#手描きアーティストの祭典
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#002-CL
CL
17歳にして、K-POPシーンに降臨したレジェンド・グループ2NE1のフロントウーマンとして爆発的人気を獲得。2016年にソロ活動に乗り出し、2019年「People’s Choice Award」で“最もインスパイアされるアジア人女性”を受賞、本年はファッション界最大の祭典「MET GALA」にK-POP女性アーティストとして初参加。この冬、待望のソロデビュー作『ALPHA』でシーンへの帰還を果たした。
Instagram:@chaelincl
女王の帰還。アジアンディーバとして圧倒的プロップスを獲得するCLが、本年ついにカムバックを果たし、世界へ向け高らかにその存在を誇示した。VI/NYLでは、コロナ禍にあったこのビッグニュースを盛り上げるべく、リモータブルに独占フォトセッションを敢行。シーンへ凱旋帰還を果たした女王の、ここだけのスペシャルな撮り下ろしとインタビューを収録する。
世界にセンセーションを巻き起こしたK-POPムーブメントの中でも、ひときわ存在感を放っていたガールズユニット2NE1。“ガールクラッシュ”という言葉・定義が浸透する随分前、まだ女性に対する偏見やディスアドバンテージも残っていた2009年にデビューし、そのファッション性の高さやエッジの効いたサウンドメイクで、韓国や日本はもちろんアメリカからヨーロッパまで、インターナショナルなスケールでフリークスを拡大していた。 制服で均一に整えられたかわいらしさや、過剰にボディコンなセクシーさでもなく、あくまで、いちアーティストとして権利拡大を主張するその姿勢は、ことアジアにおいては特に稀有な出来事だった。そのレジェンド的存在である2NE1の��ーダーがCLだ。2016年のグループ解散後、アメリカに渡りソロとしての活動をスタート。水面下で着実にスキルアップと制作を重ね、2019年にはミニアルバム『In The Name Of Love』をリリース、 2020年には独立レーベル「Very Cherry」を発表し本格的な再始動を予感させた。そして2021年夏、満を持して『ALPHA』プロジェクトを投下、この冬自身初のソロアルバムをついに完成させた。 2NE1としてのデビュー2年前(2007年)にソロデビューを果たしていたCLは、ここまで実にキャリア13年。タフでインディペンデントな象徴として君臨した彼女が、初となるソロアルバム『ALPHA』の完成をどう捉えているのか、心境を語ってくれた。 「自分の様々なパフォーマンス、全てのクリエイティブ、映像に触れてくれた人たちに私が思い描く通りのインスピレーションを伝えたい。今はただそのことに全力を注ぎ込んでいます。父はいつも「大きなことのために小さな一歩、小さなことのために大きな夢を持たなければならない」と言ってくれました。今はこの『ALPHA』の完成について、そんな風にフォーカスしています」
完成の喜びを真摯に喜びつつもふつふつとたぎらせる想い、さらなる境地へと邁進せんとする強い意志。一世を風靡しながらも、決して楽な道のりではなかったであろうここまでの13年間は、様々な変化を繰り返した年月だったのではないか。 「私たちはみんな変わる。みんな成長していく。変化という言葉が正しいかわからないけれど、私たちは経験から学び間違いなく成長していく。そう、この13年間、私も変化し成長してきました……もしそうじゃなかったら困っちゃいますね。さらに大きな視点や別の観点から振り返ると、本当に変化だらけでした。2NE1からソロになって、K-POPだけの世界からツアーで世界中を飛び回るようになり、新しい人と出会い、音楽だけでなくファッションも一緒に作り上げていくようになったり、そんな様々なレイヤーが折り重なってる。そして今ようやく、私は独立したアーティストとして、自分のレーベルからファーストアルバムを出しています。これこそが最も大きな変化です」 先行して公開された「SPICY」では、気鋭プロデューサーBaauerとSokodomoによるハイパーポップ×トラップのような激しいサウンドに、自身を刺激的なソースに例えた緩急自在なフロウとセルフボースティングで、改めて自らのアイデンティティーを高らかに示した。本人役で出演した『マルコヴィッチの穴』や『二十日鼠と人間』でも知られる演技派・ベテランハリウッド俳優John Malkovichが、冒頭のモノローグで参加したのも話題に。 「彼は私にとって多くの意味を持つ人。メンターという表現が適切かわからないけど、私にとって彼はただただJohn Malkovichという存在。彼の共有してくれる話は共感することが多く、学ぶこともたくさんあり、とても気に入っています。私がアメリカに一人で滞在するときは、いつも面倒をみてくれるんです。彼のファミリーも歓迎してくれるし、とても親しくさせてもらっています。本当にありがたいし恵まれていることですよね」 同曲は「THE BADDEST FEMALE」「Hello Bitches」などの系譜を継ぐ、女性であることやアジアンであること、コリアンであること、偏見にさらされることもあったであろう自身のアイデンティティを、その代表として堂々と歌い上げる真骨頂のような楽曲。 「「The Baddest Female」から「Hello Bitches」へ辿り着く過程、これはGZBのアンセム(女性賛歌)なの。常に私はGZBとして代表であり続ける。それは自分が常にCLであるということ。「Hello Bitches」のセカンドバースには文化的なエッセンスがたくさん溶け込んでいたけれど、新作の「SPICY」では、さらにたくましく、強いアジア人女性像が色濃く表現されています。そうしたエレメントが私を進化させ、より溶け込ませていくんです(※GZBは韓国語の発音の英語表記で女性の意。ひいてはCL自身のアイデンティティーを指している)。自分に誇りを持ち、自分を受け入れ、そして良いお手本になれたらと。自分自身のことやライフストーリーを音楽にして伝える。当然ながら韓国人女性として表現しています」
一方、昨年時点でリリースしていた「HWA」では、韓国では馴染み深い“ムクゲノ花が咲きました”というフレーズを引用。全米で戦う上で、改めてコリアンとしてのプライドも強く誇示。(※ムクゲノ花が咲きました=日本の“だるまさんがころんだ”) 「これが私のファーストソングであり、アーティストとして独立した時のファーストシングルでした。「In The Name of Love」プロジェクト後、インディペンデントアーティストとして自分を紹介するための曲にしたかったんです。この曲にはたくさんのレイヤーがあるけど、端的に言えば「Everyone freeze!! I'm back!!」てこと。そして韓国の伝統的な遊びを世界中に紹介したいと思い、この曲に「ムクゲノ花が咲きました」を取り入れました。内容的には「Don't try me!!」 (逆説的な挑発/自分がイケているということの誇示)」 正直ミュージシャン、アーティストのみならず、他のジャンルを見ても、ここまでアジア人女性としてガールズエンパワーメントを貫く存在はいないのではないか、と思う反面、その重責にさいなまれてしまうのではないかという杞憂さえ浮かんでしまう。 「責任は感じないようにしています。それよりもっとお互いを高め合えるような……そういう感じになれたらと。みんなにそう伝わってくれるなら、私にとってのエネルギーとモチベーションになります。そうですね、なんていうか私だけがやっているのではなく、一緒に刺激し合えたらと思いますね」 とっくに達観した境地に辿り着いていて、その覚悟さえもポジティブなバイブスに満ちている。なんて頼もしいんだ。その音楽性の発露はどこから生まれてくるのか。 「私が伝えたいストーリーやメッセージから始まります。多くの場合、普段の生活やフェーズを通過する過程の中における自分との対話の中から生まれます。自分自身に向き合い恐れに立ち向かう。それこそがフェーズ。『ALPHA』はまさに、それらのストーリーやメッセージが内在する問題を克服することがテーマです」 ヒップホップ、アジアン、フィメール、そしてエンタメ。そうしたカテゴリーでの可能性全ての希望となり得る新たなリーダーとも言えるのではないか。でも決して強いだけではない、内包された儚い人間味の部分にも多くの共感が集まるのだ。
「私はパワフルな楽曲を歌うけれど、それだけが自分の持ち味ではないんです。もちろん色んな側面があります。「SPICY」が“私”の唯一のキャラクターではなく、『ALPHA』にもアーティストとしての“CL”がいます。今では、このCLと素顔のChaelinが上手くバランスを取っています。もちろんメディアに映し出されることは様々ですが、そういうものと戦わずしてバランスを取る方法を見つけたんです」 生身の自分自身も尊重しながら、アーティストとしての女王CLとしての強さもしなやかに併せ持つ。理想と現実のギャップに葛藤するのではなく、どう立ち向かい乗り越えるのか。CLはそれを示してくれている。 「人は誰しもそう(ギャップに葛藤する)だと思います。『ALPHA』は実際そういうテーマで、恐れることに直面したとき、どうやって克服するかをテーマにしています。恐怖を乗り越えるために経験した色々な感情についての私自身のストーリー。恐怖を感じ向き合うことから始まる。誰にでもそういう時はあるし、そこからどうやって克服し、何を生み出すかが重要なの。『ALPHA』はそのためのもの。このアルバムが、その感情を乗り越えるきっかけになれば嬉しいです。今、CLとChaelinは同じくらいの時間を過ごしてきました。ようやくバランスを見つけることができたんです」
Q 音楽を始めたきっかけは? A ダンスがきっかけです。ダンスが好きで、自然と音楽を聴くようになりました。一緒に歌った��踊ったり。つまりダンスから始まった��いうことですね。
Q 幼い頃の自分にアドバイスするなら? A 特にアドバイスはないけど自分を信じて、ただ生きていく!
Q 音楽がなければ何をしていたと思いますか? A 考えたこともないですね。もし音楽以外でやりたいことがあれば間違いなくやっていたと思います(笑)
Q 制作のインスピレーションはどこから受けていますか? A 映像的な意味でいえば、パフォーミングがすごく重要な要素です。映像や舞台の演出を考えるときは、自分の姿をイメージしてパフォーミングやダンスを構成し、そこにファッションや他のビジュアルなどを加えていきます。
Q イライラしているとき、余裕がないときはどう解消する? A まず、そういう経験をするのは当たり前だと自分に言い聞かせます。あとは体を鍛える! 走ったり、エクササイズしたり、踊ったり。そういう日は体を動かすのが好きです。
Q 最近ハマっているものは? A 正直なところ、今は時間がなくてそういうことからはかなり遠ざかってしまっています……。
Q 今年買ったお気に入りの物は?(日用品、家���なんでもOK) A 実は、新しいシーズンに入ると新しい下着を買うのが大好きなんです。
Q 最近ハマっているアーティストは? A 自分自身!
Q 初めて購入した曲(アーティスト)は? A Lauryn Hill
PHOTOGRAPHY : NICK WALKER† STYLING : ALESSANDRO FRANCALANCI† HAIR : SAMI KNIQHT† MAKEUP : SANG JEON TEXT : SADANORI UTSUNOMIYA
*This interview was conducted on VI/NYL #002, which published on Dec.30th, 2021.
*All photos are courtesy of the artists.
■VI/NYL
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2021.1.31sun_kyoto
2021年1月31日- Pastorale
ここ数ヶ月、私の週末の朝はレオポルド・ストコフスキー指揮によるフィラデルフィアオーケストラ演奏の、バッハ『トッカータとフーガ ニ短調』と共に始まる。 去年の10月に1歳を迎えた小さいヒトが祖母から貰った『ファンタジア』のDVDを再生しろとせっつくからである。彼女の父親も小さいころ好きだったという映画の版権が切れて、ホームセンターで98円で売っていた、と喜んで送ってくれたものである。同時に『ダンボ』と『バンビ』も送ってくれたのだが、小さいヒトはこの二つには全く興味が無い。
ちなみに、我が家は”ネズミ”は立ち入り禁止であった。なぜなら、彼らの繁殖能力たるや凄まじいものであることを知っているからである。 我が子がディズニーランドへ行きたい、などと決して言わないように育てようとさえ覚悟しており、100均にまで溢れる水素記号め、と目の仇どころか目に入れない存在が、いとも簡単に我が家に入り込んできたのだ。義母��感謝しつつも、なんというものを...と思いながらしかし、『ファンタジア』はちゃんと観たことがなかったなと、DVDを再生して言葉を失った。それどころかバッハによる一曲目の、トッカータからフーガに入るころには描かれている抽象世界に感極まり、チャイコフスキーの『バレエ組曲《くるみ割り人形》より《花のワルツ》』では繰り出される四季の美しさに涙が流れるほど感動したのだ。なんということだろうか。私は人間の創造、想像力についてここまで驚いたことがなかったかもしれない、とさえ思ったのだ。
作品はその後、デュカスのゲーテ作品に作曲した『魔法使いの弟子』へと続き、未熟な弟子を演じるミッキーマウスが登場。途中ミッキーと指揮者ストコフスキーが共演したかと思えば、ストラヴィンスキーの『《春の祭典》より』では��大な天地創造が描かれる。ここで長い地球の歴史に少し集中が途切れそうになりつつも、デームス・ティラーの決して子供向けではない作品の解説に誘われる。ベートーヴェンの『交響曲第6 ヘ長調《田園》より』で半裸半獣のギリシャの神々がフワフワと踊り狂い、続くポンキェルリの『時の踊り』においては、現世では永遠にバレリーナになどなれなかったであろうダチョウとカバが爪先立ちで陽気に舞う。ここには小さいヒトが必ず笑うシーンがある。そして最後はムソルグスキーの『禿山の一夜』、シューベルトの『アヴェ・マリア』で静かに幕を閉じるのだ...ウォルト・ディズニーの世界に対する印象を完全にひっくり返した作品であった。
この2時間ちょっとの作品を、朝から小さいヒトのリクエストにより、何度も何度もループして観ている。これまでに何百回観ただろうか。彼女はこの作品をジッと画面の前で観ているわけではなく、指揮者ストコフスキーになりきり曲の盛り上がりと共に両手を大きく振り上げ、足を踏み鳴らし、映像に効果音を口でつけながら観ている。他のモノへの集中力が5分と持たないのに、この作品に対する情熱は、母が初めてこの映像を観て涙を流してしまった理由と同様、産まれてまだ一年と少しの人にも伝わる、根源的な人間の創造力への魅了なのだろう。『バンビ』と『ダンボ』に興味が無い理由もそこかもしれない。この二つの作品は映像と共に”言葉”が作品をリードするからだ。『ファンタジア』は”音楽”が中心で、描かれる映像の殆どが楽器から放たれた音色が吹き出すかのごとく自由に動き回る抽象世界であり、小さいヒトが特に反応するのは音が表す何か、の部分だからである。
などと、小さいヒトに付き合い潰れゆく休日の”私の時間”を、なんとか”意味ある時間”にしようとループされる映像を観ながら頭の中を巡った言葉たちがこれである。 産後、生命を維持すること以上に大きな刺激を感じられないなか、小さい生物に振り回されてガラガラ���自分の時間が潰れると思う中にも、偏向した趣味と生活に”子ども”という異物が持ち込む更なる異物が、新しい扉を開いて枝葉をつけてくれているかもしれない、と前向きになる1月最後の日曜の夜。
そんな小さいヒトと格闘しながら作った今日のおやつ。椿の練り切り なんだかんだ言っても1日を生きたという、結局は目に見える成果物が欲しい残念な性分なのだ。
-プロフィール- 髙才ゆき 62歳、の私に読んで欲しい 京都 アート・メディエーター 学芸員、アートマネージメントを経て、京都を中心にアーティストのためのスタジオ兼住居を提供する仕事をしています。
@snowmelts
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劇評など critic
作品をめぐるこれまでのテキスト ※敬称略 ※所属や肩書きは執筆当時のもの
カトリヒデトシ(2010) 平山富康(2010) 亀田恵子(2010) Marianne Bevand(2011) 間瀬幸江(2011) 唐津絵理(2011) 金山古都美(2012) 島貴之(2012)
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カトリヒデトシ(エム・マッティーナ 主宰 舞台芸術批評)
「なぜ日本人がチェホフをやるのか?」と問うのは、かなりダサい。
今までの蓄積に付け加える、新しい文脈・意味を発見し提示するのだという優等生的な答えは間違っていると思っている。それでは、ヨーロッパ文化をきちんと学んだという模範解答になり、単なるレポートになってしまうだろう。
古典を何度でも取り上げることは、芸術の目指す「絶対的有」への敬虔な奉仕である。「有りて在るもの」への畏怖の気持ちは洋の東西といったものは関係ない。芸術へひざまづき、頭をたれることは、芸術家の基本的な資質であるし、それこそが歴史や文化的差異を超えようとする意思の現れにつながっていく。現代から古典を読み直し、古典から現在を照らすことにこそ、古典に取り組む大きな意味がある。
また、孔子は論語で「子は怪力乱神を語らず」といった。これは軽々しくそれについて語ってはならないと理解するべきで、超常現象にインテリは関わらないということではない。芸術は人間を超えた存在、「不可知な存在」を認知することが第一歩であろうから。
第七の演劇には、不可知が全体を包みこもうとする力。またそれに触れた人間の、根源的な「生」への畏怖がよく現れている。
それらの二点で第七劇場は大切な存在だとおもっている。 たとえば、今回の「かもめ」はチェホフの本質に迫ろうとする試みである。
ダメな人間がダメなことしかしないで、どんどんダメになっていってしまうのがチェホフ世界の典型である。そこには没落していく帝政時代の裕福な階級を描き続けた、彼の本質が現れている。
それはチェホフには、たれもが時代に「とり残されていく」、乗り遅れていく存在であるという認識があるからである。つまり、「いつも間に合わないこと」こそが人の本質なのだという考えである。
取り残されていくことは悲しい。何も変わらなければ既得権を維持できるものを、時代の変化によって、何もかもが「今まで通り」ではいかなくなる。チェホフはそれを、「われわれは絶えず間に合わず、遅れていく存在なのだ」と確信にみちて描く。苦い認識である。
人間はいつでも誰でも、既にできあがった世界の中に生み落とされる。誰もがすべてのものが現前している中にやってくる。個々人は、養育や教育によって適応をうながされるだけである。人は限りない可塑性をもって生まれるが、時代や地域や環境によって、むしろ何にでも成り得たはずの可能性をどんどん削ぎ落とされていく。
現在���はすたれてしまったが、日本には古代から連綿と続いた信仰に「御霊」というものがある。人は死んだ際に、現世に怨みを残して死ぬと、祟るものだという信仰である。「御霊」は、残った人たちに、天災を起こしたり、疫病を流行らせたりする。やがて人々は天災疫病が起こった時に、誰の「祟り」であろうと考えるようになる。それを畏れるために死んだものの魂が荒ぶらないように崇め拝めるようになっていく。人々に拝まれ、畏怖されるうちに、荒ぶった魂は落ち着いていき、「神」として今度は人々を護る存在へと変わっていく。だから「御霊」はおそろしいものであるだけではない。
「荒ぶる魂」を、第七は「かもめ」の登場人物たちの「遅れ」「取り残されていく」姿の絶望の結果に見る。舞台はその絶望からの荒ぶりに共振し、増幅し、畏怖を現す。
チェホフの持っていた、人に対する「諦観」を大きな包容力で抱え込んこんだ上に、零落していくことへの激しい動揺を、魂の「荒ぶり」として表現する。それは現在の私たちでは到底もち得ない、激しい「生」の身悶えである。
その方法として舞台に遠近法が援用される。 奥行き作り出すことによって、「位相=層=レイヤー」が作りだされる。 後景の美しいオブジェは遥かに遠い「自然」の層で、あたかも人の世を見つめ続ける「永遠」や「普遍」を感じさせる。そして中景は「六号室」のドールンのいる老練の世界、経験に基づいて生きる老人の世界である。患者たちは遊戯する体を持ち、永遠の世界を希求する。その三層を背負って、最前景で「かもめ」の世界が現れる。かれらは都会と田舎、人と人の現世の距離によって引き裂かれていき、苦しみ世界を生きるものとして描かれるのだ。
そう、日本人「にも」チェホフが描けるのではない。 日本人「にしか」描けないチェホフがあるのである。
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平山富康(財団法人 名古屋市文化振興事業団 名古屋市千種文化小劇場 館長)
遡って2010年2月、名古屋市の千種文化小劇場で企画実施した演劇事業『千種セレクション』(同劇場の特徴的な“円形舞台”を充分に活用できそうな演出家・団体を集めた演劇祭)で、第七劇場の『かもめ』は上演されました。企画の立ち上がった頃には、第七劇場は『新装 四谷怪談』の名古屋公演を既に果たしていて、その空間演出力が注目されていた事から企画の趣旨に最適でした。参加団体は4つ、持ち時間は各60分。それぞれ会話劇・現代劇の再構成・半私小説的創作劇とラインナップが決まる中、第七劇場のプレゼンは“チェーホフの『かもめ』を始めとする幾つかの作品”との事…たったの60分で。一体、どんな手法で時間と空間の制約に収めるつもりなのか。当惑をよそに第七劇場が舞台に作ったのは、さしずめ「白い画布」でした。舞台は一面、真っ白なリノリウムが敷かれ、無骨な机や椅子との対照が、銅版画のように鋭利な空間を立ち上げていました。舞台と同じく白い衣装をまとった俳優(彼女らは『六号室』の患者たち)は静謐な余白のようです。が、幕が開いて、彼女らが見せる不安な彷徨と激した叫びが「鋭利な銅版画」の印象をより強めていきます。この画布が変化を見せるのは、チェーホフの他作品の人物たちが続々と舞台に位置を占めていく時でした。彼らは暗い色の衣装をまとって、これまでの描線とは異なる雰囲気です。こうして、既にある版画の上から幾人もの画家が新たな絵画を描くように芝居は進みました。幾つもの物語の人物が、互いの世界を触れあわせていく現場。彼らが発する言葉と声、静と動が入り混じる身体の動きは、新たな画材でした。時に水墨画、木炭、無機質なフェルトペン。余白を塗り込めたと思えば余白にはねのけられる「常に固定されない描画」のようにスリリングな作劇が、観客の前でリアルタイムに展開されたのです。終演後のアンケートでは“視覚的に美しい贅沢な構成” “話を追いそこねても目が離せなかった” “世界がつくられていく感覚” “難しい様で実はわかりやすい”と、中には観劇の枠に留まらない感想も多々あり、第七劇場が『千種セレクション』で残したのは、限られた空間で無限に絵画を描く様な演劇の可能性だった…というのが当時の記憶です。名古屋市の小劇場で室内実験のように生まれたその作品が、再び三重県で展開され、これから皆さまはどのように記憶されるか。非常に楽しみです。
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亀田恵子(Arts&Theatre Literacy)
第七劇場の『かもめ』を見終わったあと、どうしようもなく胸高鳴る自分がいた。新しい表現の領域を見つけてしまったという心密かな喜びと、その現場に居合わせることの出来た幸運に震えた。彼らの『かもめ』は演劇作品に違いなかったが、別の何かだとも感じた。「ライブ・インスタレーション」という言葉がピタリと腹に落ちた。「インスタレーション」とは、主に現代美術の領域で用いられる言葉で、作家の意図によって空間を構成・変化させながら場所や空間全体を作品として観客に体験させる方法だ。元々パフォーミング・アーツの演出方法を巡る試行錯誤の中から独立した経緯があるというから、演劇との親和性は高いのだろう。しかし、すべての演劇作品が「インスタレーション」を感じさえるか���いえばそうではない。
舞台を��方から客席が取り囲む独自な構造を持つ千種文化小劇場・通称“ちくさ座”(名古屋市)。この舞台に置かれていたのは白い天板の長テーブルが1つに、黒いイスが数客。天井からは白いブランコが1つと、羽を広げた“かもめ”のオブジェが吊られており、床は八角形状に白いパネルが敷き詰められていた。役者たちの衣装もモノトーンやベージュといった大人っぽい配色でまとめられ、全体としてスタイリッシュな印象だ。舞台セットの影響なのか、作品中のセリフでは、チェーホフの『六号室』や『ともしび』といった他の作品の一部も引用され、人間の生々しい欲望や絶望を色濃く孕むセリフが続くが、不思議と重苦しさに傾くことがない。むしろチェーホフの描く狂気や人生における悲しいズレが、役者の身体と現実の時間を手に入れ、終末に向かって疾走する快感へと変容していく。役者たちの独自の強い身体性が、無機質な空間の中で描く軌跡は、従来の演劇の魅力だけでは説明が難しい絶妙なバランスを生み出しているのだ。
第七劇場の『かもめ』は、演劇の枠だけで完結しなければ「インスタレーション」作品として押し黙っている存在でもない。戯曲に閉じ込められた時間を劇場という空間に新たにインストールし、生きた役者の身体によって再生する。それは観客との間に「今、この瞬間」を共有する「ライブ・インスタレーション」として新たな領域を創造する行為に他ならない。
「インスタレーション」は、観客の体験(見たり、聞いたり、感じたり、考えたり)する方法をどう変化させるかが肝らしい。この作品は優れた演劇作品であると同時に「インスタレーションの肝」そのものではないかと思うのである。
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Marianne Bevand(フランス・舞台芸術プロデューサー)
2011年3月、パリで第七劇場の『かもめ』を観たとき、このよく知られたチェーホフの戯曲において何が問題となっているかを、はじめてよく理解できた機会だった。『かもめ』は昨年にあまり成功していないと感じるいくつかの演出版しか観ていなかったが、私の心を奪ったこのロシア演劇の日本人演出を私はたまたま観る機会を得た。
私は演出・鳴海康平の力量に感動した。深く人間性を表現できる俳優への的確な演出があり、とても美しいシーンを舞台上に構成していた。このすばらしいパフォーマンスの中で、私はある種の普遍性を感じた。私の演劇に関する感覚的な願いが実現するためには、この日本の第七劇場を待たなければならなかった。チェーホフ戯曲の人物を演じながら、偉大なる悲劇だけに可能な想像空間のひとつへと、私を連れ去ることに俳優たちは成功していた。この芝居の最初から私は現実の世界から引き離され、登場人物が衝動や欲求や悲しみによってつき動かされることに目を見張った。それは『かもめ』の中心となる感情である。
素晴らしい身体的なパフォーマンスを通して、俳優たちはコンテンポ��リーダンスを想起させる一連のムーヴメントを創り、ときに印象的な間の中で静止する。手をあげる彼女たちは、まるで空を飛びその状況から逃げ出したしたいかのようである。しかし、閉じこめられているかのように最終的には彼女たちは地上に留まる。自由への抵抗の中で、もしくは自由が欠けた結果として、白い服を着た3人の女性の登場人物(訳者注:患者2人とニーナの3人)は、狂気の中へ落ちていくように見える。彼女たちは動きが速く、それは視覚的には、黒い服を着た他の人物たちの緩慢な動きと対照的である。舞台の中央から端へとぐるぐると回る彼女たちを見て、彼女たちは自分たちが生きている規定された世界を象徴するある種の領域を爆破したいかのようなイメージが私の心に浮かんだ。黒い服を着た人物たちは、外部の者に自分の居場所を思い出させる支配社会の象徴を思わせる。
このことは私に、チェーホフがこの作品でいかにアーティストが社会の外側に位置し、つらい時代を生きていたかを明らかにすることで当時のアーティスト状況の描写を試みたことを思い出させる。かもめにおいて、3人の女性の人物たちは、ある異なる精神状態の中で、��して目まぐるしい時空の中で彼らがいかに必死に生きるか、また彼女たちがいつもいかに社会の爪に捕えられているかを現している。
この芝居の終わりに私は自問した。「もしあなたが他の誰かとは異なるふるまいをするなら、あなたは気が狂っているとみなされるのだろうか?」いずれにせよ、第七劇場のパフォーマンスが国境を越えて、いくつかの問いを私に起こしたことは確かである。
この美しく芸術的な作品とともに第七劇場が受けるにふさわしい大きな成功を果たすことを、そしてあらゆる世界を横断し、さらに多くの観客の目と心を開くことを、私は願っている。
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間瀬幸江(早稲田大学 文学学術院 助教)
チェーホフは世界を面や立体としてとらえていた。人物という点や、人間関係という線は、それじたい基幹的ではあるにせよ、作品世界全体の構成要素のひとつでしかない。作品世界のこの広がりから何を「切り出す」のかが、舞台づくりの鍵を握る。
今回、第七劇場の「かもめ」(シアタートラム、9月8日~11日 構成・演出・美術:鳴海康平)で中心的主題として切り出されたのは、トレープレフがニーナに演じさせる劇中劇「人も、動物も…」の部分である。母親のアルカージナに「デカダン」と嘲笑され、当の演者であるニーナにも「よく分からない」と距離を置かれてしまうこの一人芝居の内容は、人間がいかに「やさしく」接しようともいずれ寿命を迎えて消滅することが決まっている地球という惑星の命の時間から考えれば、まったき現実である。その「現実」が、舞台奥中央の老木のオブジェによって密やかに具象される。活人画を思わせるこのオブジェは、開場とともに舞台に姿を見せる、ニーナを思わせる4人の女たちの狂気を孕む無造作な動きはもちろんのこと、見やすい席の確保を願うささやかな「姑息さ」を抱えつつ舞台上の彼女たちを横目で眺める観客たちの動きも、暗がりから見つめ続けている。そして本編が始まり、いつからかそこに照明があてられ、雪のようなものがしんしんと降りだすころ、前景では「かもめ」のいくつかのシークエンスが狂乱的リズムで反復運動を始める。母親にも恋人にも振り向いてもらえずに絶望する青年の物語にせよ、成功という幻想にからめとられたまま一歩も進めない女の物語にせよ、息子を愛しながらその愛を届けることに不器用な母親の物語にせよ、ツルゲーネフには勝てないと感じる自意識の牢獄から逃れることのできない小説家の物語にせよ、個別の物語が抱え込む不毛な反復のエネルギーから発せられる絶叫は、しんしんと降り積もる雪の世界に消えていくしかない。トレープレフは、チェーホフの作った物語のとおり、最後にはピストルの引き金を引く。発射音は聞こえない。しかしそれは、弾丸が発せられなかったからではない。観客は、朽木に降り積もる雪の世界から、トレープレフの自殺や、ニーナの破滅を眺めている。人も動物もヒトデも消えうせた孤独な世界に、ピストル音が届くのは、何万光年も先なのだ。
2011年の日本で、「終わり」というブラックホールを概念としてではなく実体としてほんの一瞬でも覗き見てしまった私たちにとって、朽木の住まう冷えきった世界は、もはや象徴主義の産物ではなくなってしまった。しかし、この終末感を100年前にこの世を去ったチェーホフがすでに言いきっていたことにこそ、私たちはかすかな希望をみるのである。「三人姉妹」を演出したマチアス・ランゴフは、「私たちはチェーホフのずっと後ろを歩いているのです」と言った。それから20年が経過した今なお、チェーホフは私たちの少し前を歩いていて、たまにふと振り返りいささか悲しげに微笑んでみせるのである。鳴海康平は、劇中劇を「切り出す」ことで、無数の点と線とが錯綜して作られる立体的な時空間の表出に成功した。その数多の点や線を大事に拾い出しながらもう一度観てみたかったとの感慨を抱きつつ、9月11日のシアタートラムを後にした。演技者たちの凛とした佇まいも素晴らしかった。
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唐津絵理(愛知芸術文化センター シニアディレクター)
私たちの深層心理に迫りくる懐かしさの気配、演劇を超えて広がる舞台芸術への希求、それが第七劇場『かもめ』初見の印象だった。
白のリノリウムが敷かれ、白紗幕が下がった劇場は、ブラックボックスでありながらも、ホワイトキューブ的展示室をも想像させる洗練された空間。そこにあるのは、白い長テーブルと幾つかの黒い椅子、天井から吊られた真っ白のブランコやかもめのオブジェ、そして座ったり蹲ったりしている俳優たちの身体だ。白い空間にじっと佇む身体は、彫刻作品のようでもある。上演中も俳優たちは役柄を演じるというより、配役のないコロス的身体性を表出させている。身体の匿名性は、観客自身が自らの身体の記憶と結び付けるための回路を作り出す。それは抽象度の高いダンスパフォーマンスと通ずる身体。前半は僅かに歩いたり、ゆすったりしていた身体が、後半になるにつれて、走ったり、体を払ったり、震わせたりと、より激しく痙攣的になっていく。演劇的マイム性とは一線を画したこれらの身振りが、絶望的に重苦しく表現主義的になりがちなロシアの物語を今日の日本に切り開いていると言ってもよいかもしれない。
怒涛のラストシーンまで、作品全編を演出家・鳴海の真摯さが貫いていく。しんしんと静かに降り積もる雪のように、一見穏やかに見える身体の佇まいの内には、静かな情熱の灯がいつまでも熱く燃え続けている。それがこの作品の確かな強度となっているのだと思う。
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金山古都美(金沢市民芸術村ドラマ工房ディレクター)
2010年2月千種文化小劇場、12月三重県文化会館で第七劇場の「かもめ」を観劇。時の交錯を感じた千種、閉塞と決壊を感じた三重。どちらについてもその『観後感』は、まったく違っていて。鳴海氏の構築する世界は、その“場所”で変化し、その“人”で変化するようです。“人”とは、役者はもとより、スタッフ、劇場の人々、そして当日来られる観客、すべての“人”を包んでいます。実際観に行った私自身の変化も少なからず影響しあいながら「劇場」という空間が形成されていくのでは。そしてそれは建物の中だろうが、外だろうが、1人だろうが1万人だろうが変わらないのでは・・・違うな。変わらないのではなく、変わることも含めての「作品」なのです。白い床も、テーブルも椅子も、ブランコも「かもめ」のオブジェも、何一つ変わっていないようなのに・・・。そんな演劇のもつ『その場でしか出会えない幸せ』に皆さんで会いに行きましょう。
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島貴之(aji 演出家)
金沢21世紀美術館にあるジェームズ・タレル作「ブルー・プラネット・スカイ」という作品を見た事がありますか?
