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#守ろう精神衛生
simamamoru · 2 months
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戦闘服の男たちNo.0
現職自衛官の告白体験手記
「遠くで突撃喇叭が」
原題「遠くでラッパが」
作  島 守
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新隊員の便所はノリだらけ
 朝五時、起床まであと一時間である。いやあ、変な夢を見たるんだなと思って、ギンギンになっているセガレに手をのばすと、ああ、やっちゃった。まったくしょうのない奴だぜ、昨日センズリかいたばっかりだろうが!
畜生!今起きると、となりのベッドの奴が目をさましてカッコ悪いし、しょうがネーな、起床で戦闘服に着替える時にでも一緒に履きかえるか。
 それにしても新隊員は外出が制限されてるせいで、夜なんかとても遊びに行けないし、極度に欲求不満の日々が読いている。
雄臭い野郎を見るだけならここは本当にいい所だけれど、それ以上のことはちと不可能。けっきょく、夜、誰もいないトイレにはいってシコシコ激しくセンズリをカクしかないのだ。風呂で見たガッチリしたオアニイさんや、カワユイ隊員たちがチラチラ浮かんできたりする。
 でも終わってみると、やっぱりむなしいな。なんか小便とたいしてかわりないみたいで。それでもけっこうさかんなようすで、この間も班長から、
「新隊員の便所はノリだらけでたまらん!」
なんて怒られてしまった。マア、ノリは冗談としても、エロマンガのちぎれたのや、ビニ本なんかが時々モロ、トイレにおきっぱなしになってたりする。金があれば普通の隊員はトルコにでも行くんだろうけど、そこはまだペイペイの新隊員、月給は少ないし、貯金はしろとうるさいし、とてもとても…
 それでも、あけっぴろげな男だけの世界。
「これからセンズリ行くゾー」
と、エロ本片手に走って行く奴もいる。
 そんでもって自分もけっきょくその日のタ方、バラしてしまうのだった。
「昨日の夜、爆発しちまったでェー」
「いやー、エッチだなあ。勝見二士がいないからじゃないのォー」
 前期の教育隊から一緒に来た北村二士にいうと、思わぬ返事が返ってきた。まいったなあ。
「このヤロォー、勝見と俺はそんなに深い仲でネェゾ!」
「エへへへ、でも勝見二士は、島二士のダッチワイフだったんじゃないのォー」
 まったく北村の野郎、口のへらない奴だ。
まっ、べつに勝見二土はダッチワイフだなんてのは冗談だからいいけど、でも俺は、やっぱりドッキン!そう、あいつはいい奴だったもんな。この俺に、男と男が精神的に強く結ばれることがどんなに素晴らしいことか数えてくれたから・・・•・・ネ。
 それは3ヶ月前
 桜のつぼみがまだ硬い三月の下旬、俺は陸上自衛隊のある駐屯地に入隊した。出身県の関係で他の県の出身者より四日ほど遅い入隊だった。勝見二士とはこの時に初めて出会ったのである。
〈三月某日〉
 なかなかできてる奴
今日から俺の自衛隊員としての生活が始まる。まわりの環境は、想像していたのとそれほど変りはない。でも一部屋四十人というのは多すぎるようだ。
 それから自衛隊ではバディという仕組があって、二段ベッドの上下でペアを組み、訓練面や私生活でいくそうだ。
 俺のバディは勝見次郎。ガタイが良くてイモの煮っ転がしみたいな顔をした奴だが、なかなか性格はよさそうだ。
 この時はまだバディの重要さなんか知るよしもなかった。
 勝見二士は俺より年下だが、四日も早く入していただけあってちょっと先輩気取りで、ベッドのとり方から戦闘服のネームの縫い物まで俺に協力してやってくれた。早くもリードされっぱなし。それでもけっして悪い顔をしないで黙々と手伝ってくれる彼を見て、
「なかなかできてる奴だワイ」
と内心思ったものである。
<四月某日>
ビニ本でぬいて来い
 入隊式も終わり、訓練も徐々に本格的になってきた。銃こそまだ持たされていないが、戦闘服を着て半長靴をはいて走り回るさまは、一人前の兵隊さん・・・・・なんちゃって。
 そんな時、体育の時間に勝見の野郎がすっころんでけがをした。運動神経いいくせにまったくそそっかしい奴だ。おかげでその晩、俺がヨーチン片手に手当てしてやる。 
 両足おさえつけて、ヨーチンをぬるさまはSの気分。ムフフフと不敵に笑って、「グチェッ!」とぬってやる。勝見の奴たまりかねて、「ギャアー!」
 苦痛にゆがんだ顔って、ちょっとエロチックやなアー。
 
 四月にはいっても外出は下旬にならないとできない。新隊員とはつらいもんである。ああ、自衛隊には自由なんてない!これでは縛られるのが好きなMじゃなきゃ向かないんじゃないだろうか。そんなわけで貴重な休みも隊舎のベッドでゴロゴロ、これじゃ夜寝られるワケがない。
 消燈もとっくに過ぎた十二時半、なんとなく昼間寝すぎたので寝つけない。緑色の毛布の中でごそっと寝返りを打つと、上のベッドでもごそっと寝返りを打ったようだ。安物のベッドがグラッとくる。これじゃセンズリかいてようもんなら、片っぽのベッドの奴は地震かと思って起きちまうだろうななんて思ってると、
「オイ、島さん寝たかい?」
と、勝見が小さな声で話しかけてきた。
「なーんか、こうムラムラして寝られネェんだョオ」
と俺。すると、
「島さん、最近やってないんでしょ、アレを」
「まっ、まあな」
と、二人はムクッとベッドから起き上がて話を始めた。まったく目がさえてしかたいない。すると、その時へやの戸があいて、だれかがはいってきた。なんと班付(つまり上官)の上田士長である。よーく見ると、片手にビニ本を持っている。
「お前ら、まだ起きとるんか」
「エエ、寝られないんですヨ」
と勝見二士。すると上田士長、恥ずかし気もなく片手でもってるビニ本二冊を差し出すと、
「これでちょっとぬいてこい、そうすればバッチリ寝られるゾ。俺も抜いて来た」
 思わず俺と見、顔を見合わせてニヤリ、もちろん俺はあんまりビニ本には興味はないが、そこはノンケの顔をしていなければならないのがツライところ。
 ともかく、俺と勝見の二人はビニ本片手に仲よくトイレに直行。そこで二人は同じ個室に••••••てなわけにはいかなくって別々の目室に。ハイ、でも、ガマン!
「オッ、スケニ本だぜ、もうビンピンだァ」
「タマンネニナー。でもあんまりおっきな声だすなァ、不寝番がびっくりして飛んでくるゾォー」
 なんてことを話しながら、お互いに実況中継をし合う。洋式トイレなのですわってカケるのでらくなのだ。となりの個室からのすっとんきょうな声がとだえた。奴も本気になってきたようだ。こっちがたまんなくなるようなあえぎ声が聞こえてくる。思わず俺の手の動きも早くなる……。
 すると、突然奴の声、
「ウッ!ウッーウ」
 畜生、俺より早く終わりやがったな。
奴の家は海辺の町で漁師をやっている。中学、高校と、よくアルバイトを兼ねて家の手伝いをしたそうだ。そのためか潮で鍛えられた体は浅黒く、区隊で誰にもまけないくらいの逞しさを持っている。そんな奴から海の話を聞くのが俺も好きで、いろいろと聞いたものだった。サザエの採り方なんか、実に詳しく話をしてくれたもんだった。
<5月某日>
好きになったのかな?
 知らないというのは恐ろしい。いつものように勝見二土から海の話を聞いていた俺は、なにげなく聞いてしまった。
「じゃ、なんで家の仕事を継がなかったんだい?」
「親父が許してくれなかったんだよ」
「どーして?」
「・・・・・・兄貴が海で死んだからさ••・・生きてれば二十七歳さ。よく晴れてベタなぎの海にもぐったきり、サザエ採りにネ、兄貴、上がってこなかった」
 淡々と話し続ける奴は、やっぱりいつもと違っていた。
「やっぱり親は親なんだな。二人も海で死なせたくはないんだろうな。いくら俺がねばってもだめだった。今の俺なんて、丘に上がったカッパさ・・・・・・・」
と、彼は言う。いやいや、丘に上がったカッパなんてとんでもない。奴の体力は区隊のトップをいつも争っている。俺だって気力じや負けないつもりだが、やっぱり体力検定だとかではっきり数字に出されると、どうも一歩も二歩もゆずってしまう。
「漁仲間の人から最近よく言われるんだ、兄貴に似てるって」
 彼はこう最後に明るく付け加えた。なんか、この話を聞いているうちに、自分が奴に引かれていることに気がついてきた。なんとなく奴のことを、俺は他の班員とは違う目で見ているということに・・・・・・。
 俺、奴のこと好きになったのかな?
まだ五月の下旬だというのに、真夏のような暑さが続く。そんな太陽の下での戦闘訓練は、まだ自衛官として一人前の体力を持ち合わせてない俺たちには、とてもキツイ。 
 たかが4.3kgの小銃が自分の体じゅうの汗を吸いまくる。気がつくと小銃から滴がしたたるほどに汗でぬれている。 
 地面だってこんな間近に見つめることなんてあったろうか。地にふせた俺の目の前にあるのは、青々とした草が高々と繁っている姿と、小さな虫たちの世界だった。
 一瞬、自分が虫けらになったような気がする。ふと隣を見ると、3メートルほど離れて奴がこっちを見てニヤリとした。埃にまみれた顔から白い歯がチラリとのぞく。ほんの数秒の間の静けさが何時間にも感じる。
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 すると突然、頭上で班長の大声が響く!
「目標、前方の敵!」
「突撃!前へ!」
 銃をかまえると全力で走りだす。核の時代にこんなことが役に立つのだろうか、もうバカになるしかないな。班長の号令が頭の中を素通りして直接手足に伝ってゆく。俺も奴も、そして愛すべき仲間たちも、死ぬ時はみんな一緒・・・・・なんだろうな。
<六月某日>
レイプごっこ
 3ヶ月の前期教育も大詰めをむかえてきた。今月の末には、俺も奴もバラバラになって全国の部隊のどこかの駐屯地に配属されることになるだろう。なんか、そう思うと、とてもせつない。でも、俺と奴は違う道をたどらなければならない。希望も適性も違うから。だからあと数週間、思いっきり悔いのないようにガンバッテいく。それが今の俺たちには一番なの
だ。
 営内近は1班12名前後いる。学校の教室の約2倍ほどの大きさの部屋に、実に40人の隊員が詰め込まれ、2段ベッドで毎日の訓練生活を送っている。もちろん性格もさまざまであるが、そんな隊員たちが40人も一つの部屋にいる姿は、なんとも壮観で異様でもある。しかも全員、スポーツ刈りか坊頭で、体格もこの六月ごろになると個人差こそあれ、すっかり逞しくなってくる。
 その中にはやっぱり俺以外にも、男が好きな奴がいるらしい。時々どっかからか、〇〇二土と二士が二人でトイレにはいって行くのを見たなんて話を耳にすることがある。
 うまいことやってるなあなんて思うけど、やっぱり毎日寝起きしている仲間の前ではなかなか、そんなことできるワケがない。それでもよく俺たち二人は皆の前で冗談を飛ばし合う。
「オッ、いいケツしてんなあー、たまんねえぜ!」
「バーカ、今夜はもう予約ズミダヨ」
「ベッドあんまりゆらしてこわすなヨ。下で俺が寝られネェからヨ」
「じゃペーパー貸してやっから、センズリでもかいてきな!」
 なんてやり合ってると、周りの仲間も悪乗りしてきて、なにがなんだかわからないうちにレイプごっこ(つまり解剖というやつ)が始まったりする。どんなバカ力の持ち主でも二十人ぐらいにせめられたんじゃ手も足もでない。アッというまにスッポンポン。一回やられるとくせになるみたいで、次の獲物をさかす。でも気がつくと、一番必死でやってるのは俺みたい。
<六月中旬某日>
こみ上げてくるような話
 今日から前期教育で最初で最後の野営(泊まりがけの野外訓練)が始まった。
 午前中に寝泊まりするテントを設営する。
 午後からは小銃手用の掩体(一種の個人用の隠れ穴…ここに隠れて首と銃だけ出して、敵を狙う)を掘った。
 1グループ6人で3時間ほどで仕上げなければいけない。
 もっぱら俺は現場監督のように地面に穴を掘る設計図を引く。そして奴は、パワーショベルのようなバカカで他の仲間四人とともに穴を掘る。もちろんきっかり時間内に仕上がった。
 野営で俺たちが使うテントは、二人用の小さなもので、朝起きてみると足が外に出ていた、なんてことがしょっちゅうある。もちろん奴、勝見二士と一緒である。
一日めの夜は夜間訓練もあり、ビールも一本入ったので、二人はろくに話しもしないで寝てしまった。
 二日の夜、目が冴えて眠れない。久しぶりに奴と俺はいろんな話しをした。酔うと滑舌になる勝見。入隊する前の事や、これからのこと、もちろん女の話しだって出てくる。俺は当然聞き手に回るわけだが、それでも奴は初体験の話や、彼女にふられてしまったことを、こっちが感心するほど克明に話してくれた。
なんかこみ上げてくるようなものも感じるけれど、それは明日の厳しい訓練にとかして流してしまおう。
 三日めは、昼間の行軍が災いして床についたら、またまた、あっという間に寝てしまった。それでも就寝前、点呼に来る班長が、
「お前ら、あんまりいちゃつくなよ!」
「いやーあ、昨日なんて島さんが寝かしてくれないんスよ。まいったなあ」
なーんて冗談も飛ばしてくれて、言葉の中だけど、楽しませてくれた。
<前期教育終了7日前>
愛すべきパワーショベル
 今日は最後の体育だ。項目はなんと苦手の障害走。外見に似合わず(?)体力のちと足りない俺には恐怖の時間である。だが、今回はなんと二人でペアになってやれというのである。当然勝見二土と組むことになる。よし、やるぞ!
