#悟浄歎異
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tobitori52 · 2 years ago
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劇団扉座第75回公演
『Kappa~中島敦の「わが西遊記」より~』
の感想走り書き。
先に絶対許されないと思った所について書きます。
5/27公演の人魚に扮するシーンで、「あり得る、アリエル」とリトルマーメイドを思い起こすセリフがあったんだけれど
「今の時代は多 様 性 だから」
という現状の、リトルマーメイドの黒人主演を、ネタにして観客もそれを笑うという状況が心底最悪だった。
台本になかったのでアドリブ?日替わり?台詞だったのかな多分。
現在の実写リトルマーメイドにも纏わる"人種差別という根深い、現実に命に関わる問題"をを軽々しくネタ扱いし揶揄するこの台詞に憤慨している。
その後に場面が変わってお師さんが出てきて、オッ登場か!となれるはずなのに、「ちょっと待ってさっきの最悪な台詞なんだった…………?」で思考が止まる。場面が切り替わるのに全くそれはさておきが全くできない。それで済まして流せないほど酷い台詞を聞いた後だから。
それ以外にも体型に関するネタ台詞なんかは「演劇舞台の界隈ってまだこれが面白がって笑っていいと思ってる段階なのか?」というがっかり感はあった。普段様々見たりしていないから実際全体的にどうなのかはわからない。少なくとも今回の公演のは アレはおそらく"冗談"や"ネタ"としてやっているらしくて、観客もそれを笑っていたが。
途中の八戒のあの軽々しい台詞達にも全く劣らない「しょうもない」台詞だった。
八戒の台詞などは、元小説での男色言及や、大前提そもそもの好色な人物像があり「八戒なら言う」台詞なので舞台上の台詞、として彼の性質を理解するためにはなるんだが、「多 様 性」のくだりはあれ本筋にもなんの関係もないただの台詞だったわけで。
多様性の揶揄って完全に劇団側の差別問題への不理解と軽視によるものだろう。
これだけの物語を魅せてくれたのに、所詮考えずにすむ立場の、考えることをやめた傍観者の立場にいる側の公演だったのか?間違っても許しちゃいけなかっただろうに、あんな台詞を言えてしまう、演出として許してしまっていたのは心底残念。
だってあんな台詞なんてなくても、流沙河に"人喰いツアー"にきてる3人組がワチャワチャしてるという食生活の異種ものギャグは面白かった。
ただ2023年になってまでまだ"この手の笑い"やんの!?が定期的に挟まるので全面的には笑えない。
ようは差別的な問題を他所ごと扱いに揶揄するような台詞かんか無くても"お笑い"はできる、そういう揶揄を含んだ笑いはもう大衆に向ける時代は終えるべきだろうに。やるなら身内相手にしててくれ。
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以下感想
めちゃくちゃ面白かったーーーーーー!!!!
ブロマイドくれ、円盤くれ、グッズ出して……。
これが人間の脳とかいうすぐショートする代物にしか残らないんですか?嘘でしょ……。
普段円盤とかWEBでアーカイブ残るものに慣れてるので信じられないよ。もはやスマホ動画でもいいから見たいよ。舞台は現地でこそなのはわかるんですが、にしても最高すぎて、自分の脳が4K保存できるスペックだったら良かったのに……どうして……。
「悟浄出世」の劇が始まった
思ったより「西遊記もの」でもある?でもやっぱ「悟浄出世・悟浄歎異」
先生→悟浄のクソデカ感情もの……?
「中島敦作品」の劇じゃん!!!!!!
