#周防九曜
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024)3月22日(金曜日)
通巻第8186号
【書評】
ラピダスの2ナノ半導体は、「できっこない」のか
経済安全保障のアングルに特化、日本再生を展望する『元気の出る本』
平井宏治『新半導体戦争』(ワック)
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半導体戦争は米国vs中国がメインの戦場だが、半導体世界一は台湾のTSMC、韓国のサムスンとSKハイニックスであり、米国のインテルは後塵を拝している。だからバイデン政権はインテルに破格の195億ドルを支援し、捲土重来を期す。
アップルの新型iPhoneは3ナノ半導体を搭載している。すでに3ナノを量産するTSMCは次世代最先端の1・4ナノ開発センターを台湾に開設した。エヌビディアは新型半導体を発表し斯界の度肝を抜いた。
米国勢は頭脳部分の基本設計とルールを先に決めるのが得意だが、ものつくりはじつに下手くそ。そのくせ賃金が高いから、競争では負ける。インテルの優位回復は難儀するのではないか。
さてバイデン政権は対中政策を厳格にすると言いながら、最高機密はどんどん中国の盗まれており『ザル法』と化している。そのうえ米国の半導体業界はバイデンの対中政策に反対しているから話はややこしい。
評者(宮崎)も拙著『半導体戦争』(宝島社)で指摘しておいたが、半導体はもはや『産業のコメ』ではなく、『戦略物資』であり次世代の武器ならびに兵器システム、とくに兵士ロボットに用いられる。イラク戦争でピンポイント攻撃の制度が挙がったが、これから根本的に戦争形態が変わるのである。
1980年代に日本は世界半導体市場の80%を占めていた。その頃、TSMCは誕生もしていなかった。
それが様変わり、日本は先端の半導体競争ではるか後方にあって、もはや再生は不可能、絶望的と言われていた。
ラピダスが挑む2ナノは2027年量産開始予定だが、現実の日本の半導体は40ナノ程度の生産しか出来ない。その格差は九世代、台湾系エヌビィディアのCPUには十世代の開きがある。つまり、9から10の「周回遅れ」である。
そのうえ、第二の敗戦が重なり、「喪われた三十年」の間に半導体の技術者が日本から払底していた。優秀なエンジニアは外国企業に移籍した。
TSMCには適わないと鬱々としていた。それが日本の半導体業界の空気だった。
「ラピダスが2ナノを2027年につくる」と宣言するや、「できっこない」の大合唱が日本のビジネスジャーナリズムを覆い尽くした。筆者の平井氏もいささか懐疑的である。
たしかに2ナノ実現は「困難である」。しかし日本はこの目標を達成しなければならないのである。
嘗て日米半導体協定で日本を潰したのはアメリカである。
そのアメリカが「心変わり」。いきなり2ナノ半導体開発を日本に奨め、ラピダスに全面協力となった背景がある。IBMがラピダスを支援する態勢が急速に組まれ、突然、日本政府は9200億円の補助金を供与するまでになった。
これは戦後GHQが日本を非武装の三流農業国家として落とし込んできた占領政策を百八十度変えて、武装と産業復活を推奨し始めたこととに似ている。この基軸の転換の直接動機は朝鮮戦争だった。
半導体戦争で対日戦略をがらりと一変させたのは、まさに朝鮮戦争のケースと似ている。
すなわち平井宏治氏が指摘するように「米国は中国を『競争相手』と位置づけるが、中国は米国を『超限戦』の対象、『闘争相手』」なのである。
米国は中国に新技術を渡さないと決意し、ものつくりは『カントリーリスクの高い』台湾、韓国より日本がふさわしいという政治判断に至ったのだ。
なぜか。
ファーウェイの新製品に7ナノ半導体が使われていたが、これはADSLのエンジニアが機密データを中国に渡したこと、韓国、台湾からスカウトされて技術者たちが協力し、当該半導体は流通の「抜け穴」を通じて中国のSMICに漏れたからだ。
本書はつぎに��国にのめり込んでにっちもさっちもいかなくなったSBG(ソフトバンクグル���プ)と中国に売り上げの半分を依存する村田製作所の危ない体質に危険信号を発している。
また中国に甘いドイツですら、中国国防七校からの留学生を閉め出し始めた。オランダもそうしているが、日本はノーテンキに受け入れ続けている。アメリカは「中国人とみたらスパイと想え」という認識で留学生受けいれを厳格にしており、大学留学も一年ごとにヴィザの切り替えをさせている。
平和惚けの日本は自衛隊基地の近くに土地や不動産を中国人が購入しても放置してきた。国家安全保障という概念が欠落しているからだ。
次の指摘も重要だろう
「日本の経済安全保障推進法にある四つの重要事項、(1)重要物資の安定的な供給確保、(2)基幹インフラの安定提供、(3)先端的重要技術の開発を支援、(4)特許出願の非公開条項である。これらを基盤とした「セキュリティクリアランス制度」は、これすべて「半導体産業に関連する」のである。
平井氏は経済安全保障のアングルに絞り込んで、状況を分析しつつ、「眠れる半導体大国」の日本が再生するために何を為すべきかを具体的に述べる。理由
![Tumblr media](https://64.media.tumblr.com/56bb5671f2371e7c54c30fa6834820a4/8c5a699548b21ba2-6c/s540x810/64344c2fbcec4e569a90cbdbc5ae4e4bb829ed63.jpg)
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐���観察整段横融���白深字答夜製票況音申様財港���注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒��硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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雑記20240901
なにもどって来とんね���。予報円の中心にそびえたつ琵琶湖。そびえない。
九州・関西・東海・関東を中心に大禍をもたらした台風10号ですが、幸いにも僕の周囲では大きな被害はいまのところありません。まあ、予定はいろいろと狂いましたが、人的物的被害がないだけマシですね。
勢力が弱まっているとはいえ、月曜日どうなるんだろうこれ。そうこうしているうちにまた台風になりそうな熱帯低気圧があるらしいし、台風シーズン到来って感じですね。
もういっそのこと早く冬になってくれ。
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いまAmazonがセール中ですけど、そんなに欲しいものが無いんですよね。無理して買うもんじゃない。なんとなくクエン酸を買ってみました。疲労回復効果とか、あと洗濯とか掃除とかにも使えるし。
これとあと炭酸水を買ってます。鎮痛消炎剤、ジクロフェナクナトリウム(いわゆるボルタレン)のやつだけ売り切れているので、インドメタシンを注文。抜群に安い。
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日経の『死ぬまで減らない「不老不死」の金融資産の作り方』っていう記事(本の抜粋らしいけど)は、いいと思いました。要するにこれって、いま新NISAでやっている「つみたて投資」だけじゃダメってことなんですよね。
元本を殖やすという意味で、もちろんつみたて投資は有効です。この記事は、要するに「つみたて終わった後」の話をしているわけです。
勘違いしてほしくないのは、特にNISA枠のつみたて投資においては、一般的に配当(投信の場合は分配金のこと)が出ない投資信託のほうが投資効率がいいということです。配当が出る投信の場合、その配当分を再投資するとNISA枠を消費してしまうので、配当を出さずに基準価額(投資信託の換金額)が上がっていくほうが最終的に換金する場合の効率がいいわけです。
このあたりは債券も同じで、定期的に金利の支払いがあるクーポン債よりも、金利の支払いが無いストリップス債のほうが資本効率がいいのと同じです。
まあ、成長投資枠で高配当株を買うとか、ちょっとリスクを取ることも考えたほうがいいってことですね。資産が目減りしていくだけになってしまうので。それを突き詰めていくとFIREっていう話になっていくんですけど、余裕資金でバランスよく資産を構成するのがいいと思います。
なので、少額でも買いやすいNTT(日本電信電話)なんかが人気になるんでしょうね。利回り3%があって、なおかつ景気変動にも強いので。
健康のために一生働き続けたい! という人にはあんまり関係ない話かもしれない。僕は会社を休職してわかったけど、社会的な交流が無くなっても苦にならない人間(むしろ健康になった)なので、お金に働いてもらう算段は仕事よりも熱心に取り組んでるから。真面目に働けよ。
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僕がいま積み立てている投資信託は、NISA以外で何本かあるんですけど、先日から始まった大和証券さんのベトナム株インデックスファンドを積み立てています。と言っても、毎週木曜日に1000円分を発注するだけっていう、極めて小規模なものです。
そもそも、僕自身は新興国の投信についてはいまいちだなと思っている節があって、引いてはそれが日本で人気のオルカンとか、全世界株式インデックス投信への不信へ繋がっています。
eMAXISの新興国株式インデックスに10年近く積み立てていたものの、ほぼ同額を積み立てていた全世界高配当銘柄投資のアクティブファンドにボロ負けしているんですよね。中国が足を引っ張ったっていう一面もあるんですけど。こりゃダメだなと思って解約しました。
それでも、新興国をノーマークなのはバランス的には良くないと思って、金投資とほぼ同額をベトナムに突っ込んでいます。保険みたいなもの。
インドじゃなくてベトナムです。
日本だとインドが人気みたいですけど、僕の肌感覚だと、インドよりベトナムなんですよね。京都周辺の村田製作所とか堀場製作所とかオムロンとか京セラとか任天堂とかパナソニックとかの社員さんと話をしたりして、あとはソフトウェア関連でもインドよりベトナムへ進出しているほうが多いので、僕が死ぬまでに、インドより平均的に、高確率で現代化するのはベトナムだろうと。もう僕もおじさんなんでね。金融資産を引き継がせたい子孫がいないので、ベトナムでいいんです。
インドは中国やパキスタンと国境紛争を抱えていること、全方位外交がこれから不利になる可能性が高いこと、国内政治の不安定さや身分差別(カースト制度)の残存、宗教政策など社会的不安定性がベトナムより遥かに高い、という点もマイナスです。
その点、社会主義を標榜しながら極めて民主主義に近い政策を取り、外交巧者であるベトナムは社会情勢が安定しているので、日本企業も進出しやすい。高度な工業化が進んだ中国の代替になるのはインドではなくベトナムで、さらに中国よりも政権の親和性が資本主義陣営に近いので、少なくとも僕が死ぬまでにはインドよりベトナムという選択肢になります。
たとえば、マレーシアなどは日本からの距離的・シーレーン防衛の観点からはベトナムよりも優先度が高くなりそうにも思えますが、宗教問題や民族構成の複雑さから治安が悪く、日本の大手企業からは敬遠されています。
ベトナムの問題点は汚職と言われていますが、宗教問題や民族間対立より遥かに軽いです。汚職を言い出したら、それこそ中国には投資��きませんので。
インドよりベトナム。どうです、ベトナム投資。
みんな、GDPで日本がインドに抜かれる! みたいな数学的な問題と、経済と国民生活の実態をごっちゃにして見ているでしょ。国民全体が享受できる豊かさ、経済市況の安定さはそういう統計学上の数字とは別物だって、中国経済の実態が見えた今こそ、本当は分かっていると思うんだけど。結局、図体のデカさに騙されていたんだよね。
そこで気付いたのが、ああ、今のインドって、昔の中国と同じだ、っていうこと。華やかなりし未来を期待され、人口が増え続け、経済成長が続いてく、先進国が失ったすべてを持っている、輝かしい未来を仮託された国家だって。危うく、同じ轍を踏むところだったと。
ポーランドやチェコなんかの中欧諸国とインド、どっちが先進的で現代的だと思う? 統計学的なトリックじゃなくて、実態に即した数字もきちんと考慮して投資しないと、10年以上投資してやっと失敗だと気付く僕みたいになりますよ。
これは先輩からの警告。
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和五年(2023)9月19日(火曜日)
通巻第7916号 <前日発行>
従来型の失脚、解任劇とパターンが異なる中国要人たちの『行方不明』
権力が固まり周囲が茶坊主だけになると陰湿な内ゲバ、讒言、陰謀が渦巻く
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失脚や解任理由によく使われるタームは「重大な規律違反」である。
第一は汚職、第二は機密漏洩、第三に路線対立による敵の排除。汚職は誰もがやっていることなので、よほどのヘマをしでかして周囲の嫉妬、恨みを買うか、「相場以上」の金銭物品あるいは手の届かない美女の要求など、しかし、これらの醜聞は日常茶飯で驚くに値しない。女性問題で政治家が失脚するのは日本くらいだ。
次の数字をご覧いただきたい。これは「規律違反」で裁かれた人の数である。
2020年度 604000人
21 627000人
22年上半期 273000人(22年下半期は数字公表がない)
習近平が権力を掌握してから最初の政敵排除は、「汚職」を盾として江沢民派の大物排除が主眼だった。王岐山が大活躍した。
最大のライバルは薄煕来(重慶市書記)だったが、たたまたま夫人の英国人殺害が浮上し、監獄へ送った。当時、習は軍を抑えていなかったので、江沢民派の重鎮ふたりと公安系の周永康を失脚させ、江沢民派の脅威が稀釈化すると、つぎに胡錦濤派に標的を搾り、令計画らを失脚させた。令の実弟、令完成は機密書類をもって米国へ亡命した。
習近平二期目には軍の中堅クラス、とくに参謀総長だった張又侠らを追い込み、またインタポール総裁だった孟宏偉(元公安副部長)らを拘束した。これらによって習は自分にまつろわぬ他派閥の要人たちを一斉したのである。以後、習は嘗ての赴任地だった福建省、江蘇省、上海時代の部下だった人間と夫人の取り巻き集団以外の人間に愛着がない。
李尚福国防相の場合は西昌衛星発射センター長から2016年に戦略���援部副司令を経て、2017年に装備開発部長になった。はここは元の総合装備部である。兵器調達から軍服、軍靴まで、一番リベート収入が多い部署である。
三期目の政敵排除が従来のパターンと異なるのは、失脚対象が敵対派閥ではなく、権力のミウチの内ゲバに移行していることだ。
習自らが抜擢した秦剛外相、李尚福国防相、ロケット軍司令、政治委員らが行方不明となった。統一戦線工作部副部長で宗教局長だった崔毛胡ら十四人は九月四日に拘束された。
アリババと親しかった習江勇元広州市書記も汚職の容疑で失脚。パターンが異なるのは習近平政権内の陰謀、讒言などにより、派閥とは無縁だが、習の茶坊主軍団の人脈にはなじめないか幹部らに集中している特徴がある。
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白頭宮女話當年
H:「白頭宮女」描繪青春消逝、白髮頻添、閒坐回憶的宮女形象。 「玄宗末歲初選入,入時十六今六十。」由「二八年華、破瓜之年、瓜字初分、碧玉年華:女子十六歲。」到「耳順、耳順之年、還歷之年、花甲之年:均指60歲。」44年宫女之職,青春歲月耗盡,只能閒話當年的情境。每個人的人生經歷各不同,只有成長成熟,甚至老成,追憶與學習,故事的驚奇曲折,才能與時並進。軍歌「我現在要出征」其中歌詞「我若是打不死,我總會回家來看你。」也只有健康活著的人才有權利追憶話當年。007是老情報員話當年的傑作。「太監談往錄」也是皇宫底層階級活著的太監回憶錄。「九州縹緲錄」第21集辰月秘術的最大貢獻,回溯往日而且細節可放大,提供記憶深刻的回憶,如同現在所稱的「錄影」是記憶大門。有意有意的錄影並保存,勝過你的腦袋記的。辰月之術,編輯,剪輯,是一個功課。20240608W6
維基百科
故事
故事是指過往發生的事,包含真實發生過歷史,如史書,也包含了從未發生過的虛擬故事,例如電影或小說。有很多種媒介可以乘載故事,例如:文字、聲音、及影像等。電影、電視劇、小說、遊戲、漫畫、ACG中的故事通常稱為劇情。
故事透過敘述的方式闡述幾個情節,對於研究歷史上文化的傳播與分布具有很大作用。一些研究認為,所有的人類文化都有故事,說故事是普遍存在於所有人類文化的現象,也就是說,說故事是普世文化通則之一。美國作家娥蘇拉·勒瑰恩聲稱「有些偉大的社會不使用輪子;但沒有一個社會是不講故事的」。[1]
網路資料:
「白頭宮女在,閒坐說玄宗」出自唐代詩人元稹所作的五言絕句《行宮》。 此句描繪青春消逝、白髮頻添、閒坐回憶的宮女形象。 白頭宮女:據白居易《上陽白髮人》,天寶末年,一些宮女被送到上陽宮,在這冷宮裡一閉四十多年,成了白髮宮人。 行宮,皇帝出行時居住的宮殿,這裡指當時東都洛陽的皇帝行宮上陽宮。
行宮
作者:元稹 唐本作品收錄於《全唐詩/卷410》一作王建詩
寥落古行宮,宮花寂寞紅。
白頭宮女在,閑坐說玄宗。
上陽白髮人
朝代:唐代
作者:白居易
陽人,上陽人,紅顏暗老白髮新。
綠衣監使守宮門,一閉上陽多少春。
玄宗末歲初選入,入時十六今六十。
同時採擇百餘人,零落年深殘此身。
憶昔吞悲別親族,扶入車中不教哭。
皆雲入內便承恩,臉似芙蓉胸似玉。
未容君王得見面,已被楊妃遙側目。
妒令潛配上陽宮,一生遂向空房宿。
宿空房,秋夜長,夜長無寐天不明。
耿耿殘燈背壁影,蕭蕭暗雨打窗聲。
春日遲,日遲獨坐天難暮。
宮鶯百囀愁厭聞,樑燕雙棲老休妒。
鶯歸燕去長悄然,春往秋來不記年。
唯向深宮望明月,東西四五百回圓。
今日宮中年最老,大家遙賜“尚書”號。
小頭鞵履窄衣裳,青黛點眉眉細長。
外人不見見應笑,天寶末年時世妝。
上陽人,苦最多。
少亦苦,老亦苦,少苦老苦兩如何!
