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#大沢麗菜
nostalblue · 9 months
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まりーごーるど
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当地に移住しさまざまな野菜栽培をするようになってしばらくすると、ニンジンや夏野菜に根瘤が多く観られるようになってきた。線虫の仕業だ。それまではまったく意識していなかったのだけど、限られた圃場の中ではどうしても連作が避けられず、次第に特定の病害虫の影響が顕著になり、対策必須な状況となった。
線虫については専用の農薬があり、それを使うのが一番手っ取り早い。実際に被害が酷い場所には緊急処置的にそれを投入しているが、いかんせん値段が高く、無収入の私にはふんだんに購入して散布する財力はないのよね。
そこでマリーゴールドを試してみようとなった。このキク科の植物が分泌する「α-ターチエニール」という物質が土壌の有害線虫に毒性を示すらしい。花は観賞用にもされるから種の入手は容易だし、価格も安い。農薬とは比較にならない程の低コストだ。
個人出品者から他の野菜種と一緒に購入したマリーゴールドの種は混合種だ。初めてで効果の程もよく解らないから、まずは試してみようということで種類に拘わらなかった。春先にポットに播種し、しばらくして発芽、成長して定植をする大きさの頃には早くも花が咲き始めた。
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花の色は株によって赤だったり黄色だったりで異なるが、さらに模様のバリエーションもいくつかあるようだ。いずれにしても一重咲きで余り高くならない丈の特徴から「フレンチ種」だと思われる。ちなみにアフリカン種は花がボールのようになり、草丈は1メートル程にもなるらしい。
草体からは独特の匂いがする。花を見るのは好きでもこの匂いを嫌う人は多いようだ。私はどちらかというと好きな匂いなのだが、いかんせんそのパワーが強烈なのよ(笑)。まあ害虫退治にはそれぐらいじゃないとね。
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花の寿命はせいぜい1~2週間だが、ドンドン増える脇芽から次々に蕾が出て花が咲くから、株全体の開花期はとても長い。上の写真は12月の状態だが、まだ沢山の花が開花している。この間にも結実した種が地に落ちているので、2年目からはそれなりの量が自然生えしてくる(ポット蒔きと比べると発芽確度は低い)。
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さて肝心の防線虫効果について。有害線虫除外成分は根からも分泌されるので、対象野菜と混植するだけで効果があるとされている。そこで初めの年は畝の両端に1~2株ずつ植えて試したが、畝の大きさに対して株が少な過ぎたせいか十分な効果が得られなかった。なので翌年、自然生えした株も使い畝の半分に狭い株間で密に植えてみたのだが、今度は多過ぎて肥料奪われたか混植しているメイン野菜の育ちがイマイチに(苦)。
そんなわけで、次回は程々の量の定植に留めようと反省しているのだが、とりあえず大量に育ったマリーゴールドが目の前にあるので、これを土壌にすき込んでやることにした。剣先スコップで畝に一定間隔で穴を掘り、初冬でもまだ綺麗に開花している草体にやや躊躇しながらも引き千切りその穴に放り込んでいく。
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最近流行の微生物資材などを一緒に放り込めば分解は早いだろうけど、それにコストが掛かったら意味がない。初夏に夏野菜を定植するまでにはまだ半年程有るわけだから、何も急ぐ必要ははないのよ。ただ根だけでなく葉や茎、そして花まで全て土壌に入れるから、有害線虫の奴らにはこれまでになく有効な打撃となるだろう。そんなことを考え、ほくそ笑みながら土を被せ埋め、最後にたっぷりと散水した。
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kaoriof · 4 months
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(昔���日記です、お気に入りの文章教えてくれたらモチベになります……)
日記
その日は朝からジョギングをした。いつも昼過ぎぐらいに起きていたから、朝8時の街のざわめきがあんなにも違和感なく受け入れられていることに驚いた。結局少し走っただけでくたくたになってしまった。川を眺めながら、ゆっくり、ゆっくり歩いて帰る。鈍色の川だった。1週間に1回くらい、いままで生きたすべての生きものの屍が、地を踏む私の足裏のずっと奥底にしずんでいることを思い出して、不思議な気持ちになる。恐竜もそう、目に見えない小さな微生物も灰ほどの大きさになって光景の一部にちゃんと溶けている。そのことに深く安心して、わたしは好きな人たちのことをちゃんと思い浮かべられる。調べたら、紀元前5万年前から今までに誕生した人間を合わせると、1082億人もいるらしい。1082億人もの人間たちが流した血を、蓄えた知恵を、つないでいった命のことを考える。丘丘を越える風や、夜と花との匂いに触れると、結局いつもそんな想いに辿り着く。昼からは医療脱毛の予約が入っていた。ほぼ素っ裸になって赤い水性ペンで体のあちこちに線を引かれて、ぱちぱちした熱くて痛い光に耐える。わたしの褐色の身体だっていつかあの、深いところにある脆い、目に見えない、灰になってしまうのになあ。電車に揺られながら、ゴミ溜めに差す光を見つめていた。小説の中の、「眼を傷つけるほど鮮明に」という表現を気に入ったので、メモに残す。細い雲が花嫁の白いヴェールのように空に広がっている。なんだか浮かれていた。アルバイト先で出勤打刻を入力して、都合よくふたりきりになった同期の男の子に思っていることをべらべらしゃべってしまった。なんかもう誰に何を思われるとか誰かと何かをくらべるとかそういう事柄に鈍くなっている。バイト前に控え室に入るといっつもからだをじろじろみてくるあの人、ふと見たら私の足を見つめてて、それ以来マジで無理になっちゃった。なんかたまたま目に入る情報の引きのわるさに自分でもびっくりしちゃうの。街歩いてたらちょうどだれかが小便してたり、ちょうどネズミが裏路地からでてきたり、恋人と上手くいってない時にインスタを覗けばちょうどだれかの記念日だったり、そういうの。でもこのあいだ西加奈子の白いしるしっていう本を読んだんだけど、富士山に関係している話で、それでたまたまわたしも来月山梨に行くの。こういう「ちょっとラッキー」みたいな軽くてふわふわした柔らかな偶然が、積み上げられたいやーな記憶を許してくれる。こんなことを永遠に喋っていて、性格が悪いと思われるかもと不安だったけど、その人の方がわたしよりも5億倍くらい性格が悪かったので、あとはふたりでお偉い人が休憩から戻ってくるまでげらげら笑った。その夜はなんだかお酒でも飲みたかった。それで全て忘れ去るのは惜しいけれど。読まなきゃいけない本よりも読みたい本を読もう。学ばなきゃいけないことよりも、からっぽにみえる毎日のしずけさに意味を見出したい。恋人に別れを告げたのは自分なのに、会ったら触りたくなっちゃった。そういうこともあるよねー
無題
この人でいい、じゃなくて、「この人がいい」という感覚と大事にしていきたいと思う。4連勤目、ありがとうの一言も言えない禿げたひとたちにへらへら愛想を振りまく。やさしさに見返りを求めてはいけないなんてほんとうに馬鹿げている。わたしは自分に見合う対価をいつだって求めてるし、それを与えることこそが相手への敬意を表明する最適な手段だとずっと信じている。なんかもう無理、みんなキモイ。足裏も首も肩も痛い。インターネットばかり眺めていたら、夕陽の映る海も連なる山々も消費するものの1つに思えてきて、相当心が疲れているんだなあと自負する。色欲も皆無で、今ならどんなイケメンであろうと抱かれない自信があるくらい。言葉にできない日々こそ尊いのか、はたまた言葉に値しないものなんて、記憶されるに値しないものものなんてその程度なのか。通り過ぎた過去と進むべき未来の間で、ただ棒立ちしている。ただ、減っていくフォロワーの数値を眺める。わたしがその人の人生からいなくなる瞬間に、前よりもなんかすこしだけほっとする。
無題
ふと、あーこんな文章書くのやめて男子高校生のフリして架空の日記をつらつら綴っていきたいなーなんてことを思った。好きな女の子が教室に入ってくるあの瞬間に世界の色が変わって、空間がぐわんと無音で一新するかんじとか、廊下にひびきわたる古びたオルガンの重低音。蛇口から溢れる生きものみたいな水に顔をうずめて、あつい夏をのりきる。シャトラルランのアナウンスに合わせて、きゅっきゅと靴が床の光沢を擦る。太陽はギラギラ照って、それと同じ純度でみんなの肌が光る。時間にゴールテープがあったら、あと何回わたしはそれを切っていけるのだろう。いまはもっぱら実家暮らしを卒業したいと思っているけれど、いつか女であることを卒業したいと思う日がくるのかもしれないしそういう不確かなことばかりで全部うごている。ガガーリンの「地球は青かった」という台詞は有名だけれど、あれ、ほんとうは「地球は青いヴェールをまとった花嫁のようだった」と言ったとする説もあるらしい。わたしたちみんな青いヴェールをまとった花嫁のように生きていきたい。不確かで不透明な身体、心、ちいさな葛藤や、変化、醜さを直視する必要なんて全くないんだ。
無題 
黒いワンピースを大学に着て行ったら、先輩に黒が似合うと褒められた。わたしが可愛げなく「黒なんて誰でも似合う無難な色じゃないですか」と返すと、黒が似合う人ってほんとうは2割ほどしかいないらしいよと言う。でも先輩、黒いウェディングドレスなんてどこにもないじゃないですか。
とことんついていない日が続いている。空きコマにカラオケに立ち寄ったら、店員の不手際によってひどく待たされた。しかも音質がぼろぼろで、もうなにを歌っても音痴に聞こえてしまって、さいごのほうは泣きながら宇多田ヒカルを歌っていた。やることが多すぎて、依頼書添削の通知が深夜2時にきたりする。ぜんぶやめたい。
大学の学祭実行委員をやっているのだけど、新規統括が決まった。これから新規が入ってくる中で、だれがどういう立ち回りをするか。新規統括の下にチームリーダーも2人いて、みんな多分わたしと同じくらい忙しいのに同じチームの人のタスク管理まで把握しているし、守らないといけない表記基準もちゃんとおぼえている。人の振り見て我が振り直せっていう諺、あったなあ。今は等身大にきこえる。
無題
ぽつぽつとした雨の音が家をまあるく包みこむ。包丁で水気の多い野菜を切る音やテレビの雑音を絡めながら一つの線になってゆく音の波に赤ん坊のように心を揺らされる。ときどき、だれかに肌で肌に触れてほしくなるときもあるけれどなんとか平気。朝起きて、しわしわになった白いベッドシーツになぜだか生きていたことの証を感じとって、朝からふわふわした気持ちだった。成り行きから友人と文通をすることになった。最近は眼鏡がこわれて、イヤホンをなくして、ほかにも不運だと思うことが何件かあった。それでもどんどんに綺麗になっていく自分のうつくしさや、河川敷でからだを動かした後の汗ばんだ首元を冷やす風、そういうものにその都度救われていく。文章を書くのだって、すこし書かないだけでとびきり下手になったような感じだけどこうやって振り子のようにあちこちをいったりきたりして自分の居場所を掴んでいくと妥協できるようになった。わたしもほんとうは妥協を信仰とよびたいよ。書くの難しい、日記の練習。
反逆
朝から訳あって母と銀行に行かなくちゃいけなくなった。暑くて全部が嫌だった。道すがら、誤って小銭を何枚か落としてしまって困っていたのだけど、母はそれにすら気付かず歩く足を止めなかった。一度も振りかえらないまま。その瞬間、ああこのひとはこういう人なんだ、と思った。あなたが母親としてすべきことは娘の束縛でもスケジュールの管理でもなくて、隣に立ってあげることなんじゃないの?って、込み上げてくる怒りを必死に押し殺す。もうどうでもいい。わたしは宗教がきらいなわけではなくて、それに付随する人間の因縁がしぬほどきらいなのだと気がついた。
昨晩、大学の唯一の男友達とたらふくごはんをたべた。ありじはやさしいから全人類が惚れる、これまじ、と言われて心がほかほかした。「俺はさー親の束縛とかあんまなくて。朝帰りとかしても、母親、いつもと変わらずに何食べる?って聞いてくれるんよ。あーうどん、あったかいの、っていうと隣でつくってくれてさー」みたいな話を聞いて、母になる日がきてもこなくても何よりも大事にすべきなのってそういうあったかさ、優しさであってほしい。テーブルにあった占いボックスみたいなのに100円いれたら、吉と書かれたうすっぺらい紙がでてきた。ラッキーカラー青。次髪染めるならブルーブラックかな、そう思った。ちなみに男友達は「緑の人」って認識されたいらしくて、いつも緑の服着ててまじでおもしろい。
新宿駅は夜でも、バチバチに光っていた。帰宅して、そのあとは元恋人の友達と夜通し通話した。間にしょうもない下ネタをいいながら、ほぼ恋の話。エロい台詞を言わせたりして、ゲラゲラ笑った。毎日筋トレしてたら、足が細くなって、気持ちも前向きになった。でも、朝起きたら元恋人のインスタに載ってた私の写真が削除されていて、気持ち的には2度目の失恋だった。一度、私にもプライドがあるし元彼に連絡とかしたくない、と言ったとき、じゃあそのプライドを最後まで突き通しなよと言われたのでわたしはほんとうに最後まで突き通した。こんな美人でやさしい女を振るとかまじで勿体ねーっていう強さをおかずに生活を食ってるよ、ほんとうにすきだったんだ。
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高校時代、すごく仲のよかった友人にはじめての恋人ができた。このあいだ新歓合宿にいったの、といって見せてくれた写真、ほんとうにどれも眩しかった。わたしは大学に気の置けない友人が数人しかいないし、おまけについこのあいだ振られた身なので正直心の底から同じ目線でよろこぶことができなくてとてもつらい。ほんとうにいちばん救われて、いちばん好きな友達だったからこそなおさら。というか、さいきんずーっと無気力で、与えられる日々を過ごすというか半ば消化するような感覚でうけとめている。こうやってみんなそれぞれ離れていくのだとおもうとすごくさみしい。彼女にとって、わたしにとって一番だった関係性が、いつしかくずれてしまうのではないか、もう崩れてしまっているよでは無いか。そんなことをかんがえる。気休めにカフェでチャイティーラテを頼んだんだけどクソまずい、救われない。じぶん、はじめて付き合ったとき、どういう気持ちだったっけ。わたしの人生だからわたしがきちんとそこに価値や意味を与えないといけないのに、横たわって天井ばかり見て、挙げ句の果てに他人に妬みすら覚えてしまうのってすごく阿呆らしい。うらやましいな〜〜〜結婚するのかな〜握っていた手を手放されてしまったわたしにとっては、彼女が今一番求められているという状況は嬉しくもあり、うらやましくもある。海を背景に男の子と裸足で駆けだしたりするのって幻じゃなく存在するんだ。なんでこうもひとと比べてしまうのかわからない、何でそんなに上手くいくんだろう、なんでわたしだけこんなに不運で、こんなに寂しくて、こんなにつらいんだろう。だれしもが闇を抱えているのにそれを無視して、わたしだけ、わたしだけ、と卑屈に叫んでいるからバチが当たったのかな。去年、彼女とふたりで予備校へむかうとき、「はじめて」って片道切符だよね、なんてことを話した日もあったのに。もうほとんど大学に馴染むとか、ともだちつくるとか、学チカとかぜんぶぜんぶ諦めて、必要だけどこころの栄養にならないものは先送りにして隅に追いやって、ただひたすら本読んだり映画見たり、観葉植物に囲まれた生活をおくりたい。天気がいい日にはフラッと海に行って、そこにひとりでいるひとがいたら話しかけるとか、そういうところから心を元あった場所に置き直す努力をしないとこのままいちばんうつくしいとおもっている10代が終わってしまうなんてあまりに耐えられない。余裕がなさすぎるから5,000円の寿司料理を食べにいきたい。花を生けたい。北海道の僻地へ一人旅したい、新潟の温���とか和歌山の���畑とか。ちっちゃなドラゴンをこころに飼いたい、人差し指くらいの蛇のタトゥーを掘りたい。意地悪な天使みたいな女の子になりたいし、やさしい悪魔みたいな男の子に好かれたい。バイトでお客様の身分証をみてそのひとの住所とか名前とか生年月日を手入力するんだけどなんか、その作業をするたびに不思議な気持ちになる。当たり前のようにみんな違う名前で、違う日に生まれて、違う人生をおくっている。世の中わたしがしらないことで成り立っている。わたしは頑張っている、がんばることなどなにもないはずなのに頑張らないといけないことがとてもつらいけど、人生そういうもんですか?
