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畑(はた)の恵みを受けとめて
つくづく、縁というのは不思議なもので
ごく身近な足下から、思わぬところに繋がったりすることがある。
鹿児島県南九州市、頴娃(えい)町で農園と野菜のお菓子のお店を営む「楓fu-」のことを知ったのも
たまたま、私がよく行く喫茶店の店主の友人が、以前こちらの農園の手伝いをしていた。
残念ながら、彼女は若くして他界してしまったのだが、その法要の際に、楓fu-のお菓子が供され、店主が気に入ったことから、
その喫茶店で、お菓子を扱うことになった、のがきっかけであった。
「なかなか鹿児島までは行けなくて・・・」と嘆く店主を見て
それならば、私が代わりに・・・と、半ば使命感のようなものを感じ
2016年のゴールデンウィークに、お店を訪ねることにした。
鹿児島中央駅から指宿枕崎線に揺られ、1時間ばかり経っただろうか。
降り始めた雨と風は激しさを増し、まるで台風に襲われたかのような様相を呈している。
こんな悪天候の中で、無事お店に辿り着けるだろうか・・・
ようやく、小さな無人駅である西頴娃駅に到着したものの、あたりは天候のせいもあって薄暗く
相変わらず、激しい風雨が吹き付けている。
小学生くらいの女の子2人組に、駅のお手洗いの場所を教えてもらったが、その女の子たちもすぐにどこかへ行ってしまった。
とんでもないタイミングで、とんでもないところへ来てしまったか・・・
不安でいっぱいになっていたところへ・・・「楓fu-」の店主さまのお母さんが車で迎えに来てくれた。
心配して「心細かったでしょう」と声をかけてくれた。
心細い、なんて大人になった今ではもう味わえない感情だと思っていたのだが
決して、否定はできなかった。
「楓fu-」は、畑に囲まれた一軒家を改装して作られたお店のようだった。
引き戸の玄関を入ると、上がった左手にカウンター、右手には縁側があり
二間続きの部屋の手前に座卓が並んでいる。
雨は相変わらず激しく降り続いている。
よく考えたら、私たち人間にとっては妨げとなることもあるが
農作物にとってはなくてはならないもの。
縁側のそばに座って、作物に打ち付ける雨を眺め
音に耳を澄ませているうちに
次第に、波だったこころが���まってきた。
「お昼、ご一緒していいですか?」
店主の山脇(現:久保山)綾子(りょうこ)さんが声をかけてくださった。
野菜を小さくみじん切りにしたスープいっぱいに、活き活きとした野菜のうまみが溶け込んでいて
本当に美味しくいただいた。
綾子さんの佇まいというか雰囲気が、とても気品があって
でも、どっしり落ち着いたところもあって
なんというか、鹿児島の風土そのものなのではないかと思わせるのである。
そして、車で迎えに来て下さったお母さんがまた、ユーモアがあって
話をしていて本当に楽しいのである。
お昼をご馳走になったあと、お母さんに頴娃の見どころを案内していただく。
タツノオトシゴがたくさん展示されている施設や、街の公民館のような役割を果たす「塩や、」※。
この「塩や、」にふらりと入らせていただくと、小さな女の子と女性とが、ちょうど地域のイベントというか、お祭りの準備をしていた。
色とりどりの折り紙が並べられ、絵の具で案内板に文字を書いている。
その様子から本当に、心からお祭りの準備を楽しんでいる気持ちが伝わってきて
ああ、私はやっぱり、ガイドブックに載っているような決まりきった観光地を観たいのではなくて
こんな風に、地元のかたの飾らない日常を垣間見たくて、鹿児島に来たのだ・・・
と、本当に嬉しくなった。
(のちに、この女性が、古民家を改装したゲストハウスでお世話になる福澤(瀬川)知香さんだと知ることになる)
綾子さん、お母さんのお二人のキャラクターや、頴娃ののんびりとした雰囲気が気に入って
それからまた三度ほど、この地を訪れた。
初めて訪れた際に、撮らせていただいた写真をプリントし
二度目に訪れる際に持参したのだが
なんと、その写真をお店に展示していただいたとのこと。
もう本当に嬉しくて、このことがきっかけで
いつか、鹿児島でも写真展を開きたい・・・と思い始めた。
まだ実現には至っていないが
初回は、この「楓fu-」のお店で展示させていただきたいと、なんとなく考えている。
現在はお店を移転され、古民家を改装した建物になっているはずである。
綾子さんやご家族の皆さん、地域の皆さんに再びお目にかかれる日を
首を長くして待っているところである。
※「塩や、」は2021年4月
「だしとお茶の店 潮や、」としてリニューアルオープン。
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潮騒のナポリタン
新橋駅で東海道線に乗り換え、西へと向かう。
多摩川を越えたあたりから
それまでの、都市の機能としての「まち」の色から
次第に、ひとが住むための「まち」の色が濃くなってくる。
思い起こせば、東京に住むようになってから
毎年、紫陽花の季節には決まって、鎌倉へ足を運んでいた。
横���あたりから乗客が増え始め
紫陽花のシーズンには特に-いや、それ以外の時季であっても-
鎌倉に着くなり、人がどっと降りる。
70年代のフォークグループ「かぐや姫」の伊勢正三が唄った「湘南 夏」という唄の
"湘南へ帰る人たちの顔がとても優しい
少し心が落ち着いた 鎌倉過ぎたあたりで"
という一節が去来する。
鎌倉を過ぎて、乗客が疎らになった東海道線の車内に残る人々の表情に
何となく安堵の色が浮かぶ気がするのである。
いつしか、毎年足を運んでいたはずの鎌倉で過ごす時間よりも
その先の-よりゆっくり時間の流れを感じられる-葉山で過ごす時間が、少しずつ長くなっていった。
何度か訪れたことのあるご飯屋は、いつの間にか閉店してしまっていたことに気づき
さて、どこで昼を過ごすか…と
携帯の地図も頼りに、目星をつける。
ふと目に留まった喫茶店。
バスを降り、近づいてみると
アイボリーに塗られた外壁に、小さな木造りのドアが備え付けられている。
どことなく、米軍住宅を思わせる。
そっとドアを開けてみると、やはり軍用品と思われる、カーキ色のキャンバス地の椅子と、小ぶりのテーブルの席が4つほど並んでいる。
壁の白さが目立つ中、奥から出てきたのは
インドの民衆を思わせる、これまた白い服を纏った男性の店主。
今���で出会ったことのない雰囲気にどきどきしながら、メニューに目を通す。
お昼ご飯を求めていたので、とりあえず��ナポリタン」を頼むことに。
しばらくして、運ばれてきたのは…
私の想像していた、古き佳き喫茶店に良くあるような「ナポリタン」とは似ても似つかぬもの。
パスタはフェットチーネ、平麺で太さは不揃い。
細く細く切ったピーマンと、削りたてのチーズが、粗挽き胡椒とともに載っている。
驚きを覚えつつも、食べてみると・・・
驚くのはまだ早かった。
もはや、これはナポリタンなどという次元をとっくに超越しているのではないか・・・と驚愕するほど美味しいのである。
あまりの美味しさに、店主に話を聞いてみると
トマトソースは自家製、入っているベーコンも自家製なのだという。
パスタももちろん手打ちで、全粒粉の小麦粉を使っている、と聞いて
そうか、全粒粉を使うとこんなに美味しくできるのだな、私にもできるかな・・・と思いを馳せた。
それからというもの、鎌倉や葉山に足を運ぶ機会が来るたびに
この不思議な、けれども素敵な店を訪れるのが楽しみとなっていた。
飄々として、ちょっと風変わりなここの店主ともよく話をした。
ここに来ると、東京で慌ただしく過ごす日常をしばし忘れ、普段とまったく違う
豊かな時間を取り戻せる気がして
つい、いつものんびりと椅子に座り、ぼんやり時を過ごすのであった。
かの悪名高き疫病騒ぎが全世界を賑わせるようになる少し前、この店はひっそりと静かに、その短い歴史に幕を下ろした。
まるで、その後の世の中が一変してしまうことを予知していたかのように。
私がこの店の、あの風変わりな店主のつくったナポリタンを食べられる日は、ひょっとしたらもう来ないのかもしれない。
それでも---これからも葉山を訪れ、澄んだ空と青い海を眺め、全身に潮風を浴びる度に
あの小さな、居心地のよい店と風変わりな店主、
驚嘆必至のナポリタンの味を思い起こすことだろう。
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山に導かれて
私は普段から、あちこち出かけては、地下鉄駅のフリーペーパーやら、雑貨店のチラシやら、ギャラリーの葉書やら、あれこれ収集してきてしまうタイプなのだが。
その日も、以前からお世話になっている自然派スキンケアブランドのお店のレジに置いてあったパンフレットが目に留まり、帰宅してから読んでみた。
林業に携わる女性の活躍がイラストと写真で紹介されていた。大きな木も、なんと一人で伐採してしまうのだという。
わぁ、きれいな森林の景色だな… どこだろう?長野あたりかな?
