#尻屋崎灯台
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尻屋崎
疲れてくると
なんでか
嫌なやつになる、ただの、わがまま
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溜まったやつは全放出!
これで最後だ&追加ネタだ!! 写真は後ほど追加���ます!!!!!!!!
・下北半島一周の話 ・バイクのヘル���ットの話 ・水筒の話 ・竜飛岬の補足(階段国道とか) ・ようやく複利投資を始めた話 ・弘前城の桜を見た話 ・青森の日本海側をちょびっと行った話 ←これ ・クレカのポイント特典がしょぼくなった話
というわけでようやく溜めてたやつを全部消化。 まぁ書けてないネタはまだあるので、そっちもいずれ……
よし、最後またバイクで青森県内うろうろした話!!
◯青森の日本海側をちょびっと行った話
青森県に来てから半年以上経ちましたが、バイクでちょくちょく観光には回ってるけど、日本海側ってほとんど行ってないんですよね。じゃあ太平洋側行ってるのかっていうとそうでもないんだけど。。。とりあえず、日本海側は全然行ってなかったので、行ってきました。4月と5月にとりあえず1回ずつ。行ったのは、十三湖と千畳敷です。ちなみに十二湖もあります。白神山地の近くまずは4月。十三湖は汽水湖だったかな。しじみが有名なでっかい湖です。昔はもっと湖が大きかったらしいですが。この日はバイクで行ったんですが、ちょうど花粉全盛期に行ったせいで死にかけてました。花粉やばすぎ。道の駅でしじみラーメン食べようとしてたのに、花粉の症状が全く改善しなかったので泣く泣く諦めました。で、そのあとは近くをバイクでぶらぶらしつつそのまま南下。近く、でもないけど比較的近傍にあった高山稲荷神社に行きました。ここは千本鳥居があります。ちなみに京都生まれ京都育ちのくせに伏見稲荷には行ったことがないので、比較はできません。まぁとりあえず、こんな感じかーって体験がてら行きました。ぼちぼち人がいたけど、そこまで沢山じゃなかったので助かりました。やっぱこのくらいよな……。 次に5月。どこらへん行こうかなーって職場で話してると千畳敷の話が出てきたので、せっかくだし行ってみるかっ��ことで向かいました。全く潮の満ち引きのこと調べてなかったけど、比較的潮が引いてるタイミングだったのでいい感じで見れました。飯もついでに食べたので、2時間近くいたけど、だんだん潮が満ちてきて行こうと思ってたところがいけなくなったりはしたけど、とりあえず楽しみました。ただ、ちょっと見た目のインパクトには欠けるかなーって感じ。今の所、見た目のインパクトは仏ヶ浦が一番です。恐山もいい感じだったけど。この日は千畳敷以外はいってないですね。ちなみに千畳敷へ向かう途中に日本一のイチョウの木がありました。秋はすごいらしいですね。まぁ木は大きかった。またその時期に行こうかな。大人だと何気なくいっても経験として楽しめるけど、子供の頃にここ連れられても記憶に残るかなとちょっと思いつつも、まぁそんなの俺には関係ないや!と思ったくらいです。 終わり!
とするのはアレなので、そのままバイクでいろいろ行った話ね。追加というか日記
◯久々にバイクに乗った話+α
上の千畳敷行ったのち、2ヶ月ぶりにバイクに乗りました。5月に乗ってから、いろいろあって乗ってませんでした。単純に休日に動くのが面倒だっただけなんですけどね。6月はまーまじでなんもしてねえ。7月になってからさすがにそろそろ一回くらい乗らないとなって危機感もって適当に目的決めて走りました。まぁ暑かったけど結果的には正解でしょ!で、目的。とりあえずそこまでしっかり決めてた訳じゃないんだけど、夏泊半島行こうかなと。どこだよって話ですよね! 青森の真ん中で湾に向かってちょこっともっこりしてるところです!まぁ何かがあるって訳じゃないんですけどね。家からちょうどいい距離だったから行ってみた、くらいです。行った結果、まじで特に何かある訳じゃなかった! もう少し調べてからいってもよかったかな! で、次。実は青森県には知られざる有名なB級スポットがあるの知ってますか?知られざる、なのに有名ってなんだよって話ですが。そう、キリストの墓ですね。知ってる人はあぁ……、ってなる、知らない人は、は?ってなる、実にいい具合のB級スポットです。行った結果、うーん、B級感はんぱねぇ〜! 絶妙なこの感じサイコ〜!!って感じです。ただ伝承館という名前の資料館が500円もするのはちょっとあれだったな。半額でしょあれは… で、だいたいやること終わったしいいかなと思って帰路。ほんとはキリストの墓関連でパワースポットにも行こうかなと思ったんだけど、思いのほか暑くて疲れてたから諦めました。スマホに自宅までのルート設定して帰ってる中で途中で気づきました。ここ八甲田のアレのルートじゃね!?とという訳で来ました八甲田旧陸軍の八甲田演習の話は聞いたことある人も多いのかなと思います。ちなみにこっちは300円しなかった。値段設定逆でしょ! むしろこっち500円くらいとれよ!! このあと一度通り過ぎて後藤伍長の像まで行きました。ぐるりと周りみて思ったのは、ここ冬で閉ざされた時に歩くの無理っしょ!って感想。ぜったい吹雪いて死��・・・としか思えんかったね その日の分はおわり!で、一度バイク乗るとまた乗りたくなるんですよね。という訳で8月に入っても速攻バイク乗りました。場所はどこへ? 下北半島の端っこです。そう、下北半島で行けてなかった尻屋崎に行ってきました。みちのく有料道路という有料道路も去年の暮れにETC対応したし、バイクに優しい(路面を除く)有料道路になったので、せっかくだしこれに乗って行くか!と。この有料道路自体は去年も乗ってるんだけどね…。小銭出すのに手間取って渋滞を作りだす男!いえーい で、尻屋崎へ。青森市からはそれなりに時間かかります。暑いのも相まって、休憩多めにしないとなぁと思いつつ移動。結局途中休憩一回、コンビニで休憩したくらいだけど、こういう時のファミマのフラッペは最高です。ちなみに尻屋崎って何があるの?って話なんですけど。何があると思いますか?何もないんですけどね。馬がいるくらいしか事前情報取ってなかったので特に何も気にすることなく行きました。尻屋崎に向かってる途中。え、ここって採石場あんの!? って感じのでっかい工場が登場。写真撮りたかったなぁ…… と言ってる側から馬がいるエリアに到着。馬を逃がさないようにするためにゲートで管理しています。ゲートを通って間もないうちに馬エリア到着。ちなみに灯台もありました。灯台あったんだ…初耳……ところでここ、灯台の手前にトイレと駐車場があるんだけど、これ以降に車とか停めるとこがないかと思って停めちゃってたけど、普通に駐車場あります。灯台とちょっとしたお店用のが。 まぁその辺みて終わり。たいして感動はなかったな……。一番驚いたのが採石場あった事実だし……
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「お化けの棲家」に登場したお化け。
1、骨女〔ほねおんな〕 鳥山石燕の「今昔画 図続百鬼』に骨だけ の女として描かれ、 【これは御伽ぼうこうに見えたる年ふる女の骸骨、牡丹の灯籠を携へ、人間の交をなせし形にして、もとは剪灯新話のうちに牡丹灯記とてあり】と記されている。石燕が描いた骨女 は、「伽婢子」「牡丹灯籠」に出てくる女つゆの亡霊、弥子(三遊亭円朝の「怪談牡丹灯 籠」ではお露にあたる)のことをいっている。これとは別物だと思うが、「東北怪談の旅」にも骨女という妖怪がある。 安永7年~8年(1778年~1779年)の青森に現れたもので、盆の晩、骸骨女がカタリカタリと音をたてて町中を歩いたという。この骨女は、生前は醜いといわれていたが、 死んでからの骸骨の容姿が優れているので、 人々に見せるために出歩くのだという。魚の骨をしゃぶることを好み、高僧に出会うと崩れ落ちてしまうという。 「鳥山石燕 画図百鬼��行」高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 「東北怪談の旅」山田 野理夫
2、堀田様のお人形
以下の話が伝わっている。 「佐賀町に堀田様の下屋敷があって、うちの先祖はそこの出入りだったの。それで、先代のおばあさんが堀田様から“金太郎”の人形を拝領になって「赤ちゃん、赤ちゃん」といわれていたんだけど、この人形に魂が入っちゃって。関東大震災のとき、人形と一緒に逃げたら箱の中であちこちぶつけてこぶができたから、修復してもらうのに鼠屋っていう人形師に預けたんだけど少しすると修復されずに返ってきた。聞くと「夜になると人形が夜泣きしてまずいんです」と言われた。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収)
3、ハサミの付喪神(つくもがみ)
九十九神とも表記される。室町時代に描かれた「付喪神絵巻」には、「陰陽雑記云器物百年を経て化して精霊を得てよく人を訛かす、是を付喪神と号といへり」 という巻頭の文がある。 煤祓いで捨てられた器物が妖怪となり、物を粗末に扱う人間に対して仕返しをするという内容だ が、古来日本では、器物も歳月を経ると、怪しい能力を持つと考えられていた。 民俗資料にも擂り粉木(すりこぎ)や杓文字、枕や蒲団といった器物や道具が化けた話しがある。それらは付喪神とよばれていないが、基本的な考え方は「付喪神絵巻」にあるようなことと同じで あろう。 (吉川観方『絵画に見えたる妖怪』)