 隊長の合図でスタートし、戦闘服姿で障害物を切りぬけていく。高さニメートルの垂直の壁あり、幅一・五メートルの溝あり、まったくとんでもないコースだ。やっぱり勝見の奴は早い。確実に障害をこなしてゆく。時々日に焼けた顔でこっちをふり向く。そうだ、奴がいるから今俺は、三カ月間ここまできたんだ、汗と埃は今、大きなエネルギーと変わって俺たちに吸い込まれてゆく。奴が好きだ、そう、心の中で叫んでやる、
「好きだ」と。
 ふと気がつくと、目の前にロープが下がっていた。最後の難関のロープ登りである。畜生!俺が最も苦手とするやつだ。それでも登らなければならない。一段階一段階と手足を使って登るのだが、なかなか上へ進まない。
 畜生!もうだめだ、あと五十センチでロープのフックに手が届くに・・。すると、そ畜生!もうだめだ、あと五十センチでロープのフックに手が届くのに…。
 すると、その時である。足をなにか、すごい力で下からさ押れた。グーッと上に上がる。フ、フックに手が届いた。やったあ!思わず下を見る。そう、俺の足の下には勝見のこぶしがあった。奴は満身の力で、俺を下から押し上げてくれたのである。
この野郎!お前はやっぱりパワーショベルなんだなあ。
<前期教育終了6日前>
 自衛隊部隊はラッパの音と共に、毎朝8時に国旗掲揚、夕方5時に国旗降納がある。
 俺の前に整列している奴の後ろ姿の敬礼を見るのもあと数回しかない。教育終了後に別の部隊に進む事に決まったからだ。
 日に焼けたうなじを目に対み込んでおこうと思う。毎日、一緒に行く食事も別れが近いせいか会話が少なくなったような気がする。
 そろそろ身辺の整理を始める。ダンボールに荷物をつめる時、背中に後ろで見ている奴の視線がやけに気になる。
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<前期教育終了4日前>
 パンツの隙間から半立ちのものが…
 教育打ち上げの研修旅行で、ある山奥の温泉に行った。
 やはり百名近い短髪の青年集団というのは一般の人々に奇異に見えるようで、必ず「お仕事は何ですか」なんて聞かれる。もちろん醜態をさらす飲み会に制服なんて着ていくワケがないから、わからないのは無理もない。
「皆さんお若いですネ。今年入社したのですか?」
「ハアー、そうです」
「いい体している人ばかりですけど、どんな仕事ですか」
「まあー(モゴモゴモゴ)」
「ガードマンかなんかですか?」
「似たようなもんですネ」
と、けっこうおもしろがって遠回しに話をするんだけど、後ろから当然、
「島二土!」
なんて階級で呼ばれるもんだから、わけ知りの人にはバレちゃう。そしてその夜ー。
 バカ騒ぎのうちに飲み会も終わり、各班ごとに���っそりと部屋に集まって二次会が始まる。ビールの本数が増えるに従って、歌が出る。かわるがわる歌う員の歌声をバックにして、俺も奴も仲間たちも、この三カ月間の訓練をいろいろ思い出していた。苦しかったことしか浮かんでこない。
でも、俺たちはその中で同期愛ということを学んだ。
 いつのまにかみんな寝てしまっていた。もう外は白みかかっている。
 突然、俺の寝ている毛布に奴が割り込んできた。肌がふれ合う。奴の匂いがする。すぐいびきかく。でも、なんとなく手が出せない。チラリと下を見る。パンツのすき間から、奴の半立ちしたものが見える。そういえば、いつか俺も言われたっけなあ。
「島さん、立ったチンポぐらいしまって寝てろよナ。思わずさわりたくなるだろが!」 
 奴が不寝番をやっていた時見られてしまったようだ。まったく助平な奴だと思った。でも俺のほうが助平だったりして。
「俺、眠ってる時って何されてもわかんねえんだよなあ」
と奴がカマをかけてくる。
「バーカ、もうやっちゃったヨ。でも1万円のダッチワイフのほうが気持ちよかったぜ」
と俺。してやられたというような奴の顔。
 そんなこと思い出しながらいいチャンスの中、俺も寝てしまった。
<前期教育終了日>
 再会をめざして頑張ろう
 とうとう、今日という日が来てしまった。
 俺も奴も違う部隊へ行ってしまう。場所も離れているので、顔も見られなくなるかもしれない。両手で握手をして別れた。
 遠くでいラッパが鳴っている。戻は出なかったが、心で泣いてしまった。ありがとう、リスの目をしたパワーショベル、勝見次郎よ。日に洗けて埃にまみれながら走り続けた道を、ふり返りながら前を行く。奴だから、今日まで.....。
そして今…
 新隊員後期教育が始まって1ヶ月半。前期教育から一緒に教育を受けている北村二士が手紙を見せてくれた。勝見二士と同じ部隊に行った高田二士からだった。
<あ、そうそう、この間の手紙に島さんが夢精したって書いてあったネ。あの文、勝見二士に見せたら、「まいったなあー」って口ではいってたけど、ニヤニヤしてたぜ。島さんに会いたいって伝えといてくれとのこと>
 俺も奴に会いたい。こんど会うのはいつのことだろうか。
「士、別れて三日を経たるは刮目して待つべし」
お互い、目をみはる再会をめざして頑張ろうじゃないか。人は出合いと別れを通じて成長するのだから。
 そして後日談…2024年
 題名「遠くで突撃喇叭が」は第二書房が付けた題名。
 原題は「遠くでラッパが」である。今どき戦闘訓練で突撃喇叭なぞ吹かない。この時代の薔薇族には戦記物を書ける文字通り百戦錬磨の先輩がたくさんいたから仕方ないが、俺の指したラッパの音は毎日部隊で鳴らされる国旗掲揚、国旗降納のラッパである。
 勝見二士(仮称)は俺が見込んだとおり自衛隊員募集パンフレットの表紙を飾った。
残念ながら2任期(4年)で退職。
再会は果たせなかかった…親父の後を継いで海に出たそうだ。
新隊員当時の写真。小説に出てくる面々。
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 その他の隊員と再会したのは地下鉄サリン事件。不幸な事件であったが、それぞれが一線で任務についていた頼もしさを感じた。
 もちろん俺も新隊員の教育をする先任陸曹になった。
 その後俺も2等陸曹で依願退職。約15年の自衛隊生活を終了。鳶職となり予備自衛官で約10年、1曹まで務めた。
 2024年現在、自衛隊に残った同期たちは全て定年退官している。
 俺を薔薇族、さぶに引っ張ってくれた木村べん氏も他界された。
 読んでもらって分かる通り、肉体関係は無くとも男同士の愛情はある事への感動を自衛隊で得ることができた。
 職務上死の覚悟を要求される世界。
 その感動をセックス描写のない小説でも構わないからと木村べん氏に書いてみないかと言われて作ったのがこの作品。
 べん氏に銃を持つ手ではイラストは描けなくなると言われて、好きなメカ画も共同で作品表紙等で書かせていただいた。もちろん最初で最後。ben &tetsuは勉&(鳶)徹って言うこと。
 文中漢数字が多いのは縦書きの影響。
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「遠くで突撃喇叭が」掲載誌表紙
もう一つ参考にしてさせていただいた本。
1974年芥川賞受賞作品「草のつるぎ」
実はエロ度こちらの方が数段上。戦闘訓練の打ち上げで全員でセンズリこくシーンがある。実話だからノーカットなんだろう。
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kennak · 2 months
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そのじいさんが亡くなった。 昨年に父が亡くなり、私の実家は車を処分したので、実家に帰省するときはレンタカーを予約する。この連休もそうした。 安いので、地元の自動車修理工場がフランチャイズでやっているインディーズ系レンタカーにしてみたら、受付してくれた事務の親切な女性は、レンタカー約款を読み上げる間中修理工場から爆音で流れてくる演歌のUSENに向かって突然「ああうるさいっ!」とブチぎれ、「あなたもうるさいと思うでしょう!?」と私に同意を求め、同僚に修理工場につながるドアを閉めさせると、「最後に乗っていたのは平成15年式のbB(みんなの地元のDQNがよく乗ってたやつ)です。令和になってもまだ乗ってました」というある意味SDGsでは? みたいなことを平気で言う私に、令和2年式フィットハイブリッドという、まさに隔世の感というほかない車の操作方法をとても丁寧におしえてくれた。 そんな調子で車を借りて帰ったところ、母に、「同じ町内会のじいさんと私を、車に乗せて買い物に連れて行ってほしい」と頼まれた。 正直、ちょっと嫌だった。母はよく知っている人に違いないだろうが、私はそのじいさんをほとんど知らない。まさにあいさつ程度のイチゲンじいさんであり、むこうも私を同じように思っているだろう。そのイチゲンじいさんを車に乗せて買い物に行く…気が重い。万一大事故になったらどうしよう、面倒だなあとか、そもそも知らない人が苦手…などと種々のことが頭をよぎったが仕方がない。年齢的にも立場的にもそんな子どもじみたことは言ってられないので、私は母の申し出を受け入れ、じいさんと母を買い物に連れて行った。母には一瞬「ええ…」みたいな顔をしてしまったが、じいさんの前では全力の快諾顔を心がけた。 実家の所属する町内会は、会の中でまた数ブロックにわかれているらしいが、母らのブロックだけ会費が余りがちのため、いちど寄合(=飲み会)でぱっと使おうということになったそうだ。じいさんはブロックの会計掛で、だから買い出しにゆくとのこと。90代のじいさんが町内会の財布のひもを握る、これが種々の法律の目的条文に言うところの「少子高齢化の進展」ってやつだなと思った。なお、飲み会の予定は明日とのこと。何もかも急だ。 母とじいさんは、かごいっぱいに酒やつまみを入れた後になって、急に予算に収まるか心配しだし、その場で減らそうとするので、「レジ通して予算越えた時点で減らしてもらったらいいですよ」と私は横から口を出した。買い物は予算ぎりぎりにおさまっており、母は、じいさんのことを「さすが!」と謎にほめ、じいさんもまんざらでもなさそうだった。 じいさんは先述の通り90代、母は70代なので、畢竟ひとり30代の私が荷をせかせかとトランクに積み、これで一安心と思いきや、ついでに寿司の予約にも連れて行ってほしいというリクエストが出た。一瞬「マジか…」と思ったが、乗り掛かった舟というかもうすでに乗っている船なので、ニコニコ笑って「いきましょう!」とうけおい、ナビに寿司屋の住所を設定して寿司屋に向かう、その道々、寄合は公民館ではなくじいさんの自宅でやることになっているという話になった。 じいさんは、「もう暑いから、たくさん人が入るとエアコンを入れないといけないかもしれない」と言い、私は「電気代とショバ代として、今日買った酒の数本くらいご自身で晩酌にされても罰は当たらないと思いますよ。余っても最後みんなで分けちゃうんでしょうから、今日先に飲まれたらいかがです? あ、私は絶対誰にも言いません」と真顔ですすめ、それをきいた母は助手席で、じいさんは後部座席で笑っていた。 寿司の予約がすんで車にもどったところで、私はじいさんに「ほかに寄りたいところはないですか?」ときいた。じいさんが大丈夫というので、家まで送っていき、大量の酒を玄関通り越して冷蔵庫の中までわっせわっせと運び込み、私はようやくそこでお役御免となった。 じいさんの家の下駄箱の上には「努力」と彫られた大きな飾り駒があった。それは木工をしていたじいさんが昔手ずから彫った工芸品だそうで、「努力」と書いた将棋の駒というまんがみたいな一品を掘れる人がこんなに近くにいることに、私はいたく感じ入ってしまった。マクロ組めるより努力って掘れるほうがぜんぜんいいな。 そしてその三日後、飲み会から数えれば二日後に、じいさんは亡くなった。布団の中で亡くなっていた。連絡がとれないことを案じた親戚がすぐにかけつけ、発見ははやかった。 その日にはもう私は実家から婚家に戻っていた。母から送られてきたLINEでじいさんの突然の訃報に接し、文字通りの突然の訃報ぶりにひどく衝撃を受けたが、母はLINEに「まあ~おとしにふそくはないでしょう」(原文ママ)とも書いて寄越し、その意外なドライっぷりにはちょっと笑ってしまった。 そうして私は、じいさんを買い物につれていくことを快諾し、道中ずっとにこにこして、精一杯ふたりを手伝ったことを、本当によかった…と思った。じいさんのために、というか、自分の精神衛生のために、よかった。すげなくした直後に死なれたら、すげなくしたという自己責任(良心の呵責と言い換えてもいいかも)を背負いきれない程度にはショックだったと思う。 それに、連休のよく晴れた日に、ちょっと妙な三人組ででかけたその買い物、なんだか私には結局楽しく思われたから。 死ぬということが、生きるということから決して遠くはなれてはいないように、死んでしまった人たちもまたそうである、と私は思う。つかずはなれず、なんとなく私の歩様にあわせて、今も隣を歩んでいるように思う。 最初に私をかわいがってくれた人を亡くしたのはまだ私が赤ちゃんの頃、母の親友のお母さん。とても愉快な人で、父との結婚を迷っていた母に、「母(はは)ちゃん、馬には乗ってみよ、人にはそうてみよ、よ」とはげました。そのうちこの世にやってきた私は、母以外の人に抱っこされると、せっかくやってきたこの世の終わりのように泣き叫ぶタイプの赤子だったのに、その母の親友のお母さんにだけはごく機嫌よく抱かれていた。そういう写真が残っている。私は、物心もつかないうちに、おしゃべりもできないうちにお別れした、母に伝えきいただけで自分では何にも覚えていない彼女のことを、いつもお守りみたいに心の中に持っている。赤ちゃんだった私に向けられたその無償の厚意を、つらいときの糧にしているようなところが今もある。 最初に友達を亡くしたのは小学一年のころ、友達は前歯が抜けていて、永久歯が生えてくる前にいってしまった。その子のお母さんは今になっても私に会うと、生きてたらあの子もこんなふうだったのかと思うという。私の節目、節目に、そう思うという。そのとき、友達がわたしの隣にいないという人はきっといない。 父親は私のことが大好きだった。父と母と私の三人で、あるいは父と二人で、父の運転する車でいろいろなところに出かけた。ときには父にさそわれて、その仕事についても行き、こんなに大きな娘さんがいるのと客先に驚かれ、父はにこにこしていた。 父は死ぬ間際までほそぼそと仕事を続け、わたしは彼が亡くなる直前にアポをとっていた客先の数件に、父が亡くなったことを知らせる電話をかけた。はじめて話をした先方は、私が電話をかけてきたことによほど驚き、父が亡くなったとの知らせにしばし絶句した後、あなたのことを先生はいつも自慢そうにしていたと言い、最後には先生がいなくなったら誰を頼みにしたらいいか、本当にお世話になりました、と泣き出した。私は、涙する相手に、○○さんのおかげでほんとうに最後の最後まで誰かの役に立たせてもらって、惜しんでまでもらえて、父はとても誇らしく、ありがたく思っていると思います、と言うしかなかった。でも父は、実のところ、そんなに殊勝な人間でもない上、けっこう変わってるよなというレベルでこだわりの少ない人でもあった。 父が亡くなる直前までLINEをやりとりしていた人たちに、そのままLINEで父の逝去を伝えようとしたのだが、父はLINEのトークをある程度の期間が経つとかならず全削除するという、こだわりのなさを通り越して、ややサイコパスのような一面をもっていた。 亡くなるひと月ほど前、父は、免許を返納することにしたというLINEをわたしに送ってきた。車というものは私たちの思い出の多くを占めており、驚いた私が父に電話をかけると、「薄暮の時間帯に信号の見落としをした。今まで一回もそんなことはなかったんだから、もう潮時だと思った」と淡々と父は言った。あれだけ運転が大得意で、大好きで、アイデンティティの大部分をしめていたように見えたのに、引き際を悟ればもうしがみつない。その、ものに拘らない姿勢に私はいたく胸を打たれたし、これができない老人が多い以上、今もって、父の最も尊敬すべき美点の一つだとおもう。 ただ、電話を切ったあと、今までいろいろなところに連れて行ってくれて、たくさんの送り迎えをしてくれて本当にありがとう、と万感の思いをこめて送ったLINEも、父が、入院後(退院してくることはなかった)母とかわしあった感謝の思いを伝え合うLINEも、亡くなった時には父はすべて消しており、それを見て、私も母もあまりの父らしさに爆笑した。 (ついでに、父が亡くなる前々日まで、もはや執念のトークの削除を行っていたので、トークルームのどのあたりの人たちにまで逝去を伝えるトークを送るべきか見当もつかず、非常に頭を悩ませることになった) そんな感じの人だったので、この世に未練というものがあったとは到底思えない。退院の手筈を整え始めていた日の深夜の3時過ぎという、家族がやや油断している上に一番身動きしづらい、マジでどうしようもない時間にいきなり息を引き取ったため、父の死に目にあえなかった母。父の逝去からしばらくして、急に「お父さん、最後に私に言いたかったことなかったんやろか」としんみり言い出したので、私は反射的にげらげら笑って「あるわけないやん」と言ってしまった。死ぬ間際まで律義にLINE全削除を続けた男にそんな情緒があるとはちょっと思えなかったのだ。母もすぐにげらげら笑いだし「そうやね」と言った。 こんなふうに父のことを思い出しているとき、私はやっぱり父がすぐ側にいるように思う、フロアシフトを挟んだスカイラインの、運転席と助手席くらいの距離のところに。 生まれてから今日にいたるまで、誰かの死はいつでもそばにありつづけた。だから死んでしまった人たちも、同じようにいつでもそばにいるように思う。 生きてとなりにいる人のように声をかければ答えるわけではない、電話をかければ出てくれるわけでもない。そうだったとしても、生きている人とはほんの少しちがう居方で、それでもわたしのとなりにいてくれているのではないか、と、わたしはいつも信じる。 じいさんは、私が買い物に連れて行った翌日の飲み会の日、つまり亡くなる三日前、近所に住むばあさんに、私のことを「車に乗せて買い物に連れて行ってくれた。あの子はとてもいい子だ」と言ったそうだ。 それを近所のばあさんから母は伝えきき、今度はわたしにそれを教えてくれた。じいさんがそう言ってくれたから、近所のばあさんは私に「会ってみたい」と言っているらしい。 ありがとうじいさん。よくわかんないけどばあさんも、私に会いたいと思ってくれてありがとう。会おう。 私は今、私に会いたいと思ってくれる人がいるなら、その人にとても会いたい。だから、次の帰省のときには、私は近所のばあさんに顔を見せに行くつもりでいる。 私の目にうつり、私が今生きている世界は、そのときには隣に、近所のじいさんがどうしたっていてくれる、そういう世界だ。