と、読んでいくうちに「丹沢」の文字が目に飛び込んできた。
えっ、丹沢・・・ ということは、私の地元の近くではないか。
記載のあった「諸戸林業」を検索してみると、所在地は確かに私の出身地である「秦野市」であった。
地元は何もないと思って、東京へ出てきてはや十余年。
秦野の良さをあまりにも知らないまま、ここまで過ごしてきてしまったことに些かショックを受けたが、本格的な冬を迎える前に、なんとかこの女性に話を伺ってみたい・・・
そう思って11月の上旬、地元への帰省がてら、市街地からヤビツ峠を少し越えたところにある「諸戸林業」の笹原美香さんを訪ねることにした。
くねくねとした峠道を越え、しばらくするとキャンプ場と、大きな銀杏の木、年代を感じさせる民家と、落葉した銀杏を掃き集めている女性が目に飛び込んできた。この女性こそが笹原さんだった。
寒いのを覚悟でコートを着込んできたが、晴天のおかげもあって、午前中にもかかわらず、ポカポカと暖かかった。
見えてきた民家が事務所となっているのだそう。
早速中に案内いただき、お話を伺うことに。
笹原さん:(以下、『笹:』)
将来は何の仕事をするか決めていなかったけれども、身体を動かすのが好きなので、デスクワークは無しかな、と思ったんです。
大学の就職課で「木こりになりたいの?それだったらちょっとうちでは面倒見られないな…」と言わてしまいましたが、運良く林業をされている女性の記事を見つけ、女性でもできるんだ、と思い、林業で就職先を探し、まずは長野の会社に就職し、4年働きました。
最初はホームシックになってしまい、帰りたいと思いましたが、地元の方が優しく、また自分でやりたいことがあったから乗り切れました。
でも、女性ということで事務方に配属されてしまうのはちょっと…と思いました。同期の男性は現場で活躍しているのに。
次は群馬の森林組合で6年働きました。そこには女性の職員がいたのですが、結婚を機に離れてしまいました。職場としては働きやすいところだったかな。
ある時、タウンニュース*1に、秦野の木が歌舞伎座で使われた、という記事が���ったのがきっかけで、ここ諸戸林業を知りました。働いて8年目になります。
夏場はゴミ投棄や火事といった問題を防ぐ目的でも、キャンプ場の仕事があります。
入社した翌年に、キャンプ場の支配人を任され(新人はみんな通る道)最初は戸惑いましたが、やってみると意外に面白かったですね。
一口に林業と言っても、植付け、草刈り、伐採、枝打ち…など、仕事はいろいろあるんです。一般的には植付けは、1haあたり約3000本植えていますが、諸戸林業では5,000~10,000本植えています。上に伸ばして、年輪を細かくし、通直で強度のある、まっすぐな木が育つよう植林されました。その後、枝打ちをして、節のない木を作ります。ある程度の面積を植えないといけないので、作業量としては間伐の方が多いです。
伐採作業は、冬の仕事が多いです。雪は、11月末くらいには降ります。1mくらい積もることもあるんですよ。
なぜ冬に木を切ったほうがいいかというと、夏場に、木が水を吸い上げた状態で伐ると、皮が剥けやすく、傷つきやすくなってしまうからなんです。
現在は5代目です。1923年、関東大震災のあとの雨で、多くの木がだめになってしまいました。
諸戸林業の持つ土地は、丹沢大山国定公園に指定されている土地でもあるので*2、自分の山であっても、伐採等をするのに制限があります。申請が必要ですし。
森林も使うところは使い、残すところは残しますが、今目標としてやっていることが、100年後も同じとは限りません。
世代によって山の使い方が変わるのかもしれません。
・・・普段、林業にはまるで馴染みのない私からすると、聞く話聞く話すべてが新鮮で、驚くことの連続である。
笹原さんが、直径30cmくらいの木の見本を持ってきてくれた。樹齢120年の木だそう。
事務所の壁には、周辺の森林の白地図が掲示されていた。
黄緑と緑に塗られている箇所が、それぞれ120年の檜と杉。黄色の箇所が、50〜60年の檜。
所有している森林は約3km×4.5km内で、950haあるそうだが、本社のある三重の森林は、その倍近くあるという。
ひとしきりお話を伺ったあと、実際にこの辺りの森林を案内していただけることになった。
普段、東京で舗装された道を歩き慣れてしまっていたせいもあるが・・・
いざ足を踏み入れてみると、落ちた小枝が無数に散らばっていてパキパキ音を立て、なかなか歩きづらい。
足早に進む笹原さんの後を追って、山肌のゆるやかな斜面を上る。
ちなみに、笹原さんが山へ行って、木を伐ろうとすると、木の葉の美味しいところを食べようと、鹿が寄ってくるそう。
「早く倒せ」、と言わんばかりに待っているんですよ、と笑っていた。
キャンプ場「BOSCO」が併設されている
笹原美香さん
笹:
もともと、母が北海道、父が山形出身なんです。
最初は知らなかったんですが、実は父方の祖父が、山形の山を管理する人だったことを知りました。この道に進んだのも、どこかで導かれていたのかもしれません。
---これまでの林業の活動で、よかったこと、印象に残っていることはありますか?
笹:
うーん…そうですね、暗い山でも、森林を整備して光が入るように調整すると、気持ちがいいことですね。毎年、寒い時期は手がしもやけになってつらいんですが。(笑)木って1本1本違うから、接し方も違うんです。私は飽きっぽい性格なのですが、だからこそ続けていられます。
自然の怖さや天気など、危険と隣り合わせであることも含めて、山っていいのかも、と思います。私は登山よりも、山仕事の方が好きですね。仕事自体が奥深くて。
女性の場合は、結婚して、続けるのが難しくなって、辞めていく人も多いのですが。
---将来の目標はありますか?
笹:
野望はあります。(笑)私の場合は民間企業や森林組合に勤めてきたのですが、やっぱり、自分の山が欲しいです。道具はある程度揃っているので、山を買って、好きな時に山へ行って過ごせるような。
あまり「女性だから・・・」と特別視されるのを好まない笹原さんだが・・・やはり、小柄な身体で山を管理されているのは純粋にすごいことだと感じる。女性ならではの感性が林業に活かせるところも多いのではないか。
3月末にはミツマタの花が咲いて、香りがとても良いのだそう。
そんな話を聞いたのであれば、またその時期に伺ってみたい・・・
嬉しいことに、お弁当でも持って行って、ハンモックでのんびりしましょう、と仰ってくださった。
春の兆しが見え始めた頃に、ミツマタの鮮やかな黄色い花を眺めに、笹原さんに山の話の続きを伺いに、またこの場所を訪れたい。
*1 神奈川県、東京多摩地域で発行の地域情報誌。
*2 国定公園に指定されていなくても申請は必要。
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やまがたり-出羽國如月独り旅
旅に出る場所。
私は寒いのが大の苦手、という理由だけで
それまでは、自分の生まれ育った関東より西南の、どちらかというと温暖な地域に偏っていた。
真冬の北国だなんて、聞いただけで寒気がしてきていた。
ところが、である。
たまたま近所のカフェで何気なく手に取った、写真家・シャルル・フレジェの写真集「YOKAI NO SHIMA」の中に
藁でできた衣装を身に纏った人たちが、踊り回っている場面を見つけ
なんだこれは・・・面白��う、観に行きたい、という気持ちが頭をもたげてきた。
山形県上山市で毎年2月に行われる民俗行事「カセ鳥」。
寒いの嫌だ、と常日ごろ口にしていた私は
2019年の年明け、生まれて初めて、ユニクロの「ヒートテック」なるものを新宿まで買い求めに行き
「ヒートテック」なる繊維が生地に織り込まれている靴下と肌着を手に入れた。
それまで、ヒートテックというものがどういう形状をしているのか、まったく想像がつかなかった。
東北へ足を運ぶのは人生2度目、10年ぶり。
銀座にある、山形のアンテナショップの観光案内でバスの時刻表や地図をもらい
旅の相談をした。
まずは、昔ながらの旅館の外壁に鏝絵が施されているという銀山温泉。
翌日にちょうど、カセ鳥が行われる上山温泉。
2月の初旬、新幹線「つばさ」に乗り込んだ。
那須塩原を過ぎたあたりから雪が舞い始め、福島では止み
その後、また雪が深くなっていった。
新幹線といえば、東海道新幹線ばかり乗っている私にとって
山形に近づくにつれ、くねくねとカーブを描いてゆっくり走行していく新幹線はとても新鮮だった。
最初の目的地、大石田駅に到着。
もう雪が人間の背丈ほども積もっていて「わあ」と驚く。
シーズン中とあって、銀山温泉行きのバスを待つ人はかなりの長蛇の列で、当然バスの中はぎゅうぎゅう詰め。
入口近くで、なんとか足を踏ん張って30分強の道のりをやり過ごす。
銀山温泉は観光客でなかなかの賑わい。
共同浴場があるようだが、さすがにシーズン中は地元住民限定、と張り紙がしてある。
こんなに観光客が押し寄せてしまったら、昔から住んでいるかたがたは大変だろうなぁ、と思いを馳せた。
本日の宿は天童温泉。
そのまま銀山温泉に泊まればいいのに・・・とお思いかもしれないが。
あろうことか、観光案内でいただいた宿リストの上から順に電話をかけていき、シーズン中の一人客という理由で、見事にすべての宿からお断りの返答をいただいたのであった。
致し方あるまい。
もちろん銀山温泉周辺もかなりの寒さなのだが
日が落ちて、すっかり暗くなった天童の街を歩くと
しんしんと身体の奥まで染み渡る冷たさ。
スマホの地図の温度表示はマイナスを指している。
翌朝、かみのやま温泉へと向かう。
上山の街はこぢんまりし、昔ながらの建物がそこかしこに残っていて
どことなく、親しみがもてそうである。
