#多聞櫓跡
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福山城
近世城郭の完成形と云われる備後国の名城🏯残念ながら1945年の空襲で消失したが、1966年復元😊
更に2022年築城400年を記念して耐震改修され美しい姿を復元
改修から2年経つが白壁がまだまだ美しい😍
福山城の特色として全国でも類のない天守北面の黒い鉄板張りも綺麗に復元
白と黒の見事なコントラスト
美しい威容
以前の本丸は公園として芝生や草木が生い茂っていたが、令和の大普請によってスッキリし、何処からでも天守がよく見える😲
以前の福山城本丸は以下から
本丸の各櫓群もよく見える😍
1945年の空襲を唯一免れた伏見櫓。その名の通り伏見城の松の丸東櫓を移築したもの
伏見城から移築されたという伝承のある各地の櫓や門の中で唯一物証による裏付けのとれたもので、他なら天守に匹敵する規模を持つ
天守を除く櫓の中で現存する最古の櫓
手前の鐘櫓と並ぶ伏見櫓
別アングルで天守をバックにした鐘櫓
復元された筋鉄御門
迫力のある櫓門
復元された月見櫓
文書保管庫に利用されている鏡櫓
本丸にあった櫓群
鏡櫓から天守まで張り巡らされていた多聞櫓を模した土塀
本丸御殿の一部だった御湯殿
続きは以下から
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興建於福島城辰巳櫓跡高台之上,有著超過363年以上的超古老歷史,更以可愛豆柴小白醬、神社卡通角色與限定剪紙御朱印、透明御守而聞名的「福島八幡宮」!
#巡日#旅行#出國#神社#豆柴#透明御守#剪紙御朱印#福島八幡宮#本町#八女#福岡#福岡自由行#巡日旅行攝#Japan#Travel#Shrine#もとまち#やめ#ふくおか#にほんこく#RoundtripJp
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皇居東御苑の散策は無料で、3つの出入り口(大手門・北桔橋門・平川門)から自由に出入りできます。入る場所と出る場所が違ってもOKです。2時間程度で主要なところをざっと見るなら、大手門から入って3つの城門(大手三の門、中の門、御書院門)を抜けて本丸へ向かい、富士見櫓、富士見多聞、天守台を見てから汐見坂経由で平川門へと抜けるのがいいでしょう。 城門の近くにある、同心番所、百人番所、大番所にも注目です。番所は城内の要所に置かれ、出入りする人々の管理と監視を行った管理小屋のような建物。大番所には平屋建てで、内部に2〜3部屋が並立し、正面の屋根の下に庇がつきます。同心とは下級武士の役職名で、百人番所には同心とさらに位の高い与力という役職の武士が警護にあたりました。 芝生広場になっているエリアが、本丸御殿が建っていた本丸跡です。参勤交代で江戸城を訪れた諸大名が将軍と謁見をしたのも、「忠臣蔵」でおなじみの松の廊下があったのも、女の熾烈な戦いが繰り広げられた大奥も、この本丸御殿です。
江戸城ってどこにある? はじめての江戸城見学
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松前城/北海道松前町【最後の日本式城郭】250種の桜が植えられた伝説の城
松前城とは 松前城(まつまえじょう)は、北海道松前郡松前町松城(ほっかいどうまつまえぐんまつまえちょうまつしろ)にある城跡だ。 公式には福山城(ふくやまじょう)と記されたが、当時から備後福山城との混同を避けるため松前城とも呼ばれていた。 松前家の前身蠣崎(かきざき)氏は、大館を拠点とし、5世慶廣(よしひろ)のとき、豊臣秀吉、徳川家康によって大名に列せられ、姓を松前と改めた。初代藩主となった慶廣は、慶長5年(1600)大館の南方にある、福山台地に新城(福山館)を築き、6年の歳月を費やし、慶長11年(1606)に完成した。 嘉永2年(1849)、幕府は蝦夷地近海に出没する外国船に脅威を感じ、要害を固めるよう、17世崇廣(たかひろ)に特旨をもって築城を命じた。…
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#アジサイ#光善寺#北海道#国道228号線#城跡#多聞櫓跡#搦手門跡#日本さくら名所100選#松前城#松前町#松前神社#松前郡#松城#桜#武田信廣#法源寺#福山城#血脈桜#重要文化財#鎌倉翁の顕彰碑#駐車場#龍雲院
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📸彦根城博物館(表御殿)庭園 / Hikone Castle Museum Garden, Hikone, Shiga 滋賀県彦根市の『彦根城博物館』の庭園が素敵…! 世界遺産の登録を目指す国宝・彦根城…🏯その天守の麓にかつて存在し、彦根藩主・井伊氏の政務や生活の場だった“彦根城表御殿”を昭和年代に復元した彦根城博物館。刀剣/甲冑/美術品/古文書の各種展示のほか、江戸時代の庭園や茶室の再現も! . 滋賀・彦根城博物館(表御殿)庭園の紹介は☟ https://oniwa.garden/hikone-castle-museum/ ...... 「彦根城」は日本国内で5つのみの国宝天守を有する城郭のうちの一つ。江戸時代に多くの大老・老中を輩出した大名・井伊氏の居城で、その天守閣の麓、かつて表御殿のあった場所には表御殿を模した『彦根城博物館』が建ち、復元された庭園や茶室も見ることができます。 . 2022年7月に約1年半ぶりに彦根へ。彦根城内にある国指定名勝『玄宮園』、『楽々園』はこれまで何度も訪れていて紹介していましたが、この表御殿庭園が紹介できていなかったので紹介。 . まずは彦根城の歴史も簡単に。関ヶ原の戦い⚔️の後に近江に入った“徳川四天王”の一人・井伊直政。当初は石田三成の居城『佐和山城』に入りましたが、敵方のリーダーの居城…というのを嫌い移転を計画。 . そして築城されたのが彦根城。井伊直政はその完成を見ることなくこの世を去りますが、意志を継いだ子の井伊直勝(井伊直継)や井伊直孝、家老・木俣守勝によって1623年に完成🚧 . 以後明治維新に廃城令で廃城になるまで井伊家の居城として用いられました。 江戸時代初期に建築された天守/附櫓及び多聞櫓���国宝、天秤櫓/太鼓門及び続櫓/西の丸三重櫓及び続櫓/佐和口多聞櫓などの各櫓が国指定重要文化財、そして「彦根城跡」として国の特別史跡となっています。 . その城内に1987年(昭和62年)に彦根市市政50周年を記念して開館したのが『彦根城博物館』。 江戸時代には藩の政務・そして藩主の生活の場でもあった表御殿。明治時代に取り壊された後にはグラウンド🏃になっていたそうですが、発掘調査や古絵図・古写真を元にその表御殿を再現する形で博物館が建築されました。 . 入場して手前のスペース、かつて政庁の場だった「表」の構造を模している展示棟では彦根藩や井伊家に伝わる美術工芸品や古文書/史料・刀剣🗡や甲冑などの武具やお能・茶道具をテーマに沿って紹介。 所蔵されている点数は約9万件!博物館の中庭に能舞台があるのは多分すごく珍しいのだけれど、これはかつての御殿の面影を感じさせるもの。 . 博物館の奥、伝統的な木造建築が藩主の生活の場として用いられた「奥向き」を再現したもの。 主庭園に面した「御座之御間」と茶室「天光室」「間滴軒」、客間「御客座敷」や、最奥で藩主がくすろぐスペースだった「御亭」という各部屋で構成。 . 藩主の居間から正面に眺める庭園は発掘調査や古絵図🗺を元に江戸時代後期に作庭の庭園を再現したもので、室内からの鑑賞性も重視された池泉回遊式庭園(*降りて歩くことはできません)。 雪見灯篭や手水鉢などの石造物、枝垂桜🌸やソテツ、松🌴などの樹木も絵図を参考に植栽されたもの。 続く。 ーーーーーーーー #japanesegarden #japanesegardens #kyotogarden #zengarden #beautifulkyoto #beautifuljapan #japanesearchitecture #japanarchitecture #japanarchitect #japandesign #japanart #jardinjaponais #jardinjapones #japanischergarten #jardimjapones #bonsai #japanmuseum #landscapedesign #建築デザイン #庭園 #日本庭園 #庭院 #庭园 #滋賀庭園 #彦根 #hikone #博物館 #滋賀旅行 #滋賀観光 #おにわさん (彦根城博物館) https://www.instagram.com/p/CiEnLLYPr_B/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。2021年最初の記事では、今年おすすめの城を紹介します。 なかなか思うように旅ができなかった2020年。2021年は少しでも城をめぐりたいと願う方も多いだろう。コロナ禍は厳しい状況が続いているが、昨年は中止になったイベントも、規模を縮小して再開される兆しがある。そこで今回は、2021年注目の城をご紹介したい。
天守が復旧、4月には内部公開 地震被災の熊本城
今年は、熊本城(熊本市)が大きな話題になるだろう。2016(平成28)年4月の熊本地震で甚大な被害を受け復興への長い道のりは続くが、ついに天守が復旧。4月26日から内部が一般公開される。 天守の外観は震災前とまったく同じだが、葺(ふ)き直された瓦の継ぎ目に塗られた真っ白な漆喰(しっくい)、真新しい真っ黒な壁面がまぶしい。以前のように、大天守最上階からの景色が楽しめるようになるのもうれしい限りだ。内部の展示内容は大幅にリニューアルし、天守に特化した展示になるという。熊本城に関する展示は、「桜の馬場 城彩苑」の「熊本城ミュージアム わくわく座」で見ることができる。セットで訪れたいところだ。 2020年6月1日からは、地上約6メートルの高さに敷設された特別見学通路が開通している。復旧期間中だけ設置される、被害状況や復旧の過程などを見学できる通路だ。これまで見られなかった視点で眺める石垣や櫓(やぐら)も、また格別。現在は日曜・祝日に公開が限定されている北ルートも、4月26日からは原則として毎日公開される。
中ノ御門表門が3月に復元完成 鳥取城
3月に中ノ御門表門(なかのごもんおもてもん=大手門)が完成予定の鳥取城(鳥取市)も注目だ。城の正門にあたる幅約10メートルの立派な城門が146年ぶりによみがえる。2018(平成30)年に復元された擬宝珠(ぎぼし)橋とともに、鳥取城の新しい顔となりそうだ。 鳥取城は、羽柴秀吉による1581(天正9)年の兵糧攻め“渇(かつ)え殺し”の舞台で知られる。籠城(ろうじょう)戦後は秀吉の家臣・宮部継潤、関ケ原の戦い後は徳川家康の家臣・池田長吉が城主となり、石垣を用いた城へ改修され、山上から山麓(さんろく)へと城の中心が移された。1617(元和3)年に池田光政が城主となり、32万石の大藩となった。 1621(元和7)年に光政が城の正面玄関にかけたのが、大藩の威容を示す擬宝珠橋だ。復元された城の橋としては国内最長で約37メートルにも及ぶ。実際に用いられた擬宝珠がひとつだけ残っており、その擬宝珠で鋳型を起こして��巧に復元している。伝統的な「煮黒目仕上げ」で重厚な輝きを放つ。
三の丸が国の史跡追加指定へ 米子城
同じく鳥取県内の米子城(米子市)も楽しみだ。近年の発掘調査により全国的に珍しい登り石垣が発見されるなど全容が明らかになりつつあるが、2020年11月には三の丸を国の史跡に追加指定する文化審議会の答申が出た。整備の一環として旧湊山球場のレフト側スタンド部分が撤去され、壮大な米子城の姿がよく見えるようになった。 球場の建設時に数メートル盛り土したため、実際の三の丸の地表面は地下にある。二の丸の石垣や表中御門枡形(ますがた)の石垣も埋まっており、石垣は現在見えているより少なくとも3メートルほど高いらしい。城下町側から見上げる米子城は、今よりさらにダイナミックで壮大だった。調査が進めば、三の丸内にどのような建物が建っていたかも判明するだろう。江戸時代の景観がよみがえり、かつての姿が解明されるのが待ち遠しい。
天守北面に鉄板張る事業 福山城
福山城(広島県福山市)では、2022(令和4)年の築城400周年に向けて記念事業が行われる予定だ。1620(元和6)年に築城がはじまり、翌年から天守の建造を開始。1622(元和8)年に竣工(しゅんこう)したとされ、来年400周年を迎える。 全国の著名な城の多くは、1601~1614(慶長6~慶長19)年頃に築城が開始されたケースが多い。1615(慶長20)年の一国一城令公布後は多くの城が廃城となり、特例を除き新たに城が築かれることはない。福山城が1620年から新築されたのは、西国の鎮護という戦略的・政治的に重要な役目を担っていたためだろう。徳川家康のいとこにあたる水野勝成が築き、歴代城主には譜代大名が名を連ねる。現存する伏見櫓は、徳川秀忠の命により移築された伏見城(京都市)の松の丸三重櫓だ。 福山城の天守(福山城博物館)は、2022年8月までリニューアルのため休館中だ。天守は1945(昭和20)年の福山大空襲によって焼失したが、明治時代に撮影された古写真には、1~4階までの北側の壁面に鉄板が張られた世にも珍しい姿が写っている。復元されている天守の外観はかつての姿と異なるが、築城400年記念事業の一環として、よろいをまとったような姿が可能な限り再現されるという。変わりゆく姿にも注目したい。 (この項おわり。次回は1月18日に掲載予定です) #交通・問い合わせ・参考サイト ■熊本城 https://castle.kumamoto-guide.jp/grand-unveiling/ ■鳥取城 https://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1432278469689/index.html(鳥取市) ■米子城 https://www.city.yonago.lg.jp/4439.htm(米子市) ■福山城 https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/site/fukuyamajo/(福山市) (文・写真 萩原さちこ/ 朝日新聞デジタル「&TRAVEL」)
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2019年の連休はJRに乗って(2)竹下→博多、大回り
Holidays in May 2019 ~ (2) Roundabout by JR tains in Fukuoka, the 3rd.