4、五徳猫(ごとくねこ) 五徳猫は鳥山石燕「画図百器徒然袋」に尾が2つに分かれた猫又の姿として描かれており、「七徳の舞をふたつわすれて、五徳の官者と言いしためしも あれば、この猫もいかなることをか忘れけんと、夢の中におもひぬ」とある。鳥山石燕「画図百器徒然袋」の解説によれば、その姿は室町期の伝・土佐光信画「百鬼夜行絵巻」に描かれた五徳猫を頭に 乗せた妖怪をモデルとし、内容は「徒然袋」にある「平家物語」の 作者といわれる信濃前司行長にまつわる話をもとにしているとある。行長は学識ある人物だったが、七徳の舞という、唐の太宗の武の七徳に基づく舞のうち、2つを忘れてしまったために、五徳の冠者のあだ名がつけられた。そのため、世に嫌気がさし、隠れて生活するようになったという。五徳猫はこのエピソードと、囲炉裏にある五徳(薬缶などを載せる台)を引っ掛けて創作された 妖怪なのであろう。ちなみに土佐光信画「百鬼夜行絵巻」に描かれている妖怪は、手には火吹き 竹を持っているが、猫の妖怪ではなさそうである。 ( 高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕画図百鬼夜行』)→鳥山石燕『百器徒然袋』より 「五徳猫」
5、のっぺらぼー 設置予定場所:梅の井 柳下 永代の辺りで人魂を見たという古老の話しです。その他にも、背中からおんぶされて、みたら三つ目 小僧だったり、渋沢倉庫の横の河岸の辺りでのっぺらぼーを見たという話しが残っています。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収) のっぺらぼーは、顔になにもない卵のような顔の妖怪。特に小泉八雲『怪談』にある、ムジナの話が良く知られている。ある男が東京赤坂の紀国坂で目鼻口のない女に出会い、驚き逃げて蕎麦 屋台の主人に話すと、その顔も同じだったという話。その顔も同じだったという話。
6、アマビエアマビエ 弘化3年(1846年) 4月中旬と記 された瓦版に書かれているもの。 肥後国(熊本県)の海中に毎夜光るものが あるので、ある役人が行ってみたところ、ア マビエと名乗る化け物が現れて、「当年より はやりやまいはや 6ヵ月は豊作となるが、もし流行病が流行ったら人々に私の写しを見せるように」といって、再び海中に没したという。この瓦版には、髪の毛が長く、くちばしを持った人魚のようなアマビエの姿が描かれ、肥後の役人が写したとある。 湯本豪一の「明治妖怪新聞」によれば、アマピエはアマピコのことではないかという。 アマピコは瓦版や絵入り新聞に見える妖怪で、 あま彦、天彦、天日子などと書かれる。件やクダ部、神社姫といった、病気や豊凶の予言をし、その絵姿を持っていれば難から逃れられるという妖怪とほぼ同じものといえる。 アマビコの記事を別の瓦版に写す際、間違 えてアマビエと記してしまったのだというのが湯本説である。 『明治妖怪新聞」湯本豪一「『妖怪展 現代に 蘇る百鬼夜行』川崎市市民ミュージアム編
7、かさばけ(傘お化け) 設置予定場所:多田屋の入口作品です。 一つ目あるいは、二つ目がついた傘から2本の腕が伸び、一本足でピョンピョン跳ねまわる傘の化け物とされる。よく知られた妖怪のわりには戯画などに見えるくらいで、実際に現れたなどの記録はないようである。(阿部主計『妖怪学入門』)歌川芳員「百種怪談妖物双六」に描 かれている傘の妖怪「一本足」
8、猫股(ねこまた) 猫股は化け猫で、尻尾が二股になるまで、齢を経た猫 で、さまざまな怪しいふるまいをすると恐れられた。人をあざむき、人を食らうともいわれる。飼い猫が年をとり、猫股になるため、猫を長く飼うもので はないとか、齢を経た飼い猫は家を離れて山に入り、猫股 になるなどと、各地に俗信がある。 このような猫の持つ妖力から、歌舞伎ではお騒動と化け猫をからめて「猫騒動もの」のジャンルがあり、
「岡崎の猫」「鍋島の猫」「有馬の猫」が三代化け猫とされる。
9、毛羽毛現(けうけげん) 設置予定場所:相模屋の庭 鳥山石燕の「今昔百鬼拾遺」に毛むくじゃらの妖怪として描かれた もので、 「毛羽毛現は惣身に毛生ひたる事毛女のごとくなればかくいふ か。或いは希有希現とかきて、ある事まれに、見る事まれなれば なりとぞ」とある。毛女とは中国の仙女のことで、華陰の山中(中国陝西省陰県の西 獄華山)に住み、自ら語るところによると、もともとは秦が亡んだため 山に逃げ込んだ。そのとき、谷春という道士に出会い、松葉を食すことを教わって、遂に寒さも飢えも感じなくなり、身は空を飛ぶほど軽くなった。すでに170余年経つなどと「列仙伝」にある。この毛羽毛現は家の周辺でじめじめした場所に現れる妖怪とされるが、実際は石燕の創作妖 怪のようである。 (高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕 画図百鬼夜行』→鳥山石燕「今昔百鬼 拾遺」より「毛羽毛現」
10、河童(かっぱ) 設置予定場所:猪牙船 ◇ 河童(『耳袋』) 江戸時代、仙台藩の蔵屋敷に近い仙台堀には河童が出たと言われています。これは、子どもたちが、 なんの前触れもなく掘割におちてしまう事が続き探索したところ、泥の中から河童が出てきたというも のです。その河童は、仙台藩の人により塩漬けにして屋敷に保管したそうです。 ◇ 河童、深川で捕獲される「河童・川太郎図」/国立歴史民俗博物館蔵 深川木場で捕獲された河童。河童は川や沼を住処とする妖怪で、人を水中に引き込む等の悪事を働く 反面、水の恵みをもたらす霊力の持ち主として畏怖されていた ◇ 河童の伝説(『江戸深川情緒の研究』) 安永年間(1772~1781) 深川入船町であった話しです。ある男が水浴びをしていると、河童がその男 を捕えようとしました。しかし、男はとても強力だったので逆に河童を捕えて陸に引き上げ三十三間堂の前で殴り殺そうとしたところ、通りかかった人々が河童を助けました。それ以来、深川では河童が人 間を捕らなくなったといいます。→妖怪画で知られる鳥山石燕による河童
11、白容商〔しろうねり〕
鳥山石燕「画図百器 徒然袋」に描かれ、【白うるりは徒然のならいなるよし。この白うねりはふるき布巾のばけたるものなれども、外にならいもやはべると、夢のうちにおもひぬ】 と解説されている。白うるりとは、吉田兼好の『徒然草」第六十段に登場する、 芋頭(いもがしら)が異常に好きな坊主のあだ名である。 この白うるりという名前に倣って、布雑巾 の化けたものを白容裔(しろうねり)と名づけたといっているので、つまりは石燕の創作妖怪であろう。古い雑巾などが化けて人を襲う、などの説 明がされることがあるが、これは山田野理夫 の『東北怪談の旅』にある古雑巾の妖怪を白 容裔の話として使ったにすぎない。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編
12、轆轤首〔ろくろくび〕
抜け首、飛頭蛮とも つな いう。身体から首が完全に分離して活動する ものと、細紐のような首で身体と頭が繋がっているものの二形態があるようである。 日本の文献には江戸時代から多くみえはじ め、『古今百物語評判』『太平百物語』『新説 百物語」などの怪談集や、『甲子夜話』『耳 囊」「北窓瑣談」「蕉斎筆記』『閑田耕筆』と いった随筆の他、石燕の『画図百鬼夜行」に 代表される妖怪画にも多く描かれた。 一般的な轆轤首の話としては、夜中に首が 抜け出たところを誰かに目撃されたとする内 容がほとんどで、下働きの女や遊女、女房、 娘などと女性である場合が多い。 男の轆轤首は「蕉斎筆記』にみえる。 ある夜、増上寺の和尚の胸の辺りに人の 首が来たので、そのまま取って投げつけると、 どこかへいってしまった。翌朝、気分が悪いと訴えて寝ていた下総出 身の下働きの男が、昼過ぎに起き出して、和 尚に暇を乞うた。わけ その理由を問えば、「昨夜お部屋に首が参りませんでしたか」と妙なことを訊く。確か に来たと答えると、「私には抜け首の病があります。昨日、手水鉢に水を入れるのが遅い とお叱りを受けましたが、そんなにお叱りに なることもないのにと思っていると、 夜中に首が抜けてしまったのです」 といって、これ以上は奉公に差支えがあるからと里に帰って しまった。 下総国にはこの病が多いそうだと、 「蕉斎筆記』は記している。 轆轤首を飛頭蛮と表記する文献があるが、 これはもともと中国由来のものである。「和漢三才図会』では、『三才図会」「南方異 物誌」「太平広記」「搜神記』といった中国の 書籍を引いて、飛頭蛮が大闍波国(ジャワ) や嶺南(広東、広��、ベトナム)、竜城(熱 洞省朝陽県の西南の地)の西南に出没したことを述べている。昼間は人間と変わらないが、夜になると首 が分離し、耳を翼にして飛び回る。虫、蟹、 ミミズなどを捕食して、朝になると元通りの 身体になる。この種族は首の周囲に赤い糸のような傷跡がある、などの特徴を記している。