実家の近所に住むじいさんを車に乗せて買い物に連れて行った三日後
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ari0921 · 5 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)5月2日(木曜日)
   通巻第8236号 
 コロンビア大学占拠組に学生は少数、プロの活動家、外人部隊が大半
   悪名高きリサ・フィシィアが扇動。米国分裂の前衛部隊が政治演出を狙った
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 極左活動家に占拠され器物を損壊されたコロンビア大学のハミルトンホールにニューヨーク市警冊が突入、およそ百名の活動家を逮捕した。
場外で扇動していたのは悪名高きリサ・フィシィア女史(63歳)。「われわれは99%」と叫んでウォール街占拠事件なども彼女が扇動した。
現在の米国分裂を作り出した前衛部隊の活動家である。
 アメリカの世論は換わった。
 7月の共和党大会の焦点はトランプが『副大統領』に誰を指名してチケットを組むか、である。WOKE批判の人間が選ばれるだろう。
ニッキー・ヘイリー元国連大使が予備選撤退の際にトランプを支持しないで、トランプ陣営から離れたため、彼女の副大統領指名の可能性は薄らいだ。
というのも軍需産���とウォール街の幹部でなりたつ共和党主流派はトランプに非協力的であり、現在もこれからもトランプは支持者だけの孤軍でたたかう姿勢にある。
 となると最有力の副大統領候補はトゥルシー・ギャバートに絞られてきた。
第一に女性であること。第二に少数民族出身という条件をみたしており、第三に有力視される材料とは彼女が民主党幹部だった「履歴」、第四がイラクで戦った『軍歴』である。
 彼女は最年少でハワイ選出下院議員、2020年には民主党の大統領候補予備選にでた。またヒラリー・クリントン批判で知られる女傑。されど美人。難点がもしあるとすれば、彼女がヒンズー教徒を信奉するインド系であることだろうか。ちなみにニッキー・ヘイリーもインド系である。
トゥルシー・ギャバードの新著『国を愛するために』が4月30日に発売され、たちまちベストセラーとなった。
彼女はこう書いた。
「無駄な時間はもう無いのです。私たちの国は激しく分裂しています。共和国として、労働組合としての私たちの将来は暗い。騒音、狂気、暗闇。。。多くを締め出してサーフボードで海に漕ぎ出したり、山にハイキングに出かけたりして、母なる自然の平和と雄大さを味わいたい」
 つづけてギャバートは、なぜ民主党に絶望したかを語る。
「狂気が消え去ることを期待して目隠しをして生活を続けるには、あまりにも多くが危険にさらされています。私たちが立ち上がって、この国を破壊しようとしている人々に、私たちの政府は国民の、国民による、国民のための政府であることを思い出させない限り、立憲民主主義に対する狂気と脅威は消えることはなく、増大するばかりです」
 ▼アメリカはどうしてこうなったのか?
ギャバートは続ける。
「私が2002 年にハワイ民主党に入党したのは、当時、国民のための言論の自由を尊重し、参加者全員を大きなテントに歓迎し、多様な意見や意見を共有する政党のように見えたからです。第二次世界大戦中、隣人や友人たちが日本の強制収容所に放り込まれ、一瞬にして自由が奪われたことを思い出しながら、市民の自由と権利のために闘う政党だった。それはJFKとマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師に触発された政党でした。アメリカ人として団結すれば何が可能になるかを示してくれました。その党はもはや存在しません」
エセ民主主義の偽善者が民主党のエリートだと批判が続く。
 「民主党はあらゆる問題を人種差別化することで私たちを分断し、反白人人種差別を煽り、神から与えられた自由を損なうために積極的に活動する、卑劣な『目覚め』(WOKE)に煽られた『戦争屋』の「エリート主義陰謀団」の完全な支配下にあります。
憲法に明記されており、信仰と精神を持つ人々に敵対し、警察を悪者扱いし、法を遵守するアメリカ国民を犠牲にして犯罪者を保護し、「安全」だと主張しながら国境を開いたままにし、国家安全保障国家を兵器化して、政敵の追撃、そして何よりも日を追うごとに私たちを核戦争に近づけています」
 激越な批判である。
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tomoya-jinguuji · 7 months
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天壌無窮の皇運を扶翼すべし
3月 14, 2017
FBに短文を投稿しようかと思ったけど、ここは一発話題の教育勅語を考察してみようか。 12の徳目が素晴らしいから教育勅語は正しいんだという論調は全く問題ないんだが、教育勅語が気に入らないと言っている人達が一番気に入らないのは 「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」 ここでしょう? ここを論じることなくしては、議論にならないわけだ。 正面突破しようか。 この一文の前にある 「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」と繋げて 「国が危機的状況に陥ったら自らを犠牲にして天皇陛下のために死ね」 と訳して、軍国主義だ〜〜〜とやるわけだ。 「一旦緩急あれば」はまさしく「国の」とは明記していないものの、確かに「危機的状況」には違いない。 「義勇公に奉じ」はもちろん「勇気を持って公の為に尽くしなさい」となる。 「以て」それにより 「天壌無窮の」天地に永遠に続く 「皇運を」後に回す 「扶翼すべし」助けなさい。 ここで皇運をどう捉えるかが問題だ。 皇=天皇陛下と捉えれば 皇運、即ち陛下の運、運命ないしは皇室の運という事になる。 ************ よく考えてみてくれ この教育勅語は 「朕おもうに我が皇祖皇宗「国」をはじむること広遠に 徳をたつること深厚なり」 皇祖:天照大神 皇宗:神武天皇以降歴代の天皇 は、遠い昔に日本国を建設され、代々その徳は深く厚いものだった。 つまり「国」を語るところから始まっている。 そして以下のように続く 我が臣民(略)億兆心を一にして代々(よよ)その美をなせるは これ我が国体の精華にして教育の淵源また実にここにそんす 日本国民は全国民心を一つにして代々その美しさを体現してきたのは、これはこの国の在り方そのものが発露したものであって、正に教育の根がそこにあるのです。 となる。 その後12の徳目が列挙されるわけだが、 なぜ国家を語るところから始まって 一旦緩急あれば、の段に突然天皇陛下お一人のことに話が変わるのか。 全体を読めば「天皇のために死ね」と解する事のおかしさが分かる。 この場合皇運とは皇国の運命と訳すべきで有り、即ち日本国の運命という事になる。 よって「緩急」とは単なる危機的状況ではなく 国家を揺るがす一大事に於いては、と訳すべきで有り、 義勇公に奉じ:その際には自らを顧みず皆のために全力を尽くし、 これをもって 天壌無窮の:天地に永遠につづく(べき) 皇運を扶翼すべし:日本国の運命を助けよ。 となる。 陛下だけ守って国民が居なくなれば、これは国ではなくなる。 公に奉じておいて、陛下だけの運命を守れ、では辻褄が合わない。 6年前の東日本大震災のおりに自衛隊の方々は、自分たちも余震に脅かされいつまた周辺の瓦礫が崩れ自らも二次被害に遭うかも知れないという状況にありながら、必至に行方不明者の捜索を行い、一人でも多くの被災者の命を救おうとしてくれた。 もちろん先の大戦の折にも、硫黄島に向かった兵士達は自らが生きて帰って来れないことは重々承知していた。しかしながら硫黄島が獲られればそこから本土に空襲に向かう爆撃機が飛び立つことが出来る事も知っていた。だからこそ、彼らが一日でも長く抵抗することが本国の愛する家族を守ることになる。だから5日で占領出来ると考えていたアメリカに対して1ヶ月以上も粘り続ける事が出来た。 昨今日本の道徳心が低下した等と言われるが、私は、日本人の心は根底では変わっていないと思っている。 話がずれた。 ************************* 皇運=日本国の運命 を理解するためには、そもそも天皇陛下と我々臣民(国民)との関係を理解している必要がある。 仁徳天皇の民の竈の話は有名だ。 日本独自の伝統~仁徳天皇 詳しい内容は上記リンクに譲る。 臣民(国民)の竈から煙が出ていない、すなわちご飯が食べられていない事を知り、年貢の徴収をとりやめた。おかげで皇居に雨漏りがするほど貧しくなってしまった。この事を苦にした皇后陛下に対し 臣民(国民)が貧しいことは自らが貧しい 臣民(国民)が富めるときは自らも富んでいる と答えられた仁徳天皇。 そして、竈に煙が戻り充分食べられるようになった人々は、 陛下の心に答えて自ら集って皇居を治した。 という話。 この話が事実かどうかは些末な問題だ。 それ以上に1300年近く前に編纂された日本書紀に書かれたこの話が、以降1000年以上の長きにわたって日本で語り継がれ、模範とされてきた事実が重要だ。 日本に於いて天皇陛下と我々国民の関係は、互いにその幸せを願い、助け合う存在だという事。時に人はこれを親と子になぞらえて語る。 陛下は国民を「たから」とよび我々は陛下を敬う。 この陛下と国民との関係を理想として、我々はこの国を代々継承してきた。 この関係は住民を自らの富のために搾取してきたヨーロッパの王の姿とは大きく異なる。結果フランスでは革命が起こり王が処刑される。 時にそのような理想的な天皇陛下に恵まれなかったことも歴史の中にはあったかも知れない。 それは正に夫婦と同様、仲むつまじい夫婦という理想を追いかけながら、現実は夫婦喧嘩もし、日々の様々な問題を乗り越えていく。 同様に、陛下と我々国民の間も長い歴史の間に於いて理想通りに行っていない時期もあったかも知れないが、それでも理想的関係を模索しながら切磋琢磨してきた歴史なのではないだろうか。 そう考えると、現代の我々国民のありかたは、はたして理想的姿を体現出来ているのか、幾ばくかの疑問が残ることを否めない。 また話がそれた。 天皇陛下の国民への思いは今も変わらない。 国民に知ってほしい陛下の祈り 詳しくは上リンクに譲るが、陛下は元旦早朝より日本の国の平穏を願い祈りを捧げる。 また、毎日祈りを捧げてから一日を始められるそうだ。 国民の平和と繁栄を第一に思う陛下だからこそ、日米開戦に最後まで反対されたのは他でもない天皇陛下だった。 大東亜戦争開戦前の御前会議 上リンクより引用
昭和16年9月6日、日本は昭和天皇の前で御前会議を開きます。その席で昭和天皇は、「外交が主か、戦争が主か」と閣僚たちに尋ねられました。及川海相が「重点は外交にある」と答えました。すると昭和天皇は、懐から紙片を取り出され、御自らお詠みになられた。 よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風の たちさわぐらむ四方の海は、みんな同じ人間、同じ家族であり兄弟であると思うのに、なぜ争いの波風が起こるのだろうか。そう詠まれたこの歌は、明治天皇の御製です。昭和天皇のこのお言葉に、列席した閣僚たちは、全員、ただうなだれるより言葉がなかった。しばらくの間、誰もがうつむき、言葉を発する者さえなかった。
そして終戦を決断出来なかった政府に、終戦の聖断を下したのも陛下だった。
「迫水久常の手記」(終戦時内閣書記官長)天皇の聖断で受諾した“ポツダム宣言”
上リンクより引用
そして、いまにして思えば、終戦ができたのも、一に天皇陛下の御仁徳のおかげであった。陛下の真のご信念はいつも平和にあった、ということを、私はそのときほど強く感じたことはない。戦争終結の動機も、実にそのご信念から発したものであった。
陛下は常に国と国民の平和と繁栄を望み、その為に祈っている。 だからこそ我々は陛下のため、即ちこの国のため、この国に住む家族全ての同胞の為に資力を尽くす。 これを君民一体という。 これが理解出来れば、 皇運がすなわち我々全て日本に住む国民の運命だという事が容易に理解出来るはずである。 ******************* 最後に教育勅語のそもそもの在り方を好く現していると思う末尾を語って締めくくろう。 この道は(略):即ち12の徳目 古今につうじて謬(あやま)らず:昔から今に至るまで変わらないことで 中外にほどこして悖(もと)らず:外国の人達に伝えても正しいことです。 「朕汝臣民と共に拳々服膺して みなその徳を一にせんことをこいねがう」 私は、あなた方国民と共にこの正しい道理(12の徳目)を両手で大事に抱くように大切にしします。だから我々みながこの徳を一緒に体現していくことを願ってやまないのです。 教育勅語を支配者である天皇が従属者である国民に対して、あたかも命令のように下したものであると主張する旨が如何に根拠のないものか、この最後の一文を理解すれば良く分かると思う。
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manganjiiji · 4 months
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けれんみの日常