四角い白色の天井の中央が四角くくり抜かれ、そこから空が見える。故郷へ帰る度に見上げる空。移ろいやすい金沢の空。晴天、夕刻、曇り空、雨。冬はそのグレイの穴から雪が舞い落ちるのです。
曇り空の四角いグレイのグラデーション。無彩色に見えるグレイに、私は何度もさまざまな色を見た事があります。それを見上げる人の心情がそこに色を齎すのです。天井の枠に囲われた今の自分が、その遠く向こうにあるものを見通す瞬間に—。
この作品では登場人物が纏う衣装を見渡すと白から黒へのグラデーションとなっています。そして劇中では、登場人物の性格や事象に伴う心情があらゆる要素により明確に描かれています。個としての居場所、表情、身体、言葉_���してそれらが合わさりバランスを変化させる事で、その瞬間にしかない色が次々と生まれては消えて行くのです。
それは、移ろいやすい金沢の空のようであり、また、あなたの心情を映すあのグレイのグラデーションであってほしいと願うのです。
2011年の9月に私は第七劇場の「かもめ」を拝見しました。大胆に再構成されたこの舞台に流れる時間は、キリスト教的な時間感覚の、すでに始まったが未だ終わっていない「時のあいだ」を意識させるものでした。時間は、何分・何秒という座標を流れているとされる概念だけでなく、事件・タイミングによって認識される感覚との2つに分けて考えることができます。あのハイコントラストな世界は、ニーナの事件史のある時点なのだろうと納得して観ました。クロノスでなくケイロス、あるいはゲシヒテによって物語を紡ぐ方法は個に依った場合は有効で、むしろ本質的な問いは、なぜそのように構成したかにあると思われました。それが私には「かもめ」の本体をよく知るために境界線を明らかにしようとしているというだけではなく、ほんのりと漂うロマンチックな印象に隠されているような気がしています。舞台を構成するあらゆる要素は一見、清貧とも言えるほど禁欲的に佇み、それがある種の理想として観客に迫っていましたが、私達は同時にその内側にあるもっと柔らかで繊細なモノも見ていました。その存在が、内側からも外側からもこの作品の再演を促しているのではないかと思っています。
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ジュリオ・カッチーニ(Giulio Caccini, 1545年頃 - 1618年12月10日)はイタリア・ルネサンス音楽末期、バロック音楽初期の作曲家。ヤコポ・ペーリとならんでモノディー様式の代表的な音楽家の一人として知られる。 作曲家フランチェスカ・カッチーニとセッティミア・カッチーニは娘。
◎生涯
カッチーニの前半生についてはほとんど知られていないが、ローマかティヴォリのどちらかで生まれ、フィレンツェの彫刻家ジョヴァンニ・カッチーニ(Giovanni Caccini)と関連があるかもしれないとされる。ローマで彼はリュート、ヴィオール、ハープを習い、歌手としての名声を博しはじめた。1560年代、コジモ・デ・メディチが彼の才能に感銘を受け、若きカッチーニを更なる勉学のためにフィレンツェへ招いた。
1579年には、カッチーニはメディチ家の宮廷で歌手をしていた。彼の声域はテノールであり、また自分自身でヴィオールの伴奏を付けることができた。彼は婚礼や国事など様々な宴会で歌い、当時の壮麗なインテルメディオ(オペラの先駆の一つとされる、精密な音楽・劇・映像的見せ物)で役目を果たした。またこの時期に、彼は人文学者、作家、音楽家、考古学者達の活動に加わった。彼らはジョヴァンニ・デ・バルディ(Giovanni de' Bardi)伯爵の邸宅に集まり、失われたと思われている古代ギリシャの劇音楽の栄光を復活させようとする団体、「カメラータ」を結成した。カッチーニの歌手、楽器奏者、作曲家としての才能によって、カメラータはモノディ様式を確立し、それはルネッサンス末期のポリフォニー音楽の慣習からの革命的な新発展となった。
16世紀末の20年間、カッチーニは歌手、教師、作曲家としての仕事を続けた。彼の教師としての影響力は過小評価されているかも知れないが、何十人もの歌手に新たなスタイルで歌うことを教えている。その教え子の中には、クラウディオ・モンテヴェルディの最初のオペラ「オルフェーオ」の主役として歌ったカストラートのジョヴァンニ・グアルベルト・マリ(Giovanni Gualberto Magli)もいた。
カッチーニは、加えて少なくとも1回、1592年にバルディ伯爵の秘書としてローマへ旅している。彼自身の著作によって、彼の音楽と歌は熱狂的な反応を得た。しかしながら、パレストリーナとローマ楽派の本拠であるローマは、音楽面で保守的であり、この地でのカッチーニの様式的先導に追従する音楽は、1600年を過ぎる頃までは比較的まれな存在であった。
カッチーニの人柄は完全に高貴といえるものではなかったようである。彼はしばしば、プロとしての生活だけでなくメディチ家での昇進においても、羨望や嫉妬に突き動かされていた。ある時、彼はフランチェスコ大公(フランチェスコ1世・デ・メディチFrancesco I de' Medici)に一組の愛人のことを伝えた—ピエトロ・デ・メディチ(Pietro de' Medici)の妻であるエレオノーラ(Eleonora)が、ベルナルディーノ・アンティノーリ(Bernardino Antinori)と密通していたのである—。そして彼の報告が、ピエトロによるエレオノーラ殺害を引き起こす直接の原因となったのである。カッチーニの、エミリオ・デ・カヴァリエーリ(Emilio de' Cavalieri)やヤコポ・ペーリとの競争は激しいものだったようである:彼はおそらく、カヴァリエーリを1600年に行われたフランス王アンリ4世とマリア・デ・メディチの婚礼祭の指揮者の座から降ろさせた人物の一人であろうとされる(この出来事によって、カヴァリエーリは激怒してフィレンツェを去った)。また彼は、自作のオペラ『エウリディーチェ』(Euridice)を、同じ題材で発表しようとしていたペーリの作品に先んじて印刷し、同時に彼のグループの歌手達に、ペーリの作品の出版に一切協力しないように頼んでさえいたらしいのである。
1605年以降もカッチーニはアンティフォナなど宗教音楽の作曲や演奏で役割を果たしていたが、彼の影響力は衰えていった。カッチーニはフィレンツェで逝去し、聖アヌンツィアータ教会に埋葬されている。
◎音楽と影響
スタイル・レチタティーヴォ(stile recitativo)と呼ばれた新たに生み出されたモノディ形式は、フィレンツェだけでなく、イタリアの他の地方でも評判になった。フィレンツェとヴェネツィアは、16世紀末には最も先進的な音楽の発信地であり、それぞれの地における音楽的発明の融合が、結果としてバロック様式として知られるものを発展させた。カッチーニの功績は、演説などで簡単に理解可能となる直接的な音楽の表現様式の考案である。この表現様式は後にオペラのレチタティーヴォに発展し、その他多くのバロック音楽の様式的あるいは本文的要素に影響を与えた。
カッチーニの最も影響を及ぼした作品は、1601年に出版された『新しい音楽』と題する、マドリガーレや単声と通奏低音のための音楽などの曲集である。この書物の導入部は、当時のモノディ様式の趣旨、目的および正しい演奏法について最も明確に書かれた描写かも知れない。それには装飾の音楽的実例が含まれている—たとえば、歌手達が説明してほしがっている素直な感情に基づいた、特定の楽節を異なった目的に装飾する方法など—。また、彼自身が創作した様式に対する感情溢れる賞賛も含まれており、同時期のより保守的な作曲家たちの作品を見下して楽しんでいるようである。 ◎"カッチーニのアヴェ・マリア" 実際には1970年頃ソ連の音楽家ウラディーミル・ヴァヴィロフ(Vladimir Vavilov 1925-73)によって作曲された歌曲である。 録音も楽譜も90年代前半まで知られていなかった。出典が明らかにされず、現在入手出来る出版譜は全て編曲されたもので、歌詞がただ"Ave Maria"を繰り返すだけという内容もバロックの様式とは相容れない。 ヴァヴィロフは自作を古典作曲家の名前を借りて発表する事がよくあったが、自身が共演しているIrene Bogachyovaの1972年の録音では「作曲者不詳」の『アヴェ・マリア』として発表していた。ヴァヴィロフの没後十年を経てCD録音されたMaria Bieshu(1996)やイネッサ・ガランテのデビュー盤(1994)では作曲者が"D. Caccini"と表記され、ジュリオ・カッチーニの作として広まった。 初期の録音にはBieshuとガランテのほか、スラヴァ(1995)、Lina Mkrtchyan(1990)とソ連のアーティストによる演奏が並ぶ。20世紀末レスリー・ギャレットやスラヴァのCDで一気に知名度が高まり、多くの歌手が録音し映画にも使われた。 以上のような事実はCDや楽譜の楽曲解説では言及が無く、現在一般にはカッチーニ作品と誤認されている。
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手描きの祭典!
今月の楽しみの1つでもある「HAND-WRITTEN SHOWCASE 2」、イベント開始まであと2週間ちょっと。
初めて開催された昨年のイベントは、初日にお邪魔させて頂き、とっっっても素敵な時間を過ごした良い思い出があるので、ざっくりですが紹介させてください。
手描きを愛する国内外のアーティスト達による、様々なスタイルの手描き作品が1つの会場で見られるという、とてもマーベラスでファンタスティックなイベントが【ハンド-リトゥンショーケース(HWS)】です。
作品を見るだけでなく、グッズを手に入れたり、ワークショップで色々体験する事もできたり(とにかくサイコー)、今年はアーティストによるトークショーや、めちゃくちゃ為になりそうな内容のセミナーも予定されているみたいですね!
アーティストとの交流もそうですが、手描きを愛する沢山の人達が1つの場所に集まる機会ってなかなか無い気がします。それを想像するだけでドキドキ、ワクワク。
まさに手描きアーティストの祭典。FESTIVAL!!‼︎←言いたいだけ
HAND-WRITTEN SHOWCASE2
・開催日時:
12/21(金) 1日目 / 11:30-20:00
12/22(土) 2日目 / 11:30-20:00
12/23(日) 3日目 / 11:30-17:00
↑確定したみたいなので直しました!
・場所:3331ArtsChiyoda (https://www.3331.jp)
・一般入場料:500円
・主催:HAND-WRITTEN SHOWCASE 実行委員会
↑入場料が安い分、運営・設営・制作資金に充てるクラウドファンディングでこのイベントの開催を支援し易いんです。しかも支援する際に選べるリターンが、、どれも良いッ♡
(クラウドファンディング期間は残り数日!こちらから飛んで、リターンを確認したり支援できます✨)
▲こちらはサイトより拝借した2018年バージョンロゴ♡
また、HWSのInstagramアカウントが開設されたので、各ワークショップの時間帯など追加情報はそちらをCHECKするのも良いかもですね🤓
個人的には、このイベントに関する写真や動画を投稿する時に付けるハッシュタグが気になるところ。。。
共通のものがあるなら、忘れないように今からメモしておかないとと思ってw
ハッシュタグから飛んで共通の話題を見せあいっこするのも楽しいですもんねッ。
とにかく、都合が合う方は立ち寄ってみるべし!
今年はクリスマス前の12/21(金)~12/23(日)の開催ですし、お出かけ先の候補の1つに入れてみてはいかがでしょう。
みんなに行ってもらいたい。
行っていろんな作品に触れ、手描きの素晴らしさに魅了されてほしい。
沢山インスパイアされて「自分も【手描き】を楽しみたいッ。」という気持ちになって帰ってもらえたら最高だなぁ。←どの立場で言ってるんだろうか
HWSに関する詳しい情報や、CHALKBOYさんの熱い想いはCAMP FIRE内の特設ページにありましたので、そちらから是非CHECKしてみてくだされー。
(↑「手描きの流行をカルチャーにしたい!」という主催者側のマインドがとても好き)
あー楽しみッ。
▲昨年10月、代官山で開催された時にゲット出来たもの💛 幸せな時間だったなぁ
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[友の会メール]友の会10期更新は10月末まで受付中!/『ゲンロン10』全国書店販売開始!/『ゲンロンβ41』配信中!
☆**:..。o○o。:..**☆
[友の会メールvol.332]友の会10期更新は10月末まで受付中!/『ゲンロン10』全国書店販売開始!/『ゲンロンβ41』配信中!(2019年10月08日配信)
★noteで読む: https://note.mu/genron/n/ndb07712875fc
☆**:..。o○o。:..**☆
こんにちは、スタッフの宮田です。
『ゲンロン10』が全国書店にて販売開始されました。ツイッターでも嬉しいご感想をたくさんいただいております。 ゲンロンカフェでは『ゲンロン10』に関連するイベントを開催していきますので、こちらもお楽しみに! また、ゲンロン友の会9期から10期への更新を今月いっぱいまで受け付けております。 更新特典の『ゲンロン10.5』が手に入るラストチャンスです。友の会更新をお忘れなく!
* * * * *
★友の会 第10期への更新は10/31まで受付中!★
友の会会員のみなさまに��、日頃よりゲンロンを支えていただきまして誠にありがとうございます。
この度、ゲンロン友の会 第10期への更新時期となりました。 10月31日までに第9期から更新していただいた方には、特別冊子『ゲンロン10.5』(非売品)を進呈いたします。こちらは『ゲンロンβ29』から『ゲンロンβ39』の記事を集めた特装版です。 (新規ご入会の方は『ゲンロン10.5』進呈の対象外となります。ご了承ください) すでに更新していただいた会員の皆さまには、『ゲンロン10.5』をまもなく発送いたします。 『ゲンロン10.5』のラインナップは、國分功一郎さんと東浩紀の対談「正義は剰余から生まれる」や、 星野博美さん、本田晃子さんの新連載、リレーエッセイ「つながりロシア」、 そして本書表紙の写真も担当された大山顕さんの「スマホの写真論」など豪華なコンテンツが目白押しです。
友の会第10期では他にも、『ゲンロン11』、「10期会期内発行の選べる単行本2冊」、『ゲンロンβ42~53』をお届けするほか、カフェ割引など多様なサービスがついてきます。
更新締め切りは10/31までとさせていただきま���。詳細は以下の商品ページをご覧ください。 友の会10期への更新をよろしくお願いします。 https://genron.co.jp/shop/products/detail/244
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★『ゲンロン10』全国書店販売開始・電子書籍版も発売!★
『ゲンロン10』がついに9/26全国書店にて発売となりました!もうお手に取っていただけましたでしょうか? また、電子書籍版も発売いたしました。ぜひお好きな媒体でお楽しみください。 Twitterではすでに嬉しいご感想を多数いただいております。ぜひたくさんのご感想をお待ちしております。 『ゲンロン10』感想まとめはこちら。 https://togetter.com/li/1409795
『ゲンロン10』の試し読みもできる特設ページも公開しました。ぜひご覧ください。 https://genron-tomonokai.com/genron10/
『ゲンロン10』 Amazonでのご購入はこちら。 物理書籍版 2,640円(税込) https://amzn.to/2oW4uh9 電子書籍(Kindle)版 2,300円(税込) https://amzn.to/2MzB4hl
すべて必読の、大充実のコンテンツです。ぜひ一度お手に取ってごらんください!
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★「東浩紀がいま考えていること」(2019/06/14)第1弾をVimeo公開!★
大好評に終わった、先日の東浩紀一人語りイベント第二弾。 そこで、6月に行われた第一弾をVimeo緊急公開いたします。 レンタル(7日間)600円、ご購入(無制限)1,200円です。
東浩紀「東浩紀がいま考えていること」(2019/6/14収録) https://vimeo.com/ondemand/genron20190614
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★『ゲンロンβ41』配信中!★
1.【新連載】「小松理虔 当事者から共事者へ」
『新復興論』の著者待望の新連載では、内部でも外部でもない立場を「共事者」いう言葉で掘り下げます。今回はNPO法人「レッツ」を取材。福祉と表現・個性の在り方を考えます。
2.東浩紀「ドストエフスキーとシミュラークル(1)」
東による連載、今回はドストエフスキーの「聖地巡礼」録の前半です。『罪と罰』の舞台の観光地化は、ラスコーリニコフの虚構への敗北なのか。現地から問いかけます。
3.星野博美「世界は五反田から始まった」
人気エッセイの最新回では一枚の家族写真から、避暑をめぐる父の家と母の家の対比が語られます。両者はやがて空襲と疎開に巻き込まれていく――家族と戦争の歴史を結ぶ必読の文章です。
4.【特別再録】速水健朗「よい子のためのツーリズム」
来年予定の単行本化に先立ち、ゲンロン黎明期の連載の初回を特別再録。震災翌年、小説作品と眺めるビーチの風景はどう見えたか。今後の配信号で追加原稿も掲載予定です!
5.伊勢康平「哲学と世界を変えるには――石田英敬×ユク・ホイ×東浩紀イベントレポート」
ゲンロンカフェ初の英語イベントの模様を、充実の注解でお届け。東洋哲学と技術は結びつくか――『新記号論』に連なる白熱の議論です。
6.藤城嘘さんによるアトリエコーナー、今回は新規展示のご紹介はお休みし、新芸術校グループ展のお知らせを掲載しています。トップバッターのグループ展A『ホンヂスイジャク』の写真付きレポートは次号掲載します。
今号も魅力的なトピックが目白押しの『ゲンロンβ41』。ぜひご一読ください!
『ゲンロンβ41』550円(税込) ゲンロンショップ(ePub版) https://genron.co.jp/shop/products/detail/245 アマゾン(Kindle版) https://amzn.to/2IwkgXb
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★新芸術校 第5期 グループB「摩訶神隠し」展開催★
2019年9月から12月まで、毎月、新芸術校5期の受講生による、新しいグループ展を五反田アトリエにて開催します。 10月12日(土)には第2弾となるグループBの展示「摩訶神隠し」がオープンします。
【グループB】摩訶神隠し 出展作家:大島有香子 / 木谷優太 / 小林毅大 / 鈴木知史 / 田中愛理 / 繭見 / zzz キュレーション:NIL(CL課程)、マリコム(CL課程) デザイン:6:30 会期:2019年10月12日(土)- 20日(日) ※10月19日(土)は講評のため終日休廊 開廊時間:15:00-20:00 https://genron-cafe.jp/event/20191019/
【講評会日時】2019年10月19日(土) 14:15~17:30 ※会場参加は受講生のみとなります。 講評会ゲスト講師 飴屋法水氏 講評会中継URL http://nico.ms/lv322231585 ※会場参加は受講生のみとなります。 ※今回はアトリエでのプレゼン中継のみとなります。講評の中継はございませんのでご了承ください。
みなさまのご来場を心よりお待ちしております。
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それでは以下、今週のカフェ&編集部からのお知らせです。
◆◇ ゲンロンカフェからのお知らせ ◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆
◇◇ 発売中の会場チケット ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆10/18(金)19:00- 佐久間裕美子×速水健朗 「マリファナはアメリカをどう変えたか ――『真面目にマリファナの話をしよう』刊行記念イベント」 ☆会場参加: http://ptix.at/m3KO3k ☆放送視聴: http://nico.ms/lv322049263
★新着イベント★ ◆10/21(月)19:00- 菊地信義×川名潤×水戸部功×長田年伸 【『アイデア』387号 刊行記念トークショー 】 「来るべき『本と出版』を探る ――現代日本のブックデザインめぐる対話」 ☆会場参加: http://ptix.at/wzx8D9 ☆放送視聴: http://nico.ms/lv322245159
◆10/24(木)19:00- 小川哲×アマサワトキオ×櫻木みわ 「SFを可能にする構想力と取材力 ――『嘘と正典』刊行記念イベント」 ☆会場参加: http://ptix.at/9H87zN ☆放送視聴: http://nico.ms/lv322245451
★新着イベント★ ◆10/25(金)19:00- 【ゲンロン10 刊行記念】 鴻野わか菜×本田晃子×上田洋子 「ユートピアを記録/記憶する ――コンセプチュアリズムとペーパーアーキテクチャから見るロシア芸術」 ☆会場参加: http://ptix.at/5PFcNm ☆放送視聴: http://nico.ms/lv322327356
★新着イベント★ ◆10/26(土)19:00- 岩渕貞太×平倉圭 「ほどかれるからだと思考 ――『かたちは思考する:芸術制作の分析』刊行記念イベント」 ☆会場参加: http://ptix.at/ntIhJ9 ☆放送視聴: http://nico.ms/lv322245873
★新着イベント★ ◆10/28(月)19:00- 西田亮介×辻田真佐憲 【ゲンロン10 刊行記念】 「国威発揚文化の現在地 ――メディア戦略から政治を読む #3」 ☆会場参加: http://ptix.at/c5bDNb ☆放送視聴: http://nico.ms/lv322327897
★新着イベント★ ◆10/31(木)19:00- 夏野剛×東浩紀 「男たちが語る『エンドゲーム』 ――2010年代というゲームはエンドを迎えたのか?」 ☆会場参加: http://ptix.at/pt5DtB ☆放送視聴: http://nico.ms/lv322246511
◇◇ 今週・来週の放送情報 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆10/9(水)18:00- 【再放送】松尾豊×東浩紀 「人工知能はどこまで社会を変えるのか」 (2015/10/20収録) https://live.nicovideo.jp/watch/lv322165447
◆10/10(木)13:00- 【再放送】佐藤カフジ×シン石丸×東浩紀 「FPSゲーム『S.T.A.L.K.E.R』で巡るチェルノブイリ!」 (2013/9/16収録) https://live.nicovideo.jp/watch/lv322168596
◆10/10(木)18:00- 【再放送】西田亮介×辻田真佐憲 「令和における政治広報の行方 ――メディア戦略から政治を読む #2」 (2019/07/03収録) https://live.nicovideo.jp/watch/lv322168923
◆10/11(金)13:00- 【再放送】井田茂×東浩紀 「系外惑星から考える ――太陽系は唯一の可能性か」 (2015/5/13収録) https://live.nicovideo.jp/watch/lv322169348
◆10/11(金)18:00- 【再放送】國分功一郎×東浩紀 「いま哲学の場所はどこにあるのか」 【ゲンロンカフェ at VOLVO STUDIO AOYAMA #2】 (2017/12/10収録) https://live.nicovideo.jp/watch/lv322328995
◆10/15(火)18:00- 【再放送】法月綸太郎×東浩紀 「ふたたび謎解きの世界 ――名探偵と愛のゆくえ」 (2014/3/14収録) https://live.nicovideo.jp/watch/lv322339317
◆10/16(水)18:00- 【再放送】本田晃子×上田洋子 「全体主義とユートピア建築 ――『天体建築論 レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』サントリー学芸賞受賞記念トークショー」 (2015/4/28放送) https://live.nicovideo.jp/watch/lv322339662
◆10/17(木)13:00- 【再放送】冲方丁×深見真×吉上亮×大森望 【『PSYCHO-PASS3』放送開始!】 「エンターテインメントの極大射程」 (2019/4/23収録) https://live.nicovideo.jp/watch/lv322339937
◆10/17(木)22:00- 【講評・無料生放送】長谷敏司×塩澤快浩(早川書房)×大森望 「第5回」 【ゲンロン 大森望 SF創作講座 第4期 #5】 https://live.nicovideo.jp/watch/lv322243479 (※こちらの放送はタイムシフトには対応しておりません)
◆10/18(金)13:00- 【再放送】祖父江慎×津田淳子×山本貴光 【ゲンロンカフェ at ボルボスタジオ青山 #20】 「紙の本のつくりかた」 (2019/07/26収録) https://live.nicovideo.jp/watch/lv322340367
◆10/18(金)19:00- 【生放送】佐久間裕美子×速水健朗 「マリファナはアメリカをどう変えたか ――『真面目にマリファナの話をしよう』刊行記念イベント」 https://live.nicovideo.jp/watch/lv322049263
◆10/19(土)14:15- 【展示・無料生放送】飴屋法水×黒瀬陽平 【ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校 第5期 #18】 「グループ展B『摩訶神隠し』展示 ――講評会2」 https://live.nicovideo.jp/watch/lv322231585
◇◇ 現在視聴可能なタイムシフト ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆10/9(水)23:59まで 【再放送】川名潤×水戸部功 司会=長田年伸 「日本のブックデザイン史を記述する 1960-2020」 (2019/2/7収録) https://live.nicovideo.jp/watch/lv322122122
◆10/10(木)23:59まで 【再放送】金子遊×清水高志×渡邉大輔 「哲学と映像の『存在論的転回』 ――『実在への殺到』と『映像の境域』の交点から考える」 (2017/10/14収録) https://live.nicovideo.jp/watch/lv322122604
◆10/10(木)23:59まで 【再放送】ウティット・ヘーマムーン×岡田利規×福冨渉 司会=上田洋子 「舞台と小説の交感 ――『プラータナー:憑依のポートレート』『憑依のバンコク オレンジブック』出版&東京公演開催記念」 (2019/07/02収録) https://live.nicovideo.jp/watch/lv322122826
◆10/11(金)23:59まで 【再放送】鴻英良×危口統之×黒瀬陽平 「ラディカルな芸術とはなにか ――芸術祭におけるアーティストと観客」 (2016/4/28収録) https://live.nicovideo.jp/watch/lv322123164
◆10/11(金)23:59まで 【再放送】鈴木忠志×東浩紀×上田洋子 「テロの時代の芸術 ――批判的知性の復活をめぐって」 (2015/5/23放送) https://live.nicovideo.jp/watch/lv322123438
◆10/12(土)23:59まで 【チャンネル会員限定・生放送】高山明 × 黒瀬陽平 「展示を批評する1 ――展示指導9」 【ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校 第5期 #16】 https://live2.nicovideo.jp/watch/lv322230846
◆10/15(火)23:59まで 【再放送】橋爪大三郎×仲俣暁生×さやわか 「『橋本治』とはなにものだったのか ――優しいお人好しをめぐって」 (2019/07/11収録) https://live.nicovideo.jp/watch/lv322164547
※ご視聴��23:59まで可能ですが、ご購入いただけるのは視聴終了日の18:00までです。ご注意ください。
◇◇ 今週のおすすめアーカイブ動画 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆��vimeo】東浩紀 「東浩紀がいま考えていること ――『テーマパーク化する地球』刊行記念」 https://vimeo.com/ondemand/genron20190614 (2019/6/14収録)
◆【vimeo】卯城竜太×aggiiiiiii×上田洋子 「アート・アクティヴィズムは社会を変えるか? ――『プッシー・ライオットの革命』(DU BOOKS)刊行記念」 https://vimeo.com/ondemand/genron20181211 (2018/12/11収録)
◆【vimeo】『ゲンロン』第2期始動!『ゲンロン10』パック https://vimeo.com/ondemand/genron10
パック内容は以下の通りです。 1. 原武史×東浩紀「平成において皇后とはなんだったか」 https://genron-cafe.jp/event/20190405/
2. 高橋沙奈美×本田晃子×上田洋子「ツーリズムとナショナリズムからみる現代ロシア――建築、教会、収容所」 https://genron-cafe.jp/event/20190416/
3. 長谷敏司×三宅陽一郎×大森望「AI研究の現在とSFの想像力」【大森望のSF喫茶 #28】 https://genron-cafe.jp/event/20190417/
◆【vimeo】ゲンロンカフェ『ニッポンの演劇』セレクション https://vimeo.com/ondemand/genrontheater
パック内容は以下の通りです。 1.岡田利規×佐々木敦「新しい日本語、新しい身体――チェルフィッチュと演劇の現在」【ニッポンの演劇#1】 https://genron-cafe.jp/event/20151217/
2.飴屋法水×佐々木敦「なにが演劇なのか――パフォーマンスの「正体」をめぐって」【ニッポンの演劇#3】 https://genron-cafe.jp/event/20160413/
3.平田��リザ×佐々木敦「現代口語演劇はいかに更新されたか?」【ニッポンの演劇#4】 https://genron-cafe.jp/event/20160628/
◆【vimeo】『大森望のSF喫茶』セレクション#1 https://vimeo.com/ondemand/genronsf1
パック内容は以下の通りです。 1. 円城塔×東浩紀×大森望「テクノロジーと文学のゆくえ――小説をプログラミングする」 genron-cafe.jp/event/20151024b/
2. 飛浩隆×東浩紀×大森望「『自生の夢』刊行記念トークイベント」 genron-cafe.jp/event/20161210b/
3. 瀬名秀明×東浩紀×大森望「SFと復興――小松左京から考える」 genron-cafe.jp/event/20140111/
★ゲンロンカフェ Vimeo On Demand 公開動画一覧 https://genron-tomonokai.com/vimeo/
◆◇ 五反田アトリエからのお知らせ ◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇
開催予定の展示
◆2019年10月12日(土) - 10月20日(日) ※10月19日(土)は講評のため終日休廊です ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校 第5期生展覧会グループB「摩訶神隠し」 開廊時間:15:00 - 20:00
出展作家:大島有香子 / 木谷優太 / 小林毅大 / 鈴木知史 / 田中愛理 / 繭見 / zzz キュレーション:NIL(CL課程) / マリコム(CL課程) デザイン:6:30
展覧会特設サイトはこちら https://makakamikakushi.com/
新芸術校第5期生による展覧会、グループAにつづいてグループBの展示がはじまります! 「サバイバル」型のプログラムが組まれている新芸術校では、4グループに分かれて4回の展示が行われ、その中で成績優秀者が最終成果展へ選出されます。 今もっとも注目される美術学校のひとつとなった新芸術校生徒たちの作品が、毎月ご覧いただけます。 どのグループの展示もどうぞお楽しみに、お見逃しなく!
