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【お寺巡り】天空の聖地 高野山を散策する | 和歌山県 世界遺産
高野山は和歌山県の標高約800mの山上盆地にある、平安時代のはじめに弘法大師 ( 空海 )によって、 開かれた真言密教の聖地です。「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産にも認定されています。 そんな春の高野山を散策してきました。 【高野山について】 https://www.sekaiisan-wakayama.jp/know/koyasan/ 【高野山真言宗 総本山金剛峯寺】 https://www.koyasan.or.jp/ 00:00 イントロダクション 00:38 高野山 大門 01:05 壇上伽藍 02:43 宝亀院 弘法大師の御衣の切れ端をお守りに 03:16 金剛峯寺 04:09 奥の院 ユニークな企業慰霊碑・戦国武将の墓碑
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前世今生(二)前世丈夫求超度
以下一位有緣人分享:
之前看師兄分享超度祖母的事宜,讓他感慨自己的後事還是要靠自己,不要打算依靠旁人或子女。讓我想到最近發生的一件事情,深深認同自己的未來還是靠自己,比較有保障。
不知從何時開始,經常會有一位男性出現在我的夢裡,看不清楚他的面容,但卻能知道是同一個人。因為對方給我一種很奇妙的親切感,雖然一直反覆夢見他,卻沒有驚慌過。對方常會半途出現在夢境,一直待到夢境結束。但前一陣子卻突然有一個夢境,對方出現之後,卻半途消失。因為夢中內容使人不安,於是向精舍請示夢境,也請示了對方與我的關係。佛菩薩慈悲開示:「對方是我前世的先生,我們感情很好才會一直夢到他。」
看到佛菩薩的開示,首先我是震驚,佛菩薩之前開示我前世是員外,所以才會帶一些壞習氣來投胎。但原來我不是員外,而是員外夫人,前世的我仗勢欺人,造下許多惡業。想起《地藏經》裡面說:「若未來世諸眾生等。或夢或寐。見諸鬼神。乃及諸形。或悲或啼。或愁或歎。或恐或怖。此皆是一生十生。百生千生。過去父母。男女弟妹。夫妻眷屬。在於惡趣。未得出離。無處希望福力救拔。當告宿世骨肉。使作方便。願離惡道。」
我又向精舍請示:「一直夢到對方的原因為何?」開示結果:「對方求超度」。我當下還沒反應過來,過了一段時間才忽然驚覺,前世的先生尚在地獄受刑,那我前世做了這麼多傷人的罪業,是否也要到地府受刑?再次請示,佛菩薩慈悲開示:「尚有第四殿刑期20年未受完,要誦經迴向化解地獄刑期。」
我去查了《玉曆寶鈔》,在第四殿受刑的原因,詳見精舍部落格《玉曆寶鈔》總連結頁面。簡單來說,就是自私自利,不肯為人著��,慳吝於分享藥物或��病藥方的人,就很有可能要到這殿來受刑。想不到我前世不但造下許多傷人的業障,為人處事居然這麼惡劣。今生還能有機會獲得人身,聽經聞法修行,真是感恩上天開恩,讓我有機會了結因果。
感恩佛菩薩沒有放棄我,今生能夠學佛,還能遇到精舍跟師兄姊們一起學習。願以此文功德迴向我前世先生,以及前世無知傷害的業主菩薩們,南無阿彌陀佛!
(分享完畢)
有緣人因頻頻夢見自己前世的員外丈夫,經請示後,牽引出自己前世原來是員外夫人,而非員外。前世的員外丈夫目前尚在地府受刑,知道有緣人在修行,特來夢中示現,以求超度。有緣人也因此得知,因自己前世是一個貢高我慢、自私自利、仗勢欺人、慳吝之人,造下無數傷人業障,所以尚有地府第四殿20年的地獄刑期尚未受完。
此分享文,有緣人提供了三個重要的訊息,值得我們隨之省思、反省與學習:
一、前世丈夫仍在地獄受罰,知道有緣人在修行,前來求超度
以精舍多年辦事的經驗,若夢到亡者(祖先或親人),除非是要投胎前來示現,否則大多是回來求超度。有緣人的前世丈夫,目前尚在地獄受苦受罰,沒有如她得以「假釋出獄」的福氣。幸而有緣人向精舍請示,才能用功德超度前世丈夫,免於地獄刑罰之苦。
乍看之下,是前世丈夫求助於有緣人,但也因為前世丈夫在夢中的示現,引發有緣人請示出自身尚有20年未完成的地獄刑期。前世丈夫除了求超度之外,也成功地提醒有緣人(前世妻子)要好好修行、消業障、誦經回向化解地獄刑期,才能免去死後再地獄之苦,夫妻兩人鶼鰈情深,讀來令人為之動容!
二、有緣人尚有地府第四殿20年的刑期尚未受完
《阿伯的話—現場開示精華節錄》:「有地府刑期者如得假釋出獄,係讓其有機會來了結因果、消業障,所以要認真修行及多行善事,才能將功折罪;否則,回地府也是要繼續受刑的。」
阿伯師兄又說:「不要以為人死後就會突然變善良,那是不可能的事,只有修行並將習性修正導正,才會契入良善的境界。」
有緣人因隨精舍修行後,懂得修行是內修的功夫,得知前世的丈夫尚在地獄受罰,馬上反省自己今生的傷人業力很多,應該與前世為員外夫人有關。果真牽引出自己尚有第四殿20年刑期的開示,這便是修行者該有的態度。如《六��大師法寶壇經》:「改過必生智慧,護短心內非賢」、「常自見己過,與道即相當」。修行就是在修正自己的行為,改變前世不良的習氣,止惡行善,最後做到「諸惡不做,諸善奉行」的境界。
有緣人最後感恩的說:「感恩佛菩薩沒有放棄我,今生能夠學佛還能遇到精舍跟同修們一起學習」。並且懺悔:「願以此文功德迴向我前世先生,以及前世無知傷害的業主菩薩們」,有緣人發自內心的感恩與懺悔令人敬佩。淨空法師說:「只要一口氣沒斷,懺悔都來得及。」
修行人的「懺悔」是要「真懺悔」。何謂「真懺悔」?《六祖大師法寶壇經》教導我們,除了做到「懺者懺其前愆,從前所有惡業愚迷憍狂嫉妒等罪,悉皆盡懺永不復起,是名為懺。」但只有「懺」,這樣是不夠,我們還必須做到:「悔者悔其後過,從今以後,所有惡業愚迷憍狂嫉妒等罪,今已覺悟,悉皆永斷更不復做,是名為悔。」換言之,要衷心徹底做到「止惡行善」才叫做「真懺悔」。
三、自性自度,別期待別人超度我們
業是自己造的,當然還債要自己來還,才是「負責任」與「真心懺悔」的表現。唸經的最終目的,是提升我們自己的心性與智慧,以經為師,進而改變過去不良的心性與習氣。如果我們總是依賴別人來幫助我們,最後得到智慧的,是那個幫我們唸經的人。而事事依賴的人,仍在原地打轉,便枉費今生得色身修行之殊勝因緣,畢竟解鈴還須繫鈴人。
《阿伯的話—現場開示精華節錄》:「人都有因果,但非百分百都是過去世所致,有的是本世所造下的新因,來世才會承受果」。精舍不斷提倡「自性再度,自業自消」、「以經為師,莫以人為師」,便是希望隨正法修行之人,透過專心唸經的過程,契入佛法,真正了解經文的意義後,最後運用於生活中,如此才能真正做到「止惡修善」,諸惡莫做,諸善奉行的境界。
感恩有緣人與我們分享這麼珍貴且難得的自身經歷。淨空法師說:「所造一切過失、錯誤,不要遮蓋隱瞞,否則罪過越來越深。」阿伯師兄常常告訴我們:「人要知命、認命,再造命;知福、惜福、再造福」,「認真誦經、認真修行」是每一個人「再造命」與「再造福」的最佳途徑。只要堅定道心、奉行正法不輟,相信我們一定會有個更加光明與燦爛的未來!南無本師世釋迦牟尼佛!南無觀世音菩薩!