高台にある上山城まで歩いたり、とにかくうろうろして
なんとなくの土地勘を掴む��
ここ良さそうだな、となんとなく目星をつけたカフェで
1人でも入りやすい、おすすめの夕食どころを尋ねる。
教えていただいた小さなご飯屋さんでは、年配の女性が温かく迎えてくれ
郷土料理の一つ、お麩を揚げたものをいただいた。
次の日。
いよいよカセ鳥の執り行われる当日。
上山城で祈願式が行われるのは朝10時からだったが、私はワクワクして待ちきれず
9時から敷地内にスタンバイし、着々と準備が進められる様子を眺め、関係者がやってくるのを待ち構えていた。
まず最初に、カセ鳥に扮する若者(だけではないと思うが・・・)が
頭に手ぬぐい、上半身裸(女性はタンクトップ)、ショートパンツにわらじを履いた姿で、お城の建物の前の石段にずらりと並び
一人ずつ順番に出身地と名前、カセ鳥に参加した回数を言っていく。
「埼玉県出身、○○ ○○、10回!」と参加者が声を上げるたびに、周囲から拍手や笑い声が起こって
それがまた一層、私たち見物客の心をワクワクさせるのだった。
その後、若者たちは「ケンダイ」と呼ばれる、藁でできた蓑を頭から被せてもらい
何グループかに分かれて、街へと下りて行く。
私も迷わず、第一陣のグループのあとをついて、街へと下りる。
しばらく歩き、街の交差点のように少し広くなっているところへ差し掛かると
先頭にいたおじさんが、スピーカーで
「カセ鳥さまのーお通りだー!」と声を張り上げたのを合図に
ソレ カッカッカーのカッカッカー
カセ鳥 カセ鳥 お祝いだ
商売繁盛 火の用心
ソレ カッカッカーのカッカッカー
と、カセ鳥たちが声を揃え��囃し立てながら
輪になってユーモラスに踊る。
彼らが踊っているとき、街を練り歩いているとき。
住民たちは構わず、彼らに柄杓やらバケツやらを使って水をかけまくる。
カセ鳥たちは黙って受け入れる。
いや、むしろ自ら進んで水をかけられに行く、という方が正しいだろうか。
当日、雪でも降っていたら、カセ鳥さんたちはさぞかし辛いだろう・・・と思っていたのだが
幸い、穏やかに晴れ上がり、寒さもそれほど厳しくはなかった。
周りで見守る地元住民も、カセ鳥に扮した面々も、私のように後をついて回る見物客たちも
みな、満面の笑みを浮かべている。
藁の衣装を纏っていないにしても、まるで自分がお祭りの主役の一員になったかのような
一体感、高揚感を身体に感じつつ、結局正午くらいまで、ずっと一緒になって街を歩き回った。
しかし---さすがに、ずっと歩き通しではそろそろ空腹を感じる時分に差し掛かった。
一段落したタイミングを見計らって、駅から40分あまり歩いたところにあるドーナツ屋さんを目指した。
カセ鳥を追って歩き回った上、さらにそこそこの距離を歩いたものだから
店に辿り着くや否や、空腹に耐えきれず、普段どちらかというと少食ぎみの私が、気づけばドーナツを4つも注文しており
お店のかたが「大丈夫ですか?」と面食らっていた。
案の定、3つ目を食す頃にかなりの満腹を感じたため
残りの1つは持ち帰りにしてもらった。
そして、空腹だけではなく---もう一つの危機感を覚えることになる。
カメラのフィルムの残り、である。
カセ鳥の活躍っぷりを余すところなく捉えたい、と意気込んで撮影し続けるあまり
フィルムの残が心もとなくなっていた。
こ��はほぼ土地勘のない東北、山形・・・
上山は大都市というほどの規模ではないから、フィルムを置いているお店がまったくない、という可能性も十分ありうる。
とりあえず足で探すしかない、とばかりに
近くのコンビニ、土産物屋、写真館などをあたってみるが、手応えはないまま。
どうしよう・・・と焦りばかりを募らせていた、のだったが。
あれ?
そういえば・・・駅のすぐ近くに、レトロな佇まいの写真屋さんがあったよな・・・
もしかしたら、あそこなら、置いてあるかもしれない・・・
どきどきしながら、ドアを開ける。
左手のショーケースには年季の入ったカメラ(おそらくフィルムカメラなのではと思う)が数台並び
年の頃が私と同じくらいか、少し若いくらいのお兄さんが正面のカウンターに立っている。
「フィルム?ありますよ!」
やった!
鹿児島・枕崎に次いで、ここ山形でも運良く命拾いをしたのであった。
お祭りがお開きになる15時ごろ、一連のカセ鳥たちが一斉に駅前の広場に集まって
カッカッカー、カッカッカーと締めの踊りを披露する。
カセ鳥役の若者たちが、次々と藁のケンダイを頭から脱いでいく。
役割を終えたケンダイは軽トラに無造作に放り込まれ、そのままどこかへ持って行かれてしまった。
名残惜しいけれども、終バスに間に合うよう、次の目的地の宿に向かわねばならない。
在来線のボックス席に腰掛け、どこまでも広がる雪の積もった平野を眺める。
夕陽が薄く差してはいたが、雲は厚くたれ込め、真っ白い畑の向こうに数軒の家がぽつぽつ見える。
もし私が、こういう雪国に生まれ、生活していたとしたら・・・
なんとなく、気分が塞いでしまうのではないか。
ここに住む���とたちは、厳しい環境下にあっても
それなりに日常を愉しめているだろうか・・・
地元のかたには失礼極まりないかもしれないが、そんなことをぼんやり考えていた。
17時ごろ、米沢駅に着き
白布(しらぶ)温泉行きのバスに乗り込む。
この温泉地は、たまたま銀座にある山形のアンテナショップの観光案内でお薦めされ
当初、訪れるつもりはなかったけれども予定に組み込んだ地である。
バスは、すっかり暗くなり、灯りも差さない山道をくねくねと進んでいく。
ほんとうにこんな山奥に、温泉なんてあるんだろうか・・・
バスには乗客は私一人しか乗っておらず、道中不安で心細くて仕方なかったが
バス停に着くと・・・ほど近いところに門柱があり、男性が懐中電灯を持って待っていてくれた。
すっかり雪の積もった石段を下る。
「足下、気をつけて下さいね」と懐中電灯で照らしてくれた。
なんて温かい心遣いなんだろう・・・
宿の入口を入ると、正面に囲炉裏のある和室があり
女将さんが、甘酒を振る舞ってくださった。
それまでの不安は一気に払拭され
温かな感謝の気持ちでいっぱいになった。
宿はなかなか年季の入った建物だが、丁寧に手入れされている。
当日は祝日で、翌日が平日だったからか
宿泊客はあまりおらず
大浴場も、利用した際は私一人だけだった。
こんなに広々としたお風呂や空間を独り占めしてよいものか…
少々戸惑いながらも、仄かな白熱灯の灯る空間の湯船でゆったり身体を休めた。
翌朝。
せっかくなので、露天風呂に入ってみようと思い立ち
大浴場の隣の、簡易な脱衣所の引き戸を開ける。
やはり、今日も誰もいない。
屋外に出てみると
予想通り、身を斬るような冷たさが全身を襲う。
しかし、ひとたび湯船に身を沈めると…
筆舌に尽くし難いほどの幸福感、安心感。
辺りには雪を冠った針葉樹が広がり
時折、ばさっ、と音を立てて雪が雪崩れ落ちる。
そんな様子を眺めながら
ぼんやりと、朝の雪国の空気と、じんわり身体を包み込むお湯の温かさを膚で感じていたのであった。
旅の道中、積もった雪を観るばかりで
あまり雪に降られることはなかったのだが
米沢の街に来たところで、しんしんと
けっこうな量の雪が降り始めた。
バスの便が悪く、お昼を食べようと思った喫茶店まで
駅から40分あまりの道のりを、降雪をかき分け歩くことになった。
米沢牛、と書かれた看板のお店を尻目に
橋を渡り、喫茶店へ。
お昼を食べて、また40分あまりかけて
駅へと戻る。
雪は勢いを衰えさせることなく、ただしんしんと降り続けている。
駅の軒先で、ふう、と一息つくと
いつの間に現れたのか、見知らぬご婦人が
「ねえ、ちょっと、雪払っていい?」と仰って
雪をサッサっと払ってくださり
そのまま、何も言わずに去ってしまった。
自分では分からなかったのだが…私はその時、全身かなりの雪まみれだったようである。
土地勘のない雪国で、住民と一体になってカセ鳥を楽しんだこと。
温かなおもてなしをいただいたこと。
思わぬ親切を受けたこと。
2月のこの思い出は、静かに穏やかに
いまも私のこころを暖かくさせる。
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薩摩気質とタノカンサア
「田の神さあ」-その名前を耳にしたのは、大学で地理を学んでいたときだっただろうか。
九州は旧薩摩藩に分布するという、石造りの「田んぼの神様」。
その、素朴でユーモラスな風貌、
これまた、どこにあるとも分からない広い田畑を巡るワクワク感、探し当てた時の「宝探し」のような達成感が忘れられず
宮崎・えびの市の農家さんにお世話になりつつ、何体もの「田の神さあ」を案内していただいたこともあった。
2018年5月、ゴールデンウィーク真っただ中。
鹿児島へ来たものの、少々時間を持て余してしまった私は
鹿児島の歴史と美術が展示されている「黎明館」をぶらぶら散策していた。
ここへ来ると決まって「田の神さあ」の展示コーナーをじっくり眺めてしまうのだが、その日も「ああ、やっぱり田の神さあは可愛いなあ」といつまでも、その素朴な顔ぶれをしげしげと眺めていた。
鹿児島にはまだまだ、私の見たことがない田の神さあがいっぱいいるはずだ・・・
何か、手がかりはつかめないものか・・・
そう思った私は、スタッフの方に「ここ以外で、田の神さあが見られる資料館などはないですか?」と尋ねてみたのだが
スタッフも困った様子で「ここ以外ではちょっと・・・」と首を傾げている。
やっぱり、黎明館ほどきちんと展示されている、というか、田の神についてもうちょっと詳しく知ることができる施設はないのかな・・・と、半ば諦めかけていたところ。
先ほどのスタッフが私を追いかけてきて「姶良(あいら)市の歴史民俗資料館というところにも、展示があるようですよ」と資料を持ってきてくれた。
