来年��春くらいには子どもが増えるということで、日記を書き始めた頃から随分状況も変わったなと思った。もちろんアドベントカレンダーに書いている20xx年からも、変わっている。毎日全く同じような一日を暮らしているような気がするんだけど、一年間振り返ってみるとやっぱり違う場所にたどり着いた気がする。目を瞑って足踏みをしているように。一年も足踏みしていればもう別の場所の別の人間だろう。
あんなに色々言われていたオリンピックだって今年だった。オフィスが競歩会場に面していたために、かなりいい位置から見ることができたのはよかった。歩いているとは思えないくらいめちゃくちゃ早かった。
ほかにもチョコボールの金のエンゼルが当たったり、スーパーに行った帰り道にでかい虹をみたり、人生で初めてパーマをかけたり、Apexでソロダイヤ達成したり、そんな一年でした。
この記事は2021 Advent Calendar 2021の5日目として作成されました。前日はoooooooooさん、明日はnnca_ntnさんです。
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=== 嫁と国分寺 治鮨へ初訪問 === #治鮨 #国分寺グルメ #寿司屋で一杯 #いくら #帆立 #大トロ #いか #穴子 #海老 #日本酒 #菊正宗 #happybirthday (治鮨) https://www.instagram.com/p/BtYRGGlgKhm/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=dp7e2nepa9sc
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明石焼きではなく玉子焼。
明石で食べたのは初めて!大阪で食べる明石焼き、とはまた少し違う気がした。
やっぱり地元で愛されるソウルフードだけのことはある◡̈⃝おばちゃんのソウルがこもっているからなのかもしれない。
この鮓という文字、写真に撮ってから気付いたけど、
鮨じゃないんだなー?鮓って最古の表記なんだって、
さすが創業明治三十年っ!こうやって受け継がれて変わらずに変わっていくものが素晴らしいなぁって思ったり。それに食、をとても大事に扱っておられるのが見える。漁港の近くだというのもあるのかもしれないけど有り難さっていうものをとても大事にされてるんだろうなぁって感じる。そういうお料理はとても美味しい!!
わたしの知らない美味しいものはきっと世の中にはまだまだたくさんあると思うけど、
こうやって目で見て、噛みしめて、飲み込んで、ほわっと後味で、こんなに食べることに感動することってそうそうない。腑に落ちるってもしかしてこういうことなんじゃないの?
そんなわたしの知らない世界をたくさん見せてくれる人、気づかない視点をたくさん教えてくれて、
わたしの世界が広がって、わたしばっかりが喜んでいるのかもしれないけれど!
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