#江ノ島弁財天
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旅の記録
12月3日~4日、友人と鎌倉・江ノ島旅行をする。
鎌倉文学館で没後35年特別展、澁澤龍彦・高丘親王航海記の展示があったので、鎌倉へ行こうと計画をしていたところ、友人が声をかけてくれて、ひとり旅でなくなった。
ひとり旅だと、どうしても鳥を探したくなって重いカメラを担いで、ワークマンの服を着て出かけることになる。鳥を撮影するようになってから、文化財を巡るような「旅」とは疎遠になっていた。
旅のルートは、 一日目 北鎌倉・浄智寺(澁澤龍彦の菩提寺)―鎌倉・鶴岡八幡宮/大河ドラマ館/鳩サブレーで有名��豊島屋のカフェ「置石」/クルミッコ/桜貝アクセサリー店/鎌倉文学館 二日目 江ノ島(特にどこという予定は決めずに江ノ島とだけ決めていた)
・北鎌倉 浄智寺 北鎌倉で待ち合わせをした。そのまま浄智寺へ。地図を見なくても、なんとなく歩いて行けばたどり着けた。 人生で一番通っている寺というのは、どう考えても地元の檀家になっている寺だが、そのつぎがたぶん、東大寺だろう。地元の友人とよく奈良へ行くし、奈良は鳥がたくさんいるので、バードウォッチングを始めてからも何かにつけて出かけている。だがその次は?となるとおそらく浄智寺ではないかと思う。 そんなに通っているのに、じつは一度も澁澤龍彦の墓にたどり着いたことがない。浄智寺は、拝観料が必要な文化財としての寺だけれど、檀家もいて、お墓があるのだ。それはつまり、地元のひとびとの暮らしと地続きの場所で、そこを、ただ澁澤龍彦のファンであるというだけの自分が「墓参りに来ました」と言っていいものか、というのをずっと迷っていて、聞けずにいて、見つけることができなかったのだ。 だが今回、どうしても澁澤に報告したいことができたので、澁澤の墓前に立ちたかった。寺の受付のひとに聞くと、わかりづらい場所にある、と言いながら親切に教えてくれた。いままでたどり着くことのできなかった墓前にたどりついて、いろんな報告をした。 澁澤にしてみれば赤の他人が急に墓にやってきて、あなたのファンです、やっとここまで私の人生がたどり着きました、なんて報告をされても知ったことではないだろうと思ったが、人生の一つの区切りとして訪れることができてよかった。矢川澄子は岩波の校正員時代に、龍子さんは芸術新潮の編集者のときに、澁澤と出会っている。 御朱印をもらって帰るとき、そのふたつ前のページが、以前訪れたときの浄智寺のものだった。文化財から足が遠のいている自分を発見してすこし苦々しく思う。
・鶴岡八幡宮/大河ドラマ館 カモメが群れになって飛んでいた。七五三の子供がたくさんあるいていて、成人式の前撮りの人たちもいた。 今期の大河ドラマを見ていないのでついていけるかどうか不安だったが、楽しそうにする友人を見ているだけで楽しかった。映像資料やジオラマ、体験コーナーなど、ドラマを見ていない人間でも楽しめた。舞台セットの時代考証の映像がとてもよかった。 ハトがたくさん歩いている。
・クルミッコ/置石/桜貝のアクセサリー店 前回鎌倉旅行をするときに、地元の友人に「クルミッコ」というお菓子がおいしいと教えてもらった。そのときはお昼過ぎに店舗に立ち寄ったのだが、行列ができていてなかなかお店に入れなかった。「並ぶんだよ~」と言いながらお店にいくと、列ができていない…。もうクルミッコブームは終わったのか? とお店に入ると……クルミッコ、売り切れていた。まだおひるすぎだというのに。 置石へむかう。エクレアサンドとチョコレートパフェをたのむ。紅茶がとてもおいしいと友人が教えてくれたのでそれも注文する。紅茶はとてもおいしかった。そして……チョコレートパフェ、800円という金額なのにとても巨大だった。エクレアサンドを食べたあとに食べるサイズではなかった。ふつう、コーンフレークがいるところにおそらくは粉砕されたハトサブレが陣取っていて、それがとてもおいしかった。巨大だったが、おいしかったのでつるっと食べられた。 その後、桜貝のアクセサリー店へ行くまでに、鳩サブレー本店にたちよる。鳩サブレーグッズを買う。ここも行列。宿で食べるおやつに矢口餅を買う。大河ドラマに登場した餅らしい。何も知らずに求肥に釣られて買った。 桜貝のアクセサリー店も長蛇の列だった。列に並んでいるあいだ、「桜貝ってわれわれでも拾えるのかな」「由比ヶ浜にいくから打ち上げられてないかな」などと話をしていたら、前に並んでいた人が、「六時半くらいに行くと拾えますよ」と拾った桜貝の写真を見せてくれる。早起きして桜貝探しをすることを誓い合う。 どれもかわいくて迷いに迷って、桜貝のヘアピンを買う。
・鎌倉文学館 鶴岡八幡宮の門前町を楽しみすぎて、文学館が16:30閉館なのにたどり着いたのは16:00だった。高丘親王航海記の展示を見る。こぢんまりとした展示だったし、見たかったのは創作メモだけだったので、そこだけ重点的にみる。三島の影響を感じる部分などある。 リスが木を歩いていた。鎌倉にはたくさんリスがいると警備員さんに教えてもらう。宿までの道すじでもリスがいて、うんこされる。
二泊目
・由比ヶ浜 約束通り6時に起きられたので、6時半に由比ヶ浜に到着する。もうサーファーが海にたくさん入っていておどろく。 桜貝を探す。海で貝を探すときは、一点を見ない方がいい。とはいえ、タカラガイを探すことは得意でも、桜貝用の「目」ではない。一つ目を探すのに苦労する。それでも一つ見つけると目が慣れてぽつ、ぽつと見つけられる。メダカラを一つだけみつけるが、擦れていたので拾わずおいてゆく。桜貝に孔をあけるツメタガイも打ち上げられている。 「朝日曇っているから見えないのかなあ」と言っていたら、背後の山のほうから日が昇る。朝日はいつでも海からのぼると思っていたが、そうでもないらしい。