そのとき、既に時刻は15時を回っていたが、私はもう鹿児島での滞在時間が限られていたため
その足でJR日豊本線に飛び乗り、姶良市歴史民俗資料館へと急いだ。
どきどきしながら入口を入ると、年配の男性が温かく迎えてくれた。
田の神さあに興味があることを話すと、男性は関連する資料をどっさり用意してくださり
私はまた、それらをしげしげと眺めた。
「一人、歴史ボランティアのメンバーに詳しい人がいるんですが、今日は都合が合わないですね」と男性は残念そうに話した。
「また、時期を改めて伺います!」と私ははっきりそう伝えた。
10月。
田の神さあに詳しいという、姶良歴史ボランティア協会の橘木 雅晴さんに電話で連絡をとり
姶良市に点在する「田の神さあ」を車で案内していただけることになった。
田の神さあ巡りは9:30スタート。
時間はたっぷりあるけれども、何しろ見所が多そうだ・・・
橘木さんはいともスムーズに、市内の田の神さあの数々を、順番に案内して回ってくれた。
神社の脇に安置されているもの、公園の隅に佇んでいるもの、
個人のお宅のお庭におじゃまして撮影させても���ったものもあった。
橘木さんは歴史ボランティア協会のメンバーということもあり、田の神さあにはもちろん、いろいろな時代の歴史にも詳しく
(私は歴史には興味はあれど、詳しくはないのだが)
お話を聞いていて、まったく退屈することがなかった。
また好奇心旺盛のようで、京都へも骨董巡りによく足を運ぶという。
ご自宅には、そんな骨董巡りで集めた人形などが何百とある、と聞いて
「しめしめ、このおじさんとは気が合いそうだ・・・」と一人、ほくそ笑んだ。
橘木さんは何かあると、よく「アッハッハ」と声を上げて陽気に笑うかただった。
鹿児島のかたの気質もあるかもしれないが・・・道行く人に「今、このあたりの田の神さあを案内しているんですよ」と気さくに声をかけて回った。
畑仕事をしていた70〜80代くらいのご夫婦と、何やら話していたようだが
私には本場の薩摩弁がまったく理解できなかったのであった・・・
橘木さんに翻訳してもらったところによると、私が「なんとか薬局のお姉さんが、橘木さんの付き添いで来たのかと思った」そうだ。
橘木さんには田の神さあだけではなく、この地域では有名な「蒲生の大クス」、日露戦争からの帰還を記念して建てられた「山田の凱旋門」にも案内していただいた。
「田の神さあは、祟らんから」といって、橘木さんはとある田の神さあの像をポンポン叩いて見せた。
大丈夫かな、と思ってハラハラしながら見ていたが、やはり叩かれても田の神さあはニコニコと穏やかな笑みを浮かべている。
陽も傾きかけた頃、橘木さんは私を、桜島と市街地がよく見える展望台へと連れて行ってくれ、ベンチに座り、桜島を眺めつつ、みかんをご馳走になった。
たった半日で、姶良市内の大部分の田の神さあに見所まで、いっぺんに案内していただき
ああ、やっぱり鹿児島のかたの懐の広さ、ホスピタリティの大きさにはかなわないな・・・と感じた。
日照りや長雨、台風にも負けず
いつでもニコニコと穏やかな笑みを浮かべ、田畑を見守る田の神さあは、薩摩の人々の気質そのものなのだ。
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亀の歩みで
2018年、10月。
鹿児島市中心部、昔ながらの呑み屋や商店が軒を連ねる場所の一角にある珈琲屋さん。
やや寝不足気味だった私は、暖かいカフェラテを啜りながら
ぼんやり窓の外を眺めていた。
と、その窓の桟に
藁でできた、ちいさな亀が2匹
ちょこんと鎮座している。
あれ、何だろう…
店主さんに尋ねると
「どこの民芸品って言ってたかな〜…確か、宮崎の高千穂って聞いた気がするんですけどね…」
高千穂…
その言葉を聞いた時から、既に
私が高千穂を訪れる計画は始まっていた。
まだ12月の早いうちに、早々に翌年のゴールデンウィークの宿を押さえ
とある場所で行われる、藁細工のワークショップの予約を取り付けていた。
高千穂、日之影町。
この地で、藁細工を営んでいるところがある。
「わ��細工 たくぼ」。
訪れた日は、あいにく代表の甲斐陽一郎さんは不在だったけれども
同じく、たくぼさんで藁細工に携わっている山木博文さんに、「祝亀」の作り方を教えていただいた。
亀づくりの第一歩は、まず縄綯いから。
青藁を束ねたものを3つに分け、うち2つを縒り合わせていく。
左手と右手を擦り合わせて、うまく捻りをつけながら綯っていくのだが
これがなかなか、至難の業。
ふと前に座っている山木さんの手元を見ると、まるで彼の手に縄が吸いついているかのように
あっという間に、目が細かく美しく整った縄が綯われていく。
すごい…!
たった4年で、あんなにきれいな縄が作れるようになるんだ。
次は亀の甲羅づくり。
ミゴといって、稲穂の
稲のお米が実る部分から根っこの方に向かって1つ目までの節を使う。
藁を互い違いに編んだあと
座布団の���らかさや膝の丸みを利用して、くぼみを作っていく。
顔の部分をつけ、先ほど編んだ縄を
甲羅らしく、丸くかたどり
こちらも本体につける。
最後に、尾の部分。
こちらは、実った稲穂の部分をそのまま甲羅に差し込む。
一本いっぽん、稲穂を差すごとに、亀らしい華やかさ、お目出度さが増していく。
山木さんといろいろおしゃべりしながら、仕上げの工程にかかる。
彼はもともと研究者を目指していて、バリバリの理系だったそう。
緑のふるさと協力隊に参加したことがきっかけで日之影町に一年住み
その間、竹細工や木工などを含めた手仕事を経験し
その中で、ふと「あ、自分は藁細工をやっていくんだろうな」と思い
今に至るのだという。
亀が完成したあとは、普段たくぼの皆さんが使っているという作業場を案内していただいた。
壁いっぱいに飾られた
大きな大きな鶴と亀の注連縄。
さっき作ったのと同じくらいのサイズの亀が5体くらい
ちょうど作りかけのまま、床に置かれている。
5体とも、お腹を宙に向けて
身体からはみ出した藁を切り揃えてくれるひとが来るのを
何も言わずにただ、待っている。
年月を重ねて、味わい深い色になった
鳥や竜などの藁細工が
壁に、棚の上に、犇いている。
たくさんの稲穂や藁の束が置かれた作業場は、人が居ずとも
ついさっきまで誰かが作業をしていたような温度を感じる。
看板猫のテトラちゃんに挨拶しつつ
たくぼさんの棚田に案内していただく。
高低差が3メートルくらいあるという棚田の脇の道を上る。
舗装された細い道の真ん中には溝があり、水路になっているのだという。
↑フクロウの姿をした水神さま。いつからここにあるのかは分からないそう。
刈ったばかりの青々した草の香りを嗅ぎ、遥か彼方の山や田んぼが見渡せる場所に立ち、この時期にしては少しひんやりした、山あいを渡る風に吹かれていると
もうちょっと、ここに居たいなぁという気持ちになってしまう。
↑写真上:「わらしゃぎ機」と呼ばれる機械に藁を通し、柔らかく加工しやすくする。
また来たい。
今度訪れる時も、また亀を作りたい。
亀の風貌に惹かれるのは、どことなく自分が亀の歩みのごとく、いつもゆっくりマイペースで人生を歩んでいるからなのかもしれない、と思っている。
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京都やど考
何年前だか忘れてしまったが、実家に帰省していたある日
母に「また京都に行くよ」と告げた。
「今度は何しに行くの?」という母に桜を観に、と答えたところ、怪訝な顔をされた。
なんでも、私はいつもわりあいマニアックな理由で京都に行くのが常なので桜を観に行くなんて普通じゃないか、と思ったらしい。
京都に行く理由…
以前もこの場で記載したが、一番最初の目的は「桂離宮」を観るため。
あとは、祇園祭、
友人に会うため、毎年8月16日に行われる五山の送り火、
冬や夏の特別拝観…
こうして書くと、特段マニアックでもない気がするのだが。
今から3年ほど前には、京都市役所にほど近い町家のお店で
写真展もさせていただいた。
そんなこんなで、京都に足を運んだ回数は、ひょっとしたら多い方なのかもしれない。
そして、宿を選ぶのも、京都滞在の醍醐味のひとつで。
正確に数えたことはないのだが
今は無き、東山ユースホステルに始まり
宿坊3軒、ビジネスホテル約10軒、ゲストハウス約10軒、旅館約7~8軒…
ほかにも、所謂安宿や、70年代の日本のロックバンド「はっぴいえんど」の世界観だ、と評されるような
下宿屋みたいな宿にも滞在した。
それぞれ、京都ならではの町家のつくりを活かしていたり
しつらいが秀逸だったり
設備が新しくて快適だったり
雰囲気が良く、たまたま同じ部屋に滞在していたゲストと意気投合し
翌日一緒に行動できたり…
まあ、いいなと思える宿にはたくさん巡り会うことができた。
その中で、ひとつだけ挙げるとすれば。
昔ながらの小さな商店街にほど近い、町家を丁寧に改装したゲストハウス。
宿自体は、まあ京都ならあちこちにあるようなタイプなのだが。
連泊の予約をし、一晩明けた日中。
商店街の近くをぶらぶら歩いていると。
ご夫妻でされている宿の、旦那さんの方が通りかかり
「こんにちは~」と声をかけてくださったのだ。
この近所にパン屋ができるみたいで、僕らも気になってるんですよ、
みたいな、たった二言三言の他愛ない世間話だったのだけれども。
たった2泊の短期滞在だったけれども
私が単なる旅行者ではなく
その土地に住む、地域の一員として認めてもらえたような、そんな嬉しい気持ちになったのを憶えている。
ああ、ここの宿主さんは、滞在客ひとりひとりを本当に大切にされているのだな、と。
ここ数年、海外からの旅行者増加などの影響で