南無本師釋迦牟尼佛
南無藥師琉璃光如來
南無阿彌陀佛
南無大悲觀世音菩薩
南無大願地藏王菩薩
南無韋馱菩薩
南無伽藍菩薩
南無十方一切諸佛菩薩摩訶薩
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鳳凰 龍 細密石彫刻製作 石基壇 聖徳太子殿 念佛宗仏教美術 The Prince Shotoku Hall The Buddhist Art of Nenbutsushu Stone carving
聖徳太子殿 The Prince Shotoku Hall
念仏宗無量寿寺(念佛宗) 総本山 佛教之王堂〜三国伝来の佛教美術 日本では類例を見ない四手先総詰組様式、および三手先腰組付縁の八角堂 It is a grand octagonal shrine with four-stepped intermediate bracket complexes under the eaves and three-stepped bracket complexes under the veranda, which is peerless in Japan.
概略 高さ17.2m(基壇、棟飾り込) 側通り柱間4.85m
輪島塗による高蒔絵、及び彫金が施された厨子に、中華人民共和国、工芸美術大師・佘國平佛師制作の「和国の教主」とうたわれる聖徳太子像がお祀りされている。
念佛宗(念仏宗)無量寿寺 聖徳太子殿 建築的特徴
他に類を見ない様式 四手先総詰組、三手先腰組付縁の八角堂は他に類を見ない。特に四手先総詰組は、日本建築史上初めての独自の変形組み手である。特殊な組み方をすることにより、組み手同士の立体的干渉を回避している。この念佛宗(念仏宗)ならではの、独創的な手法は、専門家をも捻らせている。日本の大工の始祖とも崇められる聖徳太子も、きっと納得されているに違いない。 天平の文化が華やかなりし頃、神社仏閣は、鮮やかに朱で彩られ、外国文化を吸収、醸成され、それはきらびやかなものであった。 そして今また千年の時を超え、念仏宗 佛教之王堂における聖徳太子殿は、天平時代の華やかさを凌ぐ存在感で、参詣者を迎える。 外装壁部には「天女」、阿件形の「鳳風」、衆生を導かんと雲を従えて天下る阿件の「龍」が、また蛙股部には「宝相華」が、胡粉の白一色に塗られた彫刻で荘厳されている。腰組部と階段脇の耳石にも阿件の精緻に「鳳風」が彫刻されている。 これら数多くの彫刻、彩色で彩られた御堂は、典雅な趣にみあふいざな満ち溢れ、訪れる者を夢の世界へと誘う。 桟唐戸は丹青技法による極彩色が施された「宝相華」や「転法輪」、「鳳凰」の彫刻で荘厳され、八方を守護している。 世界に誇る槙の日本庭園に囲まれた姿は、飛鳥・天平時代を偲ばせる典雅な趣に満ちている。 軒裏に扇垂木を用いており、内部は韓国人間国宝・李萬奉大僧正猊下、及び、直弟��洪昌源師制作の、韓国古来の伝統的丹青技法による彩色が施され、合計428点の彫刻が太子を賛嘆している。 念佛宗(念仏宗)無量寿寺 聖徳太子殿 建築的特徴 三国伝来の佛教文化 念佛宗(念仏宗)無量寿寺 佛教之王堂の聖徳太子殿は、かつて、聖徳太子が御堂にこもって、経典の解釈に没頭しておられる時、夢告(むこく)で教えを賜った(たまわった)との伝説から、法隆寺などでは平安時代より、「夢殿」(ゆめどの)とも呼ばれてきた。 ここ念佛宗(念仏宗)無量寿寺 佛教之王堂における聖徳太子殿は、日本の建築技術と韓国の丹青(たんせい)技法、そして中国の彫刻が見事に調和し、三国伝来の佛教文化の粋を見ることができる。 例えば四手先総詰組様式及び三手先腰組付縁(こしぐみつきえん)は、他に比類なき日本建築の最高峰といえるもの。 また、内部に施された極彩色(ごくさいしき)は、韓国の丹青技法が日本で独自発展を遂げた平等院鳳凰堂の様式を踏襲したものであり、天井画写真下方の緑色部、「ぼかし」のような繧繝(うんげん)彩色や、全体的な白く縁どられた紋様等が特徴的である。 和国の教主 聖徳太子 念佛宗(念仏宗)無量寿寺 佛教之王堂 聖徳太子殿には、聖徳太子像をお祀りしている。天竺(インド)から唐土(中国)へ伝わった佛教の尊さを悟られ、神佛が習合する中、日本へ佛教を根付かせた「日本佛教の父」が聖徳太子。 「和を以て尊しとなす」 これは世界的に有名な聖徳太子『十七条憲法』の根幹(こんかん)をなす第一条の言葉。『十七条憲法』は、我が国最初の憲法であり、佛教精神を基(もとい)とした平和国家日本の建設に臨まれた聖徳太子の決意を表している。推古(すいこ)天皇即位の時、聖徳太子を摂政(せっしょう)とし、すべての政治を委ねられた。『日本書紀』には、その時、もろもろの豪族らは、君主と先祖の恩に報いるために競って佛をお祀りする場所を造ったとされ、以来、それが「寺」となった。つまり恩に報いるために寺が建てられ、佛教が興隆していった。 第二条に「篤く三宝を敬え。三宝とは佛・法・僧なり」そして「何れの世 何れの人か この法を 尊ばざる」として、どの時代、いかなる人であってもこの法を尊ぶべきことを明断しておられる。 そして佛教を基調とした国づくりをして、日本を統一国家に相応しい姿にされた。それによって寛容の心が根付き、民の争い事が減った。そして佛教伝来から僅か数十年で、当時の世界最新建築の佛教伽藍(ぶっきょうがらん)「四天王寺」「法隆寺」を建立した。聖徳太子が、「和国の教主」と呼ばれる所以。太子の願いは、大和の地に佛教を興隆さ���、人々に平和をもたらすことでした。 丹生(たんせい)技法に彩られた堂内 青丹によし 奈良の都は 咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり 聖武天皇(しょうむてんのう)の御代、奈良で一世を風靡した丹生技法は、今、ここ社の地で大きく華開いている。 渡来して日本的発展を遂げた密度濃やかな繧繝(うんげん)彩色や、白縁模様で荘厳された極彩色の天井を、吉野檜の銘木に、拭き漆と熨斗(のし)模様を施した八角柱が八方から支える。 聖徳太子殿の「八角宮殿」 扉に描かれた阿吽の鳳凰は、聖天子(せいてんし)の出現を待ってこの世に現れ、飛天は、釈尊説法時に舞い降り、奉楽し、天華を散らし空中で舞う、とされている。 宮殿は、もともと、天竺(てんじく)における塔やその下の小室である「龕」(がん)を源流とし、後世、これが厨子(ずし)や仏壇に変化した。 法隆寺玉虫厨子や橘夫人念持佛(たちばなぶにん)などは、その代表例。 念佛宗(念仏宗)無量寿寺 佛教之王堂 聖徳太子殿の「宝珠」 宝珠は、災いを除き、願いをかなえる力を持つとされ、聖徳太子殿の屋根に聳える宝珠は、聖徳太子の佛教興隆の成就を象徴しています。 この宝珠を護法神である、八頭の象が支えており、八方から佛敵より佛法を護り、宝珠の周りには、凡夫の煩悩を焼き尽くす火焔(かえん)が、勢いよく燃え盛っています。 聖徳太子殿の「輪島塗 高蒔絵」 日本の伝統技法の輪島塗りによる高蒔絵は、最高品質の漆を盛って、乾かないうちに松煙(しょうえん)を蒔きこみ、盛り上げ固めます。入手困難な「舟鼠(ふなねずみ)の蒔絵筆」を用い、輪島塗職人の二年間にわたる努力の末に完成しました。十枚の扉に浮かび上がる金色の『十七条憲法』の銘文は、職人会心の傑作です。 松竹梅と獅子 念佛宗(念仏宗)無量寿寺の宮殿下部には獅子が八方を護り、吉祥紋様の松竹梅が施されています。 風雪や厳寒に耐えて緑を保つ常磐木(ときわぎ)の「松」と「竹」、春、百花に先駆けて花開く「梅」を長寿・高潔・節操・清純などの象徴として「歳寒三友(さいかんさんゆう)」とも呼び、その吉祥紋様を背景に、獣類中、最も勇敢で高貴な、百獣の王の獅子が、宮殿を護っています。
