#大牟田特別
Explore tagged Tumblr posts
Quote
「キノコ雲の子」と呼ばれた高校生がいた。 原爆のキノコ雲に誇りを持つべきでしょうか――。早稲田大4年の古賀野々華さん(23)は5年前、留学先の米ワシントン州リッチランドの高校で、そう疑問を投げかけた。核産業で発展した町での勇気ある行動は、広島市で6歳の時に被爆した後東利治さん(85)の背中を押した。思い出すだけでつらく、向き合うことを避けてきた記憶の扉を開け、体験を語ることを決意した。 ■キノコ雲の校章に疑問 リッチランド高校に留学中の古賀さん。校舎にはキノコ雲の校章が大きく掲げられている(古賀さん提供) 「キノコ雲の校章を誇りに思う」「こんなにユニークな校章は他にはない」 米リッチランド高校。2019年5月、校内向けに配信された3分40秒の動画番組「AtomicTV」で、米国人の生徒が原爆のキノコ雲をかたどった校章を口々に称賛する中、古賀さんが口を開いた。 「原爆で亡くなった人は、町で生活していた一般の人だった。多くの人を無差別に殺した原爆を、私は誇りに思うことはできません」 リッチランドは、核施設で働く労働者や家族のために建設された。第2次世界大戦中に原爆を開発した「マンハッタン計画」の拠点で、長崎に投下された原爆の原料プルトニウムを製造したその施設は、1987年まで操業していた。 ■核産業で栄えた誇り リッチランド高校の校章。原爆のキノコ雲をシンボルにしている(古賀さん提供) 古賀さんが福岡県大牟田市の私立高校から留学したのは2018年8月。最初はリッチランドがどういう場所か知らず、校章を気に留めることもなかった。 半年ほどが過ぎた頃、男性教諭から校章の由来を教えられ、涙があふれた。 「原爆投下で戦争が終わって今がある」。周りの生徒は核産業で発展した町の誇りを当たり前のように口にした。2019年6月の帰国を前に、動画への出��が決まり、校章をテーマに話すと決めた。誇りを否定するつもりはない。ただ、被爆地で起きたことを知ってほしかった。 <日本人留学生、リッチランド高校のキノコ雲ロゴについて語る>。出演後すぐにワシントン州の地元紙で紹介され、ニュースは日本でも報道された。 ■40年続いた悪夢 被爆体験を語る後東さん(左)。古賀さんもその様子を見守った(7月14日、広島市中区で) 被爆者の後東さんはニュースを知って衝撃を受けた。「米国のど真ん中で原爆を批判するこの子はすごく勇気がある。自分も何か話さんといけんのんじゃないか」 1945年8月6日、天満国民学校(現・広島市立天満小)の1年生だった後東さんは、登校して間もなく学校の廊下で被爆した。窓ガラスが黄色く光り、轟音と同時に木造2階建ての校舎の下敷きになった。 何とかはい出し、避難時に見た光景が忘れられない。 あおむけで川を流れる無数の遺体、「助けてください」という叫び声。そして、やけどで頭皮の右半分がずり落ちたまま歩いている人の姿――。自宅を目指したが、がれきの上をはだしで歩くので痛くて前に進まない。様子を見かねたある男性がおぶって神社まで避難してくれた。その夜は神社で一人過ごした。 それから毎夜、目をつむると脳裏に惨状が浮かぶ。46歳頃まで続いた。思い出すことも、体験を口にすることも嫌だった。 ■返事が来ない 後東さんと古賀さんが交わした手紙 古賀さんの勇気に心が動いた後東さんは2019年8月、古賀さんに手紙を出した。<その勇気に私も背中を押され、被爆証言を始めようと決意しました> しかし、返事は、待てど暮らせど来なかった。「原爆にこれ以上深入りしたくはないんじゃろう」。大きく膨らんだはずの決意がしぼんでいった。 古賀さんには、後東さんのほかにも手紙やメッセージがいくつも届いていた。原爆に特別な関心があるわけではなかった。日本人として素朴な疑問を口にしただけだ。反響に戸惑い、手紙は返事を書かないまま自分の部屋にしまった。 以前から興味のあった福祉を学ぶため、2020年4月、早稲田大社会科学部に進んだ。上京時、後東さんからの手紙も持っていった。「いつか話を聞きたいという気持ちがあったのかな」 コロナ禍での大学生活。児童養護施設のボランティアに応募しても受け入れてもらえない。経験を積めず、人とも会えない。やる気がなくなっていった。 2022年2月、ロシアによるウ��ライナ侵略が起きた。テレビで流れる戦車や爆撃の映像に衝撃を受けた。ロシアのプーチン大統領は核兵器の使用をちらつかせている。「私にできることは何だろう」。後東さんの手紙を思い出した。 ■動き出した2人の時間 古賀さんが制作したドキュメンタリー「あのプラタナスの木のように」の一場面。左が後東さん <戦争や核、平和について自分にできる事はないかと考える日々が続いておりました。被爆の話をお聞きする事が今の私にできる事だと思いました>。2022年5月、後東さんに返事が届いた。手紙を出してから3年がたっていた。 後東さんは驚きと同時にうれしさがこみ上げた。手紙の最後に書かれていた携帯番号にすぐに電話をかけた。「またまた勇気をもらいました」 翌6月、広島で初めて顔を合わせた。古賀さんの手にはハンディーカメラ。後東さんの初めての証言を記録し、ドキュメンタリーを制作したいと思った。 まず向かったのは、原爆ドームそばのお寺。被爆死した近所のお兄ちゃんの墓に手を合わせる姿を撮影した。被爆した小学校の校庭にはプラタナスの木がある。被爆で幹が空洞になりながらも緑の葉を生い茂らせる木の前で後東さんは語った。「人間もたくましく生きていかにゃあいけんなあ」 4日間密着した映像は、約15分間の作品にまとめた。タイトルは「あのプラタナスの木のように」。古賀さんには後東さんの姿がプラタナスと重なって見えた。 ■核兵器の町を再訪 核施設から放出された放射性降下物で被曝したと語るトム・ベイリーさん。約1年後に死去した(2022年12月、古賀さん撮影) 2022年10月、古賀さんは3年ぶりにリッチランドを訪れた。 後東さんの被爆証言を聞いて、「原爆投下は絶対悪だ」と強く思った。でも、世界を見渡すと多くの核兵器があるのはなぜなのか。答えを求め、大学を休学して海を渡った。 2か月かけて住民約20人に核兵器に対する考えを聞いた。肯定的な意見が相次ぐ中、一人だけ反対する人がいた。当時70歳代後半のトム・ベイリーさん。施設から放出された放射性降下物で被曝し、甲状腺がんを患っていると語った。 「私は最後のヒバクシャではない」。核開発が続く限り犠牲者が出るとの訴えが、重く響いた。ベイリーさんは今年1月に他界した。 ■人生初、英語の勉強に挑戦 田中さん(右から2人目)に通訳してもらい、留学生と交流する後東さん(中央)(広島市中区で) 後東さんも動き出した。町内会の慰霊祭や区民センターなど、機会を見つけては、どこへでも行って自らの被爆体験を語る。「今さら証言してどうなるという気持ちもな��にしもあらずだが、それを振り切ってやろうと思いよる」。昨��には自身の証言活動に「ひろしま平和塾 きのこ雲」と名前を付けた。 昨冬に知り合った広島大4年の田中美月さん(22)に通訳を頼み、留学生に話をする機会も増えた。今年に入って毎週3時間、人生で初めての英語の勉強を始めた。 ■2年ぶりの再会 世代を超えて交流を深める後東さん(左)と古賀さん。それぞれの目線で原爆と向き合っている(7月14日、広島市中区で)=東直哉撮影 7月14日、古賀さんが後東さんの初証言を追ったドキュメンタリーの英訳付き版が完成したのに合わせた上映会で、2人は広島で2年ぶりに再会した。会わない間もLINEで近況を報告し合っていた。 「負けんように、証言しようと思っていた」。後東さんが古賀さんと出会ってからの心境を明かすと、古賀さんは「被爆証言が多くの国に伝わってほしい」。2人の思いは呼応し合う。 後東さんはさらに証言に力を入れ、古賀さんは大学卒業後に渡米し、米国での核被害の研究に挑戦したいと考えている。 核兵器が使われない未来へ。1本の動画をきっかけに生まれた世代を超えた交流は、その一歩だ。 ※この記事は読売新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です。
「キノコ雲の子」、原爆投下の米国で疑問投げかけ 長年口閉ざす被爆者に勇気 #戦争の記憶(読売新聞オンライン) - Yahoo!ニュース
2 notes
·
View notes
Text
雑記的なもの
先週、横浜に行った。新幹線に乗るのは三年ぶりだろうか、そのときも新横浜で降りた。三年前、何をしたかと言えば、澁澤龍彦の墓参りである。菩提寺の浄智寺で御朱印をもらい、塗香を買って帰ってきた。鎌倉文学館で「澁澤の展示はありますか」と尋ねたら、「栄一さんの展示は……」と言われたっけ。その鎌倉文学館が、今期、高丘親王航海記の展示をしているらしい。
先週の横浜は、この展示に出かけたわけではない。もうすぐ転職するので、それの下準備……というか。
横浜へ行くには名古屋駅にまず立ち寄らなければならないので、少し早めに行った。
買い物をした。 同じくらいの時期にいまの労働を辞めて進学するという新採二年目の子へのプレゼントに、ロットリングのシャーペン。 自分には、12月始まりの手帳。手帳って、ときどきほしくなってかうのだけれど、一年間使えたためしがない。そ��そも、出張や会議もない毎日決まったことを淡々とこなしているだけの労働に書いて調整すべき予定なんてないし、日常生活も、特筆するような予定がなかった。買った本や日記でもつけようと思うのだが、それも長つづきしない。 新しい仕事は、いろんな予定が入りそうだから、手帳をいよいよ、一年通して使うことができるかも知れない。でも、できないかも知れないから、400円の、文庫サイズの大学ノートみたいなのを買った。 他には、『トランスジェンダー問題』、左手中指につけるのに白い指輪。白い指輪って、なかなか売っていなくて、名古屋駅を歩き回って、地下街で300円のを見つけたのでこれを買う。
ぴよりんが食べられるカフェジャンシアーヌでお昼を食べようと思っていたら、すさまじい人が並んでいたので諦めてしまった。
新幹線では、シンカンセンスゴイカタイアイスを食べた。
横浜の小さな街を歩く。小さな街と言っても、関東の大きな駅からすぐのところだから、何でもある。私たちの村ではもう見ないような、いかにも「八百屋さん」という、軒先に段ボール箱やカゴを並べて野菜を売っているお店もあった。 こういうお店があるのは、田舎のような気がするけれど、案外ないようなきがする。小さな商店を支えられるだけの人口がないのだ。
立ち寄った書店でも『トランスジェンダー問題』があった。都会の駅ビルの中の巨大な書店じゃなくて、ここで買えばよかったなあと少し後悔する。フェミニズムや、LGBTQ+の本が充実していた。
終電に間に合うように帰る。夜の九時前に新横浜をでても、なんとか帰ってくることができることにおどろく。 よるめしに崎陽軒のシウマイ弁当を買おうと思ったら、お弁当はそもそも軒並み売り切れていて、「山弁当」「海弁当」というお弁当しかなかった。都会に来てまで魚を食べたくなかったので、当然山弁当をえらぶ。鶏飯がおいしかったけど、次こそはシウマイ弁当を買うと心に決める。
帰路、また「本を作ること」について考える。近頃はこのことばかり考えている。 大きな出版社が差別を助長するような本を作り、その宣伝をしている。批判をすれば、「だから言ったじゃないか」というような構造の売り方。 ある呼びかけに対しては誠実そうに見えた出版社が、実際の被害者がいる本を出版したことに対して、対応があまりにも不誠実であること。 出版という、数と知名度に恃む声明や立ち位置の表明に、いかに抗っていくか。押しつぶされかける自分の属性や、そのほかのひとの声をいかに守っていくか、そればかり考える。 それは「本を作ること」だけでなく、「本を買うこと」「本を読むこと」「本を書くこと」すべてにつながってい���。 電車を降りて歩く。『トランスジェンダー問題』と石牟礼道子の本が入っているリュックが重かった。
気づけば昨日から十二月が始まっている。 原稿は相変わらず進まない。予定が詰まりすぎていて、十二月に、ゆっくり原稿と向き合える休日がおそらく締め切り前日の25日しかない。それでも、ギリギリまで粘ろうと思う。
明日はまた旅に出る。
5 notes
·
View notes
Text
「求」不是正確的方法
以下文章為精舍義工分享:
精舍十多年來辦事,處理過許多的特急件請示,比如說昏迷指數很低的案件,或是加護病房的案件,開示出來很多都是業主菩薩干擾,以及伴隨沖犯等。
要處理這樣的問題,需要佛菩薩開示,以及請示者趕緊做功德迴向!換句話說,精舍的緊急請示,就只是「告訴當事人目前有什麼問題」,並不是請佛菩薩發揮大威神力,馬上救活當事人,這個一定要弄清楚!