中国南部や東南アジアには、古くから首だけの妖怪が伝わっており、マレーシアのポン ティアナやペナンガルなどは、現在でもその 存在が信じられている。 日本の轆轤首は、こうした中国、東南アジ アの妖怪がその原型になっているようである。 また、離魂病とでもいうのだろうか、睡眠中に魂が抜け出てしまう怪異譚がある。例えば「曽呂利物語」に「女の妄念迷い歩 <事」という話がある。ある女の魂が睡眠中に身体から抜け出て、 野外で鶏になったり女の首になったりしているところを��人に目撃される。旅人は刀を抜いてその首を追いかけていく と、首はある家に入っていく。すると、その家から女房らしき声が聞こえ、 「ああ恐ろしい夢を見た。刀を抜いた男が追 いかけてきて、家まで逃げてきたところで目 が醒めた」などといっていたという話である。これの類話は現代の民俗資料にも見え、抜け出た魂は火の玉や首となって目撃されている。先に紹介した「蕉斎筆記』の男の轆轤首 も、これと同じように遊離する魂ということ で説明ができるだろう。 轆轤首という妖怪は、中国や東南アジア由 来の首の妖怪や、離魂病の怪異譚、見世物に 出た作りものの轆轤首などが影響しあって、 日本独自の妖怪となっていったようである。 【和漢三才図会』寺島良安編・島田勇雄・竹 島淳夫・樋口元巳訳注 『江戸怪談集(中)』 高田衛編/校注『妖異博物館』柴田宵曲 『随筆辞典奇談異聞編」柴田宵曲編 『日本 怪談集 妖怪篇』今野円輔編著 『大語園』巌谷小波編
13、加牟波理入道〔がんばりにゅうどう〕
雁婆梨入道、眼張入道とも書く。便所の妖怪。 鳥山石燕の「画図百鬼夜行」には、便所の台があるよう 脇で口から鳥を吐く入道姿の妖怪として描かれており、【大晦日の夜、厠にゆきて「がんばり入道郭公」と唱ふれば、妖怪を見さるよし、世俗のしる所也。もろこしにては厠 神名を郭登といへり。これ遊天飛騎大殺将軍 とて、人に禍福をあたふと云。郭登郭公同日 は龕のの談なるべし】と解説されている。 松浦静山の『甲子夜話」では雁婆梨入道という字を当て、厠でこの名を唱えると下から入道の頭が現れ、 その頭を取って左の袖に入れてまたとりだすと 頭は小判に変化するなどの記述がある。 「がんばり入道ホトトギス」と唱えると怪異 にあわないというのは、江戸時代にいわれた 俗信だが、この呪文はよい効果を生む(前述 ことわざわざわい ●小判を得る話を含め)場合と、禍をよぶ 場合があるようで、「諺苑」には、大晦日に この話を思い出せば不祥なりと書かれている。 また、石燕は郭公と書いてホトトギスと読ませているが、これは江戸時代では郭公とホト トギスが混同されていたことによる。 ホトトギスと便所との関係は中国由来のようで、「荊楚歲時記』にその記述が見える。 ホトトギスの初鳴きを一番最初に聞いたもの は別離することになるとか、その声を真似すると吐血するなどといったことが記されており、厠に入ってこの声を聞くと、不祥事が起 こるとある。これを避けるには、犬の声を出 して答えればよいとあるが、なぜかこの部分 だけは日本では広まらなかったようである。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 『江戸文学俗信辞典』 石川一郎編『史実と伝説の間」李家正文
14、三つ目小僧
顔に三つの目を持つ童子姿の妖怪。 長野県東筑摩郡教育委員会による調査資料に名は見られるが、資料中には名前があるのみ で解説は無く、どのような妖怪かは詳細に語られていない。 東京の下谷にあった高厳寺という寺では、タヌキが三つ目小僧に化けて現れたという。このタヌ キは本来、百年以上前の修行熱心な和尚が境内に住まわせて寵愛していたために寺に住みついたものだが、それ以来、寺を汚したり荒らしたりする者に対しては妖怪となって現れるようになり、体の大きさを変えたり提灯を明滅させて人を脅したり、人を溝に放り込んだりしたので、人はこれ を高厳寺小僧と呼んで恐れたという。困った寺は、このタヌキを小僧稲荷として境内に祀った。この寺は現存せず、小僧稲荷は巣鴨町に移転している。 また、本所七不思議の一つ・置行堀の近くに住んでいたタヌキが三つ目小僧に化けて人を脅したという言い伝えもある。日野巌・日野綏彦 著「日本妖怪変化語彙」、村上健司校訂 編『動物妖怪譚』 下、中央公論新社〈中公文庫〉、2006年、301頁。 佐藤隆三『江戸伝説』坂本書店、1926年、79-81頁。 『江戸伝説』、147-148頁。
15、双頭の蛇 設置予定場所:水茶屋 「兎園小説」には、「両頭蛇」として以下の内容が著してある。 「文政7年(1824)11月24日、本所竪川通りの町方掛り浚場所で、卯之助という男性 が両頭の蛇を捕まえた。長さは3尺あったという。」
文政7年(1824)11月24日、一の橋より二十町程東よりの川(竪川、現墨田区)で、三尺程の 「両頭之蛇」がかかったと言う話です。詳細な図解が示されています。 (曲亭馬琴「兎園小説」所収『兎園小説』(屋代弘賢編『弘賢随筆』所収) 滝沢馬琴他編 文政8年(1825) 国立公文書館蔵
16、深川心行寺の泣き茶釜
文福茶釜は「狸」が茶釜に化けて、和尚に恩返しをする昔話でよく知られています。群馬県館林の茂 林寺の話が有名ですが、深川2丁目の心行寺にも文福茶釜が存在したといいます。『新撰東京名所図会』 の心行寺の記述には「什宝には、狩野春湖筆涅槃像一幅 ―及び文福茶釜(泣茶釜と称す)とあり」 とあります。また、小説家の泉鏡花『深川浅景』の中で、この茶釜を紹介しています。残念ながら、関 東大震災(1923年)で泣茶釜は、他の什物とともに焼失してしまい、文福茶釜(泣き茶釜)という狸が 化けたという同名が残るのみです。鳥山石燕「今昔百鬼拾遺」には、館林の茂森寺(もりんじ)に伝わる茶釜の話があります。いくら湯を 汲んでも尽きず、福を分け与える釜といわれています。 【主な参考資料】村上健司 編著/水木しげる 画『日本妖怪大辞典』(角川出版)
17、家鳴(やなり) 設置予定場所:大吉、松次郎の家の下) 家鳴りは鳥山石燕の「画図百鬼夜行」��描かれたものだが、(石燕は鳴屋と表記)、とくに解説はつけられて いない。石燕はかなりの数の妖怪を創作しているが、初期の 「画図百鬼夜行」では、過去の怪談本や民間でいう妖怪などを選んで描いており、家鳴りも巷(ちまた)に知られた妖怪だったようである。 昔は何でもないのに突然家が軋むことがあると、家鳴りのような妖怪のしわざだと考えたようである。小泉八雲は「化け物の歌」の中で、「ヤナリといふ語の・・・それは地震中、家屋の震動 する音を意味するとだけ我々に語って・・・その薄気 味悪い意義を近時の字書は無視して居る。しかし此語 はもと化け物が動かす家の震動の音を意味して居た もので、眼には見えぬ、その震動者も亦(また) ヤナ リと呼んで居たのである。判然たる原因無くして或る 家が夜中震ひ軋り唸ると、超自然な悪心が外から揺り動かすのだと想像してゐたものである」と延��、「狂歌百物語」に記載された「床の間に活けし立ち木も倒れけりやなりに山の動く掛軸」という歌を紹介している。 (高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕画図百鬼夜行』、『小泉八雲全集』第7巻)
18、しょうけら 設置予定場所:おしづの家の屋根 鳥山石燕「画図百鬼夜行」に、天井の明かり取り窓を覗く妖怪として描かれているもの。石燕による解説はないが、 ショウケラは庚申(こうしん) 信仰に関係したものといわれる。 庚申信仰は道教の三尸(さんし)説がもとにあるといわ れ、60日ごとに巡ってくる庚申の夜に、寝ている人間の身 体から三尸虫(頭と胸、臍の下にいるとされる)が抜け出し、天に昇って天帝にその人の罪科を告げる。この報告により天帝は人の命を奪うと信じられ、対策とし て、庚申の日は眠らずに夜を明かし、三尸虫を体外に出さ ないようにした。また、これによる害を防ぐために「ショウケラはわたとてまたか我宿へねぬぞねたかぞねたかぞ ねぬば」との呪文も伝わっている。 石燕の描いたショウケラは、この庚申の日に現れる鬼、ということがいえるようである。
19、蔵の大足
御手洗主計という旗本の屋敷に現れた、長さ3尺程(約9m)の大足。(「やまと新聞」明治20年4月29日より)
20、お岩ちょうちん
四世鶴屋南北の代表作である「東海道四谷怪談」のお岩 を、葛飾北斎は「百物語シリーズ」の中で破れ提灯にお岩が 宿る斬新な構図で描いている。北斎は同シリーズで、当時の 怪談話のもう一人のヒロインである「番町皿屋敷のお菊」も描 く。「東海道四谷怪談」は、四世南北が暮らし、没した深川を舞台にした生世話物(きぜわもの)の最高傑作。文政8年(1825) 7月中村座初演。深川に住んだ七代目市川團十郎が民谷伊 右衛門を、三代目尾上菊五郎がお岩を演じた。そのストーリーは当時評判だった実話を南北が取材して描 いている。男女が戸板にくくられて神田川に流された話、また 砂村隠亡堀に流れついた心中物の話など。「砂村隠亡堀の場」、「深川三角屋敷の場」など、「四谷怪 談」の中で深川は重要な舞台として登場する。