からの「悟浄歎異」で締めなの鮮やか最高天才優勝
テンポにストレスをまったく感じなかった。
ギャグのテンポが良かった!笑っていいのかな?とかにならずに、観客のふふっと吹き出してしまうところが揃う感じ。悟浄と先生が��い黙ってしまう……からの次行きましょうか!とかの、間のとりかたとか。
背���着てる悟浄、なんとなく分かる、という気持ちに。眼鏡リボン懐中時計がいい味出していた。たしかに弟子達の中で1番背広きて欲しいのは悟浄だ。
しかしはなからすでに、遠慮がちだからそうとは思わせずにもさりげなく"体裁"作ってしまう彼の性質がもう描写としてある。
 
先生のこと、多分途中で出てきた「詩集」「八戒と悟空が変化するのが虎」「元人間」などで察せる人も居たんだろうな、と思います。自分はさっぱりでした。皆どれくらいで気づいていたんだろうか。
前半で先生が一緒に行くことになった時に、これあとあとどうするんだろうかこの人の立ち位置……思った。
ここまで沙悟浄と一緒にいて使い捨てはしないだろうけどもそれにしてもどうするのか全然予想がつかなかった 旅の仲間になるんでもなさそうだしな、と。
いやしかし最高だった予想外だった。
悟浄出世から旅立ちで別れる時の「せ、先生はいいのか!?こんなに一緒にいたのに1人だけ行ってしまうのか!?置いてくのか!?」の気持ち、観ている側でさえ思うのに先生はまさに当事者なわけで。
何年も連れ立った相手が1人で先に行ってしまったらそら妬みも羨望も爆発する。
ただ、沙悟浄からしたら藁に縋っていく数年を経ても進歩が見られず、そこに現れた一筋の蜘蛛の糸なんて掴まないわけにはいかない。
しかし最終的には「行きます!行かせてください!」と言ったにしても、それでもまず先に言ったのは「先生!行って良いですか!?」なのが、彼は先生を連れ立つ恩人として敬意を持って接してる、というのが分かるからより辛い。
どっちが悪いというわけでもないのにすれ違っているというか、通じ合えてはいないのが良い。
ことここにおいては観音様と が先生に説明もせず普通にコイツは駄目っすわで切り捨ててるのが悪いとも思うけども。二人これだけ一緒にいるのを見ておいて、あえてわざわざ引き裂くから!ほれみたことか。
しかし西遊記でもこうというか、沙悟浄の流沙河堕としやらも含めて無条件で救うような釈迦仏達ではないのは知っての通り。しかし大概酷い。
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元々、「西遊記」の最推しが沙悟浄で、その上で中島敦の文体や作品が好きなので「悟浄出世・悟浄歎異」は推し+推し大優勝なのですが。
今回の劇に関して個人的MVPが八戒でした。
あの、今まで様々な訳の西遊記と映像や派生した作品群を見てきたんですが、本当に1、2を争うレベルで好き………………………………。話し方立ち居振る舞い��んだろう。有り様が理想系すぎる。(腹は出てないけども)
あの猪八戒が脳に焼き付いてしまったので今後の人生で猪八戒のこと考える時思い出してしまうだろう。記憶が歪まないことを願うばかり。
肉まんのデリバリーの「881」とかそれを片付けることに「あっ片付けてくれてありがとね」とか、「名前なんだっけ」とかコメディリリーフなのはお待たせいつもの感じ。
ちゃらんぽらんで、「こいつは本当に、しょうもないやつだな!」と思えるのに、それにを呼び起こさない。新宿の女〜なんかは発言としてはまったくどうかと思うし最悪だと思うのに、彼なら言うとさらりと飲み込まされてしまう。
西遊記関連の作品群では、たまにこのちゃらんぽらんな性質が、嫌味な捻くれもののように描写される猪八戒もいるんだけれどそうではなかった。妙に魅力的、嫌いになれない。
こうはなりたくないけれど、そもそもここまで特出して自分の素直な欲のためだけに人生を楽しむことは、自分にはできないだろうとい一周回って敬意すら生まれる。酔っ払ってお喋りする彼が本当に悟浄歎異の彼だった。
ところで夜に起きてる悟浄に話しかける八戒、というのがかわいいな〜と。お師さんには下世話な話はできないし、悟空と話すとおそらく怒られがちなのかもしれない。悟浄とは思考回路がだいぶ違いそうだけれど、お互いの考えをなるほどだの分からんだのと思いながら、へえ、と聞く仲でいられそう。
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孫悟空についてはあの、堺正章…………。
堺正章さん版インスパイアだなと…………。
ということで、あまり"悟浄歎異"の孫悟空では無かったかもしれない?と思う。和製孫悟空の像というか。今回主軸にあんまり絡まんというのはあるとはいえ。
彼の性質についての語り彼は火種……の苛烈激烈な性質についての裏付けのシーンがあまり無かったのかなと。十分乱暴者であったはずなので何故だろう。どうもなんだかんだ気のいいような性質に見えたのかも、焼いてしまう火よりは日光のような。あの、かわいいかったもんだから。
しかしめちゃくちゃ「俺たちの想像する孫悟空像」の擬人化なので、動いてる時に全く違和感を感じない。孫悟空が居るな〜!と。
しかし香取慎吾さん版以降の世代でそれしか観ていなかったら、違和感があったりするのかも?日本国内孫悟空の二代イメージ。
和製孫悟空のイメージ……舞台化作品でも、完全に若年向けだったりだと金髪になりがちな気がする。
きんこじ痛がるからの追放はやはり見れたのでhappy。西遊記モノといえば皆大好き悟空の追放回!