・江ノ島 江ノ島へ行く前に、クルミッコへもう一度。開店直後にお店に到着したのに、お店のかげまで行列ができていておどろく。ほしかったカンカン入りのクルミッコが買えたので満足する。 江ノ電に載��江ノ島へ。 江ノ島までの道にたくさんお店が並んでいる。家族には「わざわざ江ノ島まで行ってしらすを食べなくても地元で食べればいいじゃないか」と言われながら出かけたのだが、しらすピザは地元にはない。絶対しらすピザをたべたいと言い続ける。 弁天橋から鳥を見る。見たことのない鳥だったのでコンデヂだったが撮影する。帰ってから調べるとカツオドリで、どうして重いからという理由でミラーレス×超望遠を置いてきたのかと後悔する。 江ノ島神社への参道には、貝を売る店がおおくある。夜光貝やナンヨウダカラを見てはほしいほしいと騒ぐ。 江島神社へ到着する。弁財天をまつる神社もある。わたしは弁財天を見つけると必ずお参りするようにしている。弁財天は芸能の神様なので、小説の上達を必ず祈ることにしているのだ。弁財天のお守りももらう。新しい仕事の鞄につけようと思っている。 山頂まではエスカーにのる。エスカー、ケーブルカーのようなものだと思っていたらエスカレーターだった。だからエスカーか……。 参道で行列ができていたタコせんべいのお店が山頂にもある。そこも行列ができていたが、参道ほどではない。生のタコをまるまる一匹、プレスして作るせんべいは、タコをおしつぶすとき、悲鳴が聞こえる。あつあつのを、トンビに狙われながらたべる。 シーキャンドルという展望塔に向かう途中、鳥のような鳥じゃないような鳴き声が聞こえる。近づいていくとリスだった。至近距離でも逃げない。奈良の鹿のように、鎌倉にはリスが多い。クルミッコにリスが描かれていることに納得する。 シーキャンドルにのぼる。眺めがよく、ずっと見ていられそう。富士山がとても近い。わたしたちの住んでいるところでは、富士山は条件のいい冬にしか見られないが、関東では天気がよければそうめずらしくないらしい。 念願のしらすピザをたべる。めちゃくちゃ大きい。鎌倉野菜としらすのピザだった。とにかく大きい。おなかがいっぱいになりながらそれでもおいしいので完食する。はじめてクリームソーダを食べる。おいしかった。窓からは湘南の海だろうか、海と富士山が見える。SUPのひとたちがときどき通り過ぎてゆく。
電車に乗り、友人と別れる。 先週の横浜行きでは売り切れていた崎陽軒のシウマイ弁当を食べる気満々でいたものの、しらすピザが大きすぎて全然おなかがすいていなかった。崎陽軒のチャーハン弁当(シウマイが2コ入っている)と、真空パックじゃない方のシウマイを買う。新幹線で食べるつもりだったが全然おなかがすかなくて、帰りの近鉄電車で食べた。おいしかった。
コロナ禍に入ってからバードウォッチングをはじめ、神社仏閣をまわったり、博物館へ行ったり、素敵なカフェやお土産を探したり、観光地をぶらぶら歩く旅から遠ざかっていたので、今回の旅ではそれができたことがとてもうれしかった。 いつのまにか、旅=探鳥になっていたけれど、こういう旅を好んでしていたなあ……旅といえば、博物館や美術館を探し、神社仏閣を巡っていたのは、つい二、三年まえのこと。それなのに、なんだかはじめての旅をしたような心地だった。
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東京神社仏閣フィールドワーク
日本橋七福神めぐり編
本日は小学生たちと東京日本橋人形町にある七福神めぐりに行ってきました。
七福神めぐりは室町時代よりはじまったといわれ、500年にわたって日本人に受け継がれ、年々盛んになっています。
日本橋七福神めぐりは、他所とは異なりすべて神社で構成されており巡拝距離も短く、日本で一番巡拝が短時間に参拝できるのが特長です。
日本橋通りや人形町通りは、江戸下町の伝統を持つ繁華街。
懐かしい下町情緒に触れながら、たい焼きや和菓子の有名店にも訪れ楽しい思い出作りができました。
最初に訪れたのは①小網神社でした。
健康長寿の福禄寿と財運向上・学芸成就の弁財天は、神社と同じ 境内地にあった万福寿寺におまつりされていました。
そんなに大きな社ではないものの、SNS等で話題となりものすごい行列で東京銭洗弁財天、近年「強運厄除の神」として信仰を集めています。
最初に訪れたところがこんな感じでは先が思いやられるなあと思うくらいたくさんお人だかりでした。
ご朱印やお守りも豊富です。
次に②茶ノ木神社です。七福神は布袋尊です。
社の周囲に巡らされた土提芝 の上に丸く刈り込まれた茶の木がぐるりと植込まれ、芝と茶の木 の緑が実に見事であったと伝えられています。
防災・生産の 神様として信仰を集めています。
続いて③宝生弁財天 水天宮です。七福神は弁財天です。
宝生流能楽 の技を競われた際、弁財天に願をかけ、見事に勝利を収め、それ 以来、宝生弁財天と敬われています。
芸事をはじめ学業・金運のご 利益が名高いと現在に至るまで篤く信仰されています。
安産や子授の神様も祀られております。
次に④松島神社です。七福神は大国神です。
続いて⑤末廣神社です。七福神は毘沙門天です。
続いて⑥椙森神社です。七福神は恵比寿神です。
最後に⑦笠間稲荷神社です。七福神は寿老神です。
寿老神は長寿の神にしてお導きの神・幸 運の神として人々の運命を開拓して下さる福徳長寿の守護神です。
道中みんなお腹が減り、柳屋のたい焼きを食べたいところでしたが大行列で別のお店へ行きました。
阿部寛さん主演のドラマ新参者でよく並んでいるシーンで出ていたお店です。
混んでいるので鳴門たい焼き本舗日本橋人形町店へ行きました。
歩いてめぐった後のたい焼きは格別ですね。
甘さも程よくみんなぺろりと食べてしまいました(笑)
半日で巡れる七福神はちょうどよい距離ですね!
みんなに地図を渡して探しながら冒険です。
こういう遊び方だと分からないまでも想定外のことに対処しながら役割が自然と出来るものだなあと感心しました。
楽しい思い出作りが出来ました。
保護者様のご協力もありがとうございます。
次回は上野東照宮周辺神社仏閣めぐりです。
お楽しみに!