21、管狐(くだぎつね) 長野県を中心にした中部地方に多く分布し、東海、関東南部、東北の一部でいう憑き物。関東 南部、つまり千葉県や神奈川県以外の土地は、オサキ狐の勢力になるようである。管狐は鼬(いたち)と鼠(ねずみ)の中間くらいの小動物で、名前の通り、竹筒に入ってしまうほどの大きさだという。あるいはマッチ箱に入るほどの大きさ��、75匹に増える動物などとも伝わる個人に憑くこともあるが、それよりも家に憑くものとしての伝承が多い。管狐が憑いた家は管屋(くだや)とか管使いとかいわれ、多くの場合は「家に憑いた」ではなく「家で飼っている」という表現をしている。管狐を飼うと金持ちになるといった伝承はほとんどの土地でいわれることで、これは管 狐を使って他家から金や品物を集めているからだなどという。また、一旦は裕福になるが、管狐は 大食漢で、しかも75匹にも増えるのでやがては食いつぶされるといわれている。 同じ狐の憑き物でも、オサキなどは、家の主人が意図しなくても、狐が勝手に行動して金品を集 めたり、他人を病気にするといった特徴があるが、管狐の場合は使う者の意図によって行動すると考えられているようである。もともと管狐は山伏が使う動物とされ、修行を終えた山伏が、金峰山 (きんぷさん)や大峰(おおみね)といった、山伏に官位を出す山から授かるものだという。山伏は それを竹筒の中で飼育し、管狐の能力を使うことで不思議な術を行った。 管狐は食事を与えると、人の心の中や考えていることを悟って飼い主に知らせ、また、飼い主の 命令で人に取り憑き、病気にしたりするのである。このような山伏は狐使いと呼ばれ、自在に狐を 使役すると思われていた。しかし、管狐の扱いは難しく、いったん竹筒から抜け出た狐を再び元に 戻すのさえ容易ではないという。狐使いが死んで、飼い主不在となった管狐は、やがて関東の狐の親分のお膝元である王子村(東京都北区)に棲むといわれた。主をなくした管狐は、命令する者がいないので、人に憑くことはないという。 (石塚尊俊『日本の憑きもの』、桜井徳太郎編『民間信仰辞典』、金子準二編著『日本狐憑史資料 集成』)
22、かいなで 設置予定場所: 長屋の厠 京都府でいう妖怪。カイナゼともいう。節分の夜に便所へ行くとカイナデに撫でられるといい、これを避けるには、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という呪文を唱えればよいという。 昭和17年(1942年)頃の大阪市立木川小学校では、女子便所に入ると、どこからともなく「赤い 紙やろか、白い紙やろか」と声が聞こえてくる。返事をしなければ何事もないが、返事をすると、尻を舐められたり撫でられたりするという怪談があったという。いわゆる学校の怪談というものだが、 類話は各地に見られる。カイナデのような家庭内でいわれた怪異が、学校という公共の場に持ち込まれたものと思われる。普通は夜の学校の便所を使うことはないだろうから、節分の夜という条件が消失してしまったのだろう。 しかし、この節分の夜ということは、実に重要なキーワードなのである。節分の夜とは、古くは年越しの意味があり、年越しに便所神を祭るという���習は各地に見ることができる。その起源は中国に求められるようで、中国には、紫姑神(しこじん)という便所神の由来を説く次のような伝説がある。 寿陽県の李景という県知事が、何媚(かび) (何麗卿(かれいきょう)とも)という女性を迎えたが、 本妻がそれを妬み、旧暦正月 15 日に便所で何媚を殺害した。やがて便所で怪異が起こるようになり、それをきっかけに本妻の犯行が明るみに出た。後に、何媚を哀れんだ人々は、正月に何媚を便所の神として祭祀するようになったという(この紫姑神は日本の便所神だけではなく、花子さんや紫婆(むらさきばばあ)などの学校の怪談に登場する妖怪にも影響を与えている。) 紫姑神だけを日本の便所神のルーツとするのは安易だが、影響を受けていることは確かであろう。このような便所神祭祀の意味が忘れられ、その記憶の断片化が進むと、カイナデのような妖怪が生まれてくるようである。 新潟県柏崎では、大晦日に便所神の祭りを行うが、便所に上げた灯明がともっている間は決して便所に入ってはいけないといわれる。このケースは便所神に対する信仰がまだ生きているが、便所神の存在が忘れられた例が山田野理夫『怪談の世界』に見える。同書では、便所の中で「神くれ神くれ」と女の声がしたときは、理由は分からなくとも「正月までまだ遠い」と答えればよいという。便所神は正月に祀るものという断片的記憶が、妖怪として伝えられたものといえる。また、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という呪文も、便所神の祭りの際に行われた行為の名残を伝えて いる。便所神の祭りで紙製の人形を供える土地は多く、茨城県真壁郡では青と赤、あるいは白と赤の 男女の紙人形を便所に供えるという。つまり、カイナデの怪異に遭遇しないために「赤い紙やろう か、白い紙やろうか」と唱えるのは、この供え物を意味していると思われるのである。本来は神様に供えるという行為なのに、「赤とか白の紙をやるから、怪しいふるまいをするなよ」というように変化してしまったのではないだろうか。さらに、学校の怪談で語られる便所の怪異では、妖怪化した便所神のほうから、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」とか「青い紙やろうか、赤い紙やろうか」というようになり、より妖怪化が進ん でいったようである。こうしてみると、近年の小学生は古い信仰の断片を口コミで伝え残しているともいえる。 島根県出雲の佐太神社や出雲大社では、出雲に集まった神々を送り出す神事をカラサデという が、氏子がこの日の夜に便所に入ると、カラサデ婆あるいはカラサデ爺に尻を撫でられるという伝 承がある。このカラサデ婆というものがどのようなものか詳細は不明だが、カイナデと何か関係があるのかもしれない。 (民俗学研究所編『綜合日本民俗語彙』、大塚民俗学会編『日本民俗学事典』、『民間伝承』通巻 173号(川端豊彦「厠神とタカガミと」)ほか)
23、木まくら 展示予定場所:政助の布���の上 江東区富岡にあった三十三間堂の側の家に住んだ医師が病気になり、元凶を探した所 黒く汚れた木枕が出た。その枕を焼くと、死体を焼く匂いがして、人を焼くのと同じ時間がかかったという。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収)
24、油赤子〔あぶらあかご〕鳥山石燕の『今昔 画図続百鬼』に描かれた妖怪。【近江国大津 の八町に、玉のごとくの火飛行する事あり。土人云「むかし志賀の里に油うるものあり。 夜毎に大津辻の地蔵の油をぬすみけるが、その者死て魂魄炎となりて、今に迷いの火となれる」とぞ。しからば油をなむる赤子は此ものの再生せしにや】と記されている。 石燕が引いている【むかし志賀(滋賀) の】の部分は、「諸国里人談』や『本朝故事 因縁集」にある油盗みの火のことである。油盗みの火��は、昔、夜毎に大津辻の地蔵 の油を盗んで売っていた油売りがいたが、死 後は火の玉となり、近江大津(滋賀県大津 市)の八町を縦横に飛行してまわったという もの。石燕はこの怪火をヒントに、油を嘗める赤ん坊を創作したようである。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 『一冊で日本怪異文学 100冊を読む」檜谷昭彦監修『日本随筆大成編集部編
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Cape Shiriya-zaki Lighthouse (尻屋崎灯台). There are grazing horses. The breed of Kandachime (寒立馬). I walked for 11 hours this day. And all the way on paved roads.
The entrance to the lighthouse is closed by a gate from 5pm to 7am, no vehicles allowed. The bus route is now closed. The only way to see the scenery at this time of day is to walk like an idiot and stay in the field quietly. I have the wonderful evening view all to myself, and the next morning I have it all to myself as well. In addition to the summer heat from the asphalt, there were several sections where the route was swarmed by a great number of horseflies and gnats (I felt like I was being “attacked”). But it was worth it.