君不見昔時呂向《美人賦》,
又不見今日上陽白髮歌!
美人賦
作者:呂向 唐本作品收錄於《全唐文/卷0301》
姊妹計劃: 數據項
帝初馳六飛之不測,奄四海而作君,曜明威,嶷崇勳,固盡善而盡美,又焉得而稱雲。時屯既康,聖躬之豫,樂以和操,色以怡慮。豈曰帝則,實惟君舉,庸克推腹心,增耳目。燕趙鄭衛楚越巴漢之邦,士農工商皂隸輿台之族,不鄙褊陋,不隔賤卑,工技者密聞,淑邈者遽知。上心由是震蕩,中使載以交馳,周若雲布,迅如飆發。以日係時,以時係月,德雋相次,為樂不歇。闐紫微,環帝座,蕖華灼爍,柳容婀娜,輕羅隨風,長縠舒霧。肌膚紅潤,柔姿靡質;妖豔夭逸,絕眾挺出。嬛然容冶,霍若明媚;曼錄騰光以橫波,修蛾濯色以總翠。齒編貝,鬢含雲;顏綽約以冰雪,氣芬鬱而蘭薰;腰佩激而成響,首飾曜而騰文。或纖麗婉以似羸,或穠盛態而多肌;有沈靜見節,有語笑呈姿。思若老成,體類嬰兒,真天子所禦者,非庶人當有之,洎懷春暮,睇情晷;列筵於林,方舟於水。自任縱誕,相與攀倚;鳥間關而共嬌,花散亂而增美。吹碧葉,吐紅蕊,左右相視,遊嬉未已。見頹景之迫濛汜,攜密親,召近臣;陳金罍與瑤席,朗月垂光而射人;列星奪采,長河滅津。然後絲竹發越,金石鏗鈜;守則異器,動則和鳴。妙舞謂何尚以輕,善歌取何矜以清;齊列捷獵,按次屏營。間直往以曳緒,炊轉入而旋縈;低視候節,紆體遺聲。遏行雲,結遺風;眾工相錯,迭美不同。夕以闌,樂亦闋;醉以蕩情,樂以忘節。帝曰:「今日為娛,前代固無,當以共悅,可得而說。」眾皆蹁躚,離席遷延。鹹齊首,互舉酒;歌千春,稱萬壽。因進曰:「妾家賤族,陋目褊心。陛下衣綺縠與羅紈,飾珠翠與碧金;燕私陳乎笙鼓,和樂象乎瑟琴。何恩渥以增極,而悅愉之備深;顧薄軀之無穀,空負惠以難任。」有美一人,激憤含顰;凜若秋霜,肅然寒筠。乃徐進而前止,遂抗詞而外陳,曰:「眾妾麵諛,不可侍君之側。指摘背意,委曲順色;故毀妍而成鄙,自崇謬而破直。妾異爾情,敢對以臆。若彼之來,違所親,離厥夫;別兄弟,棄舅姑。戚族愧羞,鄰裏嗟籲;氣哽咽���填塞,涕流離以霑濡;心絕瑤台之表,目斷層城之隅。人知君命乃天不可讎,尚懼盜有移國、水或覆舟。伊自古之亡主,莫不躭此嫚遊;借為元龜,鑒在宗周;眾以為喜,妾以為憂。」於時天顏回移,聖心感通;竟夜罷寢,須明導衷。俾革進伎樂者為薦士之官,徵豔色者為聘賢之使;闕下駿奔,王庭麇至。野無遺材,山無逸人;賁然偕道,與物恆春。若此之淑美,豈同夫玉顏絳唇、巧笑工顰、惑有國之君臣者哉。
美人賦
作者:司馬相如 西漢
姊妹计划: 数据项
司馬相如美麗閑都,遊於梁王。梁王說之。鄒陽譖之於王曰︰「相如美則美矣,然服色容冶妖麗,不忠,將欲媚辭取悅,遊王後宮。王不察之乎?」王問相如曰︰「子好色乎?」相如曰︰「臣不好色也。」王曰︰「子不好色,何若孔墨乎?」
相如曰︰「古之避色,孔墨之徒,聞齊饋女而遐逝,望朝歌而迴車,譬猶防火水中,避溺山隅,此乃未見其可欲,何以明不好色乎?若臣者,少長西土,鰥處獨居,室宇遼廓,莫與為娛。臣之東隣,有一女子,雲髮豐艷,蛾眉皓齒;顏盛色茂,景曜光起。恒翹翹而西顧,欲留臣而共止。登垣而望臣,三年於茲矣,臣棄而不許。竊慕大王之高義,命駕東來。途出鄭、衞,道由桑中,朝發溱、洧,暮宿上宮。
「上宮閒館,寂寞雲虛。門閤晝掩,曖若神居。臣排其戶而造其堂,芳香芬烈,黼帳高張。有女獨處,宛然在牀,奇葩逸麗,淑質艷光。覩臣遷延,微笑而言曰:『上客何國之公子?所從來無乃遠乎?』遂設旨酒,進鳴琴。臣遂撫弦為幽蘭、白雪之曲。女乃歌曰:『獨處室兮廓無依,思佳人兮情傷悲。有美人兮來何遲,日既暮兮華色衰。敢託身兮長自私。』玉釵挂臣冠,羅袖拂臣衣。時日西夕,玄陰晦冥;流風慘冽,素雪飄零;閑房寂謐,不聞人聲。於是寢具既設,服玩珍奇,金鉔薰香,黼帳低垂;裀褥重陳,��枕橫施。女乃弛其上服,表其褻衣,皓體呈露,弱骨豐肌。時來親臣,柔滑如脂。臣乃脈定於內,心正於懷。信誓旦旦,秉志不回;翻然高舉,與彼長辭。」
女孩
年幼雌性人類
「少女」重新導向至此。關於其他用法,請見「美少女」。
女孩(英語:Girl)是指年輕的(通常是兒童或青少年)女性。當女性成年後,通常稱「女人」,從一個女孩變為一個女人的年齡在不同的社會定義各不相同。不過基本上都認為青少年期向成年期的轉變年齡在15歲至20歲之間。
一名女孩
女孩其實有兩種不同的年齡意義。最傳統和常用的含義是「女性孩童」,有時作為「女兒」的同義詞[1] 。這種稱呼往往用於嬰兒至12歲左右的女性,這個年齡之後她們更多地被稱為少女、女青年、女青、女郎或泛稱年青女性。
但現在女孩的用法更為寬泛,這個詞也可以用來指年輕的女人[2] ,可以幾乎涵蓋所有0歲至20歲代的女性,或者年齡更大但看上去比較年輕的女性,以及一些年長人士(指中老年人)對比自己年幼很多的女性稱呼或是一個成年人(通常是女性)用來稱呼成年女性朋友的愛稱。
從歷史上來看,女孩的待遇和地位通常與女性在該文化中的地位密切相關。在婦女社會地位低下的文化中,女孩可能會被父母遺棄,國家可能會減少對女孩的服務投資。所以面對女孩常常受到歧視和對她們社會角色的限制,聯合國計劃在2010年之前消除女孩在受教育權方面的不平等。對於女孩和男孩的社會角色的形成和差別,始終存在着「先天決定論」(或基因決定論)與「後天決定論」(或環境決定論)的爭論。女孩在藝術、文學和流行文化中以什麼形象出現往往反映了社會對女孩性別角色的認知。女孩的成長環境從與男孩相對相同到完整的性別隔離和完全不同的性別角色。
用法
女孩是一個近代才出現的雙字詞,傳統的用法是指年齡小的女性,往往在10歲以下。並且在口語用的時候,還可以加一個後綴成為女孩子,有一種親昵的意味。古代多以女娃、女童來稱女性兒童。而近來女孩這個詞的使用空間逐漸變大,甚至可以涵蓋20歲以下或者年齡更大但看上去比較年輕的女性。不過最近這個詞正在另一個含義更寬泛的詞���生所取代。這裡的「女生」源自台灣,並不限於正在上學或者處於上學年齡的女孩,而是可以指青年期的成年的女性。
各地同(近)義方言
普通話:小姑娘
中國北方:小嫚兒(青島等)、小妮子、小識字班(魯南部份地區)、小閨女(膠遼官話區)。丫頭
中國大陸網絡:妹子、小姐姐
吳語:小娘、院主兒(溫州)
粵語:女仔、儬妹。
長沙話:妹陀。
武漢話:姑娘伢(er)
台灣話、台灣華語:少女。
日文中しょうじょ shoujo也勉強譯作「少女」,但它本身包含的意義更為複雜。指涉的是無知、沒有性態 sexuality、像永不長大的寵物、擁有カワイイ kawaii,譯作「可愛」,是氣質、對別人沒有威脅的理想化女兒、妹妹身份(Napier 1998),而Treat這個詞更申辯的是在資本主義—消費主義建構下的「第三種性/別」:既不是「男」亦不是「女」,而是「遠離異性戀的生產經濟」的自戀個體(Treat 1996)。
美式英語:GAL,但這個用法對象不能過小,所以其實是專指青少年女性,而不是女性兒童。
稱謂彙總
0歲
度:小兒初生之時。
赤子、襁褓:未滿週歲的嬰兒。
湯餅之期:指嬰兒出生三日。舊俗小兒出生三日,設筵招待親友謂之“湯餅筵”,也作“湯餅宴”、“湯餅會”。
1歲
牙牙:象聲詞,嬰兒學語的聲音。如牙牙學語,因亦指小孩過程子開始學話。清袁枚《祭妹文》:“兩女牙牙,生汝死後,才周晬耳。”周晬,指嬰兒週歲。
2歲
孩提:指初知發笑尚在襁褓中的幼兒。也有寫作“孩提包”或“提孩”的,韓愈詩中就有“兩家各生子,提孩巧相如”句。孩提:指2——3歲的兒童。
8歲
總角:古代幼童把垂髮紮成兩結於頭頂把頭髮紮成髻,形狀如角,因而也用“總角”來代指人的幼童階段。借指幼年。在這裏,“總”就是聚攏束結的意思。總角之交(幼年就相識的好朋友)。總角是八九歲至十三四歲的少年(古代兒童將頭髮分作左右兩半,在頭頂各紮成一個結,形如兩個羊角,故稱“總角”)。
童齔[chèn]:齔,《説文》中有“男八月生齒、八歲而齔;女七月生齒、七歲而齔”的説法。可以看出,孩子乳牙脱落,長出恆牙,稱為“齔”。“童齜”,往往是指人的兒童少年時期。也有説成“髫齔”的,如《後漢書·董卓傳》:“其子孫雖在髫齔,男皆封侯,女為邑君。”
始齔、髫年:女孩七歲。
始齔、齠年:男孩八歲。説明:根據生理狀況,男孩八歲、女孩七歲換牙,脱去乳齒,長出恆牙,這時叫“齔”,“齠年”或“髫年”。
9歲
九齡:為9歲。
黃口:十歲以下。
指數之年:兒童九歲。
10歲
幼學:十歲。(《禮記?曲禮上》:“人生十年曰幼,學。”因為古代文字無標點,人們就截取“幼學”二字作為十歲代稱。)
外傅之年:兒童十歲。
12歲
金釵之年:女孩十二歲。
13歲
豆蔻:指女子十三歲。源自唐朝詩人杜牧的一首詩——《贈別》。杜牧年輕時曾隨丞相牛僧孺在揚州供職,後離開揚州,臨行時寫了兩首七絕給一位女子。“娉[ pīng ]娉嫋嫋十三餘,豆蔻梢頭二月初。春風十里揚州路,捲上珠簾總不如。”杜牧用二月初含苞待放的豆蔻花比喻十三歲的少女。
十三:為13歲。
舞勺之年:少年十三至十五歲。
15歲
及笄:笄[jī],本來是指古代束髮用的簪子。古代女子一般到15歲以後,就把頭髮盤起來,並用簪子綰住,表示已經成年。“及笄”即年滿15歲的女子。及笄:指女子十五歲。
結髮:束髮,紮結頭髮,古人男20歲束髮而冠,女子15歲束髮而笄,表示成年。男女成年的標誌分別為“加冠”、“加笄”。
志學之年:因為“三十而立,四十而不惑。”(孔子曰:“吾十有五而志於學,三十而立,四十而不惑,五十而知天命,六十而耳順,七十而從心所欲”。——《論語·為政》),所以後代稱15歲為“志學之年”。
束髮:古人以十五歲為成童之年,把頭髮束起來盤在頭頂。束髮是男子十五歲(到了十五歲,男子要把原先的總角解散,紮成一束)。
及笄:女子十五歲。(《禮記?內則》:“女子十有五年而笄。”)
舞象之年:少年十五至二十歲。
成童:十五或十五稍上的年歲。鄭玄:“成童,十五以上”。
16歲
二八:為16歲。
碧玉年華、破瓜之年:女子十六歲。(舊時文人拆“瓜”字為二八紀年,謂十六歲,多用於女子。)有關碧玉的詩句很多,其中晉人孫綽的《碧玉歌》最為有名。“碧玉破瓜時,郎為情顛倒。芙蓉陵霜榮,秋容故尚好。碧玉小家女,不敢攀貴德。感郎千金意,慚無傾城色。碧玉小家女,不敢貴德攀。感郎意氣重,遂得結金蘭。碧玉破瓜時,相為情顛倒。感郎不羞郎,回身就郎抱。”寫出二八妙齡少女的清新美好。《通俗編·婦女》“宋謝幼盤詞‘破瓜年紀小腰身。’按俗以女子破身為破瓜,非也。瓜字破之為二字,言其二八十六歲耳。”
20歲
加冠:指二十歲。古時男子二十歲行加冠禮,表示已成年。加冠:指男子二十歲(又“弱冠”)。
結髮:束髮,紮結頭髮,古人男20歲束髮而冠,女子15歲束髮而笄,表示成年。男女成年的標誌分別為“加冠”、“加笄”。
弱冠:古人二十歲行冠禮,以示成年,但體猶未壯,故稱“弱冠”。指剛成年。指二十歲。弱冠:古代男子20歲叫作“弱”,這時就要行“冠禮”,即戴上表示已成人的帽子。“弱冠”即年滿20歲的男子。後世泛指男子二十左右的年紀。弱冠是男子二十歲。
桃李年華:女子二十歲。
24歲
花信年華:女子二十四歲。
30歲
而立(而立之年):因為“三十而立,四十而不惑。”(孔子曰:“吾十有五而志於學,三十而立,四十而不惑,五十而知天命,六十而耳順,七十而從心所欲”。——《論語·為政》),所以後代稱30歲為“而立之年”。而立之年:指三十歲。而立是三十歲(立,“立身、立志”之意)。
始室:三十歲。《禮記·內則》:“三十而有室,始理男事”。
克壯:正當壯年。古代三十歲為壯。唐魏徵《是漸不克終疏》:“貞觀之初,時放克壯。”
半老徐娘:女子三十歲。
40歲
不惑(不惑之年):因為“三十而立,四十而不惑。”(孔子曰:“吾十有五而志於學,三十而立,四十而不惑,五十而知天命,六十而耳順,七十而從心所欲,不逾矩。”——《論語·為政》),所以後代稱40歲為“不惑之年”。不惑之年:指四十歲。不惑是四十歲(不惑,“不迷惑、不糊塗”之意)。
50歲
艾:古稱五十歲的人為“艾”。《禮記·曲禮上》:“五十曰艾。”艾稱年老的。
半百、知天命、知命之年:知命之年,指五十歲(又“知天命”、“半百”)。
知命:五十歲(知命,“知天命”之意)。“知命”是“知天命”的縮略語。
知天命:孔子曰:“吾十有五而志於學,三十而立,四十而不惑,五十而知天命,六十而耳順,七十而從心所欲”。——《論語·為政》,所以後代稱50歲為“知命之年”。
知命之年:因為“三十而立,四十而不惑。”(孔子曰:“吾十有五而志於學,三十而立,四十而不惑,五十而知天命,六十而耳順,七十而從心所欲”。——《論語·為政》),所以後代稱50歲為“知命之年”。知命之年:指五十歲(又“知天命”、“半百”)。
54歲
六九年:即五十四歲。
60歲
耳順、耳順之年、還歷之年、花甲之年:均指60歲。因為“三十而立,四十而不惑。”(孔子曰:“吾十有五而志於學,三十而立,四十而不惑,五十而知天命,六十而耳順,七十而從心所欲”。——《論語·為政》),所以後代稱60歲為“耳順之年”。
高齡:敬辭,稱老人的年齡,多指六十歲以上。
花甲:天干地支配合用來紀年,從甲起,六十年成一週,因此稱六十歲為花甲。花甲:古代用干支記時間。所謂干支,是天干地支的簡稱。天干有十,地支十二,十天干和十二地支按照順序搭配成六十個單位,通常就叫作“六十花甲子”,也稱“花甲”。把這種記時間的詞語移用到記人的年齡上,就以“年屆花甲”或“花甲之年”來指人到60歲了。
年紀
1.丱(ㄍㄨㄢˋ)角之年:童年,約八至十歲。
2.舞勺之年:十三歲。
3.荳蔻年華:女子十三歲。
4.沖齡之年:童年,約八至十三歲。(用於古代帝王幼年而登基)。
5.抓髻之年:童年,約八至十三歲。
6.志學之年、束髮之年:十五歲
7.及筓之年、許嫁之年:女子十五歲。
8.束髮之年:男子十五歲,成童結髮。
9.二八年華、破瓜之年、瓜字初分、碧玉年華:女子十六歲。
10.弱冠之年:男子二十歲。
11.花信之年、花期之年:女子二十四歲。
12.而立之年、壯室之年:三十歲
13.不惑之年、強仕之年:四十歲
14.知命之年、知非之年:五十歲
15.艾服之年、大衍之年、知非之年:男子五十歲。
16.耆使之年、耳順之年、花甲之年、杖鄉之年:男子六十歲。
17.古稀之年、從心之年、老傳之年、致事之年、懸車之年、鳩杖之年:男子七十歲。
18.杖朝之年:男子八十歲。
19.耄(ㄇㄠˋ)耋(ㄉㄧㄝˊ)之年:男子八、九十歲
20.凍梨之年、鮐背之年、黃髮之年:男子九十歲。
21.期頤之年、大齊之年、上壽之年:男子一百歲。
太監談往錄
作者:信修明 , 周春暉 , 朱家溍
語言:繁體中文
出版社:香港中和出版
出版日期:2015/07/13
內容簡介
他們是中國最後的太監
他们是歷史的旁觀者
他們親聞目睹了晚清宮廷最後的秘辛
本書為一部晚清太監回憶錄、口述史的合集,包括《宮廷瑣記》《清宮太監回憶錄》《太監往談錄》三部著作。著者或口述者入宮的時間與經歷均不相同,從各自的視角記述了在清宮中身之親歷、目之親睹、耳之親聞,下至末代太監宮女的差役生涯,清宮大內的關防規矩、歲時講究,上至慈禧太后、光緒帝、珍妃、榮祿、載灃等皇室與貴冑的日常生活和言談舉止,無不纖毫畢現,展現了一段鮮活細膩、有血有肉的晚清皇廷歷史。
目錄
宮廷瑣記
自述:太監生活二十四年