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#江島神社 #江ノ島弁財天 スタバ寄り道して #湘南モノレール で鵠沼海岸いり。そこから #江ノ島 へ。 平日なのにずいぶん人が多かったです。でも日本語がなかなか聞こえなかったかも😅 さて今回こっちへ来たのは、お気に入りの #御塩守 が身代わりで壊れてしまったので、お返しとともに新調するため。 本来は南方は良くないんですが、今日は偶然数少ない吉報位だったので、こちらにも来ました。 御朱印は2つを見開きでお願いすると「奉拝」を中央にしていただけます😆御朱印帳は富士山(青)と弁財天(ピンク)が1500円。瑞心門が大判サイズで2000円。 大判!!😭 結局、富士山の青にしました。 #神奈川県 #藤沢市江の島 #弁財天 # #神社 #御朱印 #ご朱印 #ゴシュコレ #御朱印めぐり #御朱印集め #御朱印収集 #御朱印巡り #御朱印好き #御朱印部 #御朱印巡りの旅 (江島神社)
#藤沢市江の島#弁財天#ゴシュコレ#江ノ島#御朱印巡り#神社#ご朱印#江ノ島弁財天#神奈川県#御塩守#御朱印好き#湘南モノレール#御朱印めぐり#御朱印集め#江島神社#御朱印#御朱印部#御朱印収集#御朱印巡りの旅
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湘南の宝石2020 江ノ島 神奈川県 先週2日目の時に行きました。コロナ禍の中、すごい人でしたが、相変わらずの強風でしたので 建物に入らなければまず安心。 キレイでした。 コロナは正しく怖がろう❤️ 夜撮影は、光のコントールが難しいですね。スマホで撮るととても上手にコントロールしてくれるのでスマホの夜景モードがオススメ。 長時間露光すると白飛びしますよね。NDフィルターなどのフィルターワークのお話はまだ別の日にするとしまして、今回は夜のイルミネーション撮影のポイント 夜景モードで撮る。 もっと聞きたい? 激安オンラインサロンでお待ちしてます。 #夜撮 #湘南の宝石 #江ノ島 #イルミネーション #イルミネーション2020 #夜景 #ホワイトバランス #島林大祐写真展 #江ノ島弁財天 #キャンドルタワーライティングショー #キャンドルタワー #夜景モード #夜撮影難しい #夜撮影が好き #キレイ #イルミネーションデート #コロナに負けるな #楽しい時間 #ごまチャンネル (江ノ島) https://www.instagram.com/p/CIHQ7-3gAcY/?igshid=s27u6l9x9xy6
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2021.9.30 先日、 江ノ電の小さな旅に出かけた時、 出発点が#鎌倉 だったので、 前から行きたい本屋があり、 出発前に訪れてみました。 #メッゲンドルファー と言う、 仕掛け絵本専門の本屋さん。 全部、仕掛け絵本♪ ワクワクしますよ、ホントに。 * その中で、とても気になった本。 龍好き、 江ノ島好きにはたまらない絵本。 そして、何より 絵が#宇野亜喜良 さんです! シュールで大好きな画家。 ずっと旅の途中でも気になり、 帰りにまた足を運び、 買ってしまいました(笑 * 本以外は、我慢できますが、 気になった本は、 古本であっても欲しくなります。 特に画集… * 北条時政の幼少の 江ノ島の伝説のおはなしです。 とても迫力ある龍が 飛び出してきます。 これはなかなかいい! * この本屋さんは、 見本が全てあるので、 内容を確かめられるのが とても良心的です。 子ども用だけではなく、 色んな仕掛け絵本があります。 まだまだ気になる本はありましたが、 またゆっくり訪れようと思います。 ゆったりしてて、 とてもオススメの本屋さんです。 * #りゅうのおくりもの #とびだす絵本 #仕掛け絵本 #江ノ島伝説 #龍 #弁財天 #北条時政 #三つ鱗紋 https://www.instagram.com/p/CUb9TgKBdBA/?utm_medium=tumblr
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⛩ #江島神社 ⛩ 御祭神 天照大神 須佐之男命 と誓約された時に生まれた三姉妹の女神様 #奥津宮 #多紀理比賣命 たぎりひめのみこと #中津宮 #市寸島比賣命 いちきしまひめのみこと #辺津宮 #田寸津比賣命 たぎつひめのみこと #江島大神 江島明神 えのしまみょうじん 仏教との習合によって #弁財天女 とされ #江島弁財天 となる。 #宗像大社 福岡 #厳島神社 広島 御同神 #八臂弁財天 はっぴべんざいてんと #裸弁財天 #妙音弁財天 みょうおんべんざいてん 日本三大弁財天 #安芸の宮島 #竹生島 近江 江の島の弁財天 奉安殿 十五童子像 後宇多天皇の勅額 弁財天像扁額 弘法大師の手形が押された 護摩修法による弁財天像
#江ノ島 #湘南 #神奈川県 #藤沢市 神奈川県藤沢市江の島2丁目3番8号 #御朱印 #神社 #神社巡り #神社詣り #神社参り #ご利益 #開運 #金運 #財宝招福 #初穂 (江島神社) https://www.instagram.com/p/CNXt240lVU1/?igshid=nmv6d8yc52gr
#江島神社#奥津宮#多紀理比賣命#中津宮#市寸島比賣命#辺津宮#田寸津比賣命#江島大神#弁財天女#江島弁財天#宗像大社#厳島神社#八臂弁財天#裸弁財天#妙音弁財天#安芸の宮島#竹生島#江ノ島#湘南#神奈川県#藤沢市#御朱印#神社#神社巡り#神社詣り#ご利益#開運#金運#財宝招福#初穂
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江ノ島鎌倉旅 I めっちゃパワー感じた✨ #江ノ島 #江ノ島神社 #パワースポット #三代弁財天 #夜桜 #イルミネーション #海 https://www.instagram.com/p/CLxrytTnhkI/?igshid=15qugs8bo0zic
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Enoshima Island
#enoshima#enoshima island#dragon#benzaiten#gozuryu#illuminations#sea candle#enoshima sea candle#江ノ島#五頭竜#弁財天#竜#ドラゴン#イルミネーション#江の島展望灯台#関東#日本
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『犬王』舞台巡り【山陽道編】
友魚の旅路/平家都落ちルートも巡りたいよね、という記録です。関西在住・北部九州出身なのでこの経路なんてもう数え切れんほど往復しているが視点を変えるだけでこんなにも新鮮な旅ができるってすごいなあと思う。