英語の日記などもtumblrではよく流れてくるのでなんとなく読むが、私は英語で日記を書こうとは思わない。それは私の技術が未熟で、まだ英語のリズムやメロディを自分の好きなように操ることができず、楽しくないからである。そのくらいには日本語のリズムとメロディ、そして見た目が好きである。英語でもそれらを好きと思えたら、書けると思うのだが。見た目は結構好きである。とくにアルファベットの小文字。リズムがどうしても全然まだ魅力的に思えない。そう言いながら英詞のジャズを歌っているのだが、音楽は音楽に言葉が乗っているから、言葉自体のリズムは死んでいて、そこはもう関係がなくなっている。音楽にのる英語は、ただ母音が伸びるとか、同じ音で韻を踏むとか、そのへんは日本語と変わらない。そうではなくて、読み言葉としての英語のリズムにまだ魅力を覚えない。英語の詩にふれてみたらどうか、と思ったこともあったが、根本的に「かっこよすぎる」と思ってしまう。シャラシャラしている(子音が多いということだと思う)。私はもっとべちゃっとした土っぽいのが好きなので、結局日本語を使うということになってしまう。英語以外の様々な言語のどこかには好きな言語もあると思うのだが、英語を学ぶキャパシティしか今のところない、というか、英文法がおもしろくて好きなのである。これは日本語にはない感覚。日本語の文法なんか全然おもしろくない。文法と呼べる文法なんかないのではと思えてしまうが、これは母語だからだろう。英語の文法はなんてシステマチックで、構造的に美しいのだろうと感じる。その美しさの中にも土着の歴史の古臭さや面倒くささがあり、そこがまたロマンだ。詩的言語としては私は英語を好まないが、批評や論じる際の言語としては、限りなく知性を感じて好きかもしれない。日本語は批評や論文でも、ある程度詩的でないと読む気がしないので、これは大きな違いだ。言語が違うだけで自分の好みも変わってくる。それとも私は文学ではない英語の文章にこそ(そしてできるだけ文法が複雑な)詩を見出しているのだろうか。なににしろ私の体は詩情でしか動かないようになっている。
短歌も詩も書きたい、書いてみたい、小説も書きたい、という気持ちはあるが、書くための好奇心がいま批評の文の方に向いている。私は文学の方向に向かう時はある程度その位相に没入しないと書けないので、そのモードに入るのに苦労するが、批評系の文章であれば日常のモードのまま書けるので楽である。書けると言っているが、別にこれもまだ書いていない。書くためのネタを毎日必死に考えているという感じです。宇野常寛さんの講座に入ってから、とにかく毎日頭の中がドライヴしていて、こんなこともあんなことも結びつくかも、いや、これはこうか?など、楽しく考えている。今日は気圧の低下と疲労により1日寝てしまったし、三宅香帆さんの教養講座も横になりながらスマホで視聴するという体たらくだったが、『娘が母を殺すには?』の良い導入を聞けた(実際には結論までお話されていた)。早く読みたいが、今月はもうお金を使いすぎなので、欲望のままに本を買うのはやめた方がいいと思う。読んでいない本(特に小説)が積まれたままじっと待っている。町屋良平『生きる演技』はかなり早く読みたい、と思って毎日開こうとはするのだが、そこまでたどり着けない。やることが…やることが多い!いしいしんじ『マリアさま』、凪良ゆう『汝、星のごとく』など、積んでいる。井戸川射子『共に明るい』は途中だし、絲山秋子『神と黒蟹県』はどこに積んだかも忘れている。エーリッヒ・フロム『愛するということ』新訳、沖縄の少女たちのノンフィクション『裸足で逃げる』は早めに読み終わっておきたい。
今日の講座で三宅さんが『母という呪縛 娘という地獄』にふれていて、私も読んだが、正直虐待を受けた子供の末路で、こうなるしかなかったと本人も言っているように、たんに被虐待児の被害の果ての結果でしかなく、なんの新鮮味もないと感じた。虐待問題を長く考えたことのある人にはこれは虐待の当然の過程と結末であり、そこに母娘の特異性などは見いだせないのではないかと感じていた。ただ、虐待を受けたことがない人はここに新しい視点を持ち込めるのだろうなということは想像できる。そこで、じゃあこの虐待を受け続けていた本人が加害者である母を殺さずにすんだifがあるとしたら、それはどの時点でどう行動すればよかったのか、ということを考えてみようか、と少し思った。虐待を受けた人間でも、親を殺さずに逃げ切った人は多い。そういう人と、親(加害者)を殺してしまった人との性質の違いや、分岐点となる考え方や受け止め方の違いは存在するのか、ということを突き詰めていけば、虐待を受けてもその心を守ったり、被害を少なくしたまま逃げ切る方法も出てくる可能性があるのではないかと考える。虐待を受ける立場に生まれてしまったら、基本的には逃げ切るまで虐待は続く。誰も助けてくれない。日本の法律や制度がそうなっていないからだ。助けてもらえる人は0.03パーセントくらいの人口と思っている。つまり、多くの子供たち(年間11万人)が、家庭の中で痛めつけられながら、生き延びていかなくてはいけない。それもできる限り自分の心を守りながら。虐待の問題は、社会の問題ではなく、こうして個人の問題へと矮小化され、それも被害者である「子供」の独力での防衛を支援することでしか、親権が有効である限り、コミットできない。というかこれはコミットと言えないと思うが。虐待を受けるとその後成人して逃げられても、精神に大きな不均衡をもち、社会に上手く適合できずに苦しみ続けるし、虐待を受けていた子供のうちに、大人により適切な場所へ逃がしてもらうことが一番である。そのことは揺るぎない。しかし、繰り返すがそのような法律や制度はない。あっても、ほとんど機能していない。多くの子供は助からないまま、傷ついたまま、安全に眠れる場所がないまま成人する。だからもう、虐待を受けている子供に対して、こういう時はこう考えて心を守るんだよ、と伝えることしか現状できることがないと思っている。1人でも多くの子を物理的に救えたら、と思うが、それをしつつ、多くの救えない子供たちに防衛方法を少しでも伝えることが今できる精一杯だと思う。防衛方法とは何か、というと、そんなものはない、となるかもしれないが、とにかく考えていくことはやめずに生きていきたい。
両親と兄の存在には苦しめられ続けたが、私は両親と兄が心から大好きだった。そういう子供だった。そのぶん打撃は大きく、そのせいで傷が大きくなってしまった。自分を害する人間を愛してはいけない。しかし、一体だれが、自分が誰かを好ましく思うことを、止められるだろうか?それはコントロールできることなのだろうか。好きだと思う気持ちを捨てることは、特に子供には、かなり難しい。私は親や兄に何をされても相変わらず彼らが好きだったが、それではいけないのだと唐突に気づいたのが思春期である15歳のときだったため、その際の混乱と大きな絶望、ショックなどで重いうつ状態をその後10年続けることになる。それからさらに10年が経った今、かなり症状は軽快している。治療と、人間的成長によるものだ。生きていれば必ず人間は成長せざるを得ず、傷は治らざるを得ない。だから私は友人たちになるべく自死せず、一日でも長く生きてほしいと伝えている。そうしたら幸せになれる可能性が高まる。幸せになれない可能性は依然として大きいが、幸せになれる可能性は生きれば生きるほど大きくなる。スタートがマイナスだった者たちは、この理論が適用されると信じている。スタートがマイナスでなかった人達にはどのような人生観があるのか、私には全く分からない。私は生きれば生きるほど人生はよくなっていく、と感じているので、老いや死への近づきを悲しむ心がない。顔が老けるのも、自然で、抵抗するようなことではないと思っている。生きれば生きるほどよくなっていく。25歳で治療を受けてからのこの感覚は、私が生きるのに大きく、善く、貢献している。生きることの難しさはおのおの、さまざまあると思う。私はもう無い。いちばん苦しかった時はもうとっくの昔だし、その頃の生きづらさ、脅威がないというだけで、とにかく無法に幸せである。自分を害するものがいない空間、時間、それらを噛み締めている。だから(親や兄と離れて)生きているだけでかなりの幸せを感じる。お得なことかもしれない。
しかし小さい頃に夢見たことの不達成ということは、なかなか苦しめられる瞬間がある。好きな人と付き合ってみたかったとか、家庭を持ちたかったとか、子供が欲しかったとか、高校や大学で好きなだけ思い切り勉強してみたかったとか、仕事でキャリアを積んでみたかったとか、そういう、「普通の人」がやっているようなことだ。それらが自分には与えられなかったと感じる時、途方もなく悲しくなる。過去と比べて相対的に今は幸せだが、絶対値としては、私は私の夢をあまり叶えられなかった。それでも、毎日本を読んだり、文を書いたり、文章の講座を受講したり、好きな場所でつつましく働いたりして、日々を楽しんでいる。なによりも、いつも勇気づけてくれる友人がたくさんいること。私は友人たちに囲まれてさえいれば、それでとくに不満はない。「してみたかった」の希望を上げればきりがないが、そんな無意味なことをしてもただ傷つくだけで無為だ。できてよかったことやこれからやりたいことだけを毎日考える。私たちはまだまだこれから生きる時間が残されている。やりたいことはたくさんできるし、本当に生きていて良かったと思う。
同時に、できるならもうこの生を終わりにして楽になりたいという気持ちもある。これ以上生きても、もちろん世界の足しになることはあるだろうが、この体力の低さと病気を抱えて、何も達成できないままでずるずると生きることは、時に拷問にも感じる。そう思うのは生きているうちのほんの一瞬だが、ああ、今死ぬことができたら、と思うことは全然よくある。地震の揺れを感じるたびに、地震で死ねたら楽なのになあ、と思う。これはネガティブというより、ただの「疲れ」なのだ。この「疲れ」の感覚を持っている人には、私は帯同を感じてしまう。
なんだかずっと被虐待児の話をしてしまった。あんまりそういう事を言うのもな、と思ってはいるのだが、考えていると結局全部そこに行き着いてしまう。私が救いたいのは彼らだし、正直彼ら以外のことはどうでもいい。他の人は他の人でいろいろなことに心を痛めたり活動すればいいと思うが、私がそうする先は、いつも決まっている。幼少期から虐待を受けて、死ぬ事もできずに成人して生きてゆくことが、この世でいちばん辛いことだと思っている。これは多くの、苦しんでいる人々を見てそう思うということで、私が苦しんでいるわけではないので大丈夫です。私は病院とカウンセリングに通い、それなりに安定した人生を送っていますので、自分が社会に恩返しする番だというか、とにかく「助けなきゃ」という思考に捉われがちであります。
今考えているのは、被虐待児のための、自習スペースの提供。とにかく家(危険な場所)以外に安心して過ごせる場所、勉強ができる場所をつくり、そこで1秒でも長く過ごしてもらうしかない。心は壊れる。壊れるとしても、壊れきらずに上へ向かおうとする子だけでも支援したい。本当は全員救いたいが、まずは勉強で身を立てる被虐待児の数を増やすことで、社会に虐待問題に理解のある人口を増やす。そうしてしか、法律や制度は変えられないと思う。
それとは別に、私には本屋を続けるという夢がある。ゆくゆくは自分が店主になって店を構えたい。雇われの正社員がいかにつらいかは、いままでの店舗でいやというほど見てきている。私は知性と教養のための本屋をひらき、この社会をよくしようとする人を1人でも増やしたい。チェーン店の雇われ店長では、それをするのは難しい。大きな会社は利益を出すことが最優先だから。その利益で、たくさんの人を食わせている。そこに否やはない。ただ私の目的はそこにはない。売れる本を置いて人々の知性を下げるのではなく、本屋がどんどん人を育てていく。そういう場所を作りたい。そこはさらに学際的な場所であってほしい。なんなら貸本屋でもいい。というか、積極的にレンタル業務もやって行ければと思う。
夢を語れば果てがない。あと20kg痩せたい。どうにか自炊をしてまず1kg減った。このまま減らしていく。
2024.5.21
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doctormaki · 4 months
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なんだか忙しなく、慌ただしく日々が過ぎ去っていく。ハンブルグ大学の二週間毎に開催されるAI研究会に出たのが、ついこの間のように思われるのに。。。気付いたら、5月ももう月末が近づきつつある。イザベルの娘、Noaと餃子を作ったり、Isabelの3日間に渡るコモンズの研究会に出たり、シグナル社の社長の講演会に出たりと、なんだかんだと忙しかった。
来週の月曜は公休日ということで三連休である。だいぶん走ってきたので、ここいらで一息。木曜から月曜までの5日間で、ポーランドに行く事にする。大体、ワシは明るい世界が好きなので、ドイツにでも住んでいない限り、アウシュヴィッツにまでわざわざ日本から行くなんて事はありえない。ワシントンのユダヤ人虐殺博物館で半日過ごしただけでゲッソリしたワシ。でも、人間って何だろうと悩んでいるワシは、人間のダークサイドも見ておかないとね��。。とも思い、覚悟を決める。ドイツ人達が、ロング・ウィークエンドどうするのと聞いて来るので、ダークツーリズムをするんだと言っても、ワシのジョークだと思って、何がダークなんだい?と聞いてくる。うん。アウシュヴィッツ行くって言うと、100%間違いなく、みんな顔が曇る。
ハンブルグ郊外の一次収容所も良いけど、行くなら、アウシュビッツに行っておかないと、とも思う。社会システムが作り出す恐怖を、ハンナアーレントは論じたが、現在も社会システムの中では公然と罪なき人々を平然と殺し合う社会だ。私達は、第二次大戦から何も学んでいないし、既に忘却している。平和が如何に、人為なのか。理性的判断によって保たれているものなのか、再確認しに行こう。
などと思いつつ、6月末はイギリスのケンブリッジへと行くし、8月はローマへ行く。百年企業の論文をめちゃくちゃ気に入ったらしいウィーン大学の先生は、6月末のトルコでの国際会議で話してくれないかとお誘いしてくれる。もし日程が合えば、トルコへも行ってこようと思う。ハンブルグも良いけれど、まぁ、皆さんの文句を聞いているのも精神衛生上良くない。常にジョークを飛ばし、笑っているワシも、自分の精神の健康を守らなくてはならないし、それができるのは自分だけ。ヒトサマの勝手な悩みや悲しみを聞いていると、つまらない人生をドラマティックに生きたい人々の苦肉の策としての悩みや嘆きのようにも聞こえる。
Tumblr media
Ninaの家族みたいに、朝から料理しまくって、友人や親戚を招いてEurovision にかこつけてパーティしているのが、一番である。今年のEurovisionの決勝はスイスのLGBTQ,ネモが勝った。ドイツはイスラエルに票を入れるし、song unite usがかけ言葉の割に、とても政治的である。
感情への同調はできても、結局、問題解決したり、見方を変えて了解し納得して生きるのは、その人自身の問題。ワシは友人として、そばで励まし、励ましてもらうという互恵関係以上のものを、友人に求めるのはおかしいと思うのだ。と言うことで、朝5時半起床、7時の電車でダムトアからベルリン乗り継ぎで8時間の電車の旅に出ています。
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chaukachawan · 9 months
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遅ればせ役者紹介
どうも。インフルエンザVSあの日の熱狂VSキンミライ。みーらです。年末年始はみんなでじっくり休養しましょうね。使い果たしてしまった英気を養いましょう。
さて。演出プレゼント前の茶番で、「みーら先生」と呼ばれた気がしたので、皆さんの評定をつけることにしました。
【縦縞コリー】
主役としての器の大きさ:A
見つけてくるフリーBGMのセンス:A
人マニア終わりの倒れ方:A
各種連絡の際の無言の圧:A
カラオケにおけるOfficial髭男dismとの相性:A
評定:5
【あろハム権左衛門】
アイロンがけマイムの安定感:A
段々とボルテージが上がっていく演技:A
役者紹介のハズレのなさ:A
稽古外でのヤンチャさ:A
混沌に秩序を、秩序に混沌を:A
評定:5
【海泥波波美】
精神安定剤:A
強さと厳しさ:A
脆さと優しさ:A
編集者としての素質:A
新人公演の舞台の出来:A
評定:5
【苔丸】
抱える仕事量の多さ:A
それらの仕事に対する取り組み:A
彼女の創作物に対する周囲の満足度:A
稽古脱線危機察知能力:A
幅広い演技力:A
評定:5
【冊まいむ】
マイムのレパートリー:A
霧島と子Cのギャップ:A