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※ 日の丸タッグだ 3000km以上離れた太平洋上で急患発生! 海保巡視船と海自飛行艇が超絶連携
https://news.yahoo.co.jp/articles/61a00324b1a94417401a0bd42759cde291df350e
>尻屋崎灯台から東北東約3070km付近
動画の地図にはわざと描かなかったのだろうけれど、実はここはアリューシャン列島沿いで、一番近い人が住む島は、たぶんアダック島で、500キロくらい。
ただアダックは、住民はいるけれどたいした治療が出来たとは思えない。アダックより少し離れるけれど、シェミア島からナイトストーカーズのMH-60Rを呼べば良かったんです。シェミアはそれなりの規模の基地だから、軍医さんもいるだろうし。もちろん日本から飛行機を飛ばしてもたいした距離ではない。ちゃんとした滑走路もある。
たぶん、国内の病院までの収容時間としては、シェミアから回収ヘリ、シェミアへ国内からジェットを飛ばして引き受けて帰還の方が、圧倒的に速かった。
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ここまで来ると野生の馬がゴロゴロいるんですね〜 #旅 #自転車旅 #サイクリング #自転車 #本州最涯地尻屋崎 (尻屋崎灯台) https://www.instagram.com/p/BI0vSetj27X/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 12月20日(火) #先負(壬寅) 旧暦 11/17 月齢 15.8 年始から354日目(閏年では355日目)にあたり、年末まであと11日です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない 朝はありませんし、朝が来ない夜 はない💦睡眠は明日を迎える為の ☀️未来へのスタートです🏃♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . SNSなんかでも、しつこいように 出現するミールキットっての試に10食分 購入してみた✋nosh(ナッシュ)とかの 冷凍で届くのですが冷凍庫が小さ いので、まるでその為にリースしたw 感がありますが😅💦リースは正解だっ たが、ミールキットは量が少くな過ぎて 物足りな感があるんで私にはチョット 無理かも知れない🤣😆🤣老人やら 女性の方だったり小食の方だった ら良いかも知れませんよ✋私はモウ ダメっすねあんなの3個ぐらい平ら げてしまいそうだわ🤣😆🤣って💦 (o゚д゚)マジスカ?\(__ )マジデスw💦 . 今日一日どなた様も💁♂お体ご自愛 なさって❤️お過ごし下さいませ🙋 モウ!頑張るしか✋はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #国鉄バス運行開始の日. 1930(昭和5)年12月20日(土)大安.に、 岡崎駅 - 多治見駅・瀬戸記念橋駅 - 高蔵寺駅で初の省営自動車が運行を開始した。 鉄道省の直営の省営自動車とは、後の「国鉄バスで」ある。 . #先勝(サキガチ、センカチ、センショウ). 陰陽道(おんみょうどう)の六曜日の一つ。 この日は勝負ごと、訴訟や急用などに運がよいとされ、早い時刻ほど良くとされ、午後は凶になるなどの俗信がある。 寝坊は、もっての他とされますね😅💦 . #大明日(ダイミョウニチ). 民間暦でいう吉日の一つ。 通例、甲辰・甲申・乙未・乙丑・丙辰・丙午・丁卯・丁未・戊辰・己卯・己酉・庚戌・辛未・辛酉・辛亥・壬午・壬申・癸巳・癸酉の一九日とされるが、異説もある。 この日は、建築・旅行・婚姻・移転などすべてのことに大吉であって、他の凶日と重なっても忌む必要がないともいう。 . #神吉日(カミヨシニチ). 「かみよしび」ともいい、神社への参拝や、祭礼、先祖を祀るなどの祭事にいいとされています。 この日は神社への参拝や、お墓まいりに行くといい日です。 . #月徳合日(ゲットクゴウニチ、ゲットクゴウビ). 天徳合と月徳合は太陽と月になぞらえられ、どちらも同じような吉作用を持ちます。 他の吉と重なると特に吉の日です。 引っ越しや結婚、リフォームなどにも吉とされます。 . #復日(フクニチ、フクビ). 重日同様、吉凶共に重なる日。 復日は重日と同じように吉事は吉が重なり、凶事は凶が重なる日です。 結婚は再婚につながることから凶とされています。 . . #東京ボウリングセンター開場(民間ボウリング場初). 1952(昭和27)年12月20日(土)、東京・青山に「東京ボウリングセンター」がオープンしました。 日本初の本格的なボウリング場です。 . #霧笛記念日. 霧笛は、灯台や船が位置を音で知らせるもので、航路標識の一つです。 1879(明治12)年のこの日、青森県・津軽海峡の本州側東海岸にある尻屋崎灯台に、日本で初めて霧笛が設置されました。 今、尻屋崎灯台は文化資産として重要な建造物とされています。 . #鰤の日(#ぶりの日). FM長野の番組の中で提唱。 12月(師走)は「鰤」が魚篇に師と書いてブリ。 年取り魚のブリは師走の魚。 そして20日をブリと読ませる語呂合わせからこの日が記念日となっている。 . #シーラカンスの日. . #デパート開業の日. . #道路交通法施行記念日. . #果ての二十日. . . #信州ワインブレッドの日(毎月20日). #ワインの日(毎月20日). #シチューライスの日(毎月20日). #発芽野菜の日(毎月20日). #キャッシュレスの日(毎月ゼロが付く日). . . #人間の連帯国際デー. . #マカオ澳門特別行政区成立紀念日. . . ■本日の成句■. #窮すれば通ず(キュウスレバツウズ). 【解説】 絶体絶命だと思うような状況でも、案外解決の道はあるものだと云う事。 『易経・繋辞伝・下』に「困は、窮して通ず(占いで困の掛は、行き詰まっても必ず切り抜けることができる)」とある。 「通ず」は「通じる」「通ずる」とも言えるが、「通ず」が一般的。 最悪の事態に陥ってどうにもならなくなると、かえって活路が開けるものである。 . . 1994(平成6)年12月20日(火)仏滅. #村﨑真彩 (#むらさきまあや) 【女優・タレント】 〔大阪府〕. . . (Saburou, Kumamoto-shi) https://www.instagram.com/p/CmXSpozBkfkfy_RZYg4fxbGhk8aLmQS1Ls_TjE0/?igshid=NGJjMDIxMWI=
#先負#国鉄バス運行開始の日#先勝#大明日#神吉日#月徳合日#復日#東京ボウリングセンター開場#霧笛記念日#鰤の日#ぶりの日#シーラカンスの日#デパート開業の日#道路交通法施行記念日#果ての二十日#信州ワインブレッドの日#ワインの日#シチューライスの日#発芽野菜の日#キャッシュレスの日#人間の連帯国際デー#マカオ澳門特���行政区成立紀念日#窮すれば通ず#村﨑真彩#むらさきまあや
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尻屋崎/青森県東通村【下北半島国定公園】破壊されたのに点灯したという伝説が残る尻屋埼灯台までウォーキング
尻屋崎とは 尻屋崎(しりやざき)は、青森県下北郡東通村尻屋ケシ子山(あおもりけんしもきたぐんひがしどおりむらしりやけしねやま)にある岬だ。 下北半島の北東端をなし、岬の北側は津軽海峡、東側は太平洋となる。 本州最北東端の岬。最果ての地といった風情が漂います。風が強く、かつて昔は多くの船舶が座礁・遭難して「海の墓場」と呼ばれていたそう。岬の先端に建つ尻屋埼灯台(しりやさきとうだい)は、120年以上の歴史があり、レンガ造りの灯台としては日本一の高さを誇ります。128段の階段を上ると津軽海峡と太平洋を一望できます。 尻屋崎|スポット・体験|【公式】青森県観光情報サイト Amazing AOMORI から引用 尻屋崎ビジターハウス 青森県下北郡東通村尻屋ケシ子山37���20 (more…)
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#ブラントン#レンガ造り#下北半島#下北半島国定公園#下北郡#土産物店#太平洋#寒立馬#尻屋ケシ子山#尻屋埼灯台#尻屋崎#岬#放牧場#日本の灯台50選#本州最涯地尻屋崎#東通村#津軽海峡#灯台#青森県
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尻屋崎灯台 Shiriyasaki Lighthouse
青森県下北郡東通村 Higashidori-mura, Shimokita-gun, Aomori, Japan
2007/08
❤️Stay Healthy❤️
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居酒屋海猫
夜おそく城崎温泉駅に着いた私たちは、鳥取砂丘の風砂にまみれた体を引きずりながら赤提灯を探していた。八月の曇った日曜日だった。色浴衣の観光客はもはや見えず、ただでさえ重いリュックとキャリーバッグに覆い被さったいやらしい笑みのような真夏の夜のどろりとした湿気、その中を歩くことは、かつて小学校のプール授業で体験した着衣水泳を思い起こさせた。前日は京都から岡山、津山及び奈義へ、今日は鳥取から移動して疲労が溜まっており、暗がりのなか私たちの口数は少なかった。