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【新潟県謡曲古跡めぐり上越編】1日目9箇所目 2021/6/27ー28
能「壇風」「田村」
水俣観音堂 《 糸魚川市水俣 》 水保観音堂の創建は不詳ですが泰澄大師が養老年間(717~724年)に開いたとも弘法大師空海が大同元年(806)に開いたとも云われています。
その後、坂上田村麻呂が当地を訪れた際、境内が整えられ寺院として草創したそうです。当時は吉祥院に属し、信仰を広げ最盛期には七堂伽藍を備た大寺院として周囲にも大きな影響力を持ちました。古くから神仏習合し隣接する日吉神社の祭祀を担っていましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により吉祥院が廃寺となり日吉神社と観音堂だけが残され現在は宝伝寺の境外仏堂となり周囲の信者によって管理されています。
水保観音堂には棟札が残されていて明和5年(1768)に建てられ、棟梁が倉若七右衛門、脇棟梁が宮原与右衛門、下役が小杉久右衛門だったことがわかっています。水俣観音堂は木造平屋建て、寄棟、鉄板葺(旧茅葺)、桁行5間、梁間5間、平入、外壁は真壁造り板張り、四方浜縁、高欄付き、中世の密教寺院建築の特徴を残し地域に残る修験道場の遺構としても貴重な存在です。
寺宝には大正1���年(1923)に国重要文化財に指定された「木造十一面観音立像」(平安時代中期~後期の作と推定、桜材の一木造、頭部の天冠台には様々な表情をした十一面が墨書、像高1.548m、鉈彫り、33年に一度の開帳、身をもって集落の火災を防いだという伝説が残っていて火伏の観音さまとして信仰の対象となり住民からは「水保の観音さん」と呼ばれています。)や男神像(2躯、室町時代作と推定、像高27㎝、23.5㎝)や鋳銅製鰐口(貞享3年作、鋳師:高田土肥藤右衛門藤原朝臣家次、施主:糸魚川高野清右衛門季林敬白)などがあります。 この仏像は、桜材の一木造りで、高さ1.548メートル。 平安時代中~後期(藤原時代)の作と推定されています。丸のみを横に用いて荒っぽく削る「鉈彫り」の技法で作られたものです。 この技法で彫られた例は新潟県には2例しかなく貴重な仏像です。 一般公開は33年に1回です。(平成16年8月27日~29日に一般公開されました)
又、水俣観音堂には鎌倉時代に後醍後天皇の倒幕に加担し佐渡に流され、本間一族に惨殺された日野資朝の子供阿新丸が十一面観音の霊力を受け父の敵を討ち果たし父の遺骨を境内に埋葬したという伝説があり資朝のもの思われる墓(五輪塔)もあります。毎年5月1日に行われる例大祭では日吉神社の神事の後、観音堂まで神輿渡御が行われ、さらに境内で神楽が奉納される神仏習合の名残が見られます。
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禮失而求諸野
H:禮失而求諸野,醫失而求偏方,人性也。平常心看待,走向好心情。20240703W3
網路字典:
禮失而求諸野
傳統的禮儀、文化有散失則求之於民間尚有保留的地方。《漢書.卷三○.藝文志》:「仲尼有言:『禮失而求諸野。』方今去聖久遠,道術缺廢,無所更索,彼九家者,不猶癒於野乎?」
力有未逮
能力有所不及。如:「本想奪魁,然力有未逮,終於落敗。」清.袁枚《子不語.卷二四.長樂奇冤》:「母喜,欲啟其石,而力有未逮。」
力不從心
成語出處
南朝·宋·范曄《後漢書·西域傳》:“今使者大兵未能得出,如諸國力不從心,東西南北自在也。”[1]
後世據此典故引申出成語“力不從心”。[1]
力不從心
成語:力不從心
心裡想做某事,力量卻無法達到。※◎語或本漢.班昭〈為兄超求代疏〉。典 源
漢.班昭〈為兄超求代疏〉(據《後漢書.卷四七.班梁列傳.班超》引)
※ 超之始出,志捐軀命,冀立微功,以自陳效。會陳睦之變,道路隔絕,超以一身轉側絕域,曉譬諸國,因其兵眾,每有攻戰,輒為先登,身被金夷,不避死亡。賴蒙陛下神靈,且得延命沙漠,至今積三十年。骨肉生離,不復相識。所與相隨時人士眾,皆已物故。超年最長,今且七十。衰老被病,頭髮無黑,兩手不仁,耳目不聰明,扶杖乃能行。雖欲竭盡其力,以報塞天恩,迫於歲暮,犬馬齒索。蠻夷之性,悖逆侮老,而超旦暮入地,久不見代,恐開姦宄之源,生逆亂之心,而卿大夫1>咸懷一切,莫肯遠慮。如有卒暴2>,超之氣力,不能從心,便為上損國家累世之功,下弃3>忠臣竭力之用,誠可痛也,故超萬里歸誠,自陳苦急,延頸踰望,三年於今,未蒙省錄。
〔注解〕
卿大夫:卿和大夫。後泛指貴族。
卒暴:突然發生的暴動。卒,音ㄘㄨˋ,突然。
弃:同「棄」 ※
《後漢書.卷八八.西域傳》
二十一年冬,車師前王、鄯善、焉耆等十八國俱遣子入侍,獻其珍寶。及得見,皆流涕稽首,願得都護。天子以中國初定,北邊未服,皆還其侍子,厚賞賜之。是時賢自負兵強,欲并兼西域,攻擊益甚。諸國聞都護不出,而侍子皆還,大憂恐,乃與敦煌太守檄,願留侍子以示莎車,言侍子見留,都護尋出,冀且息其兵。裴遵以狀聞,天子許之。二十二年,賢知都護不至,遂遺鄯善王安書,令絕通漢道。安不納而殺其使。賢大怒,發兵攻鄯善。安迎戰,兵敗,亡入山中。賢殺略千餘人而去。其冬,賢復攻殺龜茲王,遂兼其國。鄯善、焉耆諸國侍子久留敦煌,愁思,皆亡歸。鄯善王上書,願復遣子入侍,更請都護。都護不出,誠迫於匈奴。天子報曰:「今使者大兵未能得出,如諸國力不從心,東西南北自在也。」於是鄯善、車師復
書 證
《後漢書.卷八八.西域傳》:「今使者大兵未能得出,如諸國力不從心,東西南北自在也。」
《洛陽伽藍記.卷一.永寧寺》:「京師士眾,未習軍旅,雖皆義勇,力不從心。」
《醒世恆言.卷三.賣油郎獨占花魁》:「只是小娘子千金聲價,小可家貧力薄,如何擺布,也是力不從心了。」
《東周列國志》第二八回:「萬一力不從心,惟有一死,以謝先君而已。」