皇帝后妃之困窘
慈禧不算有福之人
太后生活起居
宮中規矩多
大內之神秘
歲歲平安如意
民國早期之皇宮
選秀女異於前代
宮監因嚴獲福
太監軼事
昇平署及其他
清宮太監回憶錄
難忘的酷刑
「畢五」、「小刀劉」和慎刑司
進宮和拜師父
入宮後我們是怎樣「受訓」的
御前太監一天的生活
王祥親眼看見珍妃被丟到井裡
女主的生活
太監的生活
太監與寺院
太監往談錄
暢音閣演戲
樂壽堂傳膳
太監、廚役住處
慈禧在寧壽宮
編後記
軍歌
我現在要出征
我現在要出征 我現在要出征
有伊人要同行 唉有伊人要同行
你同行決不成 我現在要出征
我若是打不死 我總會回家來看你
倘敵人不來欺負我 我怎會離開你
但國內每個人民都要靠我保護
我所以要出征 就因為這緣故
再會 再會 再會
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★佐賀戦国研究会創立10周年記念 歴史文化シンポジウム 「忍者研究×佐賀県の歴史・文化・芸術 - 異文化コミュニケーション-」 日時:2022年3月6日(日曜) 13:00~16:00 会場:佐賀市 市民活動プラザ 7F (佐賀市白山2丁目1-12) 参加費: 無料 主催:佐賀戦国研究会 (協力:NPO法人 九州忍者保存協会) 後援:佐賀新聞社、サガテレビ
★ゲスト/パネリスト ・山田雄司先生 三重大学人文学部教授。三重大学国際忍者研究センター副センター長。日本における忍者研究の第一人者として知られ、��書に『忍者の歴史』(角川選書)、『忍者の精神』(角川選書)、監修に『そろそろ本当の忍者の話をしよう』(ギャンビット)、編集に『忍者学講義』(中央公論新社)など多数。TVへの出演も多く、NHK「英雄たちの選択」「ブラタモリ」「先人たちの底力 知恵泉」、BSフジ「忍者の実像 最新研究が解き明かす真の姿」の他、日本テレビ「月曜から夜ふかし」(2018.10月)ではコミカルな登場で話題を集めた。佐賀県では、嬉野市忍者発掘事業における史料調査と検討、また鳥栖市の中冨記念くすり博物館「忍者とくすり展」(2019年)へ協力を行った。この他、崇徳上皇や菅原道真などの「怨霊研究」でも知られている。今回、佐賀市にお越し頂きます。
・ステファニー・アン・ホートン先生 佐賀大学芸術地域デザイン学科教授。イギリス生まれ。教育学博士として、異文化コミュニケーションや言語教育に焦点を当てた多くの著書を持つ。英語を共通言語(ELF)として、佐賀の伝統文化や価値観を異文化の視点から学ぶFURYU Educational Program(FEP)(https://www.furyu.org/)(浮立教育プログラム)を通じ、異文化コミュニケーション能力の向上を目指した講義やワークショップを行い、学生とアートや地域デザインを結びつけている。この他、アルツハイマー病予防(ADP)を目的に、プロフィットネスインストラクターの宮田一輝氏と協働で「メンブリュウ・インスパイアード・ダンス・フィットネス(MIDF)」を考案、実習や地域活動に結びつけている。忍者を異文化の観点から研究することにも興味を持つ。 【英文プロフィール】 Stephanie Ann Houghton PhD Professor (Intercultural Communication) Faculty of Art and Regional Design, Saga University Born in England, Stephanie holds a doctorate in education and has written many books focusing on intercultural communication and language education. Taking a plurilingual approach, using English as a lingua franca (ELF) and other languages, she connects them with art and regional design through lectures and workshops aimed at improving intercultural communication skills through her FURYU Educational Program (FEP) (https://www.furyu.org/). This includes the study of Saga's traditional culture and value from intercultural standpoints. In addition, she co-created the Menburyu-Inspired Dance-Fitness (MIDF) with professional fitness instructor, Kazuki Miyata, for the purpose of Alzheimer’s Disease Prevention (ADP), which she has linked to practical training and community activities. She is interested in studying the Ninja from intercultural standpoints too. Her research is partly funded by VISION 2030 (KASHIMA ART PROJECT) http://www.saga-u.ac.jp/vision/vision2030-1.pdf
・東統禅先生 『丹坂峠の戦い』・『芦刈町戦国史』著者。『葉隠研究』(葉隠研究会)や小城郷土史研究会の機関誌に執筆多数。郷土史研究家として知られるが、実は秋田県出身である。禅僧になる前はキリスト教を学び、社会人としては金融機関や法律事務所勤務を経験している。出家してからは、四国をはじめ日本各地を野宿し、長期の托鉢行脚をおこなう。現在は、徳島氏および神代氏の菩提寺、福田寺(小城市芦刈町)の住職である。 →(★佐賀新聞記事「龍造寺と有馬の合戦、史料から丹念に読み解き 小城市の東さん『丹坂峠の戦い』刊行。北部九州の勢力図の変遷を考察」https://www.saga-s.co.jp/articles/-/619628)
▼モデレーター:深川 直也 佐賀戦国研究会代表。2012年から有志と共に佐賀戦国研究会(NPO)を立ち上げ、10年に亙り勉強会やシンポジウムを定期的に開催している。郷土史ライターでもあり、歴史雑誌『忘却の日本史』へ「九州の戦国武将ランキング」「肥前千葉氏」「神代勝利」「大村純忠」など執筆多数。近年は嬉野市の忍者発掘事業に参加、史料調査を担当し成果があり、2018年には国際忍者学会の基調講演を務め、NHK佐賀支局の番組出演や、NHKラジオ深夜便(2020年2月)へゲスト出演した他、三重県伊賀市、佐賀県嬉野市、福岡県飯塚市(嘉穂劇場)にて研究発表を行うなど、佐賀の忍者研究者として知られている。 (https://blog.seesaa.jp/cms/article/edit/input?id=459492959) 【内容】 世界的に人気の高い日本の忍者(Ninja)と、それを育んだ日本の歴史文化的土壌の事、また他県自治体での「忍者」(資源)の活用例など、山田先生にお話��を頂き、ステファニー先生が取り組まれている佐賀県の歴史・伝統文化の保護や芸術活動の活性化についての研究、また世界へ向けての佐賀の伝統文化の紹介活動についての、ヒントや融和点を探ります。東先生からは秋田と佐賀の県民性の違いや特徴的な印象、またAMAZONで郷土史本を出版するなど、自発的にアクティブに活動されての感想や周囲の反応などを伺います。 同時に、当会のような市民団体が行政に依らず自発的に活動する上でのヒントや融和点、郷土の歴史に興味がない若者へのPR方法などを考えます。残りの時間は、ゲストと参加者・学生とのフリートークが可能です。
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1968年臺灣
維基百科介紹
1968政府
國家正副元首
總統:蔣中正
副總統:嚴家淦
五院首長
行政院院長:嚴家淦(副總統兼任)
立法院院長:黃國書
司法院院長:謝冠生
考試院院長:孫科
監察院院長:李嗣璁
省政府主席
臺灣省政府主席:黃杰
福建省政府主席:戴仲玉
大事記
1月

1968年9月9日,台北市舉辦實施臺灣九年國民義務教育慶祝大會暨國民中學聯合開學典禮。
蔣中正提名楊亮功為考試院副院長,經監察院票決同意[1]:118。
1月4日——副總統嚴家淦訪問泰國(1月5日、1月7日,與泰國總理他儂舉行會談;1月10日,發表聯合公報後,返臺。);經濟部次長汪彝定宣布:外貿方向以農工業培養貿易,以貿易發展農工業[2]:748。
1月5日——外滙貿易審議委員會主任委員會徐柏園稱:去年對外貿易總值近15億美元,出超2,600萬美元[2]:748。
1月9日——蔣中正主持國家安全會議,提出「革新當前社會風氣指導綱領及實施要領」[2]:748。
1月26日——特任駐牙買加大使孫碧奇兼任駐巴貝多國大使[2]:749。
1月27日——公布「九年國民教育實施條例」(4月3日,教育部發布「國民中學教師儲備及職前訓練辦法」;5月6日,行政院指令臺灣省、臺北市暨福建省金門、馬祖地區為實施九年國教區域;5月31日,教育廳長潘振球宣布:九年國教準備工作完成。)[2]:749。
2月
1969年2月25日,日本讀賣巨人棒球隊於台北市立棒球場分兩隊作一場表演賽。民航公司10號班機殘骸
蔣中正接見越南共和國駐臺大使陳善謙,對越南共和國重要城市近遭越共深表關切[1]:118。
2月1日——外交部次長沈錡率領特使團,訪問中美洲及加勒比海各國(4月17日,返臺)[2]:749。
2月9日——旅日棒球選手王貞治所屬日本讀賣巨人隊訪臺(1965年12月4日,王貞治返臺表演球技。)[2]:749。
2月16日——民航空運公司自香港到臺灣客機在林口墜毀,21人罹難(5月21日,��通部民航局核准其環島客運班機由中華航空公司接替;5月25日,國際民航駕駛會請求蔣中正停止民航運公司法院審判,由民航局再行調查。)[2]:749-750。
2月19日——與日本在東京簽約,售予日本食米6萬餘公噸[2]:750。
2月21日——特任沈怡為駐巴西大使[2]:750。
2月25日——教育部核中央大學在臺復校(10月16日,復校舉行開學典禮。)[2]:750。
2月27日——駐日大使陳之邁向日本政府嚴重抗議日本欲與外蒙建交企圖[2]:750。
3月
3月5日——美國國際開發總署駐臺代表處結束,中美基金交由政府自行決定運用[2]:750。
3月7日——外匯貿易審議委員會主任委員徐柏園稱:1967年度對外貿易總值共達14億5,900萬美元,比前年增加26%,創歷年最高紀錄;柏楊(郭衣洞)因「大力水手」漫畫風波,被調查局逮捕[2]:750。
3月8日——教育部決定成立國民教育督導委員會[2]:750。
3月15日——教育部國民體育委員會決定全面推展全民體育(9月17日,行政院核定「發展全民體育方案」。);新任美國第七艦隊司令布蘭格(William F. Bringle)訪臺[2]:750。
3月30日——經濟部長李國鼎在立法院報告第五期四年經建措施為:林業改良、稻米增產,發展電子、精密儀器、造船、石油、化學、大鋼廠等工業,改善交通運輸,建設新社區等[2]:751。
4月
4月2日——財政部宣布自1969年度起停止愛國公債派募[2]:751。
4月10日——美國農業部長傅利曼(英語:Orville Lothrop Freeman)率團訪臺3天(4月12日,指出臺、美基於互惠原則,加強貿易關係。)[2]:752。
4月14日——交通部長孫運璿表示,政府決在高雄港建立貨櫃轉運中心,並在基隆港興建貨櫃碼頭[2]:752。
4月17日——行政院頒行修正「外匯貿易委員會組織規程」(9月19日,行政院為適應國際經濟發展趨勢,決撤銷外匯貿易審議委員會,設立外匯局及國際貿易局。);總統府資政莫德惠逝世(吉林雙城人,到臺後擔任考試院長長達12年,有功於考試制度建立。)[2]:752。
4月21日——臺灣省投票選舉第四屆省議員及第六屆縣市長,國民黨取得17席,高雄市長首度由民社黨的楊金虎當選。(6月2日,第四屆省議會成立,謝東閔、蔡鴻文分別當選正、副議長。)[2]:752。
4月22日——與澳大利亞在坎培拉簽訂「中、澳貿易協定」[2]:752。
4月29日——臺灣省政府發布施行「臺灣省都市平均地權施��細則」[2]:752。
4月30日——中華文化復興運動推行委員會訂定推行「國民生活須知」[2]:752。
5月
5月1日——蔣中正與夫人宋美齡在陽明山中山樓舉行茶會招待美軍在華官員與眷屬[3]。
5月4日——教育部編列400萬元,翻譯世界名著,編印科學辭典[2]:752。
5月7日——農業專家趙連芳病逝(河南羅山人,畢生從事農業教育、科學研究,在水稻育種貢獻很大,是中國現代農業科學之先驅。)[2]:753。
5月10日——第一屆「中、韓經合會議」在漢城揭幕(5月11日,發表聯合公報,加強政、經聯繫。);行政院通過「中、美航業相互免稅協定」[2]:753。
6月
6月3日——空軍C-46運輸機墜落於台南縣柳營鄉太康村農田,多年後當地民眾立七十二聖人廟以祭之[4]。
6月8日——蔣中正接見日本編輯訪臺團,重申堅決反對「兩個中國」立場,並強調日本如廢除「吉田書簡」,無異廢棄「中日和約」[2]:754;蔣指出中共為東亞災禍之源,所謂中立共存,將貽無窮禍害,日本應合作消弭危機[1]:119。
6月10日——臺灣省政府主席黃杰表示,配合實施職業教育及九年國教,禁設私立小學及初中[2]:754。
6月12日——前立法院長張道藩病逝(貴州盤縣人,歷任中國國民黨中央執行委員、中央宣傳部長、海外部長及第四屆立法院長。)[2]:754。
6月15日——水牛出版社「水牛文庫」開始出版[2]:754。
6月24日——特任沈錡為駐澳大利亞大使[2]:755。
6月26日——東京日本大學以名譽法學博士學位贈與蔣中正[1]:119。
7月
民主臺灣聯盟事件,陳映真(名永善)等36人被捕[2]:756。
7月1日——駐美大使周書楷代表政府與49國在華盛頓簽署「禁止核子武器擴散條約」(1969年12月12日,立法院通過「防止核武器蕃衍條約」。)[2]:755。臺北縣的南港鎮、景美鎮、內湖鄉、木柵鄉與陽明山管理局的士林鎮、北投鎮併入臺北市[5]。
7月2日——國際經濟合作發展委員會成立能源規劃發展小組,孫運璿任召集人[2]:755。
7月5日——任命桂宗堯、何鳳山與宓錫寵分別為駐宏都拉斯、玻利維亞、薩爾瓦多等國大使[2]:755。
7月10日——美國一艘護航艦在西雅圖移交臺灣,命名為「太原號」[2]:755。