新芸術校について・新芸術校関連の予定についてはこちら↓ https://school.genron.co.jp/gcls/
(藤城嘘/カオス*ラウンジ)
◆◇ 編集部からのお知らせ ◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇
★『ゲンロン10』全国書店にて販売開始!電子書籍版も配信開始!★
『ゲンロン10』 Amazonでのご購入はこちら。 物理書籍版: https://amzn.to/2oW4uh9 電子書籍(Kindle)版: https://amzn.to/2MzB4hl
★東浩紀『テーマパーク化する地球』好評発売中!
批評家として、哲学者として、そして経営者として、独自の思索と実践を積み重ねてきた東浩紀。 その震災以降の原稿から47のテクストを選び出し、「世界のテーマパーク化」「慰霊と記憶」「���評の役割」を軸に配列した評論集。 ゲンロンショップ [物理書籍版] https://genron.co.jp/shop/products/detail/224 [電子書籍(ePub)版] https://genron.co.jp/shop/products/detail/228
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→試し読みページはこちら! https://genron-tomonokai.com/themepark/no1/
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『テーマパーク化する地球』発売を記念して、『新記号論』Kindle版は通常価格より580円お得な2,500円(税込み)に! [Amazon Kindle版] https://amzn.to/2JgQlln
以下はゲンロンショップサイトのリンクとなります。 「脳とメディアが出会うとき――記号論は新たに生まれ変わる!」 [物理書籍版] https://genron.co.jp/shop/products/detail/215 [電子書籍版] https://genron.co.jp/shop/products/detail/220
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★『マンガ家になる!――ゲンロン ひらめき☆マンガ教室 第1期講義録』絶賛販売中! 絵がうまいだけじゃダメ、マンガが描けるだけでもダメ。業界騒然のマンガ家育成講義録! https://genron.co.jp/shop/products/detail/193 →試し読みページはこちら! https://issuu.com/genroninfo/docs/20181125/16
★小松理虔『新復興論』絶賛販売中! 第18回大佛次郎論壇賞受賞! 「課題先進地区・浜通り」から全国に問う、新たな復興のビジョン! https://genron.co.jp/shop/products/detail/178 →『新復興論』特設ページはこちら! https://genron.co.jp/books/shinfukkou/
★毎日出版文化賞受賞&朝日新聞社「平成の30冊」第4位!『ゲンロン0 観光客の哲学』絶賛販売中! https://genron.co.jp/shop/products/detail/103 →『ゲンロン0』特設ページはこちら! https://genron-tomonokai.com/genron0/
★今だけお得な友の会第9期かけこみ&第10期更新を受付中! https://genron.co.jp/shop/products/detail/242
◆「ゲンロン友の声」サイト、質問募集中です! 知られざるTumblrサイト「ゲンロン友の声」では、友の会会員のみなさまからお寄せいただいたご意見・ご質問に対して、 東浩紀をはじめとするスタッフがお返事を差し上げております。 また、ゲンロンnoteも開始いたしました。noteにも「ゲンロン友の声」を掲載していきます。
最新の記事は、「子どもを生み出すことへの躊躇いをいかにして退けましたか?」です!ぜひご一読ください! Tumbler: https://tmblr.co/Zv9iRg2kchcBV note: https://note.mu/genron/n/n93d96ab462ab
ご要望などもお気軽に! ゲンロン友の声 Tumbler: http://genron-voices.tumblr.com/ genron note: https://note.mu/genron
◆◇ 東浩紀 執筆・出演情報 ◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆
◆『AERA』の巻頭エッセイコーナー「eyes」に、東浩紀が連載中! 最新の記事は、東浩紀「歴史的事件の加害側が害を記憶し続けなければ悪循環は断ち切れない」です。 https://dot.asahi.com/aera/2019092500012.html?page=1
これまでの記事は朝日新聞のウェブサイト「.dot」で全文をお読みいただけます。 https://dot.asahi.com/keyword/%E6%9D%B1%E6%B5%A9%E7%B4%80/
◆産経新聞に東浩紀のインタビューが掲載されました。 思想家・東浩紀さん新著『テーマパーク化する地球』 コミュニケーション「誤配」の可能性 いかに育むか https://www.sankei.com/life/news/190926/lif1909260011-n1.html
◆河出書房新社より東浩紀『ゆるく考える』発売中! いつの間にか中小企業ゲンロンのオヤジ経営者になっていた。 人生の選択肢は無限だ。ゆるく、ラジカルにゆるく。東浩紀のエッセイ集! http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309027449/
◆◇ その他のお知らせ ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆
◆友の会会員のみなさまへ
<クラス30以上の座席確保サービスについて> ご好評いただいております座席確保サービスですが、 お席の希望のご連絡を、当日16:00までに いただけますよう、よろしくお願いいたします。
<登録情報の変更について> お引越しなどの理由で、ご登録いただいている住所や電話番号、 メールアドレスなどに変更があった方は、 友の会サイトのフォームから申請をお願いいたします。
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※株式会社ゲンロンは、土曜、日曜は休業日となっております。 営業時間は、11時-20時です。 営業時間外のお問い合わせは、お返事が遅くなる場合がございます。 ご了承くださいますよう、お願いいたします。
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株式会社ゲンロン 〒141-0031 東京都品川区西五反田1-16-6 イルモンドビル2F tel.03-6417-9230 / fax.03-6417-9231 http://genron.co.jp Twitter:@genroninfo
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【Next / Orbit Live #37】 * 次回のorbit LIVEは奄美大島から島唄歌いの"Utoto"を迎えお届けします。今回支えてくれるメンバーもウォーミングな空間を創ってくれるでしょう。ご予約はないのでお早めにご来場ください。 * ============= * "orbit LIVE #37" ~Purity~ * 4.9.tue 19:00-23:00 Entrance:(40名限定) ¥1000(+Donation) ***投げ銭ライブとなっております。 * ▪️LIVE Utoto 兒玉 峻 きゅうり * ▪️DJ 大石始 Pallaksch * ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ * 【PROFILE】 * ▶️Utoto * 名古屋生まれ、奄美二世の歌うたい。奄美群島に伝わる��マ唄や八月踊り唄など、ガットギターで弾き語る。一曲、一音から悠久の時を経て響き続けているシマの音を紡ぎ出し、自らのルーツを辿るように “うた”の根っこを手繰り寄せ、温故知新と歌に織り成す。ウトトという名は、彼女の加計呂麻島のご先祖さまの名前であり、図らずもスワヒリ語では「子供であること」という意味である。 * ====================== * ▶️兒玉峻 * 弦楽器奏者。山羊座のAB型。 * アコースティックギター、リゾネーターギター、アフリカンハープと呼ばれるカメレンゴ二などを奏で、民族楽器からエフェクターを駆使した実験音楽まで。ありとあらゆる音を飲み込みながら弦の波動を伝えてる。心象風景を描く独自のサウンドは、その地の空気とシンクロし時には繊細に時には広大なアトモスフェアを創造する。自身のバンド"バセルバジョン"ではFUJI ROCK FESTIVAL 14 をはじめ大小規模なフェスに出演。またオーストラリアや韓国や香港やハワイではバスキングやライブレコーディングを敢行。2018年春。西アフリカのマリ共和国にてカメレンゴニと出会い、現地ミュージシャンより手ほどきを受け新たな弦楽奏法を手にする。 * ====================== * ▶️きゅうり * 世界的に活躍するタブラ奏者アルナングシュ・チョウドリィの弟子。タブラとラップトップを使用し、ジャンルレスに国内外問わず活動中。毎年訪れるインドでは、ハビタット・センター、インターナショナル・センターなどインド有数の文化施設での公演を行なう。また、台湾の台北国立台北藝術大学ほか諸外国での公演・レクチャー、日本においては、インド古典音楽演奏家を招聘し共演する文化交流公演を毎年主催。その活動は、現地と日本の新聞や各種メディアに取り上げられ、ラジオ等にも出演している。シタール奏者ヨシダダイキチとのユニット"a a"にてパーカッショニスト岡部洋一、波紋音 永田砂知子、アルゼンチン音響派のフェルナンド・ガブサッキ等と共演するほか、LightPainterハラタアツシとアンビエント音楽家Hybrid Leisurelandとの"new tone's third law"、画家 日下部泰生とOff-tone松坂大佑との"metaholics" では、アートと音楽を融合した活動も精力的に行なっている。 * ====================== * ▶️大石始 * 日本を含むアジアと熱帯エリアの大衆音楽をミックスし、フロアを村祭り会場に変えることをテーマとするDJ。2014年には初のミックスCD『THE VOICE OF TRIBES』をBLACK SMOKERよりリリース。橋の下世界音楽祭(愛知県豊田市)や韓国のソウルおよび釜山でプレイするほか、コノノNo.1やハンガイなど海外アーティストの前座も務める。本業のライター/エディターとしては、「ニッポンのマツリズム」「ニッポン大音頭時代」「大韓ロック探訪記」「関東ラガマフィン」「GLOCAL BEATS」「MANU&CHAO」などの著書・編著書がある。 * ====================== * ▶️Pallaksch * 長野県生まれ、東京で暮らしながら主に沖縄、アフリカなどのレコードを蒐集の傍らにDJ。幡ヶ谷フォレストリミットにて毎週木曜日のディープリスニングパーティ「ideala」偶数月第二木曜日担当。沖縄那覇の前島メロディ/バーよなきにて「ぱらだいすうるま島」という民謡DJイベントを共同運営。ワールドキッチン吉祥寺バオバブにて、アフリカ、民謡ライブの際にサポートDJ。 * ====================== * 【LIVE】 * #spaceorbit #chillout #lounge #experimental #orbitlive #purity #amamiooshima #amamiisland #guitar #tabla #japanesesong #shimauta #shunkodama #utoto #speciallive (Space orbit) https://www.instagram.com/p/BvgO5QyjRSg/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=989veu9udyie
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【劇評】【レポート】どこにもない演劇のまち、西和賀:東北の湖畔の町で見た演劇の風景
第26回 銀河ホール地域演劇祭(2018/09/01-09/02) 片山 幹生
〔西和賀町文化創造館銀河ホールの空撮。手前は錦秋湖〕
岩手県と秋田県の県境、奥羽山脈のただ中にある西和賀町は人口5000人ほどの小さな町だ。この町には客席300ほどの公営の劇場、西和賀町文化創造館 銀河ホールがある。この劇場では1993年の開館以来、毎年地域演劇祭が開催されている。第26回銀河ホール地域演劇祭は2018年9月1日(土)と2日(日)に開催され、4団体4作品が上演された。今回上演された4作品はすべて宮沢賢治の作品だった。本稿ではこの4作品の舞台評のほか、銀河ホールというユニークな地方公共劇場の活動と地域演劇祭の様子について紹介していきたい。
劇団あしぶえ『セロ弾きのゴーシュ』
〔劇団あしぶえ『セロ弾きのゴーシュ』〕
銀河ホール地域演劇祭の最初の演目は、島根県松江市の公設民営劇場〈しいの実シアター〉を拠点する劇団あしぶえの『セロ弾きのゴーシュ』だった。あしぶえは2016年に創設50年を迎えた長い活動歴を持つ劇団だ。『セロ弾きのゴーシュ』はあしぶえが28年にわたって上演し続けている劇団の最重要レパートリーであり、アメリカ、カナダの演劇祭でいくつかの賞を受賞している。
『セロ弾きのゴーシュ』の筋立てはごくシンプルなものだ。しかしあしぶえの公演ではそのシンプルな物語が、ミニマルな舞台美術とストイックな演出によって、さらに研ぎ澄まされたものになっていた。徹底的に磨き抜かれた鉱物の結晶のような美しさを持つ舞台だった。張り詰めた緊張感が最初から最後まで維持され、冗長さはまったく感じられない。
自尊心を徹底的に打ち砕かれ、絶望で自暴自棄の状態に陥りそうになりながら、ぎりぎりのところでゴーシュは破滅への転落をまぬがれた。夜中にゴーシュの家にやってきた何匹かの動物の前で演奏することで、ゴーシュのセロは上達し、自尊心を回復する。次の演奏会でゴーシュはそれまで自分を罵倒していた指揮者から賞賛を受ける。彼はそれまで自分がどれほど傷ついていたことさえ気がついていなかった。演奏会が終了し、帰宅して一人になったときになってはじめて、ゴーシュは自分を絶望の淵から救い出してくれた動物たちの無償の優しさに気づく。
劇の最後で彼の口から漏れる感謝の言葉の真実に、私は強く心打たれた。
俳優の表現のあらゆるディテールにまで注意が払われていることが感じとることができた舞台だった。きびしくコントールされた俳優の演技は、ゴーシュの情念の動きを精密に、ダイナミックに描き出している。ゴーシュの絶望ともがき、いらだちが、舞台から豊かなニュアンスとともにまっすぐ観客席に伝わってくる。ゴーシュ役の俳優の演技にひきこまれ、観客の多くはゴーシュの重苦しさを共有していたに違いない。
なぜゴーシュが動物たちの出会いによって停滞から抜け出せすことができたのか、動物たちはなぜゴーシュの家にやってきたのか、そしてゴーシュが最初にやってきた猫に対して謝罪しなかったのはなぜなのか。いくつもの「なぜ?」に対する回答はあしぶえの舞台でも宙ぶらりんのまま提示されない。『セロ弾きのゴーシュ』はハッピーエンドの物語だろうか。ゴーシュに感情移入していた観客は、ゴーシュの演奏の成功にカタルシスは感じた者もいるだろう。終幕のゴーシュは確かに絶望からの解放を味わっていた。しかしその解放感は愚かで未熟な自分へのいくばくかの悔恨を伴っている。彼は喜びよりは、深い虚脱感をあのとき味わっていたのではないだろうか。そんなことを感じさせる演出だった。
物語を舞台化するにあたって、雑多な情報を持つ俳優の身体や舞台空間が、作品を過剰に説明的なものにし、そのノイズによって語りの持っていた本質的な魅力を損なってしまうことがままある。あしぶえの『セロ弾きのゴーシュ』は、これとは逆だ。俳優の存在と舞台空間の抽象性が、物語の純度をさらに高め、作品に内在する象徴性を際立たせることに成功している。ほぼ唯一の具象的美術であるチェロの存在が、この舞台ではなんと雄弁なことか。28年に渡る上演のなかでテクストと真摯に向かい合ってきたからこそ、到達することができた表現の逆説だろう。強くて美しい舞台だった。(9月1日14時開演@銀河ホール)
劇団田中直樹と仲間たち『水仙月の四日』
〔劇団田中直樹と仲間たち『水仙月の四月』〕
地域演劇祭、二本目は西和賀在住の〈田中直樹と仲間たち〉による『水仙月の四日』を見た。この公演は田中ひとりよって語り、演じられる人形芝居だった。
田中直樹はもともとは地元の劇団ぶどう座に所属していたが、考え方の違いからぶどう座を離れ、ソロで公演を行っていると聞いた。会場は銀河ホールに隣接するUホール。Uホールの建物は円錐形のとんがり屋根と赤い壁の可愛らしい建物で一階は図書館になっている。二階のUホールは円形平面で、リハーサル室・会議室として利用されている場所とのこと。観客は床に座って見るが、今回の公演では後ろの壁際に何脚かパイプ椅子が用意されていた。
『水仙月の四日』は吹雪の一夜を雪原でやり過ごす少年の話だ。舞台が始まる前に田中から、タイトルの「水仙月」と作品冒頭で出てくる「カリメラ」という語についての説明がある。これらの語はいずれもは宮沢賢治の造語で、水仙月は2月から3月の雪深く寒い時期、「カリメラ」は「赤砂糖を一つまみ入れて、それからザラメを一つまみ入れる。水をたして、あとはくつくつくつと煮る」とテクストにあるので、おそらく「キャラメル」を指す。
『水仙月の四日』は日本有数の豪雪地帯であるこの付近の人々にとっては、とりわけその情景がはっきりと思い浮かぶ作品に違いない。田中直樹は赤いケット(毛布)をかぶった少年とその少年を見守る雪童子を15センチほどの小さな人形に演じさせた。これに対して吹雪のアレゴリーである雪狼は人間の顔と同じくらいの大きさの仮面、そして大吹雪のアレゴリーの雪婆は人間をすっぽり覆い尽くす大きさの紙製の面で表現していた。雪婆が登場する場面では照明が暗くなり、蛍光ライトで雪婆の巨大な顔が白く照らし出される。小さい子供たちは狭い舞台を走り回る雪狼と雪婆を怖がっていた。
少年と雪童子を小型の人形にしたことで、白くて厳しい大自然に翻弄される人間の様子が強調された。また白い美術のなかでの少年の着た鮮やかな赤のケットの色彩の対比も印象的だった。小品だが配慮のいきとどいた工夫の数々によって、大人の観客も子供の観客も異世界に誘う、優れた演出の公演だった。人形と紙製の大きなオブジェ、紙吹雪といった材料はこの作品の上演を考えると定番的な素材だが、そのスペクタクルが作り出す幻想は、宮沢賢治の物語を冗語的に説明するのではなく、その語りの美しさをより印象的に引き立てるものになっていた。(9月1日15時半開演@Uホール)
栗田桃子(文学座)ソロ朗読劇『銀河鉄道の夜』
〔栗田桃子(文学座)ソロ朗読劇『銀河鉄道の夜』〕
銀河ホール地域演劇祭の二日目(9/2)の最初の演目は、文学座の栗田桃子によるソロ朗読劇『銀河鉄道の夜』だった。
会場は銀河ホール。舞台にはいくつものキャンドルが並べられ、中央に椅子が一脚置かれている。背景には静止画の映像が映し出される。栗田はときおり、椅子を立ったり、座ったり、あるいは歩き回ったりしながら、声色で人物を演じ分けて朗読する。
動きもスマートだし、朗読も達者ではあるが、その動作や声色の変化がことごとく定型的で、テクストに書いてあることをそのまま冗語的、説明的になぞっているに過ぎない。テクストの記述に反射的に反応するような中途半端な工夫は、かえってテクストの世界を矮小化し、観客が世界に入り込むことを妨げてしまう。あれなら座ったまま普通に読んだほうがまだ聞き手の想像力を刺激することができるだろう。広い間口の舞台で栗田の芝居が空回りしていた。栗田桃子という魅力的な女優を使った朗読劇がこんなありさまなのはいかにももったいない。演出家あるいは演者の作品に対する思い入れや独自の解釈などを感じとることができない退屈な朗読劇だった。「朗読劇ってこんなものだろう」という演出家の作品に対する取り組みの甘さを感じてしまう。
演出の単調さと照明の暗さで、五分もすると猛烈な眠気の波が襲いかかってくた。私の周囲の観客にも観客も落ちていた人がかなりいた。公演後のアフタートークで宮沢賢治記念館の学芸員と演出の西本由香の話があったが、このアフタトークでも西本の話ははなはだ曖昧模糊としていて、学芸員の語る興味深いエピソードとの対比で、演出家の作品への関心の薄さが露わになっていた。(9月2日14時開演@銀河ホール)
劇団ぶどう座『植物医師』@ぶどう座稽古場
〔劇団ぶどう座『植物医師』〕
銀河ホール地域演劇祭で最後に見た演目は、この地を拠点に1950年以降活動を続けているぶどう座の『植物医師』だった。これは他の上演作品のような���案ではなく、宮沢賢治の書いた短編戯曲の上演だ。私はこの戯曲を読んだことがなかったし、上演を見たことがなかった。ぶどう座は、近年は主宰の川村光夫が高齢(現在96歳)のため実質的に引退状態で、かつてと比べると活動力が大幅に衰えているという話を聞いていたのが、この『植物医師』の公演はその衰退ぶりを感じさせない充実した内容の公演だった。
〔ぶどう座稽古場〕
公演会場は1960年代に建てられたというぶどう座の稽古場である。まさに芝居小屋といった風情の公演会場に、芝居が始まる前から心が浮き立つ。稽古場は北上線の踏切のすぐそばに、踏切の番小屋のように建っている。舞台の間口は6メートルくらいか。舞台奥の壁はさまざまな色の大きな布で覆われている。客席は板間平面と三、四段の段状、詰めれば40人ぐらいは座れると思う。
芝居の始まる前に、劇のオープニングで歌われる宮沢賢治作詞の《花巻農学校精神歌》の練習があった。観客もこの歌を一緒に歌うようにうながされる。これは楽しい趣向だった。
『植物医師』は上演時間30分ほどの小篇だ。岩手のとある村に《植物医師》を名乗る人物が引っ越してきて、植物病院を開業する。しかしこの植物医師の専門家としての知識はどうもいい加減なもののようで、いかにもうさんくさい人物だ。開業した植物病院に村人たちが次々とやってきて、枯れてしまった稲の治療法を訪ねる。植物医師はでまかせのいい加減な対処法を村人たちに伝え、お金を取る。いんちき治療法で易々とお金を稼いだ植物医師だが、彼の処方では稲の被害は収まるどころか、ますます拡大していく。村人たちが医院に戻ってきて植物医師を詰問する。植物医師は口舌でなんとかそれらの非難を丸め込もうとするが、最後には言い返す言葉もなくなり、村人たちの怒りの言葉にうなだれてしまう。善良でお人好しの村人たちはうなだれた植物医師を見て、彼に同情しはじめる。そして先ほどまでの怒りを収め、植物医師を許すのだ。その許しの言葉は、植物医師にとっては怒りにまかせた批判の言葉よりもはるかに重く感じられた。植物医師はますます打ちひしがれてしまう。
〔ぶどう座稽古場内部〕
村人たちが入れ替わり立ち替わり植物医師のもとを訪れ、アドバイスを求める場面では、民話によく見られる同種のやりとりの反復とそのエスカレートが、笑いの効果を作り出している。岩手弁のユーモラスな響きがさらに場面の喜劇性を高めていた。不正に対する怒りと非難よりも、不正に行った人間への大らかな優しさと許しこそが力を持つという宮沢賢治らしい倫理が結末で提示されるが、最後の場面の急転が作り出すドラマの力強さと素朴さに心打たれた。村人たちの許しのことばが発せられるたびに、かがんだ体がどんどん下がり、苦悶と戸惑いの表情が深くなっていく演出と演技は見事だった。