近期有位朋友,請我趕緊幫他問精舍,關於他朋友急難住醫院的事情。但我看完問題,左思右想,他只是一直說要佛菩薩幫忙、要佛菩薩幫忙,看起來就是只要佛菩薩趕緊「幫忙」。我有告知他,趕緊「迴向」才對,並且應該請對方自己問,避免承擔到對方的業障。
我也發生過幾次緊急事件,當然不是危及性命的事情,比如說長輩大限要到了。長輩確實很明顯看出非常有氣無力,人也都躺在床上哀聲嘆息,得知開示後,我馬上捐款慈善單位迴向。隔天,長輩立馬有精神,就去田裡巡田水了。福報補了,恢復的速度有夠快,這並不是靠佛菩薩的大威神力處理,是因為我用捐款迴向立刻處理!
這邊我要講的是弄對心態,要解決問題的方法不是用「求」,而是要使用「功德迴向」!有些請示者的請示問題,看來看去也不是要佛菩薩開示因果業由,而是想要佛菩薩直接幫助他度過難關!用世間白話譬喻,就是跑到人家家裡去要錢,讓對方直接幫忙解決問題。在世間此方式行不通的,同理,在靈界當然也行不通。如果人家家裡出事,跑來你家裡求,要你拿出一大筆錢幫忙,你能做得到嗎?就算你能,別人未必能!
心中有求,也容易中了外道的陷阱!他們用的方式,就是抽取人家的福報,先去完成你要的事情,讓你所求順遂,接下來你就變成被抽福報的對象。大家的福報抽過來、抽過去,你覺得你是那位福報被抽得越多後,���得越多的人嗎?這總是事與願違,而且心性還被帶偏。
有緊急要事,應該先做緊急的迴向,「功德」才能幫我們渡難關。請把「求」的心態徹底從心裡拿掉吧!這本來就不是正確的方法。
(分享完畢)
來精舍請示的有緣眾生,藉由佛菩薩開示因果業由,明瞭自己在過去的「什麼時間」,做了「什麼事」,以及需要多少的「功德」解冤釋結。佛菩薩藉著開示,再隨機教化,將佛經導入「因果債,功德還」中,讓眾生藉由持誦《金剛經》、《藥師經》、《地藏經》、《六祖壇經》等經典消業、培福、提升心性。換句話說,佛菩薩只是開示眾生的因果,不會介入眾生的因果。藉著因緣帶眾生來到佛門,至於要不要進入佛門,或者進入佛門後要待多久,要有什麼樣的成就,全看眾生自己的決定和選擇。
主角始終是眾生自己;願不願意相信開示是眾生自己,知道開示後,要不要聽話照做,也是眾生自己,要何時功德迴向,還是眾生自己。佛菩薩不會去管眾生願不願相信、會不會照做、要不要迴向,因為人生是眾生自己的,選擇什麼樣的方法,便會出現什麼樣的結果,這都是眾生自己的決定,佛菩薩完全不會介入!
既然主角是眾生自己,要消業就趕快懺悔消業,要補福報就趕快補福報,使命必達,才有機會不被局面牽制,反過來控制局面,也就是我們所說的由人轉境,而不是被外界事物牽走。
「功德」對每個人都很重要,光問事並不能解決問題,「迴向功德」,才能讓來討報的業主菩薩願意放過當事人而不討報;「迴向功德」,才能讓生命垂危的人,有機會脫離死亡名單。人生的主角始終是自己,不論生活、工作、消業或修行,天底下不會有白吃的午餐,沒有一件事情是容易的,每件事都必須付出努力。心態正確了,才不容易被有心人利用,牽著鼻子走,心性才不會被帶偏。
面對一件不幸的事情,你可以怨天尤人、痛罵上天不公平,甚至陷入無限的自責,但事情不會因為你的哀傷或痛苦而改變,這一切只改變了你日後的人生和生活,就這樣背負著懊悔活下去。
反之,心念一轉,放下怨恨、懼怕和逃避,面對問題,解決問題,勇敢活下去,事情的境況也許並不如想像中的壞。用錯誤的方法去努力,比不努力更糟糕,用正確的心態解決問題,才能迎來光明的人生!南無大願地藏王菩薩!
南無本師釋迦牟尼佛
南無藥師琉璃光如來
南無阿彌陀佛
南無大悲觀世音菩薩
南無大願地藏王菩薩
南無韋馱菩薩
南無伽藍菩薩
南無十方一切諸佛菩薩摩訶薩
0 notes
Text
飛鳥時代
"物部氏"は、古代の中央豪族・有力氏族の一つ。軍事・警察・裁判をつかさどり、朝廷に奉仕しました。《仏教》が伝来した際は、それを拒む排仏派(保守派)でした。
大和国山辺郡を本拠地とした有力豪族で、初代天皇の神武天皇より前に、大和に鎮座した神・邇芸速日命の子孫であり天神系の神別氏族とされます。
邇芸速日命(にぎはやひ の みこと)は、『日本神話』に登場する神。祭祀を司どる物部氏の祖���とされ、神武天皇より先に大和に鎮座したことがこの神話に明記されます。神武天皇の前に、出雲系の王権が大和地方に存在したことを示す説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説もあります。
物部氏は、初代天皇の神武朝より大王家に仕えた氏族であり、元々は鉄器と兵器の製造・管理を主に管掌し、有力軍事氏族へと成長していきました。
▽物部氏の職掌の箇条書き ・屯倉の設置と管理 ・軍事や朝鮮南部との外交 ・医療と呪術 ・狩猟や飼育、食物供献儀礼 ・殯儀礼
6世紀、第29代天皇・欽明朝になると、朝鮮半島南部にある百済国の"聖明王"から贈られた仏像を巡り、大臣の蘇我稲目を中心とする《崇仏派》と、物部尾興や中臣鎌子を中心とする《排仏派》による政争が起こりました。
物部氏の諸氏流は以下の通りです。
▼東国の物部氏 中央の物部氏族とは別に、古代東国に物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられた記録がある。
▼下総物部氏 千葉本拠を持つ物部の祖先伝承に、物部が坂東に進出し征圧したというものがある。香取神宮と物部氏の関連も指摘された。
▼尾張物部氏 東海道の愛知県西部に、かつて物部氏の集落があり、現在は物部神社と、武器庫だったと伝えられる高牟神社を残す。
▼石見物部氏 物部神社(島根県大田市)は、出雲勢力に対する鎮めとして創建されたとする説もあり、社家の長田家・金子家は「石見国造」と呼ばれ、この地の物部氏の長とされた。
▼備前物部氏 岡山県に備前一宮として知られる石上布都御魂神社がある。
朝廷の親衛軍を率いて物部氏は栄えましたが、6世紀の中頃に《仏教》の普及に反対し、🐎"蘇我馬子"と皇族の連合軍との戦に敗れ、そのために滅亡しました。
物部氏が史実として確かになるのは、雄略朝(西暦457~479年)の物部目(もののべ の め)辺りからで、継体朝(西暦507~531年)の🦌物部麁鹿火(もののべ の あらかい)が大連となったのは事実だとされます。
🦌麁鹿火は「磐井の乱」で将軍に任命され、筑紫(九州)豪族の磐井を打ち倒し、そうして敏達朝に物部守屋が大連となりました。
磐井の乱は、西暦527年に百済の要請を受け、朝鮮半島南部へ出兵しようとした将軍🦌物部麁鹿火の率いる大和朝廷軍の進軍を、筑紫豪族の磐井が阻んだものの鎮圧された王権間の戦争。
大和王権軍は百済の要請を受け、奈良から朝鮮半島南部へ向かうため九州に入りましたが、一方の筑紫豪族は新羅の要請を受けて、それを待ち構えて阻もうとしました。
『記紀』によると当時の大和王権は百済と強い繋がりがあり、筑紫豪族は新羅との繋がりがあったとされます。
当時は大和王権以外にも大きな勢力がいくつかありましたが、筑紫の豪族は、大和の次に栄えていた吉備国にも匹敵する勢力を持っていました。
youtube
吉備国は、昔話『桃太郎』に登場する"きびだんご"でも有名です。
第30代天皇・敏達天皇は、"織田信長"で有名な織田家を輩出した「橘氏」の先祖にあたります。
物部氏は、大臣の蘇我氏と並び、6世紀の朝廷にとって大きな影響力のある氏族でした。
✽.。.:*·゚ ✽.。.:*·゚
"蘇我氏"は、古墳時代~飛鳥時代に勢力を誇った有力豪族です。『記紀』では、神功皇后の三韓征伐で活躍した武内宿禰(たけしうち の すくね)を祖としています。《仏教》が伝来した際に、それを積極的に取り入れた崇仏派(推進派)が蘇我氏であったとされます。
7世紀の東アジアは、隋の王朝を滅ぼした唐が、律令制度に基づく国家制度により大帝国に成長し、朝鮮半島や日本列島をうかがっていました。
朝鮮半島南部では、長く続いた高句麗・新羅・百済の覇権争いが、唐の影響によりバランスが変わり、日本と連合を組んでいた百済が劣勢に陥った状況でした。
日本には、敗走した百済人や、日本に共闘を求める新羅からの渡来人が渡って来て、豪族たちの力関係にも影響を与える存在となっていました。
こうした中で、長らく続く百済との友好と支援を強化するため、勢いを増す新羅や唐との関係を重視する豪族同士の対立が昂じて行きます。
新羅・唐との連携を強めようとしたのが崇仏派の蘇我氏でした。
蘇我氏は、大陸からの移民を部下として多く採用し、大和政権の財政を掌握するようになりました。
しかし、それでも当初はライバルの物部氏の方が勢力が大きかったようです。
538年に《仏教》が公伝した際に、欽明天皇は《仏教》の受容について臣下に相談しましたが、崇仏を主張する🐎蘇我馬子の父・稲目に対し、物部尾輿(おこし)が「国津神(出雲国の祖神)の怒りを招く」と反対しました。
この崇仏論争がきっかけで、蘇我氏と物部氏は激しく対立するようになったのです。
🐴"蘇我馬子"は仏法を信仰し、日本初の本格的な寺院、飛鳥寺の建立を発願しました。一方で、崇仏派の政敵である物部守屋と衝突し、西暦587年に蘇我馬子と聖徳太子はタッグを組み、物部氏を抹殺しました。
蘇我馬子の息子の"蘇我蝦夷"(えみし)と、さらにその息子の🦌"蘇我入鹿"🐬は、皇帝の位を蘇我一族に最も近しい"古人大兄皇子"(ふるひとのおおえのみこ)に継承させようとしました。
それに伴って入鹿は、同じく皇位継承権のある"山背大兄王子"(やましろのおおえのみこ。聖徳太子と蘇我馬子の娘の子)の��族に戦を仕掛けました。
これにより、蘇我入鹿は聖徳太子直系の一族を滅ぼしました。
youtube
"中臣鎌足"は、日本最大の氏族"藤原氏"の始祖。聖徳太子の思想を引き継ぎ、隋や唐の学問を取り入れ、帝中心の政治制度を作りたいと考えましたが、その思想の実現のために蘇我氏は邪魔な存在でした。
こうして中臣鎌足は、皇位継承権のある"中大兄皇子"(なかのおおえのみこ)と協力して、蘇我氏を滅ぼしました。その後、中大兄皇子は、帝を辞退し、補佐役として皇太子となりました。
『日本書紀』の評によれば、帝となった中大兄皇子の叔父で第36代天皇"孝徳天皇"は《仏教》を尊び《神道》を軽んじたとのことです。
百済国の滅亡
西暦662年に、唐と新羅が手を結び、百済を陥落させました。それでも百済兵は各地で抵抗しており、古くから百済と交流のあった大和王権は、そこに援軍を送ることになりました。
幾度かの戦ののち大和王権の水軍は全滅し、百済も滅びました。大和王権は唐の進軍を警戒し、こうして福岡に大宰府が設営されました。
この時点で、朝鮮島南部は新羅の支配下になりましたが、北朝鮮より北の一帯は、凄まじい武力を持つ騎馬民族🏇高句麗の領土でした。
高句麗
高句麗は当時最強とまで謳われた重装の騎馬隊を有していました。
高句麗の二番目の統治者ユリ王は、王国の創始者である聖チュモの長男で、彼の生涯は他の朝鮮統治者と同じく『三国志』に記されているとのことです。
唐と新羅は協力し、この高句麗を挟み撃ちにして殲滅しました。
二箇所から同時に攻められると、兵力を二つに分割しなくてはなりません。兵士の数が10万の場合、南北同時に攻められたら5万ずつに軍を分ける必要があるので、兵力が2分の1になってしまいます。似た状況下に第一次世界大戦でイギリス・フランス・ロシアに挟み撃ちにされたドイツ帝国などが挙げられます。
4世紀頃に近畿地方を中心とする勢力の倭国も高句麗と戦を交えましたが、その時に高句麗の騎馬戦力に触れ、戦に馬術が必要だと考えられ始めたようです。
これが倭人が乗馬を始めたきっかけとも言われます。
日本に馬が初めて登場するのが5世紀頃で、弥生時代に魏で執筆された『三国志〈魏志倭人伝〉』には「倭に馬は無し」と記述されていました。