行った場所:腕塚(腕塚堂・腕塚神社)/草戸千軒町遺跡/厳島神社/花岡八幡宮/壇ノ浦古戦場・赤間神宮ほか
腕塚(兵庫県神戸市・明石市)
腕を埋めて腕塚。一の谷の戦いに破れ西へと落ちゆく途中で非業の死をとげた平忠度の腕を埋めたと伝えられる"腕塚"は神戸市長田区駒ヶ林と明石市天文町の2箇所にある。え どゆことじゃ?と思ったけど知りたいこと全部書いてある論文ありました(大坪舞2008「祭祀される忠度の腕ー伝承を引き寄せる場をめぐってー」『論究日本文学』88)。こちらを参考にすると、そもそも忠度死地は『平家物語』でも史実でも絞り込めない。両地の忠度伝承は、駒ヶ林は17世紀後半(腕塚そのものは19世紀)、明石は17世紀初頭(腕塚は17世紀後半)までは遡れそう、とのこと。
駒ヶ林の腕塚は一の谷からちょっと東に位置。地下鉄海岸線駒ヶ林駅が最寄り。長田港に面する民家に囲まれて"腕塚堂"がある。細い路地に入っていくけど看板や標石があるので迷いはしないと思う。ガレージみたいなお堂。北西に忠度胴塚もある(こっちは看板少なくてわかりにくかった。伍魚福さんの隣)。
明石の腕塚は一の谷から西へ10kmほど離れる。山陽電鉄人丸前駅下りてすぐの"腕塚神社"。神社といってもお堂はごく小さい。木製の腕は地元の彫刻家の方が奉納されたもので、これで患部を撫でるとよくなるとか(境内においてあった「腕塚神社縁起」より)。東南に忠度塚と忠度公園もある。駅をはさんで北の丘陵にある人丸神社は柿本人麻呂を祀るが、境内に"盲杖桜"があり目の見えない人とのゆかりが深い。このへんからは明石海峡と行き交う船たちがよく見えます。
当たり前ですが京都とは全然景色��違っている。南が海、北が山。海を眺めていると友魚としてはこのへんまでは始めて来た場所であっても(見えなくても)"知ってる景色"なんだろうし逆に平家の人びとにとっては都を落ちて流浪の身になってしまったことを思い知らされる景色なんだろうなと思う。
どちらの腕塚も、いまも地元の人に愛されているのが伝わってくるたたずまい。腕塚が複数箇所にあるの、後世の人たちが"物語"を求めた結果だと思うのでそんな人間の営みが愛おしくなります。
草戸千軒町遺跡(広島県福山市)
直接の舞台ではないのですが、湯浅監督がふくやま草戸千軒ミュージアム(広島県立博物館)の街並み復元模型に言及されていたので。博物館では中世の人々の生活に関連する出土品を沢山見られる。本編で町の人たちが持ってて印象的な曲物の容器もいっぱい並んでる。
草戸千軒町遺跡は当時の海岸線で芦田川の河口付近にあった中世の港町。友魚と谷一さんも寄ったかな?と思っていたのですが、拠点的な大都市というわけではないようなのと、どうやら14世紀後半は一時的に町が衰退していたようなので寄ってないかもしれません。友魚が魚をほぐしているシーンはまだ広島らしいので(オーコメより。広島を2年もまったり旅していたのはちょっと謎)、このあたりかなと思っていたのですが、お金持ちがの人がいるのは尾道とか鞆とかかな。
遺跡現地は博物館から西南約2kmに位置。調査後に掘削されあとかたもありませんが、法音寺橋に説明板が設置されている。橋を渡って芦田川の右岸には草戸稲荷神社と明王院(常福寺)がある。明王院は本堂が1321年、五重塔が1348年に建てられたものなので、友魚たちが見たかもしれない建物がそのまま残っていることになる。明王院入り口付近の石垣にはひょうたん形の石が組み込まれている箇所があり(現地に説明板あり)、犬王ポイント高いように思います。
厳島神社(広島県廿日市市)
あれに見えるは厳島(ここでお社は映さないの超好き)。斎き島=神様をお祀りする島 として古くから信仰されてきた。1151年に安芸守となった平清盛は厳島神主家の佐伯氏と関係を深め、12世紀後半に海上の社を造営。その後何度か建て替えられているが、主要な建物の配置は基本的には変わっていないらしい。特に印象的な回廊は、現在のものは永禄~慶長年間(1558~1615)の再建。作中の回廊は、1241年に再建され、1537年に焼けたものにあたる。
干潮のタイミングで訪問したので、社殿が建ってるベースとの距離感がわかってよかった。友魚が落ちちゃっても自力で這い上がれそうな深さで安心(海の子なので心配には及ばないんだろうけど)。社殿が海に浮かんでいる姿が見られなかったのがかなり残念だけど、昼に干潮だと夜に満潮になる、という関係が理解できた。
大鳥居は改修中だったので足場が組んであり近くまで行けず。でも社殿の柱にもフジツボいっぱい付いてるのが確認できました。大鳥居も何回か建て替えられていて、現在のものは明治期の再建。1325年に2代目が倒壊してから1371年に3代目が建てられるまで空白期間があるので、友魚訪問時(1360年代後半くらい?)、実際には建ってなかったぽい。
���ゃもじって琵琶みたいな形だな~と思いながらお土産見てたのですが、弁財天の琵琶っぽい工芸品としてつくられるようになったんですね。知らなかった。
花岡八幡宮(山口県下松市)
境内に友魚が雨宿りしてた塔(閼伽井坊多宝塔)がある。多宝塔の建てられた時期、立て看板では「室町中期」となっているのですが、ガイドブックやウェブ上で「室町末期」説も見るのでど~いうこっちゃと思っていたのですが、建築様式からみて室町中~後期、解体修理で見つかった木片に永禄3年(1560)の墨書あり、ということのようです(下松市HPより)。また、お宮そのものも創建当初の鎮座地から1489年頃に現在地に動いているらしい。作中で描かれているのは実際よりも少し下った時期の姿になるのかなと思います。
多宝塔の実物は思っていたより小さい印象を受ける。というか、ここに友魚があの感じで座っているのを想像すると、まだだいぶこどもだな...?!と感じました。
旧山陽道に面した丘陵上に位置し、高いところにあるのでめちゃくちゃ石段を登る。現代人にとっては雨宿りにちょっと寄るレベルを越えてるので、参道入り口あたりでお寺の人が友魚に声をかけたのかもとか想像します。
壇ノ浦古戦場・赤間神宮ほか(山口県下関市)
鴨の河原と同様、壇ノ浦も始まりの場所であり終わりの場所。
壇ノ浦古戦場跡は関門大橋の下関側のふもとに「みもすそ川公園」として整備されている。ちょうどこのあたりに友魚の暮らしていた集落があったのかなと想像できる景色。作中では霧に包まれて対岸は描かれていないけど、九州側の門司がかなり近くに見える。この土地も"境界"ですね。
赤間神宮は壇ノ浦古戦場跡から南西1kmに位置。壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇を祀る。江戸時代までは阿弥陀寺で、明治の神仏分離により天皇社赤間宮へ。1940年に赤間神宮に改称。1958年につくられた水天門は「波の下にも都がございます」の竜宮城を地上に造りだす意図でデザインされている。