午前中に桂川駅で特急かいおう5号の撮影をした後、竹下駅にやってきて近くでお昼を食べました。大気中の水分が多いのか白っぽい空の色でしたが、気温は上がって5月初旬らしい天候でした。ということで、大回りを敢行することにしました。大回りこそしないものの、同じような人をちらほら見かけた大型連休でした。
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原田線上り(車窓から)28分57秒
日田彦山線上り(後藤寺→西小倉、車窓から)35分18秒
鹿児島本線下り(戸畑駅入線・陣原→遠賀川あたり、車窓から)7分4秒
香椎線下り(香椎→長者原、前面車窓)9分29秒
竹下駅
[13:25] 下り電車で原田へ
(午前に続いて)2度目の原田駅
[13:50]
運転手さんが方向幕を確認して運転席を移動します。
[13:53] 午前中に通ってきた路線を戻ります。(後方展望)
筑前山家
冷水トンネルを抜けて~筑前内野
上りの桂川方面へ向かう場合は右手に広がるレンゲ畑
[14:24] 桂川
列車は再び折り返して原田へ。
福北ゆたか線で新飯塚へ
[14:45] 新飯塚
後藤寺線へ乗り換え~接続は悪くない。
(今回は後藤寺線の動画はなし。)
[15:11] 田川後藤寺~小学校までの故里
乗ってきた列車は折り返して新飯塚へ。
平成筑豊鉄道
停車中の日田彦山線の上り列車
奥に見えるのは留置線の車両。かつては後藤寺機関区があった場所。
昔は跨線橋は無かった記憶あり。先に機関車庫や転車台があった。
上り方向を見る。平筑の停まっている線路は通過線でずっと続いてた。(今は花壇に。)
国鉄時代の糸田線や後藤寺線ではキハ35などが走ってました。
下:下り日田彦山線の列車が入線。
数日前にも見た風景でした。
[15:20] 下り列車が出発しました。
上りも出発です。
[15:22]
丘の上の右手が今は無きタイル工場、左が鉱石置き場。鉱石置き場でよく遊んでました。鉱石を積んできた無蓋車のトキが道路横に停まってて、触るだけでなく乗ったりしたこともあります。あわや機関車がやってきて連結、そのまま引っ張って行かれそうになったことも。(慌てておりましたが。)
手前の住宅が建っている場所もかつては線路があった場所。飽きずに貨物の入れ替え作業を見てました。自宅があったのはすぐ近くです。
赤い跨線橋を渡って小学校へ通ってました。
��:西日本新聞社「九州鉄道の記憶Ⅳ」加地一雄編より
線路図の左端が上の写真の赤い跨線橋あたりです。
下:伊田の手前の踏切(上の赤い橋からつながる道路)を越えて。
大きなバイパスができるまでは国道でした。
保存された炭鉱施設~炭坑節に出てくる煙突
��坑櫓
[15:27] 田川伊田
下:伊田駅を出た列車はすぐに彦山川を渡ります。写真の右下の小さな建物にはお地蔵様(水難身替り)が祀られてます。
[15:33] 削られた香春岳(一の岳)
[15:40] 採銅所
[15:46] 呼野
[16:05] 城野
[16:09]
[16:13]
[16:14]
日豊本線の電車
[16:33] 鹿児島本線を下る~若戸大橋
ホームのモニュメントに目を引かれて下車~戸畑
[16:40]
[16:43] 官営八幡製鉄所(東田第一高炉)の史跡~スペースワールド駅
[16:52] 折尾
[17:35] 香椎駅~香椎線下り列車に乗り換え
ディーゼルからデンチャに置き換え完了。
小さな町のローカル線の風情が続きます。
[17:50] 長者原~福北ゆたか線と立体交差
階段を下りて福北ゆたか線に乗り換えです。
福岡県内JR一筆書き乗車の最長コースでした。乗り継ぎ待ち時間のロスがなく4時間半から5時間で回ってこれました。
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宮戸川 2/2
「どうぞおじさん、夫婦にしてください」 とたのみました。おじさんはもとよりはなしのわかった人ですから、 「おっとひきうけた」 と、さっそくお花のうちにかけあってみますと、お花の父親もちょうど帰っておりまして、 「半七さんならば結構でございます。ねがったりかなったりで……なにぶんよろしくねがいます。あなたにおまかせ申します」 と、二つ返事で娘をくれました。 さて、こんどは半七の父親は、自分の兄弟だから、はなしはかんたんだろうとかけあってみますと、ものがたい父親ですので、なかなか承知いたしません。 「ひとさまの娘御《むすめご》をかどわかしのようなまねをした不行跡《ふぎようせき》なやつを、うちへいれるわけにはいかないから、ぜひとも勘当する」 と、しきりに頑固《がんこ》なことをいっておりますから、おじも怒ってしまい、 「そんなら勘当しねえ。半七は、おれがもらって、おれのせがれにしよう」 と、父親から勘当金といって、当座入り用の金をとりまして、おじが万端世話を焼き、両国横山町辺へ小ぢんまりしたうちをもたせて、下女と小僧ぐらいつかいまして小商《あきな》いをさせ、夫婦仲もまことにむつまじく暮らすようになりました。おじが時折りやってきては、商いのやりかたを指図《さしず》いたします。もとより場所もよろしいので、いいあんばいに商いも繁昌して、若夫婦はたのしい毎日をおくっておりました。 ところが、ある夏のことで、女房のお花は、小僧を供《とも》につれて、浅草辺へ用足しにまいりまして、観音さまにおまいりをして、雷門のところまでまいりますと、ポツーリ、ポツーリふってまいりました。これをみましたお花が、小僧に傘を借りてくるようにいいつけましたので、小僧は、急いで駒形の知りあいのところへ傘をとりにまいりました。お花は、雷門の軒下《のきした》に立っておりますと、雨はますますはげしくなりました。そのうちに、日はすっかり暮れ、空の底がぬけたかとおもうようなすさまじい大夕立でございます。あまり雨がはげしいのとかみなりのはげしいのとで、ではじめていた夜店《よみせ》の者は店をかたづけ、商人《あきんど》はみな戸をしめてしまいましたから、さすがの盛り場も、日が暮れたばかりというのに、人通りがまったくみられなくなりました。 すると、吾妻橋のむこう側に落雷があって、ガラガラズーンというものすごい音におどろき、お花は癪《しやく》をおこし、歯を食いしばって石畳の上に倒れました。ふだんならだれか介抱をいたしますが、この雷雨で、あいにくだれもみているものがおりませんから、そのままでございます。とたんに、このあたりに住むならずもの三人、ひとりはあたまから米俵をかぶって雨をしのぎ、ひとりはまっ裸でふんどしひとつ、ひとりはぼろぼろの着物を着てなにやらあたまへのせ、雨の中を駆けだしてまいりましたが、やがて雷門の軒下へはいって雨やみをはじめました。 「どうでえ、おっそろしい雨じゃあねえか。あのかみなりはすごかったなあ、目のなかへとびこんだかとおもったぜ。ま、どこへおちたろうな?」 「そうよ、吾妻橋むこう……枕橋あたりへおっこったろうよ」 「そうよな。ここですこし雨やみをしていこう。そっちはまっ裸か?」 「ああ、まっ裸だ。いかに夏とはいいながら……」 「それじゃあうすら寒いだろう?」 「なんだかひんやりしていい心持ちだとおもったが、いまじゃあすこしつめたくなった」 と着物をしぼり、あるいはからだをぬぐい、手ぬぐいをしぼりなどしておりますと、まっ暗ではございますが、倒れているお花が、ひょいと目につきました。 「おや、そこになにかいるんじゃねえか? なんだ? たいそうなものが倒れてるな」 「ああ、どうしたんだろう? さては、いまのかみなりにおどろいて目をまわしたのかな? かわいそうに……いい女だぜ」 「いくつぐれえだろう?」 「そうよなあ、ようようまだ二十一、二というところかな?」 「そんなものだろうな」 「そうだ、助けてやろうじゃあねえか」 「うん、助けてやろう」 と、まだ息がありますから、ひとりが抱きあげて、雨水を口うつしに飲ませようとしましたが、歯を食いしばっておりますから、水ものどへ通りません。すると、ひとりのやつが、お花の顔を穴のあくほどみつめておりましたが、ほっとためいきをついて、 「いい女だなあ、こちとらあ、このくれえな女は、生涯抱いて寝ようたって、とても抱いて寝られやしねえが、どうだ? ここじゃあいけねえや、さびしいところへつれてって、すっかり介抱してやって、その返礼に三人で、なぐさもうじゃあねえか?」 「ばかなことをいうな。そんなことが天下のお膝もとでできるもんか」 「なあに、いのちを助けてやった礼とするからよかろう?」 「ばかをいうな。あらわれてみろ。はりつけ、獄門はまぬかれねえぜ」 「そりゃあ、てめえ、了見がせめえや。これまでさんざんわりいことをしているから、殺されたって不足はあるめえ。ひとつ太く短かく生きようじゃあねえか。これくれえの女をみのがす手はねえぜ」 「そういわれてみりゃあそうよなあ。ひとつやっつけるか……あたりをみろ」 とみまわしましたが、さいわいあかりひとつみえず、人通りはなし、しめたとばかり、三人でお花をかついで、吾妻橋のほうへいってしまいました。そのあとへ小僧が傘をかつぎまして、雷門のあたりをうろうろしながら、 「おかみさん、おかみさん! ……どこへいっちまったんだろうな? 待ってておくんなさいといったのに、どこへいっちまったんだろう? ……おかみさん、傘を持ってきましたよ。おかみさん!」 すると、わきに寝ていました乞食が、むっくりと首をあげて、 「小僧さん、小僧さん、おまえ、おかみさんをおたずねのようだが、あらいさつまのゆかたを着ておいでなすった、かわいらしいかたでしょ? おかわいそうに、さっき、かみなりさまにおどろいて倒れたとたんに、ならずものらしいのが三人きて、どっかへかついでいってしまいましたが、いったさきがわかりませんぜ」 「えっ! そりゃあたいへんだ。知っていながら、おまえ、なぜ追っかけてくれない?」 「追っかけていきたくても、わたしはいざりで立つことができゃあしない」 「不自由ないざりじゃあないか」 「そんな無理なことを��ったってしかたがない」 「なにしろたいへんだ」 と、小僧は急いで帰って、半七にこのことを告げましたから、半七もおどろいてさっそく八方に手分けをしてさがしましたが、その夜はとうとうゆくえが知れません。翌日は、伯父に相談して、お上《かみ》へも訴《うつた》え、ほうぼうさがしましたが、ついにゆくえ知れずでございます。やむをえず、お花がいなくなった日を命日として、野辺《のべ》の送りもすませてしまいました。 月日に関守《せきもり》もなく、翌年の一|周忌《しゆうき》になりましたので、橋場が菩提所《ぼだいしよ》ゆえ寺まいりをして、親戚の者にもわかれて半七は、今戸あたりでちょっとした用足《ようた》しをすませ、あまり暑いので、堀の船宿から船に乗って両国まで帰ろう���、船宿の門口へ立ち、 「はい、ごめんよ」 「いらっしゃいまし」 「元柳橋まで片道ねがいます」 「お気の毒さまで……この通りのお暑さで、屋根船がみんな出払っております。猪牙《ちよき》ではいかがでございましょう?」 「ああ、猪牙でもなんでもいい。どうせひとりだから……」 「さようでございますか。お気の毒さまで……」 「それからお手数だが、ちょっとひと口いただきますから、なにかみつくろってください」 「はい、かしこまりました。めしあがりものは? 水貝に洗いかなんかでは?」 「そこいらでよかろうな」 これから小船へ酒、さかなをいれまして、船頭がひとりつき、堀をでます。 「さようならば、おちかいうちに……」 と艫首《みよし》(船のへさき)のさきにちょいと船宿のおかみさんが手をかけますのは、なんのたそく(たし)にもなりませんが、まことに愛嬌のあるもので……いま船がでようというところへ、あだ名を正覚坊《しようがくぼう》の亀という船頭が、小弁慶《こべんけい》(弁慶縞のこまかいもの)のひとえに、紺白木の二《ふ》た重《え》まわりの三尺をしめ、したたかに酔っぱらって、 「おお仁三」 「なんでえ?」 「両国までたのまあ」 「ばかなことをいうな。屋根がなくって、この旦那でさえ猪牙にねがってるんだ」 「いいじゃあねえか。両国までいくんだ。すみのほうでもいいからたのまあ」 「いけねえてことよ」 「旦那にたのんでくれ」 「いけねえよ」 「もしもし船頭さん、両国までいくのなら、お酒のいけるかただ。わたし���ひとりでぽつねんとしてるより、お酒の相手がいたほうがいいから、乗せておやりな」 「あまり食らい酔っておりますから……」 「なあに、酔っててもかまやあしないよ」 「さようでございますか、まことにすみません。なに、ふだんは猫みたようないい男なんでございますが、酒がはいるとからっきしだらしがありません。おい、亀、旦那がせっかくああいってくださるから、辛抱しておとなしくしてなくっちゃあいけねえぜ」 「じゃあ、旦那、ごめんをこうむります」 船に乗ってきた亀が、 「どうも旦那、とんだご厄介になります。この通り食らい酔って歩けませんから、ご無理をねがいました。どうもありがとう存じます。しかし、きょうはばかにお暑うございますな……船ぐらい、いいものはございません。うぬが田に水を引くのではございませんが、夏は船にかぎります」 「さあ、やります!」 船頭が櫓《ろ》へつかまって漕ぎはじめ、船はすーっと堀をでます。半七はさかずきをとって亀にさし、 「さ、ひとつおあがりな」 「これはとんだごちそうさまで……」 「お酌しよう」 「いいえ、どうぞおかまいなく……さいですか、旦那さまにお酌をしていただいて……これはおそれいりますな……では、遠慮なくちょうだいします」 と、二つ三つやったりとったりしているうちに、 「ねえ旦那、あなたなどはなんでございましょうね、ごきりょうはよし、おみなりはよし、お若くはあるし、女がうっちゃってはおきますまいな?」 「ばかなことをおいいでない。わたしのような野暮《やぼ》な者になんで女が惚れましょう。女が惚れたりする稼業はおまえさんがただ。おまえさんがたは、いきな稼業だからね」 「そりゃあ旦那、いきなことをする船頭もございますが、この野郎や、わっちには、なかなかそんなことはできません。わっちのつらをごらんなせえ。魔よけ、女よけのつらってえやつで、色気がありませんから……しょうがねえから、酒でも食らってポンポンいってるんで……この野郎もやっぱり女にかわいがられねえつらで……」 「うまいことをいってるね。そうかくすとなお聞きたいね。なにかお酒のさかなにのろけをうかがおうじゃあないか」 「じょうだんいっちゃあいけません。女に惚れられたり、もてたりしたことはありません。この野郎とわっちと、年じゅう女郎買いにいきますが、いつでもふられっぱなし……じまんじゃねえがもてたことさらになしというやつ……ま、女に縁があったはなしといえば、去年のちょうど……いま時分だったかな? なんでも暑い時分で、めちゃめちゃに雨がふって、この野郎と、わっちの友だちとわっちと三人で、すってんてんにとられ、わっちなんかまっ裸で、雷門までまいりました。すると、雨はますます強くふりだし、かみなりは鳴るし……」 「やいやい、亀! なにをいやあがるんだ。つまらねえはなしをするなよ。くだらねえことをいうな」 「いいじゃあねえか。酒のさかなにはなしをするんだあな」 「そんなら、もっとほかのはなしをしたらいいじゃあねえか」 「ほかのって、おもしろいはなしはなかろうじゃあねえか。ねえ、旦那」 「船頭さん、酔ってるおかたのおっしゃることを、わたしはべつにとりあげはしないから……さあ、亀さんとやら、聞きたいね……まあまあいいじゃあないか」 「すると、旦那の前ですが、三人で雷門の軒下へ立っていると、年ごろ二十《はたち》か……二十一になる、いい女だ。かみなりが近所へ落っこったもんだから、おどろいて目をまわして倒れました」 「うんうん」 「なにしろ介抱してやろうとおもいましたが、さて、旦那、薬はなし、あたり近所は戸がしまっててしようがありません」 「うん、それからどうした?」 