芝居小屋の雰囲気もこの作品の上演にいかにもふさわしいものだった。まさに岩手で岩手の人たちによって演じられることによって、この『植物医師』はいっそう味わい深い作品となっていた。この地でのぶどう座の活動の歴史が染みついた稽古場で、この作品を見られて本当によかった。
終演後には稽古場内で打ち上げがあり、私も短い時間ではあったが、出演メンバーとぶどう座の旧メンバーの方々と座を囲んだ。『植物医師』は主宰の川村光夫演出でもかつて公演をおこなったが、それは27年前のことだと言う。今回の公演の演出を担当した菊池啓二さんに「今回の上演は川村さんの演出を蹈襲したものなのですか?」と聞くと「いや、前の上演はもうだいぶ昔の話で、私も見ていないし。まあ川村風にはやりました(笑)」と仰っていた。
今回のキャストには二十歳台の青年も二名参加していた。彼らは昨年から活動を始めた銀河ホール演劇部の部員だと言う。銀河ホール演劇部は、アートコーディネイターの小堀陽平氏の主導で昨年から活動を始めたサークルだ。小堀さんは「ぶどう座の表現は、この地域の人たちの身体と言葉、感覚に根ざしたものなので、銀河ホールで演劇部を作って活動をはじめましたが、外からやってきた僕たちが作る演劇が、ぶどう座を引き継ぐものにはなり得ないように思うのです。やはりぶどう座は土地の人が継承していくものだと考えています」というようなことを言っていたが、実際に公演を見るとそれが実感できる。
地域演劇祭の締めくくりでこの公演を見、そして短い時間ながらぶどう座の人たちと交流の時間を得ることがでいたのは私にとってはとても有意義なことだった。(9月2日17時開演@ぶどう座稽古場)
地域演劇祭と西和賀町文化創造館 銀河ホールの活動
〔銀河ホール(後側)とUホール(手前側)〕
西和賀町文化創造館 銀河ホールのことを私が知ったのは二年ほど前のことだ。この劇場が、年に一度の地域演劇祭のみならず、地域に根ざした様々な演劇活動を積極的に行っていること、この地を本拠とする60年以上の伝統を持つぶどう座という劇団があること、劇場の活動の軸となっているのが東京出身で日芸OBのまだ若い青年であることなどを知ったことで好奇心をかき立てられ、いつか訪ねてみたいと思っていた劇場だった。演劇は都市のものという固定観念があった私にとって、東北の山間にある小さな劇場で多彩な演劇活動が行われていることが驚くべきことのように思えたのだ。
銀河ホールはJR北上線ほっとゆだ駅から歩いて数分のところにある。ほっとゆだ駅は北上駅から50分ほど。東京駅から北上駅までは東北新幹線で2時間半から3時間かかるので、東京からだと4時間ぐらいで銀河ホールに行くことができる。地図からの印象より案外近く感じられる。
〔北上線ほっとゆだ駅。駅舎に公衆温泉が附属している〕
西和賀町文化創造館は、銀河ホールのある本館とUホールの別館からなっている。約三百席の銀河ホールの客席はゆったりとしていて、舞台までの距離も遠くない。暖かみのある落ち着いた木製の内装で、芝居を楽しむには理想的な空間だ。劇場の背景に広がるダム湖、錦秋湖の風景が美しい。錦秋湖の湖畔には、野外ステージもあった。
〔銀河ホールの裏手にある野外湖畔ステージ。後ろは錦秋湖〕
人口5000人程度の自治体でこんな立派な公共劇場を持っているところはそんなにないのではないだろうか。西和賀町で演劇が特権的な文化活動になっているのは、この町で60年以上活動を続ける劇団ぶどう座の存在に負うところが大きい。ぶどう座は川村光夫という優れた演劇人のもと、地域演劇の担い手として充実した活動を行い、戦後日本演劇史に重要な足跡を残した。このぶどう座の活動実績があったからこそ、銀河ホールという公共劇場の建設が可能になったのだ。
西和賀町文化創造館(当時はゆだ文化創造館)は1993年に開催された〈第8回国民文化祭いわて’93 〉の会場として建設された。この国民文化祭を兼ねたかたちで〈第1回銀河ホール地域演劇祭〉が行われ、以後、地域文化祭は毎年秋に開催されている。当時、湯田町(2005年に沢内村と合併して西和賀町となる)の役場の職員で、この劇場運営の中核だった新田満氏に話をうかがったのだが、開館から2000年代半ばまでの銀河ホールの活動は目覚ましいものがある。毎年の地域演劇祭の開催のほか、町民を対象とした演劇学校、小中学校での音楽劇制作、行政的区画を超えた高齢者による演劇公演、そしてロシアとアメリカの演劇人を招聘し三週間にわたって行われた大規模な国際的演劇交流事業など、地方の小さな町の公共劇場としては驚異的な活動を展開していく。
しかしこの初期の黄金時代は、こうした活動に熱意をもって取り組んできたキーパーソンの退職とともに終焉を迎える。地域劇団として銀河ホールの活動に大きな影響を持っていたと思われるぶどう座も、主宰の川村光夫の高齢化とともに、活動力が低下していった。おそらく湯田町が沢内村との合併で西和賀町となり、役所内の組織にも大きな改編があった2005年以降、銀河ホールの活動は停滞期に入ったように思われる。
〔銀河ホール内部〕
西和賀が演劇のまちとして再活性化しはじめるのは2011年以降のことだ。きっかけは2012年以降現在まで継続的に行われている《ギンガク》という学生演劇合宿事業だ。この事業の立ち上げで中心的な役割を果たしたのが、当時、日芸の大学院生だった小堀陽平さんだ。今回の滞在では小堀さんからも彼と西和賀町との関わり、銀河ホールの活動について話を聞いた。
彼は2014年以降、地域おこし協力隊の一員として西和賀町に移住し、《ギンガク》の活動のみならず、銀河ホールを核としたさまざまな演劇事業を企画・遂行していく。地域おこし協力隊の3年の任期が終了した2017年度以降、西和賀町は「銀河ホール アートコーディネーター」という職を小堀さんに用意し、彼は西和賀の嘱託職員として採用された。町の彼に対する信頼と期待の大きさがうかがわれる。
アートコーディネイターとして彼が担当する業務は文化事業全般に関わるものだが、演劇に関わる事業としては、地域演劇祭のほか、学生演劇の合宿《ギンガク》、小中学校での公演・ワークショップ、高校演劇アワード、地域中学への演劇指導、銀河ホール「演劇部」の活動、そして貸し館業務など多岐にわたっている。今後やりたい事業としては、シニア演劇、温泉・観光と組み合わせたイベント、アーティスト・イン・レジデンスなどを挙げていた。
ほっとゆだ駅から銀河ホールにかけての道に「どこにもない演劇のまちをつくろう」と書かれたのぼりが立ち並んでいるが、町外からこの町にやってきた地域おこし協力隊の青年たちがもたらす刺激によって、西和賀は演劇のまちとして新たな一歩を踏み出そうとしている。
第26回銀河ホール地域演劇祭
2018年9月1日(土)- 9月2日(日)
会場:西和賀町文化創造館(銀河ホール・Uホール)/劇団ぶどう座稽古場
主催:銀河ホール地域演劇祭実行委員会
後援:西和賀町観光協会・西和賀町芸術文化協会・西和賀町教育委員会
総合舞台監督:内山���
テクニカルスタッフ:アクト・ディヴァイス
宣伝美術:髙野由茉 小堀陽平
特別協力(記録撮影):森山紗莉
劇団あしぶえ/島根『セロ弾きのゴーシュ』
9月1日(土) 14:00~@銀河ホール
出演:松浦 優海、門脇 礼子、上田 郁子、有田 美由樹、伊達 生、有田 美由樹、門脇 礼子、原田 雅史、上田 郁子、川村 真美、牛尾 光希、岩田 和大
演出:園山 土筆
舞台/照明:稲田 道則、岡本 敦、門脇 礼子、長見 好高、原田 雅史
音響:福井 健吾 前村 晴奈
小道具:上田 郁子
衣装:有田 美由樹 川村 真美
制作:前村 晴奈
劇団田中直樹と仲間たち/西和賀『水仙月の四日』
9月1日(土) 15:30~ 総入替え2回上演@Uホール
出演:田中 直樹、田中 宏樹
演出/美術:田中 直樹
照明:小堀 陽平(銀河ホール)
雪布操作:田中 真理子
協力:湯田ドライブイン
栗田桃子(文学座)ソロ朗読劇/東京『銀河鉄道の夜』
9月2日(日)14:00〜@銀河ホール
出演:栗田 桃子(文学座)
演出:西本 由香(文学座)
照明:賀澤 礼子(文学座)
映像・音響:西本 由香(文学座)
美術:米澤 純(Jun's Light Candles)
劇団ぶどう座/西和賀『植物医師』
出演:真嶋 実、池田 慣作、菊池 啓二、高橋 節子、高橋 守、三浦 勇太
演出:菊池 啓二
舞台美術:内山 勉、新井 真紀
音響/照明:真嶋 陽
小道具:髙野 由茉
●片山 幹生(かたやま・みきお)1967年生まれ。兵庫県神戸市出身、東京都練馬区在住。WLスタッフ。フランス語教員、中世フランス文学、フランス演劇研究者。古典戯曲を読む会@東京の世話人。
#劇評#レポート#西和賀#地域演劇祭#宮沢賢治#劇団あしぶえ#セロ弾きのゴーシュ#ギンガク#銀河ホール#劇団ぶどう座#劇団田中直樹と仲間たち#植物医師#銀河鉄道の夜#栗田桃子#水仙月の四日#園山土筆#片山幹生
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現代アートハウス入門 ネオクラシックをめぐる七夜 vol.2
アートハウスへようこそ
連続講座「現代アートハウス入門」では、〈アートハウス〉の歴史を彩ってきた「ネオクラシック(新しい古典)」と呼びうる作品を7夜連続日替わりで上映。気鋭の映画作家たちが講師として登壇し、各作品の魅力を解説。さらに、全国の参加者とのQ&Aを交えながら、これからの〈アートハウス〉についての知見を共有します。第2弾となる今回は、全国24の劇場をつないで開催します。
予約フォームはこちら
1970年代から今日まで続く日本の〈アートハウス〉は、“ミニシアター”という呼称で親しまれてきました。ここは世界中の映画と刺激をもとめる観客とが出会う場所。多様な映画体験によって、未来の映画作家だけ��なく、さまざまなアーティストを育む文化的ビオトープとしての役割を担ってきました。上映されるのは、ただ楽しむための作品だけではありません。目を覆うほどグロテスクで、心をズタズタに引き裂く映画もあれば、ため息が出るほど美しい眼福の映画もあります。〈アートハウス〉の暗闇でスクリーンが反射する光を浴びることは、多かれ少なかれ——私たちの生き方を変えてしまう体験なのです。
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【上映期間】 2021年12月11日(土)〜12月17日(金)
【上映時刻】 毎日19:00上映開始、上映後に60分のオンライントークあり 各回30分前に開場します
【料金】 30歳以下 1,200円 31歳以上 1,800円 (全国の映画館共通料金です)
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第1夜 12月11日(土)開映19:00 [本編 99分+レクチャー 60分]
『クローズ・アップ』 原題:Nema-ye Nazdik
監督・脚本・編集:アッバス・キアロスタミ 撮影:アリ・レザ・ザリンダスト 録音:モハマッド・ハギギ、アフマッド・アスガリ 出演:ホセイン・サブジアン、ハッサン・ファラズマンド、モフセン・マフマルバフ 1990年|イラン|99分|カラー|(C) 1990 Farabi Cinema
失業者のサブジアンはバスで隣り合わせた裕福そうな婦人から読んでいた本について聞かれ、なりゆきから自分が著者で映画監督のマフマルバフだとつい偽ってしまう。婦人の家に招かれた彼は、映画の話を情熱的に語るうちに、架空の映画製作の話にこの家族を巻き込み…。映画監督だと身分を偽り、詐欺で逮捕された青年の実話をもとに、再現映像とドキュメンタリーを交差させて描いた異色作。
レクチャー:講師 深田晃司(映画監督) アッバス・キアロスタミとモフセン・マフマルバフの傑作群は、まだ二十歳前後であった私をイラン映画に心酔させた。『クローズ・アップ』は中でも特に熱狂した一作で、映画の底なしの可能性をこの作品で感じて欲しい。
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第2夜 12月12日(日)開映19:00 [本編 69分+レクチャー 60分]
『マッチ工場の少女』 原題:Tulitikkutehtaan tyttö
監督・脚本:アキ・カウリスマキ 撮影:ティモ・サルミネン 出演:カティ・オウティネン、エリナ・サロ、エスコ・ニッカリ、ベサ・ビエリッコ、レイヨ・タイバレ 1990年|フィンランド|69分|カラー
マッチ工場で働くイリスは、母と義父を養っている。ある日、給料でドレスを衝動買いしてしまった彼女は、義父に殴られ、母からドレスの返品を命じられる。ついに我慢できなくなった彼女は、家を飛び出しディスコで出会った男と一夜を共にするが、その男にも裏切られ…。何の変哲もない娘のどん底の人生を淡々と描き、絶望的な状況になぜか笑いが込み上げてくるアキ・カウリスマキ映画の真骨頂ともいえる一作。
レクチャー:講師 岨手由貴子(映画監督)×大江崇允(映画作家/脚本家) 「クラシック映画」と聞くと身構えてしまう人もいるかもしれませんが、それらは製作されてから何十年も、多くの人を魅了してきました。そんな映画の抗えない魅力を、一緒に反芻していく時間になればと思っています。岨手由貴子(映画監督)
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第3夜 12月13日(月)開映19:00 [本編 102分+レクチャー 60分]
『鳥の歌』 原題:Para recibir el canto de los pájaros
監督・脚本:ホルヘ・サンヒネス 撮影監督:ラウル・ロドリゲス、キジェルモ・ルイス 音楽:セルヒオ・プルデンシオ 出演:ジェラルディン・チャップリン、ホルヘ・オルティス 製作:ウカマウ集団 1995年|ボリビア|102分|カラー
16世紀にアンデスを「征服」したスペイン遠征隊の行為を、批判的に描く映画を製作しようとした撮影隊が直面した現実とは? 撮影に訪れた先住民の村で「ここから出ていけ!」と詰め寄られた映画人たちは、やがて問題の本質に気づく。アンデス世界の価値観に基づく独自の映画言語でゴダールらにも衝撃を与えたボリビア・ウカマウ集団の代表作の一つ。ロカルノ国際映画祭「質と刷新」賞受賞。
レクチャー:講師 小田香(映画作家)×太田昌国(シネマテーク・インディアス) アートハウスはあやしげな場所に見えることもあるかもしれませんが、それ以上に妖しい映画がかかっています。鑑賞後はより健全に、より不健全に、もしくはその両方になるかもしれません。あの映画のここは好きであそこは苦手など、誰かに言いたくなって、伝わらなくて、その体験まるごと、心のどこかに残り発酵していく映画がかかっています。小田香(映画作家)
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第4夜 12月14日(火)開映19:00 [本編 91分+レクチャー 60分]
『セールスマン』 原題:Salesman
監督:アルバート・メイズルス、デヴィッド・メイズルス、シャーロット・ズワーリン 撮影:アルバート・メイズルス 編集:デヴィッド・メイズルス、シャーロット・ズワーリン 音響:ディック・ヴォリセク 1969年|アメリカ|91分|モノクロ
ボストンからフロリダへ。聖書の訪問販売員たちの旅にカメラは密着する。彼らが訪ねるのは教会の信者で、一人暮らしの未亡人や、難民、部屋代も払えない子持ち夫婦など。安いモーテル、煙るダイナー、郊外のリビング、月賦払い…。物質主義的社会の夢と幻滅、高揚と倦怠が奇妙に交差する、アメリカの肖像画。ダイレクトシネマのパイオニア、メイズルス兄弟のマスターピースを本邦初公開。
レクチャー:講師 想田和弘(映画作家) 真っ白で空虚なスクリーンなのに、いや、真っ白で空虚なスクリーンだからこそ、いったい何が映し出されるのか、無限の可能性が存在しているんですね。なんだか不思議じゃないですか?
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第5夜 12月15日(水)開映19:00 [本編 92分+レクチャー 60分]
『ビリディアナ』 原題:Viridiana
監督:ルイス・ブニュエル 脚本:ルイス・ブニュエル、フリオ・アレハンドロ 撮影:ホセ・フェルナンデス・アグアヨ 編集:ペドロ・デル・レイ 出演:シルビア・ピナル、フェルナンド・レイ、フランシスコ・ラバル 1961年|メキシコ・スペイン|92分|モノクロ
修道女を目指すビリディアナは、叔父の屋敷に呼び出される。叔父は亡き妻に似た彼女を引き止めようと嘘をつくが、それに気づいた彼女は家を去る。絶望した叔父は自殺。責任を感じた彼女は貧しい人々を屋敷に住まわせ世話しようとするが…。カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞の一方で、カトリック教会から大きな非難を浴び、本国スペインやイタリアで上映禁止に至った問題作。
レクチャー:講師 広瀬奈々子(映画監督)×稲川方人(詩人/編集者) ああ、そうか、自分はこの世界に対して、「ちょっと待った」を言いたかったのだと気づかされる映画がある。新しいものの見方を発見し、立ち止まって何度も考え、答えのない旅に出る。いい映画には共感や同調よりも、もっと豊かで驚きに満ちたものが、色褪せることなくたくさん詰まっている。広瀬奈々子(映画監督)
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第6夜 12月16日(木)開映19:00 [本編 90分+レクチャー 60分]
『ある夏の記録』 原題:Chronique d'un été
監督:ジャン・ルーシュ、エドガール・モラン 撮影:ミシェル・ブロー、ラウール・クタール 出演:マルスリーヌ・ロリダン、ジャン=ピエール・セルジョン、ナディーヌ・バロー1961年|フランス|90分|モノクロ パリ、1960年、夏。街ゆく人々に軽量16ミリカメラと録音機が問いかける。あなたは幸せですか? あるいは、愛、仕事、余暇、人種問題について…。作り手と被写体とが制作プロセスを共有することで、映画が孕む作為性や政治性が明らかになり、リアルとフィクションの概念が問い直される。映画作家で人類学者のルーシュと、社会学者で哲学者のモランによるシネマ・ヴェリテの金字塔。
レクチャー:講師 小森はるか(映像作家)×月永理絵(エディター/ライター) 学生の頃に偶然観ていた映画が、数年経ってから、自分にとっての大切な一本だったと気付くことが増えました。途切れ途切れに蘇ってくる場面は、あの時わからなかった経験も、大事なものだと教えてくれました。小森はるか(映像作家)
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第7夜 12月17日(金)開映19:00 [本編 85分+レクチャー 60分]
『イタリア旅行』 原題: Viaggio in Italia
監督・脚本:ロベルト・ロッセリーニ 脚本:ヴィタリアーノ・ブランカーティ 撮影:エンツォ・セラフィン 音楽:レンツォ・ロッセリーニ 出演:イングリッド・バーグマン、ジョージ・サンダース 1954年|イタリア・フランス|85分|モノクロ
結婚8年目、一見仲の良いカテリーナとアレックスは、実は破局寸前。ベズビオ火山、ポンペイの遺跡、カプリ島などをめぐりながら、二人は離婚へと突き進んでいくのだが…。ロッセリーニは、バーグマンとサンダースに即興的な演技を求め、生々しい感情のゆらぎをフィルムに焼き付けた。ゴダールに「男と女と一台の車とカメラがあれば映画は撮れる」と言わしめたネオ・レアリズモの大傑作。
レクチャー:講師 三宅唱(映画監督)×大川景子(映画編集) 「人生は短すぎる」「だからこそ楽しまないと」いつどこでなぜその言葉が発せられるのか。私はその場面においてなにを見ていただろう?三宅唱(映画監督)
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【ESSAY】 「大地の魔術師たち」展(1989年)に関する議論(1):ラッシード・アライーンによる批判
本当に民芸や伝統に興味があるのなら、どうしてわざわざ世界のあちこちまで探しに出かけるのですか?なぜヨーロッパの村や町で探さないのですか?パリにだってまだあるのに。そうしないのは、それが十分にエキゾチックではなく、「他者」を表象しないからですか?
私たちはあなた方に同情して差し上げます、ですがどうして、本当に一体どうして、あなた方のいわゆる霊性の問題の解決策としてだけ私たちを使いたがるのですか? (引用者訳)
Rasheed Araeen, “Magicians of the Earth: On ‘Magiciens de la Terre’(1989),” in Exhibition, ed. Lucy Steeds (Whitechapel Gallery, 2014), 129-135. 上記の言葉は、1989年にポンピドゥーセンターで開催された「大地の魔術師たち」展のイベントにて、ロンドンで活動する現代美術家、ラッシード・アライーンが本展のキュレーションに対して投げかけた問いである。
ラッシード・アライーンは1935年にパキスタンのカラチに生まれ、大学で土木工学を学び、1964年にロンドンに移住してからは美術家の活動を続けてきた。当初ペインティングにあった彼の関心は次第に彫刻へと移行し、やがてアライーンはミニマリズムと参加型アートのパイオニアとなる。しかし、当時のイギリスのアートワールドは外国人作家に対して極めて閉鎖的であった。1969年にジョン・ムーア賞を獲得した彼の作品に何人かのギャラリストは興味を持ったが、彼らはなかなか展示には踏み切らなかった。「君の作品は好きだけど、私たちはイギリス人作家とアメリカ人作家しか展示しないんだ」 ある時は、そう告げられたという。
やがてアライーンは、アートワールドに根強く存在する帝国主義に対し、テキストやキュレーションを通して反論するようになる。彼のミニマルな作品は政治性からは切り離されているように見えるものであるが、作家人生を通して直面してきた不平等についての彼のテキストは雄弁だった。
アライーンは、1989年にポンピドゥー・センターとヴィレット・グランド・ホールで開催された「大地の魔術師たち」展への招待を受け、参加することとなる。キュレーター、ジャン=ユベール・マルタンは、西洋に蔓延るヨーロッパ中心主義をの現状を覆すような展覧会を目指し、存命の西洋の作家と非西洋の作家を半数ずつ選定し、同じ大きさの展示空間を与え、「平等なやり方で」展示をした。この展覧会について解説している、artscapeのArtwordsにおける「大地の魔術師展たち」の項目を引用したい。
1989年、ポンピドゥー・センターで開催されたJ=H・マルタンによる企画。西洋と非西洋の区別なく世界中から100人の同時代作家を選定し、仮面や曼荼羅といったいわゆる民俗「資料」と「作品」とを併置して展示した。同様に民族博物館コレクションと美術館コレクションを並べて展示した大規模な展覧会として「20世紀美術におけるプリミティヴィズム」展(MoMA、1984)の先例があるが、まさにそこで紛糾した議論こそがこの企画の背景となっている。すなわち「資料」と「作品」の分類が暗に孕む、西欧に根深く残存している植民地主義的差別意識の検討である。「アート」を相対化させようとする態度はタイトルの「魔術師」という総称からして明らかで、物故作家を含めず、出展作すべてに作家名を表記し、全作家にほぼ同面積のスペースを用意するなど徹底していた。表現者を同列に扱うことの徹底は、美術概念のみならず美術館と博物館を分化させているミュージアム概念の問い直しであるともいえる。ガーナの奇抜な装飾棺桶などが話題になった一方で、なおも展示に「先進国」と「第三世界」とを分ける階層意識を見る指摘もされたものの、90年代に先駆けてマルチカルチュラリズムの議論を深めた画期性は大きい。「アフリカ・エクスプロアーズ」展(アフリカ美術センター、1991)をはじめ、90年代に入ってこの趣旨を引き継ぐ展覧会は各地で開催された。なお、日本からは河口達夫、河原温、宮島達男、勅使河原宏の4人が参加した。
Artwords, s.v. “「大地の魔術師たち」展,” by 成相肇, accessed June 17, 2018, http://artscape.jp/artword/index.php/「大地の魔術師たち」展.