7月19日——駐加拿大大使薛毓麒遞交備忘錄,對加國有承認中共意圖表示關切(1969年2月10日,對加國與中共進行建交接觸,再提抗議。)[2]:756。
7月20日——特任夏功權為駐紐西蘭大使[2]:756。
7月26日——美國駐聯合國大使包爾(George W. Ball)訪臺[2]:756。
7月28日——中央研究院院士會議選出楊忠道、馮元楨、王兆振、劉占鰲、盧致德、魏火曜、錢穆、顧應昌、郭廷以9位院士[2]:756。
7月30日——特任段茂瀾、苪正皋、杭立武、孫碧奇、凌崇熙、徐懋喜、姚守中分別為駐阿根廷、象牙海岸、希臘、菲律賓、牙買加、上伏塔、巴貝多等七國大使[2]:756。
8月
中國國民黨中常會通過以張寶樹為中央委員會秘書長[1]:119。
8月9日——經濟部成立聯合礦業研究所[2]:756。
8月10日——留美學生陳玉璽因在海外發表傾向支持中共之文章,經軍法判處7年徒刑[2]:757。
8月25日——紅葉少棒隊以7A比0,擊敗日本和歌山少棒隊[2]:757。
8月29日——駐菲律賓大使杭立武與菲外交部長羅慕斯(英語:Narciso Ramos)為處理逾期華僑問題達成協議,並簽署聯合聲明[2]:757。
9月
中華民國教育部政務次長鄧傳楷再次獲總統親授一等(特種大綬)景星勳章(1961年首次獲頒)。
9月1日——《徵信新聞報》改名為《中國時報》,開始發刊(1950年10月2日,創刊。);長榮海運公司成立[2]:757。
9月3日——中國電視公司成立[2]:757。
9月5日——行政院核定撤銷財政部鹽政總局,恢復設置鹽政司[2]:757。
9月6日——中華民國與史瓦帝尼建交。
9月9日——九年國民教育正式實施,蔣中正頒發錄音訓詞[2]:757。
9月18日——行政院公布「大成至聖先師孔子誕辰紀念辦法」,自今年開始實施[2]:758。
10月
經濟部投審會核准日本三菱電機投資技術合作,中國菱電股份有限公司成立 。
10月7日——與日本之「中、日合作策進會」第十三次會議在臺北揭幕(10月9日,發表宣言,主張建立亞洲集體安全組織,阻止共產侵略。)[2]:758。
10月10日——國際奧林匹克委員會通過中華民國使用「中國-中華民國」名義,參加奧林匹克世界運動大會[2]:758。
10月16日——蔣中正私人代表張群赴日本,參加前日本首相吉田茂逝世週年追思會[2]:759。
10月19日——紀政在第十九屆墨西哥奧運會獲女子80公尺低欄決賽銅牌,並打破世界紀錄[2]:759。
10月22日——蘇聯記者維多克·路��斯抵臺,展開秘密外交(曾與國防部長蔣經國密談。)[2]:759。
10月29日——第一架由空軍自製之飛機「介壽號」完成並展示;特任外交部亞西司長蔡葩為駐利比亞王國大使(1969年1月27日,呈���到任國書。)[2]:759。
11月
11月3日——楊傳廣發起1人1元籌建體育館運動,獲熱烈響應(12月5日,臺灣省政府通令機關學校及公營機構加強推行。)[2]:759。
11月9日——教育部長閻振興在立法院報告:政府為發展科學教育,1968年度編列經費9,000餘萬元,改善科學研究設備[2]:760。
11月12日——中華文化復興運動推行委員會通過12項工作計畫,以增進國民德智體群育修養[2]:760。
11月14日——與新加坡達成協議,互設商務代表團,並辦理領事事務(1969年1月2日,互設商務專員;5月2日,駐新坡貿易代表團辦事處成立。)[2]:760。
11月20日——外交部次長楊西崑在國家安全會議報告聯合國表決中國代表權問題結果,58對票,23票棄權否決「排我納匪案」,73對47票,5票棄權通過「重要問題案」[2]:760。
11月24日——「中國經濟建設研究會」成立[2]:760。
12月
12月6日——中華民國國防部部長蔣經國與教育部部長閻振興同意將教育電視廣播電台(教育電視台)擴建為中華電視台[6]。
12月10日——前日本首相岸信介訪臺3天[2]:761。
12月29日——教育部長閻振興表示:今後教育政策以發展職業教育、培養專業人才和強化科學教育為重點[2]:761。
12月31日——特任張導民為審計部審計長,周宏濤為行政院主計長[2]:761。
出生
參見: 1968年出生
1月1日——劉敏宏:鍵盤手、鋼琴家。
1月2日——於北辰:政治人物、軍事人物。
1月3日——許培育:漫畫家。
1月5日——
賴香伶,工運人士。現任臺北市政府勞動局局長。
盛治仁:政治學家。
趙映光:政治人物,是趙心瑜之兄,曾任臺北市選舉委員會監察委員。
林琨瀚:棒球教練,是林琨瑋之弟。
1月8日——
廖志賢:賽車手、企業家,曾開設飲料店品牌。
林國春:政治人物、警務人員。
李逸驊:籃球教練。
1月10日——木笛:漫畫家。
1月12日——許添盛:醫師。
1月14日——
伍佰,歌手。
葉壽山:政治人物。
1月20日——朱信強:政治人物。
1月21日——
管中祥,學者。長期參與媒體改革運動、並關注人權與文化議題。
陳琦豐:棒球教練。
1月23日——汪建民:演員,以《台灣靈異事件》飾演「鐵頭」一角而爆紅。
1月27日——傅靜凡:社會運動人士。
1月29日——曾國城,藝人。
2月1日——陳劍松:政治人物。
2月5日——李之勤:歌手、演員、主持人。
2月7日——詹慶齡:主持人、新聞主播。
2月10日——黃乃芸:食品科學家,曾任衛生署食品藥物管理局輸入食品審查委員。
2月11日——王識賢,歌手、演員。
2月18日——
陳嘉君,野百合學運中的學生領袖之一,施明德妻子,人權、歷史工作者。
師瓊瑜:作家。
2月22日——趙英華:演員、主持人,以《台灣靈異事件》飾演「王玉芳」一角而爆紅,曾於1988年中國小姐獲選第二名。
2月23日——洪瑞襄:歌手、演員。
2月26日——侯志正:小號演奏家。
2月29日——王尚智:新聞主播、廣播主持人、製作人。
3月2日——廖元豪:法學家。
3月4日——伊能靜,歌手、演員。與裘海正和方文琳組成演唱團體「飛鷹三姝」。
3月9日——黃士偉:相聲。
3月10日——
洪智育:導演。
李性蓁:作家。
3月17日——黃品源:歌手、演員、主持人,以《你怎麼捨得我難過》為成名曲。
3月18日——張錫銘,重大通緝犯。
3月20日——黃宏成:常年競選人。
3月28日——
張其祿:政治人物。
陳秀桂:企業家,是從日本引進七田真的幼兒教學方法。
3月31日——邱心志:演員。
4月12日——
侯炳瑩:演員。
史哲維:新聞主播。
4月17日——張文宗:棒球教練。
4月25日——
謝祖武,男演員。
李健光:新聞主播。
4月26日——詹姆士:廚師。
5月3日——黃裕昇:製作人。
5月5日——王金龍:數學家。
5月8日——吳昌期:教育工作者。
5月13日——
顏志琳,排灣族歌手。與尤秋興合組「動力火車」。
尹昭德:演員。
5月19日——曹蘭:歌手、演員、主持人。
5月20日——江志豐:歌手,是龍千玉之弟。
5月23日——
徐曉晰:主持人。
蘇家賢:畫家。
6月2日——方岑,女演員。
6月7日——陳鎮川:導演、製作人、經紀人。
6月15日——楊心希:歌手、法官。
6月20日——
石安妮:歌手、演員、主持人。
顏聖冠:政治人物。
6月21日——蝴蝶:作家。
6月24日——袁惟仁:歌手、主持人,是陸元琪前夫,為凡人二重唱成員之一。
6月25日——周雅玲:政治人物,是周雅淑之妹。
6月28日——趙正平:演員、導演、製作人、通告藝人,是景行廳男孩成員之一。
6月29日——張瑞竹:演員。
7月1日——蕭赫麟:常年競選人。
7月2日——張靜懿:歌手、演員、主持人,是紅唇族成員之一。
7月3日——
吳倩蓮,歌手、演員。
游萬豐:政治人物,曾任僑務委員會僑務委員。
7月5日——陳艾湄:歌手,與高明駿合唱《誰說我不在乎》而爆紅。
7月6日——陳貴人:足球教練。
7月7日——
王毓雅:導演、製片人。
蔣絜安:政治人物。
7月9日——范雲,社會學學者。曾為野百合學運領袖之一、社民黨召集人,臺大社會系副教授。
7月21日——林金結:政治人物。
7月22日——羅時豐:歌手、演員、主持人。
7月24日——宋少卿,相聲男演員。相聲瓦舍創辦人。
7月29日——胡鴻達:演員。
7月30日——庹宗康,主持人、歌手。
7月31日——Juby:導遊、演員、主持人,是馬兆駿遺孀,現改嫁湯志偉。
8月2日——黃倩萍:新聞主播。
8月13日——蕭薔:演員、模特兒。
8月15日——雷光夏:歌手、作曲家、配音員,是雷驤之女。
8月16日——吳洛纓:編劇。
8月19日——林益世,政治人物。曾任國民黨青年團總團長、行政院秘書長。因索賄案下臺。
8月25日——林葉亭:歌手、通告藝人、時尚設計師。
8月30日——洪麗萍:政治人物。
9月4日——林仁傑:演員、導演。
9月5日——張瀚天:政治人物。
9月6日——荒山亮:歌手。
9月8日——
黃中原:歌手。
柯裕棻:作家。
9月11日——王震緒:小說家,是移居日本的台灣作家。
9月15日——陳癸佑:政治人物、警務人員,曾任水里鄉鄉長。
9月23日——林芳雪:演員、配音員。
9月24日——顏艾琳:詩人。
9月25日——蔡旺詮:政治人物。
9月26日——王瑞霞,台語女歌手。代表作有〈絕情雨〉、〈小姐請你乎我愛〉。
9月27日——
蔡岳勳:演員、導演,是于小惠之夫,以2001年執導《流星花園》為知名作品。
王頌恩:雙簧管演奏家。
9月30日——朱淑華:廣播主持人。
10月1日——王時思:政治人物,是王時齊之姊。
10月2日——楊寶瑋:演員。
10月3日——呂東傑:政治人物。
10月4日——蔣念祖:法學家。
10月7日——陳俊生:演員、模特兒。
10月12日——
徐榛蔚,政治人物。現任立法委員,傅崐萁之妻。
董永興:棒球捕手。
10月13日——
林珮君:演員。
高為元:生物醫學家。
10月15日——岳翎:演員。
10月16日——劉耀仁:政治人物。
10月17日——廖敏雄,棒球選手。曾加入中華職棒時報鷹隊。
10月19日——李晶玉,新聞主播、主持人。
10月20日——
李康生:演員、導演、編劇。
許宇甄:政黨工作者。
10月21日——林奕華,政治人物。曾任國民黨文傳會主委、臺北市議員。現任新北市政府教育局局長。
10月23日——陳尚志:政治學家。
10月25日——謝璧蓮:新聞主播。
10月26日——莊永新:漫畫家。
10月28日——高明偉:演員、婚禮主持人。
10月30日——游鴻明,男歌手,代表作有〈愛我的人和我愛的人〉。
10月31日——
高思博,政治人物。曾任立法委員、蒙藏委員會委員。
柯淑敏:政治人物。
11月1日——陳昭榮,男演員。
11月4日——陳信瑜:政治人物。
11月6日——楊致遠,雅虎(Yahoo!)創始人及前任執行長。
11月7日——王必勝:政治人物、醫師。
11月8日——吳安琪:新聞主播。
11月9日——陳該發:棒球選手,是首位達成完全打擊的球員。
11月16日——
成英姝:作家。
蔡雨倫:歌手,是憂歡派對成員之一。
11月17日——張瑀庭:記者、助理教授、美食評論家。
11月20日——童琮輝:棒球選手。
11月22日——王惠美,政治人物。曾任鹿港鎮長、彰化縣議員,現任立法委員。
11月23日——童愛玲:演員。
11月24日——王彩樺:歌手、諧星、演員、主持人,以《保庇》為成名曲。
11月29日——林學冠:幕僚,曾任林張久美、林珮涵、林��樂等議員的助理。
12月1日——
林谷珍:配音員。
黃建宏:教授、藝術策展人。
12月2日——黃承遠:畫家。
12月5日——張立威:演員。
12月13日——楊麗菁:演員。
12月14日——楊昱泓:吉他手。
12月26日——許忠富:政治人物。
逝世
3月2日——劉啟光,政治人物、情治人員。被指在二二八事件中協助國民政府鎮壓臺灣人。(1905年出生)
6月6日——彭華英,日治時期社會運動參與者。蔡阿信之夫。(1893年出生)
6月12日——張道藩,政治人物。曾任中華民國行政院院長。(1897年出生)
6月16日——林呈祿,報紙編輯、日治時期社會運動參與者。《台灣新民報》編輯。(1886年出生)
11月10日——陳華宗,政治人物。日治時期曾任學甲莊長,戰後出任臺南縣議會議長、臺灣省議員。(1904年出生)
參考來源
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桜林美佐の「美佐日記」(226)
過去と未来が交差する夏ー靖国の「みたままつり」
桜林美佐(防衛問題研究家)
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おはようございます。桜林です。「男もすなる日記
といふものを、女もしてみむとてするなり」の『土
佐日記』ならぬ『美佐日記』、226回目となりま
す。
近所の掲示板に「盆踊り」のお知らせが貼ってあ
り、その時間に行ってみたらやっておらず、よく見
直したら「盆踊りの練習」のお知らせだったという
経験を、この夏はすでに2回もしてしまいました。
といっても、浴衣を着て準備万端で行ったわけで
はありませんので、ご心配なく!(していませんね、
はい)。
体調を考え、まだかなりセーブして毎日を過ごし
ていますが、先日は靖国神社の「みたままつり」に
行ってきました。
ちょうどこの時は付近の民間シンクタンクが主催
する台湾有事の図上演習が2日間連続で行われてい
たとのこと。
そんなわけで、「みたままつり」に来た人、ある
いはシミュレーションに参加した人、いずれのケー
スかは分かりませんが、市ヶ谷、九段周辺には休日
にも関わらず多くの自衛官の姿があったようです。
それにしても、かつては防衛省の各幕僚監部に勤
務している自衛官が金曜の夜まで仕事をし、日曜の
夕方に「出勤」するのをよく見かけ、切ない気持ち
になりましたが、最近は働き方改革でちゃんと月曜
から行くようになったのでしょうか。
もし、せっかく休日は文字通り休めるようになっ
たのなら、もっと家族と過ごしたり、鋭気を養って
欲しいなあと勝手に思っておりますが、シミュレー
ション参加では気の毒に・・と思ってしまいます。
でも、それくらい勉強しないとならないのでしょう
ね・・。
「みたままつり」も盛況で、色々な催しも増えて
いたようです。中には「あれはちょっと騒がしすぎ
るのではないか」と、もっと荘厳なものであるべ��
という声を聞くことがありますが、それには異論も
あります。
「みたままつり」の始まりは、昭和21年のこと。
長野県遺族会の有志の方々が上京し、自発的に神社
内で盆踊りをしたり民謡を歌ったことがきっかけで
始まったのだそうです。
そもそもは、若くして散華した英霊に楽しく過ご
してもらおうという発想だったということからする
と、歌謡ショーあり、踊りありという催しはむしろ
当初からの趣旨に適っているわけです。
いずれにしましても、夏は死者との邂逅の季節で
あり、そうした日本独特の催しが各地の残っている
ことは救いです。
特に、変化の激しい東京のど真ん中においても今
なお続いていることは誇らしいことだと思っていま
す。
今日も最後まで読んで頂きありがとうございまし
た。今週が皆さまにとって素敵な1週間となりますよ
うに!