「やいやい、いいかげんにしろ! 旦那、そんなはなしを聞いちゃあいけません。こいつのあだ名を千三つ、てえくれえなんで……千はなしをするうちに、ほんとうのことは三つしきゃあいわねえから千三つというんで、ほんとにしちゃあいけません」 「だまってろい。仁三のいう通り、わっちゃあ千三つでございます。ほんとうのことは三つしかございません。その三つのうちを申しあげますんで……そばから口をだすので、はなしがめちゃめちゃになっちまわあ」 「船頭さん、だまっておいでよ。わたしはとりあげやあしないから……」 「で、わっちが介抱しようとおもうと……この野郎です。この野郎のいうには、このくれえないい女は、生涯抱いて寝ることはできねえから、強淫《ごういん》をしようということになって、じゃあそうしようと、三人で多田薬師《ただのやくし》の石置き場へひっかついでいって、人通りはなしさいわいだと、こいつをなぐさんで、さて、わっちの番になると、その女が息を吹っけえしたとおおもいなせえ」 「うん……」 「ちょうど月がでて、わっちの顔をみて、その女が、亀じゃあねえかと、こういうんで」 「うん、なるほど……」 「みんなが、てめえ知ってる女かといいますから、よくよくかんげえてみますと、その女は、小網町の桜屋てえ船宿の娘で、お花というんで、すこしばかりわっちのためには主人すじのうちの娘だから、おどろきましたな」 「うん、うん……」 「そいつが、亀じゃあねえかときたから、わっちゃあ逃げだそうとおもうと、この野郎が、『知っていられちゃあこうしちゃあおかれねえ。三人の素っ首がとぶ仕事だ。やっつけてしめえ』と、かわいそうだとはおもいましたが、助けてくれてえやつを、三人で手ぬぐいでその女の口を結《いわ》いて、むざんにもくびり殺し、吾妻橋から川ん中へほうりこんじまいました。いまかんがえますと、気の毒なことをいたしました。ばかをみたのはわっちひとりで、お察しなすっておくんなせえまし」 と、酒がいわせる一部始終のはなしを半七が聞いて、おもわず手にもっていたさかずきをぽんとおとし、 「はあ……とんだおもしろいはなしを聞きました。さあ、ひとつ献じましょう」 「へえ、ちょうだい……」 とだす手さきをひんにぎって、 (これより芝居がかりになる) 「これでようすが、カラリと知れた」 とキッと見得《みえ》になる。よろしくあつらえの合方《あいかた》(芝居のせりふのあいだにいれる三味線)になり、 「しかも去年六月十七日、女房お花が観音へ、まいる下向《げこう》の道すがら」 「おれもその日は多勢で、よりあつまっての手なぐさみ、すっかりとられたその末が、しょうことなしの空《から》素見《ひやかし》、すごすご帰る途中にて、にわかにふりだす篠《しの》突く雨」 「しばし駆けこむ雷門、はたちの上が二つ三つ、四つにからんで寝たならばと、こぼれかかった愛嬌に、気がさしたのが運の尽き」 「丁稚《でつち》の知らせに折りよくも、そこやここぞとたずねしが、いまだにゆくえの知れぬのは」 「知れぬも道理よ、多田薬師の石置き場、さんざんなぐさむその末に、助けてやろうとおもったが、のちの憂《うれ》いがおそろしく、ふびんとおもえど宮戸川」 「どんぶりやった水煙り」 「さてはその日の悪者は、汝等《わいら》であったか?」 「亭主というはうぬであったか?」 「はて、いいところで……」 「わるいところで……」 「会ったよなあ」
「もしもし、旦那さま、旦那さま! たいそううなされておいででございますが、どうなさいました?」 「ううう……おお、定吉じゃないか、どうした、帰ったか、お花は?」 「はい、いま浅草見付まできますと、かみなりが鳴って、大つぶの雨がふってきましたので、おかみさんを待たしておいて傘をとりにまいりました」 「それじゃあ、お花に別条はないか?」 「お濡れなさるといけませんから、急いで傘をとりにまいりましたんで……」 「ああ、それでわかった。夢は小僧(五臓)のつかい(つかれ)だわい」
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各地句会報
花鳥誌 令和4年1月号
坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和3年10月2日 零の会 坊城俊樹選 特選句
秋蝶のひと差し舞うて女坂 順子 筆塚に鏡花名残りの桔梗とも 要 秋草や妓楼のなごり今も濃く 悠紀子 筆塚に秋思の女佇ち替はり 順子 鉄の日時計錆びて天高し 要 蓮の実へ東天紅の影をひく はるか 女坂思ひありしか秋の蝶 三郎 蓮の実を飛ばせぬままに朽ちにけり 和子 実を抱きしままの蓮が水の底 和子
岡田順子選 特選句
実の飛んで慕情の蓮となりしかな 俊樹 蓮の実や弁財天の琵琶に飛び 眞理子 水澄んで鯉肉色の口開く 和子 野分後嘘つぽくなるりんごあめ きみよ 秋高き処に棲みて水のうへ いづみ 秋晴を細く傷つけ昼の月 小鳥 野の秋へからからと鳴る旅鞄 はるか 鶏頭を咲かせて人を葬りけり 和子 竜田姫広小路まで人力車 きみよ オレンヂのカンナの横が台東区 いづみ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年10月6日 立待花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
近松像離れぬ秋の蝶一つ ただし 啄木鳥や祈りの道の仏たち 同 切株の匂ふ日照りに秋の蝶 同 彼岸花終りし畦に道祖神 清女 夜の森静かにきのこ生まれけり 誠
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年10月7日 うづら三日の月 坊城俊樹選 特選句
祝詞声秋風に乗り天に消ゆ 喜代子 蔵の戸を引くや新酒の香り立つ 都 長き夜や身を乗り出して艶話 同 鬼ごつこ影長くして秋うらら 同 山の辺の刈田に映ゆる入日かな 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年10月7日 花鳥さヾれ会 坊城俊樹選 特選句
九頭竜の水面芒と光り合ふ かづを 九頭竜に秋晴と云ふ寂しさよ 同 月見草サーカス小屋のたちし頃 清女 小鳥来よ玻璃を磨きて待つ我に 同 落葉舞ふ左内の像や江戸を向く 千代子 江戸を向く左内の像や身にぞしむ 同 河口より秋潮つれて虹屋まで 笑 少年の秋蝶追うて一乗谷 同 柏翠忌思ひおもひの星月夜 匠 忌の心持ちて迎ふる十月を 和子 秋潮の白波高し柏翠忌 啓子 柏翠忌墓石と知るや秋の蝶 希
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年10月8日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
新しき杉玉軒に新走り 益恵 秋の暮澪引く船に集魚灯 宇太郎 一人居の軒賑はひて吊し柿 すみ子 曼荼羅華とは雨跡の草紅葉 悦子 一面のすみずみ揺れて蕎麦の花 都 猪に荒れし跡ある法の庭 すみ子 人知れず烏瓜にもあをき時 美智子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年10月9日 札幌花鳥会 坊城俊樹選 特選句
中子逝くとしあつの待つ天の川 独舟 秋刀魚船銀波を超えて今寄港 同 大空を全て我が物鰯雲 晶子 母の字をなぞるノートや夜半の秋 のりこ 魔女の住む庭の真つ赤な唐辛子 岬月 拾ひたる木の実に森の物語 同 弾け出て校庭の子ら秋高し 慧子 一位垣途切れるところ野紺菊 同 時刻表より消えし駅秋桜 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年10月11日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
干されたる地下足袋に来る赤とんぼ 上嶋昭子 小鳥来て神なび鳥語弾みをり 時江 遠堤の紅は静かに曼珠沙華 三四郎 滅亡の火の色をして狐花 上嶋昭子 時空越えお伽の国へ菊人形 中山昭子 野にあれば力むがごとし男郎花 時江 したたかに生き残りたる蚊にさされ 英美子 猪垣に全校生徒十五人 清女 鶏頭の全身燃ゆる赤の庭 三四郎 松手入身を伸ばしつつ縮めつつ みす枝 街角のペンキの匂ひ秋の風 三四郎
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年10月11日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
採血の血管逃しうそ寒し 貴薫 目覚めれば仄かに香る菊枕 せつこ 木の実落つ音におびえしお留守番 和魚 木の実独楽いつとき影を正しうす 有有 うそ寒や日の傾ける山の翳 ます江 菊枕闘ふ君の息遣ひ 美貴 橡の実も薪も干されて山の宿 あき子 碧色の潜む湖あり木の実落つ 貴薫 傘寿なる姉に縫ひあぐ菊枕 三無 児童館木の実工作靴多彩 聰
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年10月12日 萩花鳥句会
柿紅葉狭庭はんなり染めにけり 祐子 手を繋ぎ竹灯城下夜夜の月 美恵子 稲田へと鳥たち今は庭へ来ぬ 健雄 彼岸花年ふる毎にいとほしく 陽子 初紅葉抱きしみどりご目も見えて ゆかり 今年また総代のみの在祭 克弘
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令和3年10月12日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
秋潮や櫓を漕がずとも進む舟 登美子 秋の野にちらりと見えるかくれんぼ 裕子 黙祷は東の空の秋虹へ 登美子 ベトナムの友と見上ぐる渡り鳥 同 山装ふ街に住む子に電話する あけみ 車窓より刈田黄金に流れゆく 同 鳥覗き我も覗くや水澄めり 紀子 休みつつ鍬打つ母や千代見草 登美子 朝参褒美なるかな終の蓮 みえこ 次男坊白菊かかへ祖父の墓 令子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年10月16日 伊藤柏翠俳句記念館 坊城俊樹選 特選句
わが裳裾翻しをり萩の風 千代子 わが里と連なる大河鮭のぼる 同 柿すだれ過疎の一戸を守りけり 真喜栄 荒磯みち名残りの句碑や野菊晴れ 同 月明り金星月に相寄りて 玲子 長き夜や肩を丸めて爪を切る 富子 暗闇を一枚にして虫時雨 みす枝 すがりたき女ごころや男郎花 世詩明 隠し田の稲も刈られてゐたりけり 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年10月17日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
末枯を見すゑ子育地蔵尊 慶月 本堂に秋灯暗く濡れてをり 斉 矢印に従ひ行けば秋の声 菟生 昨夜の酔ひ残して雨の酔芙蓉 秋尚 大寺にごつごつ競ふ青花梨 幸風 武士の鬨の声かと鵙鋭声(とごえ) 眞理子 秋雨の空白色に降り続く 貴薫 姦しく森はみ出して���る小鳥 斉 瓢簞の細きくびれを打てる雨 圭魚 かくれんぼ鬼と芒の残さるる 千種
栗林圭魚選 特選句
秋雨の音聞くばかり年尾句碑 秋尚 濡れそぼつ幼の合羽のうそ寒く 斉 大寺にごつごつ競ふ青花梨 幸風 多重塔おほふ大樹や小鳥来る 芙佐子 白つつじ暗闇坂の返り花 文英 姦しく森はみ出してゐる小鳥 斉 かくれんぼ鬼と芒の残さるる 千種 年尾句碑静寂を好む小鳥来る 三無
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年10月19日 福井花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
ひよんの笛吹きつゝ左内偲びをり 千代子 洒落れた街しやれた雲浮く洒落れた秋 和子 夫の忌や空いつぱいの鰯雲 令子 鉄塔の先つちよ点り星月夜 清女 金色の仏の流転秋の風 雪 菊に立ちふと薫陶と云ふ言葉 同 朝倉の世も金風のかく吹かん 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年10月22日 鯖江花鳥俳句會 坊城俊樹選 特選句
戸袋にひそんでゐたる名残りの蚊 上嶋昭子 名画座に清張ものや秋深し 同 母��付き落穂拾ひの遥けき日 一涓 小鳥来る私雨の只中を 同 巫(かんなぎ)のまたあるときは稲刈女 同 秋深む軒に干すもの吊すもの みす枝 鳴らぬまま秋風鈴となりにけり 洋子 耳たぶの大いなる子の帰省かな 世詩明 かぐや姫もしやと思ふ月夜かな 信子 風音も乾いて来たる刈田かな 同 朝は銀夕べ金波の花芒 同 雨よりも雨音淋し冬に入る 中山昭子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年10月 九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句
双つ児の生声高し天高し 孝子 地図に読む夜長の旅の物語 ひとみ いぼむしり意図なく背の枯れはじむ 成子 いつしかに末枯の野に踏み入りぬ 光子 赤鬼も青鬼も棲む唐辛子 喜和 無花果の固き扉の半開き 千代 パンドラの箱の底より秋の声 ひとみ 虚空に日輪枯野には未来図 睦子 金風は檻のものらに吹いてゐる 佐和
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年10月 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
朝寒や鐘の音とよむ磧径 幸風 団栗を五百羅漢に配る子等 同 母の塔真赤に熟るる烏瓜 同 その中の尾花に乱れなかりけり 百合子 ほろほろと零るも雅式部の実 三無 持ち寄りの千草の彩や中子師に 亜栄子 朝寒にペダル踏み出す重さかな 白陶 盛り沢山秋草活けて師を偲ぶ 教子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年9月1日 立待花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
銀漢の尾に街の灯を繋ぎたし 世詩明 色白が七難隠す砂日傘 同 昼寝してしばし地獄を見に行きし 同 一乗谷無縁仏や茄子の馬 ただし 生き残りかけし秋蚊の刺しつぷり 清女 曼珠沙華蘂が派手や数少な 輝一 漕ぎ出だす柳橋より花火船 誠 遠き日の桑食む夏蚕みしみしと 同 線香の煙漂ふ終戦日 信義
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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大阪城
天下人の城大阪城。石山本願寺の跡に豊臣秀吉が築いた天下一の城郭。
現在の天守は秀吉、徳川時代に続く三代目で昭和6年に市民の寄付によって復元された徳川時代の城
地図の通りに青屋門から入場
極楽橋から山里丸に
平日でも大勢の人の山里丸
刻印石広場の高石垣
そして天守の威容。どの角度からも美しい🤩
金蔵
本丸広場からの天守。凄い人
桜門越しに見える大阪城天守
桜門の両側の内堀は空堀
銀杏が美しい多聞櫓
千貫櫓
大手門から外堀に
外堀越しの多聞櫓と千貫櫓。石垣の高さと堀の幅にとても攻めきれるとは思えない😭
外堀から見た大手門
水面に映る六番櫓。精緻な石垣が美しい🤩
やや陽が傾いてオレンジ色に染まり出した大手門を真横から
六番櫓も夕陽に染まりだす。