京都で宿泊客を受け入れる立場のかたも、住民も
ひょっとしたら負担が増えてしまっているかもしれないけれども
くだんの宿は、これからも宿泊者の気持ちに寄り添う場であってほしい。
人それぞれ、宿に求めるものはさまざまかもしれないが
こういう宿が、少しだけ増えたら
ひょっとしたら素敵なのではないか、
と思っている。
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いちばん大切なもの
…やはり、私は小さい頃から「おばあちゃん子」だった故、おばあちゃん、とつくものに弱いのかもしれない。
2007年の9月、はじめて宮崎を訪れた。
���もなお、昔ながらの焼畑農業を続け
山のことなら何でも知っているという、凄いおばあちゃん���会ってみたくて
1週間と少し、まるまる宮崎だけを巡る旅をしたのだった。
いまから8年前…2011年の5月だったか。
当時勤めていた会社で購読していた、日経新聞(日本経済新聞)に別冊の付録が付いており
宮崎県は都城市で、50年ほど前、まだ「有機農業」という言葉すら一般的でなかった頃から
完全無農薬で、梅園を営んでいるというおばあちゃんが取り上げられていた。
素朴な絣の野良着を着、手拭いを被った姿が写真に写っていて
なんとなく、私が小さい頃の祖母の姿と重なって見えた。
徳重紅梅園、徳重文子さん。
一目見て、「すごい」と心を奪われてしまい
是非とも、梅園に足を運んで
直接話を聞きたい、おばあちゃんに会いたい…という気持ちが高まった。
でも、こんな記者でもない、プロの写真家でもライターでもない、いち会社員の訪問を受け入れてもらえるだろうか…
何日も逡巡したが、ある日
意を決して、紅梅園に連絡を入れた。
『紅梅園の生産法に興味を持って頂く方には、梅達を是非見て頂きたいと思います。』
意外なほど、あっさりOKの返事をもらった。
それから数ヶ月経過した、9月のとある日。
宮崎県都城市、JR日豊本線 西都城駅で待ち合わせ、徳重さんに車で迎えに来ていただくことになっていた。
駅前のロータリーに白い大きな車が停まり、中から、きれいにお化粧をし、白いレースの涼しげなカットソーを着た婦人が現れた。
ドアの開いた車から、大音量のロックが流れた…
…とても、御年83歳(当時)とは思えない登場のしかたに、やや面食らってしまったが
終始ニコニコと笑顔で、事務所や
広々とした梅園を案内していただけた。
文子さんとは、いろいろな話をさせていただいた。
今でこそ、梅園の手入れから出荷までバリバリ何でもこなすバイタリティ溢れるかただが
幼少の頃は、身体が弱く
学校でみんなでお昼を食べるときも
食べるのがクラスで一番遅かったのだという。
なんだ、私と同じではないか…
ただただ、文子さんのその凄さに見上げるばかりだったのだが
そんな話を聞き、急に彼女が身近な存在に思えてきた。
「あなた、人生で一番大切なものは何だか分かる?」
彼女はしばらく間を置いて言った。
「時間よ」
50年近く、梅に寄り添い
喜びも悲しみも悔しさも、ともに共有してきた文子さんが口にしてこその、重みのある言葉。
とはいえ、時間というものは否応なしに過ぎていき
われわれ人間の生活���活動を、限りあるものにしている。
お昼には、文子さん行きつけのとんかつ屋さんに連れて行っていただいた。
とんかつ…と、またもやびっくりしながら、注文が来るのを待っていたのだが
いざ、2人前のとんかつが運ばれてくると…
「私、食べきれないからあなた半分食べて」と小声で言った。
私はなんだか、ほっとしたような寂しいような、なんとも言えない気持ちで
1.5人前のとんかつを平らげた。
時間。
いま私に与えられている時間は、普通に考えれば
文子さんよりも長いはず。
けれども、私はこの先
文子さんが歩んできたほどの濃密な経験を積んで、人生を過ごすことができるだろうか…
自分なりのペースではあるが、いのちが続く限りは、私も写真を撮り続け
文章を添え、ものづくりをする人々の営みを他者に伝え続けたい。
宮崎。
私が訪れたのは、まだほんの数回に過ぎないし
もちろん、みんながみんなそうというわけではないけれども。
私がこの地で出会ってきた
男性は、明るくてノリが良くて。
女性は、優しくて、でも芯の強さを内に秘めていて…
そんなところが魅力だと思っている。
*徳重紅梅園
http://www.koubaien.com/
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普段づかいに、彩りを
都内の、とある駅ビルを通りかかったとき、青を基調とした、涼しげな浴衣が目に留まった。
落ち着いて考えよう…と思ったのだがやはり、あの浴衣が脳裏を過る。
思いきって、その浴衣を扱う店舗へと向かう。
くだんの浴衣を羽織ってみて、店員さんに、合う帯を見立てて持ってきてもらう。 …向日葵のような大振りの花があしらわれた、鮮やかな黄色の帯。 ※後に店員さんに確認したところ、向日葵ではなくマーガレットであった
一見、ちょっと華やか過ぎるのでは…と思ったのだが、締めてみると目立ち過ぎることなく、全体的に品良く仕上がるのだ。
思わず「これは、どこで作っている帯ですか?」と尋ねると、桐生織、だという。 桐生・・・ 群馬県桐生市は10年近く前に、写真家の石内都さんの展示を観に、街歩きと撮影に 一度、足を運んだことがある。 帯に付いていた、素朴なイラストのタグに記されている製造元を頼りに 担当のかたにメッセージを送り 7月のとある日、北千住の駅から特急「りょうもう」に乗り込んだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
1. まきしま
新桐生駅で待っていてくださった牧島 千明さん。 織物メーカー「株式会社まきしま」の代表者である。 柔和で穏やかなお人柄にほっとしたのと、これから織物を実際に見せていただく期待感とで わくわくとした気持ちが膨らむ。 「株式会社まきしま」は江戸時代から250年続く織物の老舗。 工場といっても、外観は門があり、塀があり 通常の住宅とさほど変わりはないように思える。
玄関から応接間に案内していただくと、早速 色とりどり、繊細かつモダンなデザインの帯が目に飛び込んできた。
↑左から二番目、黄色いマーガレット柄の帯が全てのきっかけとなった
桐生は、京都の西陣、福岡の博多と並んで帯の三大産地なのだという。
どちらかというと西陣、博多の織物が高級志向なのに対して
桐生は、より気軽に締められる、普段使いの帯を提案してきた。 着物業界の流通システムは従来は、まきしまのような織物メーカーが産地問屋(卸売業者)を通じて販売店に卸されるのが一般的だったが
15年ほど前から、問屋を通さず直接販売店に並ぶことが増えてきたという。 着物業界の課題としては着物や帯といった和装品はどうしても「高級なもの」と考えられがちで織物メーカー側の原価に見合わない、かなり高い値段で卸されてしまうケースもあるそう。
牧島さんの語り口調から、こういった事態に強い憤りと危機感を抱いていることが窺えた。
普段使いの着物に合わせる帯であっても、洗練されたデザイン、遊び心を採り入れた、少しおしゃれな帯、を一貫してつくり続けているのである。
↑赤いモール糸を織り込んだ帯地。���まきしま」唯一の技術とのこと。
↑人形用の生地。小さく繊細な柄が施されている
↑織り上げた生地を帯の幅に裁断する
次に、敷地の奥にある工場を案内していただく。 織物工場独特の、のこぎり型の屋根をした建物に入る。 「(織り機の音が)うるさいんで、質問があったらあとで外で聞いてください。 今は午前中だからまだマシですが、午後になるともう、暑いですよ」 入口を入ってすぐのスペースに並んでいるのは、ジャカード織と呼ばれるタイプの織物を織る「レピア織機」。 レピアという器械が縦糸に対して横糸を通すことで織られるため、こう呼ばれている。 「裏織り」といって、表の生地の糸が引っ張られるなどの影響が出にくいよう 裏面を表にした状態で織られるものもある。
外からは想像し難かった、広々としたスペースの奥へ進むと 別のタイプの織機が並ぶフロア。 こちらは「シャトル」と呼ばれる、舟形の器具を左右に走らせることで 縦糸に横糸が織り込まれていく。 牧島さんが織機のスイッチを入れている間、絶えずこのシャトルが左右にせわしなく動き 徐々に織物の文様が現れていく。
現在、織物のパターンはコンピューター化されているのだが そのプログラムの設定や実行はフロッピーディスクを使っているのだという。 近年ではその入手も徐々に困難になってきてはいるが 海外製品よりも耐久性のある、国内生産されたフロッピーをフォーマットし繰り返し使っているとのこと。
続いて、牧島さんの旧知の仲であるアライデザインシステムの新井さんにお話を伺うことに。
2.アライデザインシステム(新井織物)