シンプルな変人度:A
生協パソコンとの相性:C
音響チーフとしての頑張り:A
評定:5
【ミル鍋】
かっこいいセリフの言い方:A
細かな手や顔の動きの豊富さ:A
お菓子を見つけてから食べるまでの早さ:A
ギア-GEAR-の推し具合:A
3ステの開演時間:C
評定:5
【大福小餅】
自主練の頑張り:A
守りたくなる舞監感:A
終礼と暗転チェックの際の呼びかけ:A
結局大きいのか小さいのかわからない芸名:A
友人を匿える家:C
評定:5
【中森ダリア】
リズム感:A
キャスパのキレ:A
ゲネへの参加:C
本番での安定感:A
は?「ファッション?」完全超Cool:A
評定:5
【衿君】
どええええええええええ:A
〆切守る度:A
35期紹介PV:A
なんつってな!はっはっは:A
写真撮る時の表情:A
評定:5
【しょこら】
ルロイへのハマり役度:A
稽古参加回数:C
棒人間の遠藤とのシーンのエモさ:A
「痛いですよ」:A
体調が悪い中無理をさせてしまった度:A
評定:5
【鴨兎春】
衣装と小道具の似合い具合:A
読み聞かせ方:A
グラデーションのセンス:A
おば……姉御感:A
楽ステのアドリブのセンス:A
評定:5
【帝京魂】
芸名:A
パンチ清掃の技能:A
セリフの言い方の研究意欲:A
くじ引いた後の倒れ方:A(痛そう)
と゛お゛し゛て゛た゛よ゛お゛お゛お゛!:A
評定:5
【黒井白子】
演技指導:A
まんま道化師の動き:A
お気持ち表明の仕方:A
プレゼント選びのセンス:A
「ああ、全然普通に」:A
評定:5
【園堂香莉】
照明オペの技量:A
器の大きさ:A
真顔のときの怖さ:A
起床報告のセンス:A
謝りたい人筆頭:A
評定:5
【テキストを入力】
PVの完成度:A
脚本の読み込み:A
〆切までの提出:B
歌声の透明度:A
日常会話のボケ数:A
評定:5
【まろん】
制作チーフのDM対応力:A
オペ職人気質:A
トラブルへの冷静な対処:A
楽器を手にしたときの振る舞い:A
紹介PVのときのポーズのセンス:A
評定:5
【紫仏瑠唯】
世界史(というか西洋史)の知識:A
挟み込みのスムーズさ:A
当日制作の経験値:A
会話の随所に見られる教養:A
慎重に、堅実に:A
評定:5
【近未来ミイラ】
今公演の満足度:A
35期で良かったと思った回数:A
稽古場とiPadを回す技能:C
写真撮影における土下座までの早さ:A
次の演出への意欲:B
評定:5
ありがとう
これより相応しい5文字なんてありません。
演出やって本当に良かったです。脚本書いて本当に良かったです。ってのは唯端楽生が言ってました。今度は先輩や後輩も一緒になって、いい劇を作りたいな。でもとりあえずしばらくいいかな。疲れました。
それではみなさま、良いお年を。
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kijitora3 · 1 year
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戦える自衛隊に、という言葉が自衛隊を束縛している理不尽な法体系をまともにして、国民の生命身体安全を守るという任務を果たす妨害にならないようにするという意味で、自衛隊員の無駄死にをゼロにするという意味があることもわからないで、ヒステリーで噛みつく
自衛隊の任務を円滑にすることは自衛隊員の命を守り、日本を守ることであることすら理解しないまま、偉そうに麻生さんをディスる神経が、本当に、マジで、理解できない
自衛隊員も警察官も消防士も海上保安庁職員も、全員命を賭して国民の生命を守る任務に就くからこそ、その足を引っ張る珍妙な制度を改正し、余計な危険を除去しなければならないのは当然のこと
 その職務の重大性、不可欠性から人々はその職務に精錬する自衛官、警察官、消防士、海上保安庁職員に対し敬意を払う
この当然のことが何故か理解できず、自衛隊員を殺すために、死なない立場の政治家が手をまわし、自衛隊員が死に行くよう仕向けるために敬意云々を・・・という、サヨク特有のひねくれ過ぎて捻じ切れた悪意の捏造は、もう、いい加減通用しなくなったことを知れ
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keredomo · 1 year
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悪夢
 見知らぬ男が肩の半ばあたりですらりと軀をスライスされた。  ヒッ、と喉が痙攣し、息を飲み下せない。男はその身を切り落とされたまま、平然と私の前に立ちつくしている。本来ならば、身体組織が顕になり血がどうどうと溢れてやまないはずのその断面は、なぜか黒地に橙色のまだらが無数に滲む平坦な模様をなしており、橙色の楕円のすべては天体観測に見る恒星のようにぼんやりと発光していた。肩から上のない男は、口もないのに、どこからか発声して私に語りかける。「なんぴともすべて門をくぐる。椅子はみどりの黴に覆われて、蛸――」瞬間、巨大な蛸が私のからだに濡れたまま纏いつく。無数の鳥肌が立つ。蛸の帯びたぬとぬととぬめった海水が私の皮膚を舐め上げて、逃げ悶えながら這いつくばる身体の、骨という骨がごきごきと音を立てて外されてゆく、痛い、痛い、もういや、痛い、もうやめて!――
 はあっ、と息をあらげて目を覚ます。自室の白い天井が見える。大きな窓に掛けたカーテンを開け放していたせいで、部屋の奥に据えたベッドにまであかあかと届く光に瞼越しの眼球が晒されて痛い。私は昨晩眠りについたベッドにいつも通りに横たわっている。男はいない。蛸もいない。一応、手を確認する。折れていない。からだはこわばりきってぐったりと疲れている。汗がひどい。足の先まで湿っている。夢だった。あれは夢だった。
 休むために眠っているのに、どうしてこんな目に遭わなければならないのか。私はわたしの脳を恨む。東京から沖縄までラッコと共に泳いで渡る夢を見て、起きたらなぜだか肉体的にも疲れ果てていて、その日一日が使い物にならなかった日もあった。だれにも、私にも統御不可能な苦しい夢が日々を圧迫して、どうにもならないので仕方なく受け入れている。
 こんなにも毎晩、ひどい悪夢を見るようになったのはここ二、三年のことだった。それまでは美しい夢も見ていた。今も覚えている、数年前に見た、きらきらと光を湛えた金屏風の前に当時愛していた男が立って、こちらに手を差し伸べていた風景を。椿の花弁がおびただしく舞うなかで、とうに失ってしまった男が私に微笑みかけていた。そんな夢を見て、泣きながら目覚めた朝だってあったのだ。
 今はどうだ。眠るたびにグロテスクな夢を見る。神経を逆撫でする光景ばかりが私の認識(認識は夢でも現実でも同じだけ作用する)に襲いかかり、何時間にも及ぶ格闘ののち、疲れ果てて目を覚ます。魚屋に行った日には、イカとイワシが膣めがけて大挙して射精し、私の胎がふくれあがる。不安な仕事を抱えていれば、夢の中で大いに失敗する。仕事だけではない、私生活の延長にある最も忌避したい現実もまた、物語としてありありと立ち現れ、眠っている私の心を折ろうとする。
 明らかに精神を病んでいる。しかし、夢の持ち主であり作り手である私は、夢の光景に苛まれながらもその異常性を楽しんでいて、現実の苦しみ以上を夢の中で苦しむことに負のカタルシスを覚えていて、自罰のために悪夢の日々を手放そうとしない。  そんなお為ごかしに遵じていると、また悪夢をみる。乗るべき飛行機の便があと少しで離陸するというのに、走っても走っても前に進まない。風呂に浸かっているかと思えば尻には溺死体の女の隠毛が触っている。殺人者から逃れて、ペドロ・コスタの撮るような見知らぬ外国の貧困街を走り尽くす。苦しい。痛い。怖い。走っても走っても前に進まない。そうして殺される。殺されても生き返る。また酷いやりかたで殺される。心臓を抉られる。四肢をもがれる。頸に刃物を刺しとおされる。海に沈んで魚についばまれる。陵辱され、奇形を孕む。
 夢に現実世界の象徴化を見ることはスピリチュアリズムに淫するばかげた行為だとも思うが、そう理性的に事を収めるにはあまりにも異常な精度と頻度で悪夢を繰り返しすぎている。
 心当たりはある。日課のように悪夢を見るようになった頃、現実の私は、おのれの抱く「悪意」を封じることを倫理に強要されたのだった。
 褒められたことではないが、私には死を願っている対象が幾人かある。その願いを非倫理的なものとして押し潰し、しかし消し去ることはできず、心のなかに押し込んで飼い始めた。憎しみと怒りと苦しみと暴力性をぐちゃぐちゃに練り合わせた怪物は心の中で暴れ続けて、心臓を内側から喰いちぎろうとする。それと付き合ううち、段々と私の悪夢は激化した。初めは抽象的だったから、ただの悪夢として忘れることができた。夢は次第に具体化していった。その悪夢たちが現実を反映していることに気づいた時には、もう修復できないほどに心が喰い破られてしまっていた。
 こうして夢は、現実の強いる抑圧とはっきり結びついた。悪夢の悪性は私の心の醜さを反映している。そのことを認識できないほど、私の理性はなまくらではない。解釈可能な悪夢が日々わたしの心を蝕む。おのれの醜さに辟易する。自罰は次第に激化する。こうして魘されることでしか、醜い自分を罰することができない。
 ある夜、こんな夢を見た。  ペガサスの被り物をした女が、新宿駅東口の地下道へ降りる階段の踊り場に倒れ込み、今にも出産しようとしている。股からはおびただしく出血し、踊り場は血の海になっている。汚い地面に産み落とされようとする嬰児。ペガサスの女は、被り物をしているからその顔はわからないはずが、青ざめきって今にも死にそうになっているのがわかる。私は手を貸すこともできず、ただ立ち尽くしている。その光景はあまりにも惨たらしく、目が覚めてからもしばらく頭を抱えて魘された。  あの女はきっと、私だった。本当は、私がペガサスの被り物をして、汚い床にへばりついて、命と引き換えに何かを産もうとしていた。血みどろの光景。行き交う人間の靴の泥で汚れきって、不衛生な床。そこで何かを産もうとして絶叫しているのは私だった。誰の助けも得られぬまま、倒れ込んで血の海を広げ続けるのは私だった。
 あの時はわからなかった。しかし、こうして悪夢について改めて考えてみると、あれが自己イメージだったことは容易に理解される。夢は兆候を示さない。夢は象徴と意味を一対一に対応させ得ない。夢は抑圧されたイメージの屈折した表出でしかなく、他者には絶対に読み解けない、極めて自己閉鎖的なものだ。あの女が血の海で倒れていたことの意味は、私にしかわからない。どんなに親しい人間であっても、絶対にわからない。
 眠って、理性の制御のきかない混沌の中で夢を見るのが怖い。それは私を暴く。現実において理性的であろうと抑圧すればするほど、夢は残酷な様相を呈するようになる。とっくに理解している、この悪夢たちを退けようと思うのならば、現実をなんとかしなければならないのだと。現実のほうを、苦心なく生きていられるものに整えなおさねばならないのだと。
 わかっている。何を取り除けば悪夢から解放されるのか。何を手放せば楽になれるのか。わかっていて、迷っている。何を迷っているのかを考えている。
 いつか、それをついに捨てられる日が来るまで、夜がくれば私は諦めてまた眠る。眠って、悪夢に苛まれる。そうやって自分を罰する。考えて考えて考え抜いて、それでもどうしても手放せないというのなら、醜い怪物に喰われて、喰われ果てて、この心がいつか消尽するのを、果てしない絶望感に包まれて見守るだけだ。
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tokyomariegold · 2 years
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2023/2/4〜
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2月4日 型抜きを買ってクッキーを型抜く日! なのでネイルオフをしてもらいに、朝はネイルサロンへ行った。
上野で待ち合わせをして合羽橋へ向かう。 合羽橋の道具屋街のビルに、バルコニーがコーヒーカップになっているデザインの建物があったり、コックのおじさんがそびえ立っていたり、たくさんの食品サンプルが実際の食事よりも高価だったり楽しい街。 またふらっと遊びに行きたい。
1階から8階まで型抜きがずらーっと並ぶお菓子道具屋さんで、3人それぞれお気に入りの型を見つけて買った。 友人は小さい魚とうさぎ。わたしはおばけちゃんにした。
上野駅横の首都高は改築工事をしていて、日本橋の首都高を地下化して空を取り戻す計画、の一環らしい。
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クッキーを作るため、友人の家へ移動。 移動中に見えるスカイツリーや川で、自分の住んでいるまちとの位置感覚を掴んでいて、まさかスカイツリーが、川が、シンボルとして自分の生活に入り込む日が来るなんて〜、と思った。
友人2人は、小さい頃おばあちゃんの家でクッキーを焼いていたらしい。クッキー用のミックス粉とバターをスーパーで買って、やっぱり節分を過ぎて春が来たのか、暖かいね、と言って歩いた。 誰かのお家に行くと、みんな生活をしていてえらいな〜、という気持ちになる。 今1番の苦痛で抗いたいものが生活になってきている。生活のために社会にも出ているし、生活が忙しくて頭が毎日混乱していて、生活をさぼると精神衛生がよくない。そしてずっと回っていくんだな、と思わせてくる生活って怖い。
クッキーを作りながら、写真を撮ったり色んな話を取っ替え引っ替えしたり、昔、みんなでガスコンロでマシュマロを焼いた日のことを思い出して、こーゆーことしたい!という事ができて幸せだった。
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この数日、すごく不安でSNSにも頼れないで、でも漠然と安定した30歳でいることが悲しかったので、今日の型抜き会はとても救われる時間だった。
バターを溶かしている間に、バレンタインのチョコレートを交換しあった。特に予定してなかったのに3人ともそれぞれ用意していて、幸せな机の上になった。
今朝、3時ごろ目を覚まして、レトルトのほうれん草カレーをそのままスプーを突っ込んで食べていた話をしたら、友人1人はあんバターサンドを作って食べていて、もう1人はグミを食べていて、なんか少し安心した。 カレーを食べながら、IMAのコンペの講評トークのアーカイブを鑑賞した。久しぶりに長島先生のお話を聴けて、少し遠い存在の人から自分の写真について話してもらえて、これは幸せな事で、やっぱり写真を通して人と関わりたい、と思った。 写真、というか、私がしてきたこの7,8年間の生活を、みてもらえている感覚。写真を通して人と関わることが、1番望ましい自分との出会い方なのかも知れない。今は具体的な方法はわからないけれど、生活と写真をどうにかしたい。
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2月5日 昨日のクッキー作りの会が幸せだったな〜、と色々思い出しながらも、生活がだるくてしかたない1日。 昨日クッキーを作った3人は、それぞれ誕生日の季節が違う。みんな自分の季節でない秋が好きなので、秋に祝いたいね、と合同誕生会を秋にすることに決めり、Perfumeのチョコレート・ディスコの“なぜか教室がダンスフロアに”は、聴き取れないよね、と話したりした時間がとても良かった。
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そして今日はフィルム現像を待つ間にデパートのチョコレート売り場を眺めた。モロゾフのナインチェチョコを思わず買ってしまいそうになったけれど、ちゃんと手を止められた。 他のフロアでは5のつく日にくばられる100円引きクーポンをもらって、クーポン墓場(お財布)へ行く前に、お花を買って使っちゃおう!と思ったところで、こんなと前にも日記に書いたな…と思い出す。 今日はお花を買うのをやめた。
帰宅するとamazonセールで買った、本当に必要なモノ、だけが入った段ボールが置き配されていた。
本当に生活にまみれていて、よくわからないことがなくて、悲しけれどずっと真顔。 生活したくないのに目の前のちょっとした汚れを落とすことに身体を使っている。