耳なし芳一の舞台でもあり、境内の片隅に芳一堂あり。宝物館ではいろんな種類の琵琶も見られる。境内に平家蟹の標本も置いてる。
生きてる平家蟹は市立しものせき水族館海響館で見られる。海響館ができるまえの旧下関市立水族館は長府にあったのだけど、敷地内に"鯨館"という鯨形の建物があった。現在は中には入れないけど外観は見られます。小さい頃訪れたことがあって、でっかい鯨!のイメージだったけど今回再訪したら思っていたより小さいな...となりました。場所は関見台公園。下関は近代捕鯨発祥の地とされ、鯨とゆかりが深い。たまたまかもしれませんがモチーフの重なりが面白いです。
旅してこの文章を書くことで、山陽道、というか瀬戸内の海辺が友魚の旅路であり作中作(腕塚、鯨、竜中将)の舞台でもあるという重なりをはっきり認識できたのでよかった。この作品の重層的につくられているところが大好きです。
文献(本文中で言及したものを除く)
小川國治編 2001『長州と萩街道』街道の日本史43 吉川弘文館
県立広島大学宮島学センター2020「宮島 大鳥居のひみつ」
広島県歴史散歩編集委員会編2009『広島県の歴史散歩』山川出版社
ふくやま草戸千軒ミュージアム2020『瀬戸内の交流 まちのにぎわい 人のつながり』
峰岸隆2015『日本の回廊、西洋の回廊』鹿島出版会
山口県歴史散歩編集委員会編2006『山口県の歴史散歩』山川出版社
山口佳巳2008「仁治度厳島神社廻廊の復元的研究」『国立歴史民俗博物館研究報告』第148集
頼祺一編 2006『広島・福山と山陽道』街道の日本史41 吉川弘文館
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ぶらり江の島さんぽ . 神社を参拝して稚児ケ淵から遊覧船で戻ろうと思っていましたが、強風で欠航 楽しみにしていた「富士山ドン!」も、スモッグがかかってしまい今日はおあずけでした 島内をくまなく歩き通したのでヘトヘト…でしたが、近年減った?といわれているネコちゃんに出会えたのでよかったよかった 疲れも一気に吹き飛びました(^^) . #江ノ島 #江の島 #江ノ島神社 #江島神社 #弁財天 #稚児ケ淵 #龍恋の鐘 #猫 #ねこ #藤沢 #湘南 #中海岸 #神奈川 #カメラ #写真 #写真好きな人と繋がりたい (江ノ島神社) https://www.instagram.com/p/BwRkwdEg0j4/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=tu4moz241lb6
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地魚4種刺盛と江ノ島ビール 民宿ゑじま 江ノ島にて 年に一度この時期に現状の報告とこれから先の事をお願いに行く江ノ島神社。 日本三大弁財天にもご挨拶。宮島には過去行ったのであとは琵琶湖の竹生島の弁財天におまいりできれば弁財天コンプだ。 その帰りに一杯の酒と肴で英気を養う。 この日は波が高く海がシケで生シラスは食べれず。そんなに遠くないしまた行くかな。 #江ノ島#江の島#ENOSHIMA#江ノ島神社#民宿#民宿ゑじま#魚#刺身#sashimi#beer#ビール#food#foodie#foodies#foodgasm#foodgram#foodphotography #foodporn#delicious#yummy#yum#tasty#gastronomy https://www.instagram.com/p/CCoGQTgAMQZ/?igshid=zgwxawpwv4w4
#江ノ島#江の島#enoshima#江ノ島神社#民宿#民宿ゑじま#魚#刺身#sashimi#beer#ビール#food#foodie#foodies#foodgasm#foodgram#foodphotography#foodporn#delicious#yummy#yum#tasty#gastronomy
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[2021/½]鎌倉初詣旅行。江島神社 辺津宮(へつみや)境内にある、八角堂の江ノ島弁財天。ネットで調べたら、弁財天は水の神様とされているらしい。デザインが鮮やかで綺麗。
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江の島弁財天仲見世通りを上から。 本日は(ってもう明けて昨日になりますが) プロカメラマンの友人が仕事で 鎌倉に来たので会って来ました。 写真のことなどお聞きしたり、 お互いの共通の趣味のロードバイクの話などを して楽しい時間を過ごしました。 📷α7c / Lens: FE 16-35mm F2.8 GM 🔗photo by 🔗 @i_love_photos.jun ----------------------------------------------- #湘南 #江ノ島 #江の島弁財天仲見世通り #enoshima #japan_daytime_view #japan_of_insta #lovers_nippon #lovers_shounan #ファインダー越しの私の世界 #写真好きな人と繋がりたい (Enoshima) https://www.instagram.com/p/CVDdXrIvbJ8/?utm_medium=tumblr
#湘南#江ノ島#江の島弁財天仲見世通り#enoshima#japan_daytime_view#japan_of_insta#lovers_nippon#lovers_shounan#ファインダー越しの私の世界#写真好きな人と繋がりたい
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土呂久鉱害事件に関する覚書
(2002年1月22日成稿)
土呂久鉱害事件に関する覚書
宮崎���高千穂町の土呂久鉱山における亜砒酸製造に伴う慢性砒素中毒症は、大正期から戦後に至る長期にわたって継続した鉱害であったにもかかわらず、被害地域が僻遠の山村であったため長らくその存在が知られず、鉱山の閉山から10年近くたってから地元の教師の告発によって実態が初めて認知された特異な公害である。慢性砒素中毒症が4大公害病に続く指定公害病でありながら、現在あまり顧みられることが少ないことも考慮し、本稿では土呂久鉱害の経過を追うことで、近代日本社会の「闇」の一端に切り込みたい。
(1)土呂久鉱山の成立(1920-1933) 宮崎県岩戸村(現・高千穂町)の土呂久鉱山は、貞享年間(1684-1687)に銀山としてスタートしたものの、近代に入ってからは事実上休山状態であった。しかし、1920年、当時佐伯近郊の木浦鉱山で亜砒酸製造を行っていた鉱山師の宮城正一が土呂久鉱山から亜砒鉄鉱を採掘し、土呂久で亜砒酸の精錬を開始したことで一変した。日本の亜砒酸生産は第1次世界大戦期にドイツに代わる形で急成長し、主にアメリカに輸出されて綿花栽培の害虫駆除剤の原料などに使われていた。ところで、宮城が港町で交通の利便な佐伯から山間の土呂久へ移ったのには理由があった。地方紙『佐伯新聞』1917年4月29日付に次のような記事がある。