ここではこの展覧会は、「20世紀美術におけるプリミティヴィズム」での問題を引き受けて企画・キュレーションが行われたものであるとし、その「90年代に先駆けてマルチカルチュラリズムの議論を深めた画期性」が評価されている。
そして、ラッシード・アライーンは、この解説文のうちの一行で語られている、「なおも展示に『先進国』と『第三世界』とを分ける階層意識を見る指摘もされたものの」という部分の仕事を行った作家だった。現代においてこの展覧会はグローバル時代のキュレーションの一つのあり方を示した例として参照されるが、そうしてこの展覧会を振り返る意義はアライーンらによって当時幾度となく行われた議論にこそあるだろう。
幸い「大地の魔術師たち」展における議論に立ち戻るための文章は、たくさんの本に収録されている。その中でもまず、ルーシー・スティーズが編集した『Exhibition』(2014)に収録されている、アライーンが「大地の魔術師たち」展に対して行った批評を拙訳ではあるが紹介したい。
以下にアーティスト、ラッシード・アライーンによる「大地の魔術師たち」展への批判(1989)の全文を引用する。
(パリにあるポンピドゥーセンターのイベントにて、)皆さんに英語でお話をしなければならなくてごめんなさい。この謝罪はつい先ほどガイ・ブルットが行った謝罪と同じものではありません。私が皆さんにフランス語でお話できないのは、私がフランスの領土下出身ではなくてフランス語を話せないからです。私はイギリス領土下の出身です。私は英語の他に、実は二つの言語を話せます。私の母語はパンジャーブ語で、国語はウルドゥー語です。今、そのどちらかの言語で皆さんに語りかけることもできたでしょう。もしかするとそれは皆さんには新鮮に聞こえて、楽しんでもらえたかもしれません。そこに私は抑揚さえつけて、より面白く聞こえるように話すこともできたでしょうが、皆さんは私が話していることを何も理解できなくなってしまうでしょう。そのため、私は皆さんと話をするにあたって植民地時代の話法に戻ってこなければなりませんでした。これは一つのパラドックスであり、それはこれから私がお話する、この展覧会全体のパラドックスでもあります。
これは、私がこれから提起したいことの前置きに過ぎません。私はここ十五年間このような問題を扱ってきて、Third Text(ジャーナル)に「プリミティビズムからエスニックアートへ」という記事も書きました。これは結構長い記事ですし、もう手に入るので、今ここでは学説的にそれらの問題について話すのは避けたいと思います。しっかりと読みたいと思う方は、ぜひこの雑誌を手に入れてください。さて、ここで私がこれから話すのは、非常に個人的なステートメントです。
本日の私の登壇は、この展覧会の参加作家である私自身によって、また、私が今回参加するにあたって抵抗感を抱いてきたという事実によって決められました。ですから、今日は私の個人的問題についてお話させていただかなければならないと思っています。そしてその中で、とりわけ本展覧会における他者の認識のあり方と、私たちの現代文化に対する彼ら(他者)の芸術的なアプローチがどのようなものであるか、ということに関連して、この展覧会が提示した幾つかの疑問点についても触れられたらと考えています。これらの問いは別に新しいものではありませんが、自己満��せずに議論を続けていくことは重要なことです。このような祝いの場でただあぐらをかき、やりたい放題するのは容易いですが。
私はこの展覧会を見た後、どうして自分が参加しているのかわからなくなりました。私の立場や視点がこの企画とあまりにもかけ離れていたので、私は一人の参加作家として使われていなかったのではないかと感じ始めました。このように感じているのは、私だけではないと思います。いわゆる「第三世界」出身の他の作家たちも、同じ立場にいます。
私たちは皆、少数集団を作ります。これはラ・ヴィレットの展覧会場に到着した最初の日にはっきりとわかりました。そこでは皆、エキゾチックな者か有名なヨーロッパの作家たちのどちらかを追いかけ回しているように見えました。
ところで、私はこの段階で、私のここでの発言は、個々の作品やそれらの芸術的な質や価値に向けたものではないことを明言しておきたいと思います。私は伝統というものが過去のものであるか今に続くものであるかということに関わらず、その重要さを重々理解しています。そして私は、特に領土支配下にあり独立の地を見つけるのが困難になっている文化のために、いつも伝統の重要さを強調してきました。しかし、ここでの問題は何らかの伝統についてではなく、とりわけ何かラディカルな変化に向かおうとする力によって伝統が使われるという、そのやり方にあります。インドでは、伝統に留まろうとする、または伝統に回帰しようとする人々と、国を近代化したい人々との間での抗争が19世紀から続いています。これは、20世紀の最も偉大な思想家の一人、ラビンドラナート・タゴールが述べた以下の文脈の中で語られています。
「恐る恐る因習的な型に従い続けることは未熟さの証である…この国の作家はインド美術として分類されえる何かを作るというその義務を拒否するべきなのだ」
これは1920年代に語られたことです。もちろん物事はあの時代から変化しました。文化的アイデンティティーを拒否することから、改めてそれを自己主張することへのシフトしてきています。しかしこれは伝統に回帰することを意味するわけではありません。そこに伝統的な勢力の再興があるならば、それは西洋の帝国主義を前にしての自己定義という駆け引きのうちの一つです。そして、この展覧会のカタログではそのように書かれていましたが、霊性の探求は必ずしもこの伝統の再興の中心にあるわけではありません。
この展覧会に参加して遺憾に思うのは、私の制作自体が、異文化出身者として私に影響を与えたものとは切り離されているからというだけではなく、「ヨーロッパ人に帰属するモダニストとアヴァンギャルド、そして非ヨーロッパ人に帰属する伝統」という二つの分かりやすいカテゴリを基盤としたこの展覧会の趣旨とは反対の立場にあるからです。私は、モダニズムの非宗教的で革新的な側面に影響を受け続け、その発展に貢献し、またそれを西洋から解放することができたら、という野心を追い求めて人生のうちの25年をヨーロッパで過ごしてきた作家として、ここである問題に直面しています。私は自分の立場と対照的なこの状況に置かれて一体どのように応答したらいいのでしょうか。私は人生をかけてのようなことから逃れてようとしてきたというのに、いったいどのようにして西洋のエキゾチックなものに対する夢中さを、そしてそれに魅了されるすべての西洋の作家たちを、共有することができるというのでしょうか。私がいわゆる第三世界の一員であるとして――私にとっての第三世界はカテゴリーでも地理的な空間でもなく、概念ですが――どのようにして、この展覧会に参加できてただ嬉しいとしか思っていない世界各国の多くの作家たちの気持ちを、私が共有できるというのでしょうか。
私は魔術師ではありません。たとえ作品に何らかの霊性が付与される時であっても、私にとって魔術というのは芸術とは全く関係ないものです。もしこの「魔術」という言葉に皮肉が込められているなら、私はそれを理解できていません。私はそれがこの展覧会の中で何を意味するのかわからないのです。私はこれまでいつも魔術は何らかのペテンや霊威――もしかするとそれらは成功と権力を獲得するためには必須のものなのかもしれません――と関係のあるものだと思っていました。ところで、それと私たちにいったい何の関係があるというのですか?もしこの展覧会が権力を祝うためのものであるならば、なぜ私たちは呼ばれたのですか?私たちの権力のなさを嘲るためでしょうか?三ヶ月後には、私たちは自分の村の野生に帰るように言われて、ヨーロッパのヒーローたちは現代美術を支配して独占し続けるのですか。
私は、霊性のために芸術をやっているためではありません。私にとっての芸術は職業であり、自己消費や自己満足に限らない、知的な追及を要する非宗教的な活動です。それは新たな思想の追求であり、私個人の領域に限らない、普遍的な思想との関係の中でそれらの新たな思想を言語化し表現することです。そして、もちろん、それは新たな思想は動的な文化や人間性の進歩に必須のものであるという考え方に基づいています。いま、私の作家としての野心を明らかにしたのは、みなさんの興味を私の作品へと向けることを目的にしたものではなく、第三世界出身の私たちがこのような野心を持った時に直面する基本的な問題について指摘したかったからです。私たちは、自らを近代の発展の前線に置くような大志や野心への承認を誰かに��り渡さなければならず、この近代世界の一員になるべきではないとされているのです。私たちの功績について、「彼らは存在しなかった」とすべての美術史の本が語るでしょう。ですが、私は今ここにいるということを嬉しく思っていますし、私をこの議論に参加するように招待してくれた主催者に感謝しています。私はこの展覧会がすべての終わりになるのではなく、意義のある議論の出発点になることを願っています。
これはお互いのことをよりよく知るためのよい機会になるかもしれません。知識だけが無学に対抗することができるのです。しかしながら、意義のある議論や対話は真の平等の上で飲み成り立つということを理解しなければなりませんし、フランス革命の200年祭を祝福している今それを認識することはとりわけ大切なことです。世界的に言えば200年前の自由、友愛、平等の宣言は大して達成されていませんが、希望を捨てて絶望してはなりません――ただ私は、現在の問題を解決するための西洋文明の能力については懐疑的ですが。
いきなり本題から議論を始めてしまってすみません。私は不平等の政治ではなく、芸術について話さなければなりません。しかし、私たちはそれらを切り離すことができるのでしょうか?一方が莫大な権力を持っていてもう一方が何も持っていないという、世界の異文化間にはびこる不平等の存在を無視することができるでしょうか。この展覧会はそのような不平等さをいくらか実演して見せているだけでなく、祝福することによってそれをさらに強化しています。異文化をただ伝統という観点のもとで見て、その文化特有の伝統的な表現としてのみ捉えることは、近代史に参加するための現代的な闘争をその文化に与えない、ということです。例えば本展においてインドは、あまりにも歪んで提示されているだけではなく、その近代的な性質はすべて無視されています。
インドにおける近代的な性質は西洋の描くそれとはまったく相反するものであるというのは事実かもしれません――ですが、その抗争を無視すること、そしてそこにある根本的な動機は、インドを近代世界から切り離すためでしょう。インドをただ民俗や宗教的な伝統に還元して、それを無力にするのです。
このようなことから、本展覧会のコンセプチュアルな枠組み――確立された位高き西洋の作家たちによって提示されたモダニズムと、ここでは伝統文化によって提示されたいわゆるプリミティビズムとの関係のようなもの――の中では、異文化間の対話を築くことは不可能に思えます。
また、皆さんにお話をしようとするにあたっての私個人の苦労に、私が立っているべき立場がインビジブルであるということもあります。それは認識されないし、認識されえるようにも思えません。どういうことか説明させてください。私がこの展覧会に招待されたのは、私の近作のうちの何点かが私の出身文化をほのめかすものであったので、私の作品はこの展覧会の趣旨に合っていると判断されたからでした。一方で、もし過去25年間のアヴァンギャルドのムーブメントについての特別展があったとしても、私が過去25年間ヨーロッパに住んでいてミニマルアートとコンセプチュアルアートの前線にいたという事実に反して、私はそこに呼ばれなかったでしょう。
異文化が論点の時にのみイベントへの参加の誘いを受けることは、私にとって珍しいことではありません。例えば、1998年*1の10月、世界博物館というロッテルダムにある民族学博物館から、「異世界からの美術」という展覧会のためのカンファレンスに招待したいという手紙を受け取りました。同封されていたリーフレットにはこのように書かれていました。「西洋にヨーロッパでは…(すみません、これは私が書いた英語ではなく引用しています)、非西洋世界における現代文化の発展への関心が高まっています。その魅力的な例として、マルケスやショインカのノーベル賞受賞や、そしてセンベーヌ・ウスマンやスレイマン・シセ*2のようなフィルマーの躍進(おそらくフィルムメーカーという意味でしょう)が挙げられます。非ヨーロッパ人抜きのオランダ国際詩歌祭、ロッテルダム祭のプログラムなど想像できません。」
私はこのように返事をしました。「申し訳ありませんが、招待をお受けすることはできません。」私の不躾な物言いをお許しください。「私は、非ヨーロッパ人作家の作品の議論と熟考のための民族学博物館のフレームワークを、受け入れることができません。お気持ちは感謝しますが、あなた方は根本的なところで間違っています。非ヨーロッパ人の現代美術は、現代のヨーロッパの作家の作品と異なるものではありません――作品の質は個々の作家によって差があるでしょうが、その現代性は同じです。もし彼らの功績が、たとえばマルケスやショインカのようには評価されないとしても、それは異文化的である作品自体とはなんら関係がありません。問題は、異なる文化的慣習ゆえ��非ヨーロッパ人作家の作品を理解することが難しいということにではなく、むしろ非ヨーロッパ人の作品の中に近代性を見出すことを阻む、西洋文化に存在する確たる仮定のほうにあります。」
ここで指摘しているのは核となることです。西洋において支配的な視点は、異文化出身の作家は見るに値しない西洋美術の低俗な模倣しか生み出してこなかったというもの、また彼らには近代の文脈の中でオリジナルな作品を作る能力がなく、それはどういうわけか彼らの文化の性質に関係しているというものです。異文化は、西洋文化に侵されておらず純粋であるときのみ本物であるというのです。この視点はこの展覧会のコンセプトの枠組みの中に組み込まれていますし、それが本展が異文化の伝統についてここまで気にすることの理由かもしれません。私は、私たちの現代美術に模倣が全くないということを言っているわけでも、モダニズムの枠組みを当てはめていることに何も問題がないと言っているわけでもありません。問題は、私たちの文化ではなく、他者が中心に入ることを許さないモダニズムのイデオロギーにあるということです。「他者」は、現代の文化から凝視されながらもその発展に参加することはできず、辺境に留まらなければならないのです。
どうしてモダニズムについての問いが私たちにとってここまで重要なのでしょうか。それを理解するためには、反植民地闘争を理解しなければなりません――それは支配者を交代するだけのものではありません。それは、単なる伝統の再興でも保存でもなく、停滞した社会の構造を壊して、近代化のダイナミズムの一員となるということです。例えばインドにおける私たちの闘争は、非宗教的かつ、近代的で民主的なものです。インドにおける近代性の探求には、必ずしも伝統を否定する必要性などなく、それは私たちの時代の一部を成すダイナミックな発展の流れを通じ、新たな歴史的文脈を伝統に付与することができるものです。そして、それはまた近代国家としてのインドへの転換において、新たな役割を担うのです。もしも伝統が変化の一部になることを拒否するのであれば、それは化石になり、変化のダイナミズムの障害になってしまいます。
一方で植民地主義は伝統的な構造を維持することを推奨し、フランツ・ファノンが思考のミイラ化と呼ぶものを生み出します。
「文化のミイラ化は、個人の思考をもミイラ化します。植民地の人々に広くみられる無関心さは、この働きの理論的な結果です。そのため私たちの目には、古典的で不活発な組織は、まるで伝統の重要性や文化の特別性、支配下の人々の個性を盛り込んでいるかのように見えるでしょう。この偽りの尊重は、実際にはもっとも入念なサディズムであり、酷い蔑みであるも同然です…定期的に見受けられる『先住民の文化を尊重すること』への関心は、…文化によって生まれた価値を熟考する、ということを意味しません…むしろ、この動作は、文化をモノとして扱い、閉じ込め、投獄するという決定を露呈しています。エキゾチシズムは単純化の一つの形です。それは文化の対立を許しません。その一方で、そこにはダイナミズムやその成長、深さが認められているような文化もあります。このことに関して私たちはその文化の性質や希少性、物自体に注目しますが、その構造に目を向けることは全くありません。」
私はこの展覧会全体のコンテクストにおける「現代」という言葉の使われ方を奇妙に感じます。文字通り読めば問題がないかのように見えますが、一方で「現代」とは同時代性からの出発という意味であり、近代という言葉と同義語までは言わずとも近代との関係をほのめかすものです。例えばインドでは、たとえ古典的、民芸的な伝統が過去に帰属するものであろうと今日に存在するものであろうと、「現代」という言葉はそれらから区別されています。また、この展覧会に参加している西洋の作家たちが皆、民芸的・伝統的な作家ではなく、現代美術のメインストリームで活動しているということを見ると、それは合点がいきます。一方で、異文化の場合には、そこの区別は作られないのです。同じ時代に作られた芸術の全てをその時代の現代美術だと判断するのなら、どうしてこの展覧会にヨーロッパの民芸的・伝統的な作家は含まれていないのですか?ヨーロッパの民芸的・伝統的な作家たちはいったいどこですか?本当に民芸や伝統に興味があるのなら、どうしてわざわざ世界のあちこちまで探しに出かけるのですか?なぜヨーロッパの村や町で探さないのですか?パリにだってまだあるのに。そうしないのは、それが十分にエキゾチックではなく、「他者」を表象しないからですか?
異文化において今日作られた芸術がいわゆる西洋の現代美術というものから異なる構造を持っているという考え方は、完全にばかげています。それは、資本主義が地球の隅々まで侵食し、世界中の社会的、経済的、文化的な生産を変えたという事実を無効にすることです。これは別に新しいことではありません。芸術はいつも支配的なシステムとの関係の中で作られてきましたし、もしその支配的なシステムが階層的であれば、芸術の生産も社会階層によって異なってきます。今日の現代美術が支配的なシステムとの関係の中で世界中で作られているという事実を否定するのは、ナイーブなゲームをするためか、問題をややこしくするための意図的な試みかであるかのどちらかです。
今日世界中にある課題は権力が近代世界に介入するということであり、そして今日作られているメインストリームの芸術はこの課題の一部です。西洋の作家は、「様々な人種的派閥を持つ歴史的な主体としてのモダンアーティスト」というヘーゲル的な理解のもとで、作品を商品へと変え、各々の複雑性が強調された価値を交換するための全ての権力や評価、そしてまた国際的なアートマーケットへのアクセスを持っている一方で、そのアクセスは異文化の作家には開かれていません。この展覧会はそのような課題の存在を否定しており、またどういうわけか、この問題によって生まれる論争や反論を認識することも拒否しています。この展覧会は重要な問題を扱うことに失敗していますし、新たな方向性を提示する機会も逃してしまっているのです。
私たちは200年の間、あなた方の自由、友愛、平等の宣言に耳を傾けてきましたし、私たちはそれらの目標を獲得するために出来る限りのことは全てやってきました。それでもあなた方は、私たちがその一員であり続けてきたということを、知りたがらないのです。あなた方がしたいことは、私たちの古い村や寺、神社に行くことだけで、歴史の分岐点の上に立っている私たちに会うことは拒絶します。私たちはあなた方が、存在論的でも心理的でもなんと呼んだっていいのですが、深刻な危機の中にいること、そしてあなた方の文化が――「私たちの文化」と呼びたいところですがこの独占下であなた方はそのように主張されていますので――あなた方の文化がばらばらに解体されてきているので気をしっかり保つのが大変になってきていることも知っています。私たちはあなた方に同情して差し上げましょう、ですがどうして、本当に一体どうして、あなた方のいわゆる霊性の問題の解決策としてだけ私たちを使いたがるのですか?
私たちはあなた方から、どのように文明化し知的な議論を行うかなど、世界に関する様々な知識を学びましたが、今私たちは同じ文脈の中で同じレベルに立って対話をすることさえできないのです。どうしてあなた方は私たちに話しかけるために異なる文脈をわざわざ探す必要があるのですか?すべての西洋文明の重荷をあなた方フランス人の肩に背負わせてしまっていたらすみません。私は文句を言うためにここに来たわけでは���りませんし、事実皆さんに文句を言うことは何もありません、ですが私はこの展覧会に失望したということは言わなくてはなりません。これは美術史の転機となったかもしれないのに。
オランダに手紙を送った数日後、私は「大地の魔術師たち」展の参加のためパリへの招待を受けました。私は自分の感情に奇妙な喜びが混ざっていたことに驚きました。それは35年間の中で私が初めて受け取った国際展への招待だったのです。しかもパリです!ここでお話しさせていただいたように私はこの展覧会に疑念を持っていましたが、断ることができませんでした。私があの時ノーと言っていたら、この展覧会に何の変化ももたらせなかったでしょう。自分の参加で今回何か変化を起こすことができたのかどうかも、ここでお話したことが何か状況を変えるものになるのかどうかも私にはわかりませんが、皆さんにここでお話することができてよかったと思っています。ありがとうございました。(引用者訳)
Rasheed Araeen, “Magicians of the Earth: On ‘Magiciens de la Terre’(1989),” in Exhibition, ed. Lucy Steeds (Whitechapel Gallery, 2014), 129-135.
アライーンは本批評文で、「第三世界」出身の作家として、この展覧会を考える上で重要なキーワードである「霊性(spirituality)」や「魔術(magic)」について検証し、また彼のような作家が現代美術を行う上で直面しなければならない問題点を提示してその根底にあるものを指摘している。この批評文は、不当なキュレーションを受けた異文化出身の作家が、見せかけのもてなしの内側にある搾取性に知的に応答し、どのように議論に参加していくことができるかを示しており、30年ほど前に書かれたこの文章の幾つかの部分は、現代においてもまだ悲しいほどに痛快に響くままである。
次回の更新では、以上のような批判に対してキュレーターがどのように返答したか、ジャン=ユベール・マルタンへのインタビュー記事を翻訳することに合わせて、中心地で行われる国際芸術展のキュレーター達が今日のポストコロニアリズムについてどのような態度を取っているかを考察していきたい。
*1 98年と記述されているが、この展覧会が89年に行われたものであることから、間違いである可能性がある。 *2 アライーンが受け取った手紙ではSulaiman Sisseと書かれているが、スレイマン・シセの正しいスペルはSouleymane Cisséである。手紙全体に多くの文法の誤りやミススペルが見受けられ、アライーンは補足をしながらあえてそのまま読み上げた。
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東京は梅雨入りしましたが、今日は気持ちの良いお天気でした。今週もマントラクラス、トランスクラス、サイキックアートクラス、Prime90、そしてこれからインナージャーニーと、毎日のように誘導瞑想を録音したり、資料をまとめたり、参加者の方々の光と出会っていたら、あっという間に過ぎてゆきました。気がつくと今年も半分が終わろうとしています。
写真は、今週のサイキックアートクラスから。上から、有名アーティストへのオマージュを込めた似顔絵、横顔の似顔絵、私の指導霊、そしてお互いの特徴ある髪型を持った時代の過去世のポートレートを描いていただきました。どの絵も唯一無二な個性を持ち、印象的で、創造性に溢れていて素晴らしいです。早いもので、今学期もあと一回の授業を残すのみとなってしまいました。淋しいです😢秋学期は、日曜日にもサイキックアートクラスを開催する予定です。今まで平日の都合がつかなかった方にもご参加いただけるようになりました。
マントラ入門クラスは、当面一学期制とさせていただくことになりました。このクラスのカリキュラムは、まずサンスクリット語のアルファベットの発音をしっかり覚えていただくことから始まります。口の中や舌の位置の説明や、プラーナと呼ばれるエネルギーをどう使いこなすのかを知っていただき、2回目からは、学問や芸術の成果を願うマントラ、困難や苦難を取り除いてもらうマントラ、発音や音程の間違いを許してもらうマントラと続き、5回目の最終回を迎えます。これから5回目のクラスを開催するので、最終回の内容は秘密です😁。毎学期同じカリキュラムで、特徴のあるそれぞれのマントラを覚えていただきます。神聖なる音霊に触れ、高次からもたらされる光の体験をしてください。マントラ入門修了後は、ぜひ開堂先生のマントラクラスへとお進みください。
今月、6月は性の多様性についての理解を深め、LGBTQの権利について考える『プライド月間』ですね。性別も、スペクトラムで現す時代になっています。そしてタイミングよく、オリンピック、パラリンピックの出場選手の性別についても議論が起きています。生まれた時に男性の肉体を持っていたトランス女性が、女子重量挙げの選手枠を獲得したことが物議を醸しています。男性ホルモンのテストステロン値が一定以下なら、女性選手として参加することが認められるそうですが、それならば今後は、性別という枠はオリンピックだけでなく、全ての分野で意味を持たなくなってゆくのでは、と思います。既に人種という枠は取り払われているのですから、その競技に相応しかったら、どんなジェンダーでも参加できることにすればいいんじゃない?と思うのは乱暴でしょうか。また、ターフ(TERF)と呼ばれるラディカル・フェミニスト達の存在も話題になっています。女性の権利を主張していくと、トランス女性の排除に繋がる部分が出てくるからです。リベラルとされているアートの世界にも同じような問題が波及しています。最近では、ターフでありトランスフォビアとみなされているJ.K.ローリングを支持したあるアーティストの作品を、���ギリスの王立芸術院はショップから一旦排除し、それについてアーティスト本人に謝罪しました。その対応について、多くの批判が出ています。そういったキャンセル・カルチャーも次第に本来の意味を失い、過激になってきている部分があると思います。それならば、本屋にはもう、ハリー・ポッターシリーズは置けなくなるのでしょうか。昔愛した、たくさんの絵本が本屋から姿を消してしまい、寂しい思いをしているのは私だけではない筈です。
私たちは性別や国籍、年齢や肉体を超えた存在であることを、世界中の人々が理解することを願います。本来、オリンピック・パラリンピックはそのことに気づかされる、4年に一度の光の祭典なのではないでしょうか。
明日は久しぶりに、サンデーサービスに参加します!お時間のある方は、どうぞお立ち寄りください。
ご参加はこちらからどうぞ。(約5分前から入室が可能です)
https://us02web.zoom.us/j/88479516286
ミーティングID: 884 7951 6286
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Soul Journey 〜インナー・ライトとの出会い〜
7月26日(月) 午前10:00〜17:00(お昼休憩1時間)
8月29日(日) 午前10:00〜17:00(お昼休憩1時間)
同日ともに同じ内容です
料金:会員8,000円・非会員10,000円
講師:森 梢
瞑想経験者ならどなたでもご参加いただけます
この6時間ワークショップの目的は、ミディアムシップを行う時や、人生におけるさまざまな選択肢に向き合う時に妨げとなる、さまざまな思い込みや固定概念、従来の価値観というフィルターから解放され、自分の本来の魂の輝きである『インナー・ライト』を取り戻してゆく事です。
それらのフィルターが、いつ、どこで、なぜ作られたのかを、過去世や今世と向き合うことを通して知ることは、来世へと繋がる魂の旅路『Soul Journey』を理解することでもあります。
ミディアムシップは、他者、相談者に対して行うだけのものではありません。 自分自身にとって必要なアドバイスを得ることにも、その能力は発揮されます。
また、自分自身の魂を磨き、その価値を知ることにも繋がりますし、得意分野を知り、伸ばすことにも役立ちます。
このワークショップでは、主に過去世をテーマとしたレクチャーと、自分の中の光に気づく実習を用意しています。 あなたの『インナー・ライト』が、さらに輝きを放ちますように。
◉ このワークショップは以下のような方に向いています
・ミディアムシップに興味がある
・サイキックとミディアムの違いを知りたい
・ミディアムシップを行うのに必要な条件が知りたい
・自分の思い込みや固定概念に気付きたい
・過去世において作ったフィルターや課題に向き合い、現世での学びにつなげたい
・現世において作ってきたフィルターや課題に向き合い、来世での学びにつなげたい
・自分の得意分野が知りたい、または伸ばしたい
・ミディアムシップにおける無意識なコールドリーディングを避けたい
・グラウンディング、サイキックプロテクションについて知りたい
・スピリットからのメッセージと自分の想像の違いを知りたい
・自分のミディアムシップを向上させたい
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Prime90 マントラ、正しく唱えていますか?