無題
大切な人たちはこれからわたし以外のひとたちにも大切にされてゆく、でも。私はどうだろうか?なんてことを考えながら天井を眺めている。2限が終わってから、駅で待ち合わせて委員会のメンバーとはじめて会って昼食を食べた。そのあと用事があったけれど時間が余っていたので学校へ戻ったら、さっきの授業で同じ教室にいた女の子ふたりが外のベンチでたのしそうに話していた。雨ニモマケズ課題ニモマケズ。積み重なる焦燥感。積み重なると言うより色味が強調されてる感じ、わたしだけモノトーンの世界に取り残されている。木々がわさわさ揺れる。ともだちも好きな男もいなくなったときのために、ずーっと居たくなるサイコーの部屋をつくるぞ!と思って、観葉植物とプロジェクターとイエローのベッドカバーセットをポチる。ありったけのエネルギーをつかって見栄を張っているだけで、けして強くはない。気を緩めば赤ん坊のようになみだがぼろぼろでてくる。努力しているのだ。うつくしい写真を撮ろう。恋人はいるけど上手くいってるのか上手くいってないのかよくわかんない、けれど以前のように自分のことを犠牲にすることは少なくなった。今はわたしの相手をするのを面倒くさいと思う人に割く時間なんて1ミリもないと思っているし、だったら一人でしらないひとと酒を飲む方がまだマシ。外に出ればいくらでも拓けた空が存在していて、孤高になりきっているかのように風が吹く。汗をかけば涙なんて用無しだし、歩いて歩いて歩きまくれば、一瞬くらいは生きててよかったと思えるものが転がっているはずで、じぶんはそれを受け止めるのに値すると思っている。もうすぐ19になる。自分に時間を割くこと、自分への愛を惜しみたくない。だれかに想って貰うこと、だれかを想うことにはいつだって悲しみが伴うから、それをちゃんと受け入れられるくらいに。
無題
なんでわたしはふつーに生きていけないんだろうってずっと思っていた。母も父も日本の恵まれた環境でわたしを育ててくれたは良いものの、父は英語主体の企業に勤めていて、母に関しては日本語は流暢に喋れるものの読み書きは未だに不自由。小さい頃から携帯電話の契約書も学校の書類もすべて弟の分までわたしがこなしていた。想像してみて欲しい、12歳の少女が契約書の堅苦しい日本語を解読している様子。みんなが両親に綺麗な字で書いたもらった保護者会やPTAとかの同意書の中で、ひとり浮かないように1文字書くのに1分かけて、わたしの字とバレないように普段は字の汚い女の子を演出していた。日本人の集団に馴染むのが早かったのは、それくらい妥協や諦めを得るのがひとよりもはやかったということ。まわりの大人はみんな神様について話したがっていた。かみさまってなんだろう?かみさまなのに、自分でなんでもできるのに、なんで人間なんかにこだわるんだろう?さみしいのかな?なんて思っていたけれど、「かみさまは全能なので寂しいなどとは思わないのよ、許しを乞いなさい」そう言われてしまった。わたしのやさしさも、ときにはだれかにとって、間違いとなってしまうことを知った。自分のことを、昔も今もとてもやさしいと思っている。けれどそれは人に優しく接することで自分は善良な人だと信じたいだけなのだと最近思う。自分は世界から優しくされるべきだ、人に愛されるべきだと、自分のことを肯定したかった。インターネットをはじめたばかりの頃、世界には寂しい人間がこんなにたくさんいるんだと知って、それが救いだった。たくさんの言葉を綴ったけど、こわくなって一度ぜんぶ捨てた。だれかたったひとりでいいから、わたしも心底愛されたい。川のせせらぎや木々の息吹、風のあおさ、若い緑の匂い、花々、流れゆく時間のうつくしさ。ぜんぶかみさまの化身だと思っていて、それらに愛されていると感じていた。けれど高校に入ると、みんなひたすら楽しそうだった。好きな男の子に抱きしめられたり、友達と夜遅くまでどんちゃん騒ぎしたり、じぶんの美しいからだを隠さず、美しいということを魅せることによってつたえる。ずーっと日に当てず、布で覆っていた髪の毛は、日焼けすることなく漆黒を纏って光っている。みてほしい、ふれてほしい、わたしを認めて欲しい、そういう思いだけがぐらぐらと心のなかで揺れていた。お父さんお母さんにわかってたまるかとおもう、自分たちは宗教や厳しいしきたりが当たり前で誘惑の少ない世界で育ったからそれを受け入れられるのが自然だっただけで、わたしと同じ目線に立てないくせに、立とうとしないくせに、守るとか成長させるとか文化だからとかいう理由でほんとうの自分を確かめたりそれを探すためにいろいろな経験をする機会をくれなかった。そもそも自分が天国に入りたいからという理由で、ひとの地獄にも気がつけない、もしくは与えているってとてもわたしよりも罪深い、そうおもってしまう。あーなんか愚痴みたいになっちゃった。生まれた瞬間から取り憑かれている呪いに終止符は打てない。もう戻れないと思ってしまった。きのう、大学のゼミの友人と、みんなで花火をして、夜の11時半に帰った。お酒とか飲むとすごく気持ちが楽になってなんでも話せて皆んなでわらって過去の苦悩をともにして、すごく幸せだった。風が髪の毛をおもしろおかしく靡かせて首元をくすぐる。愛してくれる男の子もいる。頼りないし馬鹿だし女心ひとつもわかってないところもあるけど、それでもわたしの置かれていた宗教のこと、いっぱい知ってくれようとして、受け入れてくれて、ふたりのわたしをどちらも同等に扱ってくれる。友達は何も言わなかった。わたしが変わってしまっても、それに負い目を感じていても、ただただそこにいるわたしをみてくれた。みんなに、日々にだきしめられることのあたたかさを前よりもちかくかんじる。すぐそこにあったかい塊がたくさんある、本当はたまにすごくこわくなるけど、一人ぼっちになることとかいつかしんでしまうことは避けられないことかもしれないけど、それでも美しい日々を美しいものだと受け入れて生きていくこと、かみさまを理由にくるしいと喚いていたときよりも、自分はもっとこの世界が好きになった。どうか許してほしい。わたしがほんとうにやさしいの、いちばんしっているでしょう。人のことをすぐに疑うくらいなら心底信じてあげたほうがいい。今の自分を成り立たせるために、自分の一部を犠牲にしているかもしれない人も、それゆえに必死に暴れている感情に戸惑っている人も、みんなほんとうはとても素直で優しくてすてきなのだと思う。わたしは気付く、気づいてあげられる。寂しいときもうれしいときも、誰よりも貴方の元へまっすぐに走っていく。
無題
容赦なくどばどば目の奥に垂れ流れてくるブルーライト、過呼吸気味に泣き続ける夜もあと数年したら体力的に出来無くなりそうだから早く早く歳をとりたい。夜の3時なのに目を閉じても眠れなくて全身の血液が逆流しそうなくらいからだが強張っている。もうここ2週間くらい学校行ってない、なにしてるかというと家のカーペットのど真ん中でプリン食べながらフランス語の授業受けてる。同じ大学の女の子が、大学にはBBQかスノボかフットサルがやりたいようなやつしかいない。わたしは坊主か髪色がショッキングピンクのやつとしかともだちになりたくない、みたいなことを言っていて、そういうのってなんか違うし、かなしいとおもった。でも、こうやってかなしくなったりさみしくなったりするのを全て五月病として片付けてサヨナラできるから5月はわりと気に入っている、どれくらい好きかというと6月と10月の次くらいに好きかもしれない。「五月病」の仮面を被った鬱憤とした鈍色の塊が街中を苛ましているの、なんだかどきどきするから毎日赤い口紅をつけている。いつ悲劇に見舞われても良いように。ピエロみたいな足取りでときどき水たまりをばしゃばしゃしながら走り続けた、足元の花も日付もその日の占い結果も、あなたとのLINEのトーク画面も、日に日にぜんぶ気にかけなくなってゆく。手をつないでいた、自分の中にいた幼い少女が夢の中で喪服を着てた。あなただけは離れないで、と思って、でも、目を覚ましてもあなたに連絡は取らなかった。
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今日こそ、と意気込んでキーボードの上で指を交差させながらものがたりを紡ごうとするたび、これまで触れてきたいくつもの眩いことばがぶわっと一気に蘇ってわたしを刺してくる。おまえにはなにも書けないなにも残されていないおまえはなにもかなしんでいない。奥へ奥へとひきずりこまれる。誰も彼もが各々の光を持ち寄って、目の前の道はもう見えないところのほうが少なくなってしまったくらいに隅から隅まであかるい。どんなふうでも在ることのできたそれがほんとうのほんとうに空洞であったと気づいて、でももう泣けない。詩はどのように湧き出てくるんだろうか。音も色も。炭酸がシュワシュワするとか松ぼっくりの形とかどんぐりを拾い集めたりしたときのこと、もうわすれてしまったみたいに、世界がまぶたを1ミリ閉じた、それだけのことかもしれないのにその僅かなエッセンスがこんなにもわたしを主人公たらしめていたのかと途方もない気持ちをおぼえる。サンタクロースがいないとわかった瞬間にクリスマスへのあこがれが半減するのとおんなじようなさみしさをずーっとここさいきん噛み締めている。シシュンキが芸の才能の全盛期だからだろうか、おとなになればいままでずっと見えなかったものがわかって、もっと色鮮やかに日々を過ごせるのかと想像していた。外でガラス瓶ががらがらからからこんこんうるさい。布団の端っこ、握りしめすぎてすごくやわらかくなって、あたらしいパソコンも使いこなせるようになった。かなしいかなしいとおもうけれど、そのこと自体になんの揺らぎも感じなくて、かなしさがより加速するだけ、日々をヒビと書いていた頃があったのをおもいだした。ヒビをいれてゆく、ヒビがふえてゆく、日々。
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晴れて大学生になることができて、数日後に入学式を控えている。でもほんとうはもう大学やめたいくらい友達ができるのか不安すぎて、毎晩寝る前に泣いてしまう。このあいだ新入生交流会があったとき、教室に入ったら女の子が皆んな似たような淡いお洋服を着ているし、髪の毛が丁寧に整えられていて、かわいくて、おんなじような雰囲気で、インターネットでつながって和気藹々とはなしているひとたちもいて、自分は見かけが日本人じゃないから声もかけられないし、声をかけようと思っても(わたしこんなに目立つし、びっくりさせちゃうかもしれないし、迷惑かな...)とか考えちゃってすごくこわくて。ツイッターに勇気出して何か投稿しても、だれからも反応が来ないとそれもまた不安になってすぐに削除してしまう。これからずーっとこんなかんじで、高校のときみたいに心から打ち解ける友達なんて一生出逢えないのかもしれないとか思っちゃってさみしくて涙がぼたぼたでてくる。おおきいキャンパスの中を新歓のために端から端までひたすら歩いて、すっごくつかれた。新鮮といえば聞こえはいいけど、わからないことだらけで自分からなにか行動を起こすのをいちいち億劫にかんじてしまう。大学の中でも明るい人が多い、キラキラした男女が多い、と言われているような学部で、自分もそこに馴染めるかな、と思うとつらくなっちゃう。全然おもってたのとちがう、こんなの。これからどうしよう
無題
冗談抜きで毎晩泣いてしまう、ただそれが今はいちばん正しいことのように思えるからそうしている。
通知表をなくしてしまったので家中を捜したけれど見つからなかった。それで明日先生に怒られる予定だから今更のほほんと眠ることもできないでいる。たかがそれだけ、という言葉で収まることではなくて、何度もこうやってモノを無くしておいて一切学ばない自分に腹が立っている。
忙しくて皆ん��の文章を読む時間がなかった、そうしたら自分のブログも読んでもらえなくなっちゃった。
今日も頑張ったと自分を愛でてあげることができない。
なにもこんなにかなしいことばかりを書きたいわけじゃなくて、むかしみたいに空が綺麗だったとか友達と一緒にひるやすみにフルーツジュースを飲んだこととか、長らく話してなかった同級生と体育の時間でペアになってキャッチボールができたとか、予備校での先生のプチ話が面白かったとか、そういうちいさな喜びはあるけれど、夜になると感情の波が音を立てて自分の中でせめぎあう。その狭間で、わたしがいちばん好きだったわたしがぎゅうぎゅうに押しつぶされて捻り絞られて塩辛い水で溺れてしまうの。
こんなことを書いておいて浪人でもしたらどうしよう。恋人とでんわしていると本当にくるしくなってしまって、すごく嬉しいはずなのに全然喜べなくなってしまった。逢えないのに、逢えないのにそんなことするの、逢えないんだからこうしてほしい、とかそういう自分の身勝手な思いが本当に申し訳なくてくるしい。好きだからお勉強のことを応援したいのに、すきだから逢いたいし、好きだからそれを同時に我慢しないといけないものとひどく重たく捉えてしまって、すきだから嫌いになりたくないという一心で自分のもやもやした気持ちに無理やり蓋をする。会える距離にいる人たちの並んでいる姿を見て落ち込んでしまうけど、わたしはわたしのすべきことがあるし、それは彼もそうだから割り切るしかないこともあるのだとおもう。
金平糖
わたしがいくら誰かを呪って恨んでも、紙がその言葉で埋まるほどクソクソクソと書き殴っても、結局のところ現実ではその人を愛する人たちが存在していて、そして当人もまた違う誰かを愛しながら日々に幸福を見出すのだから、本当に一番かわいそうなのはわたしだけかもしれないなんて思った。だれかのことを考えて途方もなく苛立つ自分がいちばん自分を不幸たらしめている。駅前にあるでっかい木がゆらゆら揺れる。ゆうがた、眠くなったので勉強道具を片付けて喫茶店をあとにした。暑さで足取りが重くなりつつもすこしずつ歩く、踏んでいるのが蝉の死骸か大きな枯れ葉かの区別もつかない。黒い蝶々をみてから不運続きだ。だれもわたしが泣いてるなんて気づかなくて、錆び付いた車輪を引きずりながらどこにいるかもわからない恋人のことをかんがえる。遠くなった。夕陽を後ろにわたしの影だけが前に長く長く、大きく伸びて、前方を歩く少年が気付かずに頭にあたる部分を何度も踏みつぶす。美しいものにはある種の残虐さがあることを信じて、祈りとかいう逃避を繰り返している。大丈夫?と聞かないで欲しい、大丈夫じゃないから。もう誰にも自分のことを見て欲しくない。ただ自分だけは自分のことを大丈夫だと信じてあげたくて文章を書くという行為をしている。
雨が降っている。雨が降り続けてくれればいいのに、そうしたらわたしもそれを偶然だという言葉でもって割り切ることができるのに。点滅の中に放り出されて、その明暗に目眩を覚えながら自分の行き先もまともにわからずにただただ進んでいるだけのまいにち
不在
かみさまが見つからない。登録していた音楽ストーリーミングサービスが解約されていた。昼から夜まで建物のなかに閉じ込められて、夕焼けをゆっくり眺めることもなくなった。映画館の薄暗い照明と大きな音にこわくなっても、恋人の手を握ることができない。かみさまがいない。なにもかもを投げ捨てた結果、罪悪感から今更おかあさんにありがとうと言うこともできない。ずっと、信仰という名の呪いの渦の中にいる。小さい頃からこの世の中のものはすべて神さまが創ったんだと信じていて、でもさいきんはそのせいで自分の行動が制限されるのがとても憎々しかった。どれもこれも、神さまのせい、親のせい、うまれたせい、というふうにずっと側にあって救われてきたものを突き放すことそれ自体にとても苦痛を覚えるのに、脳味噌が勝手にそういう思考をして勝手にくるしんでいる。挙げ句の果てには同級生に推薦入試のネタに利用される。こんな家でていきたい、と思っても行くアテはひとつもない。お金もない。お金を自力で稼ごうとする活力もない。どんなにわたしがぜんぶ無かったことにしたくて信仰を罪で上書きしようと、依然として実在していようがしてまいが神さまというものはわたしの中にあって、そうか。これはそういう呪いなんだ、と思う。もうだめなんだと。恋も音楽も言葉も、性別も家族も、見た目も才能も過去も、ぜんぶ同じ容量で「呪い」として全人類に等しく降り注いでくれたならいいのに。抜け出せない世界を抱えるもの同士、ふたりでいっそのこと呪いをかけあってしまいたい、それなら呪いだって愛に変わるのかもしれない、とそういう陳腐な妄想でしか漠然とした淋しさを消費できない。さみしい。唯一の居場所を自ら捨てて、こんどはどこにも居場所がないとさみしくて涙を流す。こういう呪いが不思議と人生という物語の大きな軸になっていって、結局さいごにはその「呪い」自体に自らを救われる、なんていちばん美しい結末を享受できる人は一体どれくらいいるのだろう。迷信。もう剥ぎ取ることのできない仮面。うつくしかったわたしの心は嘘を重ねる毎に醜くコーティングされ続けて、今ではもうすべてのものが何かに縛りつけられているみたいに、目の前の光景はわたしになにも応えてくれなくなった。何をどうしたら正解なのか、どうしようどうしようと悩み続けた末にその苦しさを世界のほうが背負ってしまったのかもしれない。うつくしいという言葉に収まりきれずに溢れでて、胸をぎゅうっと締め付けるもの。瞬きを忘れるくらいにずっと見ていたいと思えるもの。一切のものを捨ててでもいいからその気高さに近付いたいと願わずにはいられないもの。そういった、どうしても拭えない不安感をやさしく抱き締めてくれる愛がほんとうは色々なところにあるはずなのに、以前に美しいと思っていたものをもう同じように美しいと思えない。花というのは揺り籠から墓場まで人の生活を彩るものだ、というようなことを太宰治が書いていた。「孤独は花だから。美しいものを寂しくしないように、そのまま纏えるほどの強さを身につけていけますように」 と綺麗な言葉で文章を終わることができない。不完全でも愛してください。底無しの未来に水をあげて。
無題
ここ四日間くらい先週の頑張りが底をついたのかぐったりしてしまって勉強にあまり手がつかない。殺してほしい。まいにち死にたい。がんばっても報われないひとだっているし、大して頑張らなくてもおいしいとこを掻っ攫っていくことができる人もいるんだろうなとおもうと泣いちゃう。東京という概念が巨大化して人を貪っている。東京って、日本ってこんなに高校生いたんだ、と思う。餌にされてしまうことの恐怖を突きつけられている。だれかの優越感を満たすための餌としてその努力を利用されてしまう未来がみえる、こんなこと言ったらまた考えすぎだってみんなに怒られちゃうけど。風が吹かないとその音がわからない風鈴みたいにわたしのなかのいちばん美しいところも、もしかしたら誰かに傷つけられて大きくその心を揺さぶられるまでわからないのかもしれないなんて気休めにぼんやり考える。夏という言葉が都合よくあちらこちらで使われるようになって、ぜんぶみんな夏のせいにするようになったから、たぶんもうほんとうの夏はもうやってこない。夏は遠くて遠くて悲しいくらいに鮮やかで到底手の届かないモノだと信じていたかった、それが今やだれかの快楽の理由付けにされてしまっているのだからもっと惨め。わたしがこうして夏を文章のネタにしているのと同じくらい惨め。おかあさんが泣いている姿とか勉強を理由にインスタグラムを更新しない友人の笑顔とか彼氏がわたしを抱きしめるときのつよさとか、そういうだれも知らないであろうものの美しさを、わたしだけが一瞬ひらりとわかるとき、そういうのがほんもののしあわせなんだろうと思う。もうあと半年とちょっと経ってしまえばわたしのこれからの人生の枠組みはもうほとんど決まった、という体で毎日がすすんでいく。日本は学歴社会だから大学名は重要だよと声を揃えて言われ続けて、今でもまだその現実を黒く塗りつぶして無かったことにしている。はやくぜんぶ死んじゃえばいい。アーメン。