群馬県
大和王権が🐴蒙古馬を輸入し始めた頃、馬は権力の象徴でもありました。古墳時代の群馬県域に〝馬形埴輪〟が多いのは、権力をアピールするためだと考えられます。
馬の導入により、大和王権(近畿地方)と《群馬文化圏》を繋ぐルートが確保され、群馬にも大規模な古墳や、熟練された〝はにわ〟作製の技術が伝来しました。
重要文化財・国宝に指定される〝はにわ〟のうち、40%は群馬県から出土されました。
資料の群馬県ホームページによると、群馬県域の〝はにわ〟は、6世紀の中頃から群馬以外では見られない高度な発達をとげました。そうして有力な豪族がこぞって多くの〝はにわ〟を並べたために《群馬文化圏》の熟練〝はにわ職人〟が育成されたとのことです。
この人間国宝級の職人技は、高句麗の騎馬隊も称賛するに違いないでしょう。
〝はにわ〟の起源は、弥生時代の特殊壷や特殊器台と呼ぶ葬儀用の土器とされます。時代を追って家形や器財形などの形象をかたどった次世代の〝はにわ〟が追加され、古墳時代の中期になって実績と信頼の〝人物埴輪〟や〝馬形埴輪〟が作出されたのです。
2012年から5年を費やして群馬県が実施した古墳総合調査により、県内に1万3249基の古墳が確認されました。
このことから群馬県は東日本最大の古墳大国であるとも言えるでしょう。
フランク王国
飛鳥時代のヨーロッパでは、西ローマ帝国を滅亡させたゲルマン王国が300年のうちに滅びましたが、その中でフランク王国だけが発展し、西欧の中心勢力となっていきました。
5世紀後半に建国されたフランク王国は、西ヨーロッパのほぼ全体を治め、現在のドイツ・フランス・イタリアの基礎がつくられました。
宗教面では"ローマ教皇"を中心として、《キリスト教》の信仰が人々のよりどころとなりました。
▲サン・ピエトロ大聖堂の内装
イタリアのサン・ピエトロ大聖堂は、カトリック教会の総本山。世界最大級の教会堂建築。ルネサンス時代・バロック時代を通じ、ローマ教皇にふさわしい巨大教会堂として再建され、第一級の芸術家たちがその造営に携わりました。創建は4世紀ですが、今の聖堂は二代目(1626年)です。
《カトリック教》の典礼音楽に「グレゴリオ聖歌」があります。ラテン語の祈りの言葉にメロディ���つけた聖歌で、中世まで育まれてきました。フランスでは現在もグレゴリオの教会や修道院があり、神に捧げる祈りの歌を聴けます。
日本でも使用される階名の「ドレミファソラシ」は、西暦1000年頃に修道士で音楽理論家のグィド・ダレッツォが考案したとされます。
グレゴリオ聖歌は数が多く、聖歌隊も覚えるのが困難な状態でした。そこでグィドは『洗礼者聖ヨハネ賛歌』の歌詞(ut〈do〉, re, mi, fa, sol, la)を当てはめて音楽教育に取り入れました。
youtube
当時、典礼音楽のメロディは口伝で伝えられていましたが、音の動きを示すネウマという記号から、四線譜に音符を書き込む楽譜が考案され、さらに五線譜に発達をとげました。
ちなみにトイレの歴史は以外と古く、6,000年前の古代メソポタミア文明には、すでに下水道と水洗型のトイレが使用された痕跡が発見されました。
紀元前2,200年前のイラク北部シュメール時代の遺跡や、バビロニア王国(現トルコ)の都市ウル、古代ギリシャ文明やインダス文明にも下水道はありました。
特に古代ローマは下水道網が発達しており、紀元前7世紀に完成した下水道は現代も使用されています。
ところが5世紀頃に上記の西ローマ帝国が滅びると、古代ローマ式のトイレは失われ、ヨーロッパのトイレ事情は古代文明以下に転落してしまいます。中世ヨーロッパまでのトイレ事情は、この場では差し控えたいと思います。
1830年代のロンドンで感染症コレラが蔓延したのをきっかけに、ようやく衛生観念が芽生えてトイレ事情が改善され始めました。産業革命の時代まで、ヨーロッパでも水洗式トイレは広く普及していなかったのです。
モンゴル帝国と中世までの後継国
▲モンゴル帝国の重騎兵
遣隋使篇
時は607年。隋は高句麗との戦に苦戦していました。
聖徳太子の読みでは、その戦を有利に運ぶために、隋は救援を要請するはずだと考えました。遠くを味方にして近くを攻める「遠交近攻策」という伝統の戦略があります。
隋を師範とし、尊敬してこれからも学びつつも、国との関係は対等になりたい。冊封体制から分離して自立し、独立した国を目指したいと聖徳太子は考え、国書でその考えを表明しました。
「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや」 ◆現代語訳:「おれのほうが上や―!」
せんえつながら筆者が思いますに、日本がどのような国なのか、また国として認めていただいた暁にはどのような朝貢ができるのかというPR文をしっかりと書いた方が良かったのでは……。
飛鳥時代に入るまで、日本に正式な文字体系はなく、歴史書もありませんでした。たとえば弥生時代の邪馬台国に関する情報も日本側には一切残っていません。古墳時代までの日本は歴史の始まる有史時代の前段階、つまり先史時代だったのです。
日本初の歴史書は聖徳太子と蘇我馬子らが漢文でまとめて執筆したとされます。平安時代にひらがなが考案されるまで、歴史書は漢文で書かれていました。
『記紀』は「先祖代々これまでに口伝で伝えられてきた伝承をまとめたもの」とされますが、言い伝えにしては情報量がかなり多いので驚きです。
■神代文字|世界の文字
日本にも古代文字があったという見方もあります。
▲鏡背古字の模写
鏡背古字(きょうはいもじ)の礎となった斎部(いんべ)文字は、斎部氏と橘氏の両家間で極秘裏に使用された文字。織田信長は平氏の子孫を自称していましたが、それは世渡りのためで実のところ斎部氏・橘氏の子孫だともいわれます。
飛鳥時代のまとめ
飛鳥時代とは、"推古天皇"が即位した6世紀末から、平城京遷都までの約120年間を指します。飛鳥時代は、中国と朝鮮半島からの《仏教》伝来にともない、古墳時代から脱皮し、新しい文化を発展させた時代でもあります。政治・経済・社会・文化ともに大変革が試みられました。そうして天皇を中心とした律令国家になった点において、日本国家成立の時代ともいえます。
推古天皇は日本初の女性天皇です。父は欽明天皇、母は蘇我稲目の娘��す。第30代天皇・敏達天皇の皇后になり即位され、その後の政治は聖徳太子と、確執のおこる以前までは叔父の蘇我馬子によって支えられていました。
飛鳥が都に選ばれた理由は、当時は渡来人の力を得て急速に勢力を増していた豪族・蘇我氏の影響が考えられています。蘇我馬子は飛鳥周辺の開発に力を入れ、587年に国内初の本格的な寺院の飛鳥寺を発願しました。
古墳時代の始まりは、邪馬台国が初期の大和王権(政権)に移行する頃で、大和王権の大王たちは、古墳を築き、権勢を誇示しました。飛鳥地域には古墳時代中頃に朝鮮半島から多くの渡来人が新しい技術を携えて日本列島にやって来ました。そうして古墳時���の後半から、多くの渡来人が歴史の表舞台に登場するようになりました。
飛鳥時代は、王権をめぐっての激しい争いが起こり、豪族の間でも対立が深刻化し始めていました。飛鳥時代直前に伝来した《仏教》に関して、崇仏派(左派)の蘇我氏と、排仏派(右派)の物部氏との争いがその一例として挙げられます。
物部氏は国津神(出雲王朝。出雲大社に祀られる神)の子孫、蘇我氏は天津神(大和王権。伊勢神宮に祀られる神)の子孫とされます。つまりこの政争は「天津国」と「国津国」という《神道》における2つの宗派の争いだったという側面もあります。
聖徳太子は、推古天皇が即位した時期に摂政として政治をよく助けましたが、その政策は《仏教》を基調とするものでした。天皇中心の統一国家を築き上げるため、冠位十二階を定め、憲法十七条を制定し、史書の編纂をはじめたのです。
飛鳥時代の東アジアは、589年に隋が中国の南北朝を統一するとともに、朝鮮半島において諸国間の戦闘が激化した動乱の時代でした。618年に隋が滅んで唐がおこると、唐は律令によって国家体制を整え、その影響力は周辺諸国に波及し、国際情勢は大きく変化しました。遣隋使・遣唐使が派遣されたのもこの時代で、朝鮮半島は7世紀まで百済・新羅・高句麗の三国に分かれていました。日本は皇室とゆかりのある朝鮮諸国の百済と交流をかさねましたが、663年の唐・新羅による連合軍との戦(白村江の戦い)で、日本と百済の連合軍は惨敗を喫し、百済国は滅亡しました。
645年の大化の改新や、672年の壬申の乱後は、天武天皇によって持統天皇の時代になりました。694年には飛鳥から【藤原京】への遷都がおこなわれました。飛鳥時代は、大陸の制度や技術、文化を積極的に導入し、文明化を推し進めた時代でもありました。《仏教》の伝来と定着はその先駆けであり、冠位十二階・十七条憲法の制定、飛鳥寺の造営など��、新しい政治思想や宗教観に基づく国づくりの始まりとみることができます。
飛鳥京に続く【藤原京】は、中国の条坊制に基づく日本最初の都城であり都市の誕生でもありました。条坊制とは、中国・朝鮮半島・日本に見られる都市計画で、南北中央に朱雀大路を配し、南北の大路と、東西の大路を碁盤の目状に組み合わせた左右対称・方形の都市プランのことを指します。「飛鳥文化」という語には、飛鳥京・【藤原京】の地が、政治や文化としての飛鳥時代の文化、という意味と、美術史上の区分としての仏教を中心とした文化、という意味の二つがあります。
【藤原京】
【藤原京】は、壬申の乱により即位した天武天皇の計画により、唐の都城を参考にして造営された日本で初めての本格的な都市です。 藤原京の大きさは、南北約4.8キロメートル、東西約5.2キロメートル。藤原宮を中心とする新都【藤原京】は、それまでの飛鳥の宮都とは大きく異なっていました。
特筆すべき点は、全体計画のもとに築かれた日本初の中国式の都城であること。先進の中国・朝鮮の都城を模し、東西路「条」と南北路「坊」を碁盤目状に配す条坊制としました。その中心をメインストリートの朱雀大路が南北に貫きます。
《儒教》の教典『周礼』において、「王城は一辺9里の正方形で、側面にはそれぞれ3つずつの門を開く。城内には、南北と東西に9条ずつの街路を交差させ、幅は車のわだち(8尺)の9倍とする。中央に天子の宮、その���に祖先の霊を祀り(宗廟)、西に土地の神を祀る(社稷)。前方、南には朝廷、後方、北には市場を置く」とあります。
二分された京の東側を「左京」、西側を「右京」とし、街区は格子状に整然と区画されました。都全体が秩序正しい方形を成します。当時の推定人口は3万~5万人。近年の発掘により、京域については平城京をしのぐ日本最大の古代都市であったことも明らかになりました。ちなみに、【藤原京】とは近代に作られた学術用語であり、『日本書紀』には「新益京(あらましのみやこ)」と記されています。
しかし【藤原京】は、わずか16年で廃都となりました。なぜこれほどの大都市が短命で終わってしまったのか通説によると、湧水が起きる沼地が多かったため、ゴミや汚水処理が追いつかなくなったため、飢饉や疫病・自然災害が頻発したため、大阪湾と都を結ぶ河川の水運が不便だったためと、諸説ありますが、真相は依然として謎に包まれたままとのことです。
飛鳥時代は《仏教文化》が導入された時代で、日本文化の基礎が花開いた時代でした。飛鳥寺や法隆寺などの壮大な寺院が建立され、仏教建築や仏像製作などの荘厳な飛鳥文化が生み出されました。飛鳥文化の中核をなしたのは、朝鮮半島からの渡来文化であり《仏教》とともに寺院造営のための建築、土木、庭園、彫刻、絵画、工芸、芸能など多様な技術・文化が導入されました。