2021年7月28日 19:30〜21:00
参加費:会員2,000円・非会員2,500円
説明:アイイスのオールレベルクラス、マスタークラスやサンデーサービスで唱えているお馴染みの3つのマントラ、「ガーヤトリーマントラ」「平和マントラ」「ガナパティ神への祈り」について、改めてじっくりと学ぶ90分です。正しい発音・意味・効果を理解し、高次元の波動に近づき、その恩恵に触れ、聖なる道具として役立ててゆきましょう。クラス受講者以外の、マントラに興味がある方のご参加も歓迎します。
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【《サン・シスター》から《フローラ》へ〜フローラ編〜】
《フローラ》 2015
《フローラ》は、琳派 400 年を記念する展覧会「PANTHEON-神々の饗宴-」に向けて制作された。 アートディレクター/アーティスト・増田セバスチャンと共作し、「風神雷神図」には描かれなかった幻の観音像をモチーフに、京都府立植物園の植物の女神として誕生した。 《サン・シスター》プロトタイプと同様に、目を閉じて瞑想し、目覚めると手を広げて立ち上がる。
「PANTHEON-神々の饗宴-」ドローイング 2014
◆「花」の新たな女神 フローラは、ボッティチェリの《プリマヴェーラ》をはじめ多くの画家たちに描かれてきたローマ神話の花の女神の名である。現代の「Kawaii」文化を牽引するアートディレクター/アーティスト・増田セバスチャンと共作し、尾形光琳の紅白梅図から引用した衣柄がカラフルなイルミネーションと共に浮かび上がる。 琳派の美学を継承すると同時に、流派や時空を超えたクリエイターと神々の饗宴により、京都や日本が培ってきた「自然や季節の変化に対する鋭敏で繊細な感性」が花開き、再生する。
琳派400年祭「PANTHEON-神々の饗宴-」2015年、京都府立植物園 鏡池 蓮華座に座る千手観音のように、鏡池の中で多種の睡蓮と共に《フローラ》は眠り目覚め、植物園のすべての花と植物に宿る女神となる。世界中の多くの神話や絵画のモチーフとなってきた花の神《フローラ》と、それを守り育てる新しい風神雷神である《風神の塔 Iitate Monster》《ウルトラー黒い太陽》との3神像。増田セバスチャンと、光のアーティスト・髙橋匡太とのコラボレーション展示により、共同制作の見地からも琳派を継承し新たな神像の降臨を試みる。
「福島ビエンナーレ2016」2016年、福島県立霞ヶ城公園 二本松の菊人形 昭和30年から続く菊の祭典とのコラボレーション。相生の滝のもと、紅葉に彩られて菊人形の伝統に現代アートの華を添える。
ヤノベケンジ展「シネマタイズ」2017年、高松市美術館 動物の形象を彫り込まれた《Church Chair》に囲まれながら《サン・チャイルド》と共演。
「Hibiya Festival」2018年 東京ミッドタウン日比谷(東京) 花の女神から、文明と社会を開花させる女神へと生まれ変わる。《サン・シスター》の頃から見つめてきた過去・現在を記憶し、未来への新たな旅立ちへと人々と誘う。宮本亜門によるコラボレーション演出で、《フローラ》は永遠に夢を忘れない大人でいられるための魔法を贈り届ける。
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「演劇人コンクール2020」最終上演審査 総評
昨年10月に行われた「演劇人コンクール2020」の総評を公開いたします。
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手応えを次へ
岩崎正裕
新型コロナウィルスによる感染症が全国的な拡がりを見せる中、無観客で開催された「演劇人コンクール2020」であったが、対策が充分に講じられた上で、8つのチームが互いの舞台を鑑賞し合うという環境は、平常時の劇場の熱気と変わりなく、ウィズコロナの時代を生きる演劇人の、ひとつの希望となったのではないだろうか。 二日間に渡るラインナップ、8つの戯曲の中に、4本もの『受付』(別役実作)が上演された。最も正攻法で作られたのが、宮田清香さん演出による上演だった。俳優が一部マスク着用で演じるなどの工夫は、現状に於いては不自然さを感じさせない。やりようによっては、平坦になりがちな『受付』であるが、場面場面のテンポや俳優のポジショニングが演出によって絶妙に設計され効果的だった。島村和秀さん演出による上演では、男1は全編全裸である。股関にある一物(作り物)は屹立している。そもそも導入から不条理という捉え方だろうか。アイデアとして面白いが、10分も経てば観客は、その裸体にも慣れてしまう。別役実の精緻な戯曲構造は、このようにしても崩れないのだ。一宮周平さんによる演出は二面客席、観客が舞台を挟んでの上演となった。そのためテーブルを前に、男1と女1はほぼ差し向かいのまま進行していく。受付を越えることが困難な、男1の状況を象徴的に表していた。しかし、俳優のポジションに変化がないためか、劇の起伏が乏しいとも感じられた。高山力造さん演出による上演では、女1は二人の女優により、ピース毎に入れ替わって演じられた。台詞のない一方は、ダンス的表現で劇空間を抽象化する。床に配置された赤い折り鶴など、魅力的なアイテムがちりばめられたが、私にはそれを、一つの視点で組み上げる能力がなかった。 『紙風船』(岸田國士作)は二団体によって取り上げられたが、両演出者ともに実験性の高いアプローチとなった。関田育子さん演出の上演では、岸田國士文体と、若い演者の身体に親和性があることに気づかされた。戯曲に書かれた夫婦の倦怠と、現代の男女のユルい関係性が馴染んでリアリティーがあった。旅に出ることを想像で語るのが仕掛けであるが、身体を用いて現出させるスタイルは確立されたものだろう。しかし、このスタイルは自己完結に陥る可能性も孕む。この先に何があるのか追求して欲しい。小野彩加さん、中澤陽さんのW演出による上演スタイルは、演技はリアリズム。そこにダンスが絡むという方法だろうか。テキストに忠実であろとしたなら、身体が言葉に回収されてしまう。もっと破綻してもよかったのではないかと、私には思われた。ここが二人で演出する難しいところなのだろう。 神田真直さん演出の『お國と五平』(谷崎潤一郎作)は、議論劇を暗黒劇に仕立てた。設定が時代劇であるゆえに、自意識満々の俳優がやれば、議論の面白さは半減するだろう。顔を仮面で覆い、そもそもそれが剥奪されているのだから台詞が一層際立つ。人間の持つおかしみも浮かび上がり、成果のある上演だったと云える。 酒井菜月さん演出の『班女』(三島由紀夫作)は、耽美的な世界の具現化。薄いベールの向こうの部屋は戯曲のムードをよく捉えていた。俳優たちの声量は、1000人のホールでも客席後尾まで届くもの。それが私には惜しまれた。江原河畔劇場のサイズに見合った声量なら、描かれる世界そのものをもっと信じられただろうにと思うのだ。 これだけの作品群を、二日間で観劇する体験はこれまでになかった。戯曲の読み方が違えば、或いは俳優が違えば、展開する作品世界は一変する。その当たり前のことを再認識する機会となった。演出家及び俳優諸氏には、今回得た手応えを、次に繋げて欲しいと切に願う。
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「ジェンダー平等元年」に寄せて
相馬千秋
これまで2016年、2019年と過去2回、本コンクールの審査員を務めさせていただいた。過去20年の歴史において、審査員5名〜6名のうち、女性は多くて1名、皆無の年も少なくなかった。一方、女性演出家の応募は年々増加し、本選参加者のうち半数は女性が占めている。評価する側/される側のジェンダーバランスの圧倒的な不均衡は、本コンクールだけではなく、日本の演劇界のあまりに見慣れた風景であり、そのことにわざわざ疑問を呈することが不毛にさえ感じられるような状況が長年続いてきた。私自身もまた、その不均衡を認識しつつも、男性社会の中の「女性1名枠」にどこか安住してきてしまった自覚がある。しかし昨年、キュレーターとして関わったあいちトリエンナーレ2019において、ジェンダー平等を掲げて参加アーティストを男女同数にした津田大介芸術監督によるアファーマティブ・アクションや、表現の自由の回復のためにボイコットという手段で抗議を示したアーティストたちの振る舞いを間近で経験し、私の中でも大きな葛藤と変化があった。 今回審査員のお話をいただいた時、私は主催者代表である平田オリザ氏および事務局の木元太郎氏に、審査員のジェンダーバランスについて考慮いただきたいと提案した。その思いはしっかりと受け止められ、審査員5名のうち過半数以上の3名が女性となった。またコンクール最終選考参加者も、蓋を開けてみれば男女4名ずつと同数となった。 これを、数の問題でしかないと低く見積もることは簡単だ。本来的には、演出家が女性であれ男性であれ、それを評価する側が女性であれ男性であれ、そのことが議論の対象にさえならいような状態こそを目指すべきである。だが現状においては、その地点への到達を目指す長いプロセスの第一段階として、数の平等を制度化し徹底することには大きな意義と効果がある。これは日本に限った話ではない。例えば、ドイツ語圏の年間ベストテン作品を一挙上演するベルリン演劇祭でも、選出される10作品の過半数以上は、女性演出家や女性グループのものとする取組が2020年より始まっている。 そもそも演劇は、その古典芸能由来の伝統から言っても、創作集団を率いる家父長性的な形態から言っても、男性中心・男性優位に傾きがちな芸術ジャンルである。それは歴史を見れば明らかだ。だが21世紀の今日、演劇界の現場は演者、制作者、観客、いずれも多数の女性によって支えられている。にも関わらず、劇場の芸術監督や支配人、フェスティバルのディレクターや実行委員、演劇系大学の教授陣、重要な賞の審査員など、制度や枠組み、価値基準や評価基準を作る側の多くは男性が占める。これはなぜか。その理由は、任命権をもつ層も圧倒的に男性多数であるため、男性が定めた男性目線の価値基準では、高評価を得るのも自然と男性に偏るという構造に起因する。この構造的不平等を一度リセットするためには、制度や価値基準を決める側においては尚更、数の平等は制度的かつ徹底的に行われなければならないと私は考える。 それを10年、20年続けたら、もはや「数の平等」などと叫ばなくてもいい世界が到来することを期待したい。劇場やフェスティバルの人事の際に「劇場の芸術監督や支配人は男性でなければ務まらない。なぜなら、設置自治体の首長や議員、関係団体の長は皆年配の男性で、女性だと下に見られて不利益が生じるから」というような議論が真面目になされる現状を、私たちは拒否していかねばならない。社会全体が変わらないからと諦めるのではなく、まずは演劇界という自分たちの足元から変革し実践していくことが先決だ。変革は、与えられるものではなく、日々の実践を通じて自ら内発的に生み出すものなのである。 そんなことを長々と総評の冒頭に書いたのは、ジェンダー平等に関する意識改革や実現への具体的な取組が、長い目で見た時に、何よりも本コンクールの目的である「未来を担う演劇人の人材育成」につながると確信するからだ。審査員の男女平等が実現した今回を本コンクールにおける「ジェンダー平等元年」と名付けるならば、ここに参加したすべての若手演劇人たちが意識改革の担い手となって、過去に逆行することなく、進んでもらいたいと切に願う。
今回指定された4つの課題戯曲は、いずれも特異な状況に置かれた男女が登場する。その関係をざっくりまとめると「日曜日にどこにも行かない倦怠期の夫婦」(紙風船/岸田國士)、「女主人と奉公人、横恋慕した旧・不倫相手の倒錯関係」(お國と五平/谷崎潤一郎)、「人の話を聞かずにまくしたてる受付の女とノイローゼ男性」(受付/別役実)、「恋人の帰りを待ちわびて狂った女と、倒錯・屈折した女性画家、狂女を連れ戻しにくる男」(班女/三島由紀夫)である。4人の作者はいずれも男性で、20世紀の近代日本文学史に輝く巨匠作家たちである。当時の男女が受け入れていた当時の社会制度や規範、そこから逸脱しようとする葛藤や欲望、対話とすれ違い。近代というものと格闘した作家たちは、その中心からどこか逸脱し、現実の裂け目に落ちた男女のある瞬間を切り取る。どれも1幕の中にドラマが凝縮された卓越した戯曲だ。 さて、時代・社会の異なる戯曲のセリフを変えずに演出するということは、その卓越した戯曲を立体化するだけでは不十分で、その言葉がどんな時代に、誰によって発せられたのかを自覚的に捉えること、すなわち戯曲の言葉自体を批評的に読むこと、その批評性を空間と時間に出現させることである。そう考えた時、今回参加した8つの上演は、どれも戯曲に描かれた世界を立体化はしていたが、戯曲の背後にある社会そのものへの問題意識の提示までは到達していなかったのではないか、という疑念が残る。 もちろん今回の8人の演出家による上演は、いずれも破綻がなく戯曲の言葉がしっかり響くものになっていた点は積極的に評価すべきだろう。昨年までは利賀村での開催であったため、コンクール参加者は、指定戯曲との格闘のみならず、利賀の特異な空間との格闘があり、今思えば、空間の特殊性をうまく演出に取り込めた作品が高評価を得ていた面もあったはずだ。だが今回は開催地が江原河畔劇場のブラックボックスとなったため、ニュートラルな空間での演出の技術がシンプルに試されたと思う。その意味では、どの作品も破綻がなく、演出技量は十分に証明されていた。 だが、それ故というべきか、私はどの作品も強く押すことができなかった。審査の形式上、議論の俎上にあげる3作品を挙げたが、その根拠は「演出の手つきの丁寧さ」「上演における破綻のなさと一貫性」といった基準に基づいている。個々の演目に対するコメントは講評会でお話したとおりなのでそちらを参照していただきたいが、今回はどの演出も一定のレベルに達していたと同時に、そこから突き抜けたものを期待していた身としては、もう一歩、野心的な上演に出会いたかったというのが本音だ。だがこの問題は、参加者にあるというよりは、課題戯曲の選定や上演形態の制限など、そもそもこのコンクールのフレーム自体に由来するようにも思われる。今の時代に、「演出」を競うとはどういうことか。コンクールの制度設計の大きな課題として、来年度の事務局で是非検討して頂けたら有り難い。
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「演劇人コンクール2020」の審査を終えて
ひうらさとる
今回初めて演劇の審査員をさせていただくことになり、畑違いの私で大丈夫だろうかと緊張していましたが、平田オリザさんはじめ柳美里さん、相馬千秋さん、岩崎正裕さんらのプロの解説を側で聞きながらたくさんの演劇を生で観る二日間はとてもエキサイティングで楽しい経験でした。
漫画の話作りも元になる話は同じでも、絵や画面構成、キャラクターの建て方などなどで読者が受ける印象は全く変わってきます。 演劇でもそれは同じなのだなあと実感しました。
特に今回は『受付』という同じ脚本の舞台が4本ありましたが、それぞれ異なった演出で全く飽きることなくその違いを楽しみました。 中でも宮田清香さん演出はオーソドックスでありながら脚本の意図がよく伝わり、なおかつ役者が生きる洗練された舞台で頭一つ抜けていたと思います。王道を逃げずにやり切る姿勢がとても素敵でした。
他にも高山力造さんの受付嬢を2人に分け、ビジュアルも耽美な演出、島村和秀さんのギャグに特化した��ュールな演出、ラストにも関わらず新鮮な印象を残したシンプルなセットで魅せた一宮周平さんの演出も心に残りました。
『紙風船』も二つの舞台がありましたが、これは脚本が大正時代のものと思えぬ、正に今の若手演劇人が描きそうな本で、関田育子さんは正に流行りの無表情で淡々とした台詞回しの演出をされていましたが、電車が行き交うシーンなど視覚効果が素晴らしく、小野彩加さん中澤陽さんはダンスで男女のすれ違いを鮮やかに演出されていたと思います。
そして『お國と五平』の神田真直さんは古典をパワフルに演出されていて実は下世話なキャラクターの関係性を浮き彫りしていました。
最後に『班女』の酒井菜月さんは耽美な世界観をしっかりとした衣装とセットで表現されていて、見応えがありました。
どの舞台もそれぞれに驚き��発見があり、私にとっても大変勉強になりました。 2020年は生の舞台やパフォーマンスが窮地に立たされた年でしたが、今回の演出のようにどうにかアイデアを出し合って創作を続けて行きましょう。 私もまた皆さんの舞台が観たいです!
* * * * *
一宮・宮田・神田 3氏の演出について
柳美里
3人の演出家について書く。
一宮周平さん演出の『受付』に好感を持った。 舞台セットも小道具も黒一色。「受付 INFORMATION」の卓上プレートと、事務所を示す床のバミリと、女の衣装であるツナギの3つのみが、白い。男は黒いツナギを着ている。 一宮さんは、2人の俳優をほとんど動かさなかった。事務机で対面させたまま延々と会話を続けさせたのである。 他の審査員からは、「演出をしていない」「あれでは演出をつけられなかった俳優がかわいそう」との意見が出たが、そもそも「受付」というのは、そういう場所なのである。受付係にどんな理不尽な対応をされても、受付を訪れた側には、書類や金員やサービスを受け取りたいという弱みがあるから、なかなか席を立てない。受付係との話がこじれて時間が経てば経つほど、このまま引き下がるわけにはいかないと意固地になって、席に釘付けにされるのが、受付なのである。 確かに演出的な冒険はなかったが、役所や銀行の窓口を訪れ、着席で向かい合ったまま口論になった時の不快感が全身に蘇ったほど、「受付」という場所はリアルに表現されていた。
訪問者の男を演じた佐藤竜さんが、いい。気弱で朴訥な語り口が、実にいい。佐藤さんに製造業・建設業・農業・林業・漁業などに従事する肉体労働者を演じさせたら、絶対にハマると思う。原発や除染や家屋解体の作業員の役をオファーしたいなと思い、手帳に「佐藤竜、ブルーカラー、似合う」とメモをした。
宮田清香さんは、『受付』の戯曲世界を、奇を衒うことなく誠実に舞台化した。 惜しまれるのは、台詞がラリーのように聴こえる箇所が多かったことだ。 別役実の戯曲の魅力は、「そうじゃありません」「そうですよ」「そういうことじゃありません」「そうなのよ」「そうでしょう?」などという指示語の多用によって言葉が指し示す方向を曖昧にしていき、いつの間にか観客を迷子にさせるところなのだが、その面白さが台詞のラリーの勢いによって削がれていた。 もう一つ気になったのは、マスクとフェイスシールドの使用方法である。宮田清香さんの演出プランである「2020年コロナ以降の感染症対策を積極的に取り入れたい」という意欲は買うし、滑り出しは成功していたと思う。しかし、やるならば、もっと徹底的に実際の使用方法を厳守した方がいい。女が男に近寄る時、本を手渡す時にフェイスシールドやマスクを外す理由が解せない。 別役実の『受付』と、感染症防護やソーシャルディスタンスとの相性は、もっと良いはずだ。 別役実の戯曲には、人間が無根拠なルールに囲われることによって、人間の内部が開かれる感覚というか、匿名の個と個が剥き出しに交錯する感じがあるからだ。
今回、わたしは、神田真直さんの『お國と五平』を最も高く評価した。 神田さんは、昨年の「利賀演劇人コンクール」第一次上演審査では、岸田國士『温室の前』でエントリーし、兄が妹の背に隠れて耳打ちし、妹の口から女友だちに自分の思いを伝えるという二人羽織めいた演出がユニークで、話をする(話ができない)、聴く(聴いていない)という会話の身体図式を組み替えることに長けた演出家だな、とわたしは彼を評価をした。 神田さんは、今回の『お國と五平』で、その視覚化を大胆に推し進めた。 舞台は黒一色。お國と五平は白い仮面、友之丞は黒い仮面で口から上を覆われ、3人の衣装は性差のない作業服のような黒服である。さらに、神田さんは、お國と五平の身体をSMの図式に編入させて、友之丞の身体を黒いドラム缶の中に据え付けた。所作の及ぶ範囲を敢えて極限まで狭めることによって、夫を闇討ちにした敵である友之丞を捜し歩くお國、お國の従者の五平、止むに止まれぬ恋情からお國のあとを尾け歩いている友之丞の三角関係の歪さを際立たせたのである。 ただし、四つん這いの五平に跨ったお國が、五平の首輪の鎖を引っ張る、尻を打つ、足で踏みつけるーー、というSMプレイのスイッチの数が少なく、次第に飽きてしまった。確かにSMには同じ行為を反復する儀式めいた側面もあるのだが、醍醐味は、エスカレートして後戻りできなくなる調教にあるのではないか。肉体的苦痛に加えて、精神的な服従、羞恥、支配や管理ーー、これらを受け容れることによって、Mは達成感、忠誠心、多幸感、生きている実感、プライドを捨て去った開放感を味わう。 ラストシーンの演出が、見事だった。 「拙者はあの熊谷の越前屋で、お身たちの隣りの部屋に泊つてゐたのぢゃ」と、友之丞が二人の秘密を観客であるわたしたちに暴露する瞬間である。裁かれる側だった罪人が、突如として裁く側に反転したことによって、友之丞が身を隠している(閉じ込められている)ドラム缶が、証言台あるいは裁判官席に見え、わたしたちを傍聴人席にいるような心持ちにさせた。 そこがそのまま殺害現場と化すわけだが、神田さんは、殺害シーンを黒いバッドでドラム缶を滅多打ちにすることで表した。五平が、バッターボックスにスタンドインした野球選手よろしく、いちいち左脚を上げてタイミングを取ってから、踏み込んで打っていたのが、可笑しかった。でも、ずっと同じだと、やはり飽きてしまう。野球少年がプロ野球選手のスイングの癖を真似するように、たとえば摺り足などのノーステップ打法などを色々披露してみたら、もっと可笑しくて、もっとおぞましかったのではないか? お國の命に従って友之丞を殺害した五平が、実は嗜虐性を有していた、とーー。 もう一つだけ言わせてほしい。殺害シーンは、ドラム缶滅多打ちが効果的だったと思うが、殺害後に遺体から首を切断するのも滅多打ちなのは、いかがなものだろうか? 幕引きはすうっと力を抜いて、お國の唱える南無阿弥陀を響かせ、敵の首を土産に帰路につくお國と五平を闇に溶けさせた方が不気味だった、とわたしは思う。
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表現不自由勢力 = 異論封殺派 2019年8月3日午前11時、私は名古屋市東区の愛知芸術文化センタービル10階の愛知県美術館チケット売り場に並んでいた。 この日の名古屋は最高気温34・8度が示すように朝からぐんぐんと温度計の目盛りが上昇。汗がねっとりと首にまとわりつく典型的な熱暑の一日だった。 広い吹き抜けの空間は冷房があまり効いておらず、汗が滲む中、チケット売り場には、2百人近くが並んでいた。 だが、窓口には職員が2人しかいない。緩慢な切符の売り方に、列は時間が経つごとに長くなっていった。窓口の2人も、やがて片方が消え、1人だけの販売になる。あまりのサービス精神の欠如に、私は近くの職員に「この長蛇の列が目に入りませんか? なぜ売り場が一人だけなんですか。おかしいと思いませんか」と言った。 しかし、職員は「申し訳ありません」というだけで何もしない。私は同じフレーズをこの入口だけで別々の職員に3回も言う羽目になる。 しかも、チケットをやっと買って中に入っても「順路」の案内がない。仕方がないので左側に歩を進めたら「順路はあっちです」と職員に注意されてしまった。順路を示す印も出さないまま「順路はあっちです」と平然と言う職員。これほど観覧者をバカにした芸術祭も珍しい。 芸術祭のテーマは「情の時代」である。パンフレットには 〈「情の時代」とは、いかなるものでしょうか。そこではきっと、私たちの習慣的な知覚を揺さぶる視点、例えば、動物の視点、子供の視点、いま・ここから遠く離れた「誰か」の視点などが盛り込まれることでしょう〉 とある。何が言いたいのかよくわからない文章だが、芸術祭にはままあることだ。 私は、まず10階の展示をひとまわりした。この手の作品は、作家の意図が伝わるものと、そうでないものとが明確に分かれる。いったい何を表わしたいのだろう、という作品もあれば、ストレートに心に飛び込んでくるものもあった。ひと通り10階の観覧を終えた私は、いよいよ「表現の不自由展・その後」の会場がある8階に向かった。 同展示は、日本国内の美術館やイベント等で撤去や公開中止になった作品ばかり20点以上を集めた企画である。すでに公開中止になったものを集めて展示するのだから、「あいちトリエンナーレ」にとって当然、覚悟の催しということになる。私も、「いったいどんなものなのか」と興味が湧いた。 8階には長い列ができている場所があり、すぐに「あそこか」とわかった。近づくと職員が「待ち時間は1時間ほどです」と叫んでいる。 すでに百人以上が並んでおり、人々の関心の高さが窺えた。やがて30分ほどで会場の入口が来た。 「展示品の写真撮影は結構です。ただし、SNS(ソーシャルネットワーク)への使用はお断りしています」 観覧にあたっての注意事項をスタッフが一人一人に伝えている。また、そのことを書いた「撮影写真・動画のSNS投稿禁止」という注意書きが入口手前に掲示されていた。どうやら「表現の不自由展」には、観る側も「不自由」が強制されるものらしい。そういう不自由さについて訴えるはずの展示なのに、「自己矛盾」に気づかないところが主催者のレベルを物語っている気がした。
入口には、白いカーテンがかかっている。めくって中へ入ると、幅2メートルもない狭い通路に、ぎっしり人がいた。左右の壁に作品が展示されており、それを人々が食い入るように見つめている。 手前の右側には、いきなり、昭和天皇を髑髏(どくろ)が見つめている版画があった。最初から“メッセージ性”全開だ。 反対の左側に目を向けると、こっちは昭和天皇の顏がくり抜かれた作品が壁に掛けられている。背景には大きく✕が描かれ、正装した昭和天皇の顏を損壊した銅版画だ。タイトルは「焼かれるべき絵」。作者による天皇への剥き出しの憎悪がひしひしと伝わってくる。 皆、無言で観ている。声を上げる者は1人もいない。 その先には、モニターがあり、前にはこれまた「無言の人だかり」ができている。 やはり昭和天皇がモチーフだ。昭和天皇の肖像がバーナーで焼かれ、燃え上がっていくシーンが映し出される。奇妙な音楽が流れ、なんとも嫌な思いが湧き上がる。次第に焼かれていく昭和天皇の肖像。すべてが焼かれ、やがて燃え残りが足で踏みつけられる。強烈な映像だ。作者の昭和天皇へのヘイト(憎悪)がストレートに伝わる。よほど昭和天皇に恨みがあるのだろう。これをつくって、作者はエクスタシーでも感じているのだろうか。そんな思いで私は映像を見つめた。思い浮かんだのは「グロテスク」という言葉だった。 画面は切り替わり、若い日本の女性が、母親への手紙を読み上げるシーンとなる。「明日、インパールに従軍看護婦として出立します」「私の身に何が起こっても、お国のために頑張ったと誉めてくださいね」 そんな台詞を彼女は口にする。インパール作戦は、昭和19年3月から始まった補給もないまま2千メートル級のアラカン山脈を踏破する過酷な作戦だ。とても看護婦が同行できるようなものではない。 私自身が拙著『太平洋戦争 最後の証言』シリーズ第二部の「陸軍玉砕編」でこの作戦の生き残りに直接取材し、飢餓に陥って数万の戦死・餓死者を出し、退却の道なき道が“白骨街道”と化した凄まじいありさまをノンフィクションで描いている。おそらくこの映像作品は真実の歴史など“二の次”なのだろう。 やがて、海岸の砂浜にドラム缶が置かれた場面となり、そのドラム缶が爆発し、宙に舞う。まったく意味不明だ。私の頭には、「自己満足」という言葉も浮かんできた。これをつくり、展示してもらうことで作者は溜飲を下げ、きっと自らの「創造性(?)」を満足させたのだろう。 私が取材させてもらった老兵たち、つまり多くの戦友を失った元兵士たちがどんな思いでこれを観るだろうか、ということが頭に浮かんだ。そして一般の日本人は、これを観て何を感じるだろうか、と。当時の若者は未来の日本を信じ、そのために尊い命を捧げた。私たち後世の人間が、二度とあの惨禍をくり返さない意味でも先人の無念を語り継ぐことは大切だ。少なくとも私はそういう思いで10冊を超える戦争ノンフィクションを書いてきた。 しかし、この作者は違う。そのことを肌で感じる作品だった。 少女像が展示されているのは、この作品群の先である。通路を出て広い空間に出たら、そこにはテントのような作品がまん中に置かれ、左奥に少女像があった。 少女像を人が取り囲んでいる。いきなり、「やめてください」「なぜですか!」そんな怒号が響いてきた。観覧者の一人が少女像の隣の椅子に座り、紙袋をかぶっている。どうやら、その紙袋を少女像にもかぶせようとしたらしい。それを阻止されたようだ。少女像のある床には、〈あなたも作品に参加できます。隣に座ってみてください。手で触れてみてください。一緒に写真も撮ってみてください。平和への意思を広めることを願います〉という作者の呼びかけがあり、それを受けて隣の席に座ろうとする人間もそれなりにいるようだ。 「やめてください」と叫んだ人は、どうやら展示の案内人らしい。観覧している人から質問をされたら答え、抗議されたら、それに応えるためにここにいるようだ。ご苦労なことだ。なかには過激な抗議をする人もいるだろう。いちいちこれに対応するのは大変だ。 少女像と一緒に写真を撮りたい人がいれば、この人はシャッターも押してあげていた。この日、美術館で最も大変な“業務”に就いていた人は間違いなくこの人物である。 怒号はすぐに収まり、何事もなかったかのような空間に戻った。日本人はおとなしい。ひどい作品だと思っても、ほとんどが抗議をするでもなく、無言で観ていた。その代わり、ひっきりなしにカメラやスマホのシャッター音が響いている。 少女像自体は、どうということはない。あのソウルの日本大使館前や、世界中のさまざまな場所に建てられている像だ。その横にはミニチュアサイズの少女像も展示されていた。さらにその左側の壁には、元慰安婦の女性たちの写真も掲げられている。説明書きには〈1992年1月8日、日本軍「慰安婦」問題解決のための水曜デモが、日本大使館で始まった。2011年12月14日、1000回を迎えるにあたり、その崇高な精神と歴史を引き継ぐため、ここに平和の碑を建立する〉と書かれている。 英語の解説文には、「Japanese Military Sexual Slavery」(日本軍の性奴隷制)という言葉が書かれていた。「日本軍」の「性奴隷制」の象徴としてこの少女像が存在していることがしっかり記されている。日本の公式見解とは明らかに異なるものであり、これらの説明には二つの点で「虚偽」があった。 まず、慰安婦は「性奴隷」ではない。あの貧困の時代に春を鬻(ひさ)ぐ商売についた女性たちだ。当時の朝鮮の新聞には 〈慰安婦募集 月収三百圓以上 勤務先 後方〇〇部隊慰安所 委細面談〉 などの新聞広告が出ていたように、上等兵の給料およそ十圓の時代にその「30倍以上」の収入を保証されて集まった女性たちである。彼女たちの収入は、当時の軍司令官の給与をはるかに凌駕していた。 恵まれた収入面については、さまざまなエピソードがあるが、ここでは触れない。ともかく慰安所(「P屋」と呼ばれた)には、日本人女性が約4割、朝鮮人女性が約2割、残りは……という具合に、あくまで日本女性たちが中心だった。ちなみに日本女性で慰安婦として名乗り出たり、補償を求めた者は一人もいない。 もちろん喜んで慰安婦になった女性は少ないと思う。貧困の中、さまざまな事情を抱えて、お金のために慰安婦の募集に応じざるを得なかったのだろう。私たち日本人は大いに彼女たちの身の上に同情するし、その幸せ薄かった人生に思いを致し、実際に日本は代々の首相が謝罪し、財団もつくり、その気持ちを談話として伝え、現金支給も行っている。