魔法のトンネル
18歳になりました、という投稿をするつもりだったけれど、合間合間に想いの丈を綴っているうちに月を跨いでしまった。この期に及んで未だ梅雨を引きずっているかんじの毎日で、最後に晴れた日がいつだったかも忘れた。君のいない世界なんて夏休みのない8月のようだ、といつか野田洋次郎が歌っていたのを思い出して現実になりつつある言葉の並びに少しどきりとする。大学受験まであと半年くらい。アルコールでささくれが目立つ指。これから1年後、自分の居場所を全く想像できないことに対して残る不安感。この一年の間でとても大切な人ができて、その人が居るから今年はだれかと祝福メッセージやプレゼントの数を比べて露骨に落ち込むこともなかった。こんなままではいけないと思うけれど、これでもかというほど甘えてしまう。彼から電話がかかってこないまま気がついたら零時、開きっぱなしの参考書。ベッドから机の上の山を見あげる。もう流れるような文章も書けなくなった。ただ、机元を照らすためだけに付けた光が部屋中に行き届きすべてのものを露わにするように、自分のために費やした諦めとかいう努力がいつか私の人生全体を明るく縁取りますように。そう期待することしかできない。
朝、きまってこの時期の朝の。とりわけまぶたが重くて視界がぼやけているとき、雨音と扇風機の回転音の違いを聞き分けられないままなんだかもう一度眠ってしまいたくなる感覚になる。自分の憂鬱な気持ちをすべて代弁してくれているかのように完璧な美しさを崩すことなく泣いてくれる空、ずっと梅雨が好きだった。17歳。強いのか弱いのかわからない外圧をずっと肌身に感じながらも良くここまで頑張れてこれたと思う。強まったり弱まったりを繰り返しながら着実にわたしの内側を蝕んでいくもの。どんな記憶であれ時間が経てば薄れていってしまい、曖昧に濁した言葉でしか文章を綴れない。降って、降って、降りつもってゆくのはけして愛や幸せではなかった。幸せが一方で加速させる理想や願望、それによる劣等感、幸せでなくなる恐怖、あるいは幸福それ自体への疑いも、ぜんぶずっと祈っていればいつか大丈夫になるとおもっていた。そうした形での正しさしか知らなかった。
歳を重ねるにつれて特別なものが増えていくけれど、それらはなにもさいしょから特別だったわけじゃなくて、くるしくなったり嬉しくなったりするたびに複雑に絡まっていたものの辻褄があって少しずつ真っ直ぐな一本の線になっていく感覚に近い。最初はちいさな不幸から始まったことが最後にはたくさんの愛に囲まれて光になっていくと半年前ちょうど失恋したあとに書いた。たぶんきっとそういうことだとおもう。そういうことだとおもいたい。消化しきれない劣等感を抱えながら、それでもそれをだれかの優越感の餌にされてしまうのが気持ち悪くていつも満足げに振る舞っていた。小学6年生の頃、布団に包まって壁に手を当てながら(世界のどこにいても良いから今だけ運命の男の子が壁の向こう側で同じように手を合わせてくれていたらいいのにな、)とか祈っていた。アスファルトに浮かぶ白線が血脈のように都市に光を流し込んでいく、わたしはひとりで遠くまでこれるようになった。
誕生日当日、晴れた土曜日。
だれもわたしのことを知らないということがいちばん幸せだった。
となりには愛おしい恋人がいて、いっしょにタピオカを飲んだり服をみたり歌を歌ったりした。街中ですれ違う人はだれもわたしがブログをやってるなんて思わないし、人生で殆どはじめてに近いことをしているとも思わない。そういうのってとても気持ちが楽で良いなと思った。信頼している人たちに過度に期待をされること、責任を半分こするのに疲れてしまった。一緒に悪者になってほしかった。わたしがなにをしても、それがいちばん正しいことかのように大丈夫だよと諭してくれるだけで、それは救いになれるはずだった。おかあさんに喜んで欲しいから、友達に見限られたくないから、だれにも落胆されたくないから、とかいう言い分を勝手に作って勝手にくるしんでいる。ほんとうは静かでいられる関係性が好きだけれど学校の友人はみんなはしゃぐのが好きだから求められているものをそれらしく纏う。両親は善良な人だけれど時折意味不明な束縛をするので面倒くさい、わたしも普通の日本人の女の子みたいに生きてみたかったと思ってしまうことにすら罪悪感を感じる。信仰というのはとても美しい行為だと思うけれど、本来は人を救うはずであるものが「救われる」「罰せられる」という境界線においてときどき人をひどく苦しめてしまうのでとても扱いにくい。救いを見出すはずの宗教によって苦しめられるのはちがうよ、と友達に言われたことがある。大学生になったらぜったい一人暮らしをしたいとおもった。伸ばせと言われ続けてきた髪も思い切り切りたいし、慎ましいふりをするのもやめたい。わたしほんとうは男の子に抱きしめられたこともあるの。けれどそんなことを言えば両親をがっかりさせてしまうから、遠いところで一人で植物とか猫とかに囲まれてひっそりと生きていたい。
かみさまに対する信仰心が薄れても、小さな嘘に罪悪感を覚えなくなっても、男の子と関係性を持ったことがなかった自分自身を忘れても、文章が書けなくなっても、友達と疎遠になってしまっても、病気で人がたくさん死んでも、普通に生活が続いていくことにときおり悲しくなる。それくらいわたしは案外どうでも良いとおもってることが多いんだと感じてもっと悲しくなる。あっちへいったり、こっちへきたり、あるいは戻ったり、そういうのを繰り返していたら、もう戻れないところまできてしまったみたい。あるかどうかも分からない未来のことや、だれかとその過去を背比べしてそれに一喜一憂していたこと、ぜんぶだいじょうぶになればいいなとおもう。ぜんぶ抱きしめてぜんぶ愛してあげられたらどんなにいいだろうとおもう。わたしには愛しているものが沢山あるし、わたしもだれかにきっと愛されている。最近見かけなかったので死んだのかなと思っていた野良猫を今朝ひさしぶりに見かけて胸がきゅうっとなった。汚いものに沢山触れてきたわたしの手はもう美しい手じゃないけどそんな手のひらの中でも心地良さそうに包まれているちいさなその頭が愛おしくてなんども撫でる。純粋でなくなってしまうのがずっとこわかった。ううん。たぶん純粋だと思われなくなってしまうのがこわかった。
続きを書きたいけどあしたも学校があって、さすがにちょっとねむい。悪者になっても大丈夫だから、わたしはわたしのそばにいるし、君のそばにはわたしの愛してるきみがいるからだいじょうぶ。特定の誰かじゃないよ、みんなが幸せになれますように。
n(atsu)
線路が控えめな緑に縁取られていて夏を感じた。でんしゃがいつもより大きく揺れるな、とおもった。ひさしぶりに乗るから余計にそう感じるのか、ほんとうにいつもより大きく揺れているのかは良くわからなかった。塾へ着いたら体温検査をされた。世の中の非現実味は薄れていくけれど、それでもやっぱりまだどこかふわふわしているかんじがする。ふわふわ、という言葉は抽象度が高くて便利だと思う。白黒はっきりつけることで正義を実感している人間って意外と多いのかもしれないし、わたしも気付いていないだけで実際はそういうところがあるのかもしれない。燕が雛に餌をやっている様子と、健気に咲いている向日葵と、それに加えてマスクの内側の皮膚が熱気を帯びていく感覚。去年、男の子と花火を見に行って、わたしの中での鮮度の高い美しい夏はそこでずっと止まっている、あるいはもうほとんど完結されたようなかんじ。塾が終わってから本屋へ寄ると、同い年くらいの背の高い男の子が絵馬の形をした紙に合格祈願を書いてちいさな箱へ投じていた。わたしも流されてペンと紙を持ったけれど、多神教じゃないんだよなあと思ってやめた。わたしはわたしが信じている神様にもまだこわくて合格できますようになんて言えていない。いつだってこわいものから救ってくれるものが神様なのに、自分勝手に生きていながら窮地に追い込まれたときだけ救いを求めるのは割りが合わないと思う。好きな人と一緒に昼間から眠りたい。神聖な場所で祝福された心を持つ人に祈りを唱えてもらいたい。突然変異で雪が降ってほしい。騒音の全てを吸収して、それで全てなかったことかのように水になって溶けていってしまうの。指輪が欲しい。細いやつ、宝石はなくていいし装飾もなくて良いから。涙を拭う手に宿る愛があれば、だれかにゆるされたという証が指にあれば、虚無感を紛らわせるための画面スクロールも、劣等感を埋めるために耳触りの良い言葉を連ねる必要性も、不確かな焦りも薄まるかもしれない。というのも最近また得体の知れないストレスに悩まされていて、今日もすこしだけ泣いてしまった。すべてあなたの心の持ちようで変わるの、薬はなにも解決してくれないよ、と母にはそう言われて、それでもっとかなしくなった。そういうことじゃないの。模試を受けるにしても勉強した量に等しい成績が出なかったら、とか、到達点は同じでもそこまでの努力の過程に差があるだけで劣等感をかんじてしまう。まいにち頑張りたいのに思うように脳みそとからだが動かなくて悶えている。わたしは自分を高めることで自分は大切に扱われるべき美しい人間なのだという確信が欲しいだけで、それほどまでにきっとわたしの内側にある自分への愛や期待値というのは年齢とともに他人任せになっていって、諦めや、未来の自分の幸せに対する責任を負いきれないという言い訳や、ときおり世界から拒絶をされているかのように感じられた幼い頃の傷ついたこころがぜんぶガチガチに固まったしこりのようなものがずっとあるみたい。もっと自分で自分のことを愛してあげられますように。今、世界ではいろいろなことが起きていて、それに対して声をあげないという選択が道徳的ではないと非難されてしまうことがあるらしいけれど、関心を持たないということもひとつの意味のある心の持ちようだし、それをやさしさと捉える人もいるのに、とてもやりきれない。恋人が「みんなつらいけど、ありじはつらいの」と言ってくれたことがとても救いだった。だれかの不幸と自分の不幸を秤にかけるということにやっぱりわたしはある種の違和感を覚えるし、たとえそこに差があっても自分のことを放棄してまでだれかのために立ち上がることは少しちがうと思う。そうして切り捨てたものが何らかの拍子にいつか今度は自分自身を殺すかもしれないし、自分の身近で大切な人を傷つけるかもしれないし。わたしはわたしを取り巻く世界をたいせつにできたらいいなと思う。足取りが軽くなれば、もっと遠くへといけるでしょう。だいすきなひとが苦しんでいたらすぐに駆けつけられるし、わたしはそういう風に愛される女の子になりたいから沢山のことを頑張っている。月が変わったのでカレンダーをめくったら、「涙は人生のお師匠さん」という言葉の周りにたくさんの滴のイラストが描かれていた。扇風機をつけると、紙がパタパタ揺れる。がんばる。わたしの愛する人たちが沢山愛されますように。
どれほど遠いところに行こうと試みても
どこか気持ちがもやもやしてやりきれなかったので少しばかり走りに行こうと洗面所の前に立ってコンタクトレンズをつける。泣くまいとしていたけれど、使用期限切れだとも知らずにレンズを瞳に上にのせた瞬間、意志とは関係なく勝手になみだがぼろぼろでてきて焦る。ずっと我慢していた涙ももしかしたらそのなかに紛れていたのかもしれない、濡れた睫毛やすこし充血した白目を見るといつもどこかほっとした。
世界は絶えず美しくて、じぶんなんかがその大きな器の中で堂々と情けない顔をしているというのがなんだか滑稽に思えてきた、と昨日は日記に書いたけどやっぱりそう思えない。うまれる、しぬ、という表現がコピーペーストされてできた世界線。どうしてもくるしくなってしまう、くるしいものを見ないようにと目に覆いを被せて生きているからたまに世界を直視したときにあまりの眩しさになにもみえなくなってしまう。
結局のところ、きっとわたしはなににでもなれるし、なににでもなれた。わたしはわたしが望みさえすれば、家をでていくことも、うまれながらにして与えられた名前を捨てることも、今つながりを保っている関係性を断つことも、信仰を捨てることも、自分のからだを誰かに売ることも、求められてそれに応えることも、アカウントを削除することも、つらい勉強に身を投じることなく大学に行くことも、自分自身やそれに関係する人々をきずつけることもできてしまう。その可能性についてぼんやりかんがえていた。
考えてみればあまりにも不安定なわたしは、なににでもなってしまいかねない自分というものとずっと一緒にあるいてきたように思う。自分というものの一部をわざと切り離してあえて失うことを選んだり、あるいは舐められないよう努力をして立派なものに築きあげたりする過程でしか自分が自分であることをたしかめられなかった。欲を我慢しなさい、謙虚な姿勢で生きていきなさい、と幼い頃から教えられてきたことの反動がまさに今起きていてつらい。人間は生まれたままの姿こそもっとも美しい、醜い人間というのはひとりもいなくて、そしてだれもが平等に愛されるに値する、といった程度の言葉ではこの漠然とした不安感は解消されなくなってしまった。
あなたがいちばん大切にしていて、且つあなたをあなたらしくさせているものはなに?という質問をともだちがインスタグラムで公開して回答を募集していた。わたしは今までずっと恋愛をすることでしか自分を保てなかったの、という彼女の文句もまた同様に等しくまぶしいものだということに当人は気付いていないかもしれない。膨大な情報のなかで、なにをほんとうに掬いとるべきなのかわからずにいつまで彷徨い続けるのだろうかという不安を抱えている。たすけてほしい。毎晩、たすけて、たすけて、と寝る前に心の中で念じるようにしていて、そうして眠りにつくとなんだかほんとうにたすかったような感じがする。
というのも、なんとなく、という世界線を生きること自体あまりに物事を都合よく解釈していていらいらするので、とうとうまともに祈ることすらできなくなってしまったのだ。はずかしい。わたしは決して善良な人間ではないのに、善良な人間の中で同じ言葉を唱えていることに一種のはずかしさを覚える。
無題
一年前までは、死ね、クソ、うざ、という言葉にほんとうに値する人間や事物などなくて、物事のすべては捉え方なのだと、主観で世界の全てを決めつけてはいけない、美しくいなければいけない、という考えがあったからわたしはほんとうに一度もそういった言葉を使わなかったし使えなかった。それなのに今や抵抗が少なくなってしまって思いたくなくても大事な人たちにいらっとしたときや精神が弱っているときに反射的に汚い言葉が脳裏に浮かんでしまってやりきれない。過去をふり返るとき、その足跡がどれだけ美しくても、長く歩き続けてきたとしても、結局その先にあるのが地獄だったら意味がないでしょう。
外に出ても風は一切吹いていなかった。頬に染み付いたなみだの生温さは消えず、水面の揺れもしずかだったので川が川じゃなくてアスファルトみたいに冷たく感じられて、音もない夜にわたしは勝手にひとりぽつんと取り残されてる感覚だった。
それでも良いこともあった。このあいだ、雨が降った日にふとした好奇心で自分のうまれた日の天候を調べたら、わたしがうまれたその日も東京では雨が降っていたらしいとわかったこと。たくさんの雨粒のなかにも一粒くらい当時のものも紛れているのかなあ、と思った。たとえ同じ形をしたものが数多くあっても、情報量の多さのなかで下敷きになってしまうようなほんの些細なことでも、わたしはわたしのことを愛してくれているものをがんばって見つけ出したい。そしてそう思っているのと同じくらい、同時に心の奥のほうでは常にだれかに見つけて欲しいと思っている。わたしが失ってしまったわたしの美しさを見つけてほしい。もう誰にも傷付けられないように。もう自分のことを傷つけなくて済むように。愛せますように。
無題
あ〜もうわたしなんも勝てないな〜って思って泣きそう。���てないものがおおすぎる。受験生なのに自分の欲に打ち勝って勉強に励むことすら怠ってしまって、他人と比べることでしか自分を測れないからだれかが頑張っているすがたをみても素直に応援できない自分がいてくやしい。みんな守りたいものをちゃんと守って、それをつよみにしているのに、わたしはなにかを失うことでしか自分が満たされていたことを実感できなかった。捨ててしまった欠片をひとつひとつ集めようと、かがんで地面を這っている惨めな姿を誰かに見られたらどうしよう。だれよりもきらきらした世界をしっているつ���りで、かみさまからも愛されているつもりで、たくさんの人がずっとそばで応援してくれていることに対してそれ相応の結果や愛を返せているつもりだった。だけどぜんぜんそんなことなかった、そんなことなかったのにそれでも絶えず世界も人も優しくて美しくて眩しくて純度が高いので薄汚れた言葉をもってしまったわたしにはもう直視できないんじゃないかと挑戦することすらこわくてできない。わたしの写真���文章がだれかに良い影響を与えていたらそれはうれしいけど、それでわたしだけのものだったわたしの一部が他の誰かのものになってしまうのは少しだけ悔しい。ブルースクリーン越しに奪うこと、奪われることに慣れてしまった。わたしは結局わたしだけみてほしいと思っていて、それがわたしの幼さで弱さなのだと思う。弱さも強さも武器になるうるけど、ほんとうに強い人はちゃんと矛先を向ける対象を選ぶことができるから目の前の道をどんどん拓いていけるけど、弱いままのわたしはずっと自分の胸に矛先を向けているからだめで、自分を窮地に追い込んではじめて大切なものに気がつくことができる。「わたしが失ってしまったものをありじちゃんは大切にしていてすごいと思うし、これからもそれを守り抜いてほしい」とメッセージをいただいたことがあるけど、わたしが彼女の立場だったら同じようなことは決して言えないだろうと思う。きっと、ずるいなあ、と思ってしまう。ずるい。わたしもあなたみたいになりたかった、と。なりたい自分に到達できずに足掻いている途中であたらしい自分が形成されたとして、それはむしろなりたい自分とは真逆な人間なわけだから、その歪さを美しいと褒められても全くうれしいと思えない。やっぱりでも今日だけ美しいといってほしい。今日だけ慰めてほしい。そろそろぴえんって言葉つかっちゃいそう。
愛?