何となく昨日行った友人の部屋を思い出しては、今頃あのソファに座っているのかな?とか台所でお湯を沸かしているのかな?とか時々他人の生活までも考える日だった。
わけの分からないことをすることに歯止めばかりかけていて、もらったハンドパックをした直後にガシャガシャ手を洗った事くらいが、今日の私の面白さのハイライト。
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2月6日 忌引で休暇していた上司が今日から出勤されていて、社会人として当たり前のことなのだろうけれど、えらいな〜…と思ってしまう。 必要以上に振られた他愛ない話を広げてしまっている自分がいる。 なぜ私の方が気が動転してしまっているんだろう。 そして今日は血糖値お化けをしてしまっている。 朝からコンビニを梯子して食べられるお菓子をさがしてしまい、買ったものを全部一口ぐらいだけ食べて捨てて、をしてしまった。 昨晩NHKオンデマンドで観た某女子校の29歳の同窓会のドキュメンタリーに、大学時代のサークルの後輩が出演していて、思わず彼女にスクリーンショットとメッセージを送ってしまった。 私は、彼女と、彼女の高校時代の友人達(バンド仲間、といってしまうのはおこがましい程のとても愛おしい関係の方々)の関係性がとても好きで、彼女以外の方と直接面識はないけれど、彼女達のSNSを今でも見に行ってしまう(フォローはしていない)。 初めて会った時、こんなに若くて(一つしか違わないけれど)コンセプチュアルにセルフプロデュースできる女の子がいるなんて!!!と思って、今でも私にとってはアイドルでしかなくて昨日のメッセージを送るのも少し緊張していた(お高い感じは全くない、とてもかわいくて気さくな彼女なのに)。 その番組を観ていて、29歳の同窓会という文字に、29歳ってだいぶ大人だな〜とふと思って、私はそれをもう超えていることに一瞬で落ち込んだりもした。 友人からのラインを確認しようとして、届いていたメッセージの文頭から、妊娠の報告なのかもしれない!と察知して、なんだかどうしていいか分からずメッセージを開けずにいる。 オンライン機種変をしたiPhoneを途中駅のauショップに受け取りに行かなくてはいけないのに、全てが面倒でふらふらで、今日はやめておこうかな、と思っている血糖値お化け。
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2月7日 ちゃんとiPhone14を受け取りに行ったよ。えらい! ショッピングモールの3階のテナントがauショップ。3階は主にレストランフロアなので今まで行ったことがなかった。 平日の夜のショッピングモールって従業員の方が多いんじゃないかな、というくらい穏やかで、でも不思議と閑散とした印象ではないのは、このまちの雇用を守って回っている経済が確かにあるからなのかもしれない、と思った。 ショッピングモールのテラスや外の広場は、上品に程よくイルミネーションが施されていて写真を撮りたくなる。バスから降りて歩く30分ほどの道でも、あ、ここで写真を撮ってみたいかも!と思うスポットがいくつかあるのに、今朝もカメラと三脚を玄関で持ち上げてはその重さに断念してしまった。 長島先生の講評を聞きながら昼休みを過ごしている。 セルフポートレートのこともだけれど、先生はキャプションをとても大切に考えていることがよくわかって、文章と写真のことも考えたいと思っていたので、その辺りもお話ししてみたいな〜、と思った。 ムキムキにならなくても三脚とカメラを持ち歩いてどこでも自撮りをしたいし、 頼り甲斐がない物言いのままでも、自分と同じ内容を言っている年上の上司のように社会の人たちに話を聞いてもらえるようになりたいし、 がに股で歩いて舌打ちしないでも夜道で変なおじさんに暴言を吐く当てにされないように、30年で培ったどこまでもふわふわへにゃへにゃな自分を、 誰かでなくて自分で守っていきたい。 年賀状のお年玉は一枚も当選していなかった。
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2月8日 2期下の方をお昼のおしゃべり相手にお誘いしてみた。 半分は写真を撮って過ごして、半分をお話する時間に充てて昼休みを過ごしてみる。
ご飯を食べられないので、ひたすら歩いてラジオを聴いたりトークイベントを聴いたりして過ごすお昼休みを、誰か他愛無い身の上話をして過ごして、いつものお昼休みに起きている時間の使い方の迷いや後悔の焦りがなかったので良いことなのかも知れませんね。 でもとてもあ���?えっとなんだっけ?という気持ちで、帰り道を歩いてた。 そろそろ日記をノートに書く余裕がある気がする。 でもここでノートに戻したら、その瞬間また寒気が舞い込んで来る気がして、寒さは心理戦。
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2月9日 今日は三脚を持って出勤して、少し写真を撮ることができた。 そして、とても楽しかった。 明日の東京出張が、また雪予報でどうなってしまうか不安だけれど、フィルムを出して現像の合間に用務を済ませて、帰りに受け取って帰る予定を立てたので、楽しみになっている。 今は自撮りと一緒に伝えたい言葉が明確にあるわけではないけれど、自分の置かれた環境が変わったところでもう一度我に帰りたいと思って、三脚立てて写真を撮ってみている。 バスを途中下車して帰り道でも写真を撮るぞ〜と思っていたら、一期下の方に声をかけてもらって、お話ししながらバスに乗った。 「今日はこれから写真を撮って帰るので、わたしはここで降りますね」と言って三脚をガタガタさせながらちゃんとお断りを入れて途中下車させてもらった。こんなに堂々と写真を撮っていて、そのことを他人に話していて、わたし大丈夫かな? 職場の二期下の方はベローチェを知らない。時間つぶしにカフェに入るようなことはしなくて、車でわざわざカフェに出かけるとのこと。もう2時間も居座ってしまったから流石に移動しようかしら、と、ベローチェからドトールへカフェ梯子をするような経験はないのでしょうね。 スタバよりベローチェのある街が都会だと思っています。
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kuribayashisachi · 2 years
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#今日のハッ! 20221217(土) 野口良平『幕末的思考』を読み始める。
野口良平『幕末的思考』みすず書房、という本を、ちょっとずつ読み始める。
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どういう本かというと、(ちがうかもだけど)
黒船に乗って列強さんがやってきた。 植民地にされるかもしれない!  攘夷? 開国? どんな社会にすればいい?  この島国では上も下も、西欧や中華からの輸入でない理想を模索した。 いろんな可能性があった幕末が、なぜ明治をになるや、天皇陛下バンザイの軍国主義になってしまったのか。 その答えを模索する思考の記録。
■幕末-明治の本は多いけど こういうことをちゃんと考えた本は、なかなかない。
著者の弁↓
《幕末に関する研究はそれこそ汗牛充棟ですし、小説や映画やテレビドラマになりはしていますが、自分と同じ問題にぶつかってそこでいろいろ考えて、今の自分の状況と幕末のつながりとつながりのなさと、その両方をちゃんと考えていく、というアプローチは、なかなかめぐりあえない。ですので、自分としてはけものみちを行くような状況で、手探りで考えざるをえなかった。でも何とか、けものみちを歩き通せて、大体四年ほど執筆にかかっていますけど、》
『最初の一滴 思想の科学研究会年報 第二号』「野口良平「幕末的思考」を語る」p34上段
■幕末の可能性は、明治でブツッと切れてる
《幕末と明治のあいだの不連続性、間隙を、生物の進化に関する言葉に借りて、この本では「ミッシングリンク(失われた環)」と呼んでいる。》 野口良平『幕末的思考』「はじめに」p2
おぼろげにいつもあった自分の疑問を思う。
「日本の夜明けは我々が作る!」みたいな青空をしょった若者たちを描く幕末ドラマはわくわくするのに、明治時代を舞台にすると、急になんとも暗く、つまんなくなる。青ざめた感じになる。どうしてなのか。
■軍事大国化しないですんだ方法は?
それから、列強の植民地にされたら困るから、人権思想だけは西洋から取り入れた法治国家を作らなきゃいけないけど、軍隊を持たないでそれは可能だったかということ。
30代の時、職場で「ひきこもりは自衛隊に入れろ」と言った精神科医に噛みついて口げんかになり、「軍隊がなければ国民は守れない」���どと言い出す相手につられて「軍隊必要・不必要論」の喧嘩になってしまった。 説得力のある考えを言えず、答えがほしい。
日本が列強に負けないで、かつ軍事大国化しないで(もちろん朝鮮や中国に多大なご迷惑もかけないで)いられる道は、あったのか。あったと思いたいけど、どうしたらよかったのか。
つまり、世界中から軍隊がなくなることは「こうすればできる」という答えがほしい。
あまりちゃんと勉強していないので、言えないのだけど、そういう疑問や課題に答えてくれそうな本にはなかなか出会わない。
なので、この本に期待してる。
ナメクジのように進んでいきます。
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kennak · 9 months
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日本の福島地方裁判所は12日、女性の同僚を性的に加害したとして、元自衛隊員の渋谷修太郎被告(31)と関根亮斗被告(29)、木目沢佑輔被告(29)の3人に有罪判決を言い渡した。五丿井里奈さん(24)は2022年、自衛隊時代に受けた被害をユーチューブで公表。国内外で大きな反響を呼んだ。元自衛官3人は昨年1月に書類送検されたものの、当初は不起訴処分(嫌疑不十分)となった。しかし、五ノ井さんが審査を申し立てた郡山検察審査会が昨年9月に「不起訴不当」と議決。福島地方検察所は今年3月、一転して3人を強制わいせつ罪で在宅起訴した。3人の被告は、それぞれ懲役2年執行猶予4年の判決を受けた。検察側は懲役2年を求刑していた。広告一方、3人は起訴内容を否定し、無実を主張していた。今回の判決は、6月にレイプの再定義や同意年齢の引き上げを含む性犯罪法の改正が行われて以降で初の、性的暴行に関する大きな判決だった。日本では近年、性犯罪で起訴された被告人に対する裁判所の無罪判決が相次ぎ、世間の怒りを買った。法改正は、こうした風潮に抗議する活動家らの、長年にわたる活動の結果だった。活動家らは、以前の法律はしばしば、被害者が声を上げるのを妨げていたと指摘している。日本の非常に保守的な社会では、性暴力の被害者が恥ずかしさから沈黙するケースも多い。(警告:この記事には性暴力の生々しい描写が出てきます)起訴内容によると、被告らは2021年8月、五丿井さんをベッドに押し付け、両脚を無理やり開き、代わる代わる何度も股間を押し付けた。BBCの取材に対し五丿井さんは、このとき周りには同僚が十数人いたが、誰も3人を止めなかったと話した。「その人たちの前で、すごい笑いもの扱いにされました」。五丿井さんはこの出来事を上官に報告したが、目撃証言を得られず、被害の訴えは退けられた。その後、男性3人は陸上自衛隊の犯罪捜査部門によって、強制わいせつ容疑で書類送検されたが、証拠不十分で不起訴処分になった。五丿井さんはその後、自衛隊を退職した。五丿井さんがユーチューブに投稿した動画は広く共有され、五丿井さんの事案について防衛省に調査を求める請願書には、10万人以上の署名が集まった。また、この訴えをきっかけに、自衛隊は内部調査を実施。100件を超えるハラスメントの訴えが寄せられた。その後、防衛省は五ノ井さんに謝罪した。五丿井さんは12日の判決後、記者団に対し、「3人には自分たちの行った行動と向き合って反省してほしいです」と語った。また、「笑いをとるためであっても犯罪なのだと示すことができたので、この判決が新たな被害の抑止力になり、被害にあった人が我慢することなく声をあげられる社会になってほしいと思ます」と述べた。一方、被告3人の担当弁護士は、「判決理由を精査したい」と述べ、控訴については「わからない」と話した。画像提供, Getty Images画像説明, 防衛省と陸上自衛隊は昨年9月、五丿井さんに謝罪した五丿井さんの訴えは大きな反響を呼んだ半面、公の場に出たことでインターネット上で誹謗中傷や殺害予告を受けた。「『ブス』とか、ボーイッシュ系なので『やっぱ男じゃないか』などとも言われました」と、五丿井さんはBBCに語った。「署名を集めていた時も、脅迫メールというか、『これ以上言ったら殺すぞ』といったものが来たりしました」。五丿井さんによると、この事件の前にも、自衛隊内で「毎日のように」セクハラを受けていたという。同僚らは五丿井さんの身体について話したり、身体を触ったり、自分の身体を押し付けたりした。五ノ井さんはまた、加害者5人と国を相手に民事訴訟を起こしている。5人には精神的苦痛を引き起こしたとして計550万円、国には虐待を防がなかったとして200万円の賠償を求めている。日本では、性犯罪の話題はなおタブーとされている。近年になってやっと、五丿井さんの告発に加え、伊藤詩織さんの事件や、ジャニー喜多川氏のスキャンダルなどが大きく取り上げられるようになった。性犯罪に関する法律も、今年6月の法改正で他国の基準とそろった。この法改正では、レイプの罪名が「強制性交」から「不同意性交」に変わり、被害者が「性行為に同意しない意思を持ったり意思を示したりすることなどが困難な状態」として、8項目の具体的な行為が明記された。これには、「暴行や脅迫」に加え、アルコールや薬物を摂取させること、恐怖・驚愕(きょうがく)させること、地位関係性による不利益を憂慮させることなどが含まれる。また、性交同意年齢も13歳から16歳に引き上げられ、公訴時効も延長された。BBCは11月、今年のBBC「100 Women(100人の女性)」に、五ノ井さんを選出。BBCは毎年、社会に大きな影響を与え、人々の心を動かした女性100人を世界各地から選んでいる。五ノ井さんはソーシャルメディアで、「英BBCインスピレーションと影響力のある女性100人に選ばれました。いつか声をあげなくてもいい社会になってほしいです」と語った。五丿井さんはまた、米誌タイムの「次世代の100人」にも選ばれている。この記事の内容に影響を受けた方に、BBCはイギリス内での相談先を紹介しています(英語)。また、日本の内閣府が、性犯罪・性暴力相談の相談先をこちらで紹介しています。(英語記事 Three Japan ex-soldiers found guilty of sex assault)
元自衛官3人に有罪判決、女性同僚への強制わいせつで - BBCニュース
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abraxas174 · 2 years
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『戦禍のアフガニスタンを犬と歩く』ローリー・スチュワート 高月園子 訳
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「二〇〇〇年のある日、ローリー・スチュワートは故郷のスコットランドを散歩していて、ふと、このまま歩き続けたらどうだろう、と考えた。それがすべての始まりだった。その年、彼はイランを出発し、アフガニスタン、インド、パキスタンを経由しネパールまで、アジア大陸を横切る全長九六〇〇キロを踏破する旅に出た(「訳者あとがき」より)」。だが、タリバンに入国を拒否され、アフガニスタンは後回しにするしかなかった。翌年にタリバン政権が倒れると、彼は大急ぎでネパールから引き返してきたのだ。