しかし、朝日新聞や韓国は、これを日本軍や日本の官憲が無理やり「強制連行した女性たち」であるという“虚偽の歴史”を創り上げた。韓国は世界中に慰安婦像なるものを建て、性奴隷を弄んだ国民として日本人の名誉を汚し続けている。私たちは、この虚偽を認めるわけにはいかない。 まして「少女が性奴隷になった」などという、さらなる虚構を韓国が主張するなら、それはもう論外だ。そして、目の前の少女像は、その「虚偽」を世界中に流布させることを目的とするものである。日本人は少女像が虚偽の歴史を広めるものであることを知っており、少女像の存在は間違いなく「両国の分断」をより深くするものと言える。 しかし、韓国がどこまでもこの虚構にこだわるなら、もはや両国に「友好」などという概念など、未来永劫生まれるはずはない。 軍需工場などに勤労動員された「女子挺身隊」を慰安婦と混同した朝日新聞の信じられない大誤報から始まった虚構がここまで韓国の人々を誤らせたことに、私は両国の不幸を感じる。それと共に同じ日本のジャーナリズムの人間として朝日新聞のことを本当に腹立たしく、また悔しく思う。 私は、少女像の前に展示されていた作品にも首を傾げた。「時代の肖像―絶滅危惧種 Idiot JAPONICA 円墳―」と題されたその作品はテントのような「かまくら形」の外壁の天頂部に出征兵士に寄せ書きした日の丸を貼りつけ、まわりには憲法9条を守れという新聞記事や靖国神社参拝の批判記事、あるいは安倍政権非難の言葉などをベタベタと貼りつけ、底部には米国の星条旗を敷いた作品だった。 Idiot とは「愚かな」という意味であり、JAPONICAは「日本趣味」とでも訳すべきなのか。いずれにしても「絶滅危惧種」「円墳」という言葉からも、絶滅危惧種たる「愚かな」日本人、あるいは日本趣味の「お墓」を表わすものなのだろう。日の丸の寄せ書きを頂点に貼った上にこのタイトルなので、少なくとも戦死した先人たちを侮蔑する作品と私には感じられた。 どの作品も「反日」という統一テーマで括られた展示だった。会場の壁には「表現の不自由をめぐる年表」も掲げられていたが、「表現の自由」といえば、チャタレー事件に始まり、四畳半襖の下張事件、日活ロマンポルノ事件をはじめ、ポルノやヘアをめぐって当局との激しい闘いの歴史が日本には存在する。 私は、これらが「なぜ無視されているのか」を考えた。つまり、展示はあくまで政治的な主張が目的なのであって、純粋な「表現の自由」をめぐる訴えなどは考慮にないのではないか、と感じたのである。 あいちトリエンナーレは、日本人の税金が10億円も投入され、公の施設で開かれる「公共のイベント」だ。そんな場所で、わざわざ他国が主張する「虚偽の歴史」のアピールをする意味は何だろうか。 それを許す責任者、つまり大村秀章・愛知県知事は余程の「愚か者」か、あるいはその韓国の主張に確固として「同調する人物」のどちらかなのだろう。 私は、こんな人物が愛知県知事という重責を担っていることに疑問を持つ一人だが、首長を選ぶのは、その地域の人たちの役割なので、私などがとやかく言う話ではない。 私は、試しに韓国や中国へ行って同じことをやってみたらどうだろうか、と想像した。たとえば韓国人の税金が投入された芸術祭で、何代か前の大統領の肖像をバーナーで焼き、その燃え残りを思いっきり踏みつけてみる。そして、その大統領の顔を損壊し、剥落させた銅版画や戦争で死んだ先人を侮蔑する作品を展示してみる。韓国人は果たしてどんな反応を示すだろうか。 また中国へ行って、中国共産党の公金が支出された芸術祭で、同じように毛沢東の肖像をバーナーで燃やしてみる……。どんな事態になるかは容易に想像がつく。作者は、おそらく表現の自由というものは、決して「無制限」なものではなく、一定の「節度」と「常識」というものが必要であることに気づかされるのではないか。イスラム社会で仮にこれをやったら、おそらく命が断たれるだろう。逆に私は「日本はいかに幸せか」をこの展示で感じることができた。 しかし、日本人にとって国民統合の象徴である昭和天皇がここまで貶められるのはどうだろうかと思わざるを得ない。昭和天皇、そして昭和天皇のご家族にとどまらず、自分たち日本人そのものの「心」と「尊厳」が踏みにじられる思いがするのではないだろうか。つまり、これらは、間違いなく日本人全体への憎悪を表現した作品なのである。 もし、これを「芸術だ」と言い張る人には、本物のアーティストたちが怒るのではないか、と私は思った。「あなたは芸術家ではない。偏った思想を持った、ただの活動家だよ」と。 それは昭和天皇を憎悪しない普通の観覧者にとっては、ただ「不快」というほかない作品群だった。少なくとも、多くの日本人の心を踏みにじるこんなものが「アート」であるはずはない。作者が日本人に対するヘイトをぶつけただけの醜悪な展示物だったと私には思えた。 私が会場を去って間もなくの午後5時。同センターで緊急記者会見した大村秀章・愛知県知事は、「テロや脅迫ともとれる抗議があり、安全な運営が危ぶまれる状況だ」と語り、突如、展示中止を発表した。芸術祭事務局に「美術館にガソリン携行缶を持って行く」との脅迫のファクスがあり、安全が保てないことを理由に「中止を決めた」という。開幕からわずか3日。信じがたい展開だった。 それは「あってはならないこと」である。「表現の自由」を標榜して展示をおこなっているなら、どんなことがあっても脅迫や暴力に「負けてはならない」からだ。まして大村氏は愛知県知事だ。愛知県警を大動員してでも、「暴力には決して屈しない」姿勢を毅然と示さなければならない立場である。 一方で私には「ああ、逃げたな」という思いがこみ上げた。あの展示物を見れば、常識のある���人ならこれに税金を投じることの理不尽さを感じ、非難がますます大きくなることはわかる。それを察知した大村知事は、テロの危険性をことさら強調し、自分たちを「被害者の立場」に置いた上で“遁走”したのだろう。 その証拠に4日後、実際にファックスを送った当の脅迫犯が逮捕されても大村知事は展示再開を拒否した。 芸術祭の実行副委員長である名古屋市の河村たかし市長はこの展示を知らず、慌てて観覧した後、「少女像の設置は韓国側の主張を認めたことを意味する。日本の主張とは明らかに違う。やめればすむという問題ではない」と大村知事と激しく対立した。 これに対して大村知事はこう反撃した。「(河村氏の)発言は憲法違反の疑いが極めて濃厚。憲法21条には、”集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する” “検閲は、これをしてはならない”と書いてある。公権力を持っているからこそ、表現の自由は保障しなければならない。公権力を行使される方が“この内容はいい、悪い”と言うのは、憲法21条のいう検閲と取られても仕方がない。そのことは自覚されたほうがいい」 だが、憲法12条には、「表現の自由」などの憲法上の権利は濫用されてはならないとして、〈常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ〉と記されている。表現の自由をあたかも「無制限」であるかのように思い込んでいる大村知事の認識の甘さは明白だった。 もうひとつの問題点は、報道のあり方だ。産経新聞やフジテレビを除くマスコミは、少女像のことばかりに終始し、昭和天皇の肖像焼却や顔の損壊などのヘイト作品について一切、報じなかった。ただ「表現の自由が圧殺される日本」という報道に終始したのである。 もし、展示中止が妥当なほど作品がひどいものだったら、そもそも自分たちの論理は成り立たなくなる。そのため少女像だけの問題に矮小化し、いかに日本では「表現の自由」が風前の灯であるかという報じ方に徹したのだ。 真実を報じず、自分の論理展開に都合のいいものだけを記事化するのは、日本のマスコミの特徴だ。 8月4日の朝日新聞の天声人語では、 〈75日間公開されるはずだったのに、わずか3日で閉じられたのは残念でならない▽ある時は官憲による検閲や批判、ある時は抗議や脅し。表現の自由はあっけなく後退してしまう。価値観の違いを実感させ、議論を生みだす芸術作品は、私たちがいま何より大切にすべきものではないか〉 と主張し、8月6日付の記事では、 〈表現の不自由展 政治家中止要請 憲法21条違反か 応酬〉〈永田町からも危惧する声「政府万歳しか出せなくなる」〉 と、展示物の詳細は伝えないまま大村知事を全面支援した。 だが、ネットではいち早く作品群の詳細が伝えられ、芸術監督を務めた津田大介氏と企画アドバザーの東浩紀氏が昭和天皇の肖像を焼却する作品が展示されることを笑いながら話す動画など、さまざまな情報が炙り出されていった。 今回も新聞とテレビだけを観る層とネットを観る層との著しい情報量の乖離が明らかになった。いま日本は情報面において完全に「二分」されているのである。 ネットを駆使する人たちはマスコミが隠す情報さえ容易に手に入れることができ、一方では、偏った主義主張を持つメディアにいいように誘導される人たちがいる。そこには、大きな、そして根本的なギャップが存在している。 今回の出来事は、「芸術である」と主張さえすれば何でも通ってしまうのか、極めて偏った政治主張によるヘイト行為もすべて認められるものなのか、という実にシンプルな問題と言える。同時に、韓国への批判は「ヘイト」、日本を貶めるものは「表現の自由」という実に倒錯したマスコミの論理に国民が「ノー」を突きつけたものでもあった。 一部の反日、反皇室、親韓勢力による公的芸術祭の乗っ取りとも言える行為は、こうして途中で頓挫した。そして、日本のマスコミの「あり得ない姿」も露わになった。 今回の出来事を通じて、私たち日本人は日本の“内なる敵”マスコミと、特異な主張を展開する一部政治勢力への「警戒」と「監視」を疎かにしてはならないことを、あらためて学ばせてもらったのである。
「表現の不自由展」の真実を再び 2019年10月08日 門田隆将
紆余曲折の末、いよいよ「言論の不自由展・その後」が再開された。しかし1日2回に制限し、抽選で1回あたり30人に絞り、しかも鑑賞者は事前にエデュケーション(教育)プログラムなるものを受けなければならず、ガイド付きでの鑑賞になるそうだ。 まるで「鑑賞の不自由展」である。SNSでの拡散も禁止するという。
愛知県内で開かれている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で、企画展の一つ「表現の不自由展・その後」の中止が決まった8月3日夜、芸術監督を務めるジャーナリスト、津田大介氏が会見を開いた。
「想定を超える事態が起こったことを謝罪する。僕の責任であります」と全面的に非を認めた津田氏の会見は当初の30分間の予定を大幅に超過し、1時間以上に及んだ。会見場には、地元名古屋市を拠点とする中日新聞や全国紙、通信社の駐在、テレビ各局、雑誌、フリーランスの記者など、ざっと50人はいただろうか。 津田氏の釈明もさることながら、質問を繰り返す一部の記者の発言内容には違和感を抱かざるを得なかった。
「(不自由展の中止を求めていた)河村たかし名古屋市長や(文化庁の芸術祭への助成に慎重姿勢を示した)菅義偉官房長官の発言は検閲だと思うか」「電凸(企業や団体などに電話をかけて見解を問いただす行為)をやれば、自分たちの気に入らない展示会などの催しを潰せるという成功体験を与えてしまったのではないか」 当然だが、たとえ気に入らない表現や作品でも、暴力による圧力や脅迫行為が許されることはない。とはいえ、彼らの質問は憲法21条が保障する表現の自由への介入を憂うものばかりで、昭和天皇の肖像を燃やす映像や慰安婦をモチーフにした「少女像」(以下、慰安婦像)のいったい何が「芸術」なのか、それを追及しようとする記者はほぼ皆無だった。 要するに、集まった記者の多くが、「表現の不自由展」を中止に追い込んだ抗議電話の殺到、脅迫行為、河村たかし市長をはじめとする政治家の主張だけをことさら問題視したのである。各社が後日報じ、論じた内容が、そういったトーンになったのは、ある意味必然だったのかもしれない。 放火予告のようなファクスを送り付けた脅迫行為は論外だが、一千件以上も寄せられた抗議電話もそれと同列の「テロ行為」であるかのように論じるのは明らかにおかしい。
一般論として、展示会の主催者が外部からの指摘で自主的に催しを中止することはあり得る。むろん、個人が展示内容を自由に論評・批判する権利もある筈だが、 8月6日付 朝日新聞社説《あいち企画展 中止招いた社会の病理》は 「人々が意見をぶつけ合い、社会をより良いものにしていく。その営みを根底で支える『表現の自由』が大きく傷つけられた。…中略…。一連の事態は、社会がまさに『不自由』で息苦しい状態になってきていることを、目に見える形で突きつけた。病理に向き合い、表現の自由を抑圧するような動きには異を唱え続ける。そうすることで同様の事態を繰り返させない力としたい」 旨、主張した。「昭和天皇の肖像を燃やし踏みつける映像や慰安婦像の展示」を批判する意見・抗議の自由を、朝日新聞社は認めない。 言論に対して反論するのでなく法廷闘争で批判封殺をはかる朝日新聞社 らしい主張である。 そもそも、同展で展示された昭和天皇の肖像を燃やす映像やエッチング作品の何が芸術なのか。特定の政治的主張、あるいはプロパガンダに過ぎないのではないか。公金を使って展示することは、公権力がその主張なりプロパガンダに同調することにならないか。 「表現の不自由展」の中止問題を扱ったメディアの多くは、この問いについて論じようとしなかった。特にテレビの多くは昭和天皇の肖像を燃やす映像に触れることすらなかった。国民の多くに強い不快感や屈辱感を抱かせる刺激の強い映像を紹介することが憚られたのか、天皇をめぐる問題としてタブー視したのか。あるいは不自由展を応援したい番組側が、批判が集中するだろう映像を意図的に隠したのか。 活字メディアで中止問題を最も熱心に扱った朝日新聞は、「焦点となっている作品は、慰安婦を表現した少女像や、昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品」(8月6日付第3社会面の特集)などと、たびたび映像について触れてはいる。しかし、芸術作品としての妥当性には踏み込まず、表現の自由の議論に持ち込むだけだ。 こうした議論の建て方は、同芸術祭実行委員会会長の大村秀章愛知県知事や津田氏とも共通する。
10日後、芸術祭アドバイザーの東浩紀氏が辞意を表明した。
〔東氏のツイート〕 7月末からの休暇が終わり、帰国しました。休暇中に、ぼくが「企画アドバイザー」を務めるあいちトリエンナーレ(以下あいトリ)で、大きな問題が起きました。 このアカウントは、7月の参院選直後に、あいトリの問題とはべつの理由で鍵をかけていたものであり、これからもしばらくは鍵は外しません。しかし、このスレッドについては、転記し紹介していただいて結構です。そのときは、一部を切り取らず全体をご紹介ください。 まずは今回のできごとについて、スタッフのひとりとして、愛知県民の皆さま、出展者の皆さま、関係者の皆さまにご迷惑をかけたことを、心よりお詫びいたします。 ぼくの肩書きは「企画アドバイザー」となっていますが、実行委員会から委嘱された業務は、芸術監督のいわば相談役です。業務は監督個人との面談やメールのやりとりがおもで、キュレイター会議には数回しか出席しておらず、作家の選定にも関わっていません。 けれども、問題となった「表現の不自由展・その後」については、慰安婦像のモデルとなった作品が展示されること、天皇制を主題とした作品が展示されることについて、ともに事前に知らされており、問題の発生を予想できる立場にいました。相談役として役割を果たすことができず、責任を痛感しています。 僕は7月末より国外に出ており、騒動の起点になった展示を見ていません。今後も見る機会はなくなってしまいましたが、そのうえで、展示について所感を述べておきます。以下はあくまでも僕個人の、報道や間接情報に基づく意見であり、事務局や監督の考えを代弁するものではないことにご留意ください。 まずは慰安婦像について。いま日韓はたいへんな外交的困難を抱えています。けれども、そのようないまだからこそ、焦点のひとつである慰安婦像に、政治的意味とはべつに芸術的価値もあると提示することには、成功すれば、国際美術展として大きな意義があったと思います。
政治はひとを友と敵に分けるものだといわれます。たしかにそのような側面があります。けれども、人間は政治だけで生きているわけではありません。それを気付かせるのも芸術の役割のひとつです。あいトリがそのような場になる可能性はありました。 ただ、その役割が機能するためには、展示が政治的な扇動にたやすく利用されないように、情報公開や会場設計を含め、もっとていねいな準備と説明が必要だったように思います。その点について、十分な予測ができなかったことを、深く反省しています。 つぎに天皇の肖像を用いた作品について。ぼくは天皇制に反対する立場ではありません。皇室に敬愛の念を抱く多くの人々の感情は、尊重されるべきだと考えます。天皇制と日本文化の分かち難い関係を思えば、ぼく自身がその文化を継承し仕事をしている以上、それを軽々に否定することはできません。 けれども、同時に、「天皇制を批判し否定する人々」の存在を否定し、彼らから表現の場を奪うことも、してはならないと考えます。人々の考えは多様です。できるだけ幅広い多様性を許容できることが、国家の成熟の証です。市民に多様な声の存在に気づいてもらうことは、公共事業の重要な役割です。 しかし、これについても、報道を見るかぎり、その役割を果たすためには、今回の設営はあまりに説明不足であり、皇室を敬愛する多くの人々の感情に対して配慮を欠いていたと感じています。この点についても、役割を果たせなかったことを悔いています。 政治が友と敵を分けるものだとすれば、芸術は友と敵を繋ぐものです。すぐれた作品は、友と敵の対立などどうでもよいものに変えてしまいます。これはどちらがすぐれているということではなく、それが政治と芸術のそれぞれの役割だと考えます。 にもかかわらず、今回の事件においては、芸術こそが友と敵を作り出してしまいました。そしてその対立は、いま、どんどん細かく、深くなっています。それはたいへん心痛む光景であり、また、私たちの社会をますます弱く貧しくするものです。それは、あいトリがもっともしてはならなかったことです。 僕は今回、アドバイザーとして十分な仕事ができませんでした。辞任を検討しましたが、いまは混乱を深めるだけだと考えなおしました。かわりに個人的なけじめとして、今年度の委嘱料辞退の申し出をさせていただきました。今後も微力ながらあいトリの成功に向けて協力させていただければと考えています。 あらためて、このたびは申し訳ありませんでした。力不足を反省しています。そして最後になりましたが、現在拡散されている4月の芸術監督との対談動画において、多くの方々の感情を害する発言を行ってしまったことを、深くお詫びいたします。
緊急シンポ「表現の不自由展・その後」中止事件を考える 8月22日(木)18時15分開場 18時30分開会(予定) 21時終了 定員:470名 参加費:1000円 会場:文京区民センター3階A会議室
第1部:18:30~19:50 出品していた美術家などが語る「何が展示され何が起きたのか」 安世鴻(写真家)/朝倉優子(マネキンフラッシュモブ)/中垣克久(美術家)/岡村幸宣(丸木美術館学芸員)/武内暁(「九条俳句」市民応援団)/他 第2部:20:00~21:00 会場討論「中止事件をどう考えるのか」 金平茂紀(TVジャーナリスト)/鈴木邦男(元一水会)/森達也(作家・監督)香山リカ(精神科医)/滝田誠一郎(日本ペンクラブ)/他 進行:篠田博之(『創』編集長)/綿井健陽(映像ジャーナリスト) 主催:8・22実行委員会〔『創』編集部/日本ビジュアル・ジャーナリスト協会/OurPlanet-TV/アジアプレス・インターナショナル/メディアフォーラム/表現の自由を市民の手に全国ネットワーク/アジア記者クラブ/他〕
「天皇陛下の味方」を標榜しながら「天皇陛下を冒涜する自由」を啓発するパネリスト
2019年9月5日夜10時、NHK「クローズアップ現代+」で「『表現の不自由展・その後』中止の波紋」が放映された。 筆者(門田隆将)は、展示中止から1か月以上経ってからの番組なので、ある1点に注目していた。それは、展示作品を番組が「正確に取り上げるかどうか」だった。 というのも、この問題では、展示作品を正確に伝えた「インターネット」と、都合の悪いものは報じず、一部だけを報じた「新聞とテレビ」とに明確に分かれていたからだ。 インターネットだけがこの1か月、展示された作品群の中身をきちんと伝えたが、筆者自身、展示中止になる当日の8月3日、ぎりぎりで観にいくことができた。そしてその作品群の明確なメッセージ性には驚かされたものである。 それは、ひと言でいうなら「反日ヘイト」と「皇室憎悪」だ。国民の税金を使ってこのような展示を愛知県が行うことについて、正直、筆者は首を傾げざるを得なかった。その作品をNHKは1か月を経てどう報じるのか。そのことに注目したのである。 作品がきちんと報じられなければ、いうまでもなく視聴者は正しい判断ができない。「正確に伝えない」ことは報道機関として許されることではない。 だが、結果は、筆者が危惧したとおりの番組になっていた。番組の主張に都合の悪い作品は、一切、報じられなかったのだ。つまり番組は、本来、問題のない「表現の不自由展」が、理不尽な反対や脅迫によって「中止に追い込まれた」ということを懸命に訴える番組構成となっていた。
番組で紹介されたのは、ごく一部の作品で、あの展示の性格を表わす肝心の作品群のことは伏せられた。なぜ伏せられたのか。理由は簡単だ。それを報じれば、自分たちの主張の方が「間違いである」ことが白日の下に晒されるからだ。 「ああ、この表現の不自由展の実行委員会には、もともと2001年に大問題となった『問われる戦時性暴力』をつくった曰くつきの元NHKプロデューサーが入っている。番組は最初からそっちの線で描くことに決まっていたんだ」 筆者はそう思った。公平な番組ができるかどうかを期待していた自分が逆に恥ずかしくなった。では、まず実際の展示にはどんな作品があったのか、それを先に説明しておこう。 8月3日昼、白いカーテンをくぐって当該の展示コーナーに足を踏み入れた筆者の目に真っ先に飛び込んできたのは、2メートルほどの狭い通路の両側に展示された昭和天皇に関する作品群だった。 右側には、正装した昭和天皇の肖像を髑髏(どくろ)が睨んでいるもの、左側には昭和天皇の顏の部分を剥落(はくらく)させ、背景には大きく赤で✕が描かれた銅版画が掲げられていた。タイトルは「焼かれるべき絵」。作者による天皇への激しい憎悪が剥き出しにされた作品だった。 その先の右側にあったのが、昭和天皇の肖像がバーナーで焼かれていく映像作品だ。奇妙な音楽が流れ、なんとも嫌な思いが湧き上がるような演出の中、次第に焼かれていく昭和天皇の顏。すべてが焼かれ、やがて燃えかすになると、今度はこれが足で踏みつけられる。人間の尊厳というものをズタズタにする強烈な映像作品である。 よほど作者には昭和天皇への恨みがあるのだろう。これをつくって、作者はエクスタシーでも感じているのだろうか。そんな思いで筆者は映像を見つめた。思い浮かんだのは「グロテスク」という言葉である。 少女像が展示されているのは、昭和天皇へのヘイトを全開にしたこの作品群を通り抜け、右側に広がった空間の一角だった。少女像の手前の広い空間の真ん中には、テントのような作品が置かれていた。 題して「時代の肖像―絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳―」。かまくら形の外壁の天頂部に出征兵士に寄せ書きをした日の丸を貼りつけ、まわりには憲法九条を守れという新聞記事や靖国神社参拝の批判記事、あるいは安倍政権非難の言葉などがベタベタと貼りつけられ、底部にはアメリカの星条旗を敷いた作品だ。 idiot とは「愚かな」という意味であり、JAPONICAは「日本趣味」とでも訳すべきなのか。いずれにしても「絶滅危惧種」「円墳」という言葉からも、絶滅危惧種たる「愚かな」日本人、あるいは日本趣味の「お墓」を表わすものなのだろう。 日の丸の寄せ書きを頂点に貼った上に、このタイトルがつけられているので、少なくとも戦死した先人たちへの侮辱の作品であることはわかった。筆者は戦争ノンフィクションを10冊以上刊行しており、これまで最前線で戦った多くの元兵士を取材している。今ではほとんどが鬼籍に入られたが、その先人たちを貶める目的の作品であると感じた。 そして少女像。これはどうということはない。あのソウルの日本大使館前や、世界中のさまざまな場所に建てられている像だ。英語の解説文には、「Sexual Slavery」(性奴隷制)という言葉があり、「性奴隷」の象徴としてこの少女像が存在していることがしっかり記されていた。 説明書きを読んでみると〈1992年1月8日、日本軍「慰安婦」問題解決のための水曜デモが、日本大使館で始まった。2011年12月14日、1000回を迎えるにあたり、その崇高な精神と歴史を引き継ぐため、ここに平和の碑を建立する〉と書かれている。 慰安婦のありもしない強制連行を否定する日本側の見解とは明らかに異なる主張を持つものだ。少女像の左側の壁には、元慰安婦の女性たちの写真も掲げられている。筆者には、これらが「反日」という政治的メッセージを訴えるための作品群であることがわかった。 しかし、クローズアップ現代には少女像の作者が登場し、「(これは)反日の象徴として語られていますが、筆者たちは平和の象徴と考えています。(戦争の)悲しみと暗い歴史を語る象徴なのです」というインタビューが放映された。慰安婦であることの明確な説明書きと矛盾しているのに、番組では、それを指摘もしない。 つまり良心的な作家が「平和を祈ってつくった作品が脅迫で圧殺された」という番組にしたかったのだろう。そのためには、昭和天皇や戦争で死んでいった若者たちを損壊、侮蔑する作品群だったことは「報じられない」のである。 この番組の悪質性は、自らの主張に「都合のいい作品だけを取り上げた」という点にあり、この展示の中止を求めた河村たかし名古屋市長には、当然“悪者”というイメージが植えつけられた。 日本では、公の電波を使ってこのような一方的な番組が放映されることを防ぐために放送法4条に以下の条文が定められている。 (1)公安及び善良な風俗を害しないこと (2)政治的に公平であること (3)報道は事実をまげないですること (4)意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること クローズアップ現代は明確に(2)(3)(4)に違反している。放送中から筆者のもとには「こんな番組が許されるのか」「作品の中身がこれだけネットで明らかにされているのにNHKはまだこんな番組をやっている」という訴えが相次いだ。 実は、日本の新聞やテレビがよくやるこのやり方は「ストローマン手法」と呼ばれる。対象となる出来事、あるいは対象者の発言の一部を切り取ったり、主旨をねじ曲げて報じて自己の主張に添うように記事や番組をつくるものだ。ストローマン(straw man)とは、もともとは藁(わら)で作られた人形(藁人形)を指す英語である。つまり案山子(かかし)だ。都合のいいように事実をねじ曲げて報じるのだから、「倒す」のは簡単なことからついたとされる。 ちなみに、これは欧米の言論界で最も軽蔑されるやり方として忌み���われている。
実は、産経新聞とフジテレビを除いて、この1か月間、これらの作品群の真実を報じたメディアはほとんど見られなかった。報じたら忽ち「そんな酷い展示だったのか!」と非難が高まり、「表現の自由が圧殺された」という趣旨の記事や番組ができなくなってしまうからである。 クローズアップ現代には日本文学研究者のロバート・キャンベル氏が登場し、こんなコメントをした。「筆者は“エビデンスのない共感”と呼んでいるんですが、自分にとって心地よい考えに出会った時や物の見方をみた時に、それに連動して、リツイートをしたり、コメントしたり、拡散していくということはあるわけですね。その傾向が今、世界中で広がっている中で、今回のケースは、日本の中で極めて特徴的なものとして現われたのかなと思います」 筆者は耳を疑った。このクローズアップ現代こそが、目の前の作品群の真実を封じて少女像だけの問題に矮小化し、“エビデンスのない共感”を大衆に求めたのではなかったのか、と。 筆者は、こういう公平性を欠いたマスコミ報道、特に新聞を取り上げて5月末に『新聞という病』(産経新聞出版)を出版した。3か月余りを経た現在、これが10万部を超すベストセラーになっている。 国民がいかに「事実をねじ曲げる」新聞に怒っているかを痛感した。だが、NHKも同じだ。筆者は「NHKという病」を追及する必要性を痛感している。なぜこんな放送局に税金が投じられ、国民が受信料を払わなければならないのか。国会での徹底追及をお願いしたい。
リベラル勢力の二重基準 愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止となった。憲法違反だとか、さまざまな物議を醸したが、そもそも公費を使ってやるようなイベントなのか。その上、昭和天皇の御真影を燃やす映像などはもはや芸術とは呼べない。 作家の竹田恒泰氏は、展示の中止を「憲法違反」や「検閲」と指摘する声に対し、一つ一つ論理的に反論。反日の偏った思想に基づいた作品しか展示されておらず、公平性もないため、実体は「反日展」にすぎないと断じた。 著書が「表現の自由」を逸脱するとして朝日新聞に訴訟を起こされた文藝評論家の小川榮太郎氏は「私の表現の自由は無いのか」と、自身の言論を封殺した勢力の一方的でゆがんだ構図を糾弾する。 産経新聞大阪正論室は実際に展示会場をルポし記者会見も取材。大阪と神戸を舞台にした「御代替わり朝礼」非難報道や幼児図鑑「絶版」騒動とあわせて、平気でダブルスタンダード(二重基準)をふりかざすマスコミの病理をあぶり出す。 「表現の自由」を盾に、昭和天皇の御真影を燃やすなどという非芸術的行為を擁護する勢力は横暴だ。
愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で中止となった企画展「表現の不自由展・その後」について、1週間後の展示再開で、芸術祭実行委と不自由展実行委が合意し、展示中止のポーズを解除した。さらに、開会時の内容を維持し、必要に応じて教育プログラムを実施することや県が来場者に対し、中止になった経緯などを検証した中間報告の内容をあらかじめ伝えることも告げた。 これに伴う批判の殺到を怖れた知事は、ツイッター上で、自身を誹謗中傷するアカウントをブロックする旨、宣言した。