特に百済国は、中国南朝の梁から入手した教義・書物やさまざまな文明要素を倭国に伝えました。しかし《百済仏教》のみが伝来したというわけではなく《高句麗仏教》《新羅仏教》や、遣隋使・遣唐使を通じた《中国仏教》、《儒教》や《道教》も伝来しました。
インド発祥の《仏教》と梵語のお経が漢文に翻訳され、その漢文のお経が日本に伝来するまで、およそ千年ほどの歳月がかかったとされます。
《日本仏教》における《真言宗》の教祖"弘法大師・空海"が、初めて遣唐船に乗ったのは804年のこと。その前年にも難波から遣唐船が出航しましたが、嵐に遭遇して失敗しました。満を持して翌年に再び難波を出発した空海は、四隻の船団の第一船に乗っていました。
瀬戸内海を通って九州に着き、それから肥前の港を出航しましたが、翌日にまた暴風雨に遭って船団は離散し、ぶじに大陸に漂着したのは四隻のうち空海の乗った第一船と第二船の二隻だけでした。
空海が遣唐使船に乗って��港した頃は、日本に羅針盤や気象に関する知識はなく、船も箱を海に浮かべたようなものだったので波で簡単に沈みました。8世紀の遣唐船ですべての船が無事に往復できたのは一度だけ。遣唐船が4隻なのは、一隻だけでも唐にたどり着くためだったのだとか。
その後、空海は平安時代初期の806年に修行を終えて、唐より命がけの航海を終えてぶじに帰国しました。そうして816年に高野山金剛峯寺を開創されました。
日本文学の原点といわれる『万葉集』には、文学作品としてもすぐれた飛鳥時代の歌謡が多数収録されており、中には橘氏を下賜された"橘三千代"の和歌も収録されています。
◆参考資料:公益財団法人・古都飛鳥保存財団
飛鳥時代の歴史には、いまだ解明されていない問題が残されており、今後の調査研究を待たなければならないことも数多くあります。
飛鳥時代の年表
523年〈朝鮮〉桓武天皇の先祖・百済の武寧王没 528年〈朝鮮〉新羅に《仏教》伝来 534年〈中国〉北魏が東西に分裂 538年〈日本〉百済より《仏教》伝来 562年〈朝鮮〉新羅が隣国の大加耶を滅ぼす 584年〈日本〉蘇我馬子、自宅に百済伝来の仏像を造る 586年〈朝鮮〉高句麗、長安城へ遷都 589年〈中国〉隋が中国を統一 592年〈日本〉崇峻天皇が暗殺され、推古天皇即位 593年〈日本〉聖徳太子が摂政となる 607年〈日本〉小野妹子らを隋に派遣(遣隋使) 611年〈中国〉隋、三回にわたり高句麗遠征 624年〈朝鮮〉高句麗・百済・新羅が唐の册封を受ける 663年〈日本〉日本&百済の連合軍、唐&新羅の連合軍に大敗。百済滅亡 667年〈朝鮮〉唐と新羅が協力し、高句麗を征服 672年〈日本〉壬申の乱 676年〈朝鮮〉新羅が朝鮮半島を統一 694年〈日本〉【藤原京】に遷都
◆参考資料:公益財団法人・古都飛鳥保存財団
youtube
《カードキャプターさくら》ヒロインの苗字"木之本"は、現・奈良県の大和国土市郡木之本村が起源とされます。近年では奈良県を始め、近畿地方に多い苗字です。
youtube
"大道寺"姓のルーツは大道寺氏。中臣鎌足(藤原氏)の子孫とされます。現在の京都府綴喜郡宇治田原町の大導寺が発祥。大道寺家は《室町時代》中期に伊豆国へ向かい、北条氏の重臣として仕えました。
洗礼者ヨハネの賛歌
youtube
▲グレゴリオ聖歌「洗礼者ヨハネの賛歌」
0 notes
Text
「虚無への供物」中井英夫 3351
第三章
35 殺人日暦
この節のタイトルは、殺人日暦。 日暦とは日めくりのことですね。 殺人が毎日のように起きているということを表しているようです。
どうも書き方が回りくどいというか、無理やりこの3番めの事件も殺人にしたいというふうに書いてる感じがします。 「ザ・ヒヌママーダー」は正確に進行していると。 しかも、紅司の構想した「凶鳥の黒影」が実際に死体で綴られ、狂人Cまでが次々と殺され残された。 Dの死もすでに予定されていると、です。
三月七日、高田馬場の駅前で落ち合った亜利夫と久生が下落合の牟礼田の家に一緒にいきます。 亜利夫が久生を“赤の女王”と例えてますが、これどういう意味でしょう? そんなのでてきましたっけね。 今の久生の格好が、ペールピンクのスーツに同じような色のクロシェを横かぶりにし、トルコ石のイヤリングという格好です。 ペールピンクは、ピンクに白を混ぜたような淡いカラーのことです。 クロッシェ帽子は、フランス語で「釣り鐘」を意味するようにクラウン全体がなだらかに丸く、 全体的に狭めのデザインのブリムは後ろより前の方が長く下向きに下がった形。 フェイスラインをすっきり と明るく魅せるフォルム��特徴で、エレガントでクラシックな雰囲気を 季節に関係なく堪能できる女性用帽子です。 今の服装の色合いがまさに“赤の女王”ということなんでしょうか?
移動中の会話で、藍ちゃんが失踪したことや、蒼司さんが流行りのウィールスBで寝込んでいることが明かされます。 昭和30年には、大流行はしてないようですから、 違うのかもしれませんが、蒼司さんが感染したのは、B型インフルエンザのことでしょうか?
また、蒼司さんが寝込んでいることで、紅司さんの薔薇が手入れもされず荒れ果てた庭の奥で新芽をふくらませていると、わざとらしく挿入されます。 なにかの伏線ですかね?
さて、牟礼田と一緒に出迎えたのは、月原伸子です。 藍ちゃんの言っていた“ルナちゃん”です。 “ルナちゃん”は牟礼田になにか相談あがあって来たみたいです。 内容は明かされません。本編に関係がないのか?でも、それならなぜここに登場したのか? それとも、いずれわかるのでしょうか?
さて、牟礼田と久生、そして亜利夫との会話です。
牟礼田にとっては、鴻巣玄次というキャラクターが存在していたことが、意外なようです。 紅司君の日記の中にも出てくる理由がわからないとです。 牟礼田が鴻巣玄次が存在しなと考えた理由として、紅司君の背中の瘢痕のことをあげます。 なかなか手際がいいですが、嶺田医師にアトピー性皮膚炎だっということを確かめています。
どこでどう知り合ったのかは置いておくとしても、 鴻巣玄次が毎週水曜日と土曜日にボディビルのジムへ出かけていた。 で氷沼家の二つの事件はやっぱり水曜と土曜の夜。なので、鴻巣玄次が事件に絡んでいるのではないかと、久生が問いかけますが、 牟礼田は、やはり手際よく、アリバイを調べています。 1954年(昭29)12月22日は、東京・蔵前国技館で実現した力道山と木村政彦とのプロレス日本ヘビー級王座決定戦。 「昭和の巌流島」といわれていますが、力道山が木村を一方的に痛めつける凄惨な試合だったようです。 常連の若手舞踏家の藤間百合夫とマネージャーがそのおかげで、鴻巣玄次のことも覚えていた。 つまり完璧なアリバイがあるということですね。 ちなみに、藤間百合夫は、三島由紀夫のことらしいです。 ここは仮名なんですね。
久生は、紅司君が鴻巣玄次のことを知っていたのは、八田皓吉から聞いたのだろうといいますが、 牟礼田は、第三者が陰にいるのかもしれないといいます。なんか、おかしいんですよね。 誰か別の人物から目をそらせようといているような感じです。 いままでのことを考え��もどうもうまく行かない。と、亜利夫は遠慮がちに口をはさみます。
それに、牟礼田が答えます。 「��の第四の密室殺人を先に作り出してしまうんだ」と、です。 なんのことでしょう? これからわかるとは思いますが、待った意味がわかりません。 ただ、小説の形式で書いてみせてもいいとなっていますから、小説、作中作を書くとでもいうことなんしょう。
牟礼田は、隣の部屋から何やら書き付けた紙片を持ってきますが、奇妙な暗号だといいます。 その紙片は、殺人暦だといいますが、三月一日から六日まで毎日新聞に出ていた殺人の見出しを写したものです。 これに何の意味があるんでしょうか?
と思っていたら、久生が読者の意見を代弁してくれましたね。 牟礼田も業を煮やしたのか、 八田皓吉がどうやってあの狭い六畳の密室から脱け出すことができたのか、名探偵を見習って説明するといいま。 しかも、なんと別の次元の断面が口を開けていると。 つまり、天井でも壁でも床でもない部屋というものを構成する三次元のほかに第四次元の出入り口があって、犯人はそこから自由に出入りしたとです。
そうです、そうこなくては面白くありません。 次に期待ですね。
つづく
0 notes
Text
志
H:「大宋少年志」,的志,記錄事物的書。志應分在經史子集的史部。但在此只是戲名。學「三國志」,是正式史學。如同日本的事件簿,如「金田一少年事件簿」。日本的「物語」,原意為「談話」,後引申為故事、傳記、傳奇等意思,如「竹取物語」。大宋少年志第6集,談秘閣上課三種課程有追蹤,武藝,黑道秘聞。黑道在西漢前期已有,史記游俠列傳有「郭解」之黑道人物。外國有黑手黨,日本有極道,台灣有黑道。《風起隴西》講述蜀國與魏國的諜戰故事。諜戰,孫子兵法用間第十三篇,就是間諜戰。大宋少年志,是北宋情報部門反間諜戰。志是記載的書,人人可用志的名稱來說自己的故事。20240723W2
網路字典
志
名:意向、抱負、決心。如:「意志」、「志同道合」。《論語.公冶長》:「盍各言爾志。」
記錄事物的書。如:「府志」、「三國志」。《周禮.春官.小史》:「小史掌邦國之志。」
姓。如元代有志能。
動
記載、記錄。通「誌」。《周禮.春官.保章氏》:「掌天星,以志日月星辰之變動。」
牢記。如:「永志不忘」。《荀子.子道》:「孔子曰:『由志之,吾語汝。』」
事件簿
看了書之後才知道事件簿的意思原來就是指虛擬一事件來做為學習的憑藉。 以前學習總是用條列式方法一味地填鴨,收到的訊息越多就越混淆,然後因為失去信心便對日文投降了。 《事件簿學日語》把學習當成演戲,藉由角色在不同事件中對話與不斷地出糗,了解自己��了何種日文使用上的錯誤。
物語
物語是傳統日本文學的一種體裁,原意為「談話」,後引申為故事、傳記、傳奇等意思,是一種擴大化了的、具有散文性質的、用來敘述故事的文學體裁,可與史詩相比較。
《大宋少年志》是由伊崢、王飛、彭學軍、羅志剛、劉崇傑執導,王倦擔任劇本策劃,張新成、周雨彤、鄭偉、王佑碩、禾浩辰、蘇曉彤、徐偉棟、盧慶輝主演,高梓淇、閆肅、劉美含特邀出演的古裝懸疑勵志劇[1][43]。
該劇以風雲暗湧的北宋慶曆年間為背景,講述一羣經歷、才華、個性各異的少年組成團隊“第七齋”,在挫敗一個個陰謀、守護天下安寧的同時,自身也實現真正成長的故事[1]。
劇情簡介
慶曆年間,北宋貌似繁華安定的景象下暗潮洶湧,周邊各個割據政權的細作潛伏於開封城內,窺探大宋軍政秘事。北宋為免除戰事,維護各民族間的和平與穩定,借秘閣之名,培訓少年暗探。經過嚴密的選拔和審查,詭詐聰慧的元仲辛(張新成飾)、美貌機敏的趙簡(周雨彤飾)、從不殺生的小景(蘇曉彤飾)、絕不説謊的王寬(王佑碩飾)、不愛交流的薛映(鄭偉飾)、喜歡美女的韋衙內(禾浩辰飾)六位少年,因為種種原因,或情願或被迫,組成了秘閣第七齋[19]
入學之初,少年們心裏都有着自己的小算盤,學習的同時也把學齋鬧得雞飛狗跳,讓學官們頭疼不已。然而在經歷了一次次生死相關的任務後,曾經年輕懵懂的少年們逐漸成長,他們互相團結,用自己的熱血和忠誠,為保衞和平獻身。在歷史的長河中,他們隱姓埋名,成就無人知曉的暗影傳奇[19] 。
大宋少年志第6集,劇中秘閣第七齋,三門課追踪,武藝,黑道秘聞。
陸觀年準備將一項重要任
交給第七齋,任務開始前
他會安排三位老師給他們加緊上課,三門課分別是追蹤、武藝和秘密秘聞,上課之前他們必須選出一位齋長,由齋長來主導齋內的成員。 齋長之位須由齋內成員投票決定。