そしてら「俺のお師さん」発言は嬉しい。どうもやっぱ���かわいいんだよな。
動き回る跳躍だ高い早い軽やかで脳が騙される。当然のように跳ね回っていますが、ジャンプ、高くないか?
あとこれは八戒などもですが棒術戦闘がすごく格好いい。
ところで途中どこだかで、耳あたりから如意棒をピョンっと伸ばして出すの、あまりに現実でびっくりしてしまった。ちっちゃくして仕舞っていた如意棒が伸ばして掴んで、すっ飛んで行ってしまうの、孫悟空でしかない。孫悟空が居たな……孫悟空が居ました。
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檻の内外で様々に話すところについて
ずっと「いいからそこから早くでろよ!出てよ!」と言ってるもうずっと昔に諦めてしまったことのある先生が、ついに会話のために檻の中に入っていく。
所謂���を割って話す、で言う所で、檻の中は"腹のうち"なのかもしれない。
檻のあたりのシーンは、沙悟浄と先生にとって重要なんだけれど、"お師さんがいてこそ"の状況の打開、というシーンでもあるように見える。
先生が言う「そこからさっさと出て逃げてくれ!」は" 囚われているという実際的な状況"では至極ごもっともなんだけれど、あそこで一緒にいるのはあの"強いお師さん"で
この時直面している"先生の気持ちが置いてかれている状況"の打破としては、あそこであえて留まり語り合う、という選択がまさに「物理、実際的な問題に対しても己のうちをみる」お師さんのありようそのもの。
きっとここが悟浄と先生だけなら、先生が心象を吐露することにはならずに、沙悟浄もよく分からんまま慌てたまま、2人別れてしまいそうな気がする。
お師さんがただの弱い人でも、ただのお人よしだけでもなく、この人は本当に間違いなく強い人なんだ、という悟浄の解釈が説得力を帯びるシーンでもあった。
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先生と悟浄は旅が終わったら天上で一緒にお勤めしてほしいし、たまにはお茶でもしてほしい美味しいものを食べてあれこれ云々話していてほしいです。
そして円盤かブロマイドください。ネップリでもいいから…………。
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it-takes-two-weeks · 1 year ago
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ちくま日本文学を全部読む:012 中島敦
中島敦はそれこそ教科書で「山月記」を読んだくらいだった���ど、最初に言ってしまうと、これまで読んできたこのシリーズの中でも、現時点で一番刺さった一冊になった。
どの作品も現代に通用する知の営みに満ちている。突き詰められた思索は古びないものなのだと思った。それでいて、物語性もいやらしくないくらいには存在していて、少なくとも自分にはちょうどよかった。使われている表現自体は難しいものが多いのだけど、文章そのものは読みやすいので、注釈が充実している版で読めばそう読みにくいものではないと思う。
概ねどの作品も気に入ったのだけど、「李陵」、「文字禍」、「巡査のいる風景」、「悟浄歎異」が印象に残った。全3巻だし、全集を読んでみてもいいかもしれないというくらいには、中島敦という作家のことが好きになった。
そういえば、読んだ本は2023年3月に発行された17刷だった。ざっと確認した感じ、少なくともここまでの12冊の中では、もっとも増刷の回数が多い一冊じゃないかと思う。もちろん初版や各重版の部数も違うだろうから一概には言えないけども、このちくま日本文学という枠組みの中で密かに愛されるその姿も、自分としては非常に好ましく感じた。
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qsfrombooks · 8 years ago
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燃え盛る火は、みずからの燃えていることを知るまい。自分は燃えているな、などと考えているうちは、まだほんとうに燃えていないのだ。
悟浄歎異 —沙門悟浄の手記— / 中島 敦