《官場現形記》第二四回:「無奈溥四爺提筆在手,欲寫而力不從心,半天畫了兩畫,一個『麗』字寫了寫不對。」
《二十年目睹之怪現狀》第一○七回:「弓兵伺候了老爺十年多,老爺平日待我們十分恩厚;不過,缺苦官窮,有心要調劑我們,也力不從心罷了。」
懼庵先生文集/卷六
懼庵先生文集
←卷五懼庵先生文集
卷之六
作者:李樹仁
1860年卷七→
記
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皇南殿碑閣記
編輯
於戲。此乃新羅敬順王撰實碑閣也。夫有盛德至仁。必碑之。碑必有閣以覆之。此閣之所以建也。王之至仁。在不以養人者害人。雖異乎周大王遷國圖存。而有虞羣後德讓之風。其詳已見於碑撰中。今不必架疊。而所可書者。其惟竪碑建閣之顚末乎。蓋東京之有敬順王殿舊矣。中移於東川。又移此皇南。自經累百年。迄未有顯刻。是爲姓孫與輿情之所慨惜矣。迺於今上甲戌。觀察使金公魯應以本道伯。始顯刻竪之而遽遞歸。閣則未也。何幸今廵相魯敬。以前廵相堂親。復按節是道。以爲碑旣竪。當有閣。是役不可緩。遂敕族弟之爲月城鎭長金公魯甲幹其事。鎭長公乃竭蹷效誠。逐日監蕫之。而殿郞金君思一亦與其勞焉。役始於是年之仲春。斷手數旬之內。而亦不煩民力。於是乎翼然華構。照耀貞珉。可以永垂輝於千百歲矣。一日殿郞君來訪。跽而言曰吾始祖敬順王碑閣成。請一言以識之。不佞以不文辭不獲。遂敢歷敘顚末如右。而竊有所感歎於中者。夫爲子孫尊慕先世。雖人情所不已。而推尊慕之思。至百世之��。非追遠之誠之至。不能也。且殿前顯劖。始成於前廵相公。繼之以傑然華閣之建。又在於今廵相公。鎭長公幹事之贒勞。又在於是時。皆不出廵相公一家之內。是知天之相是役蓋有待。而故家追遠報本之誠。尤可見矣。雖然是豈徒以子孫之誠言之哉。曾氏傳曰於戲前王不忘。繼之曰君子贒其贒而親其親。苟非王盛德至善。使後人沒世而不忘。則君子親親之篤。亦安能如是也。此吾所以因子姓慕先之誠。想先王盛德之使然。而自不覺感歎之至。乃於記事之餘。又此娓娓而不厭也。
三槐亭記
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亭以三槐名。識先人手植也。亭之主爲誰。吾宗李君。華宅其名也。君之先通判公昆季四房。公居��。金崑玉季。輝暎一門。人稱李氏四珠樹。公幼時與諸弟各植一槐於巷。曰吾昆季種福於此。以驗日後成就及子孫榮悴。及長。槐樹亦茁然而長。時値龍蛇難將作。公昆季已炳幾。遂皆慨然投筆。就槐樹下築壇。日習射。射藝俱精絶。公先登虎榜。仲及季氏次第拔身。獨第二房公早夭。槐一樹亦自隕。當海寇充斥東南。公共權忠毅,朴武毅諸公。倡義討賊。多立戰功。公之爵以是勳。仲季二公。同時奮起。俱通仕籍。仲氏官僉正。季氏官奉事。幷載諸贒倡義錄中。其三槐因傳以爲村號。子孫世居之。每遊息其下。輒撫樹興感。惟恐世代之遠而忘之。此亭之所以作也。亭經始於壬申春。朞年而落之。是役也。三派子姓。俱竭力效誠。而終始幹之。君是已。堂宇廳室。井井有序。名其中堂曰必敬。取周詩桑梓必敬之義。右軒曰花樹。取韋氏月會之義。其左軒姑未定。合而顔之曰三槐。以爲時會子孫。寓羹牆之慕雲。余嘗一造焉。君指槐樹而言曰此吾先祖所種也。其始種也。將以卜子孫之興替。目今樹鬱鬱。頗有向榮之意。而子孫之衰替尙如前。無乃樹木之榮枯。有不可驗。而先祖厚德之種。其無驗於後耶。語畢輒悽然不樂。余乃斂容而言曰無論福善之徵不徵。夥矣君慕先之誠也。夫詩人桑梓之敬。非敬桑梓也。實敬其親也。敬其親以及先祖之遠。而樹木猶爲所敬。則豈非曾氏所謂追遠之孝。而陳後山所稱存其思不忘遠者耶。嘗聞十年���計莫如種樹。百年莫如種德。吾知君家三槐。蓋與德俱種。必無百年不報之理。昔蘇長公銘王氏三槐。其文曰善惡之報。至於子孫。其定也久矣。天定久近之不齊。亦有數存乎其間。而其終也必定。以君先祖巍勳茂烈。樹立於板蕩之際。而旣位不滿其德。終然沒沒於百年之後。是必漑而不食。以待後人者明矣。雖然凡人家福慶。不必以榮貴自外至者爲美。吾觀君之家。弈世同根之宗。連枝交柯於丹丘一區。忠勳古宅。克守先人之業。斯其爲種德之報。又何必面槐三公。如王氏而後謂之福也。況芝蘭玉樹。多見後生之秀。璧沼榮名。藝苑華譽。有可以光門闌者。意者百年未定之天。其將自今而定。而其兆始發於樹乎。抑又有說焉。栽者必培。播而肯穫。必人事修而後。可以責報於天。豈可徒恃先人種德之厚而已。其將以是亭。兼爲藏書肄業之所。勉子弟以種學而務本也哉。君曰吾意也。因請左軒之扁。余命之以種學。君曰諾。吾然後知吾宗之福未艾也。
四而軒記
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吾東都之北。有曰安康里。蓋新羅故縣也。其地土沃而腴。井洌而甘。居人淳淳有古國風。或曰以其傍於四達之衢。故曰康。或曰地勢平而風氣順。民生之所安康也。吾友李君公亮。自良洞舊居。移卜於此。爲小軒以處。扁之曰四而。吾嘗往訪之。問其義。君笑而不答。高吟古擊壤歌一章。吾於是知其取康衢耕鑿之意。而心竊訝焉。君以大贒名家。生長詩禮之庭。所業者文學。所勉者行誼。而乃取田舍耕鑿之歌而顔其軒者。何其不相襯也。吾知君自謙之辭。而抑亦矯時俗好名之弊也。凡今俗士之役於名者。擧皆奔忙於文藝爭先之逕。不得則不休。幸而得之則又馳騖於紅塵紫陌。以至鍾鳴漏盡而不知息。蹈危履險而莫知避。此之不爲。則亦有求得竆林邃壑。糚點景物。養望當世。終南捷逕。少室索價。往往取識者之譏。乃若吾君。早謝詞場。不汲汲於必得。晩年卜築。又不取竆林邃壑。乃於四達康衢之傍。蓋此太平聖世。暮境閒居。旣非康樂開道。爲小民所驚。許汜問舍。爲豪士所譏。則惟此四而名軒。可見襟懷之出俗。古無名公。擊壤集詩所謂雖居人世上。卻是出人閒者。君其庶幾哉。噫。士生斯世。不於朝則野。野非君子之所願。然天下之士。不可皆立於朝。雖唐虞之世。亦豈無在野之贒哉。乃知康衢擊壤之老。未必無抱負之奇特。所處而安。無慕乎外。卽當日耕鑿之歌。又奚羨乎明良之賡歌也。顧今海東千一。堯日復明。淸朝際會。幾多吉士之彙征。而如君康濟於田野者。亦一聖代之遺逸也。況復地名得康衢。壽考兼康寧。信乎人與地之相得。有時高軒。煙月玲瓏。一曲昇平。陶然自樂。未知今日康衢之樂。比古人果何如也。雖然君之耕鑿。豈徒然哉。吾觀君常對聖贒書。不以老而廢休。得非丹田半畝。古井靈源。別有耕鑿之功而寓之扁者耶。矧且種學辛勤。靜中尋源。是乃家夫子詩集中語。而君所莊誦於平日。則知君故家獨得之樂。豈特含哺擊壤而已也。若余者雖居康衢之畔。半世忙了。未有閒適之趣。百憂叢裏。少無康寧之意。於君固多媿矣。安得買隣連牆。與君對酌衢樽。相和歌於是軒之上。終吾生而忘之也。旣爲之記。重以歌。歌曰。
唐堯聖世古康衢。吾東化域今康衢。今康衢猶古康衢。亦有老人壽且康。無已太康。好樂無荒。耕之鑿之。半畝方塘。
龍潭書堂記