日本一高い石垣
最後は一番櫓
背後に天守がチラリと見える一番櫓
続きは以下から
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刀剣の漫画セリフうち(25話の5)※私自身「刀剣乱舞とは一体…」と思ったほど、政長さんの語りが長いので注意
応仁元年、五月。山名宗全の領国それぞれに、細川勝元殿が引き入れた勢力が攻撃をしかけた
そして京でも、山名方と細川方の戦いが起こり始めた。上御霊社での戦いはあくまで畠山の戦いと定義するなら、ここからが大乱の始まりだった
勝元殿が味方に引き入れたのは、私の他にも多くいたが、何より大きかったのは…
公方様も半ば無理やり味方に引き入れ、敵が「賊軍」となるようにしたこと
……勝元殿は、自分の面子を潰した奴に目に物を見せてやるまで、戦を終わらせる気がなかったのだ…
勝元殿の味方となった公方様はというと、弟である義視様を総大将に任じられた
……そこまでは、何もおかしくはないが…
義視様は次代の将軍としての力を示すべく、積極的に討伐に励み、また内部に潜む裏切り者を粛清していった
裏切り者が出る理由は簡単だ。もともと巻き込まれる形だった公方様が、あちらの勢力にも良い顔をしていたからだ
兄君がそんな態度の中、熱心に戦う「弟」の姿は…
「息子」の未来を案じる将軍の奥方、御台様には不気味に映ったらしい
義視様は次第に孤立していった
裏切り者の粛正は、むしろ義視様にとって報復される危険ばかりを生んだ
そんな中、義視様の身に危険が及ぶいくつもの事柄が起きた。といっても決定的な理由は私も知らないが…
とにかく、義視様は総大将としての立場を放棄し、京を離れていった
その後もあちこちの屋敷、寺が、戦によって燃えた
相国寺が戦の舞台となった時には……
何しろあれだけ広大な寺だったため…
三日燃え続けて灰になった
だがそう言えば相国寺の戦いが終わってからしばらくして、今度は争いが京の外で行われることが増えていったことを覚えている
みな市街の陣を固くし、櫓まで建て始めたから攻めにくくなったのだ
…だから、京までの食糧の道を確保する、また敵の食糧の道を阻む戦いになって……攻めにくくなった分だけ、また戦いは長引いて……
後は……勝元殿は、山名宗全に敵対する勢力を味方として引き入れていたが
かつて六代目将軍の暗殺事件があった時、首謀者として征伐された「赤松家」などもそうだ
かつての赤松の領国は、将軍を暗殺したことにより当然召し上げられており…
その地は、将軍を暗殺した当事者を討ち果たした山名家が拝領したというわけだ
暗殺事件から家を再興させた新たな赤松当主にしてみれば「山名に領国を取られた!」で、山名にしてみれば「ここは正式に拝領した土地だ!」という言い分なのだろう
この他、多くの勢力が自分の目的のために戦に加わった(※大内さんくらいは書いた方がいい気がしたのだけど止めちゃった…)
味方として結びついているというより、こっちに入ればあいつと戦えるという理由の…自分が戦いたい相手と戦うための集団でしかなかったから……
…戦が終わらない。どの勢力にとっても納得のいく終わり方など、見つからなかった…
応仁二年、義視様が兄の将軍に懇願され京へ戻ってきた
しかし、将軍家との溝は埋まらなかった
身の安全を確保するための行動も裏目に出て…むしろさらに大きな問題が起きた
それは戦に困り果てた公方様が、心を許せる腹心を京に呼び戻したことだ
……要は文正元年に義視様を殺そうとした男が、戻ってきたのだ
…いよいよあの方は、自分がいる場所は危険だと感じ…
……山名宗全が率いる勢力へと走った
向こうの勢力は、義視様を「将軍」として担ぎ上げた
こうして、片方が将軍の率いる軍で、もう片方は賊軍という形は崩れた
公方様もまた、弟が向こうの勢力に行ってしまったことで、いよいよ向こうに敵対心を持ち始めた
……積み上がっていく、次々と。戦が長引く理由ばかりが
…………
それからさらに年月が経ち、とっくに年号は変わっても
まだ乱は終わっていなかった
それでも月日は、始めた当事者達…勝元殿と山名宗全に、戦を終わらせたいという気持ちを持たせた
しかし始めた両者は終わらせたいと願ったが…
終わらなかった
将軍兄弟が、今更仲直りができないと言った
赤松家が、まだ領国を取り返していないと言った
そして…
私の宿敵である畠山義就が、今やめたら畠山の家督は俺の手を離れていく…と言った
この頃はこちらの勢力の優勢だったから、乱が終わったら私が家督を継ぐことになっていただろうからな…
勝元殿と宗全は、戦を始めた自分達さえいなくなれば、戦が終わると思ったのか…隠居をしてしまった。そして相次いで亡くなった
しかし戦いは終わらなかった
後を継いだ細川政元殿と、山名家の跡継ぎは両家の間だけで和睦をした
そんなことをしても、他の勢力が止まるわけはなかった
……それでもまたしばらくして、今度は将軍のご兄弟が和睦の道に進まれた
一時は義視様を疎んじていた御台様も、この時は和睦に尽力された
そう、こうして…最後まで戦いを願い続けたのは…
畠山義就だけとなった
思えば、本当の意味での始まりは畠山の家督争いだったのに…
その問題は、10年以上戦っても解決しなかったのだ
「義就が…京を出て行く…」
「ええ、これで長かった戦も終わりでしょう…」
…将軍の命によって、義就は京を立ち退いた。世間は、これでやっと大乱は終わったと思った。始まりが、畠山の家督争いだったから
……
畠山家の領国の一つ、河内
京から解き放たれた義就はそこに進み…
「あああ!これは和田美作守…!」
しばらくして、河内の中で私が家臣に守らせていた城を攻め落とし、家臣達の首を私に送りつけてきた
「出てこいと言いたいのか、義就…」
まだ終わってないと言いたいのか、義就
こうして、河内国は義就が完全に支配することとなった
……あの男は、本当に戦が強かった
私は、何度も河内を攻めたが失敗した
そうこうしているうちに、あいつの国は出来上がり、あいつはそのまま病死して
あいつの息子との間に、変わらず禍根は残ってしまった
……。ただ、私すらなんとなく分かることがある
己の野心のまま、強く突き進む者は人を惹きつけるのだと
義就��、私からすれば災厄のような存在だったが、人を惹きつけるものがあったからこそ、戦に強く、河内に自分の国を作れたのだろう…
………
またしばらく時が経った
私の目の前には、「公方様」がいた
まだお若く…なんだか気の強そうな眉毛の方だった
「おい、政長」
「お前は、私の父から見たら敵だったからな。まだ信用できん」
この方は、あの義視様の息子…義視様は応仁の乱が終わった後、息子をつれて美濃へ向かい京の勢力争いとはあまり関わらなくなった
……だから、九代目の将軍が若くして亡くなりでもしなければ、目の前のこの方が京へやって来て将軍になることなどなかっただろう
応仁の乱で問題となった、次の将軍を「息子」にするか「弟」にするかという思惑
この方は「弟の息子」……
「あなたの父君が山名方にいたのは、あくまで担ぎ上げられていただけです」
「その指摘も、大分失礼だとわからぬか。お前」
「父上が亡くなったばかりで、心細いと言うのに……父上…」
公方様が気の強そうな眉を、悲しげに下げた
「だからこそ、味方になりそうな大名は、多少信用できなくとも使っていくからな」
しかしすぐこう言ってくるあたり、やはりこの方は私より面の皮が厚そうだった
…なんとなく、この新しい公方様に好感を持った
公方様は、外敵を倒すことで将軍としての威信を示そうとした
もともと幕府と将軍は、京に住む多くの勢力に支えられ、各勢力は自分の領国を家臣に任せて統治、という形をしていたはずだったが…
乱が終わる頃には、将軍に各勢力を京にまとめておく力はなくなるとか、
領国内で問題が多発するようになったとかで、すっかりその形は崩れ、京に残る大名はわずかとなっていた…細川家ぐらいだろうか、京にいたのは…
それでもまだ、公方様が外征すれば、多くの勢力が各領国から集まってくるだけの権力は残っていた
公方様は、率直に言って嬉しそうだった
「私は将軍としてのやり方を教えてもらう機会もなかったのになあ」
「戦をすれば将軍になれるのかと、誤解してしまいそうだ」
「ええ、どうか誤解されませんように」
「そうだな、だが…
お前の宿敵、畠山義就の息子を倒すまでは戦を続けてやろうぞ。それが終わった時こそ、お前は真の意味で味方になるのだぞ」
…………
そして今、明応二年、閏四月
細川政元の手により、新しい将軍が京で擁立されてから一ヶ月
私の領国の一つ、紀伊からの援軍はついに赤松の勢力に敗れたと知らせが入った
(※ここからは、セリフだけ)
(キレてる公方様)なんたることだ!
…あ〜!もっと素直に気持ちを表現するならば…
……政元の髪を引っ張りながら、思い切りぶん殴ってやりたい!
過激なことを仰る
刀を抜いてないだけ、まだまだ大人しいだろう
………。公方様
この事態は、全て私が力及ばなかったことが原因です
応仁の乱の後、河内を取り戻せなかったこと…畠山を一つにまとめられなかったこと…
…ついに援軍も力及ばなかったこと
そのような、なんだ、ジメジメした言葉なぞ聞きたくない
私の采配が良くなかっただけだ
……降伏するしかないな…
……公方様、私は…
おい、政長。言っておくが…私はここでは終わらんぞ
降伏して…機を伺う
相手が私を飼い殺しにする気なら逃げてやる。毒を盛る気なら吐いてやる。首を取る気なら、刀を持つ手に噛み付いてやろう!
私こそが将軍だ…!
……公方様
このような事態も起き、今後将軍の権威などますます無くなると思いますが、それでも将軍の座に拘りますか?
そもそも将軍とは何なのか、理解しきれないうちにこんな事態になったのだ
……将軍は、他の人間をひたすら踏み台にする存在かと思います
踏み台?
どんなに権威がなくなっても、それでも自分に力を尽くす勢力に頼って生き延びるしかない存在かと思います
今回の戦いとて、兵糧が尽きかけている中でも、公方様だけは食料にありつけていたではありませんか
……政長の言葉は、悲壮感があって嫌な気分になる
つまり、お前が私の最初の踏み台だと言いたいのか?
……そうですね、ただ…
少し楽しい気がしましたね
………。お前、趣味わっる〜
……公方様は、たまに身分にそぐわない粗野な口調になりますね
ははは、だがまあ答えは得た。お前もここで私が死んだら、つまらないだろう?
生き延びて、もう少しばかり波瀾万丈な生涯を送ってやる。死後の世界でも、どこからでも、見ているといい
※また政長さんの語りに戻りまして
公方様は「お前のことを見届けてから降伏する」と言っていたが…
さすがに、自刃の瞬間には別の部屋で待ってもらうことにした
※短刀を手に取った
死ぬのならば、誇り高く腹を切りたいと思う
ここで私が死んでも、あの公方様は生き残りそうである…それが少し楽しい…
……公方様はあくまで死にたくないのだ
…あの、散々私を苦しめたくせに、最後には病死しやがった畠山義就も、死にたくはなかったはずだ
……私は、もう死にたいから、こうしている…
……死のう。もはや…これまでだろう…私なぞ…
……死にたく…
………
※短刀が刺さらない
なに…?
※さらに1,2回試しても、短刀が刺さらない
な、何故…⁉︎どうして……?
※介錯する人が怪訝そうにしている
違うぞ!臆したわけではない!ええい、誰か代わりをよこせ!
※自分が持っていた短刀を放り投げ、違う短刀で腹を切った
※投げ捨てられた畠山政長の短刀は突き刺さっていた
※同じ部屋に置かれていた薬研に、柄まで通って突き刺さっていた
※ようやく刀剣男士の方に話が戻ってきた。薬研藤四郎の話をする蜂須賀と岩融
…畠山政長の腹を切らず、近くにある薬研は突き通すほど鋭く、だから薬研藤四郎は「切れ味は鋭くとも、主人の腹を切らない忠義の刀」と人々に語られるようになったんだ
��るほどな
…と言っても、政長が短刀を手にする前から、「薬研」とついていたという説もあるから…
そうなのか……
………
しかし刀剣男士となった薬研藤四郎が、主の腹を切らないと語るのならば…
その忠義は真ではなかろうか
そうだね
いやはや、短刀に心があるという想像は胸が苦しくなるなあ
自刃の際に、主を切った刀も、切らなかった刀も…
きっとそれぞれに、短刀の忠義、短刀の誉れがある
……想像してしまうなあ…
(蜂須賀が岩融にさらに声をかけた)…そうだ、君。弁慶の縁の地が見たいとか言ってたね。見にいくかい?
……。しかし、検非違使が出てしまった以上、もうこの時代に長居はできぬであろう。時間遡行軍は殲滅したようだし…
うん。でも手短に
みんなは、先に帰り支度をしてくれるかな?
えっ?二人で見てくるの?
人数が少ない方が、さっさと行って帰ってこれるだろう
※蜂須賀と進んでいて
君の本丸の仲間には聞かせない方がいいかと思ってね
…俺は、自分が本物の虎徹であることに拘るあまり、本物とか偽物とか、そういうことが気になってしまう方なんだ…
偽物と言っても、色々あるのだと思う
騙そうと思っている偽物、これはもう酷い奴だよね
自分では自分のことを偽物と自覚しているけど、大切な人のために本物以上を目指す人。ごめん、かなり具体的だね。いるんだよそういう奴が…困ってしまう…
そうだな
そして、最近…もしこういう奴がいたら怖いなと思うのはね…
自分でも自分のことを偽物と気づいていない奴だよ。もし、そういう刀が刀剣男士となって、俺のことを兄さんと呼んだなら、俺は、どうすればいいだろうって…
俺に悩みを相談しているように見せかけて…
俺に言いづらい真実を告げてくれておるのだな
…違うよ、推測の域はでてないから
ただ、義経と弁慶の伝説って…義経記からして創作が多く入っているとは聞いたことがある…
あと、ずっと同じ本丸で過ごして仲良くなりすぎてる人だと、かえって違和感を覚えなくなるかもね…
……今回、一緒に出陣して俺達、二つの本丸はより深い縁が出来たと思うよ。君にも燭台切くんにもとても助けられた
だから俺にも力になれることがあったら言って欲しい
ならば、もう少しばかり弁慶の縁の地をめぐるのに付き合ってくれんかな?
(※先に帰り支度をするみんな)
やっぱり弁慶さんが好きなんですね〜、岩融さん
弁慶さんゆかりの場所以外も、なんか見たいって言ってなかったか
ええ、ええ!確か三条小鍛冶の薙刀鉾が見たいと仰ってましたぞ!祇園祭りの!
三条小鍛冶か…
鳴狐も…三条小鍛冶の……小狐丸は見てみたい…
ああ、申し訳ありません!鳴狐は狐と名のつくものは何でも興味を持ってしまうのです!
でもさ、実在するのかな?三条小鍛冶と神の使いが打った〜なんて、いかにもお話っぽい「小狐丸」が
(燭台切がふと思う)それにしても、��多に中止になんかならない祇園祭りが…
この時代は応仁の乱のせいで中止になっているし…
…次は「本能寺の変」が起きる年に中止になるらしいね、確か…
話に出てきた薬研藤四郎くんは、織田信長の刀でもあったはずだから……
…なんというか、大変だっただろうね
※蜂須賀と岩融が戻ってきた
…すまんな
あっ大丈夫ですよ〜!さあ帰りましょう
えっと、こっちで一ヶ月過ごした場合、帰った先では何時間くらい進むのだったかな?
※そんなことを話している中で
(…見に行った場所、弁慶がいたとされる場所で…)
(…やはり、どうしても…俺もそこにいたという実感が掴めなかった…)
(諸説ある話でも、刀剣男士は生まれるようだが…)
(義経記は物語で…能も物語で…歌舞伎も物語で…)
(……刀剣男士は、どこの誰の刀であったか、皆違う。現存する刀も、歴史の中で形を失ったものもいる…)
(三条小鍛冶が作ったとされる薙刀は、祭りにの山車にも実際に立っていた。では俺はどうか。本当に三条小鍛冶に作られたか?弁慶の手の中に立っていたか?)
(……俺は、どこの、何から顕現したのだ……?)