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jyokouji · 2 years ago
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死に直面して
 中国の高僧、曇鸞大師(476~542)は山西省雁門の生まれ、神鸞とも尊称された。彼は若くして病気をもっていたようで、仏教研究を果たされず、そこで、先ず不老長寿の法を求め、江南の道士・陶弘景を訪問し、仙経道術を学ばれた。そこから北支に帰るのだが、帰途、洛陽で菩提流支に逢う。流支は教える、「まことの不老永生の法とは輪廻転生を超えるところの仏法、浄土教による他はない」と。この教誡に従い、曇鸞大師は仙経を捨て、浄土教に帰依されたと伝えられている。
 さて21世紀の現代において、我々は非常に進んだ近代医学と薬学の恩恵を被っている。この事態は到底、6世紀の曇鸞大師の頃とは違い、遥かに幸せになっているかのように見える。しかし果たしてそうであろうか。
仏教においては「定命」と言って、人の寿命はすでに定まっていると説く。ただ本人には判らない話である。蓮如上人は曰く「人間の寿命をかぞふれば、今の時の定命は五十六なり。・・・これにつけても、前業の所感なれば、いかなる疾患をうけてか死の縁にのぞまんとおぼつかなし」(御文章4帖ー2)
そこで現代人は懸命に医学と薬学を発揮して、寿命を延ばそうとするのであるが、その甲斐なく定命通り命が終わり、死んでゆくのであり、ここから流転輪廻を続けるのである。自己が流転輪廻を続けていることが明らかとなり、ここから解脱、成仏せんと願い、「出世間」に入る。出世間に入っても、初めは自力聖道門を歩み、次に自力無効を悟り、浄土門に転向する。しかしこの段階に入っても自力根性が残存している。一切の自力根性が抜け、阿弥陀仏の本願海に身を委ねた事態が、信心決定の事態である。ここを和讃に曰く「本眼力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし(高僧和讃13)
私一人が阿弥陀仏の本願海に身を委ねた事態こそ、無量の命を頂いた境地なのである。曇鸞大師の落ち着かれた境涯もここにあったのである。歎異抄に曰く「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(歎異抄 後序)と。
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manganjiiji · 2 years ago
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はなのまこと
なんかおそろしげなタグがたくさんついている日記がいちばん上にあるのはなんかおそろしいなと思ったので取り急ぎ書く。おそろしげなものは全て私のわりと大部分を占める属性であり、直面している問題の少なくないところであるが、そんなことは他人から見た私の中にほぼひとかけらも見いだせないらしいので、あまり上に置いておくものでもないなと思った。tumblrがそういうところではないのは知っているが、いちおう同病者のかたがタグで検索したりすることがあればひっかかるように付けておこう、くらいの気持ちでつけている(病気関係のことは情報交換がけっこう回復や前進にダイレクトに影響することもあるので)。
私の暮らしは相変わらず本を中心に回っているね、と思った。選挙のため、3ヶ月前に居住していた都内の地区へ。暑さでやられたが投票後ドトールで休むことでなんとか復帰。立川のペーパーウォールで『54字の小説1』と、トッドの文春新書の4冊目が面陳になっていたので買う。その後広大な文具コーナーに気づき、九ポ堂さんの便箋、一筆箋、灯台ノート、リサ・ラーソンの100枚レターブックを買う。ちなみに『ぱんどろぼう』のエコバッグも買っている。破産するのか?破滅したいのか?昨日から軽躁状態なのか、おかしい。おかしいのはいつもだが金銭のブレーキがききにくい。嫌になるが、とにかく買ったものを無駄にせずよく生きるための心強い味方にするしかない。行きの電車の中で無料で読める漫画や次にくるマンガ大賞の話になり、私は『マリッジトキシン』の1話をとにかく1話だけ読んでくれと推し、『エクソシストを堕とせない』を教えてもらった。