「海猫」は温泉街のはずれにあった。大規模な旅館をいくつか通り過ぎ、「おでん(安心して飲める店)一品料理」と書かれた横に細長い電飾看板が目に入った時、私たちは同時にふうと息をついた。長旅の疲れを温泉で癒そうと今回最後にこの地に赴いたのだが、海と山のあわいに数々の文学作品をあたためた香り高い風土をゆっくり味わうため、地元民の集いそうな小さな飲み屋をあえて——とはいえ偶然地図で見つけたに過ぎないが——選択したのだった。
短いのれんをくぐって引き戸を開けると、主人と思しきおやじさんが「電話くれた人かい? 駅から歩いてよく来たね」とくしゃくしゃの笑顔で迎えてくれ、私たちはL字型のカウンターの端に席を占めた。先客はよく日に焼けた青年三人ともの静かな老夫婦の二組のみで、どちらも近くに住む者らしく、おかみさんが酒を注ぎながら会話に相槌を打っていた。ビニールカーテン越しにビールと梅酒のソーダ割りを頼む。後で聞けば、うちは北の端っこだから他所から人が来るのは珍しい、とのことで、私たちの来訪を不思議に思ったそうだ。調理場の奥の天井近くに据えられたテレビにはオリンピックのバレーボールの予選が映し出されており、おかみさんが点数を気にして時おり手を止め見入っている。壁の一部はマジックで描かれた落書き、いな多くの寄せ書きで埋められており、その上に常連客の写真が貼られている。目の前の曇った冷蔵ガラスケースにはサザエやサーモン、イカ、うなぎなどの食材が陳列されており、見ているだけで楽しい。青春18きっぷでの旅、それも目的地をこれでもかと詰め込んだ強行軍ゆえ、ようやく落ち着いて座れたところで尻が痛いままだったが、年季が入った店内の飾らない雰囲気に私は早くも安らぎを感じ始めていた。
壁面のメニューを見渡すと、百円から一番高いものでも七百円と、かなり良心的な値段である。青とうがらし、せせりポン酢、ホルモン、チヂミとお願いすると、覚えられなかったようで、ひとつずつ二度繰り返す。料理は夫婦分担で手際が良い。テンポよく出されたつまみに口を付けると、どれも家庭的な味がしてほっこりした。小腹が満たされたのでタバコに火を点ける。いい感じに酔いが回り体の力が抜けていく。追加で大根とすじのおでんも注文する。出汁がめっぽう旨い。老夫婦は相変わらず話しているのかいないのかわからない。青年らは二軒目にスナックを欲していたが、おかみさん曰くどこも休業中だそう。荒くれ者らしい無遠慮な言葉遣いで礼を言って彼らが出て行った後、一転して静まった店内に日本対イランの点差が僅かであることを実況アナウンサーが告げた。
少し前からおやじさんの姿が見えないと思ったら、ラーメンの出前に行ったという。「宅杯ラーメン」なる行灯を引っさげて宿の前まで車で出向き、屋台さながらその場で作って手渡すそうだ。そういえば店の前にもラーメンと書かれた看板があったし、事前検索でそれについてのレビューも目にしていた。ハイボールと梅酒ソーダをおかわりしてから、締めに頼むことにしたが、塩バターか油そばで私たちは大揉めに揉め、あっち向いてホイでなおも決着がつかず、とうとう譲らなかった私に彼女が根負けする形で、地方にしてはあまりお目にかからないであろう油そばに決まった。おやじさんが帰ってきたのでお願いすると、なぜかおかみさんが作り始めた。そういえば、後から入ってきた小田和正似のスーツの男性は醤油ラーメンだけ食べていたし、おやじさんはしばらくして二度目の出前にいそいそと出かけて行った。どうやら城崎に数少ないラーメン屋として重宝されているようだ。
「こげーなとこまで来て、どこに泊まるの?」
手の空いたおやじさんが私たちに尋ねる。水郷です、と答えると、「そりゃまた遠いとこ、南の端だね。帰りは送って行きますから」との温かい言葉。すでに足が棒のようだったので、感謝しつつ甘えることにした。遠慮はいらん、とおやじさんが笑う。はいよ、とその奥から皿に盛られた油そばが出てきた。チャーシュー、もやし、ねぎ、紅生姜がトッピングされており、底に醤油ダレが沈んでいる。甘えついでに卵も乗せて欲しいとせがむと、「ちょっと産んでくるわ」とおかみさんが笑いを誘う。黄身を落としてかき混ぜれば醤油の香ばしい匂いが漂ってくる。争うように箸を伸ばしてズズズとすすると、これが大正解、パツパツの細麺に濃厚なタレが絡んでめちゃくちゃに美味しいのだった。思わず、最高や、と呟くと彼女は無言で大きく頷いた。夏バテとは縁遠い私たちの、最後まで勢いの変わらない動物めいた食欲を前にして、麺はあっという間になくなった。残り少ないグラスを傾け、改めてテレビを見やると日本がマッチポイントにさしかかっていた。が、幾度となく相手側の好プレーに阻まれている。
「ジュース(デュース)ばっかじゃダメやねぇ、ビール飲まんと」
爽やかな顔立ちだが勝利への確信と喜びを、ネットを見据えて緊張した表情の下にかたく閉ざす選手たち、そのサーブ、トス、アタックごとに体全体で反応し一喜一憂するおかみさんはとても可愛らしい。プレーの合間を縫って会計を頼むとふたりで四千円強と驚くほど安かった。おやじさんが出て行ってまだ帰ってこないのでしばし歓談に興じる。この季節、平日はまいにち沿岸で花火が上がるという。「水郷さんのすぐそばなんやけどね」とのことだったが、私たちにとってはどんなスペクタクルに出会うよりも、この場所で何にも変えがたい時間を過ごせたことの方が幸福だった。
赤いユニフォームがブロックしたものの、ボールがコートの外へ大きく跳ね出る。ああもう、とおかみさんが嘆息した直後、「お待たせしました!」と戸が開く。名残惜しいが私たちは先にゲームセットだ。感謝を伝えて外に出る。ボロ車で悪いけどねぇ、と言うおやじさんに、彼女が旅の思い出に一緒に写真を撮りたいと伝えると、店内のおかみさんを呼び出してくれた。ひょうたんの形をした看板の下、皆でピースしたその写真を見返すと今でも涙が出そうになる。車が走り出してからも手を振ってくれたおかみさんは日本が準々決勝に進出する瞬間を見ただろうか。
「さっきはマスクしたままでごめんねぇ、癖になっちゃって」
銀の軽バンのハンドルを握ってそう言うおやじさんはどこまでも優しかった。端っこから端っこだけど、車ならすぐだったでしょう、と手を振って宿の前から去るその後ろ姿に、ふたりで頭を下げて別れを告げた。宝石のような一日が終わる寂しさは、そばを通過する豊岡行きの列車がたちまち轟音で吹き飛ばしてくれ、それと引き換えにかどうか、空を仰ぐと星々が満天にきらめいていた。
明日の湯巡りを前にして真心の温泉に浸った湯上がりの気分に満たされた私たちは、海猫という店名の由来をついぞ聞きそびれたが、またこの巣に飛んで戻ってこよう。
本当に、いい夜だった。
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尻屋崎の寒立馬 #青森 #尻屋崎 #寒立馬 #馬 #灯台 #下北半島 #aomori #horses #animals (尻屋崎)
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2019年【北海道 一周 5400km 紅葉めぐり】もくじ (書きかけ 2021.9.13 update)
2019年【北海道 一周 5400km 紅葉めぐり】もくじ (書きかけ 2021.9.13 update)
(書きかけ 2021.9.13 update) 初日 東京から青森まで。700kmほど。 2日目 函館から石狩まで 3日目 石狩から旭川 4日目 旭川から大雪湖など 5日目 名寄から宗谷岬、さるふつ 6日目 さるふつ 7日目 サロマ湖 8日目 根室 9日目 知床、瀬石温泉、別海 10日目 根室 11日目 屈斜路湖、別海 12日目 オンネトー 13日目 十勝 14日目 三国峠 15日目 滝里ダム 16日目 洞爺湖、大間、マグロ 17日目 大間、尻屋崎、尻屋灯台 18日目 青森から関東
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紀伊半島原付旅行記
早めの夏休みをもらったので、原付で伊勢湾フェリーを渡り紀伊半島を一周しようと思い立った。思い立って二週間後に出発した。紀伊半島とは精神の方面である。
七月二日:浜松から新宮へ
排気量五十CCの原付〈一つ目家鴨〉号はキックスターターを使わないとエンジンが動かなかった。一抹の不安を抱えながら、��時半、原付に跨がった。曇空の下、国道一号線を西に進み、弁天島を回って国道四十二号線、表浜街道伝いに渥美半島を西へ進んだ。
坪井杜国の故地
赤羽根港に付属する道の駅で休んだあと和地交差点から西北に進路を変えて高田交差点で左折、高田西交差点で右折し、右手にある潮音禅寺こと潮音寺を訪れた。境内には柳原白蓮歌碑と山頭火句碑があり、空米売買で尾張徳川家の領地から追放され、渥美半島へ来た坪井杜国の墓碑がある。
杜国墓碑の前に立っていると住職から 「俳句をやっているのですか?」 と声をかけられ、その日に咲き始めたという蓮を見せてもらった。蓮の初日はあまり開かないのだという。血統書付きの大賀蓮の水鉢もあった。住職は黒目高も二千匹に繁殖させたらしい。川を渡って「杜国屋敷跡」の看板のある角を左折すると畑のなかに小さな杜国公園。〈春ながら名古屋にも似ぬ空の色/杜国〉の句碑が建っており、投句箱もあった。
十時を回っていたので急いで西へ向かい、二十分ほどで伊良湖岬のフェリー乗り場に着いた。標識交付証明書がなくても排気量を口頭で伝えただけで発券してくれた。合わせて三千九十円で、十円だけ人の方が高い。十時五十分発、五十五分に及ぶ伊勢湾の航海。波が荒かった。伊勢湾を渡っていると雨に降られた。船内のテレビで天皇の病態が報じられ、平成が来年五月までもたないかもしれない、と思った。鳥羽に着くと雨は止んだ。