こちらは、通常の桐生織物とは一線を画す 「絵画織」という技法を用いて、尾形光琳の「かきつばた」や伊藤若冲「鳥獣花木図屏風」など、往年の名作と言われる絵画を 微妙な色の濃淡に至るまで精巧に、緻密に再現し織り上げた帯を扱っている。 能面の「小面」と「般若」を織り込んだ帯。 帯単体で見るとかなりインパクトがあり個性的だが、歌舞伎鑑賞の際の装いなどに静かな人気を呼んでいるという。 画像をスキャナで読み取り、織り組織を加えて製作する。 「絵画織」は1995年より20年以上継続しているが、こちらの技術を超える織物はいまだ現れていないそう。 もちろんデジタル技術の恩恵によるところも大きいかもしれないが、それよりも 同社の前身である「新井織物」の時代から積み上げられた職人たちの高い技術が いまも連綿と生き続けているのであろう。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ちょうどお昼の時間になったので、牧島さんに、桐生名物という ソースカツ丼のお店に案内していただき、そこでもいろいろとお話を伺う。 「ぼくは東京の大学に通ってて、そのあと愛知の一宮っていうところの工場で働いてたんです。 一宮は桐生と違って、ドビー織の、毛織物で有名なとこなんですが、やっぱり 現場の仕事をするのが面白いな、と思ったんです」 午前中に訪れた工場で、手慣れた様子でシャトルに糸をセットし 織り機を扱う、牧島さんの穏やかな横顔を思い出した。 牧島さんはまた、山登りが趣味で トレイルランニングの大会などにも夫婦そろって出場しているという。 織物の話も熱く語ってくださった牧島さんだったが、山について語りはじめると その眼が一段とキラキラ輝きを増していたのが印象的だった。
最後に、桐生で唯一、着物地を製作している 「泉織物」へ案内してもらう。
3.泉織物
まず驚いたのが、敷地と工場の広さ。 入口を入ると、まず糸や��地の染色を行うスペースがある。 「まきしま」は糸商から糸を購入し織物を作っているが こちらは蚕から絹糸を撚糸するところから、すべて自社で行っている。 代表である泉 太郎さんに、2種類の絹糸を触らせてもらうと 一方はなめらか、もう一方は少しごわごわと硬さがある。 この手触りの違いは、絹糸が持つ絹タンパク質「セリシン」が残っているかどうかによるのだそう(一般的に用いられるなめらかな手触りの絹糸は、このセリシンを取り除いてある)。
続いて、織り機の並ぶスペースの奥へ。 木製の八丁式撚糸機。 いわゆる「糸車」と呼ばれるクラシックな形の撚糸機が 大きな工場敷地内にぽつんと1台置かれていることに、また驚いてしまう。 「お召(お召織)」と呼ばれる、桐生発祥の最高級の絹織物。 11代将軍徳川家斉が好んだという、この織物の風合いを出すのには 八丁式撚糸機で撚糸した糸が最適なのだそうだ。
工場を出て、入口に戻ると 小振りの機織り機が置いてあるのが目に留まった。 こちらの織り機は「桐生伊勢崎式」というタイプで ちょうど農家の土間に入るくらいのコンパクトなサイズ。 昔、農作物が不作だった年などに、家計を助ける手段として 使われたのだという。 「泉織物」は明治40年創業、今年で111年目。 泉さんの祖父の代が北陸からこちらに出てきて創業したそう。 桐生はまた、「桐生絞」と呼ばれる絞り染めの技法が伝わる。
↑染めと織りの組み合わせを活かす
「100人の女性に『着物を着たいですか?』と尋ねると、ほぼ100人が『着たい』と仰る。 でも、その中でほぼ全員が 振り袖以外の着物を着たことがない、って仰るんですよね。 礼服としての着物が相手に対するおしゃれであれば 『洒落もの』が、普段着に近い、自分のためのおしゃれ。 うちは、普段の装いにもっと着物を気軽に採り入れてもらいたいなと思ってるんです」
自らも伝統工芸士の資格を持つ泉さん。 一つ一つの工程や織物の紹介、歴史的背景についてもたっぷりと語ってくださり 桐生織に対する並々ならぬこだわりと思いが感じられた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
牧島さんに、車で新桐生の駅まで送っていただく道すがら
前方になだらかに聳える山を望む。
「あれが赤城山で…七つの山があるんですよ。こっちが渡良瀬川です。桐生は、渡良瀬川と桐生川、二本の川が流れてて…」
日差しは刺すように照りつけるが、ここ桐生を吹く風は、清々しさが感じられる。
東京の自宅に戻り、いま一度桐生織の帯を眺めてみる。
あの工場で、一本一本の糸が、牧島さんや工場のかたがたの手により丁寧に織られ帯の幅に裁断され、整えられ
いま、こうして手もとに届いているのだ、と思うと、感慨もひとしお。
普段使いの着物に、彩りとこだわりを…
牧島さんをはじめ、桐生織物に携わるひとびとの長年の知恵と工夫が、確かにここにある。
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SATSUMA SMILE(と、名付けようか)
2011年の5月、初めて鹿児島を訪れた。 「かごしま女子本」という、観たこともない現地のローカルテレビ番組「ナマ・イキVOICE」の記念誌らしきガイドブックを買い わくわくしながら眺めていた。 ちょうど熊本から向かうことになったので 「肥薩おれんじ鉄道」という第三セクターの列車にゆられ 鹿児島中央駅にたどり着いた。 熊本市内の、どことなくレトロ感が漂う市電を見慣れていた身にとっては 鹿児島の市電はなんだかやけに車体がきれいで、よそもの扱いされている気がして 少し寂しいような、取り残されたような気持ちになったのを覚えている。 まずは宿に向かい、荷物を置こうと、街をうろうろし マスクをした小柄なおばあさんに「すみません、○○町へ行きたいのですが」と 観光案内所で貰った二色刷りのレトロな地図を指し示すと 「あなた、全然違うところ歩いてるね」と言われた。 そんな旅の始まりではあったが、滞在中 とあるパン屋さんにお世話になったり 鹿児島のひとびとの温かさが��たく気に入った私は 同年の9月、またしても鹿児島へ向かうことを決めた。 5月と同様、市内に宿をとった。 街を歩いていると「ドン」という鈍い音がし 薄いグレーの小さな塊がぽつ、ぽつと降ってきた。
これがあの桜島の灰か・・・ 道行く人は何事もなかったかのように平然と歩いている。 私も周囲の人に倣って おもむろにモスグリーンの水玉模様の折り畳み傘を取り出し、平然と歩き始める。 傘の表面に、見る見るうちにグレーの灰玉模様ができていく。
↑路面に灰の跡がくっきり残る
どのくらい歩いただろう。 とあるレトロな建物の前に出た。 ここ、何だろう・・・ 立て看板があり、どうやら2Fは雑貨店のようである。 階段を上って、入口の前に立つが ドアに、しばらく不在にする旨が書かれた張り紙がある。 幸い、時間には余裕があったので、港沿いの水族館に入り、魚を眺めるなどして過ごし 再び階段を上ってみると、今度はちゃんとオープンしていた。
外観からは想像しがたい広々とした、光の差し込む空間。 ユーズドの家具や衣類、食器なんかがたくさん並んでいる。 「灰、降っちゃいましたね」 見ると、すらりと背の高いお兄さんが 満面の笑みを浮かべ、立っている。 「あ、私、東京から来たんです」 そこから、地図を広げて旅の話、この界隈の飲食店や古道具屋さんの話、お兄さん自身の話(お兄さんは千葉に住んでいたこともあるという)など たっぷり1時間あまり、楽しくおしゃべりをさせてもらった。 最後に、記念にといって、背負っていたいつものカメラで撮影もさせてもらう。 いま思うと、あれだけたくさんお話をしてくださったのに 当の私は、何も買わずにお店をあとにしてしまったことが悔やまれるのだが。 その晩は、お兄さんにおすすめしてもらった定食屋へ行き、中華丼を食べた。 少年漫画がたくさん置いてあったが・・・何の漫画があったかや、読んだかどうかは覚えていない。 翌日、お兄さんにお礼と、定食屋へ行った旨をメールしたところ 「中華丼美味しいですよね。僕はチキン南蛮が好きです。(笑)」と返ってきた。
それから少し経って、お兄さんが鹿児島市内から少し、いや、だいぶ離れたところ--- お兄さんの生まれ故郷に、お店を移したことを知った。 再びあの場所を訪ねても、もうあの笑顔と居心地のよいお店には会えないのかと思うと 少し寂しい気持ちにはなるのだが--- いつか必ず、その場所を訪ねる機会がやってくるだろう・・・ なんとなく、そう思っている。
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しなやかに背負う
私が小学生の頃、わずか2年間ではあったが、父が箱根で働いていた。 父の運転する車に、ぬいぐるみをたくさん積んで 地元から1時間余り、くねくねした道を走り、家族で箱根に遊びにいくのを
いつも楽しみにしていた。 芦ノ湖にほど近い畑宿(はたじゅく)というところに、当地の伝統工芸である寄木細工(よせぎざいく)の店が点在し 車窓から、散歩がてら歩きながら、じっと見るでもなく眺めていたのだが、その模様やかたちの記憶は いつも箱根の風景とともにあった。 子供心に「職人」というものにうっすら憧れを抱いていたのかもしれない。 先日、静岡・熱海を訪れた際、ふらりと立ち寄った「基地」というセレクトショップに 小さな木を組み合わせた美しい模様の箸置きやコースターが並んでいるのを見つけた。 寄木だ・・・ その存在が気になり、作家の名前を教えてもらい 「太田木工」と書かれたカードに記された連絡先にメールを送り 小田急箱根登山線、新宿方面から行くと小田原駅から1つ目の「箱根板橋駅」から
歩いて少しのところにある工房を訪ねることにした。 お昼少し前、ちょうど別のかたと打ち合わせ中だったが、工房の主である太田憲さんは
快く工房の中を案内してくださった。
黒光りする柱や梁。 ここはもともと、戦前から続く、築80年の製麺所だったという。 まず、木材の置き場��案内してもらう。 種類も大小もさまざまな木材が所狭しと並んでいる。 現在、25種類ほどの木を扱っており、そのほとんどは日本製だそうだ。 アカギ、桃、桜、キハダ、ローズ、ニガキ、コブシ、クルミ・・・ 馴染み深い木もあれば、初めて聞く名もある。 これらの木材をここで乾燥させ、加工へと進める。 寄木の製品となるには、ここからだいたい1年くらいはかかるという。 木の種類によって乾燥させる期間もまちまち。 相当な手間隙を費やして初めて、私たちが使う箸置きや皿、箱などが出来上がるのである。