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七月九日 零時過ぎ
日本にて、痛い目を見ている。 一体今日が何曜日で何日なのかさえわからない程に世界から隔絶されている。親の庇護下は快適だ。肉体は健康そのもの、昼に母と食べに行った肉のせいで便は少し脂っこい。 精神も思考を停止させれば健康といえる。親がいる限り肉体の健康は保たれそうだ。死ぬことは万が一にもないし、考えるのをやめれば精神を病むこともないだろう。
![Tumblr media](https://64.media.tumblr.com/fe81a72d45a7ade116bd2545784f492a/82b12398eb4222fd-c4/s540x810/6635818c50f7122fecf4d082d452130f379925ae.jpg)
二週間近く、社会から隔絶された生活を送っている。外には絶対に出たくなかった。人間を見たくないから、人が幸せそうなのを見るのがつらいから、どこに行ってもお金がかかり休む場所もないから、そもそも楽しい事が一つもないから。街中ではもう何一つ楽しそうなことが見いだせない。
酒もタバコもあれからやっていない。もうつまらなくなったからだ。苦痛はあまり感じない。今は常に苦痛を感じるし、それがタバコで紛らわせれもしない。酒も同じく。美味しさも酔う快感も全く感じなくなった。何をやってもつまらない。試しに大阪に出てみたりもした、これは本当に逆効果。まず家を出るべきじゃなかったと一発目の電車で後悔。それでも親からお金も渡されたし、一応中心地まで向かう。一時間くらいだ。
大阪の中心駅梅田にたどり着きふらつくが高層ビルばかりで何にも面白くない。百貨店の最上階から街を眺めてもみるが何にもない。 地下鉄でどこかの駅で降りてもみた。どこも一緒に思える。空気がもっと悪いだけだった。 どこにいても心落ち着かず、大阪で唯一落ち着く場所があったと言えば、西成の三角公園だけだった。
自分はいったい何者なんだろうか、なんでこんなところにいて何をしているのだろうか。なんだか全てにおいて現実味がない。生きているという実感はどこにも感じられないし、第一何が生きるということなのかも悩み始めている。寝て食べてクソしてりゃいいのか。性欲も食欲も実は今かなり抑えられている。常に寝ていたいと思うだけ。出来るだけ考えない様に思考を停止している。
死にたいとは思わないがもし死ねるならと考える。そんな勇気があればの話だけど。幸せかと聞かれれば、十分に幸せだと胸を張って言える。幸せとか不幸せとかの話ではない。不自由な足は持っていても、上半身は快調だし、頭も回そうと思えば回りそうだ。金も親がいる限りは困っていない。何が嫌なのかと問われれば、自分が嫌なのだろうか。それもなんだかズレた答えな気もする。そんな簡単な答えじゃなさそうだ。
そんな中、ジョージアで半年くらい一緒に住んでいたロシア人が仙台の海で死んだそうだ。いまいち悲しみも湧き起らず、「馬鹿野郎が」って思ったくらい。ちょうど一年前にジョージアから日本に留学していったあいつは日本でも相変わらず友達も作り楽しんでいたようだった。死ぬ四日前に会うぞと約束を取り交わしていた。勝手に死にやがってという気持ちと半分、生死のあっけなさに驚いている。 そんな話を受けると、死は負けのように悔しく感じて何が何でも生きてやろうと思ったり。どんなくず野郎であろうが、最底辺に落ち込もうが、死ぬまで生きて、ぽっくり逝った奴の分まで生きてやると思えてくる。
ともかく、煙草を吸ってみた。幾分かまともな思考が出来そうだ。加えて酒も入れてみる。頭も軽くなる。
これからどうしたらいいのだろうか。さっさと荷物をまとめて生きれる場所に戻りたい。
日本にも自分の居場所が作り出せればもっと過ごしやすいと思う。二三週間前、現金三万円をもって、南西の方に先輩への挨拶回りに行ってきた。伊丹のヒロコちゃん、広島の尾道、山口の周防大島。やはり先輩に会って「おかえり」の言葉をもらえた事が何よりも嬉しかった事。それ以外は特に覚えていない。やはり自分の居場所がどこにもないというのは心も落ち着かず、楽しくない。自分の仲間、自分が作るコミュニティ。そんな物ジョージアやドイツであったかと言われるとあったとは言いにくいが、日本で感じる疎外感は海外のそれと比べると格が違う。外だと初めから外部の人間、日本だとはみ出し者。この差がやはり大きい。少なからず友達も外にいる。
周防大島ではドイツの先輩の親友の所にお邪魔させてもらった。大変お世話になった。気を大分使わせてしまって申し訳ない気持ちで常にいっぱいだった。 でも自然での生活は心休まる時間でいっぱいだった。子供が帰ってくるまでは本を読んで過ごし、帰ってくれば一緒に薪風呂に火をくべ、打ちのめされた内面を労わる時間だった。何より子供に救われた。存在をありのまま受け入れてくれる。毎日遊んでくれるし、島のことを教えてくれる。 島の海はとてもきれいだった。昔みた幻の海のようだった。
島を船で出発し、一人で愛媛の松山に到着。そっからは落ちて落ちての急降下。楽しそうな人間をわきで眺めていると、心にどっとくる重いものがあった。道後温泉には五年前から入ってみたいと思っていたこともあり市電に乗り込み、温泉まで向かってみたのだが、ついてみたらそこら中に溢れかえる観光客と温泉から伸びる順番待ちを目の当たりにすると、もう入る気も失せた(結局、自分の前の客が最後で締め切られ入れなかったのだが)。 その時、もう家に帰ろうと思い、家へと高速バスで帰ったのだった。
家は良い。自分の部屋に籠れば情報は一切入ってこないし、ご飯もある。加え、屋根もあってベットもある。自由に使える風呂もついてるしトイレにも籠ってられる。有り余る退屈から逃れられてる間は。
それももう限界に近い。ゲームに逃げることも酒に逃げることももうできなくなってきた。ベットで眠ろうとする度に、発狂しそうになっている。おまけに今の実家の周りには自然が一つもない。蝉の声が全く聞こえない。鳥も鳴いていない。吸う空気は重く、風はどんより。
引き籠っていると時間の概念から解放される。空が明るいのか暗いのか、カーテン閉じてれば何もわからないし、曜日も日付ももはや関係ない。この世界にはもう自分一人しかいないのではないかとさえ思わせられる。なんだか心辺りに冷たい隙間風を感じる。 この感覚、妙に気持ち良い様な気もするし、人から遠ざかっていく気もしている。
日本に帰ってきて良かったことは、親に会えたこと、先輩らにおかえりと言ってもらえたこと。またら新たに知り合えた先輩と出会えたこと、くらいか。 日本はまだ自分には早かったようです。
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Photo
スーツ佐々木
版権
もっとシンプルに仕上げたかったが原作読み直したら無為に盛り込んでしまった
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2021年6月29日(火)
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毎月1回、歯医者に通っている。私の場合、歯周病がひどくて<治す>というよりも<悪化を防ぐ>のが目的であって、それ故こまめにクリーニングしていただく必要があるのだ。昨日の受診後、次回の予約を取る際に「診察券が新しくなります」と言われて気づいた。自分では月例クリーニングと思っていたが、虫歯が発見されたり歯が折れたりとか、月に2度以上受診していることがままあった。髪とは友人関係を解消してしまったが、歯とはもう少し仲良くしていたいものだ。
息子たちは休み。
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納豆煮麺+ヨーグルト+豆乳。
可燃ゴミ、30L*1&45L*1。
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今朝も4人分の弁当を用意する。
雨のためツレアイを職場まで送り、そのまま出勤。
昨日から後期履修登録開始、担当科目のうち「インターンシップ」について学生たちに注意喚起のメール配信。この科目は、大学コンソーシアム大阪の提供するプログラムのみを単位認定することにしているが、例年その趣旨を理解せず(聞いておらず)登録するものがあって閉口するのだ。
そのメールを受けて、インターンシップの窓口となるキャリアセンターから、今年度のプログラムに申し込んでいる学生のリストが届く。履修登録終了後にこのリストと照合し、単位認定不可能の学生に連絡するのである。
少し早めのランチ、ご飯たっぷりで堪能する。
火曜日3限・4限は「スタディスキルズ(看護学科)」、今回のテーマは「ちゃんとしたレポートを書こう①」。他の学科よりは基礎学力が高めだが、それでも近年は多様化が進み、いいレポートになると期待させる学生もいればため息しか出ない学生もいる。
終了後、同じ授業を担当してくれる非常勤講師・O姉と一緒に帰宅。彼女は拙宅から、バスで自宅まで戻ることになる。先週紹介した近所の肉屋のコロッケが美味しかったとのことで、今日はミンチカツに挑戦するのだとか。
カバンを置いて、すぐに西大路七条・ライフまで買物、今日は1000円以上購入で100円引きのクーポンがあるのだ。夕飯は手抜きして、揚げ物を購入して帰宅。
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息子たちが終わる頃にツレアイから連絡、同じくクーポンを使うためにライフで買い物して帰宅。見切り品のカツオのたたきなど買ってくるものだから、日本酒を取り出してしまった。
録画番組視聴。
サラメシ シーズン11 (12)「社長がつくるまかないスペシャル」
これまで紹介してきた、社長が作るまかないを大特集!▽東京・高円寺で漫画の表紙などを手掛けるデザイン事務所社長の、絶品!牛スジぶっかけ焼きそば▽福岡・北九州市の建築会社社長が社員や職人たちに毎日作る手作り弁当!▽群馬のハウスメーカー社長が作る、こだわりガパオライス▽福岡市で機械式立体駐車場の設置・メンテナンスを手がける会社社長が社員にふるまう、オリジナル瓦そばと3種ブレンド米のおにぎり
いずれも見た記憶がある。コロナ渦では取材も制限されるので、番組作りも大変だ。
家族の最後に入浴。
就寝前読書、松本清張『蒼い描点』。
今月も残り1日、パーフェクト目ざして頑張ろう。
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煩憂
H:李白「棄我去者,昨日之日不可留;亂我心者,今日之日多煩憂。」煩憂自古皆有,上至君王,下至庶民,憂國憂民,范仲淹更甚「先天下之憂而憂,後天下之樂而樂。」不憂國也為情愛憂個人憂錢途。古時没有「憂鬱症」這名詞,煩憂的詩詞倒不少。天下本無煩憂,庸人自擾之。斬斷三千煩惱絲,全憑心中慧劍斬。天地煩憂自遠離,神清氣爽日日過。以解脫釋迦牟尼的所稱的三界皆苦「天上天下, 唯我獨尊,三界皆苦, 吾當安此。」吃飽太閒煩憂多,找事找活多長壽!20231006W5
網路資料:
棄我去者,昨日之日不可留;亂我心者,今日之日多煩憂。
出自唐代李白的《宣州謝脁樓餞別校書叔雲》
棄我去者,昨日之日不可留;
亂我心者,今日之日多煩憂。
長風萬里送秋雁,對此可以酣高樓。
蓬萊文章建安骨,中間小謝又清發。
俱懷逸興壯思飛,欲上青天覽明月。(覽 通:攬;明月 一作:日月)
抽刀斷水水更流,舉杯銷愁愁更愁。(銷愁 一作:消愁)
人生在世不稱意,明朝散發弄扁舟。
煩惱叢千縷,全憑慧劍揮維基文庫
詩詞名:相見歡①
作者:李煜
無言獨上西樓,
月如鉤,
寂寞梧桐深院鎖清秋。②
剪不斷,
理還亂,
是離愁,③
別是一般滋味在心頭。④
紅樓夢
「因定三生果未知,繁華浮影愧成詩。」
無端墜入紅塵夢,惹卻三千煩惱絲。
《紅樓夢》的中心思想。人世間因緣不過是三生三世的因與果,所有繁華苦難,皆是浮影。所有人無非都是來到人世,入了紅塵,做了一場煩惱如三千髮絲般多且不斷的夢。
“為天地立心,為生民立命,為往聖繼絕學,為萬世開太平。”這四句話,是北宋張載一生為學的歸宿,也是其思想的精髓所在。
釋迦牟尼:天上天下, 唯我獨尊,
三界皆苦, 吾當安此。
三界,佛教用語。三界為:欲界、色界、無色界。三界構成世間,相當於三有。有情眾生都在三界中因為煩惱的關係生死輪迴。此概念被道教借入,也稱三界二十八天。 在淨土宗曇鸞大師所著的《略論安樂淨土義》中,說明阿彌陀佛極樂世界等佛國淨土非屬三界。 梵語त्रैलोक्य還可以翻譯為三世,指時間界,如過去、現在、未來縱三世佛。 維基百科
法鼓山聖嚴法師
人生本來就是苦多樂少,我們的一生汲汲於��求消滅痛苦的方法,這都只是治標而已,非但不能得到真正的快樂,可能還會造
成更大的痛苦。主要的原因,就是不知道痛苦的發生,其實都是自己造成的。(聖嚴法師)
見慕法師:欲離苦得樂,首先要知苦。所謂:「千人千般苦,苦苦不相同。」佛法將種種苦約略歸納為八苦──生苦、老苦、病苦、死苦、愛別離苦、求不得苦、怨憎會苦、五陰熾盛苦;從古至今,上至達官顯要,下至販夫走卒,無人能倖免。然而苦從何來?苦,是起惑、造業之結果;亦即現在的苦果,是過去種的因,集合過去的善業和惡業,而有現在的善報、惡報。轉煩惱生死苦之因,得菩提涅槃樂之果。 苦,世人所厭離;樂,世人所追求。 從古至今,人們無不追求快樂、遠離痛苦。
宋.范仲淹〈謝轉禮部侍郎表〉:「進則盡憂國憂民之誠,退則處樂天樂道之分。」
岳陽樓記
作者:范仲淹 北宋
1046年10月17日本作品收錄於《范文正公集/卷07》和《古文觀止》
慶曆四年春,滕子京謫守巴陵郡。越明年,政通人和,百廢具興,乃重修岳陽樓,增其舊制,刻唐賢今人詩賦於其上;屬予作文以記之。
予觀夫巴陵勝狀,在洞庭一湖。銜遠山,吞長江,浩浩湯湯,橫無際涯;朝暉夕陰,氣象萬千;此則岳陽樓之大觀也,前人之述備矣。然則北通巫峽,南極瀟湘,遷客騷人,多會於此,覽物之情,得無異乎?