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龜尾山下。崔君子成。卽杜巷翁忘年友也。近者就龍潭水石之勝。縛數間屋以處。欲爲晩年講學計。杜巷翁聞之喜。喜見於色。客有過而問之者曰。異哉翁之喜也。子成自在童稺時。以聰悟聞。甫弱冠。闊步騷壇。連擧發解。人皆謂朝夕當擅大名。取靑紫如摘髭。竟不利於禮部。乃今白首之年。深入林壑。與村秀才結社。爲尋數之地。凡爲子成親知者。莫不咄歎之。獨翁之喜見於色。其有說乎。翁莞爾而笑曰子豈知吾子成者哉。子成早承其先大人義方之訓。又得法門鉅儒如畸庵丈爲之師。其始屈首公車。黽勉爲擧子業者。豈以必得之心求之哉。將盡吾事而已。吾事之盡而不利於求是命也。於子成何有哉。吾嘗病世之爲擧業者。多一生奔忙。不得則不休。今於子成。竊有賀焉。蓋此龍潭一區。實其先大人所占。而畸庵公之所命名也。嘗因子成所錄示。吾得臥遊焉。潭之源始發於龜���西鹿柴豹林兩峯間。逶迤屈曲而來。其間奇巖異石。飛溜疊嶂。指不可勝僂。總之有三山五林四巖五臺焉。潭之水澄泓明澈。頫臨有石鱗活動狀。此其所以名龍潭也。今是庵直當潭之上數武。不侈不陋。政合幽人棲息講劘之所。方子成玅齡發軔之初。其大人乃付之以溪山幽靜之界。其意豈終以世路期之哉。又豈以水石之勝爲好哉。將以爲讀書竆究之地者明矣。今子成乃於數十年科臼之餘。回頭轉腳。於玆卜築。以無負家庭勸勉之遺意。則眞所謂肯堂構而善繼述者也。噫。名利外物也。得之與不得。無加損於己。而其得失又在於人。若學問竆究之工。非得意當世者所能。自昔贒人君子之成德而名於後者。多從山林竆苦中做出來。夫以子成之才之美。使之不遇於時。驅之以入山林者。彼造物者意。安知非玉汝於成也。斯人之表德。其將驗於是矣。誠使子成實用力於此事。俛焉日孜孜。充乎中而著乎外。則鄒聖所謂天爵之榮。豈特人世間浮名之得而已耶。夫然後子成得此龍潭而有成。龍潭遇子成而有名。吾之賀。不獨爲子成。亦賀是潭之有遭也。顧此半世迷途之人。日迫西山。悔之無及。今於相愛者之得其所歸。爲之喜津津。繼之以健羨也。客唯唯而去。未幾子成以堂之記。屬之翁甚勤。翁素不文。遂書問答之語歸之。翁爲誰。李樹仁性安。歲之紀何。靑豬仲春上澣也。
醒翁亭記
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吾友月城崔君翰汝甫。自盤溪舊居。尋石湖先莊。爲亭於六宜堂側。扁之曰醒翁。要余爲之記。余試問其義。君曰吾素不喜飮。平居每醒。爲吾記其實可乎。余曰世之不飮者何限。而君其獨以醒名之何也。君笑而不應。余曰昔歐陽子自號醉翁。記之曰醉翁之意不在酒。今君之醒。無乃不在酒而在於他乎。人生斯世。別有一大醉。有非麴糱而醉者。凡眼前外物之可欲者皆是也。人之醉於是也。如狂如癡。昏昏沉沉。東顚而西倒。前扶而後卻。無廉無恥。都喪其本然之天。終然醉生夢死而不自覺者。擧一世而滔滔。今君之醒以自號者。其欲醒於是乎。君乃蹶然而起曰是哉是哉。吾名亭之意。實不在於酒。公其知我乎。請畢其說。余曰然。夫以麴糱之酒言之。其始豈亶使人酣飮而沉醉之耶。其醇然之味。薰然之氣。可以祭祀而通神明。燕樂而介眉壽。合���之以是。養性之以是。此古昔聖人所以重是酒而著於經。嚴之以禮防者皆是也。但飮之者。常極其欲而過於度。以至腐腸而生疾。滅德而喪儀。甚至敗國亡家者。紛不知其幾何。於是乎乃知非酒之醉人。人自醉於酒也。若夫世間許多事物之於人。不可一日廢者。豈特麴糱之於人哉。只在吾人日用間。斟酌而適於度。酬酢而得其宜。常不失中和之道。則斯其爲醒之之道。曷嘗棄而絶之。不使接於吾之身然後謂之醒哉。嗟夫。歷觀終古醒者幾人。聖人生而醒者也。贒人學而醒者也。其次勉而醒者也。彼釋氏之戒飮而頓悟。道家之長齋而淸凈。非吾道也。固無足道。至若屈三閭之獨醒。雖若可尙。而矯枉過直。自取沉身之禍。亦非吾所謂醒也。乃今君以淸介之姿。處衆醉之世。獨以一醒字揭於軒者。其志豈不偉歟。雖然醒豈易言哉。自非大聖人如吾夫子。從所欲不踰矩。至酒無量不及醉。則夫孰有不學而醒者乎。然則君子之學而能醒者必有其法。嘗聞謝上蔡惺惺法。實有得於程氏主敬之學矣。吾竊以爲惺之一字。眞學醒之要訣也。醒之字從酒。惺之字從心。醒於心而後。醒於酒可幾。苟使一日十二時。常喚此心之惺。無所間斷。則將見人慾日消。天理日明。世間許多外物之可欲者。擧不爲吾心之累矣。夫然後向所謂斟酌而適於度。酬酢而得其宜者。不待他求而得之於此矣。君斂容而言曰公之言。眞喚吾醒矣。遂相對一酌而罷。上章執徐竹醉節書。
東湖書社記
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吾東都故址。多名勝。如半月城,鮑石亭,鳳凰,瞻星之爲臺。皆名勝也。然其不爲城市之所喧囂。車馬之所雜遝。而正合士子之所藏修者。惟鴈鴨湖一區爲最。是湖在府東數里許。中有數畝方池。夙著浮草之異。亦多有鴈鴨之翔集故名之。槩其幽夐窈閴。爲城市傍一山林。是蓋故都遊觀之所。而廢棄爲荒墟者。幾千有餘年。月城崔君義兼。自其先王考居是湖傍。嘗指點而異之。欲構一屋子。爲子姪敎育之所而未就。歷世逮於君。欲如先人志。與從昆季合謀鳩材。以丙子四子之辰。竪亭於是。不日而成。仍薙荊榛浚方池。奇形異蹟。色色呈露。益之以竹樹花卉環列左右。各有題目。如坎島萍嶼合之爲十二景。亭旣成。義兼請余記其事。余試問曰世之擇勝地爲亭榭者何限。非耽盃酒玩景物爲事。必志業晼晩隱遯山林者多爲之。君之爲此。無乃太早計乎。君乃斂袵而言曰小子何敢爾。旣有先人遺志。將爲讀書計也。余曰然則信好事也。夫君子貴躳行。讀書則以餘力。然非讀書。無以竆理而爲躳行地。是豈可以餘事而忽之也。今君以聰悟之姿。年又富。正讀書時也。況此一區勝地。得之咫尺之地。若天公之有待者然。君如有志乎方冊。何必匡山之深而西山之高哉。不離孝弟之庭而餘力可及。此君之先王考所留意。而君能成之。所謂肯堂構善繼述者也。吾雖未及登斯亭而可想之矣。西近文宣廟。仰杏壇之遺風。東望孤雲莊。襲桂苑之餘芬。十二奇景。無非怡神養性之具。則眞讀書所哉。君果能居於斯處於斯。明牕淨幾。朝益暮習。俛焉孜孜而有得焉。則亦必有聞風而朋來者。吾東都多士之興。未必非是亭之爲助。是豈等閒諸名勝之比哉。雖然非讀書之爲難。惟眞讀書爲難。所謂眞讀書。其法在朱子書。此可以師。如或不然。徒從事於口耳。無實得於心。則將不免買櫝還珠之譏。雖腹貯五經何益。此則君必自知之。且有一說焉。自家好田地。自在方寸間。果能用力而更新。則仁智山水之樂。豈特外物之玩而已耶。朱夫子觀書吟所謂半畝方塘一鑑開。天光雲影共徘徊者。可得之於此矣。以吾相愛之深。爲此不逮之言以勉之。因爲之記。
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天赦日是什麼?有什麼禁忌?
古書記載:「春赦戊寅夏甲午。戊申赦日喜秋逢。三冬甲子甚為吉。百事遇禍反為福。其日可以緩(刑獄),雪(冤枉),施(恩惠)。」可見「天赦日」是向玉皇大帝懺悔,��求赦罪的好日子,希望玉皇大帝可以寬恕、赦���自己的罪孽,這一天只要是祈福說好話、做好事,都是百無禁忌,唯一禁忌為不宜殺生,因為上天有好生之德。
2023年天赦日是哪幾天?