さいきん日常の何気ない瞬間において、いいなあ、とたくさん感じたけどその都度いちいちメモに起こしていないので内容はほとんどわすれた。なのでブログを更新できないし、あと二ヶ月も経たぬうちに十八になってしまうからせめて可愛げのあることなんかを少しくらい書きたかったのに状況が状況なので仕方ない。毎朝オンラインで出席確認があるんだけど昨日は二度寝して出られなかったし、このあいだ試しに大学の過去問を解いたら点数はだめだめだった。一日だけ夜に恋人に電話で弾き語りをしてあげた。ぜんぶ壊れちゃうならさいしょから手を伸ばさなきゃよかったってことを話したら、あのね、ちがうの、持っていたっていう事実がとてもたいせつなの、さいしょから持ってるのと持ってないのじゃちがうでしょ?わかる?と諭された。そうかもしれない。怠惰に怠惰を上書きするように生きている。こめかみに銃口を押し付けられて脅され怯えるようにして、つきまとってくる色々な事実から目を背けている。こんな具合に漠然とした不安感がうんぬんかんぬんとダラダラ書いているけどほんとうはそれなりに幸せで充実した生活をしているからいつかバチが当たってしまいそう。歳上の彼氏と別れた友達の女の子が、今頃煙草でわたしの肝臓ぼろぼろなんだろうなあ、もっと自分のことを大事にしてあげたかった、と裏垢で溢していたけど、きっと彼女にだって彼の影響で自分のモノが形を変えていく過程に幸福を覚えていた瞬間もそれ自体に救われたこともあったんだと思う。ただ薄暗くふちをなぞっていかないと未来への期待値があまりにも高すぎて落とし穴にハマってしまいそうでこわいからみんな可哀想ぶっている。たぶんどこにも事実なんていうものはほんとは存在などしていなくて、みんなが情報を選んだり捨てたりしているだけで、人間が数値にしたり名前をつけたりしながら記録をしているだけで、何もかもを取っ払ったら、あ、でも、そうなったらわたしはどうなっちゃうんだろう、なんてことをずっとぼんやり考えている。二か月くらい前にだいすきな友達といっしょに塾へと向かう道を歩きながら、わたしたち卒業までにいつか絶対この道で泣くと思うって笑いながら話していた。今ごろ存在していたかもしれない日と流していたかもしれない涙とあったかもしれない出逢い。そういうので世界が動いているのかもしれないと思うと心がふにゃあってなって泣きそうになる。この足を踏んでいるところのずっと奥に埋れてしまったいくつもの歴史に救われている。その後、小さなレストランで二人分のサンドイッチを頼んだ。ずっと憧れていた女の子にはやっぱりなれなかった。一度「憧れの女の子のフリをする」アカウントをつくろうとしたけど苦しくなってやめた。新作の化粧品と知恵袋での大学受験生の相談事と参考書のレビュー調べだけでほとんど埋まっている検索履歴欄の隅っこに追いやられてしまったいちばん綺麗なわたしを誰かに拾って欲しかった。少しくらい未来をあきらめても人生は終了しないけど単純にそこでわたしの自己肯定感は終了するし、わたしがいちばん大事にしたかったわたしも死んじゃうから、ねえ、わたしは大好きなみんなのことも自分のことも美しさを表現することもぜんぶあきらめないからみんなもわたしのことあきらめないでってインスタの裏垢に書いたあと、電気を消して寝た。許されない愛だけが輝いている。ずっと輝いている。いつか校庭を一面石灰の白に染めて北国の雪景色みたいにして、雨で偽物の冬が消えてしまう前にわたしたちは濡れながらキスをするの。安っぽい映画みたいに物語の順番をぐちゃぐちゃにして今よりももっときれいなところに走っていきたい。“なにも決定的なことが起きていないようなのに、いつしか死が準備されてしまっている、日常という戦場” において、好きな人にお願いだから死なないで、一人にしないで、と一方的に伝える行為がとても無責任だということだとはわかっているけど、ただ、それがわたしの知っている方法の中でいちばん確実にあなたの心を殺せるものだからゆるしてほしいと思った。しんだら身体の隅々まで洗って、痛かったところを撫でて、さいごにわたしの名前の由来になっている花の香りを墓石につけてあげる。あなたの歪みにはじめて触れた日、わたしはあなたのいちばん美しいところをみたようなかんじがして、それがとくべつで嬉しかった。まるかったり、とがっていたり、硬かったり、やわらかかったり、ざらざらしてたり、さらさらしてたりするの。生きているだけで美しいという言葉はみんな戯言だと笑って受け流すのに、しぬことになると急になんか真面目な顔をするからやになっちゃうよね。写真を撮ることを知らなかった頃のわたしはたぶんほんとうの写真家だったし、まだロックミュージックを知らなかった頃、わたしのロックスターはずっとわたしでしかなかったし、文学を知らなかった頃に感じていた世界とおなじ色合いの世界をわたしはもう見れない。そういうものだから、もしかしたら死ぬことなんて知らなかった頃、わたしたちもずっと死んでいたのかもしれない。それでたぶん今でもその頃の残像が残ってるのかもしれない。逃げて逃げて逃げた先で待っているから、そこでまた逢えますように。
無題
あこがれている女の子たちがみんな色白で華奢なことにむかついている。だれかを真似して美味しいところだけを盗むことは誰にでも出来るんだけど、でもそうじゃなくて、彼女たちがもっているものは彼女たちにしかもつことを許されていない域にある圧倒的なものだからくやしくて泣いてる。その子たちがフォローしているアカウントを全部フォローしたら同じ世界を見れるかもと思ったけどやめた。きっとわたしよりもいろんなものを見て感じて聞いて愛してたくさん傷ついてきたんだろうなあ、と思う。自分と向き合うのはとてもくるしくて、美しいものに触れることで浮き彫りになる絶望もまたするどくて、それでも躊躇いなく自分の内側にあるものを外にだして整えてまたぐちゃぐちゃにしていくの。そういう工程を何度もじっくりしずかにしてきたのかもしれない。お世辞にも美しいとは言えないものでも、美しい人がすればそれはたちまちに美しくなってしまう。ずるいなあ、十七年かけて見つけたものが諦めとかいう単なる逃げだとしたらやりきれない。頑張れるかなあ、がんばりたいなあ、って言うのたぶん二千回くらい繰り返しているけれど、こんなわたしもすこしずつちゃんと踏み出していて、前に比べたら痩せてメイクもするようになって結構垢抜けたし、何も書けないと言いながら泣き喚いてブログのアカウントを消すこともなくなった。ワンクリックで消えてしまった昔のわたしの言葉には相応の墓場もないけれど、だれかの支えや救いやたのしみになれたことが嬉しい。文章なんて手軽なもので誰でも書けるものだけど、誰でも、の中で、わたしのを読んでくれている人がいるのだという事実がうれしい。きっとでも綺麗事抜きでほんとうはだれでも特別で、特別じゃない人はいないんだろうけど、すべて目に見える数字として統計されてしまう今だからこそ他人からの評価やさまざまな人たちからの好意や自分は愛されているのだという確信の多さがそのひとの輪郭をなぞって、より濃くして、いわゆる個性と呼ばれる類のものを形成していくのかもしれない。くやしいし皮肉だけどそれを掻き分けていくのが、生きるということかもしれないし、あるいは自傷行為なのかもしれないし、わかんないけどわたしだけは自分の味方であれるように努力していけたらと思う。たとえ負け犬でも遠吠えできる余裕と気力があるうちはまだ勝ってる、たぶん
無題
きのう、河原まで自転車で走った。昼間の明るい時間帯に行くのはとても久しぶりだった。最近はストレスで奇行に走る人がいるらしいから夜に外に出るのはやめて、と母に言われた。テレビをつけてもスマートフォンのスクリーンをいくらスクロールしても、そこに有るのは饒舌に討論を繰り返す人間と、それに対する第三者からの警告、といったような感じだし、鬱々としていたのでちょうど良かったかもしれない。運動用にだぼっとしたパーカーを着て、弟のサドルがすこし硬い自転車を借りた。前方から吹いてくる強い風に服がぴたっと身体に張り付くので、はずかしくなってペダルを踏む力を強くする。桜の木はもうどこにも見当たらず、小さな花びらだけがコンクリート上にまばらに散らばっていた。空は青くて、高くて、鳥が群れてそこを飛んでいて、それをわたしが見ていて、だけどわたしのことは誰も知らないの。そしてわたしだって誰のことも知らない。その事実がいちばんやさしくて、それでいていちばん淋しいから美しいと思う。川の水面が光を受けてきらきらと煌めいているのを眺めるのが好き。光りの粒がたくさんあって、見る場所によってそれが大きくなったり小さくなったり近くなったり遠くなったりしてかわいいの。昼間は白く光るのに、夕方になると今度はピンク色になったり朱色になったりするからもっとかわいい。塔屋看板にペンキを塗装する業者の人。頭上を走るモノレール。走る犬。投げられたフリスビー、野球ボール。ふうっと口をすぼめてたんぽぽの綿毛を飛ばす子どもたち。うっすら川のにおいがして、うれしくなって少しのあいだ草原の上に横になった。草ってこんな柔らかいんだって思った。オレンジ色ってこんなにオレンジ色だったんだ、とか、鳥が一斉に空へ飛び立つときにパタパタと羽根の動く音が聞こえて、しゃぼん玉が弾ける瞬間にせっけんの匂いがして、英単語帳をしばらく眺めていたんだけどすぐに閉じて空のずっと奥の方をみてた。いつもはうざったい太陽の残像でさえ愛おしく思えてしまうなあ、どうなるんだろうなあ、これから、って思った。わたしが掬い取っている現実はきっとほんとうの世界のほんの一部でしかないから、救われますようになんて偉そうなことは言えない。だけど、たかが数日間外に出ていなかっただけなのに一人でこんなにも大袈裟に感動している。すこしくらい見返りを求めてもいい気がしてくる。
頭ぐわんぐわんする
現実に翻弄されている人間を嘲笑うかのようにして桜が我関せずと言わんばかりに堂々と咲き誇っているので、なんだかすこしだけ愉快な気持ちになった。白い四角形を顔の表面に貼り付けながら、それでも歩く足を止めない人間の行く末をかんがえると何もかもがいやになってしまうけれど絶望の輪郭をみんなでかじって食べていけば、なんとも名付けようのない不器用な形をした詩のような世界ができあがるのかもしれない。今日くそみたいなじじいがくそみたいな眼差しでこちらをみてきたので睨み返してやったんだけど、どれだけそうして自分の弱さを繕うように強がっていても彼には変わらずに愛するものがあって彼を救いにしている人もたくさんいて、そのことがなんだか、それだけがなんだかそのときのわたしの苛立ちの唯一の誤魔化しだった。だからわたしは彼を刺殺さないし、彼もわたしを殴り倒さない。そういうのって、大事なんだろうなあと思いながら電車の広告の文字を追っている。ちなみになにも頭には入ってこない。あたたかい毛布にくるまっていると誰かに抱きしめられているかんじがするから心地がよくて、すこしだけ唇を尖らせる真似をする。まぶたをあと何回閉じれば。何回綴じれば。いいんですか。コンクリートジャングルと自転車のサドルとスカイツリーの心臓。あ、と思う頃にはもうすでに全てが遅くなっていて後悔をするけど、あ、と再び思うと今度は以前のそれよりもより大きな幸せに満たされていることに気がつく。竹刀を持った少年たちが夜になると川辺に集まっていつもその刀を縦に振っている。わたしはたいして歌を歌うことも上手ではないし、勉強も大してできないし、顔だって凸凹している。けれどそれでも真っ直ぐに生きていけるかな。生きていきたいね。終末感の漂う世界をみることで、わたしは独りですこしだけ安心できた。終りがあることに赦される。本当は衝動のまま洗面所にあるハサミで髪の毛を思い切り切ってみたいし、派手な髪色にして東京の真ん中を歩きたい。それでも晴れることのない憂鬱を自分の中の非道徳的な理想に想いを馳せることで誤魔化してみたり、寂しいと思わなくても好きな人を自分の家に泊めて隣でぴったりからだを重ねながら長い夜を過ごしたい。そういうのをだらだらとしたいだけなのに、そういうのをするのにも勇気や妥協や諦めが必要らしい。がんばるよ。すこしずつ。
無題
まいにち予備校の自習室にいっていたら、自習室でしか勉強したくないからだになった。いままで宗教上の理由で髪の毛を隠してきたけど、大学生になったらボブにして染めて街を堂々と歩いてみたい、し、そうしてみる。たくさんあそびたい、だれになにをどう言われようと自分のしたかったことを一つずつしていきたい。親といっしょに暮らしていたら、わたしの「非」はぜんぶ彼らの責任になってしまうけど(これもちょっとおかしい話だけどそう考えている人は多いみたい)一人で暮らしだとわたしのしたことは全部わたしの責任になるらしいので、最近は常に逃げ出したい。思春期や若さを理由にしてどこか遠くへ逃げてしまうことは何もわるくない。ぜんぜんわるくない。寧ろそうするべきだとも思っている。一度離れ離れになることで改めて気付かされることや見えてくるものなんてたくさんあるし、それに加えて黒猫を相棒に迎えいれることがきまって、その子といっしょにふたりで(猫だから「人」ではないけど)暮らすことが決まったのでどきどきしている。もう失うものはない気がして、でもそれは自分がなにも持っていないからではなくて、幸せなことにたくさんのものを持っているからだということに最近気がつきました。毎日走ろうと思ってる、思ってるというか走っている。たくさんがんばって可愛くなるので、そのときがきたら誰かデートしてね
無題
つまらない文章しか書けなくなった。いや、そんなことはないんだけど、もしかしたら面白い文章を書かなくちゃと思うことがなくなっただけなのかもしれないけど、それでも書かずにはいられないほど心を動かされるものとかそれをさせてしまうくらいにわたしの大切なものをかき乱した嵐のような愛とか、水みたいにさらさらしてる美しい光景の数々とか、光とか風とか、なんかそういうの、そういうのに自分のからだとかこころを預けるのがこわくなってしまった。あっちへいったりこっちへいったり、そうしているうちに自分を見失いそうでこわい。だけど反面、もう自分のことで苦しまなくていいようにいっそのこと自分の存在とは程遠いなにかに染まってしまいたい。自分らしい自分なんて本当は存在しないのだとわかっていながらもそういったくだらない不安感をおぼえてしまう。というのも、たくさんの言葉とか音楽に触れているうちに、どんどん自分が感化に感化を重ねて変わっていっているのが自分でもわかっていて、だからもう昔書いていた文章は書けないし、昔捉えていた景色の感触も思い出せない。わたしが考えていることはすでに誰かが思いついていることで、でもだからといってその価値が下がるとかそういうことではないんだけど、時折それがすごくさみしくなる。なにかを表現することで、表現したくないなにかを誤魔化してきた自分が浮き彫りにされているようでとてもくるしくなる。ほんとうのわたしを認めてほしい、などと思うけど、同時にわたしのなにが貴様にわかるんだ、とも思う。自分のほんとうはどうしたいのかという気持ちをうまく掬いとってあげられないのがくやしい。思春期ってそういうものなのかなあ、こうやってぐるぐる変な渦に巻き込まれて、いつも自分だけど自分ではないなにかとすれすれになりながらもがいている。いちばん近いはずなのに、いちばん掴めない。なのに影みたいにしてどこまでもひっついてくるので厄介で。むかしの自分かもしれないし、認めたくない自分かもしれない。いずれにせよ、世界に翻弄されがちな自分の絶望や幸福を言葉や写真などに起こして大袈裟にしてみせる一連の行為に疲れてしまった。わたしはわたしに自分のことを認めてさせてあげたかったのだと思う。あなたの感じていることは言葉にされるに値することだと、慰めてあげたかったのだと。でも今はこうして文章を書くことで、言葉に残さなかったなにかが消えてしまいそうでこわいと思ってる。写真を撮ることで、写真に残さなかったなにかを裏切るような感じがしてこわい。それともそれはただ口実で、ほんとうはほんとうに一切のことに無関心になってしまったのかなあ。全てのことをどうでもいいと投げやりにしてしまうことで、失うものを少なくしたかったのかもしれない。そうすることがずっと強さだと思ってたけど、今もそう思っているところはあるけど、誰かにわたしのぜんぶを決めて欲しいなと思うけど、でも自分でちゃんとえらんでいきたいね。突き抜けたわたしの弱さを、考えすぎたよという言葉で突き放すひとたちはいたけど、それをわたしのいちばんの強さだと肯定してくれたひとは少なかった。考えすぎてしまうこと一般的にみていいことではないかもしれない。たしかにわたしは考えることで現実から目を背けているし、考えることであたかも自分が真っ当に生きていることを正当化しているし、考えることであなたに連絡したい気持ちやあなたに抱いてほしい気持ちを誤魔化しているけどそれがなんかいいなあっておもう。それがなんか、ちょっと可愛いというか、なんか人間味に溢れて嫌いになれない。ぐだぐだ空白を消費しているうちに、どうにもやりきれなくなって深夜にワンピース一枚でそとへ飛びだしたことがあって、そのとき足のくるぶしから太ももの内側へとひっつく夜の風のつめたさに今も慰められている。変わりたくない、と思うけど変わっていく自分を受け止めてあげられるだけの気持ちの余裕やそのかわりになにかを手放す強さとかそういうのを育てていかなくちゃいけないのだと思う。ちょっとだけかなしいけど、もしかしたらそれができた頃には、また遠い昔に出会えていた感動にまたはじめて「あたらしく」出会えるかもしれないと思うとちょっと頑張ってみようという気持ちになる。長々書いたけど自分でも一貫性がないことにくすりとしてしまう。ただの自分語り、あとでたぶん消しちゃうのでこれを読めた人はラッキー。あしたいいことがあるかもしれないね。
無題
��わふわと遠いどこかを彷徨っているかんじで、それがちょっとだけ気持ち良かったり、気持ち悪かったり、こわかったり、かなしかったりした。一日中そんな調子だったのでひどくつかれた。わけわからないウイルスのせいで色々な部活の大会や練習が取りやめになった。期末試験もなくなって、これから空白の一か月間。放課後あちこちからだれかのすすり泣きとそれを優しく諭す声がきこえてきて、わたしは失うものなどなにもないのに、なにかを失ったような気分で、これを書いている今でさえ少し泣きそうで指が震えている。頑張って頑張ってさいごまで努力を続けてきたのに、こんなにも呆気なく終わってしまったことが悲しい。このままドミノ倒しみたいにたくさんの報道が、たくさんのだれかの涙が、自分の知らないところで募り続けていくことをかんがえただけでなんだか胸が空っぽになる。大した努力をしていないわたしが悲しむようなことでもないのかもしれないけど、それでもわたしは努力をしている友達の姿がだいすきだし、みんなの泣いている姿をみるのがつらかった。反面、涙を流せるほどの熱量をなにかに注いだ覚えもないことが余計にこころを空っぽにさせた。すこしだけ、この、世界がゆるやかにくずれていく様子に好奇心を覚えて胸が高鳴った瞬間もあったけど、やっぱりもっと美しいのがいいね。やさしいほうがいい。さいきん文章書いてなさすぎていかにも日記みたいな日記になりました。ぜんぶ大丈夫になりますように。
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tokyomariegold · 6 days
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2024/3/23〜
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3月23日 11月23日の日記を文字起こししながら出かけた。
なかなか起き上がれなくてかなり遅くまで寝てしまった。14時に近美で待ち合わせだったので、その前に昨日一期下の方と帰りながら話に上がった人形町へ行ってみることにした。 半蔵門線と日比谷線の地上乗り換えの際に降り立った時に気になっていた街。
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人形焼屋さんは二店舗見つけた。 一つはとても行列ができていて、もう一つはそうでもない感じ。行列のお店に人形町のガチャガチャがあり思わずやってみる。中身が見えないタイプのカプセルだったので、週明けに一期下の方と中身を楽しもうと思ってまだ開けていない。
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水天宮を眺めて、明治座こんなところにあったんだ〜と、確認して、甘酒横丁は甘酒屋さんよりもなぜか潰れない婦人服屋さん、がたくさん並んでいた。 行列のたい焼き屋さんがあった。 鶏ものを売っているお店で厚焼き卵が焼かれる様子がほかほかしていてよかった。
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そのまま日本橋から大手町まで歩いて、知らない街と知っている街を繋げることができて充実感。 あまり写真は撮れなかった(撮りたくなかった)。
和菓子屋さんはたくさんあって、なんとなく入ったお店にすはまだんご(!)があり嬉しくて写真を撮ってしまった。あとギンビスの建物があった。
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友人と合流して、中平卓馬の展示を鑑賞。 夏に葉山館で観た展示に上書きする様な感覚で鑑賞していた。
その後竹橋のパレスサイドビルのスターバックスコーヒーでお茶を少しして別れた。 パレスサイドビルから出た時に、学生時代に毎日見ていた風景があって、雨上がりのやたら明るい空と春の感じに、はっ!となった。
お茶の席で友人と話した話、彼女から「日記には書かないでほしい」と言われ、私の日記に登場するかもしれない、と思ってもらえたことが嬉しかったり、日記を書かなくてもいいのか、とほってしてしまったり、彼女の話そっちのけで他人をしてしまってひとでなしだと思っている(そして少し誇っている)。
今日はこの出来事の間中、ずっとずっとめまいと吐き気がひどくて、途中何度かもう帰ろうと思っていて、でも一日過ごして、帰宅して掃除や日記の更新をしてしまった。
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掃除をするのは別に過度に脅迫的な行為ではない気がしてきた。 掃除をして綺麗になるのは嬉しい。でも今はちょっとした日常の生活行為をする体力すらない状態なのだと思う。 掃除をするのが悪いのではなく、体調が良くない。
スーパーに行こうと外に出たら、明後日の満月を控えた月が出ていた。 見切り品の野菜コーナーでズッキーニに出会ってしまいなんとなく買ってみる。お味噌汁に入れたら美味しいかな。この数日売れ行きを観察していたちいかわのランチパックは値引シールが貼られていた。
写真を見返してみたら前世はきつねなのかもね、とか可愛いことを言いたくなるくらい、最近油揚げばかり食べているみたいだった。
とにかく足がおぼつかなくなってきたので終わり!