若夫霪雨霏霏,連月不開;陰風怒號,濁浪排空;日星隱曜,山岳潛形;商旅不行,檣傾楫摧;薄暮冥冥,虎嘯猿啼。登斯樓也,則有去國懷鄉,憂讒畏譏,滿目蕭然,感極而悲者矣。
至若春和景明,波瀾不驚,上下天光,一碧萬頃;沙鷗翔集,錦鱗游泳,岸芷汀蘭,郁郁青青。而或長煙一空,皓月千里,浮光躍金,靜影沉璧,漁歌互答,此樂何極。登斯樓也,則有心曠神怡,寵辱皆忘,把酒臨風,其喜洋洋者矣。
嗟夫!予嘗求古仁人之心,或異二者之為,何哉?不以物喜,不以己悲。居廟堂之高,則憂其民;處江湖之遠,則憂其君。是進亦憂,退亦憂;然則何時而樂耶?其必曰:「先天下之憂而憂,後天下之樂而樂」歟!噫!微斯人,吾誰與歸?
時六年九月十五日。
《謝轉禮部侍郎表》
臣某言伏蒙聖慈特授臣尚書禮部侍郎依前充職者楨握自天震惶無地循牆弗獲致寇是虞臣中謝伏念臣布素寒坎斗管微器初糜下士之祿忽塵上聖之雉歷升近芝二且亡一書2 
班嘗預太政深自感激誰蔚因循川祖宗之謀請行故事懷社稷之計動發危言雖欲必盡其心奚能久安於位彊彰無狀誠合有誅而聖意始終天慈曠蕩尚真名於祕殿伏蒙幸於善藩犬拙云藏人言用息莫聞課最敢睹龍光伏蒙皇帝陛下雷霆霧威日月還照丞冠圖舊不次推恩擢登宗伯之曹上應文昌之緯職命如故爵數甚隆徒執讓以弗諧止服榮而為懼臣敢不夕惕二省寅恭必進則盡憂國憂民之誠退則處樂天樂道之分上酬聖遇用竭愚
酷相思·本意(鄭燮)
杏花深院紅如許,一線畫牆攔住。嘆人間咫尺千山路,不見也相思苦,便見也相思苦。
分明背地情千縷,拼惱從教訴。奈花間乍遇言詞阻,半句也何曾吐,一字也何曾吐!
根據世界衛生組織(WHO)的估計,在2015年,全球已有超過3億人受憂鬱症(Depression)及焦慮症(Anxiety disorder)所擾。另外一項研究則顯示,從1990年到2010 年,受憂鬱症影響的人口增加了 37.5%。
憂鬱症是一種精神官能症,對人事物失去興趣甚至感到悲傷,且持續一段時間,初期不容易被發現。憂鬱症和單純情緒不好是不一樣的,多數人不會再難過低潮的情緒持續太久,但憂鬱症會維持相當長的一段時間,對於人的感受、行為和思考都會造成影響,嚴重的會造成身體機能問題,影響正常的起居生活、睡眠和工作。
台灣憂鬱症防治協會提到目前診斷憂鬱症的標準共有9個症狀,其中只要有5個症狀持續超過兩週,且大部分時間都有達到標準,就要小心得到憂鬱症,症狀包括(2):
1.憂鬱情緒:快樂不起來、煩躁、鬱悶
2.興趣與喜樂減少:提不起興趣
3.體重下降(或增加)或食慾下降 (或增加)
4.失眠(或嗜睡):難入睡或整天想睡
5.精神運動性遲滯(或激動):思考動作變緩慢
6.疲累失去活力:整天想躺床、體力變差
7.無價值感或罪惡感:覺得活著沒意思、自責難過,都是負面的想法
8.無法專注、無法決斷:腦筋變鈍、矛盾猶豫、無法專心
9.反覆想到死亡,甚至有自殺意念、企圖或計畫
何謂憂鬱症?最常見的症狀如下:
1.憂鬱情緒:悶悶不樂、面露愁容、哭泣、易怒。
2.生活失去平時的興趣或樂趣、性慾減低。
3.認知及動作遲鈍:反應遲鈍、記憶力變差、無法專心、猶豫不決、生活懶散、生活及工作能力減退。
4.食慾不振、體重減輕。
5.失眠、經常凌晨醒來。
6.疲倦及四肢無力。
7.躁動不安、手足無措。
8.自責、罪惡感。
9.無助、無用、無望。
10.自殺念頭或企圖。
11.其他:酒精濫用、慮病(過度注意身體症狀,擔心患有重大身體疾病)。
12.另外憂鬱症病患,也常合併有明顯焦慮症狀,如恐慌、莫名的恐懼、心悸胸悶、頭暈及全身疼痛等。
維基百科介紹:
情緒障礙症
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情緒障礙症[1](mood disorder)又稱情感障礙(affective disorder)、心境障礙、情感性疾患,是一群精神和行為疾患的狀況[2],人的情緒障礙或紊亂是其主要的基本特徵[3][4]。在精神疾病診斷與統計手冊(DSM-5)中,是對於診斷患疾的歸類;在國際疾病與相關健康問題統計分類第十版ICD-10中,以情緒性(情感性)疾患(mood (affective) disorders)分類之。
有情緒障礙會影響以任何形式行使權力的人,其中傲慢綜合症、狂妄自大、錯亂或自戀最為突出。
分類
憂鬱性疾患
1869年描寫憂鬱性疾患的漫畫
氣候寒冷、缺少陽光的北歐、俄羅斯等地區則屬憂鬱症高發區
憂鬱性疾患,是一類以心情抑鬱為主要特點的情感障礙,包含常見的憂鬱症(抑鬱症)。
對憂鬱性疾患的診斷一般由醫師遵照DSM或ICD標準(兩者基本一致)進行,一般症狀較重的患者考慮診斷為重性抑鬱障礙,症狀較輕但是病程較長的患者則有可能是心境惡劣障礙,有明顯季節性特徵的患者可能診斷為季節性情緒失調。另外,在按此標準診斷前一般須排除其他有相似症狀的生理疾病[5]。
憂鬱性疾患屬於常見的心理疾病的一��,目前全球有超過2.64億名患者[6]。近年來憂鬱性疾患的發病年齡有提早,且發病率提高的趨勢。終身患病率在不同國家中不盡相同,有調查顯示中國的患病率約為6%[7],而日本的患病率則高達20%[5][8]。COVID-19致使全球青少年抑鬱概率翻倍增加。[9]
在積極治療的情況下憂鬱性疾患的癒後良好,但考慮到患者須承受極大痛苦並有自殺的可能,因此應儘早進行積極治療。患者在症狀緩解後仍有復發的可能,世界衛生組織建議對憂鬱性疾患的藥物治療至少持續到症狀緩解後的六個月。[10]對於發病較早、有精神病症狀或對藥物反應不良的患者則很有可能反覆發作造成不良後果[11][12]。
重性抑鬱疾患
主條目:重性抑鬱疾患
在所有憂鬱性疾患中,重性抑鬱疾患的症狀最為嚴重,其主要影響心境、認知和軀體功能。在心境方面,患者長期(兩周以上)處於極其抑鬱的情感狀態中;認知方面,患者往往看到事物的消極面,被空虛感和無價值感包圍;軀體功能方面主要有進食和睡眠障礙和無力感,頭痛等[13]。患者可能反覆想到死或者有自殺企圖,最終大約有3.4%的患者自殺[14]。
對重性抑鬱疾患的診斷主要依據的是精神疾病診斷與統計手冊中的相關標準。醫生需要先排除生理因素、藥物濫用[15],然後進行有關抑鬱程度的測試以確診[5]。
對於確診的患者,醫生往往會建議抗抑鬱藥物治療,即選擇性5-羥色胺再吸收抑制劑(SSRIs),單胺氧化酶抑制劑(MAOI)和三環類抗抑鬱藥,有時會建議患者參加心理治療[5]。對於年輕患者,例如兒童則應先考慮心理治療[16],而對於症狀特別嚴重(有嚴重自殺企圖或者緊張性患者)的患者則可能進行電痙攣療法(ECT)[17]。大多數重性抑鬱疾患的患者愈後仍能正常生活。多數患者在未治療下能康復[18]或緩解[19]。超過35%的患者仍會復發[20],而心理治療較能有效預防復發[21]。對於發病早、有精神症狀或者同時患有人格障礙的患者則預後不良,他們可能會反覆發作,自殺率也較高[11][12]。其提出情緒神經編碼的研究方法揭示了快速抗抑鬱分子的作用機制,2019年7月獲得腦神經學最高的國際凱默理獎,為非歐美人獲獎之首例,其提案成為國際醫療界廣泛認同的一個研究方向。[22]
持續性抑鬱症
主條目:持續性抑鬱症
持續性抑鬱症的症狀與重度抑鬱症的症狀相似,但是與重度抑鬱症相比,持續性抑鬱症的程度較輕,而持續時間較長[5]。持續性抑鬱症一般要持續2年才能確診,病程可以持續10年以上甚至一生[13]。心境障礙診斷方法與重度抑鬱症相同,但其診斷標準較低。對確診的患者,其治療方法與重度抑鬱症的治療方法相同[5]。持續性抑鬱症會引發重度抑鬱症,有研究顯示有79%的患者在一生中會併發重度抑鬱症,此情況亦稱為雙重抑鬱症(英語:Double depression)[13]。
季節性抑鬱症
主條目:季節性抑鬱症
季節性抑鬱症的症狀與重性抑鬱疾患相似,有時歸類為重性抑鬱疾患的一個亞型[23]。主要特點是病情會隨著季節而有所起伏,患者經常在寒冷季節發病,並在其他季節完全緩解。季節性抑鬱症隨緯度的增高而越發流行, 意即日照時間越少,發病率越高。多曬太陽可減輕病情,對這種疾病的診斷需要確認患者只在特定時節發病而在其他季節從未發病。對患者的治療與重性抑鬱障礙的治療相似,對於季節性情緒障礙,光照治療似乎特別有效。澳洲昆士蘭大學的學者於2013年繪製的「抑鬱症世界地圖」顯示,日本與陽光充足、氣候溫暖的東南亞、南歐、澳大利亞同屬抑鬱症發病率較低的地區,而氣候寒冷、缺少陽光的北歐、俄羅斯等地區則屬抑鬱症高發區[13][24]。
非典型抑鬱症
主條目:非典型抑鬱症
在一些特殊情況下,患者可能表現出明顯的抑鬱症狀,但是不符合DSM任何一種具體病症的診斷標準,這時可以作出非典型抑鬱症的診斷[25]。
雙相情緒障礙症
主條目:雙相情緒障礙症
循環性情感症
主條目:循環性情感症
在DSM-5已歸為雙相情緒障礙症之亞型
物質所致障礙
其它軀體疾病所致障礙
未明示之情緒障礙症
臨床徵象
憂鬱初期,大腦的海馬體(Hippocampus)、杏仁核(Amygdala)、以及前額葉皮質(Prefrontal Cortex)等負責情緒的區域,下達指令給自律神經,心血管、免疫及內分泌系統等,適時地回應內外在壓力(心跳及血壓稍稍上升,HF下降等)。但長期的壓力,焦慮,或憂鬱會導致身心俱疲,自律神經的交感支容易出現交感疲乏(Sympathetic Fatigue),LF絕對值甚至低於正常值,再加上副交感 HF已顯著撤退。[26]
相關條目
人格障礙
抗憂鬱劑
自我藥療
參考資料
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28/海に屍と濡羽菊
(SILENTにおける全てのネタバレが存在します)
(2021年7月某日の話)
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きっとそれが黒い大輪の菊に見えたのは、炎天下で首裏が焼かれる感覚と、足首が波に冷やされる感覚が起こした倒錯のせいなのだ。
波音にのって、生ぬるい潮風が鼻先を撫でる。七月の海辺、日差しは朝だというのに既に強い。これが浜辺いっぱいにうざったい椰子の群れでもずらりと並んでとかいるのであれば影ができて話が別なのだろうが、本土の海岸でそんな植生は見たことがない。精々がシュロ、或いはマングローブ。それがあるにしても亜熱帯の地域だけ。こんな東海の片田舎の海辺にそんな耐塩制植物の群れが生えているわけもなく、よって首筋は陽に晒された結果じわじわと焼かれている。 七月、朝の日差し。生えかけの入道雲が山並みに沿って起き上がっている。 フィールドワークは私の日課だ。本業と言ってもいい。海洋生物群の調査、兼磯釣り、兼浜辺散策。SILENTからの任務が特にない週、そのうちの数度はフィールドワークに出かける。部屋に閉じこもって研究するのも良い――特にクソみたいに暑い日は――が、自分の分野は実地でのデータを得ないとまずはじまらない。釣りや磯漁りは趣味のようなものだが、得られないものがないわけではない。魚はおいしい。自分で捌いて食べるものはもっと。 だからその日磯に向かったのは偶然であり、運命だった。竿先の糸をのんびり垂らしているのにも飽きて、ぶらぶらと向かった先の潮だまりはすでにぬるくなっていた。岩場いっぱいに磯の匂いがじらじらと立ち上り、鼻の奥に潮を塗り付けてくる。 岩礁を二、三歩海側に跳ねるように歩いたところで、波打ち際になにか黒いものが打ち上げられているのが見えた。大輪の花のような黒い何か。 それはちょうど岩礁に乗り上げたような格好で岩に引っかかっており、波が何度か柔らかくさらって行こうと泡を投げかけていたけれど、黒い大きな花弁はふわふわと濁った泡の網の間にゆれるばかりだった。 一抱えもあるそれをぱっと見て、私はそれを海中に落ちた菊のようだと思った。細長く薄い花弁は濃い青の上に艶をもって浮かんでおり、波に揺れてふわふわと佇んでいた。 岩のふちには近づきすぎず、タモ網を伸ばしてそのかたまりを慎重に掬いあげると、確かな肉の重さが手の平に伝わってきて目を見ひらいた。やがてそれが大輪の花などではないことに気が付いた。それは、大きなカラスの亡骸だった。 「……なんで、海なんかに」 水を含んだ体を網から外して、抱きあげた。その拍子に翼がだらりと垂れ下がり、屍はいやに大きく見えた。 死んでしばらく経っているのか、からだは硬直が���けて僅かに柔らかかった。炎天下の潮水に晒されていたせいか微かに肉が生ぬるい。羽は潮水にもまれたのか一部があちこち変な方向にねじれ、痛んでいた。 頭部の形はあまり見慣れないもので、くちばしの形はハシブトガラスやハシボソガラスにしては整っている。在来種でないことは一目で解った。喉の羽毛が逆巻いており、濡れたせいでいっそうオパールのような七色に艶めいていた。彼は、ワタリガラスだろうと思う。北国の鳥であることはたしかで、どうしてこんな真夏の、よりにもよって辺境の海辺なんかに。 私は思わず周辺を見渡した。カラスの群れはどこにもいない。ざあんと波が岩場にうちつける音ばかり轟いている。沖合からミャウミャウとウミネコの声がした。背後を仰げば遠くに鳶の影が見えた。黒い翼は、案の定どこにも飛んではいない。 羽織ったパーカーが濡れるのも構わず、私は反射的にその遺骸を抱いていた。胸元はすでに水を吸い、じっとりと布がよれている。濡れた肌に海風が吹き付けてようやく私は亡骸の冷たさを感じた。翼の形が崩れてしまわないよう、慎重に彼の翼を折りたたんで抱きなおした。 若い個体のようだった。堕ちてしまったにしては外傷はなく、きれいな体をしている。岩礁に打ち上げられたときに擦れてしまったのかくちばしの端だけが少し欠けていた。瞼はぴっちりと閉じられて開かない。潮だまりで水浴びをしようとして、波にさらわれてしまったのだろうか。こんなところで、一羽きり、誰もいないところで。 日はじりじりと首を焼いている。太陽は中天に近づくにつれいよいよ勢いを増していた。ワタリガラスからは、まだ死臭がしなかった。 私は汐で痛んだ体を抱きかかえて車に戻った。急いでトランクからクーラーボックスを取り出すと、黒い遺骸をタオルと防水シートでくるみ、氷の内側に埋めるようにしてから蓋をした。内径90センチのクーラーボックスは彼の尾羽を折らないぎりぎりの大きさだった。それから磯に戻って、バケツの中に入ったイサキ二匹をしぶしぶ海に放流した。銀のうろこがやがて海底に沈んで見えなくなったところで、車のエンジンを掛けに戻る。時刻は九時四十分を指していた。普段家に帰るにしては、あまりにも早すぎる時間だった。