國曆 1 月 6 日(農曆 12 月 15 日)
國歷 1 月 30 日(農曆 1 月 9 日)
國曆 3 月 21 日(農曆 2 月 30 日)
國曆 6 月 5 日(農曆 4 月 18 日)
國曆 7 月 23 日(農曆 6 月 6 日)
國曆 8 月 18 日(農曆 7 月 3 日)
國曆 10 月 17 日(農曆 9 月 3 日)
以國曆來說,天赦日2023年有7天,若以農曆來說,則有8天,多的一天在國曆2024年1月1日(農曆11月20日)。
廟宇介紹
「松山慈祐宮」肇建於清高宗乾隆十八年(西元1753年)。雍正末年閩南泉州籍僧人衡真(俗名林守義),由福建湄洲天后宮奉天上聖母神像,渡海於滬尾(今日新北市淡水區)登陸,沿途化緣,乾隆年間行抵錫口(今臺北市松山區),因當地士紳多祖籍泉州,對海神媽祖信仰真摯,乃倡議留下金身供奉,在乾隆十八年覓地建廟,乾隆二十二年竣工。與一般媽祖廟不同,「松山慈祐宮」並不面向水域,反倒是背水朝山,在風水學上,松山地形狀似鯉魚,北濱基隆河,南對大尖山,是風水絕佳之「鯉魚穴」。 松山慈祐宮建宮260年紀念鐘塔,日本愛媛縣松山市贈送。 一樓大殿:天上聖母、千里眼將軍、順風耳將軍 一樓各廂:福德正神、地藏菩薩、阿難尊者、目連尊者、五營神中壇元帥、虎爺、開山先靈神位、功德先賢祿位 二樓太歲殿:斗姥元君、六十值年太歲星君、護法神左輔右弼大將 二樓註生殿:註生娘娘、十二婆姐、杜玉娘夫人 三樓佛祖殿:觀音佛祖(南海觀音、千手觀音)、善才龍女、文殊菩薩、普賢菩薩、韋馱菩薩、伽藍菩薩、十八羅漢、彌勒佛 四樓帝君殿:關聖帝君、關平太子、周倉將軍、孚佑帝君、灶君、清水祖師、文昌帝君、魁星、水仙王、保儀大夫、廣澤尊王、五營神中壇元帥 五樓三清殿:三清道祖、三教教主(釋迦文佛、太上老君、孔子先師)、南極長生大帝、北極紫微大帝、馬靈官、趙元帥、地母娘娘、太陽星君、太陰星君、神農大帝
金剛經:一切有為法,如夢、幻、泡、影;如露,亦如電,應作如是觀。」
宣揚金剛經功德超過1億美金
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燒翅譚/黑田依直
遠き夢で視し街の邊にきみが呼ぶ 紅い靴がまだ見つからないと
少女おそらく紫苑の転生 舞台から逃げて暗転、Deusは凍る
きみの背中に降る雨滴の靑色にひらく羽から冬は始まる
天使はむしろ聲といふ傳へ 寒月のたゆたひの眼の色のうすべに
てのひらに揚羽蝶纏はせわが戀は夕紅のいろ、血の月の色
夢が生む絹を纏ひて海へゆく かたへのきみは生者だら��か
傷ついた腦髄ふかく鐘は鳴る ここには教會も葬儀もないが
「一切は夢、われらは月の光芒の殘滓」貘はけふも嘯き
眠りこむ世界に蝶と蛾は舞つて目覺めにわれの血潮捧げむ
火の夜の口膣は濡れて 天秤の片邊の咎の芽吹き美し
穏やかに燃える市街 アンドレア、美しく刻を凍りつかせて
墮つるそのまなかひの滅紫 終焉は鐘のごとくに世に響けり
囀る鳥たちといふ初夏の嘘 エデンはふかき紫に燃ゆる
大空が黑紅に滿つ日われらすでに燃ゆる地を視るアダムなりきか
水面に映る星々 失寵の街に光る髪、わがジュスティーヌ
遠近法狂ひて燃ゆる街 生は永久に消えぬ火 滅びの日まで
天使消え人ら朽ちゆく火の夜に鐘は響ゐて千年が經つ
水漬く街、燃ゆる大空 屍には花の滅紫をひとつ與えよ
洪水の街 ふかく搖るる汝の髪はしづくとなりてアンスリウムに
空はすべて汝の眼に注がれ水底に沈みし都市は花とたゆたふ
燃ゆる舟が天に還りゆく日を待てり 少女らは水の底ひに唄ふ
水底の少女は祈る 花、伽藍、世界とくづれ空の靑さへ
落馬す騎士のまなかひの空、花瓣、歌、九重の衣の地獄のとびら
アケロンの畔に臥せる蒼貌の星より墮ちし天使の雙子
神が手を走らせし跡 黑馬が驅くる地に紫壇美しく燃えゆく
白樺の立つ原野にて問ひかける天使の腐爛 Noli Me Tangere.
花、伽藍、海原、こころ、刻、翼、この月の夜に燃え墮つるもの
きみの眼が光の中で閉じてゆく まだ見ぬ天にも夜はあらむか
また雨が、地上を汚す靑き火が降る 君の言葉と灰を流して
歌人の玉野勇希さんが主催された同人誌『ユーフォリクス Ver.1.5』に掲載された、僕の連作になります。物語としての連作の実験でもあります。
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高野山 普賢院 宿坊 (寺院管理的旅館)
高野山 普賢院 宿坊 (寺院管理的旅館)
若同修有需要在高野山留宿, 可以考慮住在高野山 普賢院 宿坊, 理由如下 :-
1) 離落車的巴士站, 祇需步行3分鐘,
2) 房間有自己的洗手間(坐厠), (宿坊一般沒有提供私人獨立洗手間) 浴室則共用,
3) 早課, 抄經, 早晚餐 (同其他宿坊提供的差不多, 早課相當認真)
4) 早課後, 加插去舍利殿瞻禮從尼泊爾請回來的佛舍利,
5) 可步行約10分鐘去金剛峰寺和壇上伽藍, 省卻等公車的時間,
6) 位處於高野山市中心, 午膳, 超市, 手信, 5分鐘步行圈,
7) 我最感恩的是師父的慈悲友善接待,
p.s. 因冬天, 山上訪客稀���, 臨時取消幾斑直往離波的火車, 唯有在橋本站轉車返回離波, 時間用多了的 30分鐘.
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佛法信願行(十四)圓滿虧欠姐姐的業力
以下一位有緣人分享,來文照登:
跟姐姐年齡差七歲的我,從小就ㄧ直受姐姐照顧。因為姐姐比較早出社會工作��錢,我學生時期需要的很多資源,都是姐姐花錢買給我的。幾年前我們曾經ㄧ起工作,只要我ㄧ點小事做不好,姐姐就很容易把不開心寫在臉上,甚至有時會出現怒瞪我的眼神。於是我和她的相處不是很愉快,就越來越少互動,後來就沒在一起工作了。
由於當時不懂內省,也未接觸精舍問事,沒有唸經,沒有因果意識,所以跟著事事計較,不尊重姐姐。到後來兩人甚至變成仇人般,完全互不往來。
後來接觸精舍唸經幾年後,才對陽世業主菩薩有點瞭解,於是主動網路填單問事,佛菩薩慈悲,開示我和姐姐兩人有相欠:「前二世,因利益衝突,拿刀殺自己的姐姐,致傷重半身不遂,需先以最虔誠的懺悔心跟其懺悔,並誠心持誦《金剛經》、《藥師經》、《地藏經》三經各110遍。」這條業障迴向到第三次才圓滿,讀誦經文的過程,剛好也在消過去世曾經修偏入外道的業障,干擾不斷,所以很多經文的功德不足。
記得第一年剛開始唸這筆業債時,過年家族團圓吃飯,我們完全沒有講話。第二年過年吃飯時,這筆業債還沒圓滿,正在補誦經文,但姐姐會主動跟我講幾句話。今年第三年過年吃飯時,雖然還是在補誦經文,但只剩幾部就可以迴向,我們已經可以聊上幾句話了(目前已迴向圓滿)。
這幾年因結婚,和姐姐各自生活,我請示了業障,開始懺悔讀經,才逐漸改變我和姐姐的關係。我發現人需要經過內省,才會發現身邊的陽世業主菩薩,才有問事的行動。
我累世累劫以來,就是因為不信因果、不信報應,才會為了利益而犯下大錯,這世的我,身邊家人都是我的陽世業主菩薩。如果真的懂得因果報應,我想不會犯下這麼多條的業障,在這世不停的補償自己當初犯下的錯。
《阿伯的話—現場開示精華節錄》:「有苦過,但苦不到心坎裡,就不會想要好好修行;若有苦到心坎裡,苦過、痛過、磨過、哭過,才能痛下決心。」我讀誦經文學習佛法的過程,就如同阿伯所說,每一次業障開出前,都會經歷一段很長的痛苦期,開出業障後,就真心懺悔與努力消業誦經。
感謝業主菩薩,讓我藉由內省、懺悔、慈悲、喜捨布施、吃素、發經書、寫因果文度眾等一連串的經歷而改變,成就自己。阿彌陀佛!