通常アフガニスタンの西の都市ヘラートから東のカブールに行くには、ヒッピーたちが旅したように南のカンダハールを経由する。それなのに、あえて最短距離のルートを選択し、積雪三メートルに及ぶ冬の山岳地帯を抜けて歩き通した苛酷な旅の記録だ。誰からも冬季に山岳地帯を行くのは無謀だと説得されるが、南はまだタリバンの勢力下にあり、そこを通るのは危険だ。彼は一刻も早く踏破したかった。歴史学者でもある男はムガール帝国初代皇帝バーブルの日記を通して、彼が同じルートを冬に踏破したことを知っていた。
邦題には「犬と歩く」とあるが、はじめは犬は登場しない。その代わりに武器を携行した男三人が旅のお伴だ。なにしろ、タリバン政権が崩壊してたったの二週間だ。外務官僚のユズフィは言う。「きみはアフガニスタンの観光客第一号だよ。(略)護衛を連れて行きなさい。これは譲れない」。彼は市場で手ごろな木の棒を買い、鍛冶屋に行って両端に補強用の鉄を取り付けてもらう。この杖は「ダング」と呼ばれ、山道を歩くとき重宝するが、いざというときは武器にもなる。
この本のことは、ロバを連れてモロッコを旅している邦人のツイッターで知った。本の影響を受けてのロバ旅らしい。モロッコではマカダム(村長)が行く先々についてきて、次の村まで同行し、そこのマカダムに引き継ぐ。イスラム教の喜捨の精神で、旅人は大事にされるのだ。この本のなかでも、日が暮れて村に着いた旅人は一夜の宿と食事を提供され、翌日次の宿を紹介してもらって旅を続けている。一日の旅程が終わる頃には次の村で休めるようになっている。今は荒れ寂れているが、かつては通商のために人が通った道なのだ。
もっとも、当時のアフガニスタンは、まだ各地でタリバンが戦っており、宗派間、部族間の抗争も続いていた。武器を携行した男たちが同行していては、村人も投宿を拒否できまい。喜捨といえるのかどうか。食事といってもパンとお茶がやっとで、時にはパンさえ出ないときもある。どの村も貧しく自分たちが食べるのもやっとなのだ。旅はおろか、女たちは村から離れることができず隣村のあることさえ知らない。
そんななか、泊まった一軒の家で、犬を連れていけと勧められる。大型のマスティフ犬の一種で、オオカミ対策に飼われているという。ただ、餌代にも事欠く有様で、彼が貰ってくれれば餌にもありつけるだろうという。彼はためらったすえ、その犬を引き受ける。皇帝にあやかって「バーブル」と名づけられた、この犬がいい。イスラム教の国では、犬は不浄な動物とされ、ペット扱いされない。ただ使役されるだけだ。当然、犬の方も飼い主に愛着も示さなければ、遊びにつきあうこともない。だが、スコットランド人はちがう。
はじめは居場所を離れることを嫌がり、歩き出してもすぐに地べたに座り込んで動こうとしない。パンで釣ったり、紐を引っ張ったりしてやっと動き出す始末。ところが、そんなバーブルが少しずつ彼に心を開き出す。雨や雪の中を苦労して歩き、村にたどりつくと、彼は嫌がる村人に頼み込んで、犬をどこか屋根の下で寝させてくれるように頼む。それをすませるまで自分も家の中に入ろうとしない。食事に肉が出ると、犬にも分けてやる。旅が終わったら、スコットランドに連れ帰るつもりでいる。
どこを向いても厳しい自然と貧しい人々の暮らしがあるばかり。そんなある日、険しい山の中で尖塔を発見する。伝説の「ジャムのミナレット」だ。「細かい複雑な彫りの施されたテラコッタにターコイズブルーのタイルが線状にはめ込まれた細長い柱が、六〇メートルの高さにそびえている」。塔の首のあたりにはペルシアンブルーのタイルでこう綴られている。「ギヤースウッディーンはヘラートにモスクを、チスティシャリフに修道僧のドームを建て、失われた都ターコイズ・マウンテンをつくったゴール帝国のスルタンだ」
彼はその辺り一帯の司令官の家に誘われ、塔についての話を聞き、地中から掘り出したものを見せてもらう。何人もの考古学者が訪れながら、遂に発見することのできなかった、失われた都ターコイズ・マウンテンの遺跡は、盗掘者の手で掘り出され、二束三文の値で売り飛ばされていた。かつて、チンギス・ハーンに焼き尽くされた伝説の都は、ずっとイスラムの遺跡として守られてきた。しかし、タリバンが追いやられた今、僻遠の地ということもあり、新政府の目も及ばず、せっかくの文化遺産は荒らされ放題になっている。
地下に貴重な文化遺産を蔵しながら、ヤギが食べる草も生えない高地に暮らす人々は、掘り出した遺物を売って暮らすしかない。皮肉なことだ。遺跡を見る目は歴史学者のそれで、この部分は明らかに他とは筆致が異なる。だが、その後、旅は苛酷になる。赤痢に罹り、下痢で体力を奪われながら雪の山道に踏み迷う難行が待っていた。さすがの彼も凍った湖を行く途中で力尽き、もうここで旅を終えてもいい、と雪の中に倒れ込んでしまう。彼を救ったのはバーブルだった。首に吐息をかけて起きるよう促すのだが、それでも動かないでいると、歩いて行って振り返り越しに一声吠える。その姿に彼は自分を恥じ、再び立ち上がる。
バーミヤンの石仏が象徴するように、過去に偉大な文化を擁しながら、行路にはかつてを偲ぶよすがとてない。荒れ寂れて人も通わぬ道も、かつては隊商が駱駝に乗って通った道である。歴史家として彼はそこに何を見ていたのだろう。果たして人類は成長したといえるのだろうか。著者は声高に語ることはないが、書かれたものを読めば、その思いは読者の胸に迫る。淡々とした筆致で綴られた手記には、最後に物語のような思いもかけない幕切れが待っている。この旅に出ることで、彼はバーブルと出会うことができた。これを縁といわず何といえよう。原題“The Places in Between ”を『戦時のアフガニスタンを犬と歩く』とした訳者の思いがわかる気がした。
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ari0921 · 2 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024年)8月2日(金曜日)
   通巻第8351号 <前日発行>
 ハニヤ暗殺の謎は深まるばかり。イスラエルの関与はあったのか
  イスラエルの目的はハニヤの政敵=シンワール殺害だ
*************************
 2024年7月31日、ハマスの最高指導者ハニヤがテヘランの「居宅」でボディガードとともに暗殺された。すわ、イスラエルの仕業かと誰しもが反応しただろう。ところが、真犯人はわかっていない。
過激派内部の内ゲバの可能性も否定できないことは前号でもみた。
 イランの最高指導者ハメネイ師は「イスラエルへ直接報復をせよ」と呼号した。ハメネイ師は「イスラム共和国の国境内で起きたこの悲惨で悲劇的な事件を受けて、復讐するのは我々の義務だ」と述べた。
「犯罪者でテロリストのシオニスト政権は、我が国の親愛なる客人を殉教させ、我々を悲嘆させたが、自らに対する厳しい処罰の土壌も整えたのだ」と主張した。
イランのマスード・ペゼシュキアン大統領は「イラン・イスラム共和国の領土保全、名誉、尊厳を守り、テロリスト占領者に卑怯な行為を後悔させる」と誓った。
 イラン革命防衛隊(IRGC)も、イランとその同盟国による「厳しく痛みを伴う対応」でのぞむとした。「ハニヤ暗殺はシオニストの犯罪者、殺人者、テロリスト集団が、国際ルールや規制を一切考慮せず、ガザでの9か月に及ぶ戦争の恥ずべき失敗を隠蔽するために、いかなる犯罪行為も躊躇しないこと」を示していると述べた。
 またイランの国連大使は「暗殺は米国とイスラエルの連携のうえで行われた」と批判した。
モスクワはこうして危険な趨勢に警告し、報復がつづけば中東全域を巻き込む戦闘となり、世界大戦に発展する危険性があるとした。
かくして暗殺関与を名指しされたイスラエルだが、ネタニヤフ首相は7月31日、テレビ演説し、パレスチナのイスラム組織ハマスやレバノンの民兵組織ヒズボラなどの親イラン勢力に「壊滅的な打撃を与えた」と強調したもののハニヤ暗殺に関しては言及しなかった。
ネタニヤフ首相は国民に対し「困難な日々が待ち受けているが、あらゆるシナリオに備えている。いかなる脅威にも断固として対応する」と呼びかけた。
 ▼中国の和平仲介努力は水泡に帰した
 ハニヤ暗殺の一週間まえ(7月23日)、中国の王毅外相はパレスチナ自治区で反目し合うハマスと自治政府主流派のファタハの代表、他に12のパレスチナ過激派の代表を北京に招いた。
中国の仲介で「ガザ地におけるイスラエルとの戦争の終結後、占領下のヨルダン川西岸とガザ地区に暫定的な『国民和解政府』を樹立する」という提案に対して各派が同意した。 
この会議は北京で3日間にわたって開かれた、パレスチナの過激派、14グループが参加したことは画期的であり、中国の外交力の表れだとも言えるだろう。
しかし率直に言って、各派は、中国の顔を立てて、何回も反古にしてきた紙切れに署名しなおしたに過ぎない。
実際には同じ合意が2017年10月にエジプトの仲介によってカイロでなされたが、その後の進展は何もなかった。
王毅としては「中国の外交成果だ」と宣伝したいところだろう。中国はイランとサウジアラビアの関係修復を仲介した『実績』もある。
中国外務省の毛寧報道官は「中国とパレスチナは信頼できる兄弟であり、良きパートナーだ」とし、中国はパレスチナの結束と和解に向けて「すべての関係者と不断の努力をする」と述べた。
2007年にハマスがガザ地区からファタハを追放して以来、両グループは対立を解消できていない。
ハマスは30日になって声明をだし「各派閥の和解に向けた中国の取り組みや、これまでの「パレスチナの大義に対する賛同姿勢、大量虐殺の阻止」を称賛した。
しかし北京の和平会談では停戦達成に向けた取り組みや、イスラエルの攻撃によって引き起こされた「悲惨な人道状況」、中国によるガザへの人道支援の強化などが議題になっただけだった。
中国のパレスチナ支援は、毛沢東時代からである。「民族解放」運動を支援するため、パレスチナ人に武器を送った。ガザをめぐって中国政府高官や習近平国家主席までが、パレスチナの独立国家の必要性を強調してきた。北京でアルール(ファタハ代表)は、中国によるパレスチナの大義への支援に感謝した。
ハマス政治部門幹部はイランの首都テヘランで記者会見し、ハニヤ暗殺を受け、パレスチナ自治区ガザでの戦闘を巡るイスラエルとの停戦交渉に意味がなくなったと訴えた。
 北京の『努力』にかかわらず中東の安定にはほど遠い。
 第一にガザを支配するハマスとヨルダン川西岸を統治するパレスチナ政府とは、口もきかないほどに反目している
第二にアッバスに対しての批判はパレスチナ全体に根強い。
第三にハマスの内部はセクトに分かれ、お互いが対立しており、とくにイスラエル撲滅を叫ぶ強硬派と人質解放を和平の交渉手段としたハニヤとは先鋭的な対立関係にあった。ハニヤはカタールを拠点とし、人質交換などの交渉をイスラエル側と展開してきた。カタール政府もハニヤを支援してきたのだ。つまりイスラエルにとってはハニヤ殺害の動機はあっても、現時点ではメリットが薄いのである。
 
▼だれがハニヤのテヘランの隠れ家を知っていたのか?
 さてハマス指導者の暗殺である。
 7月31日、ハマスは「最高幹部イスマイル・ハニヤ氏が殺害された」と発表した。同日早朝にイランの首都テヘランにあるハニヤの滞在先が「そらからの飛翔体」(ドローン?)で攻撃され、警護の1人も殺害された。ハニヤはガザ地区にはおらずカタールの首都ドーハを拠点としており、イランのマスード・ペゼシュキアン新大統領宣誓式のためテヘラン入りしたのだ。
 ハニヤはガザ地区のシャティ難民キャンプの難民の家庭に生まれた。イスラム大学在学中から政治活動に携わり、ハマスに関与した。1980年代後半にイスラエルで数回逮捕され、投獄された。ハマスの創設者兼精神的指導者シェイク・アハメド・ヤシン師につかえ、ヤシンが暗殺されると、2006年にパレスチナの「首相」に選出された。
2007年にハマスがクーデターでガザ地区を制圧し、ハニヤが事実上のガザ支配者となった。2017年にハマスの政治指導者となってカタールに移住した。ガザ地区のハマス軍司令官であるシンワールとハニヤの間には個人的な対立があった。
 ハニヤはハマス指導部内で穏健派とみなされ、イスラエルとの長期フドナ(停戦)を支持し、1967年の国境内にパレスチナ国家を樹立するという解決策に同意するとさえ述べていた。同時にハニヤはテヘランに接近することを選び、それが「パレスチナ人の戦略的奥深さ」であると説明し自らの立場を固めた。
 
1993年の「オスロ合意」以後、ガザ地区が拠点の「ハマス」と「パレスチナ・イスラミック・ジハード」活動し、パレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区はファタハが統治するという色分けが出来た。
PLO主流派「ファタハ」傘下の「アル・アクサ殉教者旅団」はイスラエルで自爆テロを相次いで実行した。「ハマス」以外にも、「パレスチナ解放人民戦線総司令部派」(PFLP-GC)、「エルサレム周辺のムジャヒディン・シューラ評議会」(MSC)なる謎の組織がガザ地区に出現した。MSCはハマスの分派とみられる。
ヨルダン川西岸地区では「獅子の巣窟」と自称する新たな組織が出現するなどした。
 このほか、「イラク・レバントのイスラム国」(ISIL)、ISILを支持する「エルサレムのイスラム国支持者」など謎めいる組織が出現した。過激派セクトの相互不信と対立も、見落としがちな視点である。
▼ガザのハマス軍事指導者シンワールがイスラエルの暗殺目標だ
 
 ハニヤはガザ地区指導者とは異なった外交アプローチをしていた。
 たとえば2024年5月23日、アフガニスタンのタリバン代表団がテヘランを訪れ、カタールの首長と同時にハマスのハニヤと、このイランの首都で会談しているのだ。
タイミング的にはライシ大統領(当時)がヘリコプター事故で死亡した直後だった。
専門筋は、ハマスはイランとタリバンとの関わりを可能な限り最小限に抑えようとしているとし、逆にテヘランはハマスとの絆をより強めようとしていた。ガザの軍事的なハマス指導者シンワールの考え方では、たとえ銃撃戦で夥しいガザ住民が犠牲になろうとも、イスラエルとの戦争をできるだけ長く続けることにある。この点でハニヤとは対立しており、またイランはハニヤの扱いに苦渋の様相だった。
イスラエルのガザ攻撃によってハマスが外交上の得点をあげたのは事実である。アイルランド、スペイン、デンマークなどが「パレスチナ国家を承認する」と決定したが、米国内でもパレスチナ支援が急激に増えていた。ハマスはむしろハニヤによって国際的孤立か抜けだそうとしていた。つまりハニヤが鬱陶しい存在となったのがガザの軍事指導部シンワールと、イランである。
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touch196 · 7 days
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「やるならタイマン」
※先に断っておきますが、完全なる主観で勢いで書いた感想であり、曲解が多分にありそうです。
批判記事のつもりではなく、
私が「やれ、精神病だ云々」ということに対して、持ってるスタンスの話です。
(私が何についての話をしてるのかわからないと流石にアレなので、最後にURLがあります)
一連の動画を観てみて、
「回避性パーソナリティ障害」とか、舐められる理由、嫌われる理由、のところには、自分に当てはまるかもと思って号泣したんだけど。
人の気持ち読めて(という錯覚が)苦しい=「認知的フュージョン」だとか、HSPを逆手にとってマウントしてる。
てのはなんか、うーん。。
と思った、一昔前のオタクやニートを、世間が批判?嫌悪?の対象にしたみたいにさ。
なんか、人って、こういう人=○○って固有名詞がつくとさ。
良くも悪くも、色眼鏡で観るし。
すっごくずっと医者にも見せたくない程に苦しんでた未知の症状に、病名を宣告されちゃう。
それは、自分特有の苦しみでもなんでもなくて、
科学的に解明できて改善できることだった。
(完治できる治療法が明確にあるかどうかは、また別の話……だけど、
私で言うところの思春期棒に振ったレベルに悩んだ「汗疱」とかね)
自分にとってはすげーしんどいし、それによってめっちゃ生き辛かったのに、
「それを治せない」(原因を明らかにできない、緩和できない)
自分のせいじゃないのに何でって、そのせいで自信持てなかったし、
実際に色々なことが、それのせいで上手く行けなくて引き籠ったりしてたのに。。
なんで、そんな簡単な数文字で、
全部テンプレで良くあることですとか、
言えるわけ?