続く
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2020/11/17 (火) - 勉強会~聖武天皇陵 - 多聞山城跡 - 北山十八間戸 - 転害門~
今日はガイド勉強会。奈良市の北部を歩く。 よく晴れて暖かい。と言っても、日があたらないと寒い。服装に悩むも、薄着にした。日中は暑いくらいになり、薄着で正解だった。
9時半、集合場所から少し歩いて、聖武天皇陵と光明皇后陵へ。ずいぶん前に来たことはあるし、ちょくちょく前を通ることもあるが、内部の印象が意外に薄れている。濠があったように思っていたが、他の古墳と混同していたようだ。
住宅街を抜け、若草公民館に立ち寄る。多聞山城に関する展示を見たり、資料を入手したり。 そして、多聞山城跡へ。かつて松永久秀が築いた城。安土城より先に天守閣を備えた…とまで言ってはいけないようだが、天守閣に相当するような大規模な櫓を備えた最初期の城だった。 ただ、その痕跡はほとんど残っておらず、現在は中学校になっている。
自分は過去に、この中学校の前までは来たことがある。が、オッサンが一人で中に入っていくと通報事案になりかねないと思い、引き返した。今回は許可を取ってくださったとのことで、安心して中に入る。
多聞山とは言うが、高さはせいぜい丘程度。しかし上り坂の途中で、振り返ってみると、興福寺の五重塔や大仏殿がよく見える。なるほど、ここに城を建てるのもわかる。防衛拠点として高さは有利だったろうし、戦国時代に僧兵を多く抱えていた東大寺や興福寺を監視するにも都合がよさそうだ。 中学校内では、城の跡を感じさせるところをいくつか見る。切り立った崖のようになったところ、その上の平らな曲輪(くるわ)と思しきところなど。
多聞山の隣には善弥寺山という、同じくらいの高さの丘がある。本来は二つの山が連なっていたそうだが、敵兵が峰を伝って攻め込んで来ないよう、山と山の間が掘られて谷のようになっている (堀切という)。現在、谷底部分は車道になり、山の間には橋が掛かっている。もう攻めてくる兵はいない。
その橋を渡った、善弥寺山の頂上が中学校のグラウンドになっている。広々として、こちらも景色がよい。紅葉がまだ盛りでなかったのが惜しかった。 土地の使い方や歴史を考えると、相当贅沢な中学校。だが、自分が生徒だったら、毎日坂を登らされて不平たらたらだろうなとも想像する。
多聞山城跡を去り、住宅の間を縫うような細い道を抜けて (面白いルートだった)、北山十八間戸へ。 北山十八間戸とは、鎌倉時代にハンセン氏病療養のため建てられた施設。江戸時代に一度は焼け、その後も修理の手が入っているので、あまり鎌倉時代の面影はない。外観だけだとむしろ、戦前くらいの建物が、時代に取り残されて何となく残ったような印象を受ける。
こちらも外から建物を見たことはあったが、敷地内に入るのは初めてだった。外から眺めるのとは印象が異なる。さらに、建物の中に入ってみると、中の暗さも相まってか、歴史の重みのようなものが肩にのしかかる。
北山十八間戸を離れて、東大寺の転害門へ。東大寺には3つだけしかない、8世紀から存続する建物の一つ。…と非常に貴重な建造物なのだが、訪れる人はほとんどいない。 ここではボランティアガイドさんの説明を聞き、いい時間になったので、終了。
今回の勉強会は、自分の知っているところが多くどうかなと思っていたが、ところがどっこい、一人では行きたくても行きづらいところを多く訪ねることができ、収穫が多かった。善き哉。
ランチは隠れ家的なカフェにて。野菜たっぷりで、ボリューム感もあり、食後のコーヒーもおいしくて満足。
--
新型コロナ。11/17 午前 (日本時間) の時点で、アメリカ740人前後、ブラジル260��弱、メキシコ280人強、ロシア300人強、インド450人前後、フランス500人強の死者数増加。 世界全体での今日1日の感染者数は、507,000人強の増加。
日本では、今日一日で感染者1692人増加、死者14人増加。東京298人、大阪269人、神奈川133人、愛知138人、福岡11人、沖縄24人。北海道197人。 (出典: Worldometer、NHK)
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【お城】津城 -Tsu castle-
ブログを更新しました。 【お城】 #津城 -Tsu castle- ~藤堂流築城術の集大成~
続日本100名城 No.152:津城
津城復興三重櫓
津城天守台
津城北多聞櫓石垣と水堀
津城本丸跡に立つ藤堂高虎の騎馬像 ※あけびさんによる写真ACからの写真 基本データ
築城年代:1570年~92年(元亀~天正年間)
別名:安濃津城
構造:平城
築城者:織田信包
主な城主:藤堂氏
所在地:〒514-0033 三重県津市丸之内33−5
管理団体公式サイト:津市(県指定史跡 津城跡)
概要
津城は三重県津市丸之内にあり、津市街の中心部に位置する。北は安濃川、南は岩田川に挟まれ、これらを天然の大外堀としていた。江戸時代初期に築城の名手・藤堂高虎により近代城郭として大改修され津藩の藩庁となった。江戸期の津城は中央に内堀で囲まれた本丸と、それに付属して東丸・西丸があり、本丸・東・西丸を取り囲んで二の丸が配された輪…
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【旅の記:広島・神戸・大阪ツアー2020冬②姫路城・姫路護国神社】
言わずと知れた世界遺産!日本が誇る名城姫路城、またの名を白鷺城であります!駅から出るとドーンとね目抜き通りの先にいらっしゃる、かなりの存在感だ。。感動だね。 広島でやらかした僕は(飲みすぎ)まずは姫路城を横目にホテルへ、そしてまずはしっかり寝たのでした。。この日本当はライブを入れたかったんだけど、会場が見つからなくて、でも入ってたらきつかったかも?!でも夜は紹介いただいたライブバーへ顔を出して、次回来た時はライブさせていただけることになりました。
というわけで、翌日朝起きてお城見学へ。近づけば近づくほどその大きさに圧倒されるのでした。修復が終わったばかりだからか、本当に真っ白。白鷺の由来になったその白さに目が奪われます。
お城の始まりは南北朝の時代赤松氏が姫山に築城し、家臣の小寺氏が城代に。でもね、赤松さん、くじ引き将軍足利義教の暴君っぷりに恐怖を覚え暗殺してしまって、そりゃダメだよと断絶に追い込まれ、代わりにその赤松氏を討った山名氏の城となります。でも、赤松氏遺臣たちが後南朝に奪われたままだった三種の神器のひとつ勾玉を取り返し、見事再興を果たし、その後勢力の衰えていた山名氏から城を取り戻したとさ。 赤松氏は本拠地を但馬国に移し小寺氏が再び城代に、さらに小寺氏が居城を移し、出ました、ここで家臣の黒田氏に城を預けた。この時に城郭を拡張したとされる。 織田信長の命を受けて播磨に侵攻してきた羽柴秀吉に仕えることになった黒田官兵は「姫路城を居城に」と城を秀吉に献上、大改修された。この時流行の石垣のある城郭とし姫路城と改名。城の北側を走っていた山陽道を南側に曲げて城下町も作った。 1582年(天正10年)本能寺の変から山崎の戦で光秀を討った秀吉は大阪城へ、姫路には弟の秀長がはいり、すぐに木下家定に替わった。
関が原後は池田輝政が入城、山陽道を通る西国の大名をけん制する意味でも8年かけて広大な城郭を築いた。江戸時代には池田氏をはじめ本多氏、榊原氏、酒井氏など藩主幼少などを理由に城主が入れ替わる。悲しいかな、とにかく姫路城のメンテナンスは非常な重荷で、財政を圧迫したという。。涙。
幕末の藩主酒井忠惇は最後の将軍慶喜のもと老中を務めていたために姫路班は朝敵とされたが摂津国兵庫津の勤王豪商・北風荘右衛門貞忠が15万両に及ぶ私財を新政府軍に献上して、城への攻撃を食い止めたという。その新政府に恭順、開城した。
明治時代には廃城令によって競売に付されて落札されるということがあったが陸軍省が買い上げ、お城あるあるで姫路城も陸軍の歩兵連隊や師団が置かれいくつもの建物が取り壊された。明治10年頃から日本城郭を保存する動きがはじまり、屋根も傾くような惨状だった姫路城の修復も行われた。大正時代には本丸・二の丸・三の丸の一部が姫路山公園になり、昭和6年に重要文化財(旧国宝)に指定された。 第二次世界大戦中、本土爆撃がはじまると白壁は目立つと黒く染めた網で城の主要部分を覆い隠すことにしたという(実際上空高く飛ぶ飛行機からは白い点にしか見えず、攻撃目標とはなりにくかったという証言も)。1945年7月3日の姫路空襲では城下は灰燼に帰すも城に着弾した2発は不発あるいはすぐに消化され、大天守に直撃した焼夷弾も奇跡的に不発だったという。空襲後にお城が残っているのを見た姫路市民は焦土の中涙したそうです。
戦後は「昭和の修理」が行われ1993年(平成5年)には法隆寺地域の仏教建造物とともに日本初の世界遺産(文化遺産)に登録された。2009年(平成21年)から2015年(平成27年)まで「平成の大修理」が行われた。 姫路城は前述のように山陰道を通る西国大名を威圧するために大城郭となり、その建築様式である連立天守や「の」の字になっている堀など、江戸城を模したものともされる。実際、これはブラタモリでも言ってましたが、江戸城として時代劇にでてくることはしばしば。しかし1657年明暦の大火(袖振り火事)で焼失し保科正之の献策で再建はされておらず「暴れん坊将軍」はじめ、ドラマによっては時代背景が合わないという。。でも、城っていったら天守閣ないとしっくりこないしね。そうそう自分もそうだったけど、お殿様は天守閣の一番上にいると思ってるひと多いよね!あそこは狭いし上り下り大変!(笑)
もし、もしだよ、江戸城の天守閣が再建されたさ、あんなに立派な建物が東京の真ん中にあったらすごいなぁ、城を持つ地域の人がそうなように、東京人の誇りになる、だろうけど難しいだろうな。。うらやましい、城持ち県!
いざ城内へ!
大手門は昭和13年建築。
三の丸を過ぎて入場すると菱の門。
西の丸
をぐるっと囲む百間廊下。
徳川二代将軍秀忠とお江の間に生まれた千姫は大坂城の秀頼に嫁ぐが、大坂の陣で落城の祭に助け出され、本多忠刻と再婚、10年ほど姫路城に住んだそうです。天満天神を篤く信仰した千姫は男山に祀ってこの廊下から参拝したという。
廊下の先には千姫が休息所としたという化粧櫓。
百間廊下外観。
ロの門を過ぎたところの坂は「暴れん坊将軍」シリーズにたびたび出てくるということで将軍坂と呼ばれているそうです!
天守閣は望めど、そう簡単にはたどり着かない。。
二の門。ここで一度天守閣を背にする。
だいぶ近づいてきました。。
いよいよ天守閣へ。よく城好きの人はその城を攻める気持ちで楽しむっていうけど、これは大変だ。
外観からは5重に見えるお城は地下一階地上6階の7階構造になっています。
東大柱。建物の重さで歪んでしまうため多くの支柱を入れて補修し続けたそうです。
天守から駅へと続く目抜き通りを望む。など、とにかく見所いっぱいの天守閣。行ったことない方はぜひに。
でかいねぇ、間近で見ても。
さ、戻ろう、と下りていくと
お菊さんの幽霊がお皿を数えることで有名な「番町皿屋敷」の原型?!ともいえる「播州皿屋敷」。小寺氏が城主だった時代、謀反を企てる家臣のもとにスパイに入ったお菊(同名!)が疑われ、大切にしていた10枚セットのお皿一枚がなくなったことをとがめられ折檻された後切られて井戸に捨てられたと、、いつの日からその井戸からお菊がお皿を数える声が聞こえるようになる。。キャー!の井戸がこちらです。
いろいろな角度からお城を見れますが、ほんとフォトジェニック、なんだろうけど携帯カメラでは限界があるね。。ぜひ生で!
城内には姫路藩後期を統治した酒井氏の先祖で家康に仕えた酒井正親と歴代藩主を祀る姫路神社。
と兵庫県西部の戦没者を祀る姫路護国神社があります。
姫路城関連で撮った写真をすべて載せたらとんでもない数になってしまうから、おおざっぱにね、記したけど。また行くことがあったら、例えば天守閣だけとか、ポイントを絞って楽しめたらなと思います。ビバ世界遺産!
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仇夢に生きる10話 交わる干戈
下狭平原(しもさひらはら)。
葦宮(あしみや)の都たる桜鈴(おうりん)と北部を繋ぐ交通の要であり、常ならば商人や旅行者、出稼ぎに来る者たちの活気に溢れている。人に踏み固められた道の向こうには手付かずの森が広がっている。
その中に、今は化け物どもが蠢いている。
緩やかに、常葉(ときわ)は目を細めた。
歩みを進める。常よりは早く、しかし、着実に。禍者(まがもの)は目の前だ。気を逸らせるようなことは愚の骨頂だ。その少し後ろを帯鉄(おびがね)が続く。抜き放った刃が白く輝いている。彼女もまた、その顔に焦りの一つもない。更に背後には常葉の率いる青龍隊と帯鉄の率いる朱雀隊が控える。
誰もが、高揚を抱えながらも静かに禍者との距離を詰めて行った。
深い森は日光さえも碌に通しはしない。薄暗い木々の間からは、赤い目が不気味に輝いていた。
ぞろぞろと、黒い軍団が森から溢れ出る。獣に鳥、刀や弓を持った影の如き黒い化け物。数ばかり揃えている。内心で、常葉は侮蔑の言葉を吐いた。帯鉄がゆらりと刀を持ち直したのが視界の隅に映る。
そろそろか。
不意に、弓持ちの禍者が動いた。ぎこちなく弓を引き絞り、放つ。
瞬間、常葉は跳んだ。
地面を蹴り、禍者へと跳びかかる。放たれた無数の矢。知ったことか。口の端が歪むのを感じながら、抜き放った刃を一閃。己が身を貫かんとしていた矢はあっさりと屑になった。他の矢は、まあ誰かが処理するだろう。振り抜いた刃を返して左上へ切り上げれば、眼前に突っ立っていた人型の禍者の胸がざくりと斬り開かれた。頭の上から禍者の血が降りかかる。化け物の癖に生暖かい。
常葉の一閃は戦いの契機となった。
次々と声が上がり、刃が、牙が、爪がぶつかり合う音が平原を満たす。隊列などあってないようなものだ。少なくとも、青龍隊にとっては。誰もが一騎当千。そうであれと常葉は部隊を育ててきた。
己が身を刃とせよ。
己のみを人を守る刃と信じよ。
そうでなくては青龍隊足りえぬ。
己の行動で、鍛錬でもってそう常葉は示してきた。
故に、このような場で案ずることはしない。
眼前を埋め尽くす禍者共。
その全てを、常葉は一太刀で捻じ伏せる。適切な間合い。適切な型。知れば、御するのは容易い。常葉は二十年近く学んできた。身に着けてきた。一歩進むごとに刀を振るう。刃を閃かせる。そうすれば眼前より化け物はいなくなる。白布津(しらふつ)。堅牢にて、鋭利。長く愛用してきた刀は常葉の技を冴えさせる。呼吸は乱れていない。常と変わらない。無論だった。
戦場の中を常葉は歩く。
・・・・・
祓衆(はらいしゅう)、特に前線に出る青龍隊にとって得物は何よりも重要視される。
如何に鋭いか。
如何に堅牢か。
如何に取り回しやすいか。
己の命を預ける物だ、堅実な武器を手に取る者が殆どであった。
その風潮の中において、片河(ひらかわ)の武器は異質極まりない。 大刀魁龍(かいりゅう)。
己の身の丈程の長さと、一般のそれと比べれば三倍はあろうかという刃幅。常人が振るうには余りにも巨大なそれは、祓衆で戦っていくには不利な代物。市街地で戦うことも多い祓衆では、枷になる。手放さねば命を落とす羽目になる。面と向かって言われたこともある。
それらの言葉を、片河は笑って聞き流した。
ずしりと重い愛刀。全身を使って振り回せば、周囲の禍者共はぐちゃりと圧し斬られ、地面に頽れてゆく。踏み固められた大地を踏み締め、上段から振り下ろす。土塊が飛び散り、ついでに人型をした禍者の身体が真半分にぱっくり割れた。どす黒い血が噴き出て、片河の髪を濡らした。