(分享完畢)
人生在世,不如意事,十常八九,但是有人選擇怨天尤人,有人選擇內觀自省。每個人的��擇,都直接影響了未來的命運。
生活長期處於挫折與阻礙,若缺乏因果觀念,以積極、正向、光明的思惟引導,有些人會陷入受害者情節,出現自我懷疑、負面消極的情緒和行為,覺得抑鬱、憤怒、自憐,抱怨這個世界或是某某人總是對他不公平,也會想要攀緣,藉由吐苦水尋求他人的同情和關心。但是這些思考和行為模式,都是把重點放在檢討別人,覺得自己無辜,錯不在己,既然錯不在己,就不用承擔責任,當然也不需要改變......等錯誤的心態。
又或者,有些人當別人對他不好,他也會對別人不好。沒有人想要被罵、被羞辱,即使是被討報者,若不明因果業報,自然不願意一直挨打,可一旦反擊回去,上演冤冤相報何時了的戲碼,業力網只會越結越密。一般佛菩薩開示業力總清,通常就是指這類累世疊加相欠的討報業力。但我們來這世間是為了解冤業,不是為了造新業,所以,必須修行,改變思考模式和行動。
有緣人在未學佛前,也是不懂得反省。姐姐對她態度不好,她也跟著不尊重姐姐,到後來,兩人甚至如仇人般互不往來。幸好接觸佛法後,她學會自省。
《阿伯的話—現場開示精華節錄》:「別人怎樣待我是我的因果、我的業障,我怎樣待別人是我的修行、我的涵養。修行修得如何?就是看言行一致。他們造他們的,你修你的,不要一直在意別人所說的,是要在意自己所做的。有些境是在幫你消業。」
人要提升心性,必須從面對自己的錯誤開始。生活嚐到苦頭,先檢討自己哪裡做錯,確實有錯,改過便是,感恩對方的提醒。但若是與對方磨擦不斷,可能要考慮從佛法的因果業報下手。
有緣人請示與姐姐過去世是否相欠,佛菩薩開示她前二世殺害姐姐致傷重半身不遂,她花了三年的時間真心懺悔與唸經,圓滿與姐姐相欠的業力,使姐姐的靈識不再被仇恨牽著走,倆人才能重新回到正常的家人關係。
每一次業障開出前,儘管有緣人和大部分受報者一樣,都會經歷一段很長的痛苦期,但吃苦了苦,因為唸經,受報之苦反而成為磨練有緣人成長的養分,讓她懂得用心反省與改過。《六祖壇經》:「苦口的是良藥,逆耳必是忠言;改過必生智慧,護短心內非賢。日用常行饒益,成道非由施錢;菩提只向心覓,何勞向外求玄?聽說依此修行,西方只在目前。」
面對往昔所造諸惡業,無論是家人、朋友、同事還是上司,是陽世還是靈界的業主菩薩,只要肯真心誠意地承認過錯,改過遷善,拿出行動唸經,開示的經文數終有達標的一天。南無大慈大悲觀世音菩薩摩訶薩!
南無本師釋迦牟尼佛
南無藥師琉璃光如來
南無阿彌陀佛
南無大悲觀世音菩薩
南無大願地藏王菩薩
南無韋馱菩薩
南無伽藍菩薩
南無十方一切諸佛菩薩摩訶薩
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世界最大石灯籠製作 世界ギネス記録認定 念佛宗佛教之王堂 The Largest Stone Lanterns in the world The Buddhist Art of Nenbutsushu
念仏宗無量寿寺(念佛宗) 総本山 佛教之王堂
三国伝来の佛教美術 石灯籠
世界ギネス記録認定 概要 高さ:12m 幅:7.4m Height:12m Width:7.4m 本堂前 左右石灯籠 Stone Lantern The Guinness World Records ギネス世界記録認定 平成二十年四月二十八日 衆生の心を不断の光明で照らし、仏道へと導く。 世界最大の本堂につりあう灯籠を計画すると、灯篭も世界最大になった。
本堂前の二基の灯籠は高さ12 メートル(4 階建の高さ)、世界最大、ギネス世界記録認定となっている。
台座部分には「龍の阿吽形」、「鳳凰の阿吽形」が彫刻されている。
本堂 阿弥陀堂
高さ51.5m(基壇、棟飾り込)、桁行(幅)67.9m、梁間(奥行)58.2m 天井までの高さ約32m(11階建ての建物が入る)、天井大彫刻は48畳 破風 一辺25m、合計50m 平瓦 幅1.7尺、奥行1.9尺(世界最大) 十二万四千枚 畳数 888枚 欄間彫刻 堂内488点 柱など堂内は拭き漆仕上げ 上段は六手先総詰組様式、下段は四手先総詰組様式。 上層部に扇垂木を用いた日本建築史上初の佛教建築であり、屋根上に12万4千枚の瓦が敷かれている。 その瓦の波の頂上に聳える鬼瓦は、鬼師・梶川亮治氏制作。 (ギネス世界記録認定・平成19年2月28日公式認証・高さ9m、幅8.8m、先端部経之巻の直径91cm) 鬼の憤怒の形相が、衆生の心中に潜む煩悩を払い、清浄無垢な心を顕現させます。 軒下最上層部の周囲には、手先詰組の間に、釈迦如来像八十体が四方へ向かって遍く衆生済度を勧められ、その下層部には八十八体の龍、蟇股には、表に龍、内に等身大の飛天それぞれ百四体、また、本堂全体で十万枚を超える金色に輝く飾り金具が、荘麗なる浄土の世界を厳飾しています。 堂内には、金箔二重貼り、六手先総詰組、屋根葺面積226.2㎡、総数16,000枚の瓦を使用した宮殿(くうでん)(高さ19m、幅19.98m、奥行12.36m)、その中に在して、大慈悲の光明にて十方世界を照らすが如く輝きわたる本尊阿弥陀三尊佛は、中華人民共和国、工芸美術大師・佘國平佛師制作の総高8.45mの木彫佛像です。 伽藍全体で一万点以上の木彫群、宮殿上に配す幅22.6m、高さ3mの双龍彫刻、宮殿の両脇に四階建てビルの高さに匹敵する全高11mの彫刻が、鳳凰、松竹梅等を刻んで納められている。 また、本堂内壁は、三阪雅彦画伯により、総面積852.9平方メートルに及ぶ金箔襖に色彩豊かに描かれた鳳凰及び瑞雲、また、下部に描かれた蓮華が相俟って、浄土の光景を彷彿させる。
本堂全体で2,987点に及ぶ木彫群、百四十四枚の桟唐戸、また、本堂前に鎮座する一塊の巨岩を彫り込んだ巨大な天水鉢(全高2.2m、幅3.5m、奥行3.5m)等々、世界に二つとない彫刻・工芸の奥深い造形の数々は、どれほどの時をかけても見尽くすことができないものであり、それぞれが調和しつつ、妙なる浄土賛歌を奏でる情景は、参詣する者全てに御佛への畏敬の念を起こさせずにはおかない。
全世界 仏教徒の聖地 「佛教之王堂」念佛宗 総本山 無量壽寺 仏教美術の宝箱 故タイ法王猊下 世界各国の仏教最高指導者 並びに カンボジア王国 故ノロドム・シアヌーク国王陛下の御聖骨がお祀りされている寺院です。 佛教之王堂は佛法に基づいて建立され 建物全ての部位に、仏縁を結ぶ教えが込められています。
伽藍工事全体、およそ7年間で10,524点の彫刻、450,173点を超える彫金が製作されました。
The Royal Grand Hall of Buddhism - Nenbutsushu Buddhist Sect of Japan The sacred place for all Buddhists in the world The Royal Grand Hall of Buddhism
仏教美術の宝箱 Buddhist Art / nenbutsushubuddhistart
念佛宗公式 Official / royalgrandhallofbuddhism https://muryojyu.com
Buddhism has its origin in IndiaBuddhist cultures of China, Korea, and Japan are represented hereat the Royal Grand Hall of Buddhism. It is the first construction of an authentic full-scale Buddhist temple since the erection of the main temple of Obakushu Buddhist Sect in 1661.A total of roughly 3.5 million people joined forces to construct the Royal Grand Hall of Buddhism and completed the entire temple in only seven years without even a single accident.The Royal Grand Hall of Buddhism, in its vast precincts of over 180 hectares, has the Front Gate, the North Gate, the South Gate, the Main Gate, the Washstand, the Ksitigarbha Hall, the Prince Shotoku Hall, the Five-story Pagoda, the North Bell Tower, the South Bell Tower, the Main Halls including the Amida Hall and the Sakyamuni Hall and the Avalokitesvara Hall, the Sutra Hall, the Merit-transference Hall, the Okunoin Hall, the International Buddhist Conference Hall, the Sangha Hall, and the Main Building. All the buildings are decorated with 10,524 sculptures and statues and more than 450,173 metal carvings.