第一堂課是黑道秘聞,由
老賊來教學,老賊簡單教過一些刺面知識後就將他們趕至院裡,教導追蹤術的老師正在院中等著他們。 所有人前往院內,昔日的信安軍岳軍校前來見過六人,他給出的第一個任務就是要求六人能在院中碰到他。 岳軍校的身手極快,他輕如鴻雁,四人齊上都無法抓到岳軍校,
元仲辛決定出其不意地用沙子灑向岳軍校,讓沙子碰到岳軍校,可岳軍校身上根本就沒有沾上半點灰塵。 趙簡不信岳軍校的話,她要求岳軍校給她檢查,岳軍校答應。
維基百科:
極道(日語:極道/ごくどう Gokudō)俗稱ヤクザ Yakuza,指日本社會裡從事暴力或有組織犯罪活動的人士或團體。「ヤクザ」這一俗稱來自日本紙牌遊戲花札(玩法一說是「おいちょかぶ」)的一個最壞組合「八九三」(ヤクザ),或說是指鄉里仲裁糾紛的單位「役座」(ヤクザ)而來(因江湖人士總處於糾紛之中)。
臺灣黑幫,亦可稱為臺灣黑道、臺灣黑社會、臺灣幫派,是指在臺灣從事非法活動的祕密組織。在現代臺灣社會上,對其之定義等同於中華民國政府公布的《組織犯罪防制條例》中所定義的犯罪組織,即「本條例所稱犯罪組織,指三人以上,以實施強暴、脅迫、詐術、恐嚇為手段或最重本刑逾五年有期徒刑之刑之罪,所組成具有持續性或牟利性之有結構性組織。前項有結構性組織,指非為立即實施犯罪而隨意組成,不以具有名稱、規約、儀式、固定處所、成員持續參與或分工明確為必要。」目前,混跡於臺灣社會上的大型幫派主要有三:一是成立於1954年5月的四海幫。二是成立於1957年的竹聯幫。三是成立於1986年10月的天道盟。
黃賭毒
早期的黑幫成員多以經營特種行業,如酒店、色情、賭博,以及充當傭兵進行保鑣、地方圍事、調解糾紛等活動為主要資金來源。近年來許多幫派更企業化,以企業名義招收員工當小弟經營幫派的理念來運作,在台灣,著名的四海幫,可說是此一概念的先驅。
地下融資
絕大部份的台灣黑幫經營台灣各種地下融資,如融資六合彩賭博、互助會、股票融資、身份證融資、偽造信用卡、借錢買���、網路賭博等。
大專生成員
大多以吸收原先家庭與黑幫有染的成員,絕大部份擁有大專及碩士以上學歷,大專生以身為黑幫智庫為榮,並以刺青圖樣分類堂口,許多人士以臺灣男子必服的義務役習慣稱號,互稱學長、學弟,包含網路打手,網路堂口等。尤其外省掛,早期皆出身校園幫派組織,所以更有系統進入校園,以老鼠會直銷模式吸收學生入幫;雖然號稱數萬幫眾,不過幾乎六、七成以上都只是「玩票」、「跑龍套」、「走路工」性質的學生或中輟生。
有組織犯罪(英語:Organized crime)是一種以集團化、階層組織化的方式,集合犯罪份子,進行分工的非法犯罪。這類型的犯罪,收入來源一般涉及暴力、詐騙、色情、聚賭和毒品等行為或交易,有時也會旁及傳統謀生方法,但依然包括了綁票、恐嚇等,通常涉及大量的金錢及利潤。其犯罪行為可能只限於區域,也可能發展為跨國性的活動。如恐怖組織這類型的組織犯罪,可能具備政治動機。在組織犯罪之下,可能會以雇用或是強迫方式,讓一般人參與在犯罪活動中,或是以保護費等名義,要求小店舖或是企業捐獻金錢來協助他們犯罪。參與組織犯罪的罪犯,通常會接受一定程度的訓練,接受其上級命令來進行犯罪,與一般罪犯不同。這種犯罪組織(criminal organization,又稱有組織犯罪集團)或是幫派,常被稱為暴徒(mob)、黑手黨(mafia)、黑幫(crime syndicate);由犯罪組織形成的非正式社會網絡,常被稱為黑社會、地下社會(underworld)、黑暗聯盟或黑暗組織。中是自外於規範社會的組織,卻存在著內部獨有的社會規範,組織上通過秘密結社凝聚力量以為基本組成,以傳統人際關係和結誼為中堅,以社團利益相關者為核心的組織,這些組織集團更可以構建龐大的地下社會與政治力量。一些觀點認為,犯罪和黑社會存在於世界上所有的社會當中,所有的社會都有自己的黑道團體存在[1]。
所謂的幫主、護法、堂主之類的,仔細考察一下就知道是參考自武俠小說的,如果再想到這些幫派都是這些仁兄學生時代組成的話,那還真的蠻配現在流行的「中二病」的。
古代的黑社會犯罪大約至西漢前期,黑社會勢力曾經達到極其猖獗程度。漢武帝時期河內的郭翁伯團夥,就是這樣一股「豪俠」相結合的黑社會勢力。其中黑老大郭解,字翁伯,司馬遷親眼見過,說他身材短小,談吐平庸,但在其平平外表外,卻稍有不快便白刃相見,那真是殺人不眨眼。
史記游俠列傳郭解
郭解,軹人也,字翁伯,善相人者許負外孫也。解父以任俠,孝文時誅死。解為人短小精悍,不飲酒。少時陰賊,慨不快意,身所殺甚眾。以軀借交報仇,藏命作姦剽攻,(不)休(及)[乃]鑄錢掘冢,固不可勝數。適有天幸,窘急常得脫,若遇赦。及解年長,更折節為儉,以德報怨,厚施而薄望。然其自喜為俠益甚。既已振人之命,不矜其功,其陰賊著於心,卒發於睚金故云。而少年慕其行,亦輒為報仇,不使知也。解姊子負解之勢,與人飲,使之嚼。非其任,彊必灌之。人怒,拔刀刺殺解姊子,亡去。解姊怒曰:「以翁伯之義,人殺吾子,賊不得。」棄其尸於道,弗葬,欲以辱解。解使人微知賊處。賊窘自歸,具以實告解。解曰:「公殺之固當,吾兒不直。」遂去其賊,罪其姊子,乃收而葬之。諸公聞之,皆多解之義,益附焉。
10
解出入,人皆避之。有一人獨箕倨視之,解遣人問其名姓。客欲殺之。解曰:「居邑屋至不見敬,是吾德不修也,彼何罪!」乃陰屬尉史曰:「是人,吾所急也,至踐更時脫之。」每至踐更,數過,吏弗求。怪之,問其故,乃解使脫之。箕踞者乃肉袒謝罪。少年聞之,愈益慕解之行。
11
雒陽人有相仇者,邑中賢豪居閒者以十數,終不聽。客乃見郭解。解夜見仇家,仇家曲聽解。解乃謂仇家曰:「吾聞雒陽諸公在此閒,多不聽者。今子幸而聽解,解柰何乃從他縣奪人邑中賢大夫權乎!」乃夜去,不使人知,曰:「且無用,(待我)待我去,令雒陽豪居其閒,乃聽之。」
12
解執恭敬,不敢乘車入其縣廷。之旁郡國,為人請求事,事可出,出之;不可者,各厭其意,然後乃敢嘗酒食。諸公以故嚴重之,爭為用。邑中少年及旁近縣賢豪,夜半過門��十餘車,請得解客舍養之。
13
及徙豪富茂陵也,解家貧,不中訾,吏恐,不敢不徙。衛將軍為言:「郭解家貧不中徙。」上曰:「布衣權至使將軍為言,此其家不貧。」解家遂徙。諸公送者出千餘萬。軹人楊季主子為縣掾,舉徙解。解兄子斷楊掾頭。由此楊氏與郭氏為仇。
14
解入關,關中賢豪知與不知,聞其聲,爭交驩解。解為人短小,不飲酒,出未嘗有騎。已又殺楊季主。楊季主家上書,人又殺之闕下。上聞,乃下吏捕解。解亡,置其母家室夏陽,身至臨晉。臨晉籍少公素不知解,解冒,因求出關。籍少公已出解,解轉入太原,所過輒告主人家。吏逐之,跡至籍少公。少公自殺,口絕。久之,乃得解。窮治所犯,為解所殺,皆在赦前。軹有儒生侍使者坐,客譽郭解,生曰:「郭解專以姦犯公法,何謂賢!」解客聞,殺此生,斷其舌。吏以此責解,解實不知殺者。殺者亦竟絕,莫知為誰。吏奏解無罪。御史大夫公孫弘議曰:「解布衣為任俠行權,以睚眥殺人,解雖弗知,此罪甚於解殺之。當大逆無道。」遂族郭解翁伯。
15
自是之後,為俠者極眾,敖而無足數者。然關中長安樊仲子,槐裏趙王孫,長陵高公子,西河郭公仲,太原鹵公孺,臨淮兒長卿,東陽田君孺,雖為俠而逡逡有退讓君子之風。至若北道姚氏,西道諸杜,南道仇景,東道趙他、羽公子,南陽趙調之徒,此盜跖居民閒者耳,曷足道哉!此乃鄉者朱家之羞也。
16
太史公���:吾視郭解,狀貌不及中人,言語不足採者。然天下無賢與不肖,知與不知,皆慕其聲,言俠者皆引以為名。諺曰:「人貌榮名,豈有既乎!」於戲,惜哉!
維基文庫
孫子兵法用間第十三
編輯
孫子曰:凡興師十萬,出征千里,百姓之費,公家之奉,日費千金,內外騷動,怠於道路,不得操事者,七十萬家。相守數年,以爭一日之勝,而愛爵祿百金,不知敵之情者,不仁之至也,非人之將也,非主之佐也,非勝之主也。故明君賢將,所以動而勝人,成功出於眾者,先知也。先知者,不可取於鬼神,不可象於事,不可驗於度,必取於人,知敵之情者也。
故用間有五:有鄉間,��內間,有反間,有死間,有生間。五間俱起,莫知其道,是謂「神紀」,人君之寶也。鄉間者,因其鄉人而用之;內間者,因其官人而用之;反間者,因其敵間而用之;死間者,為誑事於外,令吾間知之,而傳於敵間也;生間者,反報也。
故三軍之事,莫親於間,賞莫厚於間,事莫密於間,非聖智不能用間,非仁義不能使間,非微妙不能得間之實。微哉!微哉!無所不用間也。間事未發而先聞者,間與所告者皆死。
凡軍之所欲擊,城之所欲攻,人之所欲殺,必先知其守將、左右、謁者、門者、舍人之姓名,令吾間必索知之。必索敵人之間來間我者,因而利之,導而舍之,故反間可得而用也;因是而知之,故鄉間、內間可得而使也;因是而知之,故死間為誑事,可使告敵;因是而知之,故生間可使如期。五間之事,主必知之,知之必在於反間,故反間不可不厚也。
昔殷之興也,伊摯在夏;周之興也,呂牙在殷。故明君賢將,能以上智為間者,必成大功。此兵之要,三軍之所恃而動也。
四部分類法
四部分類法,是分類大部分中國古典典籍的方法,分經、史、子、集四類,這四類基本上囊括了中國古代的所有書籍。[1]
清乾隆時曾由政府編纂四庫全書,亦按照經史子集分類編輯。據文津閣藏本,四庫全書收錄古籍三千五百零三(3503)種、七萬九千三百三十七(79337)卷、裝訂成三萬六千餘冊。其中:
經:包括政教、綱常倫理、道德規範的教條,主要是儒家的典籍,有儒學十三經:《周易》《尚書》《周禮》《禮記》《儀禮》《詩經》《春秋左傳》《春秋公羊傳》《春秋穀梁傳》《論語》《孝經》《爾雅》《孟子》。專門研究經類的學問,成為經學。分為易、書、詩、禮、春秋、孝經、五經總義、四書、樂、小學十類。
史:包括各種體裁的歷史、地理和典章制度著作,分為正史、編年體、紀事本末體、別史、雜史、詔令及奏議、傳記、史鈔、載記、時令、地理、職官、政書、目錄、史評十五類。
子:包括諸子百家及釋道宗教著作,分為儒家、兵家、法家、農家、醫家、天文算法、數術、藝術、諸錄、雜家、類書、小說家、釋家、道家十四類。
集:包括歷代作家個人或多人的散文、駢文、詩、詞、散曲等的集子和文學評論、戲曲等著作。分為楚辭、別集、總集、詩文評論、詞曲五類。
民國以來,舊籍編目,多沿用四部分類法;中華民國遷台之後,各��書館董理善本,亦均採四分之例。現代治學研究,若能熟諳四部分類法,仍不失為一好方法。
經
主條目:經學
易經《歸藏》春秋《春秋》《左傳》《公羊傳》《穀梁傳》《春秋繁露》《春秋經傳集解》尚書《古文尚書》詩經《毛詩》《韓詩外傳》樂《樂經》《樂譜》《琴譜》禮《儀禮》《禮記》《大戴禮記》《夏小正》《周禮》五經總義、論語、爾雅《爾雅》《廣雅》《方言》《白虎通》《六藝論》孝經經解《諡法》《白虎通義》小學《急就章》《千字文》《說文》《字林》《玉篇》《聲韻》《四聲》緯書《河圖洛書》《河圖》孟子
史
主條目:史書 (東亞)
正史二十四史、史記三家注紀事本末《通鑑紀事本末》《三朝北盟會編》《左傳紀事本末》編年《竹書紀年》《漢紀》《後漢紀》《資治通鑒》《稽古錄》別史《逸周書》《東觀漢記》《通志》《戰國策》雜史《貞觀政要》《蒙古源流》政書《通典》《文獻通考》《大唐開元禮》地理《太平寰宇記》《水經注》《洛陽伽藍記》《大唐西域記》《徐霞客遊記》《東京夢華錄》《天下郡國利病書》史評《史通》《文史通義》《讀通鑑論》《資治通鑒綱目》《宋論》傳記《列女傳》《唐才子傳》《歷代名臣奏議》《高士傳》《入蜀記》《晏子春秋》目錄《崇文總目》《郡齋讀書志》《直齋書錄解題》載記《吳越春秋》《華陽國志》《十六國春秋》時令《欽定月令輯要》職官《唐六典》、漢官六種詔令奏議《唐大詔令集》《兩漢詔令》《歷代名臣奏議》史鈔《通鑑總類》
子
主條目:諸子百家