だから、その苦しみ理解できるとか、
は?
私の10年なんだと思ってんだよ?!
とか、謎が明らかになったらなったで、
ショックがあるよね。
私も最近、HSPって言葉を知ったけどさ。
まぁ、5人中の1人くらいはいるっていうから、その傾向はあるのかなぁ。
じゃ、それに当てはまらない4人の人には、
本当の自分の気持ちは理解されないってのはしょうがないことなんだな。
て、諦めて人間関係を考える、
助けにはなるのかも知れないけど。
おらおら、
「HSPの私が通りますよ!」
とか、略語を自分に掲げて触れ回ることが、
果たして、生き易さに繋がるのかな?
という、疑問はある。
人間関係とか、相手の要求が自分にとってしんどくなってきたら、
なんか相手にとって自分は利用価値のない(都合の悪い)人間ですよって、
ネガティブセールスして、
自分からフェードアウトするような言動を取る。
って、自分のキャパ越えること抱えたくない、精神衛生守りたい、
とか詐欺紛いの商法にひっかから(カモにされ)ない、
処世術のうちじゃないんですかね。
それをわざとやったら、腹黒いとか言われちゃったら、
正真正銘のいい人(生まれついての富豪か神しか無理)でいなきゃ、
情弱には無理ゲーじゃないすかね、世の中。
動画を観た順番が悪かったのか、
私の性格がねじ曲がってるのかはわからんが。
なんか、ことさらカタカナ英語とか略語を、人の型に当てはめる?
みたいのは嫌だなー。
完全に論点ずれてるんでしょうけど。
人を嫌ったり、嫌われてると思うことが被害妄想だとしても、
そこにはちゃんと、状況なり、具体的な出来事の結果がないと、
本当に他人を嫌い(悪)なんて決めつけられる人間は居ないと思うけど。
なんか、呼び名をわざわざつけるって。
それ事態が、虐め?
というか、あんま好きなことじゃないかもな。
うわ、めんどくせー私。
どういう立場で書いてるか、良くわからない感情的な文章ですいません。
まぁ、「私のこと良く知りもしないくせに!」
とか逆ギレするのは、少なからず自分に当てはまっており、
他人を欺いてる(無自覚含む)というか、そういう考え方する癖があるかもなぁと思い当たるフシがあるからで。。
私のように、マジギレ5秒前みたいな人は、
個別で精神カウンセリングを実際受けてみたら、
過去や現在の苦しみが軽くなったり、
また別の問題でしたとか、
なんか少しは解明?されたりするんですかね?
散々、Tw○tter時代に、自己啓発カブれの他人から、
「ネガティブ」だとかいじられたけど。
なんでも、好き好き、ウェルカム♪
ポジティブが最高だよね!
て、パリピ思考出来ないので。。
だからってそいつらを、マシンガンでやってしまおう!
とか、テロ起こす気なんかサラサラないので。
こっちのことも、放っといてくれますか?
と、いう、
拒絶反応もあったりするよね。
そこに、名前はつくんですか?
どーでもいいんですけど。
都合良いところだけ、うなずいて、
そーゆーこともあるのね。
世間ではそーゆー、一括りにされた人々のコミュニティで、
そんでそれは裏返せば長所だ!
セルフブランディング的には、強みに使える!
知りたかったら、このセミナーがあります! とかって。。
(※ただの世間話なので、動画の意図するとことは無関係)
そういう商法とかね、ちょっと怪しくも見えてきてしまうんですけどね。
疑り深いんで。
**
なんでもいいけど、
良くも悪くも、
いままでの人生をかけて。
自分で気づいた教訓とか、経験とか、
それ自体を、そこから学べたことを、
それによって同じ悩みを理解して、他人に助言できたりすることもあるし。
人間関係の失敗とか含めても、
無価値ってことはないと思いますよ。
自分の悪い癖を(医者に言われなくても)自覚しながらも、それでも逃げる時もあるし。
それによって、危ない事態(高額セールスや宗教勧誘とか、性被害とか)から助かることも、なくはない。
自分の人生の汚点と思えることとか、回り道とか、失敗しまくったことを。
本当に糧にして、
自分なりに堂々と人前に立てる人間になれたら。
なんか、過剰反応、拒否反応、
ぐるぐる余計な勘繰りする、
つまんねー自分から脱っせられるのかな。
長い、着地点はどこだよ。
とにかく、自分なりに乗り越えればいいよ。
その連続で、運が良ければ気づいたら墓のなか。
最悪でも、海の藻屑だよ。
どうってことない。
*****
こころ揺さぶられた
橋本翔太さんのYouTube動画
■【人生停滞!真の原因】回避性パーソナリティ障害/めんどくさい、傷つくのが怖い、やる気がでない。夢が叶わない。ひきこもり問題など。
https://youtube.com/watch?v=P1gfrviGtTo
■【なぜか舐められる人】深層心理に隠された衝撃の理由と解決策3選
https://youtube.com/watch?v=AKpQqWjqFvM
■いい人なのに、なぜか嫌われる【心理と原因】【解決策3つ】優しいのに舐められる心理。
https://youtube.com/watch?v=iRfLjLve6PU
■人の気持ち読めて苦しい人【深層心理と解決策】HSP? 自分の身を守るための思い込みから目を覚そう。
https://youtube.com/watch?v=KymgKzpe8KE
※最後のURL間違ってたりしたので修正。
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habuku-kokoro · 9 days
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 観世能楽堂にて、「紫式部―雲隠れ―」を観て ー 川名淳子
愛知学院大学教授 川名淳子
 ひとときこの世に宿った死者の魂魄は、ふたたび天界へと還ってゆく…。この世ならざる世界とのつながりを可能にする能舞台に、紫仙女は降り立った。しばし〈紫式部〉の生を語り、昇天した仙女が織りなす源氏物語誕生の物語は、まさに能楽堂で上演されるにふさわしい演劇であった。
 そもそも、劇中歌の「光の君」においても、この物語は、〈光源氏〉を過剰に讃え、特別視するものではなかった。彼もまた多くの人たちと同じように、自らの生を生ききり、銀河にまたたく星の一つになった。最終章の「天の河」の切々たる歌唱も、天空には、源氏物語の世界の者たちだけでなく、物語を紡ぎ出した〈紫式部〉も、娘を見守る〈為時〉も、瞬(またた)き続けていることを告げている。星空を見上げれば、銀河の輝きの中に、源氏物語にかかわった人々の生きたあかしが、そしてこの物語に魅了された人々の思いが、満ち満ちていることを思わせる。観劇後、秘かに思った。ならば、『源氏物語』を愛する自分も、やがてはその星屑のかけらになれるかもしれない…
 光は翳(かげ)を作るが、その翳りの中に一条の光が射す、と紫仙女は謡った。人の世の愛別離苦のその先には、辿り着くべき光の世界があることを、〈紫式部〉は確信していたのである。そう想うと、光る月にかかる叢雲(むらぐも)、本来は死を暗示する「雲隠れ」とは、つつましく、美しく、かつ力強く、永遠の煌めきを保証する〈死〉であったことを思わせる。
 源川瑠々子さん演ずる紫仙女の清らかな澄んだ歌声が、観客を心地よく、温かく包みこんでゆく。
  思えば、珠玉の恋歌を詠んだ小野小町のなれの果ては、老残の醜いものであった。小町九相図(くそうず)のいたましさは、見る者の心を凍らせる。清少納言の落魄伝説もまた酷(むご)いものであった。紫式部の末路も例外ではない。一方で観音の化身と崇められつつも、愛欲の妄語(もうご:うそや偽り)を書いたゆえに地獄に堕ち、今なお苦しんでいるという。ゆえにその魂を慰撫するべく供養が必要なのだ、と。これらの伝説は、それほどまでに彼女たちが紡いだことばの数々が、人々の心を揺さぶったのだという感嘆の、逆説的表現なのであろう。と共に、後世に残る文学を生み出した者たちへの嫉妬と羨望の心が、ことさらその人生を貶める作り話を生み出したのかもしれない。
 とはいえ、想像するに、暗闇を照らす一条の光を描くために、生身の彼女たちが引き受けざるを得なかった現実世界での苦悩は、確かに、計り知れないものであったはずだ。が、この度の舞台で、紫仙女を介して私たちの前に現れ出た〈紫式部〉は、「物語を届けよう」「物語を届けた」と晴れやかに歌い舞い、源氏物語をこの世に遺(のこ)せた悦びを、衣の袖を翻し、全身で体現していた。私はそのことに心底、救われた思いがするのである。
 「月が小さく見える夜は」を歌う紫仙女が、小さく笑った一瞬があった。あの微笑みは、〈紫式部〉が源氏物語と共に生き、源氏物語に魂を込めることを己が使命とした、その自己認識と強い決意のうちにこぼれた出たものだったのかもしれない。才女零落説話とは別次元の領域に〈紫式部〉が到り得たことに、今、深い安堵を覚える。
  本舞台では、〈為時〉と〈紫式部〉の父子関係が、重要なモチーフとなっていた。娘の死を嘆く〈為時〉の前に、仙女が現れたところからこの物語は始まった。そこには、藤原道長や中宮彰子、または同僚の女房たちなど、源氏物語の生成の現場に居合わせたはずの宮廷人は見当たらない。仙界を異にした〈紫式部〉が対峙するのは、〈為時〉のみ。両者の間に存在するのは、無償の愛だけであったような気がする。紅仙女を演ずる敷丸さんの語りは、能楽堂全体に朗々と響き渡り、為時の詩作、「苦学の寒夜、紅涙巾(きん)を盈(みた)し、除目(じもく)の春の朝、蒼天眼(まなこ)にあり」や、『紫式部日記』に記された紫式部の幼少期のエピソードが披露され、この父娘の来し方が浮かび上がる。
 この子が男子(おのこご)であったら…という為時の嘆息は、自身の後継を望むものであり、成人後も、父のこの一言を後生大事に思い起こす紫式部にとっては、それは男と比肩し得る自らの知力の証しとして、意味を成しているのであろう。この親子の漢籍の「才(ざい)」を思わせる逸話である。が、よくよく反芻してみれば、親と子、本来、その人生は別個のものであるはずだが、親には、子の生き様をその果てまで見守り、係わり続けたいという哀しい願望がある。「別れの舞」では、両者の舞はぴたりと揃い、この父娘の固い絆を思わせる。が、父の舞いは、徐々に娘に遅れ、やがて小刻みに震えていった。この時、〈為時〉は、娘の死を受け入れたのであろう。かつ、娘〈紫式部〉がなし得たこと、その生きた意味を彼なりに見定めようとしたのであろう。
  『源氏物語』にはそこここに、紫式部の曾祖父兼輔の「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」の詠歌が引かれている。「子ゆえの闇」とは、単なる親の盲目的な情愛を嗤(わら)うものではない。愛しい我が子をただただ愛するがゆえに泣く、親の妄執や愚かさを優しく肯定するものなのであるまいか。山階彌右衛門氏が演ずる〈為時〉の姿は、観る者のひとりひとりの心にも静かに寄り添う。観客はこの父の慟哭、深い愛の〈かたち〉を想い、涙する。
 『紫式部集』所載の和歌によると、京から遠く雪深い越前は、紫式部にとっては心晴れぬ地だったようだが、本舞台では、父と共に赴いた越前、そしてその途次の琵琶湖の光景は、〈紫式部〉の物語作家として精神を育んだ、特別なるトポス(場所)として描き出されている。為時の、大国越前の国守就任には、件(くだん)の漢詩に感涙した一条帝の意向が絡むと語られてきたが、漢籍への造詣が深い彼には、唐土からの来訪者への対応も期待されていたのかもしれない。紫仙女には、時折、京劇を思わせるしぐさや表情がよぎる。そこに、父の薫陶を得て、異国の文化や文芸に憧れを抱いた〈紫式部〉の、京(みやこ)の狭い世界にとどまらない躍動するまなざしが重なる。
 紫式部についてはその実名も生没年もわからず、『源氏物語』執筆の経緯も擱筆の時期も不明である。しかしながら私たちは、『源氏物語』のその向こうに揺曳する、〈紫式部〉像を求めてやまない。源川瑠々子さんの歌声、語り、舞い、そしてさまざまな魅惑的なしぐさに、観る者は、自らが希求する紫式部像を幻視する。本舞台がそういう境地に観客を誘い得るのは、原作や脚本の力であることはいうまでもなく、演出にかかわった多くの方々の創意工夫の賜物なのであろう。
 次回は、若い学生たちとともに「紫式部―雲隠れ―」を鑑賞させていただきたいと願っている。観るたびごとに深まる、新たなる〈紫式部〉に出逢える気持ちがして胸が高鳴る。
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