この動画は、個人が念佛宗の資料などを元に作成しており公式なものではありません
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【新潟県謡曲古跡めぐり中越編】5箇所目 番外編その2 2021/6/28
見玉不動尊 《 中魚沼郡津南町秋成 》 見玉不動尊(正宝院) 見玉山(みだまさん)正宝院(見玉不動尊)町内の見玉にある、天台宗のお寺です。その由来は、文治元年、壇の浦の合戦で平家が滅びた翌文治二年、平清盛の家臣宮本清左ェ門がお告げによって平家の守護神である不動明王を奉持して見玉村にいたって安置し、自ら初代住職となって正宝院が誕生しました。したがって本尊は不動明王で、像の裏に「清盛内知見」の文字があったと伝えられています。 文政五年、伽藍四棟及び平清盛願文を焼失しましたが、本尊・不動明王は火災より何をのがれました。その後不動堂も大正三年焼失、大正八年に現在の不動堂が再建されました。本尊・不動明王は眼病に特に霊験があり、昔から多くの眼病治癒の逸話が残っています 北方高所の中腹に登る石段七〇段の上に本堂である不動堂が建ち、石段下の参堂入口に本堂を護持する正宝院と高さ二メートル半の金剛力士の仁王門を構えています 本堂と参道は老杉巨木におおわれ、本堂へ登る石段に沿う岩石の間を流れ落ちる清水は各所に滝をつくり、境内は真夏でも暑さを感じない自然に恵まれた、郡内屈指の霊地と言われています。
真夏はクーラーが聞いている部屋のように涼しいため、涼みにくる人が絶えません。 また、地元では隠れたパワースポットとして知られています。
【不動明王】 密教では如来が怒りの姿変じたのを教令輪真(きょうりょうりんしん)と呼び、毘廬遮那如来(びるしゃなにょらい)が大日如来(だいにちにょらい)として現れた、その教令輪真が不動明王と説かれています。 その威厳に満ちた姿から、すべての災いを屈服させるといわれ、さらに難行苦行に立ち向かう修行者を守ると信仰されています。
【仁王門】 寺院の門で左右の金剛座に仁王(金剛力士)像が配されているものは、建築様式にかかわらず仁王門といわれています。
【金剛力士(仁王)】 上半身は筋骨隆々とした裸体で、下半身に裳をつけて裾をたくしあげて、手には金剛杵(こんごうしょ)とよばれる仏具をもっている一対の像。 口を開いているものを阿形(あぎょう)、閉じているものを吽形(うんぎょう)と呼び、いずれも発声する時の口の形によります。 密教ではすべての法の始まりを「あ」として、世の中の一切のものを発生させるとし、終りを「うん」として、一切のものの帰着する徳があるといわれています。日本の「五十音」の始めと終りでもあります。 「あ」と発し「うん」とうける「相向守護」ともいわれています。 一般的には威厳のある顔や力強い体格に憧れ、健康を祈る信仰が強く、俗信でちぎった紙を口中で噛んでつばでまるめ、仁王の自分の身体の悪い部分や発達させたい部分に投げつけ、当たるとなおったり、強くなるといわれている。見玉不動尊の仁王にもいたるところに、ちぎった紙が貼り付いています。※現在、投げつけは行っておりません。 また、仁王は健脚を守ると考えられ、大小のわらじが奉納されてます。
【大火渡り護摩(防災招福祈願)】 毎年11月3日に境内で開催される行事です。裸足で火渡りをする山伏の気迫溢れる表情を間近でご覧いただくことができます。 火渡り護摩への一般参加も可能ですが、その際は実行委員の指示に従い、ご参加くださいますようお願いします。
観光時期 通年(期間:4月~12月 冬期:一部閉鎖) 料金 無料 定休日 無休
秋山郷の入口見玉にある天台宗のお寺です。その由来は、文治元年、壇ノ浦の合戦で平家が滅びた翌文治2年、平清盛の家臣宮本清左衛門がお告げによって平家の守護神である不動明王を捧持して見玉村にいたって安置し、自ら初代住職となって正宝院(しょうほういん)が誕生したとされています。 文政5年、伽藍四棟及び平清盛願文を焼失しましたが、本尊・不動明王は火災より難をのがれました。その後再び大正3年に焼失、大正8年に現在の不動堂が再建されました。本尊不動明王は眼病に特に霊験があり、昔から多くの眼病治癒の逸話が残っています。北方高所の中腹に登る石段70段の上に本堂である不動堂が建ち、石段下の参堂入口に本堂を護持する正宝院と高さ2メートル半の金剛力士の仁王門を構えています。本堂と参道は老杉巨木におおわれ、本堂へ登る石段に沿う岩石の間を流れ落ちる清水は各所に滝をつくり、境内は真夏でも暑さを感じない自然に恵まれた霊地と言われています。 なお、この寺の本山は比叡山延暦寺です。
駐車場から歩いて1分、お土産屋を横目に鳥居をくぐり見玉不動尊の聖域へ入ります。
鳥居をくぐった左手が正宝院。見玉不動尊のご利益について住職のありがたいお話を聞きながら御礼受付。正宝院の上には大黒殿がそびえ建ちます。
大黒殿の上にある六地蔵とボケ除け観音 大黒殿の上にあるお願い地蔵 お願い地蔵の写真です お願い地蔵の説明看板です 一般的には威厳のある顔や力強い体格に憧れ、健康を守る信仰が強く、俗信でちぎった紙を口中で噛んでつばでまるめ、仁王の自分の体の悪い部分や発達させたい部分に投げつけ、当たるとなおったり強くなると言われています。仁王は健脚を守ると考えられ、大小のわらじが奉納されています。
上半身は筋骨隆々とした裸体で、下半身に裳をつけて裾をたくしあげて、手には金剛杵(こんごうしょ)と呼ばれる仏具を持っている一対の像、金剛力士像。口が開いているものを阿形(あぎょう)、閉じているものを吽形と呼び、いずれも発声する時の口の形によります。
仁王門をくぐって本堂へ向う。急勾配な70段の石段。途中には「延命水」というご利益の高い水で喉を潤すことができます。
石段と平行して流れる7段の滝。その優雅な姿が癒しの空間を演出してくれます。仁王門の大杉3本は樹齢700年余りの古木で、400~500年前からの杉も幾本かあり、その大杉の間をぬって7つの滝(7段の滝)が冷たい浄水をおしげなく流して、夏も涼しくすこぶる美観です。
本堂脇には、眼病治癒をはじめ、多くの参拝者の願いが書かれた絵馬が並びます。
見玉不動尊の脇にはお土産屋さんもあり、津南町、秋山郷の特産品などここでしか買えない一品を手に入れることができます。
眼病治癒の逸話が残る見玉不動尊にはメグスリの木があります。メグスリの木を煎じたお茶もお土産として販売されており、しぶみの効いたおいしいお茶です。
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Two details from “An Illustrated Guide to Mount Kōya” (高野山案内図), a woodblock print map published during the Edo Period (1600-1868), the top detail showing the Oku no In area (奥の院) with its vast cemetery and the bottom one the central Danjōgaran area (壇上伽藍) with the Great Pagoda (根本大塔) and other key buildings
Images from the extensively illustrated site of the New Historic Map Society of Japan (新日本古地図学会), posted July 14, 2013 (see source)
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雪の高野山 (Wakayama Prefecture) https://www.instagram.com/p/CKONYWcA3CN/?igshid=99cusbvvbq72
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