ブロックされれば強制的にフォローが解除され、ツイートを読んだりリツイートしたりできなくなる。早速、「見事にブロックされちゃった」と大村知事のブロックを示す画像が次々と投稿された。「誹謗中傷」の基準を質問するだけでブロックされたと主張するユーザーや、愛知県民であるにも関わらずブロックされたという声もあった。 大村知事は、批判的意見・質問をブロックするにとどまらず、韓国軍の蛮行について論ずる自由は無い旨、言い放った。 企画展「表現の不自由展・その後」は、昭和天皇の写真を焼いたような映像や「慰安婦像」として知られる少女像の展示などが批判を浴び、脅迫ファクスが届いたことを口実に企画展を中止していた。大村知事が津田氏と並んでピースする画像をツイッターに投稿し、その後削除したことも話題になった。 不自由展が提起した問題の一つは、文化庁などの助成基準との整合性だ。 「表現の不自由展・その後」では、政治的論争のある慰安婦像や昭和天皇の写真をバナーで燃やした灰を踏みつける動画など、日本国民の感情を害し心理的な傷を与える展示があった。
2019年10月8日、「表現の不自由展」再開に抗議する為、名古屋市の河村たかし市長は、同展会場前広場で座り込みを行った。河村氏は芸術祭の実行委員会の会長代行だが、再開についての協議はなかったといい、「(再開決定は)無効だ」と批判している。 河村氏はこの日、約30人の支持者らと抗議活動を実施。座り込みで約10分間、「県は公金の不正使用を認めるな」「知事は名古屋市民の声を聞け」などとシュプレヒコールを上げた。
マイクを握った河村氏は、とくに昭和天皇の肖像を燃やすような動画について問題視し、「愛知県や名古屋市が主催しているところで展示すれば、県や市が認めたことになる」と指摘。「表現の自由の名を借り、世論をハイジャックする暴力だ」などと再開に強く抗議した。 会場前の広場には、同展に反対するプラカードを掲げた人たちの姿も見られた。その場に居合わせた名古屋市民は「天皇を公然と侮辱するようなものを芸術と呼べるのか、不自由展ではなく不愉快展、市民として黙っていられない」と憤る。 同日の 大村秀章氏ツイート は、画像の通り
検証委は、中間報告で「誤解を招く展示が混乱と被害をもたらした最大の原因は、無理があり、混乱が生じることを予見しながら展示を強行した芸術監督の行為」と津田氏の責任を指摘した。しかし、津田氏は、責任を感じるどころか、文化庁の補助金交付を求める署名活動を支持し、政治的な対立を煽り続けている。 検証委は、大村氏については、「検閲」を禁じた憲法の制約、リスクを軽減するガバナンスの仕組み欠如等を理由に、責任を不問にしているが、陳腐な言い訳で説得力はない。
朝日新聞社は、公権力が表現活動を抑圧した旨報道し、さらに「ヘイト行為の一般的なとらえ方に照らしても、少女像はそれに当たらない」という検証委の指摘に賛同している。特定法規が定義する「ヘイト」の概念に該当しないことを論拠にしているが、これは、日本人を食い物にする発想方法である。 2015年に、朝日新聞社は、①故吉田清治氏の慰安婦に関する証言の誤報取り消しが遅きに失したこと、②吉田調書報道の取り消し、③池上彰氏の連載掲載見合わせ をおわびする旨、自ら 発表した が、そのことを忘れてしまったのだろうか? この展示がもたらしたハラスメントは、多くの人に国民としての自尊心を過度に傷つけられただけでない。自分たちが納めた税金を利用して行われたことによって、さらに傷ついている。 しかもこの展示は、芸術監督の自発的な意図として成立した、むしろ積極的で公的なハラスメントともいえるものだ。日本国民の被害感情を軽視する人々が、メディアや文化人界隈に少なからずいることに驚かざるを得ない。 因みに、「展示スペースの大きさや実際の展示費用などを計算しカットした補助金を交付すべき」旨、補助金ルール無理解な三浦瑠麗氏が述べている。
表現の不自由展 きょう午後再開 警備強化 金属探知機も 2019年10月8日 愛知県で開かれている国際芸術祭で、テロ予告や脅迫ともとれる電話などが相次いだため中止された「表現の不自由」をテーマにしたコーナーについて、愛知県の大村知事は、警備を強化したうえで1回当たり30人を上限としたガイドツアー形式で、8日午後から再開すると発表しました。 8月1日から愛知県で開かれている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」では、「表現の不自由」をテーマに、慰安婦問題を象徴する少女像などを展示するコーナーが設けられましたが、テロ予告や脅迫ともとれる電話などが相次ぎ、開幕から3日で中止されました。 愛知県は、中止前の状態と展示の一貫性を保ちつつ、安全対策などを講じて再開することを目指してきましたが、展示の在り方などをめぐって協議が難航してきました。
芸術祭の実行委員会の会長を務める愛知県の大村知事は7日夜、記者会見し、コーナーを8日午後から再開すると発表しました。 具体的には、 ▽抗議の電話の専用回線を設け、会場の警備を強化するといった安全対策を講じ、 ▽事前に抽選をして作品の解説を行う教育プログラムを受けてもらったうえで、 ▽1回当たり30人を上限としたガイドツアー形式で再開するということです。 さらに、 ▽鑑賞の前には手荷物を預かり、金属探知機でのチェックを行うほか、 ▽動画の撮影も禁止するということです。 芸術祭では、中止に抗議して作品の展示を辞退するなどしていた国内外の作家たちの作品も8日からすべて展示されるということで、大村知事は「円満な形で日本最大級の国際芸術祭の完成を目指したい」と述べました。 8月1日から愛知県で開かれている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」では、「表現の不自由」をテーマに、慰安婦問題を象徴する少女像などを展示するコーナーが設けられましたが、テロ予告や脅迫ともとれる電話などが相次ぎ、開幕から3日で中止されました。
愛知県は、中止前の状態と展示の一貫性を保ちつつ、安全対策などを講じて再開することを目指してきましたが、展示の在り方などをめぐって協議が難航してきました。 芸術祭の実行委員会の会長を務める愛知県の大村知事は7日夜、記者会見し、コーナーを8日午後から再開すると発表しました。 具体的には、 ▽抗議の電話の専用回線を設け、会場の警備を強化するといった安全対策を講じ、 ▽事前に抽選をして作品の解説を行う教育プログラムを受けてもらったうえで、 ▽1回当たり30人を上限としたガイドツアー形式で再開するということです。 さらに、 ▽鑑賞の前には手荷物を預かり、金属探知機でのチェックを行うほか、 ▽動画の撮影も禁止するということです。 芸術祭では、中止に抗議して作品の展示を辞退するなどしていた国内外の作家たちの作品も8日からすべて展示されるということで、大村知事は「円満な形で日本最大級の国際芸術祭の完成を目指したい」と述べました。
・「 表現の不自由展 」は安全地帯での覚悟なき玩弄。表現の自由は侵されず。 ・米国でも「表現」で一大騒動。NY市長助成金カットと立ち退き要求。 ・中国、韓国はもちろん、米国でも「表現」によっては日本より遥かに厳しい。
2019年10月14日、 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」 の 「表現の不自由展・その後」 が、突然の中止、「不自由な」限定再開を経て、会期終了と共に閉幕した。 主流メディアの多くは、最も問題視された、昭和天皇の写真を焼き文字通り踏みにじる映像については触れず、もっぱら慰安婦少女像が不寛容な勢力に攻撃されたかの如き「表現の不自由」を体現したよう��報道を続けた。
主催者である 大村秀章愛知県知事 と 津田大介芸術監督 の責任について、「企画アドバイザー」だった 東浩紀氏 が、当事者として的確に指摘している。 「『表現の自由』vs『検閲とテロ』という構図は、津田さんと大村知事が作り出した偽の問題だと考えています。…今回『表現の不自由展』が展示中止に追い込まれた中心的な理由は、…天皇作品に向けられた一般市民の広範な抗議の声にあります。津田さんはここに真摯に向かい合っていません」
今回、表現の自由は、常識的意味において、何ら侵されていない。 せいぜい、税金の補助を受ける対象から排除されただけである。問題となった一連の「作品」群は、破壊も没収もされておらず、民間の場に移せばいくらでも再展示できる。写真や動画のネット拡散により、むしろ当事者の予想以上に多くの人が「表現」の実態に接した。 これが中国で、毛沢東の写真を焼く映像を展示したのだとしたら、関係者は既にすべて獄中、ネット拡散した者も国家安全部に拘束され拷問という展開になっていただろう。 あるいは韓国で、慰安婦の写真を焼いて踏みにじるパフォーマンスをしたなら、やはり関係者は、元慰安婦が共同生活を送る「ナヌムの家」で土下座謝罪の上、何らかの罪状を付けられ服役となったろう。 「テロ脅迫」に責任転嫁を図った大村、津田両氏の行為は、日本という安全地帯における、覚悟を欠いた「表現」の玩弄に過ぎなかった。
政治性と宗教性という点で違いはあるが、 アメリカでも1999年、「センセーション」と題したブルックリン美術館の特別展示が一大騒動を巻き起こした。
問題の作品はイギリスの黒人画家 クリス・オフィリ(Chris Ofili) の 「聖処女マリア」 で、デフォルメされた黒人女性の乳房のコラージュ(貼付)部分と台座に象の糞が使われていた。また画面に多数飛ぶ蝶のような物体が、近づいて見ると、突き出した女性のヒップの写真であった。 経緯は後述するが、同作品は現在 ニューヨーク近代美術館(MoMA) に収蔵されており、「MoMA, Ofili, Mary」で検索すると同美術館の説明入りで 画像 が見られる。 「センセーション」展を開催したブルックリン美術館は、ニューヨーク市の財政補助を受け、市所有の建物に入居している。 当時のルドルフ・ジュリアーニ市長(現在トランプ大統領の私的法律顧問)は、「嫌悪すべき企画に表現の自由は適用されない」と、作品を撤去しなければ助成金を打ち切り、美術館自体の建物からの立ち退きも求めるとの姿勢を打ち出す。 事態は法廷で争われるに至ったが、特別展示終了で作品が建物外に搬出されたこともあり、結局、市側は美術館に対する立ち退き要求を取り下げた。
その後この作品は、460万ドル(約5億円)である富豪が落札し、昨年(2018年)ニューヨーク近代美術館に寄贈された。ところがその際は騒動とならなかった。
最大の理由は、 同美術館はロックフェラー財団など民間資金で運営されており、税金が入っていないこと にある。 日本でも同様、個人美術館や朝日新聞あたりが「表現の不自由展」を引き取り、自らの費用と責任で展示する覚悟を示せばよいのである。 またオフィリの作品には、題名以外に聖母マリアを思わせる要素は乏しく、構図や色彩にアートとしての面白さを感じる人々が少なくない。象の糞も彼が好んで使う画材で特に冒涜の意図はなかったとされる。 もっともアメリカでも、例えばマーティン・ルーサー・キ��グの写真を焼いて踏みにじる映像を展示したなら、主催者は囂々たる非難と資金引き上げ、訴訟に見舞われるだろう。その点は、日本より遙かに厳しいはずだ。
島田洋一 (福井県立大学教授)
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[Theater an der Wien でヘンデル『サウル』を観る]
2年ぶりの冬のウィーン。到着して翌日、アン・デア・ウィーン劇場でヘンデルの『サウル』を観た。『サウル』は1739年にヘンデルが手がけたオラトリオ。オラトリオとは、聖書の物語や説教・祈祷をテーマにした声楽曲で、元来、宗教音楽として教会で演奏されたが、ヘンデルの時代になると、この『サウル』のように、旧約聖書の劇的な物語を「台本」のように扱い、演奏も教会ではなく世俗のホールで、普通のコンサートのように行われるようになっていた。このオラトリオにこそ、のちのオペラのルーツを見出そうとする説もあるが、とりわけヘンデルに関しては、作曲家が膨大なオペラ作品とほぼ同時進行的におびただしい数のオラトリオを作曲していることから、その作品リストからは、この二つのジャンルのつながりを読み取りやすいかもしれない。
なかでもこの『サウル』は、楽曲構成からみてもかなりオペラに近い性質を備えているため、「オラトリオからオペラへの変容過程」の格好の実例として取り上げられ、さらに今日では、もともとコンサート形式で演じられたこの作品に、演出と舞台・衣装を加えてオペラとして演奏されることがよくある。
ベートーヴェンの『フィデリオ』初演の劇場として知られるアン・デア・ウィーン劇場(1801年落成)は、現在、ウィーンにおいて国立歌劇場に次ぐ「第二のオペラ座」を自負している。ただ、オペラの殿堂、国立歌劇場とは異なり、レパートリー制ではなく、毎年、いくつかの作品を完全新演出で、基本的に再演なしの1シーズン限りの公演として舞台に上げてきた。こうしたシステムだからこそ、上演時間が極端に長いヘンデルのオペラや、やや難解な現代作品などを、歌手だけでなく演出やアンサンブルも超豪華客演で固めて企画することができるのだ。歌手にとっても観客にとっても長時間演奏が厳しい条件となるバロックオペラを発掘してはコンスタントに発信してきたこの劇場の功績は、きわめて大きいと言えるだろう。とりわけ、ヘンデルのオペラは、その規模や古楽器使用の点からみても、1800人収容の国立歌劇場よりもむしろこちらの古い劇場の方がずっとふさわしい。
さて、この劇場で私自身、2010年ごろから断続的にではあるが、ヘンデル・オペラを見てきている。しかし、「アリオダンテ」や「アグリッピーナ」など、どれを思い出���ても全くいい印象がない。私の個人的印象だが、ヘンデルは「水上」ならぬ(笑)「天上の音楽」で、まさに、死後に天国なるものが存在するのであれば、そこではこのような音楽が天使たちによって奏でられているのではないかと、どの曲であれ、そんな妄想が膨らんでしまうわけだが、アン・デア・ウィーン劇場のヘンデル・オペラは、ほぼ例外なく、私のこの勝手な妄想をことごとく破壊するようなものだった。繊細で流麗な音楽に反発するかのように、舞台と演出はあまりに暴力的で象徴的。舞台で繰り広げられている行為と、原作のプロットとの著しい乖離は、音楽に集中することを妨げるレベルのものだった。
今回の「サウル」を手がけたのは、ドイツ語圏でまさに飛ぶ鳥落とす勢いの演出家、クラウス・グート。そして、グートに関してもこれまた全然いい印象がないのである。2010年前後にザルツブルク音楽祭で彼が手がけた「ドン・ジョヴァンニ」と「フィガロの結婚」は、原作のコケットをエロティシズムに変容させることで、18世紀のオペラのエレガンスを完全破壊していたからだ。
今回の歌手はタイトルロールにフローリアン・ボッシュ、ダヴィデにカウンターテナーのジェイク・アルデッティ、その他、サウルの娘メラブ役で準スターソプラノ、アンナ・プロハシュカも出演。ピットはフライブルク・バロックアンサンブルで、指揮はローレンス・カミングス。オラトリオで重要な役割を果たすコーラスは、アーノルト・シェーンベルク合唱団。
古楽の名門、フライブルク・バロックアンサンブルの音楽は、もうほろほろと心がほどけるほど美しい。ナチュラルトランペットやホルン、フルート・トラヴェルソの安定感などは、もうさすがというほかない。ただし、カミングスの指揮のスタイルがあまりに個性的。指揮棒は用いず、右手は何かを指差すような動作で、その人差し指をくねくねとミミズのように妙な感じに動かして音を作っていく。かなりパッショネートなタクトで、一応チェンバロの前に座った弾き振りなのだが、チェンバリストは別に控えていて、彼自身は鍵盤にほとんど触れず、時には立ち上がって舞台に向かって大口を開けて声を出さずに歌詞を先導?しているような時すらある。そして、この一風変わった指揮がなんとなくヘンデルの音楽に独特のビート感を作り出していく。仕上がるのは、当然、オーセンティックというよりはノリノリのヘンデルだ。
オペラのあらすじは旧約聖書通り。紀元前10世紀ごろのイスラエル王国の王、サウルは、アマレク人との戦いをめぐり神に見放され、後継者として巨人ゴリアテを倒した牧人ダヴィデに聖油を注ぐと、神の心はダヴィデに移る。民から英雄とみなされ、慕われるダヴィデに嫉妬したサウルは、一時は娘を娶らせようと約しながら、やがてはその命を狙うようになる。我が身を守るためサウルを殺す機会があったにもかかわらず、ダヴィデはサウルが王であることを理由に一切手を出さず、和解を求めようとするが、サウルの妬みはとどまるところを知らず、ダヴィデと義兄弟の契りを結んだ息子ヨナタンをも殺害し、自らも戦争で敵に追い詰められ、槍の上に身を投げて自殺することに。ダヴィデはいたく悲しみ、嘆きつつサウルの娘たちと弔いを済ませてから、いよいよ王の座に就き、イスラエル王国を担う若い君主となる。
クラウス・グートの今回の演出は、原作と違う別のストーリーを創作して無理に押し込めるのではなく、この原作をベースに、人間の支配欲・名誉欲、そして嫉妬や憎しみという感情をシンボリックに描いて、決して悪くなかった。嫉妬と愛情のアンビバレントを、身体を硬直させ、痙攣しながら表現したボッシュは、古代の物語という個別性から離れ、人間が共通してもつ普遍的な負の感情を具現化して好感が持てた。そして、合唱団。ソロ歌手とともに舞台に上がって演技するが、こちらはピーター・セラーズ演出によるベルリンフィルでのバッハ、マタイ、ヨハネ両受難曲を思わず連想させた。手の動きを巧みに使って「集団」の意思や感情を表現するのだが、ただし、グートの作り方はセラーズよりも動きが整然としていて、黒い背景に黒い服(終盤はこのコスチュームが純白に変わる)と、ライティングで強調された白い手の動きとコントラストが美しく感じられる箇所がいくつもあった。
初盤でダヴィデを認めながらも激しい嫉妬に苛まれ、白い壁に巨大文字でSAULと記す王。権力とは、そして、自らの名を後世に残したいという欲望は、これほどまでに人を虜にするものなのか。そして、善き心と正義感に満ち溢れた若い英雄だったダヴィデが王座に就いたとき、サウルがしたのと同じ重い身振りでその文字をDAVIDと書きかえるエンディングは、権力者の存在がその後2000余年にわたってもいまだ決して消え去らない現実を暗示しているようで実に感慨深かった。
ただし、現代にも通底する人間の醜く激しい感情をぶつけて表現し、曲を作り上げていくことになるので、その当然の結果として、歌手たちの歌唱の重点は、必ずしも美しく歌うことには置かれない。ヘンデルの声楽曲といえば、聴きたいのは歌手泣かせの長いコロラトゥーラのアリアだが、ほとんどの歌手がこの歌唱技法を放棄しているように見えた。最近のバロック作品の演奏で気になるのは、声を伸びやかに出さず、地声で語るように歌う歌手が多くなっていることだ。本日だと、司祭役のマルセル・ビークマンなどはその典型だったし、名演技で魅せたバリトンのボッシュもどちらかといえばこのタイプだ。ヘンデルのバリトン・アリアは、腹でしっかり支えながら力強く喉を使って歌うのが旧来のスタンダードで、女性のコロラトゥーラとはまた違った魅力を醸しだすものだ。これは素人目から見ても相当ハイレベルの歌唱技術を要する歌い方だが、こうしたアプローチが人気を失い、少しずつ消えていくのは残念だ。
アンナ・プロハシュカは、開幕前に支配人からのアナウンスがあり、この寒さで喉を痛めているらしい。いつもよりは若干声が弱い気がしたが、印象としては、体調にかかわらず、あまりヘンデル向きの歌手ではないのではないか。ザルツブルクなどでも本当に見事なモーツァルト・オペラのいくつかの役を聞かせてくれた名歌手ではあるが、モーツァルトとバロックオペラはまた違った世界であることも事実なのだ。
こうしてあれこれいろいろある中で、突出して歌が見事だったのは、何と言ってもカウンターテナーのアルデッティである。声が安定していて、喉の回し方も見事。やはり、カウンターテナーのパートはほぼ古いオペラにしか登場しないので、今回のキャストの間でも、このジャンルを最も知り尽くしていたアーティストがアルデッティだったのではないだろうか。
さて、ヘンデル愛好者として、個人的には古い牧人劇とか宮廷劇のようなしつらえの舞台を観たいタイプである。今回の「サウル」はもともとオラトリオ作品なので多少の遊びはあってもいいとは思うが、気持ちごとバロック時代に持って行ってくれるような本格的なパロック・オペラに出会ってみたいものだ。
実はここ二週間ほどは、ウィーンの音楽シーンはいわば「ヘンデルまつり」状態で、なんと国立歌劇場では、ウィリアム・クリスティーが、オペラ『アリオダンテ』を振っている。こちらもすごく楽しみだ。
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大切なご報告があります!
どうもどうもなかむらです!
お礼が遅くなりましたが『星波島星祭り in AGF2017』にお越し頂きありがとうございました!
お留守番をしていてくださった方もご声援を送ってくださりありがとうございます。
あにまるぷらねっとのコンテンツとしては、初のグッズ販売になった『星波島星祭り in AGF2017』ですが、あまりの反響にメンバー一同驚いております。
グッズの数も、欲しいと思ってくださった方の手に渡るように個人の資金での生産数としては冒険し過ぎたくらい数を用意しました。
数を用意し過ぎて、「たくさん売れ残ったらどうしよう。その時は、皆で買おうね」なんて言い合うくらいには、数を用意したつもりだったのですのが、売り切れたと聞いた時は驚きました。
まさかここまで反響を頂けるとは思わなかったので、嬉しく思うと同時に、応援してくださる皆さんに深く感謝しております。
また、遠くから足を運んで頂いたにも関わらず、売り切れてしまい悲しい想いをさせてしまい申し訳ありませんでした。
今回のAGF2017は、1月と7月の多治見さんのご厚意でグッズを置いて頂ける事になったので、メンバーと話し合って今後のコンテンツの制作費の足しになればいいなと思い企画・制作しました。
前回のブログでも書きましたが、グッズの売り上げは、作品の制作費に充てようと思っています。
『売上次第では、作品がぐぐんとクオリティアップしたり展開が広がったりしますので、こちらも楽しみにしていて頂きたいです!』と言いましたが……
ここで皆さんに一つご報告があります。
今回、メンバーと話し合い……
皆さんにご協力頂いたグッズの売り上げで、星ヘリとスタブルに音声を入れる方向で動くことを決めました。
本当にありがとうございます!!
当初『星屑へリオグラフ』は、イラストとシナリオと音楽で世界観を表現しようと思っていたのですが、やはり音声でも追々表現出来たらいいなと思っていました。
落としきりのアプリなのでフルボイスは容量的に厳しいのですが、少しでもキャラの魅力や世界観を伝えられるように、可能な範囲で音声を入れていこうと思っています。
ボイスを入れるために、今制作スケジュールを見直しています。こちらも追々、ご報告させて頂きますね。
一方『starlit blue topia』は歌唱があるので、実はヴォーカルに音声を入れることは決まっていましたが、他のメンバーまでもは予算的に厳しく、いつか機会があればと思っていました。
スタブルメンバーにはやりたい事がたくさんあるみたいなので、彼らと一緒にメジャーデビューと言う目標に向かって歩いてくださる方を探していきたいと思います。
本当は……
音声化決定!
……でキャスト様もお伝えするのがスマートなのでしょうが、応援してくださっている皆さんに、現状をお伝えするべくご報告させて頂きました!
こういう風に制作の現状をお伝え出来るのも、あにぷらの活動の醍醐味なんじゃないかと思っています。
これから、あにぷらとして、コンテンツとして、バンドとしてやりたい事をまとめてキャラやアーティストと手を繋いでくださる方を探していきますので、また皆さんにご報告出来る日まで今しばらくお待ちくださいませ!
オファー担当(キャスト様のブッキングをする人)と、音響監督(現場で収録を指揮する人)は、あにぷらメンバーではないのですが、今まで一緒にお仕事をしてきて、信頼出来る方々にお願いしようと思っています!
収録となるとまた人手が必要になるのです!
この辺もいつかお話出来たら良いなと思いつつ。。。
こうして少しずつですが、皆さんのお力を借りて出来る事が増えていくのがとても嬉しいですし、作品作りに関わるメンバーの士気にも繋がります。 期待に応えられるように、メンバーとじっくりキャラやアーティストと向き合い、楽しみながら制作をしていきます( ・`д・´)9
あにまるぷらねっとを始めた時は、音声を入れるのはずっと先の話だと思っていたのですが、こうも早く動き出せるとは思いませんでした。
音声でキャラやアーティストを表現できる部分は大きいのでメンバーの願いでもあり、目標でもあったのですが、今回、グッズを手にして応援してくださった皆さんに、あにまるぷらねっととして何か返せないかと考えた時に、一番いい形で返せるのはこれしかないと思いました。
AGF2017にお邪魔させてくださった1月と7月様と、いつも応援してくださる皆さんのおかげです。
本当にありがとうございます!
また、遊びに来てくださった上に、お手紙までくださりありがとうございます!
キャラやアーティストやあにぷらメンバーへの手紙もあり、皆で読ませて頂きました。 手紙でもメッセージでも、お気持ちを伝えるために言葉を形にして伝えてくださるのは、ただただひたすらに嬉しいです。 本当にありがとうございます。 感謝の気持ちが溢れ過ぎてありがとうございます、しか言えないですね! はい!
そして、なかむらもスズキと榎野マナと一緒に遊びに行ったのですが、 スタブルの等身大パネルと星ヘリのビッグポスターにどきがむねむねしました。
ブースはこんな感じでした!
トピアくんの顔を解禁したので、こちらをご紹介させて頂きます(*'▽')
Green Areaに入ってすぐのところに1月と7月様のブースがあったので、とても目立っていました(*'ω'*) またブースには、理音が手伝いに駆けつけてくれていたので、思わず従弟組で写真を撮らせてもらいました(笑)
(今さらですが、この3人従兄弟なんです!! こっそり)
グッズに関しては、なかむらが行った時には両日ともに売り切れていたので、ついぞアクスタと缶バッジが売られているところを見る事は叶いませんでした。
今回のグッズや購入特典は、メンバーの総意で欲しい人の手に一つでも多く届けたい! という事で、全部販売や配布に回したので、なかむらの手元には色見本のアクスタとこれまた色見本の亜蘭と有貴の缶バッジ2つしかありません(笑)
なので、事後販売で買います!
事後販売も予定はなかったのですが、 あまりにたくさんのご要望を頂いたので、 無理のない範囲で缶バッジのみ 事後販売する事を決めました。 この度オープンしましたあにまるぷらねっとのグッズを販売する
『あにぷら屋』
で受注販売しています!
本日の23時59分で『星波島星祭り in AGF2017』で販売した缶バッジの受注は締め切りになります。 まだお買い求め頂けていない方は、この機会によろしくお願いします。
あにぷら屋へはこちらから! 星屑へリオグラフの缶バッジはこちらから! starlit blue topiaの缶バッジはこちらから!
事後販売に関しても、AGF2017終了後、1月と7月の多治見さんにご相談して、BOOTH様の登録の仕方から、商品の手配までご教示頂き、円滑に進める事が出来ました!
お店の名前をどうするかな~ってみんなで話し合っていた時に、カズアキが「ちょっとダサいけど、『あにぷら屋』はどう?」と言い、メンバーもちょっとダサいところが気に入ったのでお店の名前が決まりました(笑) 決まった後は…… マスコットキャラが必要だ! あにまるぷらねっとのお店だから何のあにまるにする? と、わいわい話し合った結果、KAYAJIIが提案したラッコに決まり、そこから榎野が開店に合わせて一日で生み出してくれたのが、ちょっと気の抜けたラッコ店長とバイトくんです(笑)
ラッコ店長とバイトくんが『あにぷら屋』を切り盛りしてくれると思うので、可愛がって頂けると嬉しいです(*´ω`) 一日でも早くお手元にお届け出来るようにして参りますので、事後販売でグッズを買ってくださった皆さんは、今しばらくお待ちください。
またまた、感謝の気持ちを込めて『AGF2017 in 星祭り』の後夜祭ページも公開しております! よかったらこちらも見て頂けると嬉しいです (´,,•ω•,,`) 後夜祭ページはこちらから! 浅生とわくわくが頑張ってくれました! AGF2017が無事に終わり、こうして嬉しいご報告が出来て、ホッとしています。これからもメンバーや皆さんといろんな“はじめて”を体験し、感じながら、ひとつひとつ大切に制作していきたいと思います。
これからも応援して頂けると嬉しいです!!
そしてそして、あっという間に今年が終わりますね!
12月はイベントが盛りだくさんです!
あにぷらのイベント予定としましては、亜蘭の誕生日やクリスマス企画や他にもちょっとしたものを予定しています。
また、11月末から12月にかけて…… ・榎野マナと浅生柚子のコラボでお届けする『星屑へリオグラフ』のクリスマスエピソード ・カズアキが描く『星屑へリオグラフ』の天体観測シ��ン ・カズアキと浅生柚子で描く『星屑へリオグラフ』と『starlit blue topia』の星祭りでのワンシーン ・『starlit blue topia』のインタビュー記事と撮り下ろしビジュアル 等々が掲載される雑誌が発売されるので、こちらも楽しみにしていてください!
今回は一部をご紹介!
どちらも近々、改めてあにぷら���式Twitterで告知させて頂きますのでお楽しみに! 最後にあにぷらの企画に関するお知らせが!
星屑ヘリオグラフ緊急企画!
突然ですが、写真部のメンバーへの質問を募集いたします(*'▽') #写真部へ突撃インタビュー 上記のハッシュタグをつけて写真部のメンバーに聞きたいことをTwitterでツイートしてください! 募集期間は、12月2日(土)23時59分までです。 どんな形で写真部のメンバーが答えてくれるかは、後日お知らせいたしますので、楽しみにしていてください! 是非、緊急企画に参加してみてくださいね!
スタブルメンバーがLINE@をジャック
現在、あにぷらのLINE@をスタブルメンバーがジャック! ジャックスケジュールはこちら!
年末までスタブルメンバーとのトークをお楽しみください☆ 今日から12月2日までは、サポートメンバーのトピアくんがジャックしています! まだお友だちになっていない方はこの機会に是非、お友だちになってくれると嬉しいです(*‘ω‘ *) あにぷらのLINE@はこちら お知らせはここまで!
年末までにまたブログを書きたいと思います!
それでは~ ブログを書いたあにまる⇒なかむらごりら
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