嶋田青峰の故地
フェリーを出ると正午になろうとしていた。鳥羽フェリーターミナル二階のレストランで食事をとろうとすると係員のおっちゃんから「ここのレストランはおすすめしない。近くの錦屋がいい」と勧められ、錦屋でてこね寿司と伊勢うどんを食べた。若女将の愛想が良かった。食べているうちに梅雨晴間。志摩半島を縦断し、的矢で渡鹿野島を望もうとしたら、的矢は、ホトトギス同人から除名され新興俳句弾圧事件で逮捕された俳人嶋田青峰の郷里だった。句碑〈日輪は筏にそそぎ牡蠣育つ/嶋田青峰〉も、弟である嶋田的浦の句碑〈海うらら水平線は汽船を引く/嶋田的浦〉も夏草のなかにあった。杜国といい青峰といい不遇な俳人ゆかりの土地ばかり巡った一日だ。志摩半島の浦はどこも簡素で好きになった。尾鷲で小雨に遭い、虹を見た。ひたすら走り、いくつもの浦の潮が戻るのを見ながら走り、十九時に新宮駅近くへ投宿した。
七月三日:新宮から田辺へ
目覚めるとサッカー日本代表が白耳義に惜敗していた。六時半に新宮市の「路地」を見てから霧雨の国道百六十八号を熊野本宮大社まで走った。
山岳信仰とサッカー
観光客がほとんどいない大斎原や本殿を見た。熊野は大学一年生のとき以来だから十年以上ぶりだ。拝殿にサッカーワールドカップ関連の展示があったが、侍ブルーのユニフォームを着たスタッフが取り外していた。熊野の神に勝ったのだから確かに白耳義は赤い悪魔だった。
八時半に給油してから山を下り、新宮市街まで戻ってから那智の滝を見た。数年ぶりに絵馬を書いたり護摩木を焚いたりした。熊野本宮よりも那智の滝を神体とする信仰の方が私にはわかりやすい。
鯨焼肉はレバーの味
十一時には那智を離れ、正午に太地町へ着いた。くじら博物館は千五百円を惜しんで入らなかったけれど鯨恵比須の鯨骨鳥居と燈明崎の山見を見て、道の駅たいじで鯨焼肉定食を食べた。血臭いのでやはり鯨肉は揚げた方がいい。
尻ではなく太腿で乗る
国道四十二号線をひたすら西へ。里野で水泳パンツに着替えたがちょうど日が陰って寒くなり、海水浴はあきらめた。見老津のあたりで和歌山県警の軽パトカーに跡をつけられたので、先に行かせたら、また後ろに回られてスピーカーで停められた。職務質問だ。「浜松市」ナンバーを見なれないから停めたとのこと。浜松から原付で来たと説明すると「どうしてそんな気になったんですか」と訊かれた。「お尻が痛くならないんですか」とも訊かれたので「尻ではなく太腿で乗ると痛くならない」と答えた。ズボンの下は水泳パンツなので、ズボンの中まで調べられたら即逮捕だっただろう。別れ際に夜間に掛けられる光る反射タスキをもらった。それから道の駅ごとに休み、田辺を目指した。
交番へ出頭
十六時過ぎに道の駅椿はなの湯で休んだ。ベンチに座ってのんびりしていると別のベンチに座っていた老爺が「そろそろ行くか」と独り言を言い、軽トラックでどこかへ行った。老爺のベンチが日陰だったので日射を避けるべく私はその日陰のベンチに移動した。するとベンチの上に財布が落ちていた。あの老爺の財布だと思い、私は戻ってくるまで待つことにした。でも戻ってこなかった。道の駅は定休日で閉まっていた。仕方なく私はその財布を持って近くの椿駐在所まで行った。しかし駐在さんはおらず、備え付けの電話を架けると婦警が富田駐在所まで来ていただけるかと言った。住宅街のなかにある富田駐在所へ出頭し拾得物物件預り書一枚で解放された。一日に二回も警察沙汰だ。交番を出て国道四十二号線に出た途端に雨が降り出した。晴れ間をぬって沿岸を北へ進み田辺駅近くの美吉屋旅館へ投宿した。自動扉が開くと禿親父がソファに寝そべって歌謡ショーを観ていた。客かと思ったけれど主人で間違えなかった。夜風が吹いただけで骨組が唸る旅館の「菊」の部屋に泊まった。若旦那から純喫茶桂のご主人が亡くなって看板を下ろしたと聞いた。灯りが点いているのはどきどき奥さんがいるからだとのこと。
七月四日:田辺から大和高田へ
北上するには二通りあった。海岸沿いに国道���十二号線を進む海ルートと高野山を経る山ルートだ。高野山は魅力だが山ルートにはガソリンスタンド問題があった。ただでさえ燃費が四十キロ前半まで落ちているのにガソリンスタンドが少ない山中を百数十キロ走るのはガス欠リスクが高い、それに近畿地方の天気予報は全域で雨なのであえて天候の見えにくい山間部を通ることもなく海ルートに決めた。
台風七号ブラピルーン
フロントに鍵を置いて五時半過ぎに出発した。みなべ町の岩代で、四つのH音のやるせなさが素晴らしい〈家有者笥尓盛飯乎草枕旅尓之有者��之葉尓盛/有間皇子〉が詠まれたという磐代の結松と畑のなかの寺脇にある歌碑を観た。八時くらいまで台風七号はおとなしかったがトンネルを出て由良町になってから本気を出し、激しく雨が降り出した。それでも走り続けたのでジーパンはもちろん下着までぐっしょり濡れた。なぜ走っていたのかと言うと大阪は午後から曇るという予報に賭けたからだ。和歌山市まで強く雨が降っていた。大阪府に入ると小雨になり時々晴れ間も見えた。雨雲レーダーを見ると高野山はもっと強く降っていたので山ルートにしなくて本当に良かった。岸和田城の横を通り和泉市で冷えた体の血流を回復させてから東へ折れ、富田林から河南、水越トンネルをくぐって大和の葛城に出た。山はやはり雨が降っていた。
菊
葛城一言主神社では二人の男性が階段下の祓戸神社へ参拝してから昇段し、一言主神社の拝殿へ参拝していた。一言さんは地元の信仰を集めているらしい。それと拝殿に参拝する事前準備として拝む祓戸神社というシステムは熊野本宮にもあった。祓戸神社の祭神はいずれも瀬織津姫、近畿地方の格式ある神社の様式だろうか。大和高田のネットカフェで刃牙を読んだあと大和高田駅近くの福の屋旅館の「菊」に泊まった。また菊だ。女将一家の生活スペースと部屋が廊下一つを隔てて隣りあっているので、おばあちゃん家に泊まった感があった。女将は、橿原神宮の神武天皇が奈良県を大災害から守っていると言った。そういう信仰は美しい。
七月五日:大和高田から浜松へ
近鉄大和高田駅のミニストップで食事をとった。ちょうど通学時間帯で女子中生・女子高生が目に入る。それは揚羽よりも速いという女子高生に会いに吉野へ行くからだろう。
三重県南部は雨時々曇りという予報を見て急ぎ八時半には宿を出た。女将から缶珈琲をもらった。桜井を経て九時半過ぎに宇陀の阿騎野へ。吉野とは飛鳥の平地から見上げるような山地のことだった。東の野にけぶりの立つ見える阿騎野は菟田吾城という古代城郭があったらしい。鎌を持った小母さんから「この地は薬草で有名」「元伊勢」と聞いた。
人間のクズが国栖に
吉野川まで南下して国栖の里を眺め十一時前には国栖奏伝習所の横を通り浄見原神社を訪れ記名した。「鯨は人間のクズだ。ちなみにクズは国栖、先住民族の名だ」と言われてからずっと気になっていた土地「国栖」に立てた。
県道十六号で国道百六十六号線に戻り、鷲家八幡神社の桂信子句碑・前登志夫歌碑・宝蔵寺の能村登四郎句碑を見て、高見山を仰いだ。そういえば吉野で女子校生は見なかった。汗に冷えた体で高見山トンネルをくぐった。それから虹の泉のほかは伊勢までひたすらに走った。
近畿地方はあちこちで豪雨らしいが、幸運にも私は雨を数粒受けただけで水泳パンツを履いた意味がなかった。猿田彦神社を参拝し十六時前には鳥羽のフェリー乗り場に着いた。十六時半発のフェリーには間に合ったがガソリンが空になりそうだった。あこや真珠と中国産の淡水真珠の違いを聞いた。
雨の帰浜
フェリーは伊勢湾に出ると波に揺れた。恋路ヶ浜を見下ろしてから国道二百五十九号線を通って豊橋市を目指した。国道二十三号線からは私が「ほぼ原付専用道路」と呼んでいるバイパス横の側道を通り湖西市へ。昼夜食堂港屋本店で浅蜊汁と鯵の開きを食べた。食堂を出ると雨が降り始めた。弁天島を経て国道一号線で帰宅した。四日間の走行距離は九百三十五キロメートルだった。あとヘルメットのシールドが割れていた。
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やまがたり-出羽國如月独り旅
旅に出る場所。
私は寒いのが大の苦手、という理由だけで
それまでは、自分の生まれ育った関東より西南の、どちらかというと温暖な地域に偏っていた。
真冬の北国だなんて、聞いただけで寒気がしてきていた。
ところが、である。
たまたま近所のカフェで何気なく手に取った、写真家・シャルル・フレジェの写真集「YOKAI NO SHIMA」の中に
藁でできた衣装を身に纏った人たちが、踊り回っている場面を見つけ
なんだこれは・・・面白そう、観に行きたい、という気持ちが頭をもたげてきた。
山形県上山市で毎年2月に行われる民俗行事「カセ鳥」。
寒いの嫌だ、と常日ごろ口にしていた私は
2019年の年明け、生まれて初めて、ユニクロの「ヒートテック」なるものを新宿まで買い求めに行き
「ヒートテック」なる繊維が生地に織り込まれている靴下と肌着を手に入れた。
それまで、ヒートテックというものがどういう形状をしているのか、まったく想像がつかなかった。
東北へ足を運ぶのは人生2度目、10年ぶり。
銀座にある、山形のアンテナショップの観光案内でバスの時刻表や地図をもらい
旅の相談をした。
まずは、昔ながらの旅館の外壁に鏝絵が施されているという銀山温泉。
翌日にちょうど、カセ鳥が行われる上山温泉。
2月の初旬、新幹線「つばさ」に乗り込んだ。
那須塩原を過ぎたあたりから雪が舞い始め、福島では止み
その後、また雪が深くなっていった。