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3月24日 心が無になる1週間を目の前に、昼過ぎから出かける予定もあったので、朝一のヨガを受けて開店したばかりのスーパーでスパイスカレーの材料を買って先に作っておく、という初めての試みをした。
野菜の見切り品コーナーにホワイトマッシュルームがいたので買ってみたけれど、なんか黒っぽくて弾力がない気がして、半分くらいは使わずに捨ててしまった。 使った分も悪くなっていないのか不安になりながら、後で調べたら断面が黒いのは通常らしい。でも弾力がなくなっていたのもあって不安(だけど調理してしまったので、食べてしまうと思う。人体実験。)。 そもそもきのこは水洗いしない?らしく、洗ってしまったから弾力がなくなってしまったのかな、とか今日はマッシュルームのことばかり考えていた気がする。
カレー作って冷蔵保存するために粗熱をとる間でお掃除などをして、初めての試みだったので出かけるまでの逆算がうまくできずにタイムトライアル的でとてもとても疲れてしまった。
最近は前より料理(っぽいこと)をしていて、でもそれは全く写真にならないな、と今日改めて思った。 CONTAXに入れたフィルムを撮りきれず、昨日から1日レンタルの期間を延長して、料理の写真でも撮ろうか、とそばにカメラを置いていたけれど、カメラとかiPhoneとかの衛生レベルが料理の現場もかけ離しておきたい気持ちが強くて無理でした。
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料理も衛生面や食材の鮮度の面で不安なことばかりだしやめたほうがいい気がする。 とにかくしなくてはいけない生活のタスクが増えるだけのような気がする。
午後の予定で会った方は昨日まで金沢と富山に行ってきたとのこと。今は金沢もちょっといいビジネスホテルは一泊20,000円くらいしてしまうらしい。 北欧に行きたい話やタイとベトナムの国民性の違いの話(タイはいつも笑顔で迎え入れてくれて、ベトナムはわりと無愛想。でもシャイ故らしい。)をした。 いま割と一番したいことは北欧に旅行に行くことかもしれない。 行った方がいいかもしれない。 パートナーと旅行に行ったその方は「やっぱりそろそろ一人旅をしないだめだ…」と言っていた。
好きなひとを好きなままでいるためには、一緒に仕事をしない、家族にならない、が、今のところの人生で私が見つけた人間関係で気をつけたいこと。
これからカレーを食べます。 お腹痛くなりません様に。
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gobangiri-news · 4 months
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大ヒット御礼舞台挨拶オフィシャルレポート!
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このたび、映画『碁盤斬り』の大ヒット御礼舞台挨拶を開催いたしました!熱気たっぷりのスタンディングオベーションで迎えられた草彅さんが「こうやって迎えられるのってうれしいです!」と満面の笑みで感謝し、「みなさんお座りになってください」と観客に優しく呼びかけ、場内はさらに大きな拍手に包まれました。「大ヒット御礼ということで、本当にみなさんがたくさん“おいごばん”をしていただいたということ。とても良い映画になっているので本当に僕も満足、一本満足なんですよね(笑)」と冒頭からご機嫌で草彅さん節を炸裂し、会場を笑いの渦に。「聞くところによると、(映画を観ているのは)つよぽんのファンよりもおじさんの方がすごい多いらしくて。つよぽんのファンは出遅れているのかなと思っていましたが、今日はつよぽんファンの方がたくさんいらっしゃってますね」と客席を見渡しニッコリの草彅さんは、上映後の舞台挨拶のため「ネタバレOKということで、今日は楽しい話を出し惜しみなく(笑)、いろいろとお話していきたいと思います」と気合を入れました。本作が泣ける映画で映像も美しいというMCの言葉に「白石(和彌)監督はバイオレンスのイメージがあって、血みどろの世界という感じ。(斎藤)工くんと斬り合うシーンはあるけれど、ちょっといつもの白石監督のテイストとは違っていて。監督も(時代劇)初挑戦で、新しい挑戦をしている感じがあるので、監督のファンの方もいい意味で驚かれる作品。そのあたりをチェックして欲しいですね」と本作の見どころ、白石監督の新しい色にも触れながらおすすめしました。本作のイベントでは、映画の中とのギャップが指摘されがちな草彅さん。この日もMCの質問に「はい!」と元気よくハキハキと答え、寡黙な柳田格之進とは大違い。「僕、声大きいかな?マイクいらないんじゃないの?マイクなんていらないよ」とマイクなしでトークを開始するなど、自由でありながらも観客を置いてけぼりにすることなく、みんなで楽しい舞台挨拶を作り上げていく草彅さんでした。「今日の僕、元気だな」とニヤリとしながら、生声でトークを続けた草彅さんは「TOHOシネマズ日比谷なのに、生の声がこんなに通る!」とウキウキ。「大きいけれど満員御礼ですからね、ありがとうございます!」と感謝の言葉も忘れずに何度も伝え、大きな拍手を浴びました。そこで、「滋賀県彦根市からあるゲストが来てくださっています」とのMCの言葉に「なんとーーーー!」と驚いた様子で雄叫びを上げた草彅さん。ゲストのひこにゃんが姿を見せると「かわいい!」「カモンカモン」「ようこそ、ひこにゃん」と大喜び!ひこにゃんがステージへの階段を使う際には、手を差し出してエスコート。無事にひこにゃんがステージに上がると「ひこにゃーん、会いたかったよ!」とガッチリと握手。ひこにゃんの兜を触りながら、「ヘルメットなの?どうやってツノが出てるの?」などと質問攻めの草彅さんでしたが「あ!甲冑ってことか。彦根城から来ているんだもんね」と納得した様子。「彦根城を使わせてもらってありがとうございます」と撮影許可のお礼を伝えた草彅さんは、格之進が濡れ衣を着せられる前の回想シーンを彦根城で撮影したと明かし、「でも、ひこにゃんいなかったよね?」と再びひこにゃんに問いかけを開始。次々と飛んでくる質問にちょっとびっくりのひこにゃんの姿に「ひこにゃんってシャイなの?」とツッコミを入れるなど、絶好調の草彅さん。するとひこにゃんの顔をまじまじと見つめ、「ちょっとフレンチブルドッグみたいな感じ」とひこにゃんの顔を触り始め「この辺のフォルムがクルミちゃんに似てるかも!」と愛犬との共通点を指摘し、さらに目尻を下げていました。ひ���にゃんに映画の感想を訊ねる場面ではひこにゃんの声も担当した草彅さん。なぜかふなっしーのモノマネでひこにゃんの言葉を代弁し、1人芝居を繰り広げる草彅さんにひこにゃんは後ずさりし始めると会場は大爆笑。ひこにゃん��泣いている仕草で感動したことを伝える流れで、草彅さんは「ここでハンカチで(涙を)拭くくだりだった!」と流れを思い出したことを口にし、さらなる笑いを誘いました。慌ててハンカチを取り出し、その後もふなっしーの声でひこにゃんを演じる草彅さんにMCから「猫なので。猫バージョンもお願いします」とリクエストされると、即座に猫っぽいバージョンのひこにゃんの声に切り替えるなどの草彅さんのサービスに会場は笑い声でいっぱいになりました。ひこにゃんとの2ショット撮影タイムでも、立ち位置やカメラ目線などを優しく誘導した草彅さんが「ひこにゃんの手がめっちゃ熱い!それだけ感動してくれたんだね」とお礼を伝える場面も。フォトセッション中には、カメラに手を振りながら、自身の言葉でも観客に感謝を伝え、さらにひこにゃんのコメントも代弁した草彅さんは「ひこにゃんのキャラが定まった!」と大発見といった様子で「ひこにゃん、強いにゃーん」というキャッチフレーズをつけるなど、終始ご機嫌でした。イベントには、さらに長屋の大家・八兵衛を演じた落語家の立川談慶さんも登場。映画初出演の談慶さんは「リハなしでいきなり本番。でも、目の前に“やさしいマン”がいたから、緊張しないでできました」と、草彅さんがCMで演じたキャラクターを思い出したことを明かし感謝。撮影を振り返り、草彅さんからのお弁当の差し入れにお礼を伝えたところ「談慶さんは2000円でいいですよ、って言われました」と笑顔で告白。すると草彅さんは「2000円��だもらってない!」とニヤリ。草彅さんは談慶さんがスタッフ向けに披露した高座の動画を撮影前に観るよう監督から言われていたそうで「談慶さんがいたから、格之進の役作りができました。談慶さんのおかげで格之進が出来上がったと思います」と深々とお辞儀。談慶さんは恐縮しながらも「想像以上の格之進でした」と大絶賛。さらに映画のあらすじを3分にまとめた「ミニ落語」を談慶さんが披露し会場を大いに沸かせました。イベントには花束ゲストとして本作にエキストラ出演した囲碁棋士の藤沢里菜さんも登場。「綺麗な花束」と笑顔の草彅さん。藤沢さんは「ものすごく強い棋士のオーラが出ていたし、手つきも綺麗。長年囲碁が趣味なんじゃないかという感じがしていました」と囲碁の達人、格之進を演じた草彅さんの演技に太鼓判。「ルールは知らないとのことでしたが、その後、ルールは覚えましたか?」との藤沢さんの問いに「覚えてないです」と苦笑いした草彅さんは「でも、(囲碁の達人って)藤沢さんを勘違いさせるほど、藤沢さんの目から見て大丈夫だという太鼓判を押していただきました!」と胸を張り、「囲碁のルールを知らなくても楽しめるということです」と、映画をアピール。そして、ひこにゃんに再び質問が飛ぶ場面では、草彅さんは「目と鼻が碁石っぽい!碁石つけてるの?」とひこにゃんの鼻を触りながらいじり倒して笑わせました。最後の挨拶で「今日は本当にありがとうございました」と挨拶すると、この日1番の大きな拍手を贈られた草彅さん。「楽しい時間であっという間だったけれど、まだまだ『碁盤斬り』を通してみなさんと深く関わり合っていきたいと思います」と話し、映画を観た感想を周りに伝えて欲しいと呼びかけました。何かが伝わる映画だとし、「これをステップにみんなが次に向かえればいいなと。そういう作品だと思うので、末長くこの作品をお願いしたいと思いますし、1人でも多くの方が観て、何か感じていただけると幸せな世の中になると思いますので、ぜひ『碁盤斬り』を通じて、これから一緒に人生を歩いていきましょう!本日はありがとうございました」と呼びかけ、深々とお辞儀。時代劇に対して、足が遠のいている傾向もある中で、「今、観る作品だと思うし、初めて(時代劇を)観る方にもおすすめしたい。世代を超えて、若い方から年配の方まで、世代問わず、たくさんの方にご覧になっていただきたいです」と呼びかけ、しっかりとイベントを締めくくった後には、再びひこにゃんの鼻を触りながら「碁石じゃないよ」「触らないで!」などと1人2役の1人芝居を続け、退場口のドアが閉まるギリギリまで観客を楽しませました。
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project-sekai-updates · 6 months
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「プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク」をいつもご利用いただきましてありがとうございます。
4月1日0時より、エイプリルフール特別企画を実施中です。
エイプリルフール限定のセカイが登場し、特別なストーリーやエリア会話を見ることができる他、一部楽曲にエイプリルフールver.が追加され、ライブでお楽しみいただけます!
いつもとちょっぴり違った1日限りのプロセカの世界をお楽しみください。
■開催期間
4月1日0時00分 ~ 4月1日23時59分
■エイプリルフール限定のストーリーについて
・期間内にログインすることでエイプリルフール限定のストーリーをご覧いただくことができます。
・プロローグのストーリーは4月1日に公開され、エイプリルフール終了後の4月2日にエピローグのストーリーが公開されます。
・公開期間中は以下の「再生」より再度ストーリーを読むことができます。
【プロローグ】
・再生可能期間:4月1日0時00分 ~ 4月1日23時59分
【エピローグ】
・再生可能期間:4月2日0時00分 ~ 4月2日23時59分
■追加されたエイプリルフールver.について
以下の楽曲にエイプリルフールver.が追加されました。
【セツナトリップ】
エイプリルフールver.:鏡音レン(Original CV by 下田 麻美)、日野森志歩(CV. 中島 由貴)、桃井愛莉(CV. 降幡 愛)、草薙寧々(CV. Machico)、宵崎奏(CV. 楠木 ともり)
【六兆年と一夜物語】
エイプリルフールver.:MEIKO(Original CV by 拝郷 メイコ)、星乃一歌(CV. 野口 瑠璃子)、白石杏(CV. 鷲見 友美ジェナ)、東雲絵名(CV. 鈴木 みのり)
【Booo!】
エイプリルフールver.:初音ミク(Original CV by 藤田 咲)、花里みのり(CV. 小倉 唯)、青柳冬弥(CV. 伊東 健人)、天馬司(CV. 廣瀬 大介)
【メリュー】
エイプリルフールver.:巡音ルカ(Original CV by 浅川 悠)、望月穂波(CV. 上田 麗奈)、日野森雫(CV. 本泉 莉奈)、朝比奈まふゆ(CV. 田辺 留依)
【エイリアンエイリアン】
エイプリルフールver.:鏡音リン(Original CV by 下田 麻美)、天馬咲希(CV. 礒部 花凜)、小豆沢こはね(CV. 秋奈)、鳳えむ(CV. 木野 日菜)、暁山瑞希(CV. 佐藤 日向)
【悪魔の踊り方】
エイプリルフールver.:KAITO(Original CV by 風雅 なおと)、桐谷遥(CV. 吉岡 茉祐)、東雲彰人(CV. 今井 文也)、神代類(CV. 土岐 隼一)
■注意事項
・期間中、通常のエリア会話は発生しません。予めご了承ください。
・期間内にログインせず、エイプリルフールのプロローグを再生していない場合、ゲーム内でエピローグは再生されません。
・対象の楽曲を所持していない場合、エイプリルフールver.を聞くことはできません。
引き続き「プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク」をよろしくお願いいたします。
[Google Translated Vers.]
Thank you for always using "Project Sekai Colorful Stage! feat. Hatsune Miku".
We are running a special April Fool's Day project starting from midnight on April 1st.
An April Fool's Day exclusive Sekai will appear, and you can see a special story and area conversations, and some songs will have April Fool's versions added to them, so you can enjoy them live!
Please enjoy the world of Proseca for one day, which is a little different from the usual.
■Event period
April 1st 0:00 to April 1st 23:59
■About the April Fool's Day limited story
・By logging in within the period, you can view the April Fool's Day limited story.
・The prologue story will be released on April 1st, and the epilogue story will be released on April 2nd after April Fools' Day.
・During the release period, you can read the story again by clicking "Play" below.
【prologue】
・Playable period: April 1st 0:00 to April 1st 23:59
【epilogue】
・Playable period: April 2nd 0:00 to April 2nd 23:59
■About the added April Fools ver.
April Fool's version has been added to the following songs.
【Setsuna trip】
April Fools' version: Kagamine Len (Original CV by Asami Shimoda), Shiho Hinomori (CV. Yuki Nakajima), Airi Momoi (CV. Ai Furihata), Nene Kusanagi (CV. Machico), Kanade Yoizaki (CV. Kusunoki) Tomori)
【Roku Chounen to Ichiya Monogatari】
April Fools ver.: MEIKO (Original CV by Meiko Haigo), Kazuka Hoshino (CV. Ruriko Noguchi), An Shiraishi (CV. Jenna Tomomi Sumi), Ena Shinonome (CV. Minori Suzuki)
[Boooo!]
April Fools ver.: Hatsune Miku (Original CV by Saki Fujita), Minori Hanasato (CV. Yui Ogura), Fuyuya Aoyagi (CV. Kento Ito), Tsukasa Tenma (CV. Daisuke Hirose)
[Merieux]
April Fools' version: Megurine Luka (Original CV by Yu Asakawa), Honami Mochizuki (CV. Rena Ueda), Shizuku Hino Mori (CV. Rina Honizumi), Mafuyu Asahina (CV. Rui Tanabe)
[Alien Alien]
April Fools' version: Kagamine Rin (Original CV by Asami Shimoda), Saki Tenma (CV. Karin Isobe), Kohane Azusawa (CV. Akina), Emu Otori (CV. Hina Kino), Mizuki Akiyama (CV. CV. Hinata Sato)
[How the devil dances]
April Fools ver.: KAITO (Original CV by Naoto Fuga), Haruka Kiritani (CV. Mayu Yoshioka), Akito Shinonome (CV. Fumiya Imai), Rui Jindai (CV. Junichi Toki)
■Notes
・During the period, normal area conversations will not occur. Please note.
- If you do not log in within the period and have not played the April Fool's prologue, the epilogue will not be played in-game.
・If you do not own the target song, you will not be able to listen to the April Fool's version.
Thank you for your continued support of "Project Sekai Colorful Stage! feat. Hatsune Miku".
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boraxquinn · 7 months
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Tsuki: Our maknae, my adopted baby sister graduated from high school today!
世界で1番かわいい妹卒業おめでとう♡ また一つ大人になった春菜はこれからもっと綺麗で逞しいカッコいい女の子になるやろうね♡ 残りの10代も20代なっても沢山最高の思い出作っていこう🔥 1人のお姉ちゃんとして、またそして春菜の友達としてメンバーとしてずっと春菜のそばにいるからねん! 大好きやぁ😍
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myonbl · 7 months
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2024年3月5日(火)
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二十四節気でファン投票をしたとして、ナンバーワンとなるのはおそらく<啓蟄(けいちつ)>ではないだろうか。立春や夏至と言った季節の区切りはなじみ深いが、それでも<土の中で冬ごもりをしていた生き物たちが目覚めるころ>というこの言葉の響きには、他を圧するインパクト、誰もが嬉しくて顔を上げるような印象がある。とは言え今日は終日雨、気温も上がらずに寒い一日だった。だからこそ、明日からの本格的な春の暖かさのおとずれを期待したいと思うのだ。
4時45分起床。
昨晩は早々にダウンしたので、早めに目覚めたのだが、この時間まで布団の中でじっとしていたのだ。
日誌書く。
6時にはツレアイも起床、洗濯機をセットして朝食準備。
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火曜日はおにぎりも弁当も無い日、朝の準備も余裕がある。
朝食には、昨晩の具沢山味噌汁を煮麺に仕立てた。
私が珈琲を入れている間に、ツレアイが洗濯物を干す。
可燃ゴミ、30L*1&45L*3。
8時にヤクルトさんから野菜ジュース購入。
8時30分、ツレアイが合羽を着て自転車で出勤。
税務署からメール、確定申告の還付金を振り込んだとのこと。
ごぼう茶煮る。
半熟酢卵仕込む。
明日のインタビューに向けて、ボイスレコーダー2台を充電する。
12時前、ツレアイ帰宅。
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ランチ、息子たちにはソーセージラーメン、彼女にはセロリラーメン。
プレミアムシネマで久しぶりに「男はつらいよ 噂の寅次郎」。
渥美清主演、山田洋次監督の国民的人気シリーズ「男はつらいよ」第22作。マドンナは大原麗子。博の父を演じる志村喬が3度目の登場、寅次郎と秋の木曽路を旅する。
やはり、渥美清の元気な芝居はいい。シリーズ後半は観るのが辛くなるのだが、この辺りはまだまだ無邪気に楽しめる。
ツレアイは西村歯科へ。
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コレモ七条店で買物、あれやこれやで¥842。
ココのトイレに💩発見、よかった!