儒家《曾子》《新語》《鹽鐵論》《說苑》《西銘》《朱子語類》《孔子家語》道家《道德經》《文子》《鶡冠子》《列子》《莊子》《孫子》《廣成子》《老子》法家《管子》《商君書》《慎子》《韓非子》墨家《墨子》名家《鄧析子》《尹文子》《人物誌》農家《齊民要術》縱橫家《捭闔策》雜家《博物志》《古今注》《呂氏春秋》小說家《博物志》《太平廣記》《世說新語》
《山海經》
醫家《本草圖經》《本草綱目》《素問》《針灸甲乙經》《靈樞經》《脈經》兵家《孫子兵法》《六韜》《象經》曆數《四分曆》《九章算術》《孫子算經》天文《周髀》五行
集
文集《楚辭》《昭明文選》《郁離子》道經《靈寶經》佛經《阿含經》《四分律》《法華經》《華嚴經》
0 notes
Text
1.安排喪禮
1.安排喪禮
A. 持牌殮葬商(“長生店”)
法例規定,從事承辦一切或任何與火葬或埋葬人類遺體有關的人,其行業或業務須持有食物環境衞生署發出的有效殮葬商牌照。
全港現有131多間持牌殮葬商,其名單及地址上載於食物環境衞生署網頁:http://www.fehd.gov.hk/tc_chi/cc/lu.pdf。(名單乙的持牌殮葬商不得在持牌處所內存放先人骨灰。)
全港現有的7間持牌殯儀館,同時持有殮葬商牌照。
除了7間同時持有殯儀館牌照的殮葬商外,其他持牌殮葬商不設殮房和禮堂等設施。其主要服務包括運送遺體、安排喪禮儀式及租用殯儀館等。
持牌殮葬商職員一般可協助辦理火葬或土葬事宜,例如:
領取“死亡登記證明書”[表格 12](俗稱“行街紙”)
領取“死亡登記證明書”[表格 10](俗稱“土葬紙”)
領取“火葬許可證”[表格 3](俗稱“火葬紙”)
預訂火化時段或土葬地點
租用殯儀館禮堂及殮房設施等
B. 於殯儀館舉行喪禮
全港現有7間持牌殯儀館
均設有禮堂和存放及處理遺體的殮房。當中兩間由非牟利機構營辦
持牌殯儀館名單上載於食物環境衞生署網頁
離世者親屬若要租用殯儀館的禮堂及殮房設施
可透過任何一間持牌殮葬商代辦或直接向殯儀館查詢
C. 於宗教場地舉行喪禮
如離世教友需在宗教場地舉行喪禮
可直接聯絡所屬宗教團體及透過持牌殮葬商作出安排。
D. 醫院提供的“院出”服務
離世者如在醫院去世
-離世者如在醫院去世
-大部分醫院設有告別室(或類似房間),設有“告別室”的醫院及其查詢電話如下
親屬可在舉行簡單送別儀式後,把遺體直接送往火葬場或墳場進行火葬或土葬。
設有“告別室”的醫院及其查詢電話如下
港島東
東區尤德夫人那打素醫院(2595 6224) 律敦治及鄧肇堅醫院(2291 1030)
港島西
葛量洪醫院(2518 2201) 瑪麗醫院(2255 3678) 東華三院馮堯敬醫院(2855 6111)
九龍中
佛教醫院(2339 6127) 伊利沙伯醫院(3506 8434)
九龍東
將軍澳醫院(2208 0906) 基督教聯合醫院(3513 3572)
九龍西
明愛醫院(3408 6345) 廣華醫院(3517 6194) 聖母醫院(2354 2209) 仁濟醫院(2417 8146)
新界東
雅麗氏何妙齡那打素醫院(2689 3426) 北區醫院(2683 7112) 威爾斯親王醫院(3505 2252) 沙田醫院(2636 7509)
新界西
博愛醫院(2486 8846) 屯門醫院(2468 5148)
一般而言,醫院提供“院出”服務的辦公時間為上午9時至下午1時及下午2時至5時。親屬可致電個別醫院查詢有關安排
瑪麗醫院內的「惜別間」
東區醫院內的「永寧軒」
博愛醫院內的「寧心軒」
威爾斯親王醫院內的「靜念堂」
親屬可委託持牌殮葬商考慮以“院出”服務在該醫院進行送別儀式。“院出”服務一般只適用於在該醫院去世的病人。
E. 相關殯葬、殯葬支援及輔導服務等機構的聯絡 資料
持牌殮葬商
F. 棺木
可按不同喪禮儀式(例如中式或西式)
可按不同喪禮儀式(例如中式或西式)和遺體處理方法(例如用於火葬的棺木有特定限制)選擇合適的棺木。不同款式的棺木資料可參閱附錄五。
平台 : loveforever.hk
相關服務:
彥福公司
榮發殯儀善終服務
隨緣
桐福殯儀
新發服務
善安人生
0 notes
Text
2023年11月
◆11月5日 (日) 大牟田 石炭産業科学館 炭都国際交流芸術祭in大牟田2023 特別企画- interactive -
■Sound Installation+Performance/ 音と映像と身体��パフォーマンス
15:30-16:30 申込不要、鑑賞無料 石炭産業科学館 2F オリエンテーション室 (福岡県大牟田市岬町6-23) 交通アクセス | 大牟田市石炭産業科学館 (sekitan-omuta.jp)
6人のアーティストが、石炭や石炭館にあるさまざまなものを素材にして出した音を収録し、サウンドインスタレーションを構築。それぞれのアーティストのリレー形式の音や映像ともに、身体表現のパフォーマンスを行います。
Aritst 【映像】 長野 光宏 @naganomit 宋 秀臣 @sou_hideomi KT @kt_exp 竹永 省吾
【音楽】 little side effect @littlesideeffect
【身体】 松岡 涼子
第11回炭都国際交流芸術祭in大牟田 https://tantobiennale.wixsite.com/omuta/2023interactive
◆11月15日 (水) 箱崎水族舘喫茶室 『長沢哲 drums Solo / guest 松岡涼子』
長沢哲 (drums) 松岡涼子 (舞踏)
open 19:00 start 19:30 charge ¥2,000+order
箱崎水族舘喫茶室 〔福岡市東区箱崎1-37-21 tel/092-986-4134〕 (JR箱崎駅、地下鉄箱崎宮前駅から徒歩数分 )
0 notes
Text
20230804-1
0804 きままなTV・メディア情報です(不定期刊)
「『ラジオの特性・広告効果に関する研究』調査結果について」(民放連)
https://j-ba.or.jp/category/topics/jba106046
「テレ東HDの4~6月、純利益7%減 自社株買い4億円も」(日経)
「NHK業務拡大に新聞協会が『反対』表明 自民調査会で」(産経)
「NHKネット文字ニュースは『ルール軽視の野放図な展開』…自民党調査会で批判相次ぐ」(読売)
「9/15映画公開記念 CX『ミステリと言う勿れ特別編』9/9新撮+“タイムカプセル編”放送」(ニッカン)
「カンテレ社長が長寿番組『よ~いドン!』円広志に無期限“続投要請”『今の70歳は元気』」(ニッカン)
「動画配信、ネット接続型テレビの市場広げる」(日経)https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC283IZ0Y3A620C2000000/
0 notes
Quote
指定暴力団浪川会(本部・福岡県大牟田市)にみかじめ料約1000万円を払い、会社に損害を与えたとして、大阪府警は4日、浪川会総裁の朴政浩(67)(同市)、風俗店運営会社元代表の鈴木祐介(44)(大阪市阿倍野区)両容疑者ら4人を会社法違反(特別背任)容疑などで逮捕したと発表した。府警は、2020年以降の約2年間で少なくとも約4500万円のみかじめ料を払ったとみている。 他に逮捕されたのは、浪川会組員の男(54、京都府井手町)、妻(54、同)両容疑者。4人の逮捕は3日付。府警はいずれの認否も明らかにしていない。 発表では、朴容疑者ら4人は共謀し、20年10月~22年2月、浪川会にみかじめ料を払うため、男が実質的に経営する土木会社名義の口座に架空のビル管理契約料名目で1092万円を振り込み、風俗店運営会社に損害を与えた疑い。同社は全国で数十の風俗店を運営する業界大手という。 府警は今年1月、暴力団員の身分を隠して大阪法務局に株式会社の設立登記をさせたとして、朴、鈴木両容疑者ら3人を電磁的公正証書原本不実記録・同供用容疑で逮捕していた。
浪川会総裁と風俗店運営会社元代表、特別背任容疑で逮捕…みかじめ料1000万円で会社に損害疑い : 読売新聞
0 notes
Text
しらかばステークス安達太良ステークス大牟田特別三連単・三連複予想
しらかばステークス三連単・三連複予想 ◎03.ダークペイジ ◯02.シュアーヴアリア ▲04.フォイアーロート △10.バトーデュシエル ☓05.コスモアンジュ ※14.ネクストストーリー ★07.ユキノファラオ ★は管理人推奨馬・推奨穴馬 3連単 1着3.2.4 2着3.2.4.10.5.14.7 3着3.2.4 3連単 1着3.2.4 2着3.2.4 3着3.2.4.10.5.14.7 3連複 3.2.4-10.5.14.7 安達太良ステークス三連単・三連複予想 ◎05.アティード ◯07.マイヨアポア ▲09.ビップエレナ △08.リンカーンテソーロ ☓13.カイアワセ ※11.ナイスプリンセス ★15.ナイトブリーズ ★は管理人推奨馬・推奨穴馬 3連単 1着5.7.9 2着5.7.9.8.13.11.15 3着5.7.9 3連単 1着5.7.9 2着5.7.9 3着5.7.9.…
View On WordPress
0 notes
Text
物命都殺不得
以下一位有緣人分享,來文照登:
下午幫奶奶種菜,這回剛巧兩個小堂弟也在。看到他們一個拿水瓢澆水,一個拿豆子點豆,心裡讚嘆他們好勤勞耶!做點農活兒真的挺好,鍛鍊勤勞的品格。
小堂弟在點豆子時,不小心將袋子裡的豆灑了一地,這時有好多螞蟻,出現在豆子旁爬來爬去。當下,馬上意識到一種危機感,我特意告訴堂弟:「我們撿豆子時, 盡量不要傷害到這些螞蟻哦!他們會很害怕,同樣也害怕死掉。」
話一落,堂弟他就問我:「那如果蚊子咬我一口,我要不要打牠?牠害我好癢,還要買藥水塗抹,這樣算不算損失?」童心總是很善良,知道他們年幼,也許有些話還能認真地聽進去,所以有意套著因果觀念告訴他:「蚊子只是找食物吃,牠只是要你的一滴血,我們如果不喜歡,可以趕走牠,但請不要傷害牠。所有的動物都不要傷害,牠們也會害怕。」
話一落,另一個小堂弟問:「那如果有一螺危害性比較大呢?它們繁殖性很強,體內還有寄生蟲,捕殺都捕不完。」
一時,竟然想不出如何解答他的問題。心裡默默念著:「是啊!這種物命可以隨意殺害嗎?」如果站在因果面想,侵犯牠命會結下因果。牠之所以會投胎成為這種不好的身份,其中必然少不了緣。有前因招感,或善、或惡,所以應前緣化身,投胎於此身。
回憶起六祖惠能大師的慈悲語錄:「人雖有南北,佛性本無南北。」人人皆有佛性,一切眾生皆可成佛,蠻子的形體、外貌跟大師不同,但是佛性不會有任何差別。
內心深處感發出一種大悲心,所有一切六道眾生都有佛性,我等皆與愛護,怎麽可忍心殺害。心清凈,看到牠也不會有侵犯牠命的想法,大家緣不同,業不同,所顯現的身份不同。但佛性本無差別。
我之前未學佛,不明因果,種種輕視物命之過,歷歷在目。學佛後,想起動物們的苦痛,如果是我被虐待,被無情殺害,我也會嗔恨、難過。所以學佛後,知道自己業障重,第一時間便發心茹素,斷除殺業。
懺其前愆,對於一切被殺害的小動物深深懺悔,並警惕以後一定不可殺生,積極茹素、放生。悔其後過,除了不殺之外,也在自己能力所能及的情況下,多多分享因果觀念給別人知道,講解因果及殺生的果報。
黑氣籠罩,容易覆蓋慈悲心。長時間唸經,真的能長養慈悲心。《地藏經》中,地藏王菩薩就是很好的例子。唸到地藏王菩薩因為擔憂母親在世殺生、食魚鱉子而墮地獄,為救母親脫離苦海而發種種願心,行種種善事,廣利蒼生,廣修諸法,末學深受感動,一定要像地藏王菩薩看齊。
戒殺,是給動物們活下去的方便,也是不造惡業。以此心得分享,迴向給曾被殺害的物命。感恩佛菩薩眷顧,感恩師兄姐!