新幹線といえば、東海道新幹線ばかり乗っている私にとって
山形に近づくにつれ、くねくねとカーブを描いてゆっくり走行していく新幹線はとても新鮮だった。
最初の目的地、大石田駅に到着。
もう雪が人間の背丈ほども積もっていて「わあ」と驚く。
シーズン中とあって、銀山温泉行きのバスを待つ人はかなりの長蛇の列で、当然バスの中はぎゅうぎゅう詰め。
入口近くで、なんとか足を踏ん張って30分強の道のりをやり過ごす。
銀山温泉は観光客でなかなかの賑わい。
共同浴場があるようだが、さすがにシーズン中は地元住民限定、と張り紙がしてある。
こんなに観光客が押し寄せてしまったら、昔から住んでいるかたがたは大変だろうなぁ、と思いを馳せた。
本日の宿は天童温泉。
そのまま銀山温泉に泊まればいいのに・・・とお思いかもしれないが。
あろうことか、観光案内でいただいた宿リストの上から順に電話をかけていき、シーズン中の一人客という理由で、見事にすべての宿からお断りの返答をいただいたのであった。
致し方あるまい。
もちろん銀山温泉周辺もかなりの寒さなのだが
日が落ちて、すっかり暗くなった天童の街を歩くと
しんしんと身体の奥まで染み渡る冷たさ。
スマホの地図の温度表示はマイナスを指している。
翌朝、かみのやま温泉へと向かう。
上山の街はこぢんまりし、昔ながらの建物がそこかしこに残っていて
どことなく、親しみがもてそうである。
高台にある上山城まで歩いたり、とにかくうろうろして
なんとなくの土地勘を掴む。
ここ良さそうだな、となんとなく目星をつけたカフェで
1人でも入りやすい、おすすめの夕食どころを尋ねる。
教えていただいた小さなご飯屋さんでは、年配の女性が温かく迎えてくれ
郷土料理の一つ、お麩を揚げたものをいただいた。
次の日。
いよいよカセ鳥の執り行われる当日。
上山城で祈願式が行われるのは朝10時からだったが、私はワクワクして待ちきれず
9時から敷地内にスタンバイし、着々と準備が進められる様子を眺め、関係者がやってくるのを待ち構えていた。
まず最初に、カセ鳥に扮する若者(だけではないと思うが・・・)が
頭に手ぬぐい、上半身裸(女性はタンクトップ)、ショートパンツにわらじを履いた姿で、お城の建物の前の石段にずらりと並び
一人ずつ順番に出身地と名前、カセ鳥に参加した回数を言っていく。
「埼玉県出身、○○ ○○、10回!」と参加者が声を上げるたびに、周囲から拍手や笑い声が起こって
それがまた一層、私たち見物客の心をワクワクさせるのだった。
その後、若者たちは「ケンダイ」と呼ばれる、藁でできた蓑を頭から被せてもらい
何グループかに分かれて、街へと下りて行く。
私も迷わず、第一陣のグループのあとをついて、街へと下りる。
しばらく歩き、街の交差点のように少し広くなっているところへ差し掛かると
先頭にいたおじさんが、スピーカーで
「カセ鳥さまのーお通りだー!」と声を張り上げたのを合図に
ソレ カッカッカーのカッカッカー
カセ鳥 カセ鳥 お祝いだ
商売繁盛 火の用心
ソレ カッカッカーのカッカッカー
と、カセ鳥たちが声を揃えて囃し立てながら
輪になってユーモラスに踊る。
彼らが踊っているとき、街を練り歩いているとき。
住民たちは構わず、彼らに柄杓やらバケツやらを使って水をかけまくる。
カセ鳥たちは黙って受け入れる。
いや、むしろ自ら進んで水をかけられに行く、という方が正しいだろうか。
当日、雪でも降っていたら、カセ鳥さんたちはさぞかし辛いだろう・・・と思っていたのだが
幸い、穏やかに晴れ上がり、寒さもそれほど厳しくはなかった。
周りで見守る地元住民も、カセ鳥に扮した面々も、私のように後をついて回る見物客たちも
みな、満面の笑みを浮かべている。
藁の衣装を纏っていないにしても、まるで自分がお祭りの主役の一員になったかのような
一体感、高揚感を身体に感じつつ、結局正午くらいまで、ずっと一緒になって街を歩き回った。
しかし---さすがに、ずっと歩き通しではそろそろ空腹を感じる時分に差し掛かった。
一段落したタイミングを見計らって、駅から40分あまり歩いたところにあるドーナツ屋さんを目指した。
カセ鳥を追って歩き回った上、さらにそこそこの距離を歩いたものだから
店に辿り着くや否や、空腹に耐えきれず、普段どちらかというと少食ぎみの私が、気づけばドーナツを4つも注文しており
お店のかたが「大丈夫ですか��」と面食らっていた。
案の定、3つ目を食す頃にかなりの満腹を感じたため
残りの1つは持ち帰りにしてもらった。
そして、空腹だけではなく---もう一つの危機感を覚えることになる。
カメラのフィルムの残り、である。
カセ鳥の活躍っぷりを余すところなく捉えたい、と意気込んで撮影し続けるあまり
フィルムの残が心もとなくなっていた。
ここはほぼ土地勘のない東北、山形・・・
上山は大都市というほどの規模ではないから、フィルムを置いているお店がまったくない、という可能性も十分ありうる。
とりあえず足で探すしかない、とばかりに
近くのコンビニ、土産物屋、写真館などをあたって��るが、手応えはないまま。
どうしよう・・・と焦りばかりを募らせていた、のだったが。
あれ?
そういえば・・・駅のすぐ近くに、レトロな佇まいの写真屋さんがあったよな・・・
もしかしたら、あそこなら、置いてあるかもしれない・・・
どきどきしながら、ドアを開ける。
左手のショーケースには年季の入ったカメラ(おそらくフィルムカメラなのではと思う)が数台並び
年の頃が私と同じくらいか、少し若いくらいのお兄さんが正面のカウンターに立っている。
「フィルム?ありますよ!」
やった!
鹿児島・枕崎に次いで、ここ山形でも運良く命拾いをしたのであった。
お祭りがお開きになる15時ごろ、一連のカセ鳥たちが一斉に駅前の広場に集まって
カッカッカー、カッカッカーと締めの踊りを披露する。
カセ鳥役の若者たちが、次々と藁のケンダイを頭から脱いでいく。
役割を終えたケンダイは軽トラに無造作に放り込まれ、そのままどこかへ持って行かれてしまった。
名残惜しいけれども、終バスに間に合うよう、次の目的地の宿に向かわねばならない。
在来線のボックス席に腰掛け、どこまでも広がる雪の積もった平野を眺める。
夕陽が薄く差してはいたが、雲は厚くたれ込め、真っ白い畑の向こうに数軒の家がぽつぽつ見える。
もし私が、こういう雪国に生まれ、生活していたとしたら・・・
なんとなく、気分が塞いでしまうのではないか。
ここに住むひとたちは、厳しい環境下にあっても
それなりに日常を愉しめているだろうか・・・
地元のかたには失礼極まりないかもしれないが、そんなことをぼんやり考えていた。
17時ごろ、米沢駅に着き
白布(しらぶ)温泉行きのバスに乗り込む。
この温泉地は、たまたま銀座にある山形のアンテナショップの観光案内でお薦めされ
当初、訪れるつもりはなかったけれども予定に組み込んだ地である。
バスは、すっかり暗くなり、灯りも差さない山道をくねくねと進んでいく。
ほんとうにこんな山奥に、温泉なんてあるんだろうか・・・
バスには乗客は私一人しか乗っておらず、道中不安で心細くて仕方なかったが
バス停に着くと・・・ほど近いところに門柱があり、男性が懐中電灯を持って待っていてくれた。
すっかり雪の積もった石段を下る。
「足下、気をつけて下さいね」と懐中電灯で照らしてくれた。
なんて温かい心遣いなんだろう・・・
宿の入口を入ると、正面に囲炉裏のある和室があり
女将さんが、甘酒を振る舞ってくださった。
それまでの不安は一気に払拭され
温かな感謝の気持ちでいっぱいになった。
宿はなかなか年季の入った建物だが、丁寧に手入れされている。
当日は祝日で、翌日が平日だったからか
宿泊客はあまりおらず
大浴場も、利用した際は私一人だけだった。
こんなに広々としたお風呂や空間を独り占めしてよいものか…
少々戸惑いながらも、仄かな白熱灯の灯る空間の湯船でゆったり身体を休めた。
翌朝。
せっかくなので、露天風呂に入ってみようと思い立ち
大浴場の隣の、簡易な脱衣所の引き戸を開ける。
やはり、今日も誰もいない。
屋外に出てみると
予想通り、身を斬るような冷たさが全身を襲う。
しかし、ひとたび湯船に身を沈めると…
筆舌に尽くし難いほどの幸福感、安心感。
辺りには雪を冠った針葉樹が広がり
時折、ばさっ、と音を立てて雪が雪崩れ落ちる。
そんな様子を眺めながら
ぼんやりと、朝の雪国の空気と、じんわり身体を包み込むお湯の温かさを膚で感じていたのであった。
旅の道中、積もった雪を観るばかりで
あまり雪に降られることはなかったのだが
米沢の街に来たところで、しんしんと
けっこうな量の雪が降り始めた。
バスの便が悪く、お昼を食べようと思った喫茶店まで
駅から40分あまりの道のりを、降雪をかき分け歩くことになった。
米沢牛、と書かれた看板のお店を尻目に
橋を渡り、喫茶店へ。
お昼を食べて、また40分あまりかけて
駅へと戻る。
雪は勢いを衰えさせることなく、ただしんしんと降り続けている。
駅の軒先で、ふう、と一息つくと
いつの間に現れたのか、見知らぬご婦人が
「ねえ、ちょっと、雪払っていい?」と仰って
雪をサッサっと払ってくださり
そのまま、何も言わずに去ってしまった。
自分では分からなかったのだが…私はその時、全身かなりの雪まみれだったようである。
土地勘のない雪国で、住民と一体になってカセ鳥を楽しんだこと。
温かなおもてなしをいただいたこと。
思わぬ親切を受けたこと。
2月のこの思い出は、静かに穏やかに
いまも私のこころを暖かくさせる。
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