ツレアイから診察終了との連絡、それを合図に夕飯準備に取りかかる。
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奥川ファームのキャベツを豚バラ肉と炒め、安売りの焼売、半熟酢卵、トマトとレタス、アオサ汁。
録画番組視聴、刑事コロンボ。
第34話「仮面の男」/ Identity Crisisシーズン 1, エピソード 34 経営コンサルタントのネルソン・ブレナーはかつての相棒であるジェロニモから脅迫を受けていた。ジェロニモと名乗る男はヘンダーソンといい、彼らはCIAの情報部員であり、以前は二重スパイを繰り返す仲だった。ジェロニモは3年前に受け取る予定だった分け前を要求してきた。
片付け、入浴、体重は2日前と変わらず。
パジャマに着替えて、日誌書く。
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終日の雨、ウォーキングは無理しない。
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hisoca-kyoto · 1 year
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秋のしつらえ展、昨日より後半がスタートしています。2.3日前から朝の急激な冷え込みで秋らしさも増してきましたね。昨日もお越しいただきありごとうございました。
渡邉由紀さんの器は企画展に合わせて、色合いを絞り込んで作って下さいました。人気の八角長皿はSFB、栗、白貫入の3色が揃っています。秋のさんま皿としてはもちろん、前菜やおつまみを数種類盛り付けたり、おむすびと卵焼き、副菜と一緒の朝のワンプレートやカップとお菓子でトレイのように使ったりと色々楽しく使いいただけます。
新しくお目見えの木瓜鉢もSFB、栗、白貫入の3色作って下さいました。程よく深さがあるのでお出汁のあるものも盛り付けやすくて良いです。煮物からデザートまで品よく盛りつけられます。
浅鉢と初お目見えの深鉢もスープが美味しくなる季節に重宝していただけます。こちらは生成と栗の2色です。栗色にはクラムチャウダーやシチューが映えそうですね。深鉢は麺類にも良さそうです。
前回も人気だったどんぶりは、大きい方は生成、小どんぶりは生成とキャメルがご覧いただけます。小どんぶりを自宅でも使っていますが、豚汁など具沢山のお味噌汁にも重宝しています。口当たりが滑らかなレンゲも綺麗な色が加わって新鮮です。ぜひ楽しく選んできださい。
カレーやパスタにぴったりなオーバル深皿も3色揃っています。オーバルのサイドの形がシャープなので盛りつけるお料理が品よくまとまるので盛り鉢としてもおすすめです。
定番の台形のマグカップやカフェオレボウル、定番のリム皿も各サイズ届いています。SFBは各アイテム少なめなので、気になられる方はぜひこの機会に手にして下さいね。
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pnktdadada · 2 years
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知り合いが販売している、平飼いで大切に育てられた鶏の有精卵。臭みがゼロで生で食べても信じられないくらい美味しい! なんど食べても感動する。
この卵を産んでくれた鶏を見に行ったことがあるけれど、たとえば都会で暮らす大学生より贅沢なごはんと綺麗な水で生きていた。
スーパーで買う卵はオレンジ色だけど、こうゆう卵はみんな薄色。どこの卵を買ってみてもそうだった。
今日はこの卵を贅沢に食べるためのメニューにしました。野菜たっぷりの重ね煮を、すき焼き風に味付け。おいしかったあ、、、ごちそうさまでした。
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jinsei-pika-pika · 9 days
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フォロワー20万人超の91歳、亡くなる前日も晩酌 伝え続けた日常
寺崎省子2024年9月14日 8時30分
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博子さん(前列中央)の90歳のお誕生日。娘の夕湖さん(前列左)と夕湖さんの娘(後列左)ら家族で=家族提供  「生かされているうちは喜怒哀楽を楽しみたい」。シニアのインフルエンサー、大崎博子さん=東京都練馬区=が7月23日、亡くなりました。91歳。10年以上にわたって日常をXで発信し、注目されていました。
    ◇
 Xのフォロワー数21万8千人。「高貴香麗者」と称し、「だれも傷つけない」が、つぶやきの信条だった。
 茨城県出身。6人きょうだいの第3子として育った。高校卒業後、東京へ。結婚し、一人娘が誕生した後に離婚。女手一つで育て上げた。
 「好奇心旺盛で、人といるのが大好きでした」と娘の夕湖さん(55)。「三日坊主でいいから、やってみることが大切。やってみないと、好きかどうかわからないじゃない」。よくそう話していたのを覚えている。
 〟機械オンチ〝の博子さんが「Mac」デビューしたのは2010年末、78歳のときだ。少し前に胃がんの手術を受けた。国際結婚し、家族とロンドンで暮らす夕湖さんから「インターネット電話なら、顔も見られて通話は無料よ」と聞いた。ノートパソコンを買い、教室に通った。
2011年に始めたツイッター  2011年3月、東日本大震災の直後にX(当時はツイッター)も始めた。東京都内の公営団地で一人暮らし。花を飾り、趣味の太極拳や散歩、健康麻雀(マージャン)、ネトフリ(Netflix)で大好きな韓国ドラマを楽しむ暮らしぶりをつづった。戦争体験の投稿には数多くの反響があり、伝えないといけないと、力を込めていた。
 その年の12月31日、こう振り返った。
 「去年の暮れから始めたMac! 震災後に始めたTwitter! 私の様(よう)な高貴香麗者に沢山(たくさん)の方々からフォロー頂き、励まされ、学ばさせて頂きありがとうございました。素晴らしい年を送れましたことに心から感謝です!!」
 負けず嫌いなところもあった。ある健康麻雀の日は「今日も負けたくない。勝ちに行きます。楽しみながら脳トレでーす♪」とつぶやき、負けると悔しさをにじませた。
フォロワーは国内外に  「ツイッターで前向きに発信している80代のおばあさんがいる」と評判になり、2022年2月、「89歳、ひとり暮らし。お金がなくても幸せな日々の作り方」(宝島社)が出ると、フォロワーはさらに増えて国内外に広がった。デジタルを使いこなし、楽しみを見つけて発信する姿は、大きな反響を呼んだ。出版後すぐに重版が決まり、10刷累計5万部を突破した。
 毎晩のように350ミリリットルの缶ビールや発泡酒、グラスワインで晩酌を楽しみ「私の主治医はお酒は適量なら良いという医者です。美味(おい)しく頂けるうちは飲みます」「最近晩酌が美味しい。体調が良いのだと思う。美味しいと飲み過ぎないように注意です」とつづることも。
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7月6日のXに投稿した晩酌の友。「つけ過ぎのぬか漬けを塩抜きして炒めました」=家族提供
 今年6月から「今宵(こよい)の晩酌の友」と題しておかずの写真を毎日のように投稿すると、それを楽しみに待つフォロワーも。健康のため野菜中心のメニューで、赤・黄・緑の彩りに気を配り、「Xに載せるから、ミニトマトを切ってのせたのよ」と夕湖さんに話していたという。
 もちろん、残り物ですませたり、お弁当やお総菜を買う日も。それでもサラダを用意し、お皿に盛りつけた。そして「今日は麻雀で遅くなったので買い弁当です。野菜はたっぷりです」「残りものにプラスしました」などと書き添えた。
「皆さんとの繫がりが生きがい」  90歳を超えると「無理をしない」とつぶやくことも。出かける用事がある日は太極拳を休んだり、朝から暑い日は太極拳の後の散歩をやめたり。Xでの何げないやりとりや「喜愛(きあい)で!」とのエールの送りあいは欠かさず「91歳の私Xは生活の一部です!」「皆さんとの繋(つな)がりが生き甲斐(がい)です!」と、つづっていた。
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亡くなる前日の投稿。「これから友人とランチです。久々の自撮りです」=家族提供
 「おやすみなさいませ」
 最後のつぶやきは7月22日午後9時34分。「おやすみなさい」という、あるフォロワーからの書き込みへの返信だった。
 この後、亡くなった。死因は脳出血と推定される、という。冷蔵庫には、その日の晩酌の友、赤いパプリカ入りのゴーヤチャンプルーの残りが、ラップをかけて入れてあった。部屋のカレンダーには、先々の予定も書き込まれていた。
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亡くなる前夜、7月22日のXに投稿された「晩酌の友」=家族提供  「娘です。23日に母が永眠いたしました。ここでたくさんのフォロワーさんたちから毎日元気をいただいておりました」
 25日に夕湖さんがそう投稿すると、瞬く間にリポストされた。「新しいことを始めるのに年齢は関係ないということを教えていただいた」「素敵(すてき)でハッピーに溢(あふ)れていました」「飾らぬ言葉に何度も励まされました」「自分もこの様な年齢の重ね方がしたいと思っていました」。博子さんの死を悼み、感謝をつづる数千のメッセージが国内外から寄せられた。
 毎朝の投稿がなく、晩酌時にかかってくる博子さんからのLINE通話がこない――。夕湖さんが心配しはじめたとき、LINE通話の着信音が鳴った。博子さんの自宅近くに住む女性からだった。
 初めて出した著書を読んだ女性が、博子さんも通う太極拳の会に参加するようになって意気投合、友人として親交を重ねていた。
 女性は「Xへの投稿がなく、夜になっても電気がつかない」と案じ、夕湖さんに連絡をとりながら、博子さんが万が一に備えて自宅の鍵を預けていた団地の住人らと安否確認すべく尽力してくれた。
 葬儀は博子さんが通い、納骨の準備もすませていた教会で執り行った。参列者には普段着で来てもらった。連日の猛暑もあったが、「亡くなったことを悲しむのではなく、これまで母が生きてきたことを祝う日にしたい」との願いからだ。
 「私、有名人みたい」。博子さんがそう話したことがあったという。でも「Xへの投稿もちゃんと見ていなかった。もっと喜んであげればよかった」と悔やむ夕湖さん。母のXのアカウント(@hiroloosaki)は「削除せず、残しておきたい」という。(寺崎省子)
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yotchan-blog · 9 days
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2024/9/14 21:00:21現在のニュース
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kaneninarananesaki · 19 days
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この町が嫌いだとみんな言うが、早く出ていくんだと決まって言うが その1
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性懲りもなく反省もなく、ろくすっぽ旅程を確認せずに予約したら5時起きっていうね。まぁ起きられたならいいじゃない。
電車内で老夫婦に「第1ターミナルは次ですか?」と聞かれたのにうまく答えられなくて忸怩たる思い。
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いつもは搭乗口から即着席だけど、バスで機体まで行くタイプの搭乗だった。機体の写真が直に撮れていいね。空港で働いてる人たちっていいよね。各自のプロフェッショナリズムで大きなサービスが動いていく感じ、ディズニーランドみたい。空港で働くなら何したい?私はパイロットとかよりも整備とか滑走路上の車の運転とかやりたい。
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到着、青森三沢空港。とりあえず下北半島を目指す。
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なんてことはない、青空が今日も綺麗です。
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冬が来る前に、三保野公園で草すべりしよう。水飲み場の横の柱にさ、これまでの失敗を彫り刻もう。
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多分菜の花畑の風車、確かにコンビニも出来てた。ローソンだったわ。
その2に続く
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kaisen2 · 27 days
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ms18e · 1 month
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ZIPANG フルキャスト( 2枚組み)
ZIPANG フルキャスト( 2枚組み) スタジオ: オリエンタルドリーム シリーズ: ZIPANG 時間: 480分 女優: 椿まや 可愛いいな 稲森麗奈 大滝明日香 瀬戸彩 逢乃うさぎ 小野谷実穂 蘭堂セイラ かわいゆい 矢吹漁華 次原アイ 結城椿 松尾希美 牧野あこ 純菜ひとみ 夢野ありさ 片桐美咲 中塚愛 大峰千奈 相澤ゆめ 小川あみ 斉藤アキ 藤本あかね ひなこ みなとあゆみ 芽奈 鶴瀬愛美 藤沢理名 青木友梨 白坂ゆう 姫川麗 望月なな 小手川あみ ツバキハウスの人気レーベル「ZIPANG」は、アメリカでもNショーなどにノミネートされるなど異色ながら日本のポルノらしい味わいを漂わせる数々の作品を排出してきた。顔、柘榴、ブルスポ、コスプレイヤー、ミルクホール、ブルーライトトーキョー、悶門、変、W’S、スポーツセックスなどなどマニアックな作品ばかりを集めたZIPANG [ フルキャスト ] 。そのキャストだけ見ても、望月なな, 青木友梨, 芽奈, 小川あみ, 相澤ゆめ, 片桐美咲, 純菜ひとみ, 結城椿, 矢吹漁華, 蘭堂セイラ, 小手川あみ, 姫川麗, 白坂ゆう, 藤沢理名, 鶴瀬愛美, みなとあゆみ, ひなこ, 藤本あかね, 斉藤 ***********************************
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hegotthesun · 2 months
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『ドギーアンドバニー:前篇』
~追うものと追われるもの~
<前篇|中篇:新古生代/新中生代|後篇>
▽序章『龍馬が通る!』
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英語は義務教育を受けた“全人類”に通じる共通語である。
しかしながら私は単純な英単語までは理解できても、仔細な文法となるとまったくもってさっぱりよく解せない。昭和時代に於いての義務教育では、中等教育から"This is a pen"と実用性の乏しい幼稚園児以下の文脈をようやく学び始め、1から100までを英語で数えられるのか否か朧気ないい年をした大人たちが為政者、"内閣総理大臣"となり、そうして今日の日本国があるのだ。
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幾度となく飼い犬との意思疎通を試みたが、7割くらいは理解に及ばなかった。
犬は純粋無垢な心でどこまでも飼い主を信頼するから飼うのは荷が重い。
時々「俺はお前が思ってるほど善い奴じゃないんだよ」と言いたくなるが伝えようがない。
でも僕はお前の飼い主になれて嬉しかったよ。
僕は君の飼い主になれて幸せだったけど、君は幸せだったのだろうか。
少しでも君を幸せに出来たのならいいのだけど。
今となって言えるのは「生まれて来てくれてありがとう」ということくらいだ。
もう二度と生き物を飼うことはないだろうけど、沢山の思い出をありがとうな!
親愛なるカナ。
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■Bump Of Chicken - "スノースマイル"|YouTube 一聴したらただの恋愛歌ですが、一説によると実は「死別」について歌っているのだとか。
普通なら老人にならないと気付かないようなことを、二十代の段階で気付き、歌えてしまうのが凄いところだと思います。
一体、何度目の人生なのでしょうか?
男女が出逢い、結ばれても、いつか死が二人を分かつ日が来ます。
子供を儲けても自立させれば、結局はまた独り暮らしに戻ってしまうこともあるでしょう。
人にとって最も畏怖すべき事柄は自分自身の死ではなく、大切な人との死別だと私は思います。
結末を予知しながら生きることが「未来の概念」に気付いてしまった“人類”だけの背負う最大の恐怖であり免れない運命です。
「今日あるのものは、明日なくなるかも知れない」
「生きるということ��、少しずつ死にゆくことだ」
それを理解した上で、どう振舞い生きるかは自分で決断すればいいだけの話に過ぎません。
《キリスト教》におけるプロテスタントの結婚式では、「良いときも悪い時も、富めるときも貧しき時も、病めるときも健やかなる時も、死が二人を分かつまで」と牧師の前で宣誓しますが、ヨーロッパでは古くから「死別」を理解しながらも、家庭を築き子孫を残す道を歩むべきだと、《仏教》とは正反対の思想が説かれ続けているのでしょう。
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『歴代の飼い犬』
――時は明治時代。
日独両国の通商条約が締結されたのを契機に、ドイツの軍用犬ジャーマン・シェパード・ドッグが日本に輸入され始めたのでした。
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▲🇩🇪"七福亭七不思議シュバルツヴァルト菜々子"(通称:ナナ)
筆者が3歳の時分に拾った雑種の捨て犬。日本犬とシェパードの混血だと慮る次第であります。
シェパードは、1880年頃にドイツ陸軍騎兵大尉のフォン・シュテファニッツ氏が、馬学の知識を活かし、各地の牧羊犬を基礎として、如何なる作業をもなし遂げる万能な犬の作出を目指して完成させました。
ドイツ陸軍は戦争に備え、シェパードに訓練を仕込み大量に配備。その真価を遺憾なく発揮したのは第一次世界大戦でした。この「第一次世界戦争」という用語が初めて使われたのは、1914年9月にドイツの生物学者のエルンスト・ヘッケルが「恐れられた『ヨーロッパ戦争』は疑いもなく(中略)完全な意味での『初の世界戦争』となる」と述べた時とされます。
それ以来、各国が軍用犬として採用し、さらに盲導犬、麻薬探知犬、災害救助犬としても成果をあげました。
日本には1920年代に輸入され、軍用犬や警察犬として使用されましたが、近年に入り他犬種の台頭もあり減少の傾向があります。
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▲🇮🇹"猛虎《タイガー》ジェットペペロンチーノ"(通称:ペロ)
初等部入学時に譲り受けた雑種犬。
か細く秀麗な為に幾度となく女狐と呼ばれたが、中々の耳年増かつおしゃまさんでありました。
近所の子供らに「カンガルーや!」と言われたこともありましたが、慥かに何の犬種を交配したらこのような犬が誕生するのか未だに疑問ではあります。
▼英傑"フラッシュ"列伝  ─《序章》─
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▲🇯🇵"閃光爆裂犬FLASH拳志朗"(通称:フラッシュ)
初等部四年生の頃に迎え入れた犬界の"チャップリン"こと、ドイツ原産の狩猟犬ミニチュア・ダックスフント。
しかしながら面白いのは短足胴長の容姿だけであって、彼自身にユーモアは一切備わっていなかったように思います。
明治時代に幕府が開国政策に移行し、日独通商条約が締結された頃に、日本へ輸入されたドイツの犬もまたM. ダックスフントである。
歴代の飼い犬の中で唯一の雄犬で、繁殖用として去勢をしなかった為に大型犬のような野太い美声を持ちます。先祖にあたるアイルランド原産の狩猟犬“アイリッシュセッター”の如く馬のような色艶の良い毛並みが特徴。ストレスが溜まると短い両前脚で頬を挟みながら欠伸をするポーズから「ムンクの叫び」の異名を与えられました。温厚な性格で、他の犬と異なり唸っても絶対に牙を見せないお人良し。ただし、狩猟犬のくせに小動物が苦手な憶病者。
筆者が10歳の頃、ミニチュア・ダックスフントの"フラッシュ"と初めて邂逅した日のことを今も鮮明に覚えています。
ある日のこと、母上から突然「犬を買(こ)うたる」と提案され、新装開店のペットショップまで赴きました。
幼い頃は日本犬に多い立ち耳の犬が好みでしたが、その頃は垂れ耳の犬もめんこいのでは考えを改め始めた頃で、スヌーピーのモデルとなった「ビーグル」にするか、はたまたゴールデンレトリバーの親類とされる「ミニチュア・ダックスフント」の赤毛を選ぶべきか悩みながらも、色合いが綺麗な後者を選ぶことにしました。
ペットショップに入り、三匹のM. ダックスフントが入った檻を見ると、その内の二匹は仲良くじゃれ合っていましたが、一匹だけ隅に座りそれを厭うように縮こまっていました。
店員に頼んで三匹を順番に抱きかかえさせてもらうと、先ほど仲良くじゃれ合っていた二匹は私の顔を見るなり尻尾を振って顔を舐めてきましたが、角で固まっていた一匹だけは、こちらと目も合わせようとしませんでした。
その時、周囲に馴染めないこいつは自分と同類だと直感して、我が家に迎え入れることにしました。
"フラッシュ"という名は、いかがなものだろうと思いましたが、三歳年上の兄上が命名したので甘んじて受け入れた次第です。
血統書に記された正式なJKC登録名は"Beat of Friend Pretty JP" (ビート・オブ・フレンド・プリティ・ジェイピー)という名らしく、祖先たちはドイツ本国のドッグショーで何度か優勝経験があるようでした。
ちなみに「血統書付きの犬」のことを富裕層にしか購入できないほど高価な犬だと思い込む人もいるようですが、ペットショップで販売される犬は須《すべか》らく血統書付きの犬であります。
国内の血統書付きの犬の管理は"一般社団法人ジャパンケネルクラブ"(JKC)の管轄で、犬の交配を行う際は雄雌双方が血統書付きでなければ正式な犬種としては認められず、ペットショップでの取り扱いも困難になる場合もあります。
しかしながら昨今ではミックスの犬も流行っていますし、愛玩犬として飼うのであれば犬の血統なんてものは無関係ですが、もし店側が客に対して"ゴールデン・レトリーバー"として販売した犬が実は雑種であった場合は「詐欺罪」に抵触するおそれもあるので遵守しなくてはなりません。
犬の純血を保つことにどのような価値があるのか判然としなくても、需要と供給があるということはそれもまた必要とされる分野であるということなのでしょう。
ちなみに随分と前より《メンデルの法則》における「優性遺伝子・劣性遺伝子」は、語弊を避けるために「顕在遺伝子・潜在遺伝子」という語に置き換えられたようであります。
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1997年春。人類だけの持ち得る高度で複雑な言語野による誹謗中傷が一切通用しない英傑"フラッシュ"と桜並木を散歩!