「懸案となり居りし当町字灘鳥越にある亜砒酸製造所の煙毒問題は今回所主宮城正一が農民に対して損害賠償をなし且つ製造所を移転する事となり、兎も角も一段落を告げるに至った」
宮城は煙害により地元住民から補償と立ち退きを要求されていたのである。つまり宮城は佐伯を追われ、亜砒酸製造が甚大な鉱害をもたらすことを知りながら土呂久へ移転したのであった。
亜砒酸は昇華点の193℃を境にして固体から気体へ、気体から固体へ変化する。この性質を利用し、亜砒鉄鋼を焙焼して砒素分を亜砒酸ガスとして流出させ、ガスを昇華点以下の空間に導き固体に戻して亜砒酸の結晶を採取する。当時、亜砒酸生産量全国一の足尾銅山では、銅の精錬の際に煙に含まれる亜砒酸を��ットレル集塵器で回収する方法が採られていたが、土呂久にはそのような設備はなく、煙突に藁の覆いを被せるだけで���砒素を空気中に撒き散らし放題であった。そのた���早くも1923年には亜砒酸による農業被害が地元で問題にあった。5月に行われた土呂久の部落自治組織「和合会」総会は鉱山側に「完全ナル設備ヲナシ事業ヲナサレン事」を要求することを決した。これに対し、宮城に代わって経営者となっていた川田平三郎は、1ヵ月50円の「交付金」を和合会に支払うことに応じたが、その見返りとして鉱山へ操業に必要な材料を提供することを求めた。鉱山側は要求を逆手にとったのである。
その後鉱害は甚だしくなり、特に牛馬の奇病が相次いだ。1925年、和合会は岩戸村長の甲斐徳次郎に対策を要求し、甲斐は西臼杵郡畜産組合の獣医である池田実と鈴木日恵に奇病で死んだ牛の解剖と鉱害の調査を依頼した。4月7日、鈴木は警察官立ち会いのもと解剖を行い、「連続セル有害物ノ中毒ニアラサルヤノ疑ヲ深カラシムルモノナリ」との所見を示した。甲斐はこの牛の内臓を宮崎県警察部衛生課に持参し、鑑定を依頼したが、県側は解剖後に内蔵へ亜砒酸が混入した可能性を理由に鉱害を否定し、現地調査を行ったものの調査結果を隠蔽した。一方、池田は「岩戸村土呂久放牧場及土呂久亜砒酸鉱山ヲ見テ」と題する報告をまとめた。池田報告は当時の土呂久の実状を生々しく伝えている。
「二、三十年モ経過シタ植林ノ杉ガ萎縮シテ成長ガ止リ、或ハ枯死シテ赤葉味又竹林ハ殆ンド枯死シ」 「妙齢ノ婦女ノ声ハ塩枯声デ顔色如何ニモ蒼白デアル、久敷出稼デ居ル人ノ顔面ハ恰モ天刑病患者ノ様ニ浮腫」 「山川ノ水ハ清ク澄ミ渡ッテ居ルガ、川中ノ石ハ赤色ニ汚レテ、三年前迄居タ魚類ハ今ハ一尾モ見ヘヌ」 「今ハ椎茸ノ発生デ忙シカラネバナラヌノニ、何ノ果報カ、此地ノ重要物産デアル椎茸ノ原木ヲミレバ、椎茸一ツ見ヘヌ。土呂久名物ノ蜂蜜モ、今ハ穴巣ヲ止ムルノミ」 「小鳥類ガ畑ノ中ニ死ンデ落チテ居ル事ハ年中ノ事で、何時デモ死ンダ小鳥ヲ畑ノ中ヨリ拾ッテ見セル事ガ出来ル」
この池田報告は1972年に高千穂町史編纂室で発見されるまで封殺された。
鉱害が拡大・悪化するに従い、農業では生計を立てられなくなった人々は鉱山で働くようになった。しかし、亜砒酸による健康被害は鉱山労働者に最も顕著であり、皮膚の亜砒負け、色素沈着、黒皮症、角膜炎、結膜炎、喘息、気管支炎、肝硬変などの症状に見舞われた。健康悪化に耐えられずに鉱山を辞め帰農する人も少なくなかったが、農業被害は増大するばかりで生活できず、結局収入を得るために再び鉱山に戻らざるをえなかった。あるいは椎茸の生えなくなった木を木材として鉱山に売却したり、完全に農業ができなくなった土地を鉱山に売却するという例もあった。鉱害はむしろ鉱山の事業を拡大する動因になったのである。
また被害と加害の重層性も深刻であった。鉱山の地主であった佐藤喜右衛門は鉱山から地代を得るのみならず、自ら採掘を請け負い、地元住民を労働者として勧誘し、鉱害に苦しむ農民からは加害者として忌避された。しかし、一方で彼は鉱山のすぐ近くに住んでいたために砒素中毒症に罹り、1930年から32年の2年間に彼の一家7人のうち自身を含む5人が病死した。部落で鉱山から収益を受ける者が増えるに従い、鉱害反対の足並みは崩れていった。
(2)土呂久鉱山の展開と終焉(1933-1962) 大戦景気によって始動した亜砒酸製造は、戦後不況によって急速に不振になった。1926年にはアメリカの綿花不況のあおりで生産量が激減し、土呂久鉱山も生産中止・事業縮小に追い込まれた。一方、1930年代になると、航空機の材料の国産化をねらう中島飛行機が錫を求めて土呂久に目をつけた。1931年、中島門吉(中島知久平の弟)が一部の鉱業権を獲得し、33年には中島商事鉱山部が土呂久鉱山のすべての経営権を取得した(後に岩戸鉱山株式会社設立)。
中島は当初亜砒酸よりも錫を重視し、1936年に錫精錬の反射炉を建設したが、この反射炉は錫から分離された砒素分が煙とともに空気中に飛散するという杜撰な代物であった。翌年、和合会は反射炉の煙害防止を鉱山側に要求し、その結果遊煙タンクが作られたが、煙害対策とは名ばかりで、実際はこれを利用して亜砒酸の採取が行われたため、鉱害はむしろ悪化した。また、経営者が変わったことにより1923年の交付金契約は無効となり、中島が和合会に亜砒酸1箱精製につき12銭の補償金を支払う新契約が結ばれたが、旧契約に比べて被害者が受け取る金額は事実上半減し、しかも補償金の分配を巡り和合会内部で対立が発生した。さらに1937年の岩戸村会議員選挙で、中島側は鉱山の会計係長を出馬させ、鉱山労働者を買収した結果、中島系候補が当選し、和合会系の現職は落選した。明治以来、土呂久出身者が議席を失ったのは初めてであった。鉱山は地方自治をも破壊したのである。
中島傘下となって土呂久鉱山は拡大し、最盛期には約400人の労働者が働いた。特に1930年代末頃から亜砒酸は毒ガスの原料として需要が急増した。「黄二号」ことルイサイト、「赤一号」ことジフェニール・シアン・アルシンが亜砒酸を元に作られ中国戦線に送られた。深まる亜砒酸鉱害に対し、ついに1941年和合会は鉱山との契約破棄を決定した。福岡鉱山監督局は和合会に説明を求め、代表6名が福岡へ行き亜砒酸製造の中止を申請したが、監督局の担当者は「非常時には、部落のひとつやふたつつぶれても鉱山が残ればよい」と言い放ったという。結局1941年11月選鉱場の火災により土呂久鉱山は休山し、所有権も中島から国策会社へ移行した。
土呂久鉱山は戦後1948年、銅や鉛などの採掘を再開した。再び鉱業権を獲得した中島鉱山(旧岩戸鉱山)は亜砒酸製造の再開を計画した。和合会は再開反対を決議したが、宮崎県と岩戸村の斡旋により、1954年、鉱山から和合会への協力金支払を条件に改良焙焼炉建設に同意した。土呂久婦人会は岩戸村に抗議したが、村長伊木竹喜は「鉱山のおかげで、岩戸村には鉱産税がはいりよる」と取り合わなかったという。