破砕。
そんな言葉の似合う魁龍を片河は愛した。己の半身のように、親しい友人のように感じていた。狭い場所で不利だからと手放すことは考えられなかった。そも、そうであれば縦に振れば良い。それも駄目なら抱えるようにして突けば良い。武器に生かされるのではなく、武器を生かすように振るえば問題なぞない。片河は信じ、破壊をもたらす魁龍を縦横無尽に振るう。周囲に味方はいない。知っているからだ。近くにいては、共に斬られたとて文句は言えぬ、と。
しかしそうは言え、魁龍をもってしてもどうしようもない手合いもいる。
ぞわりと。
首筋にちりりとしたものを感じて片河は振り返る。
そのまま尋常ならざる予感に駆られて首を傾けた。
ちり、と。
左目の際を痛みが走っていく。
目の端に赤いものが散るのを見ながら、首を巡らせる。
黒々とした猛禽。赤い目をぎらつかせた飛行型の禍者が頭上を旋回していた。思わず舌打ち。長さある魁龍をもっても届かぬ間合い。どうする。
近くに来たのを叩き落せば良い。
逡巡など一瞬。
迷えば死だ。
不気味な羽ばたきの音を響かせ飛ぶ猛禽を視界から外さぬように、寄ってくる禍者共を叩き潰す。隙あらば目を抉ってくる魂胆なのだろう。
そんな手は、もう通じない。
ずっと前に、右目を禍者に抉られている。もう二度と、そんな真似が通じるものか。一つしかない左目を見開いて、片河は剣舞を続ける。
不意に、禍者の羽ばたきの音が変わった。
来る。
魁龍を背に負い、上段から振り下ろす。
寸前。
眼前を、白銀の光が禍者を攫って行った。
「お?」
ぎょっとして思わず魁龍の切っ先が地面を撫でた。深い溝が刻まれる。そんなことはどうでも良い。今のは。白銀の軌跡を追おうとすれば、その軌跡を追うように、今度は人影が跳んできた。
「永夜(ながや)! 平気か!」
「馬鹿お前、逆にあぶねぇだろうが!」
木に禍者を縫い付けた刃を抜きながら跳んできた人影――圓井(つぶらい)は叫ぶように言う。この乱戦の中、どこかから見つけて駆けつけてきたらしい。無茶苦茶なことをする。片河は脱力しながら言葉を返す。
「まあ良い、どんだけやったよ」
「数えねえよんなもん」
「そりゃそうか」
木から引き抜きざまに圓井は右手の刃を振るう。背後に迫っていた獣の禍者の鼻面が削げた。その勢いのまま今度は左手の刃を頭上から振り下ろす。獣の脳天が割れた。両手の刃で一対の双刀を扱う圓井は兎角手数が多い。暴れれば手が付けられない。人のことを言えた立場ではないが。片河は目をぎらつかせて笑む。魁龍を担ぎ直すついでにまた周囲の禍者を巻き込みどす黒い血が飛び散る。
「覚えてりゃ勝負してやろうって思ったんだがな」
「相っ変わらず思い付きで言うよな永夜は。常葉さんに怒られても知らねえかんな」
「あいつは殺してりゃあなんも言わねぇよ」
思わず鼻を鳴らす。青龍隊は強ければ正義なのだ。余程度を越すような真似をしなければ、常葉という男は超然とした微笑を崩しはしない。
苦い顔をする片河を見て、圓井は釣られて苦い笑みを浮かべる。
と。
突然に、圓井は跳んだ。片河も同時に飛び退る。
黒い影が、先程まで二人のいた空間を貫いた。
赤い鉢巻を靡かせて圓井が地面を蹴る。
水平に跳躍。
両の手に握り締めた刀を大きく広げ、影を、禍者を喰らわんと目を見開く。
対する禍者は木々にぶつかり止まっていた。頭を振るうその姿は巨大な猪のようである。真っ赤な瞳が圓井を捉え、鳴きながら真正面から突進する。
距離は僅か。
圓井の口元に狂喜の笑みが浮かぶ。両の手の刃が閃き、猪の頭を削ぐ――。
ことは、叶わなかった。
鈍い音。
猪の口から生えた、異様なまでに巨大な牙が、圓井の刃を押し止めていた。
勢いは殺せない。
猪の突進の勢いそのままに、圓井の身体が宙を舞う。
「市吾(いちご)!」
・・・・・
聞いていない。
聞いていない。
息を荒げながら男は走る。
桜鈴内、整備された道を駆け抜ける。
祓衆、朱雀隊。任を帯びた時から、いつかは向き合わねばならないと考えていた。
禍者。
不定形の、影の如き存在。
だがしかし、まさか、こんなものを相手にすることになるとは。
駆ける。
路地を曲がる。
人のいない桜鈴をひたすらに走る。
目的の為。
その為に、この禍者は丁度良い。
「おい、おい!」
その背に、声。
「おいあんた、朱雀隊のあんた!」
凄まじい身軽さで、白虎隊の一人が追いすがっていた。背後の禍者をものともせず、こちらに激しい視線を向けてくる。分からないでもない。
「何してんだ! 俺らが増援を呼んで来るから、」
「これが我々の目的だ」
「目的ぃ?」
理解出来ない、と言わんばかりのしかめ面。理解してもらおうなんて、端から思っていないのだから、男にとってはどうでも良かった。
走れ。
禍者を導け。
生かしたまま、導いてさしあげねば。
「食い止めな! でなきゃ、この先は――」
銃声。
漸う、仲間が追いついたらしい。朱雀隊では珍しくもない銃を構え、白虎隊を睨み付けていた。
「退け」
「なんだ、あんたも」
「どの道お前じゃあこれは倒せない。こんな、規格外」
「我々も、余裕がある訳じゃあない」
「だから、退け。次は当てる」
「なんだ、あんたら……」
理解出来ない、と頭を振った白虎隊は何処かへと駆けて行ってしまった。禍者は、幸いか、こちらを追い掛けることにしたらしく白虎隊には目もくれない。
であれば、後は導くのみ。
規格外のこの禍者を、祓衆の屯所へと。
・・・・・
集中。
絶やしてはならないもの。
必中。
欠かしてはならないもの。
激戦区と桜鈴を分かつ狭間川(さまがわ)。その傍に急遽造られた櫓の上で、早川(はやかわ)は土生(はぶ)より授けられた狙撃銃を構えていた。
呼吸は常よりも静かに、長く。
青い目を眇め、単眼鏡を覗き込み、引き金を引く。
銃声。
遠く、前線で隊員たちを脅かしていた鳥の禍者が爆ぜた。
集中は途切れさせない。
単眼鏡を覗き、敵を探し、そして撃つ。
鉛玉がその長大な銃口から放たれる度、支えとしている肩に食い込み、痛みを覚える。しかし早川はそれをも集中の縁として禍者共を屠ってゆく。それこそが彼女に課せられた任であるからこそ。
長く、朱雀隊の隊長補を勤めてきた。
前任の土生の頃からだ。
その土生は己が補佐として座にいながら戦場を去らざるを得なくなってしまった。
誰もが早川を責めなかった。しかし、否、だからこそ彼女は己を責めた。
自分に、もう少し力があれば。
そして、土生から力を受け取った。
長大な狙撃銃は扱いが難しい。少しの意識の乱れが銃口を大きく狂わせる。呼吸一つ、瞬き一つも思考の下に置かなくては、思い通りに鉛玉は飛ばない。凪の如き思考で叩き込んだ動作でひたすらに弾を込め、撃つ。遠く、川を隔てた戦場の空から邪なる猛禽どもを叩き落す。撃つ。落とす。撃つ。落とす。少しの乱れもなく、繰り返す。
それが、早川に課せられた任である。
命の危険はない。
彼女の身体は戦場からは遠ざけられている。ここまで禍者どもが侵略してくることは決してない。
故に、彼女は精神を削りながら引き金を引く。
・・・・・
倉科(くらしな)の脳内は凪いでいた。傍らで義憤に駆られる江草(えぐさ)とは裏腹に。
祓衆屯所に息せき切って駆け込んで来た白虎隊がもたらした、信じ難い報せ。
――朱雀隊隊員が、屯所へと大型の禍者を導いている。
そう来たか、と冷静に思っただけである。改史会(かいしかい)の息が掛かった者であるというのは即座に知れた。
何せ、道理である。禍者退治を妨害する連中。奴らがその目的を遂げるのであれば、組織そのものに手を加えようとするのは時間の問題だった。想定より、少しばかり向こうが周到なだけである。驚きはなかった。
「来てしまったものは仕方がない。奥に入り込まれる前に狩ってしまわないとねぇ」
建物内での戦闘は経験の浅い者が多い。最善を倉科は選び取る。禍者の出現を報せる鐘は既に打ち鳴らされている。常より出動時の集合場所とされている屯所正面玄関だ。すぐにでも戦力は整う。
「戦える者は出入り口を固めよう。そうでない者は一旦室内で待機。何、僕たちで十分やれるだろう。前線に向かった彼らに比べれば楽な任務だよ」
戦闘に長けた者は多くない、が皆無ではない。禍者と祓衆。彼我の戦力差は如何程か。
「新入りが連れて来れる手合いだろう? 何を臆することがあるかな」
「大口を叩くのう」
「君もいるからね。幸いにして、青龍隊の何人かも此処に控えている。朱雀隊もね。奇襲に対応出来るだけの人員はいる」
笑みを浮かべる。慣れたことだった。常と変わらぬ所作を心掛けて、倉科は松尾(まつお)に視線を向ける。
「幸慧(ゆきえ)君は一先ず、そうだね、土生隊長補を安全な場所へ。青龍隊も少し連れて行って。あまり固まり過ぎて足元を掬われたら、ねえ」
「分かりました!」
「無理は禁物だよ」
倉科の唇から言葉が滑り落ちた。倉科の胸中に漣。松尾は一度瞬きして、些かに強張った顔で笑んだ。彼女の働きを疑う必要はない。彼女の潔白は真っ先に裏付けた。北の小さな農村生まれ。清貧で善良な家の出。そこに宗教的な、もしくは政治的な影は一切ない。少なくとも、倉科の調べた限りでは、であるが。
そんなことを考える余地はないか。踵を返し走り出す松尾を尻目に刀を抜く。
「さあ、入り口を固めよう。白虎隊は屯所内に待機する各隊へ報告を――ああ、前線には伝える必要はないからね」
「はい!」
「応!」
各々の応えが響き、慌ただしく誰もが動き出す。猶予はない。が、準備という準備もない。倉科が話している間にも続々と戦闘員たちは集まっている。戦い方は各々に適度に任せておけば良い。それぞれの隊はそれぞれの隊長に仕込まれたものがある。刃の鞘走る音、銃に弾込める音がそこかしこで鳴る。
――二択だ。
倉科は考える。
陽動か、否か。
身中の虫は、どれだけか。
右手が己の愛刀、螺鈿細工(らでんざいく)の艶やかな柄を撫でる。
扉の向こうへ迫り来ているであろう気配を手繰り寄せる。ざらりとした気配。経験則で、気配の持ち主を描く。
誰もが正面玄関から目を離さない。何時か。今か。唾を呑み、獲物を構え、誰もが。
――違う。
倉科だけが、違った。
「為路見(いろみ)君、こっちは託した」
「……おう」
低い応えを背に、倉科は踵を返して走り出す。周囲からの困惑は、間もなく破られた扉の音に掻き消された。
「まずは人じゃ! 裏切りモンを捕らえるんじゃ!」
江草の怒号を初めとして、混沌とした音が屯所内に満ち満ちる。
だが、違う。
此処に、件の大型はいない。
陽動。
であるならば、本当に討つべきが、破って来るのは。
濡羽色の羽織をはためかせ、倉科は駆ける。
・・・・・
「すまないね、幸慧」
「いえ」
「あたしはここでこいつらと大人しくしとくさ。大丈夫、こいつらだって青龍隊やらに比べちゃあ軟弱かもしれないが、案外鍛えてるんだからね。あたし一人くらい訳ないさ。だろ?」
「勿論っす」
「姉御を守れなきゃ隊長に顔向けできねえっす!」
「ほらな」
得意そうに笑う都羽女(つばめ)さんに幸慧も自然と頬が緩んだ。屯所内、白虎棟の執務室には今まさに起きようとしている喧騒はまだ届かない。空気は張り詰めているが、行き交う人々はまだ落ち着いている。
「ここは自分たちでどうにか出来るさ。だからお前さんたちは他の所を頼んだ」
「はい」
「承知しました」
白虎棟は元よりそこまで危惧してはいない。都羽女さんのいる執務室を後にして、付いて来てくれている青龍隊の三人を振り返る。
「さて、此処からです、ね」
「どうされますか、隊長補」
恭しく呼び掛けられる声は変な感じだ。慣れない呼び方に内心戸惑いながらも幸慧は頭を回転させる。
第一目標は問題なく達成した。此処に留まる理由はない。それは都羽女さんの言った通りだろう。であれば次は何処へ赴くべきか。
戻る選択肢はない。正面には江草さんを始めとした現状での最高戦力が揃っている。そもそも固まっていては意味がない。どちらかと言えば、幸慧たちは遊軍という位置付けだろう。
――であれば、一つ候補がある。
「裏を固めましょうか」
「裏、ですか」
「移動しながら話します」
かつ、と足音が響く。
「屯所の裏口は知ってます、よね?」
「勿論。使ったことはないですが」
「非常時の物ですからね」
祓衆屯所には裏口がある。とは言え、それはあってないような物だ。本当に最悪の事態――屯所が禍者によって陥落してしまったとか――にならなければ存在が話題に上ることも、誰かの目に映ることもない。基本的に隠されているし、正面と比べればかなり狭い。人通りもほぼ皆無だから禍者も寄り付かない。ついでに言えば常に固く鉄扉で閉ざされているから並の禍者では突破はまず不可能。
「普段ならば放っておいても問題はないと思います。……でも、���回は色々と勝手が違います」
禍者に屯所を知る導き手がいること。
そして禍者自身が大きな力を有している可能性が高いこと。
「大きくなればなる程禍者の危険性は上がる。であれば裏切り者たちが制御出来るのにも限度があります。そうなれば通常はその力任せに正面突破が常道だとは思います……けど」
それは、向こうにだって容易に予想がつく。
「多少の犠牲を払ってでも難度の高い裏からの侵入を果たせれば……祓衆は大きな損害を被る。私はそれが最悪の筋書きかと思うので」
「道理ですね」
成る程、と頷く青龍隊。
普段ない状況だなんて不意に実感して、少し気恥ずかしくなる。他の部隊の人とこうして隊長補として関わるなんて滅多にないのだ。
「ともかく、もうすぐ屯所裏口です。ひとまずはそこで待機してましょう」
「はい!」
そうして辿り着いた裏口。
幸慧は息を呑んだ。
「……構えてください」
見た目には常と変わらない。
だというのに、この異様な空気はなんだ。
背筋をじりじりと焼くような重苦しい気配。けたたましく荒々しい足音がこちらを蹂躙せんと迫る――幻聴。
見えずとも明らかだった。
ここに、今、どうしようもないものが押し寄せようとしている。
今、まさに。
――けたたましい破壊音。
――歪んだ彷徨。
――悲鳴。
土煙が幸慧たちの視界を奪う。目は使い物にならない。抜き放った刀を握り締め、気配を探る。大きな何かが、確実にいる。呻くような声が足元をゆっくり過ぎて行く。
「一人、捕まえてください!」
血の匂いがぶわりと足元から上る。そんなになるまで、これを此処に連れて来たかった? 理解が出来なかった。這う這うの体の裏切り者はすぐに青龍隊の一人の手でずるずると引きずられて行った。
その頃には、土煙は落ち着いていた。
幸慧は目を見開く。
大鹿。
それは、正しく鹿の形をとっていた。
だが、それは余りにも、威厳を帯びていた。
闇を固めたような黒は引き締まった巨躯を形作り、赤い目はぎろりと周囲を睥睨する。そして、頭からは幾つも枝分かれした、身体の半分はあるんじゃないかという程に立派な角が生えている。それがどれだけの脅威となるか。背後に転がる鉄扉の無残な姿を見れば嫌でも分かった。
規格外。
手に負えない、と瞬時に知れた。
幸慧だけではない。ここにいる、青龍隊でも。
それこそ、隊長格の誰かが。
青龍隊が必至の形相で禍者に斬り掛かる。しかし禍者は角で容易く退ける。大人と子供だ。生半可な刃では傷すら付かない角は、あっさりと人一人を放り投げた。悲鳴も出ない。地面に転がった彼は幸い大きな負傷は負っていないらしい。動かないで。必死に祈る。禍者は興味を失ったように首を巡らせる。かつり。蹄が音を立てる。
何処かへ行こうとしている。
それを、止められる者は。
「間に合った」
幸慧の横を、一陣の風が過ぎる。かと思えば黒い羽織がはらりと地面に落ちていた。
首を巡らせている禍者。それに肉薄したのは、倉科隊長だった。その手には長身の刀。美しく装飾された刃は禍者の身体ではなく、角に振るわれた。
冗談のようにあっさりと、大鹿の角は飛んだ。
虚を突かれたように動きを止めた禍者。倉科隊長は止まらない。躊躇いもなく、更に刀を横一文字に振るう。
禍者の頭の上半分が、斬れ飛んだ。