↑写真では分かりづらいが、奥の部屋への入口上部に「茹場」というプレート。製麺所だった頃の名残。
乾燥を経てカットされた部材は、組み合わせ、接着剤と万力で圧着させ、紙のように薄くスライスされる。 このスライスされたものを「ズク」と呼ぶ。 陽に透かしてみると、ここに集まった木が かつて根を張り、水を吸い上げていたということを再認識させられる。 この薄い「ズク」を箱など、製品の表面に張り 寄木細工の品が出来上がる。 箸置きやボタンなど、寄木そのものを削りだして形づくる製品もある。
木材置き場には、寄木の表面に山梔子(くちなし)の色素を塗って青く染めた木片が置いてあった。 一風変わった雰囲気だが、濃い青に染まった部分の木目が強調され、落ち着いた印象を醸し出している。 「こういうのは伝統的な工法とはちょっと違うんですが・・・ずっと同じ作り方で作っているとやっぱり飽きちゃうし 毎年1つ、新しいやり方を試していきたいんです」 江戸期から続くという、寄木細工の長い伝統を背負いながら新しいことに挑戦していく・・・ 大変なことなのではと思ったのだが、そう語る太田さんの眼はどこまでも澄み ものづくり、彼らが取り組んでいることへの未来に希望を見出していることを物語っていた。
↑以前、同じ小田原の早川に工房を構えていた頃から使っているという箪笥の中には、圧着させた木材が納められていた
続いて、奥様に工房併設のショップを案内していただく。 工房から中庭を隔て、向かい側にあるショップの建物は もともと製麺所の倉庫として使われていたところだそう。 その時の名残で、ショップの内壁は銀色のトタンをそのまま活かした造りとなっている。 湿気を防ぐ役割を果たしているというが、この飾り気のない佇まいが 寄木の木のあたたかさを引き立たせているように見受けられる。
↑カスタマーカード記入用のボード。修業時代に制作したもので、今考えると貴重な木材を贅沢に使わせてもらっていた、と奥様は語る。
壁には1枚の小さな、素朴な絵画が架かっている。 寄木の下地をベースにした、柔らかな線画。 画家・朝比奈賢さんの「くつろぐ私」という作品。
寄木作品のディスプレイとして使用されている、ヨーロッパのアンティークと思しき小振りのテーブル。 よく見ると、天板に寄木の文様が施されている。 一体どのようにして・・・と思って奥様に尋ねたところ 太田さんの知人がイギリスからこのテーブルを分解して持ち帰り、再び組み立てる過程で太田さんの寄木を組み合わせたのだという。 ヨーロッパの家具と日本の伝統工芸の寄木、というと意外な取り合わせだが なるほど、チェスのテーブルのように、すっと自然に馴染んでいる。
こちらの箱は、あまり木と木の組み合わせの色の違いをださずにおくことで、ナチュラルな風合いが活きている。 街並みや道路、川を上空から俯瞰したときのかたちを思わせる。
「平織り」という、寄木のベーシックな技法からはじまり、毎年ひとつずつ、新しい模様のバリエーションが増えていく。 小寄木(こよせぎ)といって、寄木のそれぞれのパターンを組み合わせ、ひとつの作品をつくる、という技法があるのだそう。 工房が10周年を迎えたときに、その年ごとの模様を集めた作品が作れたら・・・と語ってくださった。 木を伐り、木材として寝かせ、細かく裁断し、組み合わせ、ひとつの作品を生み出す。 一朝一夕というわけにはいかないが 木に寄り添い、ゆっくりと歩みを続ける太田さんだからこそ、見えてくるものがあるのだろう。
太田木工
https://ota-mokko.com/
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土の気持ちを
きっかけは…たまたま、だった。
特に、やきものに詳しいわけではなかった。
ふらりと立ち寄った東京ミッドタウン内の店で、たまたま江戸指物のワークショップに参加し
今度東京国際フォーラムで伝統工芸の展示がありますよ、と案内をもらったのをきっかけに
これまた、ふらりと立ち寄ってみたのだった。 テーブルコーディネーターが、各地の伝統工芸のうつわを使ってコーディネイトしたという食卓の展示。
その中で、なんとなく目を引くやきものを見つける。
ぱっと見、スクエア型の小ぶりの素朴な平皿なのだが、何とも言えない、淡く美しいエメラルドグリーンの線模様が描かれている。
伊賀焼…
伊賀のやきもの…?聞いたことないな。
そう思いながらも「新 学(あたらし まなぶ)」と記された作家の名前を頼りに、いつか工房を訪れよう…という決心を固めたのであった。
その頃、私はちょうど会社を辞めようと動いているところであった。
次の仕事が決まってしまったら、なかなか遠出できないかもしれない。
そんな思いで、工房に電話をかけ
2018年が明けたばかりの最初の連休に、伊賀を訪れることになった。
聞けば、ちょうど前年の台風の影響で名古屋から伊賀上野までの鉄道路線が、一部運休したままだという。
というわけで、名古屋駅から三重交通のバスを使うことにしたのだった。 高速道路の車窓から外を眺めていると
尾張小牧、岡崎、鈴鹿…
関東ではあまり目にすることのないナンバーの車が現れ、また去っていく。
遠くの山は白く霞み、雪が舞っているようだ。
伊賀に着き、宿に一泊して
翌朝、新 学さんの奥様に車で迎えに来ていただき、三軒窯(さんけんがま)を訪れることになった。
緩やかな起伏のある畑のあいまの道を進むと「三軒窯」という小さな立て札が見え
大きな暖簾のある建物の前に到着した。
新さんご本人が、庭で出迎えてくれた。
ギャラリーに案内していただくと、まず手前のスペースにはお父様である新 歓嗣(あたらし かんじ)さんの作品が、所狭しと並べられている。
今回お話を伺う、息子さんの学さんは、大学卒業後は食品メーカーの営業の職に就いていたが
のちに、お父様に師事し、やきものの道を志すことになった���である。
奥の部屋が、学さんの作品が並ぶギャラリーとなっている。
「伊賀・甲賀」と呼ばれるように
三重県伊賀市と滋賀県甲賀市は県境を隔てて隣接している。
伊賀焼と、滋賀県の信楽焼は、ルーツは同じなのだそうだ。
400万年前、かつての琵琶湖は現在と形が異なり、現在の三重県伊賀市辺りにあり、気候や地殻の影響を受けながら徐々に北上していった。
その当時からの地質を古琵琶湖層(琵琶湖層)と呼び、伊賀焼の土の礎となる。
木の破片を含み、きめが細かい「木節粘土(きぶしねんど)」と、耐火性があるがきめが粗く水を通す性質をもつ「蛙目粘土(がいろめねんど)」の2種類を混成することで、それぞれの土の長所を活かし、短所を補い合うかたちで伊賀焼のやきものが作られる。
釉薬については、草木を焼成させた灰を使う。
かつては町に、薪沸かしの銭湯がたくさんあり、薪を燃やした際に出た灰をもらい、釉薬に使ったという。なかでも松の灰が釉薬には適しているらしい。
今朝がた、伊賀上野の町を少し散策したところ、風情のある銭湯が点在していたことを思い出す。
「まあ、僕、(サラリーマンの)仕事嫌いじゃなかったんですけどね…
陶芸は…やってると、やっぱ、生活が健康的になりますねぇ」
辛かったことはありますか、と尋ねたところ
作陶、展示を始めた頃に、お客さまから
「あんた、これじゃあ土がかわいそう��」と言われたこともあったという。
土はもちろん、我々のような言葉を喋り、自分の意思を伝えられるわけではない。
しかしその土の特徴、良さを解し、それに沿った作品を作っていくことが、より良い作り手の道に繋がっていくのだろう。
新さんに、伊賀焼の歴史や特徴についてお話を伺いつつ、お互いのイギリス滞在の話に仕事の話…と、とりとめもなく続く。
「まあ、なんでも嫌々やってたら、やっぱ(作品に)出ますよねぇ」
そうなのだ。これから新たな道に進もうとしている私に、新さんの柔らかい伊賀ことばは、深く刺さった。
新さんのギャラリーを見せていただき、ふと目に留まった湯のみ茶碗。
ベージュがかった色で、手に取ると大きすぎず小さすぎず、すっと馴染む。
これ、良いですね、と声をかけると
新さんは、その器に温かい焙じ茶を淹れて出してくれた。
いま、その器は私の家の卓上にある。
離れていても、伊賀の底冷えのするような厳しい寒さ、その中で観て、触れた温かいやきものの数々の思い出を語ってくれているのだ、と思う。
※2018年7月12日(木)から22日(日)まで、東京・学芸大学駅近くのギャラリー「長縄」さんにて新 学さんの個展が開催されています。
http://www.naganawa.jp/
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こころの在りかた
2011年3月1日から13日まで、東京・高円寺南口にあった、自然食のカフェ「百音(もね)」で展示をさせてもらった。
そう、あの東日本大震災のあったときの話である。
あの日、私は会社の有休を取り、そのカフェで横須賀から来てくれていた友人と談笑していた。
畳スペースの卓袱台がカタカタと揺れはじめ、お店にいた常連さんが、落ち着いた、しかしはっきりとした声で「逃げたほうがいい」と言った。
私たちがお店を出て1,2秒するかしないかのうちに、卓袱台のグラスが倒れてパリンと割れ、キッチンの奥のお酒の瓶が次々と倒れ始めた。 電車の運行をはじめ、都内の交通機関が軒並みストップし、その日は、帰れなくなった友人とふたり、お店の近所のお寺に泊めていただいた。
度重なる余震に怯えつつも、暖かい布団で眠れたことは、今思えばとても幸せなことだったのである。
それから1,2日経って、驚いたこと。お店に出向くと、働いているスタッフさんは皆、地震の前と何ら変わらず、穏やかな笑みを浮かべているのである。
「大丈夫でしたか?」と尋ねると、みな口を揃えて「うん、大丈夫。」と。