とにかく情報量が詰め込まれている漫画で、私は特に好きな方向性ではなかった。このテーマを扱うならもう少し描き方に一貫性が欲しいというか、とにかく全部盛りにしがちなので少し言いたいことをマイナスした方がいいと思う。あと線が多い作画なので戦闘シーンで画面が見づらくならないよう工夫してほしい。などと思ったが、これはこのままで好む人も多いだろうし、ただ私に刺さらなかったというだけだと思う。私は文体(小説)もそうだが、作画が好きじゃないと面白い漫画も面白く感じない。あとは、パルシィをぼーっと見ていたら『アイツがひれ伏すはずなのに!��というBLが爽やかで可愛くてめちゃくちゃ良かった。途中からは有料だったのでAmazonで全体の価格を見たら800円以上だった。なんと。無料で2話分くらいアプリで読ませてくれるのは太っ腹だったと思う。かなり読みたいが…購入は迷っている…。
今日実は吉祥寺のブックマンションや荻窪のTitle、西荻のフヅクエなどに行こうかとも考えていた。赤森さんがぜひ初秋にでも文喫をご一緒しましょうと言ってくださって嬉しい。その頃にはなんらか病状や暮らしもいまひとつ落ち着いているといいです。
20時より紹介型読書会というものに参加させていただいた。「救いのない結末の物語」紹介の回だったので、さまざまな方面からの「救いのなさ」が聞けて、さらに純文学や海外文学でさまざまに読みたいものが増えてたいへん興奮した。私は「他の方とかぶらなかったら発表します」とひよっていたが、結局『推し、燃ゆ』を推薦した。救いのない物語が好きではないのでこの1冊しか思いつかなかった。しかし昔読んだ『となり町戦争』『夢を与える』あたりは、救いのなさでいえば、そうといえなくもない、のラインにくるのではないかと感じられてひっぱりだし、久しぶりに夢を与えるをぱらぱらと読んだ。
寝る前の通話では相変わらずDRAGONBALLにみなが沸き立っており(?)ヤムチャが沙悟浄なのだ、という話で「へえー!」となった。ブルマが三蔵法師というのはまったく思いつかなかった!(ちなみに私はもちろんちょっとどうかと思うくらい最遊記にハマっていた小学生だったため、西遊記の知識はそこ由来しかない。)そこで敬愛する御仁が「沙悟浄のイメージは中島敦の悟浄歎異かも」とおっしゃっていて、そんなのがあるのか!と思い、ちくま文庫の『中島敦』を引っ張り出してきて「悟浄出世」の冒頭を少し読んだ。中島敦、なんというか単語選びが少女のようで良い。明日以降ここは読んでしまいたい。思ったより二篇は長そうだ。
バゴプラのシェアード・ワールド周りの作品や、さなコン応募作品等、アマチュアからまさに作家になろうとする時期の人々のSFを最近まとめて読もうと思っているが時間を取れていない。明日は脳神経外科で注射の日なので、ごろごろはできない。そろそろごろごろして紙の漫画一気読み大会をしなければな〜とも思う。
うすむらさきのワンピースシリーズで、青空研一の話を思いついた。これはうすむらさきと青空研一が交流してから青空研一が死ぬまでの話で、青空研一は記者であり、うすむらさきのワンピースはその日の新聞をよく��すということがわかった。最近このシリーズしか活字にしていないなあと思う。まあでも書かないよりはよい。はやくSKIMAサンプル用の小説を書いてしまって、サービスを開始したい。
考えるのは未来のことばかり。本や漫画を巡る冒険をしながら、たまには小説を書く。そういえば私にはサリンジャーは「救いのない結末の物語」とは思えないなあ、とはっきりと思った。『くるまの娘』を紹介されていたかたの紹介の仕方が素晴らしかったので、読みたいなゲージが高まっている。
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nagachika · 3 years ago
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李陵・山月記 を読んだ
副題が「弟子・名人伝」。中島敦。これまた子が学校の図書館から借りてきていたのを読ませてもらった。