(分享完畢)
有緣人因為小堂弟幫奶奶種菜,豆子不小心灑來一地,引來螞蟻,而開啟了有緣人和小堂弟愛惜物命的對話。有緣人希望教育小堂弟正確的生命觀念,也懺悔過去自己未學佛前不識因果,造下無數殺業,希望透過茹素戒殺和唸經銷業,彌補先前的過失。
文中提到的螞蟻、蚊子或日常生活常見的蟑螂,是很多人不喜歡的昆蟲,常常見到就起殺意。但是人們不應該因自己討厭或害怕對方,而下手。萬物皆有靈性,面對不喜歡的人事物,我們要做的不是傷害或殺害對方,而是要改變心態和策略。
從心態上,應學佛菩薩慈悲為懷。《金剛經》有云:「一合相者則是不可說,但凡夫貪著其是。」人是一合相,動物乃至昆蟲也是。因為過去世的習氣和業力、福報不同所致,而有卵生、胎生、濕生、化生的差異。但萬物皆是平等,無論是螻蟻、蝦子、大象或鸚鵡,都只是牠們受報的相,牠們的命也是命,牠們也怕痛、怕死。
文中有緣人對堂弟提到蚊子只是要您一滴血,您卻要牠的一條命。牠要吸血是因為牠只能靠吸血活下去。這是一個極有風險的行為,因為每一餐的每一口血,都可能引發被吸血者的殺機,只要人手一拍,蚊子就直接命喪人們的五指山,想來就可憐。
有師姐分享,如果避不開蚊子,她就跟蚊子溝通,吸血可以,不要讓她癢。師姐試過這樣與蚊子溝通,真的有效。牠吸牠的血,但不妨害您的生活和感覺。
農人種莊稼,常常有菜蟲、蝗蟲等害蟲,靠噴農藥殺害,只能藥越下越多,藥性越來越重,會傷害土地和人們。高僧大德農作時,會跟菜蟲溝通,留一塊地的作物給牠們吃,請牠們不要吃其他地方的農田作物,菜蟲真有靈性,就過去吃那兒的作物,不侵犯其他區域。
若口頭跟昆蟲溝通無效,也可以嘗試唸經。有師兄姐遇到螞蟻大軍侵犯的問題,有師姐提出可以唸《地藏經》,請地藏菩薩幫忙,後來開示此方法可行,大家不妨試試。
有時候蟑螂、螞蟻、蚊子大舉入侵,是因為沒有做好環境清潔,只要把環境整理乾淨,害蟲找不到食物,自然會遷移至他處。但有時很多蟲害入侵,是因為業力討報,或自身黑氣太多,或家中有外靈附著的物品所致。有可能是單一原因,也可能是綜合因素,可以透過請示佛菩薩找出根源,再依照開示處理,看是要丟掉什麼東西,或是多唸經銷外道願的黑氣和魔性,還是唸經消除新討報的業力。
但是,無論小動物是因為什麼因素而上門拜訪,都要以禮相待。《阿伯的話—現場開示精華節錄》:「家中若無緣無故出現小動物,來者是客,可請小動物吃東西。而佛菩薩也會藉由此境界來考驗你有沒有慈悲心,看你的心性修到哪裡。」
如果您很害怕某種昆蟲,例如蟑螂,可以口頭溝通請牠離開,或透過工具小心捕捉,將牠送出家門,而不是致牠於死地。想想蟑螂也很可憐,就因為牠是蟑螂,所以走到哪裡都被嫌棄、厭惡和痛恨,大家都急著將牠除之而後快。牠做錯了什麼?只是因為出生就是蟑螂,就要被人們殺害嗎?
人們都珍惜自己的生命,不能接受被他人傷害,更何況是殺死,動物們也一樣。精舍已開示出許多殺害動物、昆蟲所造下的殺生業力。如是因,如是果,如是緣,如是受。若因為過去不識因果,現在可以透過懺悔和唸經消除業力,最重要的是不二過。
若能像有緣人一樣,趁孩子小時候就讓他們瞭解因果,學會尊重動物生命,那他們成長過程也會大大減少造業,甚至會勸阻、影響同儕對待物命的態度,讓許多動物、昆蟲免於死劫。
不只是孩子,在您週遭有人將殺生時,只要您出一張嘴阻止,或順手將那些即將被殺害的動物、昆蟲帶離現場,乃至於用張紙或卡片,為背部朝下,難以翻身的昆蟲翻個身,都能幫助牠們免於被踩踏死亡。
就連在水杯、水盆看到小螞蟻、小蟲子,如果牠們還有動靜,第一時間不是把水倒掉,而是用湯匙、筷子各種工具想辦法撈起,再用衛生紙蓋住牠們。由於衛生紙的吸水性很強,昆蟲身上的水能很快被吸乾,那牠們可以很快從溺水狀態恢復,再把牠們送到空曠、安全的地方,牠們就會想辦法離開。
對待小動物不只是不殺,還要有積極的護生,可以從以上簡單的小事做起。您的行為會影響孩子和其他身邊的人。只要您舉手之勞,就能拯救許多生命,相信您做得到。南無大慈大悲觀世音菩薩摩訶薩!
南無本師釋迦牟尼佛
南無藥師琉璃光如來
南無阿彌陀佛
南無大悲觀世音菩薩
南無大願地藏王菩薩
南無韋馱菩薩
南無伽藍菩薩
南無十方一切諸佛菩薩摩訶薩
0 notes
Photo
【展示のお知らせ】
会期始まっており恐縮ですが、和歌山県内白浜町にある凄いホテルで6月まるまるいっぱい開催中の展示に参加しています。
わたしは「海は季語にならない」という題で縦約2m×横約4m程の割と大作絵画を出品しております。 ほかの参加作家のかたがたの作品もとっても面白いですし、会場である川久ミュージアムの建物自体が豪華絢爛すぎ、歩き回るだけで楽しめると思います。
------- ★◎❍KAWAKYU ART Exhibition 2022「実在する夢」
会期:2022年6月1日〜30日 会場:川久ミュージアム(ホテル川久) 住所:和歌山県西牟婁郡白浜町3745 https://goo.gl/maps/KW1RLc5W72rfyvv38 電話:0739-42-2662 時間:10:30〜18:00 ※入場は閉館の30分前まで 料金:一般 1000円 / 高校・大学生 800円(学生証の提示が必要) ※白浜町民は無料 ※中学生以下無料 ※障害者手帳をご持参の方(付添の方1名を含む)は無料
※KAWAKYU ART Exhibition 2022では、企画展「実在する夢」に加え常設展示も見ることができます。
◎◎参加アーティスト(五十音順) ◎◎KAWAKYU ARTISTS in RESIDENCE Program2022: 稲垣智子/井上修志/植田陽貴/梅原徹/長嶺慶治郎/宮本華子
◎◎キュレーター推薦アーティスト: 市川大翔/しまうちみか/林菜穂/松元悠
◎◎特別展示 紀南アートウィーク参加アーティスト: AWAYA(福島正和・奥野裕美子)/VR蕎麦屋タナベ
AIR審査員: 板橋令子/黒沢聖覇/陳暁夏代/服部浩之/原久子/宮本初音
協力: 和歌山県庁/白浜町役場/南紀白浜観光協会/白浜ガス/南紀白浜エアポート/アドベンチャーワールド/南方熊楠記念館/三段壁洞窟/銀翠/大協不動産/紀南アートウィーク
総合プロデューサー: 陳暁夏代
https://www.museum-kawakyu.jp
https://bijutsutecho.com/magazine/news/report/25652 -------
東京羽田からも飛行機で1時間15分程度と割と行けちゃう距離です。 東日本のかたも西日本のかたもご興味沸きましたら是非ぜひ宜しくおねがい致します。
8 notes
·
View notes
Text
「虚無への供物」中井英夫 2271
第二章
27予言者の帰国01
この節のタイトルは、“予言者の帰国”です。 牟礼田俊夫がよいよ帰国するということなのでしょう。 第一、第二の事件の経緯なんかがわかるんでしょうか? それにしても、前から気になっていたのですが、牟礼田俊夫が予言者になった所以は何なんでしょう? そのあたりもわかるのでしょうか?
どういう訳か、牟礼田は探偵を引き受ける資格がないといいます。 例えとして、ピーター・ガンズのようには事件を解決できないとあります。 『赤毛のレドメイン家』(イーデン・フィルポッツ)の古典長編推理小説に登場する初老の探偵のことだと思います。 この話、ブレンドン刑事が惨めな失敗をしたあと、途中から、この探偵が登場するようで、それで例えているのかもしれません。 驚きの犯人も、もしかするとそれを例えている?と言うことは、犯人の目星もついているとか。 予言の件もありますから、そうとうの名探偵ということになるのでしょうか?
久生はプジョー203を運転して京浜国道を走っています。 ドゥサントロワ、フランス語で表現されています。粋ですね。
ちなみに、車名、203プジョー53年は、115万円だそうです。 重量当たり制動馬力 44.2HP/トン 加速所要時間 6秒31.1哩 登坂能力 勾配焼く18°をセカンドギアにて停止状態よりスタートせるも楽に上がれり 最小回転円直径 9.30メートル 制動力 76.8平方センチ/トン 四輪-683.2平方センチ950kg 計画燃費量 56キロ/1ガロン
だそうです。
目的地は、目白の氷沼家です。 空港に迎えに来ていた弟妹やジャーナリズム関係らしい友人と長いこと話し込んでいましたが、 紀尾井町の家へもよらずで目白の氷沼家へ向かっているみたいです。 探偵を引き受ける資格はないが、蒼司を見舞いの行くのだそうです。 ちなみに、 牟礼田は三十一二歳、外人の間でも目立つほどな長身で、 鼻��も通って精悍に引き締まって居るみたいで、亜利夫は眩(まぶ)しい印象を受けています。
車の中では、藍ちゃんが、聖母の園の火事のことを聞いています。 藍ちゃんは、氷沼家の血筋を絶やすために何者かがあの事件を起こしたと決めつけているらしいです。
牟礼田は、客観的に考えようというのか、 朝刊の内容として、 『火災原因について警察が同日朝から調査を開始、同夜九時半にいたり原因はカイロ灰の不始末とわかった』 と発表したと言っていますね。 それよりも、死人がひとりひょっこり紛れ込んできたとしか考えられないと、 死体の数が合わないことをいいます。
それに、藍ちゃんは、やっぱり放火だったのでは、と興奮しています。 大叔母さんを殺すためだけじゃなく、誰かもう一人の死体を始末する必要があったから放火して一石二鳥を狙ったやつがいるんだとです。 なにしろ、養老院なんだから確実な自然発火装置を取り付けたり死体を運びこんでおいたに決まっている。とです。 確実な自然発火装置ってなんでしょう?
それを、亜利夫が否定しますね。 あまりに不確実だからというのです。 確かに確実ではないですね。
牟礼田もG・K・チェスタートンを例えて、あまりの現実離れして飛躍しすぎていると否定しますね。
チェスタトンは、英国の作家で、あのブラウン神父の生みの親だそうです。 「賢い人は葉をどこに隠す? 森のなかに隠す」で有名な小説「折れた剣」のことだと思います。
牟礼田は、あまり喋らないですね。 亜利夫が予言がどうしてできたのか聞いても、またいずれと話をそらします。
藍ちゃんがみたら喜ぶだろうと、 1911年にできたパリの巨大映画館ゴーモン・パラスでH=G・クルーゾーの映画をやっている。 『悪魔のような女(あくまのようなおんな、原題:Les Diaboliques)』という映画で、 フィルム・ノワールの代表作なんていわれてなかな評判だったとです。 フランスでの公開が1955年1月29日だそうですから、帰国直前に見たのでしょう。 余計印象にのこっていたのかもしれません。 フィルム・ノワール(仏: Film Noir)は、フランスの批評家によって命名された犯罪映画のジャンルを指すそうです。
で、『悪魔のような女』という映画のネタバレをしてます。 省略しておきますけど、これはまずいでしょう?