鉱山がその後、1958年7月の坑内出水事故により一時休山を余儀なくされ、翌年には住友金属鉱山が中島を事実上買収したが、往時の活性を取り戻すことができず、1962年経営不振により閉山した。その間も鉱害は続き、1959年には和合会が高千穂町(岩戸村吸収)に亜砒酸製造施設の廃止を陳情した。しかし、ついに閉山まで鉱害はやむことがなかった。
(3)土呂久鉱害の告発(1970- ) 1970年、宮崎県高城町の四家鉱山で集中豪雨により鉱滓堆積場のダムが決壊し、砒素を含む鉱毒が河川へ流出するという事故が起き、宮崎県は急遽県内の休廃止鉱山の調査を行った。調査の結果、土呂久川から飲料水基準の2倍の砒素が検出された。同年12月、土呂久在住の佐藤鶴江は、岐阜のカドミウム汚染の報道を聞いて不安を抱き、宮崎地方法務局高千穂支局の人権相談に鉱毒被害を訴えた。支局は土呂久鉱山跡を調査し、彼女に鉱毒被害の事実申立書を発行したが、法務局は専門医による因果関係の証明がないことを理由に申立書を留置した。またしても行政によって鉱害は隠蔽されたのである。
一方、高千穂町立岩戸小学校教諭の斎藤正健は、妻が土呂久出身であったことから鉱害の事実を知り���同僚とともに土呂久全世帯を対象に鉱害調査を行った。斎藤らの調査は1971年11月、宮崎県教職員組合の教研集会で報告され、新聞報道により全国的に注目された。斎藤報告は、①1913-1971年に死亡した92名の平均寿命は39歳である、②土呂久全住民の34%が呼吸器をはじめ疾患に罹っている、③土呂久の児童の体位は劣っている上に眼病が目立つ、④スギの年輪は鉱山創業期に生長が阻害されている、という驚くべき内容であった。大正期以来の鉱害がこの時はじめて公表されたのである。
土呂久住民に不安が高まる中、宮崎県は県医師会に委託して住民の一斉健康診断を実施したが、慢性砒素中毒症に認定されたのは7名だけで、県の土呂久地区社会医学的専門委員会も健康被害と亜砒酸製造との関係性を「現在の知見では十分に説明ができない」と肯定しなかった。宮崎県知事黒木博は住友金属鉱山と認定患者に補償斡旋を提案し、1972年12月、両者間に補償協定が結ばれたが、住友の法的責任には一切触れず、補償金額は平均240万円にとどまり、しかも将来の請求権放棄を定めていた。県側は患者との交渉を外部との接触を絶った密室で行い、十分な説明をしないまま患者に調印を強要した。その後、黒木は新たな認定患者に対しても同じ内容の補償斡旋を5次にわたって続けた。しかも県は斡旋受諾者に対して公害健康被害補償法による給付を含む公的給付を中止するという「いやがらせ」まで行った。知事斡旋は補償額を抑制し、被害者の口を封じることがねらいであった。
1973年、環境庁は慢性砒素中毒症を第4の公害病に指定したが、認定要件を皮膚障害に限定し、内臓疾患を認めなかったため、多くの被害者が認定されなかった。一方でこの頃から県外の医師による自主検診が相次いだ。同年2月には名古屋大学医学部講師大橋邦和が、74年には太田武夫ら岡山大学医学部衛生学教室が、75年5月には熊本大学体質医学研究所の堀田宣之が住民への自主検診を行った。堀田は10月にも同僚の原田正純らとともに1週間にわたる大規模な自主検診を行った。これらの検診結果は環境庁の認定要件とは裏腹に、砒素中毒による障害が皮膚に限らず、呼吸器や循環器などの内臓にまで広がっていることを示していた。
1975年12月、5人の患者と1遺族が住友金属に損害賠償を求め宮崎地裁延岡支部に提訴した(第1次訴訟)。続く76年11月には第2次、77年12月には第3次、78年3月には第4次の訴訟が起こった。土呂久訴訟最大の問題は、1次的に賠償責任を有する鉱山師も中島鉱山もすでに存在せず、被告の住友が正式に鉱業権を得たのが閉山後の1967年で、住友自体は亜砒酸製造を行っていないことにあった。住友側は全面的に争い、訴訟は長期化し、高齢の原告が相次いで死亡していった。1984年3月に下された第1次訴訟の1審判決は「土呂久地区という山間の狭隘な一地域社会が、そのただ中ともいえる場所での本件鉱山操業により、大気、水、土壌のすべてにわたって砒素汚染され、本件被害者らはその中で居住、生活することにより、長期間にわたって四六時中間断なく、且つ経気道、経口、経皮、複合的に砒素曝露を受けたもので」あると土呂久鉱害を正確に認め、鉱業不実施を以って鉱業権者の賠償責任は免責されず、鉱業法115条の時効規定も適用されないことを理由に住友へ損害賠償を命じる画期的な内容であった。
しかし、この1審判決をピークに土呂久鉱害は急速に風化していった。既に1980年頃には被害者の支援組織「土呂久・松尾等鉱害の被害者を守る会」が財政難による活動停滞に陥っていた。また、支援運動の中心であった総評系労組が「反公害」から「反原発」へシフトしつつあり土呂久鉱害への関心は相対的に低下した。1979年、補償斡旋を続けた黒木が受託収賄容疑で逮捕され知事を辞職し、翌年、後継知事松形祐尭は公害認定を巡る行政不服審査で県が敗訴したのを機に被害者へ公式に謝罪したが、依然として知事斡旋受諾者への公健法給付を認めなかった。一方、訴訟は住友の控訴により続き、1988年の控訴審判決は住友の賠償責任を認めたものの、補償額から公健法給付を差し引くよう命じる後退したものだった。住友はさらに上告したため、原告弁護団はついに水面下の和解交渉を行った。原告の高齢化と最高裁の状況を踏まえた苦渋の判断であった。1990年10月最高裁で原告と被告の一括和解が成立したが、住友の法的責任には触れず、賠償義務を否定し、公健法給付とは別に「見舞金」総額4億6475万円(1審判決の仮執行金と同額)を支払うという内容だった。1審判決も控訴審判決も被告の法的責任を認定したにもかかわらず、原告は訴訟の長期化に耐えることができずに訴訟自体には敗北したといえよう。
(4)総括 土呂久鉱山は、日本経済の工業化が急速に進展した第1次世界大戦期に始まり、戦間期の停滞を挟んで、15年戦争期には新興財閥の手で重化学工業の一端を担わされ、そして高度経済成長の開始により終焉した。その歴史は終始日本資本主義の発展過程に強く制約されたと言えよう。故に土呂久鉱害事件は局地的な鉱害ではあるものの、鉱山の杜撰な鉱害対策、鉱山への抵抗と依存の間で揺れる地域社会、一貫して公害の存在を隠蔽し民衆の声を潰した行政、公害反対運動の党派的分裂等々、近代日本の鉱害の一般的特筆を余すところなく有している。そしてついに根本的解決には至らず、現在も土呂久の自然が回復していないことは、鉱害が過去の問題ではなく、依然として現在的問題であることを示していよう。
《引用・参照文献》 斎藤正健「土呂久公害の告発とその後���Ⅰ-Ⅲ 『歴史地理教育』211、212、214号 1973年 川原一之『口伝 亜砒焼き谷』岩波書店 1980年 川原一之「土呂久鉱毒史」『田中正造と足尾鉱毒事件研究』5号 1982年 土呂久を記録する会編『記録・土呂久』本多企画 1993年