「李陵」漢の将軍李陵が匈奴との戦に���れて囚われ、やがて胡軍に下るという史実をもとに李陵を弁護して宮刑に処せられる司馬遷のエピソードや、同じく匈奴に囚われながらも決して帰順せず辺境に暮している蘇武との交流などを描いている。かなり史料をそのまま描いたという雰囲気で解説でも修飾はほとんどないとされている。李陵が蘇武に対して感じるコンプレックスというか、こんな完全な意思の貫徹をされると自分がみじめになってしまうという気持ちはわからんでもないなぁ。逆に言うと完全な人というのは周囲に劣等感を湧き起こさせる人でもあるんだなぁというようなことを思った。
「弟子」孔子の弟子である子路の伝記的作品。これもまた史料を引き写したのかなぁというような印象のある素気なくしかし読みやすい文章。内容についてはいまひとつ現在の心境に響くところがなくて特にないのだけど、孔子って結構現実的/実際的な考えの人だなぁという印象を得た。
「名人伝」有名な作品なのであらためてどうということはないのだが、今再読すると紀昌は身の危険を感じた飛衛にだまされて(甘蠅もグルで、不射の射もなにかのトリックだったとか)腑抜けにされたんじゃなかろうかというふうに思ってしまう。
「山月記」これこそ超有名で国語の時間にかならず読むやつなので今更どうということもない。ところで李徴は本当にこの後ただの虎に成り果てるのだろうか? なんとなしにそうでもないんじゃないかという気がした。
「悟浄出世」いわゆる西遊記の沙悟浄が三蔵法師一行に加わる前のエピソード。自己とはなにかというのない問いに囚われて妖怪世界のあらゆる行者、哲学者、こたえ求道者に弟子入りして教えを乞うもののこたえを得られず、こうして問うているばかりでいるのがダメなんじゃ……と自省しはじめた悟浄に仏のお告げがあって三蔵法師と巡りあうのでした、というところまでのおはなし。悟浄が弟子入りするいろんな妖怪のバリエーションとその教えの多様さがおもしろい。
「悟浄歎異」おなじく西遊記の沙悟浄が兄弟子の孫悟空や猪八戒について評する一人称語りのおはなし。仏弟子になってもいろいろと考えすぎる癖は直っていないようで、特に孫悟空に対してその偉大さを分析しながら、こういう分析とかしてるから自分はああなれないんだよなと自省しているというこれは「李陵」において李陵が蘇武に感じているコンプレックスとどこか通じるものがある。自分はこの悟浄好きだな。
中島敦は読んでいるようでそんなにたくさんは読んでないので悟浄シリーズ(?)などは思いもよらずおもしろかった。暗さはあるんだけど文章は非常に簡潔で(漢字は難しめだが)読みやすい。「わが西遊記」という連作ものらしいので他にもあるなら探して読んでみよう。
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shakuhachi-kataha · 3 years ago
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文学と尺八📖『醒睡笑』
戦国時代の笑い話に登場する尺八。
『醒睡笑』(せいすいしょう)とは庶民の間に広く流行した話を集めた笑話集。著者は茶人や文人としても知られる京の僧侶、安楽庵策伝(あんらくあん さくでん)。写本8巻8冊、1,039話の話を収録している。「眠りを覚まして笑う」の意味で『醒睡笑』と命名された。1623年(元和9年)成立。板倉重宗へ献呈された後���転写されて流布したとのこと。
著者は、安楽菴策伝(あんらくあん さくでん、1554年ー1642年)
戦国時代から江戸時代前期にかけての浄土宗西山深草派の僧。誓願寺第55世法主。安楽庵流(織部流の分派)茶道の祖。金森定近の子といわれる。なんと私と同じく美濃国出身なんですね〜。
400年前の笑い話?
今現在も、笑えるんかな?とか思いつつ、流石に時代的に理解しにくい部分もありますが、中には人間今も昔も変わらんな〜なんて話もありました。
この中から「尺八」の二文字を、2箇所見つけました!
巻の三 
文字知り顔(知ったかぶりの間抜けさ)
Tumblr media
(国立国会図書館より)
笛のえはちゞみえか、末のゑか、いづれがよいといふに、されば定家のかなづかひにも、源氏などにも、ちゞみえを書きたるは。いやよこえがよい。何とて。笛は横にして吹くほどに。そばにゐたる禅門うかべたる體をし、げにもげにも尺八の八もよこえぢや。
A 笛(ふえ)のえは「え」か「ゑ」か、どれが良いかと言うと、定家仮名遣いにも源氏にも、「え」と書いてある。
B いや、横の「へ」が良い。
A 何で?