家に着いてまず行ったことは着替えることでもシャワーを浴びることでもなく、亡骸の洗浄だった。石鹸水を含ませたタオルで綺麗に全体をぬぐう。全身潮びたしなので、羽の隙間や翼の関節、足のつけねまで塩を取り除くように丹念に手入れした。 このとき微かに腐敗が始まったようで、肉の解けるにおいが作業場に籠り始めていた。過剰に冷やした暗室はばかみたいに涼しくて、私の乾いた足には砂がまだまとわりついたままだった。 翼を開いたり閉じたりしながら、写真を撮り、記録を付ける。体長79センチ、翼開長150センチ、オス、年齢不明だが二歳程度、くちばしに微細な欠け。 同定にさほど時間はかからなかった。確かに彼はワタリガラスだった。紙面にCorvus coraxと走り書いて、まじまじと閉じた瞳を覗き込んだ。東海の沿岸部にワタリガラスが飛来したことはもしかしたらどこかを探れば履歴が残っているのかもしれないけれど、私は一例だって知らない。不勉強を嘆くべきなのだろうか、それともこのようなイレギュラーに知識なしで遭遇したことを僥倖と思うべきなのだろうか。 慣れない夏の、冬のそれとはまったく様相の違うぎらつく太陽の下、ふらふらと一羽(ひとり)でこんなところまで翼をはためかせて飛んでいたのであろうことを思うと、私は自分の呼吸が浅くなるのを感じた。唐突に両の肺が痛んだ。 石膏粉をはたくと、まるで埃をかぶったように姿がみすぼらしくなる。水気をとってから一度粉を落とし、今度はまんべんなく駆虫粉をまぶす。潮ざらしになっているからそこまで虫はついていないと思うけれど、野生種はダニなどに食われやすいので丁寧に殺虫をする。毛の流れに逆らって粉をはたくと、時折やわらかな灰色の羽毛がふわりと抜けて私の鼻先をくすぐっていった。 粉をきれいに払ってから、体を台の上で仰向けにする。私はその広い胸にゆっくりとメスを埋めた。正中線に沿う腹と胸をつなぐ場所に羽毛の無い部分がある。肌は柔らかな灰青色をしており、つぷ、と刃先を飲み込んだ。 腹部を切り開いて、こんどは首と両肩に向かって皮を剥いでいく。腹膜と皮下脂肪の間の腱を切るようにしてメスを少しずつ滑らせていく。皮が剥がれた裏側にミョウバンを刷り込みながら、肉の塊と皮を丁寧に分離させる。 かるく私の身長ほどはある両翼は大きく、肩の骨もそれに見あって立派だった。骨を折らないように慎重な手つきで関節を根元から抜く。くちばしの真下まで慎重に切れ目を入れ、頸椎と食道を分離させる。思っている以上に綺麗に骨が抜けたので、骨格標本も作れるかもしれないとふと思い立った。喉の羽毛は切り開かれてもなお逆巻いて、玉虫色の渦のようにきらきらと光っている。ただ、きれいだった。 白い脂肪を掻き出しながら、ゆっくりと背側を剥いていく。首と胸を繋ぐ筋を切り落とし、服を脱がせるようにして皮を裏返した。私は彼を暴いている。 内側の肉たちは思っているより静かだった。腹膜の内側でころりところげるのに時折どきっとするけれど、それらは存外おとなしく、じっと皮が分離していくのを見つめていた。腐敗のせいで肉は少しだけ酸っぱいにおいがした。夏は足がはやい。もう少しはやく見つけてあげればよかった。それでも潮溜まりより、ずっと腹膜は冷たかった。 私は無言で皮を剥ぐ。やがて油脂腺の油でメスがどろどろになった。尾羽の付け根を切る。綺麗な濡羽色をしている。一つだったからだと内臓が分離していく。 弾力のある腹膜ごと内臓を左手でそっと支えると、指の腹が肉に埋もれて脂肪で濡れた。人の肉もこれくらい柔いのだろうか? 無心で皮を剥ぐ。やがて直腸を総排泄孔の手前で切断する。鉗子で先端を抑え、静かに抜け殻から肉を引き抜く。アルミトレイの上に乗せられた体内は、羊膜が破れていないままの胎児にも似ていた。腹膜を透かして素嚢が見えている。胸でようやく抱きかかえられるほどの大きさだから、人間の嬰児よりは少し大きかった。 まだ翼と脚と頭の肉が残っている。肩口から皮を裏返しながら肉を削ぎ、慎重に骨を抜いてはホウ酸の粉をはたく。代わりに針金の骨を入れて翼を固定する。 学術用の剥製にしたほうが楽なことは解っているが、立派な体なのだから本剥製にしたかった。腿の肉を掻き出して骨を抜く。上体に再度手をのばす。キジやサギにくらべ、首が短いカラスは頭骨を剥ぐのがやりやすい。首を裏返す。賢い頭蓋が剥き出しになり、隙間から脳が見えた。 眼窩にピンセットを差し込んで視神経ごとちいさな丸い眼球をずるりと抜き出す。黒曜石のような、小さくて綺麗な黒い色だった。あらかた顔まわりの筋肉を削ぎ終えたら、最後に脳を掻き出す。針に通した糸でまんべんなく、こそげとるようにさらう。 剥製を作るとき、頭骨だけは皮の内側に遺しておくことになる。余った肉を削いでいく。ミョウバンとホウ酸粉を丹念に塗りつけて、脂肪を慎重に削いで、最後に骨を拭って除肉は終わる。 抜いた骨たちは別のトレイに置き、皮を乾かしながら一度休憩をとった。午前中から作成を始めたのに、すでに日暮れに近い時間になっている。集中が切れたせいか唐突に異様なほど空腹を感じた。台所にいくと、妹が作りっぱなしのサンドイッチが冷蔵庫に放置されていたので勝手にいただく。クリームチーズが塗ったくられていることだけはとりあえずわかった。やはり不味い。おそらくあいつは料理の才能がないのだろうと結論をつけて、胃にパンを落とすことだけを考え、口元をぬぐった。皿を洗ってから作業部屋に戻る。 皮が変に縮まないうちに形を整えなければならなかった。翼などの一部を除いて内容物をあらいざらい引き抜かれたからだは二次元のように平らだ。骨の代わりに針金を、脂肪の代わりにわたを、臓器と筋肉の代わりに綿(めん)を入れ、生前の容貌を再現していく。そこに魂が宿らないことは知っていても、還ってこないことはわかっていても、可能な限り精巧なすがたを作り上げたかった。生きていたということを遺したかった。 そんなこと誰に頼まれたわけでもないのに。 そうやって作業に没頭し続けて数時間、すでにとっぷりと日が暮れ切った夜半にようやく剥製の全体が整った。切り開いた場所を簡単に縫合して、形が崩れないようにガラス棚の中へ保管しておく。 そこで初めて息をついて、ガラスの向こうに閉じ込められた濡羽色のきれいなからだを眺めた。死体とは思えないほど美しいそれは、しかしどうしたって死んでいた。からっぽのからだ。からっぽののうみそ。動かないつばさ。欠けたくちばし。 飛んでいるときの姿を知らない私にとって、その翼がどうやって風を切るのか、瞳はどう海を映したのか、止まり木をどうしならせるのか、梢と尾羽の擦れあう音がどんな高さなのか、それらのうち一つきりさえわかることはなかった。 私は彼を知らない。死体はもう鳴き声の一つも上げない。 恐る恐る手を伸ばして、くちばしの先から根元までをそっと撫でた。なめらかなくちばしは、しかし欠けた部分だけがざらついていた。あごの付け根を軽くさすって、そっと手を離した。ガラス戸を閉める静かな音が濃い潮の匂いに染まる部屋のなかに響いて消えた。私はアルミトレーの上に放り込まれた骨々を溶液に漬け込んで、部屋の電気を消す。
彼の剥製を教授に譲ることにしたのは、研究室で暇を持てあましてパソコンを抱えながら遠心分離機とにらめっこしていたときに教授が構われたがりそうに話しかけてきたことが発端だった。会話の中で駿河湾の話になって、不意にこの間ワタリガラスが飛来していたことを思い出したのでそれをいうと、彼はひどく興味津々にその話題に首をつっこんできた。 「飛来、って言っても、拾ったのは死骸ですよ」 「どちらにしても珍しいことには変わりないよ。剥製にできるほど状態がよかったということでもあるし」 「トキやらなんやらだったら生息域のマーキングに使えますけど、ワタリガラスですよ。北海道にでも行けば冬場死ぬほどいる」 「はは、謙遜するなあ。そういう珍しいものを珍しいと理解して、適切に判断、処理できることを褒めているんだから、素直に受け取れば良いのに。とても珍しいことだよ、私も直に見たかった」 謙遜なんていわれても、私はみつけただけであってここまで飛んできたのは彼自身である。僅かな空しさを感じて私は返答に困り、「はあ」とだけ零してまた遠心分離機の液晶パネルを見た。残り時間はまだ二分もある。この後もう一回遠心分離をかけないといけない。パソコンの画面と液晶パネルを無産的に交互に見てから、ぼんやり口を開いた。 「差し上げましょうか、剥製。気になるのなら」 「え、良いのかい」 「別に……。それに作ったのはいいですけど、家にあったって、管理しきれないですし。本剥製に仕立てちゃいましたけどそれでいいのなら」 どうします。と聞くまでもなく、彼の返答は「勿論」だった。研究室に飾ってくれるのであれば、虫に食われることも、腐敗してカビだらけになることも懸念しなくていい。四角いガラスケースの中で、作り物の止まり木に掴まってはばたく直前の格好をしながら、朽ちるまで永遠の沈黙を貫いていることができる彼のことを想像すると、安堵の隙間にどこか血の匂いのする溜め息が滲んだ。 教授は別れ際に、私に向かってこう言った。「そもそも、君がしっかり作り上げる本剥製自体珍しいから、それがよほどきれいな個体だったのだろうなと気になったのは否定しないよ」と。
その日家に帰ってから瞳に埋め込むための石を取り寄せることにした。実のところ、本剥製はまだ完成させていなかった。けれど他人に渡すのであれば面倒臭くとも仕上げをしなければならない。私は剥製職人ではないが時間をかければそれなりのものは作製できる。性格ゆえに、作りきる根気が滅多に出ないだけであって。 やることを整理する。まずパーツが届く間に、ポーズを整えて、縫合をしっかりして、毛並みをもう一度整えて。そうやって手を尽くして、ガラス越しに見る誰の目にも君が凜々しく見えるように。 だからこそ二も三もなく、彼の眼窩にぴったりな黒い瞳を探すつもりだったのだけれど、どうしてかふいに私の無意識が抵抗して、勝手に動作の主導権を握った。腕は勝手に、月色の丸い石のページを表示させていた。 数秒、その画面を見て固まる。まぶたの閉じないくぼみに嵌められた良く晴れた夜半の空のようなそれを脳裏で一瞬再生してしまい、引き攣るように笑って無理に頭を振った。濡羽に金の目。その文字列が、文字列以外のイメージに行きつかないよう強制的に思考の根をシャットアウトして、私はページを反射的に閉じる。その後は余計なことを何も考えず、黒曜石を選択してカートに入れるだけだった。だって、黒いワタリガラスに金色の目を持つ個体なんていない。 「きれいっつったって、そう見えてるのは多分、見てんのが自分だからですよ、教授」 誰に聞かせるわけでもない独白は部屋の中に��かして、チェアをリクライニングぎりぎりまで傾ぐ。背もたれはギィ、と音をたてて軋む。LEDの柔らかな白色が、いたいくらいに眩しくて顔を覆った。エアコンの風が虫の声のように静かに空気をふるわせている。 夜の窓辺に、青白いシルエットのワタリガラスの骨格標本が静かに佇んでいる。肉と皮の一切を剥奪され、頭部さえもすっかり喪われたそれは、もはや私に何も語りかける言葉もなく、ただじっともう二度と手が届かない空を、ガラス窓越しに見上げるばかりだった。
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前線と低気圧の影響で、九州で局地的に猛烈な雨が降っていて、土砂災害や川の氾濫に厳重な警戒が必要です。すでに周囲が浸水するなど避難場所までの移動が難しい場合には、近くの頑丈な建物の高い階で崖や斜面と反対側の部屋に移動するなどして安全を確保してください。
気象庁によりますと、日本海にのびる前線と前線上の低気圧の影響で、西日本から東北にかけての広い範囲で大気の状態が不安定になり、熊本県や大分県など九州に発達した雨雲がかかっています。 午前8時までの1時間には、熊本県八代市に国土交通省が設置した雨量計で52ミリの非常に激しい雨を観測しました。 午前7時までの1時間に、大分県が竹田市に設置した雨量計で90ミリの猛烈な雨を観測したほか、熊本県五木村に国土交通省が設置した雨量計で74ミリの非常に激しい雨を観測しました。 これまでの雨で、九州のすべての県と徳島県、高知県、京都府、秋田県では「土砂災害警戒情報」が発表されている地域があります。 また熊本県と福岡県、山口県では「氾濫危険水位」を超えている川があります。 熊本県や大分県を中心に、九州では断続的に非常に激しい雨が降り、土砂災害や川の氾濫の危険度が急激に高くなっています。厳重に警戒してください。 すでに周囲が浸水するなど、避難場所までの移動が難しい場合には、近くの頑丈な建物の高い階で、崖や斜面と反対側の部屋に移動するなどして安全を確保してください。
今後の雨の見通し
大気の不安定な状態が続くため、西日本と東日本では12日の明け方にかけて、東北では12日の夕方にかけて、雷を伴った激しい雨が降り、局地的には1時間に50ミリ以上の非常に激しい雨が降るおそれがあります。
さらに、西日本と東日本では、13日の月曜日も大雨となるおそれがあります。
12日の朝までの24時間に降る雨の量は、
いずれも多いところで
▽東海で200ミリ、
▽九州北部と四国、関東甲信で150ミリ、
▽九州南部と近畿、北陸で120ミリ、
▽東北で100ミリ、
▽中国地方で80ミリと予想されています。
また、13日朝までの48時間には、
▽東海で200ミリから250ミリ、
▽九州北部と四国、北陸で150ミリから200ミリ、
▽東北で100ミリから200ミリ、
▽九州南部で120ミリから150ミリの雨が降る見込みです。
豪雨に襲われた九州のほか、これまでの雨で各地で地盤が緩み、川の堤防が傷んだ場所があるなど、災害の危険性が非常に高い状態が続いています。
気象庁は土砂災害や川の氾濫、低い土地の浸水に厳重な警戒を続けるとともに、落雷や竜巻などの激しい突風にも十分注意するよう呼びかけています。