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20220808
日記(蛇��まつわる何か)
知らんうちにもう8月だそうですわ。
残暑の厳しい地域と違って地元の夏は残りきっかり一ヶ月。
瞬きしてる間に終わるカゲロウ虫みたいな季節。
今年の初めには去年の続きで焼きもの作ったり内的に変化は起こしつつも大体同じような一年が続くんだろうなと思っていた。しかし蓋を開けてみれば私にしては賑やかな日々が続く。
三年ぶりの花火大会のために人生で初めて浴衣なんぞを買ったが、特筆すべきは下に着るグンゼの綿の肌着とステテコの夏の寝間着としての素晴らしさじゃ。これ着てこないだ新調したサーモント型の眼鏡をかけると新日本紀行で見るような昭和のおっちゃんが時空を超えて現出する。
そんで先日N先生と沼津港まで海鮮丼を食べに行きそのまま西伊豆くんだりまでフラフラと車で向かった。大瀬崎の先の井田海岸の集落を歩いていると前方に枯れかけの菖蒲の葉っぱかなんかが落ちている。
ズー…ズー…と音を立てて横切っていく物体。
近づいて見ると蛇だった。
西日に照らされるアオダイショウ。ニブ金に怪しく光る。
N先生は幼少のみぎりにご実家に居着いていた白蛇が玄関先に落ちてきて、驚いて踏み、誤って殺してしまったというのだが、彼女の商売の強さや桁が二つ多いような人気運はその白蛇が憑いているといった感じもしていて、そんな話が二人の間で共通認識としてあったこともあり神妙な気分となった。
少なくとも私は。
それは確か江ノ島の弁財天に漫画の連載が決まったN先生の画業の成功を祈願した時に話した気がする。蛇は弁財天の化身だ。
この井田集落へは展望台から井田松江(いたすんごう)古墳群という古墳時代後期(1,300年~1,400年前)の墳墓の脇の藪の山道を通って海岸まで下る。それもあってか妙に浮遊感を伴ってあの世とこの世の境界が曖昧になった感覚にさせた。
ここから先へ1分ほど歩くと緩くカーブした小道の脇に井田神社という趣のある小さな神社がある。
鳥居脇の看板に書かれたご由緒によると大己貴命(おおなむちのみこと・大国主神)を祀っているとのこと。
後から調べたところ大己貴命は蛇の神様であるとされるらしい。ナムチとは蛇のことを言う。出雲大社の御祭神であり、私の父方は尼子氏の宇山という家老筋にルーツがあり出雲に縁がある。
後日N先生に井田神社の神様のことを伝えると「まさかあの神社、蛇の神様じゃないよね…?」と思っていたという。古墳下の山道も足元に蛇が出そうでヒヤヒヤしていたらしい。
それに蛇を見たその日は7月最後の巳の日だった。
あくる日。
南アルプスの峻険・甲斐駒ヶ岳にまた登るかどうかをぼんやり考えながらTumblrのアプリで下書き状態のこの日記を読み返していると2年前に登った甲斐駒ヶ岳の日記のサムネがおすすめ?に出てきた。
・2020年7月4日の甲斐駒ケ岳の山行記
→ https://hokuto-yuasa-journal.tumblr.com/post/622718656361775104/20200704
甲斐駒といえばやたらに心惹かれた山で登ったらなんかしらで死ぬのではないか?とすら思っていた山である。結局登る身心の準備ができるまでに3年ほどかかったぐらい。
読み返した日記によると甲斐駒山頂の祠に祀られている御祭神も大己貴命(大国主神)とのこと。調べたら麓の尾白川渓谷にある竹宇駒ヶ岳神社も甲斐駒の里宮ということで同じく大己貴命を祀っている。
なんというかよくわからん想念の帰結としてこの感染症禍が終わったら出雲大社にお参りに行こうと思った次第に候。
ここまで書き再び日記をしばらく放っておいたのだが、件の花火大会が終わりN先生が浴衣を着替えるためにうちに寄った際、一週間ぶりにテレビをなんの気なしにつけた。
ダウンタウンの松っちゃんのスタジオでお酒を飲む番組がやっていて、EXILE?かなんかのメンバー(調べたら湘南乃風のSHOCKEYEという人)が巷でその人の写真を待ち受け画像にすると運気が上がると言われている話をしていたのだが、次の瞬間画面に映ったのはその人が白い蛇を抱いた写真だった。
私は思わず「白蛇ィッ!」と声をあげたのだがN先生はなんとなくピンと来てないような反応に見えた。その後も番組では先日R先生と三人で行った三峯神社が話題になったりしていてまた現実と想念の二つの輪郭が粒子となって少し混ざるような奇妙な感覚を私は覚えたのである。
思うにこの世はベクターではなくビットマップ方式。
考えてみればN先生とは偶然知り合ったのにも関わらずほぼ同じ出生体重、先天的な心臓の異常、共に数学がダメなど奇縁と言ってよいほど共通点が多い。ご実家の家紋は九曜紋で北斗七星、妙見信仰に関係があるという。使ってるカメラが同じだとか、予備校が同じみたいなしょぼい共通点も多い。
それにN先生といると瑞兆のような出来事に不思議とよく出くわす。
漫画家のR先生が遊びに来られた際は、ハロ現象という太陽の周りに虹が円を描いた直後、15m程先を飛んでいる虫を私が走って捕まえると綺麗なルリボシカミキリだった。変なことに視覚的にそれを認識した訳ではなく直感で「ルリボシカミキリだ!」と思��込んで追いかけたのだ。一見するとただの黒い物体が飛んでいるだけでクワガタかもしれないしカメムシだった可能性だってあるというのに。御器噛りチャンだったかもしれない。
んでそのあとでN先生は四葉のクローバーを見つけてR先生と私にそれぞれくれた。なんとなく縁起の良いものが立て続く。
少し前カケスの羽根が欲しいと思ったらその日の午後にカケスを丸ごと一羽拾った激嘘臭すぎる出来事があったが、本当のところをいえばN先生の誕生日にカケスの羽根のアクセサリーを作って差し上げようと思ったからだった。
・2022年5月25日のカケス事件の記録
→ https://hokuto-yuasa-journal.tumblr.com/post/685203651600515072/20220525
カケスを丸ごと拾ったのは私のある種の引きの強さか何かだと思っていたが、今となってはN先生の発する何かの影響ではないか?と思わないでもない。
それにN先生の姓が羽にまつわる苗字というのも私に一層不思議な感慨を抱かせたのである。
思えば最初の会話の糸口は登山に関してだったが、N先生が杓子山の麓の近くにお住まいで以前登った山は杓子山ぐらいだと当時おっしゃっていたような記憶があるんだが、シャクシとはミシャグジ、シャグジ、つまり諏訪でいう古層の蛇の神であってやはり蛇に縁ある人だと思ったのだ。
終わり。
つか調べたら今日も巳の日だ…と思ったら外はいきなりの夕立ち…。
しかも狐の嫁入りという。
なんかここんとこ変。
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