B 笛は横にして吹くし。
C(禅僧っぽい人) なるほどなるほど���尺八の八も横の「へ」じゃ!
3人のオッサンが他愛もない話をしているこの情景、目に浮かびますね。で最後に側で盗み聞きしてた禅僧っぽい人が尺八をぶっ込んてくる。笑
「え」も「ゑ」も「へ」も、全部「エ」と発音しますもんね。異字同音というのでしょうか。ついでに「へ」と「八」ときた。形状類似文字?
こちらにその解説があります↓
仮名遣いに対する人々の当惑と、定家仮名遣い (1) を標準とする意識がみてとれる。この定家の仮名遣いは、江戸時代、元禄年間になって契沖(1640-1701)(2) によって批判されることになる。すなわち契沖は、この定家の仮名遣いが『万葉集』をはじめとする上代文献の仮名遣いと合致しないことを発見し、『和字正濫鈔』(1695年刊)を著してこれを批判した。
(『日本語史要講』著者: 小田勝)
【定家仮名遣(ていかかなづかい)】仮名遣いの一種。平安時代末から鎌倉時代初期にかけての公家・藤原定家がはじめたもので、明治に至るまで一定の支持を得た。
【契沖(けいちゅう)】は、江戸時代中期の真言宗の僧であり、古典学者(国学者)。
この頃から尺八を吹く人は、禅僧っぽい人という認識があったようです。
その一方で、尺八は田楽や猿楽、あとは時宗に関わる人々にも吹かれており、そのことが分かる話もあります。
巻の八 
秀句(秀でた詩文をもとにした言葉遊び)
義政将軍の御前に、同朋萬阿弥罷居(まかりい)たる時、作意を御覧せんとやおぼしめされけん尺八を投出しそれそれ車が行くと仰せければ、萬阿弥いそぎ立ち、ちゃくとおさへざまに、失うてはなるまいと、取りて懐に入れしと。
足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1474年)。
父、義教が暗殺され、僧侶であった義政は家督を継ぐ事になります。当初は積極的であったものの、まわりからの介入で主導権が握れないまま政治への意欲を失っていき、跡継ぎ問題では、後に京が灰になったと言われた応仁の乱のきっかけにもなります。大規模な民衆一揆が起こったり、鴨川の大洪水で民衆が飢餓に喘いでいるにも関わらず、新築の家に夢中だったそうな。乱の最中、義政は将軍職を義尚に譲り逃避の風流生活��入った。京都の東山に山荘を造営し、銀閣を建ててここに移り住んだ。この時期、禅宗の影響を強く受けた水墨画、茶、連歌、能、いけ花など、高い価値をもった文化が開花した。この文化を一般に東山文化とよんでいるとのこと。
同朋(どうぼう)萬阿弥とは、室町時代以降将軍の近くで雑務や芸能にあたった人々のことを同朋衆といい、萬阿弥はその一人であったのでしょう。一遍の起した時衆教団に、芸能に優れた者が集まったものが起源とされ、阿弥衆、御坊主衆とも呼ばれた。1866年に廃止された。
義政が尺八を投げ「それそれ車が行く」というこの話の真意は分かりませんが、この頃の尺八は一節切。短めな竹でパッと見それ程重要な楽器には見えなかったと思います。それを試したのでしょうか。
この話からも猿楽の演者が尺八を吹いていた事がわかります。
前の笑話は禅僧っぽい人が尺八の話をしていたし、この頃は色んな人に尺八が演奏されていた事が分かりますね。
そして、『醒睡笑』巻の三「清僧」には、皆さんおなじみの一路居士が登場します。
一路といって、悟りをえた禅僧があった。和泉の国大鳥(いまの堺市)の辺りに草庵を結び、友もなく年月を送っていた。身に付くものはただ一つだけ、手取(てどり)といって小さい釜に口の付いたのがあるだけで、それをもって朝夕の煙を立てていた。ある時たわむれに、
手取よおのが小口のさし出て雑水煮たと人に語るな
身を隠す庵の軒の朽ちぬれば活きても苔の下にこそあれ
月は見ん月には見えじながらえて浮世をめぐる影もはずかし
一路居士は姓氏不明。一休と同時代の人出、両者の間の問答というのも伝わっている。市村という辺りに草庵を結び、志しある人から食物の施しを受けて手取鍋一つを友として暮していたが、ある時悪童が食物を入れている籠に馬糞などを入れておいたので、もはや世は末だと歎いて断食して死んだ。
(参照『醒睡笑 -戦国の笑話ー』鈴木棠三(とうぞう)訳)
一路居士について参照はこちら↓
当時の笑話に登場する一路居士、相当な有名人であったのではないかと思います。
日本はこの時代程では無いにしても、只今ある意味乱世でありますなぁ。日本というか世界中が混乱状態ですよね。
義政将軍のように、静寂を求め隠棲したい気分でもありますが(すでにしてるのかも知れないけど東京で?!)、『醒睡笑』のようにユーモアも忘れずにいきたいものですね😌
...