「鍛錬を怠らなくて良かった。これでも僕、結構強いからねえ」
息を吐くように笑って、倉科隊長は少しも動きを止めることなく禍者を切り刻んでいった。舞でも踊っているかのような、優雅にすら見える所作だった。どす黒い血はその度に弾け、地面に広がる。禍者が原型を失うまでに、そう時間は掛からなかった。夥しい量の血を一滴も浴びることなく、ゆっくりと倉科隊長は幸慧を振り返る。
「大丈夫かい?」
幸慧はただ、頷くことしか出来なかった。
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ご家族の高齢化もあり(ということは被害者も高齢化していくということで)、ここしばらく、救出運動の中で「もう待てない」という言葉が何度も語られてきました。
しかし、今回の米朝首脳会談を基礎にして拉致問題の今後の対応を進めるなら「いつまでかかるか分からないが、まだ待て」ということになります。ストックホルム合意の二の舞です。日朝でやるといっても米国が体制を保証し、米韓合同軍事演習も中止して、場合によっては在韓米軍も撤退させるというのでは北朝鮮の最大の脅威はなくなったわけで、真面目に交渉に応じるはずはないからです。
日本がカネを出さないといっても、トランプ大統領が「非核化のカネは日本と韓国が出す」と言ったのは安倍総理も何らかの言質を与えたからでしょう。「そのうちうまいこといくからさあ、今は我慢して出しといてよ」と言われても、米国頼みでやってきたのですから断ることはできないでしょう。やり方はどうするのか知りませんが、国民が止めなければ結局その方向に向かうはずです。
トランプ大統領が米韓合同軍事演習を「挑発的な戦争ゲーム」とし、「カネがかかるからやめる」と言ったのは米国の中でも驚きをもって受け入れられているようです。予測不能な大統領ですからこれからも何をするか分かりません。本当に「もう待てない」なら、今回の米国頼み戦略(?)は失敗だったという認識の上に新たな戦略を立てるべきです。そうしなければミッドウェーの後の帝国海軍のような結果になるのではないでしょうか。
北朝鮮船・船体の一部・遺体の着岸漂流一覧(平成30年6月1日現在確認分) 《平成28年(2016)以前》------------------------------------------------- ※確認出来たものを逐次入れていますが、あくまで氷山の一角です。実際には遥かに多くの事件が起きています 昭和62年(1987) 1月20日 福井沖 漁業資源監視船「ズ・ダン9082号」(約50トン・鉄鋼船)が男女11人を乗せて亡命。(620201読売東京) 平成2年(1990) 10月28日 福井県美浜町久々子海岸 ベニヤ板製の工作子船と思われる船(長さ8.3m幅2.5m 船底からビニール袋に密封された乱数表2枚と換字表1枚、日本製とみられる白紙の手帳)(021030読売東京) 11月2日・11日 美浜町沖合や海岸 遺体2体(20代~40代) 平成10年(1998) 12月2日 島根県隠岐郡西ノ島町 遺体1体(男性) 12月16日 島根県浜田市 遺体1体(女性) 12月16日 島根県隠岐郡五箇村(現隠岐の島町) 遺体1体(北朝鮮軍兵士)(110127読売大阪夕刊) 12月21日 石川県河北郡七塚町(現かほく市)遠塚海岸 遺体1体(女性兵士・労働党候補党員証を身に着けていた)。 12月25日 福井県大飯郡高浜町和田海岸 丸太組みのいかだとロープでつながれた男性遺体3体(軍服姿、腐乱し一部白骨化、死後1~3カ月 30~50代、身長1m60~70センチ 胴体と足に直径約20センチの球形ブイ数個が付いていた)。(101225読売大阪夕刊) 平成11年(1999) 1月14日 福井県三方郡三方町(現三方上中郡若狭町) 遺体1体(北朝鮮軍上佐とみられる。「私たちの船は朝鮮人民軍26局4地区副業船、船籍は元山市」「昨年11月に兵士ら15人が乗船して出港したが機関故障で冠水、漂流した」と書かれたメモや航行に関する書類)(110127読売大阪夕刊) 1月22日 鳥取県鳥取市浜坂鳥取砂丘 遺体1体(北朝鮮軍兵士)(110127読売大阪夕刊) 平成13年(2001) 12月16日 遺体1体(男性・30~60歳 一部白骨化 紺のランニングシャツと緑色のパンツ 死後2~3カ月 数百m離れた場所に男性の北朝鮮公民証)(131231読売東京) 12月 新潟県佐渡市鷲崎海岸 木造船(ハングルで洪原と記載)・遺体1体(赤十字の照会で「1955年生まれで昨年10月8日漁に出たまま行方不明になった」とのこと)(140129読売新潟北版) 平成14年(2002) 1月4日 石川県能美郡根上町(現能美市)山口町グリーンビーチ 木造船(長さ約6m)(140108読売石川版) 1月5日 石川県羽咋市一ノ宮海岸 木造船(長さ約6m 前方にハングルと数字)(140108読売石川版) 1月9日 石川県河北郡宇ノ気町(現かほく市)大崎海岸 木造船(長さ約3m、幅約1.5m 後方にハングルと数字)(140110読売石川版) 1月11日 石川県羽咋市大川町釜屋海岸5日の木造船漂着地の南500m 鉄製船(長さ約5.9m幅約1.5m船首に文字らしきもの) 3月19日 石川県輪島市小池町海岸 木造船(長さ6.5m幅2.5m 後部に発動機。船首部分内側にハングルが書かれたプレート)(140320読売石川版) 4月11日 北海道爾志郡熊石町(現二海郡八雲町)見日海岸 木造船(長さ約6m70センチ幅約1m50センチ 船尾にスクリューがあったがさびて動かずエンジンも付いていなかった)(140411読売札幌版夕刊) 12月28日 石川県河北郡内灘町宮様海岸 遺体1体(身長約1m62、20~50歳、死後1~6カ月、金日成バッジ) 平成15年(2003) 1月10日 新潟県岩船郡粟島浦村釜谷の消波ブロック 遺体1体(頭部白骨化、身長約1m70、黒の長袖シャツと黒の靴下)・木造船(長さ約9m幅約2m船首部分に漁網) 3月5日 新潟県柏崎市海岸 遺体1体(男性・20~40歳 下半身のみ 165㎝ 茶色作業ズボン、青色ももひき、黒色半ズボン、北朝鮮紙幣死後半年前後) 平成16年(2004) 12月2日 新潟県佐渡市 遺体1体(男性 40~60歳 152.5㎝ B型カーキ色軍服様長袖、カーキ色軍服様長袖シャツ、グレーハイネックセーター、青色長袖シャツ、茶色ベルト) 平成18年(2006) 1月4日 京都府舞鶴海上保安部管内 木造船(180131読売大阪朝刊) 1月 鳥取県内に4隻の木造船が漂着(180126読売大阪朝刊) 1月24日 鳥取県西伯郡大山町 木造船(180126読売大阪朝刊) 1月25日 鳥取県鳥取市伏野海岸 木造船(長さ5.65m幅1.4m)(180126読売大阪朝刊) 1月30日 京都府京丹後市久美浜町箱石海岸 木造船(180131読売大阪朝刊) 平成19年(2007) 6月 青森県西津軽郡深浦町 木造船・生存者4人 (191227読売東京夕刊記事)11月中旬以降北朝鮮からの木造船16隻が漂着、新潟と石川の海岸が大部分。 平成20年(2008) 1月10日 福井県福井市西二ツ屋町海岸 木造船(長さ約6m幅約1.5m 船尾に船外機、船首にハングルが彫られていた)(200112読売大阪朝刊) 3月26日 秋田県男鹿市北浦入道崎海岸 木造船(長さ約5.8m幅約1.4m 側面や船尾にハングル)(200326読売秋田版) 平成23年(2011) 9月 輪島市沖合で木造船に乗った脱北者9人を救助(後に韓国に移送) 9月26日福井県三方郡美浜町関電美浜原発敷地内の岩場 木造船の一部(230927読売大阪朝刊) 平成24年(2012) 1月6日 島根県隠岐郡隠岐の島町那久岬沖 木造船・生存者3人(9日に北に引き渡し)・遺体1体(241224読売島根版) 1月19日 島根県隠岐郡隠岐の島町 木造船(241224読売島根版) 2月22日 島根県隠岐郡隠岐の島町 木造船(241224読売島根版) 2月27日 島根県隠岐郡海士町 木造船(241224読売島根版) 4月4日 島根県隠岐郡隠岐の島町 木造船(241224読売島根版) 11月28日 新潟県佐渡市大小海岸 木造船(長さ約12.8m幅約3.4m エンジン 船首にハングル 捕った魚を保管するスペース)・遺体5体(成人男性 雨具とみられるビニール製のズボンを履き、船内に長靴 死後2~3カ月 一部白骨化 長時間海水に漬かっていた形跡があり、船が一度沈没した可能性 1体は推定年齢30~40歳代前後、身長約170cm、長袖灰色シャツ、紫色ハイネックセーター、赤色半袖Tシャツ、 下衣は紺色ナイロン製ズボン、灰色ズボン、水色スウェットズボン、 黒色ボクサーパンツ、黒色靴下ほか紳士用黒色デジタル腕時計着用)(241129読売新潟版他) 12月1日 新潟県佐渡市赤泊杉野浦の海上 木造船(長さ約10m 船内からイカ釣り用の針)・遺体1体(年齢40~50歳前後の男性 死後1~2カ月 胃の中に食べ物なし 遺体は屍蝋化 身長約167cm、 着衣は緑色ニット帽、紺色フード付長袖ジャンパー、黒色長袖作業着、紺色ベスト、 胸に鷲マーク入り紺色長袖トレーナー、紺色ランニングシャツ、 下衣は灰色防寒ズボン、ホック式ベルト、紺色ビニール製ズボン、こげ茶色股引、 緑色ブリーフパンツ、両足に白色と小豆色の格子柄靴下、 ゴム製長靴(サイズ25.0cm、上部中央ハングル)着用) 12月1日 新潟県佐渡市北鵜島の海岸 木造船の一部(右舷部分とみられる長さ約4メートルの木片 船首付近にハングルと数字) 上記の者は、平成24年12月1日午後0時13分頃、佐渡市において、 転覆した木造船内にて遺体で発見され死後1~2カ月経過していると推定されます。 遺体は火葬に付し、遺骨は当市の真楽寺にて保管)。12月12日 石川県輪島市 木造船(長さ約11m幅約3.5m 船首両横にハングル、漁網や釣り針)内から遺体1体(一部白骨化) (270110読売記事では「輪島市沖合で木造船の漂着や漂流が相次ぎ、漂流した船体の近くで3遺体が見つかる」) 平成25年(2013) 11月15日 新潟県佐渡市沖の海、姫津沖約5.5キロ、木造船(船尾水没 操舵室上部に赤い塗料でハングル、ジャンパーのような衣類) 12月18日 新潟県岩船郡粟島浦村 木造船(長さ約12m・幅約3.5m 船首にハングル 船内からイカ釣り漁の針や「朝鮮平壌」と書かれた箸)・遺体1体(身長約1m75センチ、防寒ジャンパー着用・死後数週間)(251218読売東京朝刊) 12月25日 秋田県男鹿市北浦湯本 木造船(長さ約12m幅約3.5m船内に漁網など)・遺体3体(251225読売秋田版)※300512時点でも現存 12月28日 新潟県長岡市寺泊野積海岸 木造船(長さ8.25m幅2m 船首に数字やハングル)(251229読売新潟南版) 12月29日 新潟県柏崎市西山町石地海岸 木造船(長さ6.6m幅1.7m 船首に数字やハングル)(251230読売新潟南版) 平成26年(2014) 8月 石川県珠洲市沖合で北朝鮮船の乗組員4人救助(後に大連経由で帰国) 平成27年(2015) 1月9日 石川県羽咋郡志賀町安部屋漁港北400m 木造船・生存者1人(服などが入っている透明ビニール袋を所持 61歳 後に帰国) 7月23日 青森県下北郡佐井村矢越漁港 木造船1隻(271209読売) 10月27日 青森県下北郡佐井村福浦漁港 木造船1隻・遺体1体(271209読売) 11月1日 秋田県山本郡三種町沖 木造船(271209読売) 11月2日 秋田県男鹿市 木造船(271209読売) 11月14日 新潟県佐渡市岩首漁港沖 木造船(長さ約13m幅約3m 黒ずんだ船体にハングル リュックサックに金正日バッジ)・遺体1体(上下黒の衣服)荒天のため12月2日に海保が引き揚げ発表 11月 石川県輪島市沖木造船3隻・遺体10体(産経ニュース・ TBS動画ニュースサイト・毎日新聞11月28日) 11月6日 北海道松前町沖 木造船・遺体2体(271107読売東京朝刊) 11月14日 新潟県佐渡市沖 木造船・遺体1体(271209読売) 11月19日 秋田県能代市沖 木造船・遺体2体(271209読売) 11月20日 石川県輪島市沖 木造船3隻・遺体10体(271209読売) 11月22日 福井県越前町沖 木造船・最低でも7人とみられる遺体・遺骨(271209読売) 11月22日 新潟県佐渡市沖 木造船(271209読売) 11月23日 石川県輪島市沖 木造船の一部(271209読売) 12月2日 青森県下北郡佐井村長後牛滝漁港 木造船(船内にハングルの書かれた救命胴衣)・遺体4体(海保の司法解剖結果で死後1~6カ月経過 靴にハングル)(271207・1209読売東京朝刊) 12月2日 兵庫県美方郡新温泉町沖 木造船の一部(271209読売) 12月7日 石川県金沢市沖 木造船(271209読売) 平成28年(2016) 5月20日 青森県下北郡風間浦村易国間桑畑漁港近く 木造船(長さ約6.7m幅約1.5m 左舷船首部分にハングル)(280522読売青森版) 6月5日 青森県むつ市大畑町大畠漁港沖 木造船(全長約9m幅約2.3m 船体に海藻が付着 右舷船首部分にハングル)(280607読売青森版) 10月17日 青森県西津軽郡深浦町沖(十二湖駅近くの岸壁に引航) 木造船(281018読売青森版) 10月18日 青森県下北郡佐井村沖 木造船(長さ12m ズック、手袋、靴下など)(281029読売青森版他) 10月29日 青森県下北郡佐井村牛滝漁港 木造船(長さ6.2m幅2.53m)(281029読売青森版) 10月30日 青森県つがる市七里長浜 木造船(長さ16.2m幅4m 船首に赤色数字 船内にロープや網)(281101読売青森版) 12月5日 京都府舞鶴市 木造船(北朝鮮5000ウォン紙幣2枚、漁具など)・遺体9体(一部白骨化)(TBSあさチャン) 《平成29年(2017)以降》--------------------------------------------------- ※出典については逐次書き加えています。石川関連のほとんどが北國新聞、新潟関連の大半は新潟日報の記事です。 平成29年(2017) 1月1日 新潟県糸魚川市筒石 木造船の一部 1月6日 新潟県上越市柿崎区 木造船 1月6日 福井県三方郡美浜町菅浜弁天崎南1キロ 木造船(船体にハングルのような文字 船内にエンジンの一部とドラム缶)(290106読売大阪朝刊) 1月7日 福井県小浜市犬熊 木造船 2月7日 島根県隠岐郡隠岐の島町神尾 木造船 2月11日 石川県金沢市 木造船 2月15日 京都府京丹後市間人 木造船 2月15日 京都府舞鶴市瀬崎海岸 木造船 3月8日 島根県隠岐郡隠岐の島町油井 木造船 3月14日 石川県輪島市門前町 木造船の一部 3月18日 石川県羽咋郡宝達志水町 木造船(長さ約5m幅約1.5m 船尾の白い板にハングル)(271209読売) 3月22日 石川県羽咋市寺家町 木造船 3月28日 京都府京丹後市 木造船 4月28日 秋田県男鹿市入道崎灯台西300m 木造船(長さ約10m幅約5m)・遺体1体 5月1日 北海道函館市函館港 木造船の一部 5月2日 新潟県佐渡市石名地区 木造船 6月1日 新潟県佐渡市鷲崎地内 木造船 6月26日 兵庫県香住町余部海沖 木造船(「0제16749」と記載 男性遺体1体身長約168センチ) 7月31日 島根県隠岐郡隠岐の島町福浦 木造船の一部 8月9日 島根県隠岐郡西ノ島町三度埼 木造船 9月6日 青森県西津軽郡深浦町大間越 木造船 9月25日 北海道室蘭市東町 木造船の一部 11月7日 新潟県佐渡市羽茂三瀬地区 木造船(長さ13.7m幅3.7m 「888-88879」の数字記載) 11月15日 秋田県西400キロ沖(大和堆北方EEZ外)転覆した木造船 3名救助 11月16日 秋田県西沖(大和堆)木造船 遺体4体 11月16日 秋田県にかほ市 木造船 11月19日 青森県北津軽郡中泊町小泊 木造船(長さ8.7m) 船体にハングル表記 11月20日 青森県西津軽郡深浦町大間越 木造船(長さ12.6m 「913185」の数字記載。