藍ちゃんは、1953年頃にキングレコードから発売されていたデッカ・レコード盤のLPイヴ・モンタンは持っていたけど、 牟礼田がお土産に持って帰った“ガレリアン原題:Le Galérien”イヴ・モンタンを嬉しがっています。
結局、11時頃に目白の氷沼家につきます。 “赤の部屋”で蒼司と牟礼田は再会します。 それを亜利夫ひとりが見守ることになります。
蒼司がいきなり泣き出したのは、日常茶飯の出来事にかわったことの家の業を一身に引き受けたつらさからであろう。 と、牟礼田は「大丈夫だ」と慰めます。 それから、どこかの別荘へ行くとか、この家を処分する方法や時期などの内輪話をしだします。
久生と藍ちゃんは隣の部屋で、貰ったレコードをテープに録音しています。
それから十日ほど経った二月の二十八日の夕方までは、 牟礼田はそれより何かと忙しかったらしく、亜利夫が克明につけている日記を借りていったほかは、特に何もないようです。
どうも、牟礼田の態度が気になりますね。 ズバッと解決できないとしても、 なんだか、解決したくないような感じです。 まあ、これから徐々にわかっていくのでしょう。
つづく
0 notes
Text
「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和三年(2021)9月14日(火曜日)
通巻第7050号
コロナ禍は何かの祟りではないのだろうか?
科学も医学も合理主義も、疫病解決に役立っていないではないか
**************************
疫病大流行。文献的に最古の事例は崇神天皇の御代である。
『古事記』は以下のごとく惨状を書いた。
「この天皇(崇神)の御代に疫病多に起こりて人民死にて燼きむとしき。この天皇愁ひ嘆きたまひと神床に坐しし夜、大物主大神、御夢に顕れて曰りたまひしく、『こは我が御心ぞ。故、意富多多泥古(おほたたねこ)をもちて、我が御前に祀らしめたまはば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ』とのりたまひき」(岩波文庫版112p)。
疫病は崇神天皇以前にも頻繁に起きていたと考えられるが、記録としては、崇神天皇の時代が初で、しかも国民の大半が死んだとの記載があるような猖獗を極めた。
神の怒りを懼れ、タケミカツジの子である「おほたたねこ」を神主として、三輪山に祈祷し、御社を造成したところ、疫病はやんだ。疫病は神々の祟りという認識が古代人には広くあった。
時代はぐんと下がって聖武天皇の時代、平城京を仏都として造り替えた功績、大仏殿の造営で知られる聖武天皇は、じつは平城京の前にいくども遷都している。
疫病と災害の原因は祟りだと考えていたからだ。恭仁京の建設が本格化していた。しかし地の利、水利など諸条件が揃わず、藤原京、平城京が廃止されたように、つぎは柴香楽へと遷都する(現在の滋賀県甲賀郡信楽)。同時に難波にも副都の宮殿を建てていた。柴香楽宮は放火による山火事で廃棄された。
遷都の理由は旧来の風習を打破し、人事を一新し、守旧派と敵対勢力を追い出すためだったと歴史学者は賢しらに「科学的に」「合理的に」解釈したが、かような政治的理由はむろんあっただろう。
しかし一番の動機はじつは疫病対策だった。そのうえ祟りを懼れての遷都ではなかったのか。皇位継承をめぐってのだましあい、謀、暗殺が続き、怨霊が漂っていた、と当時の人々は認識していた。
藤原氏の全盛は中臣鎌足の子、藤原不比等が天皇の外戚となって大活躍し、陰険な策謀をもって政敵をつぎつぎと冤罪を仕掛けて葬り、藤原四兄弟は皇子後継をめぐる政争で、最大の政敵だった長屋王を冤罪をでっち上げて葬った。
ところが、疫病は藤原四兄弟もあいついでに葬る。因果応報、長屋王の祟りだと囁かれた。この四兄弟の死は、それまで権力の下層で燻っていた藤原仲麻呂が中央舞台に踊り出す契機ともなった。
▼神社にかわって仏教寺院が祈りの場所となった
天災は豪雨、洪水、河川の氾濫は凶作と飢餓を産みだし、そのうえ疫病である。国家安泰を祈願するために神道に替わって仏教寺院の造成が急がれ、神社への祈りが仏教寺院へと祈祷場が変わったことに、とりわけの留意が必要である。
聖武天皇は急激に仏教へ帰依し、全国に国分寺の建設を命じた。仏教は人々の不安を吸収し、救いをもたらす信仰に置き換わった。天平六年(734)畿内は大地震に襲われた。この年に遣唐使が帰国したが、入れ替わりに新羅の使者が太宰府にやってきた。
「凶作によって人々が困窮したところを疫病が襲い、恐るべき大流行をもたらした。流行は食糧の乏しくなった夏に、まずは太宰府管内からはじまり、冬までに全国各地に拡がった。発生地からみて、遣唐使か新羅使が列島社会に持ち込んだものと考えられる」(吉川真司『聖武天皇と仏都平城京』、講談社学術文庫)。
疫病が外国からもたらされることは古代からの常識であり、武漢コロナはシナ大陸からやってきた。梅毒も江戸時代に外国人が持ち込んだ。
奈良時代の疫病は三年続いた。藤原四兄弟が次々に死に、これが僥倖となって藤原仲麻呂が急激に台頭したことは述べた。
疫病による朝廷の被害は皇族、官吏の三分の一に及んだ。全国の死亡率は25%から35%とされた。和泉国で45%、駿河で30-34%、豊後で30-31%が死んだという記録は正倉院文書に残る。
令和時代のコロナ災禍は中国湖北省の武漢で発生し、日本にもたらされた。やはり外国との接点が多い地方、都市の被害が甚大になるのも古今東西、同じである。
聖武天皇は、疫病の原因を長屋王の怨念と考えた。古代から中世にかけて、科学は発達しておらず、曖爽から夜明け、日中から夕闇と到り、夜は真っ暗な闇が支配する。古代人は闇に鬼が、魑魅魍魎が存在知ると考え、怨霊を信じていた。電気はない。書物も少なく、医学は未発達である。その不安を人々は宗教に求めるのだ。
伝来の神道より仏教を信仰する人々が増え続け、留学生が帰国したおりにもたらされた仏典や新しい信仰スタイルが急拡大し、皇室も人民も仏教に救済を求めた。
▼神仏習合が本格化した
ならば古来より宮廷人の拠り所としていた神道への信仰はどうなったのか。じつは、ここで初めて神仏混交が本格化するのである。
神社勢力はだまっていたわけではない。強烈な軋轢が生じるのは当然であり、そこで「有力な神々が仏教に帰依する。あるいは仏教を(神社が)護持するという言説を用いて、新旧イデオロギーの調整が吐かされた」。神仏混交という「日本教」が全土に拡大した。
「神仏習合の深まりとは、日本古来の神祭りが、外来宗教である仏教によって『文明化』されたことへの証しである。これを受容し、あるいは反発するうちに『神道の自覚過程』が訪れる。神祇祭祀に特有のものがあらたに見出され、やがて中世につながる神国意識が形作られて入った。それはイデオロギー面における『国風文化』の生成であった」(吉川前掲書)。
ならば後世、『神皇正統記』で北畠親房は、この聖武天皇と、崩御後の光明皇后の仏教への急傾斜をいかに論じたのか、興味がある。
想定外だが、後醍醐天皇の改革を熱狂的に支持した北畠親房は、聖武天皇、光明皇后の仏寺建設、大仏開眼、国分寺の建設令、外国からの高僧の来日などを淡々と記するのみで批判はなく、むしろ次の称徳天皇が、一時期に仲麻呂に惠美押勝の氏を給え、まつりことを委任したことも客観的にのべる。
そのうえで、「後に道鏡という法師また寵幸ありしに、押勝(藤原仲麻呂)いかりをなし、廃帝をすすめ申て、上皇の宮をかたぶけむとせしに、こと顕れて誅にふしぬ(道鏡を寵愛したため、称徳天皇廃帝を謀して露見し、仲麻呂の乱は潰えた)」と、経過をのべたあと、道鏡批判に移るのである。
「法師の官に任ずることは、もろこしより始めて、僧正、僧統などといふ事のありし、それすら出家の本意にはあらざるべし、いはむや俗の官に任ずる事あるべからぬ事にこそ。されど、唐土にも南朝の宋の世に惠琳といひし人、まつりごとにまじらいしを黒衣の宰相といひき。」などと多数の唐の例を引きつつも「法王の位をさずけられたりし、猶あかずして皇位につかんといふこころざし有りけり。女帝さすがに思ひわずらひ」、和気清麻呂に神託の真偽を調べよと宇佐神宮へ派遣するのである。
仏教に帰依した女性天皇が、神道の託宣に頼ったという視点で見れば、神仏習合が、顕然と進んでいた状況を物語る。
▼無実の罪に陥れられた早良親王の怨霊
早良親王は光仁天皇の皇子である。母は高野新笠(たかのにいがさ)。両親が百済系とされたために正妻とは認められず側室として桓武天皇、能登内親王、そして早良親王の生母である。早良親王は皇位継承権の有資格者だったため桓武天皇の皇太弟に立てられていた。ところが藤原種継の暗殺に関与したとして廃された。
母方が皇族ではなく、側室だったために早良親王は早くに出家し東大寺羂索院や大安寺東院に住み、「親王禅師」と呼ばれた。天応元年(781年)に同母兄・桓武天皇の即位があり、還俗、立太子された。すでに桓武天皇には安殿親王(後の平城天皇)がいたが、万一の備えとして安殿親王の幼帝即位を避けるためだった。もとより東大寺で高位の僧侶だったこともあり、早良親王は妃を迎えず、子もなかった。
延暦4年(785年)、造長岡宮使・藤原種継の暗殺事件に突如、巻き込まれ、乙訓寺に幽閉された。無実を訴えるため絶食、淡路へ配流される途中、守口付近で憤死し���。
種継暗殺は桓武天皇留守中の事件だが、東大寺は親王禅師(早良親王)に後事を託したとされ(『東大寺華厳別供縁起』)、還俗後もなにかにつけて東大寺は早良親王に相談していたという。桓武天皇は道鏡事件の経緯から僧侶の政治関与の弊害を懸念し、長岡京遷都を急いだのだ。
長岡京遷都の裏の目的は東大寺など奈良寺院の影響力排除である。
その後、皇太子安殿親王が発病や、桓武天皇妃・藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子の病死、生母高野新笠の病死と疫病の大流行、くわえて洪水が相次ぎ、それらは早良親王の祟りであるとして幾度か鎮魂の儀式が執り行われた。
そればかりか、延暦19年(800年)には早良親王に「崇道天皇」が追称され、それでも祟りが収まらずとみるや、五年後に「崇道天皇陵」を造営する。
附近には早良親王を祀る嶋田神社があり、奈良町に崇道天皇社、御霊神社で祭神として祀られた。東大寺の高僧が神道で祭られたのである。
令和の疫病は、それなら何の祟りか。いささか神懸かりと思われるかも知れないが、靖国の英霊を蔑ろにしているからではないのか。
10 notes
·
View notes
Text
わたなべれーなレコ発ワンマンツアー「ハレ」
昨日の東京ワンマンでファイナルとなりました。
お越しくださった皆さま、配信を観てくれた皆さま、応援してくださったみなさま、本当にありがとうございました!
このツアーで、本当にたくさんの温かさに触れました。
地元熊本では、お世話になっていたラジオ番組で、配信する度曲を流していただいたり、おかえりー!って、たくさんの方がライブに来てくださったり。初めましての方々にお会いできたのも嬉しかった!相変わらずのきくちくんも、来てくれてありがとうね。
久しぶりのいい曲プレゼンターズも楽しかったなぁ。ホームすぎてもう家です(?)
せっかく九州に行くから、ここでも歌いたい、、!という気持ちを汲んでくれたBIG SMILEただしさん、佐賀雷神、大牟田カフェシフォンご夫妻に山口さん、Shangri-laいけちゃん。一緒に歌ってくれたバババンドさんに、あかたろさんもありがとう。久々のひらがな同盟も楽しかったねえ。
福岡ワンマンは、大好きなキャバーンビートにて。
1日中笑ってた日。
パーカッション山下友偉さん、キーボード坂田飛鳥さん。この3人編成ではラスト。
今回のツアー、どれだけ2人に支えられたことか。
本当に本当にありがとう。とっても楽しかった。
ネット配信ライブで楽しんでくださった方々もありがとう。
そして東京ワンマン。関東拠点の音楽活動第一発目。
アウェイなはずだったけれど、トルネード 時代のお久々な方々やこれまで出会った方々、色んな繋がりで知って来てくれた方々など、もうとっても温かい空間で歌わさせていただいた。お陰様で肩肘張らず、フリーダム!にライブできました。ありがとう。トルネード 復活も楽しかった、綾香さんありがとね。
3年分のまとめのような月だった。
どんどん時代が流れていく中で活動休止をすることは、すごく怖いことでもありました。
だけど、止まってた訳じゃなくて、ちゃんと私も進めていたのかって。
特別だったことも次々あたりまえになっていく「日常」の中で感じることを紡ぎながら、私はこれからもずっと歌っていくのだろうと思います。おばあちゃんになっても歌い続けられるように、とりあえずO脚を治したいと思う。
ここからまた始まり!
わたなべれーな、よろしくお願いします。
ハレ、ありがとう
1 note
·
View note