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ペロとフラッシュの記念写真。
一つ断わりを入れると、妻と出逢う以前の健全な交情の記念写真であり、いかがわしい点は皆無である。
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▲左・娘の"ケモ耳ドジっ子メイド巫女カナスタシア"(通称:カナ)
◇中・花嫁"百合ゆりっぺリリィ"(通称:ユリ)
◆右・女房の尻に敷かれ苦悶の表情を湛える亭主"閃光爆裂犬FLASH拳志朗"(通称:フラッシュ)
「ノストラダムスの大予言」が大外れした1999年夏撮影。
人類だけの持ち得る高度で複雑な言語野による誹謗中傷が一切通用しない英傑フラッシュが我が家に訪れて二年の歳月が流れた頃、少々強気で高飛車なご令嬢ユリ様と婚姻し、子宝に恵まれました。
1998年頃の飼い犬関係
ある日のこと。フラッシュが近くの炬燵に座る母の膝の上に乗ろうと歩き出した処、それを見たユリに先回りされた。仕方なさそうに今度はクッションに座ろうと反対方向に歩き出したが、またユリに先回りされていた。
困り顔でフラッシュは私の方を見ながら「ぼふぅ……」とひとりごちていましたとさ。
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先に庭で飼っていたペロと、後から我が家に来たユリは仲が険悪だった。ユリが先にペロに噛みつき、返り討ちに遭ったこともあった。一方のフラッシュとペロは仲が良く、以前から何度も交尾を試みようとしていた。尤も、腰の高さが違うので未遂で終わった。犬にも性格の相性があるのだろうか。
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ある日、何となくフラッシュの口に手を入れてみたら、怪訝な顔をしてすぐ放してくれた。それでも懲りずに手をさし入れたら、今度は甘噛みを始めた。しかし、少しずつ噛む強さを強めるので「痛い」と言ったら、噛む強さを緩めてくれた。
それを何度か繰り返して、犬なりにどれだけの強さで噛んだら人は痛がるのか試しているのだなと感心しました。
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犬が何処まで人の言葉を理解し得るのか確かめた処、「御飯(餌)」や「散歩」と云った、自身の欲求や生存に繋がる単語迄は覚えられる事を確認出来た。
また、フラッシュが炬燵のコードを噛んで感電した際に「ビリビリ」という単語を教えたところ、その単語を聞くだけでも脅えるようになってしまったので以後、気を付けたい。
さらに犬の言語理解がどれほどのものか確かめる為、「食卓の肉は元々犬や人間と同じ哺乳類の肉」と教えようとしたが、少々難しいのか、あからさまに怪訝そうな顔をするだけなのでそっとしておく事にした。
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――人類が誕生する前。肉が主食の哺乳類は、トラやオオカミ等の肉食目(ネコ目)だけでした。
本来は多くの哺乳類にとって肉食目は天敵でした。
その天敵から逃れる為に、霊長類は智���を振り絞り「木登り」を会得しました。
さらに"ヒト"だけが、道具を作り、それを駆使し始めたのです。
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■1999年8月"ミニチュア・ダックスフント四姉妹"誕生!
長女。父犬フラッシュの幼少期と同じく、背に一本の黒い線のような毛色��持つ赤毛。安産にて誕生。健康状態や発育は良好でありました。
次女。姉妹の中で唯一の背中に黒毛がない綺麗な薄茶の犬。難産にて誕生。分娩の際に羊膜が半分ほど見える状態で産道に長時間留まり、生まれてもすぐに産声を上げませんでしたが、しばらくして奇跡的に仮死状態を脱して産声を上げてくれました。他の姉妹よりも体が小さく、母乳の取り合いの際はいつも競り負けてしまう目の離せない虚弱児でした。
三女。全体的に黒っぽい毛色。次女と同じく難産。分娩の際、逆子だったので引っ張り出した思い出があります。事前に買っていたオペ用のゴム手袋が役に立ちました。
四女。三女と同じく黒っぽい個体。安産で誕生しました。
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――時は明治時代。
徳川幕府の鎖国から開国政策に移行し、日独両国で通商条約が締結。
丁度その頃にドイツの狩猟犬M. ダックスフントも日本へ輸入され始めました。
それから月日は流れ、筆者が12歳の時分に飼育するM. ダックスフントの交配と繁殖に成功しました。
そうして産まれた虚弱体質の次女犬"カナ"を手元に残し、他の仔犬3匹をペットショップに売って得た《ブリーダー業》の14万円が筆者の初収入でした。
犬の発情期は半年に1度で妊娠期間は約2ヶ月。1度の出産で産まれる仔犬の数は4頭ほど。繁殖期ごとに40頭を売れば月30万円ほどの収入になります。オス1割に対しメス9割が理想の繁殖環境といわれるので、この場合はメス10頭に対しオス1頭が理想的な比率になります。
しかし当時の家庭環境では、そんなに多くの飼育は困難な上に、母体を危険に晒しながら産ませた子供らを売りさばくことに罪悪感を感じ、早々にこの《ブリーダー業》は廃業したのでした。
「生と死」は、対義ではなく表裏一体。
生まれたということは――いつか必ず死ぬということだ。
ならば産ませたということは――殺したことと同義になる。
法的には男女同権を目指すべきであっても、男と女では担う使命や資質が異なるから、お互いに出来る事と出来ない事があるが故にそれを補い合いつつも分かち合うのが理想的な社会であると常日頃から考えたりするようなしないような判然としない状態で今日に至る次第であります。
──僕は君の飼い主になれて幸せだったけど、君は幸せだったのだろうか。
少しでも君を幸せにできたのならいいのだけど。
今となって言えるのは「生まれて来てくれてありがとう」ということくらいだ。
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■『風のクロノア』(ナムコ, 1997年)
✽.。.:·゚ ✽.。.:·゚ ✽
・予兆
1999年当時に発売されたPS用ゲーム『クロノ・クロス』をプレイした日のこと。
前作『クロノトリガー』はSFC時代のスクウェアを代表する作品だっただけに、ファンの間で期待が大きかったようですが、正直「地味な作風だな」という感想でした。
そんなことを思いつつも気付いたら朝から6時間もプレイして兄にあきれられてしまいました。
戦闘システムやストーリーはとにかく、なぜだか登場人物の台詞がしばらく脳裏に焼き付いて離れませんでした。
「歴史は選択と分岐で成り立っている。自分で選び取ったものが新たな世界を創り、新たな未来を生み出す。しかし、何かを選び取るということは、同時に選ばれなかった他の未来を失ってしまう、ということでもあるんだよ」
「今日あるのものは、明日なくなるかも知れない」
「生きるということは、少しずつ死にゆくことでもある」
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▼英傑"フラッシュ"列伝  ―《完結篇》─
・寸劇
「――どうやら生き残ったのは俺たちだけのようだな」
ついに私たちは敵に包囲された。 背中合わせの彼は構えの姿勢を取った。
「俺が囮になる。その隙にお前は逃げるんだ! 妻と娘を――よろしく頼むッ!」
そう言い残すと、彼は敵陣に向かって突撃して行ったのだった。
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・別れの曲
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1999年10月24日。筆者が12歳の頃に、不慮の事故でフラッシュが亡くなった。1997年10月17日の出逢いから、僅か2年後の出来事だった。
最初は死の実感が湧かず「これは夢かもしれない。朝起きたら全て元通りに戻っているかもしれない」と思いながら、その日の夜は眠りに就いた。
しかし、深夜に目覚めて、まるで眠っているかのようなフラッシュの亡骸を改めて見て「これが現実なんだ、もう二度と会えないんだ」と理解した途端に、はじめて堰を切るように涙があふれ出たのだった。
飼い犬や家族が亡くなって泣いたのは、その時が最初で最後だった。
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■『テイルズ オブ ベルセリア』ストーリーの冒頭|YouTube 歴史の長い姉よりも、まだ幼いのに知識の豊富な金髪碧眼の弟!
『ベルセリア』はシリーズ初の女主人公とショタヒーラーを起用した異例の作品でしたが、Amazonレビューでも好評なのがわかります。
冒頭でライフィセットが朝起きる場面の「ベルベットのモーション」に驚きました。
まるで私がフラッシュをしつける時の動きを再現したかのようでした。
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▲歴代最後の飼い犬"ケモ耳ドジっ子メイド巫女カナスタシア"(通称:カナ)
虚弱で片目の視力も芳しくありませんでしたが、おっとりとした"やまとなでしこ"だったと慮る次第であります。
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1.千年、続きますように
『君が代』の原文は藤原定家(ふじわら の さだいえ)らが編纂《へんさん》した『古今和歌集第7巻(912年以前)』に記載されています。
「わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」
現代語に訳すと「あなたは千代も八千代も長生きしてください。小さな砂利が悠久の年月を経て巌となり、さらにそれに苔が生えるほどまでも」
「わが君」とは、"皇帝"を指すだけではなく広義の意味も含むとされ、"主君"、"両親"、"親族"、"配偶者"、"友人"等にも当てはまり、敬愛する人に向けた長寿を祝福する歌とされています。
日本では古来より人は生まれ変わるものだと信じられていました。肉体は老い、死を迎えても、魂は再び人となってこの世に生まれる。つまり「さざれ石の巌《いわお》となりて」は、「生まれ変わって何度でも」という意味として捉えられます。
忘れてならないのは、さざれ石は、小さな小石が結束して大きな岩石となるという点です。ひとつひとつは小さな小石でも、大きな力で団結したら、それは大きな「巌」となります。
つまりさざれ石は「きみ=男女」の結束で生まれる子供らや、新たに親戚となる者たち、その総ての人々が固く協力し合うことの象徴でもあります。
そうして最後に『君が代』は、「苔のむすまで」と締めます。苔は冷えきったり、乾燥したところには生えません。濡れていて、水はけの良いところに生育します。濡れたものと固いものがしっかりと結びついたところに苔は生えます。
また、「苔のむす」のむすを漢字で書くと「生す」と書きます。生すとは子供を養い育てると言う意味合いがあり、苔は永遠に存在するものではなく、その中で新しい生命が誕生し、古いものが死に土となり、徐々に広がりを見せるという子孫の繁栄を示しているというのです。
《神道》の中心にあるのは「生む」ことではなく「育てる」ということ。「苔の生すまで」とは、古いものが土となり、新しいものを生み、育て繁栄させましょうという意味合いなのです。
すなわち「苔」とは、「きみ=男女」が互いにしっかりと結びつき、一緒になって互いに協力し合い、時には笑い涙を流し、長い年月をかけて生育する。
男女の慈しみと協力を意味します。
「きみ」=成長した男女が 「代」=時代を超えて 「千代に八千代に」=千年も万年も、生まれ変わっても 「さざれ石の巌となりて」=結束して協力し合い 「苔のむすまで」=固い絆と信頼で結び付こう
以上のように『君が代』とは、人類の持ち得る愛情を高らかに謳い上げた「祝辞の歌」だと慮る次第であります。
賛否両論あるかと思いますが、たとえばフランス国歌は「国のために心臓を差し出し盾となれ」というような内容なので、経緯はどうあれこの和歌の内容自体はずいぶんと平和裏だと思う次第であります。
『君が代』の作曲は幕末~明治前期の雅楽演奏者"林廣守"。編曲はドイツ人の音楽教師"フランツ・エッケルト"です。明治時代の日本にはまだ西洋和声・音楽理論の専門家がいなかったので、ドイツ人の音楽家によってオーケストラ編曲がなされたのです。
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冒頭をC長調と仮定すると、長9度の音から旋律が始まります。この音使いは戦場のメリークリスマスや千本桜のサビ、《ビートルズ》のイエスタデイの歌い出しでも聴けます。途中のルートが半音階で動く箇所は、G長調として捉えると《D#dim - Em》というコードの流れとも読めます。このルートの半音階の動き(《#Ⅴdim7 - Ⅵm7》)は昨今のアニソンやボカロ曲のサビでも頻繁に聴けます。また、筆者がその昔にブログで取り上げたFountains of Wayneの《Stacy's Mom》のサビ���も聴けます。
2.『平家物語』の冒頭
祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。
祇園精舎の鐘の音には諸行無常、即ちこの世の総ての現象は絶えず変化して行くものだという響きがある。沙羅双樹の花の色は、どれだけ勢いが盛んな者も必ず衰えるという道理を表す。世に栄え得意になる者も、その繁栄は永久に続かず、春の夜の夢のようである。勢い盛んな猛き者もいつか滅び去り、まるで風に吹かれる塵と同じようである。
3.釈迦
紀元前5世紀前後の北インドで釈迦(シャカ)族の王子として生まれた“釈迦”(後の仏陀)は、子供の頃に城下町で老い・病み・死にゆく者たちを見てこの世の無常を覚ったのだとか。
それ以来、思い悩み塞ぎ込むようになってしまった釈迦の将来を案じた国王は、釈迦が16歳になる頃に隣国の姫と結婚させた。
そうしてしばらくの間は平穏を取り戻したかのように見えた釈迦だったが、19歳の頃に息子が生まれてからまた何かを思い詰めたように表情に影が差し始めたのだった。
「人は老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見て考え込んでは嫌悪した。そう考える自分もまた老いゆくもので、その宿命は免れない。私はこのように『病』『死』を観察して、健康時における健康の意気はまったく消え失せてしまった。そうして生存時における生存の意気もまったく消え失せてしまった」 (中村元『ブッダ 釈尊の生涯』中村元選集第 11 巻、春秋社)
この世の総てのものは恒常な実体はなく縁起によって存在する。目に映るもの、形創られたもの《色》は、実体として存在せずに時々刻々と変化するものであり、不変なる実体は存在しない《空》。仏教の根本的考えは因果性《縁起》であり、その原因《因果》が失われたら、たちまち現象《色》は消え失せる。それが「色即是空」である。
《此》が有れば《彼》が有り、《此》が無ければ《彼》が無く、《此》が生ずれば《彼》が生じ、《此》が滅すれば《彼》が滅す。
《見られる人》がいなければ《見る人》はなく、《読む人》がいなければ《書く人》はいない。
諸行無常、すなわちこの世の総ては移り変わるもので何一つ確かなものはなく、富や名声、愛する人の命も永久には続かない。
釈迦は29歳の頃に安逸な生活に留まらず、人生の真実を追求するために王子の地位を捨てて出家したのだった――
4.馬の耳に念仏
「馬の耳に念仏」とは、馬に念仏(お経)を唱えても馬の頭では理解に及ばないという意味合いの諺ですが、そもそも人間に生まれたところで坊さんに読経されたとしても、ほとんどの人類にとって理解不能なのが念仏なので「人類の知能は馬に等しい」という意味合いにも受け取れてしまうのではないでしょうか。
人類史において真っ先に文明が発展した国々の共通項として、"馬"を活用していたことが挙げられます。車のない時代では馬が車の役割を果たしていたからです。荷車を数頭の馬に牽引させれば馬車になり、それを戦場で応用すれば戦車にもなりました。つまり当時は車・電車・貨物車・戦車として馬は必須だったのです。
ちなみに日本では4世紀末頃に中国大陸より騎馬の風習が伝わって6世紀には広まり、武芸の一つとして「弓馬の術」が、鎌倉時代・室町時代以降に盛んになり諸流派を生みました。しかしながら、戦国時代・関ヶ原の戦いを経て江戸時代には戦のない世になり、数百年後には黒船が到来し、明治時代に政府は兵制の改革を行い、日本式馬術は採用せず洋式馬術が取り入れられました。
これにより古来より日本にあった馬術はほぼ廃れ、現在は一部の研究家が実践するに留まっており、時代劇や大河ドラマなどの乗馬シーンのほとんどは、🇬🇧ブリティッシュ(イギリス式)馬術か🇺🇸ウエスタン馬術が用いられます。
■暴れん坊将軍 第一話[公式]|YouTube
カルマ(業)
■ Bump Of Chicken - "カルマ"|YouTube 排卵や受精について歌っているのではないかと諸説のある曲。
インド哲学の《仏教》におけるカルマ(業)とは、行為や所作、意志による身心の活動や意志による生活を意味する語。仏教、及びインド発祥の宗教では、善悪の業を作ると因果の道理によってそれ相応の苦楽の報い、果報が発生するとされます。
インドには宗教と哲学の境界線がなく、またこれを東洋哲学とも呼びます。仏教はすべての結果について「偶然による事物の発生」「原因なく事物が突然、生じること」「神による創造」を否定し、その因果応報を説きます。カルマの思想はインド発祥の宗教と道教において輪廻転生(生まれ変わり)と強く結びつく概念で、これらの説では善因善果、悪因悪果をもたらすとされます。
16進数
Google、Microsoft、Adobe等など世界を牽引する著名なIT企業におけるCEO(代表取締役社長)はインド系アメリカ人の方が多いようです。筆者の認識では「0の概念」や仏教発祥の地がインドであり、その他にも義務教育(算数)の学習が4歳から始まり、小学二年生の段階で20×20までの暗算を覚え、小学校を卒業するまでに三桁の掛け算の暗算を会得すると聞き及んでいます。インド人は関節のしわを用いて、片手で16まで数えられますが、それが16進数の礎になったようです。
16進数とは、0から9までの10個の数字と、AからFまでの6個のアルファベットを使って数値を表現する方法。16進数では一つの桁において0、1、2、3、4、5、6、7、8、9、A、B、C、D、E、Fと並ぶ16個の数値を扱うことが可能で「A」が10進数における「10」に相当し、「F」は同じく10進数の「15」に相当。「F」の次は位取りをして1桁上がり「10」となります。
日常生活では0から9までの10個の数字を使った10進数が主に使われますが、コンピュータでは2進数と並んで16進数を扱うことが多く、ASCIIコードや日本語の文字コード、色を示すカラーコード等は16進数を使用します。