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「喫茶店にて」についての断片(この文章はいづれ改稿されて紙に印刷される)
「喫茶店にて」という萩原朔太郎の短い文章がある。文字数にして千字にも満たない。非常に好きな文章なのでこれまで事あるごとに読み返してきた。そのたびにこの文章に関する文章や、慎ましい冊子を作りたいと思っていた。けれど作り始めないまま数ヶ月が過ぎた。そのためようやくこうして書き始めることができたことがひとまず、嬉しい。アリストテレスはやり始めた時点で全体の半分は済んだ、という言葉を残したらしいが強く同意できる。ところで、この「喫茶店にて」という文章について大まかに説明しておこう。商人の町・大阪から上京した友人に萩原は東京(都会)らしい場所をみせてやろうと銀座の有名な喫茶店に連れていく。友人はそこで暇そうに寛いでいる人々をみてとても不思議がる。萩原は忙しく働くことは俗悪だとするニーチェの言葉を引用しながら、昔の江戸時代ほどののんびりはなくとも、せめてパリやロンドンくらいのレベルまで有閑を享受できる心の余裕を日本も持ってほしいと願う。それが成熟し伝統を持つ都市、生活だという。この文章をはじめて読んだのは修士論文の発表が終わって間もなくのことだった。自分はすでに博士課程に進学することが決まっていて、毎日映画を見たりレコードを買ったり、本を読んで一日を過ごしていた。つまり呑気に悠々とした生活を送っていた。同じ頃、同い年の友人たちの中には仕事が嫌になってやつれていく人が増えていた。そうした時期とも重なりこの文章は強く自分に影響を与えた。萩原朔太郎の文章はほとんど読んだことはない。高校生のころ国語便覧で萩原はマンドリン奏者でもあったという記述を覚えているくらいでそれ以外の印象はない。それどころかこの「喫茶店にて」の文章を読んだあとでさえ、彼の他の文章は読んでいない。何をしていたかといえば、それも具体的には思い出せない。音楽を聞いたり、本を読んだり、映画を見たりしてのんびりと生活していたことしか、思い出すことができない。
のんびりと過ごしていたい、といえば思い出すことがある。それは子供のころから今に至るまで、出入り口というものに関心を持��ていること。部屋に入る人や、部屋から出ていく人、部屋にいる人たちを特定の場所から眺めていると妙に落ち着くのだ。一時期はホテルのドアマンになりたいと真剣に考えていたこともある。そんなとき、テレビのプログラムで家電品の特集をしているのを観た。その番組の出演者が空気洗浄機について以下のようなことを言っていた。空気清浄機は部屋の出入口付近に置くのが最も効果的である、なぜならドアの開閉による風で部屋の空気の循環をよくするから。それを観て自分は笑った。自分は空気洗浄機になりたかったのだと同居人に冗談を言ってやろうかとさえ思った。そして口を開く寸前に、自分は青ざめた。空気洗浄機の足を引っ張っているのではないかという思いが頭をかすめた為である。これには案外、見逃せない問題があった。仮に空気清浄機の代わりに自分がそこに居座るのであれば、空気清浄機に代わる仕事ができれば問題ない。けれど自分には空気中の花粉やホコリを濾過することはおろか、だまって仕事を続けるということ(考えるまでもなくそれは大変な能力である)さえままならない。空気清浄機のみならずすべての機械というものに対して申し訳ない気持ちになった。いっそ、死のうと思った。けれどその頃合いになって先哲の金言が思い起こされた。およそ、人間の本分は生産ではなく消費である。自分は縄に首を掛けるのを止めた。そうかそうか。何もかも消費をしてしまえばいいのだ。脂っこいものを食ってがぶがぶ水を飲み、美しい早春の一日に部屋でごろごろ寛いでやればよいのだ。電気もつけっぱなしで煙草のけむりで部屋を真っ黒にしてやればよいのだ。これで機械という奴らとの差別化ができた、とようやく自分の居場所を見つける事ができた。ほくほく顔で出入り口に居座ってやろうとしたら足の小指に激痛が走った。何かにぶつけてしまった。見ると立派な空気清浄機がそこにはあった。衝撃が思いの外に強かったのかゴロゴロという異音が鳴りはじめ、とうとう黒い煙を吐き出した。どういうわけかコンセントのあたりからはパチパチと火花が散って��る。これは火事になる、と慌てて消火器を持ってきて吹きかけた。空気清浄機の周辺が真っ白になり、すべて落ち着いた。まったく……余計な手間を掛けさせる奴だと思ったと同時に、頭の中で何かが壊れた音がした。ラララ。そうである。空気清浄機は電気を消費し、場所を占有し、故障の果てに黒煙を吐いた。自分及び人間としての存在理由であった部屋を汚すという行為さえ機械に奪われ、それどころかその後始末までさせられた。この空気清浄機は自分よりも資源を消費している。しばらく呆然としていた私の左手には、いつの間にだろう、大きなトンカチが握られていた。日本の元号は変わり、世界は度重なる分断を越えようとしている時代の中、自分だけがラッダイト運動の時代に取り残されている。時代は繰り返す。けれど皮肉なことにそれは違う姿をしているから気付くことが出来ない。いっそ空気中のホコリのように自分のことも濾過してくれれば、と目の前の故障した空気洗浄機に祈った。その時部屋の扉が開いて肩にぶつかった。激痛。扉を開けた若い女性は慌てて私に謝ったが、その顔は明らかに迷惑そうにしていた。しかし自分にとって、それは却って救いであった。
近所のホームセンターに行ったはなし。十一月になるというのに少し自転車を漕げば汗ばんだ。毎年のように今年は異常気象だ、という年配者の話をいい加減無視できない、と考えていたら目の前を走る自転車が急停車し危うく衝突しそうになった。老婆だった。老婆の自転車のハンドルには鍋つかみのような防寒具が取り付けられており、前後のカゴには相当な量の野菜や惣菜が入っていた。夫婦で食べるとしても多いだろうと思うほどの量。一人であればなおさら。ホームセンターの前に自転車を停め、店に入ったところで何を買いに来たか忘れる。棚を眺めていたら思い出すだろうと歩いていたら程なくして電球のソケットを買いに来たことを思い出す。電球のコーナーは美しい。大小さまざま色彩もさまざまな電球や蛍光灯が輝き、ただでさえ明るい店内でその売り場をより一層明るくしている。ろくに調べていないので自分の求めているものがあるのかは探してみなければわからない。一般的な電球を取り付けることができ、スイッチで電源のオンオフができる(できれば)電池式のソケット。そんなもの何のために必要なのかと言われても困る。なんとなくそんな代物が欲しくなっただけで、使い道は手に入れたあとに思い付くだろうから。二十分ほど念入りに探したところでそれに見合う商品がないことが分かった。最も近いものは天井から吊るすタイプのソケットであったがそれは実物を見ても欲しくならなかった。そうとわかれば急に家に帰りたくなり店を出た。自転車の鍵を開けたとき隣に鍋つかみのついた自転車が止まった。老婆だった。けれど先ほど急停車した老婆とはちがう老婆だった。いや、よくみると極めて老婆のような老いた男だった。この老人も先の老婆と同様に前後のカゴに買い物袋を入れていた。けれど外から見える品物は酒やスナック菓子ばかりだった。老人は買い物袋そのままに、自転車に鍵もかけずホームセンターに入っていった。私は羽織っていたカーディガンを自転車の前カゴに入れ、少し遠回りして帰った。
一見不安定に見える状態が実はもっとも安定した状態である、という現象は比喩でなく実際に起こりうる。物理の世界でも対人交流においても同様である。ヤジロベエの原理のように実は一つの支点を軸に調整をしているだけに過ぎないことは少なくない。二〇一八年の内閣府の調査では所属コミュニティの多い人ほど日々の生活が充実しているという結果だったらしい(内閣府調査 平成二九年版 子供・若者白書「特集 若者にとっての人とのつながり」)。と同様の内容を、喫茶店で年下の友人相手に自慢げに話していたら隣のテーブルの声がやたらと聞こえくることに気付いた。隣のテーブルには大学生だろうか、若い四人の女がああでもないこうでもないと話している。そしてそのうちの一人の声が明らかに必要以上のボリュームなのである。店内の他の客はそれとはなしにそのテーブルに対して迷惑そうにしていることもわかった。聞きたくもない話が明瞭に頭に流れ込んでいる。その話というのは声の大きな女が好意を寄せていた男に女ができた。その女は極めてきれいな顔立ちをしており、スタイルも抜群であるが性格の悪さについては誰もが知るところで、きっとその男もすぐに見放すだろう、ということ。そして気になったのはその会話の中で何度も「美人は三日で飽きる」という言葉が使われていることだった。トイレから帰るときにその女たちの顔を見たが、みな例外なく不健康に太っていて肌が荒れていることに驚いた。声だけを聞いていたときはもっと溌剌とした容姿を想像していたがそれは若さによるものだった。そしてその若さも彼女らは次第に失っていくのか、と他人事のように思っていたら、向かいに座っていた友人にズボンのチャックが開いていることを指摘された。居心地が良くないので違う喫茶店に行こうと友人を誘い、友人もその方がいいといって店を出た。次の店までアーケイドを歩きながら友人が言ってきた。いわく、今やっと「美人は三日で飽きる」という言葉の意味が分かったという。というのも友人はこの言葉についてこれまでずっと疑問を持っていた。なぜなら美人は何日たっても素晴らしいから。毎日違う側面を見せてくれて、この世界に存在する様々なものに彩りを与え続けてくれるという経験をしていたからである。友人は「美人は三日で飽きる」というのは美人でない人間に対する救済なのだと言った。嫉妬や当て付けではなく救済。この言葉が広く敷衍して、もはやクリシェと化しているのはつまり「南無阿弥陀仏」と変わらない普遍性を持っているからなのだ。君もついに空也上人の領域までたどり着いたんだねと、私は友人に笑い掛けたがその実、その友人の統合力に感心していた。そしてその話を私は今、自慢げにここに書いている。
映画館で眠ることやコンサートの最中に眠ることを贅沢なことだと思い込むようになったのは高校生くらいだった。その頃は不思議なことに誘われる催し中は決まってひどい睡魔に襲われた。理由はわからない。夜更かしをすることもまれだったし、体も健康だった。ただ眠たくなる。始めの頃は演者や誘ってくれた友人たちに申し訳ない気持ちで可能な限り眠らないよう努めていたが、次第に諦めていった。むしろ開演から早めに眠りに落ちてそしてできるだけ早く目を覚ますことを目指し始めた。一度眠ってしまえばあとは意識清明になっていたからである。それから数年経ち、今では眠くなることはほぼなくなった。最近、とあるライブに行った。広島のヲルガン座で行われたフリーダムというイベント。東京からのゲスト、ノラオンナさんを招いたイベントだった。ウクレレの弾き語りと、うた。MCは無し。アルバムと同じ構成で四〇分ほど休みなく続くライブ。そのはじめ、彼女は控えめに、寝てしまうかもしれません、と客に言った。けれど心地よくなって寝るというのはとてもいいことなので、とも言った。ただ、いびきだけはかかないでください、とも。自分はその言葉に、数年前の心地まで軽くなるのを感じた。ライブは物語性に富み、非常に素晴らしかった。私は寝なかったし、一度も眠くならなかった。
月曜日に限って美術館に行きたくなる。そんな時期がある程度続いたことがあった。月曜日、街にある美術館のほぼ全ては休館日であり、その近くにある図書館も当然休みだった。明日は必ず、という気持ちで火曜日を迎えると、きまってもう衝動は消えてしまって、外出さえも億劫になる。水曜から金曜までは美術館のことなど一瞬も頭に浮かぶことなく過ごし、土曜日に少し思い出し、運が良ければ日曜日に美術館まで行く。けれど人が多くてすぐに出てしまう。おそらく、決まった仕事をしていない人間にとって、それも普段は美術に対して強い関心を持っていない人間にとって、月曜日ほど美術館に適した一日はない。仕事をしていないからといって、社会から隔絶されているわけではない。月曜日の朝には社会が何かしらの動きを始めたような気配だけはしっかりと感じることができる。そしてその気配が妙な圧力をこちらにかけてきて、せめてもの罪滅ぼしに何かをしようと考える。できれば文化的な行動が喜ばしいな、と勝手に自分で判断し脳の中で選択肢を絞る。そして弾き出される計算結果は決まって「美術館に行く」というもの。しかし美術館は休み。またか、と思う。そして気が付いたら日が暮れている。けれど最後のあがきとして一、二時間ほど自転車で街をうろつく。そうして何かをした気持ちになって家に帰る。最近は月曜日以外も美術館に行きたいと思うようになった。けれどあまり行ってはいない。本棚にあるつげ義春の「無能の人」の背表紙が妙に目立って見える。
透明の黒電話。
七万円の使いみち。金座街にある古本屋の店先には安部公房全集がある。
タクシードライバー。
ヴラマンクの雪の絵について。
先程、萩原朔太郎の文章はほとんど読んだことがない、と書いたがひとつ思い出した文章がある。頭のなかでなぜか太宰治の文章だと勝手な処理がされていたが、いま確認してみたら萩原朔太郎のものだった。僕の孤独癖について、という文章である。その中の「人間は元来社交動物に出来てるのだ。人は孤独で居れば居るほど、夜毎に宴会の夢を見るようになり、日毎に群衆の中を歩きたくなる。それ故に孤独者は常に最も饒舌の者である」という文章はまるで──。
複雑なものを複雑なまま楽しむことについて。
ノンアルコールビールについて。酒を飲むこと、というよりも酔うことが嫌になった。これまでもそういった時期はあったが、今回も一時的なものかもしれない。けれどこれまでと異なるのはノンアルコールビールというものに関心を持ち始めたことである。
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