テレビや新聞は、まさに深刻な被害状況を発信し続けているところ。
これからどうなるのか…と、私の心も不安でいっぱいだというのに。
いま振り返ってみれば、確かに大いに心配したところで、状況が変わるものではなかったのである。
もちろん、人命に関わる甚大な被害が身に迫っている状況であれば、動揺せざるを得ないだろうが。 周りの状況がどうであれ、自分のこころの芯を、どっしりと構え
どんな時も、穏やかに生きる。
百音のスタッフさんの共通項は、そんなこころの在りかたなのではなかったか。
もちろん、震災もターニングポイントのひとつではあったが
高円寺で出会った、彼らの考えかた、生きかたから
なるべく新鮮な旬のものを食べたり、自分のからだを大切にしたり…といったことを知らずしらずの間に学んでいたのかもしれない。
その後の私の生活習慣、考えかたを変える大きなきっかけとなったのだった。
↑百音のスタッフさんのひとりだった、オソノさん(野澤 園さん)。
パンを作っているので、魔女の宅急便よろしくオソノさんと呼んでいた。
太陽のようなひと。
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薩摩漂流奇譚
あれは3年前の5月だったか。 「千年の一滴 だし しょうゆ」というドキュメンタリー映画に魅せられ 鰹節のふるさと、鹿児島は枕崎を訪ねる旅に出た。 些か鄙びた味わいのある、その港町への期待は かなり個性的な、いや、強烈なキャラクターのおじさんに出会ってしまい、ちょっと失礼な物言いをされたことで 若干しぼんでしまったのだったが。 翌日は気分を変えよう、と バスで30分ほどの、美しい海岸をもつ 坊津(ぼうのつ)へと足を延ばしてみることにした。
坊津は鑑真ゆかりの地。 朝早く到着したのだが とりあえず、地域の歴史を紹介する、資料館に入ってみた。 ふと窓の外を見ると 何やら着物に袴姿の青年が、自転車にまたがってこっちへ来るではないか。 その風貌といいレトロな自転車といい、あたかも明治時代の学生の集合写真から抜け出してきたよう。 そうこうしているうちに、青年は入口の自動ドアから、中へ入ってきた。
…また変なひとが現れた…! 動揺を隠せないまま、受付のかたと話をしていると 彼が近寄ってきて、私が提げていたNikon FM 10のフィルムカメラをしげしげ眺め出した。 ふと見ると、彼も大きなNikonのデジカメを2台ぶら下げていた。 いつしか、彼に対する警戒心はどこかへ消えていた。
聞けば、彼は鹿児島のローカルテレビの取材で、これから泊地区の「カラカラ舟」というお祭りを観に行くのだという。 ちょうどいい、このお兄さんに連れてってもらうといいよ〜、という受付のかたの言葉に後押しされ 彼の運転する車で、お祭りが行われる砂浜へと出向くこと���なった。
お祭りでは、ちょうど端午の節句ということもあり 浴衣を着、新聞紙の兜を被った小さな男の子たちが、カラカラ舟と呼ばれる小舟を曳きながら競走する。 クライマックスは、船からの餅投げと 海にバシャバシャ入って餅を捉えようとする老若男女なのだが あろうことか、私は夢中でシャッターを切るあまり 手持ちのフィルムをすべて使い果たしてしまった。
「フィルムが…」と嘆く私を見かねてか 彼がニコニコしながら「探しに行きましょう」という。 都内ですら、フィルムを扱っている店は年々見つけにくくなっているというのに ここは鹿児島、薩摩半島の南端である。 もはや諦めるしかないのでは…と落ち込みつつも 一縷の望みを託し 彼の車に乗せてもらい フィルムを扱っていそうな大型スーパー、ドラッグストアを回る。 案の定、フィルムは影も形も見当たらない。 やっぱり、だめか…
その時。 「あ、ニシムタならあるかもしれない!」 と、彼が声をあげる。 ニシムタというのは、九州各所に展開するホームセンターである。 大型店舗を回ってもダメだったのに、ホームセンターになんてあるだろうか… 半信半疑の私の横で、彼がカーナビに「ニシムタ 枕崎店」の住所を打ち込む。 花渡川(けどがわ)を渡り、ニシムタへと向かう。 そして…
「あった〜!!」
紛れもない、緑色の箱。 わざわざ私のためにあちこち車を走らせてくれた彼と このご時世に、フィルムを置いてくれていた ニシムタ枕崎店には もはや、足を向けて寝られまい。 感謝の気持ちで胸をいっぱいにしつつ、今晩の宿へと帰途に着く。
「ぼく、小心者なんですよ」 自分についてはそう語る彼だったが、しかし 思い出すのは、港で、お祭りの会場の神社や砂浜で 地元の人びとに気さくに話しかけている彼の姿。 別れ際にもらった、ご当地キャラ「薩摩剣士隼人」のキーホルダーを眺めていると 私も彼のように、おおらかな心を取り戻せるような。 そんな気がする。
※↑フィルムが尽きたため、こちらはiPhoneで撮影させてもらった
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魚心あれば水心
京都について語る…となると、もういろいろありすぎて、何から話したらいいのか迷ってしまうところなのだが。
小学生の頃からインテリアに興味を持ち、自然な流れで日本の伝統的な建築や意匠、古道具なども好むようになった。 職業訓練校でインテリアを学んでいた頃、桂離宮に行ってみたいと思い あまり気の進まない、学校の遠足というか研修(住宅展示場に行くことになっていた)の、とある夏の日に、京都行きを決めた。 案の定、教員からはお叱りの電話がかかってきたが、もう決めてしまったことなので、致し方がない。
京都に着き、とある昔ながらの小さな商店街を歩いていると お菓子屋さんの店頭に、清流を泳ぐ鮎や青紅葉などを象った、優しい色合いの可愛らしい ゼリーが並んでいた。 うわぁ、かわいいなぁ、写真撮りたいなぁ…と思い、当時愛用していた「写ルンです」を手に、お店のおじさんに、撮っていいですか、と尋ねてみる。
「あかん」
えっ!? 快諾してくれるとばかり思っていたので、意外な言葉に、ただ驚くばかり。
「魚心あれば水心いう言葉があってな…」おじさんは喋り始めた。 おそらく、これが欲しい、ひとつください、という心をもって、撮影させてください、という気持ちがあれば撮ってもよし、と言いたかったのではないかと思うのだが。 ひとしきり、くどくどとお説教めいた言葉が続いたあと 「あんた、どこから来たん?」 次第に和やかなムードに。 そこまでは良かったのだが、このおじさん、早口で喋ること喋ること。 ゼリーを袋に入れてもらって、お店を出る頃に時計を見ると… このおじさん、なんと一時間も、しゃべり通しだったのである。
初めての京都ひとり旅、このおじさんの強烈なキャラクターが いまも京都のファーストインプレッションとして、私のこころの深いところに刻まれている。
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鏝絵(こてえ)は、こころ
*鏝絵…左官が鏝を使って、漆喰をレリーフのように盛り上げ、絵を描いたもの
十代の終わり、大学一年生の冬。
私はバイト先のコンビニでの仕事に慣れず、ストレスから体調の優れない日々を過ごしていた。
そんなある日、実家で購読していた農業雑誌に、素朴で美しい絵で飾られた土蔵の写真を見つける。
それが鏝絵との出会いだった。
漆喰の白さによるものなのか、淡い青やピンクのパステルカラーに彩られた、恵比寿様や龍といった縁起物が、紙面いっぱいに躍っている。
本物を見てみたい衝動と、心のもやもやを打破したい気持ちとが、ひとり旅に出る決意を後押しした。
大分県安心院町(*現・宇佐市安心院町)。
当時、まだ東京と大分とを結んでいた寝台特急「富士」に乗り、路線バスに揺られ、案内板やパンフレットを頼りに、その土地の鏝絵を見つけて回った。
旅を続けるうち、それまで”人間嫌い”と自覚していた自分のこころが、人のあたたかさに触れ、穏やかになっていることに気づいた。
卒業論文のテーマには、迷わず鏝絵を選び、その後、町の公民館の館長をされているかたのご夫婦の家にお世話になった。
運転免許を持たない私のために、彼らは町に点在する、鏝絵のある家を一軒ずつ、車で回ってくれた。
実際に会った住人たちは、そのほとんどが鏝絵の珍しさ、貴重さにいまいちピンと来ないようだったが、皆、私たちを歓待してくれた。
ご夫婦は、いつも食卓いっぱいの食べきれないくらいのご飯を用意してくれた。時には大分から足を延ばして関門海峡を抜け、山口の萩に連れて行ってくれたりもした。
時はいつしか流れ流れて、十数年の歳月が過ぎたある日。
懐かしい市外局番に電話をかけ、自分の名前を告げると、長い歳月はどこへやら、まるで、つい昨日まで会っていたかのように、話が弾んだ。
久しぶりに顔を合わせたご夫婦は、それこそ、お年は召されたものの、以前と変わらぬ笑顔で、私を迎えてくれた。
鏝絵とは、施主から依頼を受けた左官が、家を建てる間、お世話になったお礼のしるしとして、遊び心で残したものだという。
「由美さんは、私らの孫みたいなもんやから」
今もなお、つい昨日かけてくれた言葉のように、鮮やかに、胸の中に響いている。
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はじめまして、諸星 由美恵(もろほし ゆみえ)です。 2006年よりフィルムカメラでの撮影を始め、2008年よりカラーネガから印画紙へのプリントを始めました。 あちこち旅をしながら撮っています。 緑が好きなので、まずは2016年5月に訪れました、鹿児島県南九州市頴娃(えい)町の茶畑の写真を。 どうぞよろしくお願い致します。
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