16進数の3F7Bを10進数に変換すると4096×3+256×15+16×7+1×11=16251になります。また、10進数の12345を16進数に変換するには次のように計算します。
12345=4096×3(余り57) 57=256×0(余り57) 57=16×3(余り9) 9=1×9(余り0)
10進数の12345は、16進数では3039になりますが、わざわざこのような計算をしなくてもweb上には10進数と16進数の相互変換サイトがそこら辺に転がっているので、異なる進数間での変換が必要な際はそちらを利用すればいいでしょう。
■2進数、8進数、10進数、16進数相互変換ツール
その数値が16進数であることを示すために、3F7B(16)や0x3F7B、3F7Bh、&h3F7B、$3F7Bのように記述することもあります。なお、AからFまでの6個のアルファベットは小文字で表記してもいいとのこと。
プログラムや遺伝子は「1《有/優性遺伝子》」「0《無/劣性遺伝子》」の二進数で表記されることが往々にしてあります。インドが「0の概念」を発見していなければ、コンピュータのプログラム表記は今と大きく勝手が違っていたのかも知れません。
ちなみに世界中の人類が使用する数字(1, 2, 3)は、インド数学に起源を持つ「アラビア数字」です。
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▼英傑"フラッシュ"列伝  ―《俺の屍を越えてゆけ》―
🌸"さくらみこ"に轢かれる"米津玄師"|YouTubeショート
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■Bump Of Chicken "車輪の唄"|YouTube
=== ■"リリィ"|YouTube インディーズ時代最後のアルバムにして金字塔『THE LIVING DEAD〈2000年発表〉』収録曲。'00年代初頭の"FLASH"(フラッシュアニメーション動画。Flash Player 6以降を利用してインターネット上で動画を配信するために利用されるコンテナ型のファイルフォーマット。元はマクロメディアが開発していたものを、アドビ・システムズ(現Adobe)が会社ごと買収した。Flash VideoはSWFファイルの内部に埋め込まれる場合もある。なお、アドビによって定義され、Flash Playerが対応している動画ファイルフォーマットには異なる「FLV」と「F4V」の2つが存在する。Flash VideoフォーマットはYouTubeやGoogleビデオ、Yahoo! Video、ロイターを始めとした多くのニュース提供元などで次々に採用され、Web上における埋め込み動画の形式としてその地位を確立したが、Adobe Flashの終了に伴い、現在は非推奨)全盛期において、某大型匿名掲示板で"バンプオブチキン"の楽曲(『K』『ラフメイカー』『ダンデライオン』等)を基にした「歌詞字幕付きFLASH動画」が著作権的な問題を差し置いて流行り、意外にも"お絵描きを嗜むネット民"等からの絶大な支持を獲得するに至りました。
前作まで歌詞の題材は若人特有の「夢」や「情熱」の類が中心でしたが、さり気なく今作のアルバム曲として盛り込まれた楽曲『リリィ』を始め、アルバム『THE LIVING DEAD』以降の作風では「童話(物語性)」や「出逢いと別れ」「死生観」を題材にした同世代とは異質の作詞法を、この頃より確立したのだと思われます。
そうこうして年末恒例のCDJ(COUNTDOWN JAPAN)を除く、すべての民放のテレビ出演オファーを拒否しながらも、チャート上位を維持し続ける謎の怪物バンドに成長を遂げるに至りました。
=== ■"R.I.P."|YouTube 「��の日の朝」「父と尻尾の付いた友達の墓」という箇所で、幼い頃に母親が亡くなったことを示唆しています。その経験が一種の死別に対するトラウマになっているのであって、ただ単に「猫」や「親」が死んだことだけが悲しかった訳ではないのだと解釈できます。
「子供の頃、親に手を引かれて催事場までヒーローショーを観に行った時、自分は世界で最も幸せだと思ったけど、君といる今の方がそれよりも幸せだと感じる。地球で一番幸せだと思ったあの日の僕に君を見せたい」
でもそれと同時に「この幸せも永久に続くものではない」という恐怖心を、この歌の主人公は抱えているのだと慮る次第です。
=== ■"新世界"|YouTube 初めてこの楽曲を拝聴した時、「バンプオブチキンって象徴的に『愛』とか歌うバンドだったっけ?」と訝しく思いましたが、総合的に鑑みて喪失したくないという感覚によって輝くのが「新世界」ということなのでしょう。
歌詞に出てくる寝起きについての内容は、老人の持つ些末な不安のようですが、人は無意識の内に愛するものを失いたくないと思うからこそ今を大切に思えます。
《抜け殻》とは「喪失」や「死」を想像できると同時に「魂の抜けた肉体」も想像できます。そう考えると《待ち合わせしよう》とは「魂だけになったら一つになろう」と解釈ができます。
愛について説明するには生きている部分だけではなく、死生観や生命の根源的なところまで遡る必要があります。
世界には「見える世界」と「見えない世界」の相反する二つの世界が存在し、この二つがそろって初めて世界は成り立ちます。
見えない世界を信じられないという人もいますが、「概念」や「愛」のように目に見えない存在は数多��あります。
「愛」と言ってもその定義は様々ですが、欧米化して表向きは恋愛結婚が正当だとされる昨今では「恋愛」から「恋人」になり、それから「夫婦」になり家庭を築くのが定石でしょう。
邦楽の歌詞に頻出する「愛」とは、"恋愛"や"恋人"の段階を連想されることが多いようですが、人々の"愛"における目的地や終着点は「愛情」や「家族愛」にあるのだと思われます。
さらに踏み込むと「博愛」や「慈悲」にもなりますが、それは"マザーテレサ"級の博愛主義者が持ち得る話なので、大多数の人々にそこまでの理解は不要でありましょう。
ちなみに「恋愛」「結婚」「セックス」は別問題なので、お金で「結婚」と「セックス」はできますが、清純な「恋愛」は機会に恵まれないと中々できないと慮る次第であります。
事象には必ず"ポジティヴ"な部分と、"ネガティヴ"な部分があり、二つは重なって一つになります。
東洋思想(仏教・儒教・道教)の「太極図」で謂うなら、陰と陽が重なって一つの円になるように、ネガティヴな部分がなければその存在は浅薄な嘘になります。
「生と死」のように死のない人生は決してないし、「獲得と喪失」のように、喪失がなければ失うまで大切にしたいという気持ちは芽生えません。このように相反する二つの事象があるからこそ物事に理由が生まれます。"今"が輝くのはきっとそういう仕掛けがあるからなのでしょう。
人生は泣いたり笑ったりするからこそ輝くように、一般的にネガティヴとされる「死」や「喪失」を認めることができた時に初めてすべては意義を持ち、二つの相反する事象を受け入れられた時に見えるのが「新世界」なのだと思います。
人は生まれた時に"生"を与えられ、その瞬間から既に生命を獲得した状態から始まるのと同時に、"死"という喪失の可能性もまた始まっているのでしょう。
「先進国で性風俗があるのは日本だけだから撤廃すべき」と宣う輩もおりますが、他の先進国(白人の国々)は「宗教上の理由」で性風俗を禁止しているのであって、本来は《キリスト教》とは無関係な日本がそれを模範する道理はありません。
ヨーロッパ人種の主要な宗教である《キリスト教》では、男女の結婚は神との契約の形でおこなわれるのはさておきまして、欧州から渡来した「貞操観念」が定着する江戸時代以前の日本では、男女ともに「経験人数は多ければ多いほどいい」とされており、十代前半になれば男女は初体験を迎えていたようです。
京都や江戸と異なり、遊郭(政府が管理・運営する性風俗)などもない山陽地方の田舎では、夜這いが正常な異性間の交渉とされ、それにより子供を身籠れば、女性の方から複数の相手から一番好きな殿方を選び、それを正式な夫だと宣言すれば血縁関係と認められていたとのことです。
明治時代頃までは中学生ほどの年齢にもなって未経験なのは相当恥ずかしいことだったらしく「14歳にもなる処女が風呂屋の前で男性客に『ちぎってくださいまし』と手あたり次第に声を掛けていたので、往来を行く男性客が困惑していた」というような話題も当時の性風俗に関する書籍に記述されていたようです。
ちなみに明治時代までは普通だった銭湯の混浴風呂を欧米の要人に見せたところ「日本人の精神年齢は12歳程度だ!」と酷評されたのをきっかけに、都市部の混浴風呂は廃止されたのだとか。
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アルバムジャケットに描かれた人物は、楽曲『ラフ・メイカー|Spotify』に登場する「泣いている人を笑顔にするために現れる謎の語り部"ラフ・メイカー"」ご自身とのことです。
■『THE LIVING DEAD〈2000年発表〉』プレイリスト|BUMP OF CHICKEN - YouTube公式チャンネル
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嫌われ者のライオンが吊り橋を渡った先で出逢ったのは、生涯の友人でした――
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「私たちはまた再会できると確信(sure)しています」というコーラスのリフレインが印象に残ります。
この曲はボーカルのBradleyさんが、自身の死産だった子供に捧げたレクイエムとのことです。
このアルバムを最後に、毎回ジャケットを飾ったマスコット的なキツネは姿をくらましました。
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“ドーベルマン”は、シャープな体躯となめらかな短毛が芸術的までに美しく完成されたドイツの中型犬です。
歴史は比較的新しく、19世紀後半に“ドーベルマン”氏によって攻撃力のある護身用の犬として品種改良により作出されました。基礎となったのはロットワイラーやドイツ・ピンシャーなどと伝えられています。
外見のイメージ通り、敏捷性に富み、気性は大胆で警戒心が強く、飼い主以外には気を許さない面もありますが、訓練はしやすい犬です。
日本には明治時代の1920年代に輸入され、30年代には軍用犬の指定を受けました。戦後は警察犬としても使用されましたが、近年は飼育者の減少が見受けられます。
『旧約聖書』
「降って止まない蛙」とは、『旧約聖書』出エジプト記8章2節モーゼの十災。奴隷としてイスラエル発祥のユダヤ人を迫害したエジプト王に、天罰として天からカエルを含めた十の災難を神が降らせたエピソードより。カエルは罪と贖いの象徴でもあります。
まず始めにギリシア語で書かれたキリスト教『新約聖書』の前身となるユダヤ教『旧約聖書』はヘブライ語で書かれました。ユダヤ教徒は園児ほどの年齢から聖書で読み書きを覚えていたのだとか。一方の日本は、江戸時代まで人口の5%だけしかいなかった公家などの神道における上層部や商人しか読み書きを教わる機会がありませんでした。
イラクはアラビア語を公用語とするスンニ派アラブ人の住むイスラム教の国で、イランは白人の祖先シーア派のペルシャ人も住む中近東の国です。「アラビア語を公用語とするイスラム教徒の国」がアラブの定義なので、公用語がペルシア語のイランや、ヘブライ語のイスラエルは、精確にはアラブではなく中近東に区分されます。
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<前篇|中篇:新古生代/新中生代|後篇>
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wabisukepons25 · 6 months
Text
2頁
また今日も残業だった。クソ上層部のクソ女との接待。俺がテメェみてぇな女好きになるかよ。アイツのキツい薔薇とホワイトリリーの香水の匂いがまだする。吐き気がする。
深夜1時。外は雪がちらつき、空は雪が街の光に反射してか薄明るい。そのせいで回りがよく見える。歩いているのは俺一人。足跡も俺の後以外には雪が覆ったんだろう、見当たらない。頭に雪を散らし、疲れ切った男が一人ただ家路に向かっている。それだけの悲しい風景。
雪が浅く積もった階段を、重い足を引きずりながら3階まで上がる。一段、一段上がる事に口から湯気が立っては消えを繰り返す。手すりを掴む手は凍え、痛みさえある。やっと自宅の所々赤錆びたドアの前に着いた。換気扇からまた別の匂いがしている。
ホワイトムスクの匂い。これは嫌いでは無い匂い。
そして微かな血………生臭く、錆びた、喉に張り付き締め付けるような…同棲者からよくする、もう嗅ぎなれた匂い。
凍える手でベルトに付いた小物入れから家の鍵を探し出し、少し回しにくくなった鍵穴に差し込む。5、6回揺らしただろうか、スンと鍵が回りその勢いに体が傾く。
「ただいまぁ。帰ったで」
玄関で革靴を脱ぎ廊下に上がる。寝室から明るい光とゲームの音が漏れている。また遊んでる。こちとら散々疲れてやっとこさ帰ってもう1時だってのに。腹は空いたわ、眠いは、風呂入りたいわ…。廊下は冷たく、棒になり感覚が薄れた足裏に痛みという感覚を取り戻させた。ため息を吐きつつキッチンを抜け、寝室を開ける。
「おかえり。遅かったねー」
ソファーに腰かけこっちをチラリとも見ずにテレビ画面を凝視し、コントローラーをポチポチしている「嫁」がいた。
鼬。俺の親友兼嫁である。人生どういう事か俺は股間に逸物の付いている人間と籍を入れたのだ。
白銀の腰程までに長い髪。異様なまでに整った中性的な顔。長い睫毛。細い指としなやかで柔らかい、筋肉があまりない女性的な身体。余りにも綺麗で魅入ってしまう高価な人形の様な見た目。それなのに俺の前だと何を言ってるのかさっぱり分からない宇宙人になる。いっそ自分は金星人だと言ってくれれば俺は納得するだろう。あぁ、実に勿体ない。
「血の匂い。残っとる」
「狼ちゃんは鼻ええよね。ウチわからんで」
声を返すもテレビの画面を見たまま。俺の疲れ切った顔をちらりとも見ずに。
「ゲーム、止めろよ」
「ちょっとまって今セーブ出来るとこ行ってるから…。はい。終わり。お疲れ様ー。ご飯あっためるね。お風呂も沸かし直してくる。その間に別データの雑魚狩りしてくれると嬉しい…けどその顔、怒ってる?」
眉間にシワが寄っているのに気が付いた。怒ってる?あたりめーだろ。のんきにゲームしやがって。キレてるよ。黙ってソファに座って手袋を脱ぎ、ポケットに捻じ入れる。手際よく目の前のテーブルにお茶、箸、白米、卵スープ、空芯菜の炒め物、回鍋肉が並べられる。食欲をそそる匂い。ついがっつく。だが回鍋肉にレンジの熱が行き渡っていないのか冷たい所がある。噛む度に熱すぎる所と冷えきった所が口の中で場所を取り合い、とても不快に感じる。イライラが募る。
「風呂出来た。んじゃ、ゲームしてるから。お風呂は抜いて洗っといて。んで先寝てて」
俺はゲームより存在下なのかよ。脱衣所で服を脱ぎながら自分の情けなさに辛くなった。タオルを取り、鉛のように重くなった腕で体を洗うのは面倒だと感じながらも、なんとか体を洗い終えた。ピンク色のラベンダーの匂いの湯船から湯気が上がっている。色も匂いも嫌いだ。しかも長い髪の毛が1本浮いている。なんで最後に取らないんだ。湯船に浸かった胸にピチャリとその髪が張り付く。つまみとり浴槽の縁に貼りつけようとするも指に白銀の髪がまとわりつきなかなか取れない。諦めてその指を浴槽に沈めた。
このまま寝てしまいそうだ。しかし寝ぼけて溺死するのはあほらしいので渋々浴槽から出た。栓を抜き、いつの間にか指から離れたあの忌々しい髪の毛は排水溝に渦を巻いて意図も簡単に吸い込まれていくのが見えた。そのまま海まで流されろ。
柔らかいバスタオルで体を拭き、畳まれたいつものルームウェアに着替える。サングラスはなく眼鏡が畳まれてタオルの上に置いてある。人のものかってに触るなよ。髪を乾かし、重い足を引きずってどうにかソファーまで辿り着き、横になる。同居人はまだフローリングに座り、のんびりとゲームをしている。それを横目に見ていているとさらにイライラが増していく。
いつの間にか睡魔に襲われる。重い瞼を閉じかけた時、鼬がソファーに手をかけて覗き込んできた
「狼ちゃん、お疲れ様。…まだ怒ってるん?何に?」
何?何っててめぇの中途半端な家事やゲームばっかりやってる態度にだよ。本当は俺の事どうでもいいんだろ。俺はお前が言う理想を演じ続けてるだけだしな。昔のひ弱だった「オレ」なんか嫌いなんだろ。…俺はあの頃と変わっちゃいない。どうせお前は「オレ」を見てない。「オレの全部」を。そんなお前の態度や言葉や…全部。全部が腹立たしい
「全部」
「全部か…。そっか。ごめんね。いつも完璧じゃなくて」
「完璧を求めてんじゃねーよ!お前さ、俺に色々指示だけしやがって。んでなんだ?自分は遊んでばっか、我儘三昧か?俺の事少しでも考えた事あるんか!?…どうせ『オレ』の事どうでもいいんやろ」
「狼ちゃん、ウチってそんなに…本当に狼ちゃんの事、少しも考えてないように見える?本当にどうでもいいなんて…考えてるように思える?」
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鼬の口が固く結ばれて、手は震えている。金と紫のガラス玉の様な眼には雫が溜まり始めて、1粒俺の左手の甲に落ちた。その冷たい雫に我に返る。雫が心にしみていく。怒りは徐々に静まり焦りが生まれる。そして気が付く。俺の言葉はナイフになって鼬の心を刺してしまった。そのナイフの柄を持っているのは俺だ。俺は…
また俺は鼬を泣かせてしまった。
俺のことを少ししか考えてない?どうでもいいように思ってる?軽率な言葉だったかもしれない。 そうだ。飯は作ってあった。飯食った後に直ぐに風呂も入れた。風呂に入ってる間に服は仕舞われて、着替えと眼鏡は出してある。俺が気がついてないだけでまだ沢山気を遣われてる。
きっと鼬ちゃんは俺が計り知れない程に「俺」も「オレ」の事も考えている。
「…泣くなよ。鼬ちゃん、俺の事思ってくれてるんだよな。俺、家帰って何から何まで鼬ちゃんにしてもうてた…。それやのに酷い事言ってしまった…ごめん。鼬ちゃんも疲れとるのに…俺の事思ってくれて、しかも疲れてるのを気遣って全部面倒見てくれて、…ありがとう」
鼬は赤くなった目を丸くしてる。両手で顔をぐしぐし拭いさる。そこには涙が止まり頬を赤らめたなんとも愛らしい笑顔があった。少し驚いたし腹の当たりがじんわり熱くなった。 俺、やっぱり鼬ちゃんの事好きなんだな。
「んへへ、狼ちゃんが分かってくれて凄く嬉しいです!あのさ、嫌じゃなかったら…今日は一緒に寝る?」
霜の降りた窓からは、雪が降っているのが見える。月光は部屋に差し込みベッドに柔らかな光の毛布を敷く。狭いベッドに大人二人。窮屈だが握ったその手は暖かかった。
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