スクリューやエンジンが残っていた)周辺で救命胴衣6個発見 11月21日 山形県鶴岡市暮坪海岸 木造船(長さ7m) 船体にハングルや「89829」の数字が記載(庄内ブルーリボンの会資料には全長10mとの記載あり) 11月23日 新潟県佐渡市南片辺 木造船(長さ約10m幅約2m 船体にハングルと数字が記載 エンジン 周辺から漁網やイカ釣り針、防寒具など) 11月23日 秋田県由利本荘市マリーナ 木造船(長さ20m) プレートにハングルで「チョンジン」と記載。生存者8名 内2名が近くの民家に行ってインターフォンを鳴らしたことで上陸が分かる(従って検疫を受けずに上陸した9。証拠品である船はマリーナに係留していたが県警が見失い、後に破片の一部を回収。 11月24日 秋田県男鹿市宮沢 木造船(長さ約14m幅約3.2m 船首付近に「556-60756」と記載)・遺体8体(白骨化)・北朝鮮製たばこ等 11月25日 新潟県佐渡市藻浦崎 木造船の一部(「88737」の記載)・遺体1体 11月26日 新潟県佐渡市石花 遺体1体 11月26日 北海道松前郡松前町小浜 木造船の一部(船首部分長さ4m 黒く塗られ数字のようなもの記載) 11月26ないし27日 青森県西津軽郡深浦町艫作(へなし)椿山展望台西200m 木造船(船首部分に「2093」の数字が記載) 11月27日 石川県羽咋郡志賀町西海 木造船の一部 11月27日 石川県羽咋市 木造船 11月27日 石川県珠洲市三崎町小泊沖 漂流船(長さ12m幅2.5m 船内に「264軍部隊 軍船」と記載された紙片) 11月27日 青森県下北郡佐井村 木造船(長さ12.3m幅3.6m 船首に115489 エンジン付き 後部は一部破損するも櫓はほぼ原型) サイズ24センチ男物革靴(ヒールの高いシークレットブーツ様のもの)と英文の書かれたジャケット(要確認) 11月28日 北海道松前郡松前町松前小島 木造船(長さ約10m 「朝鮮人民軍第854部隊」との記載)・生存者10名 11月28日 山形県鶴岡市鼠ヶ関沖 木造船・遺体3体(うち2体の衣服に金日成バッジ) 12月2日鶴岡市温見漂着、12月4日遺体漂着 11月28日 石川県輪島市舳倉島沖 漂流船2隻 11月30日乗組員21名が北朝鮮僚船に救助される。 11月30日 新潟県佐渡市藻浦崎 遺体1体(地元で聞いた話では遺体はなかったとのこと) 12月1日 青森県西津軽郡深浦町森山海岸 木造船(長さ約10m幅約2.4m) 12月1日 新潟県佐渡市両津湾 木造船 12月1日 山形県鶴岡市鼠ヶ関マリーナ 木造船の一部 12月2日 新潟県佐渡市小木江積海岸 木造船(長さ約9.8m幅約2.3m)・遺体2体 12月2日 秋田県山本郡八峰町八森岩館付近海岸 木造船(ハングルの書かれたバケツ)・遺体1体 12月2日 山形県鶴岡市米子漁港 木造船(長さ10m弱)遺体3体(4日に漂着 庄内ブルーリボンの会) 12月4日 新潟県柏崎市西山町石地付近 木造船の一部 12月4日 新潟県長岡市寺泊大和田 木造船 12月4日 新潟県新潟市西蒲区角田浜沖 木造船 12月4日 秋田県にかほ市海水浴場 木造船の一部(ハングルの書かれたバケツ、缶詰)・遺体1体 12月4日 青森県西津軽郡深浦町北金ヶ沢 木造船(12日に遺体→別記) 12月5日 新潟県佐渡市高千漁港 木造船(幅約3.1m) 12月5日 新潟県新潟市 木造船漂流(ブロックに衝突し大破)・遺体2体 12月5日 山形県鶴岡市マリーンパーク鼠ヶ関 木造船の一部(庄内ブルーリボンの会) 12月6日 青森県西津軽郡深浦町入良川河口付近 木造船(「915430」と記載) 12月7日 秋田県男鹿市五里合漁港北100m砂浜 木造船(「913300」と記載)・遺体2体 12月7日 秋田県山本郡三種町 木造船1隻(ハングル表記のライフジャケット) 12月7日 新潟県佐渡市北狄(きたえびす)地区海岸 木造船・遺体1体 12月7日 新潟県佐渡市和木沖 木造船・遺体1体 12月7日 福井県坂井市三国町サンセットビーチ 木造船の一部 12月7日 山形県鶴岡市マリーンパーク鼠ヶ関 木造船の一部(庄内ブルーリボンの会) 12月8日 新潟県佐渡市水津漁港 木造船の一部(幅約2.8m)・後に男性の遺体1体発見 12月8日 石川県珠洲市長橋町 木造船の一部(後に流出し2月22日珠洲市大谷町海岸に漂着) 12月9日 石川県珠洲市笹波町 遺体1体(一部白骨化し性別不明 死語数か月 セーター、シャツ着用 12月9日 新潟県村上市府屋海岸 木造船 12月9日 新潟県佐渡市岩谷口海岸 遺体1体 12月9日 新潟県佐渡市姫崎沖 遺体1体 12月10日 山形県鶴岡市堅苔沢海岸 遺体1体(上半身のみ) 12月10日 新潟県佐渡市石名沖 木造船(幅約3m) 12月12日 新潟県柏崎市荒浜 木造船・遺体2体遺体は白骨化しており、服や身の回りの物も無かった。船はその後産業廃棄物として処理。白骨化した遺体は火葬後、無縁仏として埋葬。 12月12日 新潟県村上市沖 木造船 12月12日 青森県西津軽郡深浦町十二湖海浜公園 木造船(「912358」と記載) 12月12日 新潟県佐渡市宿根木 木造船の一部 12月12日 青森県西津軽郡深浦町北金ヶ沢千畳敷橋付近海上 遺体3体(12月4日の漂着船が岩にぶつかって破損し中から流れ出たものと思われる) 12月12日~13日 石川県羽咋市 木造船の一部 12月13日 山形県遊佐町吹浦西浜海岸周辺 遺体1体 12月13日 山形県鶴岡市鼠ヶ関マリーナ 木造船の一部 12月13日 秋田県潟上市出戸浜海水浴場付近 木造船・遺体2体 12月13日 秋田県男鹿市北浦入道崎灯台南約2km 木造船(長さ7m幅1.9m) 12月13日 秋田県秋田市浜田 遺体1体 12月13日 新潟県村上市瀬波温泉海岸 木造船(「632-90452」と記載) 12月13日 新潟県胎内市松浜海岸 木造船 12月14日 秋田県秋田市雄物川河口近く 木造船2隻・遺体6体 12月14日 青森県西津軽郡深浦町白神浜 遺体1体 木造船の一部 12月14日 新潟県長岡市寺泊郷本海岸 木造船・人骨5本 12月14日 新潟県佐渡市鵜ノ瀬鼻沖 木造船(全長約13.5m幅約3m) 12月14日~15日 石川県羽咋市志賀町 木造船の一部 12月15日 石川県金沢市金沢港沖 木造船 12月15日 新潟県佐渡市下相川 木造船(長さ約13m幅約3m 岩場で大破したがそれ以前はイカを干すヤグラや集魚灯の一部も残っていた) 12月15日 青森県下北郡佐井村津鼻崎南 木造船(船首に「567-66341」)1週間前の漂流時には船全体の形があったがその後時化で崩壊し海岸に各部分が海岸に漂着) 12月15日 山形県鶴岡市五十川海岸 遺体1体 12月16日 石川県羽咋市千里浜インター付近 木造船の一部 12月16日 青森県深浦町田野沢 木造船(「547-66205」と記載) 12月17日 石川県珠洲市 木造船の一部 12月18日 新潟県佐渡市鷲崎沖 木造船 12月18日 山形県鶴岡市湯野浜海岸 木造船(長さ10m弱) 12月19日 秋田県にかほ市飛字餅田海岸 木造船・遺体2体 12月19日 石川県羽咋郡志賀町 漂流船(海保は発見できず) 12月20日 石川県羽咋郡志賀町 富来漁港(西海漁港) 漂着船 12月21日 新潟県佐渡市関岬 木造船(長さ11.6m幅2.75m 船首にハングル表示) 12月21日 新潟東港沖18キロ 木造船 12月21日 新潟県岩船郡粟島浦村釜谷 木造船の一部(縦1.5m横1.2m) 12月21日 青森県下北郡佐井村沖 木造船(転覆した状態で網にひっかかっていた 船尾に「0-세・98180단천」)・遺体4体(佐井村資料には記載なし)佐井村資料には女性もののようなビニールと思われるバッグ、ライフジャケットなどが写っている。バッグの中身はタバコ、タオル、歯ブラシ、書類らしきものなど) 12月23日 石川県羽咋郡志賀町 木造船(長さ約8.4m幅約2.2m 15日に金沢港沖を漂流していた船と同じ番号が船体に記載) 12月24日 新潟県新潟市 新潟港沖12キロ 木造船(21日のものと同じ可能性あり) 12月24日 山形県鶴岡市油戸漁港付近 木造船の一部・周辺に遺体4体 12月24日 山形県酒田市浜中海水浴場周辺 遺体1体(星型マークがバックルに付いた布製ベルト) 12月25日 新潟県佐渡市羽茂大橋 木造船(長さ約10m、幅約2.2m) 12月29日 鳥取県鳥取市気高町奥沢見海岸 遺体1体(ハングルが書かれたタグのついた黒い長袖ジャージと長袖Tシャツ、ズボン下着用。身長約170センチ、頭部はほぼ白骨化) 12月29日 新潟県新潟市西蒲区越前浜海岸 木造船の一部(長さ3m幅1.6m高さ1.43m 煙突あり) 平成30年(2018) 1月2日 新潟県村上市馬下(まおろし)地先海岸 木造船(長さ10.5m幅3.0m) 1月4日 秋田県山本郡三種町釜谷浜海水浴場 木造船の一部(長さ約8.1m幅約2m 船底及びスクリュー) 1月4日 新潟県佐渡市北田野浦 木造船の一部 1月4日 新潟県柏崎市西山町大崎地先海岸 木造船の一部(船尾部分長さ1.9m幅1.9m) 1月4日 秋田県山本郡三種町釜屋浜海水浴場南側 木造船の一部(船底部分長さ8.1m幅2.0m) 1月4日 石川県羽咋郡志賀町 遺体1体(推定年齢30~50歳・身長約164センチ・黒色系のジャンパーやシャツ、ズボン着用。ハングルが書かれたタバコ、腕時計、電池、紙束などを所持。 1月5日 新潟県佐渡市相川鹿伏 木造船の一部 1月5日 石川県白山市沖 木造船(長さ約13m幅約3.5m 船首にハングル) その後不明 1月6日 秋田県由利本荘市松ヶ崎漁港 木造船の一部(長さ4m幅約2m 白地に赤の数字) 1月7日 京都府京丹後市網野町 木造船(長さ約10m幅約3m ハングルのような文字の書かれた板が付近に漂着) 1月7日 新潟県佐渡市入桑漁港 木造船の一部 1月8日 新潟県新潟市西蒲区間瀬海岸 木造船(長さ約5m幅約1.5m) 1月8日 秋田県男鹿市野石申川海岸若美漁港南1km砂浜 木造船の一部(長さ約7.7m幅約1.9m船底とエンジン) 1月10日 金沢市下安原町安原海岸 遺体1体(年齢不詳顔などの一部が白骨化。黒色のジャンパーと青色のズボンを着用。身元や国籍の分かるものは身に着けていなかった) 木造船(遺体から15mの距離 長さ16m幅高さともに3m 船尾にプロペラ 船体にハングルや数字などの標記見つからず 船内から16日7遺体発見 船首付近に4人、真ん中あたりに3人が折り重なるように倒れていた。セーターやトレーナーを着ており目立った外傷はなかった。 金日成と金正日の並んだバッジ1個) 1月21日 新潟県粟島八幡神社から200mの海岸 木造船の一部(船尾 長さ1.2m幅1.3mのコの字型 赤字でハングル2文字が書かれていた) 1月24日 石川県羽咋郡志賀町西海千ノ浦海岸 木造船(長さ8.15m幅1.9m高さ1m平底型 船体に白く614という番号記載 コールタールのようなもので塗装、傷み激しく長期間漂流したものと推定 近くに「10465료대」と書いた木片あり) 1月24日 山形県鶴岡市湯野浜海岸 木造船(長さ5.45m幅1.5m) 1月28日 石川県羽咋市新保町(志雄パーキングエリアの北約400m)木造船(長さ5.871m、幅1.87m 船体に黒い塗料。目立った損傷なし ハングルと「9-964」の記載) 1月30日 石川県羽咋郡志賀町大津、上野の境界近くの海岸 木造船の一部。不鮮明だが「3682370」と白い文字で船体に記載。 1月31日 山形県鶴岡市マリンパーク鼠ヶ関 木造船の一部 2月2日 石川県金沢港北西約64キロ沖 木造船。船体に文字や数字とみられる表記。 2月2日 秋田県由利本荘市出戸字浜山の海岸(西目漁港北東1キロ) 木造船の一部(長さ4.5m幅約2.7m 船体に赤い字で「556-60269」と記載 2月4日 秋田県由利本荘市親川河口付近 木造船の一部(長さ約5.4m幅約1.9m 赤い数字のような文字が記載) 2月7日 石川県輪島市名舟町海岸 木造船(長さ約5m幅約2m 「760-75200」と船体に記載) 2月9日 石川県かほく市白尾海岸 木造船(船体に番号表記) 2月10日 石川県羽咋郡志賀町 木造船2隻(1隻は海士崎灯台北500m、長さ約12m幅約2m 船首部分に「505-64271」の番号記載があり1日に金沢港沖で発見された漂流船と思われる。もう1隻同灯台北約200m、長さ約5.4m幅1.5m 船尾破損 文字番号等記載なし) 2月11日 石川県加賀市美崎町漁協加賀支所から400m海岸 木造船(長さ約18m幅約5m 船首右舷に「504-66272」と記載)(300212北國) 2月13日 石川県羽咋市一ノ宮町一ノ宮海岸 木造船(長さ約7m幅約1.85m)(300214北國) 2月13日 石川県輪島市門前町池田海岸 木造船(長さ約4.35m幅約1.08m 船体にハングルと番号表記)(300214北國) 2月13日 石川県羽咋郡志賀町西海千ノ浦海士崎灯台近くの海岸 木造船(長さ約5.6m幅約1.4m 船首と船尾にハングルと番号表記)(300214北國) 2月13日 秋田県男鹿市野石字五明光海岸三種町との境から南約1.3キロ 木造船(長さ約10.1m幅約2.1m 船内にエンジンと漁網を巻き上げる機械 船体に「29488」とハングルの記載) 2月15日 石川県羽咋郡志賀町百浦海岸 木造船(長さ9.7m幅約2.19m スクリューとエンジンあり) 2月20日 石川県金沢市金沢港北西20キロ沖 木造船(長さ約6m幅約1.5m 船首に「4233」の記載) 2月21日 石川県輪島市塚田長塚田橋付近の岩場 木造船(長さ5.75m幅1.83m 無動力船)(300222北国) 2月21日 石川県輪島市門前町鹿磯漁港付近砂浜 木造船の一部(平底部長さ3.81m幅1.83m左舷側一部が残る プロペラ軸受け部金属を確認。(300222北国新聞) 2月22日 石川県輪島市深見町海岸 木造船(全長10m幅2.65m 船尾にスクリュー)(300223北國) 2月24日 秋田県能代市浅内字砂山海岸能代ロケット実験場南西約5キロ 遺体(北朝鮮との関連不明、一部白骨化した男性、身長約165センチ、着衣や履き物はなかった)(300225秋田魁) 3月6日 石川県輪島市名舟海岸 木造船の一部(全長4.5m幅2.2m遺留品は見つからず)(300307北國) 3月10日 石川県羽咋郡志賀町大島(おしま)漁港南側約180m海岸 木造船の一部(最大長5.2m 赤い数字「5129-61247」 船首に日本製ゴムタイヤを使った緩衝材)(300311北國) 3月12日 石川県羽咋郡志賀町安部屋海岸 ハングルと数字の書かれた木製標識・人民軍軍帽・究明浮��(300313北國) 3月13日 石川県金沢市内灘海岸 木造船の一部(船首部分 長さ2.1m コールタールのような塗料・範読できない文字が表記)(300314北國) 4月17日 石川県珠洲市能登町布浦(ぬのうら)海岸 木造船(長さ6.1m、幅1.7m、深さ0.8m 船体にハングルや数字が記載)。 5月16日 北海道爾志郡乙部町 木造船の一部 5月31日 青森県中泊町小泊漁港付近 木造船
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