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a-u-mbs · 6 years ago
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ごちゃごちゃ
私性を薄めるって、ようするにホテルの部屋で、明日から自分以外の誰かを当てはめても問題なく使っていけるってことではと思う。
心が先にあって、心に意がある人は美しい、見た目もそりゃ大事だけどコップのかたちと同じくらい中に何が入ってるかが大事でどっちのほうが大事とかいえない、悟浄歎異を読むとそうそうこれこれ、こういうことが言いたいんだよな~と思う。結局のところ造形の美醜ってないなと感じる。好みがあるだけで。いかな人でも必ずどこかには需要がある、誰かが誰かのフェチズムにマッチングするようにできていると思う。っていうとすごい気楽なご都合主義って感じがするけど、人間生きてるあいだじゅう心は動き続けているので、生きてそれなりに活動していれば、自分がそうしたいかどうかには関係なく他者にはたらきかける力が発生してしまい、そういうふうになってしまう、これはもうしかたないこと。みたいに思う。顔は特に好きじゃないけどこの人の活動が好きだと思って追ってるうちにだんだん顔も好きになってきたな~とかそういうやつ。 それで心が先にあって出力されたものはあと、文体とか筆跡とか作品とかぜんぶおなじで最後にくっついてくる歩き方みたいな感じ、でも「その人」がいて結果的に歩き方がそうなってる、その人が適当に書いたサインがたまたまそうなってるっていうのが大事なので、出てきたものだけまねてもぜんぜんイミない……と分かりつつ歩き方をまねてしまうよね、好きだから。そうなりたいから。再現不可能だから美しいのかなと思う。その精神のありようを永遠に取っておきたいけど無理だから、足あととして残ってきた作品がすごい、きらめいているというか。生きてたな~みたいな。なに食ってたらこんなこと言えるんだよっていう。 「あの時は良かったけど今はそんなにだよね」って現象、特に体動かす系の分野だとビシビシ思うんだけど、「全盛期」があってピーク過ぎるとどんどん衰えていくやつ、ものさびしいけどそういうもので、「あの時のあなたの作品はよかったです。今はそうでもないけど。もうああいうのやらないんですか?」っていうの、好きな人が言われていたら悲しいなと思う(自分は別に言われたことない)。なんていうか、言いたいのは、そうじゃねえだろってことでしかない。現象としてそういう「最近イマイチだな。あの頃はすごかったけど」があるにしても、一番貴いのは「生きて変化している」ってことじゃないのかよと思う。切り花、買いたてはイキイキしていて数日経ってふつうになってだんだんションボリしはじめてやがて枯れるってことが花であるってことで、いいとかわるいとかじゃないじゃん。じゃあ造花だったら満足なのかよ? ってはなしで。造花、ぜんぜんすきじゃないな……。すごい造花を見たことないからかもしれない。だいぶスレスレだけどこの流れで「枯れるところも枯れるところできれいだよね」というオチに持ってくのは自分的にはアウトなんだけどうまく表現できない。
二次創作を読んで書いた二次創作があるなと思った。孫創作。 なんか、なんだこれ読んだことねえ、面白いなって思う二次創作は出典が現実で、なんとなくこんな感じの読んだことあるなの普通の二次創作は出典が二次創作って感じがする。
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